第十二章 離村と帰村
(一)
新婚夫婦が加辺の家を離れたのは新年を祝った月の下旬だった。それに至った事由は彼ら二人で解決できる事柄ではないだけに事態は深刻だった。
その萌芽は松の内が明けたあたりから静かに始まっていた。それと亜紀が察した時には抜き差しならぬことになっていた。
亜紀の結婚が決まってからの加辺家はずっと気忙しい日々を送った。それは挙式の準備に始まり、結婚式、結婚披露宴、新婚旅行に同行し、正月と続いた。途中母屋のリフォームもあった。加辺家にとっても慶賀の連続だったからこそ、その発芽は本人も自覚がなく顕在化しなかったとも言える。
正月三が日が明けると親類縁者が三々五々原村を離れ、真一と玻瑠香も講義再開前に長野に戻った。多忙続きだった加辺家も落ち着きを取り戻して平常の生活に戻った。
夫と義妹が長野へ戻った翌日、亜紀は夫が書斎として借用している部屋の掃除をした。
夫が部屋を借りたと言っても室内は昔のままだった。必要なものは真一がその都度持ち運びしているので、時折亜紀が生け替える机の上の一輪挿しの花のみが変化と言えた。そこまでしなくてもと亜紀が苦言を呈しても夫の行動は変わることはなかった。それほど彼は加辺家の人達に気を使っていた。
亜紀は部屋に入ってすぐに気が付いた。一輪挿しは元のままだが、机の上に置いてあったあの写真立てがなくなっていた。抽斗の中にもそれはなかった。夫がどこかに仕舞ったのだろうか。帰って来た時にでも尋ねようとその時は気にも留めなかった。
半月振りの掃除なので、最初に本棚にある書籍と鴨居の埃を払った。それが終わると床に掃除機をかけ机の上の拭き掃除をしてそこを出た。
次に掃除のために彼女がそこへ入ったのは、真一が長野から戻る当日の金曜日だった。一輪挿しの花以外何も変わっていない。
いつものように本棚の誇りを払い、床に掃除機をかけ、机を布で拭き上げて、机の抽斗を開けると中は全て空になっていた。前回までは修一の書類が確かにあった。持ち出したのは不在の夫であるはずがなく、稲子であることに疑いの余地はなかった。修一の母である稲子がそれをするのは不自然ではないが、そうする理由がわからなかった。善意に解釈すれば、夫の使い勝手に配慮してくれたのだろうと言えなくもないが、それなら一言言ってくれてもよいのにと少し不満に思った。
この時はまだ源流における数滴の雫に過ぎなかった。
亜紀はこのことを夫に言うべきかどうか迷った。だが、自分の胸の内に収めておくことは出来ず、帰宅した夫に書斎でのことを話した。彼の返答も自分のための義母の行動に違いないとの見解だった。妻にはそう言ったが、彼の思いは違うところにあった。が、それを彼女に明かすことはなかった。不安がらせるより、少し様子を見ようと思ったからだ。
それから真一は義母をそれとなく観察した。すると自分ら夫婦をさり気なく忌避する様子が垣間見えた。その義母の態度で彼の想像が確信に変わった。だが、すぐに行動を起こすことはしなかった。疑が真に変わったところで、それに対する有効な手立てが思いつかなかったからだ。亜紀を一人にする不安があるが、早計に結論を下すのは止め、翌週まで持ち越すことにした。自分の思い過ごしかもとの期待もあったからだ。
(もし、自分が危惧しているとおりなら、それまでに取るべき行動を考えておかなければならない)
真一が長野に戻ったのを契機に一片の雲が急速に雷雲になるが如く、数滴の雫が小川になるのにそれ程日数を要しなかった。
それは稲子の亜紀に対する態度に現れた。彼女を忌避するような素振りをあからさまに見せるようになったのだ。それと並行して一人仏壇の前で手を合わせることが多くなった。
真一が長野へ帰った数日後、亜紀も懇意にしている近所の長女の結婚祝いのことで稲子のところへ行った。そのときは相談に乗ってはくれたが、自分を見る眼がどこか冷ややかで、他人と話しているかのような感覚が拭えなかった。これまでそのようなことは一度もなかっただけに心中穏やかではいられなかった。
その日から亜紀から稲子に話しかけることはあっても、その逆はなくなり、みんな揃って摂ろうと申し合わせた夕食でさえ目を合わせることはなかった。このように稲子の彼女に対する振舞いがこれまでとは異なり、それは単なる思い過ごしとはどうしても思えなかった。
自分に義母を怒らせるような不手際があったのかと自問自答したが、思い当たる節はなかった。もし、それならそうとはっきり指摘して欲しかった。かつてはそうだった。義母が変わってしまったと思わざるを得なかった。
耕造も口に出して言わないが、稲子と亜紀との間の尋常ではない様子に気付いていた。しかし、それは男にありがちな思い込みで、嫁姑間で発生する問題でいずれ解消するものだろうと楽観視しているところがあった。また、事を荒だてたくないとの考えが優先し暫し静観の態度を取った。
当事者の亜紀はそのような状態に次第に耐えられなくなった。真っ先に相談すべき夫は生憎出張中で不在だった。電話で相談しようかと思ったが、余計な心配をかけたくないとそれを控えた。耕造に訴えることも考えたが、悲しませることになるかもしれないと、それも思い留まった。
思い余った亜紀は稲子のところへ出向いた。そして自分を避ける理由を問い、至らないところがあれば直しますと訴えた。ところが稲子は、それはあなたの思いすごしだと、取ってつけたような笑顔で取り合ってくれなかった。その目は少しも笑っていなかった。
ペンションから母屋に戻る時、何がどうしてこのようになったのだろうと途方に暮れ、悲しくて瞳から涙が零れた。どのように考えても自分を避けさせるような落ち度に思い当たらなかった。それだけに彼女の悩みは深刻だった。
数日後、真一が出張を終え玻瑠香とともに原村に帰って来た。
一日千秋の思いでいた亜紀は、夫の顔を見てホッとするあまり涙が出そうになったが、ぐっと堪えて笑顔で迎えた。だが、真一は妻の表情で懸念していたことが、より深刻になっている事を察知した。玻瑠香もおやっと思った。義姉の笑顔は心からのものではないと感じ取ったからだ。後でその理由を聞いてみようと思った。
稲子の変化は兄妹の前でも顕著だった。真一と二人で幸せそうに話をしていると、稲子は露骨に嫌な顔をしたからだ。そんな彼女の急激な変化に玻瑠香も戸惑いを見せた。兄の出張中は加藤の実家に寝泊まりしていて、母屋の様子を知らずにいたからだ。稲子の変化を義姉に問うても悲しそうに首を振るだけだった。これは兄に知らせねばいけないと思った。
真一は妹にも心配されて、もはや静観はできなかった。
その夜、亜紀と真一はベッドの中で話し合った。
「前からお義母さんの様子がおかしいと思っていたが、もっと酷くなったようだ。俺のいない間に何かあったのか?」
週に一度しか帰ってこない夫にもわかるほどになっていたのかと亜紀も改めて悲しくなった。
「あなたもそう思う?それが何故だかわからないの。私に落ち度があるのかと、いくら考えても思い当ることがないの。それがわかれば私だって・・・。お義母さんに理由を訊いても、至らないところがあったら言って欲しいと訴えても、何もないと仰るばかりで、何が何だか・・・。もう、どうしていいのかわからない。やっぱりここにいてはいけなかったのかしら」
彼女にしては珍しく弱気で語尾も細り、目に薄っすらと涙を溜めていた。
もはや猶予はならないと真一は思った。
「お爺さんに相談してみたか?」
「心配かけたくないから・・・」
「そうか。お義母さんに直接訊いてもいいけど、亜紀にさえそうなら俺にも本当のところは打ち明けてくれないだろう。お義父さんが何かご存知かもかもしれない。明日、そっと呼んで訊いてみる。まあ、何にせよ、この件は俺に任せてくれ。何かわかったら包み隠さず話す。それまでは気にしないでと言ったところで無駄だろうが、普通にしてくれたらいい」
「ありがとう、お願いするわ」
心から感謝した。夫ならちゃんと対処してくれるだろう。どの様な仕儀になっても彼について行くだけだ。一人悩んでいた亜紀はほっとすると涙が止まらなくなった。
「済まない。早く気付いていながら、もっと早く対処していれば・・・」
こんな事になっていなかったかもしれないと言い掛けて止めた。今更言ってもどうしようもない事だ。
「大丈夫だ。きっとうまく解決するから安心して。覚えているかい?俺達の誓いの第5条だよ。それをこれから実践するだけさ。もう遅いから寝よう」
真一は肩を震わせている亜紀を抱き寄せた。
これは自分の予断ではなく真実に近いだろうと思った。
(そうなら、あの決断をしなければならない)
翌日、真一は朝の運動の後、相談したいことがあると義母がいない時間を見計らって、義父を仏間へ呼び出した。
「心配掛けてすまない。稲子のことだろう?」
座布団に座るなりいきなり用件に入った。
盛蔵がそれと感じ取った時には、亜紀と稲子との関係は抜き差しならぬものとなっていたのだが、嫁姑の問題を避けたい男の小狡さで耕造と同じことを思っていた。
「そうです。それなら話が早いです。実はお義母さんのことで、亜紀が疑心暗鬼になってストレスが昂じています。夫としてこのままにしておくことはできません。お義父さんのご存知のことがあれば教えて欲しい。僕らの方で迷惑をかけていることがあるのなら仰って下さい。すぐに直します」
「いやそうじゃないんだ。心配をかけて申し訳ない」
即座に否定して頭を下げた。
「二人はどこも悪くないんだ。悪いのは家内の方だよ」
真一は盛蔵の申し訳なさそうな表情で、自分の想像が当ったことを確信した。
「家内の態度に何かおかしいと思ったのは、2週間ほど前からなんだ。これでも夫婦だから家内の様子はわかる。
初めのうちは嫁姑間の問題だろうと黙って見守っていた。だが、このごろとみに稲子の様子がおかしくなって、亜紀ちゃんに辛く当たる様になった。それで、一昨日だったか、寝る前に部屋に訳を訊いたんだ」
真一は俯き加減で苦渋に満ちた顔で話す盛蔵を黙って見ていた。
「最初のうちはあれも中々答えてくれなかった。自分でも恥じていたんだと思う。辛抱強く待って、ようやく苦しい胸の内を話してくれた。
家内の亜紀ちゃんへの仕打ちは、君らに対する妬みなんだ。僻みと言ってもいいかも知れない。稲子も昔風の賢い女だから、そんな感情は恥ずべきものと思って本音を中々話したがらなかった」
稲子が涙ながら切れぎれに吐露したのは、彼女でさえコントロールできない心の中の感情だった。
稲子も夫や舅のように、亜紀の幸せそうな姿を見て嬉しかった。亜紀にも修一にもよかったと思ったのは本心だ。これで私の肩の荷もようやく下ろすことができる、遠藤のご両親にも顔向けできて安心だと思った。ところが、正月が終わったあたりから、幸せそうな二人を見て妬ましい気持ちが湧き起こって平静を保てなくなってきた。
もし修一が生きていたら、亜紀と結婚していたら、きっと息子もあんな風に幸せにしていたはずだ。もともと亜紀は修一の嫁だ。息子のお陰で眼が良くなって、しかも息子の兄の嫁になるなんて。そしてあんなに幸せそうな顔をして、きっと修一のことは忘れてしまったに違いない、そう思うと感情の抑制が効かなくなり、段々亜紀のことが憎らしくなってきた。
夫と舅が楽しそうに真一と話しているのを見て、夫が薄情と言うことではなく、男と女では感情の持ち方がこんなにも違うのだとわかった。お腹を痛めて産んだ子ではないが、母親は息子に対して異常なほどまでに愛着を持つものなのだとそのとき初めて知った。自分の中では整理つけたと思っていたのに、そうではないことに今頃になって気づいた。
それでも、彼女なりに真一のことを自分の息子だと思い込もうとした。だが、顔は似ていても息子とは性格があまりにも違っていた。だからその努力はしても無理だった。息子のように振る舞う真一を見て疎ましく思うようにもなった。
そんな感情が次第に高じ、二人が一緒にいることさえ憎らしく夫婦の邪魔をするようになった。日頃真一は家にいない分、その感情は亜紀に向けられることになった。
自分の悪感情と理由を自覚しているだけに、稲子はそんな己を嫌悪した。だが、嫌悪しながらどうしても気持ちを抑制することができなかった。
このままだと自分を抑えきれずに、亜紀に何か嫌なことを言うのではないか、変なことをしてしまうのではないかと恐れた。稲子は悪魔の心を持つ自分に身震いした。だからできるだけ亜紀と顔を合わさないようにした。それしか彼女に取り得る方法がなかった。
稲子は夫に「私はどうしたらいい?」と訊いた。
盛蔵は妻の告白を聞いても有効な手立てを見出せず、これは困ったことになったと一人悩んだ。耕造に相談したくても、単純に彼らの同居を喜んでいる耕造にそれはできなかった。
彼なりに1日かけて考えてみたが、得心できる解決策を見い出すことはできなかった。
「それで、今日相談しようと思っていた。恥ずかしい話だが、私には稲子を変えさせる力はない。正直どうしていいかわからないんだよ。済まない」
苦渋に満ちた顔で詫びた。
「いいえ、お詫びしなければならないのは僕の方です。お義母さんのお気持ちも考えず、ここに住んだのがいけなかったんです。少し考えれば、お義母さんの気持ちがわかったはずなのに、単純に亜紀がここに残ればみなさんに喜んでもらえる、出来れば僕もここに住みたいと考えた僕が浅はかだったんです。それがお義母さんやお義父さんを傷付けることになってしまいました。申し訳ありませんでした」
真一も頭を下げて盛蔵に詫びた。そして、頭を上げると言った。
「口幅ったいですが、お義母さんのことはそうではないかと思っていました。ですから、僕の答えは出ています。お義父さんに訊いたのは、もし僕の考えが間違っていれば、誤った解決をしてしまうといけないと思ったからです。お義父さんまで悩む必要はありません」
ここで一旦発言を止めると、きっぱりと告げた。
「僕達は明日中にここを出て、長野のマンションに移ります」
「え、ここを出る?そんなに早く」
予想もしていなかった彼の発言に驚いてしまった。
「はい、それしか解決法はないと思います。一刻も早い方がお義母さんのためにも亜紀にもいいでしょう。亜紀には僕が話します。申し訳ないですが、お爺さんとお義母さんにはお義父さんから伝えて下さいませんか」
確かにそれしか方策はないだろうと思ってはいても、いくら何でも早すぎる。稲子はそれでいいとしても、年老いた父にどのように説明すればよいのか。それに遠藤と成瀬の家には何と報告すればいいのか。それを考えただけでも気が滅入った。
盛蔵の思いを察したのか、真一はこのことは自分から双方の両親に告げると言った。
盛蔵はそうするしかないかと言ったきり引き留めることはしなかった。親父は悲しむだろうが、亜紀のことを思えばそうするしか方法がないと認めるしかなかった。
盛蔵が力なく去ると、真一は台所で成り行きを気にしていた亜紀と玻瑠香に義父から聴いたことを話した。そして、彼が下した結論を説明した。亜紀は聞きながら涙を目一杯に溜めて夫に同意した。玻瑠香も沈痛な表情をして亜紀の両肩を抱いた。
亜紀は夫の決定を聞いて、一瞬もう少し後にしてはと思ったが、ここにいて稲子に会っても互いに気不味い思いをするだけだと思い直した。
「わかりました。出て行く用意をします」
涙を拭うと立ち上がった。
亜紀が取引銀行のATMへ走り回っている間に、玻瑠香が夕食の用意をした。
彼らは1日かけて身の回りを整理し、当面必要なものだけを車に詰め込み、残りの荷物は後日引き取ることにした。
出て行く用意が全て整うと、彼らはこれまで世話になった耕造と盛蔵それに刈谷夫妻に別れの挨拶をした。
各人の反応はそれぞれだったが、稲子は最後まで受付の部屋から出て来なかった。亜紀はこれまで世話になった礼を涙ながら戸外越しに伝えた。盛蔵には荷物を運び終わり次第、車を返却する旨を告げたが、それは余りにも水くさいと受け取りを拒否されたので、その厚意に甘えることした。
車の中でこの事情を実家に話をするしないで亜紀と真一は揉めた。いずれわかることだから、変な噂になって耳に入るより、こちらから説明した方がいいとの真一の意見に玻瑠香もそうだと同調した。亜紀もそれ以上固執できなかった。
こうして亜紀は6年近く慣れ親しんだ原村を後にした。
真一らが出て行った夕方、稲子は夕食の用意に母屋にやって来た。亜紀のいない室内は暗く静かで冷えびえとしていた。いつもなら纏わりつく猫までが出てこなかった。亜紀一人居ないだけでこれほど侘しくなるのかと自分のせいとは言え寂しい思いがした。
台所の照明と床暖房のスイッチを入れると、食卓の上の手提げ金庫に目が行った。6冊の家計簿がその横に重ねられていた。それは月始めになるといつも亜紀が自分のところに持ってくるものだ。
稲子は今年の家計簿を手に取り開いた。見慣れた几帳面な字で収支がきっちりとつけられていた。
次に稲子は手提げ金庫のダイヤルを右に左に2度3度回して扉を開けた。中に現金と預金通帳が3冊、稲子と亜紀の銀行印、それに白い封筒が入っていて、通帳には2枚のキャッシュカードと暗証番号を記したメモが挟まれていた。2冊の通帳は稲子名義の物で、一冊は使い切っており、2冊目の通帳の残高と現金を合計すると、家計簿の帳尻とぴたりと合った。
稲子も見たことない亜紀名義の預金通帳に小首を傾げた。それは修一が亜紀のために遺したものと耕造から生前贈与されたものを管理するもので、離れのリフォーム費用だけが引き出され、そのときの注文書と領収書も通帳と一緒にあった。
稲子は亜紀に対して
亜紀が残した封筒を手にして開封にしばし躊躇した。ドアの外から別れと礼を述べていた彼女が瞼に浮かび、最後まで酷いことをしてしまったと涙が溢れて止まらなかった。
手紙を読む踏ん切りがつかず、封筒を手にしたまま椅子に座りこんだままでいた。10分ほどそうして、涙をエプロンで拭うと封筒をもう一度見た。表には母上様とあり裏を返すと小さな字で亜紀とだけあった。稲子は2枚の便箋を震える手で開いた。
<母上様。何かを書き残そうと筆をとりましたが、何を書けばよいかわかりません。
本来ならば、長い間お世話になりましたと書かなければならないのでしょう。でも、私にとってここでの生活はあっという間の歳月だと感じています。それほど、ここでの生活は濃密で有意義なものでした。
天国にいる修一さんに愛され、お父様お母様にも愛され、お爺様にも慈しまれ、今は夫真一に愛されて、そのうちに天罰が下るのではないかと怖くなるほどです。でも、夫は言います。これまで私が不幸だった分、神様が埋め合わせをして下さっているのだと。
何を偉そうにと思われるかも知れませんが、私には真一と言う夫がいて、お母様には最愛の修一さんがいない現実を思うとき、今ならお母様の心情がよく理解できます。そのように書いていながら、何故今までお母様のお気持ちを察することをしなかったのかと、それを深く反省し後悔をしています。
亡き修一さんの母上であるお母様にこんなことを書くのは酷かもしれませんが、皆様のお陰で私は今とても幸せです。それに酔いしれてお母様の心の内まで推し量ることをしませんでした。私ばかりが浮かれていたことを疎ましく心苦しく思います。今更遅いでしょうけれど、心からお詫びします。今となってはそれくらいしか言えません。
少し弁解をさせていただけるのなら、修一さんのことを忘れていたわけではありません。忘れてはならない人だと思っています。今でも彼を尊敬し愛しています。でも今の私には彼との想い出だけを大切に胸の
夫と私は挙式前日にある誓約を交わしました。お父様お母様がその昔亡き牧師さんと交わした約束のようにです。
その中の第4条に「両名は、(私達夫婦のことです)遠藤家、成瀬家、加辺家の両親に孝行を尽くすことを誓う」とあります。このことは今もそしてこれからも変わることはありません。
出て行くに当たり、一つだけお願いしたいことがあります。修一さんの月命日には、これまでと同様墓前にお参りすることをお許し下さい。
埒もないことを長々と綴ってしまいました。お体をご自愛下さり、健勝で過ごされますことを心より念じております。お父様お爺様にもよろしくお伝え頂ければ仕合せです。
長い間ありがとうございました。亜紀>
手紙を黙読して稲子はわっと号泣してテーブルに伏せた。その声に驚いた耕造が部屋から飛び出して来た。
「どうした?何があった?」
稲子が泣き伏した右手にある手紙を耕造は認めた。
「その手紙はどうした。ひょっとして亜紀さんのか?」
稲子はテーブルに伏せたまま小さく頷いた。耕造は稲子の手から手紙を取り上げると、それに目を通した。そして稲子の横に座り、彼女の肩に手を置くと静かに言った。
「稲子さん、泣くのは止めなさい。誰にだって別れはある」
「そうじゃないの。私は亜紀ちゃんに取り返しのつかない仕打ちをしてしまった」
聴き取り難いくらい小さな声で言って、またわっと泣いた。
「泣いてばかりいないで、食事の支度をしなさい。わしは腹が減った」
優しく稲子の肩を2度叩いた。稲子は顔を上げると涙を拭った。
「お爺さん、ごめんなさい。私のことでお爺さんにまで悲しい思いをさせて、本当にごめんなさい」
「いいんじゃよ。もともと亜紀さんが結婚すればここを出て行くと思っていたのじゃから。少しばかり楽しい思いをさせてもらった。それだけでわしは満足じゃ」
耕造は踵を返して部屋に戻ろうとするのを稲子は呼び止めた。
「お爺さん、これを見て」
稲子は通帳を差し出した。
「中を見て。亜紀ちゃんは一円のお金も受け取らずにここを出て行ったの。お爺さんから贈与されたものまで残して」
「何、それゃ本当か?」
耕造は3冊の通帳を見た。そして、うーんと唸った。
「戻って来るつもりはないと言う意思表示みたいなものじゃな。まさか、わしらと縁を切るつもりじゃなかろうが」
「お爺さん、ごめんなさい。私が辛抱しなかったばかりに」
「いやいや、そうじゃない。なまじ我慢して暮らしていたところで互いに不幸になることは目に見えている。それに、いつかどこかで無理が出て来るじゃろう。どうせなら早い方で良かった。あんたはここの大黒柱じゃ。しっかりしてもらわんと困る。
亜紀さんはもう加辺家の嫁でもないし娘でもない。成瀬の嫁になった時点で、ここいてはいけなかったんだじゃ。それが淋しくなるからと言って彼の申し出を考えもなしに受けたのがいけなかった。責任はわしにある。二人に悪いことをしてしまった。わしの方こそ済まなかった。
それにしたところで稲子さん、もう矢は放たれたんじゃよ。一旦放たれた矢はもう戻って来ん。と言って二人が遠くへ行ってしまった訳ではない。修一の月命日には墓参りをするとも書いてある。だから会おうと思えば何時だって会える。あまり自分を責めるな。まあ、6年前に戻ったと思えば気が楽じゃ。いつかあんたの心の中が正常に保てると確信ができたなら、その時に詫びたらいい。そのときに戻ってくれるかどうかは彼らに任せよう。
さあ、立ちなさい。めそめそしたって始まらん。それにあんたの泣き顔を見たら盛蔵まで苦しむ。笑顔でとは言わんが、いつもの稲子さんに戻りなさい。亜紀さんがいなくなって大変じゃろうが、盛蔵と一緒にこの家を盛り立ててくれ、いいな」
稲子の肩を叩いて自分の部屋に戻って行く耕造の背中が小さく見えた。
稲子はゆらりと立ち上がった。彼女の心の中は一層空疎になった。賽は投げられた。投げたのは自分だが、主導権はもう自分にはない。次の賽は彼らの手の中にある。そうしたのは自分だから、後悔しても今更遅い。身から出た錆、それを甘受するしかなかった。
真一からの電話で事の次第を告げられた双方の両親は心配の余り、示し合わせてマンションにやって来た。電話での説明では得心がいかず、加辺家と何らかの
彼らは真一から加辺家を離れることになった事情を詳しく聴いた。その間亜紀は最後まで顔を伏せ、一言も発しなかった。それが痛々しく彼らは心を痛めた。
双方の母親は息子を持つ者同士、稲子の息子を想う気持ちが理解できた。自分も彼女の立場に立てば同じ気持ちになるかも知れないと思った。しかし、それとこれとは別だ。自分の娘と息子のことだけに、ことの深刻さに顔を曇らせたが、真一のとった行動を支持した。
亜紀の生活は一変した。
5時に起床し、ベランダから八ヶ岳方向に向かって礼拝をするのは習慣になっていてこれまでと同じだ。それから朝食の用意に取り掛かる。その間に、真一は若里公園までジョギングして図書館前の芝生で太極拳と合気道の型、時には竹刀を振り回して体をほぐす。シャワーを浴び玻瑠香を叩き起こして食卓に着くのが彼の朝となった。
亜紀は夫と義妹を送り出すと洗濯に取り掛かかる。夫と自分だけの洗濯はすぐに終わってしまう。母屋とは比ぶべきもない狭い室内では念入りの掃除もあっという間に終わる。午後は誰もいない室内で一人童話を思索した。しかし、それを生業としている訳でもなく、夕飯のことを考えるとそれだけに集中するのにも限度があった。
気が向けば駅前に出てウィンドウショッピングをしたり、カフェに入ってジュースを飲んだり、スーパーで買い物をしたりして時間を潰すが、日頃テレビを余り観ず、体を動かしていないと気が済まない彼女はすぐに無聊を託つようになった。
気晴らしに善光寺へも何度も足を運んだから、門前に建ち並ぶ店にも詳しくなった。若里公園にある図書館へも散歩がてらによく行った。
玻瑠香は義姉が来たことで食事の用意の心配がなくなり、兄が定めた10時の門限ぎりぎりまで遊び回れるようになったと喜んだ。亜紀も女同士の他愛のない雑談で心が和んだ。
亜紀と玻瑠香とでは水と油ほどに性格が異なるのだが、それが良かったのか、今のところ二人の波長がうまく合っている。真一が懸念していた嫁小姑間の確執もなく、二人共同での炊事のときはお喋りが弾み、背後から見ていると実の姉妹のようだった。それが亜紀の精神状態に好影響を与えたようで外見上彼女が負った傷が思いの外早く癒えつつあると真一はそう思った。それは玻瑠香の存在のお陰と言ってもよかった。
夕食の片付けが終わり、カウチソファーで真一を真ん中に三人が並んでテレビを観て寛いでいたとき、玻瑠香の長い右腕が真一の肩越しに伸びて亜紀の左肩をツンツンと突いた。見ると義妹が思わせ振りに顎を自分の部屋の方へ突き出している。玻瑠香は目で合図すると立ち上がった。亜紀も彼女に続いた。
「もう寝るのか?」
「ちょっと・・・」
「あのね、お兄ちゃん。いくら仲が良くたって早くから寝る相談ばかりしないの。ここにはうら若き独身女性がいるんだからね。そんなんじゃなくて、女同士の内緒の話があるの」
「小遣い増額と門限延長の話は駄目だぞ」
彼女達を目で追いながら保護者らしく釘を刺した。
「そんなんじゃないわよ。ちょっとお義姉さんを借りるわね」
玻瑠香は亜紀を自分の部屋に引っ張り込むとドアに鍵をかけ、ベッドに二人で腰を下ろした。
「お義姉さん、明日何か予定ある?」
「何もないわよ。でもどうして?」
三人揃って外出することは時々あるが、玻瑠香が二人だけでと、誘うのは珍しい。
「私に一日時間を頂戴。明日兄貴の今年度最後の講義が午前にあるの。二人でこそっと内緒で覗きに行かない?この春から兄貴の講義を受けるようになるから、下見をしておきたいし、お義姉さんも興味があるでしょ。どんな顔をして講義しているか」
言われてみれば、結婚前に何度か彼の研究室を訪れたことがあるが、目的を達すると真っ直ぐに帰宅していたから講義風景は見たことがない。義妹の誘いに乗って一度は見学するのもいいかもしれないと思った。想像するとそれは楽しいことのように思えて来た。
「面白そう。でも、見つかってお兄さんに叱られないかしら」
「だから見つからないようにするのよ、私に任せて。それに見つかったら見つかったでいいのよ。堂々と名乗り出て兄貴が学生の前でどんな顔をするか見るのも一興よ。その日は昼飯を奢らせちゃいましょ。どうせお義姉さんにめろめろだから怒ることもできやしないわよ。私だって平気だし」
ふふふと笑った。
「玻瑠香さんも悪ね。でも、それは楽しいかも。何だかわくわくして来たわ」
彼女達は小悪人が悪巧みをしているような感じでこそこそと小声で待ち合わせ場所と時間、内緒で聴講するための手筈やその日のスケジュールなどを打ち合わせた。
翌朝亜紀は取り決めた時間よりも早く正門前に来ると、すでに義妹は立っていて男子学生の注目の的になっていた。何人か彼女と同年代の女性が通るのだが、亜紀の目から見ても義妹が別格に映った。
手を上げて駆け寄ろうとしたとき、義妹は3人の男子学生にナンパされているところだった。その彼女が亜紀を認めて、右手を上げながら声を張り上げた。
「お義姉さん、こっちこっち。あらっ、私の主人と一緒じゃなかったの?」
ナンパしていた学生達は面食らったように顔を見合わせた。一方の亜紀も、いきなり変なことを言われて戸惑ったが、彼女のウインクで意図を察し近寄ると口裏を合わせた。
「ごめんなさい、遅くなって。健吾さんは赤ちゃんと一緒に後から来るって」
玻瑠香をナンパしていた学生達は今度は亜紀に声をかけた。
「この人も人妻だから駄目よ。あなた達、既婚者をナンパするのは止めなさい。道義に反するわよ」
彼らは彼女らが人妻だったことに落胆して去った。
「玻瑠香さんいると刺激が一杯ね。私も独身に見えたのかしら。ちょっと面白かったわ」
「そうでしょう。もっともっと面白いこと教えてあげるわ。今度夜に出歩いてみない。いろんなところを案内するわ」
「だって、玻瑠香さんの門限は10時でしょう?」
「堅いことは言わないの。保護者同伴ならいいのよ。それよりさっき、どさくさに紛れて加藤さんのことを言ったでしょ。勝手に決めつけないで」
亜紀を軽く睨んでおいて、わざとらしく義姉を上から下まで見た。
「お義姉さん、バッチリ決めて来たわね」
「どう、派手すぎないかしら?」
薄茶色のサングラスを外すと自分の格好を見た。
「いいえ、落ち着いた感じで、どこから見ても准教授夫人だわ」
「からかわないで。玻瑠香さんこそ、何を着てもお似合いだわ」
「でしょう。お義姉さんと同じで美人は何を着ても似合うのよ」
自分から美人と言って憚らないが、嫌味に感じさせないのは彼女の人徳だ。
「あ、そうだ、記念に門をバックに写真を撮ろう」
玻瑠香はバッグからスマートフォンを取り出すと、当然のことのように門衛に撮影を頼んだ。誰に対しても物怖じしない態度が亜紀には眩しく羨ましかった。そんなところも亜紀には逆立ちしてもできないことだった。
「守衛さん、私達普通に撮られても美人だけど、見合い写真に使うつもりだから一層綺麗に撮ってよ」
スマホを持たされた上、注文を付けられた門衛は苦笑しながらボタンをタップした。角度を変えてもう一枚撮ってもらった。撮り終わっ画像をモニターで確認して二人は満足そうに頷くと、仲の良い姉妹のように腕を取り合って建築学科棟の真向かいにある食堂へ向かった。講義開始時間までの暇つぶしだった。
途中、擦れ違う男子学生は例外なく振り返ってまで二人を見た。そんなことに慣れているのか、玻瑠香は当然のことのように平然としているが、部外者の亜紀は何度来ても落ち着かなかった。
席に着くと二人は意味もなくにっと笑った。
「4月からここで授業を受けるのね。通学が楽になっていいわね。こんないい環境で勉強ができるなんて玻瑠香さんが羨ましいわ」
「お義姉さんも暇だったら、入学すればいいのよ。そうしたらせいぜい先輩面をしてあげるわ。それは冗談だけど、いよいよ専門課程だから楽しみにしているの。お義姉さんには悪いけど、門限の腹いせに講義では兄貴を苛めてやるわ」
「ええ、どうぞ」
義妹ならやりかねないし、そんなとき主人はどんな顔して対処するのかしらと想像するだけで可笑しい。
「お義姉さん、何度か来たことがあるんでしょ?」
「ええ、中川さん達とよくここで一服したわ。だけど、お兄さんとは一度も。そう言えば、グリーンハウスが完成してからは一度も研究室へ行っていないわ」
「だったら、講義が終わった後に立ち寄ろうよ。私も先輩に顔を売っておきたいから」
「そうね、施工監理のお礼もしたいからそうしましょうか。あ、だったら、お土産を用意するんだったわ」
「いいわよそんなもの。男達はただでこんな美人を拝めるのだし、女性がいたら自分と比較できるだろうし」
玻瑠香は意味不明なことを言って笑った。
お喋りしているうちに開始時間を少し回ってしまった。慌てて二人は立ち上がった。
「お義姉さんここよ。もう始まっているから、打ち合わせたようにそっと入るから後から付いて来て」
玻瑠香は長い下半身を折って、屈んだまま音のしないようにドアを4半分開けて滑り入った。亜紀も彼女に続いて低姿勢のまま入り、そっとドアを閉めた。玻瑠香は斥候のように背をかがめて最後部の真ん中の席に着こうとしていた。亜紀も同じようにして音を立てないように彼女の隣に何食わぬ顔で座った。
幸い彼は背を向けてボードに大きな文字でRahmen Structuresと書いていたので気付かれてはいないようだ。
通路を挟んで座っていた学生が気配を感じて目を転じると見覚えのない二人に目を剥いた。玻瑠香は指を唇に当てた。亜紀は冷や汗を目立たぬようにハンカチで拭ってそっと前を窺うと、夫がこちらに向いたから思わず顔を伏せた。しばらくじっとしてそっと顔を上げたが、自分達に気付いている様子はなかった。
少し余裕が出て、眼だけを動かして教室内を見回すと、50人ほどの学生が座っていて、前列の方では4人の女子学生の集団が熱心に聴講していた。
外は寒いのに真一はスーツを脱ぎ、前列の空いている机の上に置き、ネクタイを緩めると亜紀がアイロンを当てたグレーのワイシャツの袖を捲り始めたから、あらあらと呆れてしまった。隣で玻瑠香がくすくす笑った。道理でいつも袖だけが皺をよっているわけだと納得してしまった。
「今日は最後の講義だから、河野のリクエストに応えて君達の苦手なラーメン解析の復習をする。よく聞いておけ。ここんとこは試験に出すからな」
「何言ってんだよ。100題以上も出しておいて、山さえかけれないじゃないか。ぶつぶつ」
学生の呟きが隣から聞こえて来た。 亜紀は思わずぷっと吹き出し、慌てて口を押さえた。そんな彼女に学生はにっと笑った。
目を前に戻すと、真一がまたボードに何かを書いている。今度は日本語だが、お世辞にも上手とは言えない筆跡だ。
(英語はともかく日本語は悪筆だわ)
「相変わらず下手くそな字ねぇ。読めるだけましか」
亜紀と同じ感想を玻瑠香が言ったから、思わず口を押さえて笑ってしまった。
真一は悪筆文字を書き終えると向き直り、最前列真ん中の長机の空席に行儀悪くこちらを向いて腰を下ろした。それから、手振りを交えて講義をし始めた。まだ彼女達に気付いた様子はない。
「ラーメン構造は建築ではごく一般的な形式だ。いや、建築物のほとんどはこの構造でできていると言ってもいいだろう。しかし、残念ながら前にも言ったように不静定次数がやたら高いものがあるから計算は厄介だ。君らはソフトを使ってちょこちょこって解くからいいやくらいに考えているかも知れないが、それでは最高学府を出たとは恥ずかしくて吹聴できん。少なくてもこれから説明する構造くらいは手計算で、それこそちょこちょこってやれるぐらいにならないといけない。先人の偉い人達はそれをみんな手計算や計算尺、手回し計算機を使ってやっていたんだ。あのエッフェル塔だってそうだ。君らにはそれができるか?それを思うと、今の君らはパソコンや関数電卓があるから随分楽だぞ」
「いつの時代だよ。ぶつぶつ」
先ほどの学生がまた呟いた。亜紀と玻瑠香は顔を見合わせて笑いを噛み殺した。
「・・・技術者としての勘が養えて社会に出てからきっと役に立つ。それでは、まず解法の復習の前に力のかかり具合を考えてみよう。そうだな、そこにある教台を例にしようか。これも立派なラーメン構造だ」
彼は長机から離れて教壇に立つと教台の対角線に両手を置いて上からのしかかった。
「今見たようにここに力を加えた。さあ、この一年間教えて来た答え方でいいから、この台にどのように荷重が伝わったか教えてもらおうか。この際、材質とか荷重はどうかなどは横に置いといていい。これは考えるものじゃない。技術者としての感を養う問題だ。誰か答えられる者はいるか」
彼が学生達を見渡したので二人は慌てて顔を伏せた。幸い気付かれなかったようだ。
彼は右側の最前列の机の方へ行くと、両手を枕にして顔を伏せている学生の手首をひょいとお菓子でも摘むような感じで持った。その瞬間その学生から 「あいたたた!」 と悲鳴が上がった。
その悲鳴とは反対に周りから笑いが起きた。
「あれが合気道よ」
玻瑠香が小声で教えてくれた。亜紀には真一が軽く捻っているようにしか見えず、あんなに痛がる理由がわからなかった。
「それじゃ須永、さっきから頭を机に置いて考え込んでいたようだから、君の考えを聞かせてもらおうか」
周りからまたくすくす笑いが起きた。
突然名指しされた学生が隣に救いを求めたが、火の粉を避ける者ばかりで誰も手を差し伸べてくれなかった。予想もしない事態に答えられずにいる男子学生に亜紀は気の毒になった。隣で玻瑠香が「ふーん、あんな風に講義するんだ」と独り言を呟いた。
「君はいつも前列にいるから感心していたんだが、惜しむらくは講義が始まるとすぐに眠たくなることかな。だから、君の成績はいつもボーダーラインすれすれだ。今から言ってももう遅いが、良と可ばかりだと就活が苦しくなるぞ。聴きたくなかったら寝てもいいが鼾は止めておけ。回りが迷惑する」
また笑いが起きた。
「俺の授業は出欠を取らないから、ここで寝るくらいなら、家に帰ってゆっくりした方が体にいい。老婆心ながら年度を終えるにあたって注意しておく」
回りの学生に笑われて、その学生は赤くなり小さくなった。亜紀と玻瑠香は顔を伏せたまま肘を突き合って、自分のことを棚に上げて何を偉そうにと小声で笑った。
「出欠を取らないのか」
いいことを聞いたとばかりに玻瑠香がまた小声で呟いた。
「大学って出欠を取るの?」
中学や高校じゃあるまいしと思って訊いた。
「それあそうよ。知らなかったの?大学だってちゃんと取るのよ」
そう言えば佐藤教授が夫の出席日数が足りなかったときのことを酒の肴にしていたことを思い出した。
「玻瑠香さん、講義をサボっちゃ駄目よ」
義姉らしく釘を刺すと、玻瑠香はわかっているわとばかりに亜紀の左手を握った。
妻と妹がいることに気付かない真一はその学生から離れると、今度は左側の席へ移動した。
「それじゃ、そこの美人のお嬢さん達の誰か・・・。おっと、これはセクハラか?さっきからハートマークのついた瞳で見つめてくれているが、俺には美人の奥方がいるから誘惑しようとしても駄目だぞ」
その美人妻が後方にいるとも知らず、勝手なことを言って学生から笑いを取った。玻瑠香は亜紀を左肘でつつきながら「美人の奥さんだって」と口を押さえて笑った。亜紀は居た堪れずに赤くなって顔を伏せた。
「いつもあんな風に授業をしているのかしら?」
亜紀が小声で呟いた。
「いいじゃない、弁天様とか福禄寿が出て来ないだけ」
義妹の絶妙な応えに、亜紀はそれはそうねと口を手で押さえてまた笑ってしまった。
真一は学生の中の一人を名指しようとしたとき、その後方でひらひらしている物体を視界の端で捉えた。何気なくそっちに視線を向けた途端、彼の目は点になって固まった。妹がにやにや笑いながら右肘を机おいて右掌を小さく左右に振っていて、その横で真一の言う美人妻が妹の腕を押さえようとしているのを発見したからだ。
急に押し黙り後方を見たまま硬直した彼の異様な様子を察知した学生達はざわざわし出した。後ろを振り向く者までいる。
真一は我に返ると足早に妻と妹のいる机に向かった。学生達は何が起きたのかわからず、彼を目で追った。真一は二人のところへ来ると妹の手首を取って立ち上がらせ、教室から追い出そうとしたから学生達は何事とざわざわした。
「痛いじゃないの」
玻瑠香は叫び、亜紀は赤くなって身を縮めた。玻瑠香は兄の手を振りほどくといきなり叫んだ。
「みなさん、講義の邪魔をしてごめんなさい。実は私達・・・」
真一は慌てて妹の口を押さえようとして揉み合った。学生達はそれを見て立ち上がり、笑い出すものや驚いて口に手をやる者がいた。
「いいじゃないの、知られたって・・・」
玻瑠香は兄の手を振り払うと大声で言った。
「えー、こちらは先ほど言及があった成瀬夫人です。そして私は成瀬の妹です。4月からこの教室で勉強しまーす」
えー嘘!との悲鳴と、マジかよの怒号が女子学生と男子学生の間から上がった。
ここに至って、真一も無駄な抵抗と諦めるしかなかった。玻瑠香の確信犯的な行為に、気が付くと彼らは学生達の注目を浴びて授業を続けられるような状態ではなくなった。
三人は数人の男子学生に背を押されて前に立たされた。
ここでも加藤のようなものがいて、立ち上がり両手を広げて落ち着くようにとの仕草で教室を仕切り始めた。
「この状態では最早授業を受けることはできません。我々としては、今年度最後の講義を聴けないことは断腸の思いではありますが、我らが敬愛する先生のご夫人とご令妹が訪問して下さった以上、この機会を無にする訳には参りません。皆様のご賛同が頂ければ、この場を急遽懇談会に変えたいと存じますが如何でしょうか?」
面白がる彼らに異を唱える者はいない。賛成、賛成とあちこちから声が上がると同時に拍手が沸き起こり、それまでばらばらに座っていた学生達が前方に集まった。
玻瑠香は臆することなく堂々として立ち、真一は憮然としてあらぬ方向を向き、美人妻は小さくなって両手を前に重ね俯いて夫と顔を合わさそうとしない。
おい、写真を撮るなと真一が怒鳴ってもスマホで写真を撮る者が後を絶たない。SNSで流された日にはたまったものではないが、それだけはやめてくれと叫んでも保証の限りではないことは彼もわかっているので諦めた。
懇談会とは名ばかりで、二人のなり染めや新婚生活などの私的な質問をされたが、真一は一切無視した。すると、彼らの関心は玻瑠香に移り、彼女の携帯の電話番号を訊かれると、真一は教えるなと釘を刺した。
終業時間が来て3人揃って講義室を出ると、妹にこれからどうするんだと訊いた。この悪質な企ては玻瑠香以外に考えられなかった。
食事の後、お兄ちゃんの研究室へ行くと答え、すかさず玻瑠香が「お兄ちゃん食事を奢って」と腕を取って甘えた。真一はいつもの通り、学内食堂をと一瞬思ったが、すぐにまずいと考えを改め、稲子と行った日赤病院近くの珈琲店へ向かった。
(二)
義妹と暮らして刺激はあったものの長野での生活は至極単調なものだった。
平日は家事をして、日曜の休日は真一と玻瑠香と一緒に買い物に出かけて外食をするくらいだ。原村での生活に比べれば体は楽だったが、充足感は得られなかった。
一人きりの日中ふと気が付くと原村のことばかり考えていた。ときどき掛かって来る陽菜子の電話で、母屋が乱雑な状態になっているらしいことを聞いて心を痛めた。亜紀にはどうすることもできなかったが、2週間後の亡夫の月命日にはお墓参りの後、お爺さんのところへ挨拶に出向こうと考えていた。
そんな矢先、前触れもなく耕造と陽菜子がマンションを訪ねて来た。
「まあ、お爺さんようこそ。外はまだ寒いでしょう。どうぞお上がり下さい」
亜紀が来客用のスリッパを揃え、耕造が鳥打帽を取りながら玄関を上がった。
「突然訪ねて済まん。電話してから行こうかと思ったんじゃが、いなければそれでもいいと思って、陽菜に連れて来てもらった」
「いつでも歓迎ですわ。陽菜ちゃんもお爺さんに付き添ってくれてありがとう。今日は学校じゃなかったの?」
「平気。もう入学も決まったし、出席日数も足りているから今更落とすことはないわ」
「それならいいけれど。確か修一さんと同じ電子電気工学科だったわよね。合格おめでとう、何かお祝いをするわね」
「わあ、ありがとう。こちらから何か頼んでもいい?」
「いいわよ、あまり高い物でなかったら。お爺さん、こちらへどうぞ。帽子とコートを下さい。あちらへかけておきます」
「そうかい、済まん」
耕造は帽子とコートを亜紀に預けると、カウチソファに座って周りを見た。
「やっぱり亜紀さんだな、綺麗に片付いとる」
「掃除くらいしかすることもないですから。お爺さん、寒いでしょう。日中私しかいないものですから暖房を入れてなくて。狭い部屋ですからすぐに暖まりますわ」
そんな言い訳をしながらエアコンのスイッチを入れた。
「なーに、構わんよ。外が寒かったせいかそれ程には感じんよ」
「それでしたら、いいですけれど・・・。あ、今お茶を淹れます。陽菜ちゃんはコーヒーそれとも紅茶?オレンジでよければジュースもあるわ」
「コーヒーでいいけど、お手伝いするわ。それからこれ、刈谷さんからのお持たせ。ケーキだって」
紙袋を亜紀に渡した。
「ありがとう。波瑠香さんが喜ぶわ」
陽菜子と亜紀は狭いキッチンで肩を寄せ合いお茶とコーヒーの用意を始めた。
「大学は確か春休みじゃなかったかな?」
耕造は大学の休みを承知していて、真一と玻瑠香が不在なのを怪しみ台所に向かって声をかけた。
「はい、そうです。今日は佐藤教授に呼ばれて昼から大学へ行っています。玻瑠香さんはお友達に会いに朝から出かけました」
「そうかい、先生稼業も中々大変じゃな。休みだからいると思ったんじゃが・・・。いきなり来たわしが悪い、まあ仕方がないか」
耕造は落胆の表情を隠さなかった。
「お元気そうなので安心しました」
「ありがとう。亜紀さんもな」
お茶とコーヒーをセンターテーブルに置いて耕造の前に座った。陽菜子がわらび餅と切り分けたケーキを持って来た。
「玻瑠香さんは遅くなりますけれど、真一さんは5時には帰ってきます。ゆっくりして晩御飯を食べていって下さい。本当は泊っていただきたいのですけれど、部屋が二部屋しかなくて済みません」
亜紀にはそれくらいしかできず恐縮した。
「いや、いいよ。盛蔵には寄り合いがあると言って出て来たから、あんまりゆっくりもしておれん。今日は亜紀さんの元気な姿を見に来た。だからもう十分目的は果たした。何にしても、あんたを見て嬉しかった。まだ2月ほどしか経っていないのに、わしには1年くらいのように思える」
そのように言われると亜紀もキュッと胸を締め付けられる思いがした。
「お爺さんもお元気そうで何よりですわ。私はこの通りですから心配なさらないで下さい」
亜紀は胸を張った。稲子の様子を聞きたかったのだが黙っていた。耕造も話題にしなかった。
「それは何よりじゃ」
「刈谷さんのケーキはいつ食べても美味しいわ」
ケーキをフォークで切り分けながら舌鼓を打った。
「毎日どのように過ごしているの」
「私?私は普通よ。朝ご飯を作って、掃除洗濯をして、お買い物に行って、夕食を作って、お風呂を沸かして、片付けをして寝るだけ。どこの主婦もしていることと同じよ。時には童話を考えたりすることもあるわね。あ、そうそう、今週から英会話の個人レッスンに通っているのよ」
杏子と欧州旅行をして、義姉の語学力に助けられて以来、自分も何とかしなくてはと一念発起して英会話を独習した。聴覚がいいのか短期間に上達したが、亜紀的には満足していない。それで、英会話個人レッスンに通うことにした。
「そうか、結構充実した生活を送っているんじゃな」
「ええ、玻瑠香さんもいるから結構刺激があって楽しいの。いつかなんかは、半日付き合ってと言われて、のこのこ付いて行ったら、そこはグラビア撮影の場で、私も無理やり玻瑠香さんと一緒のところを撮られたわ。玻瑠香さんのバイトはお義母様と主人に厳しく制限されているから、アリバイ作りに一役買ってしまったけれど、彼に知られた時が怖いわ。それにこの間なんかは・・・」
玻瑠香とこっそり彼の授業を覗きに行ったときの顛末を話すと、耕造と陽菜子は腹を抱えて笑った。
「はっはっは、それは面白い。玻瑠香も思い切ったことをするもんじゃ。いかにもあの子らしい」
「亜紀姉さん、玻瑠香さんとはうまくいっているのね。それで、真一兄さんとよく出かけるの?」
「たまにだけれど外で食事をしているわね。彼の実家の田辺へも行ったし、先週は安曇野温泉にも行ったのよ」
「へえ、いいわね。羨ましい」
そんな話をしているうちに、亜紀は動悸が激しくなってきたのを自覚した。何だろうと思っているうちに、急激に体が冷えて来た。額に冷や汗が出ていることも感じだし、陽菜子の呼び声を遠くで聞いたところで意識を失った。
亜紀がソファに突然横倒れに伏したので耕造と陽菜子は動転した。
「亜紀さん、どうした?」
「亜紀姉さん、しっかりして」
彼らは血の気を失った亜紀の体を揺すったが、身動き一つしなかった。
一時的に動揺した耕造の立ち直りは早かった。
「陽菜、救急車だ。119番に電話じゃ」
陽菜子は携帯から消防署に緊急電話を入れた。
最初のうちは興奮して声も上ずり一方的に話していたが、相手の冷静な応対で次第に落ち着きを取り戻し、救急隊員に問われるまま返答した。その間に、耕造は夫婦の部屋から毛布を持ってきて彼女に掛けた。
「陽菜、救急車はすぐに来るって?・・・7、8分くらい。そうか。真一の番号を知っていたら掛けてくれ」
陽菜子はスマホを耳に当てていたが、しばらくして首を横に振った。耕造はハンカチで亜紀の額の汗を拭き取りながら、玻瑠香に電話を入れるように指示した。だが、彼女も電源を切っていて繋がらなかった。
「お爺さん、どうしよう。誰も出ないわ。どうかなったらどうしよう」
陽菜子はおろおろして、どうしようどうしようと言うばかりだった。
「狼狽えるな、落ち着け。そんな馬鹿なことを言ってないで、救急車が来るのをマンションの入口で待っていてくれ。来たらすぐにこの部屋まで案内しなさい。病院への付き添いはわしが行くから陽菜はここに残って二人に連絡を取り続けてくれ。ひょっとしてここに帰ってくるかもしれんしな。病院に着いたら、病院の名前を知らせるから。
心細そうな顔をするな。亜紀さんは大丈夫じゃ、心配するな。それとうちの者には知らせるな。はっきりしたらわしの方から電話する」
陽菜子は了解して外へ出て行った。
一人残った耕造は盛蔵に寄り合いの仲間と温泉に行くことになり、今晩はそこに泊るとだけ電話で告げた。
やがて救急車のサイレンが聞こえて来た。途中でサイレンが消え、陽菜子の先導で救急隊員が担架を持って部屋に入って来た。彼らは手早く亜紀の様子を診て、バイタルを手早く取ると救急病院に連絡した。受け入れ先が長野中央病院に決まると亜紀を担架に乗せ、付添人を確認して出て行った。廊下では物見高い住人が数人が何事かと見ていた。
僅かな時間の間に耕造が新聞広告の裏に走り書きした紙を持ち、陽菜子はソファに座ると俄かに亜紀の顔色が悪くなったときのことを思い起こした。
何故そんな事態になったのかわからなかった。普通に話していて、彼女が急に顔の色を失い横に倒れたのだ。
陽菜子は思い出したように立ち上がると、真一と玻瑠香に電話をしたが、どちらも電源が切られたままだった。
10分程して耕造からから電話がかかって来た。
「病院に着いて今診察してもらっている。それで連絡がついたか。二人とも電話を切っているらしい?何を考えているんだ奴らは。とにかく連絡がつくまで何回でも電話してくれ、いいな。診察が終わったらまた電話する」
それから30分ほどして、耕造から電話がかかってきた
「陽菜か?うん、診察が終わって点滴している。まだ目が覚めておらん。うん、診断結果か?それは血液検査が終わってからだそうじゃ。ま、どちらにしても命には別状がないそうじゃ。それで二人には連絡が取れたのか?まだか。それじゃ済まんが、しばらくそこにいてくれ。診断結果を聞いて、問題がなければ一旦そっちに戻る。そう、心細そうな声を出すな。長引くようなら電話する」
命に別状がないと聞いて陽菜子はほっとして心を落ち着けた。もう4時を回っている。遅くなると家に電話しようかと思ったが、耕造と一緒なのは知っているのでいいだろうとかけるのをやめた。
相変わらず二人に連絡が取れない。こんなにジリジリして待つぐらいなら自分が病院へ行けばよかったと思った。
真一が帰って来たのは5時前だった。ドアを開けると陽菜子が飛んで来て無言のまま紙片を渡された。それを一読して彼は気が動転した。
〈午後3時過ぎ、亜紀さんが突然倒れた。救急車で長野中央病院へ搬送するからすぐに来い。耕造〉
真一は陽菜子から詳細を聞くこともなく飛び出したが、後を追いかけてきた陽菜子に、鍵!鍵!と呼ばれ慌ててドアの鍵を掛けて走った。気が急きエレベータを待ち切れず、陽菜子と一緒に階段を駆け下り地下駐車場へ走った。
かなり乱暴な運転で病院の駐車場に車を入れた。車から降りると無心で走った。肩で息をしながら救急センターで居場所を聞き出すと最後まで聞かず足早に病室に向かった。救急病棟ではなく一般病棟だったのだが、それさえ気を止めずに開け放された病室に入った。
4人部屋の窓際のベッドの脇で耕造が折り畳み椅子に腰を下ろし、亜紀の手を取っていた。真一が入って来たのを認めると、立ち上がるやいなや一喝した。
「馬鹿者!」
自分の肩までもない耕造に叱られ、思わず真一は首を
構造は真一の手を引っ張り廊下に出すと、また叱った。
「今まで何をしていた?どうして電話に出ん。何度も連絡したんだぞ。玻瑠香にも連絡を取ったが同じじゃった。二人揃って何を考えているんじゃ」
耕造は顔を真っ赤にし声を震わせて怒った。そんな彼を見るのは真一は初めてだった。
「済みません。電源を切っていました。ご迷惑をかけて済みませんでした。それで亜紀の容態は?」
平謝りに詫びて、病室を覗き込みながら、気もそぞろに妻を気遣った。カーテン越しに彼女は穏やかな顔で眠っているので少し安心した。
「さっきまで心配をかけまいと気丈に起きていたのじゃが、今は眠っている。医者の話では点滴が終わって目が覚めれば帰宅してもいいそうじゃ」
「そうですか。お爺さんがいてくれて本当によかった」
真一は心底ほっとして病室に入った。
何故彼がマンションにいたのか、それを疑問に思わないほど彼は動転していた。
亜紀の乱れた髪をそっと直して、布団の中の左手を両手で包んだ。妻の顔を見てしばらくそうしていた。耕造も隣に座り、彼が亜紀を気遣う様子を見ていた。
「お爺さん、亜紀の病気は何ですか?医者は何て?」
「医者が適切な処置をしてくれた。貧血とストレスが昂じているらしい。本当の原因はお前にもある。亜紀さんが自分で言いたいだろうから、目覚めたらゆっくりと聞くがいい」
意味深なことを言って教えようとはしなかった。彼は耕造の顔をじっと見つめて卦を立てていたが、ニンマリと笑い深刻そうな表情をしていないので安堵して力を抜いた。
耕造はマンションを訪れた目的と亜紀が意識を失うあたりから、これまでのことを詳しく彼に説明した。
「陽菜には亜紀さんが倒れたことは、みんなには言うなと口止めをしておいた」
「何から何まで有難うございます。もし、お爺さんと陽菜ちゃんがいなかったらと思うと、身が凍りそうです。これからは何があっても携帯の電源は入れておくようにします」
真一は立ち上がると深々と頭を下げた。
「お爺さん、お疲れでしょう。僕が看ていますから、余り遅くならないうちに帰って下さい」
「わしのことは心配せんでいい。盛蔵には寄り合いの仲間と一晩泊まると連絡してある。医者は心配いらないと言っとるが、やっぱり心配じゃ。最後まで見届けたい。済まんが、陽菜と一晩どこか宿を手配してくれんか」
「承知しました」
真一は棟外へ出て、半ば彼らの定宿になったホテルに電話した。
部屋がとれましたと報告すると耕造は「下でちょいと一服して来る。陽菜も来い」と言い置いて病室を出て行った。
夫婦二人だけにしておいてやろうとの気遣いが感じられて耕造に感謝した。
耕造が病室から出て行くと亜紀の寝顔を見つめ、穏やかな寝息と血色のいい顔を見て心から安堵した。
お爺さんの話では病気の原因は自分にあると言う。なぜ、ニンマリしたのかわからないが、それはそうだろう。一緒に生活していながら、貧血気味のことやストレスが溜まっていることすら気付いてやれなかった。そう思うと亜紀に対して申し訳なく、堪らなく妻を愛おしく思った。そして彼女の顔を覗き込むと中腰の姿勢でキスをした。数秒間そうしていた。彼には愛おしい気持ちが募るばかりで、誰かに見られたら恥かしいといった感情が吹き飛んでいた。唇を離すと亜紀は眼を開けた。
目が覚めたとき、間近に真一の顔があって、それが何かわからなかった。眼の焦点が合って来るとそれが夫であることを知った。そしてかすかに残る唇の感触で彼が何をしていたか悟ってぽっと頬が熱くなった。
「眼が覚めたか。どこか具合の悪いところはないか?」
「来てくれたのね。心配掛けてごめんなさい」
か細い声で詫びた。真一が来てくれてほっと気が緩んだのか、涙目になっていた。置き上がろうとしたが、彼はまだ駄目だと押し留めた。
「僕の方こそ済まなかった。もっと早く駆けつけなくちゃいけなかったのに、携帯の電源を切っていた、ごめん。お爺さんにこっぴどく叱られた。お爺さんが怒ったら怖いぞ。思わず首が竦んでしまった」
元気付けようとする真一の軽口に亜紀も力なく笑った。
「マンションに帰ってきたら、びっくりした。お爺さんのメモ書きに亜紀が倒れたとあったから、仰天して何にも考えずに病院に来た。何でもなくてほっとしたよ」
心底安心したように言った。
「お爺さんは・・・。帰られたの?」
「いや、お疲れだろうから、陽菜ちゃんと下で一服してもらっている。それで何の病気だったんだ?お爺さんに尋ねても、君に訊けと言って教えてくれなかった」
亜紀は瞬時に耕造の意図を察した。そして彼の計らいに感謝した。
「先生が仰るには、ただの貧血だって。急激に血圧が下がって倒れたんだろうって。私は意識していないのだけれど、ストレスもあったんじゃないかって」
「貧血にストレスか。母屋のことや急な引っ越しなんかで気苦労があったからな。気付かずにいて本当に済まなかった。これからは気を付けるよ」
「いいのよ。それに・・・」
亜紀の左手を握り、覗きこんでいた彼に、にっこり笑って、言おうか言わずにおこうかと思わせぶりな態度に真一が焦れた。
「それに、何だよ。何か別の病気なのか。そうならはっきりと言ってくれ」
ちょっと起してと言われて、妻の血色を見て大丈夫と判断したのか、電動用ボタンを押してベッドの背を起こした。
「ありがとう。・・・あのね、赤ちゃんができたの。4か月だって」
そう告げるとぽっと赤くなった。
「本当か!」
亜紀はにっこり頷いた。真一の顔が一転してぱっと明るくなった。彼は立ち上がると、両腕を突き上げて万歳と2回叫んだ。亜紀は慌てて夫を制しようとしたが興奮している彼には無駄だった。
突然の声に同室の患者や見舞客は何事かとびっくりした。それに気が付いた彼は、「驚かせて済みません。妻が妊娠したもので、つい嬉しくなって叫んでしまいました。ご迷惑をお掛けしました。済みません」と二度三度腰を60度に折って詫びた。同室いた彼らは笑って祝福してくれた
看護師達も何事と廊下まで出て来た。それが万歳だったとわかると笑いながら自分の作業に戻った。亜紀の病室を覗き込んでいた隣室の患者もおめでとうと祝福をして戻って行った。
真一が狂喜したその時、1階で出合った耕造と玻瑠香に陽菜子がナースステーションのところまで来ていて、彼の叫び声を聞いた。
「お兄ちゃん、何よ大声出して。ここは病院なのよ、看護師さん達がびっくりしていたわ。それにほかの患者さんにも悪いでしょ」
玻瑠香は病室に入るなり兄を
「お義姉さん、倒れたんですって。陽菜ちゃんに聞いてびっくりしたわよ。それでもう大丈夫なの」
「玻瑠香さんにまで心配かけてごめんなさい。ただの貧血だって。点滴が終われば帰ってもいいと言われているの」
「それならよかった。状況がわからなかったから健康保険証だけは持って来たわ。それと下の売店で飲物と果物を買って来た」
プラスチックバッグを持ち上げた。
「よく気がついたな、ありがとう。何か食べるか?」
喉が渇いたとの訴えにペットボトルのジュースの蓋を取って渡した。亜紀はそれを飲み干すとバナナを手に取った。
「食べ過ぎるなよ。今晩は外でお祝いをするから、控えめにした方がいい」
それを玻瑠香は聞き咎めた。
「お義姉さんが病気だと言うのに、お祝いって何よ?」
「亜紀が妊娠したんだ」
嬉しさを隠せない様子で告げた。
「えっ、本当!赤ちゃんができたの?それでさっきの・・・。おめでとう、お義姉さん。お兄ちゃんも良かったわね」
「亜紀姉さん、おめでとう。病気じゃなくてよかったわ。それで何か月?」
「何か月だ?」
嬉しさのあまり肝心なことが耳に入っていなかった。
「4か月なの。予定日が9月10日ですって」
「お義姉さんも随分ぼんやりね。そんなになるまで気が付かないなんて」
「私もそう思うわ。時々気分が悪くなったこともあったけれど、今迄の疲れたせいだと思い込んでいたのよ。
呆れ顔の義妹に亜紀も笑って弁解した。
「お義姉さんにもそんなことがあるのね、少し安心したわ。・・・ちょっと待ってよ。4か月ってことは・・・」
玻瑠香は顎に手をやり、少し考える振りをして、指を折って数を数えた。
「それってもしかしてハネムーンベィビーじゃないの?」
言われた兄は益々嬉しそうにした。
「そうなるのか。それじゃあのときかな?」
何を根拠にそう思うのか知らないし確かめようもないことなのだが、亜紀もそう信じたかった。
「まあ、何にしてもめでたい。亜紀さんが倒れた時はびっくりしたが、おめでただったとはわしもついている」
耕造は真一の浮かれように相好を崩した。
「ところで亜紀さん、あのことも話したのか?」
真一は耕造から目を亜紀に戻すと不審そうに訊いた。
「まだ隠し事があるのか?」
「隠している訳じゃないけれど、エコーで調べたら赤ちゃんが二人いるんですって」
「えっ、双子か?」
「双子なの」
また、万歳と手を上げかけたのを玻瑠香は慌てて止めた。
「双子かぁ、男の子か女の子か?いや、どっちでもいい。元気な赤ちゃんを産んでくれ。女の子だったら亜紀に似た子がいいなあ」
ありがとうともう一度言って亜紀を抱きしめた。
「あーあ、やってくれるわね、人前で。そんなことは家に帰ってからにしてよ」
「まあ玻瑠香、いいじゃないか。よほど嬉しんじゃろう。お前もこういう旦那さんを選びなさい」
呆れ顔の玻瑠香に言った。
「お爺さん、心配しないで。私の場合、引く手数多だから、こんな馬鹿な男じゃなくて、もっといい男を選ぶから」
何を言っても相好を崩したままの兄には効き目はなかった。
「それで何をご馳走してくれるの?」
「何でもいいぞ。少々高くても構わん。陽菜ちゃんも遠慮するな、好きなものを目一杯食わせてやる。あ、そうだ。これで約束通りお爺さんに曾孫を抱かせてあげることができる。亜紀、ありがとう。そうか、俺も父親になるのか」
嬉しさのあまり亜紀の手を握ったまま何度もありがとうを連発して、今にも外へ出て行きそうで落ち着かなかった。
「盛蔵と稲子にはわしの方から伝えておこう」
「お爺さん、明日お爺さんをお送りした時に僕の方からお義父さんとお義母さんに報告します」
「そうかい。その方がいいだろうな」
稲子がどんな反応をするかわからないが、どんな理由であれ二人が原村に来るのは歓迎だった。これを契機にうまく行けば、意外に早く稲子との関係が好転するかもしれんと密かに期待した。
中年の看護師が病室に入って来て、亜紀の腕から注射針を抜くと点滴の装置を片付け始めた。それが終ると、亜紀に退院してもいいと告げ、他の患者にも声をかけて異常がないことを確かめると部屋を出て行った。
「それじゃ、着替えて帰ろうか」
カーテンを閉じて彼女が着替えるのを待った。
「みなさん、どうもお騒がせしました」
真一と亜紀が詫びて病室を出た。
「今晩はレストランでお祝いだ。お爺さん、何がいいですか?」
「わしなら何でもいいよ」
「亜紀は何が食べたい?」
「私も何でもいいけど、どちらかと言えば和食かしら」
耕造に配慮した。
「よし、それでは日本料理にしよう。どこがいいかな。・・・ちょっと待って、看護師さんに礼を言っておこう」
ナースステーションに立ち寄り、何やら書き込みをしている先ほどの看護師に声をかけ礼を述べると、彼女が出産の助言をしてくれた。
「もしこちらで出産を迎えるのでしたら、今のうちに分娩の予約をしておいた方がいいですよ。一杯になると予約を打ち切りますから。それと精算は下の窓口でお願いします」
亜紀は気になって、何も言わずに精算をしている真一に確かめた。
「あなた、予約はしなくてもいいの?」
「附属病院に知り合いの先生がいるから、そこで診てもらおう。それともお産の間川越に帰るか?その方がよければそれでもいいが」
「そのつもりはないけれど、附属病院は駄目よ、松本まで遠いし、あなたの知り合いに診察されたくないわ」
はっきりと拒否された真一は少し考えて「それもそうだな」と意外にあっさり前言を撤回した。知人に妻の体を診られるのは不味いと彼も気が付いたのだ。看護師のアドバイスに従って出産の予約を取った。
和食レストランを出て耕造と陽菜子を駅前のホテルへ送った後、マンションまで来ると、真一は亜紀に重いもの持つな、階段は危ないからエレベータを使え、ヒールの高い靴は履くなと口うるさく注意して亜紀と玻瑠香を呆れさせた。
彼は嬉々として、遅いから明日にしたらと亜紀が止めるのも無視して、双方の実家に連絡を取った。
「あ、お義母さん。遅くに済みません。・・・ええ、元気にしています。お義母さんの方こそお変わりありませんか?お変わりない、それはよかった。実はお義母さん、亜紀が妊娠しました。・・・ええ、本当です。今日診てもらってわかりました。4か月のハネムーンベィビーです。しかも双子です、双子。あはは、僕らと同じです。・・・はい、僕も頑張りました。・・・はい、亜紀に代ります」
電話のやり取りと彼の表情で向こうの様子が亜紀にも伝わった。
「お母さん。・・・ええ、そうなの。・・・ありがとう。予定日は9月10日だって。・・・うん、元気よ」
電話口で「亜紀が妊娠したって。ちょっと代れ」と父がうるさく言っているのが聞こえた。
「どこで産むのかって?私はこっちで産むつもりよ。真一さんも玻瑠香さんもいるから大丈夫。妊娠帯を送ってくれるの?有難う。安産のお守りも・・・、ありがとう。・・・うん、大丈夫よ、無理はしないから。・・・お父さん、ええそうなの、4か月よ。男か女かですって?エコーで診てもらったけれど、はっきりしないんだって。お母さんにも言ったけれど、こちらで産むつもりだから。え、今度の土曜日に二人でこちらへ来る?でも泊まる部屋はないわよ。ホテルに泊まるから心配いらないって。ええ、わかったわ。だったらこの前のホテルを手配しておくわ。もう遅いから切るわよ。お休みなさい」
亜紀の隣では、スマホで真一が彼の両親に報告していた。
「・・・そうさ、ハネムーンベィビーの双子だよ。余程双子に縁があるんだな、ははは。亜紀は元気かって。元気にしているよ。今、向こうのご両親と電話をしている。今度の土曜に来るって?来たって部屋がないよ。ホテルに泊まるから問題ない?わかった、こちらで予約しておくよ。亜紀に代われ?亜紀はまだ川越のお義父さんと電話している。・・・玻瑠香?」
振り向いてカウチソファで胡坐をかいている妹を見やると、彼女は長い両腕を胸の前でバツ印に交差して頭を左右に振っていた。
「今風呂に入っているから、明日にでもかけさせるよ。それじゃ土曜日に。お休み。
おい玻瑠香、何故出ないんだ?お袋が心配していたぞ。たまには電話をしてやれよ」
「気が向いたらするわよ。それより何よ、さっきからハネムーンベィビー、ハネムーンベィビーって。聞いててこっちまで恥ずかしくなるわよ。いくら嬉しいからって、呆れるわ」
真一は妹の嫌味を馬耳東風に聞き流して、スマホをピッピツとして、相手が出るのを待った。
おう加藤か、の呼びかけに玻瑠香は振り向き兄を見た。
「夜分にすまんな。仕事は真面目にやっているか。・・・うん、それならいい。え、用件は何だって?君は世間話をする余裕もないのか。それでは出世しないぞ。何を隠そう、奥方が懐妊した。誰だって?馬鹿野郎、最愛の妻に決まっているじゃないか。しかもハネムーンベィビーの双子だ。こうして少子化対策に貢献しているんだからな、少しは俺を見習え。と言っても婚前交渉は慎めよ。いつ生まれるかって?9月の予定だ。君も社会人だから今から二人分の祝儀を用意しておけ。生まれたら真っ先に連絡するからな。今まで目を掛けてやったことを忘れるな。中川に連絡したかって?いや、まだだ、これから連絡する。まあ、何にせよ、手土産持って一度奥方までご機嫌伺いに来い。え、玻瑠香はいるかって?何で亜紀じゃなくて玻瑠香なんだ?何の用だ?」
妹を見やると、今度は腕を交差していなかった。彼女は立ち上がると片手を差し出しながらやって来た。
「お兄ちゃん、代るから貸して」
「まだ電話するところがあるから長話は駄目だぞ」
彼はしぶしぶそれを渡した。
「はい私。まだお仕事しているの?ふーん、人使いの荒い会社ね。・・・そうなのよ。浮かれちゃって馬鹿なのよ。あちこちハネムーンベィビーの双子だって電話しまくって恥かしいったらないわ。お義姉さんも呆れているわよ」
ちらっと義姉を見ると、亜紀は台所の片付けをしながら苦笑していた。
「きっと佐藤教授にも電話するわよ。馬鹿丸出しだね。え、今度の土曜日は休みだから訪ねて来るって?ふーん、どうしようかな。え、私の好きなケーキを持って来るって?馬鹿ね、太ったらどうするのよ。君は太らない体質だから大丈夫だって?ふふふ、お世辞がうまいわね。うん、わかった。本当はデートの約束があるんだけど、時間を空けるとくわ。誰だっていいでしょう。オッケー、じゃその時に」
カウンター越しに亜紀と話していた真一が振り返ると妹に訊いた。
「加藤が来るのか?土曜日は亜紀のご両親とうちの親が来るんだぞ。いいのか?」
「いいわよ、お義姉さんさえよければ。お義姉さん、加藤さんが朝から来るけど、いい?」
「構わないわよ。うちの両親とも加藤さんとは結婚式や披露宴で面識もあるし、お餅つきの活躍で人柄もわかっているから」
亜紀の言い方に、ちょっと待てと真一が咎めた。
「二人して怪しいな。玻瑠香、お前、加藤とどうなっているんだ?」
「どうって?」
兄の質問の意味を理解している癖にしれっとして言った。
「加藤と付き合っているのか?」
「まさか、馬鹿ばかしい。向こうが勝手に手土産持って来ると言うから、断る理由もないし、はいどうぞと答えただけよ。それにお兄ちゃんでしょ、奥方に手土産持って挨拶に来いと言ったのは」
義妹の鋭い切り返しに真一はぐっと詰まった。
「確かにそうだが、それにしてもお前、向こうは24になってそろそろ結婚を意識する頃だ。お前は二十歳にもなっていない。恋愛をするなとは言わないが、少しは相手のことも考えて行動しろ。あいつは俺と似たところがあって余り融通がきかん。本気で付き合うつもりがないなら、はっきりとそう言え。男の純情を弄ぶな。加藤が傷つく」
亜紀は聞いていて、目くそ鼻くそを笑うみたいで可笑しかった。
「わかったわよ。慎重に行動すればいいんでしょ」
「そうだ。お袋にも心配をかけるな」
妹に注意を与えながら、スマホにタップしていた。
「もしもし、夜分遅くにどうもすみません、成瀬です。・・・ええ、変りありません。たまには遊びに来いですか?はい、近いうちに亜紀と挨拶に参ります。
実は妻が妊娠しまして・・・。はい、そうなんです、あはは。4か月のハネムーンベィビーです。しかも双子なんです。・・・あはは、面目ない」
そう言いながら頭に手をやった。
面目ないなら報告するなよと横から妹に突っ込みを入れられても、真一は聞こえないふりをして話をしている。
「ありがとうございます。教授はおられますか?・・・はい、お願いします」
亜紀は片付けを済ませ、彼が電話している横を笑いながら通り抜けると、「玻瑠香さん、ちょっと」と義妹に声をかけた。
「何だ、何だ?またよからぬ相談をするのか?」
送話口を押さえたまま、亜紀達を眼で追った。
「そうじゃないわよ。女には女の話があるの。電話が終わったら、先にお風呂に入ってて」
「あ、成瀬です。夜分に済みません・・・」
亜紀は義妹を自分の寝室に引き込むと彼女を椅子に座らせた。
「玻瑠香さん、本当のところ加藤さんとはどうなの?お兄さんには内緒にするから教えてくれない?」
玻瑠香は短い同居の間に、亜紀が慎重で口が堅いことや無分別な行動をしないことがわかって来た。少し考えて義姉には言ってもいいと判断した。
「加藤さんが私に好意を持っているのは知ってるわ。私だって加藤さんが嫌いじゃないわよ。でもそれだけ。たまに会ってお茶を飲んだり話はするけど、まだ恋愛の対象にはなっていないわ。私はまだ19よ。今は色んな恋愛をして、色んなことを経験をしたいの。だから今は特定の男性は作りたくないの」
亜紀もここで義妹と暮らすようになって、彼女の本当の姿を知った。
彼女は確かに美人でそれを臆面もなく自ら公言もしている。それが同性の女にとって少しもいやらしく聞こえないのは、開けっぴろげな彼女の人柄に負うことが多い。それに、誰とでもすぐに打ち解けるし何事にも積極的だ。それが亜紀には危うく映る。彼女が傷つきやすいことも知っている。だから恋愛には慎重になって欲しいと願う。
「私は玻瑠香さんのことが大好きよ。表面上は強気に振る舞っているけれど、内面は繊細で優しい人だってことは知っているし、実の妹だったらどんなに良かったかとも思っているわ。だから、玻瑠香さんには幸せになって欲しいの。人それぞれに幸せの定義が違うから、一概には言えないけれど、何も結婚することだけが幸せだとは思っていないわ。玻瑠香さんがそれで幸せだと思うなら、キャリヤウーマンを目指して独身のままでも私はいいと思うの。でも、玻瑠香さんはいい奥さんになれる素質も資格も十分あるから、できれば誰もが羨むような結婚をして欲しいわ。
とにかく、私が言いたいのは、若いうちは傷ついたり傷つけたりして成長していくのだと思っているから、玻瑠香さんが言うように恋愛も沢山すればいいわ。でもね、玻瑠香さんにはご両親が悲しむようなことや自分が後々後悔するようなことだけはして欲しくないの。お兄さんもそうだと思うけれど、それだけが私の願い。偉そうなことを言ってごめんなさい」
「いいの、お義姉さんが本気で私のことを心配してくれていることはわかっているから。もし心配事があったら、真っ先にお義姉さんに相談する」
「ありがとう、約束よ。学のある玻瑠香さんの相談にどこまで乗れるか不安だけど、話しているうちに気が休まることもあるから、何でも言って」
「わかった、そうする。親父やお袋から説教されると何故か反発しちゃうんだけど、お義姉さんに言われると何でも素直に聞けるわ」
それは亜紀が真摯に心配していることが彼女に伝わるからだ。
「ありがとう、信頼してくれて。お義姉さんを裏切らないように気を付けるわ。それにしても兄貴、お義姉さんの妊娠がわかって大喜びだったわね」
兄の喜びように玻瑠香も奇異に映ったらしい。
「子供好きなのは知っていたけれど、あんなに喜ぶなんて意外だったわ」
「それだけお義姉さんのことを愛しているんでしょうけど、それだけじゃなくて、血の繋がった家族ができるのがきっと嬉しかったのよ」
長年愛した兄のことだけによく彼のことを理解していると感心した。
親から捨てられた子だったとの事実を知って、存在を否定されたに等しい仕打ちに彼は平静を装っていたが、心の中では人知れぬ葛藤を持っていたはずだ。
実の父母も知らず、たった一人血を分けた弟の存在を知った時には、その弟はこの世にはいない。きっと言い知れぬ孤独を感じたことも容易に想像できる。それがようやく自分の存在を肯定できる証となるものができるのだ。それは私のお腹の中で成長しつつある。彼の喜びは私の喜びでもある。思わぬ早くの妊娠だったが、それで良かったと心から修一に感謝した。
「体には気をつけてね。私もできるだけ買い物や家事を手伝うから」
亜紀は義妹の心遣いが素直に嬉しかった。
「お願いね。お風呂に入ってお休みにしましょう。あの人女の長話を気にしていると思うわ」
「そうね。きっと良からぬ相談をしているのだろうといらいらして待っているに違いないわ」
翌朝、亜紀と真一が迎えにホテルへ出向くと耕造と陽菜子はロビーのソファに座って待っていた。亜紀が耕造と話している間に、真一がフロントで双方の両親の宿泊の予約を取った。
マンションでは玻瑠香が朝食の用意をして待っていた。 耕造が来ると玄関で出迎え抱きかかえるようにしてダイニングまで案内した。
「お早うございます。今朝はお爺さんに合わせて和食にしました。お口に合えばいいけど」
「玻瑠香の作った物なら美味いに決まってる」
耕造が如才なく答えると、「お爺さん、口が上手いんだから。はい、こちらに座って」と椅子を引いて耕造を上座に座らせた。陽菜子は呆れ顔でそれを見ていた。
「玻瑠香さんはお年寄りの扱いが上手ね」
「正月の大口献金が利いているようだな」
亜紀と真一は顔を見合わせ小声で言い合って笑った。
食卓には大根おろしに鮭の塩焼き、納豆、筍とわかめの煮物、小芋の甘辛煮、焼き海苔が並んでいて、玻瑠香が豆腐の味噌汁とご飯をよそっている間に亜紀はお茶の用意をした。
「これは豪勢じゃな。全部玻瑠香が?」
「ええ、そうよ。何時でもお嫁に行けるわ。お爺さん、修一さんのようないい男を紹介して」
相変わらずどこまでが本気かわからないような言い方をして耕造を煙に巻いた。真一は何か問いたそうだったが、何も言わなかった。
耕造はこほんと一つ咳払いをした。
「まだ、若いからそんなに慌てなくてもいいんじゃないか。今日もどこかへ出かけるのか?」
「いいえ、みんなでお爺さんを送るから、さっき電話で断ったわ。いただきまーす」
亜紀はそんな簡単に約束を断ってもいいのかと思ったが、そうかいと耕造が嬉しそうな表情をしたから、何も言えなかった。
食事中、玻瑠香は昨晩兄貴があちこち電話をしてうるさかったと耕造に暴露した。彼女の大袈裟な言い方に耕造は大口を開けて笑った後、何か言いたいようだが、それを躊躇っているように玻瑠香は感じた。
「お爺さん、どうしたの?箸が止まっているけど。何か口に合わないものがありました?」
「いや何、そうじゃない。たまには若いもんと食事をするのもいいものだと思っていたところだ。この味噌汁も美味しいな」
「お代わりがありますからどうぞ」
朝食が終わると彼らはソファに座って寛いだ。玻瑠香がお茶とコーヒーを淹れた。
「お義姉さん、冷蔵庫にケーキがあったけど、昨日買って来たの?」
「ああ、それ。刈谷さん手作りのケーキよ。お爺さんが持って来て下さったの。玻瑠香さんに残しておいたのよ」
「本当!私刈谷さんのケーキ大好き。余り甘くなくて、それでいてどこかほんのり甘いの。私も教わったけど、結局ものにならなかったわ」
「今日会ったら、玻瑠香さんからもお礼を言っておいて。玻瑠香さんの大ファンだからきっと喜ぶわ」
「わかったわ。折角だから今食べてもいい?」
「玻瑠香さんのものだからどうぞ」
「そんなに食べたら太るぞ」
「加藤さんと同じことを言わないの。じゃあ、ちょっといただこうっと。お爺さんも召し上がります?」
「いや、食事が終わったばかりじゃからわしはいい。しかし、いいのう。若い者の声を聞きながら、こうしてのんびりと過ごすのは」
耕造はしみじみとして言った。そんな気持ちにさせた責任の一端が私にあると、亜紀はもじもじした。
玻瑠香はケーキをテーブルに置いて、幸せそうな顔をして小さなフォークで食べ始めた。
陽菜子が玻瑠香を前にすると引け目を感じて言葉少なになってしまう。そんな自分が嫌だったがどうしようもなかった。
「9月には曾孫にも会えますよ。いつでも来て下さい」
「そうかい、ありがとう。ところで真一、そんなつもりでここに来た訳ではないんじゃが・・・」
耕造は湯呑をテーブルに置いて改まった。
「何ですか?」
「二人には稲子のことでは済まないことになったと思っとる。しかし、稲子の気持ちがわしにもわかるから、どうすることもできんかった。亜紀さんの妊娠がわかって、めでたいときにこんなことを言うのは気が引けるんじゃが、どうじゃろう、稲子の心の病が収まったら戻ると約束して貰えんじゃろうか」
真一はコーヒーカップをテーブルに置いて耕造を見た。亜紀と陽菜子は俯き、玻瑠香はフォークを口に咥えたまま上目遣いで兄を窺った。
「正直に言うが、わしはここへ来て、亜紀さんが新らしい生活に馴染んでいるのを見て嬉しくもあったが、遠い存在になったようで寂しい想いがした。わしはな、真一。修一が死んでからというもの過去だけを想う人となってしまったんじゃ。それが、亜紀さんが来てくれてからは現在を楽しめるようになった。そして亜紀さんとあんたが結婚して同居までしてくれて、わしは未来を見つめることもできるようになった。稲子の前では言えないが、今度のことで現在も未来も閉ざされ、再び過去だけを見るだけの老い先短い老人となってしもうた。
ここにはあんたと亜紀さんそれに玻瑠香がいて居心地がいい。わしには縁のない未来のある話ばかりで楽しい。今度のことで亜紀さんとあんたの存在が大きかったことを思い知らされた。何とかお前達を早く戻す方法を考えなくちゃならんと思ったが、はてどうしたものかと途方に暮れた。こればかりは同じ轍を踏む訳にはいかないから、わしにもどうしようもなくてな。でもな真一、いつか必ず戻ると約束してくれるだけでもわしの心は救われる。どうじゃろう、うんと言ってくれんか」
彼はしばらく黙していた。やがてきっぱりとして言った。
「その話は、今は止めておきませんか?」
ふーっと、亜紀が息を吐いた。
「どうしてじゃ?わしも先が短い。いつ何時どうなるかわからん。だからせめてこのことだけは決めて安心しておきたいんじゃ」
耕造は縋り付くような目で真一を見た。効果のほどはわからないが、場合によっては土下座することも厭わない覚悟はある。
亜紀と陽菜子は俯いて無言のままでいた。玻瑠香はケーキを頬張りながら上目遣いで二人がどのような大人のやり取りをするのか、フォークを口に咥えたまま窺っていた。
「どうか、駄目か?」
「お爺さん、僕には何も言いませんが、亜紀だってできれば戻りたいと思っていることくらいわかります。ですが、僕らもお義母さんのお気持ちが理解できるから、これが一番いいと思って出てきました。ですから、お義母さんの心の病が治ったとしても、僕らはすぐに戻ることはありません」
耕造は彼の否定的な発言に落胆した。
「何故だ、何故駄目なんだ?まだ何かあるのか?」
「何故なら、僕らが戻ることで、治ったと思った病が、再びお義母さんの中でぶり返すかも知れないことを危惧するのです。僕は亜紀のことを大事に思っています。またそう約束もしました。ですから、お義母さんの心の病が治ったからといって、あやふやな気持ちのままでは戻ることはできません。
お爺さん、考えても見て下さい。亜紀が修一のことを整理付けるのに5年余りもかかりました。それだって、亜紀の言葉を借りれば、もし僕が亜紀の前に現れなければ、未だに弟のことを吹っ切れずにいたかも知れません。
口幅ったいようですが、僕が思うに、亜紀が嫁いで来て一緒に過ごすうちに、修一のことをふっ切ったと思い込んでいたのだと思います。僕達が結婚したことで閉じ込められていた感情が噴き出たんじゃないでしょうか。母親が息子を想う気持ちは父親以上でしょう。うちの母を見ればそれがわかります。ですから、お義母さんはそんなに早く整理がつくとは思えません」
そうだとばかりに玻瑠香が横で頷いた。
「だからじゃ。だから、稲子の気持ちが収まってからと言ったんじゃ」
「それはわかっています。亜紀が妊娠したと知って、僕にもお義母さんの気持ちがほんの少しわかるような気がします。お爺さんのお気持ちはよくわかりますが、お義母さんの心の傷が完治したと確信できたとしても、そのときの僕らの環境はどのようになっているかわかりません。子供が生まれてここが手狭と思えば、どこかへ移るかもしれないのです。ですから、その時にならないとわからないとしか答えられないのです。お約束できなくてどうも済みません」
真一は心から済まなさそうに耕造に向かって頭を下げた。亜紀は俯いたままだ。夫がそこまで考えてくれていたのかと思うと申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで一杯になった。
恐らく夫は耕造が来訪することもその目的も以前から予想していていたのだろう。だから彼の考えを淀みなく答えられたのだ。亜紀は夫の結論に全幅の信頼を置いた。
その一方で、耕造への説明を聴いていて、義母は亡き息子のことを完全に吹っ切ることができるのだろうかと思った。
義母の態度を思い返すと、とても短期間でそうなるとは思えなかった。もし、そうなるとしたら、私が夫真一と出会った時のように何かのきっかけが必要だろう。それは何か。それは生まれて来る赤ちゃんしかないと思った。もし、その子に祖母としての愛情が芽生えたとしたら、それが契機になるのではと思った。だが、そのことは口には出さなかった。そうしなくても、夫も同じことを考えていることは確かだったからだ。ただ、希望的推論だけで安易に決めないのが夫らしいと思った。
「そうか、駄目か」
耕造は落胆して肩を下ろした。
「お爺さん、そうがっかりしないで下さい。お爺さんが来たければ、いつでも歓迎しますし、お爺さんから呼ばれれば僕らが原村へ出向きます。子供が産まれたら、真っ先にお爺さんのところへ伺います。何も縁が切れた訳ではないですから、そんなに落ち込まないで下さい」
「そうか、そうだな。真一の言う通りかも知れん。無理してこじれるよりいいか。まあ、お前達の考えを聞けただけでもよしとしよう」
無理に自分を納得させて、どっこいしょと立ち上がった。
「お爺さん、慌てずにゆっくりして行って下さい」
「いや、盛蔵には午前中に帰ると言ってあるからそうもいかん。お前の考えを聞くことができたから目的は達した。それに亜紀さんと玻瑠香にも会えたし、嬉しいニュースも直接知ることができた。そろそろお暇するよ」
「そうですか、それではお送りします。駐車場から玄関口へ車を回しますから、ここで待っていて下さい。亜紀と玻瑠香は行く用意をしてくれ。車を回したら連絡する」
真一は車のキーを手に取ると出て行った。
(三)
耕造を助手席に乗せた車の中では妊婦の話題に終始した。
「お兄ちゃん気を付けてよ、妊婦が乗っているんだから」
「任せておけ。見ろ、制限速度の80キロしか出していないぞ。・・・待てよ、お腹が大きくなったらシートベルトはどうすればいいんだ。妊婦はしなくてもいいのかな?」
「それは駄目よ。しなかったら却ってお義姉さんも赤ちゃんも危ないわよ。マタニティシートベルトが5千円ほどで市販されているそうだから、買っておいた方がいいかも」
「そうか、それなら帰りに買おう。しかし、よく知っているな。お前を見直した」
「お兄ちゃんがお爺さんを迎えに行っている間にネットで妊婦の注意事項を調べておいたのよ。後でまとめた物を渡すから、お義姉さんもお兄ちゃんも注意してよ」
「済まんな、助かる」
「玻瑠香さん、ありがとう。色々気遣ってくれて」
「まず今日からできることで一番に兄貴がすべきことは禁煙すること。煙草の煙は妊婦にも胎児にも良くないからね」
「わかった、今から禁煙する。ついでに酒も控える」
きっぱりと宣言した。
「お義姉さん、聞いた?」
「ええ、ちゃんとこの耳で聞いたわ」
義妹の心遣いが嬉しかった。
「心配するな、言ったことは必ず守る。お爺さんも亜紀の前では禁煙ですから、お願します」
「わかった。亜紀さんには元気な曾孫を産んでもらわにゃならんからな。気を付けるよ」
「お願いします。もうすぐ、諏訪湖サービスエリアですから、そこでトイレ休憩にします」
ウィンカーを点けハンドルを左に切った。
彼らが母屋の玄関先に到着した時には正午を少し回っていた。ここを離れて、1月ほどしか経っていないのに、見慣れたはずのものが亜紀には違う景色に映った。
亜紀と真一は耕造とそのまま母屋へ、玻瑠香はケーキの礼を述べるために刈谷のところ向かい、陽菜子は自分の家へ帰った。
母屋の入口で猫の出迎えを受けてひと月ぶりに二人は中に入った。
キッチンで稲子が立っていて、彼らを認めると驚いた顔でエプロンで手を拭きながらやって来た。
「あら、お爺さんを送ってくれたの。まあ、済みません」
随分他人行儀な口調になったと亜紀は思った。自然真一も同じ口調にならざるを得なかった。
「お義母さん、こちらこそ済みません、連絡もせずに突然やって来て。お爺さんが今朝僕達のマンションを訪ねて来てくれて、しばらく雑談をしていました。それでお送りするのが遅れてしまいました」
口裏を合わせて、耕造が昨日訪ねて来たことは黙っていた。
「稲子さん、遅くなって済まん」
「いいえ、それよりお昼は?」
「いいえ、まだです」
「それだったら、何もないけど、一緒にどう」
「それだったら、お手伝いします」
「そう、ありがとう」
義母に断られるかと思ったが、受け入れてくれたのでほっとした。
亜紀はキッチンに立って、稲子に何を作るのかを訊いて、それらの料理を始めた。亜紀は稲子と黙々とそれをしながら、さりげなく周りを見た。
台所回りは汚れが目立ち、お世辞にも片付いているとは言い難かった。やはり、ペンションと家事を両立させるのは難しいのだろうなと思った。台所がそんな状態なのだから、部屋の中は容易に推測できた。見てはならない義母の恥部を見てしまったようで、申し訳ない気持ちになった。
亜紀は夫がダイニングで耕造と話をしながらも、絶えず義母と自分に注意を向けている気配を感じ取っていた。
盛蔵が玻瑠香をお供にばたばたと入ってくるなり呼びかけた。
「亜紀ちゃん。子供ができたんだって。それも双子だって、おめでとう」
「ありがとうございます」
何も聞かされていなかった稲子は驚いた。調理の手を止めて、亜紀の顔をまじまじと見た。1mとは離れていないのに、彼女との距離がとてつもなく離れて感じた。
「亜紀ちゃん、本当なの?」
それだけをやっと言った。
自分だけ知らされず水臭いと思ったが、これまでのことを思えばそれも仕方がないと思うよりしかたなかった。それでも亜紀に子供ができたのを素直に喜ぶことができた。
「はい。今4か月で予定日が9月10日です」
「お義父さんお義母さん、頑張りました。ハネムーンベィビーです」
真一は努めて明るく大声で言った。
「小母様。お兄ちゃん、昨日からそればっかりなのよ。あちこち電話を掛けまくって呆れてものも言えないわ」
わざと玻瑠香が大袈裟に言っていることはわかっていたが、それでも盛蔵と一緒に稲子も笑った。耕造が二人の明るい笑顔を見たのはあれ以降初めてのことだった。
「玻瑠香さん、いいじゃないか。それだけ嬉しんだよ。久しぶりの慶事だ。今晩はお祝いをしないとな」
「お気持ちだけ頂きます。残念ですが、夕方から用事があって帰らないといけないんです。お爺さんをお送りしたついでと言ったら語弊がありますが、妊娠の報告に来ました」
「そうか、それなら仕方がないな」
盛蔵はがっかりした表情だったが、稲子を慮ってか引き止めることはしなかった。
「さあ、皆さん、椅子に座って下さいな。何もないけど、久しぶりに揃って食べましょう」
亜紀には稲子も精一杯明るく振る舞っているように映った。
食事の間、玻瑠香だけが元気で大学生活のことを面白おかしく語って笑いを誘っていたが、誰の目にもその場の雰囲気がまだぎこちないことは明白だった。
亜紀と玻瑠香が食事の後片付けをしてそこを出たのは3時過ぎだった。
「お兄ちゃん、あの様子じゃまだ時間がかかりそうね」
玻瑠香なりに稲子を観察していた彼女が感想を述べた。
「そうだな。亜紀の妊娠を知って少しは変るかと期待したが、まだ無理なようだ。考えてみれば、まだ1月しかたっていないからな。そう簡単に治まる訳ないさ。まだ時間がかかるだろう」
帰りの車の中の亜紀は無言で、母親の息子を想う愛の重さをひしひしと感じていた。
亜紀が出産したのは予定日より3日早い9月7日の夕刻だった。標準体重より軽かったが、真一の付き添いのもと女の子と男の子を出産した。
亜紀が痛みに耐え汗水垂らして二人を出産している間、真一が汗を拭ってやったり一緒になって力んだりして、ずっと傍にいて励まし続けた。
「よく頑張った、御苦労さま。ありがとう、元気な赤ちゃんだよ。二人共亜紀に似てるんじゃないか」
そんなことまだわからないわよと応じながらも、夫に労われて、産みの苦しみを忘れて嬉しかった。
看護師から渡された男女の赤ちゃんを両腕に抱いて、初めて母親になったことを実感した。初産だけに夫に見守られて出産するのは心強かった。
廊下で誕生を待った美智子も二人の孫を抱いた。内孫を既に抱いてはいたが、年少の頃から苦労した娘の孫は格別だった。孫の誕生を待ちわびたのは真一の両親も同じだった。初孫の誕生に目に入れても痛くないと言った様子だった。ここに稲子と盛蔵はいなかった。
亜紀が退院してマンションに戻ったのは一週間後だった。
「黒目がちで目が大きくて可愛いわ」
母性本能が刺激されたのか、玻瑠香は二人の赤子を交互に抱いて可愛いを連発した。
「目が大きいところは玻瑠香さんに似ているわ」
「私に似て美人になったら大きくなったときに困るわよ、言い寄る男が多くて」
真顔で応じる彼女に亜紀は笑った。
誰にも言わないことだが、乳児の目が見えることが確認できるまで亜紀は一抹の不安を抱いていた。二人とも母親の顔を追って目を動かすのを確認してようやく安心したのだった。事故による視覚障害と頭では理解していてもずっと心配だったのだ。
亜紀が分娩のために入院したと知らされて一番喜んだのは耕造だった。彼は曾孫の誕生をずっと心待ちにしていた。しかし、その報を聞いたのは茅野市内の病室だった。
亜紀が出産する10日ほど前から、耕造は発熱に嘔吐や食欲不振の症状が出ていた。心配ないと頑固に言われて盛蔵夫婦も経過を見守っていたのだが、彼の部屋で油汗を流して激痛を堪えているのを稲子が発見した。盛蔵が諏訪中央病院へ連れて行き受診の結果、胆石が膵管に詰まったことによる膵炎と診断され緊急入院した。
後日、真一は盛蔵から知らされて驚き、症状が落ち着いていると聞いて一安心したのだが、高齢だけに心配だった。
出産を間近に控えて川越から来た美智子を残して、真一と玻瑠香が耕造を見舞った。
「お爺さんの様子はどうだったの?」
亜紀は二人分の大きなお腹を抱えて訊いた。
「一頃よりはよくなったようだが、痩せこけて気力だけで元気に振舞っていたよ」
「心配ね」
すぐにでもお見舞いに行って励ましたいのだが、いつ陣痛が始まってもおかしくない身では無理をすることはできなかった。
「赤ちゃんはまだかと気にしていたけど、医者の話では予断を許さない状態らしい」
「よくなればいいけれど」
「曽孫を見れば元気になるさ。退院したらお見舞いに行くことにして、今は元気な子供を産むことだけを考えよう」
曽孫の誕生はすぐに耕造に知らされた。母子ともに健康だと聞かされて喜び、ベッドから離れられないのを悔しがった。
出産の報告に行った真一がスマートフォンで撮った赤ちゃんを抱いた亜紀の写真を見せると、耕造は液晶画面を長い間食い入るように見続けた。
真一と亜紀が乳児を抱いて耕造の病室を訪れたのは亜紀が退院したその日の午後だった。
亜紀は病室に入って胸を詰まらせた。もともと小柄だった耕造がほとんど骨と皮だけに痩せ細って小さくなっていたからだ。その彼が半身を起して、満面の笑みを浮かべて曽孫が来るのを待ち受けていた。両手を広げる耕造に曽孫を両腕に抱かせた。小さな二人の曾孫の顔を目を細めて代わるがわる見て、今の彼には重いはずの赤子を中々離そうとはしなかった。
病室は夫婦の家族に加えて陽菜子と義晴がいて病室が一杯だった。見舞客はいないと思って入室した稲子は夫に図られたことを瞬時に悟った。彼女は彼らが来ていることを知らされていなかった。
稲子は亜紀の出産を聞くとすぐにでも病院に駆けつけたかったのだが、彼女の蟠りがそれを邪魔した。それと察した盛蔵は真一と計り、彼女に内緒で耕造の病室で会うように仕組んだのだった。
稲子は顔を合わせたくない見舞客に気後れと気まずさを覚えたが、引き返すわけにもいかず、初孫を見たいとの思いにも勝てなかった。
真一に促され、みなが見守る中、初孫の女の子と男の子を交互に抱いた。表情を緩めてあやすその姿は祖母そのものだった。そんな様子に、誰も口にしないが、これをきっかけに改善がみられるのではないかと期待した。
赤子を抱いた耕造を真ん中に、みんな一緒の写真を何枚も撮った。稲子も躊躇いを見せながらもその輪の端に加わった。
病室から出るとき、真一が耕造に何事か耳打ちすると顔を綻ばせた。何を言ったのと亜紀に訊かれても、それは内緒と含み笑いをして教えなかった。
盛蔵の元に子供の名を耕造の前で披露したいと真一から連絡があったのはその2日後だった。
家族が揃って見守る中、半身起こした耕造の前で真一が半紙を広げて見せた。そこには長男成瀬修一、長女成瀬亜美と書かれていた。
真一は生まれてくる子が男児と女児と知ったときから男児の名だけを決めていた。 真一から頼まれて耕造が命名したのは長女の方だった。彼は亜紀のように美しく育って欲しいとの願いをその名に込めた。
男子の名を見て喜んだのは稲子だった。ありがとう、ありがとうと真一の手を取って何度も礼を言った。その姿に盛蔵も耕造も破顔した。
「何枚も紙を反故にした割には下手くそな字ねえ。お義姉さんに書いてもらったらよかったのに」
横の壁に貼られた半紙を見て溜め息をつくように玻瑠香が言った。その辛辣な批評に病室に遠慮がちな笑いが広がった。場を和まそうとの彼女の気遣いを割り引いても、墨痕鮮やかとは言い難い筆遣いだった。
「いや、書いてくれと頼んだんだが、断られた」
「それはそうよ、大仕事をしたばかりだから少しはこの人にも頑張ってもらわないと」
そりゃそうだとまた笑った。
長くはいられなかったが、二人は毎日赤子を抱いて耕造の元へ見舞いに行った。いつも耕造は気丈にしていたが、日に日に体が弱っていく様を目の当たりにして悲しかった。その病室には生と死が隣り合わせにあった。
衰弱のあまり、ついには曽孫を抱くことすら叶わなくなった。
多臓器不全で耕造が死去したのは、それから8日後のことだった。曾孫の誕生を見届け、真一に後のことを託し静かに息を引き取った。享年85歳だった。
臨終間際、真一夫婦と盛蔵夫婦を枕元に呼び、聴きとり難い声でこれは遺言だと思って何も言わずに聞いてくれと言った。彼らは涙ながらに耕造の手を取って頷くと耕造は微笑んだ、ように亜紀には見えた。
稲子には、修一のことを忘れて孫のことを可愛がれと言い遺し、真一には盛蔵から戻るようにと告げられたときは無条件でそれに従うことを約束させた。真一がお約束しますと告げると耕造は安心したような表情して目を瞑った。再び目を開くことはなく、最後まで亜紀のことを心配して永眠した。
葬儀は母屋で盛大に営まれた。会葬者の中には曾孫を抱くことができてお幸せでしたでしょうと慰める人もいたが、亜紀はそうは思えなかった。男としては長命の方だろうが、もっともっと長生きをして曾孫の成長を見守りたかったはずなのだ。
亜紀を実の孫のように愛しんでくれた耕造が息を引き取った時、彼女は耕造にすがりつき盛蔵や稲子のいる前で大泣きに泣いた。涙がいつまでも止まらなかった。真一が抱きよせるまで、どこにそんな水分があるのかと思うほど、お爺さんお爺さんとなりふり構わず叫んで泣いた。
葬儀の時の亜紀の憔悴ぶりは誰の目にもわかるほどだった。それでも、みんなの前では泣くことはなかった。出棺の時も会葬者への謝辞を盛蔵が述べている横で稲子がハンカチを目に当てている時でも、彼女は涙を流さず心の内で義祖父に感謝していた。
(お爺さん、これまで私を見守って下さってありがとう。もう泣きません。私には優しく肩を抱いて慰めてくれる頼りがいのある夫と、守るべき可愛い2人の子供、それに私を見守ってくれる家族がいるのですもの。ですから安心してお婆さんと天国で会って下さい)
会葬中盛蔵の隣いた稲子は最後の最期に親不孝をしてしまったと激しい悔悟の念に囚われていた。
早く修一のことを吹っ切っていたら、自分が我慢さえしていたら、あのとき彼らの同居に反対していたら、舅に寂しい思いをさせることはなかった。いや、孫を抱いたときに覚えた感情に素直に従って、戻ってきて欲しいと頼めばよかった。そうすれば心穏やかに舅を黄泉の国へ送り出すことができた。少なくても心の中の重しが少しは軽くなっていたはずだ。あのときは本心から孫が愛おしくて中々手離せなかった。みんなもそれを期待しているように見えた。それでも言い出せなかった。無意味なプライドがあったからだ。結局、臨終間際の舅が仲立ちをしてくれた。最後まで世話をかけてしまった。
49日の法事が終わった後、亜紀と真一が盛蔵に呼ばれた。彼らがある予感を抱いて仏間へ入ると 、稲子が正座して待っていた。薄明かりの中にいる義母が亜紀には一回り小さくなったように見えた。
二人が現れると稲子は頭を畳にすりつけ、これまでのことを詫び、これまでのことを水に流して戻るようにと懇願した。
義母があまりくどくどと言い訳する人ではないと知っている。亜紀にはそれで十分だった。真一は暫くじっと稲子を見つめその真意を確かめるかのようだった。亜紀は夫がどのような返事をするのかどきどきした。どのような回答をしようと夫に従うだけだ。真一は余計なことを言わず、「こちらこそよろしくお願いします」と両手をついた。亜紀はホッとして一緒に頭を下げた。心からほっとした気持ちが盛蔵の顔に表れていた。
戻ることが決まると、盛蔵は双方の両親にことの次第を説明して了解を求めた。表向き平静を装っていても心の中では心配していた彼らは安堵して諾した。稲子の気持ちに整理がついたかどうか、彼らも確信が持てなかったが、赤ん坊を抱いてあやすのを見て、これなら多分大丈夫だろうと判断したのだ。
彼らが了承すると、盛蔵は改めて彼らにこちらに住むように勧めた。可愛い孫の顔を見て腹が固まっていたのか、正巳も和雄も移住としてではなく、亜紀の育児を助けるとも名目で、当分の間居住することに同意した。内心、稲子と夫婦の状況を見守りたい気持ちもあった。
その二日後、亜紀は乳飲み児を連れて母屋に戻ると、数日遅れて当面の荷物だけを持って双方の両親が原村に移って来た。
子育ては亜紀が考えていた以上に大変だった。夜泣きの対応、授乳におむつの取り替え、それに家事にと日々追われた。
原村に戻ってからは、日中は双方の親が家事の肩代わりや子供の面倒を看てくれるから助かるが、真一がいない夜中はそうはいかなかった。夜泣きで何度も起こされた。しかも乳児が二人だから睡眠時間も満足に取れない状態となった。二人のうち一人でもどちらかの親に預ければいいのだが、亜紀はそれを潔しとはしなかった。
双方の両親が原村に移り10日ほどして、正巳は息子と娘に8時までに来いと母屋へ呼び出した。亜紀はそのことを知らされていなかった。
平日の夜に訳もわからず何事かと客間にやって来た息子と娘を正巳はみんなが勢揃いしたその前に正座させると一喝した。
「お前達は何を考えているんだっ!」
その剣幕に息子や娘だけではなく亜紀も思わずびくっと背筋を伸ばした。
正巳は盛蔵以上に寡黙で大声を出す人ではなかった。その人がこれほど声を張り上げたのは初めてのことで亜紀もびっくりした。
正巳は一呼吸して怒りを鎮めると、一転して静かな口調で言った。
「亜紀さんはな、子供の面倒をみるために毎日寝る時間もない。それでも朝から晩まで休む間もなく働きづめだ。私と母さんは亜紀さんと遠藤のご両親に対し申し訳ない気持ちで一杯だ」
妹まで呼んだ理由まではわからないが、真一は呼ばれた理由をすぐに察知した。それと同時に気付いてやれなかった自分を恥じ亜紀に申し訳なく顔を向けられなかった。
それでも頭をあげると、対面の彼らは揃って厳しい表情で二人を見ていた。亜紀は小さくなって俯いたままだ。
「それゃ、ここにおられる遠藤さんや加辺の方々も見かねて子守や家事の応援をして下さっている。だが、それで手を抜くような亜紀さんではないことくらい、お前達もわかっているだろう。それなのにお前って奴は・・・。週末に戻って来ればいいというもんじゃないんだ。もし亜紀さんの身に何かあったらどうする。遠藤さんに顔向けが出来なくなる。それくらいのことが考えられんのか!」
正己は初めのうちは静かに話していたのだが、次第に興奮してきて震え声になった。
まあまあととりなしてくれる者もいず、兄妹は小さくなって俯いたままだ。亜紀もまた一緒に叱られているよう気持ちになって義父の叱責を聞いた。
「子育てというものはな、母親だけに任せればいいというもんじゃないんだ。私らだってできることはする。だが、子育ての第一責任はお前にある。少しは亜紀さんの気持ちと体のことも考えろ。それと玻瑠香!」
突然名前を呼ばれて彼女はビクッとして頭を上げた。
「真一が許可したからと言っても4年生になるまではアルバイトは厳禁だ。小遣いが足りないのなら出してやる。どうしても買いたいものがあるならペンションを手伝え。加辺さんがバイト代を出してもいいと仰って下さっている」
どうして私までと反発しようとしたが、それが出来る雰囲気ではなかった。兄にも仕草で抑えられた。上目遣いで盛蔵を窺うと、正巳の背後に控えて大きく頷くのが目に入った。
「玻瑠香さんに手伝ってもらえたら私らもありがたい。お陰様で予約で一杯の日が続いて、多忙なときは成瀬さんにも遠藤さんにもお手伝いをお願いしているが、それでも女手が足りない時がある。少しの時間でもいいから手伝ってくれたら助かるが、どうだろう?」
盛蔵の申し出の理由に多少の誇張も感じられたが、周りの険悪な雰囲気に選択の余地はなく、わかりましたと応じざるを得なかった。
「それとお前達、明日からここから通え」
ええっ、そんなと玻瑠香は声を上げそうになった。兄のお陰でとんだとばっちりを受けたと思った。
朝は早いし、帰りは遅くなる。そんなことは絶対嫌と言いかけたが、とてもそれを言い出せるような雰囲気ではなかった。
「玻瑠香には亜紀さんの部屋をこれまで通り使ってもよいと仰って下さっている。それができないと言うのなら、二人共大学を辞めろ。いいな」
本気で言っているわけではないだろうが、演技とは片付けられない父の剣幕に真一も玻瑠香も反論できなかった。亜紀の両親も加辺の二人も彼らを助けるでもなく怖い顔をして正巳と庸子のすぐ後ろで控えているので無条件で受け入れるよりほかなかった。玻瑠香も渋々承諾した。
「お義父さんお義母さん、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。この通りお詫びします。今日から亜紀の負担を軽減するように努めます。マンションの契約も早々に解除して引き払います」
真一は遠藤と加辺の両親に向って両手をつき深々と頭を下げて謝った。亜紀にも詫びた。
亜紀は夫と義妹に申し訳なく義父に弁明しようとしたが、美智子が娘の膝に手を置き首を振ってそれを止めた。
真一と玻瑠香はそのあと亜紀の両親と盛蔵夫婦の部屋へ行き、改めて謝罪した。
程なくして彼らは長野のマンションを引き払い原村に移った。車での通勤となったのだが、長距離運転を心配する亜紀に懇願されて1月間で止めた。運転もさることながら高速料金も馬鹿にならなかった。結局、茅野駅近くの月極め駐車場を借りての電車通勤となり、兄と一緒の通学とならないときは、誰かが最寄り駅まで彼女を送迎した。
その夜亜紀がベッドに入るとき、真一が済まなかったと詫びた。
「気付かずにいて済まなかった」
「私こそお義父様とお義母様にご心配をかけてしまったわ。ここから通うことを思うとあなたと玻瑠香さんに申し訳なくって・・・」
「いや、それはいい。それより僕の方こそ自覚すべきだった。親父に叱られなかったら、きっと駄目な夫になって君に愛想を尽かされていたと思う。君と君の両親に申し訳なくて消え入りたかった。少し考えれば君が人任せにする訳がないことぐらいわかるのに6人も親がいるからいいだろうと安心してしまっていた。俺がいる時だって、目を覚まさないように気遣ってくれていることも知りながら、それに甘えてしまった。本当に済まなかった」
ベッドの上で両手をつき頭を下げた。亜紀は身の縮む思いだった。
「なあ亜紀、長崎のときの約束で5番目の条文を覚えているか?これからは一人で抱え込まずに二人で解決しよう。もし手に余るようなら、その時に爺さん婆さんに相談したっていいんだ」
夫の優しい言葉にほっとして涙が出て止まらなかった。
「泣くなよ」
妻を抱き寄せると唇で涙を吸い取った。それから次第に顔全体に移って、最後には「愛しているよ」と優しくて激しいキスを交わした。このとき、彼女は彼の愛情を体一杯に感じた。
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