第4章2話 文字は語らない

「──うぅー……。もうダメ……!」



 幌馬車の荷台の上で、メルはぱたりと膝に顔を埋めた。


 カルドラの町でイリーダ聖堂長や謡い手の少女たちに別れを告げて、リビドの町に向かう幌馬車の中だった。


 リビドに向かう山道は道の凹凸が激しく、同じように用心棒として乗った猛者もさたちの中でも、馬車酔いで瀕死になる者が続出している。……が、メルがうなっているのは別件だった。



「メルちゃん、ウンウンうなってどしたん? ……あ、これのせい?」


「……あ」



 メルが膝の上に載せた石版をひょいと横取りして、一緒に馬車に乗っていた女が変な顔をした。

 石版にはチョークで『めしをくえ』と書いてある。女の目が点になった。



「……何やこれ、何かの暗号なん?」


「アスターのことだから、そのままの意味かと……まだ読めてないんですが……」


「うーん。読めたら、そこのパンとスープ食べていいってこと? とっくに冷めて膜張ってるやん。……って、メルちゃん、腹の虫ごっつ鳴いてるで。大丈夫?」


「あぅぅぅ……」



 ぐぎゅるるる……とすごい音がした。


 そこへ、早朝から偵察に出払っていたアスターが戻ってきた。

 メルを見て、女を見て、次いでメルのそばにある手つかずのパンとスープを見て、こめかみにピキリと青筋が浮かんだ……のは気のせいだろうか。


 反射的にビクリと身構えたメルの予想は、ぴたりと的中した……悪い方向で。



「あ、の、なぁー。何度も言ってるだろ。言われる前に食え。俺の許可を待つな。犬猫じゃあるまいし」


「そ、そんなこと言われても……」


「『だって』も『でも』もない」


「……うぅ……」



 ガレッツォたちのいた隊商やカルドラ聖堂では、誰かしらが世話を焼いていたようだが、そもそもメルは誰かに指示されないと「食べない」。

 誰かの世話を焼くのも、それで自分が役に立つからで、自分のことになるとまるで無頓着なのだった。


 だから、今日のようにアスターが早朝から出払って誰も食事の「指示」をしないと、途端に自分が食事に手につけていいかわからなくなってしまうのだ。


 アスターは、メルのために書き置きしておいた石版を拾った。



「……はぁ。やっぱり読めてなかったか。罰として、書き取り千回」


「せっ……!」



 千回分の『めしをくえ』の書き取り──新手のギャグだろうかと、そばで聞いていた女は目を泳がせた。


 お腹もすいて目が回ったメルは、その場にパタリと突っ伏した。涙目になって恨みがましそうにアスターを見た。



「……私、魂送たまおくりするために乗ってるのにぃ……」


「そう思うなら、亡者が出る前に終わらせろ。終わるまでは、魂送りも何もなしだからな」


「そんなぁ……」



 またしても突っ伏すメル。

 見かねた女が、助け船を出した。



「──んなこと言うても、アスターもまだ本調子じゃないんやろ? メルちゃん連れてったら、いざ亡者が出たってときに戦力になるんとちゃうの?」


「そ、そう! そのとおりですっ」



 水を得たうおよろしく勢い込んだメルを、アスターはばっさり切り捨てた。



「まだ魂送りも慣れてないこいつを守りながら戦う方が非効率だ。俺もそこまで快復しきってない。……じゃあ、俺は偵察に戻るから。パルメラ、こいつがちゃんと書き取りするか見ててくれ」


「あー、はいはい。わかった──って、なんでうち? 家庭教師ちゃうねん。仮にも、護衛仕事の雇い主になんちゅう仕打ちや、訴えるで!」


「昔のよしみだろ。……頼んだぞ。じゃあ、俺は亡者どもの偵察に戻る」


「って。待てや、アスター」



 褐色かっしょくの肌の女──パルメラの抗議も聞かずに、アスターは幌馬車から出ていった。



「──ったく、もう。相変わらずひとの話聞かん奴や」


「……す、すみません」


「メルちゃんが謝ることやない。子どもの頃からずっとや。もう慣れっこやで……」



 なんとなくいたたまれなくなって首を縮めたメルに、パルメラは相好を崩してみせた。南方系の民族に特有の褐色の肌で、人なつっこく笑む。


 暖かそうなてん外套コートの下に、布地を幾重にも重ねたサリーを着ているのも、チュニックやワンピースが主流のグリモアではめずらしい。



「パルメラさんは、昔のアスターを知ってるんですね。同じ国の出身なんですか?」



 パルメラの故郷も亡者に滅ばされたのだろうか……と思ったら、パルメラは笑って首を振った。



「ちゃうちゃう。うちの故郷は、ここから南西のアイーダ共和国。北のノワール王国とは、方角がまるで逆や。ロギオ商会って聞いたことない? うちの家は代々、大陸をまたぐ貿易商人でな。北のノワール王国とも商いをしてたんよ。アスターがいたバルトワルド家のお屋敷も、そのひとつでな、父様に連れられて、兄貴とうちも小さい頃から出入りしてんねん」



 アスターのこと、こーんな小さい頃から知ってんで、と親指とひとさし指の間にすき間を作ってパルメラはほくそ笑んだ。

 その大きさだと、どう考えても小人サイズだが、賢明なメルはツッコまなかった。



「やから、ノワール王国が滅びたときは、さすがにびっくりしたで。うちだけやない。誰もがまさかと思ったわ。ノワールの葬送部隊は、そりゃもう当時の最先端やったからなぁ。慌てて現場入りしたときには、全部手遅れやった。……おかげで、生き残ってたあいつだけは回収して、なんとかグリモアに出国させたってんけどな」


「そう、だったんですか……」



 それなら、パルメラはアスターの恩人なのだ。

 メルがアスターに、亡者から助けてもらったように。



「だからアスター、パルメラさんの護衛を引き受けたんですね」


「せやな。リビドに向かうなら、行き先は一緒やし。いやぁ、それにしても、ツイてたわぁ。カルドラ聖堂に行ったら、腕の立つ昔なじみがいて、タダで護衛仕事を請け負ってくれるなんてなぁ。ほんま、売っとくべきは昔の恩やなぁ」



 たまたま、を連呼されて、メルは「ん?」と小首をかしげたが、やっぱりツッコまなかった。

 この場にアスターがいたら、背筋をぞわっと逆立てたに違いない。



「──けど、まさかあいつが奴隷っ子ちゃんひろてるなんてなぁ。おまけに、文字まで教えとるなんて……。あんな周りに興味ない奴が、どういう風の吹き回しなんやろ」



 しみじみと言ったパルメラだったが、ふと、メルの様子を見て言葉を引っ込めた。

 ぐぎゅるるる……と鳴るお腹の虫も顔負けなぐらい、思い詰めた顔をしている。


 どしたの、と恐るおそる聞くと、メルはキッと涙目で言った。



「……アスター、私のこと置いてくつもりなんです。だから、文字なんか読めって言うんだ……!」


「…………はい?」



『めしをくえ』の石版を抱えてふさぎ込んでいる少女を前に、さすがの歴戦の女商人も開いた口がふさがらなくなった。

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