第5章8話 迷子の亡霊
夜のとばりが降りて静まりかえった街路を、アスターは歩いていた。ずるずると、自分の棺桶を引きずっているかのように。
そうしていると、自分が本当に亡者にでもなったかのような気がしてくる。どこかから来てどこへ逝くのかも忘れ果てた、憐れな魂のなれの果て。
ひどく喉が渇いていた。
最後に水を飲んだのは、いつだっただろう。
……メルはちゃんと食事してるだろうか。
自分がいなくても──
そこまで考えて、自嘲に唇をゆがめた。
どの口が、心配などといえる?
一言も告げることなく置き去りにした。心配するなとか、待っていろとか。いくらでも伝えられたはずだった。
それよりも、クロードの隣にいることを選んだ。……なのに、それすらも中途半端で。
メルの気持ちもクロードの気持ちも、踏みにじった。
自分の都合のいいときにだけ彼らのそばにいて、勝手に、守っているつもりになった。自分勝手な主義主張を押しつけて、彼らの弱さに付け込んで甘えた。
──その結果がこれだった。
クロードの宿にもメルのいるはずの宿にも戻れず町をさまよって、気付けば大きな石造りの建物の前にいた──商人ギルドの商館。
昼間は商人たちの会合や商談でそこそこにぎわっているが、今はひとけがなく静まりかえっている。
(…………)
鍵がかかっているかと思って扉に手をかけたら……──開いた。少しだけ迷って、中に入った。
待合を兼ねているロビーは
奥の事務室から
事務室の
「……パルメラ?」
「! アスター……!」
椅子を蹴倒す勢いで、パルメラが必死の面持ちで駆けてくる。心配で泣きそうな顔で駆け寄った──
パン、という乾いた音が室内の静寂を打った。
頬のじんとした痛みで、アスターは自分がぶたれたことを知った。
「アスター。あんた、どのツラさげて帰ってきた! どんだけ心配して捜し回ったと思ってんねん! メルちゃん置いてけぼりにして……見損なったで!」
化粧でごまかしていただろう、数日前に比べてやつれた目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。……メルたちの前ではけっして見せなかった
「自分が大事にすべきもんはき違えんな! あんたは過去に生きてるんやない。今、生きてるんや! 目の前にあるもんも見えんで何が『保護者』や! 何が『見守る』や! そんなんで誰かを守れると思うな、このくそったれ剣術バカ野郎!」
「…………悪い」
パルメラに頬を張られた痛みで、夢うつつにさまよっていたのが現実に帰ってくるみたいだった。
雲の上を歩くようにおぼつかなかった地面に、しっかりと足がついていく感覚がする。
……自分がまだこの世界にいたことに、気付かされる。
パルメラがくしゃりと顔をゆがめた。
「しっかりしなよ。そんな
アスターは目を見開いた。
パルメラの叫びに、クロードやルリアではない過去の声が重なって。
『なんであんなムチャな戦い方するの!』
カルドラの町に向かう途中、亡者との戦いに身ひとつで突っ込んできたメル。
あのときは、なんて無謀なんだろうと思った。
戦うすべももたず、魂送りさえできず、ただアスターを止めるために走ってきた。あの場で亡者に殺されて死んだとしても、全然おかしくなかった。
ひとりで亡者と戦うな、と。
いつか死ぬぞと言われて。
……死んだらそれまでだと、冷めた想いで聞いていた。
生きるのも死ぬのも、何も変わらないように思えて。
いつかどこかで、亡者と戦ってのたれ死ぬんだと思っていた。
それも仕方ないと、投げやりに過ごしてきた。
でも、あの意味は……。
もしかしたら本当は──
「…………。……悪い」
「言っとくけど、謝る相手がちゃうで」
「わかってる。でも……」
うなだれたまま口ごもったアスターに、パルメラはやっと
……アスターが、わざとぶたれたのが、わかっていたから。
面と向かったパルメラの平手を、アスターがよけられないわけがない。
でも、アスター自身、誰かに罰してもらいたいような途方に暮れた顔をしていた。叱られるのがわかっていて、家に帰れない子どものような……。
クロードでもメルでもない。本人は無自覚でも、自分を叱ってもらえる相手のところに来たのが、わかったから。他ならない自分をその相手に選んでくれたのが、わかってしまった。
(……いい大人がでかい図体して世話の焼ける……)
──それでも、自分のところに帰ってきてくれたから。
パルメラは、まぁいいか、と思ったのだ。
こいつだったら叱ってやってもいい。憎まれ役だって何だって引き受けてやる。夢うつつでさまよっているなら、引っぱたいてでも目を覚まさせてやる。
亡者に滅ぼされたノワール王国に、迎えにいったときのように。何度でも。
そのために自分がいるんだから……。
「……。……メルは、どうしてる?」
「ピエールと一緒にあんたを捜しにいって、まだ外。もうすぐ宿の支払いが切れるから、焦って遅くまで捜してるんやと思う。……ったく。全っ部、あんたのせいやからね。メルちゃんに会ったら、特大雷は覚悟しなよ」
特大雷どころか、今度こそしがみついて離れなくなりそうだった。
そういえば……、とアスターは思う。カルドラの町に向かう途上、亡者と戦っていた自分が半日戻ってこなかったあと、似たようなことになっていた。
(今度は何日、ひっつかれるんだか……)
先が思いやられるな、という想いが浮かんで。……心が少し軽くなっていた。
ここ数日感じることのなかった安らぎに戸惑った。まるで冬の寒い戸外から、暖炉の燃える暖かな室内に踏み入れたかのようだった。
──帰ってきた……。
クロードといるときには、少しも感じなかったぬくもり。……そのことがひどくさびしかった。
ノワール王国で過ごしたクロードとの月日が、今度こそ過去のものになってしまったことを知って。
けれど、そのことを認めてしまうには、まだあまりにもクロードのことを知らないのだった。
──クロードの
初めて、そう思った。
そうすれば、まだわかりあえるのかもしれなかった。
旅の途中、メルがアスターにぶつかってきたように。
パルメラが叱ってくれたように。
お互いの想いを知らなければ、わかりあうことさえできない。
アスターは顔をあげた。どこか清々とした気持ちで。
「メルのこと、迎えにいってくる。ここに戻ってくるならその辺にいるかもしれない」
「……。あのな、迎えにいって、そのままトンズラとかはナシやで? うちがメルちゃんに合わせる顔がないわ」
「──帰ってくる」
きっぱりと言ったアスターにパルメラが目をみはった。
「もう約束は
「……。信じるわ。あんたがそういう顔してるときは、絶対や。うちの商人としての勘がそう言ってる」
パルメラは微笑んだ。涙でうるんだ瞳をなごませて。
アスターも目元をやわらげた。
「行ってくる」
「……ん。気をつけて」
パルメラと別れて商館を出ていこうとした──そのときだった。
玄関の扉が乱暴に開かれて、少年がひとり、飛び込んできた。メルと一緒に出かけたはずの商人見習いの少年──ピエール。
「!?」
「ピエール? あんた、どないしたん?」
「……う……」
ピエールは、頭の傷から血を流しているのもかまわずに、血相を変えて叫んだ。
「パルメラさん、大変だ! メルが……さらわれた!」
「何やて!?」
アスターは、不吉な予感にさっと青ざめた。
──彼女が今は君の、大事な大事な相棒ってわけだ……。
昼間に別れたクロードの苦々しげな言葉が、まがまがしい不協和音となって胸に響いていた。
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