第5章6話 見えない断崖

 奴隷商のゴードン・バルキーズ子爵の屋敷を出てから、アスターとクロードは無言で通りを歩いた。


 クロードは早足で、アスターの歩みを待たずに歩いていく。


 ……否、自分の足取りが重くなっているのだ。足に鋼鉄の枷でもついているような気がした。


 それにしても……、とアスターは思う。


 ノワール王国にいた頃は、あんなに口が回るヤツじゃなかった。国王や貴族、臣下たちに囲まれて、いつも縮こまっているような印象だったのに。


 クロードに助けられている自分が、まるっきり無力な世間知らずに思えて、気が滅入った。



「……クロード、悪い」


「ん?」


「あいつと何か話があったんだろ。俺が台無しにした」



 クロードは何も言わずに肩をすくめた。気にするな、というふうにも、仕方ない、というふうにも思える。ブーツのつま先に蹴っ飛ばされた石ころが街路を転がっていく。素知らぬ顔で。



「こっちも、アスターの性格忘れてたよ。昔っから、顔に似合わず喧嘩っ早いんだから……」



 そういえば、昔はよく他の貴族のお坊ちゃんたち相手に反論して、数にもの言わせて袋だたきにされてたよね……なんて、ため息混じりに言う。


 アスターは、むっと眉根を寄せた。

 亡者相手に戦場を駆ければ負けなしなのに、クロードの前では下手を打つ。



「さっき、怒ってたでしょ。すごく。剣の柄に手をかけないかヒヤヒヤしたよ……」


「なぁ、クロード。なんであんなヤツらと付き合う?」


「バルキーズ子爵のこと? 付き合って損にならない相手だよ。ルリアの父君のエインズワース公爵とも縁があったんだから」



 ──付き合って


 目の前にいる青年が、急に知らない人間に見えた。

 いつからこいつは、付き合う人間を損得で決めるようになったんだろう?


 自分はクロードにとって何なんだろう……?



「……あの、奴隷たちを見ても?」


「あぁ……。見てて気持ちよくはないけど。でも、ここはノワールじゃないんだ。奴隷っていう存在がいても仕方ないんだって受け入れないと──先に進めない」



 言って、クロードはどんどん歩いていく。仕立てのいいウエストコートがひるがえり、銀の髪がさらさらと揺れる……アスターを置き去るかのように。


 ショックだったのは……奴隷たちの扱いを見たから、だけではない。他の国が滅びては、人知れず泣いていたクロードが、奴隷たちを見て平然としていたからだ。


 ノワール王国にいた頃のクロードとは、何かが違った。


 貴族の商人たちの元に通い、縁を作り、迎合して作り笑いを浮かべる。ノワール再建という目的のためなら手段を選ばない。

 ……そんな幼なじみを、これ以上見ていたくはなかった。


 我知らず握った拳が、震えて。



「仕方がないって、なんだ。弱い者を切り捨てて、強いヤツにこびへつらって。こんなの、全然、おまえらしくもない!」


「──じゃあ、訊くけど。僕らしいって、何だ?」



 クロードが言った。冷えた声音だった。振り返った碧の瞳が、アスターの知らない光を帯びて。自嘲に唇をゆがめた。



「貴族どもに陰口たたかれても反論もせずに、亡者におびえて窓辺でべしょべしょ泣いてるのが僕らしさなのか? 君たちだけに戦いを押しつけて、自分は安全な城に引きこもってよしよしお守りされてろっていうのか?」


「……っ。違──」


「この二年間、僕がどんな思いをしてきたかわかるか? 国を喪って、安穏と生きてきたとでも? くだらん貴族どもの靴をなめて、泥水をすするような思いをしていないとでも?」


「クロード、俺は……」


「口先だけの協力なら願い下げだ。君のくだらない幻想を僕に押しつけるな!」



 クロードの言葉のひとつひとつが、アスターの心を切り刻んで。自分の中で、時が止まっていたことに気付かされる。


 アスターが止まっている間にも、クロードの時は動いていて。


 気が付けば、見えない断崖で取り返しのつかないほど隔たっている──どうやって飛び越えたらいいか、わからないほどに。


 手を伸ばしても、届かないぐらい、遠くて。

 そのくせ、つなぎとめる言葉も見つからない。



「…………っ」



 黙り込んだ沈黙は、愚かな敗北宣言にも似て。

 クロードの言ったことに、言い訳することすらできなくて。

 そんな自分を、相手が冷めた目で見ていた。



「……さっき、バルキーズ子爵の屋敷で怒ったの、さ。ただ奴隷を見てショック受けたってわけじゃないでしょ。グリモアに来たばっかりならともかく、奴隷を見たのが初めてってわけじゃあるまいし。──廃鉱のときに魂送りしてくれた女の子のため……だよね」



 ──あの子、何なの。


 そう問うたクロードの声は、ひどくそっけない。

 それとも、自分の後ろめたさがそう感じさせるのだろうか……?



「あいつは……──わけあって、一緒に旅してる」


「彼女が今は君の、大事な大事な相棒パートナーってわけだ」


「別に、相棒ってわけじゃ……」



 言い訳じみた言い方になって、嫌気が差す。


 最初は、たまたま亡者から助けて拾っただけの関係だった。

 それがいつからか、喪いがたくなった。

 メルが自分の道を見つけるまで、見守りたいと思った。


 ……なのに、今は、宿に置き去りにしたまま。

 クロードと一緒に、こんなところにいる。


 急に足元がおぼつかなくなって。

 踏みしめていたはずの地面が、ゆわんと揺れた。

 自分の足で、本当に立っているのかもわからなくなる。


 亡者と戦っているときのように、自分がどこにいるのかもわからなくなって。


 目の前の景色が、現実なのか幻想ゆめなのかもあいまいで。何のために、ここにいるのかも、あやふやになる。


 クロードの瞳が、不意に、切々とした悲しみを帯びた。



「……ねぇ、アスター。?」



 クロードが、静かに問うた。

 銀の髪が、風になびいて揺れて。彼が、二年前の惨劇をひとときも忘れていないことを暗黙のうちに告げた。



「……忘れるわけがない。最期は亡者に群がられて、死んだ。俺は、ただ、見てることしかできなかった……」



 それが、ノワール王国の誇った純白の戦乙女──ルリア・エインズワースの最期。


 アスターにとって、忘れられない悪夢。

 忘れてはならない罪の十字架じゅうじか


 チュニックの下──胸元の十字架ロザリオを、無意識のうちに握りしめた。その様子を見てとって、…………そう、とクロードがつぶやいた。

 今度こそ、アスターに背を向けて、歩き出す。


 アスターは……──

 追いかけなかった。

 その資格が、自分にないことを悟って。


 だから、背を向けたクロードが、どんな顔をしていたのかも、知らない。



「君は、本当に、何もかも忘れてしまったんだね……」



 ぽつりとしたクロードのつぶやきは、風にさらわれて、アスターの耳には届かなかった。



  ☆☆



 アスターと別れて──


 通りを歩いていたクロードに、路地裏から声がかかった。暗がりによくなじんだ、ハスキーな女の声。


 姿を現したのは、若い女だった。


 フード付きのローブの下から、南方の民族を思わせる褐色の肌がのぞいている。ショートカットの耳元に、大ぶりのピアス。理知的な顔立ちは冷めて、表情というものを感じさせない。



「……エマか」


「クロード様。『彼』の様子は……?」



 クロードは、黄昏色の笑みを広げた。……予想していたことなのに、胸にぽっかりと穴が開いたようだった。



「思った通りだっだよ。廃鉱で会ったときからもしかしてと思ってたけど……



 ──覚えていたのなら。


 クロードと再会して喜ぶはずがない。

 二年間も行方を捜し回るはずがない。


 相棒だったルリアのことを忘れて──

 あんなふうに、新しい相棒を迎えられるはずがなかった。


 本当に、何もかも、忘れて、旅して……。

 未練を残して現世をさまよう、憐れな亡者のように。



「アスター。たとえ君が忘れてしまっても、僕はけっして君をゆるさない……」



 苦み走った呪詛じゅその言葉を吐いて、エマとともに、夕闇の迫る路地裏に入っていった。

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