第3話 試行錯誤と仮説
「ええ、そうなのよー。私がバイトに入ったのは一、二、三、六日目で、あとは他の人から聞いただけなんだけど、誰も見なかったって」
「仮に、同一人物の仕業とするわよ。そうしたら、犯人は一週間、書店に通い詰めたんだから、店員に何度も見られているはず。たとえ犯行現場を押さえられなくても、暑い盛りに連日現れる客って、印象に残るんじゃないかしら」
「そうは言っても、この程度の被害で防犯モニター専任のバイトを新しく雇うことなんてなかったし、店内を疑いの目で見回ることもしなかったから。折角好調な売り上げをキープしてるのに、つまんないことでお客と揉めて、悪い評判を流されでもしたら、目も当てられないもの」
「ふーん。まあ、実際、七日間で収まったんだしね、判断は正しかったのかもしれない。で、その程度のつまんない事件だからこそ、私に相談を持ち掛けたということか」
きれいに舐めたスプーンで、梶尾を差し示す元村。梶尾は怯まず、「これだけおごってあげて、文句を垂れるの?」と言い返した。
「文句はありません。たださあ、犯人を捕まえるチャンスが七日間もあったのに、凄くお間抜けだなあと思ってさ」
「いいのよ。犯人が誰か、なんてことに興味はあんまりないの。今となってはね。あなたに考えてもらいたいのは、何故こんなことをしたかっていう理由」
「面白いからやってみるけど、でも、正解かどうか、確かめようがないじゃん。
それでもいいの?」
とうとうサンドイッチに手を伸ばし、口をもぐもぐさせながら、元村の目が梶尾を見る。
「いいわよ。その代わり、私を納得させるだけの答を出して。実を言うと、気になって、ここ最近、寝付きが悪いのよ。ぐっすり眠れるように、説得力のある答か、物凄く面白い答を見つけてちょうだい。それ以外だと、おごった分、返してもらおうかなっと」
「やれやれ、ね。寝付きが悪いのは、電気代をけちって、クーラーを使ってないからじゃないの?」
「失礼ね。そんなことない。とにかく考えてよ。こういうの好きでしょ?」
梶尾がテーブルを指で叩くと、元村はアイスティをストローで飲み、食欲の方を一息つかせた。
「これがもし、一人の作家の作品にだけ行われたのなら、真っ先に思い付く案があるんだけどな」
「一応、聞かせて」
身を乗り出した梶尾。彼女の前には、皿やコップといった邪魔になる物はほとんどない。
「その作家の本を売るためよ」
「……よく分からないわ」
「本を反対向きに棚に入れたら、どうなる?」
「題名が見えなくなる。作者名も。そんなことしたら、売れなくなるわよ」
「そうとも言い切れないんだな、これが。反対向きってことは、普通と違う。普通と違うってことは、目立つ。目立つってことは、注意を引く訳よ。反対向きの本は、手に取ってもらえる頻度が高まる」
「……手にしたからって、買うとは限りませんけど」
とうとうとまくし立てた元村に、梶尾は殊更丁寧に反論した。だが相手は全く動じず、口調も滑らかさをキープする。
「その通りよ。だけど、手に取ってもらえない本は、絶対に売れない」
「はあ……」
「手に取ってもらえる頻度が高いほど、売れる可能性も高まるはずよ」
「それはまあ、そうだろうけども。そんな動機って、ある? せいぜい二、三冊、売り上げが伸びるぐらいのことよ」
「裕美のバイトしてる本屋さん以外でも、同じことをやったらどうよ? 何十軒もの本屋で、特定の作家の作品をひっくり返す。全部合わせれば、相当な数になるわ」
「費用対効果というか手間対効果を考えたら、かなり馬鹿々々しい気もするけれど……狂信的なファンならやりかねないかなあ」
否定しきれないので、渋々ながら認める梶尾。だが、元村はこの説をさらに広げた。
「あら。ファンが犯人と決め付けちゃだめよ。担当の編集者かもしれないし、作者自身かもしれないんだから」
「ま、まさか。焼け石に水みたいなことやるなんて。第一、この考え方が当てはまるのは、被害に遭ったのがただ一人の作家だった場合でしょ。私の体験には当てはまらない」
「一人の人間が、七人の作家を同時に応援しちゃいけないという法は、どこにもないわ」
「確かにそうだけど」
否定材料を探して、視線を宙にさまよわせる梶尾。壁に掛かるメニュー表を意味もなく追っていた。
すると突然、元村が笑い声を立てた。
「ははははは! なぁに、えらく真剣な顔してる。どうしたの? 本気で受け取った、今の説?」
「……冗談だったの?」
「冗談じゃあないけど、まずあり得ない説だと思ってて、敢えて言いました。明らかに穴のある説だから、すぐ気付くと思ったんだもの。悪気はないのよ」
「ど、どこに、穴が」
力が抜けて、くずおれそうになる身体を支えるため、梶尾は両手をテーブルについた。その弾みで、テーブル自体が一瞬、大きく傾いたものだから、元村は家宝を守るかのような動作で飲み物のグラスを押さえる。
「興奮しないの。ほんと、簡単なこと……反対向きの本は目立つけど、手に取ってもらったあと、そのお客が買わなかったとして、また反対向きに本棚に戻されるかな?」
「……常識のある人なら、ちゃんとした向きにして、入れてくれる。多分」
「でしょ? だったら、この売り上げアップ作戦の効果がゼロに近いのは、自明の理。折角目立たせても、買われないなら正常な形で棚に戻る、これの繰り返しなんだから」
「要するに、駄目な説をいちいち口にしといて、長々と引っ張った挙げ句、こうして私をからかうつもりだったのね」
疲労感たっぷりの声で、梶尾は尋ねた。皮肉でも何でもなく、とにかく疲れた。
「心外なお言葉を。こういう『日常の謎』ってものは、色んな可能性を検討した末に、真相が見えてくるものと相場が決まってる」
「『日常の謎』?」
「日常生活のどこにでも転がっていそうな、だけどちょっと不可解な現象――これを『日常の謎』と呼んでいいんじゃないかしらね。ほんとは定義が難しくて、今言ったような定義だと、ぽろぽろ例外がありそうだけど。まあ、裕美が持って来たのは、差詰め、『恥ずかしがり屋の文庫本』事件と呼べるかな。あ、考えてみれば面白いじゃないの。普通、人が恥ずかしがると背を向けるけど、本の場合は“背”表紙を隠すことこそ、恥ずかしがってるみたいになるなんて」
「待ってよ。『日常の謎』の説明になってないんじゃ?」
「そっか。他に有名どころを挙げると、『九マイルは遠すぎる』『背広、ジャケット、スーツ』『五十円玉二十枚の謎』辺りが該当するわね」
「有名って、どこで?」
「ミステリ界隈よ」
「……それは横に置くとして」
気を取り直し、お冷やを口に運ぶ梶尾。
「売り上げアップ作戦でないのなら、何が考えられるの?」
「そうねえ、たとえば……秘密の暗号を表していたとか」
「あんごお?」
疑念たっぷりに復唱されて、元村はさすがに苦笑いを浮かべた。手を拭いて
から話を続ける。
「ま、聞くだけ聞いてよ。たとえばの二段重ねになるけど、作家の頭文字を、本をひっくり返された順に並べてみるの。やってみて」
「阿馬、瑠璃木、舟山、渡辺、根神、谷中、吉沢……あるふわねたよ。アルフって外国人はもう寝たよという解釈?」
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