第4章8話 選択の時

 どこからか山鳩やまばとの鳴き声がして、メルは雨がやんだのを知った。


 山小屋から一歩、外に出ると、濃密な緑の匂いに包まれた。雨上がりの澄んだ空気が肺を洗ってくれるようだ。雨露に濡れた木々の葉が宝石のようにきらめいて、世界の美しさに胸がとくんと高鳴る。


 ……こんなに満たされた気持ちは、久しぶりだった。不意に胸がいっぱいになって、涙が出そうになった。


 自分の死を悼んでくれるひとがいるということ。生きていていいと言ってくれること……それだけで、こんなにも世界が輝いて見える。


 つがいの蝶々が飛ぶのに誘われて、風に吹き飛ばされた落ち葉のクッションを踏みしめながら歩いていくと、厩舎に出た。

 昨夜は雨に濡れそぼっていたはずの馬たちは馬櫛ばぐしを当てられ、くつろいだようにまぐさをんでいる。

 奥に、ひとの気配があった。



「……アスター」


「どうした、こんなとこで」


「ちょっと、散歩。アスターが世話してたんですか?」


「一応、馬の扱いは慣れてるからな。……パルメラも人使いが荒い」



 憮然として言う。

 メルは思わず笑った。きものがとれたような吹っ切れた笑みに、アスターがかすかに目をみはるほどの軽やかさで。



「言ってくれれば手伝ったのに」


「別に。これぐらい、ひとりでも事足りる。それに──」


「?」



 言いさして、アスターは口をつぐんだ。ザイスとメルの語らいを邪魔してまで言いつけるようなことでもなかったのだと、言いかけて、やめた。



「──『ご主人様』とは、どうだ?」


「いろいろ話したよ。アスターと会ってからのこととか、試練の洞窟のこととか。ご主人様、ずっと私のこと捜しててくれたんだって」


「……そうか」



 無感動に言って、アスターは作業に戻った。

 年季の入ったモップは洗っても洗っても汚れがとれない。バケツの水はあっという間に黒く染まった。

 たぷたぷとした水音が、妙に間延びして聞こえた。何を言おうか、迷ってるような沈黙。お互いに。


 しばらくして、ためらいがちに切り出したのは、メルの方。



「──でもね。私、アスターについていってもいいよ。アスターがそう言ってくれるなら」


「……メル」


「だってアスター、放っとくと亡者の中に突っ込んでって危なっかしいんだもん。ご主人様には護衛のひとたちがいるけど、アスターには私しかいないでしょ。パルメラさんとは次の町でお別れだろうし──」


「メル。自分にとって大事な選択を妥協で考えるな。おまえは、どうしたい?」



 アスターの問いに、メルははっと口をつぐんだ。……痛いところを突かれた。


 アスターは、メルの方を見ない。



「別に、おまえの知らないところで俺がどっかで野垂れ死のうと、ザイスが護衛を雇う金に困ろうと、おまえ自身には関係ない。自分の選択を他人に委ねるな。……あとで後悔してからじゃ遅い」



 無意識に、唇を噛んだ。


 本当は、メルだってわかってる。楽な方を、選ぼうとしてること。……でも、それの何がいけない?

 何でも主人に決めてもらって生きてきた。それ以外の生き方なんか知らない。

 何かを選ぼうとすると、途端に頭が真っ白になる。自分がどこに立ってるのかもあやふやになって、うまく息ができなくなる。


 吐息が、凍り付いたように、落ちて。



「……アスターは強いからそんなこと言えるんだよ……」



 アスターが顔を上げた。けげんそうに。


 多分、アスターが正しいのだろう。彼は強い。剣の腕だけじゃなくて精神こころも。……強いから、決められないひとの気持ちがわからない。


 でも、何かを選ぶということは、何かを切り捨てるということなのだ。


 メルは神様じゃない。正解なんかわからない。

 アスターとザイス──どちらか一方を選んで、それが間違ってたら?

 そう思うと、一歩も動けなくなる。どちらかを選んだ未来が、怖くてたまらない。


 きっとアスターを選んでも、ザイスを選んでも、メルは後悔するのだろう。どちらかを選ばなかったことを。

 その重みを、受け止められるほど、自分は強くない。



「私が言ってほしいこと、全然言ってくれないし、ご主人様みたいに褒めてもくれない。魂送りするためについてきたのに、全然させてくれない。アスターが私をどうしたいのかわからない。私、アスターのことがわからない!」



 アスターが不穏に目を細めた。それだけで、メルは条件反射にびくっとする。

 けれど、いっそこぶしが飛んできた方が、まだ安心するだろう。感情の読めない蒼氷アイスブルーの瞳が、いつだってメルを不安にさせるのだ。

 アスターが何を考えてるかわからない……。そのことが、たまらなく怖い。


 何を期待されてるのか。

 何を必要とされてるのか。

 自分が何に役に立つのか。

 それさえわかれば、動けるのに。


 何も言ってくれない。

 何も命じてくれない。

 それじゃあ、意味がないじゃないか。


 期待されたいのに。

 必要とされたいのに。

 それが、存在理由に、なるから。……なのに。


 アスターは、自分で考えろって言う。

 自分で決めて、選べって言う。

 ……それがどんなに残酷なことかも知らないで。

 メルは、アスターみたいに強くはなれない。


 ふたりの視線が真っ向からぶつかった。どちらも、逸らすつもりのないことがわかった。めずらしく。

 アスターが声を荒らげた。



「……ああ、そうだな。俺もおまえが何考えてるのかわからない。そんなに『ご主人様』に飼われるのがいいなら、ずっとそうしてろ。主人のくれるエサに尻尾振って、仕込まれた芸をして喜ばせてればいい」



 メルはさっと青ざめた。怒りゆえだった。

 アスターのぶちまけたバケツの汚水が、黒い渦を巻いて排水溝に流れていく。汚いあぶくを浮かべながら。



「よかったじゃないか。『ご主人様』なら、おまえの望みを何でも叶えてくれる。読めもしない下手な字を褒めて、ああしろこうしろといつでも命令してくれる。それがおまえの幸せなら──」


「言われなくてもそうするよっ!」



 声を張り上げたメルに驚いて、馬たちがいなないた。それほどの勢いだった。

 アスターをにらみ上げたメルの目に涙がにじんだ。



「ご主人様はアスターとは違う! アスターみたいに意地悪じゃないし、私のこと、ちゃんと考えてくれるもん! ご主人様は私のこと、大事に思ってくれる! アスターみたいに無責任じゃない!」



 アスターの眼差しが険を帯びた。射抜かれて初めて、そこに的があったように気付いたかのように。



「責任なんか知るか。俺はおまえの主人なんかじゃない。どうせ亡者に襲われてるのを拾っただけの関係だ」


「私だって、あのときアスターに助けてほしいなんて言ってない! たまたま助けてくれたのがアスターだっただけだよ。私も、アスターがいなくてもやっていける!」



 心が違和感を覚えて悲鳴をあげっぱなしだった。なのに、口にする言葉は止まらない。視界が真っ赤に染まって、呼吸がどんどん浅くなっていく……止まらない。



「アスターなんか大っ嫌い!」



 言って、メルは厩舎から飛び出した。

 あんなに美しかった景色が、色あせて、死んだように静まりかえっている。その中を、メルはがむしゃらに駆けていった。


 アスターのバカ! もっと優しくしてくれたっていいのに! 引きとめてくれたっていいのに! アスターなんか、どっかで野垂れ死んじゃえばいいんだ……!


 熱い涙が、あとからあとからあふれた。

 あんなに幸せだったのに。全部、台無しだった。

 思考がぐるぐる渦巻いて……吐き気がする。



(……っ。……──!)



 濡れた倒木にすがりついて、メルは声をあげて泣き崩れた。



  ☆☆



 厩舎の陰に気配を感じて、アスターは目を向けた。……昨夜と同じように、褐色の肌の女が気まずそうに立っていた。



「アスター、あんたなぁ……。他にもっとマシな言い方あるやろ」


「……パルメラ。また、立ち聞きか」


「言っとくけど、今度はわざとやないで。嵐がやんだからこれからのこと相談せなあかんって思って来たら、たまたま聞こえたんや」



 ふてくされたように、パルメラが言う。メルが駆けてった方を見やってため息をついた。次いで、昔なじみの青年を気の毒そうに見た。



「まぁ、でも、あんたもちょっと頭冷やしな? 大事なことやし、何も今すぐ決めんでも……」


「──いや、今ので決めたよ」



 さっきまでと打って変わった、静かな声だった。決意を秘めた声音。



「明日の早朝、ここを発つ」



 ……昼までは待たないということの、その意味。

 パルメラは息をのんだ。



「ええの?」


「……ああ」


「……。そう……」



 去っていった少女に想いをせた。その両脚にはまった鋼鉄の足枷と、巻き付けた鎖を思った。

 でも、パルメラが選ぶ相手は、最初から決まっている。



「……わかった。みんなにも声かけとくわ」



 ──静かな声で、そう言った。

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