第十四章 同行五人

                    (一)


 朝霧に包まれた森の中は薄暗く静寂に包まれて枝葉のそよぐ音すらしない。しかも、これ程の濃い霧はこれまで見たことがない。それにこんな早朝に妻子と来るのも訝しい。そう思っている内に広場を通り過ぎて森の中にいた。その記憶がないことも不可解だ。自分の頭がどうかなったかと不安になった。

 前を歩くいつもはお喋りで賑やかな子供達も妙に静かだ。そんな彼らをフライが先導しているが、濃霧のせいで尾の先端の白い部分しか定かではない。周りの様子も何だか訝しい。そもそも色彩がついてしかるべき景色がモノトーンなのだ。自分の眼もおかしくなったのかと不安な気持ちで目をこすって気がついた。手を繋いでいたはずの妻の姿がない。

 亜紀!と呼んだつもりが、声にならなかった。目を凝らすと10mほど先を誰かと並んで滑るように遠ざかっている。いつの間にか子供達も犬も消えていた。

 もう一度声なき声で妻の名を呼んだ。すると霧が少し晴れて男女の姿が現れ、男が振り返った。男は自分だった。いや、己はここにいる。あれは弟の修一だろう。いやいや彼は死んだはずだ。なのに何だって一緒にいるんだ?それに答えるかのように亜紀が振り、何か言ったようだが、よく聞こえなかった。

「え、なんだって?」

 妻に追いつこうとすると、二人が一緒にすっと遠ざかる。それでも彼女の言ったことが何故だか理解できた。

 やがて亜紀はどこか憤っているような悲しむようなそして憐れむような複雑な表情を残して霧の中に消えた。真一は片手を前に出しただけで動くことができなかった。

 寝覚めの悪い朝だ。似た夢を見たのはこれで何度目だろう、いつも子供をお願いと声なき声を残して消えてしまうのだが、今日は違った。あなたは何をしているのとなじられたような気がした。

 まだ明けきっていらない薄闇の中で真一は重い体を起こした。隣にいるべき妻を亡くして2年が経とうとしていた。

 亜紀と一緒に過ごした7年の間に耕造の死を皮切りに不幸が相次いた。それがなければ今も4家族が揃って食卓を囲んでいたはずだ。今は亜紀の両親もいない。

 あの病気の早期発見は難しいのだと医師から説明されたところで気が治るものではなかった。それが難しいからこそ自分が気付かなければならなかったのだ。あれから何度同じ後悔をして自分を責めただろうか。そうしたところで自責の念が消えるわけでもないと自分でもわかっているのにそうせずにはいられなかった。

 もしあの時、二人の両親に原村へ移り住むことを勧めていなかったら、家族を悲しませる程度は低かっただろうとの悔いも残った。


 生活も習慣も異なる家族が一緒に暮らすことに、互いの生活に干渉しないとの暗黙の了解があった。それでも、彼らの中には習慣も生活も異なる家族との同居に一抹の不安があったことも事実だ。殊にそれは居室を提供する側に強かった。

 部屋の提供がどうこうよりも、親戚になるとは言え、他人が同じ家に住んでトラブルになりはしないか、あるいは彼らの問題事に巻き込まれるのではないかと危ぶんだのだ。それにもし互いの気性が合わなかったら、何かのことで軋轢が生じたら、厄介ごとが持ち込まれたらと考えると、身内となるだけに余計面倒なことになりかねないと危惧した。そう考えると、軽々に受け入れられるものではなかった。それであの時、当事者の亜紀を外し身内だけで頭を突き合わせて協議したのだ。そして、亜紀が同居してくれるのならそれぐらい何でもなかろうとの耕造の声に押されて盛蔵も稲子も同意した。余計な心配をしたところで彼らが同居するかどうかもわからないのだ。たといそのようなことがあったとしても、真一ならうまく間を取り持ってくれるだろうとの期待もあった。それに想像の域を出ないことを云々するより亜紀が残ってくれることの方が彼らには何より重要だった。

 耕造らが予想した通り双方の親は態度を留保した。それでこの話はもう立ち消えになったと思っていた。ところが、孫が生まれ手放しで喜んでいるのを見て、耕造の喪が明け若夫婦が原村へ戻って来るのを機に、深い考えもなしに盛蔵が彼らに同居を勧めたのだ。方便で言ったつもりはなかったが、双方の家族がそれを受け入れたのは予想外のことだった。

 盛蔵と稲子には意外なことでも、そうする理由が彼らなりにあった。

 そもそも2組の家族がここで暮らす動機も思いも異なっていた。

 真一の両親にしてみれば自分達の不安は老後にあった。

 長男で頼り甲斐のある真一が傍にいてくれれば一番安心なのだが、その息子は生活の基盤を長野に築いてしまった。息子を諦める代わりに、娘の玻瑠香が大学卒業後地元に戻ることを期待したが、その娘までが兄の後を追うように信州へ行ってしまった。一旦家から離れてしまうと、野に放たれた小鳥のごとく滅多に帰ってこない。娘の言動からして田辺へ戻ってくる意思など毛ほどにもないことが歴然としてきた。

 覚悟していたこととはいえ、老夫婦だけの生活はやはり淋しい。これからも夫婦二人だけで老後をここで過ごさなくてはならない。

 彼らもそれなりの踏ん切りができていて、夫婦で頑張れるところまで頑張り、それから後はどこかの施設でも入ろうかと語り合っていた。そんな彼らだったが、初孫を腕に抱いた瞬間、孫可愛さのあまりその考えは消し飛んでしてしまい、盛蔵の勧めを渡りに船と後先考えずに乗った。だが、そのときはまだ原村を永住の地とするつもりはなく、息子夫婦が世話になっている家に暫時滞在するだけのつもりの軽い気持ちだった。ところが住んでみると、盛蔵夫婦に気兼ねがあるものの、日中彼らが留守にするお陰で思いのほか気楽に過ごすことができた。生活にそれなりの負担はあるが、年金生活者でもここにいればゆとりができた。それに樹木に囲まれているせいか夏も涼しくて気持ちがいい。冬の寒さだけはさすがに応えたが、家の中にいれば暖房があるのでさしたる問題はない。自然環境に恵まれ、話し相手にも事欠かない。宿泊客優先との制約はあるが、温泉に浸かれるのも他に楽しみのない老人にとってはことのほか嬉しいことだ。しかも身近に息子がいて孫の世話ができるのも望外の喜びだ。嫁も自分らによく気遣ってくれる。買い物には不便な所だが、車があるのでさしたる問題はない。滅多に実家に帰ってこない娘にもここにいれば会うことができる。子守とペンションの手伝いで退屈しない。いや生活に張りがある。田辺の家へは親戚関係の用事があったときや留守家屋の空気を入れ替えるために時折帰るくらいだが、それはそれでいい気分転換になった。

 厚かましく居候をしているようで、気儘な生活とはいかないが、それでも夫婦二人きりの生活よりははるかに充実している。ここに来て本当に良かったと今の生活に満足していて、気がつけば田辺への足も遠のき、いつしかここが終の住処となってしまった。

 一方の亜紀の両親は原村に移り住むことなど念頭に置いてもいなかった。娘婿の両親とは事情が異なるうえ、 住み慣れた家には息子夫婦に孫がいてわざわざ原村に移り住む理由など何もなかった。

 確かに、そこに住めば不憫に思っていた娘に毎日会える。だが、ここに居ても、その気になれば片道2時間程度で行き来ができる。会おうと思えばいつだって会える近さだ。そう思って定住までは考えていなかった。それが彼らが下した結論だった。そのはずが、愛娘が産んだ孫二人を抱いた途端、美智子が赤子に頬ずりしながら、ここに残りたいと言い出した。

 思いも掛けない可愛いい双子だったこともあるだろうが、不幸な目に遭った娘を苦労して育て、その不憫な娘が恋をして、その恋人を亡くした傷心を自分の力だけで克服した。そしてついには愛する人と一緒になった。不幸続きだった娘が産んだ子は格別可愛いのだろうと和雄は妻の心変わりをそのように理解したのだが、美智子の思いは別にあった。孫が可愛いのは同じだが、夫が居て舅姑がいるあの広いお屋敷で双子の面倒を娘が見るのは酷だと思ったのだ。

 美智子が移り住むことを真剣に考え始めたのはその時からだった。夫と相談し、息子夫婦に相談すると心の準備ができていたのか快く賛同してくれた。

 移り住んでみると、お互いの生活を尊重している限り家族間の軋轢もなく、思っていた以上によかった。

 毎日娘と孫に会えるし婿との会話も楽しい。美智子も稲子と娘から仕事を与えられて毎日が充実している。それに、普通なら早々会えない外孫を抱いて森を散策するなどは、川越にいては望んでもできるものではなかった。それに婿が何かにつけて頼りにしてくれることが、彼なりの気遣いと知っていても和雄には嬉しいことだった。

 そのような生活を一変させたのは亜紀の死だった。

 それより1年前に認知症を起因とする正巳の事故死があったのだが、彼女の死が与えた衝撃はその比ではなかった。

 正巳がアルツハイマー型認知症と診断された時点でそう遠くない死を予想できた

し、それを受け入れるだけの時間があった。それに対し亜紀の死は予想外のことで、しかも不治の病と宣告されてからの時間があまりにも短かった。

 彼女はみなの信頼を得、良き母良き妻そして家族間の支柱であり潤滑油でもあった。その彼女の幼子を遺しての早逝は計り知れない影響を彼らに与えた。

 その第一は真一の精神と生活態度に不安定な状況を現出させ、第二の出来事は亜紀の両親が娘の49日の法要が終わるのを待って原村を離れたこと、そして第三は玻瑠香の子供達への母親代わりが現実化したことだ。それらは個々の事象だったが、家族間の絆を微妙なものにさせた。

 これまで亜紀と真一の二人が家族の間を取り持つ天秤の支柱の役割を果たし、家族間の安定を保っていた。だが、支柱の一つが無くなった事でそのが不安定となった。更にまた、正雄と美智子が母屋を去ったことで天秤が片方に大きく振れた。

 中心にいて支えるべき真一が頼りにならず、傾いたまま壊れる寸前の天秤を辛うじて保ったのは母の死を認識できずにいる無邪気で元気な5人の遺児と明るく振る舞う玻瑠香の存在に他ならなかった。もし、彼らの存在がなければ庸子も原村を離れ、天秤はかりも倒壊していたに違いなかった。

 不安定な中でも真一は49日の法要まではそれなりに喪主としての役割を果たした。だが、その後は元の彼の姿ではなかった。

 一日中ぼっと無気力状態でいたかと思えば、早朝から深夜まで事務所に籠り脇も目も振らず働くといったことが、小波大波に揉まれるがごとく繰り返され、いわば双極性障害の症状がみられるようになった。妻を喪くした悲しみのあまり酒に逃れるとか、何かにうつつを抜かすといったことはなかったが、そこにはかつての子供想いの父親はいなかった。そんな親に敏感な子供達は恐れ、一層玻瑠香を頼り慕うようになるのは自然なことだった。

 不甲斐ない息子の姿を見兼ねた実母の庸子と養父母は、子供達を放っておいていいのか、仕事はどうするのか、今のお前の姿を見て亜紀が悲しむ、と真一を叱責した。

 彼自身これではいけないと自覚していた。だが、妻を喪った喪失感が彼を立ち直らせてくれなかった。

 そんな腑抜け同然の彼を救ったのは一幅の掛軸だった。

 無目的で無気力なまま床の間へ行った時、そこに掛けられていた掛軸に目が止まった。それは亜紀の通夜以来ずっと掛けられているもので、何度も目にしたはずなのに頭がそれを認識していなかった。その彼が妻の死から何十日も経って初めてそれを視認すると同時にこれだと思った。まさしくそれは天啓に思えた。

 彼は掛軸の前に座ると、それを熟視した。

 中央に阿弥陀如来像が描かれていて、その仏をぐるりと囲うように朱印がびっしりと押されている。

 それは亡き耕造が身代を盛蔵に譲り渡した際、これを機にと老妻と二人で四国八十八箇所霊場へお遍路に行ったときのものだ。納経と納札の証として各寺の納経所で納経帳とともに納経軸に墨書され押印されたものを持ち帰り耕造が掛け軸として表装したもので、仏事には床の間に掛けるのが加辺家の慣例となっている。

 そう言えば耕造を納棺する際、養父が印された白衣を着せ掛けたていたのを思い出した。

 耕造がしたように経を唱えて四国を巡れば亡き妻の供養になる。そうすることで立ち直るきっかけになるのではないか。そのことを教えてくれたような気がした。

 満中陰まんちゅういんが終わった後も、真一の未練で亡妻の骨壷を仏壇に置いたままで、お墓への納骨を引き延ばしていた。もうそろそろいいんじゃないかと何度も盛蔵から苦言を呈され、加辺家の墓へ納骨を済ませた夜、彼は家族全員の前で妻の供養の為に四国八十八ケ所の札所巡りに出ると告げた。しかも全部歩いて廻ると言うから一同みな驚いた。

 彼が自分から積極的な姿勢を見せたのは亜紀の死後初めてのことだった。彼らは真一の心境の変化に戸惑いながらも、それで元の姿に戻るのならと同意し、半ば祈るような気持ちで送り出した。

 彼はすぐには四国へは行かなかった。その前に済ませることがあった。

 今も妻が棲んでいるこの家から一旦離れよう。そして、かつて妻に背中を押されて長崎へ行き、自分が変わったように、今度もまた妻の足跡を辿ることから始めようと考えた。それに生前妻が世話になった人にも挨拶しておきたかった。その折妻がどのような人に教わりどのような人と交誼を持ったのか、修一と出会った場所はどんなところか、彼とどんなところをデートしたのか。それを知っておきたいと思った。義父母や義兄から聴いてはいるが、自分の目で確かめ体で感じて妻と寄り添いたかった。

 まずはそこから始めようと考え、妻の実家へ行った。

 彼は亡妻の実家を拠点に川越の街を歩き回った。武蔵森林公園へも一人で行き1日歩き回った。盲学校や教育委員会へも出向いて亜紀が世話になった人にも会い当時の話を聴いた。定年で辞めた人や定期移動とか転職した人もいて全てを聴けたわけではなかったが、妻が大変な努力家だったことを改めて知ることができた。

 今は歩道や交差点に点字ブロックがあり、駅などに音サインもある。更には鉄道のホームに落下防止柵が設置されつつある。だが、当時は弱者優先やバリアフリーの思想が社会に浸透しておらず、歩道上に置かれた自転車や看板にぶつかるなどの危ない目に何度も遭ったと言う。若く見た目も悪くなかったことで何度も恐ろしい目に遭いそうになったことも聴いた。

 そんな話の中で心に残ったものがあった。善意でしたつもりのことが、身障者には必ずしもそうではないこともあることだった。

 思い返せば彼もそのような体験があった。新大阪駅でのことだ。視覚障害者を見かけて、その人の手を取り改札口まで誘導したことがあった。それが善意でしたことであっても、障害者にとっては善意の押し付けになりかねないのだと、当時教務主任で今は校長になった人から教えられた。

 『視覚障害者にとって、知らない人から突然声をかけられることは恐怖を感じるものなのです。まして、通い慣れた所なら迷惑に感じることもあるのです。もちろん、それは善意から出たことだとわかるだけにその辺のところが難しいのです』

 日頃障害者に接している者にしかわからないことだった。その時のことを思い起こすと、一人自己満足していた自分が恥ずかった。

 その場合、どうすればよかったのですかと尋ねると答えは明快だった。

 『お困りのことがありますかと、前からそっと一言声を掛ければよいのです』

 目から鱗だった。それは当事者から直に聞かなければわからないことだった。

 弟の修一がバス停で亜紀の手を取ったときはどうだったのだろう。事情が事情だっただけに亜紀も弟の善意を素直に受け入れたのだろう。では、本川越駅でのときはどうか。恐らく修一は亜紀を驚かさないように不信を抱かれないように言葉を選び、呼び掛けるタイミングを慎重に計っていたのだろう。自分には真似のできないことだ。

 健常者には想像すらできないそう言った少女期の体験がその後の彼女の人格形成に大きな影響を与えたことは疑問の余地はない。だからこそ、常に感謝の気持ちを忘れず、決して驕らず謙虚で人を大切にしてきたのだ。ほんの一部だが妻の人となりを理解できたような気がした。

 生前世話になった感謝や葬儀参列の礼などの目的を済ませ、徳島県鳴門市にある一番札所の笠和山霊山寺の山門前に立ったのはそれから3日後の早朝だった。

 それまでに遍路のための必要な情報をネットで入手し、リュックとか靴とかの当座必要な物を買い込むと同時に通販サイトで入手した「四国遍路ひとり歩き 地図編」を参考に半日かけて計画を立てた。

 その本に表示されている距離程で計算すると全長1020kmあった。1日40km余歩くとして単純計算で25日かかる。納経所の開所時間が7時から17時の10時間なので時間4kmは歩かねばならない。昼食時間と参拝時間を考慮するとそれ以上になる。健脚の彼でも相当な強行軍だ。しかも、地図に表示された標高を見ると高低差300〜700mの山中歩行が何箇所もある。それらを考慮して30日間の日程とし宿の予約を2日先まで取った。それから先はそれまでの経験を照らし見直せばいいだろうとの考えだ。

 山門の横に巡礼用品販売所があった。時間的に早いのか、その前の駐車場には自家用車とタクシーが疎らに停まっているだけだった。店内に入ると数人が巡礼用品を物色していて、奥の窓口では白衣姿の女性1名が納経帳への押印と墨書を待っていた。

 その店に巡礼に必要な物が全てあった。

 彼が購入したのは、背に南無大師遍照金剛と同行どうぎょう二人と墨書された白衣に菅笠すげがさ、金剛杖と輪袈裟わげさ、それに数珠、納経帳、線香、蝋燭ろうそく、経本、納め札、それらを入れる山谷袋だ。事前に調べた限りでは道中熊と遭遇したとの書き込みはなかったが、念のため持鈴も買った。

 同行二人とは、巡礼者は弘法大帥と常に一緒で、道中お大師様が見守って下さっているのだと総合案内所の店員が教えてくれた。

 2つあるテーブルに巡礼者が何かを書いているので、あれは何かと問うと、札所に納めるお札に日付住所氏名を書いているとのことだった。彼もそれに倣い今日中に廻る予定の11番札所の分まで書いていると、店員の女性がノートを持ってやって来て、歩きの遍路かと問われた。そうだと答えると、このノートに住所と名前を書いてくれと言う。見ると大学ノート表紙に今年の年号が書かれていて、中は数ページに渡り1行空けて日時と住所氏名が記されていた。

 これはずっと保管するので、八十八番札所まで回って結願の後にここへお礼参りに来れば、いつから始めたのかわかると言うので、何日後にそれを記入できるだろうかと思いながら住所氏名を書き入れた。

 真一は山門前の片隅で巡礼姿に身を変えた。折り目がついた真新しい白衣に気恥ずかしさを覚えつつ身が引き締まる思いがした。

 改めて山門前へ行くと初老の巡礼者が合掌一礼したので同じ行為をして中に入った。境内には白衣に金剛杖と菅笠の巡礼者の姿がちらほら見えた。

 清めの手水場でも先程の巡礼者を真似て、手と口を清めた後、鐘楼で鐘をつくと足早にその男に追いつき、初めてなので一緒にお参りさせて欲しいと請うと彼は快く応じてくれた。その男は八十八箇所を全て回った後のお礼参りだと少し自慢そうに言った。その割には白衣が着古した感じではないので歩いての遍路ではないだろうと見当をつけた。後日になって、道中洗濯することもあるので一概に決めつけられないことを知り、軽率に判断できないなと反省した。

 それからも男にならいい本堂前で蠟燭と線香に火をつけた。既に灯っている蠟燭から火をもらってはいけないこともその人から教わった。

 本堂に上がり、先程記名した納め札を納札入に納め、お賽銭を投げ入れ亡き妻の冥福を祈っていると、離れて立つその男は読経を始めた。野太いがいい声だ。慌てて真新しい経本を開いた。経に振り仮名がふたれているが、悲しいかなどこを唱えているのかさっぱりわからない。やがて知っている般若心経になったので一緒に経を納めた。

 これで参拝は終わりかと思っていると男は大師堂へも行き、同じことを始めたので真一もそれに倣った。その後、納経所で納経帳に朱印と墨書を頂き300円を支払ってやっと参拝が終わった。その間全くの無心だった。

 これから同じことを八十七箇所でしなければならない。参拝にこんなにも時間がかかるとは思っていなかった。昼食や休憩時間を考慮すると30日でも終えるのは難しいと思った。そんな無謀とも思える計画を立てたのは、一心不乱に歩き続けることで亡妻への思慕の念から離れられるだろうとの思いからだった。

 山門を出て振り返りまた合掌一礼して年配の巡礼者とそこで別れた。これから40km余先の11番札所の金剛山藤井寺まで歩かなければならない。納経時間を考えると一分も無駄には出来ない。彼は競歩に近い速さで歩いた。9月中旬とは言え、残暑がまだ厳しく道中何度もタオルで汗を拭った。

 昼食はコンビニで買ったおにぎりを札所の休憩所で食べた。要所に「へんろ道」の道しるべがあるので遍路地図に頼らずとも道に迷うことはなかったが、札所での納経に予想以上の時間が取られて11番札所の閉所時間に間に合わなかった。それでも予約していた宿に着いた時には充足感と自分の足に自信を持った。履き慣れていない靴に気にはなっていたが、靴づれもまめもなく問題はなさそうだ。身体のどこにも痛みはない。今日の経験で1日40kmは無理ではないと判断したが、高所にあるお寺も多く、道中幾つも峠を越えなければならない場所もある。計画の見直しをしなければならないかも知れないと思ったが、明日の遍路ころがしと呼ばれる難所の先にある12番札所を乗り越えられればこれからの判断材料になるだろうと前向きに考えた。

 翌朝早く宿を出た真一は参拝できなかった11番札所金剛山藤井寺の納札と納経を済ませると納経所前のベンチに腰を下ろし、ペットボトルのお茶を飲みながら納経所が開くのを待った。遍路者一番で朱印を頂くとリュックを背負い直し本堂手前の脇道へ踏み出した。

 そこからが遍路ころがしと呼ばれる山道だ。所どころにあるお地蔵さんを横目に見て、途中2ヶ所で休憩を入れながら山道を一気に700m上り、頂上近くの石段を上がると大きな弘法大師石像と浄蓮庵と呼ばれる古びた仏堂があった。合掌礼拝してから給水休憩を取った。20分程休息したのだが、途中追い抜いたお遍路さんはまだ姿を現さなかった。この難所を歩くお遍路さんは数人だったが、途中何人追い越したのか覚えていない。急登の山道を息も絶えだえで登っていた巡礼者はあっという間に彼に追い抜かれて皆一様に呆れ顔で彼の後ろ姿を見送った。

 そこから一気に350m下りると数軒の民家と川があり、小橋を渡ってまた300m登り返すと平地に出た。駐車場に通じる平坦な砂利道を200m程歩き12番札所焼山寺への長い石段を上って山門前に立った。ここまで4時間少々で走破した。健脚の人で5時間と民宿の主人に言われていたからいいペースで来たと満足した。

 ここまで歩きに歩いた。これほどの早足で歩いたことは学生時代にもなかった。今のところ疲れはなくどこにも痛みはない。体力にも自信が持てた。この調子なら13番札所の納経所が閉まるまでに行けるかもしれないと宿で貰った昼食もそこそこに石段を降りて右に折れた。その間の彼はその日の目標を達成するために景色を愛でたり余計な雑念を抱くことはなかった。

 立ち直るための巡礼がいつしかスタンプラリーのようになってしまったと自嘲したのは、3日目の18番札所恩山寺で遅い昼食を摂りながら18頁にわたる墨書と朱印がある納経帳を見たときだった。

 これはいい兆候だと思った。前へ進むことしか考えず、亡妻のことをすっかり放念していたからだ。そう言えば、歩き始めてから妻のことを考える時間が少なくなりつつあることに気がついた。ああ、これが巡礼をすることの意義の一つなのかと得心した。

 ここまで強行軍だったが、これから先は比較的平坦で宿まで10km程度だから余裕を持って着けるだろう。もし、無理ならば明日早朝に参拝してもよいのだの思うと足取りも軽かった。

 結果的にその判断が彼と彼の家族に幸運をもたらせることになった。それがなければ、彼の立ち直りはもっと遅かったかも知れなかった。これも弘法大師との同行二人のお陰だったのかもしれない。遍路が終わってから真一はそう思った。


                   (二)


 それは一人の老巡礼者との出会いだった。

 20番札所の霊鷲山鶴林寺から1時間かからずに21番札所に至る登山口まで来た。これから先が徳島県内3番目の難所で擬木で作られた緩やかな階段が続く。

 その1段目の階段に腰を下ろし、金剛杖とリュックを脇に置いた一人の巡礼者が休憩していた。これから高低差340mの登りがある。煙草の煙を揺らしている所を見ると、それに備えて一服しているのだろう。そんな光景は珍しいことではなくこれまで何度か見かけたものだった。

 このときも「こんにちわ」と挨拶して彼の横を足早に通り過ぎようとした。そのとき、その巡礼者から声をかけられ思わず立ち止まってしまった。彼の発した言葉が異質なもので頭の中で日本語として認識できなかったのだ。

 聞き返そうとして思い留まった。自分を見上げるその人は一見して日本人ではなかった。彼の白衣と首から下がる輪袈裟は真一と同じ巡礼姿なのだが、菅笠の下から見つめる彫りの深い顔は明らかに日本人とは異なっていた。しかも体格は真一よりも一回り大きい。横に置かれた古いリュックも20kgは裕にありそうだった。

 皺深い顔から判断して70歳半ばくらいだろうか。国籍までは判別できないが、赤ら顔のそれはロシア人に近い。多分スラブ系だろうと見当をつけた。

 その老人が指を丸め口に持って行く仕草をしたので水が欲しいのだと察した。念のため、Do you need water?と訊くと相好を崩して嬉しそうにYah!と答えた。

 余程喉が渇いていたのか、老人は真一が差し出した飲み残しのペットボトルのお茶を一気に飲み干してしまった。身振りで座れと言うので、魅入られたように真一も老人の横に座り菅笠を取って休息した。何日も風呂に入っていないのか彼からすえた臭いがした。

 老人は染みだらけの大きな右手を差し出した。握手しながら互いに自己紹介をした。

 彼の名はセバット・ユリナッチと言い、75歳の誕生日を日本で迎えたばかりだと笑った。これまで遍路小屋で野宿したり見知らぬ人の家で世話になったりしたこともあるという。日本人は親切だから安心して寝ることができたとまた笑った。

 老人は英語が通じる心強い仲間に出会えたと思ったのか盛んに話かけてきた。話題は巡礼者に対するお接待と呼ばれる手厚いもてなしのことだった。

 言葉が通じなくても身振り手振りで親切に道を教えてくれたことや、お茶やお菓子果物などの無料の接待に感激したこと、無料宿や休憩所を紹介されたときなどは、感激のあまり相手の手を取って感謝したことなどを語った。

 これからもそんな風にして廻るのだと言う。真一も宿が取れずに幾日かは野宿もあるかも知れないと覚悟はしていたが、全行程それを通すつもりなどなかった。驚いて見つめる真一に、自分の国でも昔は何でもないことだったと言った。

 彼は日本製のタバコを取り出し、吸うかと真一に差し出したが、禁煙しているからと断った。道中喫煙は駄目だと無粋なことは言えなかった。

 これまでのやり取りで、呼びかけられたときに咄嗟に言語が理解できなかったのは、彼がそれほど英語が上手でないことに加え母国語の訛りが強いせいだと知った。

 日本人は親切で、これまで何人も声を掛けてくれたり掛けたりもしたのだが、意思の疎通が中々できなくて困ったと笑った。日本では英語を学習しないのかとまで言われたが、その訛りでは解する人も早々いないだろうと応じると、そうかと言って大口を開けて笑った。大声でよく笑う男だった。

 大柄な二人が並んで座ると誰も通行できないのだが、随分前に追い抜いた巡礼者の姿はまだ見えない。

 老人は鼻から煙を出しながら、日本は平和でいいところだと盛んに言った。その言い方に実が籠っていたので、おやと思った。だが、一期一会で終わる人に詮索するのもどうかと思い控えた。

 老巡礼者は名乗りはしたが、どこから来たのか、何の目的で廻っているのか、それを明かすことはなかった。真一も口にすることはなかった。ここまで歩いた来た道を見ながら煙草の煙を揺るがす大きな身体がそれを拒否しているように思えたからだ。

 老人は2本目のタバコを吸っている間、真一は遍路に来てから初めてゆっくりと緑深い景色を観た。時折小鳥の鳴き声がするほかは静寂が彼らを包み二人は無言だった。見上げた空は雲が厚いが、今日一日雨がないと朝の天気予報は告げていた。だが、山中は天気が変わりやすいので油断できない。そろそろ行こうと立ち上がろうとした時、老人がby the wayと声を掛けてきたので真一の勢いが削がれてしまった。

 どこまで廻るのかと訊かれて、八十八箇所を最後まで歩くつもりだと答えた。すると、彼は我が意を得たりとばかりに勢い込んで、ここで出会えのはきっと神様のお導きに違いない。厚かましいお願いだが、一緒に廻ってくれないかと真一の両手を取って懇願した。

 真一は暫し思案してそれに応じた。彼との出会いが偶然ではないような気がしたからだ。それにあの年で最後まで歩き通すのも気掛かりだった。まして野宿を通すのは身の危険さえあると危惧した。

 真一はその日に予定していた第22番札所平等寺の納経は諦めた。予定外の休憩で時間を取られたこともあるが、老人の足で彼についていけないのは明白だった。同行を受け入れた以上、これからの巡拝計画を練り直さざるを得ないだろう。

 そのように思い定めると、老人にこれからは出来る限り宿で泊まろうと申し入れた。すると彼はたまに泊まるのはいいが、毎日は金銭面で難しいと難色を示した。真一は余裕のある人から施しを受けながら巡礼するのが習わしなので、心配することでも恥ずかしいことでもない、そうした行為が功徳になるのだと説得した。老人が感謝し申し出に同意すると、予約済みの宿をキャンセルして第21番札所太龍寺からのロープウェイで下山することにした。そして、その駅近くの道の宿に予約の電話を入れた。

 30分あまりそこで休憩した後、立ち上がると真一は互いのリュックを持ち替えた。老人は恐縮し遠慮したのだが、アルバイトで重い荷物を山小屋まで何度もボッカしたことがあるから心配はいらないと説得し、彼の重いリュックを背負い階段の山道を上った。

 老人とはすぐに打ち解け、シン、セバと呼び合うようになった。彼に疲れが見えると休息を取りながら上り、太龍寺の山門をくぐると石段がずっと上まで続いていた。さすがに老人は途中で根をあげた。それでも登り切って参拝を済ませた。納経所で朱印をもらった時にそれを額に押しいただいたから、西洋人も同じことをするのだと真一は思わず笑ってしまった。

 ここで一服している間に、山門に入る前に合掌一礼することや参拝が終わってからは梵鐘を撞いてはいけないなど、これまで知り得た礼法とその意義を説明した。手水場で手の洗い方や口のすすぎ方を教えたときは、モスリムがすることと同じだと感激を表した。

 これまで見様見真似でしていたらしく、説明を受けてからの飲み込みは早かった。

 中でも彼が非常に関心を示し感激を表したのは納経帳に捺された朱印と流麗な墨書だった。

 どの納経所でも揮毫する人の手元を終わるまでずっと見て素晴らしいを連発した。300円と引き替えに揮毫きごう朱印された納経帳と御影の札を受け取ると真一を振り返り満足そうに微笑んで大切そうにそれらをビニール袋にしまった。

 休憩中にセバから御影札を見せられ、これは何だと訊かれたが、答えられなかった。先を急ぐあまりそれに関心を持たずにいたからだ。彼が持つ御影札の仏はみな異なっていた。仏の名まで知らないが、恐らくそれがその寺の本尊だろうと思い、その様に答えた。すると、仏とは本尊とは何かと問われた。

 仏教に関する彼の質問は際限がなく、彼の浅い知識の範囲で答えたが、般若心経などの教義にまで渡ると教えられる筈もなく、住職の説明を受けてそれを通訳したこともあった。

 二人がロープウェイを降りて道の宿に到着したのは4時過ぎだったが、先客はいなかった。今では外国人の宿泊者も珍しいことではないのか、宿の主人は真一の同行者を見ても驚きはしなかった。

 セバは日本式の宿で泊まるのは初めてのことらしく、真一を見倣って金剛杖を玄関先で丁寧に洗った。

 老人が宿帳に記入するときどこから来たのか横から注意深く見ていたのだが、悪筆かつ崩し文字で判読は不可能だった。

 6畳の和室で旅装を解くとコインランドリーで汚れた衣類を洗濯・乾燥した。セバの衣類も別の洗濯機に入れて二人は大浴場へ行った。真一は浴槽に肩まで浸かり疲れを癒したのだが、セバはシャワーだけを浴びて先に上がった。

 遅れて食堂へ行くと二人に客の視線が集まった。二人とも大男で、その内の一人が外国人だ。しかも、その外国人が大袈裟な身振りと大声で話しながら入って来たのだからみんなの耳目を集めないわけがなかった。

 和食は大丈夫なのかと危惧したが、それは無用のことで彼は健啖家だった。真一や他の日本人が茶碗や器を手に持って食べていても見慣れたことのか何も言わなかった。豆腐を見てこれは何か、野菜の天婦羅はどうやって食べるのかなどの質問に丁寧に答えた。よほど腹が空いていたのか、器用にナイフとフォークを使って漬物だけを残して完食した。

 これまで食事はどうしていたのか問うと、お接待で貰った物やコンビニやなんかでハンバーグやパン、サンドイッチなどを買って食べていたと笑った。

 食事を終え、お茶を飲んで寛いでいると、遍路仲間との意識があるのか、ひと塊りになっていた中から一人の老婦人が、お話中済みませんと近寄って来た。

 彼女は真一が日本人だと認めて話し掛けてきたのだ。

 「どちらからお遍路に来られたんですか?」

 「僕は長野からです」

 中年の婦人の問いを英語に通訳してから答えた。さて老人はなんと答えるかと耳を澄ませたが、彼の応答は簡潔だった。

 「ヨーロッパから来ました」

 ウィンクのように片目をつぶってお茶を一口飲んだ。あくまでも国名を明かしたくないようだ。彼もそのように通訳した。

 何か言いたそうに彼女は真一を見たが、彼も答えようがなく、太龍寺への登り口で知り合い、一緒に四国八十八箇所巡りをすることになったことを説明した。

 お遍路の目的を訊かれ、真一は妻を喪くしてその供養に廻っているとだけ簡潔に答えた。

 応答の都度、真一は通訳したのだが、彼の妻が最近亡くなったと知った時は、おおっ!と大袈裟に同情を示した。だが、セバの口からは多く応えることはなかった。

 身元を明かそうとしない彼をますます不審に思った。これまで接した中で判断すると、母国から逃げた犯罪者とは思えない。まして彼の年でテロリストとは考え難い。ならばなぜ日本に来てお遍路をしているのか、なぜ頑なに自分の国を明かそうとしないのか、土地不案内の日本になぜ一人で来たのか。しかも懐に余裕がなさそうなのに。一番可能性がありそうなのは政治難民だ。それが一番妥当な答えだと思った。だとしたら難民事務所に申請しているのか、いや既に認定されているのかと疑問に思う。彼の口から語られない以上、いくら想像しても頭の中で堂々巡りだった。

 狭い部屋で畳に布団を並べて敷いたときはセバは喜んだ。日本のベッドは小さすぎる、これが一番だと親指を立てた。それでも彼の足首が布団からはみ出している。布団に入るとすぐに彼は寝息をたてた。真一は部屋を出て喫茶コーナースペースで、自分が立てた計画の見直しをした。

 真一が支払いを済ませ宿を出たのは8時過ぎだった。老人は久し振りにゆっくりできたと伸びをして元気一杯だ。

 今日はどこまで行く?と訊かれて、第22番札所の白水山平等寺を参拝してから太平洋岸にある由岐の町まで行こうと地図を示して答えた。太平洋と聞いたセバは目を輝かせた。20km余り歩くが大丈夫かと確かめるとそれくらいなら大丈夫だとの元気な声が返ってきた。

 宿を出て22番札所まで高低差150mの上り下りがあったが、セバは疲れを見せなかった。これならば大丈夫だろうと真一は一先ず安心した。そこでの納経を済ませ、途中休憩を取りながら由岐峠まで来ると風が出てやがて小雨が降り出した。宿までは3km少々あるが、大降りになる前に着けるだろう。セバを促して少し足早で下った。

 民宿の女主人に明日は雨風が一層強くなりそうだと言われて、出立を強行するかどうか明日の天気を見てから決めることにした。

 悪天候を見越してか、ほかに宿泊客はいなかった。

 交代で風呂に入り小ざっぱりした服装でセバと二人で夕食を摂っているとポケットにあるスマートフォンが鳴った。画面を見ると玻瑠香からだった。そう言えば、家に電話をしたのは1番札所に着いた時きりだったことを思い出した。長い間連絡がないので心配したのだろう。スマホに手を当てて、家からだと老人に告げた。セバはフォークを振り回し、いいから早く出ろと手振りで示した。

 可愛い声がしたので亜依かと訊くと、違うと答えが返ってきた。それで亜耶だとわかったのだが、声が同じだからわからない。

 「亜耶ちゃんの声を忘れたの?」

 悲しそうな声で言うから、慌ててそうじゃないと弁解した。

 「電話だと声しかわからないから間違った。みんな元気にしているか?」

 「ダディーがいないと寂しい。お仕事頑張って早く帰って来て」

 玻瑠香は子供達に仕事で出張していると説明しているようだ。罪悪感が込み上げてきたが、それを押し殺して答えた。

 「ごめんな。まだかかりそうだ。お土産を一杯持って帰るから、お利口さんにしてもうしばらく待っていてくれるか」

 亜耶がうんと返事をすると子供達が次々に代わって姦しかった。母親がいず父親もいなくて寂しいのだろう。子供のためにも自分は強くならなければならない。もう少し待っていてくれと心の中で詫びた。

 最後の耕一との通話を終えると再び玻瑠香が電話に出た。

 「お兄ちゃん、今どこ?」

 「徳島県の海近くの民宿だ。これまで天気に恵まれたが、明日は風雨が強いらしいから、ここで足止めをくうかも。みんなに変わりないか?」

 「子供達は寂しがっているけど全員元気よ。事務所の方は原田さんがいるから心配いらないわ」

 「そうか、みんなに迷惑をかけて済まない。お前にも子供を押し付けて申し訳ないと思っている」

 「そうよ、そこんとこ忘れないでよ」

 兄を元気付けるように陽気に言って笑った。そばで子供達がそばで聞き耳を立てているのか、玻瑠香は急に声を落とした。

 「それでお兄ちゃん、少しは元気が出た?」

 問われて、以前ほど気持ちが沈まなくなっていることに気がついた。玻瑠香も兄の話ぶりで以前とは違ってきていることを感じ取った。

 「そうだな、家にいた時とは随分晴れてきたように思う。この遍路で立ち直ったとしても最後まで廻るつもりだからみんなにもそう言っておいてくれるか」

 「わかったわ。それで後何日かかるの?」

 「そうだな、天候に問題がなければ、40日はかからないと思う」

 「随分かかるのね」

 玻瑠香なりに歩き遍路の行程を調べていて、兄の足なら遅くても30日くらいだろうと踏んでいたので意外にかかる思った。

 「まあ、色々あってな」

 理由は言わなかったが、それで納得したのかそれ以上追求されなかった。

 「わかった、道中気をつけてね。それと連絡だけはこまめにお願いね。みんなが心配して子供達も寂しがるから」

 「わかった、そうしよう」

 しばらく家と事務所の話をして玻瑠香は電話を切った。

 老人と同行二人していることは告げなかった。話せば長くなるし、また話せるほど彼に対する知識もなかった。

 「シン、家族からか?」

 そうだと答えて、何日も電話をしなかったから子供に叱られたと笑った。

 それはいかんなと老人も笑いながら応じて、子供の写真があったら見せてくれと言った。真一はスマートフォンに収めている家族が揃った写真を見せた。

 「みんな可愛い顔をしている。この人が奥さんか?」

 しみじみ画面を見た後、それを前に出して亜紀を指差した。

 そうだと答えると、老人はまた写真に見入った。その写真は妻と最後の旅行をした時のもので、同じ写真を事務所の机の上に置いている。

 「綺麗な奥さんだ。聖母マリアのように優しい顔をしている。愛していたんだろう?」

 老人から言われて、妻への愛おしさが込み上げて涙が出そうになった。お遍路に出てから感情が表に出るようになったような気がした。

 今でも愛していると答えると、そうだろうそうだろうと老人は深い同情を示し、うっすらと涙を浮かべながら食事をするのも忘れて、長くスマホを離さなかった。

 真一はその様子に、彼にも何か深い事情があるようだと思った。そうでなければ極東の小さな国の巡礼者になるはずもない。

 「シン、彼女は誰だ?」

 うん?と前のめりになって見ると、彼が指していたのは玻瑠香だった。

 「それは妹の玻瑠香。妻に代わり子供達の面倒を見てくれている」

 「ほう、妹さんがのう。彼女もまた美人だ」

 真一は話題を変えるつもりで、お国の時差は知らないが、よければ家に電話をしてはどうかとスマートフォンを差し出すと、いやいやと手を振って、まだその時期じゃないと断った。その時期とはいつのことを指すのかわからないが、遠慮している風ではないのでスマートフォンをポケットにしまった。

 「わしのことを奇妙な爺さんだと思っているだろう?」

 唐突な老人の問い掛けに真一は箸を止めた。

 「お前さんの態度を見ていればわかる。シンが愛する人を亡くして深く悲しんでいるように、わしにも深い悩みがある。いや、どちらかといえば悲しみよりも憎しみの方が強いかもしれん。こんな遠い国へ巡礼に来たのもそんな気持ちを少しは変えられるかもしれんと思ったからだ。しかし、それが何かは言えん。もし話す気になったときは、わしの悩みが解消した時と思ってくれても構わない。まあ、そんな日が来ればの話だが・・・。済まないが、先に失礼するよ」

 老人は立ち上がり数歩進んで振り返った。

 「シン、明日はどうする?」

 そう言えば、明日の予定を相談していなかったことに気がついた。

 「予報では一日中荒れるらしいから、明日一日ここに滞在しましょう。日本の天気予報は正確だから、まず外れないと思う」

 彼のためにも1日英気を養ういい機会かもしれないと割り切った。

 「わかった、そうしよう。わしは荷物の整理をしてから、ペーパバックでも読んで時間を潰すことにしよう。用があればいつでも声をかけてくれ」

 「了解。1日延長しておきます」

 老人は後ろ手に振って食堂を出て行った。

 翌日、彼らは着ていた衣類を洗濯乾燥し、巡礼のことや日本の宗教などの話をして1日を過ごした。

 セバはお遍路さんの多様さに驚いたと言った。

 これまで道中や札所で大勢のお遍路さんに出会った。バスツアーもあれば、タクシーやワゴン車をチャーターした人もいたし、自家用車やバイク、自転車を利用してのお遍路さんもいた。真一と老人のように歩き遍路も少なくなく、中には逆打ちと呼ばれる逆回りで歩く遍路者もいた。

 そんな中でバスツアーの遍路者と一緒になったときが災難だった。蝋燭に火を灯すのも納経するのにも時間がかかった。特に朱印をいただくのに長く待たされた。その場合でも個人の遍路者には優先的に扱ってくれるのだが、時間がかかるのには変わりなかった。

 巡礼者が多いのは何故だとのセバの問いに、日本には古来からの山岳信仰があるのだと教えた。

 アジアでは山岳信仰が広く行なわれていて、日本でも古神道と中国から伝来した仏教と結びついて、独自の宗教「修験道」を開いたとされる役小角えんのおづぬの話などをゼバは興味深く聴いた。

 真一はセバに乞われて彼の納経帳に印刷されている全ての札所の名前を丁寧に教えた。それを彼が真一でも不明の言語で記し、それを宝物のようにリュックに仕舞った。帰ってから家族に自慢するのだと笑った。この老人にも待ちわびる家族がいると知って内心ほっとした。

 弘法大師と彼ら同行三人の遍路は真一の中で何かを変えつつあった。それが何かまではっきりとしないが、それでもそれを彼ははっきりと自覚していた。

 次の日は低気圧が東に去り快晴だった。絶好の遍路日和で、23番札所を廻り牟岐町からは平坦な海岸線沿の道路を歩いた。昨日強行していたら、まともに太平洋からの風と雨に曝されていただろう。いい決断だったとセバに褒められた。

 この先室戸岬にある第24番札所まで海岸線を60km程歩かなければならないが、老人の体力を考慮して途中2箇所の宿を取った。

 そんな風にして老人と一緒に旅をし、老人と同宿して同じ物を飲み食いしていても、彼自身のことを語ることはなかった。ただ、参拝の時の長い祈りや時折見せる哀し気な表情で、彼の中に窺い知れない深い憂慮があることを窺わせた。

 セバが自分のことを少しだが語ったのは、室戸岬の灯台で海に沈む夕陽を観てからだった。真一が遍路を始めてから10日目、老人との出会ってから4日が経っていた。

 真一も彼の横に並び立ち、波のない夕陽が沈む穏やかな海を見た。彼には見飽きた太平洋だが、老遍路者にはそうではないようで、両手を合わせ長い間祈っていた。それが終わってからも彼はいつまでも立ち尽くし無言で海を見ていた。

 どれ位の間そうしていただろうか、やがて彼は海を見やったままポツリと言った。

 「海は美しいな、シン」

 彼の感想に実が籠っているように感じられて思わずセバを見つめてしまった。

 「どこまでも広く青くて人間なんかちっぽけに思えてしまう。この先はどこなのだろう?」

 老人の問い掛けは回答を期待していないように思えたが、ずっと先はアメリカだと律儀に答えた。

 「アメリカか・・・。遠い所へ来たものだ。シン、わしはこんな真近で海を見るのは生まれて初めてなんだ。こんなにも美しいものとは思わなかった」

 真一は老人の横顔を見た。日に焼けて赤黒くなった顔は海をじっと見据えている。

(海を見たことがない・・・。ということは内陸部の人か)

 頭の中の欧州の地図でぱっと思い浮かべた海に面していない国はオーストリア、スイス、ルクセンブルクにチェコとスロバキアだった。少し考えるとハンガリー、セルビア、ベラルーシくらいで意外にもそう多くない。リヒテンシュタインもあるが、人口的に見てそこではないだろう。彼の国はそれらのどこかに違いないと思った。

 老人はそれ以上語ることなくそこを離れ坂道を登って行った。真一は彼の跡を追った。

 彼が自分の国のこと、日本に来た目的を真一に打ち明けのは高知県の桂浜に来た時だった。坂本龍馬像の前で写真を撮り、そこから砂浜へ降りて波打ち際で腰を下ろした。海を見つめたまま彼は唐突に語り始めた。

「こんな齢にもなって、わしが国を出たのはこれで2度目なんだよ。シンは何度も出たことがあるだろう。幸せなんだよ、自由があるということは。ところがそれが当たり前と思ってそれに気づかない者が多い」

 真一は彼が何を言いたいのだろうと老人を見た。彼は海を見たまま続けた。

 「わしの国は長い間共産圏に属していた。我々は共産主義の独裁者に支配されて言論の自由も行動の自由も制限されて一般人は出国することも許されなかった。だからこんなに近くで海を見たのは生まれて初めてなんだよ。

 こうして海を見ていると、その広大さ偉大さに自分の煩悶なんかなんでもないことのように思えてしまう。そう思わないか、シン?」

 真一を一度見ると、彼の返事を待たずに視線を海に戻して続けた。

 「日本は第二次世界大戦で負けはしたが、こんなにも発展して平和に暮らしている。日本人は幸せだ。君にどんな想いがあるか知らないが、君達は幸せだよ。シンは、いや日本人はそれを自覚しなければならない。

 確かに愛する人を失うことは生きる価値を失うに等しい。それでも家族のため自分のために生きなければならない。それは私もそうだ。

 勝手な想像で申し訳ないが、世の中には君の不幸よりもっともっと大きな不幸を背負って生きている人間もいるんだ。それも他人の手によってだ」

 真一は思わず老人を見つめてしまった。

 (旧共産国と言うことはハンガリーかウクライナか、それともルーマニアか、いやあそこには確か海があった)

 そこでよほど辛いことがあったのだろうと想像したが、それが何か知りようがなかった。

 何のつもりで言ったか知れないが、それ以上のことは彼の口からは語られることはなかった。まだ、彼自身心の整理がついていないのだろう。何故か、この巡礼の間に彼自身のことを打ち明けてくれるような気がした。

 美波町の宿で嵐を避けて1日を無為に過ごした以外、ここまで予定通りの工程で35番札所まで歩き通してきた。家にも3日に一度は連絡を入れた。この日も36番札所手前の温泉ホテルから玻瑠香に電話をして子供達の元気な声を聞いた。今の彼の活力源は子供の声だ。

 真一が通話を終えると、家族は元気だったかと訊くのがセバの常だったが、この日は違った。家に電話を掛けさせてくれないかと言ったのだ。彼の顔は真剣だった。

 国番号を尋ねると知らないと言うから、国名を訊いた。彼はボスニア・ヘルツェゴビナと言葉短く答えた。

 思いもしなかった国名に真一はボスニア・ヘルツェゴビナと口の中で言った。

 それはバルカン半島にある国だった。かつては、モザイク国家と呼ばれた複雑な国だが、ユーゴスラヴィアから独立してそれほど年数が経っていないはずだ。

 老人の風貌とこれまでの発言から東欧系だろうと踏んでいた。それでも彼の口から出た国の名は全く想像もしないものだった。

 彼の国を含めたバルカン半島の紛争のことは知っている。だが、その内実は人に語れるほどの知識はなかった。彼の言う不幸とはその紛争に関連したことなのだろうと想像した。

 スマホで国番号と時差を調べた。日本との時差は-7時間だった。とすると向こうは午前11時だと瞬時に計算した。それを老人に告げると、その時間なら誰かはいるだろうと嬉しそうに答えた。

 紙に電話番号を書いてもらい彼の自宅へ電話を掛けた。呼び出し音が鳴るのを待ってスマートフォンを老人に手渡した。

 しばらく待って相手が出たらしく、老人は機関銃のような早口で話し始めた。相手が聞こえないと思ったのか大声で話すから、真一は思わず口に手を当てて静かにと仕草で制した。

 それからは声を抑えて話し出したが、横で聴いていても聴き取れなかった。ドイツ語に近いようでロシア語にも似ているような気がした。

 積る話があったのか、殆ど彼が一方的に話して電話を切った。

 食堂へ行くと、これまでと同様、宿泊客の視線は彼に集中した。

 長電話をして申し訳ないないと恐縮して何度も謝まるので、取り成すのに苦労した。電話をした後の彼の顔は晴々として嬉しそうだった。何かを吹っ切ったらしいことが、彼の表情が端的に示していた。

 老人が少し話をしたいと言うのでそれを了承して部屋に行った。

 部屋に入ると、彼は巡礼に来た目的を打ち明けたいと言った。

 セバは低い声で重苦しい話を語り始めた。

 「自分は国の中では少数のクロアチア人でクリスチャンだ。シコクヘンロのことはテレビのニュースで知った」

 そして、ある目的を持ってはるばるここへ来たと語った。何十年も前のことだが、忘れたくとも忘れ難い強い憎しみと諦めの気持ちがある。そしてそれを克服したかったのだと。

 「実はここへ来る5年ほど前に、同じ目的でパリからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂までの巡礼に出たことがあるんだよ」

 老遍路者は真一を見た。彼も見返した。体験したことはないがスペイン巡礼のことは無論知っている。

 「あそこも長くて苦しい旅だった。だが、神様は救いの手を差し伸べては下さらなかった。あそこはここよりも道も宿泊地も整備されているが、ただ歩いているだけという感じだった。帰国してからあれこれ考えて、あれは苦しい時にバスに乗ったから駄目だったんだと思い込んだんだな。ところがここは山深いところを歩いて、お寺も古くてわしの目には異様だったが厳かに映った。

 白装束の人が寺を何箇所も巡り歩いて祈っている姿をテレビで観て、自分も歩いて全部廻ろうと決めた。だが、ここへ来てわかった。電車やバスで行こうが、歩いて廻ろうが、そんなことは関係がない。いやわかったんじゃない、サトったんだ。神様に縋っていては駄目なんだと。自分自身で克服しないといけないんだと教えられた。それはイエス様でもない、コウボウダイシ様でもない、誰にも頼る事なく自分自身でサトらないと駄目なんだと教えられた。

 それがわかったのは、苦しい山に何度も登り、お寺にお参りをし、幾人もの巡礼者と出会い、人々の心からの善意と施しがあったからだ。もちろんシンイチにも教えられた。それで初めて人とは何かを知ったような気がした。

 これまでわしは国というよりも民族と血を分けた家族のことしか考えていなかった。ところがここへ来て初めてわかった。そんなことはどうでもいいことなんだとサトったんだよ。そうしたら気持ちが楽になった。本当にそうなったかどうか確かめるために家に電話をしたんだが、これまでとは違う晴れやかな気持ちで話ができた」

 セバは煙草を懐から取り出すと火を点け鼻から大きく煙を出した。禁煙だと諌める気持ちにはならなかった。

 「実を言うと娘とは何年も腹を割って話したことがないんだ。娘と孫、ひ孫には何の罪もないことはわかっているんだが、心の中はどうしようもなかった。それが電話で何のわだかまりもなく話しができた。娘も喜んでいた。これもおヘンロのお陰だ。シンイチのお陰だ、ありがとう。この気持ちはどう表現していいのか・・・。まあ、そんな訳でシンには話してもいいとの気持ちになった」

 そう言って、老人が真一に告白したことは彼の想像をはるかに超える重い事実だった。

 彼の国のことは多くの日本人がそうであるように、真一もまた数十年前まで内戦状態にあった程度の知識しか持ち合わせていなかった。この数十年前と言うのが彼の知識の程度を表していた。

 彼の話は古代ローマ帝国の支配下にあった頃からユーゴスラビア連邦の一国家として自由を奪われていたことまでの永い歴史から始まった。

 東西冷戦の終結とともに、共産主義国家ユーゴスラビアが崩壊しボスニア・ヘルツェゴビナが独立するまでに起きたことは、単に悲惨との2文字で片付けられるものではなかった。まして、聴いても俄かに信じられるような話ではなかった。しかし、当事者の彼が語る以上それは事実に違いなかった。

 彼の国がユーゴスラビアから分離独立する過程で、民族や宗教の対立で互いに武器を持ち殺し合う悲惨な紛争が発生した。その紛争の中での悲劇は、かつては同じ国だった者同士が、隣り合った者同士が、殺し合うことばかりではなかった。それは国として組織的レイプと強制出産が行われたことだった。彼の家族もその犠牲になった。

 それは民族浄化と称して主にセルビア人が他民族に対して行ったものだった。侵入してきた兵士によって拉致された女性は性奴として扱われた挙句、妊娠しない女性は殺された。セルビア人の血が入った子供を宿した女性は、堕ろすことのできない時期になってから解放された。自分も何人かセルビア人を撃ち殺したことがあると告白した。だが、後悔の念の表情は彼の顔からは窺うことはできなかった。

 そんな暗い話を1時間に渡って聴いた。老人は努めて極力感情を抑えて話そうとしていたが、それでも時々声を詰まらせ声を震わせながら涙を拭った。

 娘あるいは妻が犯され、他民族の、しかも誰とも知れない男の血が入った子供を自分の子供あるいは孫として受け入れざるを得ない肉親や夫の気持ちはいかばかりか。名も知らぬ父親のことを生まれた子供に伏せ、育てて来たであろうことを想像するだけで痛ましく、そのような非道を行った組織と人に怒りを覚えた。とても人のすることとは思えなかった。

 真一は聴いていて、おぞましさのあまり途中で反吐を吐きそうになった。悟ったと彼は言ったが、そう簡単に過去を清算することができたのだろうか。とは言え、どこかで折り合いをつけなければならないのだ。そうでなければこの先進むことができない。その糸口をこの遍路によって老人は見つけたのだろう。それは真一にも当てはまることだった。

 その出来事はずっと昔のことだが、老人が負った傷は深くこれまで癒されなかったことも理解できた。その傷は恐らく孫子の代までずっと続くのだろう。

 老人は拭いきれない気持ちを癒すために、妻を亡くしたことを機にフランスのパリからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂まで巡礼した。それでも彼の気持ちを静めることができなかった。

 悶々とした日々を過ごしていたときに、テレビのニュースで極東の小さな国のそのまた小さな島を1周する巡礼のことを知った。これだと彼は思った。彼の決断は早く1週間後には成田に降り立っていた。

 まだ半分も廻っていないが、山や田畑を見ながら無心で歩き、人の施しを受けながら祈りを捧げているうちに気持ちが落ち着いて来たと言った。海の偉大さに心打たれたとも。

 「憎んだところでもう昔には戻れない、受け入れるしかないんだとサトった。これがコウボウダイシの自然の教えなのかもしれない。これからは娘のことを思い孫の幸せを願って廻るよ」

 そう締め括って、老遍路者は十字を胸の前で切った。

 真一は聴いていて目の醒める思いがした。そうだ彼の言うように、どのようにあがいたところで妻は戻っては来ない。もう昔には戻ることはできないのだ。妻の死は死として受け入れるしかないのだ。それを受け容れて前に進むしかない。そんな単純なことですら、彼と出会い彼の話を聴くまでは気付かずにいたのだ。

 親を亡くしたとか子供を亡くしたとか、そんなことはこの老人が経験したことやおかれている境遇に比べれば眇々びょうびょうたるものだ。妻を喪くして悲しみにくれて自分を見失っている自分が恥かしくなった。そのことを気付かせてくれたセバとの遭遇に感謝した。この老巡礼者との出会いは偶然ではなく、弱い自分を励ますために亡き耕造が弘法大師に取り計らってくれたのだと思った。

 (亜紀とお爺さんが老人と出会わせてくれたに違いない。亜紀が叱咤してくれたのだ。しっかりしなさいと)

 知らぬうちに、セバを含めた同行三人ではなく、亜紀と耕造が加わった5人が同行して見守ってくれていたのだ。

 これからは亜紀との想い出の上に子供達と一緒に新たな想い出を積み重ねて未来へ歩もうと心の中で誓った。それこそが亜紀の供養になるのだと。彼も老人のお陰で悟りらしきものを得た。

 その夜、彼は養母の稲子、実母の庸子と玻瑠香に電話した。

 「遍路のお陰で立ち直れたと思う。玻瑠香にも心配掛けて済まなかった。帰ったら子供達と遊んでやる。仕事もこれまでのように頑張る。原田さんにも立ち直ったから安心するように伝えて欲しい」

 「本当に本当に、お兄ちゃんもう大丈夫なのね」

 スマホ画面で妹は泣いていた。

 「ああ、大丈夫だ。完全に元に戻った。だから安心して帰って来るの待っていてくれ」

 老遍路者と出会って一緒に廻っていること、その遍路者のお陰で立ち直ることが出来たことを話した。

 妹にも気苦労も心配も掛けた。申し訳ない気持ちで一杯だった。帰ったら、彼女をあの家から解放し、好きなようにさせようと思った。

 「良かったわ。巡礼に行った甲斐があったじゃない。じゃそこから戻って来るの?」

 「いや、お袋にも言ったけど、ここまで来たからには全部廻ろうと思う」

 「ここまでって今どこにいるの?」

 「高知県土佐市だ。明日は36番札所から廻る」

 「だったらまだ大分かかるわね」

 「年寄りと一緒だから帰る日は決められないが、香川県の80番札所まで行ったら知らせることが出来ると思う。帰る時は彼も一緒のつもりだからよろしく頼む」

 「わかったわ。道中気を付けね」

 その日から遍路者二人は屈託なくよく笑い合うようになった。

 大男が二人、しかも一人は大振りの大声で何語かわからない言葉を大声で話すから、すれ違う人や同宿の人達の注目を浴びた。

 真一とセバは最後の八十八番札所の医王山遍照光院大窪寺で結願けちがんを果たし、振り出しの一番札所霊山寺でお礼参りをして納経所でノートに日付を書き入れた。これで全ての巡礼が終了した。その翌日、二人連れ立って原村へ帰った。

 明日ダディーが帰ってくると聞いたときには、子供達は小躍りして喜んだ。

 2月ぶりに彼を迎えた家族はびっくりした。途中で知り合った人を連れて来ると玻瑠香から知らされていたが、まさか外国人だとは思わなかった。それに真一は真っ黒に日焼けし顔中無性髭で人相がわからないほどだった。

 彼の帰りを待ち侘びた家族は、一目で以前の真一に戻ったことを知った。それほど彼は活気に溢れていた。代わるがわる子供を抱き上げ、 無精髭を撫でられ笑顔で接する様子は子煩悩な父親だった。これまで亜紀のことに触れるのさえ憚っていた家族が何気なく漏らしたときでも、それに応じる彼に変化は見られなかった。

 セバの言葉は家族には全く通じず意識疎通を図れないのだが、彼の大仰な身振りと笑いが周りを明るくした。子供達は彼に対して無邪気だった。彼がフライを連れて森を散歩する時は子供達が一緒だった。

 滞在の間に彼は自分の家族を襲った不幸のこと、スペイン巡礼に出たが気持ちが癒されなかったこと、四国遍路をしてコウボウダイシ様のお陰で吹っ切ることができたこと、真一に出会わなければそれが果たせなかっただろうこと、また彼が同行してくれて心強かったことを彼の通訳を介して語った。

 彼の話を聴いて家族はみな、怒り、悲しみ、同情を寄せて涙を流した。とりわけ玻瑠香は若い女性だけに怒りと悲しみの感情は人一倍強かった。真一もまたセバと出会ったから立ち直ることができたと熱く語り、家族もまた彼に感謝した。

 玻瑠香は子供達を兄に託し家事は母に頼んでセバをあちこち案内して回り、高野山へのお礼参りは真一と子供達、玻瑠香と一緒に済ませた。

 それから間もなく、セバが真一らのもてなしに最大限の感謝を表し、欧州に来ることがあれば必ず家に来るようにとの言葉を残して帰国した。


                    (三)


 亜紀の3回忌の法要は命日より少し早い5月の連休中日に母屋で営まれた。

 ワンワンとフライの歓迎の吠え声がして、開け放した玄関で「こんにちわ」の声に亜依と亜耶がキジ猫のニャニャーと一緒に奥からばたばた駆けて来た。上り框のところでピタリと止まると、両手を前に揃えちょこんとお辞儀をして「いらっしゃいませ」と二人同時に挨拶した。

 「はい、こんにちわ。ちゃんとご挨拶ができて二人ともお利口さんだねー」

 和人は屈んで子供目線に合わせ両手で頭をなでた。

 彼の両親と妻は数日前に来ていたが、仕事の関係で彼が到着したのは法要の前日だった。

 「えーと、どっちが亜依ちゃんで亜耶ちゃんかな?」

 一卵性双生児で目立つところに黒子ほくろのような目印となるものがないから全く見分けがつかない。

 「あやちゃん」「あいちゃん」

 自分の頬を指差してほとんど同時に答えた。

 「あ、そうか、赤いおリボンが亜依ちゃんでピンクのおリボンが亜耶ちゃんだったね」

 二人とも三つ編みの可愛いお下げ髪に色違いのリボンをつけている。私はわかるけれど、他の人は見分けられないだろうからと双子の姉妹を見分けるために妹がいつもそうしていたことを思い出した。それを玻瑠香が踏襲してくれているのだろう。

 「いらっしゃい。お久し振りね」

 遅れてやって来た玻瑠香が挨拶もそこそこに「上がって」と促した

 「お久し振りも何も、正月にお邪魔したよ。玻瑠ちゃんも元気そうだね」

 「ええ、毎日忙しくしているわ」

 この義妹はいつ見ても元気発剌だ。闊達な彼女のお陰でこの家も随分助かっているのだろうなと思った。

 「和彦が世話になって悪いね。面倒はかけてないかい?」

 息子の和彦がゴールデンウィーク初日からここに滞在している。

 一人っ子で育ったせいか、人見知りがひどく引っ込み思案で大人しい。それが母親の杏子には覇気がないと映り、いじめの対象になってはしないかと心配していた。

 夫と相談し義弟とも話し合って、彼の勧めで連休期間中ここで預ってもらうことにした。短期間でもあの大家族の中で揉まれれば、きっといい方に感化されるだろうとの期待があった。それを息子に持ちかけると家に居るよりはいいと嬉々として原村へ行った。

 「いいえ、ちっとも。もともと大家族だから一人くらい増えたって問題ないわ。犬の散歩や子供の相手もしてくれて、家事のお手伝いしてくれるから助かっているわ」

 「へえ、あいつが。家では横の物を縦にもしないのに」

 驚いたように言う和人に玻瑠香がにっと笑った。

 「和人さんには悪いけど、何もしないで遊ばせてなんかおかないわよ。自分の部屋の掃除に食事の後片付けと皿洗いはここにいる限り義務よ。トイレと風呂の掃除もね。それ以外はお兄ちゃんの事務所にいるか、フライを連れて森へ行っているかのどちらか。でも大丈夫、宿題はお兄ちゃんと私が尻を叩いているから」

 やはりそうだろうなと和人は苦笑した。この玻瑠香がただの居候を許すはずがない。ここぞとばかりにこき使っているのだろう。玻瑠香ファンの息子も彼女に唯々諾々いいだくだくと従っていることは容易に予想できた。それで逞しくなってくれたら言うことはない。息子ももう中学生だ、自立心を培うのはいいことだ。容赦のない彼女に尻を叩かれている息子の姿を想像して笑いを噛み殺した。彼らに任せておけば大丈夫だと安心した。

 「和人、今着いたの?」

 台所から杏子が出て来て声をかけた。双子姉妹はにゃーにゃとまとわりつく猫にかまっていた。

 「ああ、皆さんにお変わりはないかい」

 「ええ、元気にしているわ。お義母さんは法事の準備のお手伝い、お義父さんは家回りの掃除をしているわ」

 「ああ、知ってる。そこで会った」

 「そうそう玻瑠ちゃん、座布団を干さないといけないんじゃなかったっけ?」

 「それは済ませているから大丈夫。それより多人数だからお客さんの並びをどうしたらいいか考えると頭が痛いわ」

 「真一さんと盛蔵さんが相談して決めるんじゃない。任せておけばいいのよ。そこまで心配したら体が持たないわよ」

 「それもそうね」

 49日の法事までの仏事の差配は娘のことだけに悲しみを抑えて美智子が中心となって取り仕切った。その彼女が不在の今回は玻瑠香が自分に任せて欲しいと稲子に申し入れて一月以上も前から準備を進めていた。

 ありがとうの可愛い声に下を見ると、亜依と亜耶が和人から駄菓子が入った小袋をもらっていた。

 「お菓子をもらったの。二人だけで食べちゃ駄目よ。お姉ちゃんとお兄ちゃんにも分けるのよ、いい。あ、それからお客様にご挨拶しなさいって私が言っていたと言うのよ。わかった?」

 亜依と亜耶は、はーいと元気に返事をしてばたばたと台所へ戻って行った。

 「いやー、しっかりお母さんをしているね」

 和人が走り去る二人を見送りながら冷やかすと、玻瑠香は少し赤くなって、そうじゃないわよと手を振った。

 以前ならこんな冗談に反発するか平然と聞き流したはずなのに彼女も大人になったと思った。

 「近頃は生意気になって中々言うことをきいてくれないのよ」

 「仕方がないわ。まだ4歳でしょ、偉いわ。あの年でちゃんと挨拶ができる子なんていないわよ」

 「そんなことはないわ。お義姉さんは亜美と修一をちゃんと躾けていたもの。あの子達だってお姉ちゃんとお兄ちゃんがしていることを真似ているだけよ」

 手厳しい言い方に杏子は笑った。

 「それだっていいじゃない。見て学ぶことが大事なのよ」

 「それにしても月日の経つのも早いもんだな。もう2年になるのか」

 「そうね。2年にもなるのね」

 亜紀の死は突然でもなく急でもなかったが、それを受け容れるには若過ぎる死だった。今でも「お久し振り」と微笑みながら義妹が台所から出てきそうで杏子はまだ信じられない思いだった。愛する夫と子供を遺して逝くのはさぞ心残りだったろうと思うと涙腺が緩んでしまう。

 しんみりとなってここだけが気温が下がったような気がしたが、それを振り切るかの様に和人は話題を変えた。

 「それで杏子は何をしていたんだ?」

 「玻瑠ちゃんのお手伝い。多勢の人がみえるから大変なのよ」

 「大勢って何人ほど来るするんだい?」

 「100人は超えるだろうって」

 「そんなにか!」

 それだけの人を受け入れることができるのはさすが元名主の家だけのことはあると改めて感心した。

 耕造の通夜と葬儀の時は地域の人々の相談に乗ることもある名士だけあって弔問客が多った。それには及ばないものの妹の人徳があったればこそ、それだけの人が出席してくれるのだと改めて妹の存在がこの家の中で大きかったことに思いを新たにした。

 「だって、親戚に近所の人達、お義姉さんの友人や知人、それに事務所の仲間も出席してくれるから、みんなして数えたらそれくらいになったのよ。焼香が終わったら帰る人もいるから、お斎の方は60人ほどだけど」

 それでも多いと和人は感心した。

 料理は仕出しを頼んだらとの稲子の助言に、お義姉さんなら絶対にそんなことはしなかったと玻瑠香は受け入れなかった。とは言え一人で全てできるはずもなく、近所の人、事務所の同僚やその家族にも声を掛けていた。その点彼女は抜かりはなかった。

 「陽菜ちゃんや小母様方それに近所の人達にも手伝ってもらっているの。メモを見ながら何がなんだかもう大変」

 母や稲子が助言するにせよ、大勢の人を差配するのは確かに大変だろう。小姑である玻瑠香が妹のために買って出てまでしてそれをしてくれるのは涙が出るほどありがたかった。

 「ご苦労様、妹になり代わり礼を言うよ。本当に有り難う」

 「どう致しまして」

 「それで、真ちゃんは?」

 声が聞こえているはずなのに顔を出さないから不思議に思って尋ねた。

 「お兄ちゃん?お兄ちゃんは奥の部屋で和彦と一緒に障子の張り替えをしているわ」

 「へえ、あいつが手伝っているのか。変われば変わるもんだな」

 「ここでは働かざる者食うべからずよ。和人さんの息子だって容赦しないわよ」

 和人は苦笑した。

 「任せた以上、玻瑠ちゃんに精々せいぜい仕込んでもらうさ。ともあれ皆さんに挨拶をしておくか」

 和人は二人を残して台所へ行った。

 「和彦はもう中学生でしょう。杏子さん、二人目を産まないの?和人さん、いらないのかしら?」

 「そんなことはないけど、コウノトリが中々運んでくれないのよ。それよりあなた、人の心配するより自分の心配しなさいよ。いつまでこの家にいるつもり」

 「私のことはいいのよ。子供のことで手一杯だし」

 玻瑠香は大きく手を振った。

 「それが駄目なのよ。そんなことを言っていたら、嫁きそびれるわよ。まあ、玻瑠ちゃんだったら引く手数多だろうけど、これも縁のもんだから」

 「杏子さんもおばさん臭いことを言うようになったわね」

 玻瑠香はあははと笑い飛ばした。

 「私のことはいいの。それより、納戸にあるお膳とお椀を出して乾拭きしてくれます?」

 玻瑠香は話を逸らした。

 「そうね、台所は人で一杯だからそれをしようか」

 「蒔絵入りの漆器だから取り扱いには注意して。数が多いから大変よ」

 稲子から漆器をそんな風に洗っては駄目と叱られた苦い経験があった。成瀬では本物の漆器がないから手入れの仕方を知らないのも無理はなかった。

 「大丈夫、わかっているわ。さあ、頑張りましょうか、亜紀ちゃんのために」

 「そう、お義姉さんのために。陽菜ちゃんにも手伝ってもらうから呼んでくるわ」

 二人はそれぞれの持ち場へ行った。

 和人は台所に入って驚いた。 広いキッチンとダイニングなのだが、女性ばかり多勢立ち働いていて狭く感じた。亜依と亜耶がいないから兄達の所へでもいったのだろう。

 玻瑠香の描いた絵を見ながら料理の配膳をしているのは建築事務所の人達だ。青い瞳の女性も脇目も振らず小皿に料理を盛っている。見知らぬ人は近所の人達のようだ。更に驚いたのは7歳に満たない亜美が踏み台に載って野菜を洗っていたことだ。玻瑠香が躾けたのだろうが、その後ろ姿が幼い頃の亜紀に似ていて、血は争えないと思いつつ母を喪した姪を不憫に思った。

 和人は、ご苦労様ですと声かけた。

 振り返って、軽く頭を下げる者が殆どだったが、美智子と亜美が手を休めて近寄って来た。

 「今来たの」

 「遅くなってごめん。仕事が中々片付かなくってさ、こんな時間になった」

 「伯父さん、いらっしゃい」

 「ああ亜美ちゃん、お手伝いご苦労さん」

 作業の邪魔してはいけないと、美智子と少し立ち話をしてから仏間へ行くと、頭にタオルを巻いた真一とタオルを首に垂らした義晴が内縁に座り込んで障子の張替えに精を出していた。和彦と修一と耕一は中庭に出て障子の桟を水で濡らして残り紙を剥がす役割だ。亜依と亜耶は池の鯉に餌をやっていた。

 部屋の障子と襖が全て取り払われて、外から中庭へ心地よい微風が吹き抜けている。

 「真ちゃん、障子紙の張替えかい」

 和人の声に一斉に頭を上げた。息子の顔は親の欲目か幾分逞しくなったような気がした。

 「やあ、いらっしゃい」

 「こんにちわ」 「こんにちわ」 「こんにちわ」「いま来たの」

 5人が相次いで挨拶をした。

 「二人でパパのお手伝いか、偉いな。義晴君もご苦労さん。大変だね」

 それにしてもここの子はよくお手伝いをすると感心した。

 「何回もやらされて慣れました。それにバイト代もちゃんともらいますから。なあ、和ちゃん」

 義晴の呼び掛けに和彦はにっと笑って頷いた。

 「お前、世話になっているのにバイト代か」

 「よく頑張ってくれているからな。でも、玻瑠香には内緒だぞ。あいつはタダ働きさせる上に人遣いが荒いから」

 「わかってます」

 「悪いね。散財させて」

 「いやいや、助かってるよ。暮れに張り替えたばかりなのに亜依と亜耶のお陰でこの有様だよ。数が数だけに大変なんだ」

 「後で僕も手伝おう」

 「あとここの二部屋だけど助かる。年中障子張りしているから職人並みの腕になったよ」

 「大きい家にはそれなりの苦労はあるさ。それを承知でこの家の者になったんだから仕方がないさ」

 「障子はまだいいけど、昔修一と亜美に襖に落書きされた日には、大お婆さんの襖が台無しになったと真っ青になったよ。説教したけど、理屈がわかる年頃じゃないし、結局障子破りを黙認することで折り合いをつけた。そうだったな、修一」

 父に名指しされても記憶にない修一は覚えてないと頭を振った。

 「小さい頃だから覚えてないか。加辺のお爺ちゃんにパパが謝って大変だったんだぞ。素人では手のつけようがないから表具師に綺麗にしてもらったんだが、高くついた」

 「ははは、そう言えばそんなことがあったな」

 「それに懲りて普段は外している。だけど、その度に替えるのが大変なんだ」

 義弟とたわいのない話をしていて、この様子ならもう大丈夫だろうと判断をつけた。妹が亡くなった後、一時はこの家もどうなることかと危ぶんだが、考えてみれば2年が経つのだ。

 亜紀の死後、真一の意気沮喪そそうした有り様は目に余るものがあり、それから脱しようと仕事にのめり込む姿に、彼はこれから先どうなるのか、子供達は大丈夫なのかとみな心配した。そこから立ち直ったのは本人の気力もあるが、玻瑠香の支えなしには考えられなかった。真一にとって今の玻瑠香は頼りになる妹であり、子供達にはよき母親代わりだった。

 二人が話をしている間も、義晴が貼り終えて乾いた障子の余り紙をカッターで切っている。その向こうでは子供二人が残り紙を剥がすのに余念がない。亜依と亜耶に障子を破る権利を与えたから、嬉々として破りまくったのはいいが、桟に破れ紙が貼り付いたままだったからだ。

 貼り終えた障子を柱に立て掛けて障子紙に霧を吹きかけているのは、家では何もしない和彦だ。ここまで変わるのなら夏休みも義弟に頼もうと思った。

 和人は仏壇の前に座った。

 金色の大きな仏壇の前棚には花が活けられ、ろうそくに火が灯っている。経机の上の線香は燃え尽きかけていたから、箱から線香を3本取り出して火を点けた。立ち上る煙の奥に彼女の位牌があるが、和人はそれではなく手前隅にある妹の遺影を見た。その写真は家族揃ってドイツへ行ったときのもので、彼女一人がどこかのホテルのソファに腰を下ろし、いつもの癖で少し頭を右に傾げ微笑んでいる。

 (時が経つのは早いものだな、もう2年だよ。子供を遺して無念だっただろう。父さんも母さんも元気にしているから安心してくれ。ここに戻ると言っているから毎日会えるだろう。

 それにしても逝くのは早過ぎたよ。どうしてもう少し長生きしてくれなかった。何もしてやれなくてごめん。これからはもっと顔を出すよ)

 「義兄さん、いつまでいられる?」

 手を合わせリンを鳴らした和人の背に向かって言った。

 「知事の議会答弁書の素案を作成しないといけないから、法要が終わったら僕だけ帰ろうと思っているんだけど何かあるのかい?」

 座布団の上で向き直り応じた。

 「お斎が終わった後、家族だけで話しがあるんだが・・・」

 義弟がどうしようかと悩んでいる様子に助け舟を出した。

 「重要な話だったら、明日朝帰ることにしてもいいけど」

 後の予定のやり繰りを素早く考えて応えた。

 「重要かどうかわからないが、いてもらった方がいいと思う」

 真一にしては歯切れの悪い言い方だった。

 和人は玻瑠香の去就ことだろうと察しをつけた。確かに彼女をいつまでもこの家に縛り付けておくわけにはいかない。この機会に子供のこともあるから自分の意見も聞いておきたいのだろう。それくらいしか家族が揃って話し合う用件が思い付かなかった。

 「わかった、そうしよう。僕も真ちゃんに話があるから、ちょっといいかい」

 「ちょっと待ってくれないか。あれを張り終えてしまうから」

 「うん、わかった」

 和人は立ち上がると縁側に立って腰に手をやった。亜依と亜耶はどこかへ遊びに行ったのか庭にはいない。フライが遠くでワンワン吠えているから二人して散歩に連れ出したのだろう。

 母親がいない5人の子供のことを思うと不憫で心が痛んだ。幸か不幸か子供達はみな妹のことは記憶に残っていないだろう。見たところ心に傷を負った様子がなさそうだ。それだけが救いだ。

 和人は中庭を見ながら妹の短い人生を思った。

 子供の頃に自分のせいで失明した。その時のことは今も自分の傷として残っている。

 あの時自転車で行かなかったら、妹がむずがっても乗せなかったらと何度後悔したことだろう。きっと今とは違う人生が待ち受けていたに違いない。それがよかったかどうか神様にしかわからない。が、結果として修一と出会い、短かかったが幸せな時を得たと思いたい。そして一度は奈落に落ちたが、真一と出会うことで自分の力だけで這い上がった。その人と一緒になり、人も羨むほどに愛されて子宝にも恵まれた。さあ、これからだと言うときに病魔に見舞われた。そのときの気持ちはいかばりだっただろう。妹が不憫で仕方なかった。

 義弟は妹の死を乗り越えたようだ。それを薄情だとは思わない。時が流れ、人の心も押し流されて、いずれ忘れ去られて行く。それでいいのだと思う。時間と言う無限の宇宙の摂理があるからこそ、そうやって割り切り新たな人生を生きることができる。だからこそ、どのような悲しみにも耐え克服して前進することができるだ。

 真一に片付いたと声を掛けられて振り向いた。

 和人が縁側の様子を伺うのを見て、休憩にしたと言った。

 「息子が世話になって悪いね」

 「いいさ。もっとも玻瑠香がいいように使っているけど」

 「そうみたいだね。女房の話では息子もここでは活きいきしていると言ってた」

 苦笑混じりに応えた。

 「今日は僕が手伝わせているけど」

 「ああ、いいように使ってくれ。家じゃ何もしないし、引っ込み思案の内弁慶で困るんだ。少しは耕一のように元気だといいんだがなあ」

 「いやー、あいつは元気過ぎて困る。言い聞かせても聞きやしないから玻瑠香も手こずってる。注意深く見守ってやらないと虐めっ子になるかもしれない」

 「そうだな。今の子は僕らの頃と違って難しいと思う。その点、亜美と修一は優秀だそうじゃないか」

 「まあ、そうだが。修一は僕の真似ばかりして困る」

 「父親が立派過ぎると子供はそれに反発するから気をつけないと」

 「それは義兄さんの方じゃないか」

 「そうかな。それじゃお互い気をつけるということで」

 二人が笑った後、和人は句調を改めて言った。

 「これまで大変だったろう」

 義兄の言う大変とは何かすぐにわかった。

 「遠藤の義父さんと義母さんには要らぬ心配をかけてしまった」

 亜紀方の義父母は喪明けの法要が終わると、娘の思い出が残っているところで住み続けるのは辛いと川越に戻ってしまった。

 「君のお母さんと玻瑠ちゃんにもだろう?」

 「そうだな」

 真一が肯定したように、ここまでやってこれたのは母と養父母それに玻瑠香の励ましや協力あったからこそだと誰もが認めることだ。とりわけ玻瑠香の貢献は大だった。妹がここまでしてくれるとは思いもしないことだった。傷心を癒すための四国遍路の旅に出ることができたのも妹とCOOの原田の存在があったればのことだ。

 「義兄さんにも随分心配をかけてしまった」

 「そうでもないさ」

 軽く否定したが、義弟の有り様をこの目で見、玻瑠香から話を聞いて実際はひどく心配した。彼のことだから、立ち直るのは早いだろうと楽観視していたがそうではなかった。漏れ聞く彼の状態に、酒に溺れてもそれで早く元に戻ってくれるのならそれでもいいとさえ思った。それに依存しなかった代わりに仕事に没頭した。だが、その反動は大きかった。

 父として亡き母に代わり子供達の面倒を見なければならないのだが、実際は育児放棄と取られても仕方のない状況に近かった。甘えたい盛りの子供達も、遊び相手もしてくれない父に不満を募らせているいる間はまだ良かったが、いつ見ても気難しい顔をして口数も極端に少なくなった父に畏怖を感じ始める所まで行き、親子の絆は崩壊寸前だった。もし、ここに玻瑠香がいなかったならば、母や養父母がいなかったならば、子供達から笑顔が失われ精神的な成長に悪い影響を与えたに相違なかった。

 「それより一番大事なときに親父とお袋がいなくて申し訳なかった。真ちゃんを支えるようにと説得しなければならなかったのに、親父とお袋の悄然とした姿を見たら何も言えなかった」

 申し訳ないと頭を下げた。

 「義兄さん、わかっているから。お義父さんとお義母さんのお気持ちはよくわかっているから。だから誰も引き留めなかったんだ。責任があるのは僕の方だよ。一番しっかりしなければいけないのに、子供を放って2月近くも家を空けてしまった。その時のことを思うとみんなに顔向けできない」

 「でもそれで加辺真一は復活したんだろう?」

 真一は大きく頷いた。あの行動がなかったら、恐らくあの不幸な状態がもっと長引いていただろう。

 亜紀の葬儀の後、49日の満中隠まではすべきことが山ほどあったから、日中はそれに追われて気も紛れた。だが、夜の彼は仏壇の前に黙念と座っているか、撮りためた家族のビデオと写真を見て無為な時間を潰すだけだった。

 そうでないときの夜は縁側にぼんやり座り、ここで亜紀と満月を愛でたときのことや蛍の光を目で追ったこと、虫の音に耳を傾けたことなどの亡き妻との思い出に耽った。彼の横には常に妻がいて互いの手を握りあって幸せを心から謳歌した。そのとき何を話したか鮮明には記憶していない。子供達のことか他愛のない話だろうが、彼の人生の中で一番幸せな時間だった。

 亜紀が黄泉の国へ旅立ってからは彼の日常は一変した。笑顔を浮かべることはなくなり、亡妻を頭から追い払うかのように早朝から夜まで仕事に没頭して子供の相手をすることも少なくなった。たまに蝉を獲りに行こうクワガタを捕まえに行こうと腕を取られて強請られても生返事で、フライの散歩に付き合ったときもどこか上の空だった。そこには子煩悩だったかっての父は存在しなかった。

 敏感な子供達にはそんな父の変化に戸惑い、やがて彼らにはそんな父親が近寄り難い存在になっていった。その反動で甘えの対象が父母に、そして母親代わりの玻瑠香に向った。母の記憶がほとんどない幼子にとって、常に傍にいてうるさくはあるが世話を焼いてくれる叔母に甘えるようになるのは必然だった。

 加辺家の当主である盛蔵は、頼りとする真一の腑抜け同然の姿を見て、初めてこの家は亜紀で保っていたことを思い知らされた。

 亜紀と真一は3家族間を取り持つ接着剤であり融和を促進させる触媒だった。その一方を病気で喪した途端、亜紀の父母は49日の法要が終わるを待って身の回りの整理をして川越に戻ってしまった。庸子もいつ田辺へ帰ると言い出すかわからない微妙な状態になった。それまでの均衡が亜紀の死によって不安定となったのだ。それを辛うじて保ったのは子供達と玻瑠香だった。

 真一の悲嘆に暮れる様子に、最愛の伴侶を亡くしたのだから気落ちするのも無理はないと庸子も盛蔵も稲子も同調しつつ、いつかは立ち直ってくれるに違いないと見守っていた。ところが彼らの意に反し、回復するどころかますます自分の殻に閉じ籠るようになった。そんな状況が49日の法要後も続くと家庭にも仕事にも悪い影響が出るのは必然だった。

 仕事の方は同じ代表権を持つ原田に任せておけば安心だったが、問題は子供達の精神面に与える影響だった。母親代わりはいても抜け殻のような父親に代わる者がいなかった。

 見かねた母の庸子が何度も息子を叱った。盛蔵も何度か彼を自室に呼び、子供達をどうするんだ、しっかりしろと叱責した。それでも彼は虚ろな表情のまま心配かけて済みませんと頭を下げるばかりだった。

 盛蔵と稲子はこんなとき耕造が健在だったらと何度思ったことか。耕造であれば彼をうまく叱り諭し励ましたに違いない。彼もまた耕造に心服していただけに素直に耳を傾けただろう。今はどう言い聞かせたところで、彼の内面の問題だけになす術がなかった。

 そんな彼らの中で、玻瑠香だけが微妙な立場になった。

 義姉がいる限り、一人の女として兄の心の中に立ち入ることなど思いもよらぬことだった。あのときも兄への思慕を断ち切るために、卒業を待って外国で建築の経験を積みたいとの理由を設けて出国した。あのままドイツに居続けていれば或いはのところまでいった。ところが、義姉の不治の病いを知り、早過ぎる義姉の死によって思いもしなかった機会が巡ってきた。義姉が占めていた席がすっぽり空いたのだ。

 以前の彼女であれば、義姉の死につけ入り、その席に収まろうとしただろう。だが、義姉のことを尊敬し理解している今は違う。義姉に取って代わろうと思ったことは一度もなかった。

 今も全ての面において義姉にはとても及ばないことを認識し畏敬もしている。

 兄と子供を愛し家族を愛して尽くす義姉と接しているうちに、到底自分に太刀打ちのできる相手ではないと悟った。それに兄がそう簡単に義姉を思い切り、他の人を愛することなどないことも承知していた。それほど兄は義姉を愛していた。だから、母や養父母二人が早く立ち直れと兄を叱責したところで、早々にそれはなるまいと彼女は見切っていた。どれほどの時間が必要かわからないが、今の兄には時のみが唯一の解決法だと見守っていた。そのように理解するようになっただけも彼女は心身共に成長したとも言えた。

 義姉を知るまでの彼女は人を好きになることが愛することで、好きな者同士が結婚するのは当然なことだと思っていた。ところが義姉を通じてそうではないと教えられた。兄夫婦を身近で見て初めて愛とは何たるものかを学習した。だから、義姉が病気療養の床にあったときも、何の下心もなく奇跡でも起きて回復して欲しいと真摯に願うことができた。

 誰かに言われたわけでもなく、急遽帰国したその日から義姉に代わり育児と家事を進んで引き受けた。ときには兄の仕事も手伝いほとんど休みなしに働いた。その時期の彼女が一番多忙だった。

 そんな変身ぶりに誰しもがあの玻瑠香なのかと驚いた。

 それでも、玻瑠香と亜紀には立場の違いで多少は気が楽なところもあった。それは気を使うベクトルだった。

 亜紀の場合、嫁の立場として舅と姑には気を使わなければならなかった。訳あって加辺家の養女になったとは言え、気持ち的には同じだ。ところが玻瑠香から見れば盛蔵も稲子もただの親戚の小父と小母だ。住まわせてもらっているとの遠慮があるが、それだけのことはしているとの自負がある。また、たとい居候の立場であったとしてもそれを斟酌するような彼女ではなかった。そして今は亜紀に代り確固たる地位を確立しつつあった。それについて口に出して何かを言われたことは誰からもなかった。言わせないだけのことを彼女はしていた。


                    (四)


 「どういうこと?本気なの?」

 玻瑠香を自由にしてやりたいとの義弟の発言に杏子は思わず声を荒げてしまった。

 「法事が片付いて落ち着いたら、この家から解放して好きなことをさせたいと思う。何も言わないが、あいつは自由に建築の仕事をしたいはずなんだ。モデルにならないかと誘われても断ったのもそうだ。家事をしながら有名な女建築家になるなどと強がりを言っているが、簡単にそうなれるもんじゃない。才能があっても本人の努力と機会と運がなければ無理だ。それら三つの全てと恋愛をする機会を僕の勝手で奪ってしまった。子供も大きくなったし、お袋もお養母さんもいるから妹がいなくても育てられる。だから、やりたいようにしてやりたいと思う」

 「真ちゃん、いいのか。本当にそれでいいのか」

 義弟の性格からして、いつか彼がそれを言い出すだろうと思っていたが、今それを言うのか。

 彼女を手放してもいいのか。今更それはないだろうとでも言いたげに和人はまじまじと義弟を見て言った。

 「お袋とも相談して決めたことなんだ。それで言い方は悪いがこの家から追い出す。でないといつまでも子離れができなくなる。子供も妹に頼ってばかりになる。それは玻瑠香にもいいことじゃない」

 それで話は打ち切りとばかりに立ち上がった。それじゃ相談も何も、ただの宣告じゃないかと和人と香子は呆気に取られたまま義弟を見送った。


 片付けを手伝っていた美智子が横にいる玻瑠香に小声で声をかけた。

 「お兄さんが法事が終わってから話があると言っているのだけれど、何か聞いていないかしら?」

 「私にも出ろと言ってたけど、用件まではちょっと・・・」

 兄妹同士、玻瑠香なら何か聞いているだろうと思ったのだが違ったようだ。

 「そう、やっぱり」

 珍しく娘婿の口は堅い。再婚のことことかしらと思ったが、まさかねえとすぐさま否定した。娘が死んでまだ2年、あの彼が再婚を言い出すはずがない。馬鹿ばかしいと心の中で否定した。玻瑠香に出席しろと言うのならやはり彼女の今後のことだろう。それなら早い方がいい。

 「玻瑠香さん、片付けが終わったら、少しお話をしたいのだけれど、いいかしら」

 玻瑠香の耳に口を寄せて小声で言った。

 美智子がこんな調子で玻瑠香に声をかけるのは珍しかった。彼女がここで生活していたときでもなかったことだ。何事だろうと訝しく思いながら、玻瑠香は同じく小声で、いいわと応じた。

 食卓を拭いている杏子が僅かに頷くのが美智子の目に入った。

 あらかた片付けが終わったところで庸子に声をかけた。

 「庸子さん、これから玻瑠香さんのお部屋を見せてもらおうと思うのだけれどちょっといいかしら?」

 「ええどうぞ。これでお終いだから」

 庸子の了解を得ると、二人は玻瑠香の部屋へ行った。

 美智子がそこに入るのは亜紀の結婚前のことだから8年ぶりのことだ。

 部屋に入って、真っ先に目に留まったのが額に入った写真だった。それはドイツの何処かで撮ったらしい娘夫婦の家族と一緒の写真だった。映画のサウンド・オブ・ミュージックのような草原の上で座り、アルプスの山々を背にしたものだ。 旅行者か誰かに撮ってもらったものだろう。

 思い思いにVサインや両手を広げ笑顔いっぱいの子供達と庸子を前にして、その背後に真一がいて亜紀と玻瑠香が腕を組んで微笑んでいる。

 写真を見る限り娘が病気だったとは信じられないくらいだ。玻瑠香の屈託のない笑顔からも、このときは彼女も娘が病人だとは気付いていなかったのだろう。箝口令を敷いていたはずなのにどうして娘の病気のことを知ったのか。

 「この時はみんな楽しそうで、お義姉さんに何かあるなんて夢にも思わなかった。今はこれが私の宝物」

 長い間それを美智子が見ている横で玻瑠香は悲しそうに言った。

 その声音で娘の存在が彼女の人生に大きな影響を与え、思いのほか彼女を傷つけていたことを思い知った。美智子は胸が詰まり何も言えなかった。

 部屋の中の印象はこんなに狭かったかしらだった。10畳間でも亜依と亜耶と同居しての部屋は妙齢の女性には余りに狭すぎる。

 長男長女と二男は真一と同じ離れで寝起きしているが、まだ幼い亜依と亜耶だけは亜紀が亡くなった後も彼女が自分の部屋で面倒をみている。稲子からもっと広い部屋に移るよう勧められたのだが、やんわり断わった経緯がある。

 美智子がぐるりと顔を巡らすと、娘が以前使用していた鏡台や家具にベッド、書棚などはそのままだった。その中で目新しいのはドイツの古城の写真が壁に貼られていることや、彼女が在独中に買い求めたらしい西欧の民芸品が古い箪笥の上に幾つか置かれていることだけだった。

 この状況を目にして、全てのことを玻瑠香に押し付け、現実逃避のような形で川越に戻ったことに申し訳ない気持ちで一杯になった。

 「狭いわねぇ。稲子さんにお願いして広い部屋に移ったら」

 「住み慣れたからこの方がいいんです。そのうちに亜美と修一が一人部屋が欲しいと言い出したら、その時に離れに移せばいいと思っているの」

 (と言うことは出て行くつもりはないのね。それでいいのかしら。それとも・・・)

 書棚を見ると育児に関するものが多かった。

 美智子が部屋を眺め回すのを、散らかっていて恥ずかしいわと玻瑠香は赤くなった。

 「仕方がないわ。遊びざかりの子供二人も抱えているもの。玻瑠香さんだからできるのよ」

 「お義姉さんならもっときっちりしていたとおもう」

 玻瑠香はそのことをよく知っている。それもほんの一部だったと知ったのは、義姉が病床から離れられなくなったときだった。

 幼い子供達が病床にある母親の近くにいるのは患者にも子供にも良くないと考えた玻瑠香は末の娘二人の養育を義姉に申し出た。亜紀がそれをありがたく了承すると、机の抽斗から育児日誌と書かれた数冊のノートを出して玻瑠香に手渡した。これを参考によろしくお願いと深々と頭を下げて二人の娘を玻瑠香に委ねてくれたのだった。その時の義姉の心情を思うと今でも胸が締め付けられる。

 玻瑠香は何日にも渡る義姉の書いた育児ノートに目を通した。毎日書かれてはいないが、詳細な記述に圧倒された。

 いつだったか義姉がダイニングテーブルの上でノートに何かを書いていたとき、いつもの家計簿とは違うように思い、それは何と何気なく尋ねたことがあった。だが、ちょっとねと笑って答えてくれなかった。その時は料理のメニューかレシピくらいだろうと深く詮索しなかった。それがこれだったのかとその時にようやく知った。

 そこには授乳状況や体重、離乳食のメニューにその日の出来事、歯が生えてきたこと、はいはいしたことや立ち上がったことなどが、中にはイラスト付きで記されていた。幼児のワクチン接種のことや亜耶が罹った病気のこともこれを読んで初めて知った。その時すぐに気付いてやれなかったことへの反省、病院での処置なども記されていた。

 これがあれば育児未経験の玻瑠香でも参考になる。改めて義姉を尊敬したが、これを引き継いで義姉のようにやれるのかしらと不安になった。

 今は自分のやり方でそれを踏襲している。一度、病床の義姉に見せたとき、これでいいのよと満足そうに頷いてくれたことが自信になった。

 「あのときは私も主人もいたから、亜紀だって子供にかかりっきりでもなかったわ。でも玻瑠香さんの場合、お仕事をしながらでしょう。本当に申し訳なくて足を向けて寝られない思いよ。昨日の晩だって、亜依と亜耶のおしっこに付き添ったでしょう。簡単に出来ることではないわ」

 「だって、あの子たち夜中にトイレに行くのを怖がるからよ。とくに柱時計が夜中にボーンボーンと鳴る音を怖がるの」

 「それはね。でもよく頑張っているわ。娘が天国で感謝していると思う。ありがとう、娘に代わり礼を言います」

 美智子に肩を抱かれ、あまり無理をしないでと慰められると、それまでの思いが堰を切ったように溢れ出し、玻瑠香は小母に縋って子供のようにわんわん泣き出した。

 美智子はそんな玻瑠香を見るのは初めてだった。父の正巳が亡くなったときも涙を見せはしたが、これほど感情を露わにしたことはなかった。これまで負けん気が強く彼女の意地っ張りな姿しか見てこなかった美智子もやはり無理をしていたのだと思い知らされた。

 「ごめんなさいね、玻瑠香さんに何もかも押し付けて」

 美智子は右手で玻瑠香の背中をなでた。

 「辛かった。寂しかった。苦しかった。散々悩みもしたわ。お義姉さんが亡くなって、お兄ちゃんが抜け殻同然になった時、どうしてあげたらいいかわからなくて悩んだわ。正直言って私には荷が勝ち過ぎた。だけど、頑張ってこれたのはお義姉さんの存在があったからなの。お義姉さんに負けないことだけが励みだったの。お兄ちゃんに感謝されなくてもいい、小父様や小母様に認められなくてもいい、でもお義姉さんにだけにはよく頑張っていると褒めて欲しかった」

 玻瑠香は嗚咽を漏らし、切れぎれに心中を告白した。こんな心情を母はおろか兄にさえ吐露したことはなかった。それがこうして義姉の母から認められ慰められて、思わず感情が溢れ出してしまった。

 「玻瑠香さんはよく頑張っているわ。玻瑠香さんでなければあんなにしっかりした子には育っていない。みんなあなたのお陰。玻瑠香さんには本当に感謝しているの。もちろん亜紀だってきっと感謝しているわ。ありがとう。そしてみんな玻瑠香さんに押し付けちゃってごめんなさい」

 「いいえ・・・」

 玻瑠香はハンカチで涙を拭い照れ笑いした。

 「ごめんなさい。見苦しいところを見せちゃって。ああ、すっきりした。小母様、こちらに座って」

 玻瑠香は自分のベッドの掛け布団を剥いで腰を下ろすとに声をかけた。

 ありがとうと応じておいて、美智子はベッドに座らず、その下に正座して玻瑠香に深々と頭を下げた。

 「真一さんも玻瑠香さんも大変な時に川越に帰ってしまってごめんなさい。後のことを全部押し付けて、あなたにも真一さんにもお母様にも加辺さんに対しても何てお詫びしたらいいかわからない。本当にごめんなさい」

 「いいえ、気になさらないで。小父様や小母様のお気持ちは十分わかっていましたから」

 玻瑠香も美智子の前で正座して応えた。が、あの時、自分の娘を亡くした途端、孫を残したまま帰ってしまうなんてと彼らの身勝手な行動を恨めしく思ったのも事実だ。だからこそ私が頑張らなければと自分を奮い立たせてここまでやってきた。

 「それでもお詫びをしたいの。あのときは娘を喪くした悲しみが一杯で、本当は一番悲しいはずの真一さんのことや孫達のことを真っ先に考えなければならないのに、そんなこと少しも頭が回らなくて、亜紀の思い出が一杯詰まっているこの土地から早く離れたいとの思いで一杯だったの。私のことを慮って何も言わなかった夫にも悪いことをしてしまったわ。恥かしくて皆さんに顔向けできずに中々ここへ来ることができなかったの。

 今更だけど、みなさんにお許しをいただけるのなら、法事が終わって落ち着いたら、こちらに戻ってこようと思っているの。少しは玻瑠香さんの負担を軽減できるんじゃないかと思う。許してくれる?」

 「勿論ですわ。子供達が喜ぶわ」

 自分が許す許さないを言える立場にないが、元の鞘に収まってくれるのなら、子供達から少しは手を離すことができて自分も少しは自由になれる。そうすればもっと兄を手伝える。

 「ありがとう」

 玻瑠香が蟠りなく受け入れてくれてほっとした。

 「亜美ちゃんと修ちゃんは小学生で耕ちゃんは幼稚園だっけ。しばらく見ないうちに大きくなったわね」

 「そうでしょう。亜依と亜耶がこの間までオムツをつけていたと思ったらもう4歳半よ。最近では生意気なことばかり言うのよ。この間も私のことを叔母ちゃんなんてふざけて呼んだから、お姉ちゃんと言いなさいってほっぺをつねってやったわ。その日はおやつ抜きよ」

 あらまあと美智子は笑った。

 「それはちょっとあれだけど、間違ったことをしたらちゃんと叱るわよ。でもそれが難しいの。本当のお母さんじゃないから叱るんだと思われてもあれだし、かと言って放っておいて違う方向に行ったらお義姉さんに申し訳が立たないし。だから、お義姉さんだったらこんな時どうするんだろうなって考えてから、叱るときはきっちり叱って、褒めるときは手放しで褒めるようにしているわ。フライを躾けるときと同じね。フライの方がちゃんと言うこと聞くけど」

 「まあ、玻瑠香さんて悪いんだ」

 美智子はほほほと初めて明るく笑った。

 「亜美は子供の頃の亜紀に益々似てきたわね。顔立ちもそうだけど髪を掻き上げる仕草なんてそっくり」

 「そうなの?お義姉さんの小さい頃の写真てあまり見たことがないから」

 「今度見せてあげるわね。修一はどちらにもあまり似ていないかな」

 「そうでしょう、兄にそのことを言ったら、多分生みの親に似たんだろうって」

 ああそうだったと美智子は娘婿が捨て子だったことを思い出した。彼の家族を身近で見てきた彼女にはそれは希薄な事実となっていた。

 「和彦は中学生だっけ。初めて会ったときは小ちゃかったのに、いつの間にか制服を着るようになって。年を感じて嫌んなっちゃうわ」

 十年も年を取ったような言い方に美智子は笑った。

 「私もこんなお婆ちゃんになったのよ。玻瑠香さんは今幾つだっけ?26。あら、まだまだ若いじゃない。それなのにずっと子供達の面倒をみてくれて。誰にもできることじゃないわ」

 一旦そこで話を切って玻瑠香をじっと見つめた。

 「玻瑠香さんとは落ち着いて話す機会がなかったから改めて言うけど、亜紀の介護とあの子達の面倒までみてくれて本当にありがとう」

 美智子は玻瑠香の手を取って礼を述べた。

 玻瑠香はいいえそんなとまた目をうるうるさせた。

 「いいえ、これだけは言わせて。亜紀が病気であの子達が母親に相手をしてもらえず、甘えることもできなかったとき、あなたが森へ連れ出してくれたり、遊園地や動物園に連れて行ってくれたりして元気付けてくれた。亜紀も私もどれほどありがたかったことか。

 亜紀が亡くなってからも、あなたが母親代わりになってくれた。実の妹だって玻瑠香さんのようにはやれやしない。それをいいことに玻瑠香さんの一番大事な時期を無駄に失わせてしまった。これはどんなにお詫びしても詫びきれないわ。お母様に対しても何とお詫びしていいかわからない。本当にごめんなさい。許してね、玻瑠香さん」

 美智子は彼女の手をぐっと握った。

 「いいえ、小母様に礼を言われたり詫びたりされることではないわ。子供達が可愛くて、私が好きでやっていることなの。気になさらないでください」

 玻瑠香には誰にも言えない秘密があった。口外してはならないと言われたわけではないが、自分一人の胸に仕舞い込んでおこうと決めたことだった。

 美智子はありがとうと何度目かの礼を述べていよいよ本題に入った。

 「あのね、玻瑠香さん。これから私の言うことに正直に答えて欲しいの。いい?」

 美智子の改まった言い方に、玻瑠香は緊張した。

 「わかりました」

 何のことかわからないが、少し身じろぎして答えた。

 「それじゃ、単刀直入に訊くわね。お兄さんのこと今でも好きなの?いいえ、愛しているの?。いいえ、否定しても私はあなたの気持ちにずっと前から気付いていたの。だから正直に答えてちょうだい」

 玻瑠香はじっと美智子の顔を見つめた。義姉の母に何と答えていいものか、しばらく返答しなかった。同じく美智子も彼女の瞳を捉えて離さなかった。

 玻瑠香はつと美智子から目を離して下を向いた。

 「亜紀や私を慮って言えないのね。でもここは自分の気持ちを正直に伝えて欲しいの。誰の遠慮もいらない。自分のことだけを考えて答えてくれない。それが本当の気持ちなら、肯定でも否定でも玻瑠香さんの気持ちを第一に尊重するから。だから自分を偽ることだけはやめてちょうだい」

 なお玻瑠香は無言だったが、美智子は辛抱強く待った。答えを聞くまでもなく、彼女の気持ちはわかっていた。しかし、ここは彼女の口から聞かないことには何も始まらないと思った。

 やがて、玻瑠香は小声で呟いた。

 「お兄ちゃんはお義姉さんのこと今も忘れられないから」

 「そんなことはいいの。あなたの気持ちを知りたいの」

 美智子は強い口調で言った。玻瑠香は驚いたように顔を上げて美智子を見た。そして大きく息を吸うと自分の気持ちを告白した。

 「小母様が仰ったように今も兄が好きです。これでも、兄がお義姉さんと結婚してからは想いを断とうとしたんです。だって、兄は心からお義姉さんを愛していたし、お義姉さんだって兄のことを心から信じて愛していることを知っていたもの。それでも未練を断ち切れなかった。

 何も言わなかったけど、お義姉さんも知っていたと思います。そのことを承知の上で、私を実の妹のように接してくれたわ。それが辛くて申し訳なくて卒業と同時にここから離れました。でも、兄のことを忘れることはできませんでした。

 でも、信じて下さい。兄と一緒になりたいとか子供達の母親になろうだなんて思っていません。そんなことを一言でも言ったら、兄が苦しむのを知っているから」

 そこまで自分の気持ちを吐露してから唐突に言った。

 「お義姉さんはずるい」

 「えっ、何のこと?」

 玻瑠香の意外な発言に思わず言ってしまった。

 「子供を押し付けられたことかしら?それだったらごめんなさい。お兄さんと玻瑠香さんを助けてあげないといけないのにみんな押し付けて」

 「そうじゃないの。子供達のことはいいの。なついてくれているし、加辺の小母様や小父様もよく見てくれている。それに母もアドバイスもしてくれるから問題はないの。

 そうじゃなくて、夫婦は山あり谷ありと言うでしょう。それがお義姉さんは谷がなくて山だけを遺して逝っちゃうんだもの。あんなに愛し合ったままで逝ってしまうんだもの。それが恨めしい。それじゃいつまで経ってもお兄ちゃんの心から離れっこないわ」

 ああそうかと美智子も心の中で玻瑠香に同調した。彼らほど互いを信頼し仲睦まじい夫婦は見たことがない。簡単に忘れることはないだろう。親としてはありがたいことだが、でも玻瑠香のためにもいつまでもそうあってはならないと自分を戒めた。

  「ありがとう、正直に答えてくれて。あなたの気持ちを聞いたからにはできる限りのことをするわ。いえ、これは私にしかできないと思う。必ずしも最善の形にはならないかもしれないけれど、少なくても曖昧な形のままにしておかないことを約束するわ。玻瑠香さんの青春をこのまま無為に過ごさせるわけにはいかないもの。これから先のことは私と主人に任せてくれる。決して悪いようにはしないから」

 「お任せします」

 どのようになるか想像も出来ないが、想いを打ち明けたせいか素直に応じることができた。

 「はい、任されました」

 美智子は茶化すように言って、これで話はお終いと立ち上がった。

 「怪しまれるといけないから、お化粧を直してここを笑顔で出ましょう」

 美智子は改めてここに戻ろうと決めた。そのことは法事に来る前から夫と相談して決めていたことだが、玻瑠香の気持ちを確かめたからには、彼女の労苦に報いるためにも子供達のためにも、ひいては真一のためにもできる限りのことはしなければならない。それができるのは亜紀の親である私達しかいない。

 真一の心の内を確かめるのが先決だが、もし彼が同じ気持ちなら彼の母を説得しなければならない。何しろ、倫理や道徳を重んじる人だから骨の折れることになるだろう。それもまた、私達遠藤と加辺の役目だ。

 いずれにせよ、善は急げ、一旦川越に帰る前に、稲子さんとも相談してみんなの前で彼の気持ちを確かめよう。そう美智子は心を固めた。ところが、その機会は意外にも彼からもたらされた。


                  (五)


 亜紀の3周忌の法要には多勢の人が参列した。仏間と10畳の3間の襖を取り払った部屋で僧侶の到着を待つ法事客を見て玻瑠香は、これはお義姉さんの人徳のお陰に違いないと思った。

 義姉が不治の病を患っていると知ったのは月に一度の母への電話をしたときだった。

 会話をしていてもいつになく母の口調が重く会話が弾まなかった。それに家の話題を避けているように感じ、母の声の調子で何かを私に隠していると敏感に感じ取った。

 それより前に不審に思うことがあった。義姉だけが知っている玻瑠香のブログを見て、ときどき感想や意見をメールで送って来るのだが、それが途切れがちになりやがて途絶したのだ。律儀な義姉には考えられないことだった。何か理由があるはずだと、義姉に代わるように告げたとき母が言葉を濁し避けたことも、伺い知れない何かがあるとの心象を強くさせた。

 口が堅い母だったが、誘導尋問と半ば脅して義姉の病気のことを白状させた。私に心配させたくないから、渡独の目的を全うさせたいからと、病気のことを伏せてとの義姉の強い要請だったことも玻瑠香はそのとき知った。

 思いもしなかった事実を知った時、彼女は思わずスマホを落としそうになった。今聞いた母の言葉が信じられなかった。ついこの間元気そうな姿を見たばかりなのに。あれは私を心配させないとの空元気だったのか。

 今にして振り返れば思いあたることがあった。兄と義姉と母だけなら私の様子を見に来るのも頷けるが、幼い子供達まで揃って来るなど不自然の極みだ。とは言え、あのとき義姉が永遠の別れのつもりで来たなど誰が想像するだろう。それでも少し考えれば何かあると悟ったはずだ。久し振りに兄の家族と母に会った嬉しさで我を忘れ、露にもそんなことを考えもしなかった。そんな自分の愚かさを呪った。

 休暇を取り、みんなと一緒に行動している間中、義姉はずっと慈愛のこもった眼差しで子供らを見ていた。私を見る目も何か言いたげで優しかった。そのときに気付くべきだったのだ。何か私に言い置きたいことがあったのだと。 何もその機会があったのにそれを言い出せずにいた義姉の心情を思うと涙が止まらなかった。床にへたり込み膝を叩いて泣いた。本当に私は馬鹿だった。


 玻瑠香はドイツに来て以来、父の葬儀以外帰国せず、建築事務所の業務を通じて建築デザインとランドスケープデザインの修得に努めた。仕事仲間以外の友達を作ることも積極的に行なった。それには左程の苦労はなかった。物怖じしない生来の外交的な気性と彼女の美貌がそれを助けた。言い寄る男は何人もいたが、親密になっても男女の仲になることはなかった。そのことが男の周りの女性を安心させたことで女友達も増えた。彼女らに誘われたパーティーにも積極的に参加してもエスコートにはこと欠かなかった。それらのことはみな経済的な援助してくれている兄と義姉の約束を忠実に履行するためだった。

 そんな努力もあって、兄が驚くほど短期間にドイツ語の習得はもとより英会話も日常会話なら困らないほどに上達した。これからドイツ語で学術論文が書けるくらいになろうと思っていた矢先に義姉の病気を知った。

 それからの玻瑠香がとった行動は素早かった。母との通話が終わる時には帰国することを決めていた。義姉の命に期限があると知った彼女に迷いはなかった。

 動揺している気持ちを落ち着かせ、これから取るべき行動をメモにとると、成田へのフライトの予約を取った。会社に休暇取得を連絡して借りている部屋を丸1日かけて片付けた。この先どうなるかわからないが、ここを引き払う手続きと荷物を送る手配を同僚に依頼した。会社には事情を説明して2週間の休暇をとったが、後日退職願を郵送受理してもらうこととなった。

 帰国後に義姉と交わした約束は私だけの秘密だ。これだけは私の胸の中にしまっておくと決めていた。公表しても構わないのだが、何か打算があってのことと受け取られるのを避けたかった。


 法事客は仏間と和室で幾つかの塊となって僧侶の到着を待った。

 彼らの多くは世間話や久方振りの再会で近況の報告だが、中には生前の亜紀のことや彼女を死に至らしめた病気のことを小声で話す人もいた。

 法事の施主である真一が玄関先で僧侶の到着を待つ間に、玻瑠香は遺児達を伴い塊の間を縫い仏壇の前に正座させた。そして焼香のやり方をして見せた。

 「はいよく見て。ここのお香を摘まんでこうして掲げるのよ。いい?それから指でこするようにして香炉の中にぱらぱらと落として最後にマミーの写真を見てから両手を合わせてお参りするの、わかった?摘んでぱらぱらってするのは一回でいいからね。じゃ、お姉ちゃんからやってみて」

 OJTだ。5歳になった亜美は教わった通りに完璧にやって見せた。

 「それでいいわ。でもね、お焼香は右手でする決まりだから本番のときは右手でね。はい、次は修一」

 次々と子供達にやらせ、まだ幼い亜依と亜耶には手を取って指導した。そんな様子を幾つかの輪は微笑ましく、また幾つかのグループは玻瑠香の母親然とした態度に囁き合った。そんな彼らに玻瑠香は頓着なく焼香する順番を教えた。

 「はい、わかったら着替えに行くわよ」

 玻瑠香は口うるさく彼らを追い立てた。彼女にはすべきことが山ほどあり子供に構う時間が多くなかった。

 10分ほどして真一と僧侶が入室し、陽菜子が淹れたお茶を飲み一服してから仏壇に向き直り読経が始まった。

 そろそろ正座も限界だなと思う頃、盛蔵に促されて真一が焼香に立ち、その後を遺児達が玻瑠香から教えられた順番で焼香に立った。親族の焼香が終わり、焼香炉盆が参列者に回り出すのを見て玻瑠香は台所へ下がった。

 読経の間に女性陣は床の間とそれに続く和室にお斎の膳に並べた。その場所は台所の反対側の南棟なので旅館の宴会さながらに膳を何段も重ねて運び入れても時間がかかった。最後の確認のため下座の位置から50余りの膳を数えて、これだけの膳を設えるためにやり尽くした自分を褒めた。

 床の間の上座の真ん中に僧侶が座り、真一に促されて両脇に佐藤教授と佐川牧師の両夫妻が腰を下ろした。そのほかの客は箸入れに記名された通りに座を占めた。それは修一の7回忌の際に起こった田舎にありがちな上座を譲り合うといった見苦しい混乱ぶりを反省した亜紀が耕造と相談して採った手段だった。以来加辺家ではそれを踏襲し玻瑠香もそれに倣った。

 末席で稲子の横にちょこんと座っている亜耶が「あのちいさいおぜんはなぁに?」と指差して訊いたのは、佐藤教授と佐川牧師両夫妻の横に並べられた2つづつの小さな朱塗りの膳だった。そこに位牌が立てられていて、同じく加辺家の丸に桜の家紋が入った朱塗りの膳やお腕、色鮮やかな模様の皿などの器も全て小ぶりだった。小さな座布団もちゃんと敷かれていて全てがおもちゃのように小さい。しかもその席に誰もいないから、彼女が不思議がるのも当然だった。

 「あれはね、陰膳と言って、亜耶ちゃんのママと亜耶ちゃんが知らないパパの弟と大お爺さん大お婆さんのためのお膳なの」

 稲子は身を屈め、孫の耳元で教えた。

 「かげぜん・・・ここにいないのに?」

 「そう。みんなには見えないけど、ちゃんと亜耶ちゃんのこと見ているからね」

 ふうーんと釈然としない顔をしているが、それ以上訊くことはなかった。

真一は全員が着座したのを確認すると、5人の遺児を手招きして呼び寄せ脇に並ばせた。下座から施主としての挨拶をするためだ。

 「本日はご多忙のところ、亡き妻亜紀の3回忌の法要にご出席いただきましてありがとうございます」

 真一が型通り挨拶をして畳に頭を擦りつけたのを見て、子供達も父親に倣って覚束ない様子で頭を下げた。これは教わっていなかった。

 「正座に不慣れな方もおられますので、どうぞ楽になさってください」

 畳の生活に慣れない外人客を意識しての発言だった。

 「戻っていいぞ」

 子供達は慣れないことをさせられて戸惑っていたが、役目を終えて解放された彼らは一斉に玻瑠香と祖母の元に戻った。

 「月日の経つのは早いもので、故人と森を散歩したり、買い物に行ったり、子供達と一緒に遊んだりしたのがつい昨日のことのような気がしてなりません。

 葬式の時も49日の法事の時も、喪主であり施主でありながら皆様に満足な挨拶すらできず、心配をおかけし誠に申し訳なく思っております。自分の不甲斐なさを恥じ入るばかりです。

 それでも時間とはありがたいものです。完全に癒えたわけではありませんが、ここにこうして皆様の前で故人のことを普通に語り合えるまでになりました。それもこれも皆様の温かいご支援や励ましがあったればこそと深く感謝申し上げます。もちろん、家族にも随分心配をかけ、また助けられました。子供達の元気な姿、家族や同僚の叱咤激励がなければ、ここまで立ち直ることはできなかったでしょう。

 思い返すと亜紀との夫婦生活は6年でしかありませんでした。でも、こうして5人もの子供に恵まれました。私には過ぎた妻であり子供達にはよき母でした。

 でも、子供達は母のことをよく覚えておりません。ですので、こうしてお集まりいただきましたこの機会に、亡き亜紀の思い出話などを語り合っていただければ子供達にはよき励ましや思い出となるものと思います。それにまた故人の何よりの供養になると存じます。

 最後にこれは手前ごとで誠に恐縮ですが、一言言わせていただきます」

 断りを入れて玻瑠香の方へちらりと顔を向けた。

 「故人の徳なのでしょうか、このように多数の方々に列席していただき、またこのように御斎にも大勢の方々にお集まりいただきました。実のところこれらの料理は仕出しにするつもりでおりました。ところが、妹の玻瑠香がお義姉さんは一度だって手を抜いたことがない、そんなことをしたら義姉に申し訳ないと強硬に反対しまして、この度は妹が中心となり、ご近所の方々や同僚、その奥様、陽菜子さんや母達のご支援を得まして、何からなにまで用意してくれました。この場を借りまして方々にお礼申し上げます」

 頭を下げ続けた。

 「長々と埒もない挨拶をしてしまいました。まだ語りたいことはありますが、せっかくの料理が冷めてしまいますので、これで打ち切りたいと存じます。本日はお忙しい中またご遠方にもかかわらず、故人のためにお越しいただき誠にありがとうございました」

 謝辞を述べて深々と頭を下げると佐藤教授が真っ先に拍手をし、それに誘われるように躊躇いがちにみんながそれに続いた。

施主が下がったのを見て、客をもてなす身内の者が膳の内側に座り飲み物を注ぎ始めた。

 真一も銚子を2つ持って中腰で前へ行き、上座中央の僧侶に酌をして読経の礼を述べると佐川牧師夫妻のところへにじり寄り参席への礼を改めて述べた。

 「奥様がお亡くなりになったと知らされた時には、突然のことで家内とそれはもうびっくりしました。お葬式にも参らず大変失礼しました」

 佐川夫妻は頭を下げた。

 「いえいえ、とんでもありません。あのときは落ち着かないこともありまして、喪が明けてからご連絡しようと決めておりました。本日は遠いところからお越しいただきありがとうございます」

 折角の機会ですから、信州観光でもしてゆっくりして下さいと滞在を勧めた。

 「ありがとうございます。ミサが明後日にありますので、後日改めて参ります」

 そうですかと無理強いはしなかった。

 「奥様はよく気がつく方で、手紙とご家族の写真を欠かさず送ってこられて、家内と私はそれが楽しみでした。それもドイツ旅行でのものが最後となりました」

 目線を下に落とししんみりとした口調で言った。

 「そうそう、初めてのお子様が生まれた時も丁重な手紙と一緒に二人の赤ちゃんを抱いたご夫婦とご家族全員の写真が入っておりましたわ。双子だったのにも驚きましたけど、男の子の名前が修一となっていましたから、思わず嬉しくなったのをよく覚えています。それがあんなに大きくなって」

 夫人は庸子と稲子の横に居る亜美と修一を見やりながら言った。2人は小学2年生だ。

 結婚後は庸子に代わり亜紀が写真を送っていたのだが、今は玻瑠香がそれを引き継いでいる。

 「若いのによく気がつく娘さんですわ」

 「仕事をしながら子供達の面倒もよく見てくれています。妹がいたからこそ、私も子供達もこうして元気でいることができました。感謝してもしきれません」

 妹には折に触れて感謝と労いの言葉をかけているが、感謝仕切れるものではなかった。

 佐川夫妻は教授の冗談に加藤と一緒になって笑い声を上げている玻瑠香を見やった。その隣では盛蔵が僧侶から、まあ一献と酒を勧められ、修一と亜紀の話をしていた。

 「息子さんの法事の時は、まだ若いのによく世話を焼いておられて感心したものですが、息子さんのお兄さんと一緒になられたとき、それまでの経緯を披露宴の席でお仲人さんから伺って驚きました。どちらも、若くして亡くなられてお気の毒です。先ほどお経を上げさせていただきながら、その時のことを思い出していました」

 「死ぬには二人とも早過ぎました」

 「全くそうです」

 僧侶は数珠を取り上げると、合掌して波阿弥陀仏と2度念仏を唱えた。

 「今は多勢のお孫さんに囲まれて、盛蔵さんもいい跡継ぎに恵まれましたな。これで加辺家も安泰だ」

 「ありがとうございます。これもみなご先祖様のお陰だと思っております。父耕造が生きていれば、さぞ喜んでいただろうと思います」

 真一は加藤と玻瑠香が次の席に移ったのを見て佐藤教授夫妻の前に胡座を組み酒を勧めた。

 周りは酒が入って料理に舌鼓を打ちながら隣同士、接待役らと話をしている。2年が経ちそこに悲しみの色はなかった。外人席の塊は精進料理についての薀蓄を杏子から聴いていた。日本語に外国語が混じって中々賑やかだ。

 「あれから2年だなんて月日の経つのは早いわね。ついこの間奥様が家を訪れてくれたばかりのような気がして仕方がないわ」

 真一に酒を注がれながら教授夫人が述懐した。

 「そうだったな。盆暮れにはお中元とお歳暮を持ってわざわざ家まで訪ねて来てくれた。いつも手紙が添えられていて、丁重な挨拶と自分達の生活のことが書いてあったな。若いのにそうそうできるもんじゃない。全く君には過ぎた奥さんだった」

 教授も愛弟子には遠慮がない。

 「本当にそう・・・。あんなに早く・・・亜紀さんが可哀想で・・・」

 夫人はハンカチで目頭を押さえるのを、こんな席でみっともないと教授が諌めた。

 それを潮に真一は離れ、法事客に酒を勧めたり勧められたりして、ぐるりと一巡して上座へ戻って来ると、教授はほろ酔い加減になっていた。

 「葬式の時の君の様子にこの先どうなることかと気を揉んだが、今の君を見ていや安心した」

 真一に注がれた酒を飲み干しぐい呑みを膳に置くと、ところでと声を改めて言った。

 「奥さんが病気で亡くなったことは承知しているが、詳しくは知らされてはおらん。もっともあのときはやつれ切った君の姿に尋ねる気にはなれなかった。だが、今となれば話せるだろう。差し支えなかったらそのときのことを話してくれないか。それが奥さんの供養にもなると思うが」

 彼の地声は大きい上に酒も入って声高なので開け放たれた広い座敷でも声が末席まで届いた。

 それまで騒めいていた席がぴたりと止んで緊張で張りつめた。真一が頭を巡らせて座を見ると、コップや杯を手に持って雑談をしていた者も料理を箸に取った人も動きを止めて彼に注目していた。

 いっとき逡巡した彼も心を決めたらしく、すっと立ち上がると下座へ下がった。

急に静かになったのと父が畏まっているを玻瑠香の横で亜依が不思議がって、みんなどうしたのと振り仰ぎ小声で訊いた。

 「パパが亜依のマミーのことみんなにお話しするから一緒に聴こうね」

 玻瑠香は幼い姪の頭を撫でた。彼女も義姉の病床に至る経緯を兄の口からは聴いたことがなかった。

 「私のかっての上司でもあり私達の仲人でもありました佐藤教授から妻の病気のことを聞かせて欲しいとのお話がありました。これまでそのときことは誰にもお話したことはありませんでしたが、妻の供養にもなると仰せですので、この際皆様にもお聞きいただきたいと思います。あ、どうぞそのままお食事を続けて下さい」

 その言葉でぴんと張り詰めた空気が弛んだ。

 口を潤してから話せと義兄に注がれたビールを真一は飲み干し、コップを畳の上に置くと、少し長くなるかもしれませんがと断りを入れて語り始めた。

 「妻の変調に最初に気付いたのは妻の母でした。恥ずかしいことに私は告げれれるまで少しも気付きませんでした。

 子供が生まれてからは母達も交代で食事を作ってくれていましたので、遠藤の義母が昼食の準備にキッチンへ行きますと妻がダイニングテーブルに伏せていて、その横で1歳になったばかりの亜依と亜耶がベビーベッドの中で泣いていたそうです。

 そんな娘の姿をこれまで一度も見たことがなく、子供を大事にする娘なのに珍しいことがあるものだと思いながら、どうしたのと呼び掛けたそうです。すると妻はお腹を押さえて額から油汗を流していました。

 義母が呼びかけても苦痛に耐えている妻から返事がありませんでした。義母は仰天しました。それはそうです。ひ弱そうに見えて彼女はお産以外に医者の世話になったことがないのです。すぐに私の母を呼び、二人で抱きかかえて離れの部屋で休ませました。

 私を呼ばなかったのは、その頃設計コンペの応募締切日が迫っていたことをご存知でしたから、それに配慮してひとまず医者に診せるまで控えようと判断されたからです。

 横になって少しは楽になったのか、疲れが出ただけだから心配しないでと言うのを、母二人が半ば強制的に近くの辻村クリニックで診察を受けさせました。その時の診断は過労からくる胃炎だろうとのことでしたが、念のためどこか大きな病院で精密検査を受けるようにと紹介状を渡されたのです。

 付き添った遠藤の義母と亜紀がクリニックから帰って来たのは夕方近くでした。妻は食事を摂らずに離れで横になり、義母は待ち受けていた私の母に診察結果を知らせました。

 私はそんな大事も知らず、事務所で仲間と打ち合わせをしていました。そこに怖い顔をした母と蒼ざめた遠藤の義母、それに加辺の養母の三人の母が揃って来たのです。そんなことは今まで一度もありませんでした。ですから私は何事だろうと能天気な気持ちで迎え入れました。

 私のところへ来るなり母から叱責されました。

 この馬鹿息子、亜紀さんの具合が悪いことくらい一緒にいて気がつかないのかって。かくかくしかじかで大病院での精密検査が必要だとのことだから、今すぐ精密検査を受けてこいと支持されました。

 まったくその通りでした。母に告げられるまで妻の病気のことに気づかずにいたのです。夫失格だと罵られても返す言葉もありませんでした。

 私は離れにすっ飛んで行きました。妻は蒼白い顔をしていましたが、穏やかな表情で眠っていたので正直ほっとしました。30分ほどベッドの横で妻の寝顔を見ていましたか、母達がそっと入ってきて事の次第を詳しく説明してくれました。

 私は直ちに信大付属病院の消化器外科の大西教授に連絡を取りました。大西教授とは佐藤教授の紹介でご自宅のリフォームの相談に乗った縁がありましたので、教授には消化器内科を紹介してもらうつもりでした。折り返し電話をいただいて、消化器内科の予約を取ったので今からすぐに来いと言うのです。それで、後のことを母達に頼んで用意もそこそこに妻と松本にある付属病院へ向かいました。

 辻村医師の紹介状を一読した教授は、消化器内科の小笠原教授に連絡を取ってこの患者はこちらで診るからと断り、消化器外科での診察となりました。

 電話のやり取りを聞かれたくなかったのか、途中からドイツ語での会話になりましたが、医学用語を解さぬ私でも尋常ならぬ病気のようだくらいの判断はつきました。妻に何の話をしているのかと不安そうに訊かれましたが、専門用語ばかりでよくわからなかったととっさに惚けました。妻についた初めての嘘でした。

 紹介状に何と書かれていたか告げられないまま、問診と触診を受けた後、この際だから全身の検査をしようとの教授の勧めで2日間の検査入院をすることになりました。

 不安そうな妻に、大丈夫だからと元気付けて、妻を病室に残して私は漠然たる不安を抱いたまま家に戻りました。待ち構えていた家族には検査入院をすることになったとだけ告げて、着替えや洗面用具などの入院の用意をして遠藤の義母と病院に舞い戻りました。

 検査結果は2日後の午後3時に知らされることになっていました。ところが、翌日の午後に大西教授からの電話で今から来るようにと言われたのです。家族の誰にも告げずに一人で病院に向かいました。

 病院への車の中で、昨日の教授の態度と突然の呼び出しで楽観的な希望は捨て去りました。どのようなことを告げられても、現実に向き合い出来うる最大限の対処をしようと心の中で決心しました。

 研究室では教授一人が待っていて、現時点までの検査結果の説明を受けました。そして、胃に腫瘍を発見しそれは悪性だと告げられたのです。

 はっきりしたことは明日の検査結果を待ないと言えないが、進行性胃がんを患っていてリンパ節への転移が認められると言われたのです。妻の癌はびまん浸潤型つまりスキルス性胃癌で最もたちの悪い癌なのだそうです。それを聞かされた時、目の前が暗くなって体が急速に冷えるのをはっきりと自覚しました。大丈夫かと問う教授の前で平静を保つのがやっとでした。

 随分前から痛みと吐き気がしていたはずだと言われて、何も気付かずにいた私は、夫の資格がないと言われたようでいたたまりませんでした。実際そうでしたから妻に申し訳なくて涙を堪えるのが精一杯でした。

 スキルス性胃癌だと言われても、普通の癌とどう違うのかお分かりでない方もおられるでしょう。私もそうでした。教授から受けた説明はこうでした。

 『この癌は20代、30代の若年の女性に多くみられ、発見されにくい上に他の臓器に転移しやすいという特徴を持っている。数ある癌の中でも極めて厄介なものだ。と言うのも早期の段階では消化機能にも悪影響を及ぼさないし痛みなどの自覚症状もない。胃粘膜の内側、つまり胃壁を這うように進行するので胃の粘膜も正常だから内視鏡で発見するのはベテランの医師でも難しい。自覚症状が出て腫瘍が発見されたときには、相当進行しているケースは珍しくない。それに、これは一般の癌のように数年がかりで腫瘍が増大するのではなく、わずか数か月で胃の外側の壁を破り、他の臓器へ転移しやすいのもこの癌の特徴だ。

 辻村医師が問診と触診だけでその可能性を疑ったのは相当優秀な医師だからだと思う。私の医局でもそうした診断を下せる医師は多くない。彼の所見があったから注意深く内視鏡観察ができた。明日の検査結果を見ないと正確なことは言えないが、他の臓器への転移も考えられる。そうなると手術をして腫瘍を全て取り除くには遅すぎるかもしれん。

 当病院は医学部の附属病院なので、そのような難しい症例の治療にあたることが本意なのだが、正直言って薬物療法や放射線治療では一時的に抑えられても根治するのは困難だと思う。

 医者であり研究者として忸怩じくじたる思いがあって、私からは言いたくはないのだが、ここまで進行すると手術のような外科的治療を施せば患者の体力を奪いかねない。それに予後の状態も悪くなるだろう。場合によっては死期を早める結果ともなりかねない。

 そこで私の意見だが、当院はがんゲノム医療拠点病院になっているのでその医療の受診を勧めたい。ただし、必ずしもその治療が全患者に適応可能と言うものではない。それに適応可否を判断するためのパネル検査に時間がかかる上に検査費用も治療費も高額となる。もちろん、保険適用ができれば費用も軽減できるし、高額療養費制度を利用すれば一定額に抑えることもできる。それを希望するのなら紹介状を書くし検査の予約とそのための検体を採ってもよい』と言って下さいました。私はもちろんその場でそれを希望しました。

 それからその診療の流れ聴きました。

 一時はそれで希望を見出したのですが、適応の可能性は1割と程度と言われてからは、教授の説明が途中から耳に入らなくなり、モニターに映し出されたCT画像も目に映りませんでした。頭の中が真っ白で、何か他人事のように聞いていたことだけを自覚していていました。

 万一の時の処置として、痛みを抑えながらQLO即ち「生活の質」を維持しながら生活してはどうか。当院の緩和ケアセンターに相談してもいい。ここが遠いのなら緩和ケア病棟がある病院を紹介してもよいと仰って下さいました。

 『当病院では完全告知をする方針なのだが、若いだけにショックも大きいだろうから、君に事前に知ってもらって、患者さんにどのように説明すればよいか来てもらった。明日の報告時間まででいいから、どうしたらいいか知らせるように』と指示されて、放心状態のまま部屋から出ました。妻に会って帰るつもりでしたが、できませんでした。この精神状態で平然とした顔で会う自信がありませんでした。

 車の中でハンドルを何度も叩いて、恥も外聞もなく泣きました。いつも傍にいながら病に気付いてやれなかった自分を責めました。弟に亜紀を幸せにすると約束したのに・・・。代われるものなら代りたいと本気で思いました。責めて責めて責めて・・・。責めたところでどうにもならないことはわかっていました。それでももう少し早く気づいてやったら助かったかもしれないと思うと、取り返しのつかないことをしたと自分を責めずにはおれませんでした。

 目が不自由で幸せだったとは言えない少女期を送り、初めて愛した人に先立たれ、それでも子供に恵まれてようやく人並みの幸せを掴みかかったのに・・・。そんな妻が可哀想で不憫で、牧師さんの前ですが神様の無慈悲な仕打ちを呪いました。

 駐車場で気を落ち着けてから付属図書館に立ち寄り内外の医学書を読み漁りました。書店でも癌に関連する本を読破しました。それで得たものは末期の転移性癌を根治するには神様の温情にすがるしかないとの苦渋に満ちたものでした。

 それから、何度も何度も頭の中で今後のことをシミュレートし、診断結果をどのように妻に告げるべきか、悲観的な結果になったらどうするかも自分の中で決めました。それは苦渋の決断でしたが、妻の苦痛に比べれば些末なものでした。それでもこれから襲うであろう妻の苦痛を自分のことのように分かち合いたかったのです。

私を待っていた家族に無断で外出した訳を話し、大西教授から告げられたことを包み隠さず報告しました。妻にも正直に話すことも言いました。

 家族はみな私の報告に驚き嘆き悲しみそして告知することに反対しました。しかし、最後まで隠し通すことなど不可能なことです。それに、結果はどうであれ、正直に話すことを妻と約束していました。嘘も方便との諺も承知しています。ですが、私を信頼してくれている妻を裏切りたくはありませんでした。最後まで誠実でありたかったのです。

 その時の正直な気持ちは、もし助けることのできない命なら残された時間を妻のためだけに使いたかった。妻が望む通りのことをしてやりたかった。全てを投げ出してでもそうしたかった。それには真実を伝える必要がありました。妻なら過酷な運命に耐えうるだけの精神力を持っていると信じたかった。事実それに耐えてくれました。宣告された余命よりも長く生きてくれたのです。それがどれほど苦しいことだったのか、私と家族はみなよく知っています。妻を敬服し感謝せずにはおれませんでした。私も妻の前では悲しい顔は見せませんでしたし、妻が黄泉の国へ旅立つまで決して涙は見せまいと心の中で決めていました。

 大西教授にはありままを告げて欲しいと電話で頼み、遠藤のお義父さんお義母さんが立ち会うと仰ったのを断り、検査結果説明の1時間前に亜紀の部屋に行きました。でも、いつか妻の顔が見られなくなってしまうかも知れないと思うと、一刻も早く顔を見たいのに中々入ることが出ませんでした。5分ほど躊躇してドアの前で立っていましたか。行き交う看護師さんが変な顔をするので、下腹に力を込めて努めて明るく中に入りました。

 ベッドに横たわる妻は検査前よりずいぶん血色がよくてほっとしました。

子供達や家のこと、仕事のことを話した後、昨日大西教授から呼び出されたこと、そこで告げられたこと勧められたことなどを務めて冷静に包み隠さず話しました。そして国立がんセンターで再受診することも。

 その話をするために早めに行ったわけではありませんでしたが、妻の顔を見ているうちに、教授から告げられるより私から言った方がいいと思ったのです。それは辛い宣告でした。それでも夫である私がすべきだと思ったのです。

 妻は一度も目を逸らさず私の説明を冷静に聴いていました。自分のおかれた運命を静かに受け止めていました。全て伝え終えると『そう、あまり永くないかも知れないのね』とだけぽつりと言いました。

 診察の時の教授の様子で内心覚悟していたのか、取り乱した様子もなく極めて自然で、思わず顔を見つめてしまうほど落ち着いた様子でした。検査結果次第だが、高度医療を受けることも了承しました。皆様の前ですが、それは立派でした。そんな妻の気丈な態度は決して私に真似ができるものではありません。数々の不幸を乗り越えてきたからこそ出来たのかも知れません。

 それから私達は時間になるまで一言も話しませんでした。何か元気付けなければならないのにそれさえもできませんでした。その間妻は何か考えているようでした。恐らく今後の身の処し方を考えていたのでしょう。

 時間が来て、私達は大西教授の研究室へ行き、そこで検査結果の報告を詳細に受けました。それは昨日受けた内容とほぼ同じでした。違っていたのは、幸い痛みが伴う骨への転移はしていませんでしたが、肝臓に転移していることでした。つまりステージⅣの末期のがんで余命は2月と告知されたのです。それにはさすがに妻もショックを受けていました。私もそうでしたが、もう少し長く生きていられると思っていたのです。繋いでいた手をぐっと握ってきましたが、青白い顔をした顔は極めて冷静なままでした。そして教授から高度医療を受けられるよう延命処置として抗がん剤治療と並行して放射線治療を受けるよう勧められました。

 妻はもし高度医療が受けられなかった時の病状の推移を訊きました。教授は少し逡巡していましたが、妻と私の顔を見て、骨への転移がないので痛みの緩和は比較的可能だが、やがて黄疸症状が出て食事も喉を通らなくなり、最終的には昏睡状態になることを説明してくれました。

 妻はそれを聞き、教授の即日入院の勧めも私の国立がんセンターでの受診の勧めも、立派な大学病院で診ていただいたのだからと、きっぱりと拒否したのです。

 根治が望めないかも知れず余命も短いと知った以上、限られた時間を子供達のために有効に使いたい、面倒をかけることになるが動ける間は極力在宅療養をして子供達と少しでも永く過したい、世話になった方々にもそれとなく挨拶をしておきたい、そしてパネル検査の結果を待つ間の元気なうちに子供達と最後の旅行をしたいとの希望だったのです。

 母から子を奪う残酷さを神様に呪いながらも妻の精神力に驚嘆しつつ彼女のためにできることは何でもしようと妻の願いを受け入れました。

 妻の決意と希望を聞いた教授は旅行をするのなら早いほうがいいだろうとそのときの留意事項をメモし、薬を処方してくれました。

 祈るような気持ちで待っていたパネル検査の結果は不適応でした。

 みなさんの中にはやはり他の病院に診てもらうなど精一杯のことをすべきだったと仰る方がおられるかもしれません。私も助けられるものならどんなことでもそうしたかった。欧米の先進的な医療を受けて治るものなら、どんな遠方でも行きました。鰯の頭でも信じれば治ると言われればそうしたでしょう。でも、読み漁った医学書やインターネットでの情報でも大西教授の診断を裏付けることばかりで、希望的な観測すら見出すことはできませんでした。それまでの抗癌剤治療は妻の希望で中止しました。私も妻を苦しめることは避けたかったのです。

 検査結果を受領したその晩、亜紀は布団の中で忍んで泣きました。私は後ろ向きで肩を震わせている妻をそっと抱いてやることしかできませんでした。妻はごめんなさいごめんなさいと私の胸の中で何度も詫びて泣きました。詫びるのは私の方です。気づいてやれなくてごめんと背中を撫でるのが精一杯でした。

 その晩は二人とも一睡もできませんでした。共に無言で、私は明日からのことを考え、妻は自分がいなくなった先のことを考えていました。

 検査入院の後、多忙を極める事務所の仲間には申し訳なかったのですが、これまでの事情を説明しました。みんなは驚きつつ病人を最優先にと理解してくれました。

彼らの言葉に甘えて、子供達のパスポートを取るとすぐに母と一緒にフランクフルトへ向けて旅立ちました。それは亜紀の希望でした。ドイツにいる玻瑠香に一目会いたかったのです。成田へ行く前に川越の妻の実家に泊まり、私と妻は知り合いへ挨拶回りをしました。もちろん病気のことは伏せました。その間、遠藤の父母が子供達をディズニーランドへ連れて行ってくれました」

 ガタンと音がして真一は話を止めた。それは玻瑠香がハンカチを取り出そうとして膳に手を触れてたてた音だった。それであちこちですすり泣いていた声が一瞬止まった。

 「ごめんなさい。あのとき気付いてあげられなくてごめんなさい」

 呟くような小声を聞き取れたのは両隣の亜依とミッシーだけだった。真一は妹から目を外すと話を続けた。

 「一家揃っての最初で最後の旅行は、思い出深いものにしようと準備は入念にしました。ともすれば沈みがちな気持ちになるのを奮い立たせて、始めから終いまで妻と子供を中心にビデオや写真を撮りまくって目に焼き付けました。妻も子供達や玻瑠香の前では明るく振舞っていました。何も知らず、母親と一緒の初めての海外旅行に興奮して無邪気に騒ぎ回る子供達が憐れでしたが、私達の救いでもありました。教授から万一のためとカルテと検査関係のCDを預かっていましたが、幸い痛み止めの薬を使うこともなく旅行中は妻も元気でした。

 妻は妹の玻瑠香に気付かれなかったかしらと盛んに気にしていましたが、私が見る限りではそのような懸念はないようでした。しかし、母はともかく突然のしかも子供達を連れての訪問に疑念を抱いたのでしょう。何故この時期に子供まで連れてここまで来たのかそれとなく尋ねられました。本当のことを言えるわけもなく、母が心配して会いたがったことと子供を見せたかったと適当に誤魔化しました。それが亜紀との最後の旅行となりました。

 在宅緩和ケアサービスを受けるようになったのは、旅行から帰って1月ほど後のことで痛みや嘔吐がひどくなってからでした。家事のほとんどをお母さん方にお願いしていましたが、それまでは、私のことや子供のことを人任せにすることはありませんでした。

 緩和ケアのお陰で、心配していた痛みの症状も抑えられて、亡くなる半月前までベッドから立って子供達の遊び相手もしていました。ベッドから起き上がれなくなったからでも子供達の前では苦しそうな表情は一切見せませんでした。薬で痛みや嘔吐をコントロールしていたとはいえ苦しい時もあったはずなのです。よくここまで辛抱したものだと後日かかりつけ医に驚嘆されたほどにそれは見事なものでした。妻の頑張りには本当に頭が下がりました。

 やがて食が細くなり、栄養補給を点滴に頼るようになると、みるみる痩せ衰え意識も途絶えがちになりました。そして昏睡状態となって静かに息を引き取ったのは未明でした。宣告よりずっと長く生きてくれたのです。子供と一日でも永く過ごしたいとの強い意思がそれに打ち勝ったのだと思います。

 隣のベッドで寝ていた私は、いつも妻が眠るのを確認してから就寝していました。あの日の夜もそうするつもりでした。ところがその夜は、何故か昏睡状態から目を覚まし「私なら心配いらないから眠って」と声をかけられて、嬉しくて一人埒もないことを話して、嬉しそうな表情で目を瞑ったのを見て、この様子なら大丈夫だろうと横になりました。

 未明に小さな声で呼ばれたような気がして浅い眠りから目が覚めました。そっと起き上がって妻の寝顔を見ました。いつもなら妻の方が先に目が覚めていて、苦しい筈なのに気丈にも私の顔を見るとにっこり微笑んでくれたのです。でも、その日は微笑んでくれることはありませんでした。枕元にあるモニターを見なくても息を引き取ったことを悟りました。冷静にその事実を受け入れることができました。苦しい闘病生活だったのに、病魔と戦って家族のために子供達のために精一杯長生きてくれたのです。そして、ようやく背負った重い荷物と苦痛から解放されたのです。感謝することはあれ、これ以上妻に何を求めることがあったでしょう。

 病魔に侵された妻の体は痩せ衰えてはいましたが、死に顔は穏やかで心なしか少し微笑んでいるように見えました。私は感謝を込めて口づけました。次第に冷たくなっていく唇から離れると合掌して、今日まで生きてくれてありがとうと心からの感謝を言いました。不思議と冷静で涙は出てきませんでした。

 誰も起き出していないのか、物音はどこからもしませんでした。妻の細い腕から点滴の針を抜き、様々な医療器具や看護用品を時間をかけて片付けていると掛け時計の時鐘が4回鳴りました。それからみんなに亜紀の死を知らせました。

 死亡を主治医に確認してもらうまでは遺体を動かせないことは承知していましたが、少しでも妻を綺麗にしたかったのでお義母さん方と妹に手伝ってもらい妻の体を拭いました。好んで着たワンピースに着替えさせているときに、あのふくよかだった体が病に蝕まれてこんなにも痩せ細り、こうなるまで頑張ってくれたと思うと、急に申し訳なくなって涙を堪えるのが精一杯でした。妻の母と妹は声を忍ばせ死化粧をしてくれました。

 その様子を長女の亜美がドアの隙間から見ていました。母親っ子でしたから、朝起きた時や幼稚園の行き帰りには必ず母親に挨拶したのです。この日は虫が知らせたのか、普段朝食時間ぎりぎりまで寝ている子が暗いうちに起き出していたのです。私達のしていたことで察したのでしょう、目に一杯涙をためてマミーはと訊きました。ママはたった今天国に行ったよと答えると、わっと母親の体にすがりつき、マミーマミーと大声で泣き叫びました。主治医が駆けつけて死亡の宣告をしたのは6時15分のことでした。

 通夜や葬式の手配、親戚知人などへの連絡は家族がほとんどのことをやってくれました。私は無気力なままただぼっと座っているだけでした。とっくに覚悟ができていたはずなのに、妻が亡くなってみるとその現実に茫然自失のまま何もする気が起きませんでした。会葬の御礼や出棺の挨拶さえどのようにしたか記憶が定かではなく、通夜と葬式の折の無様な姿は皆様がご覧になったとおりです。それでも時間が解決してくれます。今では妻がいない事実にも慣れました。これが妻が亡くなるまでの経緯です」

 真一は終始両手を膝に置いて正座したまま身じろぎ一つせず、時折陰膳に置かれている亡き妻の写真の方向に視線をやるくらいで、感情を押し殺した語り口だった。それだけに彼の亡妻への想いがひしひしとみんなに伝わった。

 亜紀を知る人は途中から嗚咽を漏らしハンカチを取り出した。むずがって祖父母に宥められている子供達の中で、亜美だけがじっと父を見ていた。

 話し終わってもみなが沈黙する中、佐藤教授が口を開いた。

 「成瀬君、ありがとう。悲しい話を無理にさせて済まなかった。ご家族の皆様にも辛いことを思い出させて申し訳ない。お詫びします」

教授は正座して深々と頭を下げた。誰も姓の呼び違いを指摘するものはいなかった。

 「ただ、一言弁明させていただけるのなら、こうしたお斎を含めて法事をすることの意味は、故人の冥福を祈ることはもちろんのこと、こうして故人と関係のあった人達で食事を共にし、悲しい思い出も含めて故人を偲ぶことだと私は思うのです。そして大切な人を失ったことから乗り越え、新たな歩みに踏み出す機会でもあると思うのです。

 愛する人、生活を共にした人を失うことは確かに悲しい。しかし、悲しいからと言っていつまでもその感傷に浸っていていいというわけではないのです。彼には遺児を養育する義務があります。家族を守る責任があります。故人もきっとそれを願い天国から見守っているはずなのです。

 今の彼を見ていると亡き亜紀さんへの想いがまだ完全には断ち切れていないように思います。それは一見美徳のように映る。が、決してそうではない。私も故人をよく存じ上げているが、そのようなことを望んでいるとはとても思えないのです。

 ご住職がおられる場で抹香臭いことを申しましたが、私が言いたいのは、いつまでも過去のことを引き摺っていないで前向きに生きて欲しいということです。

いや、どうも職業病と言いますか、彼と付き合いが古いせいか、つい彼の学生時代のことを思い出して説教口調になってしましました。不快に思われましたならばご容赦下さい」

 最後は笑いながら締め括ったが、冗談めかした結びに誰も笑わなかった。

 なぜ彼に辛い話を敢えてさせたのか、またみんなの前で分別くさいことを言ったのか、その理由をよく理解していたからだ。このような場で直截に彼にそれを言えるのは恩師で仲人でもある佐藤教授しかいなかった。

 御斎が終わると殆どの人が帰ったが、居残っている息子に和雄は言った。

 「何だ、今晩帰るんじゃなかったのか」

 「いや、そうだったんだが、真ちゃんに大事な話があるから残ってくれと頼まれたんだよ」

 和人は頭を掻きかき応えた。

 「そう言えば、家族揃って話があると言っていたな。何だろうな」

 真一の用件を知る者は誰もいなかった。

 「丁度よかった。お前にも相談したいことがある」

 「何だい」

 「まあ、私の部屋で話そう」

 和人は父の後についていった。

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