第4章12話 助ける理由
三人で馬を走らせて、その日の夕方には先行していた隊商と合流した。
雇い主が無事に戻って、護衛たちもほっと胸を撫で下ろした。──が。
「──え? ご主人様が私にサインさせるの、黙って見てたんですか?」
真相を明かされたメルは呆気にとられた。
証文と知らずにサインしたのは、ザイスとふたりきりで談話室にいたときだ。それをまさかアスターが扉の向こうから盗み見ていたとは。
メルやパルメラと一緒に夕食のたき火を囲んでいたアスターが、憮然とした。
「……言っとくけど、わざと見たんじゃないからな。メシ食いにいこうとしたら、ドアのすき間からたまたま見えたんだ」
どこかで聞いた言い訳に、そばで聞いていたパルメラがぷっと吹き出してゲラゲラ笑った。
「──けど、証文だって気付かずにうかうか署名してるおまえも、おまえだ。だから、必要最低限の読み書きは学んでおけって言ったんだ」
「……うぅ」
それで
「そうそう。これ、どうする? 一応、ザイスからくすねといたけど」
「あ、それ。ご主人様がもってた証文!」
「パルメラ、手癖悪いな……。商人の名が泣くぞ」
「甘いわねー、アスターくん。これも処世術のうちってね。おきれいなだけじゃあ商売なんてやってられへんのよー。で、どうしよっか?」
「……好きにしろ」
「はいはーい」
陽気に言って、たき火の炎に
昼間に見た光の球を思い出して、じーんと感じ入ったメルだったのだが。感銘は、アスターの一言で見事にかき消された。
「これに懲りたら、明日から、また書き取りの練習な」
「えぇーっ?」
「──って。おまえ、まだ言うか」
「だって……」
メルは視線を泳がせた。
本人の
「……アスター、教えるの、ド下手くそなんだもんっ」
──グサリ。
何かがアスターを射抜いた……気がした。
パルメラが腹を抱えて爆笑している。
「あっはっは。しょーもないなぁ。リビドに着くまではうちが教えたるで。なぁ?」
「……勝手にしろ」
やけくそ気味なアスターにパルメラが麦酒を勧めて、嫌がったアスターが逃げ回る。酔ってたら亡者と戦えない……とかなんとか。
本当は飲めないんじゃないかと、メルもパルメラも秘かに思っている。
真相は今のところ、闇の中だ。
屋根のあった山小屋とは違って、山道の途中での野営では、冷気がひそやかに忍び寄ってくる。
それでも、アスターやパルメラと話していると、肌寒さもそれほど気にならなかった。ほっとしたからか、とろんとした眠気が襲ってくる。
メルにもたれかかられたアスターは、ちょっと眉をひそめた。
「……メル。寝るなら、馬車の中に入れ」
「……ん……」
「……?」
メルの飲んでいたカップを取り上げて、アスターは鼻を利かせた。
この臭いは……。
パルメラを見ると、ニヤニヤと笑っている。
「アスター、連れてってあげなよ。ずっとろくに眠れんで疲れたんやろ?」
「い、いいです。自分で行けます……あれ?」
メルは、慌てて立ち去ろうとした。ふわりと、足元がおぼつかない。
どうしたんだろう? でも、なんだかいい気分……。
「あれ? あれれ?」
馬車に向かってふらふらと歩いているうちに、本当に、ふわりと浮き上がった。見かねたアスターがメルを横抱きにもち上げていた。
「ア、アスター!? 大丈夫れすから……」
「何が大丈夫だ。……ちょっと、こいつ送ってくる」
「はいはーい。おふたりさん、気を付けてー」
アスターが苦み走ってパルメラをにらんだ……のは気のせいだろうか。
そばで飲んでいた他の護衛たちが、ヒューヒューと口笛を吹いたのも
メルは夢見心地で、アスターの腕の中に収まった。なんだか、初めて会ったときに助けられて以来だなぁ、とのんきに思いながら。
チュニック越しの、アスターの鼓動の音に耳を澄ませた。温かい……。
誰もいない幌馬車の中に横たえられる。
離れていく体温が心細くて、無意識のうちに、指がアスターのそでをつかんだ。
ぼんやりと目を開けると、幌馬車の天井と、アスターの顔が見えた。
「…………どうした」
「……本当に、置いてかれたかと思った……」
ぽつりと、言った。今のことではなかった。
山小屋にひとりで取り残されたこと……。
でも、置いていかれても仕方なかった。
アスターの言うことに、耳を貸さなかった。自分の見たい
「なんで戻ってきたの。私、こんなにどうしようもないのに。間違ってばっかりで、アスターにもひどいこと言った。助けてもらう資格なんかない……」
気がゆるんだのか、熱い涙が後から後からこぼれて目尻を濡らしていった。鼻の奥がツンと痛んだ。
……アスターに見捨てられたとしても仕方ない。それだけのことを、メルはした。……なのに。
「……なんで私なんかを助けるんだよぉ……!」
たまらず、両手で顔を覆った。
今なら、わかる。メルが魂送りできるから、アスターが一緒にいるわけではないこと。
……だからこそ、わからない。
赤の他人だ。助ける義理なんかない。
メルのことなんか、アスターはいつでも見捨てられるのだ。
もしかしたら、荒野の中、メルを置き去ったザイスよりも簡単に……。なのに。
「……うるさい」
「あぅっ!?」
アスターのデコピンが飛んできて、メルの意識は一瞬で覚醒した。……地味に痛い。
「死ぬこともできないヤツがギャーギャー騒ぐな」
「なっ!? ア、アスターこそ死に急ぎのくせに……!」
「ほぅ。相変わらず助けてもらっておいていい度胸だな」
次のデコピンに備えて、メルはびくりと身を硬くした。その様子を見て、アスターが嘆息する。……少しは成長したかと思えば。
「最初に会ったとき、亡者に襲われながら、おまえ叫んでただろ」
「へ?」
何を言ったっけ? 記憶がもうあやふやだった。無我夢中すぎて、よく覚えてない……。
「えっと……なんだっけ。『逃げて』だっけ。それとも『私のことは置いてって』とか、そういうこと? でも、あのときは──」
「──『助けて』」
アスターが言った。その言葉に、メルは息をのんだ。
「あ……あれ? 私、言ってた?」
全然、覚えてない……!
アスターも回想した。
守るべき者たちもなく。
家族も友達も、愛する者たちも、すべて喪って。
ただひとり捜した主君の生存すらも信じられなくなっていって。
戦う理由も、生きている実感も喪い果てていた──あのとき。
戦って。戦って。戦って。戦ッテ。亡者ヲ斬って。殺シテ。なぶっテ。壊シテ。
『 』
──…………声が、聞こえたのだ。
その声が、アスターを、戦いの狂乱から呼び覚ました。
現実に、繋ぎ止めてくれた。
助けられたのは、アスターもまた、同じだった。
助けて、が「生きたい」に聞こえたから。
声の方に、ひた駆けたのだ。
「……だからおまえ、まだ、生きてんだよ」
ひぇっ……と、消え入りそうに、メルが悲鳴をあげた。
その様子に、アスターは目元を緩ませる。
あの声がなかったら、アスター自身、どうなっていたかわからない……。
「──さぁ、もう寝ろ。今度は寝てる間に置いていきやしないから」
「……あの、」
「うん?」
「眠るまで、そばに、いてもらってもいいですか……?」
アスターは、意外に思った。
普段なら、こんな頼み事をするメルではない。野生の小動物が、びくびくと近寄ってくるのにも似ていた。心細そうなうるんだ目元に、そっと手を重ねた。
「……あぁ。そばにいる」
不機嫌さのぬぐわれた、温かな言葉に安心して。
メルは、とろりとした甘い眠りに落ちていった。
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