第4章9話 青年の裏切り

 その夜、メルはまんじりともせず、ベッドの中で過ごした。


 つかの間訪れる浅い眠りにたゆたっていると、夢の中にザイスが、リゼルたちが現れた。


 ザイスが「生きててくれてよかった」と目元を潤ませる姿や、リゼルたちが「一緒に行こう!」と魂送りの練習に誘う姿が、ホタル火のように、代わる代わる現れては消えていく。


 メルは彼らを必死に追いかけた。



「待って、ご主人様。みんな……!」



 気が付けば、暗闇の中で、小さな光たちがふぅわりと舞っていた。その幻想的な景色の中に、メルも光になって飛び込んでいった。


 リゼルたちと、名もない仲間たちと歌って踊っていた。かつてあったような厳しい練習の悲壮感はなく、子どもたちの誰もが楽しそうにしている。

 その様子を、少し離れたところで、ザイスが微笑んで見ていた。


 幸せな夢。リゼルたちが生きてたら叶ったかもしれない──幻想ゆめ

 メルは嬉しくて泣きそうになりながら、ザイスの腕の中に飛び込んだ。



「ご主人様。私の踊り、見ててくれた?」


「あぁ、もちろんだとも。また魂送りをしておくれ。私にはおまえが必要なんだ」



 その言葉が嬉しくて目頭を熱くしたところへ、声が振ってきた。



「──じゃあ、もう俺がいなくても大丈夫だな」


「……え……」



 冷たい声音。冴え渡るようにまばゆい金色の髪。蒼氷の瞳が、冷徹に冷えて。



「やれやれ。やっかいなお荷物がいなくなって清々した。ずっと迷惑してたんだ。これで俺も心置きなく旅立てる」



 待って──と言おうとした、その声が、喉に貼り付いて出てこない。


 メルに背を向けたアスターの向かう先に、亡者たちがいた。

 地平線を埋め尽くすかのような大群なのに、アスターは気が付かないかのように平然と歩いて行く。……ぞっとした。


 待って、そっちに行っちゃダメ。

 行ったら、死んじゃう。

 アスターが死んじゃう……!



「待っ……──!」


「──何をうろたえてる。



 背を向けたまま、アスターが言う。

 その言葉が、真にメルを呪縛した。



「俺がどっかで亡者どもを相手に野垂れ死ぬのより、『ご主人様』の方を選んだんだ。昔の仲間たちが死ぬのを見殺しにしたのと同じことだ。全部、おまえが招いた結果だ」



 違う……とメルはかぶりを振った。

 こんなはずじゃなかった!

 アスターを見殺しにするつもりなんかなかった!


 駆け出そうとしているのに、足が動かない。鋼鉄の足枷が、いわおのように重くて。


 亡者たちが迫ってくる。アスターを目がけて。なのに、腰に帯びた剣を抜きもしない。……メルの目には、戦う前から、すべてをあきらめてしまったかのように見えた。


 アスターに亡者たちが群がり、血肉を切り裂こうとしているのを、ただ見ていることしかできない。


 全身、亡者どもに取り付かれながら、アスターが視線だけでメルを振り返った。平然と。彼自身が、痛みを感じない亡者にでもなってしまったかのように。

 血まみれになりながら、言った。



 ──よく見ておけ。俺が死ぬのはおまえのせいだ……!



「嫌ぁぁぁ……!」



 悲鳴をあげながら、メルは飛び起きた。

 全身がぶるぶると震えていた。自分の心臓の音がうるさい。

 夢と現実の境が、よくわからない。


 薄暗い部屋に目を凝らした──どこかの暗がりに亡者と、アスターがいる気がして。血まみれで、倒れ伏して。


 恐怖の余韻は、なかなか醒めない。


 暗いのは、日が昇っていないのではなくカーテンが閉まっているからだ。

 ふたり部屋に並んだ木のベッド。窓際の小さなデスクと椅子。脇に、備え付けの簡素な引き出し。必要最低限しかない、旅荷物にしては小ぶりなリュックとポシェット。


 ……頭の片隅をかすめた、かすかな違和感。


 夜は明けているのに、やけにひっそりと静まりかえっていた。隣のベッドで寝ているはずの、パルメラもいない。


 胸騒ぎがして、メルは引き出しを残らず開けた。立て付けの悪い引き出しが、不機嫌に抵抗しながら開く。……全部、カラ。総毛立った。


 弾かれたように、廊下に飛び出した。隣の男部屋の扉を、ノックもなしに開け放つ。

 無機質な静寂がメルを出迎えた。──誰もいない。



「アスター! ……パルメラさん!?」



 洗面所。談話室。裏手の厩舎。どこも無人だった。十人ほどいた護衛たちもいない。



「ご主人様! アスターたちは……!?」



 血相を変えたメルに、部屋から出てきたザイスは驚いた顔をした。



「アスター殿なら今朝方、出立したよ。……聞いてなかったのか?」


「嘘……! だって、約束じゃ今日の昼までって……」



 言いながら、全身の血が引いていった。

 昨日、自分はアスターに何て言った?



 ──そんなに『ご主人様』に飼われるのがいいなら、ずっとそうしてろ。


 ──言われなくてもそうするよっ!



 口の中がカラカラに渇いた。



「メル……? どうした──……おい。どこに行く!?」



 ザイスが止めるのも聞かずに、メルは山小屋から飛び出した。ぬかるみで泥がはねるのもかまわず、馬車のわだちを追いかけた。


 ……走ったところで、追いつけるわけがない。轍の泥は乾いて、数刻は経っていることを暗黙のうちに告げていた。


 メルの目から、とめどなく涙が流れた。


 置いてった! 私を置いてった!

 ──だから、嫌だったんだ!

 何かを選ぶってことは、別の何かを切り捨てるってことだ。後悔してでも進むってことだ。

 わかってる。決めなければ進めないこと。

 アスターとザイス──両方を選ぶことはできない。

 両方手に入ることなんかないってわかってたのに……!


 決めなければ進めないと知っていながら、ずるずると仮初めの幸せが続くことを祈ったのは、自分だった。


 命令してくれないことが怖かった。

 自由になることが、恐ろしくてたまらなかった。


 アスターがメルを手放したんじゃない。

 ……メルが、アスターの手を放したのだ。



「……あぅっ! ……っ!!」



 走っている間にほどけた鎖に足を取られて、メルはつんのめって転んだ。すりむいた膝が焼けるように痛い。


 でも──もっと痛いのは心だった。

 心がバラバラに砕けそうだった。

 メルは、アスターみたいに強くはなれない。

 不安定な「自由」なんか──いらない。

 ただそばにいられれば……よかった。

 ただ、それだけだったのに……!



「うぁぁぁ……っ!!」



 泣き崩れるメルの涙が、ぽたぽたと乾いた地面に吸い込まれていく。

 悲痛な慟哭が、曇天どんてんの下にもの悲しく響いていった。

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