最終章3話 雄大なる河のほとりで
死んだような暗灰色の水面が地平線まで広がっていた。
膝丈までの水を蹴散らしながら、アスターは走っていた。濡れた衣服が冷たくまとわりついて体温を奪っていく。その水の中から亡者どもがどこからともなく現れ、次々と襲ってきた。
舌打ちした。キリがなかった。……いつも葬送部隊で援護してくれるルリアはいない。そのことが一層、焦りを掻き立てた。
ここは、どこだ。
ルリアとクロードは……。
部隊のみんなは……。
そこまで考えて、冷たい思考にぞっとする。
──……誰が、自分を殺したのか。
(…………っ!!)
……ずっと、そばにいたのに。
何もわかってなかった。
クロードの痛みも、悲しみも。
──何も知らずに、守った気になって。
取り返しのつかなくなってから、喪ったものの大きさに気付いた……。
アスターの迷いに反応したかのように──
亡者どもが四方から取りついた。
信じられないような怪力で、四肢にからみついてくる。腐ってウジの湧いた手足で、アスターを拘束した。
──動けない。
(……っ! ……くそっ!)
河の水深が増した──
こっちへおいで、と落ちくぼんだ暗い
おまえも、こちらへおいで……。
生を渇望する魂たちが、同胞を迎える歓喜に打ち震えているのを見て、アスターはぞっと凍り付いた。
『やめろ……っ。俺はおまえたちの仲間にはならない!』
必死にあらがう
亡者の眼窩が告げていた。
──……なぜあらがう?
──おまえにはもう、守るべき者は、誰もいないのに。
『違う! 俺は戻らなくちゃいけないんだ! あいつと、もう一度話すんだ……!』
──生きていてさえ、おまえは気付けなかった。
──大切だとうそぶきながら友の痛みに目をつぶった。
──これは、おまえ自身の負うべき
──おのれの罪から逃れることはできない……。
『やめ……ろっ! 俺は……!』
膝丈までだったはずの河の水深が、見る見るうちにどんどん深くなって。亡者どもに引きずり込まれて、水面に沈んでいく。
思考が、
……やめろ。俺は、まだ……──
あいつと、話を……。
…………。
…………──
つかんでいた最後の意識が、沈んで。消えていくばかりだったアスターのもとに、白く
その輝きにおののいて、亡者どもが「
不意に、アスターは腕をつかまれ、水面の上に引き上げられた。亡者どもの腐った手足ではない──白くて
水面に引き上げたアスターを見て、彼女は泣き笑うように目元をなごませた。
『……ルリ、ア……?』
『よかった、間に合って……。こっちよ、アスター』
手を引かれるがまま走り出す。
いつの間にか、水深が膝丈辺りに戻っていた。ルリアのまとう光におびえているのか、遠巻きに見ている亡者どもが追ってくる気配はない。
『どういうことだ。ここはいったい……!』
『
『クロードはどうなった? なんでおまえまでここに……』
『…………』
ルリアは押し黙った。ちらりと、黄昏色の微笑みだけをよこして。
……不思議だった。飛ぶように走っているはずなのに、なぜかその背中に追いつけなかった。ただ手を引かれるばかりで。
それが魂だけの存在となっているせいだと、アスターは気付かない。
──やがて遠くに、ほのかに光り輝くものが見えた。
真っ白な扉だった。
壁も何もないのに、河の水面に立っている。
その扉を開けて、ルリアは、アスターをその向こう側に押しやった。
『このまま、まっすぐ進んで。振り返らないで。──さぁ、行って』
『ああ。ルリアも早く……!』
扉の向こう──忘却の河につかったまま、ルリアはかぶりを振った。
『私はこっちに留まって〈死者の門〉を閉める。あっちの世界に、これ以上、亡者たちを行かせるわけにはいかないの』
『!? 何、言って……!』
気付けば、扉が徐々に遠ざかっていた。
アスター自身の魂が現世に引きずられているのだ。
その引力にあらがって、アスターは、必死に扉に近付こうとした。
「待て……! ルリア、逝くな!!」
閉まりかけた扉の向こうで、ルリアは静かに立っていた。その輝きが徐々に弱まっていく。
亡者が一体、また一体と彼女にとりついた。
ルリアは亡者どもに群がられながら、あきらめたように笑った。
──クロードのこと、お願い……。
『ルリア……!!』
がむしゃらに扉に戻ろうとした──その肩を誰かがつかんで止めた。
『……!?』
(…………誰だ)
十六、七の少女だった。闇よりもなお濃く深い
『……いけません。本来、生者と死者が交わることはゆるされない』
『放せ! 俺はルリアのところに……っ』
少女は哀切のこもった眼差しで眉をひそめて、黒
それほど強い力ではなかった。……なのに。
『──!?』
ルリアをのみ込んで閉まった扉が──その前にいる黒髪の少女が、見る見るうちに遠ざかった。
すさまじい力で現世へと引っ張られていく──あるべき世界へ。
──生者と死者の境界にある、忘却の河の守護者。
絶叫がほとばしった。
『逝くな……! ルリアァァァァ!!』
伸ばした手に何もつかめないまま……。
次元の渦に、なすすべもなくのみ込まれて──
最後の意識が、砕けていった。
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