走無常鬼譚

宮条 優樹

牽牛花・序




 夜半、刑場に幼子の幽霊が出る。


 晩夏に、巷ではそんな怪談がささやかれるようになっていた。


 幼子は父親を探してさまよっているのだという。


 その父親は罪人だった。

 貧のために罪を犯し、捕らえられて刑に処された。


 死罪だったという。


 残されたのはたった一人、餓えた幼子であった。


 幼子はひたすらに、父親の帰りを待っていた。

 帰らぬ父親を待ちながら、幼子の身体はひもじさに震え、孤独に弱っていった。


 間もなく、幼子の魂魄こんぱくは離れ、幽鬼ゆうきとなった幼子は、父親を探して刑場をさまよっているのだという――。




   * * *


 夜も更けきった頃、生ぬるい風に乗って、か細い泣き声が刑場に響く。


「――……」


 闇と影の境もわからないほど暗い夜の下界に向かって、天上から刃のように細い月が放つ光は頼りない。


 その真っ暗な夜に、地上をさまようものがある。


 しんと静まりかえった刑場に、乾いた土を踏む足音と引きつった泣き声が聞こえる。

 薄墨の影の中から、柔く白い月下にふらふらとした足取りで現れたのは、小さな身体つきの幼児だった。

 やせこけた身体にぼろをまとい、弱々しく歩いてくるその幼児は泣いていた。


「――爸爸とうちゃん……」


 しっかりと握りしめた小さなこぶしで、幼児は両目から溢れ出る涙を懸命にぬぐっている。

 とぼとぼと、幼児は細い足を動かして、父親を呼びながら、殺風景な真夜中の刑場を歩いていく。


 罪人が裁かれ、死に、さらされる場所――今は、この場違いな幼児の姿以外には何者もない。

 すすり泣く声だけが夜気を震わせていた。


 その幼児の足が、刑場の真ん中で何かに気づいたようにぴたりと止まる。


 闇夜に長く尾を引いて響く声――幼児の泣き声に代わって聞こえたそれは、猫の鳴き声だった。

 甲高いその声は聞こえるが、姿は闇にまぎれてか見当たらない。

 立ち止まった幼児の目が、中空の闇をぼんやりと見つめる。


 視線の先、闇の中から浮かび上がって、白い影が現れた。

 猫ではない。

 もっと大きい、人影だ。


 白い人影は闇の向こうから歩いてくる。

 幼児は身構えるでもなく、虚脱したように立ちすくんで、自分に向かって歩いてくるその人影を見つめている。

 だんだんと、幼児に向かって近づいてくる人影が、月光の薄明かりの下にはっきりとその姿を現した。


 現れたのは一人の少女だった。

 ゆっくりと歩いてきた真っ白な服をまとった少女は、今は幼児の目の前に立っている。

 少女は髪を簡単に結い、服も飾り気のない簡素なもので、少年のような出で立ちをしている。

 だが、見る者がいれば、まだいとけないその少女の美貌に息を飲んだだろう。

 天上からそそぐ月の光が、人型を得て現れたかのような美しさである。


 美貌の少女はじっと幼児を見つめる。

 幼児は目の前に現れた少女を、不思議そうな表情で見上げた。


「迷子だね」


 少女の発した声は凛と夜陰に響いた。


「父親を探しているのだろう」


 少女の問いに幼児はこくりとうなずいた。

 幼児の答えに、少女は大きな瞳をわずかに伏せて、


「君の父親はここにはいない」


 静かな口調で短く告げる。

 その一言に、幼児の表情がゆるゆると、また泣き出しそうにゆがんだ。

 それをなだめるように、幼児の小さな頭を少女は優しく撫でた。


「父親に会わせてあげよう。……一緒においで」


 少女が言うのに、幼児は顔をゆがめたままでうなずいた。


 少女の細い腕が幼児に向かって差し伸べられる。

 幼児も、その腕にすがりつくように手を伸ばす。


 少女は幼児のやせた身体を腕の中に抱き上げた。

 肩にしっかりとしがみついた幼児の背を撫でて、少女はしなやかな身のこなしできびすを返す。

 足音もたてずに、夜の刑場から引き返していく少女の後ろ姿は、たちまち濃い闇の中に消えて見えなくなった。


 無人となった刑場を、一陣の風が死笛のような音を立てて吹き過ぎていった。


   * * *




 夜半、刑場に幼子の幽霊が出る。


 いつしかその怪談は聞かれなくなった。


 代わりに、人の口の端には別のうわさがささやかれるようになっていた。


 迷い子の幽霊は、冥府に送られたのだという。


 走無常そうむじょうによって――。




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