第4章10話 嘘つき
ひそやかな足音が、メルの背後に立った。
茶色いベストを羽織り、ステッキを突いたふくよかな男と、背中に大剣を背負った褐色の肌の男。ザイスと、護衛のバヤンだった。泣いているメルに手を差し伸べながら、言う。
「……もう気は済んだかい?」
「……ご主人様……」
山小屋から飛び出したメルを追いかけてくれた、その手を取って、メルは立ち上がった。
少し離れたところに、ザイスたちが乗ってきた馬たちがいる。メルの足の鎖が断ち切られているのを見て、ザイスはまゆを寄せた。
「やれやれ。追いつくのに苦労したよ。こんなに速く走れるようになったんだね……悪い子だ。町に着いたら、足枷を新調しなければいけないな」
「……え……」
無意識のうちに、後ずさった。その背後に、バヤンがニヤニヤと歩み寄ると、メルを後ろ手に捕まえた。
「何するんですか。放して!」
「かわいくねーなぁ。これはもう一回、イチから調教し直さないと。ねぇ、ザイスの旦那?」
「こんな乱暴、ご主人様がゆるさないんだから……!」
「──まったくだ」
期待に顔を上げた──そのとき。痛みが爆ぜた。ザイスが手にしたステッキで、力任せに何度も、何度も打ってくる。
「ぐっ……!?」
「まったく悪い子だね、メル。いつからこんなに反抗的になったんだ? おまえが幼い頃から丹誠こめて育て上げてきたのは誰だと思ってる。えぇ?」
たたかれる痛みにうめきながら、信じられない思いで、目を見開いた。
昨日までのザイスと、何もかもが違った。メルをかわいがってくれた声も、文字を褒めてくれた微笑みも、どこにもない。のっぺりとした無表情で、目だけが底冷えにぎらついている。
メルは抵抗するすべもなくたたらを踏んだ。
バヤンがニヤニヤと後ろ手につかんでいて、倒れ込むことすらできない。
「あのアスターとかいうケツの青いガキのせいか? おまえをこんなふうにたぶらかすなんて始末に負えん」
「…………だった……で……」
「うん?」
「私が必要だって言ってくれたのは……嘘だったんですか?」
呆然と、言った。
絞り出した声は、凍えそうにかすれていて。
メルのことを必要だと、言ってくれた。ずっと捜していた、と。歌と踊りを見るのが楽しみなんだ、と。
そう言ってくれたザイスはどこにいったのだろう? いったい、どこに……?
メルの問いに、ザイスは一転、慈愛に満ちた表情で笑った。メルのおとがいに手をやり、ムリヤリ、顔を上向かせる。腐った息のかかりそうなほどの距離で、言った。
「──あぁ、必要だとも。おまえがいるから、私は亡者がはびこる世界で安心して旅していける。何のためにこの年までおまえを生かして育ててきたと思ってる。魂送りをするためだろう? 亡者どもの楯になって果てるのが、おまえのが
……足元の地面が、崩れる感覚がした。
実際には、バヤンにいましめられたまま、なすすべもなくうなだれただけだ。あまりの絶望に、涙も出てこない。壊れてひび割れた心が、目の前の現実に追いつかない。
それでも、頭の片隅で、どこか冷静な自分が言った。
わかってたことじゃないか──と。
目の前にいるのは、リゼルたちを死なせた男だ。荒野で自分を亡者どもの中に置き去りにした男だ。
捜していた、などと。おまえが必要だ、などと。今更言ったところで、改心するはずが……なかった。
それでも、もしかしたら……なんて。
メルがいなくなったことで、本当に変わってくれて。今度こそ、愛してくれるんじゃないかって。心を改めて、大切にしてくれるんじゃないかって。
これまで、どんなにひどい言葉を放ったとしても。どんなにむごい扱いを受けたとしても──
メルを育ててくれたのは、このザイスなのだ……。
「…………嘘つき」
「ん?」
メルは、ザイスをにらみつけた。
力の入らない手足で、精一杯の虚勢をこめて。
「嘘つき! 私、あなたのところになんか戻らない! この手を放して。私をアスターたちのところに行かせて。走ってでも追いかけるから! 今からでもまだ──」
みなまで言い終わらぬうちに、またザイスのこぶしが飛んできた。唇の端を切ったらしく、口の中に鉄の苦みが広がった。
「誰に向かって言ってる。往生際の悪いガキめ! 逃げてもムダだ。もう手遅れなんだよ──これを見ろ」
ザイスが取り出したのは、昨日、メルが書き取りをした紙だった。
「よく見てみろ。この証文にちゃんと書いてある。『我、メルはザイスと奴隷契約を締結する。ザイスが、メルの身体、精神、金品のすべてを所有することを承諾する』ってな! おまえの署名入りで契約してあるんだ。──おまえが口約束でどっちを選ぼうが、この証文がすべてを
「……!?」
メルが名前を書けるようになったことを喜んでくれた──あのやりとり。
メルは青くなった。ザイスの目を盗んでアスターのところに逃げ戻ろうと、他ならぬメルの署名入りの紙がそれを阻む。
……逃げられない。
この先、役に立つ──アスターの言ったことが、今更、脳裏に甦った。突っぱねたのはメル自身なのだった。
何度も何度も手を差し伸べてくれたのに……拒絶した。
アスターが決めてくれればいいと。他には、何も望まないからと。
ずっと、メルが立ち上がるのを待っててくれたのに。
後悔の涙で視界がにじんだ。今になって。もう、助けてくれるひとはいないのに……。
黙り込んだメルを前に、ザイスは勝ち誇った笑みを浮かべた。メルの頬を指ではさんで、こぼれた涙をぬぐった。
「……ふん。やっとわかったか。奴隷は身も心も主人のものだ。その証拠に、おまえは残った。おまえの意志で残ったんだ。それを忘れるな。──さぁ、小屋に戻るぞ、バヤン。その小娘を連れて後から来い。抵抗したら馬で引きずってもかまわん」
「へへっ。そりゃあ、見物だな、旦那。……なんか、さっきから変な臭いがしないか? 馬どもも騒がし……」
ひたっ……。
バヤンの足首を、背後から音もなく忍び寄っていた何かがつかんだ。
ウジの湧いたひんやりとした
「ひっ……ひぃぃぃ!」
バヤンが、身の毛もよだつおぞましさに悲鳴をあげた。
それでも、曲がりなりにもその道一筋の傭兵である。背中の大剣で斬り払えばまだ勝機はあったはずだった。が、直前にメルを両手でいましめていたことで初動が遅れた。もたついているうちに、身動きのとれなくなったバヤンに、第二、第三の亡者が取り付いた。
放り出されたメルは、ただ見ていることしかできなかった。
「た、助けてくれ! 旦那ぁ……!」
まるっきり、夢の中のアスターの再現だった。立ち尽くす男の血肉を引き裂き食い荒さんと、亡者どもが群がっていく。
ただ違うところは、バヤンが情けなく命乞いをしていることだった。血まみれになりながら、必死に手を伸ばしてくる。……恐ろしさに凍り付くメルに向かって。
アスターが亡者との戦いの中に突っ込んでいったときは、
──なのに、動けなかった。目の前に助けを求めている男がいながら、見ていることしかできない。
「ごめん……なさい」
涙を浮かべながら、吐息のようにつぶやいた。それが何の
──ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……!
震えながら謝っているメルの耳に、ゴキン、と耳障りな音が響いた。
亡者の怪力で、目の前の男の
「ひぃぃぃ!」
背後にいたザイスが悲鳴をあげた。それで半ば我に返った。
今、この場にいるのは自分とザイスしかいない。早く逃げないと……!
「──メル、魂送りをしろ!」
「!?」
ザイスが言った。唖然となった。
魂送りだけでは、亡者は倒せない──散々、アスターに聞かされてきた。何らかの方法で亡者を弱らせてからでなければ、亡者の魂は
「何をしている。その腰に差してる魂送りの杖はただの飾りか!? 何のために、役立たずなおまえを生かしてきたと思ってる! このときのためだろう!? 魂送りがおまえの
「……っ!」
──魂送りの、杖。
腰のベルトに差していたそれを、メルはまさぐった。優しい職人が手渡してくれたもの。聖女アウグスタの試練を経て成長した心の証。……アスターとの旅で手に入れたもの。
──たとえ、アスターがいなくなっても……。
「……」
力の入らなくなっていた足に、感覚が戻ってきた。
すっと立ち上がって魂送りの杖を構えたメルに、背後でザイスが引きつった
「ははははっ。いいぞ、メル! それでこそ私の自慢の『娘』だ。私の誇りだ! さぁ、私が逃げるまで時間を稼ぐんだ。おまえに意味を与えてやれるのは私だけだ! 私こそが、おまえの生きる意味──」
「──黙れ。あなたのためじゃない」
低く、言った。獣がうなるような声に、ザイスが
身も心も奴隷だったかつてと違って、魂送りでは亡者どもを葬送れないと知りながら。亡者どもと
向かってくる亡者は三体──間近に迫ったその迫力に震えながら、魂送りの杖は手放さない。
アスターなら、こんなとき、あきらめない。最期まで剣をふるうことを選ぶだろう。
メルは、アスターみたいに強くない。亡者と戦う力さえもたない。……それでも。
立ち向かう意志だけは、手放したくない。
最期まで、生きるために。
私が、私であるために……!
「私が戦うのは私のため! はじめから戦うことを投げ出したあなたなんかに指図されたりしない!」
亡者どもの
「──よく言った、メル」
「……え……?」
見慣れた剣の衝撃波が、メルに迫った亡者を吹き飛ばした。
驚きのあまり目を見開いたメルの眼前に、もう見るはずのなかった
最後の
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