砂漠の世界の、死に逝く誰かの御伽噺

@nchap

第1話

 ヒグリカに選択の余地はなかった。

 ついに不毛の砂が、この地にまで押し寄せてきたのだ。



 王城で暮らす皇族たちや地主たちは、

自分たちが守ってきた代々の土地を信じ、

生まれた地で生き続ける術を探し続けたが、

それが正しいこととは誰も思っていなかった。

 だが、それは意地ではなかった。

人々は迷いなく自らの信じる生き方をした。誰しもが己を誇らしく思っていた。



 しかし、身寄りのなかったヒグリカは、故郷にはもう居場所がなかった。

 生まれた土地を離れ、今までとは違う生き方をしなければならなかった。

「もし、ねえ、あなたさま」

 ある、夕暮れのこと。やっと涼しくなり、町民たちは家の前をキレイにしておこうと苦心したが、つよい風が次から次へと運んでくる砂のまえで、日々の生活の疲れにへこたれて、ぼぅと呆けることしかできないでいた。それはまさに、そんな夕暮れの出来事であった。

 砂を蹴とばして歩かねばならないのは不便であったが、ヒグリカの足を固めたのはスネにまで覆い被さる鈍重な土ではなかった。

 夕焼けが空と砂の海を塗り潰すと、その境界はこの世のどこにもなくなり、ただそれだけのことが、この町で暮らす人々の時間を停止させた。

 ヒグリカがその身で感じるのは、自らを砂の一粒のように呑み込む世界への感動だけだった。

 涙は我が身を哀れに思って流したものではない。打ち震える魂がヒグリカの眼から流させたものであった。

 そんな頃に声をかけられ、ヒグリカは人ならざる神の使いが現れたのだろうかと、身構えた。

 なにしろ時間は止まっているというのに、その中で自由に動いているのだから、

ヒグリカが戸惑うのは至極当然のことだ。

 ヒグリカは己が何をなすべきかを知らぬからこそ、まだ天上に呼ばれたくはなかった。

 その者が砂風から身を守るためのヴェールを脱ぐと、そこには女の顔があった。

 ヒグリカは男として、身構えていた。

「あなたさまは、旅のお方でしょうか」

 女の声が静謐な絹のようであったために、ヒグリカは上手くできなくなった。

 はるか上空を砂風に飛ばされるシルク布を追う者の心地なのだ。

「この土地の生まれですが、近くそうなる身です」

 ヒグリカは固い声で答えた。

「でしたら、南に行きますのね、そうでしょう」

 確かにヒグリカはどこかへ行くとしたら南だ、と考えていた。

 東から砂嵐はやってきて大陸の北部を覆っている。

 まだ南には、緑の大地が多く残っていると聞いたことがあった。

「きっとそうなりますね」

「ねえ、あなたさまに預けたい物がありますの、今晩、お会いできませんかしら」

「はい、喜んで詣ります」

 ヒグリカは言って、己の軽率さに驚いた。

 背を向けて、杖をついて歩き出す女を見て、女の目が見えぬことにようやく気がついていた。



 約束した酒場でヒグリカがテーブルにつくと、女も丁度やってきたところだった。

「もし、こちらです、もし」

 ヒグリカは大きな声を出した。女が顔を上げ、花のように笑った。

 ヒグリカははしゃいだように聞こえなかっただろうかと、小さく咳払いをした。

「あなたを信じます」

 ヒグリカが言うと女はただきょとんとして、首を傾げた。

 思っていたより幼い女なのかもしれない、とヒグリカは考えたが、わからなかった。

「人があまり、いませんのね」

「わかるのですか?」

 目の見えない女が周りの様子を言い当てたので、ヒグリカは驚いた。

「ええ、私、文字だって書けるのよ」

 ヒグリカが気の利いた気障な言葉を探していると、テーブルに給仕がやってきた。

「静かな場所は好きです。落ち着いて飲めますわ」

 女は、喋る度にその色合いを変えた。

 ただ、その芯にある色彩だけは、常に変わらないということに、ヒグリカは気付いていた。

 ヒグリカはこれまで、円滑な人間関係のために、できるだけ他人に優しくあろうと努めていたがどうしたことか、今晩はそのやり方をすっかり忘れてしまっていた。

 今まで出会った女に対しての作法が信用ならず、不安に押しつぶされ、はじき飛ばされ、頭の中でピンボールが跳ね回った。有頂天であった。

 ヒグリカは酔っ払った。

 女に溺れるのも、酒に溺れるのも、ヒグリカにとって随分ひさしぶりであった。

 人の人生に数回だけ訪れる至福の時間が、ヒグリカを夢うつつにした。

 飲み過ぎた酒が、時間の感覚をヒグリカから奪い、記憶を曖昧で断片的にしていた。

 何か粗相をしたような気もするが、さほど酷いものではないはずだ。

 女の屋敷に向かう途中、二人は上手く歩けずに、転んで笑いあった。



 それは、ヒグリカにとって最上なる一時だった。

 茂み、階段、地下、鉄の箱……、翌朝、ヒグリカが目を覚ますと、一人きりになって、宿の一室にいた。



 ヒグリカは「ああ」と呻いた。

 呻きに意味はなかった。いつも通りの朝を迎えた男が、いつもと同じに、ただ呻いただけのことだ。    

「お客さん、朝食の用意ができましたよ。下にいらして下さい」

 女将がドアを叩いて扉を開けて、ヒグリカに声をかけても、ヒグリカはベッドに腰掛けたままでいた。

「女将さん、私は昨日の晩の出来事が、本当のことなのかどうか、わからないのです」

 女将はヒグリカを慰めようとはせずに、早口で言った。

「若いうちは誰でもそんな朝があるものですよ。昨晩は何も事件はありませんでしたから、安心なさいよ」

 女将の嘲笑を受けて、ようやくヒグリカは腰を上げた。自分の衣服にべったり染み付いた酒の臭いにも、いまさらながら怒りを感じていた。

「これから着替えるんですから、扉を閉めて下さいよ」

「そうでしょうね。今朝はうるさいったらないもの。朝からキャラバン隊が食堂にいらっしゃって、大わらわだわよ」  

 ヒグリカは己の理不尽な無礼を恥じて、赤くなった。

 後で女将に昨日の自分の様子を、改めて尋ねようかと考えながら、ヒグリカは布で体を拭いた。子供時代の服を裂いてつくった手ぬぐいだ。ヒグリカの纏っている衣装は一般的な町人のものだが、それもいつツギハギになるかわからない。

 ヒグリカにとって、最早、何もかもが高級品であった。

 どうにか他人に見せられる顔になったろうかと、ヒグリカは鏡を探した。

 水場の桶は空っぽで、動かせないように鍵までかけられていた。水は女将の許しが無いとつかえないのだ。今はどこでもこんな具合だった。

 大した差はないとは言え、城門前広場の水場の方が安価だ。顔を濡らしたかったが、ここでは諦めた。

 ところで、いそがしい女将の手を煩わせる必要はなくなった。

 夢に出てきた鉄の箱が見つかったのだ。



 食堂に行くと、豪快な男に声をかけられた。

「よお、兄ちゃん、その背負っているのはなんだい。値打ちものかい」

 なまえより先に荷物について聞かれたのは始めてのことで、ヒグリカはどう答えたものかと悩んだ。

 驚くうちになんのその、男は無遠慮にヒグリカの背負った箱を触ったり、叩いたりした。  

 だが、箱にはすぐに興味を無くして、男は椅子に戻っていった。

「ははあ、わかったぞ」

 男はヒグリカの顔を見て、別の興味を覚えていた。

「女だな。兄ちゃん、それ、女につかまされたんだろう」

「私はこの箱の中身がなんなのか、知らないのです」

「俺にはわかるんだ、そいつからは金の匂いがまったくしないよ。いいかい。覚えておきなよ。今はな、どんな高価な宝石よりも、そういうガラクタを大事にしないといけない時代なんだよ」

 ヒグリカは直感的にこの男なら信用できるかもしれない、と感じていた。我が人生の先に、この男がヒントをくれるかもしれない、と。

 ヒグリカは自己紹介をして、男になまえを聞いた。

 男はユゲテと名乗った。

 そして、自分はキャラバン隊の隊長であると言った。ヒグリカも名乗り右手を差し出す。

「握手を。こちらには、いつまでいらっしゃいますか」

「握手はしないぞ。掌ってのは自分自身で擦り合わせるために使うもんだ。今日ここで商売と仕入れをしたら発つよ。ただ、直接出向くのは俺じゃないから、今日中なら俺はここにいるさ」 ヒグリカはユゲテにお礼を言ってから、女将に声をかけた。

「女将さん、この箱、上の水場にありましたよ」

「お客さん、すいません、ついお邪魔かと思って。だって、そんなの背負って寝たら、体を壊しちゃうもの」

「いえ、ありがとうございました。朝食の前に広場に行ってきますので、よろしくお願いします」

 ヒグリカがそう言うと、女将はほっとしたようだった。見るとキャラバン隊の面々は今でも次々に注文を続けているのだ。もたもたしているうちに、ヒグリカの朝食は彼らに食べられてしまったに違いない。女将はヒグリカに尋ねた。

「はい、もちろん。ただ、この通りの混み合いですので、お席がいつ空きますかはわかりません。どう致しましょうか」

「彼と同じテーブルに私の席を用意して下さい」

ヒグリカはユゲテを指して答えた。

 店を出ると、砂風は強く、道には砂が降り積もり、

細かい粒がヒグリカの顔をばしばしと打ったが、それでもヒグリカの足取りは軽かった。


 ――――騒がしいのは宿の食堂だけではなかった。

     今朝は町のどこもかしこもが慌ただしい――――。


 ヒグリカは広場へ出向き、友と会っていた。

 広場で金を払うと、当番の兵士から歯ブラシと歯磨き粉を渡された。

「なんだか騒がしいね。昨晩、事件は起きなかったと聞いたけど」

「事件があったのは明朝のことなのだ。石版が出ているぞ」

「石版?」

「ああ、姫様からのアイディアでな、最近は木材資源がなかなか手に入らなくなっただろう。それで号外を止めて、何かあったら、石版に書き記すことにしたのさ」

「へぇ、それはいい考えじゃないか。やっぱり王族の御方は聡明だ」

「俺たちとはやはり、育ちが違うものな。いずれは書類も何もかもが紙資源から、鉱石資源に置き換えられるという話しだぞ」

「ふぅん、それでツーツォ。その、事件というのは?」    

 ツーツォはヒグリカの無二の友であった。

 ヒグリカが、町の小さな商屋に奉公として使われていたときからの付き合いだった。

 ツーツォは聞かれると、声を暗く沈ませた。

「その事件というのが、まさにその姫様の不幸なのだ。なんでも、部屋が崩れて生き埋めになったらしい」

 普段は気さくで明るい友人の心境を思い、ヒグリカは元気づけたくなった。

 いかにも厳しい騎士然として喋るときのツーツォは、相当参ってしまっているのだ。

「ツーツォ、悪い話しばかりではないよ。私はもしかして当てができたかもしれない」

 ヒグリカはキャラバン隊のユゲテについていこうと考えていることをツーツォに話した。

「それは急な話しだ。君の新しい門出のお祝いはやれるんだろうね」

「どうかな、今日中には発つと言っていた。私はもし彼らについていけたら、どんな仕事でもやるつもりだよ」

「おお、友よ、さらばだ。寂しくなる。どうか、君の行く道が明るく照らされているように」

 ヒグリカとツーツォは抱き締め合った。

「私も忙しくなるかもしれないのだ。お互い辛いな。ヒグリカ、我らはなんと険しい時代に生まれてしまったのだろうか!」

 ヒグリカは、ツーツォの鎧の胸に刻まれた野牛の印を叩いて、竹馬の友を勇気づけた。

「なあに。仕事があるというのは素晴らしいことですよ。人生に役割があってこその人間なのだから」

 ツーツォは、腰に下げた剣を鞘ごと外した。

 それは王城の兵たちが身につける剣であった。

「親友に私の剣を送らせてくれ。きっと君の身を守ってくれるだろう。いや、いいのだ。私はこれからは、新品のツルギを使わせてもらうもの」

 ヒグリカは腰に剣を吊すと勇ましい気持ちになった。

 うん、と頷くと、ツーツォもまた、うんと頷いた。

 もう一度抱き合い、二人は別れた。

 宿に帰る途中で、ヒグリカは寄り道をした。

 ツーツォの言った石版がどのようなものなのか、見ておきたかった。

 しかし、石版を遠目で眺めただけで、ヒグリカはがっかりしてしまった。

 それはなんとなくあった岩盤に、荒々しく文字を刻んだ急ごしらえのもので、お世辞にも王家の権威を感じさせるものではなかったのだ。

 ヒグリカは、この石版をつくった者は突然の事故で、よほど急いでいたに違いない、と己を納得させた。

 ツーツォが慕い、死を悔やむ姫君なのだから、さらに近しい城の者たちは悲しみにむせび、普段と同じようにはとてもできなかったのだろう。

 乱暴に刻まれた文字は読み辛くて、ヒグリカは解読するのに苦労した。

 無理をしたのがよくなかったのか、遅まきながら二日酔いがヒグリカを襲ってきて、頭をがんがん叩いた。

「情けない。ちくしょう、頭が痛い」

 また強い砂風が吹いてきた。せっかく顔をきれいにしたというのに、これでは台無しだ。

 二日酔いは酷いもので、ヒグリカの視界がじんわりと滲んだ。

 宿への道を急ぎながら、無意識のうちにヒグリカは道行く女たちの顔をじっと観察していた。

 夢の女が現実であると、確証が欲しかった。いや、ただ、ヒグリカは彼女に会いたかった。

 だが、この滲んだ瞳では、何もしっかりとは映してくれない。

 彼女は私を、どんな風に思っていたのだろうか。あの閉ざされた瞳に、ただ一度だけでも私を映して、微笑んでもらえたら、もうどうなってもかまわない。

     

 ヒグリカはユゲテに、キャラバン隊へ自分を入れてくれないか、と頼んだ。

 ユゲテはヒグリカに条件を出した。

「そこにあるメシを全部平らげろ。そしたら連れて行ってやってもいい」

 それは女将がヒグリカのために用意した朝食だった。

「お腹があまり空いていないのです。お恥ずかしい。昨日、飲み過ぎたからでしょう」

「旅のオキテは食える時には食えってことだ。いざって時に動けねぇ足手まといを、連れては行けねぇな」  

 ヒグリカは黙々と食事をした。スープも、パンも、なんの味もしなかった。ふとテーブルを見るといつの間にか、皿の上から食べ物が無くなっていた。

 どうやら自分は本当に食事をしたようだ。ヒグリカには、そんな気がとてもしなかった。

「なあ、ヒグリカ、ここの女将さんの料理はうまいなあ。俺の故郷のメシには敵わないが、この味ならどこへ行ってもやっていける。おまえだって、そう思うだろうよ」

 ヒグリカはにっこり微笑んで見せた。

「はい。私も、そう思います」

 ユゲテがヒグリカに教えたのは、効率の良い荷物の運び方だった。

 大きく重い荷物を、体力を浪費せずに運ぶやり方を丁寧に教えてくれた。

「ユゲテ、私はお役に立てるなら、どんなことでもやりますよ」

「ああ、それにはまず、俺がおまえさんのことを知らなければいけない。もちろん、おいおい教えていくつもりだよ」

 大荷物を抱えた男が二人に近づいてきた。男はユゲテの仲間に違いなかった。

 ヒグリカは男の背負う荷物を見て、感服した。

 荷物運びと言えど、突き詰めれば、人を感動させることもあるのだとヒグリカは知った。

 大荷物を背負った男は、ヒグリカを気にせずに話し始めた。

「ユゲテ、ダメだ。やっぱり鉱石だけは買い叩かれちまうよ」

「そうか。そいつばっかりは持っていても仕方がないんだがな。だがな、どうやらこの町は砂嵐にやられて間もないようだぞ。鉄は有用だし、どこかに良い買い手は見つからないのか」

「それがどうもおかしいんだよ。城でお姫さんの部屋が崩れたって聞いて、こりゃあチャンスと売り込みに行ったんだが、必要ないってつっぱねられちまったよ。そりゃ、そうだろうよ。外からじっくり城を見たが、あの城はどう見たってどこも崩れちゃいないぜ」

 男はそこまで話すと、女将の持ってきた茶を飲んで一息ついた。

 ヒグリカは男に何か言わねばならないと思ったが、口からは何も出てこなかった。

「スマンがもう一度走ってくれ。それでダメなら全部捨てちまうしかないな」

「ああ、やらなくちゃならないことは、まだ山ほどあるものな。この仕事も、手は抜かんから安心しておけ」

「わかっている。頼んだぞ」

 宿を出るときまで男はヒグリカを感嘆させた。

 扉を開いて大きな荷物を下に置くと、男はぐいと荷物を蹴って、狭い扉を見事に通り抜けて見せたのだ。その一連の動作にはよどみがなく、さながらステージ上の手品師の見事さだ。

「慌ただしいが仕方ない。何しろ大急ぎの準備なんだ」

「見て学ばせて頂きます。荷物の持ち方の他に、差し当たって必要なスキルはありませんか」 ヒグリカが聞くとユゲテは陽気に笑って、女将を呼んだ。

「女将さんから料理をいくつか教わっておけ。故郷の味が恋しくてたまらない日が来るぞ」

「こんなに注文してもらったんじゃわたしは断れませんわね。お客さんを厨房に入れるなんて、いいのかしら?」         

 キャラバン隊が宿に戻ると、ヒグリカは女将と共に、腕によりをかけてつくった料理の数々をふるまった。

「あんた筋が良いねえ。こんな世の中でなけりゃ、うちに置いてやれたのに」

「どうですか、皆さん、これがヒグリカの手料理です。ヒグリカはお役に立つためならどんな仕事もこなして見せましょう」

 大荷物を背負った男が、ヒグリカの背中をどんと叩いた。

「よお、ヒグリカ、おまえも腹一杯食うんだ。食ったらいよいよ出発だぞ」

 ユゲテは杯を掲げて、声を張り上げた。

「我々の新しい旅路に乾杯だ!」 

「乾杯!」

「我々の新しい仲間に乾杯だ!」

「乾杯!」

 ヒグリカはスープをススッた。「なんておいしい!」

 生きるためには食わねばならない、とヒグリカは声を出した。


 ヒグリカは大きく手を振った。

「私の故郷よ、さようなら。サウジャラの国よ、さようなら」



 旅は続いた。

 ヒグリカとキャラバン隊の旅は、どこまでも果てのない砂漠の旅であった。

 もう日持ちのしない悪くなってしまう食べ物は、残っていなかった。

 乾物なんかの保存が利く食料はまだあったが、それにしてもヒグリカが旅に出てから、キャラバン隊は一度も新しい町を訪れていなかった。

 ヒグリカは大荷物の運び方ばかりが上達していた。

 ついに不審を抱いたヒグリカはユゲテに尋ねた。

「ユゲテ、キャラバン隊はどこへ向かっているのですか。私たちは南に向かっているのではないのですか」

「南だと。二度とバカなことを言うんじゃないぞ。俺たちはな、南から逃げてきたんだ」

「なんですって? それじゃあ、あなた方はどこを目指しているのです」 

 旅は日に日に困難を極めていた。ヒグリカの暮らしていた西側では砂に覆われていたとはいえ、気候は安定していたのだ。  

 それが今ではどうだ。日中は靴を溶かすほどに大地は熱くなり、夜になるとヒグリカたちはテントの中でピッタリくっついていなければならないほどに、凍えているのだ。

 生きながらにして地獄の片鱗をヒグリカたちは味わっていた。

 しかし、キャラバン隊はいつまでも進路を変えようとはしない。

 ヒグリカは嫌な予感がしていた。

「俺たちが目指すのは東の砦、リッドテキストだ」

 鈍器で頭を殴られたことはあるだろうか。いいところに一発をお見舞いされたことは?

 どちらも、うまくやってもらえれば血は出ないし、やられたことにも気がつかない。

 ヒグリカは言葉だってハンマーのように使えるのだな、と驚いた。

 ヒグリカは旅に出てからこれまで、自分を拾ってくれたキャラバン隊に迷惑をかけることのないように努めてきた。ヒグリカが足を止めるのはいつも、隊の全員が立ち止まった後だった。 

 男たちはしょっちゅう天に向かって己の不幸を口汚く罵ったが、ヒグリカだけは今まで、文句の一口だってもらさなかったのだ。

 それが今、ただの一言が、この忍耐強いヒグリカの足を叩き折った。

 腰までもが砂に埋もれてやっと、ヒグリカは自分がへたれ込んでいることに気がついた。

「ユゲテ、あなた方はキャラバン隊ではなかったのか。あなたは私を騙したのだな」

「俺たちはキャラバンだ。俺たちがどこへ行こうとも、そいつだけは変わらねぇ」

「リッドテキストは盗賊団なのですよ。いいや、そいつは問題じゃあない」

 ヒグリカは砂をつかんで、思いきりユゲテにぶつけてやった。 

ユゲテは眉一つ動かさなかった。ユゲテは己の頭にある信念を頼ってここまでやってきた男であった。

「盗賊だって人間だろう。ヒグリカ、俺たちはな、人間らしく死にたいんだ。俺たちを殺すヤツはケダモノじゃない。俺たちは人の中で生かされて、人の中で死んでいくんだ」

「しかし、私はどうしても南に行かねばならないのです。理由があるのです」

 ヒグリカはとっさに考えた。どうにかして南に行く方法はないだろうか。

 どこを向いても見えるのは、果てのない大砂漠だ。

 ああっ、故郷よ。今からでも引き返せぬだろうか。

 キャラバン隊を抜けて、たった一人で? なんと、バカバカしいこと。

 蜃気楼だって、もうちょっとは現実的だ。

「俺たちは地獄を知った。いいか、ヒグリカ、よく聞け。俺たちは負けたんだ。じゃあ、どうすればいい? 尻尾を巻いて逃げ出すしかねぇんだ」

「地獄ですって。地獄とはこの場所のことを言うんだ。ユゲテ、私たちはこのままでは死んでしまうのだぞ」

「原因不明の奇病だ。それにかかった動物たちが突然変異を起こしやがったのさ」

 奇病と聞いて、ヒグリカの頭に上っていた血がさっと引いていく。 

「まさかそれは、人にまで遷る病なのですか?」

「もしも、あれが人にまで遷ったなら、やりようはあったんだ。少なくとも俺は戦ったろうよ。あの畜生共を食い尽くすまでな」

 人には遷らないとわかって、ようやくヒグリカは落ち着きを取り戻した。

 ユゲテの話しを聞いてみようという気持ちになった。

「何があったというのですか?」

「わからねぇ。俺には何が起きたのか、わからなかった」

「ユゲテ、落ち着いて話して下さい」

「真夜中だった。アサヤミの枯れ木に祈りを捧げた次の晩のことだから、よく覚えている。俺たちは、光を見たんだ。あれはきっと、ケイナン国中のどこにいても見えたのだろう。俺はそう思っている」

 ケイナンは大陸の南を統べる大国である。

 アサヤミの木は偉大な大樹で、南のケイナン国の人々だけでなく、動物たちや、大陸中の人間にとって命の樹であったのだ。

 ヒグリカはアサヤミの木は枯れ落ちてしまったと、噂に聞いていた。

「地中から泉のように光が吹き出してきた。夜は輝きで溢れた。もしやアサヤミの木が復活するのではと、誰もが考えたが、そうじゃなかった。地中から吹き出た光がどこへ行ったのか、最初はわからなかったが──そもそも、そんな風には誰も考えはしなかった。光は現れて、そのまま消え去ったのだろうと──旅に出た俺たちは、他のヤツらよりもずっと早く、それを知ることになった」

 見ればユゲテの明るい褐色の顔色は蒼白であった。

 陽気なユゲテが、笑うとき以外の他には、今までどんな感情もその顔に浮かべなかったことに、ヒグリカは思い至った。

 ユゲテは悪夢に支配され、あらうる感情を彼の地に置いてきてしまったのだ。

「さあ、ユゲテ、私につかまって下さい。あそこに井戸がありますよ」

 ヒグリカはユゲテに肩をかして歩いた。

 ユゲテは歩きながら話し続けた。

「暗い茂みからオオカミの群れが現れたんだ。ヒグリカ、オオカミだ」

「おい、みんな、あの井戸で休憩しよう。すまないが、誰かユゲテの荷物を運んでくれないか」

 ヒグリカは声を出すと、キャラバン隊の男たちは少しだけ足を速めた。

「俺たちはオオカミを追っ払おうとした。オオカミを追っ払うことは難しくないんだ。……火を使ったっていいし、ピストルを一発、ぶっぱなしてやるだけで……大抵はオシマイだ。俺はその両方をやったが、オオカミたちは火を恐れず、ピストルを向けると逃げるのではなく、うまく斜線に入らないようにしながら近づいて来やがった。ケダモノはそんなことはしないんだ。ケダモノは愚かなんだ」

 ユゲテは砂漠に唾を吐いた。砂が口に入ったのだ。

「俺はピストルを奪われ、転ばされた。俺の右手は、ケダモノの牙にやられて動かなくなった。仲間たちが襲われ、次々に倒されていった。なかにはヤツらと対等にやりあった連中もいたが、こちらが抵抗するたび、ケダモノ共は体から光を発した。それはあの晩に見た、あの光に違いなかった。不気味に輝くとヤツらはさらに強くなった」

 ユゲテの全身から汗が噴き出して、喉がカラカラになっていた。

 ぜぇぜぇと息を吐いてユゲテは言った。

「もう大陸の南部には、怪物共が溢れかえっていやがんだ。俺たちの敵は人間で、俺たちを支配するのも人間だろう。そうじゃなけりゃ、居られないんだよ」

 怪物、と聞いてヒグリカは、この男が哀れになった。

 ユゲテは砂漠の伝説を知らないのだ。

 この砂漠の奥深くにこそ、怪物の王が潜んでいるというのに。          

「さあ、ユゲテ、水を飲みなさい。この水はあなたが最初に飲むのです」



「いいや、それはちがうぞ――」

 砂漠に響いた声は、雄々しく高潔であった。

 ヒグリカたちは背から荷物を降ろした。

 旅人にとって、井戸に現れる遭遇者はほとんどが敵である。井戸の水には限りがあるからだ。

 この男はどうか。

 男が高く指笛を鳴らすと、数十人の戦士たちが砂漠の丘に現れた。

 ヒグリカたちは剣を抜いた。

「剣をしまえ。俺は放浪の王、カウシッドだ。抵抗しなければ、楽に殺してやるぞ」

 カウシッドとその配下たちはらくだを操った。カウシッドたちのらくだは馬のように速く、キャラバン隊の間をかすめる度に三つの首を跳ばしていった。

「こなくそっ」

 ユゲテは勇敢だった。左手だけで大槍を振り回した。らくだの足を蹴り折って、戦士の心臓に槍を突き刺した。

「よくもこの俺の仲間を殺したな!」

 カウシッド王は激怒した。「陣を組め!」

 砂漠の丘を戦士たちが駈け降りると、らくだを見事に操り、息つく間もなく男たちを殺していった。キャラバン隊の男たちは槍をカウシッドに突き刺そうとしたが、カウシッドは走るらくだから飛び上がり、「せぃやっ」宙で舞いながら男たちにナイフを投げつけた。

 らくだは主人の望みが何かを知っていた。

 カウシッドは見事、らくだの背に着地すると、そのまま勢いよく走った。

「俺はキャラバン隊を率いる男、大商隊長ユゲテなり!」

 ユゲテは堂々たる名乗りで、ドンと砂を吹き飛ばした。

 ユゲテは大槍を構え、カウシッド王の剣を受けようとしたが、いたずらな砂風が運の尽き、戦場では天候の起こした気まぐれが明暗を分ける。砂がユゲテの視界を奪うと、その隙を見逃さずに、すかさず王の剣がユゲテの腹を貫いていた。

 カウシッドはらくだを返しながら剣を引き抜くと部下に手渡し、血を拭わせた。

「砂に目をやられるとはなんだ。生き急いだか、それとも死に急いだか」

 カウシッドの口ぶりにはどこか憤りがあった。

 理不尽にも、自ら手にかけた男に対し、王は怒ったのだ。

 これを聞いてヒグリカはあっと悲しくなった。ユゲテは最期、何を思ったのか。疲れ、困窮し判断を誤ったのだろうか、それとも、何か理由があって、逃げ出さなかったのだろうか。

 それがわからずにヒグリカは悲しんだ。

 カウシッドはじっとして怒りを納めると、部下たちにキャラバン隊の荷を検めるよう命じた。

「負傷者はいるか」

「カウシッド、こいつまだ息があります」

 男は血まみれのヒグリカを引っ張り、カウシッドの前に差し出した。

「商隊の男か。……運が良いヤツだ」

 カウシッドは動かなくなった数人の部下の顔から砂を払い落とした。

「うう……カウシッド、あなたはなぜ、こんな非道を行うのだ」

「口がきけるのか! このカウシッドに向かってそんな大口は、一国の王でさえ口にしないぞ。──誰か俺の玉座を用意しろ。俺はこの男の最期の言葉を聞くぞ」

 このカウシッドの戯れに、忠臣エンジノは戦闘よりも肝を冷やした。

 即座に玉座を用意しなければ、この王はその場に座り込み、その衣を土と血に汚してしまうだろう。そんな真似を王にはさせられない。

「しばしお持ち下されっ、あっ、これがちょうどいいや!」

 エンジノはヒグリカの傍らから、それを拾い上げた。

 ヒグリカが夢の女から預かった鉄の箱である。

「その箱に触るなっ」

 ヒグリカはエンジノを突き飛ばし、鉄の箱を奪い返した。

 ユゲテのように自分も信じるままに生き、信念を貫いて死のうと思った。

「このヤロめぇ」

「控えろ、エンジノ。おもしろいヤツだぞ。おまえ、名を名乗れ。それはなんだ。宝か」

「私はヒグリカ。サウジャラのヒグリカだ。この箱が何かはわかりません。私はこの箱の中身が何か、知らないのです」

 ヒグリカの答えにカウシッドは笑った。

「おまえは何かわからない物を守っていると言うのか。この俺にそのわけを話せ」

「私には、それもわからないのです。この箱のことを考えると、頭が痛くなる」

「己の信念の意味を知らんとはな」

「そうです。王よ。人は誰しもがそうなのです。あなたは何故、軽々しく人の首を跳ねる」

 カウシッド王は考え込むと、ついにその場に腰を下ろした。

 子供のように勢いよく、砂を舞い上がらせて、その美しい月色の髪までを砂まるけにした。

「あ~あ、やっぱりやった」エンジノはため息を吐いた。

 カウシッドの眼は真剣であった。

「ヒグリカ、おまえは王の秘密を聞くのだな。その代価がおまえに払えるのか」

「払えるものならば、いくらでも払いましょう」

 ヒグリカもまた、箱を抱え、座り込んだ。

 王とヒグリカの目線は同じ高さであった。

「王の秘密は世界の秘密だ。ヒグリカ、おまえにそれを聞く覚悟があるか」

 ヒグリカとカウシッドの頭上で星が瞬いた。

「どうかこのヒグリカに、王の秘密をお聞かせ下さい」

 カウシッドは偽らない、飾りのない言葉で答えた。

「王は好きな者だけを守る。そのためなら、何者をも殺す」

 カウシッドの部下たちが立ち上がり、この王の誓いに胸を張った。

 ヒグリカは胸に抱えた箱を、けっして無くさないようにと強く抱いた。

 そのために、ヒグリカは己の耳を塞ぐことが出来なかった。

「この世界は、間もなく滅ぶのだ。だから俺は‥‥‥」          

 ヒグリカは泣いた。

「ごめんなさい。カウシッド。私はあなたの秘密に値する物を、いっこも持ってはいません。さあ、私を殺せ」

 カウシッドは立ち上がり、ヒグリカの首に剣を突きつけた。

「殺せと言ったか。なぜ、おまえは死にたがるのだ」   

「世界が滅ぶなら、生きていたって仕方がありません」

「ヒグリカ、おまえにも俺と同じように生きる理由があるのだ。その胸に抱えた箱がそれだ」

「勝手なことを言うな。私の秘密は、お前のつまらない誓いなどと、並ぶものではない!」

 カウシッドはヒグリカを突き倒した。

 そしていよいよ、ツルギがヒグリカの首にかけられた。 

 カウシッドは容赦のない王であった。

「さあ、ヒグリカ、おまえの秘密を話すのだ。さもなくば殺すぞ」

 ヒグリカはここで死ぬわけにはいかなかった。

 使命を果たすために、死ぬわけにはいかないのだった。

「ウウ……女に会った。……あの晩、私は女に導かれて、階段を下りていった。そこで箱を受け取り……、受け取り……宿に戻った。彼女は、……そうだ。──私が、また明日会えるかと聞くと、悲しそうに笑っていた! 彼女はこの世のどんな女よりも美しかった。止まった時間さえも彼女は動かせるのだ。──翌朝、国の王女が死んだ。私は本当はわかっていた。あの暗くて狭い地下の部屋が、王女の部屋だったのだ。私は本当はわかっていた! 女の名と死んだ王女のなまえは同じだったのだ!」

「ヒグリカ、俺について来い。俺はお前をどこへでも、行きたい場所へ連れて行ってやるぞ」

 らくだが鳴いた。

 予兆のない砂漠の黒い悪魔が戦士たちに迫っていた。

 砂嵐が訪れ、何もかもを吹き飛ばし、呑み込まんとしていた。

 何と言うこと。

 ヒグリカは何を呪えばよいのかわからなかった。

「ヒグリカ!」

 砂の津波がカウシッドの前からヒグリカを連れ去り呑み込んでいった。

 エンジノはカウシッドの足にかじりついた。

「カウシッド、カウシッド!」 

「ああ、わかっているよ。嵐を抜けるぞ。みんな、絶対に死ぬな」

 カウシッドたちは、身を低くして砂嵐から逃げていった。


 

 ぎんぎらに照ったお日様が、鉄の箱を照らしていた。

「あつっ」

「そりゃ、そうだよ。それって鉄だもん。太陽の熱であっちんちんになってんのさ」

「センネン、何とかしてよ」

 女は火傷した指をちゅうちゅう吸った。

「いいよ、カモミール」

 センネンが鉄の箱を拾い上げると、思いもよらないオマケがついてきた。

「センネン、この人気絶したままで箱を抱いているよ」

「うん。カモミール、どうする?」

「へっへっへ~、連れて帰っちゃおっか?」

「うん、わかった」


 ヒグリカは眠りながら、夢を見ていた。

 ヒグリカは目覚めて最初に、やわらかい枕に驚いた。

 こんなに寝心地の良いベッドは、生まれて初めてだった。

 そして何があったかを思い出して、自分のツルギをまず探し始めた。

 女の死をヒグリカは知ってしまった。

 後を追うにはツルギがいる。

 でも、すぐに「それよりも」と考え直すことになった。

「私の気持ちなどくだらないよ。──それよりも、箱はどこへ行った!」

 ヒグリカはほとんど半狂乱になった。

「あら、お目覚めですか?」

 遠くから声をかけられて、ヒグリカの自制心が働いた。

 もう少しでベッドを蹴り飛ばすところだったのだ。

 ヒグリカは顔をこすって寝ぼけ眼を誤魔化した。

 近づいてきたのは、遠目にもわかる美しい女だった。

「こんな大広間では、落ち着いて眠れなかったのね。あなたが、急にいらしたから、ここしか用意できなかったのよ」

「ありがたいことです。私はこの手に、鉄の箱を持ってはいませんでしたか。絶対に持っていたはずですが」

「わたし、なまえより先に箱のことを聞かれたのって、今日が初めてよ。だって、初対面で箱のことを尋ねる人ってあまりいないものね」

「あなたは美しい人です。それにきっと、聡明な方とお目受けしました。私の箱をご存じないでしょうか」

 ヒグリカは女の目をじっと見つめて、必死の気持ちを伝えようとした。

 すると、女は長い指でヒグリカの胸を突いた。

「あなた、おなまえは?」

「わたしはヒグリカ、美しい人、あなたは?」

「お上手ですのね。でも、きっと、あなたは真実の愛に出会うと、固くなって何もできなくなってしまう人。わたしには誠実な男が分かるの」

 女はヒグリカを焦らした。聞きたいこととは違うことばかりを言って、ヒグリカの腹のなかをどろどろにした。

 ヒグリカは白いシーツをちらりと見た。

 力尽くで箱の在処を聞き出してやろうか、と悪魔がささやく。それを押しとどめたのは、惚れた女への罪悪感だった。

 黒い欲望が萎んで、ヒグリカは惨めな気分になった。

「どうかこのヒグリカに、あなたのなまえを教えて下さい」

「ククススよ」

「えっ?」

「笑うなんてひどいわ」 

「まさか。笑ったりしません。よく聞こえなかったのですよ」

 笑い声のようななまえだ、とヒグリカは思った。

 風を通す穴から入り込んだ光が、ククススの少し短い髪をキラキラ輝かせた。

 ククススの美しさは黄金によく似ていると、ヒグリカは思った。少なくともこの世のどんな黄金よりも、ククススは眩く輝いている。

「あなたの箱でしたら、ちゃんと仕舞ってありますわ。一目見て、きっとこれは大切なものだわって、わたし思ったの」

「ええ、その通りです。でしたら、箱は無事なのですね?」

「どうか焦らないで。ついていらっしゃいな」

 ヒグリカの知る慣習では、女は普通、男の後ろを歩くものであったが、ククススは男を従える姿が妙に様になっていた。

 纏ったドレスは彼女を細く包んで、ククススの引き締まった肢体を引き立てている。

 大きくひらいた背中、白い肌がなめらかな弧を描く。その空間をそっとなぞると丸くかわいらしいお尻があった。

「箱のことだけを考えるのです」

 ヒグリカは己を厳しく戒めた。

 大広間から出ると、長い通路があった。

 ヤスリをかけたように均等であった広間とは違い、通路の床は適当に焼いた粘土細工と同じぐらい、でこぼこだった。しかし、そのどこにも継ぎ目はなかった。

 どうやら不思議と歩きづらくはない。

「ここよ。あなた、俯いて歩いていたら危ないわ」

 床のことを考えていたら、前をよく見ていなかった。

 ククススは両手をヒグリカの心臓に添えて、女の魔法でヒグリカを動けなくした。

 跳び上がるのも後ろに退くのも、恥ずかしいことだとヒグリカは思った。ヒグリカはつまらない男の意地でそっと身体を横にずらした。

 そこはどうやら水場であった。

「そちらの貯水池から水をくんで、こっちで使うのよ。できますかしら?」

「大丈夫です。どうもありがとう」

 ぬるい水でヒグリカは顔を洗った。清々しさがありがたかった。

 ククススが柔らかい布を差しだしてくれたので、礼を言った。

「気持ちの良い水でした」

「ふふっ、犬のように水を使うのね」

 よくわからないことを言われて、ヒグリカは照れた。

「よして下さい。男も、化粧をする姿を他人に見られたくはないものです」

 言葉は照れ隠しであったが、ククススはしおらしくなった。

「ごめんなさい。こんなことって、わたし、あまり慣れていないのよ」

 きっとそうではないか、とヒグリカは考えていた。ここがどこなのかヒグリカにはわからなかったが、ククススからはどこか高貴な香りがしていたのだ。

「では、朝食ですわ」

「えっ、朝食ですか?」

 ククススは少女の顔でいたずらっぽく笑った。

「今は朝なのですよ、あなた、ずっと眠っていたの」

「命を救って頂き、感謝しています」

「それはわたしではありません。さ、ついてきて」

 鉄の箱が気になっていた。何が起きているのか、わからないことだらけだ。

 ヒグリカは深呼吸をした。



 連れてこられたのは、ヒグリカの眠っていた大広間によく似た部屋だった。

 違うことは、こちらは風穴が大きく、風と光をたくさん取り込んでいた。

 どうやら、太陽の成分が多くなるほどに、ククススは眩しく輝く女性であるようだ。

「あら、朝食がないわ。みんなお寝坊ね」

 ククススは腰に手を当てて頬を膨らませた。

 風穴の側で、黒い犬がさんさんと照る太陽を浴びて、眠っていた。

「ここで待っていて。人見知りをするのよ」

 言われなくても、ヒグリカは動けなかった。

 ヒグリカの本能が、あれは絶対に犬ではないと、告げていたのだ。

 ヒグリカを尻目に、ククススは犬に近づいていった。

「センネン、起きて。朝ご飯にしましょう」

「あっ、ククスス、でも、みんなまだ寝ているよ?」

 なんと、犬は口を利いた。いや、なんだこいつは。猫であるような犬であるような、もしかして、ワニであるのかもしれなかった。                     

「もう朝よ。起こして上げましょうよ」

「うん、わかった」

 のそりとそいつは身体を揺らした。

 そして、いよいよ犬とヒグリカの目が合った。瞬間。

 煙を残して、そいつは消え去ってしまった。

 ヒグリカは堪えきれなかった。

「化けものだ!」

 ヒグリカは尻餅をついて叫んだ。これは悪夢か、いや、ダメだ。顔を洗ってしまった。

 寝ぼけ眼の夢心地であれば、どんなによかったろうか。

「人見知りする子なのよ。それにとっても傷つきやすい。ヒグリカ、センネンに謝って頂戴」「いったい、あなたは何者なのだ」

 ヒグリカは空へと続く風通しの大穴を見た。ここから飛び出そうか。さっさとそうするべきかもしれない。

「センネンはマジンよ。大砂漠の伝説を聞いたことはないかしら?」

 ヒグリカははっとなった。

「まさかここは、怪物の王が暮らす宮殿なのか」

「センネンのこと、そんな風に言わないで」

 ククススはヒグリカを睨んだ。

 麗しい瞳にヒグリカはたじろいで、センネンに謝らなくては、という気になった。

「すまなかった、センネン、私はヒドイことを言いました、私はバカなのです」

 すると、広間の床が迫り上がって、低いテーブルのようになった。

 不思議なことが次々に起こった。

 黒い影のような人間が、テーブルに清潔なテーブルクロスをかけると、湯気の上がった料理を運んできた。

 ジューシーな匂いに鼻孔を突かれて、ヒグリカの腹が鳴った。

 どんな魔法よりも、ヒグリカを驚かせたのは、目を覚ましたこの宮殿の主たちだった。

 宮殿の主はみんな、世にも美しい、可憐な乙女たちだったのだ。

 


 このように並べて紹介することは心苦しいことである。

 少女たちはそれぞれが、稀なる花であり、宝石であった。

 彼女たちをけっして宝石店のガラスケースに並べてはいけなかったし、彼女たちの匂いを嗅ぎ比べるような真似は下種のやることなのだ。

 なんてくやしい。男とは、総じて下種なのだ。

 好奇心に溢れた子猫の目に見つめられて、ヒグリカは顎を引いてかっこうをつけた。   「あら、おはよう。あなた、起きたんだね」

 元気いっぱいに少女が笑うと、ヒグリカもつられて楽しい気持ちになった。

 寝起きが良いのかしら、起きたばかりでも少女には全身、精気がみなぎっている。

「はい、はじめまして。私はヒグリカと申します」

「わたしはカモミール、あなたを助けたのはわたしとセンネンなのよ」

 カモミールは健康的な、やましさのない美少女で、それ故に、少女は男をいっそうやましい気持ちにさせた。

 かわいらしい笑顔の下で、カモミールは胸と腰に薄い白い布を巻いただけの姿であった。

 その胸や腰は、それほどかわいらしいというわけではないのだ。花を模した髪飾りが彼女の色香を引き立てている。カモミールはヒグリカの手を引っ張った。

「わたしが助けたんだから、わたしとご飯を食べるんだよ」 

 意味の通らない理屈に抵抗できず、ヒグリカはカモミールとテーブルの前に座った。

 ククススの言ったことは実に正しく、ヒグリカは誠実な男だった。

 カモミールが座ると、男の扇状を煽る箇所がどうしても目についた。

 つややかな肌を見過ぎないよう、ヒグリカは照れて目を逸らした。

 しゃんとしなくては、と頬を叩いたがそれは無駄に終わった。

 知らない女の足が見えた。女は裸足であった。

 褐色の肌の女の爪先が、ヒグリカの意識を奪った。なぜ、ただの爪先にこれほど魅力を感じるのか、わからなかった。

 女の分厚くて長い腰布からは、くるぶしから先しか見えない。女の足が虫のように動いた。

 いや、それはヒグリカの夢想であった。褐色の女は足は少しも動かしていない。

 派手な模様を堪能しながら腰布を眺める。布の上には腰骨が見えた。

 そして細いへそがあった。女にはへそがある。

 女はその身に銀の胸当てとほんの少しの装飾品をつけていたが、どれも飾り気の多くない質素なものだ。女は自らを引き立てるのに煌びやかな飾りはいらないことを知っていた。

 眠たそうな眼をして女は言った。

「わたし、ターニャよ。砂漠の宮殿はお気に召した?」

「ターニャ、私はヒグリカ、ここはまるで夢の国ですね」

 ターニャはヒグリカの左に座った。

 ターニャの長い髪は、月光の照らす湖畔であった。ターニャは夜を思わせる女だった。

 南国の果実の魅力にヒグリカは惑わされた。

 その流れる髪の感触を、その手で確かめたいという欲望に取り憑かれた。

 少女の無邪気ないたずらがヒグリカを正気にした。

 カモミールがヒグリカの股を擦ったのだ。

「いけませんよ、カモミール」

「だって、つねったら痛いわ」 

 仕方なくヒグリカはカモミールの腰を抱いてやった。

「んっ、離してっ」

「そうです。みだりに私たちは触れ合ってはいけません。さ、ちゃんと座って」

「ごめんなさい、ヒグリカ。気持ちの悪いことなんだって知らなかったの」

 カモミールは珍しい客人に浮かれていたのだ。

 ターニャはヒグリカのコップに茶を注いでくれた。

「カモミールはものを知らないのよ。それからククススも、あの子、何か失礼なことしたでしょう」

「いいえ、とても親切にして頂きましたよ」

 ところで今更になって、カモミールは今朝の食卓がいつもと違うことに思い至ったらしい。

「ターニャ、どうしよう。わたし、男の人の前で、こんな格好じゃ恥ずかしいわ」

 身を縮こませて、カモミールは恥ずかしがった。

「あら、いつもその格好なのに、今日は恥ずかしいのね」

「だって、わたしは踊り子よ。他の格好なんて思いつかなかったんだもん」

 ヒグリカはカモミールの境遇を思って、胸を痛めた。

「ターニャ、カモミールに意地悪言っちゃあ、かわいそうだよ」

 エプロンをつけた少女が、カモミールにケープを渡した。

 どうやら、出てきた食事まで魔法の品ではなかったらしい。

 紳士らしく、彼女の特徴を紹介するならば、まずはその珍しい桃色の髪に触れたいところだ。 ふわふわのやわらかい髪を、後ろで束ねている。

 しかし、ヒグリカが気にしなくてはならなかったのは、

 彼女の髪のことではなかった。

 彼女がエプロンをけっして外さないように、ヒグリカは願った。 

 エプロン越しに見ても、彼女の弾けそうな胸は女たちの中で誰よりも一番見事だった。

 ああ、ターニャはエプロンを外し、髪縛りをほどき、その紐でエプロンを……

 丁寧にまとめたのだ。その一挙一動にヒグリカはゴクリと喉を鳴らすほかない。

 ヒグリカの正面側の席に、ぽんと煙が上がった。

 登場したのは宮殿の主。

「やあ、客人、楽しそうで何よりだね」  

 宮殿の怪物センネンは機嫌が悪かった。

 どうやらその姿は自由自在のようで、今は生意気そうな美少年の姿をしていた。

 まったく不思議なことであったが、ヒグリカはどうにか彼の存在を受け入れていた。

 センネンの隣には、ククススと桃色の髪の少女が座った。

 噂に名高い怪物の王に、自分は歓迎されていないようで、ヒグリカは生きた心地がしていなかった。

 死を意識した食事は奇妙なものだ。

 食欲は出ないのに、死ぬわけにはいかないという思いがヒグリカにメシを食わせた。

 ヒグリカの命とは別の何かが、ヒグリカを生かしていた。

 ターニャとカモミールは頼んでもいないのに、パンをちぎったり茶を注いだりして、ヒグリカの世話を焼いた。

「ねえ、君、そんなことも自分で出来ないのか」

 つまらなそうに言うセンネンをククススは叱った。

「ヒグリカはあなたに謝ったでしょ。いつもしてあげていることじゃないの」

「だってさあ」 

 センネンはくちびるをとがらせてククススに甘えた。

 この不思議な少年は噂ほど恐ろしい者ではないのかもしれない、とヒグリカは思った。

「センネン、ぼくが食べさせてあげるよ。こっちを向いて?」

 桃色の髪の少女はサロメという名だとターニャが教えてくれた。

 このサロメは砂の欠片ほどもヒグリカに興味を持っていないようだった。

 その目線の先には常にセンネンがいた。ヒグリカも野暮はよそうと、サロメには話しかけないようにした。

「聞きたいことは砂漠の砂ほど」

 ヒグリカが言うと、カモミールの眼がおもしろそうにキラキラ輝いた。ヒグリカがどんな質問をするのか興味津々と顔に書いてあった。

「なんでも聞いていいよ」

「では、私の箱はどこへあるのでしょうか」 

 ヒグリカは箱のことを忘れていなかった。

 しかし、そのことを立派だと言ってくれる人はここにはいなかった。

「ヒグリカ、あなた、起きてから箱のことばかりなのね」

 ククススは呆れて、ヒグリカを見た。この男に屈辱を与える表情が、ククススの一番魅力のある顔であった。

 さらにカモミールにまでつまらなそうにそっぽを向かれて、ヒグリカは傷ついた。

 ターニャだけが、優しく茶を注いでくれた。

 ただ、ターニャにしても、ヒグリカに箱の在処を教えてくれるわけではなかった。

 そこでヒグリカが頼ったのは、同じ男であるセンネンだった。

 怪物とはいえ、同じ男同士であれば、ヒグリカの心境を察してくれるのではないか、と考えたのだ。 すぐに声をかけることは控えた。センネンはサロメの髪を束ねるのに夢中で、それを邪魔することはおそらくまずい。  

ヒグリカは目を閉じて、じっと待った。     

「センネン、偉大なる砂漠の王よ。脆弱なる私にできることは、ほんのちっぽけなことです。あなたには命を助けて頂いたご恩があります。そして私には、果たさねばならない使命があります。私はこの二つの信義を持って、あなたのためにどんなことでもいたしましょう」

 これに対して、センネンはまず間違いを正した。

「そりゃ、ちがう。ぼくは王様じゃない。王様は別のヤツだ」

 なんと、砂漠にはセンネンの他にも怪物がいるというのか。

「ヨッヤーが大砂漠の王様なのさ。イイヤツなんだ」

 ヒグリカはこのヨッヤーの名を聞いた覚えがあった。

「ヨッヤーとは、もしやリッドテキスト盗賊団の頭領ではありませんか?」

「ああ、そうだよ。ぼくがヨッヤーのために、あそこを暮らせるようにしてやったんだ」

 足を踏み入れれば、二度と帰ることはできないと言われる大砂漠を横断して、その奥に棲みついたのがリッドテキスト盗賊団であった。

 ヒグリカは自分が伝説の一端を垣間見たような気がした。 

「正直、ぼくは君のことが嫌いだよ。ぼくの平穏な暮らしを乱してくれちゃってさ。でも、君の鉄の箱にも別に用はないから返して上げる。箱を持ってどこへでも行きなよ」

 ヒグリカはほっとした。恩義のためならどんなことでもするつもりであったが、正直、怪物の出す難題など、自分が解けるとはとても思えなかった。

「朝から、懲りないヤツがきた」

 ふいにセンネンは立ち上がった。その表情は女たちと戯れるときには、絶対に見せないものだった。ヒグリカにはそれが狩りに出るケモノの顔だとわかった。

「ヒグリカ、君はぼくを怪物と言ったろう。だが、それは違う。ぼくは怪物じゃない。ぼくはそんなちゃちなもんじゃないよ。ぼくは唯一独りの‟怪獣”なんだ」



 宮殿に向かって、男たちは鉛玉を撃ち込んだ。

 さらに、巨大な鉄柱で突っ込んで門を開けようとしたが、

 センネンの宮殿はビクともしなかった。

「俺がやるぜ!」

 青い鎧の男は仲間たちを下がらせると、身の丈ほどもある巨大な剣を構えた。

「どっせーいっ、ホームラン!」

 男が巨剣を壁に振り当てると、ぐらぐらと宮殿が揺れた。

「毎度、迷惑なことだね。プートギル、今日は何で勝負するんだい?」

 少年の姿のセンネンが宙に浮いてプートギルを見下ろしていた。

「勝負だと。俺たちはおまえを退治しに来たのだ。命を賭けた戦いは剣でやるに決まっている」

 センネンはつまらなそうにプートギルの剣を指さした。 

 見れば、プートギルの大剣は柄から先の刀身が無くなっていた。

 さっき宮殿を叩いたときに壊れてしまったのだ。

「友達を置いて君一人なら、上からでも入って来られるよ。跳び上がってさ。これ、前にも言わなかった?」

「俺一人では、おまえには勝てないのだ。怪物を倒すのは仲間と共にと決まっている!」

「ふん、くだらない。剣がないのに、どうやってぼくと戦うつもりさ」

 プートギルは壊れた剣を投げ捨てた。

「そこで待っていろ。この手でぶん殴ってやる」

「オーケイ、ぼくはここから動かない。君がぼくに触れられれば、君の勝ちだよ」

「なめるな」

 プートギルが砂漠に足を振り下ろした。

 大きな音と共に、空に浮かぶセンネンに届くほど高く、砂柱が上がった。

 プートギルの人外魔境な力業に対してセンネンは──なんと、押し寄せてきた砂柱を、センネンは手の一振りで束ねて、捕まえてしまった。すると、その手の中で砂は蛇となって蠢き始めたではないか。

 なんて不思議な魔法だろう。その身を蠢かして、

 砂の蛇がプートギルに襲いかかる。

 プートギルは横っ飛びに転がって、巧みに蛇を躱したが、蛇の数はみるみる増えて、あっという間に百匹以上になった。

「プートギル、手を貸そうかな?」

「いらん、ジョオジュラン、ここは俺に任せろ!」

 去勢ではない。勢いつけて、プートギルは攻勢に出た。

「そうだと思っていたよ」

 黄金宮殿を背景にして、プートギルは駆け抜け百匹の砂蛇に立ち向かう。

 次々に迫る蛇の頭をプートギルは切り捨て、蹴り潰す。

「せやっせやっ」百匹以上の砂蛇の顔を吹き飛ばし、プートギルはぜえぜえ息をした。

 膝に手をつきながら、真っ直ぐにセンネンを見上げる。

「どうだ!」

 足を止めた瞬間、顔のない蛇が地中から現れて、プートギルに絡みついた。

 砂蛇は頭を失っても生きていた。 

 センネンの百匹の蛇がプートギルの鎧に巻き付いていく。

「こんなもの、吹き飛ばしてやる」

「おもしろい、力比べだ」

 プートギルが気合いを入れると大気が震え、風がごうごう勢いよく吹き荒れた。

 衝撃で砂柱が天に昇って、雲に穴を空けた。

「やれやれ」

 ジョオジュランたちはテントの影に退避していた。

「すごいじゃないか、前よりパワーが増しているよ」

 センネンの言葉通り、次第にプートギルから砂蛇たちが剥がれ落ちていく。

「ははっ、そうだろう。もうお前の力なんて俺からしたら、屁みたいなもんなんだ。こんな蛇くらいなら何匹だって相手になってやるぜ」

 プートギルは力勝負の次は舌戦に持ち込んで、相手を怒らせてやろうと策を練ったが、このジョークはセンネンには通じなかった。

「よ~し、それじゃあこれならどうだい。エラスモっ!」

 センネンが使ったのはまたしても蛇であった。

 ただし、今度の蛇はプートギルを一呑みにするほどの大蛇であった。

「うおぉっ! うわぁぁっ、ちょっ、待っ」

 逃げなかったのは立派だよな、とジョオジュランはつぶやいて、砂の大蛇に呑まれるプートギルを見届けていた。



 広間からヒグリカは様子を見守っていた。

 大広間は宮殿の高い場所にあって、センネンたちの戦いがよく見えていた。

「彼らはいったい?」

 ヒグリカはカモミールに聞いた。

「よくわかんないけど、プートギルはラティカのお兄さんだよ」

 プートギルはセンネンにやられた青い鎧の男だろうと察しがついた。

「ラティカとは誰です?」

「ん、っと、あの娘よ」

 カモミールは、倒れたプートギルを介抱している少女を指した。

「無事にお兄さんに会えたのね」

 ターニャが嬉しそうに言った。

「ラティカはセンネンが拾ってきた娘で、前はこの宮殿で私たちといっしょに暮らしていたのよ」

 そうですか、と神妙な顔つきになりながら、大砂漠の怪物が女好きであるという噂は、どうやら本当だったようだな、とヒグリカは一人で納得していた。

 センネンは黒い犬のようなものに変わっていた。

「センネン、最後のはズルイんじゃねぇかな。力比べっぽくなかったかもよ」

 ジョオジュランが文句を言った。

「あのね、勝負はぼくにタッチすることなんだけど」

「そうだったかね」

 センネンははしゃいで砂を蹴った。

「ラティカ、ラティカ」

 一目散、ローブを纏った少女に駆け寄っていく。

「久しぶりです。センネン」

 少女は黒いケモノを抱きしめ、かいぐり頭を撫でる。

「皆さんはどうしていますか?」

「みんな元気だよ。今、門を開いたから出てくるよ、ほら」

 宮殿の門がぎぃ、と開き、少女たちが顔を出した。

「みんな、会いたかった!」

「ああっ、ラティカ」

 ターニャがラティカをぎゅっと抱きしめた。

 その様子は同じ血の妹を抱く姉のようであった。

「ターニャ、カモミール、元気そうで良かったです」

「うん、ラティカもね。お兄さんは大丈夫なの?」

 ラティカは困ったものね、と笑った。

「お兄ちゃん、丈夫なのが取り柄だから。とこらでカモミール、いつの間にかケープなんてつけるようになったのね」

「うん、あのね、これ、変だよね? わたしらしくないよね」

「うん、カモミールらしくないわ」

 ラティカに言われて、カモミールは「え~い」とケープを脱ぎ捨てた。「おおおっ」、と男たちから歓声が上がる。「ぐるるっ」と唸るセンネンに睨まれて、

 ジョオジュランが口笛を吹かした。

「へっへ~ん、他人の眼を気にするわたしではないのです!」 

「あーっ、ぼくが貸してあげたのにぃ」

 遅れて現れたのは、桃色の髪のサロメだ。

「やっとお皿が片づいたのに、洗い物まで増やさないでよ」

「ごめん、サロメ、つい勢いがついちゃった」

「もう、カモミールには貸してあげないんだから」

「サロメも、相変わらずですね」

 微笑んだラティカに向かって、いきなりサロメは詰めより突っかかる。

「ラティカ、ぼくのセンネンといちゃいちゃしちゃダメよっ」

 ラティカにくっつくセンネンを、自分の胸に抱き寄せた。

 ところで、サロメはこれで控えめな女なのだ。

 纏った衣装はボリュームのある膨らんだズボンであったし、上着にしても柔らかくゆるやかなシャツを羽織って胸の前できゅっと縛っていた。袖だって、長袖であった。

 みんなと同じ踊り子の服には違いないが、彼女のこの衣装は、他のみんなを真似て踊り子の恰好をしているのだった。つまりサロメはそういう女の子なのだ。

「いつまでたっても、サロメはセンネン、センネンばっかりですね。それではいつかケガをしますよ」

「君がそうやって、ズケズケものを言うのも変わらないわね。ぼくはこれでいーのっ」

 そんなことを言い合った二人だが、ラティカはこれですっかり安心していた。

 宮殿を出てからラティカはこの、他の三人とは違って、内向的なところのあるサロメを気にしていたのだ。

 ラティカはサロメの髪を触った。サロメもそれを嫌がらなかった。

 ラティカはサロメの髪が好きだった。よく昔はふわふわクシャクシャして楽しんだものだ。ラティカはなんとなく遠慮してふわふわだけにしておいた。

 昔はしなかった自分の気遣いに、ちょっぴりラティカは寂しい気持ちになった。

「この髪は好きですので、変わらないで下さいね。それから、胸も。これ以上、差をつけられたら嫌です」

「うう、気を付けるけど、どっちも、ぼくにはどうなるかわかんないよ。ラティカのだって、かわいいと思うわ」

 ラティカは自分の栗色の髪を軽くつかんだ。

「みんなのスタイルがよすぎるんです。ズルイわ」

 ラティカの訴えはもっともで、公正に言って共感できるだろう。ラティカのローブの下は、恥じることなく立派な女性らしいプロポーションなのだ。

「ねえ、もうラティカはぼくたちみたいな格好はしないの?」

 サロメがしゅんとして、子供のようなことを言った。

 ラティカは内緒話の声でサロメにだけ秘密を明かした。

「本当はローブの下に着ているの。お兄ちゃんたちには内緒よ」



「ここはいつ来てもいい場所だな」

「辛い日々にふいにあるオアシスだよ、ジョオジュラン」

 ジョオジュランとアシタは自分たちのリーダーに感謝した。

「あれ? そういえば、金髪の子は?」

「なんだ、アシタ、おまえ、ラティカを狙っているんじゃないのか」

「ちょっと、何言ってんの。ジョオジュラン、黙れ。かわいい子はみんな、見ておきたいじゃないか」

 ジョオジュランはばっちり頷いた。

「その通りだ。だが、あんまり調子に乗ると、恐いのがいるからな」

 ラティカからちっとも離れようとしない黒い犬をちらりと見て、「人間様がお預けをくらう世の中か」と嘆いた。

 ククススが表に出て来たのは、ジョオジュランとアシタが天に二度、悪態をついたときだった。

 太陽の下では、砂漠の反射鏡がククススを特別に輝かせたので、大きな荷物を抱えたヒグリカに誰も気がつかなかった。

「あっ、ククスス、なんでそいつを連れてくるのさ」       

 センネンがククススに文句を言った。ククススの背後に、ヒグリカは従者のように控えていた。

「お客様を部屋に残してはおけないわ。それにビックリさせたかったの」

 ヒグリカのキャラバンでの経験が役に立った。

 ククススに言われてヒグリカが風呂敷を広げると、山と積まれた水や食料が出てきた。

「私の故郷の料理です。どうぞお持ちください」

「わたしじゃ出来ないものね。ラティカちゃんたちに旅の支度を持たせてあげたいと相談したら、ヒグリカは快く準備を手伝ってくれたわ」

「もー、ククスス、そういうことは、どうしてぼくに言わないのよ」

 サロメはそう言いながら、ヒグリカの料理がどんなものか気になるようで、

 ヒグリカと料理をちらちら盗み見ていた。

「サロメばかり働いたらダメよ。みんなでやるのです。それにサロメはぴゅーと行ってしまったじゃない」

「水まで貰っていいのかよ!」

 ジョオジュランが礼を言った。

「そのくらいなら構わないさ。君たちのリーダーが暴れてくれたから、おかげでほら、新しい水脈が出てきた」

 センネンの言うとおりで、確かにプートギルの吹き飛ばした場所から、ちろちろ水が湧き出ていた。

「へぇ、あいつが何かすると、いつもオチがつくな」

「リーダーらしいね」

 ジョオジュランとアシタは、いかにもプートギルのやることだ、と苦笑する。     

 二人はこの土産を気を失ったプートギルごと荷台に積んだ。

「ありがとう、みんな、もう行かなくちゃ」

「ラティカ、辛くなったらいつでも帰ってくるのよ」

「ターニャ、心配しないで。きっとわたしやり遂げます」

 プートギル一行はこうして砂漠の宮殿を立ち去った。

 出会いと別れがあるこの場所は、もしかしたら、故郷のサウジャラと何も変わらないのかもしれない、とヒグリカはほんの少しだけ、暖かな陽光を胸の内に感じていた。




 宮殿中をバタバタと走り回っている。

 ラティカに会ってテンションの上がったセンネンが、宮殿中を走り回っているのだ。

 ヒグリカはセンネンとプートギルのことを考えていた。センネンはさることながらあのプートギルの力は、およそ人間離れしたものであった。怪物の王にとってプートギルは、例えば、自分などとは違う、特別な関係性なのかもしれない。

 でも、ヒグリカはあの二人の関係に、上手くなまえをつけることができなかった。

 昼頃になってやっと落ち着いて、センネンは広間にぽんと現れると突拍子無く、ヒグリカにこう言い放った。

「おもしろい余興を考えたよ、客人。この宮殿のどこかにぼくたちは君の大切なものを隠した。見つけ出してごらんよ」

「なんですって?」

「何でもやると言ったじゃないか。ぼくを楽しませてくれ。君と力比べをするわけにはいかないから、君はぼくと知恵比べをしようじゃないか。タイムリミットは明日までだ。見つけられないと、──君の宝は煙みたいに消えちまうからね」

 ヒグリカは目の前の美少年のツラをぶん殴ってやりたくなったが、その気持ちを抑えて駆けだした。

 なんと自分は愚かなのだ。悪名高い怪物の住処をやさしい故郷と重ね合わせて、こんなに悠長に過ごしていたなんて。宮殿にセンネンのけたたましい高笑いが響いた。

 

 砂漠の宮殿には八つ部屋があった。

 驚くべきことに、本来はその部屋の数や形はセンネンの魔法の力によっていかようにも変幻自在の自由自在であったが、それでは人の身なるヒグリカとの知恵比べにならぬため、明日まではこれが変わることはないと、砂漠の怪物は約束してくれた。

 その八つとは、二つの大広間、厨房、水場、そして女たち四人それぞれの寝室であった。

 まずヒグリカは大広間を調べた。

 あの床が上がったり下がったりする部屋が妖しいのではと睨んだが、いくら調べても箱はなかった。

 女たちとセンネンが昼メシを食う間は、ヒグリカは一方の大広間を調べ、それぞれが勝手なことをし始めて、部屋が空くと、もう一つの大広間を調べた。

 これだけで昼が過ぎていった。

 ヒグリカは次に厨房を探すことにした。

 厨房に行くとサロメがいた。

「ねぇ、ヒグリカ、君、水仕事が出来るんでしょ。手伝ってよ」

 サロメに言われて驚いた。何しろ、サロメがヒグリカに口を聞いた第一声がこれだったのだ。その言い用は明るいものであった。

「サロメ、あなたは一人で片付けているのですか」

「こう見えてみんな忙しいのよ。ぼくはヒマだから、やっているの」

 ヒグリカは別にヒマなわけではなかった。それどころか、今までの人生で、最も良く働かなくてはいけない時を迎えているのだ。

 ただ、ヒグリカは闇雲に探すより、女たちから何かヒントを得られないだろうか、と考えた。

 ヒグリカはサロメに言った。

「わかりました、手伝いましょう。その代わりに私の箱がどこにあるのか、教えていただきたいのです」

「わあ、助かるよ。でも、ぼくは箱がどこにあるのか知らないのよ。ごめんね」

「そうでしたか。でしたら、センネンについて聞かせて下さい」

「わかったわ。ぼくに答えられることならね」

「彼は不思議な力を使えるようですが、センネンは箱を魔法の力で隠したのでしょうか」

「それは絶対にないわ。だって、それじゃあ知恵比べにならないわ」

 指を立てて、サロメは言った。

 サロメは教科書の最初のページに書いてある世の理を子供に教える教師のような顔をしていたので、ヒグリカはこれを信じた。

 ただ、それはこの少女の信頼をあの怪物が裏切らなければの話しではあるが。

「ねぇ、ところで、お願いがあるの」

 サロメがヒグリカの腕に泡をつけた。

「君の故郷の料理をぼくに教えてくれない?」

 それは婚約を約束する言葉にも聞こえるが、もちろん意味は違う。

「構いませんよ。箱が見つかったら、教えて差し上げましょう。でも、どうしてです。あなたの料理はとてもおいしいですよ」

「えっ? えへへ、本当? ありがと。ぼくは、センネンにこの世にある、おいしい物をぜ~んぶ食べさせてあげたいの」

「サロメはセンネンが好きなのですね。私と口を聞かなかったのはそのためですか?」

「う、うん、センネンに嫌われたら嫌だから。ねえ、ヒグリカ、これって浮気なのかしら?」

「私の故郷ではいっしょに仕事をすることを浮気とは言いません。サロメ、あなたはもう少し、奔放であるべきかもしれません」

「奔放?」

「自由であれ、ということです」

 他の誰かにも似たようなことを言われたのか、サロメは少し、困ったように笑った。

「んー、ぼくは、これでいいの。これから先、どうなるかわからないけど、ぼくは今、幸せだから」

「そうですか、出過ぎたことを言いましたね」

「ううん、手伝ってくれてありがとう。他に聞きたいことはあるかしら?」

 一つあった。その答えをヒグリカは想像してみる。この少女の一途な思いがそうさせるのか、深い愛情を持つ女に、特別にそれは与えられるのだろうか。

 どうしてあなたのエプロン姿はそんなに魅力的なのでしょうか? 

 ヒグリカはずっとそう聞きたかったのだ。ヒグリカが最初、彼女からつい目を逸らしたのにはそんな理由があった。甘ったるい夢の瞬きを振り払うように

ヒグリカは首を横に振った。


 大広間には、ターニャがいた。ターニャはその身長より大きな風穴の前に立ち、

 ヒグリカの見たことのない道具を空にかざしていた。

 褐色の肌に汗がしたたり、恵みの風が幻惑的な長い髪を揺らしていた。

「よかった……」そう呟いて、ターニャはそっと微笑んだ。

 その微笑はヒグリカを、我が人生の行く手を隠す霧が、もうすべて晴れたのではないか、という気分にさせた。

「ターニャ、何をしているのですか」

 汗を搔いた姿が恥ずかしいようで、耳にかかる髪を気にして掻き上げた。

「ラティカの、あの子の旅の行く末を占っていたのよ」

「あなたは占い師だったのですか、それでは、どうやら吉兆が出たようですね」

「ええ、よかったわ。今晩、砂嵐は来ないはずよ」

 ヒグリカは、占いでは、遠い未来の先までは見通せないのか、と残念に思った。

「あなたは私の箱の在処を知りませんか」

「知っているわ。でも、それは教えられないの。これは、あなた自信が乗り越えなくてはならない試練よ」

「なんですって、知っているのですか。あなたはマジンの気まぐれで始まったこのひどいゲームを試練と言ったのですか?」

「ええ、そうよ。あなたは宝をただ自分一人のものと勘違いしているわ。宝の真の姿を知らない者には、宝に辿り着くことはできないのよ」

 ターニャは男を幻惑した。それは、彼女の望んだことではなく、星の巡り合わせが、彼女にもたらした蠱惑の力であった。

「勝手なことを。あれは私の宝だ。他の誰でもない、私の箱なのだ。箱の在処は、その体に聞いてやる!」

 ヒグリカはターニャを引き倒した。

「あっ」

 ヒグリカはターニャに覆い被さり、分厚い腰布を引き裂いた。銀の胸当てに手をかけた時、何度かヒグリカを襲ったあの頭痛が、またヒグリカを殴りつけた。

「ああっ、ちくしょう、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 目の前が真っ暗になり、何も見えなくなった。ヒグリカは痛みに転げ回った。

「ヒグリカ、そっちに行ってはダメ!」

 大広間に空く風穴から、ヒグリカは落ちた。「……っ!」気付いて穴の淵へ手を伸ばしても、

もう遅い。──空中、恐怖にヒグリカは気を失って、そのまま地面に落下していく。

 ヒグリカはどこまでも砂に沈んでいった。

 プートギルが掘った穴は地面をやわらかくし、ヒグリカを呑み込んだ。ヒグリカはこのままでは、人に恵みを与える命の泉で溺れ、死に絶えるだろう。

 パチン、と音がすると大地が嫌そうに震えて、ヒグリカをぺっと吐きだした。


「砂漠で君を助けるのは、これで二度目だよ。バカをやったのは君なんだから、勝手にそのまま寝ていたらいいさ」

 センネンがつまらなそうに鼻を鳴らした。



 ヒグリカが目覚めたのは、真夜中であった。

 大広間に寝かされていたが、起きるとすぐにベッドから転がり落ちて、全身にアザを作った。

 ヒグリカは壁にぶつかり、廊下に転がり、向かったのは水場であった。

 どうしてみんな箱を水場に隠すのだ。

 鉄の箱は粉々に砕けていた。

「ああっああっ、なんということ」

 ヒグリカは宮殿の怪物を口汚い言葉で呪った。

 ヒグリカは人生で今まで使ったことのない言葉を使った。

 ヒグリカはついに絶望し、焼けになった。もう生きていたって仕方がないと思った。

 センネンはヒグリカの背後から声を掛けてきた。

「ヒドイことを言うもんだ。君が気絶したのは君の責任で、ゲームとは関係がないんだよ。罪に対して罰があるってだけさ」

「私が何をした。そもそも、おまえが気まぐれを起こさなければ、こんなことにはならなかったのだ。今すぐ私の剣を返せ。私はおまえに決闘を挑むぞ」

「何をしたと言ったのか。都合のいい男だね。そんな盲目だから、君は間違ってばかり何だよ。いいかげん、宝を探したらどうだい」

「なんですって?」

「宝を探せと言ったのさ。言っておくけど、まだ今夜は終わっちゃいないよ」

 混乱の嵐がヒグリカを掻き乱したが、嵐が過ぎ、空が晴れると、天を覆う幾千万の星々がヒグリカに降り注いでいた。ヒグリカは鉄の箱の残骸を蹴っ飛ばした。

 そうだ。センネンは今日が終われば、宝は消え去ってしまうと言ったのだ。箱は消えずに、砕け散っただけであったし、──箱の鍵はヒグリカが持っていた。センネンが箱を壊したのだろう──ヒグリカはようやく自分が、真の宝ではなくその入れ物ばかりを追いかけていたことに気がついた。

 さらにセンネンは言ったはずだ。「ぼくたち」は君の大切なものを隠した、と。

「砂漠の怪物、センネン、あなたに二つの質問をさせてほしい」

「間違えるな。ぼくは怪獣だと、そう言ったはずだ……」

「一つ、あなたは嘘を言いますか?」

「ぼくを君たちといっしょにするな。ぼくは嘘を言わない」

「そうでしょう、それはあなたが強いから出来ることなのです。二つ目、もし、私があなたの女たちの部屋にこれから私が入っていったら、あなたは私をどうしますか?」

 センネンの口の端がビリビリと大きく裂けた。

「彼女たちに手を出すヤツは誰であっても殺す。だが、それが君の宝を見つけ出す答えなら、ただの一度きり、ぼくは君を許そう」

 いたずらな星の瞬きに興じるように、砂漠の夜に、宮殿が輝いた……!



 ぎしり、とベッドが軋んだ。

 ご丁寧にも女は部屋にあるすべての棚に鍵をかけていたから、後はこうするしかなかった。

「これは私の本意ではないのです」

 ヒグリカは誰かに向かって、言い訳をした。

「もう時間がない。センネンは嘘を言わないが、彼女はどうだろうか」

 宝を手に入れるのに最も大切なことは何か。

 それは一歩を踏み出す勇気だ。

 その宝が女であれ、黄金や宝石であれ、勇気ある一歩を踏み出さなくては男はそれを手中にすることはできない。

「私はどうしても箱を開けることが出来なかった。私の宝は箱ではなく、その中にあるものだったのに、私はその正体を知るのが恐かったのだ……」

「でも、その手を伸ばさなくては、黄金を掴むことはできないわ。答えを間違えれば、宝は消えてしまう。あなたはセンネンに殺されてしまうでしょう。あなたにその勇気があるのかしら?」女の目が妖しく輝いていた。

「私の宝を隠したのはあなたですね。ククスス」

 ククススとヒグリカは足を絡めあった。

 ヒグリカはククススの寝間着に手を入れて、肌をゆっくり撫でた。

「さあ、どうかしら。そうね、残念だけど、違いますわ。どうして、そんなこと思ったのかしら? ……フフッ、ねぇ、あなた、きっと、わたしが好きなのね」

 彼女はヒグリカを受け入れていた。ヒグリカの顎を優しく触れて、その濡れた唇に誘った。

「いいえ、間違っていません。

 ククスス、宝を隠したのはあなたしか有り得ないのです。

 センネンは魔法を使いませんでした。これは宝が人の手によって隠されたことを意味します。そして、今朝、センネンはあなたに言ったのです。まだ、みんな寝ている、と。センネンは嘘を言いませんから、これに偽りはありません。そして、朝食、私たちは全員一緒にいましたね。そして、あの愉快なプートギル一行がやってきて、私とあなたは厨房へ行きました。それから、ずっと私たちは一緒にいたのです」

 ククススがおかしそうに、肩を二度ほど揺らした。

「それで、どうして、わたしが犯人だと言うの? わたしだってみんなといっしょにいたのだから、あなたの宝を隠したりできないわ」

 ククススはヒグリカの肩に腕を絡めて言った。二人はお互いの息がかかる距離にいた。

 ヒグリカは腰を上げて、ククススをじっと見つめた。

「ククスス、あなたが宝を隠したのは、私があの大広間で目覚める、それより前だったのです。人の手によって、宝が隠されたのであれば、そのときしかありえません」

 ククススはヒグリカを見上げていた。

 前髪を流したかったが、ヒグリカに腕を押さえられてできなかった。

 少し呻いて身をよじった。

「それはあなたの思い違いですわね。それとも、何か証拠がありますの?」

「いいえ、証拠はありません。ですから、あなたに自ら白状して貰いましょう」

 月明かりが二人のシーツを照らしていた。

 ククススの髪は夜の闇の中ではくすんだ銀のようであった。

 夜に美しい女の髪の色が霞むのは、その女が下落したようで、男は女を特別に汚し、その手中に引きづり下ろしたような暗い快感を覚える。

 ヒグリカはククススの昼間の太陽で輝く、黄金色の髪が好きだった。

 くすんだ銀の中に、一房の輝く黄金を見つけ、はっとなった。

「やはり、私にはあなたを愛することは出来ませんね」

「その通りよ」

 ククススがシーツを足で剥ぐと、その下の白い指先には鋭い針があった。

 ヒグリカはぞっとして聞いた。「毒が塗ってありますか?」

「女は誰しもサソリ、その身に毒を潜ませるものです」

 柔らかく肢体を伸ばして、ククススは闇夜に針を閃かせた。

「ご忠告に、感謝しましょう!」

 ヒグリカはベッドから飛び降りて、すかさず絡まったシーツごとククススを引っ張り降ろす。

「きゃっ」

 かわいい悲鳴を上げながらも、ククススはシーツから足を抜き出し、床に転がった。

「砂漠の宮殿に棲む魔物が、こんな美しい美女だったとはね」

「わたしが魔物ですって? いいえ、わたしは人間。あなたと同じ、自らの使命を生きようとするただの女よ」

「どうでしょうか。先ほどのあなたは可愛らしい、少女のようでした」

「──っだまって」

 ククススは針を手で掴み、ひゅっと突き出した。

 その思わぬ鋭さに、ヒグリカは慌ててベッドの反対側に隠れた。

「なぜです? これはゲームではなかったのか」

「ゲームをしているのは、あなたたち男の勝手よ。私には関係のないことだわ」

「なるほど、合点が行きましたよ。戯れにあの怪物は、私に宝を取り戻すチャンスをくれたのですね。おそらく、あなたたちの中で意見が分かれたのでしょう」

「もう推理ごっこは終わり! ここではそんなもの、何の役にも立たない」

 しびれを切らしてククススはベッドに飛び乗る、上からヒグリカを突き刺そうと、飛び上がる空中殺法の算段だ。

 しかし、これは予想済みで、ヒグリカが先手を取った。

 狙いすましてヒグリカもまたベッドに跳び乗る。ベッドが激しく揺れて、ククススがバランスを崩した。

 ベッドの上での攻防に根拠のないの自信を見せてきたククススなら必ず寝床を利用した戦法をとってくるはずとわかっていた。針を奪い取るにはここしかない、と

 ヒグリカは狙っていたのだ。

 転びながらも、ククススは針をしっかり掴んだままだった。

 ヒグリカはそれをなんとか奪い取ろうと手を伸ばす。

 ヒグリカがククススの手を取り、二人はしばしの間、見つめ合った。

 そのとき、ざくりっ、とベッドに大穴が空いた。

 なんと、ククススの足の間を大きく曲がった鋼の刀身が貫いているのだ。

 これには二人とも予想外で、顔を見合わせて「……ッ」固まり、声も出ない。

 刀身がベッドに下に引っ込み、一拍置いて、またざくりっ、ヒグリカは鼻を曲剣の先端に切り落とされそうになったところで、ようやく声が出せた。「うわあっ」

 ヒグリカは情けない声を出して、ベッドから転げ落ちる。

 したたかに頭を床に打ち付けた。

「ふぅ、……まさかここでいちゃつきだすとは、思わなかったわ」

 のそのそとベッドの下から顔を出して、少女が恥ずかしそうに頬を上気させている。

「あなたは」

 ククススがその名を叫んだ。

「……カモミールっ」

「へっへっへ~、わたしなのでしたぁっ、びっくりした?」



「カモミール、あなた、一体何のつもり?」

「いやあ、何かおもしろいことあるかなぁって、潜んでたんだけど、まさか、ククススがあんな声出すなんて……うふふ」

「それ以上は言わないで」

 これにはククススもたまらない顔をした。

「おかげで、ストレス堪っちゃったわ。人の目の前でいちゃいちゃするヤツらなんて、刺し殺されても文句は言えないわね」

 カモミールは曲剣を軽やかに振り舞わして、ククススに突きつけた。

「あら、……わたし?」

「だって、ヒグリカはゲームに勝ったみたいだしね。わたしはこの件はヒグリカに味方するわ」

「カモミール、あなたってズルイのよ」

「そうよ、わたしは誰にも従わないの。わたしはわたしの感情に従うだけ。ククスス、もう悪あがきは止めるのよ」

 ククススは針をその手から落とした。

「その針の手に持つ側が鍵になっているのよ。毒は塗っていないから大丈夫よ」

 ヒグリカは聞いた。

「わたしを殺すつもりではなかったのですか?」

「ちょっとケガをしてくれたらよかったのよ。あなたに宮殿から去って欲しくなかったの」 

「何故です」

 ククススはクローゼットを指さして言った。

「あなたの宝があるわ。それともあなたを更なる過酷な運命に導く、呪いなのかしら」

 ヒグリカはまず、クローゼットのなかに愛剣を見つけた。

 それを腰に巻いて、宝を探した。

 クローゼットのなかにあったのは、ただの石の欠片だけだった。いや、ヒグリカにはすぐにわかった。女たちの前でヒグリカは泣いた。

「ククスス、あなたはこれを見たのですね」

「そうよ」

 石の欠片には丁寧に美しい文字が刻まれていた。

 それは、死んだ王女のしたためた手紙に、間違いがなかった。

 手紙は南のとある小国に宛てたものであった。

 我がサウジャラの国は貧窮に喘ぎ、国庫は尽きようとしています。

 父であるサウジャラ王を筆頭に、同盟国である貴国に攻め入る算段が日々、立てられているのです。侵略は奇襲によって行われることでしょう。

 そのようなことが石には彫られていた。

 ヒグリカにとっては手紙の内容など、どうでも良いことだった。

 故郷のことも、遠い異国のことも、どうでも良いことなのだった。

 ヒグリカは、ただ、愛する人を守りたいと願う男であった。

 王女はなぜ、あのような暗い部屋を与えられていたのか。あの日、どのようないきさつで王女は死んだのか、ヒグリカはただ想像することしかできなかった。

「行けば、あなたは今度こそ、本当に殺されるかもしれません」

 ククススがヒグリカに忠告した。

「ククスス、私はあなたがいったい何者であるのか、聞いたりはしません。何も聞かず、私は立ち去ります」

「……あなたは、命を省みないほどの覚悟を決めてしまっているのですわね……。どうか、やりとげたら、この宮殿にいらして、きっとよ」

 ヒグリカは王女の遺した手紙をなぞって、クローゼットを閉めると後はもう、

振り返らなかった。

 もう今すぐにでも、旅立たなくてはならない。

「南に行くなら、もしかして、リッドテキストが力になってくれるかもよ」

 カモミールがそう言った。


 リッドテキストは東の果てにある山岳地帯である。

 それは山の名であり、その山岳を住処とする神出鬼没の盗賊たちの呼び名でもあった。

 大砂漠に巣くう怪物センネン、そして、何よりもその大砂漠そのものの過酷さが旅人たちをその奥へ寄せ付けず、リッドテキストは長い間謎に包まれた魔境として、人々に恐れられていた。

 東の奥に山があると人々が知ったのは、逃げ帰った一人の兵士からであった。

 何の役目であったのか、それは砂漠の怪物退治を命じられた兵であったか、あるいは邪悪の国を滅ぼすために送られた先兵であったか、今ではそれは定かではないが、砂漠に入った大軍隊は砂にさらわれたように消えて、一人帰った一兵卒の証言である。

 数日まえに旅だった軍団の兵士が、裸同然の姿で帰ってきたと聞いて、誰しもが驚いた。

 その兵士曰く、「盗賊、堂々と旗を掲げたが、不逞の輩、旗の意味を知らず。掲げる旗は、不統一のこと」と語ったという。

 それから、そのいくつもの異なる旗を掲げた盗賊たちは、大陸中のあらうる場所で見かけられることになり、盗賊として、最果て地にある霊峰として、今では知らぬ人のいないほどにその名は知らしめられたのである。

「恐ろしい盗賊たちを頼ることなど、本当に出来るのでしょうか」

「大丈夫、きっとなんとかなるわ」

 ヒグリカの案内を買って出たのはカモミールであった。

「他の方たちは、来られないのですか?」

「ククススって、本当はそんなに活動的ではないのよ。わたし、あんなに激しいククススを始めて見たわ」

 なにか興奮したカモミールにヒグリカは何も言わなかった。

「それで、どうしてぼくがこいつを乗せてやらなきゃならないのさ」

 黒い怪物センネンが、不平を言った。

 それはたしかにセンネンであったが、ヒグリカにはわからない。その姿も声も、今までのものとは違う、いかにも怪物らしいものであった。黒い毛に覆われた体躯は、馬のように逞しく、虎のように強かった。その大きさは小さな馬車ほどもあった。

「だって、センネンはゲームに負けたんだから当たり前じゃない」

「ええっ、ぼくは別に」

「なに~、言い訳するつもりなの?」

「うー、うー、わかったよ、わかった。でも、リッドテキストに送り届ける以上のことは、ぼくは絶対に手伝わないからな」

 ヒグリカは礼を言った。

「ありがとう、センネン。私一人では、大砂漠を越えることは出来ませんでした」

「ふんっ」言い様はかわいらしいが、その声は怪物じみた歪音である。

 ヒグリカは、センネンの背の上が恐ろしかった。

 夜とは言え、今宵は月も星もあり、砂漠は光を照らし返して、旅人のために

 その行く道を、青くライトアップしているはずなのだ。

 だが、センネンの体はあらうる光を隠し、その身の周りを歪め、暗くしていた。

 ヒグリカの感じた恐怖は、人間の根源的な部分を泡立たせるものであった。人間がケモノよりも弱かった頃から持つ根源的な恐怖であった。

「眼を瞑っていても平気ですか?」

 ヒグリカは情けないことを言った。

「うん、いいわよ。私に掴まっていてね」

「はい」

 カモミールはよほど慣れているのだろう。人知の及ばぬ歪んだ闇にも、この少女は少しだってもの怖じしてはいなかった。ただ、カモミールは腰と胸にただ布を巻いただけなので、それに掴まるのはいかにもマズそうだった。ヒグリカはカモミールをその胸に抱き寄せて、優しく腹に手をまわした。

「やっぱりこれ、気持ち悪いわ……。うん、でもくすぐったいだけかも。いいの、我慢できるから」 

 このヒグリカの恐ろしい体験は、彼の心に大きな傷を残さなかった。

 怪獣センネンは大砂漠をひとっ飛びで、飛び越えたのだ。

 この砂漠のセンネンの空飛ぶ姿は、夜空を見上げて物思いにふけるロマンチストたちだけが、銀幕の月のスクリーンに見つけ出すことが出来るのだ。



 ブルーオリオンに輝く千夜一夜から舞い降りると、濃い夜の帳があった。

 霧がかかっている。

 ヒグリカは手を伸ばして何かに触れたくなった。不安を感じていた。

「カモミール?」

 声が流れることなく、重くなって土に沈んだ。

 砂利の感触がする。

 空気がところどころで停滞しているのがわかった。

 ヒグリカの身なりはコンパクトになった。メールマンの肩掛け鞄に石版を入れている。

 ここがリッドテキストなのだろうか、と鞄を手に闇のなかをさ迷う。

 カモミールもセンネンも姿がなく、ヒグリカは極寒の地を行く人のように、ゆっくりと歩くしかなかった。

 つい先ほどまでカモミールを抱いた温もりが暖かすぎたのだ。迷子の子供のようにヒグリカは泣きそうになった。

 ヒグリカは霧深い夜を手探りで歩くと、いつしか冷たい岩に触れていた。

 岩肌。「ああ」ヒグリカは岩肌に憧れた。どうやら大きい。

 姫の死が記された、寂しい石版のことを思い出した。

 どうして、私はここにいるのだろう。胸に想いが、流れ落ちていく。

 ヒグリカは辛かった。今とはちがう生活を想像してみる。この岩のように、そっと大地に横たわるのだ。千切られた枯れ葉のごとくこの身とは、別の人生だ。

 鞄をそっと抱いた。たとえば、もし姫様をこの手に抱けたならどんな心地であろうか。最愛の人の面影が脳随を駆け巡って、ヒグリカは死んでしまうところであった。

 甘美な死の誘い。ヒグリカは天国への階段を見た。

 深い悲しみがヒグリカの心臓を止める寸前、岩の上から声が聞こえてきた。

「いーっやほう!」「うわっ……!」

 頭上に迫り来る刃物の気配を感じて、ヒグリカは転がった。痛い。どうやらここらの地面はよほど固い。砂漠ではない。

 来襲者がヒグリカを救った。夜は危ないのだ。簡単に死にたくなってくる。

 ヒグリカは命を拾い上げて、男の刃が闇に閃くのを待っていた。

 相手の位置を掴もうと目を懲らした。

 すると、ナイフを振るって来襲者が霧をはらった。うっすらと闇夜に男の姿が浮かび上がる。これはまったく理屈に合わないことだ。襲撃は闇夜に紛れて行うものではないのか。

「やるじゃんか」

 声は低くもなく高くもないが、若い、未熟な若者の声だ。

 頭にターバンを巻いている。彫りの深い顔立ちである。ヒグリカには襲撃者の長いマツゲまでがよく見えた。それは襲撃者には、よほど観察する隙があったからだ。

 ヒグリカは腰の剣を一気に引き抜いた。

「ボクの攻撃をかわすなんてやるじゃんか。だろ?」

 だろ? とは、こちらに聞いているのか。これがどうやらそうなのだ。

 言うべき台詞はなく、ヒグリカは武器を構えた。あるいは、この少年の振る舞いが正しいのだろうか? 殺し合いの前に言葉をかわし合うことが?

 ヒグリカは返事の代わりに剣で小石を弾き飛ばした。小石がどこかの岩に当たって空しい音を立てた。こちらの方がよほど、らしいじゃないか、とヒグリカは苦笑する。

「いくぜっ」

 ターバンの切れ端が少しそよいだ。少年のガゼルを思い起こさせるステップ。対するヒグリカは砂利を固く踏みしめて、重く土を削る。

「やぁ、やぁ、やぁ!」かけ声と共に少年がナイフを振るう。ヒグリカは受けながら位置を変えた。闇に沈んで目には見えないが、先ほどの自分の位置には大岩があった。

 ヒグリカには、この敵を大岩へと誘い追い詰める算段があった。敵の攻撃は単調でなんのひねりもない。ヒグリカは驚く。

 こいつは、なんてへたくそなのだ!?

 ヒグリカは罠ではないか、とさえ勘ぐった。いや、ありえない。何か薬でも使う気かとも考えたが、どうやらこちらが風上だ。

 恐ろしい殺人の技のなかには、風上から毒を撒き散らす術があるのだ。しかし、この少年が殺人術を習得しているとはおもえない。

 もし、敵が手練れならば、ヒグリカはもうやられてしまっているはずだ。

「くそっ、やるじゃん」

 少年が悪態を吐いて跳び退る。なんと、下がっただって。マヌケな来襲者は、当然の理だ。岩壁に頭をぶっつけ、「ぎゃっ」と呻いた。

 ヒグリカは迷わなかった。容赦はしない。「私の」剣を横半身に構え、風穴を空けてやる勢いでもって、踏み足と共に気合いを込めて貫いた。

「邪魔をするな!」

 渾身の一撃であった。敵はどこだ。ここはどこだ。

 あまりの展開。ヒグリカはまたもや、空を飛んでいた。びゅうびゅうと風をつくりながら、それは一、二、三、四、とヒグリカが指折り数えるほどの時間である。

 十数える頃、ヒグリカは何かにぶつかった。

 霧が晴れていた。空を舞うヒグリカが手をばたつかせたから晴れたのである。

 ヒグリカは己が巨大な岩に縫い付けられていることに気がついた。長く先端に刃物のついた武器によって。

 やはり罠か。ちょこざいなおちょくりか。マヌケに見えた来襲者はセンネンのような異形の魔物だったのだろうか。

 見ると槍ではない。ヒグリカをシャツの襟ごと岩に縛り付けるのは槍ではなかった。

 それは大鉈と呼ばれる、剣のように先端を振り回して使う長物の武器であった。

 霧が晴れれば今宵の星は明るい。ターバンを巻いた少年が、地面に転がる剣を前にまだ怯えて転んでいる。

 あれはヒグリカの剣だろう。

「わあ、死ぬかと思った……」

「迂闊だな。一体何をやっている」

 少年に問うたのは大男だ。その声に怒りはないが、咎めるような色が見えた。

 大男の身体は、浅黒くがっしりしているが、鋼のように鋭く細い身体だ。

 金縁のメガネ、剃髪に深いシワと固い髭のある顔だった。

「助けてくれてありがとう。ネコノワさん、殺してないね?」

 ネコノワ……。なんと、大男はネコノワであった。

「軍神ネコノワ……」ヒグリカは畏敬を込めてその名を呼んだ。この大男が噂に聞くネコノワならば、ヒグリカの今の状況は人ならざる超常の力によるものではない。

 目の前にいる、超人の手によってもたらされた顛末なのだ。

「隠密行動は?」

 少年は勢いよく立ち上がって「ごめん、忘れちゃってた」申し訳なさそうに頭をかいた。

今更というべきではない。ヒグリカは吊り下げられた格好で暴れ、自由を得ようともがいた。無様に立派にもがいた。

 自らの抵抗で大岩にしたたかに身体をぶつけて、ヒグリカは声をあげた。

「うわっ、生きてるの? ネコノワさん、下ろしてあげてよ」

 ヒグリカの呻き声に、ターバンの少年が気がつき、ネコノワにそう頼んだ。

 ネコノワは気負いなく岩から鉈を引き抜き、ヒグリカを地面へと降ろした。

 だが、ヒグリカは自由になったわけではなかった。

 ネコノワはヒグリカの背を鉈で叩いたのだ。「ぎゃあっ」殴られたのは柄の部分であったが、岩にぶつかり痛めた箇所である。ヒグリカは転げ回った。

「暴れるな、抵抗心は微塵も持たないことだ」

 言われるまでもなく、相手がネコノワであるなら、反撃など叶うはずがない。

 しかし、哀れな旅人にとって最後に残されたわずかな反逆の可能性までも、この男は奪おうというのか。ヒグリカはツバを吐いた。    

「ネコノワさん、乱暴はダメだ」少年がネコノワを諫めた。

 軍神ネコノワに対して主君のような口を聞く少年は何者なのかと、ヒグリカは不思議に思ったが、この場所がどこかを思い出し、もしかして、と答えに思い至った。

「あ~っ!」

 女の声、カモミールの声がした。ヒグリカは身を起こそうとしたが、全身の痛みのために出来なかった。

 仰向けになり、顔を上げようとがんばった。

 やはりカモミールだ。なぜか大きな牡鹿に乗っていた。

 それだけわかるとヒグリカは抵抗を止めて、うっすら空だけを見た。

「ちょっと、キミたち、ヒグリカに何してるのよ」

「カモミール!」

 甲高く、少年が青春の笛を吹いた。すなわちそれは恋の歌であった。

 ヒグリカにはそれがはっきりと聞こえたが、毒を吐いたりはしなかった。

 ぐったりと疲れていたから。

「キュキュキュ、キュキュキュ、久しぶりだねぇ、ヨッヤー」

「鹿が喋ったっ! そうか。おまえ、センネンだろう? 絶対そうに違いないよ」

 そうか、鹿はセンネンだったか。

 ヨッヤーというなまえはリッドテキストの頭領のものである。

 少年の正体は悪名高いリッドテキスト山に棲みつく盗賊たちの首領であった。

「そうだよ、正解、キューキュキュッ」

「いいからセンネン、ヒグリカを看てあげてよ」

 ヨッヤーとセンネンは少女にないがしろにあつかわれて、

 それぞれにおもしろい顔をしたが、素直にカモミールの言うことを聞いた。

「どこへ行っていたのです」

 ヒグリカが疲れたぼそぼそ声で言うと、黒い鹿が気のせいか少し悲しそうな目をして呟いた。

「だって」

「だって、すごい霧だったでしょ。はぐれちゃったのよ」

「ぼくが上に乗っけていれば、はぐれないよ。冴えたやり方だろう?」

 どうして自分だけは背から降ろされたんだ、とか、勝手に動き回っていたからはぐれたんじゃないのか、そんなことはヒグリカは言わなかった。 

 ヒグリカは、自分がこの怪物に好かれていないことぐらいわかっていた。

 牡鹿の背から降りてきたカモミールがヒグリカの身体を触った。

「いたいっ」ヒグリカが喚くと、カモミールが険しい顔つきになった。

「これ……骨が折れているんじゃない?」

 折れているだって? いったいどこが? 痛いのは背中なんだぞ。

 しかし、あの衝撃であればその可能性だってあるかも。ヒグリカは恐ろしくなった。

「折れちゃいないよ、人間の背骨が折れたらこんなもんじゃすまないってば」

 ヒグリカには、カモミールのいいかげんさを笑う余裕も、怒る気力もなかった。

「センネンの知り合いだなんて知らなかったんだ」

 そう言ったのはヨッヤーだ。黒い大鹿の毛を撫でつけて話しかけているが、

 目線はカモミールに向いていた。

 センネンは「別にいいんだよ」と笑ってヒグリカを見た。

「ヨッヤー、この男はね、君に用があるらしいよ」

「ボクに?」ヨッヤーはキョトンとした。

「ねえ、センネン、ヒグリカの傷を治してあげて」

 カモミールに言われて、ヒグリカはセンネンの横っ腹を鼻でつついた。されるがままにヒグリカはうつ伏せになった。

「ぼくが? どうやって? もしかしたら、魔法の力で?」

「ええ、そう。出来るでしょ?」

 センネンが早口で言った。

「人間ってさ、自分の都合ですぐに便利なものに頼るんだ。いや、べつにカモミールのことではないんだけど……ぼくが言いたいのは、何でも魔法に頼ることはないんじゃないかなってこと」

 えっと、それはつまり。         

「できないってこと?」

 カモミールが言った。

「それって、ぼくみたいな怪獣に向かって礼節に適った言い回しとは言い難いんだけど」

 なんだ。出来ないのか。伝説の怪物にも出来ないことがあると知って、ヒグリカは喜ぶことも悲しむこともない。そういうことばかりなのだ。

 さっきからそんなはっきりとしない、無感動ばかりが胸の内を過ぎていく。

 だって、どうしろというのだ? 砂漠に入って以来、自分でうまくやる方法どころか、うまくない選択肢さえもずっと見当たらないのだから、ただ嘆息するのみだ。

「それじゃあ、ボクがやってみようか?」

 ヨッヤーがそう言ってきて、ヒグリカは枯れた声を出した。

「あなたが、ですか?」

 これは、私にケガをさせた張本人がやるのですか。壊して治したら、わけがわからないんじゃないですか、という文句ともつく問いかけだった。

 もっとも、実際にヒグリカにケガをさせたのはネコノワなのだが、ヒグリカの印象では原因はヨッヤーにあり、いわばこれが事故であるならばネコノワは馬車であり、ヨッヤーが馬車を引く御者であった。

 そして、むろんこれは事故ではない。

 そうであったから、ヒグリカからすれば、ヨッヤーのこの提案には違和感を覚えていた。

「なーに、なんとかやってみるよ。もっともボクのは魔法じゃないよ。ただフツウに治療するだけ」

 ヒグリカの訝る声を心配と取ったのか、ヨッヤーは明るく返した。そして、こう続けた。

「ただし、条件がある」

 よくよくひるがえる手の平だ、と呆れはしたが、ヒグリカはむしろこれに納得した。

 理不尽さへの怒りはあったが、これはヒグリカにとって生きる上で幾度も手をつないできた友人であったから、安心したぐらいである。

「なんでしょう」

「実はね、ボク、盗賊団の頭目やってます、ヨッヤーってもんです」

 ヒグリカがなにか言うよりはやく「キュキュキュッ」と、センネンが鳴いた。それにしても、それははたして本当に鹿の鳴き声なのだろうか?

 それで、ヨッヤーはそうか、と頷いた。

「なんだ、なにもかもこっちの事情はわかっているの? それは、話が早い」

「いや、何もかも分かっているわけじゃあ……」

「でも、説明してほしいのはボクの方だよ。こんなところに来る人は、だいたい目的は同じとこっちは決めてかかっているんだもん。ここはリッドテキストだ。大砂漠の奥にある人外魔境、ここへやって来るのはワケありの強者ばかりだ」

 ヒグリカには、いまいち話しの流れが分からなかったので、黙って続きを待っていた。

「ボクとネコノワさんは出かけるところだった。今は真夜中だけど、まぁつまり、実は急ぎの用事なんだ。だけど、ボクは君を見逃せなかった。ボクの留守中にリッドテキストを訪ねたらきっと君は殺されちゃうもん。そうでなけりゃ、ボクの仲間がやられる。わけが分からないけど、何故かだいたいそうなるんだ……」

「つまり、どういうことなんです?」

「君のことをリッドテキストへの入団希望者かと勘違いしたんだ」

 ああ、なるほど、とヒグリカは納得した。勘違い、誤解、早合点、あまりにありふれた不幸の展示場じゃないか。バカらしくて目が回った。

「すると、ここでは頭首が自ら腕試しのようなことをしているのですか」

「直に見なきゃわかんないことってあるし。新しく仲間を増やすことを嫌がる人もいるから。その……ネコノワさんに言ったら、殺しちゃうかと思って」

 これはネコノワに向けての言い訳らしかった。

 ネコノワはただ黙していた。

「だけど、そうじゃないらしいね。キミはボクに用事があるらしい。でも、言った通り、ボクたちは急いでいるから出直してきてほしい……と、言いたいところだけど出来ないだろうね?簡単に引き下がるなら、こんなところまで来ないもん」

 ヒグリカは頷いた。

「そうなると、こうなる。ボクたちの目的を果たすことと、キミの頼みを聞くこと、両方出来そうなら考えてもいい。というか、それしかできないんだよ。そして、キミのケガの治療も含めて、キミの話しを聞く条件は、キミがボクたちの仲間に入ることだよ、ヒグリカ」

「それほどに、見込みがあるのか」

 ネコノワが口を挟んだ。どうやらネコノワはヨッヤーの提案が不服らしかった。

 ヒグリカ自身にしても、自分が盗賊団の役に立つとは思えなかった。

「武芸だけが人の価値じゃないですって。ネコノワさん」

「そいつのどこに見所がある?」

 厳しい言葉であった。ヒグリカは案外、自分の剣の腕もそれほど悪くないのではないか、と秘かに自信があったので、軍神からの切って捨てられたような物言いはショックだった。

「だったらこのボクに何が出来るっていうの? ボクの良いところ十個言ってみてよ。ネコノワさん」

 ヨッヤーに言われて、ネコノワは少し悩んでいたが、すぐに諦めて引き下がってしまった。いったいこいつらはなんなのだ、とヒグリカは思った。

 リッドテキスト盗賊団、この大陸で生きる人間の一つの姿、一つの組織、

 一つの方法論。

 向かって外から見れば、正体不明の略奪者、破壊者──命さえ奪っていく恐るべき外敵。

 ヒグリカは黒々とした深い穴を覗き込む心地だった。

 泥沼の岸辺に立ち、見下ろす場所に立っていた。 

 そうだ、まるで泥沼なのだ。

 不気味でないのか、赤いのか、恐ろしいのか、美しいのか。

 陳腐な言葉だが、リッドテキスト盗賊団、その首領ヨッヤー、底が知れなかった。

 沼の底が見えないのではなく、ただ測りにかけられぬのだ。

 その底からヒグリカを覗く目、試す声、拒絶するでもない、迎え入れるでもない、    

 事情を話し終えたヨッヤーはあくまでヒグリカの答えを待っていた。

 ヒグリカはこれにイラついていた。

 こんな酷いことがあるものか、と。

 ヒグリカはただの男であった。それを自覚していた。ヒグリカは測って底を覗ける、ただの男だ。

 そっちばかりじろじろ見るのは不公平じゃないか。そう思った。

 だけど、ヒグリカにできることはまったく限られている。

 抵抗して殺されるか、素直に従うか。

「ヨッヤー、私を助けて。傷薬をください。私には何に代えてもやり遂げねばならない使命があります」

 従うべきだ。目的を果たすそのために。

 ヒグリカは南に行きたいことをヨッヤーに話した。

「なんて偶然かな。ヒグリカ、ぼくたちも丁度、南に行くところだったんだよ。

さあ、急ごう。準備をして。傷薬を塗って、包帯を巻いて。らくだをキミにあげよう」

 

 

 夜の大砂漠に挑むのは、ヒグリカ、ヨッヤー、ネコノワ、そしてカモミールの四人だ。

「宮殿をずっと離れてはいられないよ」

 センネンはそう言って、飛び去っていった。

 らくだに乗っているのはヒグリカだけだ。らくだは高価だ。それでなくたって、人の立ち寄らない魔境、果ての山脈に暮らす盗賊たちが、らくだを手に入れることは難いはずだ。

 他意なくこれはヨッヤーからヒグリカへの、新しい仲間としての歓迎の印なのだ。

 人は好意や愛情を拾い集めて暮らす生物だ。自分に優しい人を好きになる。都合の良い相手が好きなもので、それでなくたって、ヒグリカだって、感謝すべき相手に意地を張るほどにひねくれてはいなかった。

 ヒグリカは、自分ではなく、カモミールがらくだの背に乗って、自分は皆の荷物を運んだらどうだろうか、と提案したがカモミールは首を横にふった。

「みんな荷物が少ないんだから、じぶんで持ったらいいのよ。だって、ケガしているヒグリカにそんなことさせられないじゃない」

 弱っている最中に、これは、参ってしまった。

 カモミールは可愛くて、優しい。

 たぶん、自分なんかよりずっと優しい人なんだ。

 そんなことを今、ヒグリカは知ることになった。かつて、ヒグリカも人に優しくあろうと努めた男であったが、今はそうではなかった。

 それは、辛いことが多すぎたからだ。それは、やるせないことが多すぎるからだ。ヒグリカの人生はどん詰まりで、どうやったら自分が幸せになれるのかわからなかった。

 優しさとは、強さだ。自分で精一杯な内は、他人に手を差し伸べられない。

 優しいことは幸福か。

 いや、そうではない。優しさを持ち得る人なら、すでに幸福はその手のなかだ。

 失った幸福、掌からこぼれ落ちた光り輝く宝石を、再び手にすることはできるのだろうか。

 そんな方法はきっとどこにもないだろう、そう思っていた。

 人の優しさに触れながら、どこか遠くで、優しい人を見て、人に優しくできる幸せな人を見ては──ユゲテや麗しい宮殿のマドンナたち──羨んでいる。

 いつか、私がまた、人に優しくできる日はやってくるのかなあ。それは、なんだか他人事のようで、まったくヒグリカは笑えなかった。

「ヒグリカ、カモミール、急ぎの旅だよ。聞きたいことがあったら先に聞いておくれ」

 ヨッヤーが背の高い砂丘を登っている。カモミールがはいっ、と手を上げる。

「あなたたち、いったい何をするつもり?」

「あっはっは、あっはっは、カモミール、ボクのお嫁さんになってくれるの?」

 ヨッヤーの陽気がすぎる告白に、カモミールは頬を染めたろうか。

 かわいらしくじぃっと彼を睨んだのだろうか。

 ヒグリカには見えなかった。好きなように想像したらいい。

「なにいってんのよ、バカね」

「それじゃあ話すわけにはいかないな。ヒグリカには言っても良いんだけど……。君はきまぐれがすぎる……。敵か味方かわからない君には、まだ話せないよ」

 カモミールは不満顔だったが、彼女を置いてヒグリカが聞いた。

「どうしてあなたは、私を仲間に引き入れようとするのですか?」

「あらら、その物言い、まだ他人行儀なの。らくだあげたじゃん。そんな、立派な

 らくだは大きな商屋の長男だってもらえない代物だよ」

 少し間を置いて、ヒグリカはおもいきって言いたいことを言った。

「それだっておかしいじゃないですか。──いやさ、おかしいことなんかありませんよ。私はすっかり納得していますからね。私に何かやらせたいなら、ぶん殴ってやらせたらいいんです。だって、私にはあなた方にあらがう術がないんですから、そうしたらいいんですよ。それをせずに私に親切な振りをするのは、一体どんなわけがあるんでしょう、とそう聞いているのです」

 これは賭けである。

 黙っておけば良いことをわざわざ口にすれば、不評を買う恐れがあるし、悪感情を抱かれるかもしれない。

 対して、ヨッヤーはこう返すのだった。

「やあ、よく喋ったじゃん。ヒグリカ、そうやって言いたいことを言ってくれなきゃ話しはできないよね。でもキミが何を言っているのかボクにはわからないよ。でも、想像はつくから勝手に喋るよ。なに、キミの言い分も半分は分かるんだ。しかも黒点を射ている、まではいかないが、的にかする程には近寄っているよ。つまり、ボクらが欲しいのは、力に怯えて言うことを聞くしもべではなく、仲間だってこと。うん、キミの言った通りだよ。あれ? キミはそんなこと言ってないって? なあに、好意的にキミの言葉を曲解してやったんだ。悪くない特技だろ? これは、ボクが唯一やれる首領の技でね。そして、ボクはさらに都合良く想像力でキミの事情を補ってみる。いいかい? おそらく、キミはここまで人生で味わったことのない辛い旅をしてきた。それは胸の内で心臓を潰しそうなほどに圧迫している誓いのためだ。ボクも男だ。キミが大事なところを何も話してくれなくたって、そんなこと、わかるに決まっている。なんとしてもやり遂げなきゃいけないことがあるんだろう? その誓いの上でここへ来た、キミはこんなことを考えているに違いないはずなんだ。リッドテキストのヨッヤーは信用に足る男か。嘘を言わないか。ヒグリカの目的を果たすのに、利用できるか。十分に力は足りているか。じぶんにコントロールしきれる器か。そもそもこのヨッヤーについていったら、目的がちゃんと果たせるのかどうか。なんて。どうせ、そんなことばっかり、考えてんだろう?」

 ヨッヤーの捲し立てるには長いセリフにヒグリカは素直に肯いた。 

「……ええ、正解です」

「わぁ、当たってるの? さっすが、スゴイじゃん、ネコノワさんの言った通りだ」

「全部ネコノワ!」

 ヨッヤーを知恵者かと思ってしまったヒグリカは頭を抱えた。

 ヒグリカがだだをこねたのには、理由があり目的があった。

 ヨッヤーの言った通り、ヒグリカは本音の少しを明かして見せた。

 それに対して、ヨッヤーがどれだけの心を返してくれるのかが知りたかった。

 わずらわしく思って、聞き流すのか、誠意を持って、答えるのか。

 どうやら、報酬は破格であった。

 ヨッヤーがヒグリカを短い付き合いだと考えているなら、言葉少なに、適当にあしらおうとするだろう。ふざけた言い方だったが、大切なのはそんなことではない。

 見ただろうか。ヨッヤーの裸の瞳を。

 根拠は薄かったがとりあえずヨッヤーを信用できた。ヒグリカは嘘を言うときは饒舌になったが、ヨッヤーはそういう男ではなかった。言葉を用いて信とする男なのだ。

 でも、彼について行ってどうなるかなんて、ヨッヤー自身にしたって本当は分かるわけがないのだろうけど。それでも、ヨッヤーはどんと胸を張った。

「任せてくれ、ヒグリカ。ボクはキミの力になるよ。代わりにキミはボクの力になってほしい。ボクは頼りないかも知れないけど、ネコノワさんだけじゃない。ボクにはたくさん強い仲間がいるんだよ。ボクのリッドテキストをキミの新しい拠り所にしてほしい」

 ヨッヤーはヒグリカに優しさでもって、手を差し伸べた。

「ボクと共に来て、この生き難い世界を生き伸びよう」

「ヨッヤー、私はそんなありがたい言葉を受け取れる人間ではありません」

「ボクはこんな立派な文句を送れる人間じゃないぞ。いいんだ、そんなこと」

 ターニャの予言は当たったようだ。今夜は砂嵐は吹かず、静かな夜だった。

 四人は一気に大砂漠を駆け抜けた。



 廃墟と呼ぶことさえ難しい。

 砂の塔が建っていた。

 どの建物も瓦礫と化して、砂に埋もれている。

 その中で、たった一本の塔だけが、そびえていた。

 高い塔だが、それが何のためにつくられた塔なのか、一見するかぎりでは誰にも分からない。

 その高い塔さえも砂に覆われて、いずれ朽ち果てるのを待っている。

「もうクタクタで、これ以上は進めない。ここで休もう」

 ヨッヤーがみんなを立ち止まらせた。

「本隊が待っている。とにかく早く合流をするべきではないか」

 ネコノワはそう言ったが、一度止めた足は死んだように動かなくなった。

 もう、長いこと気力だけで歩いていた。砂漠を走るように歩いてきたのだ。

 ヒグリカのらくだはペッタリと足を折り曲げて、是非ここで休もう、と賛成の意を称した。

 賢い子だった。無理をすれば自分が本当に動けなくなるとわかっているのだ。

 ヒグリカもまだ完全な体ではなかったし、カモミールも足にきてフラフラしていた。

「スマナイけど先に行って、みんなに待ってもらうように言ってよ。ぼくがもし、間に合わなければみんなで実行してくださいネ」

 これにネコノワはいい顔をしなかったが「引き受けたり、宵の明星が消えるまで待つ」そう言って了承して、ひとりでさらに先へと足を進めていった。

 とっくに深い夜になっていた。

 残った三人は顔を見合わせてじっと集まった。

「ちょっと、ネコノワさん行っちゃったじゃないの」

「聞いてたでしょ?」

「別働隊がいるのですね。それにしても、この町、なんて有様だ」

 みんな不安だった。まるでここは悪魔が寄り道した家だ。石や土さえも腐り朽ち果てていた。

「不毛の砂塵が吹いたあとだよ。何もかも死んじまってる」

「大砂漠の砂は大地を殺すのですか?」

 ヒグリカはマントでこわごわと口を覆った。カモミールも同じようにしていた。

「そうじゃないよ。砂漠なんてものはずっとずっと、ボクたちが猿だったような遥か昔からあるんだ。あんまり身勝手なことを言わない方がいい」

 ヨッヤーはなぜか怒った口調であった。

「身勝手とか、そんな風に思われるなんて心外ですよ。この街がこんなになっちまったのは、砂漠の砂が吹いて来たからでしょう。私の故郷だって砂にやられたのに、文句ぐらい言いますよ」

「そういう考え方が筋違いなんだって。砂漠は砂漠、関係ないの。そもそもボクが言いたいのはね、知りもしないことをあんまり適当にばっか言うなっての」

 疲れと荒廃した空気に苛立たされて、ヒグリカも黙ってはいなかった。

「なんて言い用ですかね。ヨッヤーが砂塵の話しをするから、私は付き合ったんじゃないですか。人を殺そうとしておいてなんなんですか。あなた」

「いや、ちょっとおかしいよ。人の話し聞いてた? ボクがあそこで現れなかったら、キミは死んでたよって言ったじゃん。感謝されこそすれ恨みがましいことを言われる筋合いないね」

「それですけどね、見ず知らずの人間が歩いていてですよ、しかも深く濃い霧のなかのこと。それを奇跡みたいに偶然見つけて、その男の行く末を想像して、哀れに思ったってそんなことあります? ねえ、しかも、それを言う相手から襲いかかられて殺されそうになった直後にですよ。そんな話しが信じられるますか?」

「それがボクの流儀だもん、嘘じゃないもん。モノのはじまりから疑われてちゃァ話しにならないじゃん」

「それこそ自業自得ですよ。あなた、仮にも一団を率いる頭領だそうじゃないですか。よくもそんな身勝手で務まりますね」

「人の言い草を真似してみっともないぞ。関係のないことを引き合いに出したりして、それでも男かっ」

「関係ないってなんです。ずっとついてまわる問題ですよ。男だなんだって言うやつってだいたい女々しいんですよね。フリばっかりで」

 話しているうちに言い合いはしようもない罵り合いになっていった。

 二人とも元気なら、とっくに殴り合いになっていたところなのだが、そうはならなかったのは果たして彼らにとって、幸だったか不幸だったのか……。

「あなたたち、仲良しになったわねー。ねえ、今夜はわたし一人で寝ることになりそうかな?」

 カモミールは男たちをからかおうとしたが、これは二人を思いのほか元気にしてしまった。

「何言ってんの。カモミールを一人にするわけないじゃん。いつだってボクの隣はキミのためにあいてるよ」

「カモミール、そんな発言、相手にどうとられたって言い訳できません。無防備きわまりない。カモミールは男ってもんを少しもわかっていないんです。寂しいなら私に言ってくれたらいいのです」

 期待していたのとちがう反応、もっとこう、「誰が仲良しさんだーっ」なんてわかりやすいリアクションを待っていたのだけど、どうやら別のスイッチを押してしまったらしい。

 バカなケンカから、もしや男の友情が芽生えるかってシーンだったのに、いやらしい空気になってしまった。

「ごめんなさい」

 カモミールは謝った。

「良いんだ」

「良いんですよ」

 二人はなぜかツヤツヤしていた。

「結局、この町がこんなになっちゃったのって、どうしてなのかしら?」

 カモミールは話しを引き継いで聞いた。

「そうだね、やっぱり大元の原因はヒトが暮らさなくなったからだろうね。ヒトの手が入らなくなった建物ってのは脆いよ」

「それってこうなったから人が離れたわけじゃないってこと? 人が離れて、それから廃墟になったの?」

「たぶんね」

 ヒグリカとカモミールはどうして?って顔で見合った。最初これはヨッヤーに上手く意味が通じてはいなかった。

「あれ? 二人ともわかってないの? ヒグリカも、カモミールも?」

「だからー。なんのことよォ」

「いや、だから、砂が吹いた町から人が去っていく理だよ。もしかして、知らない?」

「どういうことです? 私が旅に出たのは事情があってのことです」

「ああ、そうなのか。きっとキミの国に砂がやって来てそれほど経ってもないんだろう? それにしても、カモミールまでわからないなんて……センネンが何かしたのか?」

 えっなに、何でもないよ、なんて言い合って。

「人間が罹る病気なんだ。いや、呪いなのかな。どっちだっていいけど。砂塵が運んでくるウィルスを体に入れると、ボクたち人間は一所に留まれなくなるのさ」

 思いがけない事実は、あっさりと知られることになった。

 実際ヨッヤーにとっては当たり前のことなのだろう。手を叩くように気軽な様子だったが、ヒグリカとカモミールは言葉の意味さえよくわからない状態で、混乱していた。

 ヒグリカが考え考え言った。

「それは、人が自分の家を持てなくなるということですか?」

「そうだね。もっと言えば、町も、国もだ。ウィルスに冒された人間は流浪の民になる」

「それは、いつから?」

「さあね、気がついたらそうなってたんだ。たとえば、このボクで言えば、二日も一所に居たら気が狂っちまうのさ。比喩ではなくそのままの意味でね。リッドテキストは広いから、運良く大丈夫だけど」

 ヒグリカは傍若無人の王を思い出していた。放浪の王を名乗る、カウシッドを。

「ここの住人も風に吹かれて出て行っちまったってわけ。ここは捨てられた街なんだ」

 むなしさが吹き抜けた。ヒグリカは人がここで暮らしていた頃の残滓を見つけたくて、立ち上がり砂上の街を見渡した。……だけど、ここには何もなかった。

 人に捨てられた街には、ぬくもりの気配や街の灯火の残滓さえ残らないのか、と侘びしく想った。それなら、いつかは、私の故郷サウジャラさえも、と。

「動けるかい? さあ、あの塔で少しだけ休もう。なに、すぐには崩れたりしないだろう」

 ヨッヤーたちは塔のトビラを開いて──鍵はバカになっていた──すぐそこの一階にマントを敷いて横になった。

 寒さを凌げるだけでもありがたかった。

 階段から上には誰も行かなかった。

 ヒグリカはもうほとんど傷の痛みが消えていた。ヨッヤーの治療のお陰か、ネコノワが手心を加えてくれたのかもしれない。

 それに、ヒグリカは宮殿を出る前にぐっすり眠っていたので見張りの役を買って出た。

 カモミールとヨッヤーは礼を言って、浅く眠った。



 心残りはあった。

 街にではなく、彼の歩んできた道の上、こぼしながら、こぼしながら、

 彼はここまで歩いてきた。

 死にものぐるいでかけずり回ったのは、最初は、家族のためだった。

 しかし、先祖代々の土地の恵みに与り、慈しみながら生きる。そんな風に生きてきた彼に、それ以外の生活はむずかしかった。彼は若くなかった。

 他の連中も同様だった。大砂漠に投げ出された彼らには生きる指針も、法則も無く、野生のままであった。

 文明の上で長く生きすぎた人間は、野生ではあまりに脆かった。

 人が死んだ。それは絶望の序章だ。

 あるときから、人が死ぬということが彼らにとってあたりまえになった。

 気がつかない内に、冷徹な算数ができる器官が彼らには備わっていた。

 弱い者から順に死んでいった。死んだのか、殺されたのか、彼にはわからなかった。

 彼と同じ歳ほどの男たちも死に、体力のあった若い衆が死に、彼が最後に残ったのは、なんの偶然であったのだろうか。いや、意味はなかった。ぽっかりと空いた空虚を埋めるものは、彼には一切皆無だった。

 疲れ切って、立ち止まったとき、彼は後ろを振り返った。

 そして、こぼれた心が風に吹かれて、消えていくところを彼は見た。

 ああ、そうだったのか。とただ、彼は思った。

 ただ、それだけ。

 魂まで疲れ果てた男は、風に流される心に手を伸ばすこともなく、ただ見送った。

 何も言わずに……。


 砂塵の跡を彼は追いかけていた。

 それはどこかの街へ続いているのだ。

 もっとも、彼にとって、見知らぬ街は新しい故郷には成り得なかった。

 人の去った街には井戸があり、食べ物があった。

 どこもかしこも人間に捨てられた抜け殻であった。街とは彼にとって、まだケモノたちの知らない極上の餌場であった。

 彼と同じことをやっている連中がいた。心を風に吹かれた男たちだ。

 彼は思った。数が多すぎても、少なすぎても、ここでは生きてはいけない。

 誰よりも冷酷な器官を備えた男は、縄張りをつくり、猿を率いるボス猿になる。

 風の少ない夜のこと、彼は珍しく声を出した。

 男たちへ出す、指示ではない、「あっ」という意味のない鳴き声。

 彼に従う男たちは何も聞かずに、ただ前方を見ていた。 

 廃墟とさえ呼ばれない、瓦礫の土塊──今しも崩れそうな、高い塔があった。

「ここで待て」

 そう言って、彼は塔のトビラへ近づいていく。

 彼の判断──嗅覚に従った判断だが、何を嗅ぎ取ったというのだろうか。

 彼は塔を知っていた。

 知るからこそ、鋭敏に、違和感を?

 トビラの隙間からもれる部外者の気配を察知したのか。

 高い塔の上、砂の壁の奥に眠る、彼が落とした心のカケラたち、神様がそっと拾い集めて、彼の故里に戻しておいたことに、ようやく気がついたのだろうか。

 トビラを開き、仲間たちに向かって彼は叫ぶ。

「女だ! 女がいるっ!」

 それが、彼の最期の言葉だった。

 物陰から、がつんと殴られた結末だ。

 頭蓋骨が割れて、男は死んだ。

 ヨッヤーとヒグリカ、カモミールがネズミのように塔から這い出て、呆気にとられた男たちを尻目に塔の裏側へとまわった。

「……何人なの?」

「残りは、四人ですか」

 ヨッヤーが聞いた。

「ヒグリカ、何人とやれる?」

「そうですね。敵の力量によりますが、ただの賊なら三人、私でもなんとかなるでしょう」

「へぇ、意外と強いな。でも、それじゃダメだ」

「えっ、それまたどうして?」

「それは、敵が誰であれ、ボクでは勝てないから。さすがに敵さんもボクより弱っちいことはない。うん、これだけは確か。だから、キミが全員やっつけてくれないと」

 ヒグリカは呆れた。

「そんなこと言っていてどうするんです? ちょっと、ヨッヤー、なんです? 頭が痛い? そんなところにへたり込んでないで、なんとか言ってくださいってば」

「ああっ、もうダメだぁ……」

「ヨッヤー、ふざけんじゃありませんよ」

 ヒグリカは影から男たちを見た。何かを言い争っている。しかし、すでにその手には武器を取り、油断はないようだ。

 男たちが何を言っているかはわからないが、言い争いが終われば、彼らがどんな行動に出るかは予想がつく。

「逃げられないかな」

 ヨッヤーがぽつりと言った。

「逃げる?」

「うん、逃げられないかな? みんながいるところまで走って行けば、なんとかなる。砂に身を隠してヤツらをやりすごせば、ボクたち助かるはずだ」

 ヒグリカは眼下の先の砂地を見た。どこにも身を隠す場所は見当たらない、平坦な大地。

 しかし、ヨッヤーの言うようにするしか生き延びる術はなさそうだ。

 ヒグリカとヨッヤーは顔を見合わせ、逃げ出す合図をどちらが出すかでちょっと

 ケンカをやった。ケンカを止めたのはカモミールだ。

「心配しなくても大丈夫よ。あと一人くらい、わたしがかたづけてやるわ」

「ブラボー、カモミール」

「なんて頼もしい」

「へっへっへ~、まっかっせって~」

 カモミールがブ~イっとポージングをきめた。その腰には、しなやかな曲剣があり、彼女にはおあつらえ向きによく似合っていた。急いで持ってきたマントは腰に巻き付けている。

「いやあ、よかった。なんとかなりそう。四人ぐらいなんだい。心配しちゃったヨン」

「あははっ、やだ、も~」

「そうです。ヨッヤーは気が弱くなりすぎなんです」

 なんてこと言いながら、三人は塔の影から出て行った。油断大敵の極みにあった。

 ヒグリカとカモミールは剣を引き抜き、ザッと野盗どもに突きつけた。左右背中合わせでかっこうよかった。ヨッヤーがぱちぱちと後ろで拍手した。

「あれっ?」

「どうしました?」

「数が合わないような……」

 ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、と野盗を数える。

「オッオッ、親分死んじまったんかぁっ」

「オッオッ」

「オッオッ」

 いつ、むぅ、なな……いつの間にか、野党が三人増えていた。

 ヒグリカとカモミールから汗が流れた。七人。

「だだだ、だだだっ、大丈夫なのっ」

 無責任にヨッヤーが焦った声を上げた。

「だだだ、大丈夫っ、なんとかなるわ、ねぇ、ヒグリカ?」

「そそそ、そうですっ、厳しいですがそれでも、生き延びるためには……」

 ヒグリカが歯をぎりりと食いしばり、顎を引いた。戦う男の顔を見せた。

「やるしかないんですから」

 野盗どもがゲラゲラ笑う。

 威勢を張るヒグリカがおかしかったか。

 ところがどっこい。男たちの楽しげな声に惹かれて、「なんだなんだ」と瓦礫の陰から、新たな人影が現れるじゃあないか。

「ヒャヒャヒャッ、女だっ、女っ」

「ヒャヒャヒャッ」

「ヒャヒャッ」

 野盗であった。またもや野盗の仲間が三人増えたのだ。

 総勢十人。

 心配げな顔でカモミールがヒグリカを見上げた。ヒグリカは、首を振った。

「ホールドアップゥ!」

 野盗たちの新しい頭領が声を張り上げた。男たちが景気づけに武器を掲げて、

 カチンカチンと空に鳴り響かせた。

 ヒグリカたちは降参して武器を捨てた。


「うわぁぁっ、殺されるっ殺されるっ」

 ヨッヤーが突然、気が狂ったように逃げ出した。

「ヨッヤー!」

「追えーっ」

「ヒャッハー!」

 この逃走劇は、すぐに幕が下りた。

 ヨッヤーが小石にけっ躓いて転んだからだ。

 それは、ヒグリカとカモミールが、ヨッヤーに続いて走り出そうとしたその時だった。

 出鼻を挫かれて、勢いを失ったヒグリカたちは、いとも簡単に野盗たちにふんじばられた。


(私はこの人についていって本当に良かったのだろうか……)

 ヒグリカとヨッヤーは立ったまま塔に縛り付けられた。

 乱暴なやり方だが、男たちとヒグリカたちはお互いがよく見える場所にいたので

 なにもやりようがなかった。

 男たちがカモミールに群がった。

 塔のなかに連れ込まれなかったのは、リーダーの男の趣味であった。ヒグリカたちに見せつけてやろうという腹づもりなのだ。

 ヨッヤーとヒグリカは猿ぐつわを噛まされ、犬のように空しく唸るだけである。

 かえってカモミールは冷静だ。彼女はこの期に及んで未だ自由だ。

 男たちに寄り添い、突き飛ばし、男の手から、男の手へと、その身を蝶のようにひるがえして、跳び回った。

 そうでありながら、男たちは一度たりともカモミールをその手に抱いてはいないのだ。

 秘密は彼女の瞳にあった。

 カモミールは男の手の中にいるとき、かならず、別の男を見た。

 カモミールに見つめられた男たちは彼女に心を射貫かれ、とりこになった。

 そして、彼女を抱く男に嫉妬し、怒りを覚えたのである。

 カモミールの耳元に、大きな赤い鼻を押しつけ、香しい香りを己のものにしようとした狼藉者に、我慢しきれなかったのは頭領の男だった。

「おい、おまえたち、仕事をやる。そこの男たちを調べろ」

 男はカモミールから手を離して、文句を言った。

「ええっ、そんなの、後でいいじゃねえですか」

「俺もなの?」

「なんで俺たちまでっ」

「いいからつべこべ言わずに、さっさとしやがれっ、おかしな真似をしないよう見張っていろ」

 リーダーの怒りを買った男と、トバッチリ二人、しぶしぶ、ぶちぶち、愚痴りながら、ヒグリカとヨッヤーに近づいてきた。

 ここから、おもしろくない役割を押しつけられた男たちから、ヒグリカとヨッヤーは腹いせに恐ろしい暴行を受けるのだが、特におもしろくないシーンになるから、

 ひとまず割愛する。

 バイオレンスは君たちの中にある。

 カモミールと男たちの様子は愉快な光景になりつつある。

 男たちの間をスルリ、スルリと縫い歩くカモミール。

 男たちは今や、指一本たりともカモミールに触れられなかった。

 これはカモミールの計りごとではなく、男たちが互い互いを邪魔し合うからだった。

 男がカモミールに手を伸ばすと、別の男が突き飛ばした。盗賊たちは互いを転がしあった。

 引っ張り合い、罵り合い、殴り合った。

 これはリーダーであっても、特例には漏れなかった。

 なぜかというと、このリーダーはすでに、三人の男に理不尽を押しつけた形になっているからなのだ。

 つまり十人の内、三人のなかに怒りの火種が生まれているのだ。

 他の者たちからすれば、これに文句はない。

 人数が減ればそれだけ、カモミールと触れ合うチャンスが増えるのだから。

 ただし、ここで頭領が権限を発揮し、カモミールを独り占めしようとしたらどうなる?

 いったい何人の男から怒りを買うことだろうか。

 それも、女に翻弄され、踊らされ、芯から熱くなっているこの最中だ。

 半数以上がリーダーに手向かえば、制御は効かなくなる。

 統率は崩れ去り、仲間内で殺し合いがはじまるだろう。

 そうはならなくても、リーダーであるこの男は、嫉妬に狂った部下たちから手痛い反撃を食らうことは間違いない。

 それでも気の短い頭領のことである。

 いつしびれを切らし、部下たちに、俺の女に触るな!と命じないとも限らないのだが。

 むしろそれは時間の問題であるように思えた。──それでは、そうなったのだろうか?

 そうはならなかった。

 カモミールの足がついに止まったのだ。

 大砂漠を強行軍で進んできた後、ほんの少しばかりの休憩で、カモミールはまだ体力を回復しきれていなかった。

 カモミールは大粒の汗を散らせて、哀れっぽくへたり込んだ。

 これが悪かった。

 美しい女にとって、悲劇が起きるのは、女が己の魅力を制御できなくなったときである。

 野盗たちはすっかり当初の目的を思い出した。

「触らないで! 舌を噛むわよっ」

 カモミールが我が身を抱いて叫んだ。



 ヒグリカの顔面に硬い拳が突き刺さった。

「そら、おまえもだ」

 ヨッヤーはもはや、顔を上げる気力もないようだった。子供が飽きて捨てた人形のようにぞんざいに扱われ、ついでのように殴られた。

 視線を地面に落とし、ぐったりとして動かない。

 もう気絶したのだろうか? とヒグリカはヨッヤーの様子を盗み見た。

 わからないが、そうだとしたら、なんと羨ましいことだろう。

 拷問をするでもなく、何を要求されるわけでもない、何を捧げれば終わりが来るのか、ただ無闇に振りかざされる暴力を止める方法はわからず、ヒグリカは憔悴しきっていた。

 きっとヨッヤーは起きているのだろう、とヒグリカは予想した。

 ヨッヤーに対する信頼からではなく、野盗たちがヨッヤーを殴りつけることを止めなかったことからそう判断したのだった。

「こいつらの荷物を調べろい」

 今更ながら赤ら顔が命じた。

「へぇ、どうせ大したモンはないだろーよォ。こいつら貧乏そうだ。それにどうせ俺らァにオイシイとこはまわってこねえだろうよォ」

 野盗の一人が嘆いた。除け者にされていることに相当苛立っているようだった。 

 それは三人とも同様らしく、苦々しく歯ぎしりをした。

 くだらねぇ、つまらねぇ、と喚きながら、野盗たちはヒグリカとヨッヤーの荷物を外していく。運がよかったのは、盗賊たちは本業の生業ではないらしく、ヒグリカたちの身ぐるみまでは剥がされなかったことだ。

「なんだこりゃ」

 ヒグリカの肩掛け鞄から、男が石版を取り出した。

「おっ、なんだそりゃ、値打ちもんか?」

 男の一人が期待の籠もった声を出した。

 ヒグリカが暴れると、頭をがつんと殴られた。

「わからねぇが、なんだってんだ? 値打ちがあろうがなかろうが、俺たちには関係あるめェよ」

「そうでもねぇよ、ほれ見てみろ。野郎ども、楽しそうにしていやがる。ちくしょう、あいつら、女の腰布を剥がしやがった!」

「落ち着けよ、何が言いてぇ」

「おう、俺ァ、閃いたんだよ、今なら俺たちだけで、分け前をちょいとばかりちょろまかしたって、バレやしねぇんじゃねーか?」

 残りの二人は顔を見合わせて、そりゃあいい、ナイスアイディーアッ、と発案者を褒め称えた。

「よっしゃ、アホ共に分け前なんてくれてやるこたぁねぇや。こりゃ俺たちのもんだぜ」

 除け者の野盗たちは荷物漁りに没頭しはじめた。

 少し意識が離れたその隙に、ヒグリカが奇跡を起こした。

 ヒグリカの頭にがつんがつんと血が昇っていった。

 汚い下衆どもに鞄ごと宝である石版を奪われて、怒りと屈辱のあまり沸騰するほどだ。

 だが、ヒグリカが暴れれば暴れるほどに、猿ぐつわは口にめり込み、唾が溢れ出た。

 ヒグリカは己の唾が喉から溢れ溢れておぼれ死にそうになったが、どうしようもなかった。

 そんな具合でヒグリカのやりようは冷静でなく、酷い空回りだったのだから、これは奇跡としか呼びようがないのだ。

 なんとなんと、ヒグリカの歯が猿ぐつわを噛み千切ってしまった。しっかりしたものではなかったのだ。

「クズどもっ、返せ、返せっ、返せっ、容赦しないぞっ、返さないとたたじゃおかねぇっ」

 ヒグリカは塔を折らんばかりに暴れ回った。

 大声を出して怒鳴りに怒鳴った。

 ヒグリカの怒りのあまり、ぼぅぼぅと大気がうねり、野盗たちは台風を真正面から受けたように、衝撃波で顔面を歪ませ、尻もちをついた。

 はっ、とヨッヤーが顔を上げる。

「何をやっていやがる、ちゃんと黙らせとけっ」

 首領の男がこちらを見向きもせずに適当に指示を出した。

 男たちが近づいてくる。フーフーッと息を吐き出し、涙をこぼすヒグリカにヨッヤーが首をぶんぶん振って合図していた。

 なんとなく意味が分かって首を精一杯に伸ばした。

 ヒグリカはヨッヤーの猿ぐつわを歯でつかんでズラしてやった。

「待ってよ、なんのこと? さてはキミ、ボクに黙ってお宝を隠し持っていたな?」

 ヨッヤーだ。

 絶妙な距離だった。男たちが拳を振り上げ、力を込めたところだった。

 ヨッヤーの声は、唖然とするヒグリカと男たちだけに届き、カモミールと戯れる男共には聞こえていない。

 興味を引かれて、野盗たちが拳を下ろした。

「宝があるなら、さっさと吐いちまってくれよ。そしたら、ボクらは見逃してもらえるかも知れないじゃないか」

「ちがいます……。何を言っているんだ」

「すごい迫力だったじゃない。ヒグリカ、よっぽど、大層なお宝なんだろうなぁ」

 そんなことを言うために猿ぐつわを外させたのか。ヒグリカは呆れた。ヨッヤーの短絡的で思慮の浅い作戦にがっかりする。

 ヨッヤーに石版のことまでは話していなかったが、ありもしないお宝に期待して他力本願の考えなしとは。

 ヒグリカは人生のつきあいとしては長くはない道中の間に、ヨッヤーとは良い友達になれるかも、とそんな考えが頭によぎったものだが、それはどうやら難しいかもしれない。

 ヒグリカにはヨッヤーがなぜ、大盗賊団のカシラを務めていられるのかがわからなかった。

 マヌケで情けなくて、良いところなんて一個もないのだ。

「お宝なんてありません。私にとって、特別な品があるだけです。それはね、あなたが持っている、その石の破片ですよ」

 ヒグリカが石版を持っている盗人にそう言ってやると、三人とも、ヨッヤーまでも、あからさまにがっかりした顔をした。

「こんなもんが宝か、バカバカしい。もういいから返してやれ。荷物のチェックの続きをするぞ」

 赤ら顔に言われて、男はぽいっと石版を放った。それは、ヨッヤーの足下に転がってきた。

 ヒグリカは盗人たちのモノの仕方に理性を失いそうになりながら、なんとか堪えた。

「ねえ、あんたら、随分つまらなそうな仕事をしているじゃない」

 ヨッヤーが男たちに向かって声をかけた。媚びを売る声だったが、残念ながら男たちにはケンカを売られたようにしか聞こえなかった。

「あぁん? 俺たちをコケにしていやがんのか?」

 オールドタイプに肩をいからせて、やってきた男たちはなぜかヒグリカを殴りつけた。

 実際、このときのヒグリカは世にも見当たらない憎たらしい顔をしていた。

 しかし、それは本人ばかりには、なかなかわからないことなのだ。

「そうじゃないけど、あっちは楽しそうじゃん」

「そうだろうよ、あっちはかわいこちゃんとよろしくやって、俺たちはてめぇらの子守だもんなぁっ」

 男がまたヒグリカを殴った。

 さっき怒鳴り散らしたのが気にくわなかったのか、ことあるごとにヒグリカは男たちに殴られた。

「そもそもさぁ、なんで女の子たった一人にみんなで群がってんの?」

「そりゃあ……女がいねぇからだろうがよ」

 赤ら顔が汚い面をぼりぼり掻いた。

「おかしいじゃない。あんたほどの男なら、町娘が放って置かないだろ?」

「あっ? へへっ、そりゃあまあな。昔は俺もブイブイ鳴らしたもんだが、今はこの通りの生活だぜ、女っ気なんてねぇのよ」

「へぇ、そうなの。あんたほど、賢くて度胸のある男が、そんなこと言うなんて意外だな」

「そりゃあ、どういう意味だよ」

「あんたが、あんなちんけな男に従うなんて、おかしいって言ってんの。あんたたちの前のリーダーさんだって、そうだぜ。あそこの男と比べりゃ、前のリーダーさんは先陣切っていく男気があったみたいだけど、やっぱりあんたには敵わないよ」

「おお、そうよ。あいつはな、前のリーダーが死んだんで急遽、新しくリーダーに成り代わった野郎だ。俺たちの中で、チームの古参ってだけのくだらねぇやつだぜ」

 ぺっと男が吐き捨てると、そうだ、ちげぇねぇ、と他の二人も同意を示した。

「なぁ、なんであんたたち、こんな生活やってんだい?」

 これに男たちは口ごもり、情けない顔を見せたが、結局赤ら顔が威勢を張った。

「てめぇみたいな若造にはわからねぇよ。新しいことをはじめるのには、俺たちは歳を食い過ぎちまったんだ」

「なるほど、それなら話しは早い。ようは女の子と、どこに行けばお近づきになれるのか、わかんないってことなんだろ」

「えっ、いや、そういうわけじゃあ」

「いやっ、そうじゃないかな!」

 赤ら顔の言葉を遮り、力のこもった声で男が言った。

「たしかにそうだぜ。おもえば、俺たちはずっと、こんなハイエナみたいな惨めな暮らしだ。街の明かりなんて、とんと眺めちゃいねえ。歳がなんだって? そのつらぁ洗って、鏡ィ覗いてみろ。どうだ、俺たちゃまだまだ捨てたモンじゃねえんだよ」

「あんたの言うとおりだ。しかし、あんたみたいなナイスミドルでも、映画みたいには上手く行かないのが現実ってもんだ」

「そ、そりゃ、どうしてだ?」

「簡単なことだよ、真面目にやってきたんだろ? ボクにはわかってんだぜ。なんだかんだ言って、あんたら悪いヤツらじゃない。少なくとも、あんたら三人は、こうして言葉を交わしたんだから、ボクには分かる。女相手だったらよっぽど紳士に違いないんだ」

 男たちは我が身を振り返ろうとしたが、上手くできなかった。記憶のなかで都合の悪いことにはもやがかかっていて、いまいちはっきり覚えていない。

 それならいつでもきれいで潔白な恋だけをやってきた、と自分を納得させることは出来そうだった。

 そもそも、男たちは爛れた恋愛が出来るほどにはモテなかったのだが、そんな愚鈍な考えには、彼らの灰色の脳細胞は至らなかった。

「いくらいい男だって、出会いがなけりゃあな。もったいないなあ。ボクは女の子と遊びたくてね、とある吟遊詩人の世話役をやっていた。ごく、最近のことだよ。その男はくだらないヤツだったが、女には困らなかった。どうしてかって? 街の遊び場をよく知っていたからさ。そして、もうひとつ……、度胸があったんだ。あんたたちだって、度胸では負けてないし、器量じゃどうだい、完全完勝じゃない」

 たたみ掛けるようにべらべらとヨッヤーは喋っていた。男たちはおべっかに頭がぼぅとなって、次第にヨッヤーの言うことを素直に聞くようになっていた。

 ヨッヤーのことを気にいり、好きになりはじめていた。

「あんたたちに、こんなつまらない生活をやらせてんのは誰なんだい? あんたたちなら、もっと華やかで暖かい人生を送るのなんて簡単なことなのに」

 彼らに今の生活を送らせたのは、彼ら自身だったし、もう大陸のどこへ行っても、暖かい幸せなんてものには、誰もお目にかかれなかったが、自分自身は見えないもので、人は自分の周りの目に見えること以外はわからないのだ。

 そのため彼らは、そうか、そうだな、とヨッヤーの言い分に納得し始めていた。

「どうすりゃあ、この生活から抜けられるんだ」

「ボクあんたたちの力になれるよ、今だって、南へ向かう途中さ。おお、そうじゃない、あんたたちが決めてくれ。キャプテン」

 ヨッヤーは縛られたままの姿で、そんなことを言った。

「キャプテン、俺のことか?」

「あんたほど、キャプテンの呼び名にふさわしい男がいるものか。キャプテンと呼ばせてくれ、キャプテン、あんたにその気があるなら、ボクらの縄をほどいてくれ。もし、あんたたちを彼女たちにと引き合わせた日には、みんなかっさらって行っちまうんだろうなあ。でも、良いんだ、あんたらはボクの命の恩人なんだからね」

「しかしよ、俺たちの頭領はそんなことには頷かねえだろうよ」

「何言ってんの。あんなヤツダメダメ。キャプテンはあんただよ。あんな集団で女の子を襲うことしか出来ないヤツらだから、こんな生活やってんだ。あんたたちは違うぜ、でも、どうやら、女の暖かい胸の中に行く前に、やらなきゃならないことがあるみたいだね」

「そりゃあ、リーダーを裏切れってことかよ」

「これから世界中の美女をばったばったと薙ぎ倒す男がなに言ってんだい。そうだ、ボクの目は確かかどうか、あんたたちの度胸を見せてもらおうじゃない」

 男たちは振り返って、簡単な算数をやった。

「俺たちは三人、ヤツらは七、むちゃだぜ」

「ちがう、そりゃ違うでしょ、ボクとこのヒグリカ、合わせて五人、このヒグリカはこう見えて、大した使い手でね、三人までなら問題にもならない。ちょっと、計算してみてくれない?」

 男たちは、ヨッヤーに言われるままに数を数えた。

 七から三を引いてくれるなら、四、俺たちと、この小僧合わせて……。

「さあ、どうする?」ヨッヤーが問いかけた。



 少し、時間を戻る。

 三人の除け者たちが重大な決断に答えを出すための、ヒントがここにあるからだ。

 描かないわけにはいかない。

 カモミールが「触らないで、舌を噛むわ」と、そんな様なことを言った場面から。

 火のついた男たちの勢いがそんな言葉で止まるはずがない。

 男の一人がカモミールの腰に巻かれた厚手のマントを引きはがした。

 すらりと伸びた足が男たちの情欲を誘う。

 疲れた少女の憂いを帯びた瞳さえ、蠱惑的で危うい。

「舌を噛んでやる、本気よ」

「猿ぐつわを噛ませろい」

「へーいィ」

 リーダーの命令に野盗どもが嬉々として働いた。カモミールは喉の奥まで布を押し込まれて、歯にちからが入らなくなった。

 ぎりり、と男たちを睨み付けたが、そんなカモミールを男たちは手を出さず眺めていた。

 手を縛り付けられ、ものを言うこともできないカモミールは、羽をもがれた蝶であった。

 男たちの内、何人かはこの光景に感嘆し、天使に出会ったように胸を高鳴らせた。

 黒々した沈黙が立ち込めて空気が臭い立ち、重くなった。男たちの欲望の気配に晒されて、カモミールはいよいよ怖ろしくなってきた。

 しかし、ここで頭領の男が頭を抱え、叫んだ。

「ダメだ、ダメだっ、これじゃいけねぇ」

 その様子は、さながら悪霊に取り憑かれた絵描きだ。世界を救う絵を求める芸術家の顔であった。

「猿ぐつわを外してやりな、腕も自由にしてやれ」

「でも、親分……」

「さっさとやれぃっ、唸るだけの女なんざ軸の折れたコマだぜ」

 頭領の趣味であった。何人かはあからさまな抗議の声を上げたが、どちらにしても個人の嗜好に偏った意見であったから、聞き入れられなかった。

 猿ぐつわを外されて、カモミールの方も戸惑ってしまった。

「いいの? い、言っておくけど、変なことしたら、死んでやるんだから。わたしになにかあったら、大変なのよ」

 カモミールの言葉の後半はよくわからないままにして、首領の男は困った顔でカモミールを諭した。

「そりゃあねえぜ、お嬢ちゃん。あんたは俺たちに負けて降参したんじゃねぇか。それを、アレもダメ、これもダメじゃあ、埒があかねえよ」

「そりゃあ、そうだけど……」

「なら、こうしようじゃねぇか。あんたがこれはしていいってところまでしか、俺たちはやらねぇから、あんたが決めてくれ」

 そう言われて、カモミールは困ってしまった。

 なにをどこまで、と言われても、どんな行為があるのか、カモミールにはわからなかった。

「ヘヘヘッ、早く服を脱がせようぜぇ」

 男の一人が我慢が効かず興奮して、声を上げた。

「嫌よ、死んでやるッ」

「じゃあ、どうだ? あんたはそのままで、俺たちはあんたに触れせてもらう。服のあるところまでは触れねぇからよ。まあ、あんたの場合、やけにちいさい衣装なんだが……大したことじゃねぇだろう? 肌に触れるだけだぜ」

「……そうね。それくらいなら」

 カモミールは了承した。

「よっしゃ、お嬢ちゃん、してほしいことがあったら言ってくれよ。もっと先までしてもよくなったら、な」

「そんなこと、あるわけないじゃないっ」

「威勢がいいな、野郎ども、女の手足を押さえろ!」

 男たちに手足を押さえつけられて、カモミールは潤んだ瞳で星空を見つめていた。



男たちの覚悟は決まっていた。

 ヒグリカとヨッヤーの束縛はすでに解かれていたが、まだ塔に縛られているふりをしていた。

 失敗だけは許されない。

 万全を期さなければ、上手くいかないだろう。敵は七人もいるのだから。

 絶好のチャンスがおとずれた。

 カモミールに群がる男たちは、みんな隙だらけになっていた。

 縄をほどくと、ヒグリカは地面を落ちていた石版を拾い、剣を引き抜いた。

 そして、一気に駆け出していった。

 七人の内、待ちぼうけを食らって、生殺しの三人をヒグリカは一刀で切り捨てた。男たちは悲鳴を上げて、死んだ。

 残りの四人がヨッヤーたちに気がついたが、カモミールの手足を押さえつけていたので、上手く動けなかった。

 除け者男たちが、かつての仲間に怒りをぶつけた。

 ヨッヤーが狙ったのは首領の男であった。だが、剣は躱され、宙を裂いた。

 首領の男が転がって逃げる、ヨッヤーはそのまま勢いよく転んだ。

「いてて、大丈夫だった? カモミール」

「ばかばかっ、助けに来るのが遅いわよ」

 そう言ってしがみついてくるカモミールを、ヨッヤーは優しく抱いた。

 盗人の頭領に向かって、赤ら顔たちがこん棒を振りかざした。逃げ場はなかった。

 カモミールはヨッヤーに守られて、何も見なかった。

 そこへ、

 砂漠を割って、駆けてくる一団があった。

 手にはそれぞれ、おもいおもいバラバラの旗を掲げる。

 先頭を切ってやってきたのは、ネコノワだ。

 ネコノワが仲間を引き連れて、戻ってきたのだ。

「遅いぞォ。明けの星が消えるまでに来ると、約束したはず」 

 ネコノワがぶんぶん大鉈を振り回した。おまえこそ戻ってくるのが少し遅いよ、とは誰も言わなかったが、驚いて声を上げずにいられない手合いもいた。

「ネコノワだ……、生きた伝説、軍神ネコノワじゃねぇか……」

「それだけじゃねぇ。他のメンツも見てみろ。世に名だたる豪傑ばかりだぜ」

 赤ら顔たちは驚きのあまり、口をあんぐり開いて固まってしまった。

「ネコノワさん、ちょっと事情があって……、この人たちが新しく仲間に入ったよ」

 ヨッヤーがはにかみながら、新しい仲間を紹介した。

「ネコノワさん、教えてください。いったいヨッヤーとは何者なのですか」

 ヒグリカが聞くと、「俺に聞かないでくれ」厳めしくネコノワはため息を吐いた。

 ヒグリカはヨッヤーの見事な機転に驚いていたが、ヨッヤーは上手く生き延びられたことを、ひざまずいて感謝していた。

 上手くやれたのは奇跡だったのか、とヒグリカが聞くと、その通りだ、と答えた。

 ヒグリカは、きっと自分には理解の及ばないちからを、この若者は秘めているのだろう、とそんな風に感じていた。

「うん、そうさ、ボクはリッドテキスト盗賊団のリーダーだよ。そんであんたが、

 キャプテンってわけ」

 そう言われて、盗人たちは目を回して倒れた。

 そして、ヨッヤーのために自分たちの命を使うと誓った。

 カモミールも元気だった。

 どこからか、ヒグリカのらくだがやってきて、長いマツゲをパチパチさせた。

 一行はまた旅を再開させた。



 いまや、ヒグリカたちは大所帯であった。

 ヒグリカはユゲテたちのことを思い出していたが、一人きりでなく、仲間がいるということを素直に嬉しく思った。

 道中、斥候が戻り、ヨッヤーに何事かを耳打ちした。

「ああ……うん、そうだね」

 ヨッヤーが気の抜けた返事をするもんで、見かねた斥候の兵はヨッヤーの尻を叩いた。

「いったい、どうしたんです? ヨッヤー、何か悩みごとでも?」

「いや、ちがうよ、ハハハ、ねぇ、ところで、ヒグリカ……」

「なんでしょう?」

「ああ、いや、なんでもない。何でもなかった……」

 こんな調子のヨッヤーをみんなが心配したが、ヨッヤーは何も言わなかった。

「みんな、知らせがあったよ、この先に大荷物を持ったヤツらが、たった数人で休んでいるらしい。これを、ボクらはどうするべきかな?」

 大軍たちが、腹が減った~、奪い取れ~、生きなきゃならねぇ、奪い取れ~、と歌った。

 ヒグリカたちは配置について、哀れな獲物を観察することにした。

 このいかにもな盗賊行為にヒグリカは戸惑ったが、自分の新しい盗賊生活に、ドキドキと気持ちだけは高揚していた。

「ねぇ、ヒグリカ、あなた、あの人たちのことを知っているんじゃない?」

 カモミールにそう聞かれたが、ヒグリカには目標から遠いここからでは、獲物の数と、やけに大量の荷物が山と積まれていること以外はわからなかった。

 ヨッヤーは斥候の報告通り、たったの数人がテントを張って眠っていることを確認すると、大軍たちに号令をかけた。

「よし、行きがけの駄賃だっ、かかるぞっ」

 ターバンを巻いた少年の指揮に従って人の群れが動くのは、圧巻であった。

 眠っているただ数人に対して、このやりようはどうかしら、とヒグリカは思ったが、それにヨッヤーが答えてくれた。

「案外、なんでもみんなでやるってのが大切なんだ。普段体を動かしてないヤツはいざって時にミスをやるし、人任せにしたり、他人から頼られない人間は自堕落になっちまうのさ」

 そういうものかしら、とわからないなりにヒグリカは納得した。

 盗賊たちが配置についた、世にも見事な完全包囲である。そのごっこ遊びであろうが、なるほど、これはいい訓練になりそうであった。

「あっ」

 どうやら先行隊に気がついたのか、目標が目を覚ましたらしい。むくり、と起き上がった人影が見えた。

 できれば、眠っている内に荷物を奪い去りたかったが、そうもいかないらしい。

 それならば仕方ない、慎重に慎重を重ねて、第一の部隊に続いて、第二部隊も前に出て、挟撃するようヨッヤーは合図を出した。

 ヒグリカたちは高台へ昇って、全体の様子が見える位置へと移動していた。

 どの部隊の役割もこなせるようにと、ヒグリカは眼を皿にしていた。

 高台からは、獲物たちの様子がよく見えた。

「カモミール、あの人たちは……」

 ヒグリカが驚いて、言うより先に、そのとき、ドカン、と目標の大荷物が──爆発した。

 いや、ちがう。荷物のなかから何者かが跳びだしたのだ。

 そいつは、空中でぴたりと停止すると、そのまま一声、大軍を怯ませる雄叫びを上げた。

「腹がいてぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ」

 鈍いアッシュブラウンの髪を細かく後ろで束ねたその男、などと特徴を書くのははじめてであるが──。

「あれは、プートギルッ」

 ブートギルは腹を手で押さえながら、もう片方の腕で新品の大剣を振り回した。

 すると風神である。プートギルはヨッヤーの先兵たちを、風を巻き起こし、空高く舞上げてしまった。

「おらぁぁっ、こっちは化けモンにやられて眠ってるのに、うるせーんだよっ」

 プートギルは怒りに任せて暴れに暴れた。

 この奇妙奇天烈な体験に盗賊たちは驚き慌てたが、さすがいっぱしの戦士たちであった。

 なんとか、大地に着地すると、そこからの判断は早かった。

 ヨッヤーの流儀である、やばそうなら即座に逃げる、脱兎のごとく走り出す男たちにプートギルは地団駄を踏んだ。

「腹がいてぇって言ってんのに、逃げてんじゃねぇ。めんどくせーだろうがっ」

 どかん、どかん、と大砲だ。プートギルが地面を蹴るだけで、あちこちで大地が破裂した。

「こ、こりゃマズイよ、全員出撃! 先行隊を救出するっ、獲物はもういいから逃げるよーっ」

 ヨッヤーががつん、がつんと銅鑼を叩いて合図を出した。

 勇敢なリッドテキストの山賊たちはそれに答えてプートギルに向かっていった。

 馬を引き連れて高台に来たのは、ネコノワだった。自分の馬と、ヨッヤーの馬、

 彼の判断は迅速だった。

「ヨッヤー、馬に乗れ。残念ながら、人外の怪物には勝てん」

「さすがはネコノワさん、仕事が早い」

 一個中隊と、たった一人の戦場だ。

 盗賊たちは、ぎゃあっ、死ぬだろっ、なんて転がり、泣き泣き脱出作戦だ。

 冗談のようなこの一幕にヒグリカはもう何も言えず、カモミールがケタケタ笑った。

「ラティカー、起きてーっ」

 カモミールが高台から乗り出して声をかけると、眠っていたラティカがううん、と身をよじって、目を覚ました。

「カモミールの声……? わっ、なにこれ、えらいこっちゃ」

 この大惨事のなか、眠り続けるとは、いかにもプートギルの妹だ。

 他の連中はといえば、とっくに目を覚ましていたが、我関せずと寝たふりをしていた。プートギル一行は基本的に自堕落なチームであった。

「ラティカーっ、ごっめーん、見逃してよーぅ」

「うーん、いいよーっ、お兄ちゃん、見逃してあげてよーっ」

「うーん、いいよーっ」

 豪風と大砲が止んで、先行隊が泣きながら逃げ帰ってきた。

「それ、逃げろーい」

「イエッサーッ」

「カモミール、また会いましょう」

「うん、またね、ラティカ、元気で!」

 ヒグリカはカモミールをらくだの後ろに乗せて、リッドテキスト盗賊団たちと共に大地を駆け抜けた。故郷を離れてから、まだそれほど多くの夜を越えていないというのに、私はなんとおかしな体験をしているのだろうか、そんなことを思っていた。

 太陽は沈み、また昇る。大砂漠を駆け抜けて、星の営みが何度か繰り返されると

 カモミールとヒグリカは、いよいよ枯れた赤土の大地を抜けて、枯れ草の生える土地へとやってきた。

 見える先には緑の自然があった。草木があった。

 雄大なる深緑が広がっていた。

「オオオ……」思わずヒグリカは感嘆の音を上げていた。

 リッドテキストの盗賊たちは、馬や山羊、らくだたちを遊ばせ、体を休めていた。

 ヒグリカとカモミールは、ヨッヤーを探した。先に行ったはずだが、隊たちの前に出たのだろうか、姿が見当たらなかった。

 らくだを連れて、ヒグリカは休憩する男たちの顔を覗き込み覗き込み、ヨッヤーを探した。

 斥候の男が火を使っていたので、彼にヨッヤーを知らないか、と尋ねた。西を指で示してくれた。ヒグリカは礼を言った。

 西側はまた少し景色がちがった。森はまばらで、東側より固い草が多かった。草の生えない土がむき出しになっている箇所がちらほらと目立っていた。

 幹の細い木がぱらぱらと散った、東の森を臨める寂しい場所、ぬるい風の吹く赤茶けた土の上にヨッヤーは胡座をかいていた。

 他には三人の男たち、廃墟あさりの赤ら顔たちだ。

 彼らは自ら進んでヨッヤーの世話役を引き受けているようだ。

「ヨッヤー、探しましたよ。この先があなたの目的地なのですか」

 ヨッヤーはのんびりと腕を大地について、上半身だけひねって、ヒグリカを見上げた。

 そしてニッコリ嬉しそうな顔になった。

「ヒグリカ、ボクのことを聞いているの? ボクの話しが聞きたいのかい」

 そう聞いておいて、さっとヨッヤーは身体を前にもどした。じっとしていたが、背中がいつもより丸まっていて、後ろからでもそわそわしている気持ちが伝わってくる。

「そうですね、ヨッヤーの目的、そろそろ教えてもらいたいものです。よかったら私にも話してくれませんか」

 ヨッヤーはでんぐり返りして、身体をねじって、身体を泥だらけにして、ヒグリカの方に向き直った。丸い目は子犬で、少し厚い唇は凛々しく、子鹿の持つひたむきさを備えている。

 不安そうな顔、それでも期待を込めて、希望を抱いている。ヨッヤーはヒグリカに言った。

「うん、ボクたちの目的は、枯れたアサヤミの木を切り倒すことだ」

「なんですって? あの、アサヤミの木を?」

「そう。アサヤミの木が枯れてしまったことを、知っているかい」

 ヒグリカは頷く。

「聞いたことがあります。三年前に、突然に枯れてしまったと」


 


アサヤミの木は、かつて宝樹とも呼ばれていた神木であった。たわわに実をならす、アサヤミの木に棲みついた生き物たちが、アサヤミの木に寄り添って生き、暮らし、やがて死に絶えて、大地を肥やし、豊かにしていた。

 ヒトにとっても、動物たちにとっても。アサヤミの木は生きるのに欠かせない命の木であった。アサヤミの木は南部にあったが、大陸の隅々までその影響を与えていたのだ。

「なぜ枯れたアサヤミの木を、倒すのですか?」

「アサヤミの木は実を成らさなくなって、死んでしまったと思われている。だけど、ちがうんだよ。宝木は生きている。そして失った生命力を取り戻そうとしている」

 そこまで聞いてヒグリカの頭にイメージがさわさわと湧き上がった。……どうしてなのか、--王の秘密は世界の秘密だ――そう言うカウシッドのイメージが脳に浮かび上がってきた。

「まさか、アサヤミの木は……」

「アサヤミの木が大陸から生命力を吸い上げている。……急速に世界が砂に覆われたのはアサヤミの木の所為なんだ」

「そんな、そんな……、木を倒せば、大地は、救われるのですか」

 恐ろしくなって、ヒグリカは聞いた。

「わからない、もう手遅れかもしれない。だけど、やるしかないんだ」

 刹那、恐怖を忘れて、ヒグリカは感動した。

 ヨッヤーの話しはショックだったが、それ以上に彼の揺らめきながらも真っ直ぐな、太陽の瞳を眩しく思った。

 ヨッヤーが大盗賊団を率いるその意味を、ヒグリカはついに理解した。

 ヨッヤーは終末の世に使命を持って砂漠を駆ける人王であったのだ。

「……そうだったのか、アサヤミの木がこの森に……」

 と、感慨深い気持ちに浸っていた、ヒグリカにヨッヤーは「ああ、そりゃちがう」と首を振った。

 そして、ついでみたいに言った。世界を救う話しの後では、どんな話しであってもついでのようなものだろうが──。

「この先にあるのはボクたちの目的地じゃないんだ。ヒグリカ、キミが石版を届けようとしているあの国があるんだよ」

 ヨッヤーは立ち上がり、背の高い石の上に座った。

 ヒグリカの顔を見て、悲し気な顔をしていた。

 やっぱり言うんじゃなかった、とそう顔に書いてあった。

 ただの世間話がしたかった。

 なんの打算もなく友人として、ただのお喋りがしたかったけど、もう出来なかった。

 アサヤミの木の秘密を教えたら、もしかして、なんて。思っていたわけではないけれど。

 ヒグリカは敵を威嚇する爬虫類みたいに顔色を変えた。今にもヨッヤーに掴みかかりそうなくらい身を乗り出した。

「どこにあるのですか? 教えてください、ヨッヤー」

「その前に……ボクの話しを聞いてくれよ。ボクの話しってのは、キミの話しだぞ」

「そんなこと……いえ、わかりました。聞きましょう」

「ボクははじめてキミを見たとき、……恐ろしくなった。まるで死体が歩いているように感じたんだ。でも、放っておけなかった。……なぜならはじめて見たキミは、昔のボクたちそのままだったからだ」

 ヒグリカは何も言わずに、黙っていた。

 岩に座って話すヨッヤーは星の王子様のようだった。蛇を待つ王子様ではなくて、いつか出会った狐のことを話した王子様……。愛するバラを想う王子様……。

 ヨッヤーはもじもじと考え考え喋った。その様子には、聞き分けのない大人をどうにか説得しようとする子供のような、悲しい必死さがあった。

「ヒトが生きたままで死体になることをボクはよく知っている。だって、ボクたち

リッドテキスト盗賊団はそんなヤツらの集まりなのだから。ボクたちは戦争と差別で国を追われたんだ。ボクたちの故里に砂塵が吹いたのは昔のことで、これは昔話かもしれない。──だから、キミはそのつもりで聞いてくれ。ボクの生まれた土地には

たくさんの小国があって、それなりに緊張しながらも、なんとか平和にやっていた。でも、風が吹いて、台無しになった……」

 ヨッヤーは故里についてあまり詳しく話さなかった。

 ヒグリカも何も聞かなかった。

「戦火が上がって、たくさんの人が死んだ。ボクたちは国を追われて、身寄りのないボクたちは寄り集まった。みんな異国の人間だったけど、そんなことは関係なかった。──ボクたちの絆は、復讐の誓いによって結ばれたからだ」

 赤ら顔たちがこん棒を打ち合わせて、拍を取った。

 そうすることでヨッヤーの語る言葉は、ある王様のお伽噺となった。

「ボクたちは、敵を討つ日の夢を見て眠り、憎しみを食らいながら逃げ伸びた。……いつの間にか、ボクたちは生きた死体になっていた。死へと向かって行進する

おもちゃの兵隊だ。……ボクは正気に返った。ボクは誰よりも弱いから、臆病だから、誰より先に正気に戻れた。

 ボクたちは生き延びなくてはならないと、そう言った。

 ……ボクたちは新しい生き方を探したんだ……」

 辛い思い出なのだろう、ヨッヤーは熱病にかかったように額を押さえた。それでも、みっつ数える内には強く顔を上げていた。

「キミの話しをしよう。かつてのボクたちと同じように、キミは過去の亡霊に取り憑かれている。ボクにはそれがすぐにわかっていたけど、亡霊が何者であるのか、それがわからなかった。だけど、あの石版、あの石版に対するキミの執着は異常だった。これこそがそうなのだろうと、ボクは思い至った。キミに取り憑く悲しみの……その正体を知ったのは、偶然なんだ。塔に縛られていたときに、彼が投げて、ボクの足下に転がってきたからだ。ボクが言いたいのは……」

 小首を傾げて、ヨッヤーは笑った。老人のように疲れきった弱々しい微笑だった。

「辛い出来事でも、いつかは昔話になるってことさ、どうだろうか。……ヒグリカ、もう死に急ぐのは止めて、ボクといっしょに行こうよ。頼むからさ」

 ヒグリカは頷かずに答えた。

「ヨッヤー、彼の国への行き道を教えてださい」

 からくり人形よりも淡泊にヒグリカは言った。カモミールの頬にしんしんと涙が伝っていった。女は時折、男が流せない涙を代わりに流してくれるのだ……。

「ヒグリカッ、ちくしょう。わかんないなら、仕方ない。……悪いけど、ボクはキミを行かせる気はないんだ。おまえたち、石版を奪えっ!」

「オウよッ」三人の男たちがヒグリカを囲った。

「……あなたたち三人なら、私一人で倒せると言ったはずですよ」

「ちがうッ」

 ヨッヤーが岩を蹴って、飛び降りてくる。ヒグリカに向かって、駆けるッ。

「四人だァ!」

 身を低くして、ヒグリカの具足に体当たりを仕掛けてくる。ヨッヤーにヒグリカは剣を振り下ろせなかった。「うおおっ」バランスが崩れる。

 肩掛け鞄の紐が切られ、地面に転がった。

「さがれっ、ヒグリカに殺されるぞっ」

 ヒグリカは、鞄を奪おうとして転がる、捨て身の奪い合いは赤ら顔に軍配が上がり、石版はヨッヤーの手のなかへ。

「ボクを呪え、ヒグリカ、ボクが石版を砕いてやるっ」

 鞄から石版を取り出した、ヨッヤーは高く、弱い拳を振り上げて──。

「待ちなさいっ」

 ヒグリカの声が響く。とっさにヒグリカはカモミールを捻り上げていた。

 剣の切っ先は鋭く、その首筋にかかっていた。

「人質と交換です、でもその前に、国がどこにあるのかを教えなさい」

「ちょっと、ヒグリカ、この恩知らずっ」

 カモミールは暴れたが、締め付けをきつくすると静かになった。

「ヒグリカ、カモミールを離せ」

「それならまず、カモミールの手に石版を持たせてください。さん、にぃ、いち……そうです。では……ヨッヤー、国の場所はどこ?」

 ヒグリカの意志は、もはや殺さなければ止められぬと悟って、うなだれたヨッヤーは国への道筋を示した。

 ところでカモミールが身をひねり、暴れはじめたのだ。

 これはヒグリカとしてもあまりに突然で、剣を引っ込めることもできない。

 腕が折れるぞ、というほどに抵抗して、無茶苦茶をやった。

 刃がカモミールの肌を傷つけた。「なんてことをっ」ヒグリカが死にそうな声を上げた。

「イッタい、けど、わたし、痛いのって、けっこー慣れているから。だ・か・ら、だいじょーぶだい!」

 カモミールは石版を放り投げる。高く、高く、弧を描いて、小さな、目に見えない砂の粒子を溢しながら、石版は砂地に沈んだ。

「言ったじゃない、わたしはあなたの味方よ。ヒグリカ、さあ、選びなさい。あなたの好きな道へ進めばいいわ。幻を追いかけるか、わたしたちと共に進むか、わたしはあなたの選択が正しかったと、何があってもそう信じるわ」

「そんな……言ってくれれば」

 情けない声でヒグリカが言った。

「なんでわたしが動くのに、ヒグリカにいちいち聞かなきゃいけないの? 

 わたしは、自由なのよっ。この世界でっ、誰よりも!」

 赤い鮮血を拭いながらカモミールは誇り高く、美しく、笑った。

「さあ、急いで、ヒグリカ、迷っていたら、石版は砂漠にさらわれて、呑み込まれてしまうわ。どうしようもないじゃない。他の何に代えてもやり遂げたいことがあるのなら、誰にだってそんなのどうしようもないじゃない」 

 ヨッヤーがヒグリカの背中を押した。

「ヒグリカ、必ずやりとげて、戻ってこい」

 短い付き合いのなかで、二人は本人たちも知らない内に親友になっていた。それは二人が心から語り合い、心同士でぶつかり合ったからだ。

 決別の時に堪えられない弱虫の王様をカモミールたちがなぐさめてやった。

「さようなら、ヨッヤー、カモミール、また会えることがあったら、どうか私と仲良くしてください」

「また宮殿へいらっしゃい。ヒグリカ、みんなあなたを歓迎するわ」

「ヒグリカ、ボクはずっと、キミの帰りを待っている!」

 こうしてヒグリカはまた一人きりになった。

 ヒグリカは砂場をかき分け、石版を見つけると、どうしようもなくなり、動けなくなってしまった。少しだけヒグリカは、砂地に身体を埋めて泣いた。

 そして、立ち上がり、風の声を聞いた。

 ヨッヤーとカモミールは戦士たちを鼓舞しながら馬を駆った。

 赤ら顔たちはこん棒で太鼓を叩いて盗賊稼業の歌を歌った。

「いよいよ時間だ。みんな立て! ボクたちリッドテキストはこれより作戦を決行する」

 ヒグリカはどうなりました、と斥候が聞いてきた。それが彼の仕事だった。本当はヒグリカを行かせるわけにはいかない事情があったのだ。

 ヨッヤーたちはヒグリカの故郷サウジャラの軍に彼の地へ攻めあがってもらいたかった。彼らにとっての敵をあちらに引き付けておきたかった。

 南の小国を束ね支配し、アサヤミの木を守護する大国ケイナンの兵士たちを。

 同盟国が攻められれば、ケイナン国は軍を派遣し、アサヤミの木は手薄になる。

 リッドテキストの計画のためには、彼の国は、攻め込まれなければならなかったのだ。

「スマナイ、みんな、ヒグリカは行ってしまった。だけど、ボクは彼の友人として、彼の旅が上手くいくように願う。……きっとヒグリカはやりとげて彼の国は、サウジャラを迎え撃つ。本土への奇襲はない。そうなると、アサヤミの木の守りは厳重になり、ボクたちの戦いはいっそう厳しいものになるだろう! しかし、死んでくれるな、生き延びろ。そして今日こそ、アサヤミの木を切り倒そうぜ」

 リッドテキストの盗賊たちは「死んでたまるかーっ!」と勝ちどきを上げた。

 おもいおもいの旗を掲げて、リッドテキスト盗賊団が、西の森のなかへと駆け抜けていく。



 ヒグリカは森の前で立ち往生していた。

 らくだが何かに怯えて動かなくなってしまったのだ。

「ねぇ、お願い。私を乗せて、歩いて下さいよ」

 らくだは何も言ってはくれない。

 ところで、人とケモノがいて、人が右だ、ケモノは左、と言ったらどちらへ進むべきだろうか? 言うまでもなかった。

 グズグズしているヒグリカを拒むように、森がざわざわと蠢いた。

 孤独とは、自由のことだと誰かが言ったが、ヒグリカにとってはそうではなかった。ヒグリカはカモミールではない。一人では、ただ立ち竦むことしかできない。

 生い茂る草木の奥に秘密を隠す、不気味なラビリンスに足を踏み入れたら、

 二度と戻ってこれないような気がして、ヒグリカは後ろを振り返った。

 ひび割れた赤土の大地、その先に──砂漠がある。

 砂漠は純粋な神秘に溢れていた。生きることも死ぬことさえも、シンプルだった。

 砂漠で生きる人が、遠方に見えた。

 らくだを駆る一団、彼らもまた、難しくない。

 彼らはただ、生きるということをやっているのだ。

 ヒグリカの心に喜びと悲しみが渦を巻いて、たまらない気持ちが溢れた。

「よし、おいで! 砂漠で遊ぼう」

 ヒグリカは、らくだを引っ張って思いきり走らせた。赤土を抜けて、砂漠へ。

 砂漠の砂を蹴っ飛ばして、ヒグリカは星のかすかな音楽を聞いた。

 さらさら、ひゅうひゅう、ごうごう、ぼうぼう。

「なあ、すごいなあ、私は生きているぞ。そして彼らも、生きている。

 おーい、おーい……!」

 ヒグリカは故里に帰りたくなった。大声を上げた。

 帰ったら、めしを食おう。腹一杯食べて、うまい、おいしい、ごちそうさま、と

 そう言うのだ。

 おーい、おーい、声を張り上げた。

 おーい、おーい!

 すると、……すると、らくだを駆る一団が進行方向を変えた。

 ……こちらに向かってくるではないか!

 ヒグリカには一団がきらきら輝いて見えた。ロマンチックに浸っていたのでなおさらだった。

 それでも、ヒグリカはバカになったわけではない。

 まずいかもしれない……、逃げなくちゃいけないぞ。

 ヒグリカは急いで、らくだにまたがった。「急げ、森に隠れよう。なに? 嫌ですって? いいから行くんですよっ」

 ひとときの楽しい気分を大急ぎで脱ぎ捨てて、焦燥のローブを素早く纏った。

「はいっ、はいっ、いいぞ、急げっ」

 スピード感に気持ちよくなって、ヒグリカは振り返った。ぎょっとする。

 ──まずいぞ、ヤツらなんて速さなんだ。追いつかれる前に、森に入るしかない。

 タイミングはどうやら、ぎりぎりだ。

 ヒート、ヒート、デンジャー、デンジャー、らくだよ、急げよ、命を燃やせ!

 男が鞭を鳴らして、こう言った。

「待て! 止まれっ!」

 バカな、待てと言われて、止まれと言われて止まるバカがどこにいるのだ。

 そんなヤツは柵に閉じ込められて、どこにも逃げられないブタぐらいのものだ。

「おまえ……、止まれっ……おまえ、ヒグリカじゃないのかっ」

 なんだって? よく聞こえない。

「今……、なまえを呼ばれたような……」

「そうだ、なまえを呼んだのだ、ヒグリカ、止まれよ」

「止まりません、卑怯者め。なぜ、私を知っている」

「誰が卑怯だ! 相変わらず無礼なヤツめ」

 男は怒ったような声になった。神様みたいに力強い声だ。こりゃあ、自分なんかでは太刀打ちできない相手かも知れない。立ち止まって、許しを乞おうか、とヒグリカは思った。

「いい加減にしろ!」さらに男が声を張り上げる。

「追いかけっこはもういいだろう。ヒグリカ、俺だぞ、放浪の王、カウシッドだ!」

 ヒグリカは再び森の前まで来た。

 らくだはヒグリカが止めるまでもなく止まった。

 ぴったりと足をたたんで、腹をつけたあの体勢だ。

「ヒグリカ、なぜ逃げた」

 たしかに彼はカウシッド王であった。

 カウシッドに見下ろされて、ヒグリカは頭を掻いた。

「まさか、あなただとは思わなかった。砂漠で嵐に遭って生き別れた人と、また会えるだなんて誰が思うでしょうか」

「ハハハッ、それはそうだ」

 カウシッドは楽しげだ。実はヒグリカからすれば、この王がどうして自分を気にいっているのか、さっぱりわからなかった。

 その上ヒグリカにはより一層不思議なことだが、カウシッドがユゲテたちを殺したことを憎むことができなかった。

 むごたらしくキャラバン隊を惨殺しておいて、ヒグリカだけを生かした暴虐の王。どうしてか、カウシッドに対して、ヒグリカの胸には憎しみの針が上手く刺さらなかったのだ。

 なぜだろう? ヒグリカの心臓はとっくの昔に針のむしろだからか。

 それとも、心にぽっかり穴が空いていて、虚空をあざ笑うように感情が通り過ぎていってしまったのか。

 それとも何か、別の理由からだろうか?

「カウシッド、なぜあなたがここに?」

「俺たちは国攻めのための視察に来た。俺たちは、近いうちに大陸南部へ侵攻するための足がかりをつくろうかと考えているのだ」

 これにはお付きのエンジノが飛び上がった。

「ちょっと、カウシッド、あんた、なに部外者に極秘情報明かしてるンですか」

「おまえは口をはさむな、エンジノ。それよりヒグリカ、おまえこそなぜ、ここにいるのだ」

 ヒグリカはかいつまんで事情を話した。

 らくだが森を怖がってしまって、動けないことまで話した。

「なるほど、賢いらくだだ。森にケダモノが潜んでいることがわかるのだな」

「ケダモノですか」

 それはきっと、ユゲテの言っていたケダモノのことだろう。

 そいつらには、剣さえも効かないという話しだった。

「それでも、私は森に行かねばなりません。こうなれば、らくだがなくともやるだけです」

 ヒグリカの固い決意表明を、カウシッドはのんびりと首も振らずに言い消した。

「そうはいかない。足の速い乗り馬がなければ、ヤツらの餌食になるだけだ」

「そうは言ったって……」 

 ヒグリカが尻を叩いても、らくだはどうしても動かなかった。

「ヒグリカ、俺はおまえをどこにだって連れて行ってやると言ったな。

 その約束を、今こそ果たそう」

 カウシッドがらくだから降りた。よく見ると、カウシッドのらくだは、馬のように巨大であった。黄土色の戦士たちもまた、地面に立って王の後ろに控えた。

「アダブカダブーラ、道を開けろ!」

 金箔の撒かれた鎧を身に纏うカウシッドが、大きく腕を開いた。

「さあ、急げ。ケダモノたちはすぐに戻ってくるぞ!」

 カウシッドはらくだに乗って、ヒグリカを急かした。

 これなら行けるわよ、とヒグリカのらくだも立ち上がり、尻尾でヒグリカの手を打った。どうしても、行きたいのならさっさとしてちょうだい。

 ヒグリカとカウシッドたちは森へと侵入していく。

 王の威信はケモノにまで届くのか、とヒグリカは驚嘆した。

 

 暗い森へようこそ。

 草がつぶされた跡をらくだたちを歩かせて進む。これが獣道というヤツだろう。

 森にはあらうる生命の臭いが充満していた。息づく生命の放つ芳香とおびただしい死骸の残香。

 そして、無数の敵の気配を感じて、ヒグリカは腰の剣から手を離さなかった。

 行進はしずしずと速やかに行われた。カウシッドたちは森に入った経験があるのだろう。判断は的確で隙がなかった。

 しばらく進むと、大きく道の開けた場所に出た。

 人間の手によって作られた道であった。

「待て、全員、止まれ」

「ケダモノですか?」

「ちがうな、どうやらどこかの部隊が潜んでいるようだ」

「迂回して、偵察しましょう」 

 ヒグリカたちは、鉢合わせしないよう気を付けて、らくだから降りて、身を低くして、大回りで進んだ。

「ケイナン国の甲冑部隊じゃないな。ここらで見ないヤツらだ。こいつらはいったい?」

 ヒグリカは言った。

「一刻の猶予もない。私は行きます」

「バカな、何者かわからないが、どうやら少人数じゃないぞ。死ぬつもりか」

 ヒグリカはらくだにキスをして別れのあいさつをした。

「あれは私の祖国の兵たちです。だから、大丈夫」

 野牛をかたどったエンブレム、見間違えようがない。証明にヒグリカは腰の剣を掲げて見せた。カウシッドが信じられん、と膝を叩いた。

「俺たちが攻めようとしている国に、先におまえの祖国が攻め入ったのか。なんてことだ」

「カウシッド、私は自分勝手で祖国を裏切ろうとしているのです。でも、こんな私を助けて頂いて、感謝しています」

「……どうしても行くのだな。ヒグリカ、だが、俺の兵たちに無謀な戦いをやらせるわけにはいかないのだ」

「いいえ、いいのです。ありがとう、簡単なことですよ。

 故郷の流行歌でも彼らと交えて、通してもらうとします」

 誰も野暮は言わなかった。だが、ヒグリカが草陰から、さあ、身を出そうとしたそのとき、カウシッドが肩をつかんだ。ここで何もしない王は王ではなかった。

「待て、ヒグリカ、このままお前を行かせたら、俺は嘘を言ったことになる。

 エンジノよ、俺は何と言った?」

「どこへでも連れて行く、とそうおっしゃいましたな」

「ああ、やっぱりそうだったか、我ながらバカなことを言ったものだな」

「軽率でしたな。王とは嘘はついても信は違えぬもの。……などどは、口が裂けても言いませぬが」

「抜かしやがるな。どうだ、おまえたち、無茶は好きか」

 カウシッドが兵たちに尋ねた。

 兵たちはまとまり無く、一人一人がそれぞれの答えを持っていた。全員「是」と答えた。

「無茶はやりませんので。我らにとっては、道を開くくらいのこと、なんでもないでしょうな」

「いかにもそうだ。そら、行くぞっ」

 言うとカウシッドはさすが、疾風であった。カウシッドと戦士たちは、森から飛び出すと、国へと続く正道を見張る兵たちを囲んで、ぐるぐる周りを回った。

 たったの四人。他の戦士たちは茂みを抜けて、違う場所へ移動していった。

 突然現れた敵に、驚きながらも、数で優位と見て、猛牛鎧の戦士たちは馬を出させた。

 カウシッドたちはそれを嘲って、剣で地面をばしばしと叩いた。

 あからさまな挑発に乗って、カウシッドたちに向かっていく兵隊たち、カウシッドは剣を一度も交えず道を外れて、関所から遠ざかっていく。

 らくだに対して、馬である。追いかけっこもこちらが優位と見て取って、兵士たちは一人残らず、カウシッドたちを追いかけた。

 先回りによる、罠があるとは知らず……。

 道は開けた。

 ヒグリカはらくだといっしょに関所を通った。

 旅人を名乗って街道を抜ける。

 国の周りには木の柵と石の塀があった。贅沢な木の柵にヒグリカは驚いた。

 ここでも一悶着を覚悟していたのだが、あっさりとヒグリカは入国を許されてしまった。

 ヒグリカは兵に、なぜこの国はこうも簡単に入国を許すのですか、もし北から敵が攻めてきたら、まずここにぶつかるのだから、もっと警戒した方がいいのではないですか、とそんなことを尋ねた。

 兵はいろんな言葉を言ったが、簡単に言うと、この国は人の出入りが盛んな、

 とても良い場所にあって、小国でありながら豊かで潤っている。

 それは外国人がもたらす商品や、彼らが使う金によるところが大きいため、入国は簡単になっている。そのようなことを理由に挙げた。

 そして、こうも言った。

 敵がこの国へ攻めてくることは絶対にありえない、と。

 この国は大国ケイナンと同盟関係にあって、この国を攻めれば、ケイナンが黙ってはいない。さらに、北にある数々の小国とも、我々は同盟を結んでいる。

 これは、貿易のためにある契約であり、どの国も一国では必要な物資を確保できない以上、(材木、食料、絹糸、調味料、その他、ありとあるうるもの)互いに破ることの出来ない盟約である。

 もし、盟約を破ることがあれば、その国は信用を失い、孤立することになる。

 そのため、誰もこの国へは攻め入ってこないのだ。

 いいえ、それが違うのですよ。

 あなたの言うような古い世の常識は、とっくに通じなくなっているのですから。

 ヒグリカの脳に言葉が浮かんできて口元をつついたが、結局、外へは出さなかった。

 もう時間がない。その話しはこの国の王に向かってする話しであった。

 馬小屋にらくだを預けて、せっかく晴天水色の空を背負っているのに、曇天色にその身を染めている曇り空の王城へ向かってヒグリカは歩いて行った。

 

 

 大きくはないが、盛んな街である。

 ヒグリカの故郷サウジャラでは政と商いは行う場所を切り分けていたが、この国ではそれは密接につながったものであり、いや、もっと言えば泥に落として掻き混ぜたかのように、あたかも元より一つであるかのごとく交じり合っていた。

 この国では王城さえも観光が許されているのだ。

 とは言っても、もちろん許しのない外国人が中に入ることはできないのだが、城門前にヒグリカが近づいていくことに対して、誰一人として言い咎める者はいなかった。

 城門は大きく開いており、その幅は薄く、実に風通しが良さそうであった。

 城門前には一人の兵士がいた。彼の甲冑は薄く、武器は腰にさげた重量の軽そうな先の丸い剣のみであった。

 ヒグリカは兵士に話しかけた。

「こんにちは。兵士殿、お願いがあるのですが……」

「はい、こんにちは。どうかしましたか? もしかしたら、城内に入って国王にお目通りを願いたいというご用件ではありませんか?」

 兵士がずばり言った。

 ヒグリカは口をぽっかり開いて兵士の顔を見た。

「そうです。正にその通りです。お願いできますか」

「いいえ、できませんよ。さすがに、それは出来ないということはわかるんじゃないですか。なぜ、私がそう聞いたかといいますとね、普通の人、常識のある方は私に話しかけようとはしません。武器を腰に下げて、鎧を着込んでいる兵隊なのです。言わば、町のおまわりさんではなく、国に命じられれば戦場におもむく軍人なのです。そんな私に向かって、迷いのない足取りでずんずんと向かってくる人間にはどんな手合いが多いと思われますか? それは、一般常識に欠けた然るべき手順もふまずに身勝手な要求ばかりをする方々です。観光に来られた旅人さんなら、まず観光局なりに行って、ガイドを雇って、ガイドを通して、常識の範疇と、この国のルールに乗っ取って観光をなさるべきではないでしょうか? いえ、私はなにも、あなたがそういうことをされる方とは申していませんよ。ただね、私が短いながら身骨を砕いて勤め上げてきたこの門番という仕事においてよくよくお目かけしましたのが、目立ちたがりか、旅先での思い出話のつもりなのか、通るはずのない道理を無理に通そうとされる方を見てきたのです。どういうわけか、その方々は他の誰にでもなく、私に向かって無茶を言うようです。無茶な人には誰もついては来ないでしょうから、当然、そういった方は一人でやってこられます。いたずらであれば誰かが、近くで見ているのでしょうが……あの方はお友達で? おや、ちがいますか。失礼、どうやら花火職人さんのようです。近くにお祭りでもありましたかね。話しがそれましたが、私が言いたいこととは正にそれです。我が国には旅人さんの観光のために数々の行事や設備が用意されています。何もわざわざ人と違うことをする必要はがないではありませんか。この国に来られたということそのものが特別な思い出にはなりませんか。私たちが勤務中にアルコールを摂取すれば問題になりますが、あなた方はそうではありませんよ。我が国名産の酒と、フルーツパイなんて日常では有り得ない組み合わせを楽しみつつ、夜遅くまで観光を楽しんで頂けるのです。もちろん、飲食持ち込み禁止の施設では、控えて下さいね。ここまで言えばわかりそうなものなのですが、残念ながら、言ったら聞いて頂けるような方であれば、最初から、私に話しかけては来られませんし、無茶は無茶として、思いついてもお友達同士でだけのジョークとして済ませておいてくださるのです。つまり、多くの方々が、ここまで、と決める一線を越えて、私に向かって、彼彼女らが、言う言葉があります。それが、国王陛下にお目通り願えませんかぁ?」

 そう言って、兵士は締めくくった。

 兵士が繰り返して言った。「それで、ご用件は?」

 ヒグリカも繰り返す。

「どうしても、私は国王陛下にお目通り願いたいのです」

 兵士は黙って数秒間、ヒグリカの顔を見ていた。なんの感情もないような、人をバカにしたような、哀れんでいるような、それらがない交ぜになった憎々しい表情をしていた。

「私はサウジャラからやって来た使者です。姫君から大切な手紙を預かってきたのです」

「そのような話しは伺っておりませんが」

「こちらから来る話しを、あなたが知っているはずがありませんよ。大急ぎの手紙ですので、どうかここを通ることをお許し下さい」

「手紙でしたら、郵便受けがあります。投書して頂ければ、配達員が明日の朝方、私まで届けに来るでしょう」

「明日じゃあダメだっ! 今すぐ国王に見せなければならないのだっ」

「……あなた、国の使いだというのに、その身なり、それにお連れの方もいらっしゃいませんね?」

「身なりだって? 旅をしたことがないのか。いいや、そんなことはどうだっていい。これは姫様が、我が祖国の企みを、あなた方の王に知らせようとしたためた密書なのだ。こんな場所で話し込んでいる時間はない! 早く、ここを通せっ!」

 ヒグリカが興奮して迫ると、兵士は恐ろしいものを見る目になって後ろに下がった。剣を抜こうとはしないが、今にも応援を呼びそうな気配である。

「あなた、言っていることが無茶苦茶ですよ……。それに、その鞄の紐だって一度切れたのを結んであるだけだし……密書がどうとか言われても……」

 ヒグリカは慌てて取り繕った。

「手紙を見てくれ。もう、国王にはあなたが届けてくれればいいから。だけど、ひとつだけ頼みが。どうしても、今すぐに見てもらいたいのだ」

 腹を切った思いであった。ヒグリカはなんとしても自らの手で手紙を王に届けたかった。それが、やり遂げるということだと信じていた。

 これまで、数多くの厳しく辛い試練を乗り越えて来たというのに、その最後を人の手に委ねることになろうとは……。

 ヒグリカの熱意に感じ入ったように、兵士が小さく首を振った。

 そして、今までより一層情感たっぷりに喋った。

「やれやれ……。母が私に言ったものです。あんたみたいなお人好しには門番の仕事はむいていない。それでも、やろうってんなら、心を鬼にしないといけないよ。まったくその通りです。……私はほだされやすくていけない。純粋すぎるのかもしれません。あなた……手紙でしたね。引き受けましょう。国王陛下へは責任を持って私がお渡しておきましょう」

 ……これは、どうにも突然、素直すぎるのではないか──などと、考えるまでもないことだ。

 ウソが上手いつもりの人たちは、なぜみんな一様に似たようなことを言うのだろう、とヒグリカは悲しくなった。

 本当のことをいうときは「わかりました」という、ただ一言があれば良いのだ。

 兵士は鎧のみならず、言葉までもが薄っぺらい。あるうる意味で信用ならなかった。めんどうくさいから、負けたふりをしておこう。それができる俺はかっこいい、と顔に書いてあった。

 いや、そんなことは重要ではない。

 見ただろうか。この門番の嘘まみれの瞳を。

 このような男に手紙を預けるのなんて無茶な相談だった。

 胸がムカムカしてきた。

 しかし、ヒグリカにとっての窓口はこの男しかなく、それ以上にもう時間がなさすぎた。

 手紙を男に渡したら、すぐさま王の元へ向かうようにせっつくことになりそうだった。

 鞄に手を突っ込み、石版をつかんだ。

 取り出そうとするその手が止まった。

 ……イヤだ、やっぱり渡したくない。

 こんな男に私の宝を触らせるのか。……それは、……それは、愛する女をこの男に触らせるのと同じことではないのか。

 ヒグリカは悩んで自分の影を見ていた。焦れた様子で兵士が動いたことにも気がついた。

 ちくしょう、なんなんだ。時間がないのはこっちの方だ。いいや、おまえたちの方なんだぞ!

 涙を浮かべてヒグリカは石版を取り出した。

 兵士が「やっとか」ぼそりと言って手を伸ばしてくる。

 震えるヒグリカ、兵士の手が止まる。

 止まる? ──なぜ、止まる?

「おい、ほら、手紙を受け取って下さいよ」

「あんたねぇ、バカにしてんの? 石ころなんか鞄に入れて、幼稚きわまりない。……私は人に馬鹿にされるのが、大嫌いなんだ」

 そう言って兵士がつばを跳ばしてくる。

「そうじゃないっ、姫様はこの石に文字を彫って、手紙とされたのだ。いいから、読んでくれ」

「また、姫様……。妄想は、いい加減にしておけっ!」

 ヒグリカは兵士にむかついていたが、どうやら兵士の方ではヒグリカに対して相当悪い印象を持っていたようで、強い言葉を使った。

 兵士がヒグリカの手をはたいた。「あっ」ヒグリカの手から石版がすべり落ちて、転がった。

 固い地面に当たって、角が少し削れたが、柔らかな草の上に来て止まった。

 ピョン、ととびのった虫を払いのけて、石板を拾い上げる。

 ヒグリカは丁寧に草やゴミを取り除いて、欠けた場所を気にした。文字の部分には影響ないようだが、欠片はどこにある?

 こうなれば、こいつを倒してでも進むしかあるまい。

 体中に湧き上がる激しく脈打つ怒りに、正当性を取り付けて、

 ヒグリカは兵士の隙をうかがいはじめた。

 心を殺して、無表情をつくった。

 無理矢理口の端を歪めて、笑顔の出来損ないを貼り付けた。

 隙はすぐにやってきた。

「花火だ」

 兵士が言った。後ろでドカーン、という音がしていた。花火職人が打ち上げたのだろう。

 始終人をバカにした憎たらしい顔をしていたこの兵士の顔が、純朴そうな罪のない顔つきになっていた。

「やあ、花火だっ、ハハハッ、玉やーっ」

 その隙に踏み込んで一発、顎先にパンチをお見舞いした。兵士は気を失って倒れた。暑かろうとも、鎧は顔全体を覆うものでなくてはいけないのだな、とヒグリカは関係のないことに納得した。花火は見ずに、ヒグリカは城門をくぐった。


 倒れた兵士に誰かが気がついたのか、悲鳴が聞こえた。

 構ってはいられない。

 城門とは、王城を守る囲いの門である。当然、そのなかにはもう一つ扉があった。

 その扉には見張りがいなかった。

 特にどんな感想も抱かずにヒグリカは城内へと足を踏み入れていく。

 考えるより、少しでも早く駆け抜けるべき時だった。

 城のなかは臭かった。うっすらと煙い。

 ヒグリカの故郷でよく使われるお香とは随分ちがうものだ。

 正面から、城内に侵入してきたヒグリカに向かって、兵たちが向かってくる。

 当然の反応なのだが、少しは驚き躊躇するかと期待していたので、

 ヒグリカの予想は外れて、立ち止まって剣を抜かねばならなかった。

 兵士たちにしてもすでに武器を抜いている。

 あの関所の見張りや門番と比べると、さすが城内の兵たちは守備意識が高い。

 一斉にかかられては不利と見て、ヒグリカの方から斬りかかった。

 一人の手甲に剣を滑らして、後ろを取ると、がつんと背中を蹴り飛ばしてやる。

 二人目の兵が後ろから斬りかかってきたので、振り向かずにそのままヒグリカは前転した。

 蹴り倒した兵の落とした短い剣を拾い、投げつけた。

 鋭く飛来する剣に兵は怯えた。目くらましに引っかかっている兵を見て、ヒグリカはすぐさま飛び上がって兵士の兜を剣の柄で殴り飛ばした。固い衝撃が兵士の頭を揺らし、二人目の兵が倒れた。

 良い具合に前倒しに倒れる兵の背を踏みつけて、休みなく三人目にヒグリカは飛びかかる。

 剣と剣が交錯する。

 ヒグリカの重い剣に兵士は堪えて、両手でしっかと握り、落とさなかった。膝をついてヒグリカを見上げ精悍な顔つきで睨んだ。

 ヒグリカは空いた手で兵士の肩を押さえつけた。

 兵士の肩の上に置いた手の肘を曲げて、ぐっと顔を近づける。兵士が訝しげな顔になる。ヒグリカは腕に力を込めて、地面を蹴る。腕が伸びる。

ヒグリカは両手の腕力と、足で地を蹴る勢いで、兵士の上で逆立ちをした。

 そのまま止まらずに兵士を押し潰すままに空へと前宙したっ!

 まだ止まらない。

 ヒグリカは空中で一回、二回、三回……と回転した。

 見上げて固まっている残りの兵士たちに、

 ──ヒグリカは容赦なく突っ込んでいく!

 剣と蹴り足を出して、獲物に飛びかかる豹のようであった。

 転ぶようにして、前に進むヒグリカ。

 出来るはずのないことをヒグリカはやっていた。

 王女を愛する気持ちが彼に無限のエネルギーを与えていた。

 ヒグリカは豪奢な上り階段の前にやってきた。

 ヒグリカと追いすがる兵たちで城内は混乱していたが、上の階からはさらに騒がしい音が聞こえてくる。

 物の壊れる音と、人間の声、怒声、悲鳴、──悲鳴を上げて、上の階から兵士が駈け降りてきた。こうなると、ヒグリカは挟み撃ちに合う形である。

 ぶちかましをかけるしかないか、と考えたが、上からは三人の兵士、鎧を来ていて、猛烈な勢いであった。

 ヒグリカがじりじりと後ろを警戒しながら迷う内に、悪魔に追われる人のごとく、兵士たちは剣を振り上げて襲ってくる。万事休すである。

 一、二、三本のツルギ、後ろにも逃げ場はない。

 ツルギは振り上げられたままで、止まっていた。ぐらり、と兵たちは倒れた。

 三人のうち一人の兵士をヒグリカは抱きとめる。

 兵士はこと切れていた。

 右と左に倒れ、一人はヒグリカに抱かれて死んだ。

 ヒグリカは後方に死体を放り捨てた。

 視界がひらけたそこには、この国の鎧を着た新たな三人がいた。

 その中央の男がヒグリカを見て、隣に立つ男たちの手と胸を叩いた。

 男たちはヒグリカを少しだけ見て、無言のまま上の階へと引き返していった。

 ヒグリカは階段を昇りながら、下から追い昇ってくる兵たちを蹴り返し、突き落とす。後は一気に階段を駆け上がった。

 さっきの中央の男はヒグリカのよく知る人物であった。

 ヒグリカは呟く。「ツーツォ、君がここにいるというのか」

 さきほど身をひるがえした三人の内、中央で合図を出していた人物は紛れもなく

 ツーツォであった。同郷の親友を見間違えるはずはなかった。

 とにかくヒグリカは王を探し続けた。臭い、暑い、なんてヒドイ王城だろうか。

 そうではなかった。城に火の手が上がっているのだ。

 ぼぅぼぅと、二階のあちこちに油が撒かれて、炎が燃え盛っていた。

 へたり込みそうになりながら、ヒグリカは愛する人のなまえを呟いた。


 

               *



 どこかで、

 ドーン、ドーン、と爆弾が爆発するような音がしていた。

 太い木の枝にぶらさがって、

 足のつまさきでしっかり枝を掴んで体を固定したおサルのカモミールは

 隣で木の幹にひっしと抱きついているコアラのヨッヤーに話しかけた。

「ねぇ、この縄はなんなの?」

 幾重にも太いロープが絡み合って、南側から北へと伸びている。 

 ロープのはじまりは黒々とした不気味な一本の木に結ばれている。

 木には花も葉もなかった。

 背はそれほど高くない。その木の枝をしならせて、ロープが何本も南へと伸びている。

 鬱蒼と茂る森のなかで、はぐれものの老人のようにぽつりと根を下ろしている、

その木こそが、アサヤミの木であった。

「万全を期さないといけないからさー。倒せそうだったらみんなで引っ張るんだよ」

「ふぅん、よくあんなのやれるわね。だって、ケイナンの兵隊さんたちが見張っているんでしょ?」

「まーね、もう知らせが行っているだろうな、本隊がやって来るまでもう間もなくだと思う」

 カモミールがヨッヤーを足でこしょぐった。

「よく知ってんじゃん」

「ちょっとやめてよっ、落ちちゃうってば! もうこれで十二回目のチャレンジなんだ……。これ以上仲間を失うのは嫌だから、絶対に成功させるよ」

「それで、どんな段取りなの?」

 とくに感傷なく聞いてくるカモミールに、ヨッヤーは目をパチパチして驚いた。

 しかし、こんな世の中では自分の方が弱虫の外れ者だろう、そうヨッヤーは自省した。

「うん、もう下ではみんなとケイナンの駐屯兵たちがやり合っている。そして、

 アサヤミの木へはネコノワさんが木こり役をやってくれているんだ」

 ヨッヤーの説明を後付けするようにドーン、という音がした。

 それはネコノワが大鉈でアサヤミの木を切りつける音であった。

 ヨッヤーは言葉を続けた。

「アサヤミの木は丈夫で斬りにくい。表面の樹液で炎さえも跳ね返すんだ。ネコノワさんが、斬り倒すには相当殴りつけないといけない、と言っていたよ。アサヤミの木が持つ自然治癒力はそれこそ神木としか言いようのない。ハンパないんだ」

「そんなことネコノワさんにだけ押しつけていいの?」

「仕方ないよ。アサヤミの木に大きな傷をつけられるのはネコノワさんくらいのもんだもん」

「それじゃどれくらいでアサヤミの木を倒せるの?」

「もう何度も経験があるから、大体何度、大鉈を入れればアサヤミの木を倒せるかは感覚的にわかったらしい。それで、ネコノワさんが言うにはね……」

 ピーッ、と高い音が聞こえる。それは、ケイナン国の本隊がやってきた合図だった。

 あちこちの木がかすかに揺れた。

 ヨッヤーはそこら中の木の上にも盗賊たちを潜ませているのだった。

 カモミールのぶらさがった枝に片足を乗せて、なまけものになって体を引き上げると、ヨッヤーが低い音の笛を奏でた。

 ヨッヤーの出した全部隊・迎撃態勢、の笛の合図に木を揺らして仲間たちが了と答える。

「……百発だってさ」

 カモミールの耳元でヨッヤーが囁いた。

「ひゃっ」カモミールが悲鳴のように聞き返す瞬間、木がグラグラ揺れた。木を揺らす者がいるのだ。

 まさかここに敵兵が? 「なにやってんの!」ヨッヤーが下に向かって怒った。

「合図は笛でやるって決めといたじゃん。ボクが見つかっちゃうよ」

 そう言いながら、ヨッヤーが慎重にゆっくり慎重に、木の幹を降りていった。

 味方らしいので、カモミールもネコのように軽やかに低い枝へと移った。

「それが、想定外のことが……」

「どうしてもトイレに行きたいときの援護を求める合図まで決めたんだぜ。何だってんだい。言っておくけど、トイレの合図を本当に使ったら、メシ三日抜きだからな」

 伝令兵は急いで言うのではなく、溜をつくった。どうか、しっかりと、聞き間違いようのないように聞いて下さい、そんな意志がこめられたその報告は短いものだった。

「カシムです。本隊のなかにカシムがいます」

「なんだって!」「なんですって!」

 ヨッヤーとカモミールが目を丸くして驚いた。

「カシムめ……、いったい、なんのつもりなんだ……」

「わかりません……」

 ヨッヤーはほんの少しだけ考えた。ヨッヤーはいつも、長くは悩まなかった。

 いつだって、時間は限られているからだ。

「ボクが挨拶に行ってくる。カモミールは彼について安全な場所へ行って。いいね」

「うん、わかった」

 カモミールは素直に肯いた。わたしもあなたと共に連れて行って下さい、なんて

 いじらしいことは彼女は言わなかった。

 世界で一番自由なカモミールにそう言わせることのできた男は、

 黄金砂漠の王様さえ羨ましがらせることだろう。

 ヨッヤーは近くにいた部隊に合流して、慎重にケイナンの本隊が見える位置を探した。

 仲間に誘導されながら、高い木に登る。

 リッドテキストの盗賊たちはみんな高い場所が好きだった。

 仲間たちの手を借りて、森の向こう側、自然の森ではない、人間の手が入った森、その先に伐採されてまとめられた丸太が置かれた、大きく拓けた場所があった。

 そこにケイナン本隊が駐留している。

 矢を射かけたくなる光景であったが、ヨッヤーはそれを無駄だとわかっていた。

 全身を覆う厚いフルアーマーに、人の全身を倍にした長さもある大重槍を持つ、

 それが大国ケイナンの誇る重装騎士団である。

 リッドテキストの弓には太く鋭い物もあったが、あの甲冑を貫くことは容易ではない。一人、二人をしとめたところで、森に入られてしまえば弓はほとんど用をなさなくなる。

 ケイナンの兵たちもまた弓兵は少ないようだ。

 そんな重厚の騎士団に囲まれて、浅黒い顔を出した老成の男があった。

 男はライトシルバーの甲冑に、紅色の短いマントをなびかせて、お茶を飲んでいた。

 彼こそがカシムである。

「矢を放て」

 言ったのはヨッヤーだ。

「カシムを狙うので?」

「ばかっ、文矢に決まってんでしょーが。邪魔をすると、皆殺しだー、って書いてよね。あと、ボクのなまえも」

 そう言っている内にも、次々とケイナンの甲冑部隊がリッドテキスト団の作戦を

 阻むために森へと送り込まれているのだ。

 あちらこちらで戦いの火蓋が切って落とされていた。

 文矢が広場に向かって放たれる。

 どうやらすぐに気がついたようで、カシムが拾い上げた。そして、何故だか、

 声を上げて笑っているようだった。

「なんで笑ってるんだろ? おもしろいこと書いたの?」

「いえ、別になにも」

 カシムが合図をすると、全身鎧の騎士たちが楕円形の太鼓を取り出し、叩きはじめた。

 その音が森全体に響き渡っていく。「良い曲だね」ヨッヤーが言った。

「これ戦闘開始の合図じゃないですか」

 男がわけ知り顔で言ったので、ヨッヤーは聞き返した。

「もう、とっくに始まっているじゃない」

「はあ、そうなんですが、大国ってのは手順を気にするらしいので」

「言っている意味がわからないよ。らちがあかないな。もっと、近づこう」

 臆病者の……と思っているわけではないが、ヨッヤーがめずらしいことを言い出すものだから、団員たちは慌てた。

「ヨッヤー、こっちから行ってどうするんです。アサヤミの木を倒す役のネコノワを護衛し、アサヤミの木を倒すのが目的でしょう」

「わかっているよ。でも、カシムがいるならちょっと違うんでないの?」

 男たちは、言い返さずに、何とも言えないマイルドな顔である。

「ボクだって、宣戦布告はしておかなきゃ。わるいけど、キミたちだけでボクをカシムに近づかせてくれない?」

「はあ、近づくったて、この森です。戦闘区域を避けていけば……少しなら。

 あの広場に顔を出したら……あっと言わぬ間に殺されるでしょうけど」

「よし、それなら……」



 カシムは大あくびをした。

「アサヤミの木は宝樹である。不埒にも宝樹を傷つける蛮族共に告ぐ。

 おまえたちが救われることは最早ない。神の怒りに触れた許されざる者どもよ。

 愚かなる反徒どもを根絶やしにすべく我ら立ち上がらん。すなわちこれは……」

 そのようなことを書かれた巻物を長々と読み上げるのは、

 太った身体に合わせてつくられた簡単な鎧を着た男である。

 今や、大陸で太った人間は稀少と言える。

 彼は僧正であった。

 カシムは「どうせ誰も聞いとらん……」ぼそりと呟くと、僧正の頭に重い兜を乗せた。

「もういい。死にたくなければ、しっかり顎まで隠せ」

 僧正の鎧は特別にこしらえたものであったから、ただ厚く、ただ重く、戦闘となっれば、ろくに動けなくなる。彼は戦う人間ではなかった。

 飲みかけのお茶を一気にのどにながしこむと、カシムはポットを傾けてきた目ざとい兵を片手で制した。そして、立ち上がり、カップを高々と掲げ、兵たちの間を練り歩いた。

「おまえたち、このカップが見えるか。戦場で茶が飲めるのはわしだけだ。

 おまえたちは飲めない。なぜなら、敵と戦うことがおまえたちの役割だからだ。

 茶を飲んでいては、敵とは戦えん。当然の理屈だろう。誰か、これに異を唱えるものはいないか。おもしろければ褒美をとらすぞ。……いないか。

 いいぞ、……なかなか優秀だ。

 もし、つまらないことを言ったヤツがいれば、わしはそいつを殺していた。

 そして、戦場で人をおもしろがらせるヤツもわしは殺さなければならない。

 統率を乱さんとする者を生かしておくわけにはいかないからだ。

 さあ、太鼓を叩け。おまえらに許されることは、殺し合いと太鼓を叩くことだけだ。わしが上手に歌を歌ってやるぞ。さあ、はじめろ! 

 いいぞ、おまえらは何をやっている。太鼓ばかり上達しやがって、訓練でなにをやってきた。のどが渇いてきたなあ。どうだ、おまえらはのどが渇いたか。乾いたはずだ。この暑さに重い鎧を着て、乾かないヤツなどいるものか。

 だが、おまえたちに茶は飲ませんぞ。第五から、第九部隊は森へ入れ。なに? 

 のどが渇いているだと? そしたら、汗でも飲んでいろ。バカ者どもめっ。第一部隊から、第四部隊は戻ったか。よし、よく帰ってきたな。ごくろうだった。だが、兜は外すなよ。おまえたち歌は歌えるか。兜をつけたままでっ! 

出来ないだろう、出来ないだろう。それなら、太鼓でも叩いていろ。負傷兵は無理をするなよ。衛生兵のケツでも叩いてやれ。なんだとっ? 応急処置の邪魔になる? よーし、わかった。おまえら衛生兵の尻を叩くな。もしやってみろ、鎧のケツの部分を切り抜いてやるからな。そしたら、どうする。太鼓の代わりにケツでも叩くか。

 そりゃあ、いい考えだ。誰だ。おもしろいことを言うヤツがいるじゃないか。おもしろいことを言うヤツは、殺してやるぞ。面白いことをいうのは誰じゃ?

 それは、このわしじゃあ!」

 わっ、とカシムが止まると太鼓もピタリと止んだ。

 そして一言、カシムは言った。

「つまらん」

 膝を二度叩いて、茶を持ってこさせた。

「これまで十一回もケイナン国の領土へ侵入してくるような、おもしろいやつがいると聞いたから、わざわざこっちに来てみたが、この森では相手が見えんし、やはり、西の森に隠れているつもりの、正体不明の一団どもの方へ行くべきだったか……」

 リッドテキストの盗賊たちが戦線を開いている場所とは、違う方向から伝令兵がやってくる。

「なに? 正体不明の軍が何者かわかったのか……、ふむ、北の、……同盟国の……なんじゃ、つまらーん。……それで、どうなっておる。そうか、城から火の手が上がっておるか。よし、わかった。サウジャラの旗が上がったら、

潜ませている兵どもを動かして、ヤツらを皆殺しにしろ」

 伝令兵が頷き、西へと消えていった。

 この男のなまえはカシム。

 この男こそ、大陸南部の覇王、大国ケイナンを統べる、大王カシムである。

 カシムがなみなみとつがれた茶を飲もうとカップを少し上げたその時である。

 アサヤミの木とはまったくの反対、本国のある南側の木が、がさり、と揺れた。

「あの木を射撃て!」

 カシムが攻撃を命じたが甲冑兵たちが高々と大盾を構え、王を守った。

 堅牢な盾の合間を縫って、ちいさな弓が飛来し、カシムのカップを粉々に砕いた。

 そして、大胆にも木の上に立ち、このカシムを見下ろしている者は、ターバンを頭に巻いた若者であった。

 カシムは騎士たちに動かないように指示を出した。それに対して、この大胆不敵の闖入者は威風堂々名乗りを上げる。

「やあやあ、ケイナンの大王カシム殿、お初にお目にかかる。ボクはヨッヤー。

あまたの旗を掲げるリッドテキスト盗賊団の頭領ヨッヤーだ。今日の所は、アサヤミの木を倒すことが我らの目的、用がすんだら、すぐさま去ろう。だけど、覚えていろ。ボクたちは近いうち、おまえたちの国へと押し寄せる。そして、ケイナン国のすべてを奪いつくして見せよう!」

 そう言い終えるとヨッヤーはまたカシムに向かって弓を射させた。

 だが、それは厚い盾に囲まれてカシムにはびくとも届かなかった。

 カシムはこれにニヤリと笑う。「そうか、いいだろう」その言葉に合わせるようにケイナンの弓兵たちがヨッヤーに向かって疾風の矢を放つ。

 薄い皮の盾によって矢は防がれたが、驚いたヨッヤーは「わわっ、わーっ」木から落ちていった。

「ハハハァ、やはりおもしろいヤツだ。よし、決めた。

あのバカ者はこのカシムが殺してやるぞ。第十部隊から第十四部隊、ヤツらを追え! 引っ捕らえて、わしの前まで連れてこい!」

 王の号令を受け、南へとヨッヤーたちを追う兵士たち。

 こうして、ヨッヤーは見事、ケイナン兵の注意を南北に分散させる企みを成功させていた。

 

            

  ――――カモミールはそのとき、男に抱かれていた。

「ちょっと、なに? なんなのっ!?」

 森にカモミールの悲鳴が響いた――――。

 

            


 ヨッヤーたちはとにもかくにも南へ下った。

 町へ向かうわけにも行かないが、ケイナンの兵たちはただ追ってくるのではなく、左右にわかれて、ヨッヤーたちの逃げ道を封じていた。

 ただの一部隊しか率いていないヨッヤーでは、どちらへ向かっても

 戦って勝てる勝算はなかった。

「奇襲をかけるしかない」

 ヨッヤーが言った。身を潜ませて、背後から敵を討つ。相手が動くのであれば、

 また身を潜ませて、少しづつ数を減らしていく。

 もし背後からの攻撃に怯えて、敵の足が止まれば、これを無視して、

 北の本隊へと合流すれば良いだろう。

「チームを二つに分けるよ。相手にするのは西か東にいるどちらかの二部隊、

ボクたちは一部隊でさらにそれを二つに割ったら、相当不利になるけど、やるしかない。相手は重い甲冑を着ているから、機動力は低いはずなんだ。

素早く、ヒット&アウェイさ」

 男たちは頷いた。

 木の上で、がさがさと見張りの男が蠢いた。いや、慌てて動いたらしい。

 木の上の男はそのまま、落下し地面に背を打った。

「なんだ、どうした、大丈夫か」

「やばいぞ、ケイナンの、南の方から応援がやってくる。すごい数だ……!」

 ふと見れば、カシムが陣取る森の広間からドカン、ドカン、と音を鳴らして、応援を要請する信号が聞こえている。

「カシムめ……。どうしてボクなんかに、そこまで……」

 ヨッヤーはカシムのあまりの周到さに頭を抱えた。

「こりゃ、マズイぞ……、マズイよ……」

 右に、左に、きらりと輝く甲冑が見えた。紛れもない、ケイナンの甲冑部隊である。

 彼らの足の速さはヨッヤーたちが考えていた三倍もあったのだ。

 弱音を吐く間もなく、彼らもまた、ヨッヤーを見つけ、走り出してくる。

 全身鎧と槍の重量に身を委ね、木々も草葉も削り潰しながら、猪突猛進、向かってくる。

 ケイナン甲冑部隊の恐るべき、戦突陣形の構えのまえに、ヨッヤーは打つ手がなかった。死は目前まで迫っていた。




「カモミール……」

 伝令の男である。せつなげな声でカモミールのなまえを呼んだ男を押しのけて、

カモミールは己の身を抱いた。

「なっなっなっ、あなたっ、何のつもりなのっ」

「逢いたかった……」

 カモミールに迫る、男の頬が甲高い音を立てた。容赦なくカモミールに叩かれて、真っ赤に腫れあがっていた。

「痛いよ、カモミール」

 悲しそうな声でそう言いながらも、男の頬の傷がスゥと消えていく。

「あなた……もしかして……」

「カモミールがなかなか帰ってこないから、迎えに来た」

 ぼんっ、と煙を上げて、伝令兵は黒髪の少年へと姿を変えた。

「センネン!」

 カモミールは少年をぎゅっと抱きしめた。

「ねえ、もう良いでしょ。いっしょに宮殿へ帰ろうよ」

「ええ、そうね。もう用事は済んだし、いいわ。でも、その前に彼に挨拶をしていかない?」

「ヨッヤーに? そうだね、そうしよう。ヨッヤーは向こうにいるな」

 今度は少年の身体がムクムクと膨れあがり、巨大な怪獣へと変化していく。

「さあ、行こう!」

 カモミールを背に乗せて、センネンが空高く跳び上がった。

 雲を突き抜け、高度七千メートルへ。カモミールはいつもの布の足りない踊り子の衣装であったが、センネンに乗っていれば寒さは微塵も感じなかった。

 遠くに腐った死海が広がっていた。それ以外は雲しかない世界。

 音も立てずに、ただカモミールのまぶたの裏に何百、何千もの色彩を焼き付けて、    

 センネンは地面に向かって駆け落ちていく。

 木々を吹き飛ばし、森を消し去る衝撃波を自分の魔法で相殺させながら、センネンはヨッヤーの元へと降り立った。

「あ、あ、あ、あ……」

「なんだか取り込んでいるみたいだけど、送っていこうか?」

「センネン……来てくれたのか……。頼むよ。ああ……」

 ヨッヤーは団員の男たちをセンネンの背に登らせて、彼自身も最後に上がった。

 正に目前まで迫っていたケイナンの甲冑戦士たちは、理由も分からずに転がっていた。

 突然空から襲来した怪物と、そして、手に持っていた大槍がひしゃげ、砕け、跡形もなく消え去っているのを見て、重い鎧を脱ぎ捨てながら慌てて逃げ帰って行く。

 センネンは飛び上がり、ヨッヤーたちを手に乗せて、誰にも邪魔されることなく、森の北へと戻っていく。

「なあ、センネン、もし、もしも・・…、ボクたちの戦いのために、キミの手をかしてほしいと頼んだら、どうする?」

「そんなのはお断りだね。人間たちの争いごとに首をつっこむなんて、まっぴらごめんだ」

 きっぱりとセンネンはそう言って、空に浮かぶと、カモミール以外の男たちを腕につかんで森のなかへと投げ捨てた。

「つまんないこと言った罰だよ。それじゃあ、ヨッヤー、また機会があったら会おうぜ」

 大砂漠へと帰っていくセンネンとカモミールを逆さまに見送って、ヨッヤーたちは地面に落ちていった。

 少し開けた場所であった。そこは、アサヤミの木のすぐそばだ。

「ひゃーくーぅ」

 ちょうど、ネコノワが重い声ですべての数を数え終えているところだった。

 アサヤミの木は薄皮一枚だけで立っていた。

 もう日は高くなって、木々の隙間からまん丸な太陽の姿が見えていた。

 ヨッヤーが高く高く笛を鳴らした。

「撤収だーっ、みんな、逃げるよー。馬、らくだ、山羊に乗って、おもいっきり、北へ走れ!」

 そう言う間にも、ネコノワはヨッヤーを仰向けなのも気にしないで、

 荷物のように抱え上げて走り出す。

 今更ロープに気がついたケイナンの兵たちが急いで縄を切り始めているが、もう遅かった。

 縄は動物たちに繋がれている。

 明るい森の外へとヨッヤーたちは馬を走らせる。

 メキメキメキメキッ

 音を立てて、アサヤミの木が、倒れていく―――。




 真っ赤な視界。

 剣を鞘に収め、石版の入った鞄を抱えながら、ヒグリカは国王を探していた。

 何もかもが燃えていた。

 世界を赤と黒だけが、支配していた。

 柱や天井があちこちで崩れている。

 さらに黒が深くなる奥へと、ヒグリカは足を踏み入れていく。

 王座のあるはずの謁見の広間──ここには王座があったのだ。

 もはや見る影はない。部屋の奥は炎に呑まれ立ち入ることもできない。

 そこに王はいなかった。

 笑う男だけがいた。

 この国の王であったはずの男の首を掲げて、滂沱の涙を流す男がいた。

「俺はやったぞ! これで帰れる、俺はやっと、故郷へ帰れる!」

 兜を脱ぎ捨て、喜びの雄叫びを上げるケモノ。

 故郷の友、ツーツォであった。

「ツーツォ、なぜあなたが、ここにいるのだ……」

「ヒグリカ、おまえこそ……いや、わかっている。王女の箱を持った君を、大勢の人が目撃している。君には追っ手がかかったと聞いていたから、心配していた。

まさか、こんな場所で出会うことになろうとはな」

「なぜなのです……?」

 ツーツォは首を少しだけ、動かした。暑くて、鬱陶しいからさっさと終わりにしたい……、ただそう言うように。

「なぜ、なぜ、なぜ。これまで、一体いくつのなぜを君は言ってきた? ヒグリカ、なにがそんなに聞きたい。なにもかも、本当はどうだっていいことなのに……。

俺がここにいるのは国からの命令だ。この国の兵から鎧を奪い、城内に潜入し、本隊へ情報を持ち帰る手はずだった。それがどうだ。ヒグリカ、俺はなにをやっている?」

「わからない……君はなにをやっているのだ。その首はなんなのだ」

 ここでは友さえも、黒と赤で塗り潰されているのか。

 ヒグリカは恐怖に駆られ、剣の柄に手をかけた。

「また、おまえはわからない。──なぜ、どうして、わからない、どうなっている、──それならもう……何もせず、じっとしていろよ。おまえの所為で、

台無しなんだ。……俺たちがどれほどの苦労をしたと思っている? 正体がバレれば殺される、死の恐怖に怯えながらも、祖国のため、敵の懐中で慎重に、迅速に、

ことを進めていた。準備は滞りなくすんで、同盟は無事に破棄される。

正々堂々と俺たちは戦って勝利する。手筈は完璧だった」

 ツーツォの言葉をはね除けるように、ヒグリカは腕をひと薙ぎした。

「同盟を破棄して、戦いですって? いかがわしいことを。これのどこが正々堂々だ」

「ああっ、そうだっ、こんなもんは戦いじゃないよなァっ。ヒグリカッ、おまえが

そんな王女の手紙なんかを持ち出すからいけないのだッ。……奇襲だって? 

そんなことはありえない。……まったく、馬鹿な女にそそのかされたもんだ。

すべての下ごしらえが終われば、同盟の破棄と宣戦布告が行われ、俺たちは戦争を

はじめる手筈だった。だが、……おまえがここへ来た。ヒグリカ、おまえは……

花火を見たか……」

 ヒグリカは、見てはいないが、そんな音を聞いた、とそう答えた。

「その花火は合図だった。本隊を待たずに、今すぐに動け、と。

俺たちはなにもかもを上手くやり遂げたはずだった。俺の元へ伝令がやってきた。

ヒグリカ、おまえがやってきたと、伝令は俺に伝えた。

そして、俺に新たな命を下した。この国の王を逃がすわけにはいかない。

王を殺せ。……そして、この国の人間は一人も逃がすわけにはいかない。

全員、皆殺しにしろ。なぜだか分かるか。ヒグリカ」

 ヒグリカは答えられなかった。

 ツーツォがスゥと剣を鞘から引き抜いた。

 まだ新しい、刀身に炎を映すツルギ、何も分からぬままに死んだかわいそうな王様を斬ったツルギ、ヒグリカの持つ剣と同じ、サウジャラの兵士のツルギであった。

「なぜなら、こうなっては、最早これは戦争ではないからだ。

我らの故郷の不義を世にのさばらせるわけにはいかない。

この惨劇の真実は、誰にも知られず、この国の者たちの死と共に墓へと沈むのだ。

そして、俺に最後の指令が下った。……売国奴たる罪人……ヒグリカ……

おまえを殺せ、とな……」

 ごろり、と国王の首が転がった。

 広間の天井が崩れ、すべてを呑み込んでいく。

 炎が激しく、勢いを増していった。

 ゴォゴォと赤く、黒く染め上がって、ツーツォは剣を振るった。

「俺はもう一度、おまえに問う。なぜ、おまえはここへ来たんだ。

 ヒグリカ、おまえは俺に親友を殺させる気かァッ!」

 サウジャラの剣は重い。受けようとするヒグリカの腕ごと、ツーツォは剣を叩き落とした。

 体勢を崩されて、ヒグリカは無様に転がった。

 剣を拾い、立ち上がるヒグリカを、ツーツォは鬼気迫る剣戟で追い込んでいく。

 燃え盛り迫る炎を背にされた、ヒグリカはじりじりと下がるしかなく、

 背中に火が移って、皮膚が焼ける。

 隙なくツーツォはヒグリカの腕を、足を、腹を、次々と切り刻んでいく。

 ついにヒグリカは膝をついた。


「抵抗するな……。おまえがどうして俺に勝てる。せめて──楽に殺してやる」

 もう腕が上がらない。感覚がない。ただ、体中が熱かった。

 もう──私は冷たくなりたい。

 ヒグリカに向かって、剣を振り上げるツーツォが醜く顔を歪める。

 驚きの顔へと。

 部屋の奥、炎の中から、火だるまの人形が転がり出て、ヒグリカを跳び越えて、

 ツーツォに抱きついていた。

「熱い熱いっ助けて助けて!!」

 それは、人形ではなかった。「ぎゃあああっ」ツーツォの悲鳴が上がる。

 火だるまのそれは最早、人であったかさえもわからなかったが、

 肉に張り付き、まだ燃え残っている衣服は上質のドレスのようにも見えた。

 もしや彼女はこの国の王妃か王女であったかも知れなかったが、

 こうなっては何も意味のないことだった。

 火だるまの女はツーツォにしがみついたまま、どれだけ力を込めても離れない。「たすけてェェェェ……、水をォォォォ……」

「うわ、うわぁぁぁぁぁぁああああっ」

 ツーツォの全身に火が乗り移った。王の間を支える大きな柱がいよいよ崩れていく。

 ツーツォは火の海に、呑み込まれていった。

 

 ヒグリカは足を引きずり、ずたぼろで城から逃げ出していた。

 もう自分が何をやっているのかも分からなかった。

 女の「助けて、助けて」という声がいつまでも耳の内に耳鳴りとなって聞こえ続けていた。


 どうやって、城から出たのかもわからない。

 目は霞んで、なにも映さない。

 自分がどこへ向かっているのかも、わからない。

 ただ鼻だけが、豊潤な緑の匂いを嗅ぎ取って、ヒグリカにここは森のなかだと教えていた。

 ただ大切な、もうそれが何だったのか、ヒグリカは思い出せなかったが、

 なにかわからない大切な宝をヒグリカは抱えていた。

 その宝を守るためだけにヒグリカは歩いて行った。

 どこへともなく歩いた。ただ歩いた。ただ歩いた。

 感動はなかった。なにもなかった。ヒグリカは虚ろになってしまった。

 ケモノがいた。ケモノはヒグリカが知っているケモノよりも、

 ずっとずっと大きかった。

 ユゲテの言ったケダモノにちがいなかった。

 ヒグリカは剣をふるった。ただ皮膚が感じる恐怖のために剣をふるっていた。

 ケダモノの皮は固く、剣を通さなかった。

 剣で殴りつけるようにしながら、さらにヒグリカは森の奥へ入っていった。

 身体をほとんど食い千切られた。我が身がせつなくて、人恋しくて、

 ヒグリカはもう立って歩けなくなっていた。

 悶えうち、這いずりながらヒグリカは進んだ。

 それでもヒグリカは、王女の石版を離してはいなかった。

 

 暗い森のなか、光があった。

 何も見えなくなったヒグリカの網膜に、光は映った。

 ゆらゆらと導かれるように、冷たい森の奥へと……。

 暗闇のなかで、光だけがヒグリカの全てであった。

 空があるのか、大地があるのか、それさえもヒグリカにはわからなくなっていた。

 手も足も、顔もない男が光をただ追っている。もう男はいないのかもしれない。

 空はなくなった。大地は消え去っていた。

 湿って腐った草葉があり、その下にはなにもなかった。

 ぽっかりと開いた穴のなかへと、ヒグリカは落ちていった。

 大きな空洞であった。

 ただそれだけだ。

 もう関係のないこと。

 なにもかも、ヒグリカの目には映っている。

 なにもかも、ヒグリカには、もう……わからないことはない。

 なにも恐いものはない。

 知りたいことは、なにひとつない。

 ただ一つ、願いがあるだけだ。

 ヒグリカにはたくさんの光が見えた。

 石版があった。

 石版はヒグリカの手から離れて、宙に浮かんだ。

 そして石版は音もなく、砕け散った。

 岩と苔で覆われた壁を、暗く明るい高い天壁を男は見た。

 虚空に向けて、手を伸ばすとそこに見えたのは──愛する女の姿がヒグリカには見えた。

「ああっ、ああっ、会いたかった……」

 にこりと彼女が微笑む。

 ヒグリカは自由になり、手を伸ばした。

 魂をあらうる束縛から解き放たれた男は、女を精一杯に掻き抱いた。

 力強く優しい抱擁に、女は喜びの声を上げた。

「ヒグリカ、不思議なの。目が見える……。私、あなたが見えるのよ!」

 身を捩った。手を伸ばし、彼女もヒグリカを暖かく抱き返してくれた。

「私もあなたの姿が見えます……。あなたを愛しています」

 胸の鼓動、心臓の脈打つ音が聞こえる。絶え間なく、二人分の心臓の音──大きな音が!

「私もあなたを愛しています。ヒグリカ、これからは私たち、ずっと一緒よ……」

「そうとも。ああ、そうだ! ……ああ、私はなんて幸せ者だ……ああっ」

 ヒグリカと王女様は、光に包まれながら幸せなくちづけを交わし合った。





 いつも天気の良い不思議な不思議な、かなしいどこかの大陸のこと。

 誰も知らない土塊の奥底に、名も無き男の死体があった。

 誰にも知られることなく、いつまでも、そこに横たわっていた。

 












――――――――――――――――――――――――――――――――


あとがき


ひさしぶりに昔書いた小説を取り出して、カクヨムに出すという

なんだか不思議で便利な時代だ。

けっこうわかりづらい描写があったので手直ししました。

しっかり戦記物になってて、自分で驚きましたが

登場人物が多くて、ヒロインたちの姿が見えるような見えないような。

差別化は出来ていると思いますが、もっとキャラを立たせられたらよかったなと

反省もあります。

ぼくのイメージでは各話で死ぬキャラが主役を張って、ヨッヤーやカウシッドの

物語の中心の主人公の出番が回ってきて、世界が滅んで、

カモミールが踊るシーンでおわりってイメージでした。

書き直しをちょこちょこしながら、言葉の重複を近場でやらないように苦心していたことを思い出しながら、言葉を近場で重複させないように気を付けました。

読んでくれたひとがいたらありがとう!サンキュー!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

砂漠の世界の、死に逝く誰かの御伽噺 @nchap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ