第十一章 過去からの決別l

                    (一)


 グラバー邸近くのホテルで同じ部屋に泊まった亜紀と真一は、翌朝一緒に部屋から出たところを運悪く江口と加藤に見つかり散々冷やかされた。

 新婦の亜紀は火が出るほどに真っ赤な顔をしてもじもじしていたが、真一は照れ隠しか馬鹿野郎と言い返してそっぽを向いた。それが可笑しく教え子二人は笑いながら朝食会場へ向かった。

 昨夜のことを思うと亜紀は消え入りたいほど恥かしかった。

 既に入籍を済ませた二人は法律的に夫婦となっていたのだが、初夜を迎えたのは、牧師夫妻を招き出席者全員の顔合わせを兼ねた挙式前夜の食事会の後だった。

 思い出しても恥ずかしい真似をしたものだと自分でもその大胆さに驚くほどだった。どうしてあんな行動を取ったのかと今でもそのときの心境がよくわからない。ただあの時は彼と一緒にいたいとの欲求が自分の中で強く働いたのだとしか考えられなかった。これまで不幸続きだっただけに、この幸せが長続きしないのではないかとの根拠のない不安心理があのような行動を取らせたのだと解釈した。

 亜紀の両親は嫁入り前の最後の夜は娘と一緒に過ごしたいと願い3人部屋を予約したのだが、ホテル内での夕食会が終わると亜紀は彼と共に過ごしたいからと、これまで育ててくれた礼を述べて部屋を出て行った。美智子は娘を引き止めようとしたが、それを和雄が押し留めたのだった。彼とて心配し通しだった愛娘と嫁になる前、最後の夜を一緒に過ごしたかった。その気持ちを抑え、娘の心と体はもう真一君のものだ、頼れる相手ができたのだからもう心配することはないと妻を慰め、私達に心配をかけまいと精一杯頑張って来て、自分から好きになって嫁になるのだから祝福して送り出そうじゃないかと説得したのだった。

 両親を寂しがらせはしたが、それに見合うだけのものはあった。彼と結ばれ一夜明けてからはあの不安心理は一掃されたのだ。そして何より、真一とはもう他人ではなく不安に思うことはないのだとの意識が彼女に安心感を与えた。

 挙式に出席する一同揃っての夕食会は賑やかなものになった。

 31年振りに会った牧師と養親は当時の話題で、挙式で重要な役割を担う中川らは教会で着る衣装や手順の話で盛り上がり、明日の主役二人はビールやワインを注ぎ回って彼らの輪に加わった。

 賑やかな会食が終わると、亜紀は女性だけの2次会に流れ、男達は独身最後のバチュラーパーティと称して夜の街へ繰り出した。

 亜紀は明日の用意もあり早くに切り上げ、真一の帰りを待っていたのだが、彼が戻ってきたのは12時過ぎだった。酒好きの教授も破廉恥な教え子達も高齢の耕造と挙式のことを配慮して、真一と耕造を早くに解放したのだった。

 「お帰りなさい」

 亜紀は恥じらいながら出迎えた。彼女が危惧したほどには酔ってはいなかった。出ていく時、部屋で待っているからと囁かれていたから、酒を控え早めに帰って来たからだ。

 「ごめん、中々離してくれなくて遅くなってしまった」

 「いいわ、思っていたより早かったわ。待っている間に、着替えと明日着る服を出しておきました」

 「あ、ありがとう」

 恋人と呼び合う時間が少なかっただけに、こうして二人だけになると照れ臭さとぎこちなさがまだ拭えていない。

 真一は渡した上着をハンガーに掛け終わるのを待って亜紀に近づいた。彼女も振り返り恥じらいを見せつつ夫を見上げた。

 二人のキスは情熱的で長かった。しかし、真一はそれ以上のことを求めなかった。慌てる必要はなかった。これからは二人でいる時間が多くある。唇が離れると亜紀は気恥ずかしさから逃れるためにバスタブに湯を張りに浴室へ行った。

 真一が風呂に入っている間に、脱ぎ散らされた彼の服を丁寧にハンガーに掛け、埃をブラシで落とし、着替えの服をクローゼットに掛け靴を磨いた。そんな新妻の真似事をすることで羞恥心と昂ぶる気持ちを紛らわせた。

 兄が持って来てくれた式に着るドレスの確認やタキシードなどの点検をしてから入浴の用意をしているとドライヤーの音が消えた。バスルームのドアが開いき、髪を乾かしただけの真一がバスローブ姿で出て来た。そんな姿が亜紀には気恥ずかしくて目を合わせられなかった。

 「あー、さっぱりした。今お湯を張っているから5分ほどで入れるよ」

 「ありがとう。お化粧を落とさないといけないから入ってくるわね」

 バスタブに浸かっていても、真一を意識して落ち着かなかった。新婚さんてみんなこうなのかしらと一人可笑しくなってタオルで顔を拭いた。

 真一はベッドに横たわると聞くともなく浴室から漏れるシャワーの音を聞いていた。その音を聞いているうちにそれまで想像したこともない亜紀の白い裸体が思い浮かび、ムクムクと男の欲望が頭をもたげた。馬鹿野郎と独り言を呟き、冷蔵庫にあるミネラルウォーターを一気に飲み干した。風呂上がりの水は冷たくて美味しかった。

 真一は椅子に座ると備え付けの紙に何やら書き始めた。何度も思案し書き直し終えても亜紀が出てこない。女の長風呂は妹で承知しているが、それにしても長い。

 初夜を迎える亜紀にしてみれば少しでも綺麗に見てもらいたいがための長湯なのだが、髪を乾かし高鳴る動悸を抑えて浴室から出て来ると、酔いが回ったのかそれとも疲れが出たのか、真一は布団も被らずにバスローブ姿のまま大の字で寝入っていた。

 「人の気も知らずにずいぶん気楽ね。勇気を振り絞ってここへ来たのに」

 呆れ気味に呟いた。

 起こそうかそのままにしておこうかと迷ったが、新妻としての挨拶だけはしておこうと真一を揺り動かした。

 「真一さん、起きて」

 寝起きはいいと自慢していた通り、彼はすぐに目覚めて半身を起すと、どうした?と訊いた。一人緊張していた亜紀は肩透かしをくったようにがっくりしたが、すぐに気を取り直し、ベッドの上を彼の枕元までにじり寄ると正座した。そんな彼女に真一は目を丸くした。

 「不束者ふつつかものですが、末永くお願いします。妻として精一杯尽くしますけれど、至らないところがあれば教えて下さい。よろしくお願いします」

 三つ指をついて挨拶を始めると、真一も面食らったように慌てて起き上がり正対した。

 「いや、改まってそのように言われると照れるな。こっちこそ、よろしく頼みます」

 頭に手をやって照れた表情をした。

 真一と亜紀は不安定な布団の上で両手をついて他人行儀にお辞儀し合い、頭を上げると二人共気恥ずかしくなって笑い出した。それで二人の緊張が解消した。

 真一が照れ隠しで思い出したかように言った。

 「あ、そうだ、ちょうどよかった。君が風呂に入っているときに、牧師さんに倣ってこれを書いてみた」

 真一はベッド脇のナイトテーブルの上の二枚の紙を取って亜紀に手渡した。

 何かしらと見ると、そこには達筆とはとても言えない大きな字で妻に対する6箇条の誓約が書かれていた。

 「その通り誓うよ」

 亜紀はそれを声に出して読み上げた。どの条文も明快だった。が、最後の条文の意図が不明だった。

 「真一さん、第6条の上記の誓約に違約した場合、妻の申し立てに異論なく従うとはどういうことかしら?」

 「うん、それは僕がこの誓約を守らなかったときに、例えば君が一方的に別居や離婚を申し立てたとしても僕は異議を唱えないと言うことだよ」

 式を挙げる前からそんなことまで考えていたのかと亜紀は呆れてしまった。

 「わかったわ。そうまでする必要はないと思うけれど、一応このままにしておくわ。それと、5番目に私に対して嘘はつかないとあるけど、そうまでする必要はないと思うの。誰にだって言いたくないことがあるでしょうし、私だってそうまでして何もかも打ち明けられたら息苦しく思うことだってあるかもしれないわ。お互いに相手を裏切らず夫婦生活に支障がないのなら、秘密の一つや二つあってもいいと思うの。どうかしら?」

 一読しただけでそんな意見を言えるなんて頭が切れると、今更ながら彼女を見直した。

 「確かにそうだな。少し考え込みすぎたみたいだ。これは抹消しよう」

 真一はあっさり撤回した。

 「その代わり、どうせ誓うなら一文加えて欲しいの」

 「何だい?」

 もう何を言われても驚かない。

 「一生妻を愛することを誓う。これが私にとって一番重要なことよ」

 「成程、それはそうだな。よし、わかった。それを追加しよう。条文にして入力するから見ていてくれるか」

 真一はベッドから下りて鞄からタブレット端末を取り出すと、頭の中のシャッターを押してあるのか、手書きの誓約書を見ずに入力を始めた。亜紀は横でそれを見ていて彼が入力し終わると、ちょっと貸してと彼が最後に入力した条文を先頭に並び替え他の条文も修正した。亜紀も同じ機種の端末を使っているのでお手の物だ。

 真一の横で入力しているバスローブ姿の亜紀の身体からはシャンプーのいい香りがした。

 1.夫(真一)と妻(亜紀)の両名は一生添い遂げ共に愛することを誓う。

 2.両名は浮気をしないことを誓う。

 3.両名は相互に対し暴言を吐かず暴力を振るわないことを誓う。

 4.両名は遠藤家、成瀬家、加辺家それぞれの親に対し孝行を尽くすことを誓う。

 5.両名は家族に関する問題は何事も相談することを誓う。

 6.両名は将来子供が幾人できたとしても分け隔てなく見捨てることなく育てることを誓う。

 「これでどうかしら、さっきの条文はいらないからこれでいいわ。これなら公平だし、誰かに見られたとしても問題がないでしょ?」

 真一はざっと画面の文字に目を通すと同意した。

 「OK、これでいいよ。明日、コンソルジュに頼んでプリントしてもらおう。それから署名式だ」

 「駄目よ、人に見られたら恥ずかしいわ。帰ってからにしましょう」

 「わかった。そうしよう」

 彼らは見つめ合ってにっこり微笑み合った。

 二人は改めてベッドにあい向かいに腰を下ろすと、真一が亜紀の両手を取って宣言した。

 「僕は子供が好きだ。明文化はしないけど、君の子なら何人でも欲しい。だから避妊はしないで自然に任せようと思うけど、いいね?」

 亜紀はしっかりと頷き同意した。修一が夭逝した今、彼には血の繋がった肉親がいない。いや、親は生存していると思うが、音信不通だからいないも同然だ。そんな彼の気持ちを理解した。そして、これから二人の家族を作るのだと。

 亜紀は無言のまま夫に身を預けた。真一は妻を横に抱き静かで長いキスをした。彼女の方が先に息が苦しくなって体を離すと、真一は「亜紀」と初めて呼称なしで呼びかけた。そして、珍しく顔を赤らめて言った。

 「君の体を僕に見せてくれないか?」

 亜紀は真一の求めに驚きはしなかった。それでも頬を染めてベッドから離れ室内を薄暗くすると恥じらいを見せながらゆっくりとバスローブを脱いだ。身には何も付けていなかった。ほの暗い室内にボッティチェリのビーナスのような薄桃に染まった裸身が真一の目の前にあった。彼はベッドに腰を下ろしたまま、ああ!と感嘆の声を上げた。妻となる女の体を上から下までゆっくりと見て頭の中に留めた。亜紀にとっては長い時間に思われたが羞恥心はなかった。

 真一も健全な男である以上、これまでに性欲がない訳ではなかった。だが、その処理を女体に求めたことは一度もなかった。その気になればその機会は国内外で幾度もあった。しかし、彼の倫理観がそれを阻んだ。好きでもない愛してもいない女性と性行為をするなどは彼の中では論外のことだった。だが、これからは違う。一人の女性から自分の妻となる彼女の体を自分の目に焼き付けておきたいと願ったのだ。

 今度は後ろを向いてと言った。言われたとおり亜紀は彼に後ろ姿を見せ、しばらくじっとしていたが、彼の声で前を向いた。彼女の白い肢体が桜色に染まって美しかった。

 「ありがとう、何から何まで綺麗だ。漠然と思っていた理想の人が僕の前に現れて、しかも僕の妻になるなんて夢を見ているようで信じられない。一生大事にするよ」

 亜紀は彼の飾らない最大の賛辞に素直に嬉しく、ありがとうと応えた。

 真一は立ち上がると、ありがとうともう一度言って足元にあるバスローブを彼女に着せかけた。すると彼女は大胆なことを言った。

 「あなたも私に見せて」

 自分の裸体を見せたこともあってか、そんな恥ずかしい言葉も自然に口から出た。真一も、ああいいよと当然のことのように応じた。

 真一は彼女の両肩に手を置いてベッドに腰を下ろさせ、全身を見やすいように一歩下り、無造作にバスローブを脱いだ。そして、パンツを取って裸になった。

 亜紀はきらきら光る眼で夫の体を隅々まで見た。彼の体格は池の畔で知っていたが、こうして間近で見ると細身ではあるが、思っていた以上に逞しいと思った。目の前の彼の分身は亜紀に向かって屹立している。それを見ても卑猥だとか怖いとかの感じは抱なかった。私の体を見て興奮して、これが男なんだわと満足感を抱いた。

 真一は彼女がしたと同じようにゆっくりと後ろを向いた。亜紀は後姿も自分の目に焼き付けた。彼はしばらくじっとしていたが、やがて前を向いた。

 「素晴らしい体をしているわ。そこを触っても?」

 言っておきながら彼女自身驚いていた。真一もまた亜紀の大胆な発言に驚いたが、それを押し殺して頷いた。

 真一は彼女のすぐ前に来て仁王立ちした。亜紀が右下腹部にある小さな手術跡を4本の指でそっと触れると、くすぐったかったのか少し体を動かした。次に、亜紀は恐るおそる自分にはないものを掌で掬い上げるような感じで、睾丸から先端まで触った。彼のそれはとても堅くて熱かった。

 「ありがとう、もういいわ」

 真一は裸のまま亜紀の両手を取って立ち上がらせた。彼女の肩からバスローブが脱げ落ちた。互いに裸のまま抱き合い何度か顔の向きを変えながら舌を絡ませる情熱的なキスをした。彼らの裸体が次第に熱を帯びてきた。亜紀は息苦しくなって、彼の身体から離れようとした瞬間、真一がさっと裸の亜紀を抱き上げた。あっと小さな声を上げた時には彼女は宙に浮いていた。真一は軽々と抱いてベッドに優しく横たえると、彼は妻に寄り添い、静かに彼女の唇にキスをしながら覆い被さった。なされるがままに目を閉じた彼女の体は熱く柔らかだった。

 行為の間中、愛されていると実感し、もうこれからは一人ではないとの安心感を得た。彼の女になったときの苦痛はその歓びに比べればなんでもなかった。そして、愛し愛されて安心できることが、こんなにも素晴らしいことなのだと初めて実感し涙を流した。

 亜紀と真一は修一の呪縛から完全に解放された。


 亜紀と真一両名の挙式は二人の婚礼を寿ぐかのような青空の下、10時から佐川牧師の司式により教会堂で執り行われた。

 出席者は成瀬、遠藤、加辺の3家族と新郎新婦の媒酌人である佐藤教授夫妻、新郎から指名されたアッシャーと呼ばれる介添人の江口に加藤、同じく新婦側の介添人であるプライズメイドの玻瑠香と中川、それに写真とビデオの撮影係りの陽菜子と吉晴の20人のみだった。

 挙式は簡素に滞りなく終了し、教会の前で新郎新婦、司式者夫妻を中心に代わるがわる記念撮影をして教会を後にした。

 新郎新婦らの着替えが終わると、昼食を摂るためにタクシー6台に分乗してグラバー園へ向かった。

 大人数の彼らのために予約席がパーテーションで仕切ら、新郎の右隣に佐藤教授夫妻、新婦の左には牧師夫妻が座った。

 真一が入口にいたウェイターに注文したビールとジュースが全員に行き渡ったのを見て、真一が玻瑠香と談笑している加藤に呼びかけた。

 「加藤、済まないが司会進行を頼む」

 事前に頼まれていた加藤は全員の拍手を受けながら立ち上がった。

 「新郎のご指名に預かり大変光栄に思います。昨晩の席でご存知かと思いますが、改めて自己紹介をさせていただきます。私は新郎の不肖の弟子で加藤健吾と申します」

 いつから弟子になった、との中川と江口の突っ込みを無視し、大丈夫なの?との玻瑠香からの冷やかしにも軽くいなして続けた。

 「それでは僭越せんえつではございますが、若輩のわたくしがこの感謝の会の進行役を務めさせていただきます。

 まず新郎が先に、幾多の艱難辛苦を乗り越え、嫌がる新婦を略奪同然に娶った喜びと皆様への感謝を一言述べたいでしょうから、いささか異例ではございますが、新郎の謝辞の後、乾杯に移りたいと思います。

 乾杯のご発声は新郎の恩師でもあり、このたびの仲人でもあります佐藤教授に後ほどお願いしたいと存じます。それでは新郎成瀬真一様、挨拶をお願いします」

 巧みに笑いを誘って座った。

 真一が入れ替わり立ち上がると、亜紀もそれに倣った。彼らは双方の親から贈られたスーツとワンピースに着替えていた。

 「誤解があるといけませんので一言弁明をさせて下さい。司会者はあのように申しましたが、私と亜紀は相思相愛で結ばれたのであり、決して略奪結婚ではございません。それは彼女の瞳の中にあるハートマークを見ても明らかでしょう」

 軽く冗談を言って出席者の爆笑を誘った。亜紀も赤くなって一緒になって笑った。

 「本日はご多忙の中、遠方にも関わらず、私達の挙式にご列席いただきまして、厚く御礼申し上げます。本来であれば、お一人おひとりに謝辞を申し述べるべきところなのでしょうが、それは後日改めてということでお許しいただきたいと存じます。

 昨晩の食事会で面識がおありでしょうが、改めましてご列席いただきました方々の紹介を兼ねまして、この場から御礼を申したいと存じます」

 一旦言葉を切り全員を見た後、亜紀の隣にいる牧師夫妻を見やり続けた。

 「まず、本日司式者を務めて下さり、厳粛な式を執り行って下さいました佐川牧師、壮麗なオルガンで私達を導いて下さいました牧師夫人に改めて感謝申し上げます。ありがとうございました」

 普通の服装に改めた牧師夫妻は威儀を正して軽く礼を返した。

 「こちらにおられますのは、私の恩師で上司でもあります信州大学工学部建築学科の佐藤教授とご夫人です。本日は出番がございませんでしたが、結婚披露宴では媒酌人を務めていただくことになっております。先生にはご多忙にも関らずご列席いただきましてありがとうございました」

 教授夫妻も神妙に真一を見返して丁重に礼を返した。

 「向こうの方で固まっておりますのは、挙式の間介添人を務めてくれた信州大学工学部建築学科の卒業生で、江口達也君に中川慶子さん、それに司会を務めてくれております加藤健吾君。ちなみに彼らは後ほど紹介します加辺さんが経営しておられる新ペンション・グリーンハウスの設計者の一員でもあります。そして、一際背の高いのが私の妹で、同じく建築学科在学中の成瀬玻瑠香です。みんな今日はありがとう」

 彼らは手を振ってそれに応えた。

 「次に私達の家族をご紹介いたします。妻亜紀のご両親と義兄夫婦の遠藤ご一家。こう申しますと不遜に受け取られるかもしれませんが、初めての訪問で義父と義兄とはすぐに飲み仲間になりました。その日の夜、不覚にも結婚のお許しを頂いた嬉しさのあまり、妻の実家で酔い潰れ、翌朝目が覚めた時には下着姿まま布団の上に転がされておりました」

 爆笑が起きた。彼の母は呆れたように顔を伏せ、義兄夫婦は手を叩いて喜んでいる。

 「このような自由闊達なご両親とお義兄さんが、亜紀をこれまで見守り育てて下さいました。いつも明るい義姉の杏子さんには亜紀がどれほど元気づけられ励まされたことか、ここで御礼申し上げます。杏子さんからブライズメイドを務めたいとのお申し出もありましたが、未婚者に限るとのことで誠に残念ですが諦めていただき、お気持ちだけは頂きました」

 和雄と和人は片手を上げ、美智子が泣き笑いで目にハンカチを当て、杏子は太陽のような明るい笑顔で応えた。

 「次に、これまで亜紀のことを嫁としてではなく、実の娘や孫のように愛しんで下さいました加辺のご家族です。ご一家には亜紀のみならず、私を始め学生達も大変お世話になりました。特にお爺様は亜紀のよき相談相手であったと聞いております。もし加辺の義父と義母、お爺様がおられなかったら、私達はここにこうしていることはなかったかも知れません。何とお礼を申していいかわかりません。どうもありがとうございました」

 義父と呼ばれた盛蔵は笑顔で返し、稲子は目にハンカチを当てて肩を振るわせ、耕造は目を潤ませ頷いた。

 「最後は私の両親です。二人は豊かとは言えない中、自分達のものを削ってまで精一杯愛情を持って育ててくれました。ずっと親不孝ばかりで不肖の息子だと申し訳なく反省しております。でも今日ばかりは、手放しで喜んでくれています。このように自分のことは二の次にして不肖の息子と娘をこれまで育ててくれました。これまでありがとう」

 こんな風に息子から感謝されたのは初めてなのだろう。二人は目に涙をためてしきりに頷いている。

 「忘れてならないのは、加辺の義父方の姪と甥にあたります加辺陽菜子さんと義晴君の姉弟です。二人は加辺家のペンションが忙しい時にいつも手伝いに来てくれて、亜紀が寂しい想いでいるとき、彼らの明るい声を聞くだけで励まされ元気が出たと言います。これまでありがとう。二人には挙式の間カメラマンとして務めてもらいました。

 陽菜ちゃんは来年、義晴君は再来年信州大学を受験するそうです。そうなりますと8名が同窓となり、佐藤教授を筆頭にここに出席している者だけの同窓会が開催できるやも知れません。それはともかく、ここで改めて皆様に御礼申し上げます。結婚式の司式ならびにご列席ありがとうございました」

 新郎新婦は再び深く頭を下げた。

 謝辞が終了したとみて加藤が立ち上がりかけたとき、真一がそれを押し留めた。

 「少し話が長くなると思いますが、今しばらくお許しをいただきたいと存じます」

 小声で亜紀に座るように促したが、小さく頷いてそのままの姿でいた。彼女はこれから夫が何を話すかを知っていた。

 自分らのことを話すことには家族らは難色を示していたのだが、後日のことを考えた真一が押し切ったのだった。

 「本日式に列席されここにおられる方々は、勝手な申しようで申し訳ありませんが、私達夫婦にとって身内同然だと思っております。ですからこれから述べますことはこの場限りのこととご承知置き下さい」

 新郎の改まった言い方に、事情を知らない佐藤夫妻と教え子は何を話すのだろうと注目した。加辺と成瀬の両親は心なしか緊張したように見えた。ここで真一はもう一度妻を見た。彼女はまたしっかりと頷き返した。

 「皆様の中には、私達の結婚式をどうして長崎で、佐川牧師の司式で挙行したのだろうと不可解に思われた方もおられるでしょう。実を申せば私達も長崎へ来るのはこれが2度目なのです。それなのに何故・・・。実はここが私の、いえ私達のルーツなのです」

 真一はここで話を切った。誰かがふっと大きく息を吸った音がした。彼は横に立つ亜紀を見て顔を戻した。

 「今私達のルーツと言いました。それは亜紀と私のことではありません。亜紀の前のご主人であった修一氏と私のことです」

 ここで真一はまた一息入れた。

 家族以外の者は、ルーツとは、真一と新婦の夫のこととは何のことだろうと聴き耳を立てた。

 「修一氏と私は双子の兄弟でした」

 えっ!と介添人の席の方で驚きの声が上がった。

 「私も薄々それを感じとってはいましたが、数ヶ月前まではその事実を正確には知りませんでした」

 家族と牧師夫妻以外は知らない事実に、介添人の席の方でざわざわした。佐藤夫妻も意外な事実を聞かされ、驚きの目で新郎新婦を見上げた。

 昨晩の顔合わせを兼ねた夕食会の席に、亜紀と真一に付き添われて牧師夫妻が現れた時、加辺と成瀬の両親が立ち上がって出迎え、懐かし気に再会を喜び手を取り合う姿に、事情の知らないものにとっては奇異に映った。しかし、ここで初めて彼らが既知同士だったことを知った。

 どよめきが静まるのを待って、彼は話を続けた。

 「私と弟の修一は生後間もなく、佐川さんの教会の前に置き去りにされていました。それを佐川さんのご両親で、今は亡き牧師御夫妻が私達を拾って下さったのです。短い期間でしたが、ご夫妻と当時高校生だった佐川さんに育てられました。

 ほどなく縁あって、私は成瀬の家に、弟は少し遅れて加辺家にそれぞれ引き取られました。以来私達二人は互いに兄や弟がいることも知らず、何の不自由もなく両親の愛情を目一杯に受けて育ちました。

 弟も私も実の親には一度も会ったことがなく、今もどこにいるのかさえ知りません。申すまでもなく、私の親は現在の両親だけで、修一の両親も加辺の義父と義母だけです。ですからその事実を知った後でも、産みの親に会いたいと思ったことはありません。弟が生きていれば同じことを言ったでしょう」

 ここで真一は小さく息をついだ。

 「一方、亜紀は小学生の時に不慮の事故に遭い失明しました」

 ここでも驚きの声が上がってざわざわした。

 「そんな彼女が社会に出て間もなく、東京の大手医療機器メーカーに勤めていた弟修一と神様の悪戯としか思えないほどの偶然で知り合ったのです。弟は亜紀に一目惚れでした。やがて二人は付き合うようになりました。弟は早くから亜紀を結婚相手として認識していたようですが、亜紀は視覚障害者との劣等感もあってそこまでは考えてはいませんでした。

 二人の出会いが神様の悪戯で、1年後に彼らを襲った不幸も神様の仕業だとしたら、神様は亜紀に何らかの試練を与えたかったのかも知れません。

 亜紀が22歳の時、弟修一はわずか25歳の若さで病死しました。弟の願いで、亜紀には最後の最期まで弟の病気のことは伏せられ、臨終の場に立ち会うのがやっとのことでした。その時、彼女の目はまだ回復していませんでした。彼の顔さえ見ることもできず、痩せ衰えた顔に手を触れることしかできなかったのです」

 すすり泣く美智子と稲子を真一は目の端で捉えていた。肩を震わせているのは横にいる亜紀だったが、真一がここまで語った時、耐えきれなくなって両手で顔を覆って座り込んでしまった。そんな彼女を佐川夫人が優しく肩を抱いた。

 「弟は亡くなる前に、ご両親宛に手紙を遺していました。その中で自分が死んだ後、角膜を亜紀に移植して欲しいと頼んでいたのです。そのときには治らないと思われていた亜紀の眼が、適格な処置と角膜があれば元に戻ると診断されていました。ところが、現行制度ではドナーが移植相手を指定できないのだそうです。唯一の例外は親族間であればそれが可能だったのです。加辺と遠藤のご両親は相談して、亜紀に伏せたまま入籍の手続きをとりました。そして、弟の願い通り角膜が移植され、数日後亜紀の視覚が元に戻りました。しかし、視覚を取り戻しても愛する人を失い傷ついた心は癒されることはありませんでした。弟への感謝と視覚障害者故の劣等感で、彼の愛に応えなかったことに自責の念を覚えていたのです。そして弟の墓参に行ったときに、夫のいない加辺家へ嫁ぐことを決心したのです。それでしか彼の無償の愛に応えるすべがなかったのです。

 そうこうしているうちに5年の月日が流れました。

 昨年の夏の終わりに、私はほんの気まぐれで、弟の両親が経営するペンションに泊まり、そこで私と亜紀は出会いました。それからのことは皆さんもご承知のことでしょう。

 皆さんは思われたのではないでしょうか。これは単なる偶然ではなく弟が引き合わせたことに違いないと。でなければ、私が和歌山から信州大学に入学し、東京の会社に就職していながら恩師の誘いを受けて一旦離れた信州に舞い戻ることも、亜紀が信州に来て私と出会うことも、偶然にしてもあり得ないことだと。私達も偶然ではないと信じています。

 それから二人の間に紆余曲折がありました。が、こうして弟が愛した亜紀と兄である私が皆様の立会いの元、本日結婚式を挙げました。そうです、今も亜紀の心の中にいる弟も含めて彼女を愛すると私は弟の仏前で誓いました。挙式の時にも、皆様の前で声には出しませんでしたが、改めて同じことを誓いました。いわば皆様がその立会人となりました。

 いみじくも遠藤の義父が私達に仰って下さいました。君たちの出会いは偶然ではない、修一君が引き合わせた必然だ。だから彼のことを忘れてはならない。弟の分まで幸せになる義務があるのだと」

 真一は和雄を見た。彼は満足そうに見返した。和人は微笑んで親指を突き上げた。

 「本来ならば、こうした個人的なことや家族間の秘密をこのような場所で述べるのは不適切かも知れません。話す必要がないことも承知しています。しかし、私達は知って欲しかったのです。単に弟が愛した人だから、弟に似ているから好きになり愛し合うようになったのではないと。もっと本質的なもので結びついたのだと知って欲しかったのです。そして、養子としてではなく実の息子として僕達兄弟を愛してくれた家族がいることも知って欲しかったのです。更には息子の嫁としてではなく、娘や孫のように愛して、ただただ彼女の幸せを願って見守ってきた家族もいるのだと知っていただきたかったのです。

 皆様は私達を祝福して下さいました。私達は心から幸せと喜びを覚えています。互いに愛し合う者同士がこうして結ばれ、遠藤、加辺、成瀬の3組の親ができました。いえ私にはもう一組の両親、亡き佐川牧師ご夫妻が心の中にいます。これほど家族に恵まれ愛された夫婦がおりますでしょうか。これ以上の喜びはありません。

 繰り返しになりますが、私達の結婚式に出席していただき、祝福して下さった皆様に改めて御礼申し上げます。ありがとうございました」

 亜紀は再び立ち上がり、夫婦となった二人は深く頭を下げた。盛大な拍手があって、後は頼むと加藤に下駄を預けると座った。

 「頼むって、先生。普通なら感動的な話をありがとうございましたと締めるのでしょうが、女性達をこんなに泣かせてどうするんですか」

 加藤は精一杯気持ちを盛り上げようと冗談を言った。

 「それでは、佐藤教授から簡単に、簡単にですよ。簡単にご祝司を頂戴して乾杯したいと思います。グラスが空の方は今のうちに満たしておいて下さい。それでは佐藤教授よろしくお願いいたします」

 加藤の呼びかけに教授はグラスを持って立ち上がった。

 「それでは皆様、グラスを持ってお立ち下さい」

 みんなが立ち上がったのを確認して続けた。

 「私は新郎が演説は苦手だと聞かされていましたから心配していました。ですが中々どうして立派なものでした。まあ、そんな冗談はさておき、成瀬君、亜紀さん、それにご家族の皆様、ご結婚おめでとうございます。

 私も家内もこれまで多くの結婚式や披露宴に招かれましたが、これほど感動的な結婚式はありませんでした。また、こんなに初々しくて美しい花嫁は初めてです。何しろ私は新婦にばかり見とれていて、新郎には目が行きませんでした。式の間、あんまり見惚れているものだから家内に足を蹴られたものです」

 教授独特の冗談でみんなの笑いを誘った。亜紀は頬を染めて下を向き、真一はまた始まったとばかりに苦笑した。

 「今まで新郎の浮いた話を聞いたことがなかったものですから、女嫌いではなかろうかと真剣に心配しておりました。それが先々月でしたか、私の家を新婦と一緒に訪ねて来ましたときには、驚くと同時に新婦を見て彼が惚れるのも無理もないと得心しました。難攻不落だった彼の女嫌いを改めさせてくれた新婦に心より感謝申し上げたい」

 「女嫌いをあまり強調しないで下さい」

 苦笑交じりの真一の抗議に、君は黙っていろと一喝して続けた。

 「亜紀さん、こんな無粋な男だから、気苦労も多いかもしれない。私の目から見ればまだ子供のようでふらふらしたところがあって甚だ心許ない。だから新婦がしっかり手綱を取って導いてやらないとどこへ行くかもわからない。よろしく頼みます」

 教授は亜紀を見た。彼女はしっかりと頷き返した。

 「欠点の多い男ですが、いいところもあります。それは一途なところがあって、誰かを本気で愛したなら、ほかの女性には見向きもしないということです。しかし、そうは言っても彼も男です。どこでどう間違って新婦を泣かせるようなことがあるかも知れません。そんなときは、いつでも私のところへ訪ねてきなさい。彼は私に頭が上がらないから、こんこんと説教をしてあげるから」

 「ありがとうございます。その節はよろしくお願いします」

 真面目に答える亜紀の横で真一は憮然としていた。

 「祝辞のような説教のような、変な祝辞になってしまったが、乾杯をしましょう。成瀬真一君、亜紀さん、ご両人のご結婚を祝して、乾杯!」

 乾杯!の声が一斉に上がった。全員が拍手をして席に腰を下ろすと、加藤が再び立ち上がった。

 「新郎の感動的な謝辞と仲人さんの祝辞があまりに長かったので、時間の許す限りと申しましても1時間ほどしかありませんが、食事を摂りながらご歓談下さいませ」

 それを合図に皆が立ち上がり、料理を取りに行った。

 真一は教授夫妻にビールを注ぐと、顔を突き出して亜紀の横にいる牧師夫妻に礼を述べた。

 「私達のために遠くまでお出で下さること、本当にありがとうございます」

 彼らも披露宴に出席することを快諾したのだ。

 「いえいえ、本当は父と母が出席したかったと思います。でも私はどこかでお二人を見守っていると信じております。不謹慎かもしれませんが、その時は遺影を持ってまいります。その折に修一さんのお墓参りをさせて下さい」

 お願いしますと亜紀が応じた。

 「佐藤先生もおっしゃっておられましたけれど、新婦さんは本当にお綺麗でしたわ。夫の仕事柄私も式に同席することが多いのですけれど、これほど感動的で嬉しいお式はありませんでした」

 「その通りです。あの赤ちゃんだった子がこうして立派になって、わざわざ私どもの教会で式を挙げて下さる。そのことの不思議と感激に式の手順を間違えはしないか、聖書の朗読を間違えないかとばかり気になって、脇の下は汗でびっしょりだったのです。そんなことは初めてのことです。つつがなく終了した時は、思わず力が抜けました」

 「何よりのお言葉ありがとうございます」

 真一は頭を下げ、佐藤教授に向き直ると詫びた。

 「教授、どうも済みません。本来であれば、お仲人である先生に先ほどのことを真っ先に話さなければならなかったのですが、あのときはまだその踏ん切りがついていませんでした。昨晩亜紀からお詫びも含めて私達のことを全部話しましょうと言われてこのような席でしました。結果的に隠していたような形になって申し訳ありませんでした」

 いやいやと教授は手を振った。

 「構わないよ。それにしてもそのような事情があったとはさすがに驚いた。まあ、何にしてもおめでとう。亜紀さんもおめでとう。幸せになりなさい」

 亜紀ははいと応えた。

 長崎から原村に戻った翌朝、亜紀と真一は二人だけで花束を持って修一の墓参に行った。それは車で10分ほどの山麓の切り開かれた所にある。墓所は元名主の家柄だけあって、コンクリート支柱に鉄柵で囲まれた5坪ほどの広い墓地に先祖代々の墓と彫られた大きな墓石と埋葬者の墓誌、それに苔生した小さな水子地蔵が2体あった。

 二人は墓前で屈み手を合わせ、結婚したことを修一に報告し、真一は必ず亜紀を幸せにすると改めて誓い、亜紀もまた、月命日には夫婦で来ることを約束し幸せになることを誓った。。


                    (二)


 彼らの結婚披露宴は抜けるような秋晴れの中で開宴した。この日は新グリーンハウス完成披露の日でもあるのだが、遠方から結婚披露宴に出席する宿泊者のために、一般客の受け入れは明後日からにしていた。

 朝陽に照らし出された池越しの森や山の広葉常緑樹と大小の紅葉樹が緑、黄、橙、赤色のパッチワークを思わせる色柄を描き出し、池の近傍では色とりどりのまだら模様が碧い水面に映し出していた。特に赤い実をつけたナナカマドやハゼ、ウルシなどの葉が真っ赤に紅葉している様は息を呑むほどだった。会場の広場も黄色のハルニレ、赤褐色になったメタセコイヤの大木を中心に、耕造らが春の花見、秋の紅葉を意識して植樹した桜、楓、白樺、ふう、桂、欅、楓、ドウダンツツジなどが色とりどりの葉を散らし、緑のクローバーの上を落葉で赤黄模様の絨毯にしていた。

 初めてここを訪れた人は一様に披露宴会場を見てその美景に声を上げた。一昨日夜に到着した真一の両親も例外ではなかった。彼らは遠藤家へ挨拶に行った帰りに加辺家に立ち寄ったのだが、その時はまだこのように目を奪われる景色になってはいなかった。

 母屋も白樺の黄を主体とした色とりどりの木々に囲まれているが、朝早く広場に来て見た景色はその比ではなく、二人の目の前に広がる色彩と水面に映るそれらの美しさに圧倒され息を飲んだ。息子がここを披露宴会場に選択した理由に成る程なと得心し、この日が晴天で良かったと天に感謝した。

 その広場では、今日の主役の一人がそれを愛でる余裕もなく、朝早くから学生らを指揮して会場設営に忙しく立ち回っていた。

 落ち葉を掻き集めて大きな袋に入れている者、丸テーブルと椅子を並べる者、楽器を運び込んでいる者、スピーカーの調子を診ている者、広場の入口でテントを張って受付の準備をしている者など、イヴェント業者を含め20名近くが飛び回っている。

 新築披露会場の設営は、新グリーンハウス設計チームだった数人を交え、前日から玻瑠香に陽菜子と義晴を手伝わせて行った。提供する料理の手配を盛蔵と刈谷に任せた以外は、今も結婚披露宴会場の設営も真一が指揮しているから人一倍多忙だった。

 新グリーンハウスの新築披露に招待した客のペンション内の案内と説明は中川と江口に任せた。祝賀会で設計者としての挨拶を終えると、再びラフな服装に着替えて広場を走り回っているが、予定時間よりも遅れ気味だった。

 招待客の中で学生らを指図しながら動き回っている男が新郎だと知る者は少なく、修一を知る加辺家の親戚や近所の人達は彼とそっくりな男を見て驚き、あれは誰だろうと囁き合っていた。

 会場入口のテントで学生数人が受付を始めてもなお、真一は最終確認に余念がなかった。陽菜子と義晴は正装着のままそんな様子をビデオとカメラに収めている。

 開宴予定時間が過ぎても始めることができなかった。会場の設営に手間取ったこともあるが、出席者数が把握していたよりも多く、受付が混雑したこともそれに拍車をかけた。新築祝賀会の出席者がそのまま披露宴会場に流れてきたことや、どこで聞き付けたものか招待していないはずの教え子が多数押しかけたのがその理由だった。

 それを聞いた真一は急遽テーブルや椅子をグリーンハウスから運ばせ、盛蔵は料理と飲物の追加注文に追われた。

 広場中央のメタセコイアの樹の元に白い布で覆った小さな台が置かれ、広場には丸テーブルと長テーブルが50卓あまり並べられ、両隅の長テーブルにはコーヒーやジュースなどのソフトドリンクとビールのサーバーが置かれてようやく新郎新婦を待つだけとなったのは開宴予定時間より30分遅れだった。

 受付を済ませた客はウェイターやウエイトレス代わりの学生からソフトドリンクやアルコール類の飲料の提供を受けて歓談し、じっとしない子供らは嬌声を上げながら会場を走り回っていた。

 そんな喧騒をよそに、新婦はドレスの着付けや化粧のために旧グリーンハウスの食堂にいて、祝賀に来た親族や知人への応対しながら開宴を待っていた。

 列をなして待つ来客を捌くために予定時刻よりも早く受付を開始したのだが、予定外の客の応対に手間取り、司会者の加藤と玻瑠香がマイクの前に立ったのは、午前11時30分だった。

 新婦は母親に付き添われて披露宴会場へ向かった。

 「大変長らくお待たせいたしました。間もなく成瀬家遠藤家の結婚披露宴を開宴させていただます」

 よく通る玻瑠香の声で、めいめいドリンクを持ち談笑していた者や景色を堪能していた人などが、テーブルに名札がある者はそこへ、飛び入りの出席者は空いているところに着席を始めた。

 玻瑠香の淡いピンクのドレスは、亜紀のウェディングドレスを選びに行ったときに彼女自身が選定したものだ。ハイヒールを履いているので隣に立つ加藤よりも頭半分以上高かった。女優かモデルかのように一際目立つ彼女に、出席者はあれは誰だと囁き合った。

 「本日はお忙しい中、成瀬家遠藤家ご両家の結婚披露宴にご列席下さいましてありがとうございます。本日の司会進行役は新郎の教え子でありました私加藤健吾と新郎の妹である成瀬玻瑠香の二人で務めさせていただきます。よろしくお願い致します」

 あれが新郎の妹かとまた囁き合ってざわざわした。

 二人が一礼をした後、玻瑠香がマイクの前に立つと静かになった。わざわざ前まで来てカメラを構える者がいて、彼女はそれに向かって微笑んでみせた。

 「結婚披露宴を始めます前にご案内申し上げます。お食事はブッフェ形式ですので、ご来賓の祝辞の後は自由にお席を変わられても差し支えございません。また、用を足される際は、新旧二箇所のペンションをご利用下さいますようお願い致します。終宴時間は特に定めてはおりませんが、概ね午後2時前後を予定しております。

 本日は新郎新婦を寿ぐかのような絶好の日和でございます。ですが、何分にも野外ですので、途中冷え込む恐れもございます。その際は先にご案内しました通り、コートや上着などをお召しになるなり、受付の際お渡ししました使い捨てカイロをお使い下さいますよう重ねてお願い致します。

 飲み物とお料理、それに関わるスタッフはみな◯◯ホテルにお願いしたものでございます。また、あそこに控えておられます支配人からもお祝いにとホテル秘蔵のワインもいただいております。◯◯ホテル様には紅葉時期のご多忙にも関わらず、快く引き受けて下さいましたことと併せ、新郎新婦に代わりお礼申し上げます」

 司会者から紹介された支配人はみなの注目を集める中、簡単な祝辞とホテルの紹介をした。

 「なお、新郎からこれだけは言えと指示されておりますので申しますが、入場の際、皆様がご覧になりましたように、本日新たなペンション・グリーンハウスが落成いたしました。環境はご覧の通り素晴らしいの一語に尽きます。また、ご高齢の方や身体の不自由な方でも安心してお泊まりになられるよう他では見られない様々な工夫を凝らしております。お帰りの際にご一覧下されば新郎新婦が大層喜びます。詳細につきましては、受付の際にお渡ししたパンフレットに書かれておりますので、これを機会に是非ご利用下さいませ」

 「それでは、これより成瀬家、遠藤家の結婚披露宴を執り行います。

 本来であれば新郎新婦揃っての入場で始まるのですが、挙式に出席できませんでした方々のために、尻込みする新婦を半ば脅し説き伏せ、挙式と同じように入場して、あそこで待つ新郎の元へ行っていただくことにします」

 加藤のジョークで会場が笑いで包まれ拍手が湧き起こった。その新郎が加藤の指示で白い台の傍に立ち、憮然とした表情で立っていた。

 「それではこれから新婦が入場致します。エスコートは新婦のお祖父様である加辺耕造が務めます。皆さま盛大な拍手でお迎え下さい」

 司会者玻瑠香の案内で来客者は拍手と共に入口を見た。そこには誇らしげ胸に薔薇の花をつけた羽織袴姿の小柄な耕造とその彼に腕を取られた新婦が立っていた。この日の彼女は赤白黄の小菊の花輪をティアラ代わりにしていた。

 それでは新婦の入場ですとの合図で、信州大学交響楽団有志による管弦楽アンサンブルにシンセサイザーを加えたメンデルスゾーンの結婚行進曲の演奏が始まった。これは中川が後輩の楽団員に働きかけたものだ。

 拍手の中、亜紀は結婚式と同じようにブーケを左手に持ち、耕造に右腕を取られてテーブルの間を上気した頬でゆっくりと歩いた。歩を進める度にカサカサと枯葉を踏みしめる音がし、桜や楓や欅などの赤や黄色の葉が時折り純白のドレスに舞い落ち花柄を描いた。その姿に若い女性陣が感嘆と羨望の声を上げた。

 時間をかけて新郎の待つところまで行くと、そこで真一に手を取られて一緒に台に上がった。並んで振り返り会場をゆっくりと見渡し深く礼をすると、学生達の席からキッスキッスの大合唱が起きた。新郎新婦は互いに見合って照れながら軽く口づけをした。やり直しの合唱が再び起きたが、二人は無視した。

 「それではブーケトスを行います。未婚の女性の方は前へどうぞ」

 玻瑠香の呼びかけで10人ほどの女性が集まり、彼女のワン、ツー、スリーの掛け声で、亜紀が後方にブーケを放ち、歓声と共に女性達がそれに群がった。

 二人が正面の丸テーブルの媒酌人夫妻の間に腰を下ろすと祝宴が始まった。

 「新郎新婦は10月28日、ここにご列席いただいております長崎市の日本基督教団パプテスト北教会の佐川牧師の司式により厳粛に挙式が執り行われました。

 佐川牧師御夫妻、誠に恐れ入りますが、皆様にお顔が見えるようにお立ちいただきたいと存じます」

 礼装用のガウンとストールを纏った牧師とその夫人は、玻瑠香に紹介されて立ち上がると後方に向かって一礼した。その姿は堂々として気品があった。

 「佐川様、ありがとうございました、どうぞお座り下さい。それでは媒酌人のご挨拶の前に加藤酒造様ご提供の薦被りの鏡割りを新郎新婦にお願いしたいと思います」

 新郎新婦のテーブルの背面に紅白の布で包まれた「信州誉」の酒樽が3樽山形に積まれていて、加藤の打ち合わせ通り、彼の家族が側方から別の酒樽を担ぎ入れて鏡割りの準備を始めた。

 「それでは新郎新婦、前へどうぞ」

 加藤に促されて、演出にないことに戸惑いを覚えながらも、真一と亜紀は紅白のリボンをつけた木槌で酒樽の蓋を及び腰で叩き割ると拍手が沸き起こった。

 「新郎新婦の共同作業による鏡割りが見事に行われました。お酒の好きな方はこちらまでお越しくださいませ」

 新郎新婦と加藤の家族から酒を注がれた1合枡を受け取った客が戻ったのを確認してから司会者からの紹介を受け、媒酌人である佐藤教授の挨拶が始まった。

 佐藤教授が立ち上がり自己紹介した後、もの慣れた様子で一片の紙も見ずに新郎新婦を紹介した。

 「本日はご多忙の中、新郎成瀬真一君と新婦成瀬亜紀さんの結婚披露宴にご列席いただきまして、新郎新婦に成り代わりまして御礼申し上げます。

 ご覧のように本日は新郎新婦を祝福するかのような秋晴れでございます。私も家内もここへ来るのは初めてで、この景色を見たときはその素晴らしさに思わず息を呑んだ次第であります。

 えー、先ほど司会者が告げましたように、去る10月28日の佳き日、成瀬遠藤御両家のご婚儀が厳かにかつ滞りなく執り行われましたことをここにご報告申し上げます。

 少々、いえ多分に挨拶が長くなるかと思いますので、新郎新婦はお座り下さい」

 教授は新郎新婦を顧みて着席を促した。亜紀は言われたとおりに着席したが、長くなると聞いて、真一は不安そうな面持ちで仲人を見た。

 「本来ならば、慣例によりまして、新郎と新婦の経歴を皆様にご紹介するところでありますが、新婦の入場が感動的かつ異例な形で行われました。従いまして私も前例に囚われずにお二人の略歴ならびに馴れ初めなどをご紹介したいと存じます。

 ただ、それを申し上げる前に、紹介する中で不適切かつ不用意な発言があるかも知れません。しかし、それに他意はありませんので、新郎新婦ご両家ならびに関係される方々におかれましては、お許しを願いたいと存じます。

 それでは新郎新婦の経歴ですが、私は左程それが重要ではないと考えております。なぜなら、これからの二人にとって重要なことは過去を振り返ることではなく、輝かしい未来を夫婦でしっかり一歩いっぽ歩んでいただきたいと願うからにほかなりません。ここで過去のことをお話しするなら、新郎新婦がどのようにして出合い、どのようにして愛し合うようになったのかをご紹介申し上げた方が、新郎新婦の人となりを理解していただけるのではないかと思っております。

 と言うわけで、皆様にご紹介したいのは新郎新婦が単に愛し合って結ばれたのではなく、そうなることが神様のお導きにより、初めから決まっていたのだと言うことです。そうなのです。両名が結ばれるのは必然だったのです。これから申し述べますことは、ご家族がたのご了解をいただいております」

 このように前置きしておいて、媒酌人はみんなの反応を窺うように少し中断した。

 会場は媒酌人の定石に囚われない前置きに無駄口をきくものもなく、何を話すのだろうと彼に注目していた。ときおり鳥の囀りが聴こえるほどの静聴だった。後方で幼い子供が騒いだが、母親がしっ!と制した。

 「さて、皆様が結婚披露宴の招待状をお受け取りになった時、成瀬家遠藤家加辺家と三家の連名になっていたことに不審を覚えた方もおられたのではないでしょうか。これは新婦の強い意向によるものなのですが、その理由はこれからご紹介させていただく新郎新婦の馴れ染めをお知りになれば、ご納得いただけると思います」

 媒酌人は前置きと同様に紙面を見ることもなく、新婦の前夫との出会いと別れ、前夫との結婚の経緯、夫のいない加辺家に嫁いできたことのわけ、真一との馴れ初めから結婚に至るまでのことを淡々と披露した。新婦が失明していた過去にも触れた。招待客にその関係者が招かれ、その人の祝辞も予定されている以上、それに触れない訳にはいかなかった。

 「若くして亡くなられた新婦の前のご主人とここにおります新郎とは双子の兄弟なのです。しかし、訳あって生後間もなく離ればなれとなり、互いにその存在を知らずに成長しました。それが、不思議な巡り合わせによって、他界した前のご主人の兄上とここにこうして結ばれたのです」

 失明していたことも含め意外な事実を次々と披歴され、それまで静かだった会場がざわめいた。

 亜紀にとって愉快ではない話だが、顔を伏せることなく堂々と正面を向いていて、媒酌人が自分達を紹介している間も余裕を持って会場を見回すことができた。

 こうして見ると、加辺と遠藤の親戚縁者、彼女が招待した盲学校の先生方、図書館や教育委員会で世話になった元上司や同僚、出版社関係者などで、新婦側の出席者の方が大学関係者を除けば新郎よりも多かった。

 彼らは亜紀と目が合うと手を振ってくれた。修一を知っている者は新郎を見やりながら顔を寄せ合って囁き合っている。そんな様子も陽菜子と義晴がカメラとビデオで撮って回った。

 「ご存じの方もおられるでしょうが、新婦は著名な童話作家でもあります。これまで既に12冊出版しておられて、いずれも増刷されているとのことです。しかも、新婦の強い希望で印税と引き換えに点字翻訳本も一緒に出版するようにと出版社に迫ったのだそうです。ですから、新婦が書かれた本には全て点字本がございます。

 そういった経緯と詳細につきましては、来賓としてご出席いただいております川越市中央図書館長であられました同市教育委員会の生駒崇氏が、ご祝辞の中で紹介していただけるものと思いますので、ここでは割愛させていただきます。

 ちなみに私も幾冊か読みました。いえ点字本ではなく普通に印刷されたものですが、新婦の人柄が偲ばれるほのぼのとしたいいお話ばかりです。小さなお子様をお持ちの方は、旧姓の遠藤亜紀の名で出版されている童話を一度手に取っていただきたいと思います。新婦ご自身が朗読しているCDも発売されておりますので、お子様と一緒にお聴きいただくことも可能です。

 まあ、宣伝はさておき、かように新婦は美しく聡明で優しい方です。お子様が生まれましたならば、よき母となることに相違ないでしょう」

 過分と思われるほどの紹介に、和雄と美智子は誇らしく相好を崩した。

 「次に新郎ですが、彼は信州大学工学部建築学科を全学年、全科目トップの成績で卒業した後、数年間東京の大手建設会社に勤務しておりましたが、現在は同大学の建築構造と意匠設計そのほかの講座を持つ准教授として任官しております、と言えば聴こえがよろしいが、実はとんでもない奴なのです」

 彼をよく知る上司や同僚、学生達は教授のいつもの冗談に大声で笑った。その反対に新郎はそわそわして落ち着かなく亜紀に腕を押さえられた。そんな新郎を横目で見て教授は続けた。

 「ですから私は新郎のことなど詳しく紹介したくありません。が、媒酌人である以上そうは参りませんので紹介いたしますが、一言で申しますならば、頭が良すぎて実に鼻持ちならない男だと言うことです。ご家族の方は恐らくご存じないと思いますが、新郎が学生の頃、私の講義を寝ずに聴いている姿を一度も見たことがないのです」

 恩師のやや誇張した暴露噺に、真一が慌てて立って教授の口を塞ごうとしたから、隣に座る亜紀はびっくりした。その反対に会場の爆笑を誘った。

 「左程に私の講義はつまらないのかと、念のために他の先生方にも伺いましたところ、驚いたことに新郎はどの講義でも寝てばかりだったのです。

 彼を呼んで問い質しますと、どうやら昼間のみならず夜のアルバイトもしていたからだったようですが、不思議なことに期末試験の結果はいつもトップなのです。聞けばどの科目もそうだったそうです。カンニングをしている訳ではないようでしたから、誠に不本意ながら単位を落とすこともできず、私としては切歯扼腕せっしやくわんして悔しい思いをしたことを覚えております。

 では、いつどのようにして彼は勉強したのか、これは学生諸君には絶対真似をして欲しくはないのですが、反面教師としてここで紹介したいと思います」

 真一がまた立とうとしたのを亜紀は彼の腕を取って抑えた。旧悪が曝露されるとでも思ったのか、仲人が紹介している間ずっと落ち着きがなかった。

 「彼には阿呆なところがありまして、建築構造への異常なほどの関心が昂じて、変わった建物を見ると頭の中で構造解析をするへきがあるのです。困ったことにその間、周りの物が全く目に入らなくなるのです。これは彼の友人が語ってくれたことですが、ある年の初詣に行ったおりに、新郎は諏訪大社の大鳥居を見て、あの水平な天辺を笠木と言いますが、そこに七福神が並んで座ったらあの鳥居はどうなるだろうかと馬鹿なことを思案したのだそうです」

 会場からクスクス笑う声がした。新郎の母は恥ずかしさあまり俯いた。

 「弁天様をあっちに太った大黒様はこっち、福禄寿は戎さんの隣に少し離れて毘沙門天などと色んな組み合わせを考えて、笠木の下の水平な貫にはどのように荷重がかかるのかを頭の中で思い描いておりました。そのとき左右も見ずに横断歩道を渡ろうとしてあわや車に轢かれそうになったことがあったそうです。いえ、これは作り話ではありません。本当にあった話です。

 また、ある時などは、思案のあまり側溝に落ちて膝を摺りむいたこともあれば、たんこぶを拵えるほど電柱に抱きついたことさえありました。それを伝え聞いてさすがに私も彼を呼び付けて注意をしたものです」

 真一は憮然とし亜紀は口を手で押さえて笑った。学生やOB席から口笛や拍手入りの大爆笑が起きた。

 「今ではそのようなことはないようですが、老婆心ながら新郎がちゃんとした夫婦生活を営むことができるのかはなはだ心配なのです。だからこそ新婦のような聡明な方の手綱さばきが必要なのです。

 まだまだ語りたいことがありますが、新婚早々新婦に愛想を尽かされても困りますし、准教授としての尊厳を損なわれても困りますので、この辺で止めておきます。

 とにかく、このような男があろうことか、かように美しい新婦を娶ることなどあっていい訳がありません。新郎に天罰が下るとまでは言わないまでも、何らかの災厄が降りかかるのではと心から危惧しております。ですから皆様、そのようなことにならないよう、まだまだ未熟な新郎新婦を末永く温かく見守ってやって下さい。切にお願いする次第です。

 これを持ちまして媒酌人としての挨拶とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました」

 巧みに笑いを誘いながらの奇想天外な媒酌人の挨拶が終わると同時に拍手が起きた。

 その後、主賓と新郎の上司や同僚、新婦側の元川越中央図書館長と川越盲学校の校長先生らによる主賓来賓の祝辞があって、原村村長の発声による乾杯が終わるとウェディングケーキの入刀となった。

 司会者の合図で学生達が丸テーブルを新郎新婦の席の前に置き、高さ1mもあるケーキを運に込んだ。 それと同時に和洋中様々な料理が会場左右2箇所の大きなテーブルに次々と並べられた。

 ケーキはペンションのシェフ刈谷が何日もかけて作ったものだと加藤が紹介すると、会場からは大きな拍手と口笛が起きた。刈谷は玻瑠香から立つように促されると照れながら無骨に八方にお辞儀をした。同じテーブルで妻の亜希子と高校三年生になった勇樹と小学校6年生の亜沙子も夢中になって手を叩いた。

 ケーキカットを終え、拍手の中で二人が席に戻ると、フルート主体の優しい音色をBGMに玻瑠香の案内があった。

 「これより、祝宴に入らせていただきたいと存じます。知人ご友人方の祝いのお言葉は後ほど頂戴致したいと存じます。それまでの間、食事をご堪能のうえご歓談くださいませ。なお、料理は◯◯ホテルのシェフが食材を吟味して調理したものございます。それらは2箇所に用意しておりますが、同じものですので、お近くのところからお取り下さいませ」

 招待客は立ち上がって料理が並べられているテーブルに群がった。真一も落ち着いた頃を見計らって二人分の料理を取って来た。しかし、彼女はそれを堪能する暇もなく来賓来客の来訪があり慎ましく応対した。それが終わると、お色直しのために母に連れられ美容師と一緒に退席した。

 お色直しをするなんてと大仰過ぎると一悶着あったのだが、途中冷えてくるかもしれないし、楽な服装の方がいいだろうと諭され同意したのだった。

 「真一さんて随分学生さんに人望があるのね。お仲人さんの話が可笑しくてお父さんと大笑いしたわ。陽気な方だとは承知していたけれど、あれほどだとは思ってもいなかったわ。大人しい亜紀にはあれくらいの方がいいのかも知れないわね」

 美智子が娘の着替えを介助しながら言った。

 新婦がいない間、真一は次々と祝いにやって来る招待客に酒を勧められていて、すっかりいい気分になっていた。玻瑠香も加藤が持って来てくれた物を口に運んだ。その隣で加藤は上機嫌だ。

 お色直しから戻った新婦の装いは季節に合わせた淡い朱色のパーティドレスに変わった。新婦の着席を待って、司会者の指名で次々と親戚知人の祝いのスピーチがあり、ドレスを汚さないように注意深く野菜サラダを食べていると、聞き覚えのある音楽が流れた。

 何の気なしに信大管弦楽アンサンブルの方を見て驚いた。いつの間にか玻瑠香がスタンドマイクの前に立っていて、演奏に合わせて体を動かしている。前奏が終わると彼女はスタンドを両手で持ち、「Love Matters for at heart wedding」を歌い出した。彼女の歌声が広場に響き渡り、来客も一際目立つ彼女に注目している。亜紀も手を休めて聴き入った。

 いつの間に練習していたのか、彼女の歌唱は素晴らしいものだった。間奏のとき夫の耳元に口を寄せて訊いた。

 「玻瑠香さん、お上手ね。いつの間に練習していたのかしら?」

 「実はカラオケによくつきあわされたんだが、このときのためだとは知らなかった」

 「道理で。それで玻瑠香さんも発音はどうなの?」

 「中々のもんだと思う。おかしいところは直してやったんだが、ああみえて努力家だから隠れて練習したんだろう」

 その曲が終わると、一転して軽快な演奏に変わり、続けて「Top Of The World」を歌った。

 義妹がわだかまりを抑え、精一杯祝おうとしてくれる気持ちが亜紀には嬉しくて一緒になって体を揺らした。

 拍手喝采を受けた彼女がマイクから離れると楽団員達も食事の時間として演奏を中断した。

 加藤と玻瑠香がお喋りしながら食事をしていると新郎新婦が慰労にやって来た。

 「加藤さん玻瑠香さん、ありがとう。いい司会と演出で感激したわ。それに玻瑠香さんの歌がとってもお上手で驚いてしまったわ」

 「ありがとう。お義姉さん、とっても綺麗。兄貴、鼻の下が伸びきっているわよ」

 真一は妹の冗談に鼻を押さえて苦笑した。

 「でも玻瑠香さんだったら、もっともっと綺麗よ。ねえ、加藤さん」

 「えへへ、そりゃもう」

 「男がでれでれしないの!」

 玻瑠香がぴゃりと言ったのが可笑しくて夫婦して笑った。

 「加藤もありがとう。大変だろうが最後までよろしく頼む」

 真一が加藤にビールを注ぎながら感謝の言葉を述べた。

 「任せて下さい」

 加藤が胸を叩き、玻瑠香と微笑み合った。

 「お義姉さん、この後驚かないでね」

 離れしなに声を掛けられて亜紀は振り返りながら、これ以上何があるのだろうと首を傾げた。

 新郎新婦は招待客のテーブルを回って出席への礼を述べた。大学関係者の席では新郎が冷やかされ、新婦が照れて頬を染めた。新婦の関係者の席では新郎が如才なく応対した。

 半数のテーブルを回った所で、司会者から席に戻るように促され、二人が席に着くと司会者の案内で再び知人や友人による型通りの祝辞が始まった。

 真一が席に戻るなり、新妻の耳に口を寄せて言った。

 「君が教授連の名を知っていたのには驚いた」

 「招待者名簿を作った時に、これからお世話になりそうな人をインターネットで調べて顔と名前を一生懸命覚えたの。あなたと違ってシャッターを押せないから時間のある時に何回も見て覚えたわ。あなたは何時もの通りでしょ?」

 「まあ、そうだ。全員ではないが、覚えておいた方がよさそうな親戚はインプットした」

 知人友人のスピーチが終わると、二人は再び招待客への挨拶回りをした。その間、学生達の歌や楽器の吹奏、酔客の飛び入りの踊りなどの余興で大いに盛り上がった。

 それもそろそろ宴も終わりかと思う頃、むくつけき男二人が背後からやって来て、座っていた新郎の両腕をいきなり取ったかと思うと池の方へ拉致したから、新婦はビックリして思わず立ち上がり仰け反った。媒酌人夫妻も何事かと振り向くと、いつの間にか集まっていた男達の円陣の中で、真一が声を荒げて抵抗していた。 新郎の声に来客達の目もそちらに注がれた。

 これも司会者の仕業かと目を向けると、玻瑠香はいつの間にか席にはおらず、加藤が唇に人差し指を当てて亜紀に向かってウインクした。それで、これも演出の一つかと気を落ち着けた。

 男達の囲みが解かれると、紺の道着袴姿の新郎が憮然とした顔で立っていたので、亜紀は驚くよりも笑いそうになった。その中の一人が新郎が着ていた服を持って来たので、亜紀はそれを丁寧に畳んで夫の椅子の上においた。

 加藤が最後となる演目を思い入れたっぷりに紹介した。

 「ご来席の方々に数々の余興と歌をご披露していただきましたが、最後に新郎によります合気道の模範演武と剣道の掛り稽古を新婦と皆様にご披露いたしたいと存じます」

 おおっとの声と拍手が湧き起こった。彼の実技を見られるとは思っていなかった亜紀も夢中になって手を叩いた。

 「ちなみに新郎は合気道5段、剣道3段の猛者でありますとともに、我が信州大学剣道部の顧問でもあります」

 紹介が終わると、真一は新婦の前の空間へ部員達に押し出されれて前に出た。そこには受けと呼ばれる白の道着に黒の袴をはいた演武者達が正座して待っていた。

 真一も覚悟を決めて正対したが、酔いが回っていて少しふらふらしたから、無邪気に手を叩いて喜んでいた亜紀は一転して心配になった。それでも、初めて武闘家としての夫の姿を間近で見て赤く上気していた。

 初めて演武を観る者も多く、食事や飲み物の手を休めて注目した。彼らを囲い込むように座りこむ子供もいて、新婦の心配をよそに真一が通っている道場の道主の説明と解説で模範演武が始まった。

 双方正座のままクローバーに頭を擦りつけると、真一と演武者の一人が立ち上がった。相半身で構えた瞬間、それまでふらついていた体がしゃきっとしたのはさすがだった。

 受けを相手に立ち技から座り技までを披露し、それが終わると木刀や棒などの武器を使った4人掛けの演武が始まった。受けが攻めかかるのを流れるように押さえつけたり突き飛ばしたり、後ろから抱きつくのを手首を取って投げ飛ばしたりの華麗な技に喝采を浴びた。ぶっつけ本番だけに、うまく倒れないこともあったが、それはそれで愛嬌だった。

 それが終わると、今度は剣道部主将の解説で、後輩達を相手に係り稽古の元立ちを務めた。5人が代わるがわる打ちこむのを適当に受け流して打ちこんだりの5分ほどの稽古だったが、息が上がっていないのは日頃の鍛錬の賜物だろう。

 主将の止めの合図で掛かり稽古が終わると、後方で控えていた面防具を着けた背の高い剣士が立ち上がって前に進み出た。今やただの観客と化した招待客の盛大な拍手もそれでピタリと鳴り止んだ。正座した真一は後輩が走り持って来た面防具をゆっくりと身に着け息を整えた。

 審判の1本勝負との宣言と始めの掛け声で、蹲踞そんきょしていた相手は立ち上がるやいなや、いやーっと奇声を上げた。それに真一がおおーっと太い声で応じた。甲高い掛け声で亜紀は夫の相手が玻瑠香だと知った。これが彼女が悪戯っぽく告げたことだったのかと納得した。

 玻瑠香は本気で打ち込み、息もつかせぬ程に技を繰り出し前に出た。これが彼女の特徴だった。真一は妹の鋭い攻撃をかわしながらじりじりと下がり左に回った。その様子は掛かり稽古を思わせたが、彼女の打ちこみの鋭さと早さは先ほどの比ではなかった。真一は防戦一方で、少しの隙を見つけて打ち返すのが精一杯だった。

 誰の目にも彼女が優勢と映ったが、2分もすると一方的に打ち込む彼女に疲れが出て鋭さに衰えが見え始めた。打ちこんだ面を僅かによけてかわされたのをきっかけに兄の反撃が始まった。今度は彼女が受け身に回り、しばらく凌いでいたが、兄の打ちこみの強さに竹刀を払った手が痺れ、怯んだその瞬間を逃さず真一の面が決まった。

 観客から歓声が上がり二人の健闘を称えてしばらく拍手が鳴り止まなかった。その中で二人は正座し息を整えると静かに面防具を外し手拭いで汗を拭った。呼吸を整えると兄妹は立ち上がり、観客に一礼をして自席に戻った。

 司会者の加藤から、新郎の対戦相手が彼の妹だと紹介されると一層拍手が高くなった。

 余興が終わると多数の祝電を加藤と玻瑠香が代わるがわる読み上げた。中には都合で来られなかった盲学校の元教頭や川越中央図書館の仲間からのもあった。

 気温が下がり始める頃の3時前、司会者に促されて新郎新婦の両親が会場出口近くで一列に並んだ。盛蔵と稲子も玻瑠香から呼ばれて面映ゆそうに立った。最後に呼ばれたのは耕造だった。その彼は正巳に促されて先頭に立った。

 新郎新婦はそれぞれ相手の両親一人ひとりに礼を言って用意していた花束を渡した。そして加辺の義父には亜紀が、義母には真一が、最後の耕造には二人一緒に渡した。

 母達はみなハンカチを持って感泣し父達はにっこり笑っていたが、耕造だけは皺だらけの目に一杯涙をためていた。亜紀もずっと我慢していたが、それを見て胸が一杯になって思わず小柄な耕造を抱きしめて号泣してしまった。

 耕造が「おめでとう。幸せになるのだよ」と言ってくれたことが、亜紀には一番嬉しかった。これで少しは恩を返すことができたと思った。


 亜紀に言わせれば、結婚披露宴が真一によるものだったとしたら、新婚旅行は耕造と玻瑠香のためのものだった。それでも彼女にはいい思い出となった。二人きりの時間はあまりなかったが、家族全員で行こうとの真一の提案は大正解だったと思った。その家族とは新郎新婦と、成瀬、遠藤、加辺で13名、刈谷の家族の4名、それに杏子の両親も加わったから19名もの大旅行となった。

 初めのうちはみな他人行儀気味だったが、搭乗までの間に、みなの気心も知れ、ハワイでは一緒に観光するなどして親睦を図ることができたと歓迎された旅行となった。

 その一方で女性陣には苦々しいと思わざる得ないこともあった。その元凶は耕造だった。夜なよな男性陣を引き連れて怪し気なクラブに繰り出して女性陣の顰蹙を買ったのだ。

 生まれて初めての飛行機の中では彼も大人しく旅客サービスを受けていたのだが、旅装を解いてからがことの始まりだった。

 ホテルアパートメントに荷物を置くなり時差などものとせず、買い物に行くから付き合えと言いだし、若い亜紀と玻瑠香と杏子と亜佐子を引き連れ、アロハシャツを買うために近くのショップへ行った。

 耕造は派手なアロハシャツを5枚ほど買い込んで、毎日とっ替えひっ替えして子供みたいに無邪気だった。

 到着したその日は耕造も疲れたのか、ショッピングから戻ると、ほとんど室内に閉じ籠っていたが、翌日から時差ボケの症状もなく、サンダル履きのサングラスにシャツを着た小悪爺さんに変身して動き回った。特に夕方涼しくなると彼女達は殆ど毎日街中の探検に付き合わされた。

 ビーチやプールでは玻瑠香が女王様だった。上背がある上に美人で大胆なビキニだったから、周りの耳目を全身で浴びた。母庸子の眉を顰めさせた水着は耕造を言葉巧みに籠絡して買わせたものだ。

 そんな様子に、今度の旅行で一番楽しんだのは玻瑠香と耕造だというのが、みんなの一致した見解だった。

 昼食は、日中それぞれの行動で家族ばらばらだったが、朝食と夕食だけは成瀬、加辺、遠藤の3家族が一緒に寝泊まりしているスイートルームに全員が集合して摂った。テーブルと椅子をあちこちから集めて、わいわいがやがやと騒がしくも楽しい食事だった。

 真一はと言えば、亜紀の母親の面倒をみると公言しておきながら、新妻さえもほったらかしたまま、男同士で出歩いてばかりいた。仕舞いには女性達の堪忍袋の緒が切れ、帰国前2日間は女性達に付き合うことを男共に認めさせた。

 そのお陰で亜紀は真一と一緒に買い物や観光ができたし、夕陽の中、腕を組んでワイキキビーチをゆっくり散策することもできた。玻瑠香だけは意図的に耕造の買い物に付き合った。

 観光や買い物を楽しんだ者、初めて海外旅行を経験した人、新婚旅行が出来なかった刈谷夫妻、何十年か振りにのんびり過ごした加辺の義父母、いろんなことがあったが、二人の新婚旅行も無事に終って一息付いたときには、師走がもうそこまで来ていた。


                     (三)


 結婚することがこんなにも大変だったのかと夫婦が思い知ったのは、結婚披露宴後からだった。

 特に亜紀は新婚旅行へ旅立つまでの間に、夫婦のための家具調度品の手配や寝具の注文、夫の衣類の整理などやらねばならないことが山ほどあった。それに加え、地元を中心に、盛蔵や耕造に連れられて村の名士に披露宴出席への礼に回り、親戚知人や大学関係者への挨拶にも行った。それらを一先ず終えたのは旅行直前だった。

 遅れ気味だった母屋のリフォームはなんとかクリスマス前に完了した。水回りの改装が済むまでの間、旧のグリーンハウスで一時凌ぎをしていた彼らも元の生活に戻った。

 新ペンションの評判は上々だった。そのことはSNSの口コミや宿ノートのコメントにも表れていた。中でも亜紀のアイデアで設けた夜空の星が見られる部屋は、新装のホームページで紹介したこともあって早くに予約で埋まった。

 「建築士のお婿さんがいると心強いわね。餅屋は餅屋だわ 」

 完成後も不具合がないか点検して回る真一に、稲子と亜希子は笑い合った。

 そのほかにも彼のすることはいくらでもあった。

 ペンション内のクリスマス用の飾りつけは終わり、当面の彼の役割は暖炉用の薪作りだった。今冬の薪は購入材で賄ったが、ここでは春先まで薪が必要で、乾燥させるためにもその分を今から確保しなければならない。そのために間伐した白樺をチェーンソーで小割りにし、斧で薪にするのだが、武道で鍛えているはずの彼も初めのうちは口癖のように腰と肩が痛いと訴えた。それを見て、剣道の達人でも勝手が違うのかと刈谷がからかった。

 彼が同居して幾つかの変化があった。単に頭数が増えたばかりでなく、玻瑠香はお喋り好きだし、真一の話題は豊富だから、週末になると食卓が一辺に賑やかになり、夕食だけは遅くなっても全員で摂るようになった。話し相手が増えて喜んだのは耕造で、彼らが来るのを心待ちにした。

 加辺家の相談事に真一が乗ることも多くなった。最初の頃は要らぬ誤解を招きたくないと、加辺家とは一定の距離を保っていたのだが、顔を合わせる頻度が多くなると彼の思い通りにならなくなるのも自然の流れだった。

 ペンションの経営にも相談に乗った。それは閑散期の対策だった。簡単に言えば、新規の顧客を増やすことだが、大々的にPRができない個人ペンションだけに難しかった。それを彼はSNSで外国人客に目を向けようと提案し対応策を練った。

 彼は学生達にもSNSでグリーンハウスを紹介するよう依頼し、ホームページも一新すると共に、数ヶ国の言語で閲覧出来るようにした。その効果は次第に現れ、国内外から新規の予約が入るようになった。

 亜紀の日常も夫の分だけ雑事が増えた。それでも、彼が滞在している間だけは夫婦で過ごす時間を可能な限り取ることを心がけた。

 二人の生活が落ち着いてほどなく、真一は自分達の立場を明確にしておきたいと言い出した。

 「家賃や光熱費それに食事代なんかも今のうちに取り決めておきたいんだが、どうだろう?」

 亜紀は小首を傾げ、少し考えから答えた。

 「うーん、それはどうかしら。きっと私達から受け取ろうとはなさらないわ。でも、けじめをつけるのは私も賛成だし、それであなたが納得できるのならそれでいいわ。そう言い出す以上、何か腹案があるのでしょう?」

 思いつきで行動を起こす夫ではないとわかってきた。

 亜紀に相談するときには彼の腹が固まっていることが多かった。その反対に彼女が相談を持ちかけたときは、その場で結論を下すことはあまりなく、機微に渡る問題は熟考してから意見を述べた。だから彼女も安心して夫の考えに従えばよかった。

 このときも真一の考えは纏まっていた。亜紀もそれに同意した。

 真一が盛蔵に申し入れをしたのは夕食の後だった。持ち出された彼らも真一の性格からして、そのようなことを言い出すだろうことは半ば承知していた。と言って、具体的な案がある訳でもなく、同居したからと言ってこれまでの生活を変える必要もなかろうくらいの軽い気持ちでいた。ところが、具体的にこうしたいと告げられると、彼らも曖昧なままの形で済ませる訳には行かなくなった。それと同時に、亜紀が最早息子の嫁ではなく、真一の伴侶であることを改めて認識させられることにもなった。

 真一の提案を聞き終えて、稲子が加辺家の主婦の立場で発言した。

 「話の趣旨はわかったけど、何もそこまでする必要はないんじゃないの。あなた達の気持ちもわからない訳じゃないけど、今まで通りでは駄目かしらね。私達は真一さんを生き返った息子のように思っているし、亜紀ちゃんだってこれまで通り娘として接するつもりでいるわ」

 夫の盛蔵を見ると彼も頷いている。

 「それにね、部屋代を出してくれて光熱費や食事まで負担してくれるとなると、亜紀ちゃんの家事に対してお給料を支払わなくてはならなくなるわ。それもやぶさかじゃないけど、それじゃ余りにも他人行儀で水臭いじゃないの」

 盛蔵も稲子の意見に同調した。

 「家内の言う通りだよ。真一さんが心苦しいと思うのなら、これまで通り亜紀ちゃんにこの家を取り仕切ってもらう代りに、今言った費用はその対価としてしたらどうかな。個人的に必要なものはそちらで揃えて貰うことになるが。なあ、稲子?」

 「そうよ、亜紀ちゃん。考えても見て、本来なら私達が離れの改装費だって負担しなければならなかったのよ。それなのに、あなた達が全部負担してくれたでしょう。それに、亜紀ちゃんがここを出て行ったとしたら、私が家事をするか、お手伝いさんを雇うしかなかったわ。それがいてくれることになって、どれほど助かっているかわかるでしょう。だから、真一さんもあまり他人行儀に考えないで今まで通りでやりましょうよ」

 盛蔵も耕造もそうだと相槌を打った。

 「でも考えてみたら、亜紀ちゃんはもう修一のお嫁さんではないから、それは考えないとね。私も加辺家の家計を預かる身だからあまり出せないけど、これまでより5万円増額するわ。それでも亜紀ちゃんの働きに見合う分には足りないと思うけど、今はペンションも軌道に乗ったばかりだからそれで我慢して欲しいの。その代わりと言っては何だけど、あなた達にかかる経費は一切いらないわ。もちろん、お酒やビールも自由に飲んでもらって結構だし、真一さんの車のガソリンも加辺の名前で入れてくれていいから。それでもし二人に子供が出来たら、それはそのときでまた考えることにしましょう」

 「そうだな、それがいい。そう言えば、真一さんの車も相当古くなっているな。亜紀ちゃんの車をこの際だから買い替えて、それを真一さんが乗るようにしたらどうかな。亜紀ちゃんが必要なときはお客さんを送迎する車を使えばいい。その方がお互い経済的だと思うが」

 「それがいいわ。新婚は何かと物入りなんだからそうしなさい。ねえ、亜紀ちゃん」

 どうしようかと真一を見ると、お言葉に甘えさせてもらおうと返事した。

 「これからは親戚が増えて、お付き合いや冠婚葬祭も多くなるわ。前にも言ったと思うけど、臨時の出費があるときは自分で何とかしようとは思わないで、必ず言ってちょうだい。その代わりと言っちゃ何だけど、忙しい時は真一さんにも手伝ってもらうから」

 「了解です」「わかりました」

 若夫婦は同時に応えた。

 「あんたの申し出に対する回答はこういうこといいかな?」

 話は終わったとみて、耕造が顔を綻ばせて加辺家を代表して言った。

 「そんなつもりで相談した訳ではないですが、ご配慮下さって有難うございます」

 「何を言う。礼を言わないといけないのはわしらの方だよ。まあ、何にしてもうまく纏まってよかった」

 夫がこの結論を予想していないとは亜紀には思えず、居心地が少し悪かったが、余計なことは口出しすまいと黙っていた。

 「それと、もう一つお願いなんですが」

 それから先は亜紀も聞いていないので、何を言い出すのだろうと夫を見た。

 「何だい、改まって」

 「実はこちらに机を持って来ていないのです。あまり使うこともないのですが、ないとやはり不便で。もし、差支えなければ、弟の修一が使っていた部屋を僕に貸していただけませんか。それにもう一つ、弟が着ていた服で不要なものがあれば譲っていただけないかと」

 盛蔵と稲子は顔を見合わせた。しばらく二人は互いを探るように見ていたが、稲子が頷くと盛蔵が口を開いた。

 「何かと思ったらそんなことか。構わないよ、使ってくれて。残している服は少ないが、好みがあるだろうから自由に箪笥の中を改めて、気に入ったものがあれば持って行くがいい。亜紀さんがちゃんと管理をしてくれているから、好みもわかると思う」

 「ありがとう、気遣ってくれて。息子も喜ぶと思うわ」

 真一の配慮に稲子は目頭に手を当てた。

 「僕の方こそ助かります、礼を言います。ありがとうございます」

 「ははは、うまく収まってよかった。孫が亡くなって、寂しい思いをしている時に亜紀さんが来てくれて、そしてまた孫の兄の真一がこうしてわしらと住んでくれる。しかも孫のものまで使ってくれると言う。少し前までは思いもよらんことじゃった。何から何までうまくいって、これで曾孫の顔を見ることができれば思い残すことはない」

 耕造は皺だらけの顔を綻ばせた。

 修一の話が出て、少ししんみりとなりかかった雰囲気を打ち払うかのように真一が陽気に言った。

 「そうはいきませんよ。子供は何人でも作るつもりですから、ちゃんと躾ていただくまで長生きしてもらわないと」

 「あなたはもう」

 亜紀は真一の脇を突いて赤くなった。

 「そうだそうだ、亜紀ちゃんには沢山の子を産んでもらわなくちゃな」

 「あはは、そうか、そうじゃな。曾孫に森や山のこと教えてやらないとな」

 「そうですよ、お爺さん。長生きして下さいね」

 稲子は耕造の膝をぽんぽんと叩いた。

 一件落着してみんなで笑った後、ときにと耕造は話題を変えた。

 「玻瑠香はどうした?今回は来なかったようじゃが」

 亜紀が真一の妻となってしまった現在、耕造のお気に入りは玻瑠香に移った。彼女の物怖じしない明け透けな性格が気に入り、ハワイ旅行中に色んなものを買い与えていたことはみな周知のことだった。

 「今加藤の家に行ってます」

 「あら、加藤さんの家へ・・・」

 何時の間にと亜紀が目を丸くして訊いた。

 「あのとき彼の家に泊めてもらったことがあるだろう。それ以来加藤の家族に気に入られたようだ。松本キャンパスに通学する間だけでもここから通ったらと勧めてくれたんだが、お袋との約束もあるから断ったんだ。そうしたら、土日だけでもと言われてさ。玻瑠香も俺の束縛から逃れられると思って乗り気だし、無下に断ることもできないから、今回は許したんだ。でも、これからはできるだけ連れて来るようにします」

 その夜、亜紀が家事を終えて離れに戻って来ると、真一がベッドの上で半身起して本を読んでいた。

 「まだ起きていたの」

 「ああ、愛妻が片付けをしているのに先に寝られないさ」

 「あら、そんなことを言って・・・。それにしてもあなたって中々の策士ね。みんなあなたの思惑通りに事がなって」

 私は鏡の中の夫を軽く睨んだ。

 「それは心外だな。今のままで過ごしてもよかったけど、その辺のことははっきりさせておかないと。でないと、そのうちに僕らに対して不満が出て来ると思う。居候のつもりかってね。弟の物を借りるのもその辺のことがあるからだが、これも度を越したらまずいことになり兼ねない。お義父さんの弁を借りれば、君もこれまでは加辺家の嫁であり娘だったから許されたけど、今は戸籍の上でも完全に加辺家から離れているんだ。その辺のところ肝に銘じておかないと自分ではそう思わなくても、知らぬ間に何らかの軋轢が生じることだってある。老婆心かもしれないが、それを心配した」

 そこまで考えていたのかと亜紀は肌の手入れの手を休めると、振り向いて夫をまじまじと見てしまった。

 「どうした?」

 「ありがとう、そこまで考えてくれて。意外と気働きが出来るのね」

 皮肉ではなく、自分に対する気配りが嬉しかった。これまでは何も考えず、与えられた務めを精一杯やってきた。その時だけ孤独感に耐えられ修一のことを忘れられたからだ。それが今では自分でも信じられないくらいに気弱になって身も心も夫に依存するようになってしまっている。彼が身近にいると思 肌の手入れを終えた亜紀は夫の隣で横になった。肌の手入れを終えた亜紀は夫の隣で横になった。

 「そんなに先のことまで見えているのに、どうして私の気持ちに気付かなかったのかしら」

 今度は皮肉っぽく言って、夫の腕を取り、枕代わりに自分の頭の下に置くと横向きに擦り寄った。

 「もう勘弁してくれよ。僕の気持ちはプロポーズのときに言ったじゃないか。それに、気働きと恋愛問題は別物だよ」

 「許して上げるわ。その代わり、私を愛して」

 真一は妻を横抱きにして唇を重ねた。


 母屋の改装披露を名目に、結婚式の介添え役を務めてくれた中川らを招いたのはクリスマスの翌日だった。それは、挙式や披露宴での彼らの労に報いるために稲子が言い出したことで、新婚夫婦が揃って迎える最初の客だった。

 中川ら三人がこんにちわと母屋の三和土で声を掛けると、聞きつけた亜紀と玻瑠香がダイニングからやって来た。ニヤーニャも一緒に付いてきて一声ニャーと鳴いた。

 「いらっしゃいませ」

 「いらっしゃい。お久しぶりね」

 お邪魔しますと言って3人は中に入った。

 「玻瑠香さんも来ていたか」

 猫を抱き上げた彼女に加藤が声を掛けた。

 「来てるわよ。私の部屋だってあるのよ」

 新婚夫婦が離れに移ったのを機に亜紀の部屋だった所を今は彼女が使用している。

 玻瑠香がここにいると聞いて加藤はにやにやしたのを見て江口が冷かした。

 「健吾、ここへ遊びに来るつもりだろ」

 「私は滅多に来ないから」

 玻瑠香に釘を刺されても彼は口許が緩みぱなしだった。

 板の間に来て中川が声を上げた。

 「ワォ、リフォームしただけあって綺麗になってるわ。どこもピカピカになってる」

リフォームを機に真一自身が梁や柱、垂木、天井板などの欠落や損傷の有無を全て点検し、不具合のある箇所は補強や補修をした。亜紀の手が届かない箇所も磨き直したので艶が出て黒光りしている。

 「囲炉裏を作ったんですか?」

 加藤が言った。

 それは昔あったのものとは異なっていて、長方形でしかも囲炉裏の上部にあるべき火棚はなく、自在鉤が梁からマントルピースの真ん中を貫いて吊り下げられていた。炉縁の幅は30cm余りもあるもから、その上に料理を並べることができる。

 天井から下げられた巨大とも言える円錐形のマントルピースは上高地帝国ホテルにあるものを参考にしたものだ。

 耕造が喜ぶだろうと作ったものだが、不要な時は炉縁などを取り除いて元板で蓋をすれば元通りになる。

 「夕食はここでするのよ。その方が楽しいだろうって兄貴が」

 「先生らしいわ。そう言えば、先生は?」

 自分らの声が聞こえているはずなのに姿を現さないから中川が尋ねた。

 「刈谷さんと山へ茸を採りにいっているの。皆さんに食べさせるんだと言って」

 「こんな冬でも採れるの?」

 「それが採れるのよ。これまでも何度か行っているのよ」

 囲炉裏に感心しながら食堂に入ると、ダイニングテーブルの椅子に座った陽菜子と義晴が待っていた。

 「陽菜ちゃん、受験勉強頑張ってるかい」

 「ご挨拶ね。ちゃんとやってるわよ、真一兄さんのスパルタで。それはもう厳しいんだから」

 陽菜子は加藤の見下したような言い方にぷっと膨れて答えた。

 「それにしても随分広くしたわね」

 ダイニング・キッチンに手を触れてグルグル回ている中川が感嘆した。

 そこだけで15畳余りもあるから彼女が驚くのも当然だった。

 「本当だ。前来た時は大きいお屋敷にしては狭い印象だったけど、思い切って広くしたんですね」

 「そうなの。正月とか法事とかで親戚が来たとき、手狭でお料理を造るのが大変だと言ったら、主人が土間だったところとお風呂場を一部潰して裏の部屋も取っ払ってこうしたの」

 「みなさん、お茶をどうぞ」

 玻瑠香がテーブルに湯呑を置いた。

 「それじゃ陽菜ちゃん、まだ専攻を決めていないの?」

 「散々迷ったけど電気電子工学科にしようかなあって。建築だと先輩に虐められそうだし」

 わざとらしく玻瑠香をちらりと見て言った。

 「私のこと?私は後輩の面倒見はいいし優しいわよ」

 「でも、それで少しは主人の中立性を疑われなくて済むんじゃないかしら」

 「どういうこと?お義姉さんでも聞き捨てならないわ」

 亜紀の冗談に玻瑠香は心外だと言わんばかりに形だけ反発した。

 「だってそうでしょう。『来年からどんな顔をして講義すりゃいいんだ。玻瑠香が実力でいい成績を納めたとしても、俺が依怙贔屓したからとか試験問題を教えたんじゃないかと痛くもない腹を探られるんだぞ』って本気で困っていたわ」

 「だったら、そのようにしたらいいんじゃない。誰にも言わないから、こそっと教えてくれたらいいのよ。お義姉さんからそのように言っておいて」

 しれっとして言ったから全員が爆笑した。

 若い者同士、気心の知れた者同士、遠慮のないお喋でダイニングが賑やかだ。

 玄関口で、ただいまの声がした。

 「あ、帰って来たわ」

 足音がしてダイニングの板戸が開いた。

 「来ていたのか」

 真一の一声だった。

 「お邪魔してます」「ご無沙汰しています」「ご招待ありがとうございます」

 「忙しいのに済まなかったな。結婚式と披露宴のときは色々とありがとう」

 「何か採れたの?」

 夫が両手に持つビニール袋を見て言った。

 「ああ、エノキとユキノヤマタケが採れた。味噌汁の具にするといいよ」

 「そうするわ」

 「先生、いい夫婦してますね」

 加藤が冷やかした。確かに、結婚式や披露宴のときよりぐっと親密度が増している。

 「馬鹿野郎、手土産の一つも持って来たんだろうな?」

 あらそんなと亜紀が夫の腕に触れると、その仕草がまた彼らの冷やかしの対象となった。

 「僕はいつものやつです。今晩飲んで下さい」

 「あなたが手にしているのは江口さんと中川さんからのものよ」

 みんなが弾けて騒ぐのを中川だけが話の輪に加わらず、新しくなったキッチンとダイニングをぐるぐる見て回っていた。亜紀が声をかけても、飽きもせず、流しの抽斗を開けたり食器棚を見たりして、会話に加わったのは暫く経ってからだった。

 「大きな冷蔵庫が3つもあって、これだけ広ければ主婦冥利に尽きるわね」

 「そうなの。この家は旧家だから、行事ごとがある時は大変なのよ。修一さんの法事のときは80人近くのお客様がみえたのだけれど、近所の人に手伝ってもらっても手狭で動くのも大変だったわ。だから刈谷さんとも相談して、大勢の人が一緒にお料理ができるように大きめのアイランド型にしたの。ガスコンロとIHのコンロを別々に設けてもらったから今日初めて役に立つわ」

 思わせ振りに中川を見た。

 「と言うことは私に手伝わせようと思って?」

 悪戯っぽく中川が応じた。

 「そうなの」

 「いいわよ。真新しいキッチンでお料理するのは楽しいもの。収納もたっぷりあって羨ましい。さすが亜紀さんだわ。隅々までよく考えていると思う。ここのグラスハンガーは先生のためでしょう?」

 中川の頭上にぶら下がっている様々な大きさのワイングラスを指差して言った。

 「そうなの。これは内緒だけれど、いずれ蔵の中を片付けてワインセラーにしようなんて考えているのよ、この人」

 その当人はニヤニヤして何も言わない。

 「それはいいアイデアかも。目の付け所はさすがに先生だわ」

 確かに蔵の中なら温度を一定に保つことができるだろう。

 今度は食器棚を探索し始めた。

 「お皿やお茶碗が沢山あるわね。このお皿は九谷焼でしょ。古伊万里や輪島塗まである。使うつもりでここに置いているの?勿体ないわ」

 食器棚にある由緒のありそうなそれらは、リフォームを機に真一と亜紀が蔵の中からこれはと思うものだけを持ち出したものだ。

 「飾るだけでは勿体ないから、これからは使おうと思っているの。もともと名主の家柄だったでしょう、使われていない食器が沢山あるのよ。お婆さんが茶道で使っておられた茶碗なんかは床の間に飾っておくくらいで滅多に使うことはないし、収納する場所もなかったから、蔵に放置したままだったの。漆器なんかも沢山あるのよ。一部屋それ用に改造して収納しているわ」

 中川は凄すぎると溜息をつき、後で見せてもらうと言った。

 母屋のリフォームに際して、夫と相談しながら大きく変えたのが、ここのダイニングキッチンと浴室に洗面所、それに階段を新たにダイニングの裏側に設けたことだ。急勾配の箱階段に手をつけなかったのは真一の旧家に対する拘りだった。その彼が頭を悩ませたのは温泉熱を利用した板の間とダイニングキッチンの床暖房だった。床板を変えないことに拘ったのに対し、設備業者が熱伝導が悪いと難色を示したからだ。

 「ここもそうだけれど、板の間が随分暖かくなって何よりも嬉しいわ。浴室も乾燥暖房にしたから、お爺さんも安心だし雨の日でもお洗濯が出来て、今の季節でもすぐに乾くから助かっているわ」

 「奥さんのことを考えたのね。ここのテーブルだって新しいし、照明だって明るくなっているわ」

 「だがな中川、ここまでするのに何枚の絵を描かされたと思う。ああだこうだと中々納得してくれなくて往生した」

 さもうんざりしたとの表情の真一の横でうふふと含み笑いをしたのは亜紀だ。

 「やあ、いらっしゃい」

 自室で昼寝をしていた耕造が彼らの声を聞きつけやってきた。

 「お邪魔してます」「お招きありがとうございます」

 「よく来てくれましたな。結婚式と披露宴では大層世話になった」

 「いいえ、私達こそ尊敬する恩師のお手伝いができて嬉しゅうございましたわ。本日はお招きに預かりましてありがとうございます」

 年長者だけに中川も丁寧な返事になった。

 耕造はいやいやと手を振った。

 「もっと早くに来てもらおうと思っていたんじゃが、稲子がここの改装披露と一緒にしようと言うものだから遅くなってしもうた。夕食にはまだ時間があるから、風呂にでも入ってゆっくりしなさい」

 それだけを言って出て行こうとした耕造に亜紀が声を掛けた。

 「お爺さん、今晩のお食事は7時過ぎにしますから」

 「そうかい、わかった。そのときにまたな」

 耕造は背を丸めて自分の部屋に引き上げた。

 「ああ言ってるから、お爺さん自慢の露天風呂に入って来い」

 「タオルとバスタオル、カミソリ、化粧水なんかは脱衣場にあるから、持って行くものは着替えだけでいいわよ」

 玻瑠香が我家のように付け加えた。

 「その前に先生の新居を拝見したいわ」

 中川が後学のためにと言い出すと、江口と加藤も興味半分で同調した。

 途中、問われるままに真一は縁側の建て付けを直し、全ての雨戸と硝子戸を取り替えたこと、襖を表具師に出してクリーニングしたこと、畳表を替えたことなどを説明した。

 「それ以外はいじらなかったんですか?」

 「ああ、部屋に合わせた照明を亜紀が選んだこととオイルヒーターを取り付けたくらいかな。全室じゃないけど」

 「温泉熱は利用しなかったんですか?」

 「設備業者と色々と協議したんだが、熱効率を考えると板の間とダイニングキッチンくらいまでが限界だろうと判断したんだ。新しいペンションの太陽光発電のお陰で電気料金をあまり気にしなくてもよくなったこともある。

 君らも建築家の端くれだったらこの家の良さがわかるだろう。住み心地だけを考えたら、現代人には中々受け入れ難いだろうが、先人が建てたものには学ぶべきものが多い。下手に改装したらいいところまで損なってしまう」

 恩師の薀蓄が長くなりそうなので加藤は早く見ようと玻瑠香を急き立てた。

 渡り廊下から引戸を開けて入った新婚夫婦の寝室は中川が呆れるほどに華やかさに欠けていた。

 元の畳の上にカーペットが敷かれ、キングサイズのベッド、ナイトテーブルの上にランプ、壁際に洋服箪笥と化粧台が置いてあるだけだ。隣の部屋は畳から合板のフローリングに改装されて、真ん中に小さな丸テーブルと椅子があった。北側壁面は造り付けのクローゼットと本棚が収まり、南壁際には年代物の水屋箪笥と和箪笥、復古調のリビングボードがあった。それらの上には亜紀のヨーロッパ土産の置物や人形、彼らの結婚式のときの写真立などが並べられている。東側の掃き出し窓の外はウッドデッキで、木製の丸テーブルと椅子が白い布ですっぽりと覆われいた。

 「見ての通り、大掛かりには改装していない。あれは元々あったものをニスを塗り直したものだし、椅子も元々あったものだ」

 「先生と亜紀さんのことだから、さぞかし快適な部屋にしたんだろうなと思っていたのに意外でした」

 物珍しげに見回った江口の率直な感想だった。

 「この人、物を置くのを嫌がるからこれで精一杯だったのよ」

 亜紀は夫をちらりと見て笑った。

 「まあ、偉そうに亭主関白ぶって。ここは亜紀さんの家なんだから好きにすればいいのよ」

 「おい、あまりそそのかすなよ。週末にしか帰ってこないからこれでいいんだよ」

 中川がなお言い募ろうとしたが、横から陽菜子が、ね、ねっと大声あげて手招きしたから口を閉じた。

 「これって亜紀姉さんでしょ?」

 寝室の壁に掛けてある一枚の絵を指差した。それは亜紀が木にもたれて立つあの絵だった。

 何だなんだとみんなが陽菜子の回りに集まってきた。

 「亜紀さんじゃないの」

 「そうだな」

 「何だか悲しそうな感じ。今とは感じが全然違うわ」

 中川が亜紀とその絵を見比べて感想を述べた。誰が描いたものか問うまでのことはない。

 「これは主人と出会って間もない頃のものよ。あの頃は悲しい想い出だけで生きていたから、そのときをそのまま描いたのね」

 その辺の事情を知っている彼らは、それ以上何も言わなかった。

 それからはばらばらに見て回っていたが、古い水屋を覗いていた中川が声を出した。

 「これって、先生も亜紀さんも随分若いわ」

 どれどれとまたみんなが集まった。

 彼らが注視したのは森林公園での写真だ。

 「でも、ちょっと変じゃない。先生が亜紀さんと出会ったのは2年前でしょう。そのときこんなに髪が長くなかったはずよ」

 亜紀の髪を見やりながら中川が頭を傾げた。

 「そう言えばそうだな」

 頭を捻りながら江口が相槌を打つ後ろで陽菜子がくすくす笑った。

 「それは修一兄さんなの」

 「ああ、なるほどそうか」

 「双子の兄弟だもんな。よく似ている」

 「この写真は・・・、もしかしたら先生と弟さん?」

 中川が取り出したのは、小さな立てに収められた色褪せた写真だった。

 「そうだ。牧師さんに抱かれている方が俺で、夫人に抱かれているのが弟の修一だ。兄弟が揃って写っているのはこれ1枚だけだ」

 彼の言葉は寂し気だった。夫婦ともに重い過去を背負っていることを改めて認識させられた彼らは、口を閉ざして写真に見入った。

 「もういいだろう。風呂に入って来い」

 これ以上夫婦の部屋を探られるのは愉快ではない。

 「陽菜ちゃんも一緒に入りましょう」

 「だったらねえ、みんな一緒に入りましょうよ」

 陽菜子は亜紀と玻瑠香の腕を取って誘った。

 「お義姉さん、一緒に入って一層美人になろうか」

 「玻瑠香さんがそう言うのなら」

 頭の中でこの後のことを素早く計算して同意した。

 「それじゃ、先生も僕らと入ろう」

 そうするかと真一も立ち上がった。

 新グリーンハウスのロビーに入ると、玻瑠香は事務所にいた稲子に声を掛けた。

 「小母様、お風呂のカードを下さい。えーと、女用と男用がそれぞれ4枚。今からみんなでお風呂に入るの」

 「あらそう、今からだったらあまり時間がないけど、ゆっくり浸かってらっしゃい」

 受付の抽斗から紐がついた名刺大のプラスチックカードを取り出して玻瑠香に手渡した。そのカードは色とイラストで男女を区別していて視覚障害者のための点字も打たれている。

 玻瑠香は各自にカードを渡しながら我が事のように説明した。

 「このカードは脱衣場のロッカーのキーになっているの。こうして首に掛けておくと、お風呂場の入口でセンサーが働いてドアが開く仕組みなの。男女の入口を間違えるとドアは開かないのよ」

 ふーん、なるほどと来客者は感心しきりだった。


                     (四)


 風呂場へは喫煙室横から池に向かって、なだらかな下りの通路を10mほど行くと入口に突き当たる。

 中川らが行った設計はペンション本体の建物のみで、露天風呂やペンション回りの外構まで完全なものにしたのは真一だった。

 通路の左の窓からは客室の庭が見えたが、うっすら積もった雪以外何もなかった。春になれば青々とした芝になって、木製のテーブルと椅子を置くと真一が説明した。反対側の窓からは食堂が見えた。

 1間幅の通路の片側に上下2段の手摺りが設けてあり、床の中央に30cm幅の青色LEDセンサー板が埋め込まれていて、そこを歩くと微振動が足裏で感じ取れた。それは男女に別れた入口まで続いている。これも視覚障害者対応として真一が採用したものだ。ペンション本体を含め、これほどまで障害者や高齢者を意識したものにした理由は彼らも知っている。

 脱衣場も身障者と高齢者のための様々な工夫がされ、入浴の心得や注意事項についても外国人客を意識したイラスト表示がなされている。

 「思っていたより広いですね」

 江口と加藤がぐるっと回って感想を述べた。

 「洗面台もゆとりがあるし、ロッカーも工夫してありますね」

 加藤が言ったように、洗面台は3人同時に使用しても余裕があり、ロッカーは縦長と上下2段のものが交互にあり、1名で縦長と上下2段のうち一つが利用できるようになっている。

 自動開閉式の硝子戸から風呂場に入ると、全開された内湯の窓越しに露天風呂が見えた。内湯と外湯の間には熊笹と灌木が植えられ空間に割石が敷かれている。露天風呂の3m向こうは池だ。八ヶ岳の山々も望めた。

 ペンション完成披露の時点では、露天風呂は工事中だったので彼らもこれが初めてだった。

 素っ裸で自動開閉のドアから外へ出ると江口が声を上げた。

 「うわあ、すげえ!」

 その声で池畔で羽根を休めていた水鳥が羽ばたいて飛び立った。

 「本当だ。思っていたよりずっといい。いいな〜、先生は」

 「おい加藤、雪で滑り易いから気をつけろ」

 はいはいと生返事をして景色に見とれながら外湯に浸かった。義晴は持ってきた柚子を湯に浮かべた。

 3坪ほどの岩風呂の半分を屋根が覆っているので雨と雪は避けられる。池より若干高く造られているが、風呂縁に排湯溝があるので掛け流しの湯が池に流れ出ることはない。

 露天風呂の周り空間は広くとられ、そこに様々な種類の木々が覆い被さるように植えられているので、庭園の中で寛いでいるような気分になる。男女の露天風呂を隔てているのは、無粋な塀ではなく大きな築山だ。そこにも中低木の樹木が植えられている。

 風呂から池端まで玉砂利が敷き詰められ、丸テーブルに椅子が固定されている。春になればビーチチェアも置くと言う。個人経営のペンションとしては贅沢過ぎるものだ。

 左隣の女湯でも、中川が「まあ素敵!」と感嘆の声を上げていた。

 池と森を前景にした遥か向こうの山稜が雪化粧して美しい。20m程先では無数の水鳥達が羽根を休めていて、時々ガアガア、グェグェと鳴く。かなりの種類の鳥だが、彼女には鴨と鴛鴦くらいしか判別出来なかった。

 「お風呂に浸かりながら水鳥も見られるなんて最高だわ。亜紀さんが羨ましい。ねぇ、あの首の長い黒い鳥は何かしら?」

 「あああれ、あれは川鵜よ」

 陽菜子の説明に、へえあれがと感心して見惚れていたが、冷気にぶるぶるっと体を震わせ、うー寒いと両腕を抱いてそろりと湯殿に入った。

 「先生、こんなに広かったっけ?」

 確か恩師が描いた絵ではこんなに広くなかったはずだがと思って加藤が訊いた。

 「いや、狭かった。お爺さんが造園屋に指示してこんな風にしたんだ。昔取った杵柄だな。格段によくなっている。この岩も、岩の下から温泉が湧き出すように考えたのもお爺さんだし、もちろん日本庭園風にしたのも、一年中花が見られるようにしたのもそうだ。いい勉強をさせてもらった」

 隣でも同じ話題になっていた。

 「そうなの。工事のとき、お爺さんがずっとついてらっしゃって、ああしろこうしろと庭師さんに指示しているうちに、主人の設計したものとは大きく変わってしまって、後から頭を抱えていたわ」

 「どうして?」

 「だって、役場へ提出したものとは大幅に違うでしょう。慌てて図面を書き直して申請し直すやら、造園屋さんの請求金額の査定をするやらでそれは大変だったのよ」

 女達は池を前にして並んで足を伸ばした。彼女らの乳房が隠れるほどの丁度よい深さと湯加減だ。背にしている岩の間からも湯が音を立てて流れ入り、湯煙と小さな水泡が彼女らの身体を包んでいる。

 「先生、これだけ障害者に配慮したペンションは他にはないんじゃないないですか」

 自分ではとても思いつかないだろうと江口がほとほと感心して言った。

 これら弱者を配慮した設備のことはホームページで大々的に宣伝しているわけではないが、利用客の口コミなどで知られ、障害者を持つ家族からの予約も入るようになった。

 「先生はいいなあ、こんなところに住めて」

 加藤は両腕と背中を岩に預け溜息をついた。

 「それでペンションのお客さんの評判はどうですか?刈谷さんがいいと褒めてくれたけど、設計者としてはどうだか気になります」

 「うん、君らのお陰で上々だよ。時々口コミを見るんだが、また泊まりたいと言う人もいる。中には身障者用の表示や設備が目障りなどと考えされられるものもあるが、全体的には好意的なものの方が多い」

 真一はそう説明してタオルで顔をゴシゴシ洗った。

 「丁度いい湯加減だわ。足を投げ出して湯に浸かる深さも丁度いいし」

 中川がふーっと大きく溜め息を吐いた。

 「こうして浸かりながら水鳥も見れるなんて最高ね」

 「だけど、私達の裸を見られていることにもなるわ」

 「だって、鳥だけでしょう、だったらいいわ。陽菜ちゃんは何度も入っているの?」

 「それほどでもないわ。お客さんの滞在時間中は入れない決まりだからまだ2回だけよ」

 「玻瑠香さんは?」

 「私?私はここに来た時はいつも入っているわよ。炭酸泉だからお肌にいいし、心も体もリラックスするの」

 手脚に小さな気泡が纏っているからそれとわかる。

 「いいわね、羨ましいわ。亜紀さんもよく入るんでしょ?」

 「そうでもないわ。ゆっくりお湯に浸かれる時間があまりないから」

 「そうか。それはそうね。あれだけ大きなお屋敷の家事は大変だもの。それに、お荷物も一つ増えたし」

 意味ありげに隣に顔を振った中川に、ええそうねと相槌を打って微笑んだ。

 「でも玻瑠香さんがいるときは手伝って下さるから大助かりよ。それにお祖父さんのお相手もしてくれるし」

 義妹の打算からしていることを知っているが、それは黙っていた。玻瑠香はうふふと笑っただけだった。

 「それにしてもいいお湯ね。これが温泉かと思うほど無色透明で硫黄の臭いもあまりしないし、温度も最適だわ。先生の計画通りに上手くいったみたいね」

 「そうでもないわ」

 中川が感心して言うのを玻瑠香はあっさり否定した。

 「そうなの」

 「そうなのよ。源泉の温度を下げるのにパイプを池の底に通したのはいいんだけど、それから先は地上だから外気温に左右されるのよ。今日みたいに寒い日は源泉の量を増やして調整しなければならないの。初めのうちはその加減がわからなくて苦労したみたい。今は外気温とお湯の温度を自動記録していて、その結果を見ていずれ自動調整にするんだって」

 そんな話をしている間でも、時折鳥同士の諍いの鳴き声や飛び立つ羽音などがする。

 「あっ見て!」

 陽菜子が小さく声を上げた。

 「えっ、何?」

 「あれってカワセミじゃない?」

 「えっ、どこどこ?」

 しっ!と制せられ、陽菜子が指差す方向を見ると、翡翠色の綺麗な小鳥が枯れ葦に留まって水中を伺っている。皆が息を凝らす間もなく水中へダイブしたかと思うと、次の瞬間には飛び去っていた。あまりの早技に小魚を咥えていたかどうかもわからなかった。

 「カワセミって初めて見た」

 「私も。とっても綺麗な鳥ね。和歌山にもいるかしら?」

 「さあ、どうかしら」

 しばらく目の前の水鳥の話に終始していたが、それが一段落すると中川がまた新婚生活を話題にした。

 「新婚さんてどんな気分?」

 江口との結婚が決まっている中川が尋ねた。若い女の子の関心事だけに陽菜子も聞き耳を立てた。

 「どんなと言われても・・・。そうねえ、これまでずっと一人だったでしょう。あの人が横にいるから変な感じだったわ。今は慣れたけれど」

 「それで生活はどうなの。手がかかるでしょ?」

 「そうでもないわ。朝は自分で起きるし、日中は何だかんだ仕事を見つけてゴソゴソやっているから、放っておくの」

 「亜紀さんにかかっちゃ先生もただの子供ね」

 亜紀の言い草に中川が笑いながら揶揄すると、そうかしらと亜紀も笑った。

 「変わったことと言えば、相談する相手が変ったことかしら。 これまではお義母さんかお爺さんに相談していたけれど、今は家事以外のことは彼に相談するわ。お爺さんも話し相手と晩酌の相手ができたと喜んでらっしゃって、本当の孫みたいに真一って呼び捨てなの」

 亜紀はふふふと笑った。その声もお湯の流れる音と水鳥の姦しい鳴き声で半分かき消された。

 「私のことも玻瑠香って呼び捨てよ。でもお小遣いをくれるから、適当に胡麻を擦るの」

 夫婦の話題の間、静かだった玻瑠香が会話に加わった。

 「すっかり玻瑠香さんに籠絡ろうらくされて言いなりよ」

 亜紀が面白そうに肯定すると、陽菜子は羨ましがった。

 「わあ、いいなあ。私なんか孫なのにお年玉以外お小遣いをくれたことがないわ」

 「陽菜ちゃんだって甘えればいいのよ。可愛い孫なんだから」

 「それで旦那様としてはどうなの?」

 「旦那様・・・そうねえ・・・。中川さんはご存知だろうけれど、着るものに関しては無頓着で唖然とさせられたわ」

 「そうなのよ。兄貴にいくらネクタイが曲がってるって注意しても動じないし、上着に皺があっても気にしないところがあるわ」

 結婚することが決まって亜紀がしたことは、真一のマンションへ行って彼のクローゼットの中を改めたことだった。

 折れ戸を開けて驚いた。ハンガーに掛けられた服は型崩れしそうな吊るし方で、しかも服にも一貫性がなかった。そればかりか外出着の服にしても、量販店で買ったものばかりで唖然とさせられた。

 私が管理しなければと思い定めると、型が古くなった服は躊躇なく処分し、乗り気でない彼を無理矢理駅前のデパートへ連れ出し、玻瑠香とわいわい言い合いながら未来の夫をマネキンにして当面の衣類を買い揃えたのだった。

 「私がいくら言っても聞かなかったくせに、お義姉さんが迫ったら、あっさり降参よ。愛の力は偉大だって認識させられたわよ」

 「それじゃ、幸せなんだ?」

 「まあ、そうね。今のところ申し分ないわ。新婚早々問題があったら困るけれど」

 それもそうだとみんなして笑った。

 隣では男達が堅苦しい仕事の話をしていると、時折隣からバシャバシャ湯を叩く音やきゃっきゃっとの嬌声が漏れ聞こえて、その度に聞き耳を立てたが、離れているから内容までは聞き取ることができない。そのうちに、「えっ、うそぉ!」「ほんとにー?」と悲鳴に似た声がしたから、そのたびに見えるはずもない隣に目をやった。

 女達は横並びで岩にもたれて、亜紀を肴にして夢中になって話し込んでいる。

 「本当に真一兄さんと亜紀姉さんが人前でキスしているの?」

 玻瑠香の暴露に、陽菜子は「信じらんなーい」と両手を頬に当てて興奮気味だ。亜紀は湯けむりの中で否定もせず俯いている。彼女の頬が赤いのは湯のせいだか恥じらいなのかはわからない。

 長崎で初夜を迎えて以来、彼はよく亜紀の唇を求めた。最初の頃は稲子や盛蔵に見られやしないかと、ひやひやしたものだが、慣れとは恐ろしいもので、最近ではそれも気にならなくなった。少し前の彼女には考えられないことだった。

 「そうなのよ。人前も憚らずにスキンシップだと称してキスばかりしているのよ。いくら妹だからって少しは遠慮して欲しいわよ。小母様なんて恥ずかしいを通り越して呆れ返っているわ」

 「へぇ、思っていた以上に砕けた人だなあと思ったけど、同じ双子でも修一兄さんとは随分違うわ」

 「修一さんてどんな人だったの?」

 中川がタオルを絞りもう一度頭に巻きながら、一人興奮している陽菜子に訊いた。

 「それは亜紀姉さんに訊いて。だって、幼稚園の時に東京の大学へ行ってしまったから、あんまり話したことがないのよ」

 修一が帰省した折に姉弟ともに勉強を教えてもらっていたのだが、亜紀を憚って弁解した。

 「それじゃ、前のご主人はどんな人だったの?今だったら話せるでしょう」

 中川は亜紀に向き直って尋ねた。

 「どんなと言われても、そうねえ・・・」

 亜紀は少し考えて言葉を選びながら答えた。

 「ご存知のように目が不自由だったでしょう。恥ずかしいけれど、あの人のことを語れるほど本質的なことは何も理解していなかったの。ただ、優しくて思い遣りがあって、自分の気持ちに正直で真っ直ぐな人だと思ったわ。女の勘で友達以上に想われていたことは薄々感じてはいたの。けれど視覚障害者の引け目があって、会っていても今以上に親しくなってはいけないと自分を抑えていたのよ。それがあの人を失って初めて、私にとってどれほど掛け替えのない大事な人で、私のそんな態度でどれほど彼を傷つけていたかを思い知ったわ。見えないことを言い訳にして、あの人に何もしてあげられなかった。そのことを今でも後悔しているの」

 亜紀は悲しげに言って目を伏せた。

 「ごめんなさい。話しにくいことを訊いて。だから、亜紀さんは前のご主人のことがずっと忘れられなくて一人でいたのね」

 そう言われて亜紀は、それはどうかしらと少し頭を傾けた。

 「否定はしないけれど、最近少し違うように思えるの。なんと言ったらいいかしら。形だけの結婚で、一緒に暮らしたわけじゃないでしょう。彼を愛していたのは間違いないけれど、正式に結婚して一緒になっていたら、どうだったのかなぁって」

 「どうだったかなぁって亜紀さん、先生の言い草じゃないけど、相思相愛の仲だったんでしょ。だったら、きっと幸せになっていたと思うわ」

 「そうね。でもね、この頃そのように思うのよ。私の中に完全に吹っ切れていない疚しいところがあるからかもしれないけれど・・・」

 「だったらどうしてそんな風に思うの?後学のために知りたいわ」

 私も知りたいと陽菜子も亜紀の所へ寄って来た。

 「私だってお伽噺みたいな結婚を夢見たこともあるのよ。現実には叶わないとわかっていたから、余計に憧れたのね。だけどここへ来て、結婚は愛だけじゃ駄目だって悟ったの」

 どうしてと中川は意外そうな顔をした。

 「愛だけじゃ駄目なの?愛し合って一緒になるのが一番だと思うけど」

 中川は江口との結婚が決まっているからこそ、そう思う理由を知りたかった。玻瑠香も兄を愛しているから一緒になりたいのだと思っていた。それなのにそれ以外に何があるというのだろうと義姉の発言を待った。陽菜子は恋愛経験がないだけに単純に亜紀の話に興味がそそられた。

 「適切な言葉では表現できないのだけれど・・・」

 少し考えてから続けた。

 「男の人が優しくて思いやりがあって愛もあれば、確かに女の人は幸せだと私も思う。恋人同士のときならそれでもいいかもしれない。でもね、結婚して生活を共にするのならそれだけでは足りないとわかったの。それを気付かせてくれたのが真一さんなの」

 若い三人は亜紀の回りに集まり亜紀の話に聴き入った。

 「結婚に至るにはお互いに愛していることは当然としても、女としては安心と信頼が欲しいわ。でも、それは一方的なものではいけないと思うの。たとえば、10のものが与えられたなら、同じだけとまでは言わないけれど、それに近いくらいのものを無理なく相手にもできるくらいにならないと、いずれどこかできしみが出てきたり心の中がすれ違ったりすると思うの。

 修一さんとなら、確かに私は幸せになれたと思う。でもあの時の私だったら、彼の方はどうだったかしらと思うときがあるの。いつ角膜が提供されるかわからないし、私は彼のお荷物になるばかりで何もしてあげられない。そんなことは愛があれば何でもないと言うでしょうけれど、私は負い目を感じたままで、彼もきっと私のことが心配で疲れ果てしまうわ。お舅さんもお姑さんもお爺さんもよくしてくれていい人だけれど、今のようにはなっていないと思う。だから結果的には不幸なことになったけれど、あの人のためにはよかったと思うようにしたの。自己中心的だと思うのだけれど」

 しんみりと語る義姉の話を聞いて、玻瑠香には全面的に同意できないが、それでも亜希子から知らされたように愛とは何と奥深いものかと思った。到底今の私には悟り得ないものだ。

 考えてみれば、兄への愛は自分中心のものだった。同じ愛でも兄の愛は妹に対しての愛だった。血の繋がりがあろうとなかろうと、妹である限り、いや兄が私を妹と思っている限り、二人の愛はいつまで経っても交わることがないのだと義姉の話を聞いて思った。

 兄と義姉のような運命的な愛もあれば、刈谷と亜希子のように刹那せつな的な愛もある。会ったことはないが、修一のような献身的な愛もあった。自分の兄に対する愛は憧れからいつしか、一緒にいたい、誰にも渡したくないという欲望に変化した愛だったのだ。それでも自分は幸せになれていたはずだとの確信は今も変わっていない。兄を幸せにする自信もある。

 加藤が自分に好意を抱いていることは、彼の明け透けな態度や言葉で玻瑠香には痛いほどわかっている。彼の人柄もこの前のことでわかった。彼女が一歩踏み出しさえすれば、二人の仲は一気に進展するだろう。そして付き合えば、いつか彼を愛するようになるかもしれない。そのことは未熟な彼女にもわかるのだが、まだ兄の存在が彼女の中で大きく立ちはだかっていた。

 「真一さんが私にプロポーズしてくれたときにこんなことを言ったのよ」

 「えー、何なに!」

 陽菜子は無邪気に訊いた。

 女性の最大の関心事は人の恋愛事と他人の不幸話だ。他人事ながらどんなプロポーズの言葉だったのか知りたいのも同じだ。

 無垢な彼女の関心が最高潮に達した。中川も亜紀の言葉を待っている。

 「それはね。『修一と会っていたとき、幸せだと思っていたのなら、それ以上に幸せにしたい。今でも幸せだと思っているのなら、今以上に幸せにしたい。僕には君を幸せにする自信がある。亜紀さんの方でも、結婚することで幸せになろうとは思わずに、僕を幸せにしたいと思うのなら、僕と結婚して下さい』って」

 「ひぇー、うっそー、えーっ、マジで!あの真一兄さんがそんなこと。私も言われてみたい」

 乙女心一杯の陽菜子は、感激のあまり両腕を交差して胸に当てた。

 「あの兄貴がそんなことを・・・?」

 玻瑠香もあの兄がそんな気障なこと言うなんてと目を丸くした。

 「その前にもっと長々と言ったのだけれど、印象に残ったのはその言葉だったわ」

 「僕を幸せにしたいと思うのなら、僕と結婚してくれなんて中々言えないわよ。それで亜紀さん何て答えたの?」

 中川の問いに陽菜子も玻瑠香も亜紀の答えを待った。

 「私も彼を幸せにしたいと思ったから、こんな私でよかったらと返事したわ」

 「うわー、私も言ってみたい。それでそれで・・・あの、真一兄さんとのファーストキスはいつ?」

 勢い込んだ陽菜子の瞳は好奇心一杯で輝いたままだ。

 「その後すぐ」

 頬を熱くしながら答え、照れ隠しにタオルで顔を拭った。結婚する前ならとても言えることではなかったが、今では言えた。結婚が彼女を変えた。

 「へえー、真一兄さんもやるときはやるのね。それで初体験は?」

 「陽菜ちゃん、もういいじゃないの」

 彼女を制したのは玻瑠香だった。二人の結婚を受け入れたと言っても、これ以上二人の艶ごとは聞きたくなかった。

 「今にして思うと、修一さんとは、与えられるばかりが心苦しくてそこまでいっていなかったわ。一方的に私が悪いのだけれど、同情からきているのだと思い込もうとしていたの。身障者の私がそれ以上踏み込んでは駄目と自制していたの。そんなことを理由にして、あの人のことを完全には信頼しきれていなかったのね。

 彼にそんな風にプロポーズされて、自分のことばかりで修一さんを幸せにしようなんて、これっぽっちも考えてもいなかったことに気付かされたの。私が若かったせいもあるけれど、彼と修一さんとではそこが根本的に違っていたわ。尤もこれは私の考えだから、皆さんには当てはまらないとは思うけれど。

 私もそう経験がある訳じゃないけれど、恋愛っていいものよ。はたから見れば小さなことで悩んで、些細なことで一喜一憂して、それが成就してもしなくても、それは人生の中で必要なものだと思うの。結婚ができたから言えることかもしれないけれど、偉そうなこと言ってごめんなさい」

 そのように締め括った亜紀の言葉を玻瑠香は自分に向けられたものと受け止めた。

 彼女達は風呂から上がると洗い場で横一線に並んだが、間仕切りがあって話しかけられない。

 端に座った陽菜子はシャンプーを洗い流しタオルで髪を拭うとしばし考え込んだ。

 陽菜子が亜紀と初めて会ったのは小学生の最終学年ときだ。自宅で伯母から息子の嫁だと紹介されたときは、寝耳に水のことで両親が驚いたことを覚えている。自分だっていつに間にとびっくりしたものだ。

 その時は綺麗で大人しそうな人だとの印象しか持たなかった。子供心にお婿さんのいない家にお嫁さんだけがいることを不思議に思ったが、父から子供の寝る時間だと弟と一緒に追い出されたからその辺の経緯は知らなかった。

 次の日、両親が夕食の時に彼女のことを話題にしているのを横で聞いて、初めてその事情を知った。

 彼女が失明していたことと思い合わせて、何て意思の強い人なんだろうと伯父の嫁に興味を抱いた。そんな陽菜子の好奇心をよそに、再び亜紀と顔を合わせることができたのは、それから半年余り後の報恩講で本家へ行ったときだった。それまでは祖母の葬儀の後、相続のことで何か揉め事があったらしく、両親が祖父の耕造から出入り禁止を申し渡されていたからだ。それ以来、近くに住みながら本家とは絶縁状態にあり、出入りを許されたのは公の行事ごとのときだけだった。親戚の手前、耕造もそこまでは固執できなかったのだ。

 人見知りが強かった陽菜子は、その時も大人の亜紀が近寄り難い存在に思えて、柱の陰からちらちら窺うだけだった。また彼女の方から積極的に話しかけてくれることもなかった。それでもときどき目が合って優しい笑顔を向けてくれたときは心を弾ませた。

 そんな陽菜子が亜紀と一気に親密になったのは、学校からの帰り道に買い物を済ませた彼女が車で通りかかり、姉弟に声をかけたのがきっかけだった。誘われるまま車に乗り込み、久方ぶりに本家に上がって手製のクッキーをご馳走になった。それまでお菓子と言えば、お店で買うのが当たり前だっただけに、手作りだと聞いてお菓子は自分でも作れるのかと新鮮な驚きを覚えた。

 亜紀の語り口調はゆっくりで多弁ではなかったが、聞き上手だった。学校のことや日常のことを自然に引き出して、それに耳を傾け姉弟の質問にも子供扱いをせずに向き合って答えてくれた。今にして思えば、無遠慮な質問だったが、失明していた時のことにも、ちゃんと答えてくれて子供心に嬉しかったものだ。冗談は言わないが、気取らず気さくな人だと知って一辺に好きになった。

 それを契機に学校からの帰り道、姉弟は親に内緒で本家に立ち寄り、お菓子をご馳走になっておしゃべりすることが多くなった。

 不意に行っても嫌な顔をせず、必ず手を休めて色んな相談にも乗ってくれた。内緒の話をしても、それが彼女の口から漏れたことはなく、親には言えないことでも安心して話すことができた。いつ訪れても家の中は綺麗に片付いていて彼女の身なりもきちんとしていた。しかも絶えず体を動かしていて、暇そうにしている姿を見たことは皆無だった。あの大きなお屋敷をたった一人で任されていることにも驚いた。自分の小さな部屋でさえ掃除が行き届かず、いつも親に叱られているのに。

 いつしか彼女のことを親愛を込めて亜紀姉さんと親しく呼ぶようになった。彼女もまた妹弟のように接してくれた。

 亜紀の人柄で近所や親戚の評判も良いことも陽菜子にもすぐにわかった。そんな彼女が陽菜子にとって憧れの対象であり理想の人となるのは自然なことだった。報恩講が終わって間もなく、両親が本家を自由に出入りできるようになったのも、彼女が耕造にとりなしてくれたからだと知ってますます傾倒した。

 小遣い銭稼ぎの目的でペンションを手伝うようになったのも亜紀に会いたいがためだった。そうでなければ伯母の誘いとは言えど二の足を踏んでいただろう。

 アルバイトを始めると、それまで疎遠だった伯父や伯母それに刈谷らの大人と話す機会が多くなった。すると、知らぬうちに引っ込み思案だった性格が矯正されていた。

 中学生になると陽菜子にも秘められた亜紀の深い悲しみが何となく理解できるようになった。ああ、それでいつもどこか悲しそうな感じなのかと納得したのだが、理解はしても彼女に解決法などあるわけはなく、早く克服して欲しいと願うばかりだった。ところが、真一という修一にそっくりな男が亜紀の前に現れてからは、陽菜子もまた二人が結ばれればと密かに願うようになった。

 二人の愛が実った今、とても幸せそうで自分のことのように嬉しい。陽菜子もまた夢見る少女であり、愛に憧れている。しかし、客観的に自己診断すると亜紀のようになれる自信などなかった。

 亜紀姉さんは愛について語ったけど、私にそんな機会があるのかしらと懐疑的になった。奥手だった陽菜子にそのような意識を目覚めさせたのには加藤の存在があった。

 初めて加藤と会った時、誰にでも分け隔てなく話す態度に好感を持った。彼を意識するようになったのは、真一のマンションでのクリスマスパーティーで、加藤のことを一番信頼のおける奴だとの真一の一言だった。彼女は時々勉強を教えてくれる修一に憧憬の念を抱いていた。その修一そっくりな真一を同じように畏敬するのは自然のことだった。そんな彼の発言に間違いはないと無垢に信じた。加藤はお世辞も男前とは言えないが、それだけに、ひょっとしたら私を好きになってくれるかもしれないと希望的観測を抱いた。もちろん、誰にも言えない彼女だけの秘密だ。もし話すとしたら亜紀一人だけだ。彼女だったら真摯に向き合ってくれることはわかっているし秘密を守ってくれる。ところが、加藤の関心は彼女にではなく玻瑠香に向いていた。元々自意識過剰な娘ではないだけに、それは至極当然のことだと受け止めた。

 陽菜子はそっと溜め息をついた。ここにいる4人の中で一番見劣りするのは私だと客観的な事実として認めた。脱衣所で3人の裸体を見たときも一層劣等感に襲われた。気付かれないように陽気に振舞っていたが、その感情は同じ女性であっても同級生に対しては抱かないものだった。亜紀は自分にとって理想の人だから、それは置くとしても、玻瑠香が身辺に現れるようになって、ますます自分に自信が持てなくなった。 隣の芝生は青くみえると思いたいが、彼女を見ているとそれは全く嘘だ。天は二物を与えずと言うが、それも嘘だ。モデルにと何度も誘われたと言うだけあって、見事なプロポーションをしている。あの美貌を自らからひけらかせても嫌味に感じさせないあの性格。二物も三物も与えているではないか。それにひきかえ私はと恨めしく思う。このように自分を客観的に見られるのが、自分では気付いていない彼女の利点だった。

 この人達に遠く及ばないと自覚していても加藤の前に立つとどきどきしてしまう。それを隠すためについつっけんどんな態度で接してしまう。彼女が初めて経験する本気の恋だった。

 洗い場から今度は内湯に浸かると、結婚披露宴で玻瑠香が歌ったことが話題になり、中川と玻瑠香は音楽の話を始めた。

 それを横目に亜紀は二人と少し離れて「陽菜ちゃん、ちょっと」と彼女を手招きした。

 「なに?」

 「陽菜ちゃんは加藤さんのことが好きなの?」

 小声で訊いた。

 先程までそのことを考えていただけに、突然の問い掛けに狼狽えかっと頭に血が昇った。

 「そ、そうじゃないわよ」

 内心の動揺を隠して同じく小声で応じるのが精一杯だった。

 「陽菜ちゃんが好きになったとしても無理はないわ。加藤さん、思い遣りがあって頼りがいがあるもの。私は好きだわ」

 援護射撃のつもりか、亜紀がそう言い添えてくれたが、自分の気持ちが筒抜けだったのかと恥ずかしさで血が上った。

 「違うったら!」

 大声で叫んだので玻瑠香と中川が驚いた顔して陽菜子を見た。彼女は慌てて自分の顔に湯を浴びせた。

 「あのね、陽菜ちゃんのご両親は私達の同居について何か仰っていない?」

 玻瑠香達がこちらを向いたので話題を変えた。

 プロポーズを受諾したその夜、陽菜子の両親も招いて祝いをしたのだが、そこで気になったのは、ここに同居すると耕造から聞かされた叔父の文蔵の複雑な表情だった。

 「何かって?」

 加藤の話題から外れたのでほっとして訊いた。

 「真一さんが修一さんのお兄さんだったわけでしょう。そんな人が私とお爺さんのためだからって同居するのは変だと思われたのじゃないかしら」

 「そうかな?そんなことはないと思うけど。だって、修一兄さんにそっくりな人が新しいペンションの設計をしているってずっと前に話したし、ひょっとしたら亜紀姉さんと結婚することになるかもしれないとも言ったわ。だから、真一兄さんが修一兄さんの兄だと紹介されても驚かなかったでしょう。兄が弟の家にいるのは不自然じゃないから何も思わなかったと思う。何か気になることでもあるの?」

 大人の機微がまだわからない陽菜子は亜紀がどうしてそのことを気にするのかわからなかった。

 「いいえ、真一さんがどうなのかなあって気にしていたから」

 亜紀はそれ以上それを話題にしなかった。

 女性達は風呂から母屋に戻って来ると亜紀を手伝うためにキッチンに入った。

 「亜紀さん、献立は何にするの?」

 中川に問われて、亜紀は前日に玻瑠香と相談して考えておいたメニューをレンジフードの端にマグネットでとめた。

 「これにしようと思って買い物は済ませてあるの」

 どれどれと中川と陽菜子が覗きこんだ。小さな紙に酒の肴3品におかず6品目が列挙されていたから、二人の顔が亜紀に集中した。

 「亜紀さん、いつもこんなに作るの?」

 「まさか。今日は皆さんをご招待したから特別よ。ただ、小芋の田楽はお爺さんのリクエストなの。ついでだから蒟蒻と焼き豆腐の田楽も作るつもり。玻瑠香さんの柚子味噌をつけた田楽が美味しいとお爺さんが喜んで下さったの。手伝ってくれるのなら、それを陽菜ちゃんにお願いしようかしら」

 料理をしたことがないと恥かしそうに告げる陽菜子に玻瑠香が簡単だから大丈夫と声をかけた。

 「お袋が送って来た柚子がまだたくさんあるから、今度一緒にジャムを作ろう」

 「やるやる、玻瑠香さんと一緒なら楽しいし」

 「この沢庵の古漬け煮ってどんなの?」

 肴の一品にそれがあったので中川が訊いた。

 「それはね、簡単なの。加辺のお義母さんから教わったものだけれど、古くなった沢庵を塩抜きして、醤油に砂糖と味醂かお酒、鷹の爪を混ぜて甘辛く煮るのよ。栄養的には何もならないけれど酒の肴にいいのよ。主人が初めて食べて、それから病み付きになって、今では欠かせないものなの」

 「へぇー、そんなものが美味しいのかしら?」

 「今晩食べてみれば。お酒の好きな中川さんの口に合うと思うけれど」

 「そうするわ。楽しみ」

 それで、私は何をすればいいと中川が聞くので、亜紀はこれとこれをお願いと頼み、材料はあそこ、調味料はここ、お皿はこれを使ってと指図した。

 玻瑠香には炊飯を頼んだ。

 「1升お願いするわ。 とぎ汁は残しておいてね、大根の下茹でに使うから。それが終わったら、これに取りかかってくれる」

 献立表の中の茶碗蒸しを指差した。

 揃いのエプロンをした4人が並び立ってもアイランド型の大きな調理台にはまだまだゆとりがあった。

 「こうして気心の知れた人と一緒にお料理をするのが夢だったの。今日叶えられたから嬉しいわ」

 「里芋は何個ぐらい茹でるの?小さい奴50個。え、そんなに?うん、わかった」

 「お義姉さん、百合根は?・・・あ、あった。これを使うわね」

 使う材料を揃えると、しばらくは各自の作業に集中していたが、4人の女性が揃って黙っていられるはずがなく、再びお喋りが始まった。

 「献立は毎日考えるの?」

 江口と婚約した中川が、参考のためと断って訊いた。

 「とんでもない。月曜日に1週間分の献立を考えて火曜日に買い出しに行くのよ。リクエストがあるときは変えるけれど。普段はお爺さんもお義父さんも晩酌をなさらないから、彼が帰って来る時だけ酒の肴を少し用意するの」

 「味付けは?」

 「そこが微妙なところね。今は加辺家の味だけど、成瀬の嫁だから玻瑠香さんに教えてもらって、成瀬家の味に近づけるつもり。だから、玻瑠香さんのお母様直伝の茶碗蒸しがとても楽しみなの」

 「お義姉さん。あまりプレッシャーをかけないでよ」

 そんなことを言いながら手慣れた様子で米を研いでいる。

 「玻瑠香さん、何でもできて凄いわ」

 何からなにまで彼女に劣っている陽菜子は、劣等感を通り越して日々無為に過ごしている自分を恥じた。玻瑠香の物怖じしない態度も彼女には羨ましかった。

 「ちょっとね、小さい頃からお袋にやらされていたから。それにお料理は嫌いな方じゃないし。刈谷さんにも包丁の研ぎ方から味の取り方、素材の生かし方まで色々教わったわ。見ていてやっぱりプロの料理人は違うなあっていつも思う。後片付けなんかも手を抜かないでいつもぴかぴかだし」

 「そうね。丁場を預かっているから当たり前だと言っているけれど、あそこまでは中々できないと思う。見習うべきところは多いわ」

 「そんなことはないわよ。お義姉さんだっていつも綺麗にしているわ。どちらかと言うと私はお義姉さんを見習っているのよ」

 「えっ、私の何を?」

 意外な発言に、岩魚に塩を振り、滲み出てきた水分を拭き取って、竹串に通していた亜紀が思わず手を休めた。

 「ほら、お義姉さんは刈谷さんから教わってもその通りしないんでしょ?素材を少し変えたり加えたり、調味料をちょっと変えたり工夫するって。逆に教えられることも多いって感心していたわよ」

 「それは褒めすぎよ。失敗も多いのよ」

 「それだって、料理のお師匠さんがいて二人が羨ましい。私なんか今から戦々恐々としているわよ。達也と一緒になってうまくやっていけるかなあって」

 「中川さんだってお料理が上手じゃない。大丈夫よ」

 「そんな無責任なこと言って。亜紀さんと先生は私達のお仲人さんだから、うまくいかなくなったときは面倒見てよ」

 「それは大丈夫だけれど、本当に私達でいいの?彼も言っていたけれど、江口さんの上司の方が将来のためにいいのじゃないのかしら」

 「先生と亜紀さんを見習いたいからそれでいいの。達也だって先生夫婦にと最初っから決めていたわ」

 江口と中川の婚約が決まると、彼等は原村まで来て、真一と亜紀に仲人を依頼したのだ。

 「それにしても真一兄さん、結婚してから人が変わったと思わない?丸くなったと言うか、不真面目になったと言うか・・・。披露宴のときあんなに弾けちゃって」

 陽菜子が柚子皮の内側についている綿をスプーンで取りながら話を振った。

 「好きな人と一緒になれて浮かれちゃっているのよ。そう言う点では、兄貴はお馬鹿だしお義姉さんの力って偉大だと思う」

 玻瑠香の辛辣な解説に亜紀も思わず苦笑してやり返した。

 「玻瑠香さんだって、結婚すれば相手の人もきっと変るわよ」

 「そうかしら」

 玻瑠香は椎茸を微塵切りにしながら懐疑的に応じた。

 「ところでお正月はどうするの?先生の実家に行くの?」

 中川の何気ない問いに亜紀は、あっいけない!と声を上げた。みんなが何事かと手を止めて亜紀を見た。中川から問われて、お爺さんから言われていたことを今思い出した。

 結婚して最初の正月は夫の実家へ行くとばかり思っていたのだが、彼女の知らぬ間に耕造が彼の両親を招待していた。玻瑠香にもここで正月を迎えるようにと言われていたのだが、忙しさにかまけて失念していた。

 「あらそう、よかったわ。鬱陶うっとうしいから田舎には帰りたくなかったの」

 あっさり義妹が受け入れてくれたのでほっとした。

 「だったらおせちを作るのを手伝ってくれる?今回はお客様が多いから大変なの」

 例年の客のほか夫の両親が加わることは織り込み済みだが、夫を訪ねて来る年始客が不明だった。尋ねても、せいぜい2人か3人ぐらいじゃないかとはなはだ心許ない。それに耕造から、今年はお婿さん見たさに日頃は顔を見せない親戚連中の年賀が増えるだろうとも言われていた。

 私も手伝うと陽菜子がすぐに応じた。この際、亜紀に料理作りを教わろうと考えた。

 「いいわよ、私も手伝うわ。だけど私のは親譲りの関西風だから味付けが違うんじゃないの」

 「だからお願いするのよ。例年加辺のお義母さんから教わったお節を作るのだけれど、今は成瀬の嫁だから今年は成瀬家のものを教わりたいの。いいでしょう?」

 「いいわ。28日から冬休みだから下準備から一緒に始めようか」

 横で義姉妹のやり取りを聞いていた中川は亜紀と玻瑠香を冷やかした。

 「あら、嫁小姑で仲が悪いのかと思ったら、すっかり義姉妹しているじゃないの」

 「雨降って地固まるよ、ねえーお義姉さん」

 「ねえ」

 顔を見合わせ笑い合った。

 「それでお義姉さん、どれだけ作るの?」

 「いつもだったら、5の重3組もあればいいのだけれど、今年は5組にしようかと思っているの」

 「ええっ、そんなに!」

 期せずして玻瑠香と中川が声を上げた。

 「それだって足りるかどうか心配なの。私達が結婚したからご近所の人や親戚筋の年始客が多いだろうとお爺さんが仰って」

 つい先日も亜紀が板の間の拭き掃除をしているときに耕造に電話があった。耳が遠くなったせいか、声が大きくて丸聞こえだった。

 「なに、年賀に来る?婆さんの法事にも来なかったのにどうした。えっ、なんだって?ペンションの新築祝いがしたいじゃと?それなら、手ぶらで来るんじゃないぞ。お前さん、金持ちなんだからご祝儀をたっぷり持ってこい。ああ、心配するな、泊まる部屋くらいは何とかする」

 電話を終えた耕造が自室から出て来て言った。

 「亜紀さん、すまんが3人増えたから寝るところを用意してくれ」

 「わかりました。どなたが来られるのですか?」

 「あんたは会ったことがない思うが、盛蔵の従弟で茨城にいるんじゃが、ここ十何年も会ったことがない。それが来ると言うんだから、ペンションの新築祝いにかこつけて亜紀さんとお婿さんの顔を見たいんじゃろう。これで何人目だったかな、今回に限って年始の挨拶に来ると言ったのは」

 盛蔵から同じことを言われたのを含めるとこれで3組目だった。

 「噂千里を駆け巡ると言うが、玻瑠香も見たいんじゃないかな。いい年をして嫁さんがいない息子も多勢いるからな。成瀬のご両親を呼んだから玻瑠香にも年末年始はここにいるように伝えておいてくれ」

 耕造がかっかっかと笑って言った。

 そんな話を聞いて、中川はなるほどねぇと納得して言った。

 「お婿さんが弟さんのお兄さんだと知っても、やっぱり実物を目で確かめたいものねぇ」

 「それに、主人は2、3人と言っているけれど、今年は中川さんの先輩方だっていらっしゃると思うの。こちらにいると知れれば、玻瑠香さん目当ての人だって来るだろうし」

 「来たって、追い返して入れないわよ」

 玻瑠香は素っ気なく言い放っのを見てみんなが笑った。来て当然と思っているところが彼女らしい。加藤の名は出さないが、彼が来ることは折り込み済みなのだろう。

 「そう言えば、夫にも現役の学生さんが来たら中に入れるなって言われていたわ」

 「それはいつものことよ。それにしたって多いわ。達也の家なんか2の重か3の重一つがせいぜいよ。それでも飽きるから正月3が日じゃ食べ切れなくて、松の内まで出てくることがあるってよ」

 「お雑煮も家のでいいの?」

 玻瑠香もここで迎える初めての正月だから勝手がわからない。

 「お爺さんがいらっしゃるから、お雑煮だけは加辺家のものにしようと思うの。玻瑠香さんとこのお雑煮ってどんなの?」

 亜紀はまだ関西のお節も雑煮も食したことがない。そもそも長野より西へ行ったのは、長崎を除けば、真一の両親のところへ挨拶に行った時が初めてだった。

 「私のところは関西風だから、白味噌仕立てで、大根、人参、小芋、真菜、それに油揚げを入れることもあるわ。お餅は焼かないでそのまま入れるの

 「それって、お餅が溶けてしまわない?」

 「大丈夫よ、お代わりするのは兄貴と私だけだから。でも、大勢だと焼いた方がいいかもしれない」

 「そうね。おすましとは違って、お味噌汁だったら少々とろけてもわからないかもしれないけれど」

 味噌汁の中でどろどろしている餅が思い浮かび顔をしかめた。

 「お味噌の雑煮って食べたことないわ。もし、作るんだったら元旦から来ようかしら。ねえ、亜紀姉さん、作ってみたら」

 「もちろん陽菜ちゃんのお家も来ていただくけれど、でもねえ、ここはおすましだから・・・」

 逡巡する亜紀に中川が絶妙なアイデアを提供した。


                     (五)


 彼女達が姦しくお喋りしながら、忙しく立ち働いていると、2階に行っていた男達がキッチンへやって来た。それを玻瑠香は邪魔だからと邪険に追い払った。蝿のように扱われた彼らが囲炉裏端で話に盛り上がっていると、締め切っていたダイニングの引戸が開いた。

 「お話し中申し訳ないけど、食事の用意が出来たから、お爺さんを呼んで」

 玻瑠香に言われて、真一が耕造に声をかけている間に、陽菜子が盛蔵と稲子に連絡を取った。

 耕造が背中を丸めながら部屋から出て来て、囲炉裏の前にどっかと腰を下ろした。彼の背後に焚き木置場が設けられていて、手を伸ばせば立て掛けているそれを取ることができる。これは耕造に言われて、昔あったそのままに再現したものだ。

 耕造が座ったのを合図に女性陣が膳に盛り付けた料理を次々と炉縁に並べ始めた。

 「ちょっとぉ。お酒飲むんだったら、あなた達で用意してよ。ビールは冷蔵庫の中、グラスとお猪口とお銚子は食器棚の中、日本酒はテーブルの横に置いてあるから、火が入ったら、そこで燗を付けてちょうだい」

 お客様然として座っている彼らに玻瑠香が指示した。

 あらかた用意が整ったころに「亜紀ちゃん、ご苦労さん」「お疲れ様」と言いながら、盛蔵と稲子が囲炉裏端へやって来た。

 「みなさんには結婚式と披露宴では大変世話になりました。どうです、母屋も随分変わったでしょう。これも真一さんのお陰だ」

 「そんなことはありませんよ。さあ、座って下さい」

 「今日が囲炉裏の使い始めなのね」

 稲子は盛蔵の隣に腰を下ろした。

 「あれ、まだ使ったことがないんですか。それは光栄です」

 「加藤、そんな突つけたような言葉はいいから、ちゃんと座れ。

 お爺さん、お待たせしました。全員揃ったので、火入れを始めて下さい」

 「その前に、玻瑠香と陽菜はわしの横に来てくれ。若い子が横にいると長生きできる」

 耕造は両手を振って招き寄せた。

 「あらあら、お爺さん。これまで亜紀ちゃん亜紀ちゃんだったのに、今は玻瑠香さんと陽菜ちゃんですか?」

 稲子に冷やかされても、うんうんと耕造は顔を皺くちゃにして満足そうだ。

 「亜紀さんは真一のものになってしもうたから、うっかり声もかけられん」

 「いつでもお貸ししますよ」

 真一はにやにや笑って耕造の冗談に応えた。

 「そうか、それは嬉しいな」

 加藤が囲炉裏の角まで来て玻瑠香の隣にくっつくように座ると耕造が苦言を呈した。

 「お前さん、玻瑠香から少し離れろ。そんなにこっちに寄る必要はなかろう」

 「玻瑠香さんを盗られてがっかりだな」

 それでも彼は頭を掻いて嬉しさを隠そうとはしなかった。が、当の玻瑠香は横を向いて無視したからみんなに大笑いされた。

 亜紀はそんな様子を微笑ましく見ていた。気丈な素振りを見せているが、まだ兄のことを吹っ切れていないことは知っていた。その自分は彼女の想いを知りながら、想い人と結ばれて幸せだ。玻瑠香と加藤とはこの先どうなるかわからないが、できれば彼とうまくいってくれればと心の中で願った。

 ペンション新築の件で大勢の若者と接する機会を得た。中でも加藤が一番信頼できると彼女なりに思っている。彼の容貌と軽薄そうな言動だけを見れば、若い女が一目で好きになるような男ではない。付き合いを深めれば彼の人柄の良さが理解できるだろう。玻瑠香はまだ若いだけにそれに気付かないのだろうが、いずれわかるときがくると思っている。だがそれも、彼女が兄のことをを引き摺っている間はそれも期待薄だろう。

 陽菜子が彼に好意を抱いたのは、その辺のことがわかっているからだろう。3人とも若いのだし、注意深く見守って行こうと思った。

 「それではお爺さん、火入れを頼みます」

 真一に促された耕造が、そうかいと古新聞紙に火を点け、円錐形に重ねられた白樺の枯れ枝に燃え移らせると、ぱちぱちと音を立てて勢いよく炎が上った。枝の爆ぜる音と意外な火の勢いにのけ反りながらも全員が手を叩いて火入れを祝した。

 薪に燃え移らせ火勢が安定すると、陽菜子と亜紀の手で火の回りに芋田楽と岩魚の串が立てられた。玻瑠香は吊り下げられた自在鉤に酒燗のための大きな薬缶やかんを掛けた。

 取り敢えずビールと冷酒で乾杯して宴会が始まった。耕造は玻瑠香から注がれた酒を嬉しそうに飲み干し、囲炉裏を囲むみんなの顔を見渡して、皺深い顔を綻ばせて満足気だった。肴の芋田楽を一口食べると囲炉裏談義を始めた。

 「盛蔵が子供の頃には囲炉裏とうまやがあってな、囲炉裏は丁度この辺じゃったが、厩はあの辺にあった」

 耕造は自分の部屋を指さした。

 「そうそう、その上の中二階に藁を上げて、藁切り機で藁を押し切るんだが、子供には中々思い通りに切れなくて難儀したもんだよ。床に穴が開いていて、そこから飼い葉桶に落として米糠と混ぜて馬に与えるのが日課だった」

 盛蔵はその当時を思い出したのか遠くを見る目で言った。

 「そうじゃった。どの家もそんな風になっていたな。それが、農機具が普及し始めると、牛がいなくなり馬もいなくなってしまった。それに藁葺き屋根の家がなくなるにつれて囲炉裏もなくなった。それが真一のお陰でこうして復活すると昔が懐かしい。そのころは、この辺は何もなくて・・・」

 遠い昔を懐かしむ耕造の話に彼らは料理に舌鼓みを打ちながら聴き入った。古い話を孫のような若者が嫌がらずに聞いてくれるので耕造は終始上機嫌だった。これほど饒舌に話すのはこれまでなかった。それに夫のことを本当の孫のように真一と呼び掛けてくれるのも亜紀にも嬉しいことだった。

 囲炉裏のおかげでその周りは床暖房の必要がないくらい暖かくなった。

 その日以来、夕方になると耕造が囲炉裏番をするようになり、聞きつけた彼の旧知の人々がそこに集い食事を共にすることも多くなった。復活した囲炉裏を見て昔を懐かしみ、リフォームするときは真一に設計を依頼したいと言う者まで現れる副次効果をもたらした。何より亜紀を安心させたのは、耕造が自分の目の届く範囲にいることが多くなったことだ。それと同時に火の番付きで煮焚きができるのも主婦としてはありがたかった。

 真一らも手伝ったことで宴会の跡片付けも早く終わった。

 ベッドに入ると何を思ったか、背もたれに身を預けて、化粧を落としている亜紀に向かってしみじみとした口調でポツリと言った。

 「こんなに幸せでいいのかな」

 そんなに酔った風でもない夫が何を言い出したのかわからなかった。亜紀は手を休めて鏡に映る夫を見た。

 「弟がもし生きていたら君と幸せな家庭を築いていたはずなんだ。そんな風に考えると、お義父さんお義母さんに何かしら罪悪感を覚えてしまう。よかれと思って同居を決めたのだが、息子にでもなったつもりでいていいのだろうかと時々思うことがある。結婚前にはこんな気持ちになるなんて思ってもいなかった」

 しみじみとして語る夫に亜紀は呆れたような顔で振り向いた。

 「近頃様子がおかしいと思っていたけれど、そんなことを考ていたの。それであなたはどうしたい訳。ここから出て行きたいの?」

 「いや、そうじゃない」

 思わぬ妻の強い口調に即座に否定した。

 「修一のために何かをしなければと思うのだが、何をすればいいのかわからない。お爺さんに弟のことを聞いても、弟の部屋で思案してもみたが、これと言った解答は得られなかった。遺影を見ていると、何か訴えかけているような気がして仕方がないんだ」

 夫が長野から帰ってくると必ず仏間に向かうことも、修一のことを耕造に訊いていたことも、今は彼の書斎となった修一の部屋にときどき籠っていることも亜紀は知っていたが、何か思うところがあるのだろうと見ぬふりをした。それにもし、何かがあれば自分に話してくれると夫を信じていた。でもまさか、そんなことを考えていたなどとは思いもよらなかった。

 「あなたがそう思うのもわからなくはないわよ。でも、修一さんだってあなたに何かしてもらおうなんて思っていないわ。そのように思うこと自体がおこがましいし、あの人に対しても不遜だと思う。あの人は私の幸せを願いながら逝ったのよ。だから私達は幸せになる義務があるの。そんなことを思案するくらいなら、彼に代ってできる範囲のことをすればいいのよ。変な罪悪感も義務感も抱く必要などないわ。

 この機会だから言わせてもらうけれど、もしかしたらあなた、お義父さんやお義母さんに対して、修一さんと同じように振る舞おうとしているんじゃないの?もしそうだとしたら、それは却ってお二人には辛いことなのよ。あなたにしてみれば、あの人達の寂しさ和らげようとしているつもりかもしれないけれど、結局は思い出させることになってしまうの。だから、今のあなたのままでいいの。兄だと言っても、どんなに頑張ったところで修一さんにはなれないんだし。そうでしょ?」

 真一はまじまじと振り返り見る妻の顔を見てしまった。彼女がこんなにきっぱりと言うとは思っていなかった。

 「驚いたな。いつの間にそんな風に割り切れるようになったんだ?確かにそうだな。少し考えが足りなかったようだ。一人で悶々としているより打ち明けてよかった。今のところ何ができるかわからないが、自分ができることを少しずつやるよ。それにしても、今更だが君は精神的には僕よりも強いと思う。二度の不幸な出来事が強くしたのかな」

 妻の明快な見解に、眼から鱗が落ちたようにすっきりとした表情に変わった。

 「そう思うのなら、そうしておくわ。明日も早いから寝ましょう」

 亜紀は会話を打ち切って、夫に寄り添い彼の腕を枕にして目を閉じた。夫がそんなことを考えていたのかと思うと急に悲しく心細くなった。彼女は向きを変えて大きな体にしがみついた。真一もしっかりと妻を抱いた。彼女はようやく安堵感を得た。

 (これまで気丈に生きて来たつもりだったのに、いつの間にこんなに気弱になってしまったのかしら)

 頼れる存在を得て、その人に任せておけばよいとの安心感がそうさせたのだと思った。そんなことを考えているうちに真一にパジャマを脱がされていた。

 翌日から、真一は吹っ切れたように加辺家のことにも積極的に係わるようになった。耕造も真一が同居するまでは隠居同然だったが、森林の整備について彼が相談を持ち掛けることで表舞台に立つことも多くなった。それを見て盛蔵は、爺さんも元気を取り戻したようだと喜んだ。

 「わしらだけがいい思いをして、成瀬さんや遠藤さんに申し訳ないなぁ」

 夕食のとき、ぽつりと耕造が漏らしたが、盛蔵も稲子も同じ思いだった。そんな申し訳なさも手伝って、若夫婦を親戚に紹介したいからこちらでとの理由を設けて、真一の両親を正月に招いたのだが、二人を手元から離したくないのが本音だった。

 30日に餅つきをするから早目にと耕造が告げていたので、招ねかれた客はその日までに相次いで到着した。

 中川らを招待した宴会の際、臼と杵があるのに使わない手はないと、真一が餅つきをすると宣言したのだった。12年振りの再開だった。

 当日は朝から小雪交じりの天候だったが、早朝から祭りのような騒ぎだった。

 加藤と吉晴に手伝わせ、石臼を蔵から出して母屋の三和土に運び入れると、前庭で竈に火を入れ羽釜で湯を沸かし臼と杵を洗った。

 餅にまぶすあん黄粉きなこ、のし餅に入れる青海苔や小海老に大豆などを確認をして全ての準備が整い、餅米が蒸し上がると耕造に敬意を表しての彼の一突きから餅つきが始まった。

 「玻瑠香さん、そんなに腰が引けてちゃ、うまく捏ねられないぞ」

 「うるさいわね。私の手を打ったら承知しないからね」

 始めのうちはおっかなびっくりの危うさのある加藤と玻瑠香だったが、息が合うようになると、冷やかしと喝采の中でつきあげた。加藤が義晴にうまく撮れたかとスマホを確認している横で、玻瑠香は額の汗を腕で拭きながらそっぽを向いたままだった。

 和人も捩じり鉢巻きをした息子の手を取って嬉しそうに餅をついた。

 3段重ねの蒸籠の餅米が蒸し上がった先から、搗き手の男衆が入れ替わり立ち替わり、よいしょどっこいしょの掛け声に合わせて餅を搗き、返し手の女性陣が手で捏ねた。

 搗き手と捏ね手が真一と亜紀の新婚カップルになると、冷やかしの声に混じり、あちこちからシャッターを切る音がした。

 つき上がった餅はその場でちぎり餅にされ、餡をつける者、大根おろしで食べる者、黄粉にまぶす者、安倍川餅にする者、磯辺巻きにする者様々で好みに合わせて餅を十分堪能した。その後、鏡餅や丸餅、大豆、小海老、海苔入りののし餅にして、10時過ぎから始めた大会が盛況のうちに終了したのは2時過ぎだった。

 亜紀は亡夫へのお供えも怠らなかった。

 年越し蕎麦を食べ終えてからも、真一が主役の宴会が続く中、亜紀と玻瑠香はそれぞれの母親と杏子、陽菜子に手伝ってもらいながら元旦の準備に追われた。

 美智子は娘が姑を立ててうまくやっている姿を見て安堵した。特に小姑である玻瑠香のことが心配で、娘の結婚衣装選びに川越に来た時からさり気なく二人を見守っていたのだが、変わらぬ仲睦まじい様子に安堵した。

 年が明けた8時過ぎ、襖を取っ払った床の間にみんなが揃って席に着いた。

 大きな欅の1枚板の座卓と納戸から出ししてきた2卓の上にお節が並べられ、床の間を背にした羽織袴姿の耕造を中央に左側が遠藤夫妻、右側が成瀬夫妻で、30余りの座布団が並んだ。

 上座に座った耕造の発声で新年の挨拶があり、屠蘇とそは若年者順には拘らず回し飲みしてお節に舌鼓を打った。

 やがて雑煮を待つだけになり、末席で控えていた玻瑠香が「お雑煮の前に」と声をかけて立ち上がった。背が高く一際目を引く彼女だけに、談笑でざわざわしていた席が静かになり何事かと彼女に注目した。

 「皆様の前にあるお節料理は義姉が中心となって作りました。例年ですと加辺家のお節だそうですが、今年は義姉の希望で成瀬家のものを主体にしています。もし、お口に合わないようでしたら、それは義姉の責任ではなく、それを横から見て味利きをした私ですので、ご理解のほどお願いします。後はお義姉さんどうぞ」

 急に振られた亜紀は「えっ、私」とどぎまぎしてしまった。

 「何を言えばいいの?」

 「お雑煮のこと説明して」

 「ああ、そのこと。えーっと、今年はお雑煮も成瀬家の関西風にしています。ですから、お餅は丸餅で白味噌仕立てです。初めての方もおられるでしょうが、関西のお雑煮も味わっていただければと存じます。それと関西ではお餅を焼かないそうですけれど、餅がとろけてしまってはいけないので焼餅にしています。お雑煮はお代わりして下さい。明日は遠藤家、3日目は加辺家のお雑煮を予定しています」

 おーっと拍手が起こった。

 「それは楽しみじゃ。ここにこうして新たに成瀬さんのご家族をお迎えすることができて親戚が増えることは何より慶ばしい。その上、違った家庭の雑煮が居ながらにしていただけるという。こんな贅沢が出来るのも、亜紀さんと真一が結婚してこちらに住んでくれたお陰じゃ。加辺を代表して礼を言う、ありがとう。それと、本来ならば亜紀さんが嫁として成瀬さんのお宅で正月を迎えるのが筋なのじゃが、快く招待を受けて下すった成瀬さんにも改めてお礼申し上げたい」

 耕造が頭を下げると、右隣に座る正巳が恐縮の態でいえいえと片手を上げた。

 「遠藤のご家族にはこれまで以上によろしく頼みます。それから亜紀さんには早いとこ元気な赤ちゃんを産んでくれ」

 そうだそうだと笑い合う中で、陽菜子に脇腹をつつかれた亜紀だけが赤くなって俯いた。

 「これだけは亜紀さんだけではいかんから、真一にも頑張ってもらうことにして、それでは成瀬さんとこのお雑煮をいただこうか。玻瑠香頼むよ」

 「はい、ただいま」

 玻瑠香に続いて亜紀、杏子、陽菜子も立ち上がった。

 とろけないうちにと言われ、前に置かれた順に餅を頬張った。

 「味噌仕立てのお雑煮も中々美味しい物ですな」

 「初めて口にしたが、これはいける。今度は家でもやってみよう」

 「亜紀ちゃん、普通の白味噌でいいの?」

 「玻瑠香さん、出汁は何でとったの?」

 酒呑みのいつ終えるとも知れない賑やかな朝食の途中、玻瑠香と陽菜子は後片付けもそこそこに出て行った。

 どこへ行ったんだとの真一の問いに亜紀はちょっと用があるのよと詳細を語らなかった。

 午後になって、亜紀と真一が初詣と仲人への新年の挨拶のための着替えに離れに戻ると、娘の着付けを手伝うために美智子がやって来た。

 訪問着に着替えた妻を見た真一は上から下まで眺めまわした。

 「いやー綺麗だ。惚れ直した。披露宴のときは白無垢でもよかったな。惜しいことをした」

 親を前にして臆面もないのろけに美智子は大声で笑った。

 「お婿さんの和服姿も凛々しいわよ」

 美智子の評価に、いやーそれほどでもと謙遜しつつ頭を掻きながら真一は相好を崩した。

 彼らが離れを出ようとしたとき、お義姉さん用意ができた?と呼びかけながら髪をアップにした玻瑠香が入って来た。彼女は振袖だった。

 「何だ、お前も和服か」

 「そうよ、お正月だもの。予約していた美容院に陽菜ちゃんと行ってきたのよ」

 ああ、それでと朝早く出かけたことに納得した。

 「わぁ、お義姉さん綺麗。お兄ちゃん、何その顔。でれでれしていやらしい、鼻の下が伸びきっているわよ」

 「馬鹿野郎」と照れ隠しをしながら、少しは気になるのか左手を鼻にやった。美智子は口を手の甲で押さえながらおほほと笑った。

 「あなたもとても綺麗よ。美人はいいわね、何を着ても引き立つから」

 「へへへ、ありがとうございます。お母さんに手伝ってもらっちゃった」

 ぺろっと舌を出して彼らの前で両袖を持ってくるりと一回転して見せた。

 正月用の髪飾りをつけアップにした髪のせいで彼女の長身がより高く見える。

 「お前、それで初詣に行くのか?参拝者で混雑して晴着が汚れるかもしれんぞ」

 「大丈夫よ。露払いのお兄ちゃんの後について行くから」

 「玻瑠香さんも一緒にお出かけするの?」

 「はい。初詣の後、佐藤教授のところへ一緒にお年賀に。この春から講義を受けるから、最大限のコネと機会を利用して胡麻を摺っておかないと。まさかこんな美人を忘れるわけはないと思うけど」

 思っていても中々口に出しては言えないことを真顔で言うから、美智子は笑いながらちゃっかりして抜け目がないわねと変な風に感心した。

 「小母様、杏子さんも陽菜ちゃんも和装美人4人が揃ってお詣りに行くのよ」

 「あら、そうなの」

 それは綺麗でしょうねと付け加えた。

 「お前、それを口実に着物を見せびらかしに来くんだろ?」

 「そうじゃないわよ。純然たる事前運動よ。帰りは加藤さんの実家へも年始の挨拶に行くけどね。だから帰りにそこに寄って、お願い」

 両手を合わせて兄に媚を売りながら、「はい、お年玉」と手を出したから、真一はその掌を叩いた。

 「馬鹿野郎、大学生にもなってお年玉はないだろう」

 「あらそう。それならいいわよ。お義姉さんからいただくから」

 この悪気のないずうずうしさが亜紀には真似ができない。

 「ちゃんと用意しているわよ。ちょっと待ってね」

 彼女なら言いかねないと用意しておいたポチ袋を水屋箪笥の引き出しから取り出して彼女に手渡した。

 「少ないかもしれないけれど」

 「ありがとう、お義姉さん。買いたいものがあったから助かるわ。小母様もお年玉ありがとうございました」

 「どういたしまして。主人が渡すと言っていたのだけれど、綺麗な人を見るとあの人も誰かさんと同じで鼻の下を伸ばすから、そうはさせませんでしたのよ」

 真一をちらりと見ると、彼は苦笑していた。

 美知子は普段そんなものの言い方はしないのだが、玻瑠香と一緒だとそんな冗談も口から出てしまうから自分でも不思議な気がした。

 「お義母さんからもいただいたのか。服ばかり買ってないで、少しは貯金しろ」

 「はいはい」

 玻瑠香は兄の苦言を軽くいなしておいて、びっくりすることを言った。

 「和服姿のお披露目にお爺さんのところへ行ったら、大口の献金をいただいたから、加藤さんとの結婚資金にするわ」

 「何っ!お前、加藤と結婚するのか?」「玻瑠香さん本当なの!?」

 二人同時に訊いた。美智子も意外な発言に目を丸くした。

 「冗談よ、冗談。ほんとに冗談が通じないんだから」

 兄と義姉の驚きように慌てて手を振って否定した。

 「本当だな?お前駄目だぞ、出来ちゃった何とかってのは。お袋が卒倒する」

 卒倒するとは大袈裟なと美智子は思ったが、彼女の母親ならそうなりかねないと、これまでの庸子を見ていてそう思い直した。

 「何よそれ。変なこと言わないでよ。それを言うなら今はおめでた婚て言うのよ。私は身持ちが固いから、簡単に安売りしたりしないわ。でも好きな人が出来たら学生結婚するかも」

 「困った奴だな」

 彼女の性格からして、何を仕出かすかわからないだけに、真一も苦笑するしかなかった。

 美智子は兄妹のやり取りを聞いていて、この子ならお母様も大変ねと娘を持つ身として同情しながらも、笑いっぱなしだった。

 亜紀が身に着けた訪問着は庸子から贈られたもので、稲子からも留袖をもらっている。それを聞いた玻瑠香が羨ましがった。

 「玻瑠香さんも結婚したら、お姑さんから贈られるわよ」

 「それもそうね。でも着物は多くなくていいから、お姑さんは和服にして、遠藤と加辺の小母様にはお洋服にして貰うわ」

 美智子は声を出して笑った。

 「ほほほ、玻瑠香さんて、本当に可愛くて憎めないわ」

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