夢見古本屋の不思議な物語

たつみ暁

夢見古本屋の不思議な物語

 夫の浮気が原因で離婚した。

 実家に帰れば、両親のぐちぐちと、近所のひそひその的になるとわかっているので、故郷には戻らず、都心に出やすい郊外のアパートに部屋を借りた。

 このご時世なので、隣人とも挨拶をしなくて済む生活は気楽だ。通販の荷物も宅配ボックスに入っている。たまにデリバリーを頼んでも、カードを使えば玄関先に置いてもらえる。結婚前から働いていた会社は完全在宅勤務なので、通勤の時間も必要なく、出勤寸前まで眠りを貪れるのが良い。子供がいない内に別れたから、全てが私のペースで生活できるので、安閑とすることこの上無い。


 そんな一ヶ月が過ぎて、一人暮らしにも慣れてきた頃、そういえばこの街をよく知らない、という事に、不意に思い至った。いつも行くスーパーやドラッグストア、コンビニ、銀行以外の店を、きちんと見ていない。

 運動不足がたたって最近腰が痛いのもある。解消の意味を込めて、気の向くままウォーキングをする事にした。

 動きやすい格好に身を包み、買ったは良いけどおろしていなかった白いスニーカーの靴紐を締め、ウエストポーチに財布とスマホ、タオルを放り込んで、いざ、見知らぬ店を求めて出発。

 腕を振り速歩で進む道は快適だ。春の日差しが燦々と降り注いで、身体がぽかぽか温まる。花屋、カフェ、美容院、エスニック料理店。今度覗いてみようと興味を引く店に、心が躍る。


 そうして二十分ほど歩いただろうか。ふと目を惹かれる看板に、私は足を止めた。

 決して派手な訳ではない。むしろ、飴色の木板に手彫りで『夢見古本屋』と刻まれたそれは、街の光景に埋もれてしまうだろう。実際店舗に入る扉も、古くて狭い木製で、両脇の洋服店と小洒落た喫茶店に挟まれて、全く目立たない。

 だが、その目立たなさが、何故か私の目と心を惹きつけた。

 扉の把手に手をかける。鍵はかかっておらず、ぎい、と軋んだ音を立てて開く。休業中ではないようだ。中に入れば、ふわっと古紙の匂いが鼻腔を満たす。幼い頃、地元にあってよく通っていた古本屋と同じ、ノスタルジーを感じる匂いだ。

 店内は外見からの狭さ通り、大人の私が両手を広げれば、両脇にそびえ立つ本棚に届いてしまうような幅だ。

「いらっしゃいませ」

 静かに呼びかける澄んだ声にぎょっと視線を向ければ、店の奥のカウンターで、組んだ手の上に顎を乗せて、にこにこ顔を見せる、中年のふくよかな男性がいた。彼がこの店の主だろうか。この手の古本屋の店主といえば、白髪で髭を生やした男性の、老後の趣味、みたいな想像をするのだが。さすがに偏見か。

「お探し物ですか?」

「あ、いえ」

 穏やかな物腰に、申し訳ないと思いながらも慌てて両手を横に振る。

「なんとなく気になって、寄ってみただけなんです。すみません」

 冷やかしだなんて、相手の気を損ねたかと恐縮したが、しかし店主は「そうですか」と相変わらず楽しそうに目を細めて、唯一の客である私の相手をしてくれる。

「この本屋は、見える人にしか見つけられませんから。久々のお客さんで、わたしもつい嬉しくなってしまいました」

 たしかに、入口は狭いし外からは見つけづらいし、入ってみればこんなに手狭で、人を選ぶ古本屋だろう。しかし、「見える人」とはどういう事だろうか。小首を傾げる私に、店主は一冊の本を取り出した。

 カウンターに近寄ってみる。古びた革表紙の一冊。本のタイトルは『勇ましき戦乙女の冒険』。まるでふた昔くらい前のゲームのようだ。

「この子が、今のあなたに会いたくて、待っていたのですよ」

 店主は愛おしげに表紙の文字を撫でて、それから、私を見上げる。会いたくて待っていた? 売り込みの文句にしては少々気持ちが悪い。しかし、古き良き時代を彷彿させる題名と、女性が主人公だろうという物語の想像が、私の興味を惹いた。

「おいくらですか」

 言葉は口をついて出て、手はウエストポーチの中の財布をまさぐっていた。

「いえいえ」

 店主はこれ以上細めたら無くなるのではないかというくらい目を線にして、ゆうるりと首を横に振る。

「お代は要りませんよ。この古本屋は、然るべき人に、然るべき物語をお届けするのが役目。強いて頂くなら、お客様の読後の満足感ですかね」

 何だか煙に巻かれたような物言いである。タダより高い物は無いというし、怪しい事この上無い。それでも、革張りの表紙は、おいでおいで、あたしを見て、と主張しているようで、最早このまま別れるのが惜しくなっていた。

「じゃあ」「ありがとうございます」

 古本が、店主からわたしの手に渡る。

「良い読書時間を」

 店主の笑顔に送られて、私は古本屋を後にした。


 その晩、シャワーを浴びて髪の毛を乾かした私は、リビングのテーブルに置きっぱなしの本の存在を思い出した。

 寝落ちるまで読むか。思ったより重厚なその本を手にして、ベッドに潜り込み、手元のライトをつける。

 物語は、正直言って、王道だが面白かった。平凡だった少女が、とんでもない魔力を秘めている事が発覚して、世界を脅かす覇王を懲らしめる為に、戦乙女として旅立つのだ。

『女なんて』『どうせ事態が悪くなったら泣き出すんだろ』『大人しく家で家事をしていりゃ良いものを』

 現実社会でも容赦無く浴びせかけられる、男達の差別の棘に、しかし彼女は怯まない。そいつらを凌駕する戦闘力を見せつけて、度肝を抜くのだ。

『あたしに文句があるならば、それだけの実力を発揮してから言うものね!』

 うんうん、そうだぞ。良い事を言う。

 批難と僻みの雨を跳ね除けて、彼女の冒険はいよいよ覇王との対決へ進む。

『小娘ごときが、生意気な!』

 お決まりの台詞を吐いて、覇王は少女を叩きのめそうとする。しかしこちらは天下の戦乙女。覇王の魔力を打ち消して、追い詰めるのだ……が。

「えっ?」

 本を繰る私の手は止まった。さあ遂に、というクライマックスのページは真っ白。少女と覇王がどうなったか、肝心のオチがわからないのだ。

 ここまで来て、それは無いじゃないか。落丁本だったと、明日あの店主に文句を言いに行かなければ。そう考えた瞬間、私の視界がぐりんと回って、意識が急速に遠のいていった。


「ゆ、許してくれよお!」

 私の前で、覇王がへっぴり腰体勢で訴えかけている。

「ほんの出来心だったんだ! やり直そう、なっ!? 俺達なら、上手くやっていけるはずだよ!」

 その台詞と顔に、私はカチンとキレた。何故なら、覇王の顔も、放った言葉も、浮気がバレて必死に弁明した元夫のものだったから。

 付き合い始めた頃から、口先だけは調子の良い奴だった。誰にでも偉そうに振る舞って、自分の思い通りにならないと気が済まない男だった。結婚してから、私の作る味噌汁の味ひとつ取っても、「俺の好みじゃないんだよなあ」と、じゃあお前が作れ! と怒鳴りつけたくなるような言いがかりをつけてくる奴だった。

 そんな奴とやり直すなんて、できますか?

 上手くやっていけるはず、ありますか?

 奴に対する戦乙女の答えは、ただ一つ。最大級の魔法を放つ事。

「ぎへええええ!!」

 情けない声をあげて、覇王は吹っ飛んで壁にめり込む。

「馬鹿にするのも大概にしなさいよ。女は強いんだから」

 白目をむいて舌を出す、みっともない姿をさらす覇王に背を向けて、今までに感じた事の無い清々しさで、私は胸を張った。


 じりりりり、と。

 目覚ましの鳴る音で私は現実に引き戻された。遮光カーテンの隙間から差し込む光が、朝の訪れを告げている。

 結局本を読みながら寝落ちてしまったのか。ページを閉じようとした私は、はっと二度見してしまった。

 白紙だったクライマックスが、埋まっている。しかも、私が覇王の奴に放った一字一句、一挙動変わらない記述で。

 すう、っと。

 心が軽くなる気がした。離婚して、本当にこれで良いのだろうかと悩んだ事は何度もあった。だけど、現実ではないけれど、元夫をはっ倒した事で、全てが吹っ切れた気がしたのだ。

 私は私。思うままの人生を生きよう。冒険を終えた戦少女がきっと、その世界で自分らしく生きてゆくように。


 数日後。私は店主にお礼を言おうと、あの古本屋がある場所を訪れた。

 しかし、店舗があったはずの場所をうろついても、『夢見古本屋』の飴色の看板は、一切見つからなかった。

『然るべき人に、然るべき物語を届けるのが役目』

 そう言ったように、あの店主は今日もどこかで、心にわだかまりを抱いた人を救う物語を与えるべく、目を細めてお客を待っているのだろう。

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