第3章5話 立ちはだかる強敵

(……。頭、重い……)



 聖堂の宿舎の一室──あてがわれた質素な部屋で、メルは寝ぼけ眼をこすった。


 ぐずぐずと着替えて顔を洗った。両脚に巻き付けた鎖だけじゃなくて、身体まで引きずって歩くようだ。


 さすがにアスターの部屋に向かう気にはなれず、エイニャとレタの姿を探したら、ふたりは用事で町に出たあとだった。


 聖堂に所属している謡い手の仕事は忙しい。メルにばかりかまっているわけにはいかない。……わかっては、いるんだけど。



(……私、いつもこういうとき、どうしてたっけ……?)



 主人の元にいたときには、始終、何かを言いつけられていたし、ガレッツォたちと隊商に乗っているときにも、給仕に荷運びにと、何かしら用を言いつかっていた。


 アスターは何も言わない。

 魂送りをしてくれとも、何も……。



「…………──あ」



 用を言いつけてくれそうなひとにひとり、思いいたって、メルは足早に廊下を歩いていった。


 聖堂の執務室ではイリーダ聖堂長が書類に向かっていた。

 メルが訪ねていくと、少し驚きながらも笑顔で迎えた。



「……で、何か手伝いをしたいと、そういうわけね?」


「はい。今日はエイニャさんもレタさんもいなくて謡い手のことも教えてもらえないし。それに、他の巫女様たちもあんまり手伝わせてくれないし……」



 巫女たちがメルに何も言いつけないのは、実は、他ならぬイリーダがそう指示したからだった。


 聖堂の巫女たちの中にも、少女の脚に巻き付いた鎖と足枷を見て、彼女を奴隷として扱う者が出ないとは限らない──それを見越してのことだった。


 メル本人は、そんなこととは夢にも思わない。イリーダが出してくれた紅茶に恐縮し、ソファにも座らずに棒立ちになった。もじもじと居心地悪く、視線を窓の外に逃がした。



「……あの。でも、お忙しいなら、別に……」


「そういえば、今日は私も午後から町に出ようと思ってたの。メルさん、付き合ってくれるかしら?」


「……っ。はい」



 泣きはらした赤い目をしてはにかむメルを見ながら、イリーダは午後にやる予定の書類仕事を机の引き出しにしまってから真鍮しんちゅうの鍵をカチャリとかけた。


 聖堂から一歩、外に出てみれば、室内にこもっているのがもったいないほどの晴天だった。

 そよ風の吹く暖かな気候に眠気を誘われたのか、民家の屋根で猫がうたた寝している。


 カルドラは、農耕を主産業にしたのどかな田舎町だ。平屋の多い木造の家々や耕地の間、土をならしただけの赤茶けた路地がクモの巣のように広がる。

 そのクモの中心から外に向かって、メルはイリーダに付き従っていった。


 イリーダの姿を見ると、畑仕事をしていた人々も手をとめて会釈をしてくれる。



「イリーダ様。見てくれ、このビーツの出来! 真っ赤でうまそうだろ? うちの娘のほっぺたみたいだ」


「あんたねぇ、どさくさにまぎれて娘自慢したいだけじゃないか。それより、イリーダ様。こっちのタロタロ芋はどうだい? もってかないかい」


「──あきれた。生野菜ばっかりあげてどうすんだい。ほら、見なよ。連れの女の子が困ってる」


「え、えっと……」



 町の人々の勢いに圧されていたメルは、水を向けられて思わずイリーダを見た。

 イリーダはにこにこしている。


 結局、もちきれるだけの量を分けてもらって、メルたちは市場に向かった。

 イリーダは街路にいた花売りの女の子からアメジスト・セージやダリアの花を買って、最後に、市場の中にひっそりとたたずむ店に向かった。

 店先に、おいしそうなエッグタルトやかま焼きのプディングが並んでいる。



「メルさん、選んでくれるかしら?」


「あ……はい。お客様にですか?」



 イリーダ本人が食べるのなら、メルに選んでくれとは言わないはずだ。

 イリーダは相変わらず微笑みを浮かべたまま目を伏せた。



「──えぇ、大切なひとに、ね。メルさんが一番食べたいものでいいわ。その方があのひとも喜ぶから」


「……? あの、その方の好みとかありますか? 嫌いなものや予算は……」


「どれでもいいのよ。メルさんが一番おいしそうだと思うものをお願いね」



 ……そう言われても。


 店先に並んでいるエッグタルトやプディング、干しぶどうのパンたちが、急に、立ちはだかる強敵になった。真剣ににらんだ。かくなる上は──



「店員さん、お店のオススメは……──」


「あらあら、ズルはダメよ? メルさんが決めることだもの」


「で、でも。さっき、どれでもいいって……」


「メルさんが選んだものなら、ね。大切なのは気持ちだから」


「……気持ち……」



 どれを選んだら正解なんだろう……。

 そもそも相手の好みもわからないというのがムチャぶりすぎる。


 一番高いものを選んだらどうだろう? イリーダが渋い顔をするかもしれない。


 じゃあ、一番安いのは? ……でも、そんなものをお客様に出して、イリーダの面目をつぶしたらどうしよう。



(ちゅ、中ぐらいの値段のは……──でも、イリーダさんの『大切なひと』が好きかどうかわからない……)



 降りかかってきた予想外の難題に、メルは途方に暮れた。元の持ち主にお遣いを頼まれるとしても主人が好きなものとか一番安いものというのが常だったのだ。


 背中が冷や汗で濡れていた。

 あまりのプレッシャーに泣きたくなった。


 イリーダの横顔をチラリと見た。


 柔和な笑顔がいつ不機嫌な怒り顔になるかと思うと、気が気ではなかった。そして、長く待たせれば待たせるほどその確率が上がるのを、メルは経験上知っていた。



(……もうどうなっても知らない……!)



「──こ、これ! これくださいっ」



 目をつむったまま、当てずっぽうに指さした。

 今にもへたりこみそうなほど必死なメルをよそに、店員がのんきに「まいどありー」と言った。

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