えにぐま・ぶれんど
常陸乃ひかる
えにぐま
ここのところ、80デニールを突き破ってきた風がとんと春めいた。
念願のスマートシティに越してきたアンドウは、業者が帰ったあとのワンルームを
「わかってはいたが、この散らかり……。ふふっ、一週間ってところかな」
なにも、アンドウとともに引っ越したのは不要品ばかりではない。何年か連れ添っている相棒は、彼女よりも三十センチほど背が高く、見た目も中身もスマートで、それでもってたくさんの包容力を持つ――本棚である。
「さて。まずは本から片すとするか」
書物の半分は読みかけだが、時間をかけて見聞を広めてゆくのも人生の愉悦になっている。壁にもたれるようにそびえている本棚との引っ越しも三回目だ。
一時間ほどで、段ボール数箱分の『書物だけ』は並べ終わった。が、アンドウはもう、クラフト粘着テープと段ボールとが反発し合う、あの
「ひとまず外の空気でも吸ってくるか」
引越後、すぐに始まるデイリークエストといえば、『荷物の整理』だが、そのほかにも、『町の探索』がある。愛車の鍵を手にし、それが停めてある場所へ向かった。
彼女にはもうひとりの相棒が居る。変速ギアが壊れて二速発進しかできない
愛車にまたがると、黒いボブを揺らしながらペダルを漕ぎ始めた。サイクリングを楽しむ中で、彼女の頭には疑問が生じた。その景色はあまりにも平凡なのだが、本屋が一店舗も見当たらなかったのだ。たまたま目視できなかっただけだろうが、需要がなくなっている風潮には寂しさを禁じ得なかった。
その夜。アンドウは段ボールに埋もれながら、本に埋もれる夢を見た。
翌日。昼下がり。
日光を浴び、アンドウは腹の虫が
五秒後、飲食店のランチタイムに間に合わないことを悟った。
ギリギリ滑りこんだとしても、店員に嫌な顔をされる未来は明白だ。
「あ、そうだ。この辺の本屋」
早々とランチサービスを諦め、小型のショルダーポーチからスマートフォンを取り出し、地図アプリで『本屋』と検索した。昨日は勘に頼りきってしまったが、こうして現代の技術を使えば、さすがに一店舗くらいは――
「え、待って。ゼロ件っておかしいだろ」
いや、どうやら考えが甘かったようだ。
検索結果はまさかのノー本屋、ノー書房、ノー古書店。いささか信じきれなかったが、いくら検索を駆使しても該当がないのだから、もう認めるしかない。
「ったく、どうなっているんだこの町は。あぁ……コーヒー飲も」
アンドウは帰宅がてらコンビニに立ち寄り、簡易なカフェインを求めた。が、そこで発覚したのは、雑誌コーナーが存在していない事実だった。数年前までは立ち読み連中が常に鎮座していた、あの一角がどこにもない。
「た、たまたま……だよな」
あまりにも『本』を忌避するかのような町に恐怖を覚え始め、無意識に甘ったるいエクレアをレジに持ってゆき、目当てのコーヒーを失念した。端末で購入したあと、店頭で糖分の塊を掻きこみ、気持ちの整理ができないまま帰路につく。
大通りに面した自宅の手前、交差点で赤信号に捕まった。ブレーキを握ったまま目線を左に移すと、奥まった住宅地が続いていた。その中の民家に、気になる文字が浮かんでいる。
『喫茶EC』
という謎ワードである。どういった略かはわからないが、アンドウの心は、段ボールまみれの素敵な地獄に戻ることを拒んでいた。
「……行くか」
住宅街にハンドルを切った最大の理由は、口の中がずっと甘かったから。
アンドウは、その民家の石塀にもたれさせるように愛車を停め、敷居を跨いだ。玄関の引戸には、わかりやすい『OPEN』の
戸を
「うん、そりゃそうだよな」
やはり普通の玄関だった。
軽食やコーヒー豆の粉砕された香りもなく、お婆ちゃん
戸惑うアンドウを見越したように、
「いらっしゃいませ」
抜群のタイミングで奥から現れたのは、黒いエプロンをつけた五十代ほどの男性だった。マスクで素顔は見えないが、
「あの、ここって喫茶――えと、コーヒー飲めます?」
「はい。御案内いたします」
笑みを交わし、ブーティからスリッパに履き替えたアンドウは、短い
「あれ? 本が……」
そこは窓がある南側以外、壁の三面が本棚と化した小さな空間で、二人掛が五つ並んだ、『喫茶店』だったのだ。本屋のない町に、突如として現れた図書空間。
「どうなさいました?」
「いや? なんでも……」
どもりながらアンドウは窓辺の席に腰を下ろし、青のショルダーポーチを足元の
「じゃあホットをひとっ――え……エニグマティック・ブレンド?」
「えぇ。当店のおススメです」
「あぁ……はい、
マスターのお勧めを注文した。
「少々お待ちください」
メニューはドリンクのみ。アンドウ以外に客が居ないのは、ランチタイムを外したからではないようだ。マスターが厨房へと消えたあと、電動ミルで豆を挽く音がかすかに聞こえてきた。
アンドウは場に圧倒されながら、スマートフォンをテーブルに置き、本棚の前へと歩んでいった。文学書、ビジネス書、漫画でわかるシリーズ――個人の所有だとすれば相当な量だ。いったい何百冊あるのだろうか。
「――お待たせいたしました。ブレンドです」
「どーも」
どれほどか。本棚を見上げていると、コーヒーとともに海外のクッキーが運ばれてきた。席へ戻り一口、二口。コーヒーは及第点である。むしろ、大衆向けの安っぽい喫茶店より何倍も美味しい。
「今日はどちらから?」
「先日、近くに越してきて」
「そうでしたか。ここ民家だからわかりにくかったでしょう」
客が居ないのを良いことに雑談を始めるマスターから、人柄の良さが漂ってくる。軽い身の上を話しながら、封を開けた菓子を口にするとシナモンの風味がした。ちなみに大味。
「あ、そうだ。この町に本屋が見当たらないのだけれど、なにかご存じです?」
敬語が苦手なアンドウは、必死に言葉を選びながら質問を投げかけた。それは昨日から今まで、ずっと気になり続けている謎だった。
「お嬢さん……そこに気づいてしまいましたか」
対するマスターは、柔らかくも例外的な笑みを浮かべた。
「誰でも気づくかと。それもまたエニグマティック?」
「はははっ、時にお嬢さん。電子書籍と本の違いをご存じですか?」
「アンドウです。で、答えだけれど、私にとって差異はないさ。内容さえわかれば、それは同じもの。ふふっ、違うかい?」
「興味深い」
マスターは、孫でも見つめるかのような柔らかい笑みを浮かべた。目のシワがそれを物語っている。
「見てのとおり、僕は本が好きなんです。空想も同じくらい好きで――下手の横好きというか、なんというか。もし不快でなければ、ひとつ小話をしても?」
「是非とも」
コーヒーがすでに半分ほど減った。茶請けはもう食べ終えた。あとは、マスターの話がこの空間を保つためのプライムである。
「ある町で、紙を徹底的に排除しようという政策が行われました。役所仕事のみならず、次第にレシートや本さえも検閲するようになったのです。その結果、町では必需品以外の紙に付加価値が生じてしまった。それが本の価格崩壊でした」
「それは大変だねえ。けれど通販を使えば町の住民も紙媒体は手に入る。ましてや、スマートシティ自体が、紙の制限をできるとは思えないけれど」
アンドウは越してきてからずっと考えていた。ネットワークでデータが管理されたスマートシティから無駄を省き続けると、果たしてなにが残るのかと。アンドウがコーヒーを口にすると、受け答えに愛嬌があったマスターが一拍置いた。そうして沈黙につながり、しばらく外のメジロのさえずりが聞こえていた。
「――さきほど、電子と紙媒体の違いをお尋ねしましたよね? もし両者に価格の差をつけてしまうと、どうなると思いますか?」
「そうだなあ。そのうち紙媒体は金持ちだけの
アンドウが指摘したのは、電子媒体が数百円、紙媒体が数千円という具合に、均衡が崩れる可能性である。今でこそ両者に数十円の違いしかなく、得を感じにくいが、それが正しい価格設定なのかもしれない。
「ところでコレ、いったいどんなブレンド? 猫の
「ははっ、コピ・ルアクはもっと高価ですよ。けれど今お話しした町では、それ以上に紙が高価なのです。もし、たくさんの本を隠していたら? それはそれは大層なお宝になるでしょう、限られた方々にとって」
マスターはわざとらしく近くの席に座り、両肘をテーブルに突いた。その表情は、
「もはや投資目的……?」
「極めてグレーでしょう」
「それじゃあ、町から紙を排除しようとしたのは誰――」
「本屋を――いえ、紙をなくした町があります。そこはエニグマティック・シティと呼ばれ、実態が定かではない怪しい町です。誰も彼も転入したがらず、してきたとしても二度と出られない。住民は、移り住んでから気づくのです」
「ふふっ……まあ、なかなか面白い話だね」
「もし、なにも知らない余所者が現れ、勝手に紙を持ちこんだとしたら? もし、そんな町で不要な紙を所有していることがバレたとしたら?」
「さあね……? 私には皆目見当もつかないよ。別にそんな法があるわけ――」
「役所の手続はスマホひとつで一瞬で終わりますが、その瞬間――町のすべてに同意したことになる。契約書を隅々まで読む人間は、それを書いた者だけです」
「……愉快じゃあないね」
アンドウが残ったコーヒーを飲み干そうとすると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。それは徐々に大きくなり、すぐそこの通りに近づいてきたではないか。
まさか、本当に? もし、そうだとしたら? さっさと帰って段ボールの中に隠れてしまいたい。どこぞの隠密系傭兵のごとく。
早く、段ボールに――
「ん? あれ? ところで段ボールの素材ってなんだっけ」
「あっ、えーと……本当はその町、紙じゃなくてプラスチックが禁止でぇ――」
「もう良いよ!」
話に粗が生じたところで、ようやくアンドウはツッコミを挟んだ。
ほどなくサイレンは通りすぎていった。警察いわく、
『そこの車、ゆっくり左に寄ってください』
だそうだ。
「アンドウさんが意外とノリが良かったもので」
「一瞬でも紙に怯えた自分がバカみたいだよ。あるわけないだろう、そんな話」
そうしてコーヒーの残りを飲み干し、スマートフォンのロックを解除した。
十五時過ぎ――タイミング良く新しい親子客が入ってきたので、「ご馳走様」と一言。アンドウは代金を払い、店をあとにした。マスターは屈託のない笑顔で、「またお待ちしています」と玄関まで見送ってくれた。
「――そうだ、アンドウさん。ちなみに紙が本当に使えなくなったらどうしますか」
「竹を使えば良いさ」
「妙案ですね! 併せて、お店の評価もお願いします!」
「しないよ! まったく……」
そうして手を振ると、丁寧な一礼が返ってきた。
アンドウは愛車の鍵を外しながら、石柱の店名をふたたび眺め、
「『喫茶EC』って、えにぐまこーひー? マジでなんなんだよ、あのコーヒー」
味に関しては非の打ちどころがない商品に、言い表しようのない怒りを覚えた。
しかし本屋が存在しない町では、ああいった空間を求める者は多そうだ。問題は、暇すぎず忙しすぎず――集客だろう。
「是非リピートしたい、かな」
そうして隠れた名店に☆5評価をつけ、自宅で待っている段ボールの山に怯えながら、帰路につくのだった。今はまだエニグマティックだが、本屋の需要がなくなった町にもたれて生きるのも、存外悪くないと思い。
了
えにぐま・ぶれんど 常陸乃ひかる @consan123
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