牽牛花・弐




 三日後、子雲は再び趙家の屋敷を訪ねることとなった。


 先日とは違い、子雲は屋敷の門前で礼儀正しく来意を告げ、家人の案内を受けて叔弘の部屋へと通された。

 昼間に、常なら多くの使用人が立ち働いているはずであるのに、今日に限って、屋敷の中は奇妙に静まりかえっている。

 肌に感じるその違和感に、子雲は落ち着かない気分をかみしめていた。


 部屋に入ると、帳を上げた寝台の上に横たわっている叔弘が見えた。


「叔弘――」


 声をかけると気づいて、部屋の主はわずかに身を起こす。

 その青白い顔色に子雲は眉をひそめた。


「やあ、子雲。わざわざすまないね」


 そう言う叔弘の口調には本来の明朗さがかけている。


「起きてて平気なのか」


 寝台の側に椅子を引き寄せ、そこに腰掛けながら子雲は尋ねる。


「熱がひどいと聞いてきたんだが……」

「ああ……」


 叔弘は子雲の言葉に力なくうなずいた。

 子雲の祖父が営む薬屋に、趙家から使いがやって来たのは今朝方のことである。

 叔弘が伏せっていると聞き、子雲は見舞いも兼ね、頼まれた薬を届けに来たのだった。


 叔弘は線の細い白面郎君であるが、決して体質は虚弱ではなく、子雲の知るところ幼少より滅多に病臥したことがない。

 その彼が、今は血の気の失せた顔をして、悪寒に肩を震わせ息をするのも辛そうにしている。


「無理をしないで横になれ。

一体、どうしたっていうんだ」


 子雲の言葉に叔弘は素直に従った。

 天井に視線をさまよわせてから、子雲の問いにややためらいがちに口を開く。


「お前が来るのを待っていたんだ」

「どういうことだ」

「……父がやたらと心配してね。

だけど、医者を呼ばれたくなかったから……楊爺さんに薬を頼んでくれと、家の者に言ったんだ。

それから、お前に聞いてほしいことがあって――」


 叔弘は息を整えるようにして言葉を切る。

 子雲はじっと黙って話の続きを待った。


「――夢を見るんだ」

「夢って……」

「彼女が夢に現れる。私の仙女が――」


 まさか、と子雲は口の中でつぶやいた。

 先日、叔弘が語った想い人の話を思い出す。

 まさか本当に恋煩って寝込んだというのだろうか。

 子雲は叔弘のやせた顔をまじまじと見つめる。


「それは前にお前が話していたあの女か。

それが夢に出てくるって」

「間違いなく彼女だ。

見誤るはずもない、あの姿、あの眼差し……子雲、彼女は毎夜、夢を通じて私の元を訪れるんだ。

彼女の瞳が私を見つめ、彼女の声が私を呼ぶ。

子雲、あの人は本当に仙女かもしれない。

私のことを、彼女が住む桃源郷へと呼ぶんだ……」

「だが、それは夢のことだろう」

「……本当に夢なのだろうか……」

「おい、しっかりしろよ」


 宙を浮遊する頼りなげな叔弘の口調に、子雲は思わず身を乗り出した。

 のぞき込んだ叔弘の目は子雲を見てはいない。

 どこか遠くをさまよっているその目に、あるべき生気が欠けていることを見て取って、子雲の胸に霜が降りた。


「彼女の手が、私に触れた気がするんだ。

ぬくもりがまだ残っているようで……。

声も……彼女の声も、確かにこの耳で聞いたんだ……私を、呼んでいた――」

「叔弘――」

「彼女はきっと、今夜もやって来るよ、子雲……」


 そう言うと、叔弘は疲れたようにまぶたを閉ざす。

 溜息に乗せてつぶやかれた台詞は、子雲の耳にようやく届くかどうかというくらいにか細かった。


 薄いまぶたを閉ざして静かに呼吸を繰り返す叔弘の横顔を、子雲は険しい目つきでじっと見つめた。



 子雲は趙家を後にすると、足早に北京の雑踏の中を進んでいった。

 脇目もふらず、目的地に向かって半ば駆けだしている。

 往来を行く人々がすれ違いざま、奇異なものを見るように自分を見送っているのには気づいていたが、そんなことはかまわなかった。


 子雲は幼なじみの言葉を確かめるつもりなのだった。


 叔弘の様子が普通でないことは明らかだった。

 子雲は胸中にもやとなって広がる不審の正体を探るため、とにかくもまず、叔弘の話を始まりから確認しなければと、その場所を目指した。


 思い立ったら行動は素早い。

 深く考える、考えをまとめるなどというのは、子雲にとっては悠長なことで、最初から意識の外なのだった。

 子雲の気性の長所か短所か、思いついたことはまず実行してみなければ気が済まないのである。


 目に見えないものは信じない。

 夢など全て錯覚だ。

 わからないことは自分の目で確かめなければ――それは子雲の信条なのだ。


 都のはずれ――そこで叔弘は仙女と出会ったという。

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