第十三章 原村

                   (一)


 幼な子二人は広場に来るなり父親の手を振り切り、がに股で走り出した。その横をワンワン吠えながら白黒の仔犬が駆けて行く。

 ベビーカートを引いて彼らの後をゆっくりと歩いてきた亜紀は、広場入口近くにあるハルニレの樹の根元レジャーにシートを敷き腰を下ろした。大きく横に広がった枝には葉が芽吹き始め、枝葉の間から陽が射している。

 両腕を広げ大きく伸びをすると、かすかに沈丁花の甘い香りが鼻腔に入って来た。

 日曜日だけは食事以外の家事を忘れてできるだけ家族と一緒に過ごすようにしている。だが、広場に来たのは久方振りのことだ。来ようと思えばいつでも来れるのだが、家事や育児のことを思うと中々足が向かない。他方夫の真一は毎日のように竹刀しないの素振りと太極拳の型をしているし時間があれば子供達と一緒に犬を連れて森へ来る。その彼が日課の運動を終えて戻って来るなり天気がいいからみんなで広場に行こうと言い出して彼女もその気になった。

 冬枯れで寂しかった広場もシロツメクサが青々としてきて気持ちがよい。その上を1匹の仔犬がワンワン吠えて親子3人の回りを走っている。典型的な家族団欒の光景だ。

 昨日の雨が嘘のように上がり、山桜がちらほら咲き出した。20数年前に耕造が厳選し植樹した数種類の桜も間もなくソメイヨシノから順に開花し始めるだろう。

 家族総出の花見は今や欠かすことのない行事の一つになった。子供が生まれてからは、雛祭りだ、5月の節句だ、七五三だ、誕生パーティーだ、クリスマスだなどと祝いごとができた。

 子供達と亜紀の写真や動画はどれほど撮っただろうか。真一自身定かではない。撮るばかりで整理が追いつかず、ハードディスクに溜まったままだ。

 今は小鳥の囀りと犬の吠え声と子供達の嬌声だけの広場だが、間もなく花見招待客で騒がしくなる。

 普段は宿泊客以外の立ち入りを制限しているこの場所も、桜の開花時期と紅葉シーズン、蛍が舞う期間だけは限られた近隣の住人に限り解放している。今はそれで問題ないが、子供達が成長し友達を連れてくるようになるとそういった制限も困難になるだろう。そう言った問題は夫が上手く取り計らってくれるだろうから心配はしていない。

 今年も花見にこと寄せ、仕事仲間の親睦を兼ねて彼らの家族も招待して花見の会を催す。ただでさえ大変なのにと恨めしく思うが、彼らと語らうことは亜紀も嫌いではないので楽しみにしている。

 今年の料理は何にしようかしらとそんなことを思いながら、子供と夫が騒ぎ回る様子を微笑ましく見守り、大きな幹に寄り掛かりながら至福と思える時を感じ取っていた。

 夫と一緒になって程なくここを離れることもあったが、今は平穏が訪れ子供も5人を得た。彼のおかげで両親も間近にいてくれる。夫の仕事も多事多難だったが、今はまあまあ順調のようだ。これ以上のことを望べば何かのしっぺ返しが来るように思えてブルブルと頭を振った。

 来月に2歳になる男児が彼女の横で、生まれたばかりの姉妹は夫手作りのカートの中でお昼寝中だ。望んだ以上の幸せを感じながら目を閉じた。するとまた晴天の空に一点の雲が湧くような不安を覚えた。何故そんなことを思ったのだろうと不安に思いながら慌てて頭を振った。

 亜紀の3度目の妊娠を知って喜んだのは夫の真一だけではなかった。2度目の双子だと知らされると祖父母達はみな手放しで喜んだ。そして、難産の末、産まれた子が共に女の子だと助産師から告げられると、日頃冷静な稲子が手を叩いて狂喜した。

 それには理由があった。

 長男修一と長女亜美は真一と耕造が命名した。二男も亜紀が亡き義祖父の名の一字をとって耕一と早々に決めてしまった。今度は自分達の番だと真一に申し入れると、初めからそのつもりだったのか、あっさりと彼らの要求を受け入れた。妊婦の亜紀もそれに異存なかった。それはそれでいいのだが、3組もいる名付け親候補にどのような差配するつもりなのだろうと心配になった。ところが、真一は絶妙な案を彼らに提示したのだ。公平を期すために阿弥陀くじで、二人共女児であれば加辺、男児ならば遠藤、女子と男子のときは成瀬の両親にとその権利を付与したのだ。

 そのため、性別の判別ができる時期になっても医者や看護師に理由を説明し、家族にも性別を教えないよう協力を依頼した。よくもまあ頭が回るものだと夫の知恵にほとほと感心したものだった。

 授乳のために新生児室に行くと、乳児の小さな手首に赤とピンクの布が巻かれていた。それは長男長女を出産した時にはなかったもので、二女と三女を区別するために夫がそうしたのだ。

 ベッドに貼られた名札に笑みがこぼれ、すやすや眠っている子の二つの小さな手を取って言った。

 「亜耶ちゃんと亜依ちゃん、誰だってつけそうな名前。見分けがつけられるかしら」

 オムツ替えをしたときに全身を確認したのだが、特徴となるような印はなかった。その解決策として亜衣は赤色系、亜耶はピンク系の衣服で識別するようにした。だが、それはそれで同デザインのものがなくて苦労した。今は母に教わって裁縫をしているが、いつまでできるだろうか。それでも月日が経つにつれて母の彼女だけは泣き声や仕草で判別できるようになった。産みの親とそうでないと人の差なのだろう。それでも亜衣は赤色系、亜耶はピンク系統の衣服で識別するようにしているが、同デザインの物が無くて苦労した。今は母に教わって繕っているが、いつまでそうできるだろうか。

 キャーとの叫び声で物思いから我に帰ると真一が広場の真ん中で「捕まえるぞー」と言いながら、鬼になって両腕を大きく広げて子供達を追いかけ回していた。子供達はキャッキャ悲鳴を上げて逃げ回っている。5年前には想像もできなかった平和そのものの光景だ。

 真一の脚に飛びついてうるさく吠えている白黒の仔犬は雌のボーダーコリーだ。

 その犬は真一が牧場カージファームの加地邸の改装の打ち合わせに行った折に、8匹生まれたから1匹持って行けとそこの主人に半ば強制的に押し付けられた。

 亜紀が玄関の三和土で夫が抱いた仔犬を見たとき、一瞬パンダみたいと思った。

 毛がふわふわして縫いぐるみみたいだ。その犬は後頭部から鼻まで2cm幅で白く、首回りも襟巻のように白い。その他は真っ黒だ。黒毛に紛れてどこに目があるのか遠目ではわからない。その目が不安そうにこちらを見ていてワンとも吠えない。抱かれていてよく分からなかったが、尻尾の先端と足首から下も白毛だった。

 真一がこれを飼うと言った時は、動物好きの彼女にしては珍しく反対した。犬が嫌いではなく、犬が森の中を走り回る姿を想像し、そこに棲む動物のことを心配したのだ。それに盛蔵と稲子への遠慮もあった。

 そんな反対をよそに、真一は猪の出没を阻止できるからの理屈で養父母の了解を取り付けると、放し飼いはしないと約束して飼うことを亜紀に認めさせた。子供も仔犬を触ってパンダパンダと無邪気に喜んでいるから彼女もそれ以上反対できなかった。結局、先住猫がいることを理由に家の中では飼わないことで折り合いをつけた。

 名前は子供向けに借りたDVDの「ベイブ」に出て来た同じ犬種の母犬の名をそのまま借りてフライとつけた。

 現金なもので、真一はその日のうちに犬小屋を作ってしまった。いずれ雑草抜きの代わりに山羊やぎを数頭飼ってフライに面倒をみさせるのだと言う。子供と一緒にそのDVDを観てその犬がボーダーコリーが牧羊犬だとは承知していたが、牧山羊犬にもなるとは知らなかった。

 春の陽気にうつらうつらとしていると、わっ!との叫び声がしたから、びっくりして広場を見ると、夫が仰向けにひっくり返っていた。子供を相手に前向きのまま後退していて何かにつまづいてひっくり返ったらしい。その彼の上に子供達が容赦なく覆い被さりフライが顔をぺろぺろ舐めている。真一は降参降参と万歳しているが、二人は父親の降伏を認める気がなく、交互に父の胸の上にジャンプして、フライが顔をなおも舐め回している。そんな様子が可笑しくて亜紀はお腹の底から笑った。

 やがて、彼は馬乗りになった子供を引き剥がして立ち上がると、再びキャッキャッと叫んで逃げ回る子供達を追いかけ、逃げ遅れた亜美を捕まえるとひょいと肩車した。修一がぼくもぼくもと両手を上げて父親に訴えている。フライも一緒になって彼の脚に飛び付いている。それを遠目で見ていて微笑ましい。修一に後で肩車するからと言い聞かせているらしいことが、こちらにいても見て取れた。何とか息子を納得させると、再び亜美を肩車したままウォーと言いながら芝生の上を走り回った。それを修一とフライが追いかける。

 「パパ、亜美を落とさないでよ。水の中には入らないでね。森へも行っちゃ嫌よ」

 真一がこちらへ走り寄った時に声をかけた。

 「ほい、わかった」

 肩車するのはいつものことで、子供を落としはしないかと危ぶんだものだが、今はそれに慣れた。

 「動物が怖がるからフライを広場から出しちゃ駄目よ」

 夫が躾けているから大丈夫だと思っているが、それでも念を押すことを忘れなかった。いつの間にか放し飼いにしないとの約束は破られているが、抗議はしていない。

 「了解」

 修一が肩車をしてもらいたくて、両腕を上げて「うえー」と叫んでいる。亜美も負けずに「だめっ」と父親の頭を叩いて拒否している。そんな様子が可笑しくて亜紀はまた笑った。

 カートの中で毛布に包まれている2人の乳飲み子の様子を見ていると、修一が「マミー、みてー」と叫んで手を振った。亜紀もにっこり微笑んで振り返した。今度は修一が父の肩の上でご機嫌だ。

 子供にはダディーとマミーと呼ばせているのに彼ら自身はパパママと呼び合っている。当人も子供達もそれをおかしいとは思っていない。

 走り疲れた真一は修一を肩から降ろし、ポケットからテニスボールを出してフライに見せて遠くへ投げた。フライが反転猛ダッシュでボールを追った。亜美と修一はそれを見て手を叩いて喜んでいる。

 教え込んだわけではないのに、その犬種が持つ本能なのか、ボールを見せただけでそれに反応した。フライはボールを咥えて戻ると真一の前にぽとんと落とした。それをまた投げる。また追いかける。修一や亜美が投げても咥えたボールは必ず真一の前に落とす。子供が投げる距離では物足りないようだ。もっと投げろと前足を前に頭を低くお尻を高くしてボールを投げるのをじっと待っている。また投げて戻って来る。そんなことを何度も繰り返すと、走り疲れたのかボールを咥えたまま10mも先で座り込んだまま呼んでも来ようとしなくなった。

 足腰がしっかりしてきたら、フリスビーとアジリティーの訓練をするのだと言っている。いずれは羊を追う訓練をカージファームでするのだと言う。そうなるとますます彼と子供達はこの広場から離れなくなるだろう。亜紀としてはその方が楽なのだが、怪我をしないかと心配になる。子供は怪我をして大きくなるもんだなんて気楽なことを夫は言うが、男親と女親の違いなのかやはり心配だ。

 広場から目を離すとカートの中の端に置いた籠の中から毛糸玉と編み棒を取り出した。

 そのカートは保育士が保育園児を4人乗せて引いているのを真一が公園で見て、それを参考に彼がDIYで作ったものだ。手作りだけあって無骨な作りだが、様々な工夫がなされていて使い勝手がよいと家族の評判も上々だ。

 もう少しで赤色の靴下が編み上がる。もう一足ピンクの物を編まなくてはならない。

 亜紀は時間の経つのも忘れ、編み物に熱中していると、横から突然うわーんと泣き声の斉唱が始まった。

 「あら、目を覚ましたの。じゃ、おっきしましょうね」

 交互に抱き上げてお尻を嗅いだ。オムツ交換の必要はなさそうだ。

 「お腹がすいたのかしら」

 横抱きにしてワンピースの胸襟を開いて乳首を含ませると勢いよく吸い始めた。両方に同時に授乳するわけにはいかないので、左右交互に与えた。母乳の出はよく乳房が張って困るほどだからミルクを飲ませるのは外出した時でしかない。

 授乳を終え子供達を寝かしつけたると、亜紀も心地よい暖かさに眠気を催して再び船を漕ぎ出した。二男の耕一は横でまだ寝入ってピクリともしない。

 この2年、目が回るほどの忙しさだった。子育てもさることながら、勤務中の夫に代わり事務所開設に向けての雑事をこなしてきた。その間にも亡き夫修一の13回忌の法事があり、亜衣と亜耶の出産もあった。その床上げが済むと間もなく二男耕一の養子問題が起きた。2度目となる新入社員歓迎会もつい先日終わったばかりだ。

 真一は妹の玻瑠香が4回生になると同時に家族の前で今年度一杯で大学を辞めることを表明した。建築事務所を立ち上げることを宣言したのだが、誰からも積極的な賛意の声は上がらなかった。特に、何も知らされていなかった真一の父母が強硬に反対した。

 安定した収入があり、工学博士の学位まで取得して教授就任も現実味を帯びて来た。それを棒に振ってまで独立する必要はないのではないか。地位も名誉も得られるかもしれない将来を考えると今のままの方がいいと言うのが保守的な二人の理屈だった。彼ら以外もどちらかと言えば二人の言い分に賛成だった。どうしてもと言うのなら学業と両立はできないのか。現に丹下健三や黒川紀章、安藤忠雄と言った著名な建築家はみなそうしたではないかとまで言ったが、それは自分の主義に反すると真一は首を縦に振らなかった。彼の意志が固いと知ると、亜紀に一縷いちるの望みを託し翻意させるよう迫った。しかし、彼らの期待通りにはならなかった。

 「お父様お母様、私は真一さんの意志に従います。結婚すると決めた時、どんなことがあっても彼について支えると決めました。それに、真一さんの決断と行動をずっと見て来たけれど、一度も間違いはなかったと思っています。今度のことは急に決めたように思われるかもしれないけれど、以前から周到に検討熟慮して決めていたことなのです。ですから、私は妻として夫の思う通りにさせてあげたいのです。

 心配なさる通り、確かに前途多難な道だと私も思います。建築事務所を立ち上げたところですぐには利益は出ないでしょう。それでも私は夫を信頼して支えたいのです。どうか、真一さんの決断を支持して下さい。このとおりお願いします」

 亜紀に頭を畳みに摺りつけられ懇願されると彼らもそれ以上反論はできなかった。

 家族の同意を取り付けると、今年度一杯で退職する意思を佐藤教授と学部長に告げた。予想通り遺留されたが、単年契約の非常勤講師就任を受諾することで了承が得られた。

 それから程なく旧ペンションの壁、間仕切りなどの解体撤去工事が始まった。費用軽減と工期短縮のために柱梁などの軸組みはそのまま利用した。外装を全面薄緑色のガラス張りにすることと屋根に太陽光発電パネルを設置にすることによる強度不足は柱と梁の補強を行い、耐震に対しては耐震壁や筋交の追加などで対処した。

 改築工事完了後、防護ネットが撤去されて外構工事が始まり、駐車場も整備され、空調や照明設備などの内装が終わったのは2月上旬だった。机やテーブルなどの調度品、OA機器、コピー機、プロッターを搬入すればいつでも開所できるまでになった。

 それを待って、真一は家族を事務所を案内した。亜紀と玻瑠香、それに男性陣だけは作業休止時に何度か見学に来ているが、三人の母が中を見るのはこれが初めてだった。

 目の前の自動扉のガラス戸左側の表にバンクミンスター・フラーの言葉 "Don't fight forces, use them." 裏側の右には "諸君、明日はもっといい仕事をしよう" とのアントニ・ガウディの名言がいずれもイタリック体で透明抜きされている。

 真一にさあどうぞと真っ先に案内された稲子は驚いてしまった。目の前の床は汚れ防止用のシートが一時的に敷かれたままだったが、あの薄暗くて狭苦しかったロビーが明るく開放された来客応対場所へと変貌していた。

 照明を点けなくても室内は自然採光だけで十分に明るかった。池側と入口側は樹木が少ないので、太陽光の入射で眩しいときはスイッチ一つで薄グリーンのガラスがスモークすると説明し実演して見せた。

 中に入っても装飾品や机椅子などの家具調度品はなく、がらんとしていた。見学者にはこれが事務所だとの実感が沸かなかった。

 入口カウンターには受付代わりの内線電話を置く予定だと説明し1階から順に案内して回った。

 1階はトイレ、会議室、打合せ室、サーバー室に書庫、喫煙所、旧の風呂場はシャワー室に変え、娯楽室は子供の遊び場に改装しているが、テラスだけは傷んでいたところを補修しペンキを塗り替えるに留めている。

 2階は柱と耐震壁しかないので空間だけが広がっていた。内部はあらゆる変化にも対応するために簡易なパーティションで仕切ると説明されて、彼らも今時はそんなものかと納得して見学会を終えた。

 旧ペンションから建築設計事務所への改築を終えると、義父らを交え行政書士と出資金や定款を定め、真一を代表者に会社名を和名で株式会社シンシュウ・アーキテクツ・アンド・アソシエイツ、英語名をShinshu, Architects & Associates Corporation として法人登録を済ませた。

 各家族の筆頭者が共同出資者として加わり、亜紀も真一名義で自分のへそくりの中から資本金の一部を払い込んだ。だが、彼女は事務所の経営にはタッチしなかった。家事と子育てでその余裕もなかった。とは言え、建築事務所の経営が軌道に乗るかどうかやはり気になった。1年や2年で黒字経営になるとは彼女も思っていないが、せめて人件費を賄えるくらいの受注は欲しいと願った。

 江口夫妻が強引に乗り込んで来たのは2月下旬で、OA機器の搬入が終わってシステム構築の最中の時だった。

 大慌てで彼らの協力を得ながら机椅子テーブルなどを設置して、それなりの事務所にしたのは亜紀だった。ITのシステム構築だけは電気電子工学科の学生の協力を得た。事務所とグリーンハウスのホームページを一新し、真一の意向でWi-Fiのアクセスポイントを屋内外のあちこちに設置したのも彼だった。


 亜紀が編み棒を持ちうとうとしていると、「亜紀さーん」と呼ぶ声がした。その方向を見ると、慶子が手を振りながらベビーカーを押してこちらへ来るところだった。

 江口と中川は恩師夫妻を媒酌人に2年前に結婚し、亜衣と亜耶が誕生した同年同月に長女のめぐみを出産した。

 呼ばれた亜紀も手を振り返したが、彼女の隣にいるはずの江口の姿がなかった。

 「ご主人と一緒じゃなかったの?」

 傍まで来た慶子に声をかけた。

 「そうなんだけど、出がけにお義父さんに電話で呼び出されて彼の実家に行ったのよ。2時間ほど遅れると思うわ」

 「あらそうなの。こちらへどうぞ」

 籠を引き寄せた。

 「編み物?何時見てもじっとしていないわね」

 毛糸の玉を見ながら、ベビーカーを横に置いて亜紀の隣に座った

 「亜耶の靴下なの。まだ始めたばかり。恵ちゃんはお寝んね?」

 「そうなの。出る時はぐずっていたけど、車の中で寝ちゃったわ。毎日大変でしょ、寄宿人がいて」

 「そうでもないわ。ミッシーの時は初めてでお母さん達も緊張していたけれど、今回は普通に接しているわ」

 ミッシーはフランス語圏のスイス女性で、母国とよく似た土地柄の信州大学に留学生として入学してきた。いわば真一の教え子であり慶子の2年先輩でもあった。県外に就職していたのだが、恩師が実務経験者を募集していることを知り応募したのだった。

 亜紀が夫の募集構想を初めて聞いたときは、実績もなく名も知れない田舎の事務所で、労働条件は同業他社と比しても同等以上だと思うが、そのような採用条件をつけて応募者がいるのかしらと懐疑的だった。それが今は二人目が母屋で間借りしているから亜紀にしてみれば不思議な思いだった。

 新入社員をしばらく間借りさせたいと真一が家族に相談した時は、積極的な賛成もなければ反対者もいなかった。だが、その同居者が外人だと知ると、誰もが消極的な姿勢を見せた。特に日常接することが多くなる女性陣が懸念を示した。

 会話はどうするのか、食事はどうだ、生活習慣は問題はないのかと心配した。それを日本語が堪能で日本の生活に慣れ親しんでいるから大丈夫と真一が言い包めた

 初めのうちは互いに遠慮がちだった彼らも日々の経過とともにそんな危惧は解消した。何よりも物怖じしない無邪気な幼児の存在が大きかった。彼らが両者の接着剤の役割を果たしたのだった。

 ミッシーが子供達に話しかけるときは常に英語だった。それは真一の要請によるもので、幼ないうちから英会話に慣れさせるのが目的だった。彼女のフランス訛りのある英語に戸惑っていた亜紀も今は普通に会話が成立できている。

 彼女の入社を期に真一は事務所内の公用語を英語に統一した。英会話が苦手な江口夫妻は会議で発言を求めらるたびに冷や汗をかいたものだが、今では意思の疎通程度はできるようになった。

 今年も即戦力の経験者を1名採用した。今年は3名の応募者のうち面接を経て採用したのは陽気なアメリカ人男性1名だった。

 その彼はアニメ映画で見た日本に憧れ独学で日本語を習得すると京都大学に留学生として入学して卒業後、とある大手建設コンサルタントに入社していたのだが、事務所のホームページで実務経験者を募集していることを知り応募してきたのだった。

 「3食つきで寄宿代が安いんですってね。ミッシーが言っていたわ」

 ミッシェル・ジュノーのことをそう呼んでいる。

 事務所内では皆ニックネームで呼び合うことになっていて、真一も例外ではない。亜紀はそのままアキで、慶子はケイ、彼女の夫がタグ、真一はシンだ。だが、先生と呼びたがる慶子に仕事中はニックネームで呼べと苦言を呈しているが中々直らないでいる。

 「ポールがどこかの部屋を見つけるまでの3月間だけの条件よ。それに家の手伝いをするのも条件だから」

 「今日はどこかへ出掛けているの?」

 「デートだと言って朝早くから出掛けたわ。家にいたら夫にこき使われるから」

 うふふと笑った。

 「ミッシーと?」

 「聞いてはいないけれど、多分そうじゃないかしら」

 慶子は手をかざして眩しさを避けながら池の近くで真一が子供と遊んでいるのを見やった。

 「先生は子煩悩よねぇ」

 「ええ、今はやりの言葉だとイクメンと言うのかしら。よく面倒を見てくれるから助かっているわ。子供好きなのは承知していたけれど、あれほどとは思ってもいなかったわ」

 「だって、亜紀さんの初めての妊娠がわかったとき、夜中に電話がかかってきたのよ。人の迷惑も考えないで」

 「そうだったわね。遅くに迷惑だからって言ったのにあちこち電話をして。でもね、わかる気がするの。玻瑠香さんも言っていたけれど、多分、主人の出生に関係があるのだと思うの」

 「先生の出生に?」

 恩師の出自については、挙式後の食事会の席で本人の口から聞いた。私生活を詮索されるにを嫌う人だけに、自から出生の秘密を公開しただけでも異例なことなのに、まして、その内容ときたら。そんなことは小説かドラマの中だけのことで、捨て子だの運命的な出会いだのが現実にあるのかと衝撃を受けたことを今でも覚えている。

 結婚してから夫が話してくれたことだけれどと亜紀はゆったりとした口調で語った。

 真一は自分に兄だか弟だかがいたと確信すると、離ればなれに育てられたのは何故だろうと疑問を抱いた。その理由は幾つか考えられたが、まさか捨て子だったとは想像もしていなかった。しかも、生みの親は一度も会いに来た形跡がないという。それだけの事情があったのだろうが、裏を返せば二人とも望まれずに産まれたと言うことだ。親の愛情はおろか自分達の成長さえ一顧だにされなかったとの事実が彼を深く傷付けた。

 どのような事情があったか知らないが、人として許されるものではないと内心憤いきどおった。そして、自分の子には決してそのようなことはすまい。最後まで責任を持ち、愛情を持って育てようと心の中で誓ったのだ。

 陳腐な誓いだけどねとべッドの中で夫が寂しく笑ったのが亜紀にはとても印象深く心の中に残った。そんな夫を愛おしく不憫に思ってしっかりと抱いた。

 「なるほどね。いかにも先生らしいわ。私ならもっとショックを受けていたと思う」

 「血を分けた家族と言えるのは修一さんしかいないでしょう。それだって会えないまま死んでしまって両親もわからず仕舞いだから血縁となる家族がいないわけ。だから余計に自分の家族が欲しかったのだと思うの」

 「それだって玻瑠香さんやご両親がいるわけでしょう」

 「それはそうだけれど、それと知った時に急に一人ぼっちになったように感じたらしいわ」

 「産みの親は未だに会いに来ていないの?」

 「そうみたい」

 「牧師さんのところへも行っていないのかしら?」

 「そうだと思うわ。今更隠す必要がないもの」

 「それはそうね。それにしたって産みの親のことが気にならないのかしら?」

 「口には出さないけれど、気にしていると思うわ。会えるものなら一度会って安心したいと思っているはずよ。子供だって見せたいだろうし」

 「先生のことと言い亜紀さんのことと言いつくづく不思議だと思うわ。だってそうでしょう。もし、亜紀さんが研究室を訪ねて来なければ、私はここにいなかったし、ペンションの設計がなければ達也とだってどうなっていたかわからないわ。いわば、亜紀さんが私達の縁結びの神様だったのよ。ありがとうございます」

 「どういたしまして」

 慶子のわざとらしい馬鹿丁寧な礼に亜紀は苦笑して応えた。

 「それにしてもいいお天気ねえ」

 慶子は手を翳して空を見上げた。雲が少し出てきているが、晴天と言ってもいいだろう。

 「休みの時はどうしているの?先生のことだから、難しい本を読んだりデザインのことばかり考えているんでしょ?」

 「そう思うでしょう。ところがそうでもないのよ。土曜日は出版社から頼まれた紀行文や難しい本の執筆していることもあるけれど、日曜日は今みたいに仕事のことは一切しないわ。それはもう見事なくらい。犬の散歩したり、子供の相手をしたり、ペンションを手伝ったり、必要があれば作業小屋で農機具の整備や木工作業をしているわ。子供が玩具を与えられたみたいに嬉々として」

 「そんな生活がしたかったのね」

 「多分ね。今もポールに手伝わせて遊歩道の整備やベンチの補修をしているわ。あ、そう言えば、巣箱を30個掛けるんだって子供達と夢中になっていたけれど、もう終わったのかしら?」

 亜紀は目を森に巡らせた。

 静かだわねと思ったら、遊び疲れたのか、真一と子供達はいつのまにか日影で横になっていて、フライもその横で四肢をコの字に伸ばして寝ていた。風邪を引かないかしらと気になったが、この陽気なら大丈夫だろうと顔を戻した。

 「先生、森が好きですものね。お昼休みの時間によく行っているわ。この前は亜美ちゃんと修ちゃんを連れていたし」

 「でしょう。同居したのだって、本当は森を歩き回りたいからじゃないのって冷やかしたら、はははと笑って否定しなかったわ。冬の寒いときだって歩き回っているから彼には季節は関係がないみたい。大お爺さんが亡くなってから、今では一番森のことに詳しいんじゃないかしら」

 耕造が亡くなって3年半が経った。今も修一と耕造のどちらかの月命日の墓参は欠かしたことはない。

 「もう、そんなに経つのね。時が経つのは早いわぁ」

 「そうね、色々あったから。ご存命だった時は、大お爺さんの部屋からよく二人の笑い声がして楽しそうだったわ」

 あの頃が一番大お爺さんの幸せな時期だったのかもしれないと思った。そうだとしたら余りにも短い時間だった。あのことさえなければと時々思う。

 「お葬式の時は亜紀さんもそうだったけど、先生も随分肩を落としていたもの」

 確かにあの時は悲しかった。恥も外聞もなく遺体に縋って泣いた記憶がまだ残っている。義祖父がいなければ今の幸せはなかっただろう。

 「ああ、そうだ。今晩食事をして行くでしょう?その用意はしているの。玻瑠香さんがいないから、慶子さんがお手伝いしてくれたら嬉しいわ」

 慶子の気持ちに負担をかけないように手伝いを理由に誘った。

 「ありがとう、そうしようかしら。1食分助かるもの。そうそう玻瑠香さんと言えば、元気にしているの?」

 「ええ、頑張っているみたい。毎日ブログを更新してくれるから様子が手に取るようにわかるの」

 「へえ、そうなんだ」

 「でも、夫に言っちゃ駄目よ、二人だけの秘密だから」

 口にチャックをする真似をした。

 義妹が旅立つ時に、向こうに着いたらブログを立ち上げるから暇な時に見てねと言われていた。亜紀も時々こちらの動向をメールで送っている。これが夫に対する唯一の秘め事だった。

 「わかったわ。それでボーイフレンドができたって?」

 女性だけあってそれが気になるらしい。

 「美人だし、あの性格だから男友達は大勢できたみたいだけれど、恋人と呼べる人はまだみたい」

 「玻瑠香さんならすぐにできるわよ。それにしたってドイツへ行ったと聞いた時は驚いたわ。ここに残るもんだとばかり思っていたのに、まさか外国へ行くなんて想像もしなかった」

 それはそうだ。亜紀だってそんなこととは思いもしなかった。

 玻瑠香は信州大学の卒業式を終えると、翌々日の夜に成田を発った。

 彼女がいた時は家の中は賑やかだったが、旅立ってからは静かになった。亜紀にしても義妹がいなくなって彼女の存在の大きさを知った。自己中心的な面はあったが、彼女がいるだけで家の中が明るくなったし、家事もよく手伝ってくれた。子供達もよくなついて遊んでくれたし、一時感情的な軋轢はあったが、義姉として自分を立ててもくれた。彼女には感謝しても仕切れないくらいの思いがあった。だから、義妹のいない部屋を掃除したとき、心の中がぽっかり穴の空いたような寂しい思いをした。

 「私もね、3年生後半になっても就職活動らしきことはしないから、うちの事務所に入るつもりなのかしらなんて気にはしていたの。夫も玻瑠香が頼みに来ても、試験に合格しなければ入れないなんて言っていたから、まさか外国へ行くつもりだなんて思ってもいなかったみたい」

 「いかにも先生らしいけど、心配だったでしょうね」

 「そうなのよ。口では突き放すようなことを言っているくせに、卒業したらどうするつもりだとしつこく訊いたりなんかして。それが、4年の前期試験が終わった時に私のところへ来て、アメリカで建築デザインの勉強をしたいなんて言い出すでしょう。それはもうビックリして、どうしてって、留学するつもりって訊いたわ」

 「それはそうよ。そんな所まで行かなくたって、すぐそばにいい先生がいるもの」

 「でしょう。そうしたら、若いうちに外へ出てもっと勉強をしたいと言うのよ。それも留学するのじゃなくて自活しながら学びたいって。それで、一緒にお母様を説得してくれないかって頼まれたの」

 玻瑠香にとって難敵は心配症の母の庸子だった。兄の真一のときもそうだった。母の頑な拒絶でドイツ行きを阻止され、出世の道が閉ざされた経緯を玻瑠香も間近で見てきた。

 そんな姑だが、小姑である娘にも自分らへも真摯に向き合ってくれる亜紀に対する信頼は厚かった。

 「へえ、お姑さんに信用があるんだ。でも、それもわかるような気がするけど」

 慶子も女の子はこうあるべきとの昔風の考えを持つ玻瑠香の母のことはよく知っている。

「それはどうかしら。でも、何故か耳を傾けて下さるわ」

「それはお姑さんに尽くして玻瑠香さんのこと真剣に心配してくれるからよ。それで、すんなりOKしてくれたの?」

 とんでもないと大きく手を振って言った。

 「ほら、夫は開明派でしょ。見聞を広げることはいいことだと賛成して、アメリカより色んな国を見て回れるヨーロッパがいいんじゃないかと、夫の紹介でドイツの事務所で働くことまで決まっていたの。ところが、お義母様が難色を示されて中々うんと仰らなかったの。だって若い娘の一人旅でしょう。生活はどうするんだとか、病気になったらどうするとか、娘は突飛な行動をするから心配だとか、変な男に引っかかるんじゃないかって、心配したらきりがないのだけれど、聴く耳は持たないって感じで・・・、うちの母や加辺のお養母さんまで巻き込んで、それはもう大変だったわ」

 慶子も小学生だった時に父親から離され、母親の手一つで育てられてきた。それだけに、一児の母となった今、玻瑠香の母親ほどではないにしてもその気持ちが理解できるような気がした。

 慶子はそれでと先を促した。

 「玻瑠香さんなら大丈夫ですと太鼓判を押したの。あんな風だから誤解されやすいけれど、意外に身持ちは堅くて自分を大事にする人なの。だから、軽率なことしないだろうことはわかっていたわ。でなければ私だって無責任に後押しなんてできないもの。最後には主人と私が生活面についての責任を持つからと説得して、3年後には必ず日本に戻って来ることを条件にやっと承諾していただいの」

 難関だった母親の許可を得て玻瑠香はほっとしたが、行く以上はドイツ語だけじゃなく英語もネイティブ並みになれと兄が条件をつけた。

 「それは大変ね」

 「それ以外にも、資金面の援助をする代わりに色々条件をつけたのよ。積極的に人に交われとか、月に一度はクラシック音楽を聴きに行くとか、美術館や博物館巡りをするとか。時間のある限り、色んな建物を見て見聞を広めるようにって」

 日頃、学生や部下に向かって彼が口にするのは建築家は芸術家ではないだった。人と同じでなくてもよいが、目立とうとして奇をてらった設計はするなと言った。それでも、そう言ったものにも造詣を深めれば後々自分の役に立つというのが彼の持論でもあった。

 「そして月に一度はお義母様宛にメールではなく自筆で手紙を出せでしょう。そばで聞いていて玻瑠香さんが気の毒になったわ」

 慶子はふっと息を抜いた。

 「私一人っ子で育ったでしょう。いいお兄さんとお義姉さんがいて玻瑠香さんが羨ましい。亜紀さんも何か条件を付けたの?」

 「私は一つだけよ。お義父様と義母様を悲しませることや自分が後で後悔するような軽はずみな行動だけはしないでって、それだけを約束してもらったわ」

 慶子も亜紀が言った真意はわかったが、束縛から解放された彼女がそれを守るのは難しいんじゃないかと思った。

 「それにしても、外国だなんて思い切ったことをしたわね。てっきり健吾と付き合うんじゃないかと思っていたのよ。いい感じに見えたのに、どうして駄目だったのかしら。見てくれはあれだけど、面倒見が良くて男らしいところがあるから、意外に女の子にはもてるのよ。玻瑠香さんより背が低いせいかしら」

 「まさか。そんなことはないわ」

 亜紀は一笑に伏した。

 玻瑠香は日頃そのようなことを公言して憚らないが、それは男を寄せ付けないための方便で、それで相手を選別するような義妹ではないことは日常接していてわかってきた。個人的には亜紀も加藤と一緒になればいいのにと思っているのだが、本人がそう思わない以上、こちらから押し付けるわけにもいかないし干渉するつもりもなかった。

 亜紀がそれとなく観察した限りでは、玻瑠香も加藤を嫌っている風ではなかった。誘われて都合がよければ彼が迎えに来て一緒に出かけていたし、彼の実家にも時々泊ってもいる。だから、二人が一緒になることについては何の障害がなく時間の問題のように思っていた。だが、結婚を前提に付き合っているとの話は耳にしたことがなかった。もしそうであれば、真っ先に義妹が報告してくれるはずとの確信があった。だから、まだそのような関係には至っていないのだろうと彼女なりに判断していた。

 そうこうしているうちに彼らは疎遠になった。加藤の多忙がその原因だった。

 加藤も現場に出て2年にもなると責任ある仕事を任されるようになった。それに伴い休日が思うように取れない状態となった。 それにまた自尊心の強い玻瑠香は自分から誘う方ではなかった。そうしなくても男が寄ってくるので、その必要もなかった。加藤に代わる男は何人もいた。

 気になって、特定の男性はいるのかと尋ねたことがあった。その時は玻瑠香はまさかと笑い飛ばして、そうなったら真っ先にお義姉さんに報告すると言ってくれたので安心したものだ。心配性の庸子にもそのことを報告していた。

 そのときの玻瑠香が亜紀へ自嘲気味に曰く、男と接する時には注意を要するのだと言う。こちらにその気がなくても自分の容姿が同性を警戒させるのだと。そのためにその男の彼女から痛くもない腹を探られたり恨まれたりするのは嫌だし、それを避けるために一々付き合っている人はいないのかと相手に確認するのも変だし鬱陶しい。だから一期一会の付き合いしかできないのだと。なるほど美人ならではの悩みごとがあるものだと妙に感心し納得させられた。確かめはしなかったが、ひょっとしてそんな嫌な体験があったのかしらとそのときは思った。


                   (二)


 玻瑠香の外国暮らし騒動云々より少し前、加藤から亜紀に相談を持ちかけられたことがあった。先生には内緒で相談したいことがあると電話がかかってきたのだ。

 結婚後も加藤との付き合いは浅くはないが、それは夫を通じてのことで、彼の電話を直接受けることはなかった。

 夫にも言えない相談事なら用件は玻瑠香のことだろうと見当をつけた。それくらいしか自分のところに来る理由が思い当たらなかった。

 時間通りに来た加藤を滅多に使うことのないダイニング北側の部屋に通した。ここもリフォームのときに障子を張り替え、畳表と照明を取り替えたくらいで殆ど手を入れていない。

 加藤は通された薄暗い部屋で正座をしたまま周囲を眺め回しながら手持ち無沙汰に亜紀が来るのを待った。屏風と和箪笥が隅に、座卓が真ん中に置いてあるだけの殺風景な部屋だが、事前にオイルヒーターのスイッチを入れていたのか寒くなかった。

 すっと障子が開いて、湯呑みとお茶受けのお菓子が入った器をお盆に載せて亜紀が入って来た。

 「ごめんなさい、こんな部屋で。でも、ここなら誰にも邪魔されずにゆっくりと話せるわ。こんなものしかないけれど、どうぞ」

 「いいえ、とんでも・・・。それじゃ遠慮なく。あの・・・、玻瑠香さんと先生は?」

 恐縮しつつ和菓子を一口頬張って尋ねた。

 「玻瑠香さんは朝からお友達のところ。主人は子供と森に行っていて、すぐには帰って来ないから大丈夫よ。どうしたの、思い詰めたような顔をして」

 亜紀も彼には気やすく口がきけた。そんな軽口にも、いつもにこにこしている彼が珍しく真顔だ。

 「済みません。忙しいのに」

 正座したまま言い辛そうにしているので水を差し向けた。

 「いいわよ、他ならぬ加藤さんのことだもの。相談って玻瑠香さんのことかしら?」

 余程話しにくいことなのか中々言い出さなかった。加藤にしては珍しいと思いながらもう一度訊いた。

 「玻瑠香さんのこと?」

 「そうです」

 「それでどうかしたの?」

 「何か聞いていませんか?」

 「加藤さんのこと?いいえ、何も聞いていないわ」

 事実、彼に関して義妹は何も言っていなかった。

 「そうですか。・・・実は2週間ほど前に玻瑠香さんにプロポーズしたんです。卒業したら結婚してくれないかって」

 ええっ!と遠慮なく大声を出して慌てて口を押さえて周りを見た。が、この時間近くに誰かがいるはずもなかった。

 「それはまた性急ね。本当なの?」

 そんな大事なこと、自分にも相談してくれなかったことに、まだ義妹に信頼されていないのかと少し落胆した。

 はいと答えた彼は下を向いたままだ。その態度が玻瑠香の答えを端的に示していた。それでも念のために訊いた。

 「それで玻瑠香さんは何て?」

 「断られました。僕のことは嫌いじゃないけど、結婚までは考えていないときっぱり」

 相手を断る時の常套句だが、装飾のない直截的な言い方は玻瑠香らしいと思った。

 「忙しくてあまり会う機会はなかったけど、これまで結構いい雰囲気だったから、考えさせてくれくらいの返事は期待していたんです。でも駄目でした」

 「何故なのか理由を訊いたの?」

 彼からどのような答えが返ってくるのか胸がドキドキした。

 「訊きました。だけど、今は結婚なんか考えらないとの一点張りで、早過ぎるなら待つからと言っても、それは負担だと言われました」

 何かすっきりしないが、亜紀はほっとした。

 「それで私に何を相談したいの?加藤さんのこと私は好きだし夫とのことでも世話にもなったから、できることはしてあげたいけれど、玻瑠香さんの翻意を促すことを私に期待してもそれは無理よ」

 亜紀は機先を制して言った。実際、自分でなくとも彼女を翻意させることは難しいだろうと思った。

 玻瑠香からそんな風に断られて、自分に仲介を頼んだところで無駄なことは彼でもわっているはずだ。それなのに何を相談したいのか亜紀にはわからなかった。

 加藤は尚ももじもじして何か言いにくそうにしている。そんな彼を一度も見たことがなかったから、不思議に思って彼を見詰めて待った。

 加藤は頭を上げると吐き出すように言った。

 「やっぱり、彼女はまだ先生のことを思い切れていないのでしょうか?」

 予想外の発言に思わず息を飲み込んだ。加藤がそのことを知っているとは想像もしていなかった。虚をつかれた思いがした。

 亜紀の驚きように加藤の方がビックリしてしまった。先生のことだから、そのことも話した上でプロポーズしたと思い込んでいた。

 「あのう、ひょっとして玻瑠香さんの気持ちを知らなかったんですか?」

 亜紀は慌てて手を振った。

 「いえ、そうじゃないのよ。そうじゃなくて、加藤さんがそのことを知っていたことに驚いたのよ」

 加藤は飛んでもない失言をしたのかと肝を冷やしたが、そうではないことを知ってほっとした。

 「驚かせて済みません。実は・・・」

 亜紀が淹れてくれたお茶を一口に飲んで、兄の婚約を知って玻瑠香が荒れた日のことを話した。

 「そう、上高地へ一緒に行ったとは聞いていたけれど、そんなことがあったの」

 あの自我の強い義妹が他人に胸の内を曝け出したのは、よほど兄の結婚話が衝撃だったのだろう。

 「今更だけれど、あの時はありがとう。加藤さんのお陰で玻瑠香さんも落ち着くことができて何事もなく済んだわ。主人も加藤さんには感謝しているのよ。加藤さんが相手で本当によかったって」

 その時のことを思うと、加藤に感謝してもしきれない。彼のためにできる限りのことをしてあげたい気持ちで一杯なのだが、人の気持ちばかりは彼女でもどうしようもなかった。

 「そのように言っていただいて光栄です。あの時は玻瑠香さんのことを知れて嬉しかったんです。ひょっとしたら玻瑠香さんにとって僕は特別なのかなあって勝手にいい方に解釈して一人相撲を取っていたんだから馬鹿みたいです。

 それでどうなんでしょうか。亜紀さんから見て玻瑠香さんの心変わりは難しんでしょうか?」

 ここで初めて彼の訪問目的を理解した。

 そうねえと亜紀は考え込んだ。

 自分達の前ではもう何でもないかのように振舞っているが、義妹の気持ちが今も夫に向いていることも、懸命に気持ちを抑えて健気に克服しようとしていることも痛いほどわかっている。それだけに、彼女のためなら何でもしたい気持ちには変わりがない。だからと言って、こうして夫と一緒になった以上、彼女の気持ちに応えさせてあげることはできない。目の前にいる加藤が夫になり代われそうでないのなら、義妹には一刻も早く相応しい相手を見つけて欲しいと願うしかなかった。

 そんなことを自分が心配しなくても彼女がその気になりさえすれば男には事欠かないだろう。ところが、兄を慕うあまり彼女自身バリアーを張っているようなところがあって、男を寄せ付けない雰囲気を自ら醸し出している。それを振り払う白馬の王子様がいればいいのだが、未だ現れていないようだ。これが童話ならどうとでも創作できるのにと思ってしまう。

 そんな玻瑠香に加藤は積極的に近付いた。彼の前向きな性格かそれとも盲目の恋がそのようにさせたのか、亜紀が承知している限りでは、彼女の心の内に最も接近したと思われる男性は彼だけだった。ひよっとして彼が義妹の相手になるのではと密かに期待していた。しかし、今の話ではそれも期待外れに終わりそうだ。他人がどうこう言って男女の仲が発展するものではない。彼女自身の解決に委ねるしかない。かっての自分がそうだったようにまだ時間が必要なのだろう。一見見放すような考えだが、それが一番の解決法だと思った。

 「加藤さんが指摘したように、玻瑠香さんの気持ちはまだお兄さんの方に向いているようね。私にはそんな素振りは微塵も見せないけれど、毎日接している私にはそれがわかる。いつかそれも解れる時が来るでしょうけれど、私の経験から言えば、まだ時間が必要だと思う。それがいつまでかはわからないけれど、それまで加藤さんが待てるかどうかね」

 心を鬼にして言わせていただければと断って言った。

 「できれば加藤さんには待って欲しくない。諦めてなんて言うつもりはないけれど、待つことができたとしても、その時に玻瑠香さんの気持ちが加藤さんに向いているかどうかわからないもの」

 加藤の良さを真に理解するには、彼女の若さが邪魔をしていると亜紀は思った。しかし、それは言わなかった。言ったところでそれは詮ないことだった。

 信頼する亜紀からから駄目出しされた格好の加藤は声もなかった。そんな彼を彼女は憐憫の目で見た。それからは当たり障りのない改築中の建築事務所の話をして消化不良のまま帰って行った。

 「へえー、健吾と玻瑠香さんの間にそんなことがあったの。知らなかったわ」

 「夫に話しちゃ駄目よ。玻瑠香さんのこととなるとお義母様以上にナーバスになるから。それにほら、個人的な話にうるさい人だから」

 「それはそうね」

 屈託なく笑い合っていると、横から突然「かとちゃん、すきー」と可愛い声がしたから飛び上がってしまった。

 「わぁーびっくりした。亜美ちゃん、いつの間に来ていたの」

 話に夢中になって、亜美が来ていたことに気付かなかった。

 「いまー」

 「亜美ちゃん、健吾がかとちゃんだって知っていたの?」

 「うん」

 「どうしてかとちゃんが好きなの」

 「おもちろいから」

 玻瑠香目当てで加藤が来たときは、鬼になったりお馬さんになったりして相手をしてくれるから、子供達の人気者で何が可笑しいのかいつも笑い転げていた。

 「へえ、おもしろいの。健吾は適齢期の女性にはいまいちだけど、年配の人と小さい女の子にはもてるのね。しばらくしたら、『あみちゃん、かとちゃんとけっこんするー』なんて言い出したりして」

 「そうしたらあの人慌てふためくわよきっと」

 「そして、お出入り禁止にしたりして」

 「そうそう」

 二人は勝手な想像して、あはは可笑しいと笑った。

 「マミー、これあげる」

 亜美が差し出したのは、小さな左手の親指と人差し指で腹を掴まれてもがいている小さな赤いザリガニだった。それを母親の掌に載せた。

 「あら、ザリガニさんね。鋏に挟まれたら痛いのよ。亜美ちゃん恐くないの?」

 「あみちゃん、こわくないもん」

 ザリガニが母親の掌から逃げ出そうとしたのを摘まもうとして人差し指を挟まれ、亜美は悲鳴を上げて泣き出した。亜紀は慌ててザリガニを引き剥がすと、指を舐めてふーふーしてやった。

 「痛いの痛いの飛んでけー、痛いの痛いの飛んでけー。はい、もう痛くない。亜美ちゃんは強い子でしょ。いらっしゃい、チューチューしてあげるから」

 亜美が母親に抱きつくと亜紀は娘をぎゅっと抱き締め頬にキスした。

 「おやつをあげるからもう泣かないのよ」

 お菓子の効果は覿面てきめんで、すぐに泣きやみ手を出してにっこりした。

 亜紀はウェットテッシュで娘の両手を拭いてやり、中から色んな物が出てくることから真一がドラエモンの籠と揶揄やゆする竹籠から手作りクッキーの入った小さな缶を取り出した。

 「亜美ちゃんはおりこうさんねぇ」と慶子が頭をなでてやると「けーちゃんあげる」とお菓子を差し出した。

 ありがとうと受け取ると亜美は愛くるしくにっこりした。

 「亜美ちゃんは誰に似ているのかしら?」

 「さあ、私に似ていると言う人もいれば夫に似ていると言う人もいるからわからないわ。その内にはっきりしてくるでしょうけれど」

 母は小さい頃の亜紀にそっくりだと言うが、自分ではそうかしらと思う。

 「亜紀さんに似ればいいわね。おしとやかな美人になるわ」

 「それはどうかしら。平凡でいいから、元気に育って欲しいわ」

 「それは大丈夫よ、元気で活発だから。あれ、亜美ちゃんって左利きなの?」

 さっきから見ていると左手を使っていることが多いように思った。

 「確かに左手を使うことが多いわね。でも、まだ小さいからどうなるかわからないわ」

 「亜紀さんを見ているといつも子供を抱き締めてあげているわね。私も見習わないと」

 仲人夫婦を見ていると、二人とも子供とのスキンシップを頻繁にしている。

 「主人の考えなの。子供に口で言っても愛情は伝わらないから態度で示せって。イジメや非行に走るのは親の愛情を受けられなかったことの裏返しだろうって。それで私も主人も抱いたりほっぺにキスすることで愛情表現しているの」

 ふーんと慶子は感心した。

 「亜紀さんには教わることが多いわ。さすが人生の先輩だわ」

 慶子が広場の方に目をやると、恩師と修一と仔犬は小川のところにいた。修一は小川を指差して何かを騒ぎ立てているようだが、ここまでは聞こえて来ない。 フライの吠え声だけがうるさい。

 慶子との会話を楽しんでいる時も、ほら、そんなにぽろぽろこぼしちゃ駄目でしょと言いながら、甲斐甲斐しく亜美の世話を焼いた。

 慶子は亜紀に顔を戻すと唐突に言った。

 「今更だけど、先生と亜紀さんには申し訳なく思っているのよ」

 何のことかわからなくて亜紀は首を傾げた。

 「ほら、夫婦して突然押し掛けたでしょ」

 それは建築事務所の内部を家族に見せて回った数日後、彼等が勝手にやって来て居座ってしまったことだ。

 「ああ、そのこと。いいのよ、あの人もそれで積極的に仕事を受けるきっかけになったのだから。早くに事業主の自覚ができたのもの慶子さんと江口さんのお陰。でも、あのときは驚いたわ。突然やって来て荷物を運び入れるのだもの。夫は大学だし、どうしたものか思いあぐねて連絡したら、彼もびっくりしていたけれど、放っておけって言われてほっとしたわ。それに、内装を任されたのはいいけれど、机や椅子、会議用テーブルなんか、何をどう選んだらよいかわからなくて、慶子さん達が来てくれて随分助かったわ」

 誰かが事務所の前で何かしているとOAシステム構築中だった学生からの電話連絡で慌てて行くと、二人が車の中からダンボール箱を運び入れているところだった。聞けば、ここで働くと言う。何も知らされていなかった亜紀はびっくりして夫に電話をしたのだった。

「それだったら良かったけど。陽菜ちゃんから電話をもらったその日に達也と相談して、完成したら無断で押しかけようと決めていたの。面と向かってお願いしたところで先生がうんと言うはずもないし、亜紀さんに頼んでも駄目だったでしょう?」

 「それは、いくら慶子さんでもちょっとね。せっかく就職して働いているのに、それを引き抜くような真似はできないもの。けれど、今になって思えば、あれが最善の方法だったのかもね。貴方達には内緒だったけれど、主人も彼らが来てくれて助かったと言っていたもの」

 「ねっ、そうでしょう。先生の採用試験に合格する自信はないし、退路を断って来たら先生だって追い返しはしないだろうって思っていたの」

 「無茶ねぇ。でも、どうして来る気になったの?」

 こんな田舎で建築設計事務所を開設したところで、この先どうなるか不透明だ。彼等だってそれくらいわかるはずなのにどうして来る気になったのか、これまでその理由を尋ねたことはなかった。

 「私も達也も先生を尊敬しているのは亜紀さんも知っているでしょう。あの先生が無計画で事務所を開くとは思えなかったし、先生から教わることがまだまだあると思ったの。だけど、それだけじゃないのよ。ほら、亜紀さんと先生の結婚式の後、レストランで食事をしたことがあったでしょ。そのとき、亜紀さんと先生の秘密を聞かされて、これは内輪の家族だと思って話すんだと言われたことがとても嬉しかったの。それがずっと忘れられなくて、先生が独立するとの話を聞いて一にも二にもなく押しかけることにしたの」

 慶子は亜紀を少し睨んで続けた。

 「それにしたって、亜紀さんたら水臭いわ」

 「あら、何が?」

 彼女に苦情を言われる覚えはなかった。

 「先生が事務所を開くのを黙っていたことよ。ずっと前から知っていたんでしょう?」

 「だって、誰にも言うなって口止めされていたもの。お義父様やお義母様にだって玻瑠香さんが4年生になった時に初めて計画を打ち明けたのよ。それが義晴君には箝口令を敷いていたのに陽菜ちゃんから漏れていたなんて、あの人にしては不覚よね」

 そうそうと慶子も一緒になって笑った。

 慶子は早くから恩師の計画を陽菜子から聞かされていて、改装が終ったとの報告を彼女から受けるとすぐに自己都合を理由に退職し、強引に押し掛けて来たのだった。

 それからは折に触れて一緒に食事をしたり、お祝いごとに招待したりしているので家族同様の付き合いをしている。

 「いつから計画していたの?」

 「プロポーズされたときに言われたから5年近く前ね」

 「そんなに早くに?」

 それならもっと早く教えてくればいいのにと言いたげだった。

 亜美は遊び疲れたのか、いつの間にか耕一の横で寝息をたてていた。亜紀は娘にバスタオルをかけた。慶子は遠くで修一と戯れている恩師を見やり、ベビーカーの中で寝ている乳児に顔を戻した。

 「4年の間に5人の子持ちになるなんて、休まる間もなくて亜紀さんも大変ね」

 慶子の物言いに亜紀はころころ笑った。

 「夫もお義母様から私の体のことも考えろって叱られたらしいわ」

 「それはそうよ。出産するのは女だしリスクが伴うもの。いくら子供好きだからって母体のことも考えてくれないとねえ。そこが男共にはわからないのよ。それで子供はもういいでしょう?」

 「私はもういらないけれど、あの人はどうかしら。いつだったか、寝る前にタブレットを出してきて、何かしらと見たら、子供が独立するまでの必要な金額が事細かく計算してあったの。それを見てびっくりしてしまったわ。塾なんかの費用は含まれていないっていうでしょう。それでまたびっくり。5人もいて結婚費用まで考えたら、気が遠くなってしまったわ。慶子さんにはもっともっと働いてもらわなくては」

 亜紀は冗談めかして言ったが、慶子も他人事ではなく確かにそうだろうと思った。今の日本では子供を育て難い。彼女は片親だったが、母が苦労して育ててくれたおかげで、不自由なくこれまでやってこれた。それも一人っ子だからやってこれたのだと思う。彼女のように子沢山だと経済的負担も気苦労も多いだろうなと思った。

 「だからと言うわけじゃないけれど、近々童話を書き始めようかとと思っているの」

 いつも忙しくしている姿しか見ていないせいで、作家の一面もあるのだということをすっかり失念していた。

 「そう言えば、童話作家だったわね。少しはか書いているの?」

 「出版社の人に頼まれてはいるのだけれど、子供ができてからはほとんど。でも、亜美と修一が寝る時にお話をしているから、時間があるときにそれを思い起こして書き溜めてはいるの」

 「いいわねぇ才能があって、印税が入るものね」

 「ええ、主人にばかり頼っていられないもの」

 遠くからマミーと呼ばれて頭を上げた。見ると修一が右手に何かを持ってフライと一緒によちよち走って来るところだった。

 夫はと見ればズボンの裾を託し上げまま、両手に子供の靴を持ってこちらに向かって歩いていた。

 近くまで来ると修一はお菓子の缶を目敏く見つけて、手に持っていたザリガニを放り出して、お菓子とせがんだ。仔犬は逃げ出すザリガニにじゃれついた。

 真一がフライにライダウンと命令すると、大人しくシートの傍で伏せた。

 「まあ、お利口さんな犬ね」

 「そうなのよ。犬の中でも知能指数が一番高い犬種なんですって。でも、彼の命令しか聞かないのよ。仔犬なのに子供なんか完全に見下されているわ」

 亜紀は、お疲れ様と夫に声をかけた。

 「いやまったくお疲れだよ。子供の面倒をみるのも大変だ」

 それは口先だけのことだと知っている亜紀と慶子は思わず顔を見合わせて笑った。

 「中川も来ていたのか」

 亜美と耕一の様子を見てから言った。

 「奥様からお誘いの電話をいただきました。先生がめぐみのお相手をしてくれる上に、お昼もいただけると聞いて来ない理由などないわ。晩御飯もご馳走になるし」

 真一は彼女のわざとらしい馬鹿丁寧な言い草に苦笑した。

 結婚後も中川と旧姓で呼ぶので、亜紀は何度か夫を咎めたのだが、それを改める様子はない。今では言っても無駄と匙を投げている。慶子も咎め立てはしていない。彼女にしたところで、敬意を表しているつもりなのか、いまだに真一を先生と呼んでいる。真一がニックネームで呼べと言っても、プライベートな空間になると先生と呼んでしまう。亜紀も口出しするほどのことでもないので黙認していた。

 真一は慶子のベビーカーを少し横に移動したとき、寝ていた亜美が起き上がった。父親が亜紀の隣に足を投げ出すと、たちまち亜美と修一が駆け寄り両側から父親にしがみついた。

 「あらあら、コアラみたい」

 呆れて慶子が冷やかした。

 「そうでしょ。パパが一緒だといつもこうなのよ」

 「江口はどうした?一緒じゃなかったのか」

 子供を両腕に抱いたまま訊かれ、彼の実家に寄ってから来るので遅くなると答えた。

 「ときに、君らの夫婦仲はどうだ。うまく言っているのか?仲人としては心配だからな」

 「ご心配なく。先生とこほどじゃないけど、悪くないわよ」

 「それならいい」

 「マミー、おなかすいた」「わたちもー」

 「はいはい。それじゃ、お昼にしましょうね」

 亜紀はバスケットを手元に引き寄せた。

 「耕一を起こすか」

 「待って、ぐっすり寝ているから、起きるまでそっとしておきましょう」

 「そうだな。そのうちに江口も来るだろうから、先に食べようか。何が好きかなー?」

 抱きついたままの子供の顔を交互に見ながら訊いた。

 「おいなりー」「わたちもー」

 「あれー、ママはお稲荷さん作ってくれたかな?葱と人参が入ったちらしと言ってたぞー。ねえ、ママ」

 父の冗談に二人は顔をしかめた。亜紀は笑って何も応えない。

 「あみちゃん、にんじんきらい」「しゅうちゃんはねぎもきらい」

 「そんなこと言ったら、亜美ちゃんと修ちゃんの食べるものがないけどいいの?」

 慶子の悪気のない冗談に二人はうーんと考え込んでしまった。そんな子供達に大人は大笑いした。

 「嘘よ。二人の好きなお稲荷さんと海苔巻があるわ。こっちへいらっしゃい」

 「ここがいい」「ぼくも」

 「駄目よ。そんなにしがみついていたら、パパが食べられないでしょ!」

 「いいよ、食べ終わるのを待つから」

 亜紀がきつく諭しても、子供に甘い真一がいつも許してしまう。

 「もう、甘いんだから」

 亜紀が夫を軽く睨むと、ママにも甘いよと真一が身を乗り出して右頬にキスをした。亜紀の横でおほんとわざとらしい咳がした。

 「先生、お熱いですね」の声で見ると、いつの間にか江口が近くまで来ていた。

 子供達は父親からぱっと離れると、「走ったら危ないわよー」と声をかける亜紀を無視して「たーちゃーん!」と叫んで駈けて行く。フライもワンワン吠えて彼らの周りを走り回る。

 江口は勢いよくぶつかって来る二人を屈んで両腕で抱きとめ、盛んに話しかける彼らに応えながら手を繋いで亜紀達のところへ来た。元気な挨拶が済んで駆け込んだ子供達はお行儀よく母親の前に座って稲荷と海苔巻きを待った。

 「先生、亜紀さん。待たせてごめん。親父に呼ばれたものだから」

 フライの頭を撫でながら弁解した。

 「早かったじゃない。お義父さん何て?」

 「大したことじゃなかった。途中で電話したら、たまには孫を連れて来いってさ。だから会わずに来た。慶子の顔も見たいと言ってたぞ」

 「あまり気が進まないけど、来週あたり行ってもいいわよ」

 「じゃ、そうするか。ところで先生、見てましたよ。奥さんにキスしているところ」

 「嫌ねえ」

 亜紀は頬を薄っすら染めた。

 「馬鹿野郎。ご飯粒がついていたから、取っただけだ」

 「まあまあ、そんな言い訳はいいですよ。僕らには毎度のことで見慣れていますから。何時までも仲がよくていいですね」

 江口の冷やかしに真一は反論せずに苦笑した。

 夫婦の間では出勤時と帰宅時にキスすることが常態化していた。玄関で送り迎えする亜美も修一も、私も僕もと騒ぐのは毎度のことだ。

 「立ってないで座れ。待ちきれなくて昼にしようとしていたところだ」

 「マミー、おいなり」「のりまき」

 子供二人が両手を挙げて催促した。

 「ごめんねー待たせて。亜美ちゃんも修ちゃんも随分お喋りするようになりましたね」

 呼ばれたのかと思ったのか、亜美が振り向いて「あみちゃん、おいなりさんすきなの。にんじんとねぎきらい。たーちゃんは?」と江口に訊いた。

 「たーちゃんはどっちも好きだよ。何でも食べないと美人になれないぞ」

 「びじんてなあに?」と訊かれて、亜紀と慶子は笑った。

 「びじんと言うのはね、亜美ちゃんみたいに可愛い子の女の子を言うんだよ」

 可愛いの意味がわかっているのか、にっこり笑ってほっぺに人差し指をやってポーズをとった。

 「こんな調子だよ。毎日何なに何故なぜ口撃で悩まされているよ。爺さん婆さんとよく話すせいか、言語の発達は他の子より早いと思う。近頃は生意気な口も利くようになって驚くよ。英語も結構話すようになった」

 嬉しそうに我が子自慢をする。

 「私達よりも上達が早いでしょうね」

 痺れを切らした亜美と修一がふくれっ面をして声を張り上げた。

 「のりまき」「おいなり」

 「あ、ごめんごめん。今あげるわね」

 籠の中から竹の皮で包んだ子供用の小さな稲荷寿司と細めの海苔巻を出した。彼らは亜紀が止める間もなく手掴みで頬張ろうとして、母から窘められた。

 「いただきますは?」

 子供達は声を揃えて、いただきますと両手を合わせてから、お寿司を頬張った。

 亜紀の躾は厳しかった。手洗いの励行もそうだが、いただきます、ご馳走様でした、ありがとうは言うに及ばず、朝晩の挨拶を必ず祖父母のところへ行ってさせた。庸子でさえ、そんなに厳しくしなくてもと言いながら、可愛い孫が挨拶に来ると相好を崩した。

 「よく噛んでゆっくり食べるのよ」

 「食べっぷりがいいわね」

 子供達が大口を開けて食べる様子に慶子が呆れたように笑った。

 「君の所も大変だろう?」

 「そうなの。少しも目が離せないのよ。夜泣きもするから毎日が大変だわ」

 「はいはいし出したら気を付けろ。目に入ったものは何でも口に入れようとするからな」

 「母も同じことを言ってたわ。付きっ切りでいられないから達也も気を付けて」

 「はいはい、わかりました。先生、今日はいい天気でよかったですね。これだったらバーベキューなんかもできますね」

 「いや、それは駄目なんだ」

 「前から不思議に思っていたですが、どうしてですか?食材だったらみんなで持ち寄りますよ」

 「そうじゃないんだよ。ここで火を使うのは大お爺さんから禁止されているんだ。と言うのも、昔お客さんがそれでボヤ騒ぎを起こしたことがあったし、無断で山菜採りに山に入った人が煙草をポイ捨てしてあわや山火事になりそうなこともあったそうだ。それがあってからは火気厳禁とお客さん以外の立ち入りを禁止したんだ」

 「そうなんですか。これまで一度もしないから、どうしてかなと思っていたんだけど納得しました」

 「もし火事にでもなったら、取り返しのつかないことになるし、周りの人にも迷惑をかける。大お爺さんが亡くなったから守らなくてもいいんだが、お養父さんはもちろん俺も守ろうと思っている。まあ、いわば家訓というべきものかな。亜紀だって賛成している」

 「火事も大変だけれど、後始末を疎かにされたら周りは汚れるし、動物が入り込んで食べ残しなんかを食べたら生態系にだって悪い影響を与えるでしょう。だから、できるだけこの状態をそのまま残したいの。フライを飼うのだって反対しけれど、この人が子供をうまく抱き込んでしまったから仕方がなかったのよ」

 笑って夫を見たが、その彼は無防備な姿で横になっているフライの頭を撫でて聞こえない振りをした。

 そう言う自分だって狐狸やリスなどの小動物に餌を与えているくせにと江口夫妻は笑いを噛み殺した。

 「バーベキューくらいだったら母屋の前庭で出来なくもないんだが、事務所のことで家族を巻き込みたくないんだ」

 「わかりました。そう言った事情なら諦めます」

 あっさり断念したところでベビーカーが揺れた。フライが起き上がって一声ワンと吠えた。それが合図かのように、江口の子供が泣き出し、それにつられてか耕一も泣きだした。

 「あ、起きちゃったわ。折角寝ていたのに耕ちゃんも起しちゃって、ごめんなさい」

 「いいわよ。そろそろ起こさないと行けない時間だったから。あなた耕一をお願い」

 真一よりも子供達の方が反応が早かった。亜紀が止めるのを聞かず、寿司を持ったまま耕一のところへ駆け寄ると、こうちゃんばあとか、こうちゃんべえとか言って泣き叫ぶ弟を宥めた。

 真一は笑いながら、ありがとうと長男長女の頭をなでてやってから、泣き止まない耕一を抱き上げお尻を嗅いでカートの下から紙おむつを取り出すと、離れた所で手早くおむつを取り替えた。江口も少し離れてミルク作りを始めた。

 「二人共私達よりも上手だわ」

 「本当」

 亜紀と慶子は彼らの様子を見て含み笑いした。

 「それにしても先生はよく子守りをするわね」

 「玻瑠香さんで慣れているからですって。達也さんだってよく面倒をみているわよ。ああしているところを見ると、すっかりパパをしているわ」

 「まあね。産むときはそれこそ死ぬ思いをしたもの。あんなに大変だなんて思いもしなかったわ。共稼ぎだし夫婦対等だからあれ位したってまだ割りが合わないわよ。それにお仲人さんの前だからいいところを見せようとしているのよ」

 そうねぇと二人してまた笑った。慶子の辛辣な物言いにも反論もせず、達也は子供にミルクを与えていた。

 「共稼ぎと言えば、フレックスタイム制だから保育園への送り迎えが安心して出来て助かっているわ。それにお昼がゆっくりできるのもいいわ」

 押しかけ社員の江口夫妻が働き出すと、真一は労務関係に詳しい和雄と相談して就業規則を定めて労働基準監督署に届けた。昼休み時間を90分としたのは採用条件に照らし外国人の採用も念頭に入れていたからだ。

 フレックスタイム制とは言え、週40時間勤務と20時から5時までの深夜時間は原則就業禁止だ。コアタイムに行う会議時間さえ守れば出退勤の時間は個人の裁量としている。個々の家庭の事情に合わせ易いだろうとの判断だった。長野県の片田舎にありながら、この制度と自然環境に魅力を感じて応募する者も多かった。

 おむつの交換と授乳を終えた真一と達也はシートに子を横たえた。フライが尻尾を振り、その様子を見ている。

 「ダディ、あいちゃん、ねてる?」「あやちゃん、ねてる?」

 「ぐっすり寝るから騒いじゃ駄目だぞ。赤ちゃんは寝るのがお仕事だから」

 二人とも聞きわけよく、うんと頷いて稲荷と海苔巻をぱくついた。

 「私達も頂きましょうか」

 亜紀はポットから温かいお茶を紙コップに注いだ。

 「はい、これを持って。熱いから気をつけて。こぼしちゃ駄目よ。達也さん慶子さん、お茶をどうぞ。達也さんもお寿司も召し上がれ。はい、あなたお茶」

 みんなに勧めた弁当は大人用の寿司が竹の皮で包まれ、卵焼き、蒲鉾、煮しめ、鯖の塩焼き、金時豆などが重箱に、ウィンナーや海老フライなどの揚げものは柳編み弁当箱に詰められている。

 「この筍は今朝主人が採ったものなの。新鮮だから、そのままお刺身にしたのよ。柚味噌かわさび醤油で召し上がれ」

 彼らの皿に取り分けた。

 「随分沢山作ったわね。時間がかかったでしょう」

 「ええ、まあ。でも作るのがすきだから。筍は沢山あるから帰る時に持って帰って。灰汁を抜くのが大変だと思うけれど」

 「ありがとう。いいわねえ、色んなものが採れて」

 「来月には山菜が採れるから、お昼休みに一緒に採りましょう」

 一般人の入山を禁止しているから、春は山菜、秋には茸や果物が採り放題なのだ。

 「後処理が大変だけど、家計が助かるわ」

 玻瑠香がいなくなった今、亜紀にとっては慶子が唯一気心の知れた話し相手となった。子供のことでの話題も多い。

 「掲示板でみんなに流すが、来週金曜の昼から花見するから、そのつもりでいてくれ。飲み物はこちらで用意するが、食べ物は持ち寄りだぞ。焼肉とかバーベキューとかは駄目だからな」

 火気厳禁を強調した。

 「はいはい、わかりました。それで、参加は今回も事務所の人だけですか?」

 「いや、ミッシーの家族も様子見がてらに来日する予定だから相当な人数になると思う」


                    (三)


 子供達も幼いながら賑やかなことが好きで、毎月なんらかの名目でパーティーをしている。

 先月は雛人形を板の間に飾ってお雛祭りをしたばかりだ。雛人形だけで3組もあり、どの家の人形を飾るかで家族同士でじゃんけんしたことが亜紀の記憶に新しい。今月末頃には鯉のぼりが空に舞い、五月人形が床の間に並ぶ。

 「大変ですね。パーティーばっかりで」

 江口が恩師の細君に同情した。

 「今は慣れたけれど、こんなにパーティー好きとは知らなかったわ。子供達は大喜びだけれど、お母さん達は振り回されぱなしよ」

 いやいやそうじゃないと真一が断りを入れた。

 「家族の親睦のためにするんだ。それに準備と片付けは男達だけでやるんだからな」

 「それだって、座卓を出して来て、部屋を少し飾り付けるだけでしょう。お料理はいつも私達なんだから」

 「まあまあ、亜紀さんも先生も。それで家族間の平和が保たれるんならいいじゃないですか。先生が羨ましいですよ」

 「そうか」

 「そうよ。愛妻がいて、可愛い子供に恵まれて、それに自分の親まで同居しているなんて、そんな家どこにもないわよ。平和が保たれているのも亜紀さんが舅姑に孝行しているからよ。感謝しなさい」

 どちらが年長者かわからない説教を恩師に垂れた。

 自分ではそれなりに気を遣って接しているつもりなのだが、いいところはみんな妻が持っていってしまう。彼はそれでいいと思っている。

 「そうじゃないわ。主人がちゃんとしてくれるから頑張れるのよ」

 そうだそうだと真一は胸の内で相槌をうった。

 「そうかしら。これだって、よくこれだけのものを作る時間があると思うわ。私には絶対できないわ」

「ほとんど昨日の残り物よ。慶子さんのように外で働いていてはできないわよ。私は専業主婦だし、子供はどちらかの父と母がみていてくれるからできるのよ。あっ修一、喉を詰まらせるからそんなに頬張っちゃ駄目。亜美も、食べた手でパンツの中に手を入れないの。あなたそろそろ耕一を起こして。お昼をあげないと」

 亜紀が甲斐甲斐しく世話をやくのを、達也が娘を横抱きにしてあやしながら感心して見ていた。

 わかったと言って、真一は耕一を抱き上げた。少し愚図ったが、あやしているうちに泣き止んだ。

 「先生も亜紀さんもよくやりますね。僕なんか娘一人だけで往生してますよ」

 それを慶子が聞き咎めた。

 「何言っているの。夜泣きしても起きやしないし、ミルクだってちっとも飲ませやしないわ。全部私一人でしているんじゃないの。先生のいるときだけいい格好して」

 ぴしゃりとやり込めて夫の怠慢を暴露した。

 「それはいかん。子育ては二人でするもんだぞ。まして君のところは共稼ぎだから、妻を助けないでどうする」

 昔どこぞで聞いたような言葉に亜紀は思わず吹き出した。

 「そうでしょう。もっと厳しく言ってやって下さい」

 恩師の援護に我が意を得たとばかりに慶子が夫を責め立てた。

 「修ちゃん、バナナ食べる?」

 江口は妻の口撃から逃れるように果物を手にとった。

 「たべる」「わたちも」

 バナナの皮を剥いて子供達に半分ずつ渡してやった。

 亜紀は耕一に離乳食を与え始め、子供達と夫に言った。

 「はい、それでおしまい。歯磨きしようね。パパ、お願い」

 真一は長女を仰向けに頭を膝の上に載せると小さな歯ブラシで歯を磨き始めた。そんな二人を江口夫妻は感心した様子で見た。

 「共稼ぎだと保育園の送迎だけも大変だろ?」

 長男の歯を磨きながら真一が訊いた。

 「恵ちゃんをうちの爺さん婆さんに任せてはどうだ。そうすりゃいつでも恵ちゃんの顔も見られるし、帰る時間を気にしなくて済むぞ」

 ちょっと待てと言って、修一の歯磨きを終えるとカートの下からタブレットを取り出した。

 「何ですか?」

 江口夫妻は訳がわからず覗き込んだ横で真一が何やら操作すると、画面に旧ペンションの娯楽室の中が大小三つの画面で映し出された。

 「へえ」「あら」と達也と慶子が同時に声を上げた。

 彼らも旧の娯楽室を改装して爺婆監視付きの子供の遊び場にしていることは承知していたが、カメラで目視ができるとまでは知らなかった。

 「天井と壁にカメラを3台セットしているから、こうすると切り替えて大写しすることも出来るし、角度も変えられて、居ながらにして子供達の様子がわかるって仕掛けだ。もし何かあっても親父達がすぐに連絡してくれるから瞬時の対応が可能だし、ミルクだっていつでも飲ませることもできる。な、便利だろ」

 幾つか画面や角度を変えて江口夫妻に見せた。

 「私も家事をしながらタブレットやスマホで時々見ているのよ。おっぱいを欲しがると連絡してくれるから、安心していられるの」

 江口夫妻は「へえ」と感心してしまった。

 「保育園をやめてうちに預けたらどうだ。送迎の心配もないし身近にいて君らも安心だろう?晴れていれば広場へ連れ出して遊ばせてくれる。謝礼は心配しなくてもいい。渡そうとしたってどうせ受け取りやしないさ。気になるなら、盆暮れの付け届けだけでいいと思う。ただし、私設の保育園だから厚労省の設置基準に合致していないし、役所への届け出もしていない。万一でもそんなことがあってはいけないが、念のため保険には入ってもらうことになる。そんな条件でどうだ」

 亜紀もそうしたらと勧めた。江口夫妻は顔を付き合わせた。

 「どうする慶子?」

 「お願いしようかしら。身近にいたら安心だもの」

 慶子が少し考えて断を下した。費用もそうだが、送迎時間を気にしなくてもいいのも助かる。それより何より子供を身近に置けるのが魅力的だ。

 子供達が静かだなと思ったら、いつの間にか亜美と修一は抱き合うようにして寝入っていた。フライも木陰で手足を伸ばして無防備に寝ている。亜紀はカートの下から毛布を取り出して二人に掛けた。

 「お仕事の方はどうなの?」

 亜紀は紙コップのお茶を飲み干すと訊いた。

 仕事について聞くのは極力控えてきたが、慶子を介すればそれをし易すかった。

 「忙しいわよ、お陰様で。先生の評判を聞きつけて、設計依頼が多く来ているわ。半年待ちでもいいからって言う依頼人もいるの。

 私はリフォームばかりだけど、新築より制約がある分難しいけどやり甲斐があるわ。前の会社ままだったら今でも半人前の扱いで先輩の小間使いに終始していると思う。その点、ここでは全部任せてもらえるし先生に教わることもできるからここに来てよかったと思っている」

 それを聞いて少し安心した。何か不満でもあったら困る。

 しばらく仕事の話をしてそれが途切れると、採用条件の話題になった。

  夫を見たると、彼らは相向かいに片手枕で江口と話し込んでいた。

「こんな田舎の事務所でしかもあんな条件で応募者なんているのかしらと思っていたけれど、意外にも多かったから驚いたわ。SNSで募集したのがよかったのかしら、それとも雇用情勢がまだ厳しいからかしら」

 真一が示した採用条件は一級建築士もしくは一級設備士の有資格者に限るとし、それに加えて英会話ならTOEIC600点相当以上の語学力を必須とした。しかも面接は英語か独語もしくは仏語のみのオンラインで行うと明記したから、1人でも応募があればいいくらいに思っていた。ところが3人も応募者がいたから驚きだった。

 「事務所とここの環境を写真付きでFacebook にも投稿したから、それも良かったんだと思う」

 後ろにも耳がついているのかしらと疑うくらいのタイミングで真一が割り込み、気配で起き上がったフライの前におやつのガムを置いて、お預けしたまま言った。

 Facebook への投稿者登録は実名を基本としていて、住所、学歴、経歴などの基本データーも登録するので、応募者の信用を得るには有効なSNSだった。

 「でもやっぱり先生の評判だわ。亜紀さんはご存知ないでしょうけど、先生の名は建築関係者の間では結構知られているのよ。採用条件を知って諦めた人が先輩や後輩で何人もいたんだから」

 真一は無視を決め込んだが、亜紀もそうなのかと感心するばかりだ。

 「給与だって大手並みですし、手当はここより手厚いところはないんじゃないですか」

 江口が指摘するように、この業種の成功は人材にありとの真一の信念で各種の手当を篤くしている。和雄と労働条件を協議したとき、そこまでする必要がないんじゃないかとの意見があったが、亜紀とも相談してそれを押し切った。

 「奥方の言い草じゃないが、できたばかりで田舎のそれこそこの先どうなるかもわからない小さな事務所へ応募するんだ。多少はいいところもないとな」

 真一のよしとの号令で、待ての姿勢をしていたフライはおやつにかぶりついた。

 「それにしてもミッシーが1級建築士の資格を取得していたとは知らなかった。しかも一発で合格したんだから並大抵の努力じゃなかったと思う。君らだって5年以内に建築士の資格取得と英語が規定に達しなければ契約の延長はないからな」

 「わかってますよ。必ず条件を満たしますから安心して下さい。なあ、慶子」

 江口に同意を求められた慶子は顔を顰めた。

 「達也は英語だけだからいいけど、私は英語はともかく家事と両立で厳しいかも」

 慶子にしては珍しく弱気だった。彼女も江口と一緒に受験したのだが、彼女は1科目だけ不合格だった。

 「今年は製図だけでしょ。大丈夫よ、主人が応援してくれるわよ」

 先生よろしくお願いしますと殊勝に頭を下げたとき、突然亜美が起き上がって、マミーおしっこと訴えた。

 「おしっこか。よし、パパが行ってやろう」

 軽々と娘を抱っこして森へ走った。その後をフライがワンワン吠えながら追いかけた。

 「フットワークがいいですね。おむつは取れたんですか?」

 自分の娘のことがあるだけに、江口が二人を見やりながら訊いた。

 「ええ、修一はまだだけれど、亜美は早かったの。女の子の方が成長が早いせいかしら。話し始めも歩き始めたのも亜美の方が早かったわ」

 双生児と言っても、次第に個性が出て来て、亜美が活発で修一の方が大人しい。喧嘩をしても玩具の取り合いになっても泣くのは修一だ。小さな指を盛蔵に差し出して「じー」と初めて呼んで喜ばせたのも彼女だった。

 今では二人とも言葉が達者になって、かべじいちゃん、なるばあちゃんなどと呼ぶ。彼らはそんな可愛い孫に目尻を下げた。

 「江口さんのお仕事の方は? 」

 「お陰様で結構忙しいですよ、手持ちで3件もあります。どれも個人住宅の案件ですけど、要求がうるさいお客さんばかりで苦労しています」

 「それはご愁傷様」

 同情とも冗談ともわからない真面目な亜紀の言いように江口は苦笑した。

 「こちらへ来て本当に良かったと思っています。責任ある仕事を任されて大変ですが、先生の教えを乞うことができて毎日が充実しています」

 「それなら良かったわ。私は何もできないから何か不満でもあったらどうしようと心配していたの。それで主人の仕事ぶりはどうかしら?」

 大学での講義風景は玻瑠香とこっそり覗き見して知っているが、ここでは仕事の邪魔はしてはいけないとインテリアの相談に乗る以外は自分の方から事務所に顔を出すことはしていない。だから夫の仕事ぶりは知らないでいる。

 「やっぱり、先生は凄いですよ」

 「あら、何が?」

 「打ち合せをしていると、理不尽な注文をつけるお客さんがいて、どうしたものかと頭を悩ませることが多々あるんです。散々悩んだ末にどうしようもなくなって先生のところに相談に行くといとも簡単に解決してしまうから、頭の中はどうなってるんだろうと思うことばかりです」

 「へえー、そうなの」

 夫を褒められて悪い気はしない。

 「この間も、無理難題というか物理的に絶対無理なのに2階に自分だけの書斎が欲しいと仰るお客さんがいて、慶子とも相談したんだけど、うまい解決法が見つからなくて先生に相談しました。そうしたら・・・」

 「そうしたら・・・」

 亜紀も引き込まれて、何て答えたのだろうと催促してしまった。

 「2次元だけで考えるな。3次元でも検討してみろって。3次元でも解決できなかったら4次元で考えろって言われました」

 「どういうこと?」

 2次元、3次元と言われても何のことだか亜紀には皆目わからない。

 「そのときに言われたのは、平面図だけを見ていると上下に空間があることを忘れてしまう。どこかに必ず利用できる空間があるはずだから、固定観念を捨ててそれを利用することを考えろって。それもなかったら、そこの家族の時間的生活を考えろって。例えば、現時点では無理だから子供達が独立したときに検討したらと説得すればいいんじゃないかとアドバイスしてくれました。目に鱗でした」

 何だか難しい話で全ては理解できなかった。それでも夫が信頼を得ているのは嬉しかった。

 「それと、これは私の印象に残った言葉なんだけど、どこかの宮殿や万里の長城のようなものは別にして、現代建築において5年以内に建てられないような設計をするなって。それで建てられないようなものは、どこかが間違ってるって」

 「そうそう、それが先生の哲学じゃない」

 「あらだって、スペインへ行った時に見たけれど、サクラダファミリアってまだ何年もかかるのでしょう?」

 かの有名な建物があるじゃないかと亜紀は疑問に思って訊いた。

 「だから、先生は奇を衒い過ぎだとあまり評価していないの」

 話し疲れた亜紀と慶子は横になった。亜美と修一は大の字になったままだ。フライはその横でピクリとも動かない。

 真一と江口はぼそぼそと話し始めた。

 「准教授になられて博士号まで取得したのに、よく決心なさいましたね」

 「そうでもないさ。妹が卒業するまでと決めていたから予定通りだよ。二足の草鞋を履いてやれるほどの人間じゃないしな。君らが来てくれたお陰で随分助かった」

 それは本音だった。

 事務所を開設する前から真一が独立するらしいとの噂が広まったことや和雄や盛蔵の紹介のほかペンション客からの依頼もあって、彼一人では対処しきれなくなっていたからだ。

 「慶子にせっつかれてお叱り覚悟で押しかけたのはいいけど、不安一杯でした。正直先生が受け入れて下さってほっとしました」

 「相談もなしに会社を辞めてまでして来たんだから、拒否するわけにもいかんだろう。中川のことだから確信犯的な行為だろうくらいは察していた」

 どうも済みませんと悪びれずに謝っておいて、新たに加わったCOOの話題に転じた。

 「原田さんってどんな方ですか?」

 「飲み友達さ。東京理科大の准教授で建築設備を専門としていた。もちろん、学位も取得しているし、設備設計一級建築士だって持っている。それに、英語、ドイツ語がペラペラの即戦力だ」

 事務所開設に合わせて来るはずだったのだが、幼稚園の先生をしている夫人の関係でこの春になった。

 「どうしてそんな偉い先生がこんな片田舎に来てくれるんですか?」

 「馬鹿野郎、それを言うなら風光明媚と言え。こんな環境のいいところはほかにはないぞ。まあ、それはともかく、彼とは建築学会の発表のときに知り合ったんだが、3年前の夏休みに家族をここへ招待したら、持病だった子供の喘息がぴたりと治まったんだ。それ以来、奥さんと子供がここを気に入ってくれて、一昨年の夏に駄目もとで誘ったら、奥さんの方が乗り気で来てくれることになったんだ。子供のためと思ったんだろうな。そんなわけで人材が揃ってたから今年は忙しくなると思う。やることは一杯ある」

 亜紀と中川は横になって寝ている。子供達もフライも時々動くが目を覚ます様子がない。上方に目を転じれば、空は抜けるように青く、森の緑が目に優しい。空気は飽くまでも新鮮だ。真一と江川はそれを精一杯吸い込み並んで横になった。カッコウがどこかで鳴いている。


                   (四)


 真一と亜紀は結婚5周年を祝った。その日は子供達を一日父母に預けて、夫婦水入らずのひと時を近くのホテルで過ごすのが彼らの恒例になっている。

 例年それは結婚記念日前後の土曜日と決めていたが、1年目は耕造の喪に付し、昨年は亜耶と亜衣の出産を控えていたので中止した。よって、ホテルで祝うのは今回で3度目だ。

 このホテルは二人の結婚披露宴のときに食事の提供などで世話になったところで、過去の記念日もここで祝い、家族も折に触れて利用していることから、支配人はむろんのことシェフやスタッフとも懇意だ。

 今回は5周年の区切りなので夫婦で語らい正装した。正装と言っても、亜紀は膝丈の白のカジュアルワンピース、真一は濃紺のスーツにネクタイを締めた。

 離れで着替えを終えると、忘れないうちにと言いながら真一は机の抽斗から小箱を取り出した。

 「これを君に」

 「私に。何かしら?」

 「開けてごらん。感謝の気持ちを込めていつものプレゼント」

 亜紀は丁寧にリボンと包装紙を取り除き、小豆色の箱を開けると、真珠ネックレスが鈍い光沢を放っていた。

 夫を見上げると、優しく微笑んでいた。

 「ありがとう、嬉しいわ。こんな首飾りが欲しかったの」

 「よかった。その服に合うといいんだが。ちょっと後ろを向いて」

 亜紀は背まで伸びた髪を束ねて前に流し後ろを向いた。

 彼女の髪は癖がなくさらさらしていて、家にいるときは髪を束ねているのだが、今はそれを後ろに流している。真一がベッドで愛撫を始めるとき、最初にそれを指で梳く。彼女にとってそれが愛されていると感じる瞬間でもあった。

 「随分髪が伸びたな」

 ネックレスのピンを留めながら言った。

 夫と始めて会った頃から伸ばし始めた髪は肩から10cm下くらいなった。

 「あのときくらいまで伸ばしたらどうだ」

 「そうしてもいいのだけれど、5人の子持ちの女が若く見られ過ぎても嫌だわ。もう33になったのよ」

 まだ十分に若いし、夫としては妻がいつまでも若く綺麗でいて欲しいと願うのは当たり前だと思ったのだが、真一は黙っていた。

 「それにしてもあなた、注文が多いわね。知り合った頃は私を避けてばかりいたのに」

 軽く睨まれて真一は苦笑した。

 「またそれを言う。もう勘弁してくれよ」

 亜紀は笑った。これが彼の泣き所だった。

 「髪のことは白髪が目立つようになったら考えることにしよう。それでいいだろ?」

 長い髪に未練たっぷりな彼は妥協案を示した。

 「まあ、その辺が妥当なところかしら」

 真一は妻の細い首に真珠のネックレスを付け終えると前に流した髪を元に戻した。それから、ゆっくりと前に向かせ、一、二歩下がって妻の全身をゆっくりと見た。彼が見立てたとおり白のドレスと色白の顔に真珠がよく映えている。

 「どう、似合っているかしら?」

 妻の伺いに真一は親指を2本立てた。

 「エックセレント!とっても綺麗だ。惚れ直したよ。姿見で見てご覧」

 亜紀は鏡で自分の姿を確認すると、満足そうに振り返りにっこりとほほ笑んだ。

 真一は妻を抱き寄せると長いキスをした。息が苦しくなって、夫の胸を軽く押して、私からのプレゼントは後でねと催促される前に楽しみをお預けにした。彼女のプレゼントは夫とは違い、どこかの建築図鑑や高級文房具などの実用に即するものばかりだったが、話し方からすると今度は違う様だ。

 正装した二人がホテルのレストランの入口に立つとギャルソンがやって来た。

 「いらっしゃいませ、加辺様。お待ちしておりました」

 案内されたのは、奥の落ち着いた窓際の予約席だった。食事には少し早いのか客はまばらだった。窓の外は色鮮やかな赤や黄色の葉が舞い散り、地面は赤と黄色の絨毯を敷いた様だ。

テーブルの真ん中に綺麗なガラス容器が置かれ、その中の色違いのキャンドルからゆらゆらとほむろ立つ5色の美しい炎が彼らを照らした。支配人の配慮による演出だった。その彼がワインを1本両手に持って席にやって来た。

 「加辺様、ようこそお越し下さいました。ご結婚5周年おめでとうございます。ささやかですが、これは私共の気持ちでございます」

 ボトルのラベルが見えるように両手で差し出した。

 「ハンガリー産の貴腐ワインですね。いつもご配慮いただいて感謝しています」

 「食後酒として後ほどお持ちします。お子様のお土産も用意しておりますので、お帰りの際、お持ち帰り下さい」

 「何から何までお気遣いいただいてありがとうございます。次回は子供達を連れて参りますわ」

 「是非お越しください、お待ちしております。それではごゆっくりお過ごし下さいませ」

 慇懃に辞儀をして引き下がった支配人と入れ替わりに、先ほどのギャルソンがやって来て、真一にワインリストを手渡しグラスにミネラルウォーターを注いだ。

 真一はリストの中から、食前酒にシャンパンを、食中酒にアルゼンチン産のビンテージ赤ワインを注文した。食事は予約時にコースの中から奮発してGOURMANをオーダーしていた。

 シャンパングラスを目の高さまで持ち上げると、結婚5周年おめでとうと真一が言い、亜紀は今日までありがとうと返して微笑み合った。

 「5年と言ってもあっという間だなあ。結婚式を挙げたのが昨日のことのように思う」

 「私も」

 「二人だけでいる機会もあまりないから、結婚記念日もいいもんだな。何か恋人時代に戻ったようだ」

 夫の口から聞き慣れない言葉が出たから、亜紀はあらそんなこと言ってと声に出して笑ってしまった。

 「私達に恋人時代なんてあったかしら。二人きりで会ったのも数えるほどだし、デートさえしたことがなかったわ。それがいきなりやって来て、前触れもなくプロポーズするのだもの、正直、面食らったわ」

 夫を悪戯っぽく睨んだ。

 確かにそうだった。彼女の家に挨拶に行くと、年内の結婚式が決まってしまい、それが終わってすぐに亜紀の妊娠がわかり、それからは子育てと家事に追われ、二人きりの甘い時間を持てた期間はなかったと言ってもよいほどだった。

 「本当のことを言うとね、あの頃あなたのことを諦めかけていたの」

 唐突に言い出した妻の告白に思わず、何のことだと真一はまじまじと見詰めてしまった。

 「ペンションの内装のために一緒にお店を回った後、あなたのマンションへ押しかけたでしょう。あれは一大決心をして行ったのよ。だってそうでしょう、誰もいない男の部屋に女一人で行くのよ。それなのにあなたったら、遅くなるといけないからって追い出すようにして駅まで送ってくれて。どれほど傷ついたか知らないでしょう?」

 あの時はアルコールを飲むことも予想し電車を利用したのだ。ホテルで泊まることは一顧だにしていなかった。それを今、思い出しても切なくなってしまう。

 「悪かったと思っている。あの時はまだ気持ちに整理がついていなかったんだ。時効だと思って勘弁してくれよ」

 妻はそれでも恨めしそうに夫を見て続けた。

 「結果オーライで許して上げるわ。その代わり、もう一度私を描いて下さる?あのときの私は悲しげだったでしょう。今だったらどんな風か興味があるの」

 そのときの絵は部屋に飾っているが、それを見るたびに池の畔のことを鮮明に思い出す。あの時が二人にとって運命の出会いとも言える日だった。

 「わかった。謝罪のつもりで描こう。いつどの時点のものかはその時のお楽しみ。いや大丈夫、全部頭の中にインプットしているから」

 「だったら今描いてみて」

 「今?」

 「駄目なの?」

 「いや、駄目じゃないが・・・」

 妻の睨み返されて請け負ったものの、どの場面を描くか定まっていなかった。それでも、スープと前菜が運ばれたとき、鉛筆とA4のコピー用紙を数枚頼んだ。

 「さあ、いただこうか」

 真一はナプキンを膝の上に置いた。

 しばし子供達の話題を肴に食事を楽しんだ。

 「亜美がますます君の幼い頃に似てきたってお義母さんが言っていたから君のアルバムを見たら、なるほどそっくりだった」

 「そうかしら、自分ではそうは思わないけれど」

 「いや、頭を傾げる仕草や物を見る時なんか血は争えないと思った」

 「まだ4歳なのに私のことよく見ていて油断ならないと思う時があるわ。親馬鹿かもしれないけれど」

 「君に似て美人になると思う」

 それを聞いて亜紀は笑った。

 「それをね、親バカと言うのよ」

 「そうかな。普通女の子は父親に似るというが、亜美も修一もどちらかと言えば君に似ているんじゃないか」

 次男の耕一は真一似だと言われることが多い。

 「そうね、修一の性格的は私に近いかもしれないわね。亜美の勝気なところは玻瑠香さんに近いと言われるわ。亜美はともかく修一はあなたに似て欲しいわ。男の子なのに大人しすぎて幼稚園でうまくやっていけるか心配だもの」

 家族間だけでは社会性が身に付かないとの考えで、来年春に幼稚園に入れることにしている。

 「ははは、心配症だな」

 「だって、ほかの子は小さい頃から入っているでしょう。途中から入園してうまくやっていけるかしら」

 「心配いらないさ。引っ込み思案な性格も友達と交われば変わると思うよ。ほら従兄弟の和彦だってそうだったじゃないか」

 「修一もだけれど、私は耕一の方が心配なの。あの元気過ぎるところはきっとあなたに似たのだと思う」

 「そうか?だけどあんなに悪さはしなかったぞ。いじめっ子にならないように見守らないとな」

 「そうね、虐めるのはもってのほかだけれど、虐められないようにもしないと」

 子供のことを考えると心配がつきない。その点、真一は自分の幼い頃のことを思い合わせて楽観的だ。

 「子供って小さい時から個性が出るもんなんだな。亜耶も亜依もまだ1歳だが、お転婆になるような気がする」

 亜紀を見てにやにや笑った。

 「新聞に載っていたけれど、都会じゃ保育所に入れるのも大変なのですって。待機児童が多くて中々入所できないらしいの。そのうち大企業には保育所を設けることが義務付けられるかもしれないって」

 「そうだろうな。子供がいて働きたくても働けない主婦がいては経済的損失だからな。そういう面ではかなえ保育所を設けたのは結果としてよかったと思う。中川も安心して働けるだろう」

 かなえとは、彼ら親の苗字の一字を取ったもので、亜紀と真一の両親が交代で子供達の保育をしている。遊び場所も広場があり森がある。ブランコもハルニレの横に張り出した太い枝を利用して2箇所設けている。

 「ええ、とても喜んでいるわ」

 子供を話題に前菜を食べ終えると、ギャルソンが紙と鉛筆をテーブルの端に置いて食器を引き下げると折り返しメインディッシュをテーブルに並べた。

 「一度訊こうと思っていたのだけれど、どうしてあのときプロポーズする気になったの?」

 もう白状してもいいでしょうと白身魚を口に運び上目遣いに尋ねた。

 真一はナプキンで口を拭い、少し間を取ると妻の質問に答えた。

 「君のおかげで長崎へ行って悩みを払拭することができただろう。自分の気持ちに整理がついたら、何も考えずに早く君と一緒になりたいと思ったんだ。だから、帰るとすぐに和歌山に行って親父達に話してから、その足で君に会いに行った。でも、本当のことを言えば、あの時プロポーズするつもりじゃなかったんだ」

 思わせぶりにそこで止めて、水が入ったグラスを取った。

 真一は長崎から長野へ帰る途中、亜紀と付き合うことを真剣に考えていた。そのように考える以上、彼はその先のことまで思案していた。

 高校生のときは若いあまり後先のことをあまり考えもしなかった。一途だった分深く傷付いてしまった。だが今はそれなりの年月を経て人生経験も積んだ。だから盲信的な恋はしないと決めた。それで第三者的な気持ちで慎重に彼女の人となりを観察をした。

 彼女は芯が強く家庭的で物事を冷静に見極めて賢明だ。慎ましやかだが自分の意見ははっきり述べる。見ている限りでは義祖父や義父母に対しても孝を尽くしているようだ。それは彼らから信頼を得ていることでわかる。

 それらはみな彼の理想に近かった。それは過大評価ではないと思った。では、彼女と一緒になってうまくやっていけるか、彼女を幸せにすることができるのか、その自信はまだなかった。

 「何よそれ。それじゃ真剣に応えた私が馬鹿みたいじゃない。今頃そんなことを言わないで」

 あまりに率直な告白に亜紀は呆れて脹れ面をした。

 「いやごめん。実は結婚を前提とした交際を申し込むつもりだったんだ。それがペンションに近づくにつれて考えが変って家庭を持ちたくなったんだ。捨て子だったと知らされたこともあったんだと思う。断られてもいいから自分の気持ちをそのまま君にストレートに伝えたくなった。自分で言うのもなんだが、一度決めると前後の見境いがつかなくなるところがあるだろ。それであんな風なムードも何もないプロポーズになってしまった。できればこのようなところで、欧米式に指輪を差し出しながらみんなの見ている前でWill you marry me?とやってみたかった。片膝をついてね」

 真一は悪戯っぽくにやりとした。

 亜紀はその時の彼のその姿を想像して思わず吹き出してしまった。彼なら人目を憚らずやりそうな気がする。

 「そんなのお断りよ。幾ら何でも恥ずかしいわ。ムードはなかったけれど、あなたが一生懸命私に訴えて下さったのが私には何よりの言葉だったわ。知らなかったでしょうけれど、突然のことで驚きはしたけれど、本心では嬉しかったのよ。やっとあなたの本音を聞くことができたのですもの」

 「そうかぁ。こっちはそんなこと知らないから、多分大丈夫だろうと思っていても、どんな答えが返って来るのか緊張のあまり心臓が飛び出しそうでばくばくしていたよ」

 「あら、そうだったの。私の方はその夜は嬉しくて眠れなかったわ」

 そのときのことを思い出すと胸が熱くなる。

 「僕だってそうさ。酔っているのに目が冴えて何度君の部屋へ忍んで行こうかと思ったことか」

 「来ても拒まなかったわよ」

 悪戯っぽく笑うと彼は疑わしそうな目で妻を見た。

 「そうかなあ、部屋に入った途端、叩き出されるような気がして怖かった。今は毎日一緒にいられるし、子供達に囲まれて幸せだ。何よりも、こうして最愛の妻といられることが一番の幸せだ」

 「殺し文句ね。でも、ありがとう、嬉しいわ。でも、よく考えてみたら可笑しいわ」

 亜紀はナプキンで口を押さえながらくすっと笑った。

 「何が?」

 「だって、ほら、恋愛をしてはいけないと思っていた男と恋愛はできないと思っていた女が一緒になったのよ。可笑しいわ」

 「言われてみればそうだな」

 真一も一緒になって笑った。

 「そんなあなたが、何時から私に好意を持ったの?」

 今ならいいでしょと亜紀はワイングラスを持ち上げながら上目遣いで夫を見た。女なら誰でも一度は確かめておきたいことだ。

 「言ってもいいが、値打ちが下がるなあ」

 珍しい夫の言いように亜紀は思わずぷっと吹き出した。

 「何を勿体ぶっているのよ。結婚して5年になるのよ、白状なさい」

 亜紀小さく睨んで夫を責めたてた。

 「そうだなあ、そのときは意識はしていなかったが、池の畔で遇って君の過去の話を聞いてからかな。恋愛なんてこりごりと思っていたくせに、僕とそっくりだと言う男が君に愛されて少々妬ましかった。偉そうに一目惚れはしないと公言していて感情を押し殺すようにしていたから自分の気持ちに気付いていなかった。思い返せばそのときに好意を抱いたんだと思う」

 真一はそう告白すると遠くを見つめるような表情をした。

 「私のどこが良かったの?」

 亜紀はしつこく訊いた。

 「それは君の家に挨拶に行ったときに言っただろう。感性が僕と合ったんだって」

 「それは聞いたわよ。そうじゃなくて、感性が合った理由よ。外見じゃなかったんでしょう?」

 彼女はこの機会に問い質したいようだ。

 真一は少し考えて答えた。

 「そうだな。池の畔で君の話を聞いただろう。話し辛いはずなのに淡々として、しかも整然としていて聴いていてとてもわかりやすかった。この人はとても賢くて意志の強い人なんだろうなって思った。

 それから時々会う機会があって、いつ行っても家の中は綺麗に保たれているし、中川なんかと話しているときでも、決して出しゃばらずにここぞのときはっきり自分の意見を述べた。陽菜ちゃんと接しているときも、まるで自分の妹のようにしているから、家庭的な人なんだろうなと思った。この人なら自分の子供もきっと愛情を持って大切に育てるに違いない。そんなところが僕が求めているものと同じだった。

 君は僕と合った回数を気にしていたようだけど、僕は少しも気にならなかった。自惚れかもしれないが、自分が感じ取ったものに自信があった。だから、親父やお袋にも気に入られるとわかっていた。こんな回答で満足してくれるか?」

 「ありがとう。少し褒めすぎの感はあるけれどよくわかったわ」

 「それで君はどうなんだ。いつから僕を意識するようになったんだ?」

 夫の問いに亜紀は逡巡しなかった。

 「あなたが髭を落として私を驚かせたあのときからだと思う。その時のこと、余りにも衝撃的で今でも時々鮮明に思い出すの。驚きのあまり間の抜けた顔をしていたかと思うと恥ずかしいわ」

 「そう言えば、そんな顔をしていた。あれが、鳩が豆鉄砲を食らったようなと言うんだろうな。目を真ん丸にして一瞬ムンクの〈叫び〉の絵が頭に浮かんだよ」

 「まあ、ひどい」

 また夫を睨んだ。

 「こっちこそ、そんなつもりじゃないのに、あんなに驚くとは思わないからビックリしたよ」

 「それはびっくりしたわ。修一さんが生き還ったかと思ったもの。だけれど、修一さんに似ているからって好きになったのじゃないわよ。もし違う形で知り合ったとしても好きになっていたと思う」

 「それは光栄だね。相思相愛でよかった」

 亜紀は、あなたの口癖が出たと笑った。

 「結局互いに好きになっていながら知らずにいて、悩みに悩んで結ばれるのに1年余りもかかったのね」

 真一はワイングラスを手に取り翳しそれに応えて言った。

 「それはね、このワインが熟成するための必要な年月があるように、僕達もそうなるための必要な日数だったのだと思う。それが1年だったと言うわけさ」

 夫の絶妙な比喩にいつも感心させられてしまう。

 「さすが、大学の先生だっただけあって、言うことが上手ね」

 亜紀が過去形で言ったように、真一は大学との縁が完全に切れた。退官した後も、懇請されて一年契約の非常勤講師を続けていたのだが、本業が忙しくなり海外出張も多くなったことから、昨年から契約の更新をしていない。

 「相思相愛の二人が結ばれて早5年。それを記念して、もう一度乾杯しよう」

 相思相愛とか最愛とかの言葉が彼は好きだ。その愛情表現も半ば口癖のようになっているから、今はその効果も薄れてしまっているが、それでも亜紀は嬉しくなってつい微笑んでしまう。

 真一は妻と自分のグラスにワインを注いだ。二人はグラスを揺らし一口飲むと満足そうに見つめ合った。

 5人の子供を産んでも妻の体型はほとんど変わっていない。落ち着きと慈愛に満ちた母親の表情が加わって一層綺麗になったと真一は思った。

 「それにしても、いきなり妊娠してしまうなんて夢にも思わなかった」

 「私だってそうよ。妊娠しやすい質なのかしら?」

 「そうなのかも。僕は嬉しかったけど、君には悪かったなあと思っている」

 「あら、どうして?」

 「やっと夫婦になれたのに二人だけの生活があまり取れなかった」

 「それはいいわよ。子育ては大変だけれど、毎日が充実しているわ。それに、あなたやお爺様達が子供達の面倒を看て下さっているから楽しているわ。こうして夫婦水入らずで祝うことが出来るのも、あなたの先見の明のお陰よ。二人だけだったら、子供を置いてここに来ることなどできなかったわ」

 確かに、彼らの親がいなければ、やんちゃ盛りの3人とよちよち歩きするようになった1歳児二人を残して出歩くことなど思いもよらないことだ。

 「でもまさかなあ、こんなに早く5人の子持ちになるなんて夢にも思わなかった」

 「双子が2組だなんて誰だって予想しないわよ。ひょっとしたら、あなたの中に双生児ができやすい遺伝子があるのじゃないかしら」

 亜紀は悪戯っぽく微笑んで、でももう子供はいいでしょう?と言った

 「君がいいと言うなら、僕もいいよ」

 落胆の表情を隠して応じた。

 「本当に?」

 「それゃ、経済的に許せば、亜紀の子なら何人でも欲しい」

 つい本音を言ってしまった。

 「殺し文句が上手になったわねぇ。それじゃ、今晩頑張ってみる?」

 上目遣いで含み笑いをした。

 「いいのか?」

 亜紀はゆっくりと頷いた。

 母から亜紀の体を考えて慎めと言われたこともあり、これまで危ない日は控えていた。

 「これが私からのプレゼント」

 悪戯っぽく笑った。それとは別に夫のくたびれた財布を見て、少々値のはったものを渡す用意はしている。

 「それは何よりのプレゼントだ。それじゃ、アルコールは控えておこう。それにしても君は強いよなあ。君と結婚できてよかったと思うよ。いつまでも若くて綺麗で、よき妻いいお母さんでいて欲しい」

 何を指して強いと言っているのかわからなかったが、亜紀はそれを褒め言葉と受け取った。

 「あなたこそ、夫としても父親としても立派にその役割を果たしているわ。これからもよろしくお願いします」

 「了解。それじゃ、よき妻と夫、子供達のよきママとパパのために、もう一度乾杯」

 真一と亜紀はグラスを目の高さに上げた。亜紀の頬がほんのりと赤く染まって来た。

 「この頃何故か時々不安に思うことがあるのよ。可愛い子供達と私達を見守ってくれる大家族に囲まれて、幸せすぎていつかそのしっぺ返しが来るんじゃないかって」

 グラスを置いて亜紀が言ったのに対して、真一は即座に「何を馬鹿な」と強く否定しておいて、気のきいたことを言った。

 「そんなことはないさ。君は小さい頃から苦労して悲しい目にも遭ってきただろう。だから、きっと神様が不幸だった日の埋め合わせをしてくれているんだよ。それに修一と大お爺さんも僕らを見守っていてくれているし」

 「そうね、確かにそうだわ。感謝しないといけないわね」

 「そうさ。だから月命日の墓参りは欠かしたことがないじゃないか。弟には13回忌のときに改めて礼を言おう」

 修一の13回忌の法要は来年の旧盆の初日を予定している。

 夫婦は耕造が逝去してから、どちらかの命日には欠かさずお墓参りをしていて、折に触れて子供達を連れて行く。亜美と修一が誕生した時も生まれ時、真一の弟であり亜紀の亡夫でもあった修一に報告したし、耕一と亜衣と亜耶のときも同様に二人に報告した。

 その墓地は車で10分ほど離れた山麓にあり、そこからペンションや池を遠望することができる。加辺家のそれは元名主の家柄だっただけに広い。気候のいい時などは墓石の前にシートを敷き、家族揃って食事をして水入らずのひと時を過ごすこともある。

 「5年はあっという間だった。その間に色んな事があった。結婚式の時にバージンロードに立った君を見た時は、あまりの美しさに天使が舞い降りたような気がした。いや、もちろん今も十分綺麗だけど、あの時はまた特別だった」

 メインディシュに舌鼓を打ちながら述懐した。

 「ああ、本当に僕の奥さんになるんだなあと感激している癖に弟に対して申し訳ない気もして、それが負い目になっていたのか、式が終わってバージンロードを歩いているときに、反対側の君の腕を修一が取っているような気がして、錯覚だとわかっていても不思議な気分だった。あれは何なんだろうな」

 あなたもそうだったのと亜紀は驚いた表情をした。

 「私も同じような感覚だったのよ。そっと横を見たけれど誰もいなかった。それなのに腕を取られている感覚があってそれがしばらく残っていたわ」

 「君もそうだったのか。不思議だな。それじゃ、目には見えなかったが、修一も式に参加してくれていたんだな」

 「そうよ、きっと。今もお爺さんと一緒に私達を見守っていてくれているわよ」

 「そうだな」

 肉を切り分け頬張りながら相槌を打った。

 「披露宴と新婚旅行は楽しかったわね。あなたが羽目を外しまわるから母が驚いていたわ」

 ややしんみりとしかかったのを払拭するように明るく言った。

 「君と結婚することができて、嬉しさのあまり箍が外れてしまったんだ。学生達に随分冷やかされた」

 「酔っ払っているのに、合気道はするし玻瑠香さん相手に剣道まででしょう。観ていて怪我をしないかとはらはらしたわ」

 「惚れ直しただろう?」

 それには、うふふと笑って答えなかった。

 「そして、村を離れたことがあったでしょう。あのときは本当に辛かった。それを全部あなたが解決してくれて、どれほど心強かったか。本当にこの人と一緒でよかったと大お爺さんに改めて感謝したわ。その大お爺さんが亡くなったときは悲しくてしようがなかったけれど、あなたと子供達がいてくれたからここまで頑張れたのよ」

 「5人の子供と爺さん婆さんまでいて、亜紀はよく頑張っていると思うよ。大お爺さんにはもう少し長生きして欲しかった」

 夫の言に亜紀は耕造の皺だらけの笑い顔を思い出して瞳が少し潤んだ。

 「悲しい出来事だったが、その後が大変だった」

 「相続のこと?」

 確かに夫は大変だった。加辺家の問題には関るまいとして傍観者の立場でいたのに、そうもいかなくなってしまった。その時に初めて遺産相続の大変さを身をもって知った。

 「それもあるが」

 「じゃ、養子のこと?」

 「うん、お養父さん達と同居すると決めてから、避けられない問題として二人目の子供が産まれたらいずれそのようなことが起きるだろうなと予想はしていたんだ」

 亜紀は考えもしなかった。それがいかにも夫らしいと言えるのだが、そんな先のことまで考えていたのかと驚きもし呆れもした。

 「もしかして、あの時からそうしようと考えていたの?」

 「漠然とね。それが一番の解決法かなって。そのときはまだ子供がいなかったから現実味がなかった。結果的に玻瑠香には意に沿わないことを強いた結果になったが」

 それが彼ら夫婦の玻瑠香への負い目となっている。

 「そうね。可哀想だけれど、その分玻瑠香さんに私達が気遣ってあげればいいのよ」

 無責任かと思うが、あの時の選択はあれしかなくそれでよかったと思っている。

 「だから玻瑠香にはできる限りのことはしてやりたいと思っていた。アメリカへ行きたいと言い出した時も、できるだけのことはしたつもりだ。君には苦労をかけたけど」

 「いいのよ、そんなことは」

 耕造の亡き後の遺産相続の揉め事は真一の活躍で何とか纏まったが、それを教訓にした盛蔵は子供のない自分がいなくなると再び同じ事が繰り返されるのではないかとの危機感を募らせた。

 真一夫婦に二男耕一が誕生すると、盛蔵と稲子は耕造の3回忌の法事の後に真一夫婦を自室に呼び、誕生間もない耕一を加辺家の養子にしたいと申し入れた。真一は少し考えさせて欲しいと態度を留保した。その時、夫はどうするつもりなのだろうと亜紀は思ったが、夫に任せておけば悪いことにはならないだろうと楽観視し黙っていた。

 一義的には耕一の親である亜紀と二人で決めればいいことだが、これまでも家族で様々なことを話し合ってきた経緯もあり、彼らは双方の親の意見を聴いた。

 相談を持ちかけられた夫婦の親達にとっても自分らの孫のことだけに事は重大だった。

 これまでの盛蔵と稲子への恩義や加辺家の事情を勘案すると彼らも無下にできない問題だった。が、最後は二人の意志に預けた。逆に真一が自分の考えを最後まで述べなかったことで、そのように仕向けたとも言えた。

 真一は再度一日かけて思案し、彼なりの結論を下した。その日の晩、亜紀に自分の考えを伝えた。彼女は夫がどのような決定を下そうともそれに従おうと決めていた。だが、それを聞いたときはさすがに目を剥いた。恐らく義父母の要望を受け入れるざるを得ないのだろうと覚悟はしていたのだが、夫の決断は彼女の予想を越えていた。

 「あなた、本当にそれでいいの?」

 思わず夫をまじまじと見つめて確認してしまった。

 「それが一番の解決法だと思う。ただ僕ら家族にとって面倒になるばかりでいいことはないと思う。それでも君に異存がなければならそうしたい」

 亜紀は夫が下した判断の理由と考えられる面倒事も聴いて彼の意向に同意した。それでも成瀬の義父母がそれをすんなりと受け入れるかどうか半信半疑だった。とりわけ義妹の反応が心配だった。

 翌夜、真一は家族会議を招集し、耕造の法事のために一時帰国していた玻瑠香にも出席するよう告げた。彼女は招集した理由を兄から告げられても、何故自分が呼ばれたのか理解できないまま部外者を決め込んで末席で大人しくしていた。

 「先にご相談しましたように、お義父さんとお義母さんから耕一を加辺家の養子にと求められました。それはお爺さんの遺産相続で揉め事があったからです」

 そのことは真一が奔走していたことで彼らも知っているが、加辺家に立ち入ることなので詳細は聴いていない。一人玻瑠香は関係のない自分を呼んで、何故そんな話をするのかと訝しく思いながら傍観していた。

 「後継者である修一が存命であればそのような心配をする必要はなかったのですが、不幸にして亡くなりました。それで、いずれ避けられないことですが、お義父さんに不幸があった時の相続人は、相続順位第一位の修一と第二位のお爺さんが亡くなっていますので、配偶者であるお義母さんと第3位の法定相続人である文蔵さんになります。その場合、お義母さんに3/4、文蔵さんに1/4の相続の権利が発生することになります」

 そのときも玻瑠香は他人事のような顔をして聞いている妹に真一は心の中でごめんと詫びていた。

 「広大な森と山を維持管理するのは大変ですし、相続税のこともあって、もしお義父さんに何かあったとき、弟の文蔵さんが分割相続した土地を売却してしまうのではないかと危惧しているのです。

 ペンション経営にはこの豊かな自然が不可欠です。それに先祖から引き継いできたこの土地をお義父さんの代でこれ以上縮小させたくないとのお考えもあります。もちろん文蔵さんに応分の現金を渡すことで解決も可能でしょう。でも、ペンションの経営のこともありますし、お義母さんの相続税の納付もあります。将来のことを考えると、安易にそのようなことは出来ません。それを避けるには、法律に詳しくないので誤りがあるかも知れませんが、お義母さんに全ての財産が相続出来るように遺言書を残せば、お義母さんが相続できるでしょう。ですが、以前の経緯を思うと文蔵さんは慰留分侵害額請求の申し立てをするかもしれません。また、仮にお義母さんが全てを相続できたとして、その後はどうなるのでしょう。言い方は悪いですが、加辺家とはゆかりのないお義母さんの親族に相続権が移ることになるでしょう」

 お義母さん済みませんと真一は稲子に頭を下げた。

 「いいえ、その通りですから」

 稲子は彼の説明を聴きながら、息子が生きていればと今更のように思った。

 「そこまで考えた時、お義父さんが行く末に不安を覚えるのは僕にもよく理解できました。それでもし耕一が加辺家の養子となれば、相続人はお義母さんと耕一のみになりますから、文蔵さんにその権利がなくなります。そして、お義母さんが亡くなった後は耕一が継ぐことになって後顧の憂いがなくなるのです。それで、耕一を加辺家の養子にと望まれ僕達夫婦に相談に来られたと言う訳です。僕の説明で間違いがないですか?」

 真一の確認に、盛蔵はその通りだと答えた。

 「確かに弟の文蔵が相続するのは法律で定められた権利ですが、耕造が亡くなった時のことを思うと先祖が遺してくれた土地にあまり愛着がないように思えてならないのです。現金で片を付けるにしても、真一さんが言ったように相続税やペンション経営のことを考えると安易に渡すこともできません。ですから、将来のことを考えると養子をとるしかないのです。最終的に耕一が財産を相続することになるでしょうが、耕一にペンションを継げだとか土地を売却するなとは申しません。ただ、私と家内が存命の間は、何としてもこの土地を守りたいのです。ただ、それだけの願いです。どうでしょうかみなさん、耕一を養子として迎えることご了承いただけませんでしょうか?」

 盛蔵と稲子は深く頭を下げた。

 しばらく誰も発言しなかった。玻瑠香だけが、それがどうしたとばかりに傍観者の立場で聴いていた。

 やがてここは最年長の自分が言うべきと正巳が口を開いた。

 「加辺さんのお話はよくわかりました。私が加辺さんの立場だったとしても同じことを考えたと思います」

 彼は同意を得るようかのに亜紀の父を見た。和雄も深く頷いた。

 「ありがとうございます」

 受け入れられたと思い、ほっとして盛蔵と稲子は再び頭を上げた。

 「それで真一君、どうするか決めたのかね」

 念のために和雄が尋ねた。みなを招集したからには何らかの結論を下したのだろうと思った。

 「はい、亜紀と相談して決めました」

 真一は全員を見渡した。結論は聞かずともわかっているつもりの彼らだが、それでも黙って待った。誰かが唾を飲み込んだような小さな音がした。

 「加辺のお義父さんとお義母さんにご異存がなければ、僕ら家族が加辺家の養子になります」

 ええっ!と驚きの声が上がった。予想外のことだった。一人部外者を決め込んでいた玻瑠香も思わず頭を上げて、何を言い出すんだとばかりに兄を睨んだ。この席に自分を呼んだ理由も自分に火の粉が降りかかってきたことも瞬時に悟った。

 盛蔵もそれを考えないではなかった。しかし、そうしたところで一蹴されるだろうと思っていた。だからそこまでの申し入れはしなかった。それがまさか当の本人から言い出されるとは思いもよらなかった。逆に面食らって、うーんと唸ってしまった。

 青天の霹靂で誰よりも驚いたのが真一の両親だった。驚愕のあまり正巳の口はぱくぱくするばかりで声にならなかった。庸子は渋面を作ってじっと畳を睨んでいる。

 「ただ、誤解して欲しくないのは、僕が加辺家の財産に関心があるからとか、ペンション経営に参画したいからではありません。将来はともかく亜紀も同じです。

 本来、お義父さん達のものは弟の修一が受け継ぐべきものでした。もし弟がここにいれば、お義父さんお義母さんと思いを共有していたに違いありません。ですから、弟に代り加辺家を守ることが、僕らに課された使命だと考えました。そうなった場合、僕ら夫婦はもちろん、子供にも可能な限りこの土地を守らせます。

 法的には戸籍筆頭者の僕が加辺家の養子になれば、加辺の姓で新しい戸籍を作ることになります。当然妻である亜紀も同じ戸籍に入ることになります。ですが子供達だけは現在の戸籍に残ってしまうので、その入籍手続きも同時にします。お義父さんお義母さん、それでいいですか」

 盛蔵は苦虫を噛み潰したような表情の正巳と庸子を憚るように彼らを見た。

 「いいも何も、それゃあんたが息子になってくれれば言うことはないが、それだと成瀬さんの家は・・・」

 成瀬家の懸念を口にした。

 「そうだよ、真一。私達の家はどうなるの?」

 耕一の養子は仕方がないだろうと夫と話していた庸子には寝耳に水のことで、まさか息子がそのような結論を下すとは思ってもいなかった。彼女はすがるようににじり寄って息子を責めた。

 「お袋、ごめん。成瀬は玻瑠香に継いで貰う。僕は相続を放棄する。親父、どうか許して欲しい」

 「私も遠藤家の相続を放棄します、お父さん」

 真一と亜紀は双方の両親に向かって深く頭を下げた。

 そんなお前と庸子は泣きださんばかりで、和雄は美智子と顔を見合わせ腕を組 んだまま、むむむと唸った。

 「嫌よ!絶対そんなの受け入れられない。私はお嫁に行くんだから」

 それまで黙っていた玻瑠香が拒絶した。

 「そう言わずに考えてくれないか。お爺さんが亡くなって、僕が遺産執行人に選任されて苦労したのを知っているだろう。あの繰り返しは避けたい」

 妹に向き直ると穏やかに諭した。

 「そんなの知らないわよ。そんなこと突然言われても私には何の事だかわからないし、何の相談もなくいきなりこんな場所で言うなんて、お兄ちゃん卑怯よ。許せない」

 真っ赤になって兄をなじった。

 「済まん、相談しなくて悪かった。お前の言う通りだ。申し訳なかった。ただ、お前なら兄の気持ちをわかってくれると思った。本当に済まない」

 真一は正座したまま妹に頭を下げたが、玻瑠香は聴く耳を持たないとばかりに、ぷいと横を向いたまま返事もしなかった。彼女にしてみれば、兄に頭を下げられたところで簡単に同意できることではなかった。畳を蹴って出て行きたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて居残った。自分の知らないうちに物事を決められたのでは堪らないと思ったからだ。

 「玻瑠香に説明しないと理解して貰えないようです。大お爺さんのときの話をここでしてもいいですか?」

 耕造亡き後の遺産相続を巡り起きた紛争のことは加辺家内のことだけに事の詳細は誰にも話していなかった。

 「身内のことで恥かしい話だが、みな気心の知れた親戚ですからいいでしょう」

 真一がそう言うのなら仕方がないと盛蔵はみんなの顔を見渡して同意した。

 玻瑠香だけはそんな話は聞きたくないとばかりに襖にへばりついて横に向いたまま不貞腐れていた。しかし、真一は彼女が聞き耳を立てていることを察知していた。

 それでは、お義父さんからは話し辛いでしょうから、僕からお話ししますと語り出した。

 「大お爺さんの49日の法事が終った後、僕ら夫婦にお義父さんから相談があると呼ばれ、大お爺さんの遺言公正証書を見せられました。その中で遺言執行者として僕が指名されていたのです。そして、農協に預けていた預貯金を亜紀に、それ以外の全てをお義父さんに相続させると記されていました。

 正直な話、誰からも誤解を受けたくなかったので、加辺家の相続問題には関りたくありませんでした。亜紀も同じ考えでした。そんなわけで、僕らは部外者を決め込んでいました。それだけに突然のことに困惑して、そんな重要な役目を引き受けるつもりなどありませんでした。

 初めのうちは先程言った理由でその要請を断り続けました。でも、法律家を差し置いて何の知識もない僕に信頼を寄せて選任して下さったのです。そんな大お爺さんの信頼に応えて、ご遺志通りの分割協議が行えるようにすることが、故人の恩に報いることだと亜紀にも言われ思い直して受任しました。

 それからは、自分なりに相続手続きのことを調べ、行政書士と不動産鑑定士に依頼して戸籍・相続人調査、相続財産調査と不動産の査定をしてもらいました。それを元に相続財産の目録の作成や遺産分割協議書の作成をしました。ところが、相続人の最終合意に至るまでには紆余曲折がありました。

 威圧的にならないようにと、この母屋ではなく文蔵さんの家で遺産分割協議を始めました。ところが、文蔵さんは大お爺さんの遺言書に同意してはくれませんでした。

 文蔵さんはそれなら遺留分減殺請求すると権利を主張するし、お義父さんは土地の散逸を心配して、遺言書通りの執行に固執しました。平行線のままお二人の仲は一時険悪なものになりました。

 突然相続人の一人となってしまった亜紀はその場に居た堪れなかったと思います。もし僕がそこになかったら、その場で亜紀は相続放棄を宣言していたでしょう。でも、僕の考えで安易に放棄しないように言い含め、最後まで無言を通させました。終始何も言えなかった亜紀には辛かったと思います。

 元々一度で片が付くとは思っていませんでしたから、何度も文蔵さんのところへ足を運んで説得を試みました。しかし、承諾はしていただけませんでした。文蔵さんは何も言いませんでしたが、私が入り婿同然の形で加辺家へ入りこんだときから不信感を抱いていたでしょう、初めからお義父さん側の人間とみなし警戒感を持っていたのだと思います」

 「そうだろうな。私らもここにこうしてお世話になっているのだから心中穏やかではないのも無理はない」

 和雄の発言に、真一の両親も黙って頷いた。

 「相続税納付の期限もありますから、いつまでも膠着状態のままでいるわけにもいかず、最後まで言いたくなかったのですが、文蔵さんが所帯を持ったときに大お爺さんから贈与された土地と建物価格を洗い出して、既に相当な額を相続していることを指摘しました。その上で、亜紀が相続するはずだったものを文蔵さんに譲渡することで納得していただいたのです」

 遺言書の通りにならなかったことに忸怩じくじたる思いがあったが、これが最善の方法だと思うと盛蔵と故人に詫びたのだった。

 「あのときは、真一さんと亜紀ちゃんに迷惑をかけてしまった。真一さんが親身になって弟を説得してくれなかったら、裁判沙汰になってややこしいことになって近隣の笑い者になっていたかもしれません。あんな難しいことを本当によくやってくれました」

 「大お爺さんのご遺志通りにはならなかったから、今でも申し訳なく思っています」

 「いや、亜紀ちゃんには申し訳ないことになってしまったが、あれしかなかったと思う」

 「初めから私は大お爺さんの遺産を当てにはしていませんでした。それに多額の生前贈与をしていただいていましたから」

 今はそれも亜紀の意向で森林整備や遊歩道整備に支出したからほとんど残っていない。

 真一は体育座りをしたまま不貞腐れている玻瑠香に向き直った。

 「玻瑠香、今は文蔵さんと以前のような交誼をもっているが、また遺産問題が起きるとどうなるかわからない。潔癖なお前には理解できないだろうが、お金が絡むと醜い面が出てくるのは避けられないこともある。まして、お義母さんと文蔵さんとは血縁関係にないから、お義父さんが遺言書を遺したとしてもどういうことになるか、お前にも見当がつくだろう。それにお義父さんが欲得づくで言っておられるのではないことくらいわかるはずだ。だからさっき言ったこと、真剣に考えて欲しいんだ。

 俺だってお義父さんの仰るように耕一を養子に出すことも考えた。幸い子宝に恵まれて3人もいるからな。だが、それだと養子になる耕一だけが加辺家と俺達双方の相続権を持つことになって、ほかの子には不公平になる。どこか遠くの家に行くのならともかく、同じ家で一緒に遊んで育って同じお爺さんやお婆さんに可愛がってもらっているのに、姓だけが異なる耕一が兄姉や友達から変な目で見られはしないかと心配なんだ。もちろん、そんなことにならないように育てるつもりだ。しかし、子供はその辺のところ敏感だから、いたずらに余計な思いはさせたくない。だから、親父やお袋それにお前にも申し訳ないことになるが、承知して欲しんだ」

 「だったら、お兄ちゃんが加辺家を継いでも、子供達が相続する時、揉めるんじゃないの?」

 それを言ったところで兄の決心を変えられないとわかっていても抵抗したかった。

 「確かにそうだ。だから、そうならないように準備するし、子供達にも小さい時から言い聞かせる。お前が成瀬を継いでくれるなら、俺なりに出来る限りのことをする」

 その後を盛蔵が引き取った。

 「玻瑠香さん、お兄さんが跡を継いでくれるとの話は今初めて聞いた。私らの勝手な思いであなたに迷惑をかけるのは心苦しい。先ほど真一さんが言った理由のほかは何もない。どうか前向き考えてもらえないだろうか。私と家内は玻瑠香さんを我が娘同然のように思っている。もしお兄さんが成瀬家の跡を継いでくれるのなら、私らもできる精一杯のことをする」

 正巳と庸子は考え込んでしまった。これまで加辺家に世話になっているだけに、無下に断ることもできず、かと言って、すんなりはいと応じることもできない。

 亜紀は下を向いたままの玻瑠香に膝を向けた。

「玻瑠香さん、ごめんなさい、急にこんなこと言って。私達も悩んだ末の結論なの。玻瑠香さんのことも考えたのだけれどどうしようもなかったの。本当にごめんなさい」

 義妹に向かって深々と頭を畳に擦り付けたい。

 いつの間にか、この問題は正巳と庸子から離れ、彼女の返答次第となっていた。

 「すぐには返事ができないから考えさせて」

 しばらく無言のままでいたが、やがて覚悟を決めたのか、絞り出すような声で言った。

 これまで陰に日向に自分を思いやってくれている義姉だが、だからと言って自分の心を偽ってまで期待に応えるつもりはなかった。本気になって考えるつもりだった。

 「わかった。じっくり考えてくれたらいい。しかし、いつまでも待てないから、新年度が始まるまでに返事をくれないか」

 それは姓が変わる時の子供達に与える影響のことを考慮しているのだと亜紀は理解した。子供達が自我に目覚めない早い方がいいことは明白だ。

 妹が無言で頷くのを見て、「それでいいですか、お義父さん」と真一は振り返って盛蔵の意向を確かめた。

 「私らはそれで構わないが、成瀬さんのご意向はどうだろう?」

 玻瑠香の軟化した様子に内心ほっとしたが、気になるのは庸子の返事だった。彼女がうんと言わない限り前に進みそうになかった。

 正巳と庸子は盛蔵から問われて考え込んだ。玻瑠香が防波堤になってくれれば申し分ないのだが、息子と嫁の説得と加辺の後押しで半ば決壊したも同然だった。

 彼らもまた祖父母の遺産相続の件では苦い思い出があった。相続人だけの話し合いだけでも紛糾することが多いのに、その伴侶まで巻き込むと収拾がつかなくなる。正巳の兄弟の仲もそれで一時期険悪になった。だから加辺の申し入れはよく理解できた。耕一の養子の件も納得できる。しかし、息子夫婦が養子になるとなると話は違う。はいそうですかと簡単に返事のできることではなかった。さてどうしたものかと正巳が思案を巡らせているうちに庸子が先に答えた。

 「身内だけで相談させて下さいませんか。そんなに時間はとらせませんから」

 庸子から前向きな回答を得て盛蔵はほっとして肩を崩した。

 彼らが同意してそれを加辺に告げたのは半月後だった。それは玻瑠香自身が決断したことだが、父母も自分も半ば居候状態で世話になっていることへの恩返しのつもりもあった。そのとき彼女が出した条件はただ一つ、兄が長男として両親のこれからのことに責任を持つことだった。もとより彼に異存はなかった。

 話が纏まると、新年度まで待つ必要がないとの正巳の意見で、真一の家族が揃って加辺姓になったのは年が明けてすぐのことだった。


                    (五)



 「あのときはうまく纏まってよかったわ。玻瑠香さんとお母様がどうなさるか気が気ではなかったもの」

 「玻瑠香が受け容れてくれたからよかった。あの我の強い奴が随分大人になったもんだと見直した」

 「それに、ますます綺麗になったと思うわ。何がそんなに変えたのかしら」

 悪戯っぽく笑って夫を睨んだ。

 「俺のせいじゃないぞ」

 慌てて手を振った。

 「君の影響が一番大きいんじゃないか。まあ、それだけあいつも成長したってことさ」

 確かに玻瑠香は変わった。家事を積極的に手伝ってくれることもそうだが、子供達の相手も進んでしてくれる。本人は自覚していなようだが、あの自分本位で何をしでかすかわからなかった彼女が、他人を思いやり家族全体のことを考えるようになった。それが成長した証しだ。心配症の庸子が喜ぶのは無理もなかった。それもこれも亜紀のお陰だと言葉にして感謝してくれたが、彼女自身は特別なことをしたとの自覚がないから不思議な思いだった。

 真一は手近にある紙と鉛筆を手に取った。玻瑠香の話をしている間に考えがまとまったのか、一度も妻の顔を見ずに描き始めた。亜紀はどのように描いてくれるのだろうかと期待しながら黙って彼の手を見つめた。

 右手を動かす夫を見ながら、愛されていることを実感していた。結婚して5年になるが、彼は何も変わっていない。いやますます互いの絆が深まっているように思う。

 夫のことをあまり知らなかったときは、気難しい印象があった。彼の告白で自分との接触を避けていたからだとその理由を知った。彼のマンションに押し掛けた時には、意外な素顔を発見して親近感を覚えた。そして川越の家では、それまでとは全く違う馬鹿陽気な一面を見せられた。結婚して一緒になると家族とその絆を大切にする彼がいた。彼と一緒になれて本当に良かったと巡り合わせてくれた亡き夫に感謝した。彼を引き合わせてくれなかったら、今の幸せはなかった。

 10分ほどで彼の絵はできあがり、はいと紙を対面の妻に手渡した。亜紀はそれを両手で恭しく受け取ると、通信簿を見るかのようにドキドキしながらそれを見た。次の瞬間、彼女の表情がぱっと明るく輝いた。

 彼女の予想に反し、夫が描いた絵は今の自分ではなく結婚式のときものだった。しかもそれはキスを交わすために彼を見上げた一瞬を横から捉えたものだった。私はあのときこんな幸せそうな表情をしていたのか。その時のことを思い出して感激のあまり涙が出そうになった。人が言うほど美しいと自分で思ったことはないが、この絵の自分は生気に満ち溢れ内なる喜びと感動が表情に表れていて、他人ではないかと思える程美しいと思った。それはとりもなおさず、夫がこのように私を見ていてくれたことにほかならなかった。そのことが口では言い表せないほど感動させた。気に入ってくれた?と夫に訊かれても、目を離すことが出来きず、うんうんと頷くのが精一杯だった。そんな妻に真一は驚き顔だった。

 「それほど感激してくれるとは思わなかった」

 「あのとき私はこんな表情をしていたのね。感情がそのまま表れていて、結婚式のどの写真よりこの絵の方がいいわ。  私には何よりのプレゼントよ。大切にするわ」

 絵を胸に当てて率直に感情を表した。

 頬を染め感動している妻に、おいおい、ドレスが汚れるぞと減らず口を叩こうとしたのだが、予想以上に喜んでいるのを見て言葉を飲み込んだ。

 「教会の扉が開いて逆光を浴びた君の姿を見た時、余りの美しさに声も出ないほど感動した。上気した顔で僕を見上げたときの顔も強く印象に残っているよ。ああ、この人が自分の妻になるんだなあと思うと自然に頬が緩んできて、気を引き締めるのに困った」

 「あら、そうだったの。私は気恥ずかしくてあまりよくあなたを見られなかったけれど、しっかりと見ておくんだったわ。これに色を着けることも出来る?」

 「着色した方がいいのか?」

 「そうしてくれたら嬉しいけど」

 「わかった、そうしよう」

 「ありがとう。楽しみだわ」

 真一はちょっと手洗いへと断って席を立った。

 亜紀はなおも絵に魅入っていたが、タイミングを推し量っていたように支配人提供の食後酒とデザートが運ばれて来たので脇に置いた。ギャルソンとウェイターはテーブルに置かれた絵に一瞬驚いた様子だったが、仕事からか声に出すことはなかった。

 夫が戻るのを亜紀は手持無沙汰にワイングラスをもてあそんでいると、背後からコツコツと靴の音が近づき、テーブルの傍で立ち止まった。その気配に振り向くと、スーツで身を固めた加藤と陽菜子が笑顔で立っていたので思わず腰を浮かしかけた。陽菜子も淡いピンクのワンピースにシャネルのペンダントと二枚貝に真珠がついたイヤリングで着飾っている。

 「びっくりした。あなた達どうしてここに?」

 来るはずのない彼らにまだどきどきして胸に手をやった。

 加藤と陽菜子は玻瑠香がドイツへ旅立って、しばらくすると真剣に付き合うようになった。

 その発端は亜紀の陽菜子が加藤に対して好意を持っているとの一言だったが、陽菜子が4回生になった夏休みに松本城で偶然出会ったことが付き合う切っ掛けとなった。

 彼らの交際は深く潜行して、仲人を頼まれるまで真一はそのことを知らなかった。亜紀だけは陽菜子が急に綺麗になったから、薄々そうではないかしらと疑っていたので婚約したと聞いてもそれほど驚かなかった。

 「入口に立ったら奥の方に亜紀姉さんが見えたから、私達の方がビックリしたわ。亜紀姉さんこそ、どうしてここで食事しているの?真一兄さんは?」

 一緒のはずの真一がいないから、立ったままぐるっと見渡した。

 「今お手洗いに行っているの。私達、ここで結婚5周年を祝っていたのよ。あなた達こそどうしてここに?」

 二人は松本市内に居を構えているから、ここまで来て食事をする必要もないのにと不思議に思った。

 「僕達もちょっとしたお祝い事があって、その報告に陽菜子の家に行った帰りです。そのお祝いを兼ねてレストランで食事でもしようとここへ来たら、亜紀さんが座っていたから驚きました」

 何が嬉しいのか彼の頬が緩みっぱなしだ。

 「お祝いって・・・?」

 そこへ真一がトイレから戻って目を丸くした。

 「君達、どうしてここに?」

 「お祝い事があって、ここで食事をしようと来たのよ。そうしたら亜紀姉さんが正装して座っているでしょう。びっくりしたわ」

 「ちょうどいい、ここで会ったのも神様のお導きだ。先生にご馳走してもらおう。済みません、ここで一緒に食事をします。料理は同じものを。それと請求はこちらに」

 健吾は真一を指しギャルソンにちゃっかり頼むと椅子引いて陽菜子を座らせた。

 「ありがとう」

 「あら、仲がいいことね」

 亜紀が珍しく二人を冷やかした。

 「何の祝いか知らんが、君達の祝いは別の席でちゃんと金を払って勝手にやってくれ。俺は愛妻と水入らずの食事を楽しんでいるんだ、邪魔するな」

 しっしと追い出さんばかりに同席を拒否するのを亜紀は夫の腕に手を置いて窘めた。

 「いいじゃないの、あなた。折角一緒になったのだから、その方が楽しいわ。陽菜ちゃん達のお祝い事も何か訊きたいし」

 愛妻に諭されて水入らずを諦めると、手を上げてワイングラスを頼み、彼らのためにワインを注いでやった。

 「先生、僕らのことは構わずに食事を続けて下さい」

 「俺達は終わったよ。勘定をして出るだけだ」

 真一がつれなく言っても、じゃでもう少し付き合ってくださいと加藤は動じなかった。

 「何のお祝いか知らないけれど、乾杯しましょうか」

 亜紀がグラスを持ち上げた時、テーブルに置いたままのデッサンに気付き、それをそっと隠そうとした。見られて困る物ではないが、彼らに冷やかされそうで嫌だった。 しかし、その動作が却って陽菜子の注意を惹いた。目聡く見つけた彼女がそれは何かと尋ねた。

 亜紀は観念して夫が描いたデッサンを彼女に見せた。

 「あらっ、これって亜紀姉さんの結婚式の時のじゃない?お義姉さん綺麗。真一兄さんが描いたの?」

 横から健吾が覗き込んだ。

 「さすが先生だ。うまく描けてる」

 「やっぱり上手ね。ねね、今度は私を描いて、お願い」

 陽菜子は大袈裟に両手を合わせて頼んだが、真一は素っ気なく断った。

 「自分の旦那に描いてもらえ。きっと美人に描いてくれるぞ」

 「駄目よ、この人。建築家の癖に絵心がないから、これほどうまく描けないわよ。ねえ、真一兄さん、お願い」

 辛辣に夫を酷評しておいて陽菜子は真一に拝み倒したが、それでも首を縦に振らなかった。結婚前ならともかく、加藤の妻となった今、たとえ文蔵の娘であっても同じ建築家の夫を差し置いてそれは出来ない相談だった。

 「加藤、ここに紙と鉛筆があるから、料理を待つ間ちょっと描いてみろ」

 いやー、それは・・・と先生の前で嫌だと渋った。しかし、その彼も陽菜子の真剣な目線に仕方がないかと紙と鉛筆と取った。

 照れ臭そうに自分を見つめる陽菜子を前に、時々見やりながらを鉛筆を動かした。遅々として鉛筆に進まない様子に見兼ねて、真一はここはこう、そこはこのようにと少し手を加えてアドバイスを与えた。

 亜紀は手洗いに立ち、化粧を直して家に電話をして子供達の様子を聞いて戻って来ても、加藤は無駄口も叩かず熱心に手を動かしていた。

 料理を10分余り待たせて彼の妻の肖像画を仕上げた。それを見た真一の評価は、初めてにしてはよく描けているだった。

 健吾は立ち上がり、自分が描いた絵を対面に座る妻にうやうやしく手渡した。期待していた以上の出来だったのか、陽菜子は絵を一目見て感激の余り声も出せなかった。

 「ちゃんと絵心があるじゃないの」

 亜紀の称賛に、加藤は先生より亜紀さんに褒められて自信がついたとおどけてみせた。

 「これだけ描ければ、まあ中々のもんだ」

 恩師からも褒められて健吾は相好を崩したが、先程から陽菜子が何も発言しないので不安そうに彼女を見た。

 「陽菜ちゃんも何か言ったらどう」

 亜紀に促されても彼女はなお絵に注目していたが、ぽつっと涙が一滴その絵の上に落ちた。彼女は慌ててナプキンでそっと拭った。驚き慌てたのは健吾だった。

 「陽菜子、どうした?」

 「ありがとう。こんなに綺麗に描いてくれて。嬉しくて思わず涙が出てしまったわ」

 「泣くほどのものじゃないよ。実物の方がもっともっと綺麗だ」

 歯の浮くようなことを臆面もなく妻を讃えた。

 「よかったわね、陽菜ちゃん。お互いいい亭主を持ったわね」

 肩を抱かれての亜紀の冗談に彼女はやっと微笑んだ。

 最終的に加藤は玻瑠香ではなく自分を選んでくれたが、まだ彼女に見練があるんじゃないかと陽菜子は不安だった。そんなことはないと夫に何度も言われてもその疑念が拭えずにいた。それが、この絵を見て初めてそれを払拭することができた。それが何よりも嬉しく、夫の隠れた才能と愛されていると知ったときの喜び、それで自然に涙が出てしまったのだ。

 真一が手を挙げると加藤夫妻のスープが運ばれて来た。

 「ところで陽菜ちゃん、祝い事って何だ?」

 問われた二人は手を休め、思わせ振りに顔を見合わせた。特に健吾は喜びを隠せない様子だった。

 陽菜子が恥ずかしそうにあなたから言ってと発言を促した。

 「実は先生、陽菜子が妊娠しました」

 亜紀が、あらっ、そうなのと声を上げて慌てて口を手で押さえた。

 「それで予定日は?」

 「来年の6月なの」

 「陽菜ちゃんおめでとう。よかったな、健吾」

 真一は右手を出して二人に握手を求めた。亜紀も夫に倣った。

 「おめでとう。陽菜ちゃん加藤さん」

 「ありがとう。わからないことばかりだから、色々教えてね」

 彼女達は手を取り合って無邪気に喜んだ。そんな彼らをよそに、真一は頭を傾げながら疑問を呈した。

 「少し計算が合わないんじゃないか」

 亜紀それを思ったが、折角黙っていたのに何を言い出すのかと彼を睨んだ。

 「まあ、それはいいじゃないですか。陽菜子の家族も喜んでくれたんですから。この僕が父親になるなんて夢のようです」

 彼の喜びようは真一にも理解できた。自分も亜紀の妊娠を知った時はそうだった。

 「夢を見るのもいいが加藤、安定期が過ぎるまでは流産しやすいから十分気を配ってやれよ。陽菜ちゃんもハイヒールを履くのはやめた方がいい。それと陽菜ちゃんの負担を出来る限り軽減してやれ。健康な赤ちゃんを授かりたかったら煙草もこの際止めろ」

 「それは大丈夫、禁煙を誓わせたから。もし破ったらただじゃおかないから」

 陽菜子に睨まれて健吾は首を竦めた。

 あらあら、予想していた通りの嬶天下ねと亜紀は可笑しかった。

 「陽菜ちゃん、健康には気を付けろよ。風邪を引いても妊娠中は無闇に薬は飲めないからな」

 「そうよ、慎重になり過ぎても良くないけれど、病気だけは気を付けて」

 「ありがとう。十分気をつけるわ」

 「陽菜ちゃん、ご両親は大喜びしただろう?」

 「ええ、そうなの。手放しで喜んでくれたわ」

 「加藤さんのご家族には?」

 「最初に彼の実家に行って報告したの。お義父さんもお義兄さんもお義姉さんもみんな喜んで下さって」

 「よく頑張ったな。よし、もう一度陽菜ちゃんの妊娠を祝して乾杯しようじゃないか」

 4人はグラスを持つと、真一の「元気な赤ちゃんを」の発声に続いて、加藤が「先生と亜紀さんの結婚5周年を祝って乾杯」の声を上げた。

 亜紀と真一は彼らが食事を終える前に席を立った。

 部屋に戻るとベッドの上に真っ赤な一輪のバラが置かれていて、その横に支配人からのグリーティングカードが添えられ、末尾には「次回はお子様とお越し下さい」とあった。

 亜紀はポットでお湯を沸かして紅茶を淹れた。その間に真一は机からペンとレター用紙を持って丸テーブルの椅子に腰を下ろした。

 「それにしても、驚いたわ。陽菜ちゃんがあれほど感激して涙を流すなんて」

 「余程嬉しかったんだな。加藤の描いたデッサンを見て改めて愛されていると実感したんだろう。実際あいつの気持ちが絵に籠っていた」

 「あなたのアドバイスもあったのでしょうけれど上手だったわ。あなたの目から見てどう?」

 「悪くはない。何枚か描いているうちにもっとうまくなる」

 「あっ、そうだ。陽菜ちゃんからお願いされていたことがあるの」

 大分前に彼女に頼まれていたことをこの際話してみようと思った。その時は難しいんじゃないかしらと答えておいたのだが、駄目元でもいいからお願いと手を合わされたのだ。

 「何だい?」

 「あのね、加藤さんをあなたの事務所で働かせてもらえないかって頼まれていたの」

 どうかしらと夫の顔を伺った。

 「そのことなら、加藤に働きたかったら、ちゃんと試験を受けて合格しろと言っておいた」

 夫の答えは分かり切っていたことだったが、あるいはと密かに期待もしていたので落胆した。

 「ずいぶん加藤に肩入れするんだな。少しばかり妬ける」

 亜紀を見てにやにやしたが、ペンを動かす手は休めなかった。

 「そうじゃないわよ。これまで加藤さんに世話になったから、少しは気になるのよ」

 夫の冗談だとわかっていたが、むきになって弁解した。

 「ごめんごめん、わかってるよ。加藤にはモロッコの施工監理の一部でも任されたら、条件付きで採用すると言ってある」

 「あら、そうなの。心配して損をしたわ」

 日頃の妻らしからぬ言いように真一は笑ってしまった。

 「それで条件て?」

 「語学さ。みんなと条件を同じにする意味もあるが、彼には現地に行ってもらうつもりでいるから、英会話と読み書きくらいは苦にならないようになってもらわないと仕事にならない。君からも陽菜ちゃんに言っておいてくれないか。怖い女房に尻を叩かれたら、彼も遮二無二勉強するだろう」

 「まあ、ひどい」

 亜紀も笑った。

 「それでそのお仕事って?」

 「玻瑠香の勤め先から一緒にやらないかってオファーが来ているのがそれなんだ」

 「まあ、玻瑠香さんの・・・」

 そんなことは義妹から何も聞いていない。ブログに載せることでもないのなら、メールで知らせれくれたらよかったのにと恨めしく思った。

 「玻瑠香が上司に働きかけてくれたのだと思う。それでうちのことを調べて、こちらからも事務所のパンフレットやら経歴やらを送ったから、それを見て一緒にやれると踏んだんだろうな。向こうが90で、こちらが10でどうかと言って来ている。うちの規模ではそれ以下でも不足を言えない。原田さんとも相談しないといけないが、OKすれば役割分担を決めて来年の3月から始まる。だから、ポールとミッシーを中心に始めるつもりなんだ。施工監理の一部を任されれば、それは3年ほど後になるかな」

 「そうなの。良かった」

 亜紀の安堵した表情には色んな意味が含まれていた。

 彼の事務所のホームページは日本語、英語のみならず、言語を選べば中国語のほかに韓国語仏語独語スペイン語イタリア語トルコ語でも表示される。これ程多彩な言語で表示されているのは彼の事務所くらいだろう。それはみな夫の能力と知己の多さに負うところだった。

 「玻瑠香さんと言えば、元気にしているのかしら?」

 彼女のことは夫には内緒のブログに毎日目を通しているから夫よりも把握していると言ってもよかった。しかし、それはどこそこへ行ったとか、何々を買ったとか、あれは美味しくなかったとかの私的なことばかりで、仕事のことは書かれていない。だから彼女の動向を全て把握しているわけでもなかった。

 そこまで話が進んでいるのなら、単にメールやレターのやり取りで済む筈がなく、電話で詳細を詰めているはずだ。そうであれば、私が妹の仕事ぶりを聞いていてもおかしくはない。

 「ああ、スティッヒマイヤーからのメールではよくやっているらしい。ドイツ語もかなり堪能になって仕事も任せられるようになったと書いてきた」

 「そう。頑張り屋さんだから寝る間も惜しんで勉強したのでしょうね」

 「だろうな」

 「心配でしょう?」

 「何が?」

 「玻瑠香さんの生活のことや男のこと」

 「心配していないさ。もう大人だし、向こうで恋人を見つけても仕方がないと思っている。お袋が反対したところで当人同士のことはどうにもならないさ」

 「あら、いい人を見つけたの?」

 義妹とのやり取りの中でそんなことまでは書いてなかった

 「いや、そうじゃない。まあ、今度出張で行ったときに様子を見てこようと思っている。お袋にも頼まれているし」

 「あら、出張に行くの?」

 そのことは彼女もまだ聞いていない。

 「いや、今のところ未定だが、いつまでもメールでとはいかないから、一度打ち合わせに行かないといけないし、できれば諸条件を詰めて契約ができればと思っている。そのときは一緒に行かないか」

 「駄目よ、そんな遠いところ。玻瑠香さんに会いたいけれど、子供達がいるから無理」

 「爺さん婆さんがいるから大丈夫だよ。たまには息抜きのつもりで行こう」

 それでも亜紀は頷かず、その話はその時になって改めてすることで落ち着いた。

 「この間、お義母様宛の手紙を読ませていただいたけれど、ちゃんと約束を守って毎月何処かへ行っているみたいね。青い目の男性とのツーショット写真も同封されていたから、お義母様が目を丸くしておられたわ」

 その時のことを思い出して笑ってしまった。

 亜紀も時々玻瑠香に宛てて手紙を書いている。内容は家族ことや子供達のことだが、それでも彼女には嬉しいらしく、お礼のメールが欠かさず届く。

 「何だい?」

 「いえ、お母様が写真を見て、この人とどうとかなっているじゃないわよねぇって心配しておられたから、つい可笑しくなって・・・」

 「ははは、お袋の取越し苦労さ。ああ見えて身持ちは固いし約束は守る奴だから大丈夫さ」

 「私もそう言ったのだけれど、お母様としては心配なのよ」

 そんな会話の間でも彼の右手は動いていて、描き終えると、はいと紙を妻に手渡した。彼女は恭しく受け取って、丁寧にテーブルの上に置いた。そこにはもう一人の亜紀が幸せ一杯の表情で精緻に描かれていた。絵の下方の右端に今日の日付、左端には愛する妻のためにと英語で記されていた。

 「ありがとう、嬉しい。これからのプレゼントはこれだけでいいわ。子供達が大きくなったら、若い頃ママはこんなに綺麗だったのよって見せるわ」

 亜紀はしばらくそれをじっと見つめ、 感激一杯の面持ちで礼を述べた。

 「そいつは安上がりでありがたい。こんなものでもよければ幾らでも描くよ。それで最初の絵と見比べてどうだい?少なくても僕は違えて描いたつもりだけど」

 夫に言われて2枚の絵をテーブルに並べて食い入るように見比べた。正面と横顔の違いくらいで、どこがどう異なるのかはっきりとわからなかった。強いて言えば、今の絵は少し年を取って髪が長いくらいにしか判別できなかった。そんな亜紀の表情を読み取ったのか真一がアドバイスした。

 「そんなに穴が開くほど見つめずにぱっと見たときの印象が大事だよ。結構はっきりとわかると思うけどな。それがヒント」

 亜紀は一旦目を閉じてからもう一度絵を見比べた。不思議なことに今度は彼の言わんとしたことが明瞭にわかった。

 わかったわ。そう言ってにっこり笑った。

 「こちらの絵は母親の顔をしているわ。そうでしょ?」

 言い当てられて真一も満足そうに微笑んだ。

 「その通り。今の君はしっとりと落ち着いて、慈愛に満ちた表情をしている。写真では中々内面まで写し込めないと思う。こんな絵でよかったら、これからは子供の誕生日には写真じゃなくて紙で残そうかな」

 「子供達も大きくなったら喜ぶわ。いい絵描きさんがいて嬉しいわ」

 「カレル橋の絵描きよりも高いぞ」

 そんな冗談で二人は笑い合った。

 「ところで童話の方は進んでいるのかい?」

 亜紀の童話は幼児向けなのでどれも短い。20話ほどの話に挿絵を入れて1冊の本にして出版するのだが、編集者に渡す前に毎回感想を求められていた。最近それがないので訊いた。

 「ええ、書いているわ。と言っても、子供達が寝るときに話したのを思い出しながらパソコンに入力してついでに点字にするだけだけれど。そうね、あと10日ほどで1冊分が仕上がるかしら」

 「今入力しているのはどんな話?」

 「サンタクロースのそりを引くトナカイのお話なんだけれど、子供に読んで聞かせるのは難しいってつくずく感じるわ」

 「すぐに寝ちゃうのか?」

 「そうじゃなくって、たとえばトナカイの話をするでしょ。亜美や修一は大きいからいいのだけれど、耕一はトナカイって何って訊くのよ。絵本だったら見せれば済むけれど、私の場合その場の創作だから言葉で説明するのは難しいのよ。説明している間にどこまで話したかわからなくなってしまうこともあるし、それが終わったと思ったら、今度はどうして鹿みたいなものが空を飛べるのかって訊くの。お話だから飛べるのよと言っても納得してくれないし」

 それは大変だと真一は笑った。もう、人ごとだと思ってと亜紀はぶつ真似をすると、真一はごめんごめんと戯けて万歳した。

 「これまで編集者の人に指摘されて直していたけれど、今は子供に教えられることの方が多いわ」

 「子供は天から遣わされた天使だからな」

 「来年耕一も幼稚園に入れようと思うのだけれど、それでいいわね?」

 「そうだな、ほかの子にも交わらないと社会性が身につかないしな」

 亜紀は2杯目の紅茶を口に運びながら事務所の運営のことを訊いた。

 「事務所の方はうまく行っているの?」

 事務所を開設してから丸2年が経った。初めのうちは個人住宅やリフォームばかりだったが、ホームページで真一と原田を知った諏訪市内にある精密機器メーカーの担当者が工場計画を持ち掛け、幾度かの協議を経て特命で受注したばかりだ。短期間で大型物件をものしたのは予想外の嬉しい出来事だった。

 「ああ、工場の計画も目途がついたし、さっき言ったモロッコのホテルの設計も分担がまとまり次第とりかかる。そんなこんなで海外出張が多くなると思う。これまで資金繰りで面倒をかけたが、また前途金が入るから少しは改善すると思う」

 「それだったら嬉しいわ。覚悟はしていたけれど、事務所を経営するって大変だし心配だもの。社員のみなさんやご家族の生活を預かっていると思うと気が気ではないわ。だから健康に留意して頑張ってね」

 これは折に触れて彼女が夫に言っていることだった。

 「わかってる。新人も育ってきているから、やむを得ず辞退してきたお客さんにもっと対応できるよ。

 それよりスタッフの間に何かトラブルを聞いてないか?出張なんかで原田さんに事務所を任せることが多かったから、目の行き届かないこともあるも知れない」

 責任者の自分には言えないことでも亜紀には言っているのではないかと思い訊いた。

 「何もないわよ。何か気になることでもあるの?」

 「いや、何もないが。外人は自己主張が強いからそんなことはないと思うが、日本人は内に秘めることが多いから、俺に言えないことでも君には話しているんじゃないかと思ってさ」

 「気心の知れている人ばかりだから、私が知る限りでは何もないわ」

 折りに触れて慶子にさり気なく事務所のことを訊いているが、夫が心配するようなことはなさそうだった。

 「それならいい」

 「ポールも気さくに子供達と遊んでくれるから、結構英語で受け応えするようになったわ。耕一もわからないまま口真似しているし」

 「小学校に入るまでにはネイティヴになるかも知れないな」

 「あなたの思惑通りでしょ」

 亜紀は笑った。

 所内にいる限り使用する言語は原則英語で、上司や同僚に呼びかけるときもニックネームでと決めた。このように徹底すれば、田舎の事務所であっても世間の耳目を集めるだろうとの期待と思惑があった。

 他では見られない事務所の特異性もさることながら、就業環境と雇用条件がいいとの評判がネットで広がり、設計コンペでの評価や国内企業の受注に相まって、雑誌などのメディアに取り上げられることもあって、少しは名が知られるようになった。

 話し疲れた二人はベッドに腰を下ろすと、亜紀が夫にもたれかかった。真一は妻の体を抱き、彼女の顎を上げると、ゆっくりと自分の唇を妻のそれに重ね、やがて彼は妻からのプレゼントを受け取った。


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