第4話 修羅の押し花

 修羅にも慰安は必要だ。

 連日の発注と棚作り、詰め掛ける客と押し掛ける版元を千切っては投げ掃いては捨てる日常である。

 まして、修羅たちはその殆どがフロアを仕切る立場にある。不出来な部下の胸ぐらを掴んでは壁ドンし、頼んでもいないのに出てくる杭は基礎工事よろしく打ち込むという業務も課されている。

 心身を蝕むその疲労は、定例、否定例を問わず開催される能登屋での会合だけで癒しきれるものでは無い。


 社員旅行という行事がある。

 約三十年前の話であるから、現在のように「ウザい」「ダルい」という者もおらず、清く正しく労務に勤しむ社員たちが楽しみにしている年に一度の福利厚生行事だ。

 裏社員旅行という行事がある。

 その胡乱な名称の通り、大人しくて控えめな社員たちと交わっては羽目を、心の枷を外しきれない―――それでも十分、他の者は近寄り難い―――修羅たちが、気心の知れた者どうしで企画する非正規、非公式の行事である。


 この話の主人公、北里はビジネス書の神様と呼ばれた男だ。

 自称でもなければ取り巻きが阿って言うのでもない。単に実績が名を呼んだ、そういう男だった。

 だが、その真の凄さを知らない私にとっては、職場以外で素面な場面を見たことが無いほどの酔っ払いだった。ともすれば、職場ですら酔っていた可能性を否定できないほどの酒好きだった。


 ある年の裏社員旅行。一行が訪れたのは、みなかみだった。二千メートル級の山々に囲まれ十八の温泉がある、雄大な自然を満喫できる観光地だ。


 意外に思うかも知れないが、修羅はレジャーも楽しむのだ。

 貸しボートに乗る事にした一行が、二人一組になって湖面に漕ぎ出す。既に酔っている北里は部下の南に漕ぎ手を任せ、ビールを片手に上機嫌で他のボートに水をかけ始めた。

「テメー、ふざけんな!」

 五十人の若手をまとめる竹田がキレる。北里が手で掛ける水飛沫に対して、同上する猪俣と共にオールを振るって反撃に移る。この海戦の戦端が開かれた時点で、他のボートたちは戦域外へと退避した。

 二人乗りの小さな貸しボートは見る見る内に浸水し、北里艇は這々の体で池の中の小島に避難した。

 気の毒なのは漕ぎ手の南で、北里の巻き添えになってずぶ濡れだった。修羅たちの中にあって気が優しく礼儀正しい彼は、この様な役回りになるのが常だった。

 ボートを降りた北里は、パンツ一丁になった。濡れた服をバス停に引っ掛けると、池の雫が路面を濡らした。

「今日、そこまで暑くないから乾かないスよ」

 それが、上司を濡れ鼠にした張本人の言葉だった。


 そして、修羅は観光も楽しむ。

 一行はロープウェイに乗った。片道約十五分、標高千五百メートル。眼下に広がる風光明媚を満喫した。

「おい、あの花取ってくれよ」

 終点の展望台に到着すると、そう言って北里が指差したのはサンカヨウの花だった。その小さな白い花が穏やかな山風に揺れているのは、落下防止の柵の向こう。急斜面だ。

 何某かの催し物で琴線に触れたのか、北里は押し花にハマっていた。

 修羅にも花を愛でる心があると言うのは思いがけず微笑ましいが、断崖に咲くそれを部下に強請るというところがどうしようもなく修羅だった。

 竹田も猪俣は、しぶしぶ柵を乗り越えた。

 上がガラスのコップを食えと言えば、黙って食うのが男の世界だ。しかしこれは、そういう類の話ではない。

 断れば、後がさらに面倒になる。それが最も合理的な対応だったに過ぎない。

 猪俣が柵を掴んで腕を伸ばし、それを掴んだ竹田が花をむしり取る。今は放送されなくなったリポビタンDのCMを彷彿とさせる危険行為の末、花を手にした北里は上機嫌だった。


 展望台には中学生のグループがいた。と言っても近所の中坊が地元の展望台にいるのではない。遠足なのか何なのか、板張りのデッキにクラス毎に整列している。中にはダラダラした者もいる。これは今も昔も変わらず、このような行事がかったるいという手合いはいるものだ。

 その不機嫌をセンサーに捉えたのか、北里がその列の中に乱入した。天衣無縫と言えば聞こえは良いが、その実態は傍若無人。他人から見れば色のついた眼鏡を掛けた酔っ払いである。しかも服は生乾きだ。

 言葉とも唸りともつかない声を発してティーンエイジャーの群れを突っ切る北里。一部のヤンチャな子供が色めき立ち、引率の教師に緊張が走った。

 嫌な予感はしていた、というより半ば予測の範囲内だった。そしてそもそも、北里の動きは俊敏ではない。

 半笑いの竹田と猪俣がその両腕を抱え込んだ。呂律の怪しい北里を引っ張って、子供の群れから引き離した。

「あ〜ゴメンね。スンマセンね!」

 すまなそうな態度と口調に紛れて、しかし竹田と猪俣は絡もうとする中学生を威嚇した。北里を諌める徒労を思えば、子供を脅しつける方が遥かに容易い。これもまた、合理的な判断だった。


 こうして、何度目かの裏社員旅行は終わった。


※※※


 店間便というものがある。

 本店と支店など、店舗間で書籍の在庫や書類などを流通させる仕組みだ。

 ある日、とある支店の店長であった望田は、本店から来たその封筒を開いて言葉を失った。

「おすそ分け」

 そのメモと共に封筒に入っていたのは、白いサンカヨウの押し花だった。


―――山荷葉「親愛の情」「自由奔放」

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【実録】修羅の書店 マコンデ中佐 @Nichol

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