第1章2話 群れからはぐれた子羊は……
少女が目を覚ましたのは、夕刻になってからだった。
見慣れない天井が見えた。
せまい、けど、幌馬車の中じゃない。隊商の
カーテンのすき間にのぞく窓の陽射しは、夜の訪れを待ってせつないぐらいの
ぼんやりしていると、無言でコップが差し出された。水だった。
旅装束を解いた男──いや、青年がぶすっとした顔でベッド脇の椅子に座る。宿屋の一室らしかった。
「ひとに助けてもらっておきながら、のんきに爆睡とはね。あんた、いいご身分だな」
「……爆睡……」
思い出した。隊商の幌馬車から荒野に放り出されて、亡者に襲われたところを、この青年に助けてもらったような……。
ぞっとした。亡者に食われかけた肩と二の腕を抱きしめた。今更、震えがきた。
「……夢じゃなかったんだ?」
「へぇ。あれを夢だって思えるんなら、神経の方も相当、図太いみたいだな」
青年は金髪を掻き上げながら、これ見よがしにため息をついた。
……なんだろう、このひと。全然優しくない。
それでも、助けてくれたのは間違いなくこの青年だった。
少女は頭を下げた。
彼が救い出してくれなければ、今頃、亡者たちのお腹の中。
「助けてくれてありがとうございました」
「……」
お礼を言われて、なのに、青年は不満顔。
眉根を寄せて不機嫌に黙られると、少女もどうしていいかわからなくなる。怒らせたのだろうか。少女はブランケットを引き寄せて手をもじもじさせた。
「あの……ごめんなさい。お礼、何もできなくて……」
「……理由」
「え?」
「なんで、あんなとこにいた?」
お礼の代わりに、青年が訊ねてきたのは、年端もいかない少女が、保護者もなくたったひとりで荒野のど真ん中にいたことへの説明。今度は、少女が黙る番だった。
青年がため息をついて、窓の外に視線を逃がした。サイドテーブルのコップの中で、溶けた氷がカランと鳴る。ものさびしげに。
「……言いたくなかったら、言わなくていい」
「……」
「家はどこだ。この辺りなら送ってやる」
「……」
──静かに問われた、途端。
泣くのは
青年は驚かなかった。あるいは、少女が泣いている理由さえ、見透かしているのかもしれない。
青年が、少女の粗末な服に目をやった。特に、少女の足に痛々しくはまっている鋼鉄の
……少女が、誰かの持ち物である証を。
「……元の持ち主が亡者にやられたか。それとも、嫌気が差してそいつから逃げて出したのか?」
「ううん。そうじゃなくて」
「?」
男がけげんそうな顔をした。予想していたどの答えとも違う、というふうに。
呼吸を整えるまでに、少し時間がかかった。悲しみがあふれ出さないのを確かめて、少女はゆっくり息をついた。……今度は大丈夫。
「亡者たちを倒すために、あそこにいたの」
「……? おまえ、剣が使えるのか? とてもそうは見えないけど」
「──魂送り。それが私の
少女の言葉に、青年が絶句した。
なぜそんな顔をされるのか、少女にはわからない。
歌い踊ることは、少女の生きる意味だった。生かされる理由だった。
商人である主人の命を守るために、その身を
……ちゃんと役目を果たしたのに。
青年が、憐れなものでも見るように少女を見た。
少女はびくりと身を震わせた。
「……お、怒った?」
「別に。あんたに対してじゃない」
「?」
じゃあ、誰に対して?
思ったけど、怖くて訊けなかった。戦ってるときも怖かったけど、今もなんだか怒ってる。
「護衛はどうした。荒野を渡るんなら用心棒がいたはずだろ? 亡者が出ることなんて、わかりきってんだから」
「いないです。そんなの」
「いない?」
「だって、護衛って高いんでしょ? 用心棒を雇うぐらいなら、私たちの方がいいんだって。その方がずっと安上がりなんだって。女の奴隷はそれぐらいしか使い道がないから有効活用するんだってご主人様が……」
みなまで言えなかった。
青年の気配が、戦いの最中のように底冷えたからだ。そのくせ、今にも腰の剣を抜きそうなぐらい
何がそんなに青年を怒らせたのか、少女はわからなかった。わかったのは、何かとんでもない失言をしたらしいということぐらい。
しまったと思った。
そういうことはよくあった。考えなしに喋って、なぜか主人を怒らせてしまうのだ。そういうときは言葉じゃなくて拳が飛んできた。
この相手はもっと怖い。
主人は丸腰だったけど、こっちの青年は剣を持ってる。あんなにあっけなく亡者を倒す剣だ。なます切りに斬り刻まれても不思議じゃなかった。
少女はとっさに身をかばった。
「ご、ごめんなさい! ぶたないで」
「は?」
「剣もやめてください。あ、でも。
「おまえ、俺をなんだと思ってる……」
少女は恐るおそる目を開けた。拳は、飛んでこなかった。青年の剣も、
部屋の様子は、さっきと変わりない。いや、少しだけ陽射しが傾いた。青年の端正な顔にも陰がさして、いっそ陰鬱そうになっている。少女の方もそう見えるのかもしれない。
「魂送りってのは、亡者どもが弱ってからやるものだ。詠い手がひとりでやるなんて
「……え……?」
少女は
「……帰る場所はないってことか」
少女もこくりと頷いた。
正直、
見ず知らずの青年に助けられて生きてるなんて思ってなかったのだ。
「拾ったからな。放り出すのも後味が悪いよな……」
「ご、ごめんなさい」
「……謝ることじゃない。拾った俺の責任だ」
「でも……」
青年が、三度目のため息をついた。
外はもう、夜の気配が濃くなってきている。
「とりあえず明日考える。俺はあっちのソファ使うから、おまえはそこのベッドで寝ろ。いいな」
「えっ。そんな、ダメです。私がソファで……」
「おまえが気にしなくても、俺がするんだよ。いいからそこで黙っておとなしく寝てろ」
そ、そう言われても……。
「……さっきまで寝てたから眠くないです」
青年の額に青筋が立った気がした。蒼氷の瞳が怒気を帯びる。
少女はびくっとブランケットを引き寄せて頭から被った。
「やや、やっぱり寝ます! おやすみなさい!」
……とは言ったものの。
潜り込んだところで、眠れるわけがない。
バクバクとうるさい心臓の鼓動を感じながら、少女はブランケットの中で猫みたいに丸まった。
夜は、まだまだ長そうだった。
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