第1章3話 舞い降りた女神

『──……番。──……番!』


『は、はい。──って、えぇっ……ご主人様⁉ なんでここに。亡者から逃げなかったんですか?』


『何言ってやがる。つくづく薄気味悪いガキだ。寝ぼけてねーでさっさと水くんでこい。それから飯と馬の世話だ。なまけたら承知しないぞ』


『は……はいっ』


『──ったく。ぐずぐずすんな、このウスノロめ。どうせ亡者どもの楯になるしか能のないおまえを生かしてやってるんだ。ありがたく思え』


『……はい。ご主人様、あの……』


『あぁ!? まだ何かあんのか』


『……私、まだ……──』



  ☆☆



 ……。

 …………。


 ──明日になったら、全部、夢だったらいいな。ご主人様と別れたのも、亡者に襲われて死にかけたのも。


 ……そう思って眠りに落ちたのに、目が覚めても、やっぱり昨日の続きだった。


 猫の額みたいにせまい宿の一室。窓の外の太陽は高くのぼっていて、部屋の借主である青年はいなかった。


 でも、昨日はなかったパンとスープは、小さな丸テーブルの上に載っていた──ひとり分。脇には、宿の備え付けのメモで書いた、小さな紙切れ。


 少女はベッドから降りた。裸足でぺたぺたと板張りの床を踏み、横切るほどの広さもない部屋を歩く。

 鋼鉄の足枷についた鎖がじゃらりと鳴った。いつもどおり。


 少女の指が、テーブルの上にあった紙切れをつまんだ。ひらひらともてあそんだ。手持ち無沙汰に。


 昨日から丸一日食いっぱぐれていたお腹の虫が鳴いた。どことなく悲しそうだった。

 聞いていた少女も泣きたくなった。自分のお腹の音で。



「……。お腹すいたなぁ……」



  ☆☆



「……だから。なんでそんなになるまで食わないんだ。出かける前にわざわざ書き置きしといただろうが……」



 数刻後。

 宿の部屋に帰ってきた青年の額に、こらえきれない青筋が立った。


 部屋に帰ってきたら、少女がなぜかベッドの上でうずくまっていて、腹の虫が盛大な大合唱をしていたのだ。


 テーブルの上には、青年が部屋を出る前と同じパンとスープが、手つかずのまま。パンは表面が乾いていて、スープにはほこりが浮かんでいた。でも、空腹の少女は気にしない。



「はひふへほほへへ?」


「何言ってるかわかんねぇよ。いいから、食ってから話せ。俺も食い物も逃げないから」


「ふふーほほへへ」


「だから、落ち着いて食えって……」



 まぁ、でも、これに関していえば青年の方も行き届いていなかった自覚はある。


 昨日、目を覚ましたときに食事をさせてやればよかった。考えてみたら、昨日は水を飲ませてやって、それっきりだ。



(──っていうか、腹減ってんならそう言えよ。犬猫じゃあるまいし……)



 ……前言撤回。犬や猫だって、腹がすけば自分でねだる。


 そういう意味では、意思表示の乏しい少女は実にやっかいだった。勝手に我慢して、勝手に行き倒れになりかねない。


 パンくずのひとつ、スープの一滴も残さずきれいに食べて、少女はやっと人心地ついた。

 少女が食べるのを見て、青年まで満腹になった気がしたほど見事な食いっぷりだった。



「──で? さっきの話。俺がもってきてやったメシ食わなかった理由は?」


「ご、ごめんなさい」


「別に責めてるわけじゃない。テーブルの上の書き置き、見なかったのか?」


「ううん、見ました。でも、てっきりお仕事のメモか何かだと思って……」



 少女が申し訳なさそうに身じろぎするのを見て、青年は追及するのをやめた。……まさか。



「……まぁ、いい。とりあえず、ほらこれ。買ってきたから開けてみろ」


「……?」



 渡されたずた袋から出てきたブラウスとスカートに、少女が目を丸くした。

 青年の方をしげしげと見る。物珍しいものでも見たかのように、変な顔をした。



「……。えっと、お兄さんが着るんですか、これ?」


「……どこをどう見たらそんな発想になる……」


「だって──」



 ようやく自分のだと気付いて、少女の顔が喜びに輝く……──ようなことはなかった。たちまち青くなった。世界の終わりみたいに。



「……? どうした」


「……もらえません、こんなの」


「別に。こっちだって、おまえが気に入るとは思ってない。でも、亡者に襲われたその格好じゃ買い出しにも出られないからな。ひとまずそれで我慢して──」


「違う……違う! そうじゃなくて!」



 少女が叫んだ。血を吐くようだった。泣きそうにくしゃっと顔をゆがめた。



「なんで私なんかに優しくするんですか! 亡者から助けてくれて、ご飯くれて、服までくれて……おかしいよ。怖いよ。なんなの。なんで私なんかにそこまでするの?」


「……。なんで……って」



 青年は半ばあっけにとられて少女を見つめた。

 さっきまでの無邪気な様子からは想像もつかない激情に、意外さを禁じえない。追い詰められた野生動物が刃向かうような、張り詰めた緊張感があった。



「助けるのに理由がいるかよ……」



 ぼそりと言った。低い声だった。


 少女がはっとしたように身を正した。うろたえた。……青年に口答えしたことに、今更ながらに気付いて。だけど、ごめんなさい、とは言わなかった。


 かたくなな沈黙が降りた。双方とも、互いに譲らないのがわかった。


 青年には青年の主義主張があり、少女には少女の生きてきた人生がある。昨日、行きずりに出会ったばかりのふたりが和解するには、あまりにもお互いを知らなすぎた。



「おまえは……」



 先に沈黙を破ったのは青年の方だった。

 何かを言おうとして、その先の言葉が続かずに、また黙る。ため息とともに、逃がした。



「……まぁ、なんだ。いつまでも『おまえ』じゃあんまりだな。名前は何て言うんだ?」



 少女はちらりと顔を上げて、また気まずそうに首を振った。横に。名乗りたくないのか、それとも……。



「……。……じゃあ、メルってのはどうだ。俺の故郷の、女神の名前だ。気に入らないようなら別の……」



 ──名前をと言いかけて、やめた。

 少女の瞳が、今度こそ爛々らんらんと輝いていたので。


 青年は淡く苦笑した。……笑ったことなんて、ここ何ヶ月もなかった気がする。



「俺はアスターだ。……機嫌直ったんなら、さっさと着替えてくれ。宿の主人にチェックアウトを待ってもらってるんだ。あんまり待たせるわけにいかないからな」



 そう言って青年が部屋を出ていくと、少女は慌ててずた袋の服に手を伸ばした。

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