牽牛花・参




 城下の喧噪から遠く離れたその場所は、閑散と言うよりも殺風景だった。

 やって来た子雲は、ほこりにかすむ郊外の景色を困惑気味に眺めた。


 都のはずれには雑木林が広がり、枯れ草が乾いた風に力なくなびいていた。

 城下からも往来からもすっかり離れてしまっていて、人の住む家などは見当たらない。


 風が土ぼこりを巻き上げて子雲の頬を打った。

 こんな寂れた場所の存在を、子雲は今まで知らないでいた。


 桃源郷など、幻覚にも見えない。

 ここには仙女どころか、人の住む気配すらない。

 それは一目瞭然だった。


 無駄を承知でこの辺りを探してみようか。

 心中で独語しつつ、子雲はともかく行動してみることに決めた。


 乾いた土を踏み、子雲は無人の原をとぼとぼと歩く。

 歩きながら、頭の中では叔弘の言動を思い返し、考えていた。


 先日会ったときは、普段通りの元気な姿でいたというのに、たった数日であれほど病み衰えるとは一体どういうわけだろう。

 叔弘の様子……あんな青ざめた幼なじみの顔など見たことがない。

 苦しい息の下から、ようやく言葉を発せる程度にまで衰えて。


 恋煩い……本当にそうだろうか。

 一度見かけただけの女のことを、寝込むまでに想いつめるなどあり得るだろうか。

 子雲にはその情緒がわからない。

 理解できない、というよりは、信じられなかった。

 そんなことは、現実ではないとしか考えられない。


 では、何が叔弘の身に起こっているのか――と考えてみると、何か漠然とした「もの」があるように思う。

 このわからない「もの」はなんだろうか。


 ただごとではないことだけは、はっきりとわかる。

 あの表情……まるで叔弘の肌に、死が乗り移ったかのような――。


 死。

 その不吉な一文字を、子雲は慌てて頭から振り払った。


 確かなことは、叔弘がここで仙女と見紛う女に出会ったらしいことだけだ。

 その女は一体、何者だろうか。


 ひゅおぅ――耳元で風が甲高く鳴った。


 はた、と子雲が顔を上げると、雑木林の向こうに一軒の屋敷が建っているのが見えた。

 まるで人目を避けるかのように、林の間に隠れてぽつんと建つその屋敷は、長く手入れがされてないらしく、扉は傾いで壁には蔓草が這っている。

 その様子は、打ち捨てられて久しいことを物語っていた。


 人の住んでいる気配は無論ない。


 傾いた窓が風にきしんで耳障りな音を立てる。


 ――…………――。


 不愉快な風笛の音の中に――子雲は女の泣き声を聞いた。


 聞いたように思ったが、風は風の音しかさせず、周囲に人のいる気配はやはりない。


「――馬鹿馬鹿しい」


 ことさら子雲は声に出して自分の錯覚を打ち払った。

 しかし語気の勢いが虚しく空回りして、忌々しそうに舌打ちする。


 両肩をこわばらせたまま、子雲は無人の原に背を向けた。


 その背後で、風笛の音色が尾を引いていた。






 子雲が城下の大通りに引き返してきたときには、もう空の色は夜の藍色に変わりかけていた。


 都は夜も華やかににぎわう――常ならば。

 しかしどういうわけか、今夜は往来に人の姿が見当たらなかった。

 だが、子雲は物思いに沈んでいて、そんな普段と違う周囲の様子になど気がついていないらしい。

 黙々と、自分の影を踏んで歩いている。


 昼間の喧噪とはうって変わって、いつの間にか人気の失せた往来は静けさに包まれている。

 子雲は民家からもれ出る灯りで照らされる夜の道を、似合わない思案顔で歩いていった。


 まったくわからないことだらけだった。

 気がかりなことばかりだが、どれもこれも得体が知れず、漠然としていて形にならない。


 叔弘の病の正体は何なのか。

 病の原因も、はっきりとはわからない。


 叔弘の出会った女は、一体何者なのか。

 そもそも、本当にそんな女がいたのかどうか……。


 あの無人の原に建っていた屋敷は、何か関係があるのだろうか。


 疑問ばかりが、ぬるま湯で満ちた脳内で、浮き沈みをくり返している。


 何より、叔弘の容態が心配でもあった。

 今ならまだ、友人の元を訪ねるのに遅すぎるという時間ではない。

 夜が更けてしまう前にもう一度趙家を訪ねてみようかと、子雲の足は自然と友人の家に向かっていった。


 東天に月が浮かんでいる。


 薄暗がりの中に趙家の門が見えてきたところで、子雲は不意に足を止めた。

 月光に照らされて、影のようにたたずむ人が視界に入ったからだ。

 通りにではない。

 屋敷を囲む高い塀の上に、その小柄な人影は立っていた。


 藍色の夜の景色に白ずくめの姿がぼんやりと浮かび上がって見える。

 飾り気のない少年のような出で立ちだが、長い髪を簡素に結っていて、どうやら少女であるらしい。

 歳は十四、五歳くらいだろうか。

 塀の上から趙家の様子をうかがう少女の横顔は、月の面に似て白かった。


 少女とはいえ、あからさまな不審人物に対して、普段の子雲ならそれ相応の行動にすぐさま出ていただろう。

 しかしこのとき彼は、ただ呆然と立ちすくんで少女を見つめてしまっていた。


 その視線に気づいてか、少女の顔が振り向いた。


 艶やかな髪の下の顔立ちは、幼さを残しているが美しかった。

 冷ややかな月の光を人の形に擬したなら、おそらくこの美少女の姿となるだろう。

 大きな瞳が月の光を宿して、生き生きと不思議な輝きを放っている。

 夜陰に光る瞳をして、塀の上に危なげなく立つ美貌の少女は、優美な姿態の猫を思わせた。


「お前は――」


 何者だ、とようやく子雲が問うより先に、少女が口を開いた。


「お前、この屋敷の人間か」


 幼げな顔立ちにそぐわない尊大な口調と、射るような強い眼差しに子雲は鼻白んだ。


「……いや、違う」


 気圧されて、思わず正直に答えていた。


 少女の大きな瞳が、値踏みするように子雲の顔をしげしげと見つめる。

 不躾なほど真っ直ぐな視線に内心たじろぐ。

 高いところから見下ろされているのは不愉快でもあった。


 子雲は大人げなく少女の目をにらみ返す。

 月下で視線がぶつかり合うことしばし、少女の朱唇が開く。


「……死臭がする」

「何……」


 少女の唇から飛び出した不穏な響きの言葉に、子雲は眉をひそめて目つきを険しくさせた。


「何のことだ、それは」


 子雲が問うのには答えず、少女はつい、と視線をはずした。

 その視線は、屋内からもれ出る灯りで夜陰に輪郭を浮かび上がらせている、趙家の屋敷をじっとうかがっている。


「この屋敷には、死人の気配がある。

幽鬼が周囲を取り巻いて、陰気が偏りつつあるようだ」

「どういう意味だ」

「言葉の通りだ」


 少女は無愛想に言い放つと、再び視線を子雲に向ける。


「お前、この家の人間でないのなら、この辺りには近づくな。

命を縮めることになるぞ」 


 子雲に向けて強い口調で言い渡すと、少女は身をひるがえした。


 猫のように身軽に少女は塀から飛び降り、子雲に背を向けて夜の道を駆け出していく。


「あっ、待てっ」


 しなやかな動きでたちまち遠ざかっていく少女の背中を、一瞬遅れて、子雲は慌てて追いかける。


 少女の軽い足音を耳で追いながら子雲は走った。

 夜の町中では、月明かりと足音だけが頼りだ。

 少女はその華奢な外見からは想像できない俊足で、子雲は縮まらない距離を必死で駆けた。


 夜の無音の中に二つの足音が響く。


 だが――すぐに子雲は、自分の前を駆けているはずの足音が聞こえなくなっていることに気づいた。


 追いかけていたつもりの少女の姿も、その足音や気配すら、夜の闇の中に溶けて消えてしまった。

 子雲は往来の真ん中に立ち止まると、呆然と辺りを見渡す。

 しかしどれほど目をこらしてみても、夜の街のどこにも、少女の白ずくめの姿は浮かび上がってはこない。

 耳にはただ自分の息づかいしか聞こえなかった。


 白衣の少女など、まるで最初から存在しなかったかのように。


 立ちすくむ子雲を、月が冷ややかに見下ろしていた。




   * * *


 ――夜毎、近づくその「もの」の気配、息吹。


 徐々にはっきりと伝わってくるその意思、願望――。



 ――ざ。



 その「もの」は、ようやく待ち望み続けていた者を見つけた。


 夜の闇の中からにじみ出る妄執。


 影の如く寄り添い合おうとする、切々とした執着。



 ――ざ。


 もうすぐ。

 あと少し。


 もう少しで、それが――叶う。


 這う音が、宵闇を切なく震わせる。


 ――ざ。


   * * *



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