思い出の絵本[ノーリグレットチョイス番外編]

寺音

勢いって大事だけど、後悔することも多いよね。

 遥か昔から、空に浮かぶ大地が存在した「地球」。その大地に築かれた天空都市「彩雲」。

 空に現れた異形により、地上との往来が絶たれてしまったこの都市で、人や物を地上へと運ぶ運び屋「藍銅鉱アズライト」。


 これは彼らの、ちょっとした日常の物語。





 その店を見つけたのは、ほんの偶然だった。

 仕事の予定もなく、これと言ってやりたいこともない手持ちぶさたな休日。タイクウは一人、彩雲を散歩していた。


 人通りの疎らなメインストリートを抜け、ふと目についた路地に入る。一つに括った甘皮色の髪が、馬の尻尾のように揺れた。

 今の彩雲では新しい店が作られることはまずあり得ない。それでも普段使わない道を進めば、意外な発見もあるものだ。


 そんなことを考えながら、普段よりもゆっくりとした足取りで進んでいくと、見慣れない看板が目に止まった。コンクリートの壁に木の板が立てかけられているだけなので、注視していなければ見逃してしまう。

 看板の掠れた文字を目で追って、タイクウは焦茶色の目を見開いた。


「本屋さん……!?」

 絶滅危惧種でも見つけた気分だ。

 そもそも書店の数が少なかった上に、地上へ行く手段は絶たれ、本を仕入れること自体ができなくなってしまった。今の彩雲に「本」を作るだけの余力はない。書店はもう存在しないと思っていたのに、ある所にはあるものだ。


「灯りがついてるし、営業、してるんだよね?」

 タイクウは読書家というほどでもないが、人並みに本は好きだ。何より未だに生き残っている本屋に興味もある。

 かつて自動だった扉に手をかけ、恐る恐る開いた。


 店内は思ったよりも薄暗い。そのせいかひんやりと冷たい空気が漂っていた。鼻腔をくすぐる香りはインクか紙の匂いだろうか。天井まで届くほど高い本棚が六つ、店の奥から彼に向かって伸びていた。


 入店しても何の声もかからない。タイクウは躊躇しながらも店の奥へ進み、本棚を見上げた。


「あれ?」

「ああ、いらっしゃいませ。気がつかなくて申し訳ありません」

 店の奥からエプロンをつけた男性が顔を覗かせた。鼻の下には灰色の髭を蓄え、室内なのに何故かニット帽を被っている。

 反応を見るに、あまりお客は来ないのかもしれない。首を傾げているタイクウの視線の先に気づくと、店員は苦笑した。


「ああ、見ての通りで。好きな本をどうぞと言いたいところなんですが、売れる本がないんです」

「こちらの棚は、本がいっぱいですけど」

 タイクウが左側にある本棚を指差す。彼が疑問の声を上げたのは、本棚が空だったからではない。右側の本棚は空だったが、左側には隙間なく詰まっているという奇妙な状況に関してだ。


「まぁその、こんな時代でも本が好きな方はいらっしゃるんですが。今の彩雲では、どうしても読まれる物と読まれない物がはっきり分かれてしまうんですよ」

 店員の言葉にタイクウが再び本棚を見上げる。

 空になっていたのは小説や児童書などの物語を扱う本棚のようだ。

 反対の本棚には、旅行系の本やビジネス書、料理のレシピや釣りなどの趣味の本が並んでいる。


「なるほど。確かに料理の本を見ても、材料が満足に手に入らないですもんね」

「そんなこんなで、この状況というわけです。まぁ、趣味の本なんかも眺めているだけで楽しいんですが、値段も高騰してますからね。わざわざそんな本を買う人もいないわけです」


 店主は諦めたような顔で肩をすくめる。唯一売れる物語の本も、入荷の目処が立たないのであれば、もうお手上げ状態なのだろう。

 タイクウはどう声をかけていいか分からず、視線を彷徨わせる。

 ふと右の棚の端に、一冊の本が残っていることに気づいた。

 深い青色の背景に真っ白な翼のイラスト。

 近づいてタイトルを確認し、彼はパッと表情を明るくした。


「うわぁ、懐かしい! この絵本、昔大好きだったんですよ!」

 まだ地上にいた頃のことだ。タイクウの家にあったその絵本は、幼馴染であるヒダカもお気に入りで、よく二人で眺めていたものだった。

 思わぬ出会いに、胸が温かくなる。しかし、同時に疑問も浮かぶ。


「あ、でも何故この絵本だけここに? 先程のお話だと、絵本なんて真っ先に売れそうですけど」

「その絵本の内容、覚えていらっしゃいますか? あまりにも内容が……奴らを連想してしまうので、誰にも手にとってもらえないんです。本に罪はないんですけどね」


 タイクウはハッと息を呑む。

 これは天使から翼をもらった少年が、天空都市にいる少女の元に飛んで会いにいくお話だ。かつて天空都市が、特権階級の人々のみに開かれていた時代に描かれた物語である。


 自由に空を飛ぶ男の子が本当に楽しそうで、描かれたイラストの空色が本当に美しくて。

 幼い自分たちは絵本の少年に憧れ、胸を躍らせたのだ。


 しかし空にあの異形、天空鬼スカイデーモンが現れた今となっては、純粋にこの物語は楽しめないのかもしれない。


「それ、差し上げますよ。ここにあっても恐らく、誰にも買ってもらえないでしょうし。ああ、もちろん、お客様が良ければですけど」

 無理はしないで下さいね、と慌てて店員は付け足した。

 タイクウは視線を絵本に移す。表紙に描かれた澄んだ青色。そして、少年の真っ白な翼。それらをそっと指でなぞり、やがて大きく頷いた。


「僕——この本買います!」

「え? いや、でも」

 戸惑う店員に、タイクウは頭を下げた。店員の言う通り、本に罪はない。

「買わせて下さい。お願いします」

 必死で頼み込むタイクウに、店主は戸惑いながらも首肯したのだった。





「ヒダカ、ただいま」

 タイクウが事務所の扉を開くと、パーテーションの奥から間延びした声が返ってくる。後ろ手に扉を閉めて中に入っていくと、椅子に腰かけて寛ぐ相棒の姿が見えた。

 どうやらシャワーを浴びた後らしい。黒檀色の前髪が後ろに流されずに額を隠している。

 彼はタイクウの脇に挟んだ紙袋を見とめると、怪訝そうに眉をひそめた。


「じゃーん! 見てよコレ、懐かしいでしょう?」

 タイクウは紙袋を開けて中身を取り出し、幼馴染の目の前に掲げた。ヒダカは髪と同色の目を軽く見開き、あからさまに表情を曇らせる。


「よく二人で読んだよね、この絵本。今日、たまたま見つけて、懐かしくてつい買ってきちゃった」

 はしゃぐタイクウに対して、ヒダカの表情は固い。恐らく彼は、この絵本の内容を覚えているのだろう。

 そして絵本の主人公の姿が、何を想像させるかも。


「ヒダカ」

 タイクウは相棒の名を呼んだ。顔を上げたヒダカと目を合わせ、にっこりと微笑んで見せる。

「大丈夫」

 ヒダカの瞳が驚きで見開かれる。


「僕たちも桜さんも、地上にいるヒダカのお兄さんも他の人たちだって、みんなみんな頑張ってる。だから大丈夫。昔みたいに、楽しいだけの気持ちでこの絵本を読める日がくるよ。これを買ったのは、その日を待つためでもあるんだ」


 タイクウを見つめていたヒダカが、ふっと肩の力を抜く。そして前髪をかきあげると、少しだけ申し訳なさそうな顔で笑った。

「いつも後ろ向きのテメェにしちゃぁ、珍しく前向きな台詞じゃねぇか」


「失礼な。別に僕だって、いつもいつも後ろ向きなわけじゃないよ」

「どの口が言ってんだ。後悔が特技のくせに」

 そう言いながら、ヒダカが犬歯を見せつけるようにして笑う。普段の彼と同じ表情に、タイクウは目を細めた。

「ついでに、藍銅鉱アズライトの名刺も渡しておいたよ! 新しい本仕入れたくないですかって」

「おー、やるじゃねぇか。営業は積極的にかけていかねぇとな」

 ふと、ヒダカが絵本に視線を向けて呟いた。


「しかし、結構したんじゃねぇのか、コレ。書籍の価格も高騰してたろ、確か」

「あー、正直相場の数倍、どころじゃなかったけど大丈夫! しばらく欲しい物我慢すれば」

 タイクウの言葉を遮るように、ヒダカが怪訝そうな声を発する。


「ああ? テメェ数日後に、テメェが集めてるその、ウサギなんだか鳥なんだか分かんねぇ食玩の、復刻版だか限定品だかが出るって、はしゃいでなかったか?」

「——ん?」


 ヒダカの言う通り、タイクウがハマっている食玩シリーズ『飛べ飛べウササギくん』、こちらのシリーズが個数限定で発売されるのだ。

 初登場時のデザインを復刻したもので、ファンの垂涎すいぜんの品なのである。もちろん、それに見合った価格が設定されている。

 タイクウは頭の中で現在の自分の懐具合と、購入予定の食玩の金額を比較する。

 そしてガックリと膝を折った。


「…………思い出って恐い!!」

「おい⁉︎」


 どう計算しても、お金が足りない。完全に予算オーバーである。

 懐かしさとその場の勢いで、高額な買い物などするべきではなかったのだ。


「僕、返品してくる!!」

「アホ! 今何時だと思ってんだ!? 店もとっくに閉まってんだろうが!?」

「そうだったー!」

 省エネが必須である天空都市の夜は早い。タイクウは半泣きになりながら、夜明けを待つこととなったのである。



 

 しかし、くれると言ったものをわざわざ格好つけて買ってきて、やっぱり金を返してくれというのは格好悪すぎではないだろうか、との考えもあり。


 タイクウは結局、『飛べ飛べウササギくん』の限定シリーズを諦めることになったのであった。

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