後編
次の日はめずらしく仕事が夕方に終わったものの、上司に誘われ夕飯を食べてお酒を飲んだので、帰りはやっぱり深夜になってしまった。
星がよく見える、風のない日だった。
青年はしたたか酔っぱらってはいたが、バレリーナのことは忘れていなかった。まるでデートの待ち合わせの気分で、出窓へとむかう。
青年が出窓の前に立ったとき、まだバレリーナはあらわれていなかった。
時間がはやすぎたのかな。そう思って青年はじっと彼女を待ちつづけた。けれども、いっこうに彼女はあらわれない。
「おおい、おれのバレリーナ。どうして今日はあらわれてくれない」
青年は酔っぱらったいきおいで出窓に話しかけてみた。
と、そのとき出窓のすぐそばのドアが開く音がして、青年は飛び上がった。今の声に中の住人が不審がって出てきたのではないかと思ったのだ。
ドアから出てきたのは十歳くらいの女の子だった。
髪の毛を二つに結んで、カーディガンのようなものをはおっている。そして、片足を怪我しているらしく、松葉杖をついていた。
青年はとっさにただの通行人のふりをして、曲がり角のところへかくれた。
(どうやらおれの声が聞こえたわけではなさそうだな、しかし、どうしてこんな時間に小学生が?)
青年が不思議に思ったとき、女の子は松葉杖を放り出し、その場で腕を伸ばして片足を高く持ちあげようとした。そのとたん、女の子は転倒した。自分では起きられないらしく、もがいている。
青年は酔っぱらっていたことも忘れて、その少女にかけよった。そして慎重に助け起こした。
「ありがとうございます」
年齢の割にしっかりとした口調で少女は言った。
青年は松葉杖を少女に手渡し、「寒いから、家に入りなさい」と言った。この子は何をしようとしていたのだろう?
そのとき「なにやってるの、こんな時間に」とドアからこの少女の母親らしき女性がでてきた。
青年は誘拐犯にでも間違えられやしないかと内心あせったが、少女が
「バレエの練習してたら転んだの。とおりかかったこの人が助けてくれた」
と、はきはきした口調で説明したので、母親からは逆に感謝された。
「そうでしたか。それはどうも、お手数おかけしました」
「いえ……」
「もう、この子ったら、バレエバレエバレエで。ご覧のとおり足に怪我しても踊りたがるんですよ」
「それほど、バレエがお好きなのでしょう」
「それはそうですけどねえ、最近じゃ大人になった自分がくるくる踊っている夢まで見るらしくって」
「だって、はやく踊りたいもの」
少女は余計なことを言うなと言わんばかりに母親をにらみつけた。そこで母親は自分がいろいろしゃべりすぎていることに気がついたらしく、「それじゃあ。本当に、どうもありがとうございました」と言って娘とともに部屋にもどろうとした。
そのとき少女は松葉杖で青年に近づき、ボケットから何かを取り出すとにっこり笑って青年にわたした。
「おにいさん、手がすごく冷たかったから、これあげる。お礼です」
ホッカイロだった。
そうだった。手袋が片方のままだった。
青年はカイロのあたたかさをじんわり感じながら、あらためて少女を正面から見た。そしてあっと思った。
似ている。あのちいさなバレリーナに。口元のほくろまで同じだ。この少女があと七、八年すれば、きっと、あのバレリーナになるだろう。
あの手のひらサイズのバレリーナは、少女が毎晩夢に見る、未来の自分なのかもしれない。バレリーナを夢見るあまり、現実の世界に出現してしまったというわけだ。
親子と別れ、自分のアパートへの帰り道、青年はそう考えた。もちろんすべて想像にすぎないと、青年は思う。都合よく考えすぎかもしれない。でも、それでいい。青年の心に何より響いたのは、ちいさなバレリーナの正体を知ることじゃなかった。あの少女の、はやくバレエを踊りたいという、ひたむきさだった。
怪我で踊れないとわかっていても、踊りたい。
夢にまでみる、未来の自分の姿。
青年の心に、それは響いた。
夢があったはずなのに、いつのまにか忘れて、無気力になっていた、自分の心にあつく響いた。
明日も、その次の日も、少女が夢を見るかぎり、ちいさなバレリーナはあらわれるかもしれない。
だけど青年は今までのように彼女にただ魅入ったりはしない。
怪我がはやく治ることを祈る。そして、自分も頑張るから、頑張れ、と心の中で彼女にエールを送るだけだろう。
(未来のバレリーナ、頑張れ)
青年は空を見上げて思った。まだ酔いが残っていたのか、大きく一人でガッツポーズまでした。
満天の星空がそれをやさしく笑い、真冬の寒さに負けない火が、たしかに青年の心に灯った。
小さなバレリーナ ふさふさしっぽ @69903
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