第十章 玻瑠香
(一)
玻瑠香が生まれたのは真一が中学校へ進学してほどなくのことだった。
真一の幼い頃は友達が兄弟で遊んでいるのを見て羨ましく、弟か妹が欲しいと母に願ったこともあった。だが、性に目覚める年頃にもなってから弟か妹ができると知らされても、嬉しさより気恥ずかしさの気持ちが先立った。
その頃は公務員の給与も世間並みになっていたが、家のローン返済が重くのしかかって経済面のゆとりなど縁遠く、学校行事などでの急な出費があると、給料日前などは指定された日までに支払えないことさえあった。そのため、母は産後の床を払うとすぐにパートの仕事に復帰しなければならなかった。
そのような家の経済状態を見て育った彼は、母の留守中妹の面倒をみるようにとの父の指示を甘受した。
彼は学資と小遣い銭稼ぎのために、新聞配達のアルバイトを小学校の高学年から高校を卒業するまで続けた。今でも早起きが苦にならないのはその時の経験があるからだ。しかし、妹ができてからは夕刊の配達は辞めざるを得なくなった。しかも彼が自由を得るのは親が在宅している時だけとなった。中学生と言えば、まだ同級生と連みたい盛りだったが、妹ができてからは、それが許される環境ではなくなり、合気道の道場通いも夜間に変えざるを得なかった。
そんな彼の救いは塾通いを必要としない明晰な頭脳を授かったことだが、自由を奪われた反動もあって生まれたばかりの妹が少しも可愛いとは思えなかった。まして、子守を託された当初はミルクを与えてもあやしてもオムツを替えても泣き止まない理由がわからず、戸惑うことばかりで憎らしい存在でしかなかった。そんな乳飲み子だったが、外へ出すと不思議に泣き止んだ。しかしそれは庭までのことで敷地から外に出ることはなかった。年の離れた妹と一緒にいるところを同級生に見られるのを避けたかったからだ。
妹の存在をひた隠しにしたところで近所の目がある以上、秘匿を保つことは不可能で、彼だけの秘密は1月もしないうちに同級生にも知られるところとなった。彼が噂されることに殊更敏感になったのはそれが遠因とも言えた。
犬も人間も変わらない。彼にとっては邪魔でお荷物だけの存在でしかなかった妹も世話をしているうちに愛情が芽生え可愛く思えるようになった。妹も日常的に面倒を見てくれる兄に懐くのは自然の流れだった。幼い頃の彼女にとって父や母より兄の方が身近な存在と言ってもよかった。親の目では子供でも彼女から見れば兄は立派な大人だった。物心がつき成長するにつけ、見聞きするのはお伽話に出てくるような賢くて強い兄の姿と兄の話だった。いわば夢見る乙女の王子様と言ってもよい存在だった。このことが、あたかも最初に見たものを親と慕う
女の成長は早い。ついこの間まで子供だと思っていたものが、帰省のたびに心身共に大きくなって、今は身長も父親ばかりか同級の女子の誰よりも高くなり生意気も言うようになった。容姿も兄の身贔屓を差し引いても綺麗な娘になったと認めた。美しい花には虫が寄ってくる。親でなくとも兄としてそれが心配だ。
玻瑠香はおよそ人見知りと言うものを知らずに育った。それは年の離れた兄の存在と無縁ではなかった。
真一は妹の存在を知られてからは、妹を伴い友人らと会うようになった。それは彼女一人を家に置いて外出するわけにはいかなかったからなのだが、彼女の交友関係は同性より兄の男友達の方が多く、物怖じしない活発な女子になるの必然とも言えた。大学進学に伴い、身近にいて諌める兄がいなくなると、彼女の大胆で突拍子もないことすることに拍車がかかった。保守的な母の心配は尽きなかった。高校生になると他校の男子生徒から付け文や電話がかかるようになったこともそれに追い撃ちをかけた。
性格にやや難があるが、彼女の長所は何かに目標を立てるとそれに向かって努力を惜しまぬことだと彼は認めている。
彼女が中学生になると同時に剣道部に入部し、高校では並々ならぬ稽古でインターハイに出場するまでに上達した。しかも、己の美貌を鼻にかけ同性のみならず男子にも嫌われるタイプの女が多い中で、彼女は例外で人望もそれなりにあったらしく、高校2年後半の時には兄に倣い、同校初となる女子生徒会長に立候補し当選を果たした。それもこれも敬愛する兄と無縁ではなく、ある目的のためのものでもあった。
そんな努力家で一直線なところも彼は妹を愛おしく思う。 だから、妹には何の苦労もなく幸せになって欲しいと心から願う。そのためにはどのようなことも厭わないと思っている。だが、それはあくまでも妹としてのことで女として見たことはない。それは玻瑠香も同じだと思っていた。
その彼女の微妙な変化を感じ取ったのは伯父のところで営われた祖母の3回忌の法要に帰省したときだった。
真一を紀伊田辺駅で出迎えたのはいつもの通り玻瑠香だった。暫く会わない間に随分大人びて綺麗になったと一目見て思った。恋でもしているのかと思ったが、母の話では付き合っているような男はいないと聞いている。もとより母がそれを許すはずがないことを彼は知っている。
和歌山は土地柄か男女交際にそれ程煩くなく、高校生でも堂々と手を繋いで帰宅の途へつく生徒も少なくない。母の監視が厳しいとは言え、彼女がその気になればボーイフレンドの一人くらい作るのは容易だろう。母の言通りならば、恐らく男の方が妹の高身長と美貌に気後れしまうのだろう。
その彼女が二重瞼の大きな目で兄を見たかと思うと小さな声で「お帰り」と言って目を逸らしたのでおやっと思った。その態度は日頃の玻瑠香らしくなかった。それを真一は
「どうした。跳ねっ返りのお前にしてはしおらしいじゃないか。お転婆がいつの間にか女らしく成長したか、それとも男でもできたか」
そんな冗談に無反応だから、おやと思い一捻りして軽口を言った。
「じゃなかったら、今日はあれの日か?」
「そうじゃないわよ。子供扱いしないで」
兄の冗談に玻瑠香はプイと横を向いて先に歩き始めたから、おやと一層訝りながら、何か気に入らないことでも言ったかなと首を傾げた。
路線バスの中で両親のことや学校のことを尋ねても兄の顔を見ようとせず、言葉少なに応答するだけだった。ますます妙だなと思ったが、もともと感情の起伏が激しい奴だからと気にも留めなかった。
家に帰ってからも妹が何となくよそよそしくしているように思えた。食事中、色んな話題を出して両親の笑いを誘ったのだが、玻瑠香だけは言葉少なで真一と目が合うとすっと目を逸らした。兄を嫌っているとの気配は感じられないのだが、いつもとは明らかに様子が違った。伯父の家での法要のときも同様だった。常ならぬ彼女のしおらしい態度に親戚連中も、あのお転婆もやっと年相応に女らしくなったかと笑うだけで彼女の内面の変化を感じ取ったものはいなかった。
両親も日頃の娘に似合わぬ大人しい態度に不審を抱いたが、彼女の気分の変化はよくあることで、いつものことだと気にかけなかった。その中で真一だけが妹の変容が気になった。法事から戻ると彼女の部屋に入り単刀直入に訊いた。
「学校で何かあったのか?」
「何もないわよ」
素っ気なく答えて下を向いた。相変わらず、顔を合わせようとしない。このような態度を取ることはかってなかっただけにますます奇異に映った。
「いや、それならいいんだ。もし、心配事があって親父やお袋に相談したくなかったら、俺にだけは言えよ」
分別らしく言って入試の準備状況を訊いた。
入学志望先は彼女が中学生だった時から知っている。しかもその一校だけに絞っていることも。
それを話題にして何かきっかけを掴もうとしたが、それでも反応しないので入試時の心得だけを妹に教えた。
「いつか言ったようにデッサンの勉強は今からでもしておけよ。建築学科はデッサン力も求められるからな」
「わかったわ」
しおらしく言って、初めて兄の顔を見て切り返した。
「私のことよりお兄ちゃんこそ何かあったんじゃないの?」
「いや、何もないぞ。何故だ?」
真一は虚をつかれ、 務めてさり気なく答えたつもりだが、内心の動揺を悟られはしまいかと気になった。
「だって、帰ってきてからずっと何か考え事をしているようだったじゃない」
「ああ、研究論文のことを考えていたんだ」
咄嗟にそのように答えたが、彼は帰郷後も結論のでない亜紀と彼女の亡夫のことばかり考えていた。
幾度か自分の出生を父に確かめようとしたのだが、今更の思いが強くその都度思い留まった。そんな態度が目ざとい玻瑠香には奇異に映ったのだろう。
真一とて妹の気持ちを知らないではなかった。しかし、それは兄への憧憬あるいはブラザーコンプレックスのようなものだと見做していた。そうではないにしてもそれは倫理上許されることでない。成瀬家の実子ではないと確信してからも妹を恋愛の対象として意識したことはなかった。そうなるには兄妹の関係が長過ぎ年齢差もあり過ぎた。玻瑠香が何を思おうと兄妹である以上そうなることは論外だ。だが、それは彼の出生の秘密が保たれていることが前提だ。ところが、亜紀の口から玻瑠香が自分と血縁関係にないことを知っていると告げられてからはそうも言っていられなくなった。
亜紀との結婚が決まり、彼の中で彼女との生活に気がかりなことは何もないが、唯一玻瑠香の気持ちだけが心配だった。 真一自身そうならないとの自信はあるが、中学生になっても一緒に風呂に入ろうとするあの妹だ。その妹が亜紀との婚約を知った時、どのような行動に出るのか予想もつかず、このまま同居を続けてもいいものか真剣に悩んだ。
お袋に訳を話して学生寮にでも入れようか、それともいっそのことマンションを引き払って多数の目がある母屋に一緒に住むか。そうしてもいいが、亜紀との仲が心配だ。彼女が大丈夫だと強調したところで、血縁関係のない妹の容姿に不安を抱く人の心理まで蓋はできない。
先々のことまで考える習慣を身につけているだけに、色んな心配事と空想が頭の中を空回りして、これはと思えるいい解決法が見出せなかった。思い余って亜紀に相談すると、あなたさえしっかりしていれば、今のままで変える必要はないとこともなげだった。その自信はどこから来るのか窺い知れないが、自分さえしっかりしていればよいと彼女の言葉に従うことにした。
玻瑠香が北海道から帰って来たのは後期が始まる10日前だった。剣道部の合宿を終えてからだから彼女の北海道滞在は長くはなかった。
その時真一は外出中で玻瑠香は自室に籠って荷物の整理と部屋の掃除に余念がなく、戻った真一が部屋に入ろうとしても、片付けるまでは駄目と入室を拒否した。彼女がリビングのカウチに落ち着いたのはそれから1時間後だった。
玻瑠香は兄に北海道土産の生チョコレートを渡して一頻り土産話をした後、たまには遊びに来いとの叔父の言葉を伝えた。
「学生時代に一度遊びに行ったきりだから、随分行っていないな。みなさん元気だったか」
そう言いながら、肝心なことを告げるタイミングを推し量っていた。
「みんな元気だったわ。あ、そうそう、幸子さんは近々ご成婚の運びみたい。相手を紹介されたけど、幸子さんとお似合いの実直そうな人だったわ。来年の春に結婚式を挙げるので、披露宴に出席して欲しいって。お兄ちゃんも行く?」
「そうだな、都合が付けばそうしよう。まあ、めでたいことはいいことだ。めでたいと言えば、玻瑠香・・・」
少し言葉を切った後、思い切って告げた。
「黙っていて悪かったが、亜紀さんと結婚することになった。向こうのご家族ともお会いして了承をいただいて親父とお袋にも亜紀さんを引き合わせた。挙式は10月28日にすることにした」
口を開けたまま兄を見詰める玻瑠香の顔はみるみる赤くなった思うと、今度は蒼白になった。下唇を噛み瞳を大きく見開いて兄を睨みつけた。
「私のいない間に事を進めたのね」
恐ろししいほど落ち着いた低い声音だった。
「いや、そんなつもりはなかったが、結果的にそうなった。済まない、謝る。玻瑠香には祝福して欲しい」
「祝福?どうして祝福なんかしなきゃいけないのよ。祝福なんかするもんですか。したいんだったら結婚でも何でも勝手にしたら。お兄ちゃんの結婚なんて絶対認めないし、義姉とは絶対呼ばないから」
半ば絶叫に近い形で言い捨てると、ぱっと立ち上がって強い力で兄を追い出し部屋の鍵を掛けて閉じ籠った。真一がドアを叩き呼びかけても返事はなかった。
玻瑠香にとって真一は誇らしい兄であるとともに敬愛する兄であり想い人でもあった。それが、ある日を境に結婚相手の対象となった。その兄がいつの間にか自分ではなく亜紀の相手になっていた。自分の知らぬ間のことだけに得心のいくことではなかった。
玻瑠香は布団の中に頭まで完全に潜り込むと枕を口に当てて声を殺して泣いた。思いっきり泣き喚きたいのにプライドがそれを許さなかった。
自分の想いを告げる機会は幾らでもあった。それが後手に回った悔しさ。今まで兄を一番理解し一番近しいところにいると思っていたのに、いつの間にか自分以外の女を愛していた事への腹だたしさ。亜紀の存在を知りながら進展はないだろうと勝手に思い込んだ自分の阿呆さ加減。本当に馬鹿だった。身近にいたはずの兄の存在が急に遠ざかったような絶望感などがないまぜになって彼女を
兄より自分に腹立たしく両手で布団を叩き足をばたばたさせたが、そんなことで気が治まるはずもなかった。
なぜあのとき自分の想いを兄に告白しなかったのか。そうしたなら事態は変わっていたかもしれない。取り返しのつかない後悔と自分の馬鹿さ加減に腹を立てた。そして、兄との楽しかった想い出や憎らしい彼女の顔などが次々と思い浮かんで、その晩は涙も涸れ果てて一睡もできなかった。
その内に兄が憎らしくなった。兄を困らせてやろう、心配させてやろうとの思いが膨らんで止まらなかった。
夜明け前、何も考えず足を忍ばせマンションを飛び出した。外に出たものの何かの考えがあったわけではないので足の向くまま薄暗い中を歩いた。急いで出たから化粧もしていなかった。とにかく兄と顔を合わせるのも声を聞くのも嫌だった。しばらく兄から離れて気を落ち着かせたかった。そしてどうするかを考えたかった。幸い季節柄暑くもなく寒くもなかった。
今から亜紀のところへ行って
行くあてもなく街灯の少ない道路を大学に向かってふらふらと歩いた。気がついた時には若里公園のベンチに腰を下ろしていた。未明のことで回りには誰もいない。小鳥の鳴き声が時折するくらいだ。そんな暗い中で頭を下に向けたままじっとしていた。恐いとの感覚は抜け落ちていた。
婚約してしまった以上、今更ああだこうだと言っても手遅れなのは玻瑠香にだってわかる。だが、これまで一途に兄だけを追ってきて、一度も挫折を味わったことのない玻瑠香にはどのように矛を収めていいのか、その方法がわからなかった。彼女の思考は停止し、ただ暗がりの中で座っているだけだった
どれほどそこにいただろう。辺りが白み始めると、犬を連れて散歩をする人やジョギングをする人が現れるようになった。玻瑠香はそれをどこか別世界にでもいるような気持ちで見ていた。やがて、そこから立ち上がり、考えもなしに歩いて大学の構内に入った。
何度も兄を訪ねて見慣れているはずのキャンパスが今の彼女には何だか無色の無意味で希薄なものに映った。
それほど広くない構内をあてもなく歩いていると、遠くの方から兄の呼ぶ声がした。玻瑠香は我に返り慌てて建物の陰に隠れた。
恥も外聞もなく大声で自分の名を呼び、兄が心配して捜しに来てくれたことは嬉しかったが、それで腹の虫が治まるわけもなく、腹いせにもっともっと兄を困らせてやりたいと思った。それにどんな顔をして兄と向き合えばいいのかもわからなかった。結婚を許してやろうなどの考えは毛頭なかった。
隠れたまま、親しい同級生に連絡を取ろうとスマートフォンの電源を入れると、表示しきれない数の着信があった。全て兄からだった。そのとき着信音が鳴ったが、兄の名の表示を見て瞬時に電源を切った。
兄の声がしなくなって30分程して同級生の4人に連絡を取った。全員女性だ。
こんな時に限って連絡がつかなかったり、相手の都合が悪かったり、実家に帰ったりしていて会うことも叶わなかった。一人とは短時間話せたが、電話でこの荒れた気持ちを話せるはずもなく気が晴れるわけもなかった。誰か一人くらい会いに来なさいよとスマホに毒づいたところでどうしようもなかった。
この際男でもと言いたいところだが、そんな男は思い付かなかった。言い寄る男子学生は何人もいたが、兄以外の男は彼女の眼中になくメールアドレスさえ交換を拒んでいたから電話番号も知らなかった。
今彼女は孤独だった。誰もいない砂漠の真ん中に一人立たされているような気持ちになった。だからこそ誰かに自分の存在を知らしめ気持ちを伝えたかった、知ってもらいたかった。思いっきり誰かに愚痴を言ってそれを黙って受け止めて欲しかった。よしよしと慰めてもらいたかった。この気持ちをどうしたらいいか、どのようなアドバイスでもいいから聞きたかった。ところが、こんな時に限って誰もいない。つくづく兄一辺倒の自分だったことを思い知らされた。
そんな中で一人だけ心当たりの者が居た。散々迷った挙句、呼び出した。この時間、出勤途中かもしれなかったが、それを斟酌するだけの心の余裕はなかった。
「私・・・」
「お早う。朝早くから玻瑠香さんの電話なんて嬉しいな。どうしたのこんなに早くから?」
人の気持ちも知らずに能天気なことを言うから、無性に腹が立って高飛車に告げた。
「1時間以内に若里公園に来て」
それだけを告げてプチッと通話を切り再び電源を落とした。1時間で来れるかどうかわからないけど、私の知ったことではないわと何も知らない加藤に八つ当たりした。
耳を澄ましたが、兄の呼ぶ声はしない。ようやら学内から出たようだ。それでも兄に見つからないように用心して再び若里公園に向かった。
公衆トイレ近くの藤棚の下のベンチに座り、両眼を手で覆って放心状態のままでいると、兄と過ごした時のことが思い浮かんだ。自分の想いが兄に届かなかった悔しさがこみ上げて来てまた泣いた。何人か彼女を不審そうに見て通り過ぎたが、声を掛ける者はいなかった。
1時間余りじっと座っていると、ぜえぜえと息を切らせた誰かが彼女の前で立ち止まった。兄かと思って恐るおそる見上げると、加藤が両手を膝頭におき肩で息をしていた。余程急いでやってきたのか、顔が赤く上気し作業服の首回りが汗で濡れていた。
加藤は息を整えると玻瑠香の姿を見て笑えない冗談を言った。
「家出でもしたのか」
彼の顔を見て玻瑠香は立ち上がると恥も外聞もなく抱きついてわんわん泣いた。抱きつくというよりも背の高い玻瑠香が彼に覆い被さったとの表現が適切な格好だ。
ビックリしたのは加藤だった。あの気の強い彼女に突然抱きつかれ、自分の肩に顔を預けて恥も外聞もなく泣き出したのだ。嬉しいとの気持ちなど吹き飛び、茫然と立ったまま少し後ろに反り返って玻瑠香に抱きつかれていた。
「玻瑠香さん、どうした。何があった?」
耳元で優しく訊かれて玻瑠香はますます大声で泣いた。その頃には犬の散歩やジョギングの人も結構いて、玻瑠香に抱きつかれ泣かれる状況に加藤は困惑した。
その彼も抱きしめ返す余裕が出ると、何も言わずに腕を玻瑠香の背中に回して赤ちゃんをあやすようにぽんぽんと叩いた。それが功を奏したのか、やがて泣き止み肩を引きつかせているのを見て、落ち着いたと判断して優しく離しハンカチで涙を拭った後それを彼女の手に握らせた。
「ひでえ顔だなあ。美人が台無しじゃないか。どうした。何があった?」
化粧もせずに飛び出したので酷い状態にはなっていないのが救いだった。
玻瑠香は加藤のハンカチで鼻をかむと、真一と亜紀が婚約したことを話した。
「えっ、本当に。それはよかった。おめでとう」
それを聞いた玻瑠香は思わずかっとなって彼の左頬を思いっきり叩いた。バシッと音がした。
「あ痛っ!」
無防備な彼はまともに玻瑠香の平手を受けて目を見開いたまま頬に手を当てた。
「いてえなあ。何するんだよ!先生と亜紀さんを祝福しただけじゃないか。めでたい話なのになぜ叩くんだよ」
今度は右頬から乾いた音がした。
加藤は両手で頬を抑えて1、2歩下がると、不思議なものでも見るように玻瑠香を見た。彼の両頬は真っ赤になって少し腫れているように見えた。赤くなった頬とビックリ顔の加藤に玻瑠香は可笑しくなって笑ってしまった。
「何だよ。訳も言わずに一方的に呼び出しておいて、ようやく見つけたと思ったら、急に泣き出して俺の頬っぺたを引っ叩いて今度は笑うのか。いくら人のいい俺でも我慢の限度はあるぞ。用がなければ帰る」
彼が憤然として踵を返すと、玻瑠香が慌てて呼び止めた。
「ごめんなさい。今精神状態が正常じゃないの。ちょっと待って、落ち着いたら話すから」
殊勝な謝罪に加藤も身体を戻した。
「わかった。それだったら座ろう」
彼は玻瑠香の肩を抱いて座らせた。彼女は殊勝にベンチに腰を下ろしても彼のハンカチを握りしめたまま黙ったままだった。彼は辛抱強く待った。それができるのが彼の美点の一つだ。
5分ほどして玻瑠香もようやく話せるだけの気持ちに余裕を持てるまでになった。
冷静になってみれば、出勤途上の彼を呼び出すのも非常識だし、松本からここまで1時間で来いと言うのも理不尽だった。玻瑠香がスマホの電源を切っていたせいもあるが、間に合わせようと必死になって車を走らせ、公園内を探し回ったことは疑いなく、彼に悪いことをしたと反省した。
加藤になら玻瑠香も甘えることができた。といって彼を特段好きと言う訳ではなかった。ただ今回の件で自分を曝け出すことができる数少ない存在であることを認めざるを得ない結果となった。
「急に呼び出してごめんなさい。恥ずかしいけど、今私を慰めてくれる人は加藤さんしかいなかったの。だから後先も考えずに呼び出したりして本当にごめんなさい」
加藤さんしかいないと言われ、しかも日頃の彼女にないしおらしい態度で詫びられて加藤は機嫌を直した。
「玻瑠香さんにそのように言われて光栄だけど、どうした?いつもの玻瑠香さんらしくもないな」
「今日一日私に付き合ってくれる?」
問いに答えずそう言った。彼が自分の頼みを断れないことは承知していた。
「わかった」
何だかわからないが、玻瑠香の様子が尋常ではない。このまま彼女を放置することはできないと思い即答した。
「ちょっと待って、一応会社の了解を取るから」
彼は少し離れて携帯電話で遣り取りしていたが、振り返るとに破顔し指で丸を作って玻瑠香に示した。
「OK。休みをもらったから、どこへでも付き合うよ。それでこれからどうする?」
「ここにはいたくないの。どこでもいいから案内して」
兄とは顔を合わせたくなくてそう答えた。
「わかった。どこがいいかな」
彼は少し思案して、上高地へ行ったことがないのならそこへ行こうと誘った。
玻瑠香が公園のトイレで用を足して洗顔した後、駐車場まで無言で歩いた。加藤はいずれ玻瑠香が訳を話すだろうと思っていたし、彼女もまた時間が必要だった。
途中コンビニに立ち寄り、玻瑠香の意向を確かめることなく飲食品を大量に買い込んだ。化粧品を持っていないことを知ると、それも言われるまま購入した。
長野自動車道に入るまでに玻瑠香は車内で化粧を終えた。
「これから行く上高地は一般車の乗り入れができないから、手前の
「どうして車で行けないの?」
「環境保護のために乗り入れを規制しているんだ。本当はスイスのツェルマットみたいに電気自動車だけ乗り入れ可にすればいいんだけど、バス会社やタクシー会社のことも考えるとそう簡単にはいかないんだろう。
後部座席にコンビニで買ったおにぎりがあるから食べてもいいよ。涙で水分が抜けていると思うからお茶も沢山飲んだ方がいい」
玻瑠香を元気づけようとする加藤らしい軽い冗談だったが、言われて朝から何も食べていないことに気がついた。すると空腹感が襲ってきた。
「ありがとう。お腹ぺこぺこだから頂くわ。加藤さんも何か食べる?」
「いや、朝飯は食べたからいらない。そこにあるやつ好きなだけ食べていいよ。足りなかったら松本で買うから」
彼の言葉に甘えて、おにぎりを2個平らげバナナも3本食べた。
腹が満たされると不思議なもので、次第に気分が落ち着き、ドライブをしている気になって来た。
「上高地って、話には聞いたことがあるけど、どんなところなの?」
ペットボトルのお茶を飲みながら尋ねた。
「そうだな、簡単に言えば標高1500mにある山岳リゾート地かな。空気が綺麗で梓川を背景にした穂高連峰が素晴らしいんだ。君も一目で好きになると思う。ここより大分気温が低いから、その格好じゃ少し肌寒いかもしれないな。それは松本でなんとかしよう」
加藤はちらりと助手席に座る玻瑠香の服装を見て言った。素顔でも十分綺麗だったが、自分の横で化粧を施した彼女につい頬が緩んでしまった。
一方的に呼びつけられたときには腹も立った。だが、惚れた弱みよりも彼女の様子が尋常じゃないと感じて、スピード違反を承知で息急き切って飛んで来たのだ。その甲斐あって、こうして彼女と二人きりで1日デートできるのだから会社を休んでも十分お釣りが出る気分だった。
「野麦街道に入ってしばらく走ると梓川沿いに名湯秘湯と言われる坂巻温泉があるんだ。
加藤の冗談に玻瑠香も微笑み返すだけの余裕が出て来た。
「そこから少し行くと、飛騨高山に抜ける三叉路があって、そこを左に折れると中の湯温泉がある。僕らは真っ直ぐ行って釜トンネルを抜けると大正池が見える。それがとっても綺麗なんだ。涸沢辺りは紅葉し始めていて季節的にはいいんじゃないかな。今日は天気もいいからきっと満足すると思う。手前の大正池ホテルで降りて池の景色と森林浴を楽しみながら河童橋まで歩道を歩いてもいいけど、どうする?」
「時間があるならそうしたい」
「よし、わかった。バスターミナルまで一時間もあれば行けるからそうしよう。そうだな、今から行くと上高地帝国ホテルはお昼過ぎになるな。そこで昼飯にしよう。少しスピードを上げるか」
加藤はアクセルを踏み込んだ。
松本インターで降りて市内にある登山用品店に入った。
玻瑠香は加藤に勧められるまま、上は帽子にサングラス、下はトレッキングシューズまで買い揃え、試着室から出た時にはそれなりの山ガールになった。
加藤はポーズをとった玻瑠香の姿を見て満足そうに両腕で大きな丸を描いた。彼女も久し振りの大きな買い物で少し気が晴れた。
「うん、それだったら、少々寒くても大丈夫だな。モデルみたいによく似合っているよ」
にやにや笑って、同意を求めるように店員をかえり見た。
支払いは加藤がカードで済ませた。
車に乗り込む前に玻瑠香は礼を述べた。
「ありがとう。今手持ちがないから、帰ってからお支払いするわ」
「いいよ。これは僕からのプレゼント」
それには玻瑠香も潔しとはしなかった。
「プレゼントをもらうのは好きだけど、謂れのないものをいただく訳にはいかないわ。第一兄貴に叱られる。レシートをちょうだい」
玻瑠香は手を出した。自分の口から兄と言えるまでに彼女の気持ちが落ち着いていた。
「先生だったら言い出しかねないな。それじゃ、後日僕が先生からもらうよ。それだったらいいだろう?折角のデートだから今日くらいはいい気分でいさせてくれよ」
「これってデートなの?」
悪戯っぽく応じると、えーっ!と加藤は大声を出した。
「困るなあ。玻瑠香さんの方から強引に誘っておいてそれはないだろ。デートじゃないなら、休み損で走り損の頬っぺた張られ損じゃないか。だったら玻瑠香さんをここに置いて帰ろうかな」
ハンドルをわざとらしく切って路肩に寄せようとした。
「危ないじゃないの!わかった。今日は私の初デートにして上げるわ」
思わず笑って同意した。
「初デート?それは光栄です。どうもありがとうございます」
大袈裟にお辞儀して彼も笑った。
加藤が自分を励まそうとしていることが玻瑠香にも伝わった。泣いた理由が気になるだろうに、それを訊かないで陽気に振る舞う彼の心遣いが素直に嬉しかった。
「あいつは軽そうに見えるかもしれないが、本当は優しくて男らしい奴なんだ」と兄が言っていたけど、その一端を垣間見たような気がした。それに彼と二人きりでいても不安に感じることは少しもなかった。運転も慎重で、これまで彼を見誤っていたかもしれないと、運転中の横顔をそっと窺った。お世辞にも男前とは言えないが、柔道をしていただけあって肩幅が広く精悍な顔をしている。陽菜子が彼に好意を抱く理由もわかる気がした。彼の本質を見抜いている点では彼女の方が大人なのかもと少し反省した。
「そんなに僕を見詰めてくれてありがとう。ようやく僕のいいところがわかって惚れ直してくれた?」
玻瑠香が見詰める気配を察して、加藤は前を向いたまま冗談を言った。
「馬鹿、そんなことあるわけないでしょ」
間髪を入れず加藤の肩を思いっきりぶった。
「いてえなあ、危ないじゃないか。本気になって叩くことはないだろう。冗談だよ。本当に冗談の通じない女だなあ」
大袈裟に肩をさすって抗議した。
それから加藤が好きだと言う音楽を聴きながら、彼が話す上高地の
タクシーで釜トンネルを通ったときは気のせいか冷んやりとした。窓を少し開け心地よい風に髪をなびかせ景色を見ていると枯木が半分水に沈んだ大正池が見えて来た。玻瑠香の目はその景色に釘付けとなった。
彼らは大正池ホテル前で下車し、自然研究路の石段を降りて大正池の
玻瑠香は思わず口を押さえて息を飲んだ。車窓から見た景色も素晴らしかったが、池の
「すごーい。本当に池の中に木が立っているのね」
「そうなんだ。大正4年に焼岳が噴火したときに梓川が堰き止められて沢山の木が水没したけど、カラマツの木だけが立ち枯れしてああして残ったんだ。あと数年もすれば全部倒れてしまうけどね。もう少し後だったら紅葉でもっと綺麗なんだが、残念。でも河童橋から見る涸沢カールの紅葉は大丈夫だと思う」
加藤の解説に深く頷いた。
「日本にもこんなに綺麗なところがあるのね。知らなかった」
感に堪えないように前を向いたままそれだけをやっと言った。もし、信州に来なければ、このような場所があることも知らなかったかも知れない。ありがとうと素直に感謝の言葉が出た。
「良かった、喜んでくれて。上高地は長野県人の誇りだよ」
玻瑠香は夢中になって向きを変え角度を変えてスマートフォンで何枚も写真に収めた。加藤も自分のスマホで池と山を背景にした彼女を撮ることを忘れなかった。
玻瑠香は池の畔から目に前の絶景を撮っては歩き、歩いては撮るを繰り返した。たったそれだけのことだが、気持ちが随分と晴れやかになった。加藤は黙って玻瑠香に付き従って歩き、観光客に頼んで彼女とのツーショットを撮ってもらった。それくらいの恩恵はあってもいいだろうと加藤は独り言ちた。
少し林間を歩いて再び池岸に出ると、数匹の猿が毛繕いや何かを食べていた。人間に慣れているのか、少しも気にする風ではない。身近に野生の猿を見たことがなかっただけに、それだけでも玻瑠香は感激した。昼間にいるのは珍しいからラッキーだと加藤が言った。
彼らと目を合わせないようにしてそこから離れ、田代橋まで林間を散策して帝国ホテルまで来た時には1時を過ぎていた。
二人は直ぐに中には入らず、上高地帝国ホテルと刻まれた看板のところへ行った。加藤はその前に玻瑠香を立たせ、彼女のポーズを変えさせながら位置も変えて何枚も自分のスマートフォンで写真に収めた。白樺越しに見える赤い屋根の山小屋風のホテルが珍しいのか、玻瑠香はここでも、素敵っ!と感嘆の声を上げてホテルを写真に収めた。エントランスでは通りかかった従業員に、二人並んでのVサイン姿を撮ってもらって加藤は至極満足だった。
中に入ってすぐに玻瑠香の目を惹いたのは、ウンジにある屋根まで吹き抜けて設けられた巨大なマントルピースだった。そこでもそれを背景に玻瑠香と写真に収まると、レストランの案内板を見ながら食べたいものを訊いた。
「このホテルにはレストランが3つあるから好きなものが食べられるよ。何がいい?」
「何が食べられるの?」
「ケーキとかサンドイッチのような軽食はそこのグリンデルワルトで、そうでなかったら洋食と和食のレストランがあるけど」
「加藤さんが食べたいものでいいわ」
「いやいや、今日は記念すべき初デートで玻瑠香さんの日だから、君が決めろよ」
「それじゃ、洋食にしようかしら」
しばらく迷って決めた。
「オーケー。じゃ、アルペンローゼへ行こう」
何度も来ているのか玻瑠香をエスコートするかのように一番奥まったレストランへ案内した。
昼食時間には少し遅いが、それでも一般客や登山服の客が多かった。ウエィターに窓際の席へ案内されると、背が高く人目を引く容姿に驚いたように先客の視線が玻瑠香に集まった。彼女はそれに慣れているのか平然としていたが、同伴者の加藤は優越感を覚えて一人頬が緩んだ。席に落ち着くと玻瑠香は物珍しげに室内を見渡した。レストランの内部は梁が剥き出しになった山小屋風で、天井は低く白を基調にした壁になっている。天井の梁からランプを思わせるオレンジ色の照明が下がっていた。
二人は人気メニューのオムライスとハッシュドビーフをオーダーした。
「広くはないけど、落ち着いたいい雰囲気のレストランね」
ぐるりと顔を巡らして感想を述べた。玻瑠香を盗み見していた登山姿の二人の若者と目が合って、にっこりと微笑み返すと彼らは慌てて横を向いた。それがまた加藤の優越感をくすぐった。
「玻瑠香さんに気に入ってもらえて嬉しいよ」
いかつい顔が一層ほころんだ。
「ここへはよく来るの?」
「子供の頃はシーズンオフだけは一般車でも入れることもあったから時々利用していた。兄貴達の家族はたまに利用しているみたいだが、僕はここしばらく来ていないな。一人で来るのもなんだか侘びしいだろ」
さり気なく独り身を強調したのだが、玻瑠香には通じていなかった。
「それもそうね。それでどこの山に登ったの?」
「ここから行ける山はほとんど。穂高連峰に槍ヶ岳、常念、燕、大天井、焼岳、その他いろいろ。先生もこの辺の山は全部走破しているんじゃないかな。君も一緒に登ればいいのに」
「兄貴のことはいいわ」
真一の話題をきっぱりと拒否した。
山の話題を問わず語りでしていると、ウェイターが料理を運んで来たのを捕まえて、料理を前に玻瑠香と一緒の写真に納まった。加藤も玻瑠香をモデルに何枚か撮った。撮影後のモニター画面を玻瑠香に見せて至極満足な様子に彼女も咎め立てはしなかった。それくらいはサービスしてもいいと思ったのだろう。
「失敗したな。君はモデルみたいで格好いいけど、僕は作業服だから玻瑠香さんの引き立て役になってるよ。ついでに家に寄って着替えてくれば良かった。失敗した」
彼はモニターの画面を見てしきりに残念がった。
それから加藤の住まいと家族のこと、卒業してからことを話題に料理に舌鼓を打った。彼は一言も玻瑠香の事情を訊くことはなかった。そんな気遣いが玻瑠香には嬉しかった。
食事を堪能した二人は帝国ホテルを出ると白樺林の中の木製の歩道を歩いてバスターミナルの方へ向かった。河童橋へ向かう歩道の脇を流れる梓川の清流は水量が豊富で清冽だった。川伝いにぶらぶら歩きで河童橋に近づくにつれ観光客が多くなった。すれ違う団体の会話を聞くともなく聞くと中国と韓国の観光客が多かった。9月も下旬だが、まだシーズンなのかすれ違う人々にザックを担いだ登山客が多い。西洋人と思しき人達にもすれ違った。
河童橋では山を背景にカメラを構えている家族などで橋の上が一杯だった。加藤らも欄干に手を置いて赤や黄色に色づく涸沢カールをみた。その奥に穂高連峰が聳え立つ。剥き出しの岩峰が荒々しい。こんな山は和歌山にはない。目に映る全てが玻瑠香に感動を与えた。
加藤は山を指し示しながら玻瑠香に説明した。
「あれは西穂岳、その次が間ケ岳、真ん中で奥まっているのが主峰の奥穂岳、そしてそこから弓状になだらかなところが吊り尾根で右端に見えるのが前穂高。空気が澄んでいるからよく見える。今日はラッキーだよ」
「あの砂利道みたいのは?」
「あれは
「槍ヶ岳は?」
「やはりそう来るか。残念だけど、あの山の向こうだから、ここからは見えない。4時間ほど歩いて槍沢ロッジを過ぎないと見えないな。もし登りたいんだったら、来年の夏にでも案内するけど」
玻瑠香はそれには答えず、向きを変え欄干に背をもたせかけると赤っぽい焼岳が見えた。
「これからどうするの?」
「そうだな、折角ここまで来たんだから、ここで記念に一緒の写真を誰かに撮ってもらってから、明神池まで左岸を歩いて、そこから橋を渡ってここに戻ってこよう。日暮れ前には戻って来れるから丁度いいんじゃないか。まあ、少々遅くなっても先生の了解を得ているから・・・」
玻瑠香の顔がさっと強張ったのを見て、加藤はあっと口を押さえたが遅かった。彼女は加藤の前に立つと凄みのある声で訊いた。
「加藤さん、兄貴といつ連絡を取ったの?」
嘘は許さないと彼女の顔に書いてあった。睨みつける彼女の顔は美人だけに凄みが倍加していた。
「いや、あのそれは・・・そのう・・・」
彼女の剣幕にしどろもどろになった。
「そうならそうとはっきり言いなさいよ。言い訳や嘘は許さないわよ」
玻瑠香は両足を踏ん張り唇をきっと結んで加藤を睨みつけた。年下とは言え、女が怒るとどれほど怖いか、彼は初めて思い知った。彼女の強い調子の詰問に観光客は二人を見やりながら擦れ違ったが、それを気遣う余裕さえ彼にはなかった。
柔道で鍛えた体を小さく丸めて、ぼそぼそと小声で告白した。
「実は玻瑠香さんの様子がおかしかったから、玻瑠香さんがトイレに行っている間に先生に連絡をつけた。ごめん」
加藤はすっかりひしゃげて頭を下げた。
「それじゃ、私がマンションを飛び出した理由も知っているのね?」
泣いた理由もと言いかけたが、彼女のプライドが辛うじてそれを留まらせた。
「ごめん。先生から聞いて、妹が傷ついているだろうからよろしく頼むと言われた」
玻瑠香は両腕を組んで睨みつけたままだ。加藤も負けずに見詰め返していたが、彼には恐ろしい時間だった。
玻瑠香は何も言わず、ぱっと身を翻すと足早に右岸の下流に向かった。加藤が何かを叫んでいたが、無視してずんずん歩いた。彼の裏切りに怒りが収まらなかった。
加藤は走り寄ると玻瑠香の肩を掴んで振り向かせた。
「待てよ、どこへ行くんだ?」
「放っといて!どこだっていいでしょ!帰るのよ」
テレビなんかでよく観るシーンを自ら演じようとは思いもしなかったが、彼の手を振り払って叫んだ。怒りのあまり、自分の横を通るハイカーが物珍しげに振り返るのにも気が回らなかった。
「ここからだとバスターミナルへは遠回りだ。それでもいいが、先生に頼まれた以上、はいそうですかと一人で帰らせる訳にはいかない。気持ちはわかるが、どうしようもないじゃないか。二人が好き合って一緒になるんだから、認めてやれよ」
玻瑠香がなぜ先生の結婚を認めないのかわからないが、ここで引き下がっては先生にも彼女のためにもならないと思った。常であれば、彼も惚れた弱みでこんな言い方はしなかった。
「余計なお世話よ。あんたに何がわかるのよ。小さい頃から兄貴のことが好きで、大きくなったら結婚すると決めていたわ。小学生の時、兄妹同士は結婚出来ないと知ってどれだけ悔しく哀しかったか。それがー血縁関係にないと知ってどんなに嬉しかったか、加藤さんにはわからないわよっ!それをあの女が泥棒猫のように横から引っさらって・・・。わかったようなことを言わないでよ!」
玻瑠香は大声で叫んで睨みつけた。
河童橋を後にする観光客が、遊歩道の端で言い争いをしている二人に係わらないように避けて通った。通り過ぎた後、笑いだす若いカップルもいた。
加藤は玻瑠香が家を飛び出した理由を恩師から聞いて知った。彼女の剣幕にも彼は怯まなかった。
「確かに俺は知らん。だからといって二人の仲を引き裂いて先生と一緒になれるのか?それで君が幸せで先生も幸せになれると自信を持って言えるのか?そうでないことは君が一番知っているんじゃないのか。泣きたかったら、朝みたいに泣けよ。俺が慰めてやる。悔しかったら気の済むまで俺を叩け。みんな受け止めてやる。だけど先生だけは恨むな。先生が君を大切に思っていることは君が一番知っているじゃないか。
結婚したからって先生が君から離れる訳じゃない。結婚したって先生の妹想いは変わらない。君だってそうだろう?
間近で先生を見て来たから知っているが、安易にくっついたり離れたりしない人だよ。そんな人が結婚を決めたんだ、認めてやれよ。
先生は今どんな気持ちでいると思う?僕と一緒と知って芯からほっとしていたよ。妹をよろしく頼むって何度も言っていた。あのプライドの高い人が僕にだよ。そんな先生を悲しませるな」
それだけ言うと、玻瑠香をいきなり力一杯抱きしめた。それから逃れようともがいたが、柔道で鍛えた彼の力は強く、彼女でも抗うことはできなかった。すると急に悲しくなって、彼に縋ってまたわんわん泣いた。今度も中々泣き止まなかった。そんな彼女を加藤は横抱きにして河原へと導き岩の上に座らせた。
玻瑠香は5分ばかり両手を顔に当てて嗚咽を漏らしていたが、ふと気がつくと梓川の流れの音が耳に入るようになった。加藤は玻瑠香の肩を横抱きにしたままじっとしていた。
「どうしたのよ。私が泣いたら慰めてくれるんじゃなかったの?」
泣き止んだ玻瑠香は加藤を見ずにぽつんと言った。
「うん、君があまりに可哀想で可愛いからずっとこのままでいたかった」
「殺し文句は、いいから早く慰めて」
本当の姿を曝け出してしまった今、玻瑠香も彼には素のままで甘えることができた。
「わかった。その前に俺を呼び出すまでのことを話してくれないか。そうすりゃ、気も晴れるだろうし、俺もじっくりと慰めることもできる」
玻瑠香がじっと加藤の目を見てから梓川の方に顔をやった。手前は大小の岩がる岸辺でその先に透明な水がかなりの勢いで流れている。対岸の遊歩道を見れば多勢の観光客が引っ切りなしに往き来している。背後を通る観光客の大部分は会話からして外国人のようだ。
「話してもいいけど、頭の中で整理していないから前後するわよ」
「いいさ、君の話が聞けるなんて光栄だ」
彼女の機嫌を損ねないように注意深く答えた。
「じゃ、話し終わるまで声をかけないでよ」
加藤に釘を刺し、川の流れに目をやって玻瑠香は静かに語り始めた。
(二)
「私と兄貴は13歳離れているの。この年齢差は女にとっては微妙なのよ。兄貴から見れば私はいつまでも経っても子供だし、私から見ればいつも手の届かない大人に思えてしまう。それは仕方ないでしょう?せめてその半分、いえ5歳だけでも年が近かったらどれほど良かっただろうっていつも恨めしく思って大きくなったわ。
年の差もあって、喧嘩らしいことを一度もしたことがないの。ふっ掛けるのはいつも子供の私の方で、大人の兄貴がいつも勝ちを私に譲ってしまうから
私が生まれた当時はまだ家計が苦しくて、母もパートに出ていたの。だから、産褥期間を終えるとすぐに夜のパートに就いたわ。家のローンもあったし保育所に預けるお金もなかったから私の子守りは兄貴の役目だったの。あの兄貴がおむつを替えている姿を想像するだけでも可笑しいでしょう?
下校すると私の世話をして、父も役所から戻ると、母が下拵えしておいてくれたものを温めたり、ご飯を炊いたりしていたの。兄貴も高校を卒業するまでずっと新聞配達のバイトをして家計を助けていたわ。そんな風にして親子4人は肩を寄せ合って生きてきたのよ。
そんな貧しい生活が多少なりとも解消したのは、私が幼稚園の頃で公務員の給料が改善されて住宅ローンの返済も見通しが立つようになってからだったわ。だから、私自身は本当の貧しい生活って知らないで育ったの。
私が我儘を言うと兄貴はいつもその時のことを話して、親父とお袋は自分達を育てるためにずっと苦労してきたから心配をかけずに大人になったら孝行しろといつも言っていたわ。
私にかかり切りだった兄貴は遊ぶときでも合気道の稽古のときでも私が一緒だった。合気道をやっているのを知らなかったの?ああ見えても5段よ。型の稽古は狭い庭で私をおぶってしていたの。私が泣き叫んでいても稽古を始めるとすぐに泣き止んだと今も笑い種にされているわ。
兄貴の高校と大学時代はバイト代から、社会人になってからはお給料の中から私の誕生日とクリスマスのプレゼントは欠かしたことがなかったわ。小学校の遠足や中学高校の修学旅行の時はお小遣いを送ってくれたし、ヨーロッパ中を貧乏旅行していたときでさえ、私のためにその国の珍しいものを土産に持ち帰ってくれたわ。
兄貴が就職をしてたまに帰省した時は、テーブルマナーに慣れさせるためだと理由をつけて、私を白浜にあるホテルのレストランへ連れて行ってくれてご馳走してれたのよ。
このようにいつも私を気遣って可愛がったくれた。その代わり、バレンタインデーには義理チョコでさえ誰にも渡したことのない私だけど、兄貴にだけはハートマークをつけた手紙と一緒にチョコレートをずっと送り続けたわ。中学生になってからは手作りのものにしてね。
中学生から剣道を始めたけど、いつも生傷が絶えなくて酷いときには近くの医院で手当てをしてもらっていたの。そのたびに先生は私の幼いときのことを話題に出して笑うのよ。
それは私が2歳だったときのことよ。兄貴が私をお風呂に入れていたときに、何かの拍子に熱湯が私のふくらはぎにかかったらしいの。その瞬間悲鳴を上げて大声で泣き叫んだらしいわ。生憎そのとき親父は不在でお袋はパートからまだ帰っていなかったから、兄貴は火脹れしたところを水で冷やして裸の私をバスタオルで包み、腕に抱いて1km先の診療所まで走りに走ったって。擦れ違う人には泣き叫ぶ幼児を抱いて走る兄貴の姿は異様に映ったらしいけど、私を助けたい一心でそんなことを斟酌する余裕はなかったって。ところが、医院に着くと診察時間は終了していたの。それでも兄貴はドアホンを鳴らしガラス戸を叩き続けて強引に私を診てもらったの。火傷の範囲は大きかったけど、跡は残らないだろうと説明されて、安堵の余り兄貴は思わず涙を流してその医者に何度も感謝したらしいわ。鎮痛剤を打たれて私が眠っている間も兄貴はじっと見守ってくれたのよ。今はそんな火傷の名残すらないけど。
大きくなって兄貴の手から離れるようになっても、私はコバンザメのように付いて回ったわ。
物心がついてから朝目覚めて私がまずしたことは、兄貴の存在を確認することだったわ。新聞配達で早起きだったけど、休刊日なんかで寝ていたときは布団の上から飛びかかって起こすのが私の役割だった。
そんな風に私の傍にはいつも兄貴がいたわ。故郷を離れてからも私の心の中にいつも兄貴がいて、兄貴の腕の中と背中を見て育って思春期になってからも兄貴だけを追って大きくなったわ。だから、小さい頃の私の写真は兄貴と一緒のものが圧倒的に多いの。
私をおぶっているもの、あやしているもの、お菓子を頬張った私の隣にいるもの、幼稚園でお遊戯をした後に一緒に写っているもの、信大の正門前で母と3人で記念撮影したもの、兄貴が帰省したとき一緒に散歩をしたり高野山へお参りに行ったり熊野古道を歩いたときのもの、吉野の桜を観に行ったときのもの、ディズニーランドでミッキーマウスと一緒など、それはみんな私の宝物よ。
宝物は人に見せびらかすものではないけど、女友達が家に来るとそれを見せて兄貴の自慢話ばかりするから嫌がられたわ。でも、少しも気にならなかった。
兄貴が大学に入学したのは私が小学校に入る年だったけど、入学日が異なっていたから母と一緒に兄貴の入学式に出席したわ。
それまで一度も新幹線に乗ったことがなかったから、大好きな兄貴と一緒で遠足にでも行くみたいに前日から興奮して眠れなかった。その兄貴が自分から離れていなくなることが子供心に悲しくて、電車の中ではずっと手を握って離さなかった。
入学式の日に大学の正門まで来ると、見たこともない派手な服装をした若い男女が大勢出入りしているのが幼心に物珍しかったわ。それに、和歌山では桜が咲き誇っている時期なのに桜の蕾はまだ固いのが私には不思議で別の世界に来たようだった。
式が終った後のキャンパス巡りでは、クラブ勧誘の学生のデモンストレーションが面白くて、どの場所でも私に話しかけ相手をしてくれるのが嬉しくて楽しかった。私の目から見れば夢のような大人の世界だった。そのとき大きくなったらここに入ると心の中で決めたの。信じられる?これから小学校に入ろうとする子供がよ。
剣道部に入部したと兄貴の話で知ったときは、私も剣道を習うって決めたわ。そうすれば手合わせしてくれるだろうって。
兄貴と松本駅で別れるときは、ここに残るとむずがって泣き叫んで母を困らせたのをよく覚えているわ。母は私を宥めるのに往生して、兄貴が私に5月の連休にお土産を持って帰省することを約束してくれたから、私の癇癪もそれでようやく治ったの。
兄貴も背が高いけど、私も生まれた時から大きかった。そのせいか難産で帝王切開して私が生まれたのよ。
幼稚園から高校を卒業するまでクラスの中では一番背が高くて、2年生の時には175cmあったわ。私より大きいのはバスケ部に何人かいたけど、みんな自分の背が高いのをひどく嫌がっていたわ。だって、どの男子よりも高いから、みんな敬遠して声も掛けてくれないのよ。モテたい盛りの女の子だもの無理ないわ。だけど、私は少しも苦にならなかった。私よりも高い兄貴がいるもの。怖いもの知らずの男子もいたけど、全部無視したわ。
たまに兄貴が帰省するとよく稽古を付けてくれたけど、面防具から見る兄貴はとてつもなく大きくて、竹刀に触るのがやっとだった。それでも今は10本に1本は取れるようになったわ。
私にとって兄貴は憧れであり誇りであり自慢だった。背は高いし、カッコよくてしかも頭脳明晰なうえに剣道も合気道も強い、しかも私にはいつだって優しいから兄貴以外の男性は眼中になかった。
お風呂にも兄貴とよく一緒に入ったわ。兄貴が帰省したときも、初めから一緒に入ろうと誘っても断られるのがわかっていたから、入浴中の無防備なところを襲ったのよ。私が中学生になって母から止めなさいと叱られるまで続いたわ。変な顔して見ないでよ。好きな人の前では羞恥心なんてなかったのよ。だから私は兄貴の体の隅々まで知っているし、私も兄貴の前だったら少しも恥ずかしくないわ。
私の目から見ても非の打ちどころのない兄貴を若い女が放っておくはずもないから、彼女を作るんじゃないかと気が気ではなかった。でも、どう言う訳か兄貴はどんなに女が交際を申し込んで来ても、そんな素振りは一切見せなかった。それはもう徹底していて親戚筋や世話好きの人から見合い話を持って来ても、写真さえ一瞥もしないでいつも断っていたわ。それが私には嬉しかった。成瀬真一は女嫌いだとの評判が立ったけど、それは私の歓迎するところだったし、私はそれを隣近所や親戚にも吹聴さえしたわ。悪い虫がつかないようにね。
さっきも言ったけど、小さい時から男勝りで背が高かったから、敬遠されて私に言い寄る男子は多くなかった。中には交際を申し込む物好きな男子もいたけど、無視するかけんもほろろに断ったわ。だって、生まれた時から兄貴はもう大人だったのよ。だからどの男もみんな青臭い子供としか映らなかった。それであいつは男嫌いだとかレズじゃないかなんて噂を立てられたこともあったけど、私には兄貴がいたから平気だった。
小学4年生のときだったか授業参観の日、たまたま兄貴が帰省していて、そのときは出席を強要したわ。余程の事がない限り私の頼みを断ったことがないから、そのときも快く引き受けてくれた。
兄貴が他の父兄と一緒に教室に入って来たとき、誰よりも背が高くてハンサムだったから私には誇らしかった。
みんなが着飾っているのに、兄貴だけは着古したTシャツにジーパン姿のくだけた格好だったけど、少しも恥ずかしいなんて思わなかった。授業の間、若い女の先生が兄貴ばかりを見ているような気がして、一辺に先生が嫌いになったわ。それが生まれて初めて抱いた嫉妬だったの。
兄貴が会社を辞めて母校の講師になると父から聞いたのは中学3年生になるときよ。それを聞いた時、小さい頃から温めていた進路はしっかりと定まったわ。だから、信大建築科の推薦入試を受けるためにその目標に向かって邁進したわ。と言っても兄貴と違って頭がよくなかったから、さっき言ったようにそれはもう涙ぐましい努力をしたのよ。
高校1年のとき、2学期の中頃に三者面談があったの。具体的にどうこうするものじゃなかったけど、無理矢理兄貴を呼びつけて出席させたの。そして、その場ではっきりと信州大学それも工学部建築学科って宣言したから兄貴も担任の先生ももうびっくり。兄貴は私がそんなことを考えているなんて夢にも思っていなかったし、担任の先生もこの段階ではほとんどの生徒が具体的な進路を決めていないから、私の回答に驚いたのよ。兄貴がその大学の講師だと知ると先生もなるほどと納得したけど。帰宅して兄貴から父と母に私の意志を伝えられたら、母は不安そうな表情をしたの。それが何故だか印象に残ったけど、そのときは何の不審も抱かなかった。
私は担任の先生と兄貴のアドバイスに従って、推薦入学を目標にして学業はもちろんのこと部活にも励んだわ。しかも、3年生の時には意図的に生徒会長にまでなったわ。それもこれも一重に推薦が得られるよう内申書をよくするためで、県内で豪雨災害や台風災害があった所へはボランティアにも行ったわ。担任の先生から国立一期も狙えると勧められたけど、私の決心が揺らぐことはなかった。知らないでしょうけど、3年生のときに信大のオープンキャンパスにも参加したのよ。それは大学を知りたいと言うより兄に会うための口実だったけど。
そんな風に小さい時から大きくなったらお嫁さんになるのだと決めていた。それが、何年生のときだったか、保健体育の授業で、近親者同士の婚姻は法律的に認められないのだと教えられた時は本当にショックだった。だから授業が終わった後、どうして兄妹同士は駄目なんだと訊いたわ。先生は優性遺伝がどうの劣性遺伝がどうのこうのと言っていたけど、そんなこと子供にわかるはずがないじゃない。だからしつこく訊いたわ。そうしたら障害を持つ子供が産まれる可能性が高くなるんだと教えてくれた。
帰宅したその日は部屋に籠って泣き叫び続けたわ。嫌なことがあっても兄貴のことを想うと何もかもが薔薇色になった私の人生がそれで一変に灰色になってしまったのよ。その気持ちわかるでしょ。
兄貴の存在がその日から遠くに感じられて、気持ちが落ち着くまで仮病を使って登校を拒否したわ。それでも兄貴に対する私の気持ちに揺らぎはなかった。
利己愛とは何か、私は知らなかったけど、その時の私はまさにそれだったのよ。それが昂じて兄貴の留守中に受けた同窓会の案内や女からの電話はすべて取り次がなかった。罪悪感なんて微塵もなかったわよ。
そんな私に素晴らしい幸運が訪れたは高校3年の夏休みに入る少し前のことだった。後になってこれは神様が私の気持ちを察して願いを叶えてくれたのだと信じたわ。
その日は生理がひどくて早退けして、家の玄関に入ったとき、真新しい革靴があったから来客がいることを知ったわ。奥の方で親父の声が聞こえて来たけど、小声だったから誰と何の話をしているのかわからなかった。誰が来ているんだろうとそこへ行きかけた時、わはははと豪快な笑い声がしたのよ。そんな高笑いをするのは伯父以外にはいないから声の主がすぐにわかった。盗み聞きするつもりはなかったけど、元々地声が大きいから伯父の声は否応なく私の耳に届いたわ。そして、その伯父が真一と言ったので私ははっとしてその場で思わず立ち止まったわ。
その時の兄貴の話題と言ったら縁談しか考えられなかったから、どきどきしながら聴き耳を立てたわ。そうしたらやっぱり縁談話だった。だけどそこで伯父が気になる発言をしたのよ。
『なあ正巳』、父の名前は正巳と言うの。『真一もいい年だ。いつまでも独り身で置いておくわけにもいかんだろう。庸子さんだって早く孫の顔が見たいだろう。どうしてあのまま放っておくんだ。まさか今頃になってあの事を気にしているんじゃないんだろうな?』
何?何?お兄ちゃんのあの事って何?今頃って何?私の頭の上にクエッションマークがいくつも付いてダンボの耳になったわ。親父はぼそぼそ言い訳してたけど、小声だったから聴きとることはできなかった。あの事とは何だろう?兄貴のことならどんな些細なことでも気になる私は必死に聴き耳を立てたわ。だけど、伯父の口からもうその話題がのぼることもなくて、知る糸口となるような話も聞くこともできなかった。でも、女の勘が聞き捨てにはできないと訴えたわ。
やがて伯父の立ちそうな気配がしたから、そっと足を忍ばせて2階の自分の部屋に閉じ籠ると、ベッドの上で膝を抱えて先程の伯父の発言を咀嚼しようとした。だけど、頭の中で伯父が漏らした言葉が私の中でぐるぐる駆け巡るばかりだった。兄貴の秘密らしいことで頭が一杯になったお陰で、生理痛のことなんかどこかへ吹き飛んでしまっていたわ。次の瞬間には事の次第を明らかにするには、老練な親から訊き出すより、根が単純な伯父に訊いた方がいいとの結論を導き出していたわ。
それから、何とかうまく訊き出す手立てがないかと、ああでもないこうでもないと考えあぐねたけど、回りくどい言い方は自分の性分に合わないから、当って砕けろで相手の懐に入って単刀直入に尋ねることにしたわ。もちろん納得のいかない説明なら、得心がいくまでとことん伯父を攻め立てるつもりだった。
土曜日に伯父のところへ電話を掛けて、午後から遊びに行きたいと伝えると、可愛い姪の申し出に何の疑いも抱かずに喜んで受け入れてくれた。どうして笑うのよ?
水産会社を経営しているせいか根っからの商売人で、穏やかな父とは異なって伯父は豪快で闊達な人なの。物静かな親父よりも気性がよく合うのか、兄貴が帰省した時などは二人で一緒に飲むことが多いわ。
伯父の家で姪達としばらく雑談をして、伯父がトイレに立ったのを追いかけて、二人だけで話をしたいと言ったら、私の相談事と思ったのかあっさりと頷いて近くの喫茶店を指定したの。
先に行って待ってると、『今年の残暑は厳しいな』なんて脳天気に扇子で扇ぎながら前の椅子にどすんと座った。肥満のせいで汗かきなのよ。アイスコーヒーを注文した後、若い娘を前にしておしぼりで顔から首筋までごしごし拭いたわ。そういうとこデリカシーがないのよ。
私がよほど気難しい顔をしていたのか、下らない冗談を言ったわ。
『どうしたそんな怖い顔して。学校で何かあったのか?美人が台無しだぞ。ははーん、誰かに振られたな。それは伯父さんに相談したってしようがないぞ。自分で解決しろ。それにしても何だな。玻瑠香を振るなんてよほど馬鹿な男だな』
そんな冗談に聞く耳を持たないで、下唇を噛んで黙って睨みつけていたから、伯父はますます不審に思ったみたいだった。
『おい玻瑠香、本当にどうした。電話をもらった時から様子がおかしかったが、何かあったのか?さっきのは冗談だから、睨んでいないで言って見ろ』
私が無言で睨めっこしているから、気味悪がって扇子をぱたぱた扇いでいたわ。私はコーヒーを一口飲んで、息を吐き出すと単刀直入に訊いたの。
『伯父さん、父との話であの事とは何なの?』
『ん?何のことだ。伯父さんは知らんぞ」
恍けているんじゃなくて本当に何の話かわからないようだったから、私はいらいらして詰問口調で訊いたわ。
『誤魔化そうとしたって駄目よ。3日前伯父さんが家で話しているのを、たまたま早退した私が聞いてしまったのよ。あの事って何?気にするなってどう言うこと?兄貴のことで、何かがあるんでしょう?』
これには伯父も鳩が豆鉄砲を喰らったように眼を白黒させて直ぐには答えなかったわ。うーんと唸って腕を組んで、逆にぎょろ目で私を睨みつけたけど、それがどのように答えようか迷っているように私には映ったから、誤魔化されるもんですか、早く白状しなさいよって睨めっこしたのよ。伯父は薄くなった頭に手をやって、どのように答えようか考えていたわ。でも、根が単純な伯父には私を納得させるような回答などすぐに捻り出せるわけがなかった。私は嵩にかかって伯父を攻め立てたわ。
『伯父さん、どうなのよ。答えられない訳でもあるの?』
赤い顔して腕を組んで、なお思案したままの伯父を見て、兄貴の、いえ私にとって重要な秘密があるに違いないとの思いを強くしたわ。やがて私を騙せないと思ったのか、伯父は腕組みを解いて言ったわ。
『お前、それを聞いてどうするつもりだ?』
怖い顔して詰問調で訊き返されたけど、それで怯むような私じゃはないわ。
『そんなこと聞かなきゃわからないわよ』
『うん、そうか。それもそうだな』
自分の馬鹿さ加減に自嘲して、そして嘘は許さないとの私の真剣な表情を見て、まやかしは通じないことを悟ったみたいだった。
『よし、わかった。本当は知らない方がいいんだが、お前も高校を卒業する大人だ。今更動揺する年頃でもなかろう。それを信じよう』
伯父は一呼吸置くようにアイスコーヒーを一口飲み、私は緊張してごくりと唾を飲み込んだわ。伯父はグラスを置くと重い口を開いた。
『お前の兄はな、養子なんだ』
言い渋った割にはさらりと言ったけど、私の方は思わず、ええっ!と大声を出しそうになった口を慌てて手で押さえたわ。
さすがに伯父もあたりを憚って小声で打ち明けてくれた。
『お前の両親は長いこと子宝に恵まれなかったんだ。だから、真一を養子にとったんだが、わしらにも秘密にしていてそのことを後で知った。しかし、真一がどこからもらわれて来たのか、それはわしも知らん。あれらも秘密にしたがっていたし、また知らない方が外に漏れない可能性も高いと思って訊きもしなかった。だからそれ以上のことは何も知らん。ただ、このことだけは言える。お前の両親は真一を実の子としてお前と分け隔てなく育てて来た。これからもそうだろう。それは立派なもんだ。口で言うのは簡単だが、中々できるもんじゃない。そしてお前も真一も兄妹として立派に成長した。兄が養子であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいじゃないか、なあ玻瑠香』
兄貴の秘密を知った瞬間周りの景色が消えて、しばらく口がきけなかった。兄貴が養子だなんてまさか、今の今まで想像もしなかったことだもの。ショックのあまり頭の中が真っ白になって何がなんだかわからなくなったわ。あまり似たところがないなとは思っていたけど、まさか血を分けた兄ではなかったなんて夢にも思わなかった。だから無意識に確かめずにはいられなかったわ。
『伯父さん、今のこと本当?』
『今更お前に嘘を言って何になる。本当だ』
目が泳いでいる私に伯父は不安を覚えらしくて、身を乗り出して私の腕を取って振ったわ。
『玻瑠香、大丈夫か?』
『大丈夫よ、伯父さん。本当のことを言ってくれてありがとう』
それだけやっと言って、虚ろな状態のまま立ち上がるとふらふらと喫茶店を出たわ。
後で伯父が打ち明けてくれたことだけど、やはり話すべきではなかったと、自分の口の軽さを呪って後悔したって。私の異常な様子を見て、これまで平穏だった私達の家族がどうかなるのではととても心配になったって。
私は帰りの電車の中でも、家に帰ってからも伯父との会話を何度も繰り返し思い返したわ。時間の経過とともに冷静さを取り戻してくると、次第に歓喜の気持ちが湧き起こってきて万歳って叫びたいほどだったわ。その時の高揚した気持ちは、とても言い表せるものではないわ。
伯父の話が事実で、いや事実だろう。
思い返せば思い当たることがあった。いつだったか、中学生のときに家族で撮った写真を見ていて兄貴と私があまり似ていないと思った。私の二重瞼と大きな目はお袋似だし鼻は親父に似ていて、親戚連中は冗談半分でお前はいいとこ取りして生まれたなんて言われたわ。兄貴はどっちにも似ていないから、お袋に『兄貴は誰にも似ていないけど、貰われっ子なの』とほんの軽い冗談のつもりで言ったら、『冗談でもそんなことを言うんじゃない。真一は私がお腹を痛めた子だ』って物凄い剣幕で叱られたわ。その時は本気じゃなかったしその剣幕にも不自然だとは思わなかった。
血縁関係のない兄妹なら法律上どのような手続きが必要か知らないけど、何の障害もなく結婚できると、馬鹿みたいだけど、しばらくしてそれに思い至ったのよ。兄貴の養子云々よりもそのことの方が私にとって重大事で一辺に目の前が灰色から薔薇色になったわ。
帰ってから嬉しさのあまり飛び上がって万歳を何度も叫んだから、何事かとお袋から叱られたけど、私の興奮状態は治らなかったわよ。よくぞ兄貴を養子にしてくれたと父と母に感謝し心の中で喝采もしたわ。ありがとうありがとうって握手でもしたいくらいに高揚した気持ちだったのよ。加藤さんだってその気持ちがわかるでしょう?
そんな浮かれた状態から醒めると、今度は兄貴はそのことを知っているのかしらとそのときになって気になり始めたの。兄貴の様子では承知しているようには思えなかっけど、本当に迂闊だったと反省したわ。こんな大事なことを何故確かめなかったのだと自分の馬鹿さ加減にも呆れたわ。だって、兄貴が知っているのと知らないのとでは、今後の対応が変わってくるもの。
今一度伯父に問い質さなくては思うと、居ても立ってもいられなくなって、伯父に電話をすることにしたわ。だけど、私と知って電話に出てくれるのかしらと心もとなかった。だけど、そんなことを悩んでいても仕方がない、とにかく行動に移して、埒がいかなかったら伯父のところへ押しかけようと決めたわ。
伯母が電話に出て、伯父と話がしたいと告げると、私の心配は杞憂に終わって、すぐに伯父に代わったわ。俺から掛け直すと言われて、1分もしないうちに伯父からかかって来て、お袋に取られる前に、急いで受話器を取ったわ。
『どうした、あのことか?それならここでは話せんぞ。第一あれ以上のことは俺も知らん』
あたりを憚るような抑えた声で煙幕を張ったけど、そうは問屋は卸さなかった。
『わかりました。だったら、明日の11時に同じ喫茶店で待っているから来て欲しいの。日曜日だから会社はお休みでしょ』
私の強引な呼び出しにも伯父も
それで、翌日起床すると、朝食もそこそこに済ませて友達のところへ行って来ると嘘をついて家を出たわ。
『それで何の用だ?日曜日ぐらいは俺だって孫の相手をせにゃならん』
伯父は席に着くなりせわしく用件を訊いて来たわ。
『昨日の話だけど、兄貴は養子だと知っているの?』
『やっぱりその話か。あれからお前に話したのを後悔して、昨日はよく寝れんかった』
『伯父さんが心配することはないわ。私はそれを知って本当に良かったと思っているのよ、安心して。それでどうなの?』
『知らんと思う。知っていれば態度に出るだろう。そうしたらお前にもわかるだろう。違うか?』
確かにそうだ。兄貴は私に嘘をついたことはないし、何かあればすぐに態度に出る。思い返しても、そんな様子は微塵もなかった。だからまだ知らないと確信したわ。
『そうね、嘘をつくのが下手だから、私の目は誤魔化せないわ。でも、近所の人達とか・・・』
『養子にして間もなく今の家に引っ越したから、まわりも実の子だと思っているだろう』
『伯父さん以外に知っている人は?』
『お前の親は元々付き合いが広くないし、うまく誤魔化してきたからな。わし以外は誰も知らんだろう。家内も子供達も北海道にいる
それきり伯父は腕を組んで黙ってしまったけど、嘘をついているようには思えなかった。
今まで実の兄だと信じていたものが、血縁関係にないとの事実を知らされると、あの兄貴がどこか遠い存在に思えて来たわ。だけど、そんな恐ろしい想念を急いで振り払ったわ。それより、今度兄貴に会ったとき自然に振る舞えるかしらとその方が心配だった。
いつまでも私が黙りこんでいるので心配になったのか伯父が声をかけてきたわ。
『おい、玻瑠香。大丈夫か?いくら真一が養子だったと言っても、お前らは兄妹だからな』
伯父も私が兄貴を慕っていることは知っていたから、何を心配しているのかすぐにわかったわ。
『大丈夫よ。そんなことわかってるわ。何か兄貴に秘密があるようだったからそれを知りたかったの。養子だなんて思いもよらなかったけど、それを知ったからと言ったって兄は兄だし、尊敬もしているし誇りにも思っているわ。血の繋がらない兄であってもこのことは変らないわ。そのことは伯父さんが一番知っているでしょ』
『それぁ、まあなあ。うちの孫が羨むほどに真一がお前のことをよく可愛がっているのは知っているし、お前も兄のことを慕っているしな』
伯父はコーヒーを啜り、私はジュースの中の氷を掻き回した。そして、俯いたまま私が長年秘めていたことを思い切って相談したのよ。それが一番訊きたかったことだったから。
『伯父さん、私と兄は血の繋がりはないのね?』
『一応そう言うことになるな』
何が言いたいとばかりに不安そうな目で私を凝視したわ。それは私が信州大学へ行くと意思表示したときの怯えたような母の目と同じだった。
『だったら、私と兄貴が結婚しようとすれば出来るのね?』
やはりそうかと、恐れていたことを聞かされたかのように私の顔をまじまじと見たわ。
『お前、そんなことを考えていたのか?』
『そうよ、私は生まれた時からずっと兄貴と一緒になることだけを思って来たの。養子だと知ったときはショックだったけど、今は神様に感謝したいくらいだわ。いいえ、本当に感謝したわよ』
『しかしなお前、年が離れすぎているぞ』
想い込んだ若い娘に何を言っても無駄だと知っているくせに、その時の伯父は分別くさいことを言って牽制するしかなかったのよ。
『陳腐だけど、愛はね、年の差なんて関係ないのよ。それより伯父さん、そうなるにはどうしたらいいの教えて。伯父さんとこに法律に詳しい人もいるでしょう?』
『それぁまあ、顧問の弁護士がいることにはいるが・・・。しかしお前、まだ高校生だぞ』
恐ろしいものでも見るような目で私を見たわ。
『そんなことはわかっているわ。卒業してからよ。今はね、男女共18歳になれば親の了解なしにできるのよ。それくらい伯父さんだって知っているでしょ?』
『それはまあ、法律上はそうだが・・・。しかし、肝心の真一はどうなんだ?いくらお前が望んだところで兄貴がその気にならんと始まらんぞ』
『それはこれからじっくりと考えるわよ』
『うーんこれはお前、養子のことより、よほど問題だぞ。やっぱり話さなきゃよかった』
伯父は本当に後悔したらしくて、腕を組んで黙り込んでしまったわ。すっかり肩を落して、見ていて気の毒になるくらい。でも目的のためには伯父を気遣う気持ちなんてさらさらなかったわ。
私の兄貴への思慕は身内の者なら誰もが知っていることなの。知らないのは灯台下暗しというか、当の兄貴くらいのものだったと思う。それが血縁的には他人同士だと私に知られて、一人厄介な問題を抱え込んでしまったと思ったのよ。だから、私に詰問されて白状したことを、自分の口から私の両親に話すことは憚られたの。そこが伯父の人がいいと言うか臆病なところよ。私にしても今後のことがあればこそ、伯父を味方につけるために自分の気持ちを正直に打ち明けたけど、倫理観が人一倍強くて世間体を気にするお袋にだけは知られる訳にはいかなかった。遺伝学上問題はないにしても、お袋が簡単に許すとは到底思えなかったもの。少なくても、兄貴のところへ行くまでは絶対にそのことを悟られるわけにはいかなかった。これからのことは長野へ行ってからじっくりと考えて慎重に実行するつもりだった。だから、兄貴とのことは私と伯父の秘密にして、今度のことは互いに洩らさないようにと指切りして別れたわ。
それからの私は、母が訝しむほどに生活態度を改めたわ。兄貴に相応しい女になるために、そう思ってもらえるために、異性交遊はもってのほか、勉学に勤しみながら女友達との関係も良好に保って剣道にも精一杯励んだ。お袋に言われて渋々していた家事も自分から進んでするようにしたわ。言いつけにも素直に従った。お袋は私のあまりの変化に喜ばしいと歓迎するよりも怪しみながら戸惑っていたわ。それもこれも兄貴のところへ行くためと、これからは妹ではなく女として認められたいがためだった。
進学以外に目的がはっきりしたことで、何をしても毎日が充実して楽しかったわ。学校から帰ると抽斗の奥にしまい込んだ写真を取り出して、写真の中の兄貴にキスをするのが私の日課だった。もちろん電話は自分の部屋から毎晩のようにしたわ。忙しいから電話するなと言われても無視したわよ。だって、決して私を突き放すようなことはしないと見切っているもの。スマホはまだ持っていなかったから、顔は見られなかったけど、それで満足だったのよ。男女の機微に疎い兄貴にはわからないだろうけど、私の中ではもはや兄妹ではなく恋人同士の感覚だったわ。
私の美への基準はファッション雑誌に出てくるようなモデルやテレビに出るようなタレントの服装や化粧ではなくて、私を兄貴がどう思うか見えるかが基準だったわ。どちらかといえば保守的で華美に流されるような男でないと知っていたから、それは涙ぐましい努力をしたわ。今でもアイラインや付け
それでも私の心の中は兄貴で満たされて幸せ一杯だった。だから他の男の入り込む余地などなかった。唯一寂しかったのは、たまにしか兄貴が帰って来ないことだったわ。
何度も信州へ行きたいと訴えたけど、お袋が認めてくれたのは三年生のときのオープンキャンパスの日だけだった。動機が不順だから母に対して後ろめたさのようなものがあったけど、正々堂々と胸を張って行ける絶好の機会だったのよ。
その日は前期試験が間近に迫っていて忙しいはずだったけど、大学を隈なく案内してくれたわ。もちろん兄貴の腕を取ったまま回ったから、学生の注目を一身に浴びて兄貴は当惑していたけど、私は少しも恥ずかしいなんて気持ちになんてならなかった。むしろ誇らしかった。変な虫が付かないように私がいるからねってね。
その晩は兄貴の官舎に泊まって、ほとんど私のお喋りだけに終始したわ。久し振りに一緒にお風呂に入ろうと誘ったけど、馬鹿野郎ってきっぱりと拒絶された。その代わり、入学したら新型のスマホを買ってくれると約束してくれたからそれで満足だったわ。
それで万全の体勢で面接試験に臨んだの。その時よね、初めて研究室で加藤さん達に紹介されたのは。あのときはみんなに歓迎されて嬉しかった。私もこんな仲間に加われるんだと思うと胸がわくわくしたわ。
その日の夜も私一人が興奮して、面接を心配する兄貴が呆れるほど積もる話をいつまでもしたわ。その時も兄貴が入浴中のところを襲ったけど、あっさりと追い出された。合気道5段、剣道3段を相手にさすがの私も攻め手がなかった。そんな顔しないで。私には普通のことよ。
そんなこんなでほとんど睡眠をとってなかったけど、面接官の反応で合格すると確信したわ。帰宅すると真っ先に合格間違いなしと報告して、入学した暁には今までの分まで遊びまくるからと宣言した。私の真意を知らないお袋は心配して兄貴を私の監視役に指名したの。それは私の作戦で内心ほくそ笑んだわ。
母から頼まれた兄貴の行動は早かった。加藤さんも知っての通り長野駅近くの新築マンションを借りたの。来年からそこで兄貴と一緒に過ごせると思うと自然に頬が緩んで、兄貴のハートを射抜くためにああしようこうしようと勝手な想像が大きく膨らむ一方だったわ。一緒に住めるならどんな難題でも受け入れるつもりでいたから、兄貴が定める決まりは一二もなく受け入れたわ。その見返りを約束してくれたから文句のつけようもなかったけど。だから、何度もモデルにならないかと誘われたことがあったけど、一切断ったのはそう言う訳なの。私自身関心もなかったけど。
マンションの下見と称して信州へ行ったのは冬休みに入った日だった。もちろん兄貴に会うためだったけど、浮かれてばかりいられない何か不安な予感がしたからなのよ。恋する乙女の鋭い勘と言ってもいいかしら。
その予兆は兄貴が9月に祖母の法事に帰省した時にあって、その時の様子が何故か気になったの。どこがどうとはっきり言えないけど、兄貴のことなら何でも知りたいと思う私の目から見ると、何かで悩んでいるのを感じたのよ。理由を訊いたところで答えてくれるはずもないことはわかりきっているから、黙って兄貴の様子を観察するしかなかった。
1週間ほどの滞在だったけど、何かしら煩悩を抱えていることだけは間違いないと確信したわ。でも、それが恋の悩みだったなんて迂闊にも気がつかなかった。兄貴に限ってそんなことはないと勝手に思い込んでいたのが盲点だったわ。
その漠然たる不安が何だったのかはっきりとわかったのは、加藤さん達がサプライズパーティと称してマンションへ押し掛けて来た時だったの。二人だけで楽しむ筈が、加藤さん達のお陰で台無しにされてしまったけど、皮肉なことに彼女の存在を知るきっかけになった。
そろってやって来た中川さん達には何にも感じなかったのに、遅れて来た彼女を一目見て危うく皿を落としそうになったわ。それはもう血の気が引いたと自覚するほどにショックを受けた。兄貴の好きになる要素全てを具現化したような女だと思ったもの。私以外にそんな女はいっこないと油断していたのがいけなかった。よりにもよってこれからという時に、これほどの強敵が目の前に現れるとは思いもしなかった。
長年兄貴だけを見て来た私にはその時、兄貴を悩ませている理由を悟ったわ。私にしてみれば予感が悪い方に的中したのよ。
それとなく彼女を観察して私の方が勝っていると判定したけど、それで兄貴の心を動かすことはできないくらいは私自身が一番よく知っていた。だから、私はパーティの間中二人から目を逸らすことができなかった。
兄貴は無関心を装っていたけど、態度は筒抜けだった。悔しいけど、私を見るときとは違っていると認めざるを得なかった。彼女の方はと見ると、彼女も兄に好意以上のものを抱いているのが歴然だったわ。
あのとき彼女のことをそれとなく訊いたわね。それで彼女のことを知ったけど、対抗心がめらめらと燃え上がったわ。あんな未亡人なんかに絶対負けられないと思った。でも、見掛けはひ弱そうに見えたけど、私より一枚も二枚もしたたかだったわ。
兄貴の部屋に一人でいたときに、さりげなく兄貴との関係を訊いたけど、うまくはぐらかされてしまった。一人で原村へ押し掛けたときも、いつの間にか気持ちをさらりと告げられ、私の頼みもさり気なく断られてしまった。でも、悲しいことに彼女に対抗する手立てが見つからなかった。だって、兄貴との仲を妨害しようにも長野と原村では離れ過ぎているもの。私に出来ること言えば、1日も早く長野に行って兄貴と彼女を監視すること、そして私自身が内も外も一層女を磨くことぐらいでしかなかった。
でも、いくら努力をしても兄貴は私を妹としか見てくれなかった。皮肉なことに血縁関係にないことが私の足枷になって身動きがとれない状態だったのよ。
何度愛していると口に出かかったかわからないわ。兄貴の気持ちが私にないまま告白したところで、しかも血の繋がりがないとわかれば、兄貴の性格からして用心して私を離そうとするのは明白だったもの。藪をつついて蛇を出すわけにいかないから、有効な手立てもなく袋小路に追い詰められたも同然だった。
血縁関係にないと知った私と兄貴、自分からは動かないと約束した彼女と兄貴、この奇妙な三角関係に何の進展も変化もないまま無為に時間が過ぎたわ。
兄貴が虫垂炎になったとき、彼女が血相を変えて病室にやって来たときのことを覚えているでしょ。恥も外聞もないと言った感じだった。それでも兄貴は彼女の想いに応えようとはしなかった。私には歓迎すべきことだったけど、それが何故なのか不思議だった。今でもわからないけど。
いくら男女の機微に疎い兄貴でも、彼女の気持ちに気付かないほど鈍感だとは思えなかった。それでも何もないと言うことは、それ以上の関係を続ける意志がないのだと自分に都合のいい方に判断してしまったのよ。だから、安心して部の合宿が終ると同時に北海道の叔父のところへ行ったわ。
ところが戻った早々、彼女と婚約したと告げられて、ショックのあまり部屋に閉じ籠って一睡もできなかったわ。
兄貴の顔を見るのも嫌だった。腹立たしさと悔しさのあまり兄貴を困らせようと飛び出したけど、行くあてもなかった。それで、あの公園でうずくまっていたという訳よ。わかった?」
捨て台詞のように言うと、彼女はそれきり黙った。想いを全て吐き出したせいか、随分気が楽になって、足元にあった小石を川の流れに放り込んだ。
加藤は最後まで口を挟むなと申し渡されていたから、玻瑠香が話し終わるまで殆ど無言で聴いていた。それでも時々彼女の横顔を窺った。少し涙ぐんだような憂いを含んだ横顔はこれまで以上に綺麗だと思った。
玻瑠香も見られていることを感じて、もう一度小石を拾い上げ流れに放るとぽつんと言った。
「これでおしまい」
終了宣言をすると加藤に向き直り恐い顔をして申し渡した。
「加藤さん、私は同情されるのも慰められるのも嫌だから、今日のことと私が話したことは誰にも言わないでよ。もし、誰かに話したら即絶交だからね、わかった?」
「わかった。約束するよ」
さっきまで慰めてと訴えたくせにと思ったが、惚れた弱みに加え、彼女を怒らせた時のことを思うと怖くてそんなことできるはずもなかった。
加藤は玻瑠香の生い立ちからの話を感激の面持ちで聞いていたが、次第に気持ちが沈むのを抑えきれなかった。
聴くにつれ彼女の兄への想いが予想以上に重く深刻だと知ったからだ。気安く慰めるなんて言ったが、それは大きな間違いだと気付いた。それと同時に彼女を自分に振り向かせるのは、槍ヶ岳から穂高連峰を1日で走破するよりも難しいと知ったからだ。だが、そんな素振りを見せずに言った。
「ありがとう。話してくれて嬉しいよ。いや、感動している。偉そうなことを言ったものの正直なところ、どう言っていいかわからない。何と言っていいかわからないけど、先生は玻瑠香さんの気持ちはずっと前から知っていたと思うな」
川を見詰めたままの彼は穏やかで優しかった。誰もそんなことを面と向かって言ってくれたことがなかっただけに素直に嬉しかった。だが、今更そんなことを言われても素直に喜べなかった。しかし、そう思えるだけでも彼女の気持ちが落ち着いてきたともいえた。
「失恋したっていいじゃないか。それで玻瑠香さんは一層魅力的ないい女になると思うよ。それにきっと君に相応しい男がきっと現れる。それが僕だったら嬉しいけど、そうじゃなくても構わない。とにかく君には素晴らしい人が絶対現れる。その資格も十分すぎるほどある」
「それで私はどうすればいいのよ?」
「決まっているじゃないか。先生と亜紀さんを祝福して、先生への想いをしっかり胸に収めて新しい恋を見つけるんだよ。そりゃ、玻瑠香さんが僕を好きになってくれるのが一番いいが、もし誰かを本気で好きになるならそれでもいいよ」
何の衒いもなく言い切った。
「本当にそれでいいの?」
「ああ、それで君が幸せになれるんならそれでいい。ちょっと少し無理して気障過ぎたかな」
照れたように言って頭に手を当てた。照れ隠しに彼も小石を川に投げ込んだ。玻瑠香は小さく笑った。
玻瑠香は外見から伺えない加藤の本質を見た気がした。それを見抜いて彼を好きになったとしたら、やはり陽菜子の方が大人だと思った。
「とにかく僕は誰よりも君が好きだ。もし僕が他の人と一緒になるにしても必ず君に報告する。こんないい人を見つけたってね。嫌味な男だろ」
はははと無理して笑ったが、玻瑠香は苦笑しただけだった。
「どうして私なんかがいいの。気が強いし、すぐに怒るし、すぐ泣くわ。こんな私でも、全部知っている兄貴ならそのまま受け入れてくれるからいいけど、加藤さんが私に関心を持つなんてわからない」
「わからなくてもいいさ。そんなとこも含めて全部好きだ。会って間がないけど、僕は玻瑠香さんを理解しているつもりだよ」
「物好きな男」
小声で言い捨てると立ち上がってお尻をぱんぱんとはたいて河原から遊歩道に戻った。加藤も彼女に従った。いつの間にか日は傾向きかけていた。
この時間でも混雑している河童橋を渡り直し、バスターミナルへの遊歩道を歩きながら、このまま帰りたくないと加藤に告げた。
信じられない心弾むようなことを言われたが、それを抑えて何でもないことのように言った。
「それじゃ今晩は僕の家に泊まればいい」
え、と玻瑠香は加藤を見た。
「いや、僕の実家に 加藤は慌てて弁解した後、冗談めかして付け加えることを忘れなかった。加藤は慌てて弁解した後、冗談めかして付け加えることを忘れなかった。「ただし、先生には連絡するからね。でないと後で先生に殺される」
反発するかと思ったが、玻瑠香は聞こえない振りをして先を歩いていた。
(三)
真一は妹がいないことに気が付くと、すぐさま彼女のスマホに電話した。しかし、何度試みても電源が切られているか繋がらないところにいるとの案内ばかりだった。妹に内緒で彼女の居所がわかるアプリをダウンロードしているのだが、電源を切られていてはどうしようもなかった。
妹が立ちまわりそうなところへ電話して聞き回ったが、徒労に終わった。田辺の実家にも電話を入れて、玻瑠香が帰省するかもしれないから、そのときは連絡をくれるように頼んだ。
マンションを出て、コンビニ、長野駅、若里公園、大学構内と薄暗闇の中を走り回ったが、彼女を見つけることはできなかった。
妹の美貌と飾らない性格は、日頃の態度と合間って他人に誤解を招きやすいが、意外に慎重で家庭的なところがあることはよく知っている。妹の性格からして、軽はずみな真似はしないだろうと信じてはいても若い娘だけに心配だった。
ひょっとしてと思いついて亜紀へも電話を入れた。 妹の性格を考えるとその可能性が一番高いと思った。いつ頃出たのかわからないが、今の時間なら、まだ彼女の家には着いてはいないだろう。
「亜紀さん、真一です。朝早くからごめん」
「お早うございます。色々振り回されてお疲れだったでしょう?あとしばらくで授業が始まりますわね。その準備で大変じゃないですか。今日は何か?」
こんな早朝に彼からの電話は珍しい。ほとんどのことは彼の原村滞在中に済ませたので、特に打ち合わせることがないはずだった。何か忘れていたことがあったのかしらと思ってのんびりと訊いた。
亜紀の口調は日頃と変わらず、ゆっくりと落ち着いたものだった。彼女の声を聞いて少し落ち着きを取り戻すことができた。
「実は昨日、北海道から玻瑠香が帰って来た。その時に君と婚約したことを告げた」
それを聞いた妹が反発して、いつのまにかマンションを出て行ったことを話した。
「ひょっとしたら亜紀さんのところへ行くかも知れない。妹の心境を思うと、君に何をしでかすかわからない。もしそっちへ行ったとしても一人では会わないで欲しい。それとそのときは僕に教えてくれないか」
「わかったわ。もちろん連絡はするけれど、私も心配だからほかで見つかった時も連絡をちょうだい」
私に何かできることがあればと言いたいところだが、玻瑠香がここへ来るかもしれないと聞いた以上、身動きが取れなかった。
「わかった、そうする。ほかにも当るところがあるから、これで切るよ」
ある程度玻瑠香の態度は予想していたが、こうして黙って出て行かれるとやはり辛かった。難しいとは承知していても妹には祝福して欲しかった。だが、彼に妹を宥める方策は持ち合わせていなかった。
加藤から玻瑠香と一緒にいると連絡があったのは9時前だった。会ったことの事情を説明し、これから上高地を案内すると言う。彼と一緒なら大丈夫だろうと一安心して、手短に情況を説明して面倒を掛けるが、妹をよろしく頼むと電話を切った。安堵の余り肩の力が一気に抜けた。
玻瑠香が見つかったことを亜紀に報告した。
「加藤さんと一緒なら任せておいても大丈夫よ。でも気持ちに整理をつけるのに時間がかかるでしょうね。可哀想だけれど、これはどうしても自分で決着をつけないといけない試練でしょうから、真一さんが優しく見守ってあげて。それと私にできることがあれば、いつでも言ってちょうだい」
その日の夕方、加藤から玻瑠香を一晩自分の実家に泊めて明日送り届けると連絡があった。しかし、翌日の昼になっても戻ってこなかった。待ちあぐねて加藤に電話をしようかと思ったが、自分の方がシスコンじゃないかと自嘲して思い留まった。
玻瑠香が加藤に伴われて帰って来たのは夜だった。考えてみれば仕事を持つ加藤が来ることができるのは、夜以外にはなかった。それも思いつかないほど彼は妹のことを案じていた。
戻ってからも口もきかず兄を見ようともしない玻瑠香の頑な態度は心配だったが、一先ず戻って来たことでほっとした。一見したところ、少し落ち着いたように見えた。が、接する態度は出奔前と変わらず、自分の部屋に閉じ籠ったまま顔を合わせようとしなかった。ドアの前で話かけても返事はなく、食事に誘っても無言の拒否が返って来るだけだった。それでも、長年の付き合いで妹の気持ちが少し解れてきていることを感じ取った。
真一から玻瑠香が加藤と一緒だと知らされると、亜紀は心底ほっとした。玻瑠香の心情を思いやると彼女の態度も行動も理解できた。
小さい時から想い続けた人が、突然他の女に奪われてしまうのだ。形の違いはあるが、あの人を失った時はその喪失感でどれほど絶望したことか。だから玻瑠香の気持ちもよく理解できる。まして彼女の場合、すぐ近くに想い人がいるのだから簡単に想い切れるはずもないのも道理だ。
彼女なりに玻瑠香の荒れた心を和らげる手立てはないか思案した。そして、一つの結論に達した。彼女が彼の元に帰ったら、荒療治になるかも知れないが、 自分が考えたことに賭けてみようと決めた。
亜紀は真一に玻瑠香の様子を尋ねる電話を頻繁にかけた。彼女が戻って来た翌朝も電話をかけた。
「玻瑠香さんは戻りまして?」
「ああ、連絡をするのを忘れていた。心配掛けて済まない。昨日の夜に加藤が連れ帰ってくれたが、不貞腐れて口もきいてくれない。怒ったり泣き叫んだりするのなら対応のしようがあるが、貝のように部屋に閉じ籠って出て来ないから閉口している」
彼の困り切った様子が亜紀にも想像できた。疲れた彼の声が気になって、放ってはおけないと判断すると、彼女は自分の考えを伝えた。
「真一さん、授業が始まるまでまだ日があるでしょう。泊まる用意をして、今から玻瑠香さんと一緒にこちらへ来て下さい」
「そっちへ?」
命令口調とも思える意外な申し出に亜紀の考えがわからず戸惑いを覚えた。
「いや、妹が亜紀さんに何をしでかすか心配だ」
「だからと言って、今のままだといつまでも
何か算段があるのか、彼女にしては珍しく強硬だった。彼女の意図を図り兼ねたが、部屋の中に閉じ籠られるよりはましだろうと誘いに乗ることにした。
玻瑠香がトイレから出たところを捕まえると原村行きを説得した。初めのうちは兄の手を振り払い、行くのを拒否したが、亜紀に言いたいことがあれば、いい機会だぞと告げると、それもそうだと思い返したのか、食事もしないでいつまでも部屋にいられないと思ったのか、兄を睨みつけて無言の同意を与えた。
玻瑠香は原村まで無言を通した。戻ってから兄とまともに口をきいていなかった。
車が母屋の前で停まると、タイヤが砂利を踏む音を聞き付けた亜紀が小走りで中からやって来た。
「お待ちしていました。玻瑠香さん、鞄をどうぞ」
車のドアを開けると手を差し出して話しかけたが、玻瑠香は何も言わずぶすっとした表情で降り立つとぷいと横を向いて取り付く島もなかった。亜紀の顔さえ見ず、鞄も渡すこともなかった。業腹で口をきくだけでも嫌だったのだ。なまじ美人だけに無表情な顔には凄みさえあった。
「迷惑を掛けるが、よろしく頼みます」
「いいえ、大歓迎ですわ。みなさん玻瑠香さんに会えるのを楽しみにしていますわ。お爺さんなんかはいつ来るのかと心待ちでした。こちらへどうぞ」
亜紀は先に立って客間へ案内した。玻瑠香は兄と亜紀の親密な様子に不貞腐れた態度のまま無言で兄の後に従った。
真一の声を聞きつけた耕造が頬を綻ばせて客間へやって来た。
「やあやあ、いらっしゃい。この前はいろいろと頼んで済まなかったな。玻瑠香さんもよく来てくれたね」
語りかけられても玻瑠香は見向きも返事もせずぶすっと突っ立ち、兄が注意しても横を向いたままだった。
おいっ!と耕造は突然怒鳴った。玻瑠香はびくっとして反射的に彼を見た。
「何が不満か知らんが、そんなにむくれて目上の者に挨拶もせんとは何事じゃ。お父さんやお母さんはそんな躾をしたのか。そうじゃないじゃろう。畳に手をついてとまでは言わんが、挨拶を交わすときはちゃんと相手を見てするもんじゃ。わかったかっ!」
年長者から一喝されて彼女もしゅんとなった。これまで彼女は他人からこのように叱られたことがなかった。
「よし、わかったなら、改めて挨拶をしよう。言い難いだろうから、わしからしようかな」
先程とは打って変わり顔を綻ばせて穏やかな調子で言った。
「今日はよく来てくれたね。玻瑠香さんが来ると知って刈谷も喜んでいた。ケーキ好きだと知って作り方を教えると楽しみにしていたぞ」
玻瑠香は相変わらずにこりともしなかったが、それでも耕造にちゃんと向き直った。
「こんにちは。少しの間ご厄介になりますが、よろしくお願いします」
両手を前に重ねて丁寧にお辞儀を返した。それでも言いようはまだぶっきらぼうだった。
耕造は顔を崩して真一に目をやった。
「妹さんは中々見所があるな。亜紀さんもいることだし、なあに心配いらんよ。ゆっくりしておいで」
耕造は「大丈夫大丈夫、では後でな」と言い残して出て行ってしまった。何を根拠に大丈夫と言うのかわからないが、 真一にしてみれば、亜紀がいるからこそ不安が拭えなかった。
「玻瑠香さんはこの部屋で休んで下さい。真一さんは修一さんの部屋でお願いします。夕食は8時ごろの予定ですから、それまでぐるっと森を一回りしてもいいし、ペンションへ行っても構わないわ。建築中のペンションを見て回るのもいいと思うわ」
それでは後でと二人を残して亜紀が出て行ってしまうと、兄妹は気まずく立っていたが、真一は気を取り直して妹をトイレと洗面所を案内した。ついて来るかなと一抹の不安があったが、玻瑠香は黙って兄の後ろに従った。真一はそんな妹に、加藤のところへ行って少しは落ち着いたのかなとほっと胸を撫で下ろした。
玻瑠香は森でも案内しようかとの兄の誘いを無言で拒否して一人で出て行った。一人にすることに不安はあったが、加藤から一昨日の様子を聞いて、無茶なことはしないだろうと判断して居残った。
真一は台所へ行くと、亜紀は夕食の準備に余念がなかった。
「玻瑠香さんは?」
「黙って出て行ったが、加藤の家で世話になって随分落ち着いたようだから大丈夫だろう。電話で考えがあると言っていたけど大丈夫?」
「さっき、お爺さんとのやり取りをみていたでしょう。加藤さんのところでガス抜きができたのだと思うわ。きっと大丈夫よ。何をするかは全部私に任せて。ねっ」
ねっと言われても不安が解消されたわけではない。と言って、自分では妹にどうしてやることもできない。亜紀が任せてと言うからには何か成算があるのだろう。自分の無力さ加減に自分自身腹立たしかったが、今は彼女に頼るしか方法がなかった。
その晩は盛蔵達と揃って夕食を摂った。耕造はしきりに話しかけて座を盛り上げようとしていたが、影の主人公である玻瑠香がそうですかと紋切り口調で口数が少ないから気まずさは拭えなかった。玻瑠香にしてみれば、自分と兄の間のことは亜紀を通じて皆が知っているはずで、好奇の目で見られているようで、そこにいるのも嫌だった。本当は同席したくなかったのだが、そうすれば亜紀に見下されるような気がして、自分を奮い立たせて食卓に着いたのだった。
玻瑠香は風呂から上がると客間の襖を締め切り、無言で接触拒否の態度を示した。
布団に入るとこれまでの疲れからかすぐに寝入った。早朝、玻瑠香は耕造に揺り起こされた。時計を見るとまだ6時を回ったばかりだった。
「顔を洗って食事が終わったら、着替えてペンションへ行くように」
最年長者の耕造に起こされてはさすがに玻瑠香も文句は言えなかった。
耕造が出て行くと、何なのよもうと不貞腐れた声を挙げながらも布団を畳んで片隅に押しやった。
いつの間にか枕元にデニムのパンツと明るいオレンジ色のポロシャツにスカーフとタオルが置いてあった。サイズを見計らって用意していたのか、どれも新品で玻瑠香にぴったり合った。亜紀が見立てて選んだことは明白だった。
こんなことで騙されないわよと玻瑠香は気を引き締めた。
加藤が買ってくれた化粧道具を持って洗面所へ行こうとして台所を通ると味噌汁のいい匂いがして急に空腹を覚えた。気まずさのあまり、昨晩は食が進まなかったのだ。悔しいが胃袋は正直だ。
食卓の上はいつでも食べられる状態になっていて、亜紀は風呂場の脱衣場で洗濯機を回していた。夜遅くにトイレに立った時、台所でまだごそごそしていたから、彼女が就寝したのは12時を回っていただろうことは玻瑠香にも推察できた。
何よ、忙しく働いているってとこを見せつけたいわけと独り毒付きながら洗面所に入った。
洗顔と化粧を終えて席に着くと、「お早う、よく眠れた?」と言いながら洗濯を中断した亜紀がやって来て、ご飯と味噌汁をついだ。
「いいところでしょう。山や森も美しくて静かで空気は綺麗だし、森へ行けば動物なんかにも出合うこともあるわ。加藤さんと上高地へ行ったんですって?まだ一度も行ったことがないけれど、いいところらしいわね」
普段の調子で玻瑠香に話しかけたが、それへの返事は返ってこなかった。代わりに彼女は憎まれ口を叩いた。
「私におめでとうと言って欲しいんでしょうけど、二人の結婚は絶対認めないから。勝手に結婚でも何でもしたらいいわ。でも、お兄ちゃんは私が奪って見せる」
玻瑠香は亜紀を睨みつけて宣言した。亜紀はそれを軽く受け流した。
「いいわよ。玻瑠香さんに無理して認めてもらおうだなんて思っていないから。お兄さんを奪えるのならそれでもいいわ。もしそうなら、私がお兄さんを愛しているほどには私を愛していないことになるから」
「大した自信ね」
ふんと小馬鹿にしたように言った。
「玻瑠香さんとはそれほど面識がある訳じゃないけれど、私は玻瑠香さんが好きだから、うまくやって行く自信があるわ」
「そんな自信など私がぶち壊してあげるわ」
「ええ、どうぞ。でもね、二人共嫌いだったらどうしようもないけれど、片方が好きならそれができるのよ。第一玻瑠香さんは悪い人じゃないですもの」
「ふん、マンションに来たって追い出すから」
玻瑠香はそんな甘言に騙されるものかと横を向いた。
「あらっ、お兄さんから聞いていないの?私達結婚したらここで暮らすのよ。そのようにお兄さんが決めて、ここの人達もそれを認めたの。尤もお兄さんだけ平日はそちらにいることになるけれど」
そんなことは一言も聞いていない玻瑠香はまた一つ騙された気分になった。それと同時に敗北感も味わった。
意外なことを聞かされて動揺はしたが、それを顔に出さずに言い放った。
「それなら、兄貴がいるときは誘惑して、いないときは遊びまくってやるわ」
それまで年上らしく鷹揚に応対していた亜紀は初めて動揺した。
「遊びまわるだなんて、どうして自分を貶めるようなことをしようとするの。そんなことをしたら、お父様とお母様が悲しまれるし自分自身も後悔することになるわ。お兄さんへの腹いせのつもりなら私を憎んでちょうだい、お願いだから」
気が立って口にしただけに違いないと思ったが、それでも本気で心配した。
(何としてもここにいる間に玻瑠香のささくれ立った気持ちを和らげなくては。それができなければ、私達の身の振り方をもう一度彼と相談しなくてはならないわ)
亜紀の願いに玻瑠香は無言で返した。
「玻瑠香さん、お味噌汁が冷めてしまわないうちに召し上がれ。このナムルもよかったらどうぞ。このクレソンは近くの小川で採ったばかりだから新鮮よ」
気を取り直して勧めた。
玻瑠香も空腹には勝てなかった。悔しいことにどれも味は悪くなかった。情けないことに味噌汁とご飯のお代わりを自分でしてしまった。
玻瑠香が一人黙々と食べていると真一が外から戻って来た。いつもの運動をしてきたのか、古びた黒のTシャツは汗でびっしょり濡れて、乾きかかった箇所では潮が吹いていた。兄がシャワーを浴びて席に着く頃には、掻き込むように食べ終えて自分の食器を洗っていた。
亜紀は真一がテーブルに着くと、甲斐甲斐しく世話を焼いた。玻瑠香にはそれがわざと見せつけているように映り、ますます反発を覚えた。
「玻瑠香、洗い終わったら、ペンションへ行け。盛蔵さんが待っているぞ」
背後から掛けられた兄の言葉に無言の背中で反発しながらも、食器洗いが終わるとペンションに向かった。ここにいて兄と亜紀の仲睦まじい様子を見せ付けられるよりはましだと思った。
ペンションへ行くと盛蔵が厨房で待ち構えていて作業を指示した。彼女は言われるまま、素直に雑事を一つ一つこなした。
初めの内は、不平たらたらで嫌々体を動かしていたが、要領がいい、呑み込みが早い、仕事が完璧だと回りから煽てられて作業をしているうちに、いつの間にか兄や亜紀のことが頭から離れていた。
玻瑠香を見て一様にびっくりしたような顔をする宿泊客の朝食が終り、片付けとあちこちの掃除を済ませると、盛蔵に誘われて近くの「たてしな自由農園」へ野菜類の買い出しに行った。ここでも、盛蔵に付き従う彼女に、あれは誰だと囁き合う姿が見られた。
夕食を摂る頃には体がくたくたで、食後すぐに風呂に浸かり布団にもぐり込むとたちまち寝入ってしまった。
真一も初日は母屋とペンションの外回りの雑事をこなしたが、妹の様子を見て安心したのか、翌日からは土木工学科の学生が仕上げた地形図を片手に毎日森に入った。
亜紀との関係は隔たったままだが、玻瑠香は刈谷夫妻と親しくなった。亜希子から刈谷は職人気質の寡黙な人と聞いていたので、自分によく話しかけてくるのを意外に思った。
2日目は夕食の準備に取り掛かると玻瑠香を呼び、包丁の研ぎ方から味の取り方まで料理の基本を熱心に指導してくれた。当然のことながら刈谷の料理に対する造詣は深く、もともと料理を作ることが好きな彼女は亜紀への対抗心もあって夢中になって教わった。そして指示されるままに夕食の下拵えを手伝った。中々筋がいいと褒められると世辞とわかっていても悪い気はしなかった。
滞在中は同じことの繰り返しだった。そんなことをしているうちに、汗と共に兄に対する恨みが少しずつ浄化され、冷静になるだけの余裕が生まれ始めた。
玻瑠香が最も楽しかったのは大好きなお菓子を作ることだった。3日目は洋菓子を教わり、4日目には和菓子を作るから一緒に来るようにと刈谷に誘われて朝から山に入った。
和菓子を作るのにどうして山へと疑問に思いながら玄関ロビーへ行くと、受付のカウンターの上に真新しい麦わら帽に軍手、長袖シャツ、手拭い、半長靴、それに腰に結わえる竹籠が置いてあった。そのに中に竹の皮に包まれたおにぎりとタッパウエアに入ったおかず、お茶のペットボトルが入っていた。刈谷から入山を聞いた亜紀と亜希子が用意したものだろうと見当をつけた。
このクソ暑いのにどうしてこんなものを身に付けなくちゃいけないよのと毒づきながらも、それらを身につけロビーで刈谷を待った。
彼女の用意が整うのを待つかのように亜希子がやって来て瑠香を冷やかした。
「あら、よく似合っているわね。美人は得ねえ、何を着てもよく合って」
姿見がないからわからないが、腰に下げた籠を除けば、ダサい格好の割には意外と様になっているのではないかと自賛した。といって、亜紀にだけはこんな姿を見られたくなかった。
早く出て行きたかったのに、意に反して刈谷はすぐには来なかった。やきもきしながら玄関口で5分ほど亜希子と他愛のない話をしていると、やあやあ、待たせてごめんと口ほどには悪びれた様子もなく野良着姿の刈谷が現れた。色が褪せた古い麦藁帽を被った彼は大きな竹籠を背負い、何に使うのか左手に折り畳んだ高切り鋏を持っていた。
その彼が框に座り込んで脚絆を巻き地下足袋を履きながら、そばに立つ玻瑠香を見上げて物騒なことを告げた。
「この時期熊が出るかもしれないから、用心のためそこにある鈴を身につけた方がいい」
カウンターの上のざるに置いてある鈴を指差した。
ここへ来たその日に無用心に森に入ったが、 熊が出没するなんて聞いていない。ビックリして、熊が出るの?と確認してしまった。それだったら行かないと腰が引けた。
「はっはっは、冗談だよ。だけど、森や山に入る時はそれをつけるのが決まりなんだ。まあ、これまで一度も出没したとは聞いたことはないが、木の実がなるこの時期100パーセント出ないとは保証できない。だから、できる限りの自衛手段をとらないとな。それに、熊はいなくても猪はいるから用心した方がいい」
「猪・・・。犬はいないの?」
この際、チワワでもダックスフントでもいれば心強いと訊いた。
「いないよ。ときどき狸か狐が現れるけどな」
地下足袋を履き終えた刈谷が立った。玻瑠香の額ほどの身長しかなかったが、この時は頼もしく大きく見えた。
「3時までに戻ってくるから下拵えを頼むよ」
「わかったわ、あなた。美人と二人っきりだからって変な気を起こさないでよ」
妻の冗談に、刈谷は何を馬鹿なと言い返した。
「冗談よ。行ってらっしゃい」
亜希子は夫の背中を押し出した。
「じゃ、行こうか。はい、これ持って」
刈谷は高切り鋏を玻瑠香に持たせると、亜希子を見て意味深に少し顎を引いた。彼女も頷き返し玻瑠香を送り出した。
「お弁当とお茶を持った?熊に襲われないようにね」
亜希子の警告に玻瑠香は思わず振り返ったが、彼女の笑い顔を見て、先に行く刈谷の後を追った。
二人並んで広場を横切り、小鳥が囀る木漏れ日の森の中の遊歩道を歩いた。陽当たりのいい場所では蕗やよもぎが群生している。
「蕗とよもぎは荷物になるから帰りに採ろう」
「今の季節でもよもぎは食べられるの?」
刈谷が言うのだから間違いなかろうが、玻瑠香の中の常識では食べられる野草とは春のものだった。
「春みたいに柔らかくはないが、先っぽの粉が吹いたようなところを採れば大丈夫だよ。よもぎ餅にするくらいは支障がないだろう」
「餅って杵で搗くの?」
お菓子ぐらいで餅搗きまでするわけがないと玻瑠香でもわかっているが、和菓子屋じゃあるまいし餅搗き機があるとは思えなかった。
「いや、到着時のお客さんに出すだけだからそこまではしない。いつもは餅粉を使うけど、今回は本格的に餅米を蒸してすり鉢とすりこぎを臼と杵代わりにするんだ。ついでに言っておくと、これから山で玻瑠香ちゃんに採ってもらうのは、栃の実と栗、柿、胡桃、梨に林檎などの果物を中心に採ってもらう。だから高切り鋏を持ってもらった。僕は茸とムカゴを採る」
「胡桃ってあのくるみ割り人形の?」
「そうだよ。他に何がある」
「そうじゃないけど、胡桃って土の中にあるんじゃないの?」
刈谷は面白いことを聞いたとでも言うように、はははと豪快に笑った。
玻瑠香の頭の中では胡桃は落花生と同じように土中で育つものだと思っていた。
「胡桃は木になるんだよ。小川の畔にもあるんだが、まだ見たことはないのか?」
「ないわ。見たとしても木になるとは思ってもいなかったから、気がつかなかったと思う。それに、そんなにたくさんの果物があるなんて知らなかった」
果物の多様さに驚いたが、悲しいことに刈谷が口にした果実のほとんどは木になっているところを自分の目で見たことのないものがほとんどだった。和歌山の果物と言えば、柑橘類に梅と柿に代表され、林檎の木などはテレビで見るくらいだ。
「他にもこの山には君が見たことのない果物があると思う。例えば、アケビとか山桃とか木苺なんかも見たことないだろう?それなんかは自生しているものだが、柿や杏なんかは耕造さんが元気だった頃に植えたものだ。
森もそうだが、ここの山の特徴はね、見たとおり針葉樹が殆どなくて広葉樹が多いことなんだ。戦後の国の政策で杉とか檜とか、建物に使う木の植林が推進されたんだが、耕造さんが断固として拒否したから、今では隠れた紅葉の名所ともなっているんだ。しかもここは入山禁止にしているから、ワラビやゼンマイ、コシアブラ、たらの芽などの山菜が豊富にあるんだよ。野生化したわさびだってある」
「入山禁止なのにどうして知ってるの?」
玻瑠香の声が少し掠れ気味なので、刈谷は歩みを少し緩めた。
「僕が子供の頃は誰でも入れたからね。それがペンションを始めて間もない頃、無断で山菜採りに入った人の中に火の不始末をしでかした人がいて危うく山火事になりかかったそうだ。それ以来宿泊するお客さんを除いて立ち入り禁止にしている。入山を希望する子供には僕らの誰かが同行するのが決まりさ。迷子になられても困るからね」
「初めからここで働いていたの?」
「いや、かれこれ10年ほど前からだったかな」
刈谷は短く答えた。
「刈谷さんみたいな立派な料理人がどうしてここにいるの?」
数日接しただけだが、若い彼女でも彼が相当な腕を持つ料理人だとくらいはわかった。
「盛蔵さんとは幼馴染でね、昔から弟のようによくしてくれたんだ。僕の家はとても貧乏だったから、毎日の食べものにも苦労しているところを、耕造さんが影に日向に僕ら家族を援助してくれたんだ。服があまり買えなくていつも同じ服を着ていて、みんなにからかわれ苛められたときも盛蔵さんだけは庇ってくれた。まあ、あれやこれやで加辺さんには返せないほどの恩義があるってわけだ」
「それでここで働いているのね」
そんな単純な理由ではないが、刈谷は否定はしなかった。
「おかずを買うにもままならないほどだったが、ここの山には山菜や木の実、茸など何でもあって、自由に入らせてくれたから随分助かった。それで、ここのことなら何でも知っている」
刈谷は玻瑠香の歩調に合わせて森の中の小道をゆっくりと歩いた。
「梨や林檎は野生化しているから大きくはないが、シロップで煮詰める分には申し分ないだろう。杏はジャムにしようか。玻瑠香さんが帰るまでに作り方を教えるよ」
そんな説明を聞きながら森に中の小道を20分ほど歩き、孟宗竹の中程で右に折れ、熊笹に覆われたところを歩いた。獣道にもなっていないから宿泊客にはわからないだろう。5分ほど歩くと1m程の高さの崩れかかった石積がある場所に達した。こんなところになぜ石積があるのか不思議に思って刈谷に問うたが、彼も知らないようで、昔はここで炭焼きをしていたのかもしれないなとの不確かな答えしか返ってこなかった。
そこから先が急斜面だった。陽光は木の枝葉で遮られ、玻瑠香には樹名もわからない樹々の枝と下草が行く手を阻んだ。幸い草の背丈は低いので助かるが、透かして見ても玻瑠香の目にはどこが道なのか見当もつかなかった。
二人はその石積みに腰を下ろし、タオルで汗を拭き腰に下げたペットボトルのお茶を飲んだ。
「途中に水場があるから全部飲んでもいいよ。だけど、そこの水は冷たいから飲み過ぎてお腹を壊さないように。
ここから先は本格的な山道で30分ほど登る。獣道を歩くから足元に気をつけて。枝が跳ねることもあるから、2mほど離れた方がいいだろうな」
山中での注意事項を聞いて10分ほどの小休止が終わると、刈谷は石積みを身軽によじ登った。上から手を貸そうとしたのを玻瑠香は断り、同じようにして登ると刈谷と並んで立った。歩いて来た森を見たが、樹木の枝に遮られて見通すことはできなかった。
「山登りに慣れていないと最初のうちはしんどいかもしれないけど、小幅でゆっくり登れば大丈夫。さあ、行こうか」
刈谷は獣道と言ったが、玻瑠香には樹林と下草だけの斜面にしか見えない。10分ほどほぼ直線で登って日光が当たる場所に来るとまた熊笹に覆われるようになった。
刈谷は目印も何もない山道を迷うことなく藪漕ぎしながら、行く手を遮る小枝を鉈で払い、時々振り返り玻瑠香の様子を確認してすいすい直登して行った。途中何度か立ち止まりベルトに挟んだ白い布切れを木の枝に括り付けた。それは私のための目印なのだろうくらいのことは玻瑠香にも見当がついた。
日陰に入り下草はシダ類だけになると、ところどころ土の上を何かで引っ掻いたような掘り返したような跡があった。直登に喘ぎながらこれは何かと問うと、猪が木の根を掘り返した跡だとの答えが返ってきたから、思わず玻瑠香は周囲を見渡してしまった。だが、鈴の音に警戒してか動物が近くにいる気配はない。落ちている黒豆のような物は鹿の糞だと刈谷が教えてくれた。鹿が増え過ぎて農作物が荒らされて農家の人達が困っていることも教えられた。周りを注意深く見たが、それらしい動物は発見できなかった。
やがて水の流れる音に気がつき、左下を見ると透明な水が風で揺らいだような曲がりになって流れ落ちている。水を飲みに行くには谷が深過ぎる。もうすぐ水が飲める場所があるからと言われ、必死になって刈谷の後をついて行った。
急な斜面に息も絶え絶えになった頃、刈谷は立ち止まった。少し遅れて彼のところへ辿り着き、両手を膝頭に当てがいはあはあと荒い息を吐いた。
ゆっくり歩くから大丈夫と言われていたが、玻瑠香は高枝鋏を杖代わりについて行くのが精々で、周りの景色を楽しむ余裕などなかった。刈谷に大丈夫かと訊かれて、息を整えながら大丈夫と見栄を張るのが精一杯だった。剣道で鍛えているはずなのになんてことだろう。使う筋肉が違うのだろうと自分を慰めた。
熊野古道のような整備された山道を兄と歩いたことは何度かあるが、草や枝を掻き分けて闇雲に登るのは初めての経験だった。
立ち止まった場所は見晴らしがよかった。陽光に輝く池や青い広場、それにペンションの一部も遠望できた。新築中のペンションが薄グリーンのネットで覆われていてそこを出入りする作業員も視認できた。
彼らが座った岩から2mほど下の岩の間から流れ出る水がいかにも冷たくて美味しそうだ。そこから段々になって下に向かって透明の細い筋を作っている。
「疲れたろう。あそこの水で喉を潤そう。冷たくて美味いぞ」
刈谷は背中の籠を脇に置き、身軽に下りて小岩の上で屈み両手で水をすくった。一口含むと後から来た玻瑠香にその場所を譲った。玻瑠香も彼に習って冷たい水で喉を潤した。思わず「美味しい!」と叫び、自分の語彙の乏しさに可笑しくなって笑ってしまった。
これまで刈谷を見失わないようについていくのが精一杯で、何も考えず自然豊かな森の中を歩いた。道なき山を登り清冽な空気を胸一杯に入れたことで、彼女の心も軽やかになっていた。
刈谷は少し下流の水溜りでタオルを水に濡らすとそれで首筋を拭いた。
「山に入った時はいつもここで一服して喉を潤すんだ。ここは盛蔵さんと耕造さんしか知らない秘密の場所だよ。君のお兄さんもよく山に入っているようだが、ここはまだ知らないんじゃないかな。
もう少し登ると頂上に出でて、その向こう側に少し下ると平坦地がある。そこが目的地だ。反対側にあるからペンションからは見えない。僕らだけの秘密だから誰にも言っちゃ駄目だぞ」
軽く睨まれて、玻瑠香はうんうんと強く頷いた。兄も亜紀も知らない秘密の場所だと聞いて悪い気はしなかった。
刈谷がお兄さんと言っても、玻瑠香の動揺した様子は窺えなかった。これまで彼女を慮って、玻瑠香の前では真一のことに触れることはしなかったが、山に入ってからの彼女の様子を見て問題はなかろうと判断した。計画を亜希子に話した時、まだ無理じゃないと難色を示されたのだが、やはり彼女を誘って間違いなかったようだ。
「刈谷さんはここへはよく来るの?」
玻瑠香は同じように水に濡らしたタオルで口元を拭き、額と首の回りの汗を拭いながら尋ねた。
「よく来るな。 夏と冬は滅多に来ないが、春と秋はよく来る。お客さんのために野草や木の実を採ったり、紅葉が始まればその葉っぱで飾り付けするために摘んだりする。
あそう言やぁ、君と亜紀さんは字は違うが、春と秋だな」
言われて玻瑠香も初めてそれに気がついた。知ったところで、亜紀に親近感が湧くわけでもなく許すつもりなどない。
そんな彼女に頓着なく刈谷は話を続けた。
「僕らにとっちゃありきたりなものでも都会の人には珍しいのか喜んでくれる。それが嬉しくてまた採ってこようって気になる。君も時々来ればいい。いい気晴らしになる。
ところで玻瑠香ちゃん、携帯を持っているかい?」
何のつもりか刈谷はそう訊いた。
電話でもかけるのかと思って、玻瑠香はスマートホンをパンツのポケットから出すと彼に渡した。兄から電話や番号などを無闇に他人に貸したり教えなときつく釘を刺されているが、刈谷には抵抗なかった。
玻瑠香が景色を遠望している間に、刈谷は電話をかけるわけでもなく何やら操作して、ありがとうと彼女にそれを戻した。
「あそこを見てご覧、一際高いメタセコイアの木があるだろう。あれを覚えておくがいい」
刈谷が指差す方向を見ると、広場の真ん中に高く直立し緑色の葉を繁らせた大木だった。
「目的地に着いたら、君が果物を採っている間、僕は茸狩りをするから別々の行動になる。もし何かあれば携帯電話に僕の番号を登録したから、それで呼んでくれたらいい。それでもの場合には、ある程度見通しのきく場所ならあの樹が見えるから、あれを目指して降りれば迷うことはないはずだ。まあ、もっとも、スマホだったら位置情報が呼び出せるから必要ないかもしれないが」
それでも玻瑠香がわかったと応えると、刈谷はうんと頷き、もう10分ほどで目的地だからと告げて、木漏れ日の中を登り始めた。頂上に達して少し下ると目的地だった。
「さあ着いた」と宣言したときには11時を回っていた。30分ほど山道を登ると言っていたが、玻瑠香の感覚ではその倍は登っているように思えた。
立っているところは膝下くらいの草が繁茂している陽当たりのいい平坦地だ。 その回りを木々が取り囲んでいてそれら枝々には様々な実を付けている。 真ん中に単なる水溜りとも呼べるほどの小さな池があり、そこへ張り出す形で背丈くらいの巨大な岩が頑然と鎮座していた。何を
刈谷は草むらを分け入り岩の前に立つと、神社参拝のように2礼2柏手1礼をした。玻瑠香は彼の厳かな仕草を珍しいもののように見ていたが、彼に手招きされ参拝するようにと促されて同じ拝礼をした。
それが終わると、刈谷は果樹を指差し、小鳥のために半分以上は残して採るように言い、栗と栃の実だけは地面に落ちているものだけにするようにと指示した。小鳥や動物のために残しておくのだと説明した。
玻瑠香は初めてのことに夢中になって、首が痛くなるまで高切挟みを使って果実を取った。栗はトングを使っていがから実を取り出すのは難儀だった。それでも初めてのことで楽しかった。
苦労して採った栗の実を手にとると虫が喰っていたものがあったりして、歩留まりとしてはあまり良くなかったが、それでも初めての体験に我を忘れた。 山菜を採りだしたら中々採り止むことができないというが、今の彼女がそうだった。似たような形と色の実も少し離れて落ちている。栃の実だ。だが、どれも同じようで玻瑠香には区別がつかなかった。
刈谷は木の実採りに夢中になっている彼女を遠目で見ながら、大岩の周りの草を刈り払ってから薄暗い山林の中に入った。人で荒らされていないので自生した椎茸や舞茸、それにシメジ類やなめこのほか、あまり知られていない食用茸が採り放題だ。刈谷は採り過ぎないよう気を配りながら木々の間を歩き回り、採った茸を一つひとつ傘についた埃を払い丁寧に紙袋に入れた。
1時間ほどで平坦地に戻ると玻瑠香が木陰の岩に座って採った実の選別をしているところだった。地面にばら撒いた実を改め、鳥が
さすがに女の子だなと感心しながら声を掛けた。
「随分採ったな。後は昼飯を食べてからにしよう」
「初めは栗と栃の実を別々にしていたんだけど、いつの間にか混じっちゃって見分けがつかなくなっちゃった」
面目なさそうに言うのを刈谷は笑った。
「しようがないさ。素人目じゃすぐにはわからないだろう。後で僕が選別するから、虫が喰っていないものだけを選り分けてくれたらいいよ」
「刈谷さんは何を採ったの?」
「僕は茸だよ」
ほら、と言いながら紙袋一杯の中から幾つか茸を取り出した。
「これが椎茸だろ。これがシメジで、これがなめこ。それから栗茸、これは舞茸。これだけあればしばらくは食卓を賑わすことができる」
「松茸は?」
当然のことのように訊くと、刈谷は大声で笑った。
「ははは、やっぱりそれが気になるか。残念ながら、ここには赤松も黒松もないから松茸は採れないんだ」
「残念ね。あったら私も採るのに」
それを聞いた刈谷はさも可笑しそうにまた笑った。
「それは頼もしいが、素人ではまず見つけるのは難だな。それよりこれを見てご覧」
刈谷が腰に下げた袋から取り出したのは茶色の小粒の玉だが、大きさはまちまちだ。
「何それ、食べられるの?」
「なんだ、知らないのか。ムカゴだよ」
「ムカゴって?」
「本当に知らないのか」
呆れたように言って、それの説明をした。
「ムカゴは知らなくても、自然薯くらいは知ってるだろう?」
「それくらいは知っているわよ。山の芋でしょ」
バカしないでよと言わんばかりだった。
「そうだ。これがいわゆる山の芋の子供だよ。葉っぱの付け根に出来て、地面に落ちるとそこから自然薯の蔓が生えてくる。自然薯は1月ほど後だから今度一緒に掘りに来よう」
「簡単に掘れるの?」
はははと刈谷は笑った。さっきから笑われてばかりだ。
「玻瑠ちゃんは何も知らないんだなあ。簡単に採れれば苦労はしないよ。時には2mほども深く掘らないといけないし、木の根や石などを避けて曲がっているから簡単には採れないよ。しかも土も硬いから一本採るのに2、3時間はゆうにかかる。へたすりゃ途中でポキッと折れることだってある」
「そんなに大変なの」
それならやめると言いたげだった。
「料理人冥利に尽きるからそんなことは苦にならない。完全に採ったときは万歳と叫びたくなるよ。天然物は形が悪いけど、粘りが強いからお客さんに喜んでもらえる。
蘊蓄はそれぐらいにしてお昼にしようか」
彼らは亜希子が持たせてくれたおにぎりに舌鼓を打った。空気が澄んだ自然の中で食べるのはうまい。玻瑠香の心も随分晴れやかになった。
食事と休憩の間、刈谷は色んな話しをした。中でも玻瑠香が関心を持って傾聴したのが、自分でも関心のある料理のことだった。
彼の和洋食に対する造詣は深く、話を聞きながら、このような腕の立つ料理人が田舎のペンションに燻っていることに玻瑠香は不思議に思った。その理由を刈谷に訊いても笑って答えてくれなかった。
食事を終えると刈谷は玻瑠香が採った小振りな林檎を竹籠の中から取り出し、腰に下げた道具袋からナイフを取り出しするすると皮を剥いた。調理人だけあって手早く無駄なところがなかった。
渡された林檎を玻瑠香は一口囓ると、口の中で甘酸っぱい果汁が滴って思わず「美味しい!」と叫んだ。
「そうだろう。小さいけど味はいいよ」
刈谷は満足そうに相槌を打って自分も林檎を頬張った。
梨も一個食べて目の前の池で手を洗って戻ると刈谷は口調を変えて言った。
「玻瑠香ちゃん、朝から晩までよく頑張ったね。いつもつんつんしていたから、何てつっぱったお嬢さんだろうと思ったけど、今は表情も軟らかくなって、ずっと別嬪さんになった」
山に登りいい空気を吸って初めての果実採りを体験したせいだろうか、憑き物が落ちたように気分が楽になっている。そんな自分に不思議な気がした。
「何故原村に連れて来られたのか不思議に思っているだろう。これは亜紀ちゃんが言い出したことなんだ。きっと玻瑠香ちゃんが傷ついているだろうから、一人でいるよりは原村に来て体を動かせば、少しは気が晴れるんじゃないかってね。僕らはね、君がお兄さんのことを男として好きなのは知っていたんだ」
玻瑠香は刈谷の顔をまじまじと見てしまった。亜紀が言いふらしたに違いないと思った。そして、自分の顔が強張っているのを自覚した。刈谷はそれを見透かしたように、やっぱりなと呟いた。
「亜紀ちゃんが話したと思ったんだろう。そうじゃない。亜紀さんはそんなことを軽々しく他人に話す人じゃない。いつだったかな、亜紀ちゃんを訪ねて来たことがあっただろう。そのときの君の様子を見た稲子さんがそのように感じ取ったんだそうだ。あの人はその辺のところ鋭いところがあるからな。そのときはお兄さんと血の分けた兄妹だと思っていたから、その先までは想像しなかったそうだが、後で血縁関係にないことを知って、恐らくそうじゃないかと思ったようだ」
そう言って、玻瑠香の右肩に手を置いて続けた。
「大好きなお兄さんと亜紀ちゃんが婚約して心に深い傷を負ったことはよくわかる。でもな、辛いだろうが耐えるしかないんだよ。事実は事実として受け入れて耐えるしかないんだ。気休めかもしれないが、耐えることで女に磨きがかかるんだ」
それにも玻瑠香からは何も反応がなかったが、しっかりと聞いていることはわかった。
「刈谷さん、ナイフをちょっと貸して」
「うん?あ、いいよ」
ナイフを玻瑠香に渡すと彼女は籠から果物を吟味して一つ選んで取った。それを刈谷は黙って見ていた。
刈谷ほど上手ではないが、玻瑠香は器用に皮を剥いて一口囓って叫んだ。
「わっ、しぶっ!」
柿を慌てて吐き出し顰めっ面の玻瑠香を見て刈谷は豪快に笑った。
「玻瑠ちゃん、それは渋柿だよ。ははは」
「そうならそうと言ってよ。柿を採ると言うから甘柿かと思ったじゃない」
恨めし気に刈谷を睨んだ。
「いや、悪い悪い」
口程には悪びれずに謝っておきながらまた笑った。一頻り笑った後で弁解した。
「採るには採るんだが、後でアルコールにつけてあわせ柿にするんだ。ドライアイスで渋を抜くこともできる。それはともかく、あそこにあるのは母屋の庭にある柿の種を20数年前に耕造さんがここに埋めたんだ」
「だって、あそこのは甘柿でしょう。それがどうして・・・」
「渋柿になるのかか。植物学上のことは知らないが、元々甘柿は渋柿が突然変異してなったものらしい。だから甘柿でも種から育てると先祖返りしてかなりの確率で渋柿になるんだそうだ。だからある程度大きくなってから甘柿の接ぎ木をするんだが、耕造さんも埋めたことをすっかり忘れてそのままにしていたらしい」
言わなくて悪かったと言ってまた笑った。玻瑠香も可笑しくなって一緒に笑ってしまった。
「今年は栗が豊作だったんだな。思っていたよりに沢山ある。帰ってマロングラッセでも作ろう」
「どうしてお菓子まで作れるの?」
不思議に思っていたことだが、料理人なら誰でも作れるようになるのかとでも言いたげだった。
「ああ、昔菓子店で修行していたことがあるんだ」
それを聞いて、ますます彼がこんな田舎のそれもペンションの一料理人で満足しているのを不思議に思った。
刈谷はふいに立ち上がると、ちょいと雉撃ちに行ってくると告げて木々の中に入って行った。
雉撃ち?と玻瑠香は不審に思ったが、すぐにそれは小用を足すことだと幼い頃に兄から教ったことを思い出した。
自分も刈谷とは反対側に分け入って用を足し、池の水で手を洗って戻ってくると、刈谷はペットボトルの水を飲んでいた。
「玻瑠香ちゃん、これが何だかわかるかい?」
刈谷が横からフランクフルトソーセージを短く太くしたようなものを出してきた。その表面は薄紫色と土色のまだら模様で縦に少しだけ皮が開いている。
「知らないわ」
先程から自分の無知を指摘されているようで素っ気なく答えた。
「アケビだよ。さっきあそこで採って来た」
「これが」
玻瑠香は生まれて初めてそれを手にした。刈谷がもう一つ手に取ったのは果皮が完全に裂けていて細長い白い綿状のものが内皮にくっついている。
刈谷に習って実についているゴミや蟻などを吹き飛ばした。実を食べるのももちろん初めての体験だ。
刈谷の食べる様子を見て同じように綿を口に入れた。ほとんど種ばかりだったが、葛のような白い実はほのかな甘さがあった。食べ終えた皮を放ろうとすると、料理で使うから捨てないようにと注意された。
彼らは後片付けを済ませると刈谷は再び林に入って茸を採り、玻瑠香は杏と梨を採りに夢中になった。
若気の至りでこれまで自分中心で世界が回っている気でいたが、ここへ来て自分の知らないことが沢山あることを知った。最初のうちはペンションにいるよりはましと刈谷の後をついてきたのだが、昼食が終わる頃にはここへ来てよかったと気持ちが変化していた。
彼らがペンションに戻ったのは2時過ぎで、休む間もなく刈谷は買い出しに出て行った。玻瑠香は採ってきたものの皮を剥いたり、栃の実の渋抜きや蕗の灰汁抜きをするなどすることは山ほどあった。
亜希子に教わりながら2人でやり終えると、亜希子が一服しましょうと声をかけた。
丁度コーヒーを飲みたいところだったので二つ返事で同意した。
「玻瑠香さんは調理がお上手ね」
コーヒカップを食堂のテーブルに置きながら言った。
「嫌いじゃないわ」
「中々筋がいいって主人が褒めていたわ。よく料理はするの?」
「小さい頃から母の手伝いをさせられていたから」
「そう、偉いわね。お兄さんと同居しているのでしょう。お兄さんにも食事の用意をしているの?」
「ええ、まあ」
お兄さんと言われて玻瑠香は渋い顔をした。それでもその話題を拒絶する様子はなかった。
刈谷が山から戻ってきたとき、あの話をしても大丈夫だと耳打ちされていたので、思い切って真一の話題を切り出したのだった。
亜希子は聞き上手だった。努めて自然に玻瑠香の兄のことを聞き出してしまった。これならあのことを話しても大丈夫との心証を得た。
「あのね。自慢になることでもないから、あんまり人には話したことがないのだけど、玻瑠香さんにはお話しするわ」
突然、話題が変わったから無言のまま亜希子を見た。
「あなたとは事情が異なるけど、私も刈谷と一緒になるまでそれは辛いことがあったの。それにね、ここの人達には返したくても返せないほどの深い恩義があるの」
先刻も刈谷が同じ事を言っていたが、どうしてそんなことを私に話すのだろうと疑問に思いつつ玻瑠香は亜希子を見つめた。
刈谷の家は貧しかったと亜希子は夫の家のことから話し始めた。
(四)
刈谷の家は貧乏子沢山の典型でとても貧しかった。彼は盛蔵の小学校の後輩で、幼い頃は一緒に遊んだこともあったことから、彼の家の窮乏を見かねた耕造が経済的な援助をしたこともあった。刈谷はそのことを父の死後母から知らされた。
そんな家の事情で、彼はもちろん彼の兄姉達も進学することも出来ず、中学校を卒業すると同時にみな関東や関西に就職をして家を出て行った。そして彼らはその地で家庭を持ちそのまま兄姉離散してしまった。母が亡くなった後は家を継ぐ者もなく家は廃屋同然になった。兄弟姉が相談してわずかな田畑と一緒に家屋も売却して今はそれもない。それからは兄弟姉みな疎遠となり、訳あって何もない故郷に戻ってきたのは末っ子の洋介だけだった。
刈谷も中学校を卒業すると長兄の斡旋で東京神楽坂の老舗料亭へ住み込みで働きに出た。
そこでの修行は辛かった。江戸から続く料亭だけあって、最初の3年は追い回しと呼ばれる皿洗いや掃除、使い走りなどの雑用しかさせて貰えなかった。人手がないときは下足番をしたこともあった。田舎者と蔑まれ、些細なことで先輩から殴られることも茶飯だった。そんな見習い期間に礼儀としきたりを学んだ。
寝るところは布団部屋のような3畳の部屋だったが、三食賄い付だったから食には困らず、わずかな給金でも休みがほとんど取れなかった分あまり遣うことがなかった。そのような生活でも原村にいた頃よりは随分ましだった。
雑用修行が終わると、八寸場、揚げ場、焼き場、蒸し場、刺し場を経る間、包丁研ぎ、野菜の皮剥き、火起こしなどの下拵えから魚の捌きまでみっちり仕込まれた。生来の生真面目な勤勉さと夜をも惜しむ人知れぬ努力もあって、女将に認められ板長には腕を見込まれて人よりも早く客の前に立つ立板となった。すると彼は未練なくそこを辞め、爪に火を灯すようにして貯め込んだ貯えをはたいて西洋料理を学ぶために欧州へ旅立った。
そこでも彼は脇目も振らず修業した。料理に対して元々素養があった彼が帰国する時にはイタリア料理のみならずフランス料理のシェフとして迎えられてもおかしくないほどまでの料理人になっていた。それから何を思ったか今度は和菓子店と洋菓子店に菓子職人として働いた。それほど食に対する彼の姿勢は貪欲だった。
その彼が名の知れた日本橋の料亭に板長として迎えられたときには40歳に手が届いていていた。
そこの板場を仕切って2年目の春、それまで順風とは言えないまでも平穏だった彼の人生に波風が立った。
その料亭では8人あまりの仲居が働いていたが、その中の一人にときどき顔を腫らして来る若い女がいた。それが亜希子だった。
そのような顔で接客ができるはずもなく、腫れが引くまでの間、部屋の掃除とか跡片付けとかの人目につかないところでの雑用をさせられた。
そのようなことが二月に1回程度であったものが、次第にその頻度が高くなって、刈谷が外で息抜きしている時に夜空の下で忍び泣いている彼女の姿をしばしば見るようになった。
彼は自分の立場を弁えて、彼女達とは一線を画し個人的に接しないように努めて来た。ところが、頻繁に亜希子の泣く姿を見るようになるといつまでも黙殺していることができなくなった。
最初のうちは何を訊いても亜希子は首を振るのみで何も語らなかった。彼も強いてまで問い質そうとはしなかった。しかし、接する時間が多くなると頑なだった彼女も次第に心を許し、事情を少しずつ語るようになるのは自然の流れだった。彼女の名が田原亜希子で幼い子供が一人いると知ったのもこの時だった。
彼女が話した顛末はテレビドラマにでもあるような家庭内暴力だった。
彼女の夫の職業は長距離トラックの運転手で、結婚して程なく子供もでき彼も真面目に働いて至極平穏な家庭生活を送っていた。そんな生活の歯車が狂い出したのは、彼が佐世保から東京へ戻る途中で起こした人身事故がきっかけだった。
その事故は過労就労による居眠り運転が原因で、集団登校中の児童の列に突っ込み、電柱に衝突して停まると言った弁解の余地のない一方的な過失によるものだった。
幸い後方にいた上級生が気が付いて、大声で通学児童を退避させたことから辛うじて重大事故は免れた。が、逃げ遅れた下級生の2名が車に接触して肩や腕の骨を折る重傷を負ってしまった。
被害者と破損した電柱の補償は会社と保険会社がしてくれたが、彼には高額の罰金が課せられた。なにより彼に応えたのは90日間の免停処分だった。
行政処分は運転免許停止処分者講習を受講することによって半分に軽減されたが、その間彼の給料は減額され、仕事の内容も荷物の積み下ろしとトラックの洗車で彼にとっては不本意な日々となった。被害者へのお見舞いに広島まで出向く精神的な苦痛も彼を追い込んだ。
そんな夫を亜希子は慰め励し続けたが、元の彼に戻すことはできなかった。そのうちに出勤しなくなり、生活費を持ち出して酒とパチンコや競馬などの賭け事に明け暮れるようになった。
夫の働きがなく経済的に困窮した彼女は子供を私設保育所に預け、知人の紹介で仲居の仕事に就いた。ところが、必要に迫られ始めた彼女のパートが逆に夫の自尊心を傷つけ自暴自棄を加速させた。
彼らの僅かな蓄えは夫の賭けごとでほとんど消えてしまい、妻の給金にまで手を出すようになった。すがる思いで苦言を呈すると暴力を振るわれた。そこにはもうかっての子供思いの優しい夫はいなかった。
酒に酔って3歳になる子供にまで暴力を振るうようになり、実家へ逃げ帰ることも一度や二度のことではなかった。その都度、彼が妻の家族の前で土下座して詫びを入れ反省の色を見せて二度としないと誓うのだが、それは一月とは保たれなかった。業を煮やした彼女の実家は離婚を勧め、夫側の親族もそれを認めた。しかし、肝心の夫が頑としてそれに応じなかった。
そんな亜季子の境遇に同情し慰めているうちに、それが愛情に変化するのにそれほどの時間を要しなかった。
刈谷は数少ない休日を彼女の夫に隠れて彼女の子供のために使った。父親の愛に飢えていた子はすぐに彼になついた。彼もまたそれまで味わったことのない家庭の喜びを知った。
彼女の夫は日毎に女性らしくなる妻を懐疑の眼で見るようになり、刈谷の存在を察知すると暴力もエスカレートした。
このままでは彼女の身も子供も危なくなると感じた刈谷は示し合わせて母子を連れて出奔した。彼らの落ち着ける場所は30年近く前に離れた彼の故郷でしかなかった。
刈谷は盛蔵と幼い頃からの交誼もあり、耕造への恩義もあって賀状の挨拶だけは欠かさなかった。だから盛蔵は彼の消息と料理人としての評判や経歴を承知していた。その彼が帰郷しているとの噂を聞きつけると、全ての事情を承知したうえで、彼を説得しペンションの料理人として迎え入れた。それと同時に亜希子と子供のための家を村役場の斡旋で宛がった。更に亜希子をパートとして雇い入れると、弁護士を介して彼女の離婚を夫に認めさせた。盛蔵がかなりの纏まった額を手切金として相手に渡していたことを随分後になって彼らは知った。
刈谷と亜希子は彼女の離婚の成立後、半年を待って形だけの式を密やかに挙げた。
「私達は身を粉にして働いたわ。加辺さんにはよくしていただいて、そのお陰で小さいけど近くに自分達の家を持つこともできたの。刈谷との間に子供も一人生まれたわ。だから、加辺家には返せないほどの恩義があると言ったのもわかるでしょう」
話し終えると、亜希子は冷え切ったコーヒーを飲み干した。
玻瑠香には亜希子の話を聞いても、冷静で
「こんな恥ずかしい話を玻瑠香さんにしたのは何故だかわかる?」
そんな玻瑠香を見透かしたように亜希子は訊いた。玻瑠香は頭を横に振った。
「前の夫と一緒になるときは愛し合っていると思ったの。そしてそれがずっと続くと思っていた。けれど、それがたった一度の躓きで呆気なく壊れてしまったの。そんなのは愛とは言えないわ。愛があるのなら、どんなに辛くとも支え合っていくものよ。でも若気の至りかしら、夫を支え切れずに逃げてしまった。夫も家族のことを考えず昔のプライドだけで生きようとした。結局あのときの愛は幻だったとわかったの。
刈谷に一度も愛していると言ったことがないわ。刈谷だってそう。だけど彼とならどんなに苦しくともやっていけると思う。あんな人だから口には出さないけど、何気ない態度や声掛けで愛されていると感じるもの。
そんな風に愛の形はいろいろあると思うのよ。玻瑠香さんのように一途な愛もあれば、私達のように互いの傷を舐め合うような愛もあるわ。反対に傷つけ合うことでしか愛せない愛もあれば、プラトニックな愛もある。でも亜紀ちゃんとお兄さんとの愛は私達とは次元が違うように思うの。その理由は私の口からは言えないけど、そのうちに玻瑠香さんにもわかるわ。
私は運命論者じゃないけど、運命的な出会いはあると思うの。回り道はしたけど、私と刈谷がそうだと思うし、亜紀さんとお兄さんもそうだと思う。赤い糸で結ばれていたと言い換えてもいいかしら。
その糸はね、残念ながら玻瑠香さんとは繋がっていなかった。でも、こうも言えると思う。これまで玻瑠香さんからお兄さんに向う一本だけの糸だけだったけど、これからは玻瑠香には無限の糸がある。そして向こうからも無数に伸びて来て、その一本があなたの糸と絡み合って繋がるの。それはまだ会ったことのない人かもしれないし、既に会っている人かも知れない。玻瑠香さんの未来は開けているのよ。そのように思えないかしら」
亜希子は玻瑠香の両手に自分の手を重ねて彼女をじっと見た。玻瑠香は亜希子の持って回ったような言い方に疑問を覚えたが、黙っていた。
「あまり恋愛経験のない私が言うのも変だけど、恋愛は一杯してもいいと思うの。でも結婚は別物だわ。好き合った者同士が結婚して幸せに過ごすのが一番だけど、私の例でもわかるように中々うまくいかないものなのよ。
優しいと思っていた人が急に暴力的になったり、子供が欲しいのに授からなくて不和になったり、裕福だと思っていたのに何かのことで生活が苦しくなったり、あるいは仕事で離ればなれになることだってあるかもしれない。そういったことで夫婦の仲が拗れることが多いの。実際そのような話はよく聞くし、そういった問題が夫婦生活の間では必ず起こるの。
偉そうなことは言えないけど、そんなリスクを軽減するには相手を見極めることだと思う。だから、相手を選ぶときはその人の本質を見る目を養うのが大事だわ。端的に言うなら、玻瑠香さんのことを大事に思ってくれる人、また自分でもそうしたいと思える人を選ぶのだよ。そうすれば苦境に立ったときその人のために頑張れる。また、その人もあなたのために一生懸命になってくれるわ。玻瑠香さんにとって今はお兄さんだろうけど、残念ながら玻瑠香さんのことを大事に思っていても、それは妹としてか見ていないように思う。
今はお兄さん一人しか頭になくて辛いかもしれないけど、この先には誰もが羨むような幸せが待っているのよ。そのことをわかって欲しかったの。
参考になるかどうかわからないけど、もし好きな人ができて結婚してもいいなと思ったら、それが本当の愛かどうか確かめる方法を一つだけ教えてあげるわ」
言葉を切って玻瑠香を窺った。彼女は俯いたままだが、聴いているのは確かだった。
「一緒になってもいいなと思ったら、すぐに返事をしないで、もし彼に前の奥さんとの間に子供がいるとして、その子供を自分の子のように愛せるかどうか自分の心に問い掛けるの。その子供を含めて彼を愛せるのなら本物だと思うし、そうでないなら一時間をおいて冷静に考えるのよ。
玻瑠香さんの未来は明るいわ。泣きたいときには思いっきり泣けばいいし、大声出したっていい。痩せ我慢したって少しもいいことがない。頑張りなさい」
亜希子は玻瑠香の背中をやや強くぽんぽんと2度叩き、彼女が静かに涙を流しているのを見ないふりをして立ち上がった。
刈谷が買い出しから戻ると3人で和菓子作りに励んだ。
餅は餅粉で簡単に作るのかと思っていたらやはりそうではなかった。彼は棚から蒸し器を取り出した。
「刈谷さん、餅粉で作るんじゃないの」
「たまにそれで済ませることもあるが、大体は餅米を蒸してすりこ木で搗くんだ。お客様に喜んでもらうためにね」
「桜餅を作るって言ってたけど、今の時期桜の葉っぱてあるの?」
「ああ、春に採って塩漬けにしたものがある。玻瑠ちゃん、桜餅の葉はどの桜の木か何か知っているかい」
「ソメイヨシノじゃないの?」
和歌山も桜の名所が多いが、その木は本州の他県と同様ソメイヨシノが多い。
「残念、そうじゃないんだよ」
「じゃ、何?」
「一般的には大島桜だな。広場に9本あるから、花が散った頃に摘んで塩漬けにするんだ」
そんなことを話題に栃餅とヨモギ餅も作った。
玻瑠香は刈谷に教わりながら小豆餡まで自作した。小豆の灰汁を取るのは面倒だったが、元々料理の好きな彼女はそれらを作っている間は雑念を振り払うことができた。刈谷も彼女を見て随分落ち着いたなと思った。阿吽の呼吸で彼の妻も頷き返した。いい傾向だった。
それらが出来上がると、既に到着している客にもお裾分けをしてみんなで賞味した。
「お兄さんがここを訪れるまでは、こうしてみんなで集まって食べたり飲んだりすることは滅多になかったんだよ。それに玻瑠香さんが来てくれて、爺さんが一番喜んでいる」
盛蔵に言われた当の耕造はニコニコと顔を綻ばせて桜餅を頬張っている。
兄と亜紀が並んで座り、当たり障りのない世間話に花を咲かせていても、腹が立たないのが自分でも不思議だった。それでも業腹だから問われたことにだけ一言二言答えるだけを通した。
長野のマンションに戻る前日の夜、玻瑠香は夕食を終えると話があるからちょっとと亜紀に呼ばれた。
初日ほどのことはないにしても、亜紀に対する蟠りが吹っ切れたわけではなかった。それでも拒否するのも負けたように思われるのも業腹だし大人げないとも思い、何の話か知らないけど負けるもんですかと胸を反らせて後について行った。
真一は少しずつ明るくなっていく妹に安堵しながらも、何の話をするのかと亜紀に不安そうな眼差しを向けた。彼女は大丈夫との笑顔を彼に残して出て行った。
亜紀が玻瑠香を案内したのは仏間だった。そこに連れて行かれると思っていなかった玻瑠香は不審の表情を残したまま薄暗い中に入った。そんな彼女を尻目に亜紀は蛍光灯を点け、締め切っていた仏壇の扉を開けた。
仏壇の照明を入れ、蝋燭と線香に火を点け、リンを鳴らして祈ると玻瑠香に向き直り言った。
「玻瑠香さん、私の主人がどんな人だったか知りたがっていたわね。お見せするわ、こちらへどうぞ」
玻瑠香は亜紀に促されて何の疑問も抱かずに仏壇の正面に進み出た。そして、左手前に置かれている小さな遺影を何気なく見て、「えっ!まさか・・・」と驚愕の表情を残したままそこにへたり込んだ。写真をまじまじと見てしばらく声が出なかった。一瞬兄の写真かと思ったが、それでも顔形は兄とそっくりだが、服装や髪形ばかりでなく、長年見知っている兄とは何となく雰囲気が違うと感じ取っていた。やがて気を取り直すと亜紀に恐るおそる訊いた。
「ひょっとしてこの人が亜紀さんのご主人だった・・・」
「ええ、そうよ。加辺修一、お兄さんの弟だった人」
「お兄ちゃんの弟?」
「そうよ。玻瑠香さんもお兄さんが養子だと知っているわね。二人は双子だったの。それも捨て子だったの。兄は玻瑠香さんのところに、弟の修一さんはこの家に養子として貰われて来たの」
「双子で捨て子?」
そこまでは伯父から聞いていなかった。
「ええ、そうよ。訳あって別々に育てられたの」
玻瑠香は衝撃的な事実を事実として受け入れるだけの余裕はまだなかった。亜紀が自分を籠絡しようとして騙しているのではないかと疑った。でも彼女に玻瑠香を騙す理由などなかった。それでも彼女は何かを探るかのように亜紀を見つめた。
「今まで黙っていてごめんなさい。でもそれを知ったのはつい最近のことなの。私のことと亡き夫のことを玻瑠香さんに詳しくお話するわ。私の部屋に来てくれる?」
玻瑠香は衝撃から立ち直れないまま、よろよろと立ち上がった。
玻瑠香を自分の部屋に招き入れると彼女を椅子に座らせ、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「このことはお兄さんにしか話したことがないの。玻瑠香さんが二人目よ」
玻瑠香は何を話すのだろうと緊張して身じろぎした。
亜紀は両手を膝の上に置き、自分の生い立ちから小学生の時に事故で失明したこと、修一との出会いと死別、亡夫の角膜を移植して光を取り戻したこと、そして真一との出会いと現在までのことを静かに語った。
亜紀から語り聞かされる話は驚きの連続だった。とりわけ、亜紀が失明していたとの告白は衝撃的だった。玻瑠香は息をつめて最後まで黙って聴いたが、純粋な彼女だけに亜紀と修一の悲しい恋に、自分でも気付かないうちに瞳に涙をためていた。
亜紀は語り終えると、机の抽斗にある小箱の中から封筒を取って玻瑠香に差し出した。
「これが今話した修一さんが私に遺してくれた手紙なの。お兄さんにも見せたことがないわ」
「そんな大事なもの私が読んでいいの?」
玻瑠香は白い封筒を手に持ったまま小声で訊いた。
「玻瑠香さんだから読んで欲しいの。衰弱しているときに書いたものだから、字が乱れて読み難いけど、彼の真情がわかると思うわ」
玻瑠香は封筒から手紙を取り出し、丁寧に折り目を戻して黙読した。
読み始めて直ぐに修一の亜紀を想う気持ちが彼女にも伝わったのか、多感な彼女の涙が再び頬を伝って止まらなかった。亜紀はそっとベッドから立つと、彼女に寄り添いハンカチを握らせた。
玻瑠香は掠れる眼で読み終えた。しばらく彼女は無言で泣いた。愛とはこんなに悲しく辛いものかと身が震える思いだった。亜紀も玻瑠香を横から肩を抱いて目を潤ませた。玻瑠香はなされるままにじっとしていた。やがて彼女はぽつんと言った。
「修一さんて素晴らしい人ね。亜紀さんが好きになるのも無理はないと思う。亜紀さんが羨ましい。こんな人に愛されて」
「私だって辛い時期があったのよ。繰り返しになるけど、あの人が死んでから片時も忘れられなくて、誰も好きになることが出来なかったの。好きになってはあの人に申し訳ないとの思いもあった。
加辺のお義母さんから勧められて、お見合いらしいことも何度かしたけれど駄目だった。どの男性を見てもいつの間にか修一さんと比較していて、どの人もただの男としか思えなかったわ。お兄さんを想う玻瑠香さんもきっと同じだと思う。
もしお兄さんが私の前に現われなかったら、玻瑠香さんから見れば安直に思えるかもしれないけれど、修一さんに似たお兄さんでなければ関心を持つこともなかったし好きにもなっていなかったと思うの。今でも修一さんのことを克服出来ずにいたと思う」
玻瑠香からすれば、修一との逢瀬がわずかな期間の亜紀でさえそう思うのだから、長年兄だけを見て育った私はこれから先どうしたらいいのだと暗澹たる気持ちになった。そのように思えるだけ亜紀に対する反感は薄らいでいた。
「お兄さんとこうなるのだって、色んな事があったのよ。お兄さんは修一さんにコンプレックスを持っていて、私を避けようとしたし、私から離れようとまでしたわ。私は彼が何で悩んでいるかわからずに、縁がなかったものと諦めようとしたの。そんなとき、ここのお爺さんには何でも言えたから、お爺さんが相談に乗ってくれたわ。そして二人が捨てられていた長崎の教会へ行ってその時の事情を聞けば、何かが変わるかも知れないと言われて二人で行ったの」
亜紀はそこで真一と修一が双子で捨てられた子だと知らされたこと、その二人がそれぞれの夫婦にもらわれていったことなどを話した。そして、亜紀は同じ小箱の中から紙片を取り出し玻瑠香に手渡した。
「これがそのときにいただいた写真と誓約書の写しなの。読んでみて」
玻瑠香は兄弟揃った唯一の写真に見入った後、折り畳まれた紙を開いて無言で読んだ。やがて顔を亜紀に向けると静かに言った。
「何も知らなかった。兄が望まれて生まれたんじゃなくて、置き去りにされていただなんて。そんな兄がこんなに愛されて、父と母がこんな約束までしていたなんて」
亜紀を見た彼女の瞳は潤んでいた。
「それは修一さんのお父さん盛蔵が署名したもののコピーだけれど、お兄さんも玻瑠香さんのお父さんが署名したものを持っているわ。二つとも文面は同じよ。
こうして、お兄さんは修一さんが弟だと改めて知って、その弟に愛情が持てるようになって彼の悩みが解消されたの。それでようやく私にプロポーズする決心がついたのよ。
片想いや恋愛は相手がいればできることだけれど、そこから結婚に至るには大勢の人の助けがいると思うの。真一さんとのことでそれを強く感じたわ。玻瑠香さんを深く傷つけたことになったけれど、それを理解してくれると嬉しいわ」
亜紀は机の上に置いてあった写真立てを手に取り玻瑠香に見せた。
「この写真はね、主人の修一と初めてデートした時に私の兄が撮ってくれたものなの。直ぐに捨てることができなくて真一さんと婚約してから、その一枚だけを残して全部焼却したわ。でも、デジタル画像だけは残したの。消去すると彼の存在まで否定するような気がして、そこまでは出来なかった。玻瑠香さん、悪いけれどそこにあるノートパソコンを起動してくれる?」
亜紀は修一の手紙を小箱に戻すと、今度はそこからUSBメモリーを取り出し、パソコンが起動するの待ってスロットに差し込んだ。しばらくするとソフトが自動的に立ち上がり、以前見たタイトルバックのアニメが始まった。
「これを見るのは6年ぶりのことになるかしら。これが2度目よ。これもお兄さんには見せたことがないの」
玻瑠香は身を乗り出して、次々とフェードインしてフェードアウトする修一の解説付きの画像に見入った。
「亜紀さんも修一さんも若いわ。声も兄貴とそっくり。このときは髪が随分長かったのね」
「そうよ。腰まであったかしら。ここへ嫁ぐときに、家事に不向きだから思いきって切ったの」
「全部楽しそうな写真ばっかり。このとき目が不自由だったんでしょう?どれもリラックスして楽しそうな表情をしているわ。彼も慈愛に満ちた顔をしている」
不忍池での動画になると、玻瑠香は声を上げた。
「あっ、修一さんが動いてる。亜紀さんの手なんか取って随分嬉しそう。声ははっきり聞こえないけど、水鳥を指して説明しているようね」
しばらくするとミッキーマウスと一緒に写っている写真になった。
「ディズニーランドにも行ったのね」
亜紀は横から、このときは係りの人が親切にしてくれたと懐かしげに説明した。でも、それっきりでそこには行っていないとぽつりと言った。
「玻瑠香さんも小さい時、お兄さんと行ったんでしょう?その時の話を聞いたわ。妹には酷い目にあったって。そのときの写真があるんでしょう?今度見せてくれる?」
「そんなの覚えてないわ。みんな私のせいにしたときのことなんか」
わざと知らんぷりをして笑った。亜紀が初めて聞く玻瑠香の笑い声だった。
全部見終わると玻瑠香はパソコンを閉じた。しばらくじっとして黙っていたが、亜紀に向き直るとはっきりと言った。
「亜紀さん、辛く当ってごめんなさい。亜紀さんの目が不自由で苦労してきたことやご主人だった人が兄の弟だったなんて、何も知らなかったの。話を聞いて、兄とは切っても切れない縁があるってわかったわ。だって亡くなったご主人が仲人だもの、私に太刀打ちなんてできやしない。亜紀さん、兄のことよろしくお願いします」
玻瑠香は立ち上がると深く頭を下げた。亜紀も立ち上がって玻瑠香の両手を取った。
「ありがとう、玻瑠香さん。こちらこそ礼を言うわ。これまでお兄さんの面倒を見てくれてありがとう。これからは
「そのときはお願いね。お母さんの時もよ。まだすっきりと割り切れた訳じゃないけど、こう見えて私って切り替えが早いの。誰かさんと違って、何年もうじうじしないわよ」
そう言って笑って見せたが、亜紀には彼女の精一杯の強がりだとわかっていた。愛をそんな簡単に失えないことは亜紀自身がよく知っていることだ。だからこそ彼女は玻瑠香のためにしてやれることがあれば何でもしようと心の中で誓った。
「お兄ちゃんには私達が和解したことをまだ黙っていて。精一杯苛めてやるから。それくらいはしてもいいでしょう?」
「いいわよ。玻瑠香さんを悲しませた分、困らせてやりなさい。お兄さんにもいい薬になるわ」
二人は両手を握りあって笑いあった。
「亜紀さんて顔に似合わず意地悪ね」
「そうなの。私小悪魔なの。義妹にだって容赦しないわよ」
そう言って二人はまた快活に笑った。
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