青い本を探して
lager
本屋
僕が下宿しているアパートには変人が多い。
まずアパートの名前からして、『くわがた荘』だ。
大学生活中、そこここで住所を書く機会はあるが、その度に少々気恥ずかしい思いをしている。
木造二階建て。101から204号室まで全八部屋。八畳一間の和室1DK。ロフト付き。風呂トイレ別。お家賃月々二萬五千円也。
賃貸情報に詳しい方ならこの時点で察しもつくだろうが、間取りと水回りにおける好条件と家賃額とのギャップを程よく埋めてくれるものは、ずばり年季である。
正確に築年数は覚えていないが、昭和中期なのは間違いない。
古色蒼然。家徒四壁。盛者必衰。往事渺茫。門松は冥途の旅の一里塚。
門松は立っていないけれど。
そんな骨董品のようなアパートに住んでいるくらいだから、住人もみな変わり者だ。
アパートの庭で毎日筋トレをしている老人。官能小説作家のおばさん。百年添い遂げた恋人のように仲の良い兄妹。休日でもスーツを脱がないサラリーマン。電気は点くのにガスメーターが一切動かない謎の部屋。空室のはずなのに囁き声が聞こえる謎の部屋。
なぜそんなアパートに花の大学生たる僕が下宿をしているかを説明すると少々話の前置きが長くなってしまうので(なんとか4000字に納めなければ)、ざっくりと現状を説明すると、とりあえず僕は大学生二年生で、文学部所属で、試験期間前で、少々困ったことになっているものと思ってもらいたい。
「あら。マー君。どうしたの、そんな試験の論文を書くのに必要な参考文献を同級生のイケイケグループの連中に先取りされてしまって途方に暮れてるような顔をして」
とある休日の朝。そんなことを言って玄関のドアを開けて外に出た僕を迎えたのは、この『くわがた荘』の大家である、クミさんだった。
「お早うございますクミさん。今日もお綺麗ですね」
二十代にも三十代にも四十代にも見えるクミさんには、そう言って挨拶するのがこのアパートの鉄の掟だ。僕以外に守っている人を見たことはないが。
「図書館にでも行くの?」
「そのつもりです」
僕が中国哲学史を学んでいる教授は実に教授歴が長く、もう学生に合わせて教え方を変えるような器用で面倒な真似はしないのかできないのか、毎年毎期必ず同じ課題を出してくるらしい。
サークルやら何やらで先輩方とコネクションを持っている同輩たちの間では試験の攻略法が流布されているらしく、今回のことで言えば、大学内の図書館で手に入る一冊限りの参考文献に、課題の要訣が全て納められているのだという。
既に同輩たちの間を盥回されているその書物を僕が横から攫うことは不可能と言っていい。
何故そんな事情を彼女が知っているのかと言えば、きっと昨晩僕がゴロウじいさんに捕まって筋トレさせられている間に愚痴った話を聞かれていたのだろう。
「本のことならヤナイさんに相談してみたら?」
「はい?」
「君のお隣の」
「えええ」
それはつまり、101号室の住人のことだろうか。
このアパートには防音機能というものがついていないので、隣の部屋で誰かがテレビをつけていれば、今日の天気から星座占いの結果、政治家が不祥事を起こした際の答弁まで全てが子細に分かる。
しかし、僕の隣室である101号室から、僕は人間の生活する音を聞いたことがないのだ。
夜になれば電気は点いている。
朝夕にタイミングが合えば、やせ細った長髪の男性が背を丸めて玄関を潜るところを見ることもできる。
しかし、彼の部屋から物音らしきものを聞いたことは、僕は真実一度もない。
正直言って不気味だった。
「今なら部屋にいると思うわよ。ほら」
「いや、ほらって言われても」
「おら」
「恫喝されても」
庭回りを掃いていた箒の柄で僕の脇腹を小突くクミさんに促され、僕は外に向けていた足をくるりと返し、恐る恐る隣室のインターホンを鳴らした。
出ない。
「あ。寝てるのかな。お邪魔しちゃ悪いですね。クミさ――」
「ヤナさーーーーーん!!!」
「クミさぁん……」
クミさんが土佐犬のような声と共に玄関のドアを叩き、僕の口からチワワのような声が漏れた、数秒後。がちゃりとドアノブが回され、ヤナイさんが現れた。
時折見る姿と変わらぬ長髪と曲がった背筋。上下灰色のスウェット姿で、いかにも寝起きといった風情だった。
ただ、僕がそれ以上に目を引かれたのは、彼が開けたドアと彼の体の隙間から見えた、玄関の様子だった。
くわがた荘の玄関には僕が入居した時から大きな靴箱が棚として設置されていて、ヤナイさんの玄関にも同じものがあったのだが、そこに本が詰まっていたのだ。
上から下までぎっしりと、隙間なく本が詰め込まれていた。
「悪いねヤナさん。ちょっとこの青年の力になってあげてほしいのよ」
「ん……」
頷いたのか拒絶したのか判断に困るリアクションをしたヤナイさんは、のっそりとした動きで部屋の中へと引き換えし、首だけでこちらを振り返り「ど……ぞ」と呟いた。
『どうぞお帰り下さい』と言ってくれていたなら僕としても気が楽だったが、僕の背中を小突くクミさんは『どうぞおあがりください』と聞き取ったらしい。
ここまでしてもらって引き返すというのも、それはそれで今後が気まずい。
僕は覚悟を決めて先ほど履いたばかりのスリッポンを脱ぎ、部屋に上がらせて頂いた。
そして。
「本屋……?」
思わず、そう呟いていた。
部屋の中は、本で溢れていた。
いや、本しかなかった。
僕の部屋のガスコンロが置いてある場所にも、洗濯機が置いている場所にも大小の本棚が置かれ、僕が食器を置いている棚にも、着替えやタオルを置いている浴室横の棚にも、上から下までぎっちりと本が詰まっている。
ハードカバー。ペーパーブック。雑誌。文庫。コミック本。図鑑。絵本。色とりどりの本という本が、部屋の中に溢れかえっていた。
「こ……ち」
こち亀? いや、こちらへどうぞ、かな? まあ、こち亀全巻がどこかに紛れていてもおかしくはなさそうだが。
案内された八畳の居間も、当然のように畳が見えぬほどの本に埋め尽くされており、辛うじて覗く一枚の座布団を、ヤナイさんは指していたようだ。
「なに、を。探し、てる」
「あ。ええっと、中国哲学史の課題で……」
僕が北宋の学者の名前を二つ挙げると、ヤナイさんは僕の部屋なら布団が仕舞われている押入れを開け、ごそごそと中を漁った。
一分ほどはそうしていただろうか。
僕が気まずさに痩せそうになりながら正座で待っていると、ヤナイさんはやがて一冊の本を取り出して僕に差し出した。
「え?」
それは正に、僕が同輩たちとの情報戦に敗れ、入手の機会を逸した参考文献だった。
「そ、の課題、なら。これ、だろう」
「そ。そうですそうです。これを探してたんです!」
言っておくが、僕は具体的な書名は出していない。まさかドンピシャで持っているとは思わなかったからだ。にも拘わらず、ヤナイさんはこの無量大数の本の中から一分程度で目的の本を探し出したのだ。
なんという奇跡。チルチルとミチルは長い放浪の末に探し物は既に自分たちの家の中にあったことを知ったというが、僕は冒険に出るまでもなく隣の部屋からそれを見つけてしまった。これで勝つる!
「こ、これ、お借りしていいですか!?」
「…………」
勢い勇んで身を乗り出した僕から、ヤナイさんは本を引っ込めた。
おかしいな。青い鳥が逃げたんだが?
「い。いが、条件、が、ある」
「条件?」
「おつ、かいだ」
ヤナイさんの喋り方を忠実に文字に起こすと字数を圧迫してしまうので簡潔にまとめると、隣町の本屋何某へ行き、馴染みの店主からこれこれの本を受け取ってほしいのだという。
場所を聞けば、今から出れば往復しても昼過ぎには帰ってこられそうだった。
是非もない。
どの道今日は図書館を梯子して資料を探すつもりだったのだ。あるかないか分からない資料を探して時間を使うより、よほど有意義ではないか。
僕は二つ返事で了承し、意気揚々と自転車を駆って、隣町へと繰り出したのだった。
…………それがヤナイさんが仕掛けた罠だとも知らずに。
目的の本屋には迷わず辿り着けた。
本屋というよりは古書店といった方が正しいだろう。それも、我が棲家くわがた荘に引けを取らない年代物の建物だ。
店主さんは気さくな方で、目的の本は直ぐに入手できた。
そして、そこからが問題だった。
なんと、僕が一度は逃し、今朝再び見えることができた件の本が、その本屋の棚にも並べられていたのだ。
それどころではない。
大学の図書館にもなかったような参考資料が次々と見つかった。
僕に与えられた課題は二人の儒学者が共通して研究したテーマについて両者の掲げた説を比較することだ。中国哲学史を俯瞰し、両者の学説をそのままずばりと載せているのが、本来の目的の本。
だが、この本屋には、彼ら一人に焦点を当てて更に深くそれを掘り下げた本や、彼らとはまた別のアプローチで研究をした人物の本、その相互関係、関連人物、その他諸々の参考資料が山のように置いてあったのだ。
「う。うう」
僕は学生だ。
文学部所属。
知的好奇心はそれなりにある。
正直面倒な課題の一つとしか思っていなかったが、こんなにも次から次へと提供される資料をスルーすることなどできるはずがなかった。
「あ。あの、ちょっと見せてもらっていいですか」
既に何冊もページを開いていながら今更といえば今更な僕の問いに、店主さんは鷹揚に頷いてくれた。
……。
…………。
……………………。
…………………………………………。
気づいた時には日が沈みかけていた。
結局その参考資料を全部……と言いたいところだったが、お小遣いの限界をもって数冊購入し、僕は汗みずくになりながら帰宅した。
帰りが遅くなったことを詫びる僕に、ヤナイさんが表情を変えずに一言。
「本、は。自分で探すのが、一番面白い」
金言であった。
ちなみに後日談その一。
提出した僕の論文は、「マニアックすぎて採点できない」との理由でB評価だった。
後日談その二。
「マー君。君、やたら文字数気にしてたけど、今年のKACは文字数の上限はないわよ」
「へ?」
青い本を探して lager @lager
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