牽牛花・壱
遠くに堅牢な都城を臨む往来には、華やかに人々が行き交い、立ち並ぶ店からのかけ声がかまびすしく響く。
暦の上ではもう夏も終わろうかという時候であるのだが、よく晴れた空からそそがれる陽光は強く、都の熱気をあおるように照りつけていた。
市民、旅人、商人、兵士、役人……さまざまな装いの人々が、往来を行き交っている。
大通りでは、大道芸人が楽の音に合わせて、その見事な技を披露し、集まった見物人たちからは、やんやの喝采がわき起こる。
酒店の中から聞こえるのは、陽気な哄笑の大合唱。
楼閣の内からは、琴の妙音が優雅にたゆたう。
にぎわう北京大名府の風景からは、人々の豊かさと平和が見て取れた。
その都の雑踏の中を、慣れた足取りで、人波を避けつつ歩いていく男がいる。
使い古した様子の
日に焼けた健康そうな顔は美青年とは言えないが、若々しく颯爽とした様子の快男子である。
大きな荷物を背負ってはいるが、商人とも旅人とも見えない。
麻の短袍を着、頭巾をかぶり、悠々と身軽な様子から都に住まいする市民の一人であるらしい。
男は大通りの左右に並ぶ物売りには興味がないらしく、客寄せの声に耳を貸す様子は見られない。
男はおもしろくなさそうな表情を浮かべて大通りの平和なにぎわいを見やりながら、足取りはのんびりと、何の目的もないかのように歩いていった。
人波を抜けて往来をはずれると、町中の喧噪はやや遠くに聞こえるようになった。
男は閑静な通りを変わらぬ歩調で行く。
北京の中でも、特に大きな富豪の邸宅が並んでいる区画である。
役人の乗る瀟洒な牛車が、土ぼこりを立てて行くのとすれ違った。
ややあってたどり着いたのは、立派な門構えの大きな屋敷の前である。
門前では腰の曲がった老人がほうきで道を掃いている。
男が近づいていくと、老人は気づいて、掃除をする手を休めて顔を上げた。
「誰かと思ったら、
老人は男の顔を見留めると、あからさまに胡乱げな表情を作る。
「坊ちゃんなら中庭においでだよ」
「どうも」
非友好的な老人の態度には頓着せず、男は無遠慮に屋敷の門をくぐった。
背中に険のある視線を感じたが、いちいち気にするでもない。
いつものことでもあるし、慣れたものだった。
男は自分の家の庭を歩く気安さで、屋敷の中庭へと続く石畳を歩いていく。
敷地内の木々はどれも丁寧に整えられている。
かすかに水音が聞こえるのは、屋敷の主人の趣味で、小さな滝を模した水場がしつらえられているからだ。
野鳥が集うので、水音と共にその素朴な鳴き声も聞こえる。
ふと、笛の音が聞こえてきた。
石畳を渡って中庭に出ると、笛の音とその主がはっきりとした。
庭木の濃い緑が溢れる中庭は、陽光が惜しげもなく降りそそいで、石畳の上に不思議な形の影をいくつも作っている。
その野趣に富んだ中庭にたたずんで、晴天に向けるように澄んだ音を響かせる奏者に、男は親しげに声をかけた。
「
名前を呼ばれて振り向いたその奏者は、驚いたように突然の来客を見返した。
その奏者もまた年若い青年である。
線の細い
道服をまとった涼やかな立ち姿と、瀟洒な貴公子然とした風貌には育ちのよさが表れている。
「
お前は本当にいつも突然にやって来るな」
言われて、子雲はにやりと笑った。
「そう言うなよ、叔弘。突然思いついたんだからな」
子雲は背負っていた行李を地べたに降ろすと、気軽にその上に腰掛けた。
叔弘はそれを見ると、形のいい眉をわずかにひそめる。
「また仕事をさぼってきたのか。
ちゃんと売ってこないとだめじゃないか」
「爺さんの薬なんか、往来で広げてみたって売れるわけがない」
子雲はつまらなさそうな表情で溜息をついた。
そして、傍らの叔弘を見て、
「というわけだから、なんか買え」
「押し売りに来たのか、幼なじみの家に」
呆れたように叔弘は子雲を見返す。
子雲の方は大真面目に、
「これも何かの縁だと思って」
「腐れ縁だろう」
「大事な親友を助けると思って」
「悪友だろう、お前は」
友達甲斐のない奴め、と子雲は悪態をついた。
「叔弘、いいか、お前は俺の他には友人などいない寂しい奴なんだから、そのたった一人の友人に見捨てられんよう大事にしなければとは思わないか」
「どの口が言うかなあ、まったく」
「四の五の言わずに何か買え。
これなんかどうだ、不老長寿の秘薬」
「あからさまにうさんくさいよ、子雲」
行李から引っ張り出された布の小袋に一瞥もくれずに叔弘は言った。
子雲はふてくされた顔で小袋を行李に押し戻した。
子雲は姓を楊という。
両親は既に亡く、薬屋を営む祖父と共に暮らしている。
少年時代は、けんかっ早い悪童として有名だった。
成長してからは、武芸の修行と称して木刀を振り回し、普段は無頼を気取っている。
叔弘は北京でも屈指の富豪である趙家の三男坊である。
当主たる父親が健在で、しかも末っ子の叔弘を甘やかして好き勝手にさせているので、文人気質のこの美形の御曹司は、悠々自適の風雅な暮らしに安住している。
その境遇や性格はまったく異なるが、二人はどうやら気性が合うらしく、少年の頃より今まで友人としてつき合いが続いているのだった。
「ああ、暇だな」
そう言って、子雲は大きなあくびをした。祖父から言いつけられた仕事を放って、彼はこのまま時間をつぶすことに決めたらしい。
暇つぶしの相手に定められた叔弘は、手に持っていた玉笛で行李を指し示す。
「暇じゃないだろう。仕事をしたまえ」
「何か愉快なことはないもんかな」
「人の話を聞きたまえ」
横合いからかかる説教を無視して、子雲は独り言のようにつぶやく。
「どうせなら、俺の剣術を試せるようなことが起こればいいな。
こう、血湧き肉躍るような」
「お前は口を開くとすぐにそれだな。
そんなに毎日の暮らしは退屈かい」
「退屈だ」
即答されて、叔弘は苦笑いを浮かべる。
叔弘は多趣味で、日々、飽きるということには無縁だ。
対して子雲は、暇だ、退屈だ、が口癖になっている。
血気盛んなこの無頼漢気取りの青年は、自分の剣を使ってみたくて仕方ないのだ。
だが子雲にとっては残念なことに、北京の暮らしは平穏である。
そのため、今までに子雲が期待するような荒事に巡り会ったことはなく、彼の不満はつのるばかりなのだった。
少年時代はとにかくすぐに手が出る乱暴者で、毎日同じ年頃の子供たちや、ときには大人相手にけんかをしていた。
叔弘はその頃の子雲をよく知っている。
なので、今はさすがにそんなこともなくなって、多少の分別がついたらしいことに、幼なじみとして安堵しているのだが、子雲の身体の中には今も昔も変わらず、生来の剣客の血が熱く、しかし燃え上がることができずにくすぶっているのだろう。
もっとも、子雲の亡父は江湖の武侠ではなく、地方の部隊に所属する軍人であったのだが。
「腕を磨いても、活かせる場がなければ宝の持ち腐れだからね。
妖怪退治でもして名を上げるかい」
「くだらない。
そんなものはおとぎ話だろ。現実にいるわけがない。
俺は、相手にするなら生身の人間でなければ嫌だな」
からかい混じりの叔弘の言葉に、子雲は大真面目に答える。
叔弘はやれやれと首を振って、
「子雲、お前の言い方はどうも血生臭くて夢がないな」
「夢なんてあっても仕方がない。
そんなくだらないものより、俺は俺の現実の方が一番だな」
「そんな風だから、お前は女性に好かれないんだぞ」
子雲の物騒な発想に、溜息混じりで叔弘は水を差す。
「詩歌や書画とか、あと楽器……暇つぶしとしてなら、そういう芸術的で穏当な発想はないものかな」
「つまらん」
幼なじみの意見を子雲は一刀両断する。
「俺は剣客だ。
花だの色だのには興味はないよ、お前と違って」
「お前は薬屋の跡取りだろう」
「爺さんの跡なんか継ぐかよ」
頑迷な言い方をして、子雲はそっぽを向いた。
が、不意に思いついたような顔つきで、子雲は叔弘の白い面を見返して言う。
「お前はもしや、新しい暇つぶしの相手を見つけてるんじゃないのか」
子雲のさりげない問いに、叔弘は一瞬驚いたように目を見開き、次いで白皙の顔を朱に染めた。
その叔弘の反応に、子雲は内心でしまったと思った。
どうやら図星であったらしい。
頬を朱色に染めたまま、叔弘は言い訳でもするように、
「子雲、その言い方は間違っているな。
私は決して暇つぶしだとか、そんないい加減で軽薄なつもりではなくて、いつでも真剣だし、心の底から本気でいるんだから。
私が本来、真面目で誠実な人間であることは、お前はわかってくれているだろう」
叔弘の熱っぽい言葉に子雲は思わず天を仰いだ。
また病気が始まった。
口には出さずに嘆息する。
暇つぶしの相手――それは、女のことなのだ。
叔弘は、感受性が強いのか思い込みが激しいのか、妙に惚れっぽい男なのである。
今までに何度、運命の一目惚れとやらに出会っただろう。
だが、その運命の恋が実ったところを、子雲は一度として見たことがないのだった。
これは決して、叔弘が稀代の女ったらしであるとか、軟派な色好みであるというわけではない。
そのことは叔弘自身が言った通りであって、子雲は充分にわかっていた。
叔弘はただ人並みはずれた夢想家なのだ。
往来でたった一度すれ違っただけの女に夢中になる。
あふれる恋心は詩になり楽曲になり、そして――どういうわけか、必ず失恋となる。
眉目秀麗で富豪の御曹司である叔弘が、なぜ毎回その恋を実らせることができないのか。
長いつき合いになるが、子雲はいまだにその謎の答えを知らない。
想いを告げられずに終わった恋もあるようだが、告げても必ず、相手から届くのは丁重な断りの返事なのだ。
振られるとしばらくは落ち込んでいるが、今度は別の婦人に運命とやらを発見する。
そしてやはり失恋して――と、その繰り返しである。
飽きもせず、懲りもせずにそんなことを繰り返しているのだから、これはもう特異な趣味か病気としか子雲には思えないのだった。
「子雲、話を聞いてもらえないか。
大事な幼なじみを助けると思って」
どこかで聞いた台詞だ。
うんざりとした表情を隠しもせずに子雲は尋ねる。
「今度はどこの誰に熱を上げているんだ」
「どういう素性の人かは知らない。
たった一度だけその姿を見かけただけだから」
叔弘の言葉に子雲はあからさまに呆れてみせた。
どうやら、今回はかなりの重症であるらしい。
「だが、住まいの見当はつくぞ。
都のはずれの辺りであるはずだ。
あの人の姿を見かけたのがそこだったから」
「都のはずれ……そんな場所でお前、何してたんだ」
「何日か前、天気のいい朝にいつもより早く目が覚めたんだ。
妙に気分がよかったから、不意に思いついて遠乗りに出かけてみた。
そのときに通りかかったんだ……思えば、あの日のことは全て最初から、定められた運命だったのかもしれない……」
そう語る叔弘の真剣さほど、聞き手の子雲は親身ではない。
熱を込めた眼差しを、ここのはいない想い人に向ける友人の横顔を、子雲は
物静かな容姿に反して、叔弘の内面は一途、というより直線的で情熱家だ。
しかし、その熱意は往々にして空回りする傾向にある。
「彼女は仙女だよ、子雲。
あの朝日の情景にたたずむ姿は私の目に焼きついて離れない。
朝日に溶けてしまいそうに儚くも美しい……玉のように白い面、背を流れるつややかな髪は漆黒。
一瞬だけ目が合ったが、物憂げなあの眼差しを思い出すだけで、私の胸は切なく締めつけられるようだよ。
春風になびく柳のような物腰、
「へー」
「……真面目に聞きたまえよ」
「聞いてる、聞いてる」
はなはだ真剣味を欠いた子雲の口調に、叔弘は憮然とした。
「幼なじみが真面目に話をしているのに、その態度はないだろう。
この薄情者」
「だから、ちゃんと聞いてるだろうに」
「もういい。帰れ、さっさと」
まあまあ、と子雲は機嫌をそこねたらしい友人をなだめるように、
「そんなお前にこれをやろう」
「なんだ」
「恋煩いに効く神秘の薬」
「帰れ」
犬でも追い払うように手を振る叔弘に、今度は子雲が憮然とした。
「何だ、怒ったのか、叔弘」
「お前に話をしたのが間違いだったよ。
さっさと仕事に戻れ。楊爺さんに言いつけてやるぞ」
「……子供じゃあるまいに」
すっかりへそを曲げてしまった叔弘を尻目に、子雲はしぶしぶ重い腰を上げた。
「今度こそ振られなければいいな。健闘を祈る」
「うるさいぞ、子雲」
行李を背負い直して子雲は笑った。
このときは幼なじみをいつもの調子でからかって、ただ冗談めかして笑ったのだった。
* * *
夜――。
闇の中、影をぬって。
密やかに、少しずつ。
だが、確実に近づいてくる。
その「もの」――。
ゆっくりと、ためらいがちに。
探りながら、さまよいながら。
やって来る、ここに――。
たったひとつのものを目指して。
思い定めたその者の元に向かって。
――ざ。
這う音が、しじまにかすれて聞こえる。
――ざ。
* * *
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