第4章13話 幸福の温度
メルが規則的な寝息を立て始めた頃──
幌馬車の入り口に、カンテラの明かりに照らされて一人分の影が差した──貂の毛皮の縁取りの
ルージュを引いた唇で
「……寝た?」
「あぁ。……パルメラ、悪ふざけが過ぎないか?」
「あはは。バレた?」
メルを酔っ払わせた張本人は、悪びれもせずに舌を出した。
「こんぐらいせんと、素直になりそうにないからなー。ふたりとも」
メルと一緒くたにされて、憮然とする。隣で丸くなって眠っているメルに、パルメラが毛布をかけた。
「はぁー、幸せそうな寝顔やなぁ。ふふっ。こうしてると、メルちゃんもまだまだ子どもっぽいね」
「そうか? 子どもっぽいのはいつもだろ」
「あんたに対してはね」
気付いてないの? とパルメラが茶化す。
アスターはますます眉根を寄せた。
「……。ヒナの刷り込みみたいなもんだろ」
「またまた。そんなこと言ってるから、メルちゃんが置いてかれるって不安になるんやないの。素直にかわいいって言えばええのに」
「……」
かわいい……?
アスターは、眠っているメルをしげしげと見た。あまりなつかない小動物のようだなと思うことはある。
「……あぁ。なつかない猫みたいだよな。手出すとすぐ逃げるところとか」
「……。……あんたに言ったうちがアホやったわ」
なぜか、あきれたような深いため息が返ってきた。
「──ところで、さ。さっきのメルちゃんのは焼いたけど、こっちの証文はどうする?」
パルメラが差し出したのは、先ほどと同じような証書だった。
違うのは、日付が二年前になっていること。そして、署名した人物の名前。
パルメラが文面を読み上げた。
「『我、アスター・バルトワルドは、パルメラ・ロギオが助けを請うときには、いかなる場合においても無条件で、最大限の助力をすることを誓う』」
「……」
アスターは目をすがめた。
二年前に署名したのは、他ならぬアスター自身の意志──それを破棄したければ、そうしてもよいと言っているのだ。
そう切り出すのは、パルメラ自身、負い目があるからだろう。ノワール王国が滅亡し、すべてを喪ったアスターの弱みに付け込んだ契約だという自覚が。
アスターがそう言えば、パルメラはためらいなく、証文をカンテラの炎に焼べるだろう。その瞬間、アスターが無償で護衛をする義務もなくなる。
アスターはしばし、証文を見つめた。それをもつ女の、いつになく真剣な顔も。
──そして、言った。
「預けておく。ノワール王国が滅びたとき、一番に駆けつけてくれたのはおまえだ。その恩を忘れるつもりはない」
パルメラは、きょとんとした顔をした。てっきり契約を破棄されると思っていた、というふうに。……けれど、アスターにも、今はパルメラの真意がわかっている。
ノワール王国が滅びたとき、まだ亡者の危険のある王国の首都に、パルメラがどれほどのリスクを負って駆けつけてくれたか。……ただの打算であるわけがない。
友人でしかないアスターの安否を、真剣に気遣ってくれたのも。
そして──
契約書にサインさせたのも、その方が、アスターが負い目に感じずに済むからだ。
友としての約束ではなく、商人としての対等な契約なのだと。そう形付けることで、アスターを助ける理由を作った。
……そのことが、メルを助けた今なら、よくわかる。
パルメラは、嬉しそうに目元をなごませた。
「ふふっ。相変わらずいい男。約束を違えない男は好きやで」
──でも、その優しさが、いつかあんたを追い詰める
そんなことをぽつりとつぶやいて、パルメラは身軽に馬車から降りた。証文を大事そうに懐にしまって、ひらひらと手を振った。
「じゃあね。酔いがさめたから飲み直すわ。ほな、おやすみー」
「……」
アスターは内心、首をかしげた。
前から時々、読めないヤツではあったが……。
「……う……ん……」
不明瞭に言って、かたわらのメルが寝返りを打った。ムニャムニャと何かつぶやいている。すっかり安心しきった様子に、アスターは口元をゆるませた。
「──ったく。置いてかれそうになったばっかだっつーのに。幸せそうなヤツだな……」
正体なく眠りこけているメルを見ながら、ふと、アスターはメルに言ったことを思い出した。置いていかないから、安心して眠れと言ったこと。
でも──
(──もし、こいつの幸せなら……)
黙って身を引こうと思っていたことも、嘘じゃない。
ザイスの対応次第では、メルを置いていくことだって十分ありえた。今はかわいそうでも、それが彼女の幸せなら、そうすべきだと思ったのも。
たとえそれが、メル自身の意志ではなかったとしても……。
「──は。偽善だな」
自嘲に、唇をゆがめた。
父親代わりでもなく、主人でもない。
なら、この関係は何だ?
正直、自分のことで手一杯だ。
ヒナ鳥がぴぃぴぃ鳴いてても、腹を満たしてやることもできない。……そんな心の余裕なんか、どこにもない。
にもかかわらず、守ってやりたいと思うのは、本当は無責任なのかもしれない。
それでも、いつか彼女が自分の道を見つけるまでは、見守りたいと願ってる……。
(明日、自分が生きてるかどうかだって、わからないのに……)
でも、生きるというのは、そういうことなのかもしれなかった。
誰もが、また明日、朝を迎えると信じている。予定していた一日を過ごし、明日も同じベッドで眠れるという幻想にすがって生きている……本当は、そんな保障など、どこにもないのに。
(…………)
幌馬車の中、隣で丸まって眠るメルの寝息を聞きながら、アスターはそっとカンテラの明かりを吹き消した。肌に触れる暗闇の温度は、昨日よりも暖かく息づいている。
そうして、アスターもまた、眠りの中に落ちていった。
(四章・了)
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