それは白紙のはずだったのに、きちんと本でした
「やっぱり、何も書いてないじゃん…」
夏鈴は勉強机で「白い本」だと売り渡された物体を眺める。パラパラと何度ページを繰っても白紙ばかりが続く冊子は、やはり本ではなくノートだった。
「騙されてるよね…」
もう二度と行かない。いや、ノートが必要なときにだけ行こう。文房具店として。そうするとこの辺りの本屋は全滅してしまったことになるけど、電車に乗れば本屋には行ける。少なくとも、都会の本屋は間違いなく本屋だ。
夏鈴は諦めて教科書を開く。今日の宿題のページを開く。せっかくだからこのノートを使ってしまおう。使いそうにない言葉を型通りにはめる英作文を綴ろうとして、ノートの一ページ目を開く。
『どうせ使わないのに』
アルファベットを書こうとした夏鈴のシャーペンの先には、日本語が一文書かれていた。シャーペンの芯はまだ、紙との邂逅を果たしていない。
『どうして? 今まで何も書かれていなかったじゃない』
夏鈴が心の中で発した戸惑いが、きちんと文章化されていた。
『シャーペンじゃない…。インクの文字だ。もともとプリントされてたみたい』
新しい本の上質な紙のにおいがした。古本ともノートとも違う、インクと装丁用の糊がほのかに香る。夏鈴の大好きなにおいだった。
『松本君と似てる』
密かに恋しているクラスメイトの名前が浮かび上がり、心臓が飛び上がる。まだ誰にも、家族にも友達にも言っていない。図書委員で同じなだけの、冴えないクラスメイト。彼からも、いつも本のにおいがする。
『ねえ、松本君、と話しかけてみる。彼は長い前髪で見えない顔を上げて、どうしたの? と優しい声を返してくれた』
待って、そんなことはなかった。そんな会話をしたことはない。まだ一度も、まともに話せていない。ただの片思いだ。
『松本君って本好きなの? 疑問は勝手に口からこぼれた。彼は唐突な質問に面食らったようだけれど、一生懸命考えて答えてくれる』
話しかけたことすらないのに、話しかけられたこともないのに、白かったはずのページには次々と文章が浮かび上がる。こすってみても消えない。こすった程度では消えないんだと、自分の気持ちを突きつけられている気がした。
『ねえ私のことはどう思ってる? 単なるクラスメイトの図書委員なのかな? 友達とか、それ以上にもなれるのかな?』
お願い、やめて。ただ静かに思っているだけでもいいと思い込ませて我慢する日々が崩れてしまいそうだ。
その一方で、この物語の先が知りたくもある。
『それ以上っていうのは…。長い前髪の向こうで松本君が大きくまばたきしたのがわかった。私はさらに言葉を重ねる。私の思いを伝えられる単語で』
夏鈴は次に浮かび上がる文字は何かと、懸命に目を凝らす。しかし夏鈴の期待を裏切るように、続く文章は現れなかった。
「何よ、これ…」
十分な不思議体験のはずなのに、続きの存在を示すアメリカンホラーのような終わり方が不満だった。
夏鈴は今週が図書当番だった。松本君と一緒だ。昨日の本を思い出して気恥ずかしくなってしまう。気恥ずかしくて、でも浮かれているからこそ、今なら話しかけられる気がした。
夏鈴は走った。夏の陽射しなどもう気にならなかった。涼むためではなく、本屋へ向かうために夏鈴は走っていた。
「店員さん! 白い本、買いたいです!」
物色する気はなかった。今は目当ての本がある。昨日と同じような、白い本。
しかし本棚を見回した夏鈴は違和感の正体に気づいてしまった。
「文字が、ある…?」
昨日は背表紙にすら何も書かれていなかったはずの文庫本サイズの大量の本たちには、きちんとタイトルも著者名も印字してあった。狭苦しい店内も本棚の配置も変わらないのに、白い本はすべて、普通の本になっていた。
足音に振り返る。
「ああ、昨日の。その様子だときちんと読めたみたいだね」
「あの、白い本は」
なぞかけや問答のようなやり取りをするつもりは一切ない。夏鈴はまた白い本が欲しかった。
「もう、ないんじゃないかな」
「売り切れっていうことですか?」
変わらぬ店員の飄々とした態度に焦れる。
「そうじゃなくて…。ほら、君はもう、白い本は本だと認識してしまったから。白い本にも何かが書かれていることを知ってしまったから。だから君には、もう白い本は本に見えるんだよ」
わかるようでわからない言葉だったが、夏鈴はもう白い本を買えないことだけは理解した。
「おめでとう。白い本でも読める君の世界は、きっと昨日までとは違うはずだ」
夏鈴は祝福されながら店を出る。どうやら自分にもう白い本はいらないらしいとはわかった。理由は、まだわからなかった。
振り返れば、何の変哲もない古本屋がそこにあった。
それは白い本で、でも白紙じゃありません 紫乃遼 @harukaanas
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