第4章3話 足枷の重み
元々、奴隷だったメルは、主人から「魂送りをしろ」と称して荒野に放り出され、亡者に食われかけていたところを旅の青年アスターに助け出された。
以来、ともに過ごしてひと月ほど経つが、思い返せば事あるごとに、アスターはメルを置いていこうとしていた。
初めて出会ったリバーズの町では主人になることを断って孤児院に預けようとし。
続いて行ったカルドラ聖堂でも、後から聞けば、イリーダ聖堂長にメルの身柄を預けようとしたらしい。
そうして今回、カルドラ聖堂を旅立ってから、アスターは何を思ったのか、メルに石版とチョークを渡して読み書きを教え始めた。
『……何ですか、これ?』
『メル──おまえの名前だ。いいから、おまえも書け』
『え? 私が書くの? なんで?』
『なんでって……読み書きできないと、いろいろと不便だろ』
読み書きができないと不便──メルは首をかしげた。
十四年間生きてきて、別に、読み書きができなくて不自由したとは思わない。
『別に、名前が書けなくても困らないし、お店のひとに聞けばお買い物もできるし、お金の計算も困らないよ?』
──というか、アスターに会うまで自分の名前もなかったんだけど……。
とかいう言い訳はすげなく却下された。
『あのなぁ……メル。おまえ、いくつになった?』
『え……十四です』
多分……という言葉を、メルは飲み込んだ。誕生日どころか親の顔も覚えていないので、実際には年齢もあやふやだ。
奴隷だった頃は主人の都合で「十六歳」になったり「十二歳」になったりしていた。
奴隷という肩書きを気にされない場所なら、レディース割引を受けられたり、子ども料金になったりして、意外と便利。
アスターは、盛大に眉根を寄せた。メルが怒られると思って身を硬くするのもおかまいなしだ。
『だろ? 世間一般じゃ、農民の子だって学校に通って最低限の教養は修めてる年だ。なのに、読み書きもできないんじゃ話にもならない』
『えー? いいよー。だって私、奴隷だよ? 読み書きなんか何に使うの……イダダダ』
『いい加減、その腐った奴隷根性を改めろ。おまえはもう奴隷じゃない』
『ひょ、ひょんなこと言っへもー』
アスターに頬をつねられて、情けない涙声が出た。
確かに元の主人からは捨てられて、奴隷の
メルの頬を離して、アスターはため息混じりに言った。
『少しは覚えろ。この先、役に立つ』
『だって、私、人間じゃないもん』
『一生、そうしてるつもりか』
『アスターが決めてくれたらいいもん』
その言葉を放った途端、しん、と空気が冷えた。アスターが黙り込んだせいで、そうなった。
でも、メルにしてみればこれ以上の妙案はない。──メルのことは、アスターが決めてくれてかまわない。
これまでの経験で、アスターがメルのことを無下にしないのはわかっている。そのアスターと一緒に旅ができれば、あとは何もいらないのだ。
贅沢は言わない。
一緒にいられたら、それでいい。
それは、そんなに過分な望みだろうか……?
『ほら。私、贅沢言わないよ? ご飯もアスターがくれたもの食べるし、お洋服だって決めてもらっていい。私のことは好きに使っていいから。この先なんて言わないでよ。それじゃあ、まるで──』
──私のこと、置いていこうとしてるみたいじゃない。
……その一言が、どうしても、言えなかった。
言ったら、本当に置いていかれてしまいそうで。いつだって、アスターはメルの手を離そうとしてきたのだ……。
そのとき、護衛仕事を請け負っていた他の傭兵たちがアスターを呼びにきた。それで重たい沈黙はいったん、ぬぐわれた……が。
『…………。俺にはおまえが、奴隷でいたがってるように見える』
『……え……』
『なんで読み書きが必要なのかは自分で考えろ』
そう言って、アスターは傭兵たちと出ていった。
──そして、その日から地獄の読み書き特訓が始まったのだった。
メルからそんないきさつを聞いたパルメラはうなった。
アスターの態度が妙にスパルタだなぁとは思ってはいたけど……。
「ふぅん。そんなことがあったんやね……」
「私に魂送りさせないための作戦なんだ。絶対そうだ。そうに違いない……」
あ、ダメだ。この子、完全に目がイッちゃってる……。
そう思ったパルメラは、とりあえず飢えた少女にパンとスープを勧めた。あまりにかわいそうなので、メルから事情を聞いている間に、別の傭兵に命じて温め直してもらったものだ。
少女のせつなげなお腹の虫の音を聞いた傭兵は、ほろりと涙して温め直してくれた。
「な、名前は書けるようになったんやろ? よかったやん」
「……名前だけ書けてもね……」
「人間、はじめの一歩が肝心やで。うちも応援するし」
「…………はぁ」
もそもそとパンを食べながら、メルはらしくないため息をついた。
硬くなっているので、スープにひたしてふやかしながら、一口一口を噛みしめる。空腹の胃に、あっさりとしたスープの塩気が優しく染み渡ってくる。
自分で考えるのって、面倒くさい。
何が正解かなんて、考えたってわからない。
読み書きが必要な理由? そんなの、行き着く先は決まってる──奴隷じゃなくても、ひとりでも生きていけるように。
でも、それはアスターと別れても大丈夫っていうことだ……。
普段は意識しない、足枷の重みがずしりと足にのしかかった。
断ち切ってもらった鎖は、邪魔にならないように、両脚に巻き付けてある……でも。
この重みがあるから安心していられることを、メルは知っている。
重力みたいなものだ。重さがあるから、安心して地面を踏みしめていられる。でも、もしなくなったら、ふわふわして落ち着かなくて不安になる。
──そんな不安定な「自由」なんか、欲しくない。
「……モノ扱いしてくれた方がラクなのに……」
アスターの前では怒られるから口にできない本音が、ぽろりと漏れた。そうすれば、アスターがメルの生きてる理由になる、とでもいうように。
魂送りしか、生きる意味のなかったメルには、それぐらいしか思いつかなかった。
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