第九章 帰郷(二)
(一)
川越を離れた二人は13時前に南紀白浜空港に降り立った。真一の両親に亜紀を会わせるためだ。
彼らは8時前に笑顔で見送られて遠藤家を出た。
亜紀は実家にいるときから落ち着かなかった。着る服装は母と杏子の意見を聞いて買い求めたのだが、それでも真一にこの服装は変じゃないか、化粧は濃すぎないか、何を話せばよいかなどと意見を求めた。そのたびに彼は笑って、亜紀さんなら大丈夫と太鼓判を押した。それでも彼女の不安が解消しきれない様子だった。
「亜紀さんのことは、話しているし気に入っているから心配いらないよ」
心配ないと楽観的に言ってくれても、それは自分の親だからそう言えるのであって、婚約者として紹介される亜紀にとっては気休めにもならなかった。彼が亜紀の両親に会う時には、よほど自分に自信があるのか、それとも男女の差なのか、それとも楽観的な性格なのか、気懸りな素振りは全く見せなかった。最初のうちこそ緊張していたようだが、その夜は男3人でどんちゃん騒ぎをするほどに溶け込んでいた。そのような真似はとりたくても自分にはできないことはわかっている。未来の舅と姑に会った時何を話せばよいのかと考えると不安だった。特に玻瑠香を厳しく躾けたと言う彼の母に気に入っていただけるだろうかと気掛かりだった。
「話してるって、どこまで?」
「未亡人のこともどうして加辺の家に行ったのかも」
以前そのことを話したと思うのだが、どのように思われているか余程心配なんだろうなと真一も理解した。
「ただし、亡くなったご主人が僕の弟だったことは伏せている」
「どうして?」
いっそ話しておいてくれた方が良かったのにと恨めしく思った。
「話そうかと思ったが、君のお母さんじゃないが、弟の面影を追って僕のことを好きになったんじゃないかと気を回して勘ぐるんじゃないかと思ってさ。親父はそうでもないけど、お袋は心配性だから先走って心配するんだ。先に話して変に気回しされるよりは、君に会って人柄を知ればそんな心配は解消すると思ったから話さなかった」
真一ほど楽観的になれない亜紀は、それを聞いてそうかしらとますます不安になった。写真で見知ってはいても、内面まではわからない。お父様はどんな方、お母様はと訊かずにはいられなかった。
「そうだな、親父は典型的な小市民だよ。温厚でお袋の尻に完全に敷かれているけど、実は結構したたかなんだ。たまに市民サークルや地域ボランテアにも参加している」
「お母様は?」
「君のお母さんと同じで気配りがよくできる人だよ。あまりお喋りしないし笑うことも少ないから、初対面の人には気難しそうに映るかもしれないが、話すとそうじゃないことはわかると思う。
男の僕には甘かったけど、玻瑠香の躾は厳しかった。あいつの態度はあんなだが、料理や掃除などの家事は同年代の娘よりはよくやる方だと思う。綺麗好きなのもお袋に似たのかもしれない。
君が苦労してきたことも言ってあるし、あんな大きなお屋敷を一人でちゃんと切り盛りしていることも話したから、苦労人のお袋には気に入ってもらえるさ。感心して早く会いたいと言っていたからね」
大丈夫と亜紀の手に自分の手を重ねた。
自分の母だから気楽に言えるのだろうが、そんな風に言われても彼女は安心できなかった。
羽田で搭乗した飛行機が水平飛行に移ると、亜紀の実家にいる間、彼なりに気を使って疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた。窓際に座る亜紀は胸に輝くペンダントに手をやりながら、昨日のことを思い出していた。それは一時的な婚約指輪より汎用性がある物をと希望して亜紀が選んだものだ。
論文発表会の日、真一は一年振りに会う東京理科大の友人と飲むからと亜紀の家には戻って来なかった。そのことは電話で知らされていたが、それでも彼がいない家は静かで寂しくなった。亜紀は心の中がぽっかり穴が空いたようで、いつの間にか新婚の妻が夫を待つ気持ちになっていた。何をするにしてもどこか上の空で杏子にからかわれた。
翌朝、待ちに待った真一から電話があった。指輪を注文するから新宿まで出て来れないかとの誘いだった。
彼女はいそいそと服を着替え化粧を直して、母の笑顔と義姉の冷やかしの声に見送られて家を後にした。
2時間ほどで京王百貨店の地下1階にあるベーカリー・カフェへ行くと、先に来て待っていた真一が立ち上がってにこやかに手を上げた。亜紀も微笑んで彼のもとへ歩み寄りながら、恋人時代を経ずしていきなり婚約者となったことに変な感じがして可笑しかった。
「お待ちになりまして」
「何もすることがなかったから、少し早めに来てしまったよ」
完全に婚約者モードとなっている亜紀を眩しく思いながら言った。
「それで論文発表はうまくいきましたの?」
「ああ、ドイツ語で発表したから、思惑とおり質問もなかった」
「あら、ドイツ語で発表しても良かったの?」
「事前申告が必要だけど、発表したもの勝ちだから」
悪戯っぽく笑うと亜紀も一緒に笑った。コーヒーをオーダーするのを待って、そのときのことを話した。
「よかったわね。無事に済んで」
亜紀は学会の講演会がどのようなものか知らないだけに気楽に応じた。
「まあね。以前にも同じように発表したんだが、質問はないだろうと高を括っていたら、一人だけドイツ帰りの奴がいて難しい質問ばかりするから閉口した。その代わり、彼の発表のときは質問責めにしてやったけど」
それが縁で彼とは意気投合して、その晩銀座にあるビヤホール・ライオンに繰り出して、大皿に山盛りのソーセージを特注して周りの度肝を抜いたことや、大ジョッキ2杯を飲み干した後、立ち上がってドイツの歌を二人で熱唱したことや周りの人にそのソーセージを振舞って大いに気炎を上げたことなどを語った。
亜紀には別世界の話だが、彼が身振り手振りを交えて面白おかしく話すので、周りを気にしながら笑って涙を拭った。
「昨日泊めてくれたのもその彼だよ」
その家に泊まったときのことを話した後、実はと呼び出した本当の理由を話し出した。
「来てもらったのは、もちろん指輪を注文するためだけど、本当は亜紀さんに話したいことがあったからなんだ。どうしようかと迷って、卑怯かもしれないが亜紀さんに話して判断してもらうことにした」
「何のことかしら?」
それまで穏やかな目で彼を見つめていた亜紀は何事かと表情を改めた。何を話すつもりか知らないけれど、あの話以上のことはないと思いたい。
「昨日の夜に高校時代に付き合っていた彼女が僕に会うと言って来た。と言っても正確には僕に直接ではなくて、彼女のことを調べてくれた友人を介してだけど」
「よかったじゃない。会いたかったのでしょ。会って話をすればすっきりすると思うわ」
何でもないことのような亜紀の返答に真一は意外そうな顔をした。
「いいのか会っても。不快に思わないか?」
無関心ではいられないが、会ったこともない人だけに今は嫉妬心も湧かない。
「思う訳ないわ。だって私はあなたの婚約者で、その人は既婚者なんでしょう。立場がはっきりしているもの、何の心配もしていないわ」
いいのかとほっとしたように呟いて彼は椅子の背もたれに寄りかかった。
彼が嘘をつかないことは知っているから、本当に昨日連絡があったのだろう。それにしても何というタイミングなのだろう。誰かがそのように仕掛けているようにしか思えなかった。
この話はそれで終わりかと思っていると続きがあった。
「それで、できれば会う時に君にも同席して欲しい。きっと彼女の方でも僕のことを気にしているだろうし、僕も君を婚約者として紹介して安心させたい」
どうだろうかと亜紀の意向を伺った。
「嫌だったら無理強いはしないが」
亜紀はあっさりいいわと答えた。彼女に会っておくべきだと女の本能が訴えたからだ。それに前々から彼が本気で好きになった女をこの目で見ておきたいと思っていた。
彼女の明快な返答に彼なりに心配していたのかほっと肩を落とした。
「済まない、面倒なことを君に頼んで。こうしないとどうも僕の気が済まなかった」
「気にしないで。それであなたが納得して気持ちが収まるのならお安いご用よ。この時期にその人が言ってきたのはちゃんとけじめをつけなさいとの神様のご意思なのよ。それでどこで会うことになっているの?」
「明後日大阪帝国ホテルのラウンジで午後1時に会うことになっている。その近くの高層マンションに住んでいるらしい。だから、忙しくて済まないがけど、君を両親に紹介した後、寄り道してそこへ行くつもりだ」
「わかったわ。それで彼女とはどこまで行ったの?」
えっと思わず真一は声を上げて慌てた。まさか彼女がそんなことを訊いてくるとは思ってもいなかったのだ。見ると彼女は悪戯っぽく笑っている。
「どこまでって・・・。その・・・デートの場所?」
真一は素っ惚けた。
「そうじゃなくて、手を繋いだの。腕を組んだの。キスをしたの。それとも最後まで?」
やきもちを焼かせた彼を苛めてやりたくなって意地悪く訊いた。
「何を馬鹿な。彼女の父親と約束したのにそんなことするわけないだろう」
「じゃ、手も握らなかったの?」
「いや、キスはした。しかし、そこまでだ」
真一はコーヒカップを口に持って行って、空だと知ると決まる悪そうにテーブルに戻した。
「どおりで上手だったのね」
「頼むからもう勘弁してくれよ」
亜紀はふふふと笑って、いいわと彼を解放した。
カフェを出ると、「あなたは私のもの」と亜紀はさっと彼と腕を組み晴れやかに笑いかけた。一瞬真一は驚いた表情をしたが、すぐに彼女を引き寄せた。
真一からの電話を受けた両親は南紀白浜空港で息子と婚約者の到着を待っていた。
その空港は田辺市から南へ15kmの丘陵にあり、近くに白浜アドベンチャーワールドがある。地方空港にありがちな利用客の減少に加え、関西国際空港が近くにあるため、伊丹空港便、名古屋空港便が廃止運休となって、現在は羽田空港への往復3便のみとなっている。2階にあったレストランと売店も今はない。
一階到着出口に待ち人が現れると喜色満面で迎えた。
亜紀は一目で彼らだとわかった。二人共思っていたよりも小柄だった。実直そうな彼の父はスーツ姿で髪の毛が薄く、頬に幾つかの染みがあった。母も小ざっぱりした服装だが、これまで苦労が多かったせいか年齢以上に皺深く頭髪も白髪が多く、自分の母より老けて見えた。こうして間近で見ると玻瑠香は母親似だと思った。この両親から彼女のような長身の子が生まれたことの不思議を思った。
「お帰り」
「ただいま。タクシーで行こうと思っていたのに、わざわざ迎えに来てくれたのか」
「息子が婚約者を連れて来るのに、待ち遠しくて家で待っていられないさ」
真一の父はにこにこして応じた。そして息子に寄り添う亜紀を見た。
「あなたが加辺亜紀さん?遠いところをよく来てくれました」
「お疲れだったでしょう」
彼の母が亜紀を気遣った。
いいえと彼女は緊張気味に頭を下げた。
「亜紀さん、父の正巳と母の
にこやかに立つ両親を紹介した。
「初めまして、加辺亜紀と申します。お父様とお母様にお目にかかれて嬉しいですわ」
亜紀は微笑みながら自分をじっと見つめる彼の父と母にはにかみながらも目を逸らさなかった。1年ほど前に彼から言われたことを実践しているのだ。
「こちらこそ。なるほど、別嬪さんだ。女嫌いの息子が好きになるのも無理はない」
「本当に綺麗な方。いいのかしら、こんな息子で」
二人に直裁的な発言に、亜紀は照れて頬を染めた。そんな彼女に庸子は優しく微笑んだ。
「自分の息子を掴まえて、女嫌いだの馬鹿息子だのって、そんな言い方はないだろう。少しは自慢でもしてくれないと、亜紀さんに嫌われてしまうじゃないか」
真一の冗談に3人は声を上げて笑った。
彼らは外に出ると無料駐車場に向かって歩いた。その途中、滑走路の遥か先に緑に囲まれた中に大きな観覧車が目についたのであれは何かと亜紀が尋ねた。
「ああ、あれ。あれはアドベンチャーワールドにある観覧車だよ」
「ああ、あれが」
あそこが彼の高校時代に恋人とデートした場所なのかと思うと身近な感じがするからおかしなものだ。恐らく彼女と一緒に乗ったこともあるのだろう。
真一も彼女がどういう意味で言ったのか理解している。
「パンダが沢山いるから子供には評判なんだ」
「あら、そんなにいるの」
そう言う彼女自身、動物園へ行ったこともなくパンダもテレビでしか見たことはなかった。
「上野動物園とは違って、外にパンダの運動場があるから並ばなくても目の前で見られるんだ」
「私も見てみたいわ」
「今回は無理だけど、次に来た時に行こう」
(そうだ、これからは幾度もここへ来ることがある)
今回は彼の元カノに会うためにその時間はなかった。
海を見たいとの亜紀の希望で、運転を代わった真一は白浜方面へハンドルを左にきった。程なく下り坂があり、そこからはるか向こうに太陽光の反射で銀色の鱗のように輝く海が見えた。助手席に座った亜紀は思わず「綺麗」と感嘆の声を上げた。見慣れた彼らにはいつもの景色だが、彼女にとっては初めて身近で見る太平洋だった。
途中観光を兼ねて景勝地の三段壁近くのレストランに入った。
昼食の間に庸子が家族のことを尋ねた。正巳は時々合いの手を入れるくらいでほとんど黙って二人の会話を聞いていた。
食事を摂りながらの1時間ほどの会話だったが、少しも気詰まりなところはなく、二人の表情から彼の両親に気に入ってもらえたようで亜紀はほっとした。
青い空と海を背景にした三段壁を案内している間、庸子は彼女を捕まえて離さず何かを話しては時々笑い合った。そんな様子に正巳は息子の脇を肘で突き笑った。気難しいところがある妻に彼なりに少しは気にしていたのだろう。
景勝地の千畳敷、白良浜、円月島を巡って、家に着いたのは16時過ぎだった。
真一の家は田辺市内中心部から車で20分程の山裾にある。建物はそこそこ建ち並んでいるが、少し歩けば田畑が広がり里山にも接近している所だった。田舎だけあって南向きの玄関前には自家菜園の畑と緑の実をつけた低木にオリーブの木があり、色とりどりの花も咲いている。敷地は広いが、建物自体は自分の家よりも小さいとの印象を持った。義父母となる人にとってこれが精一杯のことだったのだろう。それでも、ここで真一と玻瑠香が育ち、これからは自分の家にもなるのだと思うと身近に思えてきた。
通された床の間には山水の掛け軸が掛けてあり、小ぶりの花瓶には白と黄色の菊とススキが活けてあった。
「もうススキがあんなになっているのですね」
床の間を見やりながら言った。
「菊は前に植わっていた物だけど、ススキはお隣からいただいたの」
「玄関前にも蜜柑の実がなっている木がありました」
話の接ぎ穂のつもりで言うと、あれは柚子だ庸子が応えた。
「柚子ですか。蜜柑だとばかり思っていました」
「見た目ではあまり変わらないからねえ。冬になったら真一のところに送るから、柚味噌にするなりマーマレードするなりしたらいいわ」
あの奔放な玻瑠香を厳しく躾けたと聞かされていたから、その人の息子の嫁として務まるのか内心気懸りだったのだが、空港から駐車場へ行く道すがらでも、景勝地巡りの間でも姑となる庸子と語り合っていても少しも気詰まりではなく安堵した。 話し振りも随分砕けたものとなり、暗黙の内に真一の結婚者として認められたようでほっとした。
亜紀は改めて自己紹介をした後、彼女の生い立ちから事故で失明したことや亡夫のお陰で視覚を回復したこと、加辺家へ嫁いだことまでのことを卑下することなく手短かに話した。
「目が不自由でいて好きな人にも先立たれて、これまでさぞ苦しかったでしょう。それで今は大丈夫なの?」
彼女が未亡人であることは真一から聞かされ知っていたこともあり、自分のことをよく思わせようとはしない亜紀の話し振りに感心し、彼女を未来の嫁として抵抗なくと受け入れることができたが、それでも息子のことを思い訊かずにはおれなかった。
「はい、お医者様からは大丈夫と言われています」
「そう、それはよかった」
嫁になる人にもそうだが、息子にとっても正直ほっとした。
「それまではさぞ大変だったでしょう?」
「はい。半年ほどは親にも辛く当たって悲しませました。両親と兄には申し訳なく思っております」
庸子に問われるまま、目が見えなくなったときは絶望のあまり何もする気がしなくて母に辛く当たったこと、街に出て怖い思いをしたこと、盲人学校に慣れるまで寂しい思いをしたこと、図書館で働けることになって大喜びしたことなどを常人には中々理解し難いことだが、それらを話した。
正巳と庸子は黙って聞いた。彼女に遭った出来事に重く軽々しく応じることができなかったからだ。
「そんなときに亡き主人と出会いました。彼との出会いがなければ、私の人生は灰色のままでした。ですから、今も主人のことは忘れられません。それでも真一さんはそれを含めて私を愛して下さると仰って下さいました。それがとても嬉しかったのです。長いとは言えないお付き合いですけれど、真一さんことは信じられます。この人なら私の人生を預けられると思いました」
目から涙が零れて慌ててバックからハンカチを取り出して涙を拭った。
「亜紀さん、どうした?」
突然亜紀が泣き出したから真一は驚いた。両親も驚き顔で亜紀を見た。
「何でもないの。お母様から優しい言葉を掛けられて、話しているうちにその時のことを思い出して切なくなったの。ごめんなさい」
「それならいいのだが」
「それにしてもよくお婿さんのいない家に行ったものだ」
正巳の呟きにも亜紀は涙をハンカチで拭いながら丁寧に答えた。
「はい。お墓参りに行った折、義父母の悲しみを目の当たりしてここに来るしかないと思いました。彼の恩に報いる方法はそれしか思いつきませんでしたから」
それから亜紀は両親の反対を押し切って原村へ行ったこと、そこで義祖父と義父母が娘のように接してくれたことを話した。
真一の両親は顔を見合わせて微笑み頷き合った。
あれほど親戚が勧める見合いを頑なまでに拒んでいた息子が、突然前触れもなく帰省して結婚したい人がいると打ち明けられたときは半信半疑で驚きもし、その気になったことに喜びもした。
だが、相手が失明していたことや未亡人であることを息子から聞くと、正直言って素直に喜べず、好んでそのような人を選ばなくてもよいものをと思った。それでも、一向に関心を示さなかった息子が結婚したいと言い出したものだから息子を信じることにしたのだった。そしてこうして本人と会い人となりを知ると、息子が彼女を好きになった理由も納得がいった。これだけの苦労をや悲しみを乗り越えてきた人なら息子を安心して託せるだろうと二人は頷き合ったのだ。
そこから先は真一が後を継いで語った。
初めて亜紀のペンションを訪れたとき、亡夫にそっくりな自分に彼女が驚いたこと、紆余曲折があって彼女に背を押される形で長崎まで行ったこと、そこで二人が捨て子の兄弟で別々にもらわれたことなどを淡々と語った。
正已と庸子は彼女の亡夫が息子と瓜二つだったと聴いた時、ある予感を持ち、二人が長崎へ行ったと知らされた時は予感が確信に変わり、信じられないその偶然の出来事に衝撃を受けた。
「すると何か、お前がたまたま泊まったペンションが図らずも弟の家だったのか?」
正巳は、うーんと唸ったまま、腕を組んで黙り込んでしまった。庸子もありそうもない偶然に驚きを隠そうともしなかった。
正巳と庸子は真一を養子にもらい受けた事実を娘はもちろんのこと当人にも隠した。できればその事実を知られないまま自分達の墓場まで持って行きたかった。だが、思いもよらないところで知られていた。
その時期が息子の物事の分別がつく年でよかったと心から思った。それでも、娘には知られてはならないと思った。
正巳が居ずまいを正すと口を開いた。
「今まで黙っていて悪かった。できることならこのままで済ませたかったが、隠し事は続かないもんだな。さぞ驚いたことだろう。早くに打ち明けないといけないとは思っていたんだが、娘のことを思うと踏ん切りがつかなかった。今まで隠して本当に済まなかった」
両親が頭を下げるのを真一は片手を上げて止めた。
「いいよ。こうしてこれまで何不自由なく育ててくれたし、これからも親子であることは変わらないよ」
「そうか、そう思ってくれるか。ありがとう」
ほっと安心したように肩の力を抜いた。
「それにしても、30月も年も経って・・・こんな偶然があるものだろうか?なあ、母さん」
「ええ、不思議なことね。テレビのドラマなんかじゃよくある話だけど、現実にそんなことがあるなんてねえ。あのとき、もう一人の子も預かっていたら、その子もきっと違った人生を送っていたでしょうに」
「そうだな。どんな兄弟になっていたか・・・。まあ、あの子が何不自由のない裕福な家庭で育てられて本当によかった。ずっと気にはなっていたんだ。だが、牧師さんに聞くわけにもいかず・・・。こんなことを言ったら何だが、それがあの子の運命だったのだろう。こんなことを言っても栓ないことだが、一目でも会ってどのように成長したのか見たかった。それに詫びの一言も言いたかった。真一だって弟が生きていればどれほど心強かったか。あの子も兄がいると知たら会いたがっただろう。
母さん、これが縁であちらのお宅へ伺うこともあるだろう。その時は線香の一本でも手向けて詫びようじゃないか」
庸子は深く頷いて、そうしましょうと応えた。そして、膝の上においている亜紀の手に自分の手を重ねて、亜紀さんと呼びかけた。
「あの頃は主人も薄給で食べることで精一杯だったのよ。そこへ持ってきて、相前後して知人に勧められるまま分不相応な家を持ったものだから、経済的にとても困窮していたの。だから、牧師さんに弟だったその子も一緒にと懇願されて私達も一日かけて真剣に悩んだんだけど、結局真一だけを引き取ることで牧師さんには納得して頂いたの。本当に苦渋の決断だったのよ、亜紀さん。
でも家に戻ってから、真一の面倒を見ているうちに、もう一人のあの子の無邪気な笑い顔が目の前に浮かんで、申し訳ないことをしたと後悔したのよ。それで、主人と相談して苦労してもいいからとその子も引き取って育てましょうと決めたの。でも電話をした時には、その子はもういなかった。牧師さんに引き取られた先を尋ねたけど、教えることはできないと拒否されて・・・。亜紀さん、ごめんなさい」
途中から次第に涙声になって、最後の方は声を詰まらせ嗚咽も重なって聞き取りにくくなった。詫びる相手が違うとわかっていてもそうせずにはいられなかったのだ。
亜紀は庸子の手を握り返した。
「お母様、どうぞ頭を上げて下さい。お母様が詫びるようなことではありませんわ。それに亡き夫には申し訳ないですけれど、二人が離ればなれにならなければ、真一さんとここにこうしてお父様とお母様にもお会いすることもできませんでした。
今は私もこうなることが運命だったのだと思えるようになりました。そのように自覚できるようになったのも真一さんのお陰なのです。ですからご自分を責めることはなさらないで下さい」
「ありがとう。そのように言ってくれると私らも救われる。庸子も私もあの子には酷いことをしたと行く末を案じながらずっと気にて生きてきた。せめて真一だけはと愛情を持って育ててきたつもりだ」
「親父、わかっているよ。俺が悪いことをしたときには厳しかった。それも愛情がなければそうはできなかったと思う。お袋だって俺にはいつもいいものを食わせてくれた。それに玻瑠香が生まれてからも分け隔てなく接してくれた。親父とお袋に育てられて本当によかったと思ってる」
「ありがとうね、真一。そう言ってくれるだけで、もう十分だよ」
何を思ったのか、「真一に見せたいものがあるから、ちょっと待って」と断ると、庸子は立ち上がって部屋を出て行った。真一は訝しげに母を見やったが、正巳は思い当たることがあるのか黙って見送った。
2、3分待つと、庸子は大きな紙箱を持って来て、そこからかなり変色した緑色の毛布を取り出した。
「真一が包まれていた毛布だよ。牧師さんにお願いしていただいたの。きっと、向こうの方だって、大切に持ってらっしゃると思う」
真一はそれを無言で手に取り感無量の面持ちで一言も発せず手に取ることもなくじっと見続けた。これだけが唯一自分と実の親を繋げるものと言えるものだ。そうしているうちに何かが胸の中で込み上げてきた。
亜紀は彼に寄り添い、汚れるからと庸子が注意するのを構いませんと古くなった毛布を彼から手に取って胸に抱いた。そして、そっと鼻に近づけた。庸子が大事に保管していたのか防虫剤の匂いがした。
「ありがとう。ずっと保管していてくれて」
母の気持ちがわかるだけに真一は素直に感謝した。
「ああは言ったけど、いつか事情を説明したら渡そうと思っていたんだよ。後はお前が焼くなり捨てるなり好きにすればいい」
「それならお母様、私にいただけませんか」
亜紀は大事そうに丁寧に畳んで言った。
「君が?」
真一は亜紀を見た。
「ええ、お母様さえよければ、私が保管したいの。いいでしょう」
お願いと亜紀は真一に頼んだ。
亡き牧師が想像したように未成年の娘が産んだのかも知れない、あるいは不倫の末の子だったかも知れない、どこの馬の骨とも知れぬ自分を彼女があるがままに受け容れ愛そうとしている。その気持ちが真一には嬉しかった。
「ありがとう、亜紀さん。あなたにお任せすれば安心だわ。よろしく頼みますね」
息子を完全に託すつもりで言った。
亜紀が毛布を箱に戻すのを見てから、庸子は玻瑠香のことを訊いた。
「それはそうと、真一の妹の玻瑠香には会ったことがあるの?」
「はい、真一さんのマンションに伺ったときとペンションにも来られてお会いしました。物事をハッキリと仰って、それにあの若さで家事がお出来になってお母様によく躾けられておられると思いました」
「ほほほ、そんなお世辞はいいのよ」
「いいえ、本当にそう思いました」
亜紀がむきになって強調するのを庸子はありがとうと微笑んで返した。
「世間知らずの我儘な娘だけどよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願いします」
「今北海道の親戚の家へ行っているが、夏休みの終わりまでには戻って来る。そのとき真一がちゃんと話すだろう。何せ、我儘一杯の兄離れのできていない気の強い娘だから、亜紀さんに辛く当るかもしれないが、何かあったら真一か私達に言いなさい。ああ見えても根は素直な奴だから心根を知れば亜紀さんともきっと気が合うと思う」
やはり娘の密かな想いに気付いていると思った。その娘は兄とは血の繋がりがないと知っている。それを知ったら二人はどうするのだろう。そんなことを一瞬思ったが、それをおくびにも出さず、 「私もそう思います」 ときっぱりと告げた。
真一はその自信がどこからくるんだろうと訝しんだ。
「あら、もうこんな時間。お茶も出さずに話ばかりして気がつかなかったわ」
庸子は薄暗くなった外の景色を見て立ち上がった。
「夕食の支度をするから、それまで真一の部屋でも見せてもらいなさい」
「私もお手伝いしますわ」
「今はまだお客様だから、真一のお嫁さんになったら手伝ってもらうわ」
亜紀は、ここは自然に振舞おうと、それではそうさせていただきますと答えた。
「ああ、行ってきなさい」
正巳が送り出した。
真一が先に立って狭くて急な階段を昇った。廊下を挟んで右側が真一の部屋で左が玻瑠香の部屋だった。
真一は自分の部屋のドアを開けて亜紀を先に招き入れた。
「ここが僕の部屋だよ。6畳しかないから狭いだろ。元々玻瑠香の部屋だったんだが、卒業と同時にこっちへ移ったんだ。向こうは8畳あるから。まあ、女の子だからそれもしようがないだろう。僕は滅多に帰ってこないし」
同じ6畳間でも母屋よりも狭い。亜紀は柱や壁に手を触れてその狭い部屋を物珍し気に回った。
押入れには布団が入れてあるのだろう。机と本棚それに箪笥が置いてあるから、もしここにベッドを置けば大男の彼には手狭だろう。その上、玻瑠香のものと思われる藤籠もあった。本棚をよく見ると彼が好んで読むとは思えない書籍ばかりだった。それから推量すると、両方の部屋を玻瑠香は目的に合わせて使っていたようだ。
全体の印象は長野のマンションと同様、殺風景な部屋だった。それでも、彼がここで青春時代を過ごしたのだと思うと、こんな簡素な空間でも好ましく見えるから不思議だ。
「何もないのね」
亜紀は椅子に座ると率直な感想を漏らした。窓のカーテンを開けると隣の灯が下に見えた。
「そうだろう。不真面目な生徒だったから、机に座って勉強することもなかったし」
さり気なく机の上を拭って掌を見ると埃はついていない。彼の母が掃除をしたのだろう。
「いつも何をしていたの?」
「元々友達が多い方じゃないしアウトドア派だったから、妹の面倒をみているか合気道の稽古ばかりしていた。そうでない時は大抵畳の上でごろんと横になっていた」
今は彼がここで生活していないせいか亜紀の関心を惹くようなものは何もなかった。
それっきり、話すこともなく彼らは黙った。
亜紀はきらきら光る目で彼を見上げた。真一もまた彼女を見下ろした。互いに何かを求めるように見つめ合った。亜紀が立ち上がると真一が前に出た。彼女も彼に近寄った。真一は覆い被さるように亜紀を抱いた。彼女は背伸びして彼の肩に顎を預けるのが精一杯だったが、両腕を彼の背に回した。
「嬉しいよ。こうして僕の部屋に君がいるなんて、ほんの少し前までは夢にも思わなかった」
「私もよ」
真一は一瞬抱く力をこめてからゆっくりと亜紀を離し、自分の唇を彼女のそれに合わせた。最初は優しく触れ合っていたが、次第に力が加わった。二人は何度か顔の向きを変え、互いの唇と舌を貪った。
亜紀の頬が紅潮し立っていられなくなった。このままいれば、その先を求めそうになると理性が訴えたとき、真一が静かに亜紀を離した。
「これ以上続けていたら、ブレーキが効かなくなりそうだ。そろそろ下に降りようか」
真一もまた同じ思いだったと知って安心した。
「少し化粧を直してから行くわ。ここには鏡がないから、玻瑠香さんの部屋で直してもいい?」
気を落ち着かせる必要があった。口紅が剥がれ紅潮した顔を彼の両親に見られるわけにはいかない。
「ああ、いいさ。先に降りてるよ」
彼が降りて行った後、亜紀は玻瑠香の部屋に入った。ベッドに机それに化粧台や箪笥まで置かれているから、8畳間でも手狭だった。それでも女の子らしく、自分で貼ったと思われる淡いピンク柄の壁紙の上に、贔屓としているのかJリーグ選手の大きなポスターが貼ってあった。机と箪笥の上には兄の海外土産と思しき3体の人形と写真立てが幾つも置かれているから、兄とは対象的に華やかだった。
写真は信州大学の正門前で兄妹親子並んで撮った幼いときのものと彼女の入学式の時のもので、箪笥の上の写真は兄と雄山の頂上で並び立ったものだった。
小さい頃の玻瑠香は可愛く、最近の彼女は若さに溢れいる。彼女の少女年代のときには亜紀は暗闇の世界にいたのだ。
これら兄中心の写真を見るだけで彼女に告白されなくても、兄に傾倒し思慕の念を抱いていることは明白だ。何も知らずにいる妹に、婚約したことを彼がどのように告げるのか気になった。すんなりと祝福はしてくれないくらいは想像がつく。それだけならまだいい。その後の彼女の行動が心配だった。自分に辛く当たってくるかもしれない。そのとき自分はどう対応すべきか、彼女のために何ができるか思案した。だが、いい考えは思いつかなかった。
玻瑠香の小さな化粧台の前に座り、化粧を直して下に降りると庸子は台所仕事をしていた。
手伝うつもりで狭いダイニングへ行くと棒が引かれた柱に目が行った。近くでそれを見るとそこには赤の色鉛筆で横棒がいくつも引かれて、その上に年月日と身長が書かれていた。
気配を感じた庸子が振り返った。
「ああ、それねえ、真一が玻瑠香の身長を測ってつけたもだよ。ここを出てからも帰ってくると必ず玻瑠香をそこに立たせて測っていたわね」
真一が幼い妹を柱の前に立たせて、仲睦まじく身長を測っている様子が亜紀の頭の中でまざまざと浮かんだ。 ここはまだ亜紀の立ち入る間隙のない真一と玻瑠香の住む世界だった。これからその間に入って行かねばならない。それにはまず玻瑠香に自分を認めさせることだ。それは簡単なことではないとわかっている。だが、それほど深刻には捉えていなかった。その自信の根源はと問われても答えは持ち合わせていないが、あの裏表のない玻瑠香となら互いにわかりあえる義姉妹になれると思った。
成瀬家にとって久々の4人となった食卓は賑やかで、二人の馴れ初めの話で盛り上がった。同じような話を何度聞いても両親にとっては嬉しいことだった。
亜紀も義母となる人と一緒に彼の幼い頃の話題で笑いながら後片付けしたことで緊張感はすっかり失せた。一つの話題が終わっても、あれが聞きたいあれも話したいと尽きなかった。
一方の男の方は静かで今後のことを話題にしていた。
後片付けも終わって、コーヒーとお茶を飲んで寛いでいると、正巳は何を思ったか真一に用事を言いつけた。
「済まんが、酒を買って来てくれないか」
「酒ならまだあるじゃないか」
「いや、年のせいか日本酒だとどうも悪酔いするようになってな、この頃は焼酎の方が好みになった。済まんが頼むよ」
真一は父親の意を察して立ち上がった。正巳が車のキーを渡そうとするのを断った。
「ここ3、4日食べてばかりで体が
財布を片手に家を出て行った。
玄関の戸が閉まる音を聞いて、正巳は形を改めて口を開いた。
「亜紀さん、真一と一緒になることを決心してくれてありがとう」
亜紀は頬を染めながら、いいえと言葉少なに答えた。彼がどのような話をしたのか知らないが、私の方が先に好きになったのに、彼が無理矢理私に結婚を申し込んだみたいに思われたようで面映かった。
「親馬鹿と笑ってくれてもいいが、あれはあれでできがいいんだよ」
「それはよくわかっていますわ」
正巳の言い方が可笑しくて笑いながら応じた。
「それに妹思いで、勉強もそうだが、娘の面倒もよく見てくれた。もう一人の子も賢かったようだが、あれも合気道ばかりしていて机に向かって勉強をしている姿を一度も見たことがない。それなのに不思議によくできて中学校のときからずっと学年トップだった。
何か深い事情があって置き去りにしたのだろうが、きっと賢いご両親だったと思う。ただ、高校生の時に不幸な出来事があったせいか、それからは女を遠避けて、誰かと付き合っていると言う噂話もなければ、女友達を家に連れて来ることもなかった。その辺のところを何か聞いているかい?」
その辺のことと言われて、すぐにあのことだとぴんときた。
「はい、真一さんが高校3年生の時に遭ったことでしたら、結婚を申し込まれた時に打ち明けてくれました」
「そうか。あのときのことを聴いているのなら安心だ。まあ、息子なりに整理をつけたから話せたのだろう」
「でも、あのときどうして起訴されなかったのかまでは知らないようでした。もし、起訴されていたら、別の人生になっていただろうとも仰っていました」
「そう言えば、息子に訊かれた覚えがある。まあ、親なら誰でもすることだから言わなかった」
他人事のように言った。
亜紀は和己が続きを話してくれるのかと待ったが、発言がないので問いたげに庸子を見た。
「そのときのことを亜紀さんに話してあげたら」
「うん・・・、そうか。そうだな。亜紀さんには話しておいた方がいいか」
真一も知らない何か秘密を打ち明けられそうで亜紀は
「いや、何も緊張しなくてもいいよ。ありふれた話だから」
そう言って、和己は彼女の家に行ったときのことを話した。
「息子の話を聞いて、私はすぐに彼女の家に行ったんだ。それは相手を訴えてもらうことだったんだ。悪いのは向こうの方だから、相手も考えを改めるだろうと思った。ところが婦女暴行は親告罪だから、彼女に訴えてもらわないことには事件にならない。だから、彼女の父親に訴えて欲しいと何度も頭を下げて頼んだ。ところが、中々それに応じてくれなかった」
「それはどうしてですか?」
自分の娘に暴行を加えられたのだから訴えて
「娘を送り届けると約束していながら、それを守らなかった息子に腹を立てていたんだ。それに、未遂とは言え、そのことが公になれば、娘の将来に傷がつくだろうし、後ろ指を指されることもあるかもしれない。それを心配したのだろう。それは同じ娘を持つ親として充分理解できた。だが、息子の将来を考えると、そのまま引き退ることはできなかった。だから必死になって頼んだ。そのうちに私の声を聞き付けたのか、彼女が2階から降りて来て、気丈にも訴えると言ってくれた。そのときは本当に嬉しかった。亜紀さんの前で申し訳ないが、息子が好きになっただけのことはあると感謝した。
それで翌日、彼女の親が警察に告発してくれた。慌てたのは向こうだった。恥になるから訴えないだろうと高を括っていたんだろう。彼らはすぐに訴えを取り下げた。提訴されて困るのは彼らの方だった。警察の話では、原告には補導歴が幾つもあって、起訴されれば少年院送りは避けられないだろうとのことだった。最終的には、向こうが彼女に応分の慰謝料を支払うことで和解が成立して告訴を取り下げた。まあ、そう言うことで起訴されずに済んだ。
息子の話では、その後一度も彼女とは顔を合わせていないらしい」
「それも聞きました」
「そのことを息子は随分気にしていたが、こうして亜紀さんを紹介してくれたのだから、吹っ切ることができたのだろう。家内も安心したと思う」
正巳は小さく頷く庸子を見やった。
「安心したところで、お願いすることだが聴いてくれますか?」
改まった正巳の調子に亜紀も姿勢を正した。
「何でしょうか?」
「あれは恋愛に対しては不器用で慎重だ。あんなことがあって誰も好きにならないで来たのだろう。亜紀さんにも色々と気苦労をかけたと思う。そんな奴が亜紀さんを婚約者として私らに紹介をしてくれた。ひよっとしたら一生独り身で通すんじゃないかと心配していたもんだから、私も家内も手放しで嬉しかった。
会った回数が少ないからと言って、そんなことは問題ではないと私も思う。私も家内も息子の性格を知っているから言えるが、亜紀さんのことを最後まで愛し抜くだろう。至らないところがたくさんあると思うが、息子の信じて支えてやって欲しい。息子のことをよろしく頼みます」
正巳はまた頭を下げた。
亜紀は親の子への思いと無垢の愛情を深く知った。そして、妻となる責任の重さも改めて知った。
「私の方こそ、薄学の私が成瀬家の嫁として務まるのか不安で一杯なのです。でも、私なりのやり方で精一杯真一さんの力になるつもりです。こちらこそよろしくお願い致します」
亜紀は後ろへ下がると頭を畳みにつけた。顔を上げると微笑む庸子の優しい目と合った。
「亜紀さんなら大丈夫でしょう。少しお話ししただけだけど、息子があなたを好きになったわけがよくわかりました。気負うことはないのよ。自然体のままでいいわ」
仲良くやりましょうと庸子が微笑んだとき、がらがらと戸の開く音がして、「只今」と真一の声がした。
「真一が帰って来た。さっきの話は内緒だよ」
正巳は唇を人差し指で当てた。
秘密にするほどのことでもないのに、何故内緒にする必要があるのだろうと思ったが、それなりの理由があるのだろうと黙っていた。
真一は部屋に入って焼酎の紙パックを置くなり愚痴をこぼした。
「一汗かいたよ。戻って来る時、悪寒がしたから俺のいない間に悪い噂を亜紀さんに吹き込んでいるんじゃないかと心配で急いで帰って来た」
どこまで本気か冗談かわからないことを笑顔で言った。
「ははは、馬鹿なことを言うな。亜紀さんのご家族のことを聞いていたんだ。せっかく婚約が調ったのに、嫌われて破談になったらどうする。そんな話をする訳がなかろう」
「真一さんが心配する悪い噂って何かしら。伺いたいわ」
正巳の冗談に亜紀も笑いながら同調した。
「それはな、亜紀さん。こいつはいつまでも女に関心を示さないものだから、ひょっとしたら、あっち方面じゃないかと親戚中で噂が立ったんだよ。それを心配しているんだろう」
「何だよ、あっち方面て。変なことを言うなよ。亜紀さんだって笑っているじゃないか」
ごめんなさいと亜紀は小さな声で詫びた。
「そら、何と言ったかな。お釜とか何とか」
「それを言うんだったら、ゲイだよ。心配しないで、亜紀さん。僕はあっち方面じゃないから」
真一が真顔で弁解したので、亜紀はクスッと笑った。
「独身を通そうとするこいつに母さんも心配して何度も見合い写真を送ったんだが、チラとでも見たとのかと思うくらい早く送り返してきたんだ。そんな奴が先日突然帰って来て、大勢映った写真を見せて、この人と結婚すると言い出したもんだから驚いた。その気になったのも嬉しかったが、その気にさせた人に早く会いたかったのが本音だったんだよ。空港であなたを一目見たときに成程と思った。あなたなら息子も好きになるはずだと納得した、なあ母さん」
よほどそのことが嬉しかったのか、同じことを言って亜紀を恐縮させた。
「ええ、空港でお会いして、すぐに私もそう思いました。年も年だから、誰でもいいと思っていたけど、亜紀さんを見て安心したわ。後片付けのお手伝いまでしていただいて、呑み込みが早い上に動きに無駄がないから感心したの。息子には勿体ないわ」
「そんな。私はお母様が思われるほどの嫁ではありませんわ。きっと行き届かないところがたくさんあると思います。お母様から見て
亜紀はあからさまに褒められて、身の置き所がなかった。
「亜紀さん、謙遜しなくてもいいわ。今は昔と違って、嫁も姑も対等だから何もそこまで入れ込むことはないのよ。私の方こそ、至らない息子でしょうけど宜しくお願いします。これで、やっと肩の荷が一つ下りるわ。後は娘を嫁に出すだけ。これも問題だけど」
庸子は明るく笑った。
写真で見て真一から聞いて、気難しい人を予想していただけに、意外にもよく話すし優しい感じで安心した。
真一が亜紀の父から託された用件を両親に告げると驚きはしたが、それで結構だと同意した。信州で暮らすことについては、娘の意見を聞いて判断したいと態度を留保した。
それから、庸子がアルバムを持ち出して来て、その時の写真を話題に真一のことを面白おかしく聞いた。
(二)
彼らは一泊しただけで、慌ただしく信州へ戻って行った。寂しげな表情で見送る両親に亜紀は申し訳ない気持ちで一杯だった。
「もう少しゆっくりしてもよかったのに。お父様とお母様に申し訳ないわ」
「彼女との約束があるから、今回は勘弁してもらう。親父とお袋には遠藤家へご挨拶に伺うときに僕も同行するから、そのとき一緒に東京見物でもして親孝行をするさ」
真一はそう弁解した。
「お袋が感心して君を褒めていたよ。よく気が利いてしっかりしているようだから、お前にはぴったりだろうって。安心して任せられるってさ。お袋にすれば僕はまだ子供で頼りなく映るんだろうな」
「そんなことはないでしょうけれど、私も安心したわ。話だけを聞いて、気難しいお母様じゃないかと心配したけれど、気さくに話しかけてくれて、あなたのいないときによくお話ししたわ」
「だから言っただろう。何の心配もいらないって」
「お父様もいい方だわ。あなたにちゃんと訓示をしてくれて。嬉しかったわ」
それは駅まで見送りに来て別れ際に、亜紀の父親と同じことを言ったことだ。
「結婚してお前も家族を持つことになる。いずれ子供が生まれて家族も増えるだろう。亜紀さんはもちろん子供にもお前が責任を負うことになる。いいこともあれば苦しいことや悲しいことがあるだろう。結婚するとはそういうことだ。そんな時も二人して支え合っていけば怖いことは何もない。それと玻瑠香のこともこれまで通りよろしく頼む。血は繋がっていなくとも妹には違いない。亜紀さんも玻瑠香のことよろしくお願いします」
亜紀には初めての関西で、電車に乗っても関東にはない雰囲気や地名が物珍しかった。 それでも特急が天王寺駅に近付くにつれて次第に緊張して来た。彼の昔の恋人に会うことに同意したものの、会ってどんな顔をすればいいのか。今愛されているのは私だからと言い聞かせても一抹の不安があった。会う以上は元カノに少しでも彼に相応しい女だと思ってもらいたかった。
天王寺駅で環状線に乗り換え、桜の宮駅で下車すると、川向うに4棟の高いビルが見えた。
「あれが大阪帝国ホテルだよ」
一番手前の建物を指差して言った。
「来たことがあるの?」
この辺のことを熟知しているようなので訊いた。
「ああ、社会人だったとき施主の会社があそこのOAPビルにあって、設計の協議に何度か足を運んだことがあるんだ」
一際高く大きい丸っぽいビルを指差した。
「向こうの方に橋が見えるだろう。あそこ右側に造幣局があって、桜の開花時期になると桜の通り抜けと言って構内が解放されるんだ。桜の樹の数もそうだが、見たこともない桜も多い」
「よくご存知ね。来たことがあるの?」
「ああ、妹にせがまれてね」
また、玻瑠香さんだ。本当に妹思いねと一言皮肉を言いたくなるのを思い留まった。
大阪帝国ホテルに向かって源八橋の上を歩いていると真一が亜紀に言った。
「亜紀さん。ここまで来て悪いが、ホテルに隣接しているOAPプラザで待っていてくれないか」
亜紀は立ち止まると真一を見上げた。
「あら、どうして?私もあなたの元彼女にお目にかかりたかったのに」
会ったときの不安を押し隠し悪戯っぽく応じた。
「道々考えると、今の彼女の生活を知らないことに気が付いた。そんなことはないと思うのだが、もし世帯やつれなどしていて、そんな姿を前触れもなく君に見られたら女性として嫌だろうと思うんだ」
あら、よく気がつくことと皮肉混じりに思ったが、口には出さなかった。
「あそこの1階と地下にレストランやカフェがあるから、そこで食事でもして待っていてくれないか」
元カノが元カレに会いたいと言っている以上、懸念するような姿では来ないのではないかと思ったが、彼が心配するのも一理あると思った。彼女の立場に立って考えると、疎遠になった仲とはいえ、いきなり婚約者を紹介されたら動揺するだろう。
「わかったわ。仰るとおりにするわ。会わせたくなったら電話を下さる?」
「そうしよう」
橋を渡り終えると、そこから下に降りて、淀川支流の大川に沿う桜並木の散歩道を腕を取り合いゆっくりと歩いた。
幅広いグリーンベルトの青々とした葉が木陰を作り、所どころ歩道脇にあるベンチではOLやワイシャツ姿のビジネスマンが弁当を広げたり読書を楽しんでいる。ビジネスパークの呼び名に相応しい景色だ。
遊覧船の船着き場の幅広い階段を上ると、そこがOAPプラザのホールだ。その地下には飲食店などがある。昼休み時間なので大勢の人が出入りしていた。
短い距離だったが、腕を取り合い寄り添う姿は誰の目から見ても完全な恋人同士だった。
亜紀はそこで真一から離れ、小さく手を振るとその手の人差し指を前に指した。その先にはベーカリー・レストランがあった。
真一は手を軽く振り返し、彼女がそこに入るのを見届けると踵を返して大阪帝国ホテルに向かった。
約束の時間より早く着いた真一は、待ち合わせ場所のロビーラウンジで元カノが来るのを待った。この時間ピアノとバイオリンの生演奏の音楽が控え目に流れてゆったりとした空間だ。
もうそろそろかなと時計を見たときに、淡い藤色のワンピース姿の女性がロビーの方からやって来た。その女性が真一と目が合って彼女が軽く手を挙げた。昔のように時間は正確だった。
にこやかに微笑む小肥り気味の女が元恋人だとは咄嗟には認識できなかった。彼の頭にある彼女は少女時代の面影をそのままにして現在の年齢に置き換えただけだったからだ。
彼女の変わりように戸惑いを覚え、手を挙げ返すのが少しばかり遅れた。それでも余裕を見せて満面の笑みを浮かべて立ち上がり彼女を迎えた。
卒業式を前に彼から離れて十数年を経て面前に現れた元カノは、待ち合わせして会う度に頬を染めていた恥ずかしがりやの少女ではなく、それなりの年輪を重ねた落ち着いた女性になっていた。だから記憶にある彼女と中々合致させることができなかったのだ。微笑んだ目元だけが辛うじて昔の名残を留めていた。これだけ変貌するものかと妙な感慨が湧いた。それを押し隠して無難な挨拶をした。
「やあ、久し振り」
差し出した手を彼女が軽く握り返した。
「お久し振りね。何年振りになるかしら?」
落ち着いた返答ぶりだと真一は思いつつ、世帯やつれをしていないようで内心ほっとした。
「君が来る前に数えたら12年余りになる」
「あら、そんなに」
彼女は一歩下がると元カレをわざとらしくしげしげと見た。昔の彼女なら決してしない仕草だった。
「少しも変っていないわね。一目でわかったわ。あの頃は子供っぽかったけど、大人の風格が出て男前に磨きがかかって」
昔はこんな言い方はしなかった。余裕のある応対に、いかにも年輪を重ね風雨の下を潜ってきた主婦らしさを思わせた。
「ありがとう。君もいい方に変わったな。すぐには君とわからなかった。落ち着いていい女になった。少しふっくらしたか?幸せ何とかって奴かな」
わざとらしく同じように真一も元カノを上から下までゆっくり見て印象を口にした。
「嫌だわ。あまりジロジロ見ないで欲しいわ。これでも気にしているんだから」
彼女は腰に手を当て磊落に笑った。
昔はこんな笑い方はしなかったとまた真一は思った。
真一もそうかと笑いながら応じて、立ってないで座ろうと椅子を勧めた。
昔の恋人と会って少しは動揺するかと思っていたが、平常心でいる自分に安心した。
彼女の容姿はすっかり変わってしまい、話しぶりも今のように恥じらいを含んだかっての乙女のものではなく、自分から積極的に話す彼女でもなかった。12年の歴史がそうさせたのか、それとも隠された彼女の地だったのかわからないが、二人を隔てた空間と時間の相違を如実に露わにし、饒舌に話す彼女に違う人を見る思いがした。彼らはもはや精神的にも立場的にもかつての恋人同士ではなかった。無情な時間が彼らの間も想い出も過去に流してしまっていた。
注文を取りに来たウェイターにコーヒーを注文すると、真一は銀色に光る左手薬指の指輪にちらりと見やって近況を尋ねた。
「小坂から聞いたが、子供が二人いるんだって」
「そうなの。上の子が女の子で下の子が男の子。幼稚園と保育所に通っているの。手がかかって大変なのよ。あの頃とは随分変わったでしょう」
「そうだな、年を感じるな。12年も経てば子供がいてもおかしくないか」
当たり前の現実に、独身を徹していたせいか、自分だけが時が止まっているように思えて実感が湧かなかった。
「それで幸せなんだな?」
「ええ、幸せよ。でも、こんなこと改めて言うと少し照れくさいわね」
「それならよかった。安心したよ」
それが真一にとって一番確かめたかったことだった。 会いたいと言ってきた以上、そのようなことはないとい思ってはいても、もし不幸な生活を送っているとしたら彼もやりきれない。見た限りではその懸念はなだそうだった。
「心配かけて悪かったわ。何度も家に訪ねてくれたのは知っていたの。わざとそうしようと思っていたわけじゃないけど、すぐに連絡すればよかったのに中々出来なくて。気になっていたのに時間が経つにつれてかえって連絡し辛くなったの。本当に申し訳なかったわ。御免なさい」
両手を膝に置き頭を下げた。
「その話はやめよう。昔のことだ」
「そうね、昔の話ね」
膝に置いて手に目をやったまま静かに言った。そして頭を上げて元カレを見つめた。彼の瞳は穏やかで付き合っていた頃と変わっていなかった。ほっと一息つくと言った。
「成瀬君は信大の准教授だって?やっぱり秀才は出世も早いわね。ところでどうなの、小坂君から電話をもらったときに訊いたらまだ独身だって?とっくに結婚していると思っていたのに。いい人はいなかったの?」
「いや、近々結婚しようと思っている」
当然その話になると思っていたので、自然に答えることができた。
彼女は大仰に目を見張った。
「あら、そうなの」
少し胸がチクリとした。
「おめでとう。どんな人?」
あの出来事がなければ、あの時すぐに連絡をとっていれば、この小さな胸の痛みもなかっただろう。そんな気持ちを押し殺して元カレを祝した。
「どんな人って・・・」
その答えは用意していなかっただけに言い淀み、少し考えて答えた。
「そうだな。小さい頃に不幸を背負い込んだけど、その不幸を不幸と感じさせない芯の強い人かな。君と同じで、自分のことよりも他人のことを思い遣る人だよ。この人となら生涯を共にしてもいいと思った。そんな気にさせたのは君と彼女だけだ」
「それは光栄だわ。あなたは昔からそうだった。少し不幸を背負っているような人を好きになる傾向があるのよ。私の時も父と二人だけだったから苦労をしているように見えたんでしょう?」
言われてそうかなと頭を傾げたが、確かに否定はできない面もあると初めて気が付いた。好きになった女だけのことはあると彼女の洞察力に感心した。
「それで、あなたの感性にぴったり合ったわけね。今更だけど少し妬けるわ。あなたが選んだ人ってどんな人だか見てみたい気もするわ」
左手でコーヒーカップを口に持って行くとき銀色の指輪が光った。
「いや、実は親父とお袋に紹介してきたばかりなんだ。ここまで一緒に来て近くで待たせている」
真一は照れくさそうにコーヒーカップをテーブルに戻しながら言った。会うまでは慎重だった彼もこれなら亜紀に合わせてもよいと判断した。会わせて元恋人を安心させようと思った。
「あら、そうなの」
意外な返答にこのラウンジにいるのかと周りを見渡したが、それらしい女は見当たらなかった。いつの間にかピアノとバイオリンの演奏は終わっていた。
「それじゃ、早く呼んであげなさいな。どんな人だか私も会って見てみたいわ。あなたのことだから私達のことも話したんでしょう?」
「ああ、君に悪いとは思ったが、全て話した」
「だったら、その人だって私を見たいんじゃない?どんなおばさんなのか」
ふふふと笑った。
「それはないだろう・・・。会わせてもいいが、その前に君のことを聞きたい。ずっと気になって仕方がなかった」
「だったら、それこそここに呼ばない?」
「今?」
彼女の真意がわからず元カノの顔をまじまじと見詰めた。
「そんな顔をしないで。別に他意がある訳じゃないのよ。直接その時のことを聴いてもらった方がいいと思ったの。私の口からも聴きたいでしょうし。でも気が進まないんだったらいいわ」
どうするかあなたに任せると言った風に、彼女はコーヒーをまた一口飲んで悪戯っぽく彼を見詰め返した。
「わかったここへ呼ぼう」
少し考えて答えると、真一は一旦ラウンジを離れ亜紀をスマートフォンで呼び出した。短い通話を終えて席に戻ると、亜紀が来るまでの間互いの近況を報告し合った。
元カノと主人とのなり染めや子供達のこと聞き終えると、真一は婚約者のことを詳しく訊かれた。
「それでいつ式を挙げるの?」
「まだ決めてはいないが、年内にはと思っている」
「あら、そうなの。それは、おめでとう。それで・・・」
元カレの目線が自分の肩越しにあるのを見て、彼の婚約者が来たことを悟った。だが、彼女は振り返らなかった。元カノとしてのささやかなプライドがそうさせた。
真一は笑顔を浮かべて軽く手を挙げると立ち上がった。その仕草と笑顔はかって自分に向けられたものだった。そう思うと元カノは、またちくりと胸が痛んだ。
こうこつと靴の音がして、婚約者が彼の横に立ったのを知った。しかし、元カノは顔を上げることなく、カップを持ちそのまま座っていた。
「来る前にお化粧を直してたものだから、遅くなってごめんなさい。お待ちになりまして」
低音だがはっきりとした小さな声が降りて来た。口調はゆったりとしたものだったが、どこか意識的な媚を含んでいるように元カノは感じた。
「いや、それほどのことはないよ」
彼女が自分を見たような気がして、元カノはゆっくりと立ち上がった。そして彼に寄り添うように立つ細身の婚約者を見て、そんな資格はないと頭ではわかっていても軽い嫉妬を覚えた。
彼の婚約者は彼女の予想を超えた容姿を持っていた。それもお似合いのカップルだと認めて少々二人が憎らしくなった。
亜紀は元カノに向かって小さく頭を下げた。彼女も礼を返しながら亜紀を上から下まで目だけで追った。高価なものではなさそうだが、白地に淡い朱と緑の花を散らしたワンピースが細身で上背のある彼女に合っていた。指輪ははめていないが、白く細い首に金色の鎖、その先の胸元には小粒のダイヤモンドが光っている。それは婚約指輪の代わりにと彼にねだったものだった。
紹介するよとの声で目を元カレに戻した。
「僕の婚約者の加辺亜紀さん。出身は埼玉県の川越だけど今は長野に住んでいる」
亜紀は元カノの前ではっきり婚約者と紹介してくれたことが誇らしかった。
「初めまして、加辺亜紀と申します。お目にかかれて嬉しいですわ」
真一の元カノに気後れすることなくしっかりとアイコンタクトをとって挨拶した。
次いで真一はかっての恋人を亜紀に紹介した。
「この人が12年振りに会った小宮山鈴子さん。今は結婚して後藤さんだけど」
「私の方こそ、あなたにお会いできて嬉しいわ。成瀬君と同級生だった後藤鈴子です。綺麗な方ね、成瀬君が好きになるのも無理ないわ」
年上の余裕が彼女をそう言わせた。
容姿だけで選ばれたような言い方に聞こえて亜紀は内心むっとしたが、鷹揚に微笑んで聞き流した。
目の前に立つ元彼女は写真で見た印象とは大きく異なっていて亜紀も戸惑いを覚えた。艶然と微笑み相対している女性は化粧を施しているが、目尻の小皺は隠しようがなく年月の残酷さを彼女に教えた。
見詰め合っている二人に真一は座ろうと声をかけた。はいと答えて亜紀はゆっくりと彼の横のソファーに腰を下ろした。それを見た鈴子はまた小憎らしく思った。その感情を押し殺して、自分の前に座る元カレとその婚約者を交互に見やり、亜紀が紅茶を注文し終わるのを待って鈴子が言った。
「お似合いのカップルだわ」
「お世辞はいいよ。それより、こうして紹介したことだから、あれからどうしたか話してくれよ」
「何のこと」と亜紀に訊かれて、真一が経緯を説明した。
「亜紀さん、とお呼びしてもいいかしら?」
「結構ですわ。その方が呼ばれ慣れていますから」
やや堅苦しく答えた。
亜紀は鈴子に対して元彼女との意識が拭えなかった。それにさっきから彼女に見詰められて、値踏みでもされているようで反発を覚えてもいた。
「お話をする前に、あなたが同席することを言いだしたのは私だけど、よかったのかしら?」
「ええ、是非お聞きしたいわ」
さあどうすると挑戦的に言われたような気がして、それを受けて立つ気持ちで答えた。
「だったら、お話しするけど、どこから話したらいいのかしら?」
元カノの問いに真一はあの事件があって家に戻ってからのことを尋ねた。
初めから訊かれると思っていたのだろう、鈴子は冷めきったコーヒーを一口飲んで静かに語り始めた。
「あの後、成瀬君が父に謝りに来たことは知っていたのよ。父に叩かれてもじっと耐えていたことも。
あのときの私はショックのあまり気が動転していて、成瀬君を放って逃げたのに気が付いたけど、恐かったのと恥ずかしさでどうすることもできなかったの。
父は乱れた服装で帰って来た私にびっくりして、何があったと詰問されたけど、何も言わずに自分の部屋に鍵をかけて閉じ籠ったわ。ぶるぶる震えて着ているものを全部脱いで着替えようとしたけど手が震えて中々脱げなかった。暴漢に触られたところが汚しくて、それも洗い流したかった。だけど、父がいるからそれもできずに壁にもたれて膝を抱えて泣いていたわ。
やがて、下から成瀬君と父の声が漏れ聞こえて来たわ。でも、降りて行くことができなかった。好きな人の前であんな姿を晒したのが悔しくて恥かしくて出ることができなかったのよ。そうしたら、怒声がしたかと思うと頬を叩いたような音が何度もしたわ。バシバシって。何か誤解をして叩いているだと思ったけど、私は竦んで動くことができずにその晩は一睡もしないで部屋から出ることはなかったわ。
翌朝父に昨日のことを訊かれて、少しは冷静になっていたからその時のことを話したわ。帰り道で暴漢に遭ったって。怒りが収まってから真一くんから事情を聞いていたのか、あまり詳しく訊かれなかった。その代わり、学校へは行くなと命令されたわ。私だって行くつもりなどなかった。それで成瀬君とは一度も会わないで卒業を前に上京したのよ。
小坂君から聞いたわ、何度も私を捜したって。これまで心配かけてごめんなさい。成瀬君には悪いことをしたと思っているの。これまで本当にごめんなさい。
あれから何年かして父も転勤であの家を離れたし、私も大学卒業後就職して同じ職場の先輩だった人と結婚したから一度も田辺には帰っていないの。もちろん、クラス会にだって一度も出席したことがないわ。だから小坂君から電話があった時は驚いたし、あなたが私に会いたがっていることに心を痛めたわ。だから遅まきながらあなたに会ってお詫びをしたいと思ったの。でもこうして亜紀さんのような婚約者がいて安心したわ」
真一は最後まで目を逸らさず傾聴した。
話し終えてしばらく無言の間があったが、亜紀が静かに口を開いた。
「後藤さん、私から一言いいかしら?」
敢えて結婚後の姓で呼んだ。真一は何を言い出すのかと亜紀を見た。
「何かしら?」
「真一さんから後藤さんに遭った出来事を聞いたとき、同じ女性として深く同情しました。自分に置き換えても恐らく後藤さんと同じような行動をとったと思います。でも、後藤さんは真一さんを愛していたのでしょう?だったら、どこかへ行く前に真一さんと一度でも会うべきだったと思います。会って、どうしてもっと早く助けに来なかったのかと詰ってもいいし、悲しかったのならその気持ちを素直にぶつけるべきでしたわ。精神的に深く傷ついたのは理解できます。でも、少し考えれば真一さんも同じように自分の恋人を守れずに傷ついていたこともわかるはずだわ。
後藤さんを慰めて癒すことのできるのは真一さんだけだし、真一さんを立ち直らさせられるのは後藤さんだけだった。それを自分だけが被害者のように、何も告げずに一方的に離れてしまうなんて卑怯だわ。そのために、どれだけ真一さんが苦しんだか・・・」
次第に感情が高ぶってきて最後の方では涙声になった。そんな彼女を真一は驚きの表情で言った。
「亜紀さんもういいよ。昔のことだ」
真一が亜紀の肩に手を置くと、彼女は声を殺して泣き出した。
「ちょっ、ちょっと亜紀さん」
真一はおろおろして慌ててハンカチを取り出して手に持たせた。
「済まない。彼女は少し感情的になり過ぎたようだ」
亜紀も、あなたの気持ちも知らないのに言い過ぎだったと鈴子に詫びた。
鈴子は亜紀に非難されたことよりも、彼が彼女の側に立って詫びられたことにショックを受けた。自業自得とは言え無慈悲な時間が完全に二人の間を裂き、元カレの気持ちが一片たりとも自分にないことを思い知らされたからだ。
「謝らなくてもいいわ、その通りだもの。でもね亜紀さん、もしあのときあなたの言うように成瀬君に会っていたらどうなっていたと思う?私もきっと違った人生を送っていたでしょうね」
鈴子の意地悪い言葉に亜紀ははっと顔を上げた。自分に向けられた発言だと思った。もしそうしていたら、そこに座っているのはあなたではなくて私だったと。亜紀は瞬時にそのことを悟ると急に恥ずかしくなって顔を伏せた。
鈴子は亜紀に
「それに、きっとこの人は責任を取るなんて言い出して私を困らせていたわ。だって、未成年だった私にまだそれだけの心構えも覚悟もないもの」
確かにそうだ。彼にはそんなところがある。そのことに彼女が気付いて自分がそれに思い至らなかったことに人生の未熟さと羞恥心を覚えた。
亜紀が赤くなったり白くなったりしているのを見て、鈴子は言い過ぎたかなと少し反省した。
真一は鈴子の仮定の話に応じず話を変えた。
「訴えられて起訴されそうになったんだが、どうしてか取り下げられた。親父に訊いてもはぐらかせて教えてくれなかった。その辺のことを知っていたら教えてくれないか」
ああ、そのことと鈴子は軽く応じた。
「それは、成瀬君のお父さんが父に暴行未遂で逆提訴して欲しいとお願いに来たからなの。お父さんは何度も頭を下げて父にお願いしていたけど、表沙汰になったらと私のことを慮ってうんと言わなかったの。
私は成瀬君が訴えられているなんて知らなかったから、びっくりして私のことはいいから父に訴えてと頼んだのよ。父の話では逆提訴された親たちが慌てて訴えを取り下げて和解したそうよ」
「そうだったのか。やっぱり親父がお願いに行ったんだな。君がお父さんに頼んでくれなかったら僕はどうなっていたかわからなかった。ありがとう」
「いいのよ。当たり前のことだもの。それに、それくらいしかできなかったもの。もう、これくらいであの時の話は止めましょう。それより、あなた方のことを聞きたいわ」
真一が亜紀の出会いからのことを横に座るー婚約者が失明していたことや修一のことを省き簡略に話した。その後、亜紀の要請で彼らの高校時代のときの話になった。そんな話題になると亜紀もようやく和んだ。
「真一さんの高校生時代はどうだったのですか?」
そんな話はいいじゃないかと真一は制したが無駄だった。
「成瀬君?成瀬君は1年から3年までずっと学年トップだったわ。成績優秀で容姿もこのとおり、それにスポーツ万能でしょう、少し気難しいところがあったけど、明るい性格で分け隔てしないから男子からも女子からも人望があったわよ。だから、生徒会長に2度も選ばれたのよ。大学受験のときは担任の先生も校長先生も教頭先生も東大か京大入学を期待して熱心に受験を勧めたのよ。それなのに、地方の信州大学を受験してしまったでしょう。何故だったかわかる?」
「ええ、確か山が近くにあるからって」
それを聞いた真一は何故知っているんだと問いたげに亜紀の顔を見た。
「そうなのよ。東大を蹴って地方の信州大学を受験したも驚きだったけど、その理由を知ってみんなぶったまげたわ。何を考えているんだって、しばらく大騒ぎだったわ。担任の先生は教頭先生や校長先生に叱責されたみたいだけど、この人はどこ吹く風だったわ」
亜紀もその時のことを想像して鈴子と一緒に笑った。
「その反対に私はね、成績が悪くて第一志望のお茶の水女子大なんかそれこそ絶対無理と逆の太鼓判を押されていたの。それが、成瀬君と付き合いだしてから勉強を教えてくれてそれで合格できたのよ。その時から教え上手だったから教師に向いていたのね。
私が合格したと知った時の担任の先生の驚き様を今でも覚えているわ。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、本当かって何度も訊かれたわよ。きっと奇跡が起きたみたいに思ったのでしょうね」
その時のことを思い出したのか、一人笑った。
「そんな彼だからもてたと思うでしょう。でも、女生徒には敬遠されたのよ。私達女子にしてみれば、頭はいいし正義感は強い、スポーツは何やらしてもできるし、顔だってこの通りだから高嶺の花の存在だった訳。だから付文も本命チョコもなかったと思うわ。ね、そうでしょう?」
「さあ、どうだったかな。忘れた」
気のない返事をした。
「相変わらずね。誰とも付き合おうとはしないから、やっかみ半分で女嫌いとの噂が立ったわ」
いい加減にしろと真一は彼女を遮った。
「相変わらずね」
鈴子は笑った。
「それはそうと、あなたの妹はなんて言ったかしら?」
「玻瑠香か?」
「そうそう、玻瑠香ちゃん。会ったのが確か四、五歳の時だったけど、目がクリクリして可愛かったわ。大きくなったでしょうね」
「ああ、背丈だけは随分高くなった」
真一が気のなさそうな返事をするので亜紀が補足した。
「びっくりするくらいの美人なの。今は信州大学に入学して真一さんの教え子でもあるのよ」
「あら、そう。妹想いだったから、嬉しいでしょう?」
「そんなことあるか、口煩くて敵わん」
自分の話題で居た堪れなくなったのか、ちょっと失礼とトイレに立った。
「それで鈴子さんは昔から真一さんのこと知っていたの?」
真一の後ろ姿を見やりながら訊いた。
「私?私は成瀬君が生徒会長だったから、もちろん知ってはいたけど、彼は私をクラスが一緒になるまで知らなかったみたい。それはそうよね、私はこのとおり美人でもないし、それに大人しいだけでクラスでも目立つ方じゃなく成績もよくなかったから鼻もひっかけてくれるわけはないとわかっていたわ。だから、どちらかと言えば彼のことを斜めから冷ややかに見ていたわ。だって、勇気のある何人かの女子が交際を申し込んでいるのを噂で聞いていたし、彼がやんわり断っていたことも耳にしていたもの。
それが、ある日突然誰もいないところでいきなり交際を申し込んで来たでしょう。もうびっくりして何かの冗談か悪質な悪戯だと思ったわよ。それこそ悪ガキ共のドッキリかって」
彼女はほほほと笑った。
「それで、なんだかんだがあって交際を始めたけど安心して、父の言いつけを守ってずっと紳士だったわよ」
「どうして、真一さんとの交際を秘密にしたかったの?」
鈴子はそんなこともわからないのかと呆れた表情で答えた。
「だってそれはそうでしょう。私が成瀬君と付き合うだなんて誰が見ても不釣り合いだもの。もし誰かに知られたら、みんなの妬っかみを買ってしまうわ。それこそいじめに遭いかねないわ。いくら開放的な土地柄とはいっても女同士とはそんなものよ。成瀬君は正々堂々としたかったみたいだけど」
それから、彼女の卒業後のことを聞いていると、真一が戻って来た。
それをきっかけに鈴子が腕時計を見て驚いた風を見せた。
「あら、もうこんな時間。子供を迎えに行く時間だわ」
慌ただしく立ち上がった。二人も立った。
「今日はありがとう。久し振りに会えて嬉しかったわ」
「僕の方こそ、君の元気な姿を見て安心した」
彼女が差し出す手を真一は握った。
鈴子は亜紀に向き直ると、にっこり微笑んで同じように手を差し出した。亜紀も
「お会いできてよかったわ。それだけでもここに来た甲斐があったわ。私に言う資格はないけど、彼のことをよろしくね」
「私も鈴子さんにお目にかかれて嬉しかったわ。真一さんのこと守って下さってありがとう」
「あらまあ、すっかり彼の妻ね。またまた妬けるわ。忘れなかったらでいいんだけど、結婚披露宴に呼んでくれたら嬉しいわ」
「それはもう、必ずご招待します」
「ありがとう、お幸せにね」
鈴子は手を振ると一度も振り返らずにホテルを出て行った。
後日、亜紀は鈴子から招待状の返信葉書を受領した。そこには欠席させていただきますとあって、余白に小さな文字で、ご結婚おめでとう、お幸せにと認められていた。それを聞いた真一はそうかとだけ答えた。
真一はかっての恋人を見送ると、ふっと大きく息を吐いた。
「お疲れ様」
亜紀は彼の腕を取って微笑んだ。
「君の方こそ気を使って疲れただろう。君達だけで盛り上がっていたな。何を話していたんだい」
「いろんなこと」
随分参考になったわと意味深に見返したが、それを明かすことはなかった。
「あなたが見染めた人だけあって素敵な方だったわ。お会いしてよかった」
本心だった。元恋人と言わないところが、彼女のささやかな抵抗だった。
「それで、完全にふっ切れましたの?」
「ああ、彼女を見て安心した。話していながら、過去の人だと改めて認識したよ。僕の目に映るのは君だけだ」
亜紀を引き寄せて、彼にしては歯の浮くようなことを言った。
「盛蔵さん達が僕らを待っているから、遅くならないうちに新幹線に乗ろう」
ホテル前から10分間隔で出ている梅田行シャトルバスに乗り込むと、真一は窓側に座る亜紀に小声で話しかけた。
「君があんなことを言うなんて驚いたよ」
亜紀は彼のあんな事とは何かすぐに察した。
「あのときはあの人の身勝手な行動に腹が立って、真一さんが可哀想だと思ったの。だって、そのお陰で恋愛に臆病になったのでしょう?
あんな事情があったとしても、あなたが何度もお父様のところへ足を運んだことは知っていたのだから、会おうとすればいつでも機会があったと思ったの。少なくても結婚するときはあなたに連絡すべきだったわ。それなのに、今日まで連絡を取らなかったなんて許せないと思ったの。私だったら絶対にそんなことはしないわ。でも、鈴子さんから言い返えされたときは恥かしかった。あそこまで思い至らなかったもの。さすが、あなたが好きになった人だけのことはあると心の中で称賛してしまったわ。確かに、あなたが言うように鈴子さんは大人だったわ。でも、そのお陰と言っていいのかしら。こうしてあなたと一緒にいられるのだから皮肉なものね。間接的にあの人が私達のお仲人さんだったのね」
「正直僕は嬉しかったよ。君が僕のことを真剣に考えていることを知って」
「それはそうよ、婚約者だもの。それでどうだったの、元の彼女に会って?」
「そうだな。すっかり面変わりしていてすぐには気が付かなかった。あんなにも変わるものかと驚いたが、世帯やつれしてなくてよかった。主婦としての風格が感じられたな。子供も二人いて、ちゃんと所帯を持って生活している訳だから、もう気にする必要はないなと思った」
「完全にふっ切れたと思ってもいいのね?」
「もちろんさ、今は君とのことで精一杯。婚約者として両親に紹介ができたから嬉しいよ。もうお互い過去の話をするのは止めよう。これからは僕らの未来の方が大事だ」
亜紀は重ねられていた真一の手を握った。
(三)
二人は新大阪駅で新幹線に乗ると、今後のことについて話し合った。
先決事項は挙式日のことだ。これを決めないことには何も始められなかった。
「問題はペンションだけど、既に宿泊の予約が入っているだろう。と言って、みんなの都合に合わせているといつまでも決まらないから、僕達だけで一先ず決めておこうと思う」
亜紀もそうねと賛成した。
真一は小さな手帳を取り出してカレンダーを亜紀に見せた。彼女は体が彼に触れるほどに身を寄せた。
「年内と言えばあまり日がない。9月も半分過ぎたから11月か12月でどうだろう」
亜紀もそうねと言ったきり、後のことを思い合わせて決めかねた。
「少し忙しいけど、思い切って結婚披露宴を11月3日のグリーンハウスの完成日に合わせて広場でやったらどうかな。紅葉もまだ綺麗だと思うし」
真一の提案に対し、亜紀は幾ら何でもと逡巡を示した。披露宴の前に挙式をしなければならないから日がない。
「それだと1月ほどしかないわよ」
「それはそうだが、何か準備することがある?挨拶だけで結納はしないことになったんだし、離れの改装は間に合わないだろうが、当座の部屋はいくつもある。マンションも今のままだから引越しをする必要もない」
「それはそうだけれど・・・」
「結婚指輪は挙式の日を連絡して刻印してもらうだけだから問題ない。結婚式の衣装は貸衣裳屋で選べばいいだろう。それとも仕立ててもらうつもりかい?」
「それはないけど・・・」
亜紀は自分なりの準備や予定を思案して考え込んだ。結婚式と大仰に考えていたが、身内だけの挙式なら式場さえ確保できれば彼が言うようにすることもそれ程なさそうだ。披露宴は彼に任せておけば加辺家の人達とうまくやってくれるだろう。顔を上げると結論を下した。
「いいわ。その日にしましょう」
「となると、結婚式はそれより早く・・・。行って帰って・・・と」
またカレンダーを見た。
「結婚式から帰ってすぐの披露宴だと何かと大変だから、挙式はそれより10日ほど前の日曜日にしよう。前日の土曜日に長崎で一泊して挙式が終わったらその足で帰って来る。慌ただしい往復となるけど、ペンションの完成披露や結婚披露宴の準備、それに新婚旅行の用意もあるから」
「私はそれでもいいけれど、長崎でするなると式場が遠いからお爺さんが心配だわ」
「帰ったらそれも相談しよう」
名古屋駅で特急に乗り換えると新婚旅行の話になった。
「参考までに訊くけど、どこへ行きたい?」
「急なことで何処とは決めていないけれど・・・、出来れば時期的に寒くなるから暖かいところの方がいいわ。でも、皆んなで行くのならお爺さんのことを第一に考えないと」
「そうだな。新婚旅行と言うより家族同士の親睦を図ることが目的だから、あちこち観光に行くより、のんびりと過ごせるリゾート地がいいな。プールサイドで寝そべって本を読んだり、海で泳いだり、気が向けば近場を観光したり、ときどき買い物に出かけてカフェでおしゃべりするといった風に。贅沢な旅行だが、どうだろう?」
「私もゆっくりしたいからそれでいいと思う」
彼と二人、水着姿でゆったりと海辺のビーチチェアーで寝転んでいる姿を想像して、楽しい旅行になるような気がした。
「もし一週間ほど滞在するなら、多人数だからホテルよりも短期滞在用のホテルアパートメントかコンドミニアムを借りた方が安くつくと思う。食事も洗濯も自分達で自由にできるし」
「わかったわ。杏子さんと相談してみる。じゃ、披露宴は11月3日にするとして、出発日は11月4日か5日で滞在期間は一週間ということでいいわね?」
「成田もしくは羽田への移動があるから1日余裕を見て5日の出発にしよう。それと、お爺さんとかうちのお袋みたいに旅慣れていない人もいるから、今からだと全員は無理かも知れないが、飛行機はビジネスクラスにして、航空料金を一人30万以内に収めるように杏子さんに伝えて欲しい。それで行き先が限定されると思う」
「それで、費用の負担はどうするの?」
「これは任意だから、それぞれの家族に負担してもらう。買い物や土産代は別にして、杏子さんに一人当たりの予算を出してもらって、それで参加できない家族があればそのときに考えよう。場所を変たり期間を短縮することも可能だしね。何だったらビジネスクラスは希望者だけにしてもいい」
「それは不公平になるから、なしにしましょう。飛行機代だけなら私が出してもいいわ」
意外な申し出に真一は彼女の顔をじっと見詰めてしまった。その費用が数百万円単位になることは瞬間的にわかる。
「いつかその話をしようと思っていたが、この際互いの持ち金のことも話し合っておこうか」
そうねと亜紀が頷くのを見て真一は手帳にさらさらと数字を書いて亜紀に示した。
「僕の預金と年収は大体これだけ。社会人のときに休みになると遊びまわっていたし、結婚なんて他人事のように思っていたから、恥かしいがあまり預金がない。今更遅いけど後悔している」
きまり悪そうに言ったが、亜紀は少ないとも多いとも何も発言しなかった。
「年収は大企業の社会人に比べれば少ないし、マンションの賃貸料と妹の授業料は僕が負担しているから、それらを差し引くと手取りがざっとこれくらいになってしまう。妹の分については僕を大学まで出してくれたから、それくらいのことはしなければと思っている」
「それは当然のことよ。これだけあれば十分だわ。私だって加辺のお義母さんからお小遣いをいただいているわ。あなたが長野にいて二重生活になるから大変だけど、贅沢をしなければ大丈夫、私に任せて。それで、玻瑠香さんの生活費なんかはどうしているの?女の子だから物入りだと思うの」
「それは親父の方で出しているよ。それで何とか遣り繰りしているようだ」
「アルバイト禁止なのでしょう。それで間に合っているのかしら?もし必要なら言ってちょうだい、なんとでもするから」
「ありがとう、そのときには頼む。今度は君の方を聞きたいな。と言っても、正直言うと解消していたつもりがまた蘇るんじゃないかと思ってまだ怖いんだ」
満更冗談でもなさそうな真一に亜紀はほほほと笑った。
「大きな体をして気が小さいのね。あれは私にではなく、二人に残したものと思えばいいのよ。実際そうなるのだから。結婚すればどっちがどっちということがなくなるわ」
そう言って、彼の手帳を取り上げると、千円単位までは覚えていないけれどと言い訳して数字をすらすらと書き入れた。彼女の記憶力もさることながら、四段に並んだ数字を見て、驚きの余り亜紀をまざまざと見てしまった。
最上段に記された額は彼女が相続した修一の遺産金額で、二段目は亜紀がこれまでに受領した童話の印税と図書館で働いていたときの給与と賞与を貯めたものだ。三段目は目が不自由だった娘の将来のためにと両親が蓄え、原村へ行く際に渡されたもので、最下段は耕造からの生前贈与されたものだった。
瞬時に合算した予想外の巨額に彼はうーんと唸ったきり、しばらく言葉がなかった。
「相当な金額だろうなとは予想してが、これはあまりにも凄すぎる。これほどの大金持ちだとは思っていなかった。本当に僕なんかと一緒になってもいいのか。心配になってきた」
「何よ、今更。これはみんな一時的に預かっているものと思っているわ。普段の生活はあなたに頑張ってもらわないと」
「それぁ頑張るが・・・。この生前贈与とあるのはひよっとして耕造さんからの?」
「そう、お爺さんが私名義の口座に毎年振り込んでくれて、毎年確定申告していたの。何でもその金額が一番贈与税がかからないんですって。加辺の両親も承知しているわ」
さっきから真一は、うーん、うーんと唸ってばかりだ。
「何にしても君のお金だから君に任せる。僕は口を挟まない」
いいことを聞いたとばかりに亜紀は念押しをした。
「本当ね?男に二言なしよ」
「わかってる。ただ、ご両親からいただいたものは、この際返した方がいいと思う」
「私もそう思っていたの。結婚したらちゃんと返すわ。
旅行費用だけれど、私達と二人の家族の飛行機代は私の印税から出そうと思っているけれど、いいでしょう?加辺の方はきっと自分達が出すと仰るわ」
「君のものだから好きにしたらいいよ。僕は口出ししない」
「ええ、そのようにして。その場になってクレームを付けないでよ」
「わかった」
旅行の話が終わると改めて母屋のリフォームについて話し合った。
亜紀の関心事は自分達が住むことになる離れとキッチンだった。亜紀に何度も描き直しさせられている間に小淵沢駅に到着した。
そこで下車すると出迎えに来ていた盛蔵の車で原村に向かった。双方の家族に会ったことの報告のほか、結婚式や披露宴についても彼らと打ち合わせる必要があった。
両家を訪れた概略はその都度、亜紀が電話で報告していたのだが、挙式の件は来る途中に決めたばかりのことでまだ話していない。挙式は長崎の教会で、披露宴会場はクローバー広場でと希望する以上、客商売をしている彼らの意向を確かめることが先だった。
「よかった。心配はしていなかったが、ご家族が喜んで許してくれて。え、成瀬さんのご両親が近いうちに挨拶にお見えになる?その前に遠藤さんのお宅へ?それはまた遠いところからご苦労なことじゃ。で、こちらへ移る件は?そうじゃろうな、すぐには答えられんじゃろう。まあ、急ぐ話でもないから、ゆっくり考えればいい。え、挙式日を決めた?10月28日に長崎の教会で?成程、それはまた急じゃな。何、遠藤さんがわしのことを考えて早めた?そんなことはどうでもいいのに。まあ、それもいいか。決まったものを遅らせる必要もない。わしのことなら心配せんでもいい、この通り元気じゃから長崎でもどこへでも行く。披露宴はペンションの落成に合わせて広場でやりたいと?成程な、それはいいかもしれん」
「真一さんも決めたら早いわね。あれほど亜紀ちゃんを避けていたくせに」
稲子が嫌味を言って笑った。
「それはもう勘弁して下さい」
弱みを付かれて頭に手をやると全員が笑った。
「それはそうと」
稲子はやや深刻そうに言ったからみんなは笑いを止めて彼女を見た。
「何かあるのか?」
「いえ、そうじゃないの。亜紀ちゃんはまだ修一の籍に入っているでしょう。結婚に支障とはならないのかしら?」
言われて亜紀も盛蔵も、ああそうだとばかりに真一を見た。
「それは問題ありません。復氏届けを役所に出せばいいだけですが、今のままでも支障がありません。ただその場合、離婚した時に遠藤の姓に戻れないだけです。でも離婚はしませんからその心配は無用です」
事前に調べていたのか淀みなく答えるのに感心しながら、成る程と納得した。
それから、真一は式場のことや新婚旅行について二人で話し合ったことを説明した。ペンションの落成式と結婚披露宴を同日に行うことにも彼らは同意した。
「稲子、予約状況はどうなっている?みんなで旅行するとなると、10日間は休業しなくちゃならんだろう」
盛蔵に言われて稲子はグリーンハウスの受付から予約帳を持って来て、それを見ながら報告した。
「紅葉シーズンだから予約で全部埋まっているわ」
「うーん、そうか。それなら、申し訳ないが、挙式のときだけ刈谷さんに留守をお願いすることにしよう。お詫びにと言ったら何だが、この際だから、これまでの慰労も兼ねて刈谷さんの家族も旅行に招待しよう」
それはいい考えだと稲子も賛意を表した。
「それだったら披露宴の前日から帰国後の1日まで休業にしようか。予約しているお客さんには申し訳ないが、訳を話して近くのペンションかホテルを紹介しよう。差額はこちらで負担すればなんとかなるだろう」
「そうすると11月3日から11月15日までね。明日お客さんに連絡を取ってお願いするわ」
そうなることを予想はしていたが、自分達のことで繁忙期の予約を取り消し、しかも長期間休業することにそれで良いのかと気になった。
「盛蔵さん、いいんですか?何でしたら、新婚旅行はもっと後でも構いませんし、結婚披露宴もどこか別の場所でもいいんですが」
「いえいえ、折角遠藤さんが爺さんのために配慮して下すったんだ。しかも、披露宴までここでしてくれるのだから計画通りにしましょう。それに今から会場を探すのも大変だ。落成式と同じ日で大変だろうが、披露宴と言っても、どうせお客さんが出立した後からだろうし、チェックインまでに終われば問題ないでしょう。
まあ、正直に言えば、紅葉シーズンと毎年年末年始をここで過ごすのを楽しみに来てくださるお客さんもおられるから、新婚旅行だけでもそれを外してくれたらありがたいが。しかし無理は言わないよ」
そう言われても真一は気になって、亜紀と相談して延期を申し出た。
「それでは12月のクリスマスまでに戻って来ると言うのはどうでしょう。その方が飛行機の予約も取りやすいと思います。それにその頃は母屋もリホーム中で台所も使えないでしょうから」
それでいいかなと亜紀を見ると彼女も大きく頷いた。
「済まないな、要らん心配をさせて。そうしてくれると助かる。その頃ならお客さんも少ないし、今から告知しておけば問題はない。旅行費用については刈谷さんの家族も含めて心配しなくてもいいよ」
「それと、お式と披露宴は私達も応分の負担をしますからね。その旨ご両親に言っておいて下さいな」
「ありがとうございます」
予想していたことで二人の申し出を素直に受け入れた。
「私達もそうだけど、パスポートの段取りもあるだろうから、刈谷さんにも伝えておくわ。お式に出席できないのは残念がるでしょうけど、訳あって新婚旅行をしていないから喜ぶと思うわ。
これから亜紀ちゃんも忙しくなるわね。準備が大変だから、家事のことは気にしなくてもいいわ。結婚のことを第一に考えてちょうだい」
「ありがとうございます」
「それにしてもみんなで海外旅行ができるなんて、楽しみだわ。ねえ、お爺さん」
ペンションのことは息子夫婦に任せて、にこにこして聞いていた耕造は大きく頷いた。
「そうだな。わしもこの年で異国に行けるなんて夢にも考えておらんかった。この前は邪魔者扱いされて行かせてもらんかったが、亜紀さんと一緒なんて嬉しくて涙が出そうじゃ。婆さんへの冥途の土産になる」
「私らも忙しくなるぞ。ペンションの宣伝も兼ねて考えて下すったんだろうが、完成祝賀会に合わせて披露宴をここでするとなると、相当な招待客になる。それにご家族の宿泊の段取りもせにゃならん。稲子、その辺の段取りは頼むよ。
結婚披露宴の料理は私と刈谷さんだけでは対応しきれないから、懇意にしているホテルに一括して頼もうと思う。それはそうと成瀬さん、招待客の人数はどれくらいになるだろう?」
「亜紀さんとも話したのですが、時間もないことですし、ご祝儀を頂かない代わりに引き出物の心配もしなくて済むように5千円から1万円程度の会費制のパーティ形式でやりたいのです。お料理もブッフェスタイルにして、会場のテーブルや何かは全部レンタルにして会場設営もイヴェント会社と学生達に頼むつもりです。それで人数ですが、双方合わせて150人ほどかなと二人でざっと試算しました」
帰りの電車の中で相談して双方同じ位になるようにと調整したのがその人数だった。加辺家の方は亜紀側に入れている。
腕を組んで黙って聞いていた耕造が「いいや」と口を開いた。
「成瀬さんとこは何人になるか知らんが、もっと多くなるぞ。新しいペンションの完成披露には村の名士や近所の人達も招待するし、当然結婚披露宴にもお招きすることになる。わしとこの親戚連中も呼ぶから相当な人数になるぞ。いずれにしても早く決めにゃならん」
「爺さんの言うとおりだ。 料理や宿泊の段取りもあるから一刻も早く招待状を送って出欠をとらないと・・・」
「その通りじゃ。遠方の知人や友達関係は極力今のペンションに泊ってもらうことにして、お互いの親戚は母屋で寝てもらうことにしよう。それでどうじゃな」
「いいとしても布団はあるかな」
「20組くらいはあるんじゃないの。でも、それ以上になるとちょっと・・・」
稲子は亜紀と頷きあって困った顔をしたとき、真一が助け船を出した。
「それでは、送付する招待状に出欠の有無のほかに宿泊希望の有無も書いてもらいましょう。布団が足りないようでしたら、僕の知っている貸し布団屋に頼みます。2、3日前に手配すれば大丈夫です」
「それがいいな」
「泊まるのはそれでいいとして、成瀬さん、広場で披露宴をすることに異存はないが、その頃だとちょいと寒くはないか」
盛蔵が心配するのはもっともで、そのことも真一は考えていた。
「問題は気温ですが、今年の秋は暖かいそうですし、招待状を送るときに厚着か重ね着の用意をするように促しましょう。それと使い捨てカイロを受付の時に配布するようにしたらどうでしょう。念のため天候次第で会場を変えてもいいように村の体育館を一日押さえておいてはどうかと・・・」
耕造はぽんと膝を叩いた。
「おお、そうじゃな。それがいい。万全を期すに越したことはない。わしの方から村長に頼んでおこう。使う必要がなくなったら子供達のために無料開放すれぁいい」
亜紀は横にいて、真一が物事をテキパキと解決するのを見て改めて頼もしく思った。
「ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします。私も精一杯お手伝いします」
「そうと決まったら、ぼやぼやしてはおれん。あんたの夏休みはいつまでじゃ?」
耕造が真一の夏休み期間を聞き出すと、三日ほどここに泊れと指示した。その間に挙式に落成式と披露宴会場の段取り、真一の両親の来訪日、仲人への挨拶、披露宴の招待状送付先の決定、新婚旅行の日程と手配などを一気に決めてしまおうとの腹だった。母屋のリフォームもできれば年内に終えてしまいたいと言うのが彼らの希望だった。
「新郎はな、結婚式と披露宴それに新婚旅行にだけ出席してくれたらいい。必要なときにわしと亜紀さんが指図するから、あんたは黙ってそれに従っていてくれたらいい」
翌朝佐川牧師へ連絡を取ると自分のことのように喜び快諾してくれた。相手が亜紀であることを告げても驚きはなかった。あのときの二人の様子からそうなることを予感していたのだろう。挙式の要領を説明するので前日までに教会を訪れるようにと要請された。
成瀬と遠藤の双方の家には挙式日と式場を告げて了解を取り付けた。真一の両親は式場を聞いて驚きながらも納得した。
あれよあれよ言う間に多くのことが耕造と亜紀の間で処理され、真一は彼らに従うだけだった。
親族の披露宴への招待客は亜紀が両家と連絡を取り合って、真一の意向を踏まえて両家のバランスを考えながら耕造と一気に決めてしまった。招待状の文面も耕造と亜紀が考え、それに真一が少し手を加え数日後には発送を終えた。一旦決めた後の亜紀の手際の良さに真一も脱帽した。
閑静な住宅街にある佐藤教授宅のインターホンに真一が来意を告げると、入れとの返事が返って来た。濃紺の和服姿の教授が懐手でにやにやしながら二人を出迎えた。教授は痩せぎすで亜紀と同じくらいの上背だった。
「君が我が家に来るのは久し振りだな。娘を振って以来か」
早速嫌味たっぷりな言葉を真一に投げつけた。
「クリスマスの日に用もないのに呼びつけられて伺ったじゃないですか。今日は苛めるのは勘弁して下さい」
この短いやり取りで、亜紀は二人の間の師弟の関係を超えた温かみを感じ取った。
「おう、そうだった。今日は君の婚約者を紹介してくれるんだったな」
佐藤は真一のやや斜め後ろで緊張気味に控えている亜紀に目をやった。彼女は丁寧に頭を下げた。教授も頭に手をやってぺこりと下げた。
真一と親しい関係にあると言っても、婚約者の恩師であると同時に上司には違いない。これからも未来の夫が世話になるかと思うと緊張せざるを得なかった。しかも何も言わずに銀縁眼鏡の奥から値踏みされているようで落ち着かなかった。そんな彼女を救ったのは正装した夫人だった。奥の方から玄関へ来ると夫に声をかけた。
「まあまあ、あなた、そんなところで何をしているの。お客様に失礼でしょ、上がっていただきなさいな。成瀬さんも変に遠慮しちゃって。いつもなら案内も乞わずにずかずか上がり込むのにどうしたの。挨拶なら後からすればいいから、さあさあ上がって」
夫人に急き立てられて二人は中に入った。亜紀は婚約者が脱いだ靴の向きも変えて揃えた。その間にも真一は軽い冗談で夫人を笑わせていた。
通されたのは床の間の10畳の和室だった。教授に促されるまま、真ん中に置かれた座卓のところに亜紀は真一と並んで正座した。
「今、家内がお茶を持ってくるから、少し待って下さい」
真一相手とは打って変わり、優しく亜紀に話しかけた。
教授は無遠慮に亜紀と真一を交互に見てにやりと笑い、懐手をしたまま成程なと呟いた。亜紀は何が成程なのかわからなかったが、真一が何も言わないので黙ったまま控えていた。
襖が開いて夫人がお茶を持って入って来た。
「あらあら、あなたも成瀬君もどうしたの。二人とも借りて来た猫みたい。綺麗なお嬢さんがいるからかしら」
夫人は冷たいお茶を座卓に置きながら男二人をからかってころころ笑った。
「成瀬君、そちらの婚約者を紹介して下さいな」
夫人はお茶を夫の前に置くと口火を切った。亜紀は緊張して固くなったまま頭を下げた。
「失礼しました、ご紹介します。僕と一緒になる加辺亜紀さんです。彼女とは去年の夏、彼女 の両親が経営するペンションに泊りに行って知り合いました」
亜紀は座卓から少し離れて両手をついて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。加辺亜紀と申します。縁あって成瀬さんと結婚することになりました。よろしくお願い致します。つまらないものですが、ご挨拶代わりに持参いたしました」
元の場所に戻って、脇に置いていた紫の風呂敷に包まれた手土産を夫人に手渡した。
ほうと教授はまた亜紀を無遠慮に見た。
「あらまあ、気を遣わなくてもいいのに。ありがとう」
夫人はにこにこ笑って二人を見比べた。亜紀は頬を薄く染めた。
「いや、あなたのような美しい人をいきなり連れて来るものだから、思わず成瀬君に嫌味を言ってしまった。不快に思われたかも知れないが、許して下さい」
教授は亜紀に向かって軽く頭を下げた。
「いえ、とんでもありません。先生のお噂は伺っております。ですから初めてお目にかかるような気がいたしませんでした」
赤く頬を染めながらも如才なく受け応えするのを横で真一は満足そうに見た。
「そうですか。彼のことだからどうせ私の悪口でしょう」
亜紀はびっくりしたように顔を上げて否定した。
「とんでもございません。私がよく聞かされるのは、先生が素晴らしい恩師で上司だと言うことばかりですわ。本当です。ですから、こちらへ伺うまで緊張しておりました。今も少し緊張しておりますけれど」
「まあ、正直なお嬢さんだこと。嬉しいわね、お世辞でもそのように言っていただけると。ねえ、あなた」
教授はふむと満足そうに頷いた。
「あ、そうそう私達も自己紹介をしなくちゃ。あなた」
脇を突かれて、亜紀にばかり注目していた教授は、佐藤貞夫ですと簡潔に自己紹介をした。
「彼との付き合いは彼が2回生の時からだから随分になります。彼のことを知りたいのなら、何でも訊いて下さい。いいこと悪いこと彼のことなら全部知っていますから」
「はい、そのときはよろしくお願いします」
「まあまあ、そんなに堅くならないで。肩の力を抜いたらいいわ。私がこの人の家内で佳代と言います。よろしくね。
主人も言ったように彼とは学生時代からのお付き合いだから、准教授になって偉くなった今もつい癖で成瀬君と呼んでしまうの。不愉快に思われたらごめんなさいね」
夫人は亜紀に微笑みかけた。
「いえ、とんでもありません。先ほどから窺っていて、真一さんが温かく迎えられているのがよくわかりますわ。私にはそんな人がいませんから羨ましく思いました」
「それじゃ亜紀さん、女は女同士、仲よくやりましょうね」
亜紀は再びよろしくお願いいたしますと頭を下げた。
「成瀬君から婚約者を紹介したいので伺いますと電話で言われた時にはね、聞き間違いではないかと思いましたのよ。だって、そうでしょう。この人今まで女嫌いで通っていたから、思わず訊き返しましたの。コンヤクシャって何って。誰じゃなくて何ってよ。ほほほ、可笑しいでしょ」
夫人はそう言って一人ころころ笑った。真一は苦笑して頭を掻いた。
「お前はそそかしくっていかん。しかし、家内がそう思ったのも無理はない。こともあろうに娘二人をこの男は振ったのだからな。まあ、それもあなたを紹介されて納得したよ」
亜紀と真一を見ながら教授は冗談か嫌味かわからないことを言ってにやにや笑った。亜紀は何と答えてよいか困って顔を伏せた。
「もう勘弁して下さい。教授の仰ることは何でも聞きますから」
真一は居たたまれない様子で音を上げた。
「本当だな?」
これはいいことを聞いたとばかりに真一に念押しすると、教授は驚くようなことを言った。
「それだったら、准教授に任官したことだから、博士論文に取り掛かれ」
亜紀は横に座る彼を思わず見てしまった。博士になるなどの話は一度も聞いていないから、どのような返事をするのだろうと真一を窺った。
「まあ、ぼちぼちやります」
亜紀の目を意識しながら気のない返事をした。
「ぼちぼちじゃ駄目だ。来年中に提出しろ。あれだけ発破をかけて論文をたくさん書かせたのだから、十分その資格はある。それで何をテーマにして、どこへ提出するつもりだ?」
「そうですね。以前提出したラーメン構造解析の新手法をもう少し見直して、もっと簡単にできる方法を提案するつもりです。教授には申し訳ないですが、自分では東京工大かなと思っています」
彼は出された菓子を遠慮なく手に取りながら答えた。亜紀は東工大と聞いて修一を意識していると思った。それにしても私の家に挨拶にきた時の様子とは随分違うと内心可笑しかった。
「ふーん、東大ではなくて東工大か・・・。うん、あそこには知己の建築構造の教授がいる。この際面倒をみるように頼んでおこう」
「その節はよろしくお願いします」
言葉ほど本気でもない態度で教授に礼をした。
「博士になるつもりなの?」
亜紀は小声で訊いた。
「なれるかどうかわからないけど、提出してみようとは思ってる」
「だったら、ますます大学を離れるわけにはいかなくなるわね」
「うん、まあな」
そんな二人を夫人が見咎めた。
「ちょっとあなた達、仲がいいのはいいけど、こそこそ内緒話は止めて。そろそろ二人の馴れ染めを伺おうじゃないの」
にこにこ笑う夫人に促されて、真一は亜紀が障害者であったことや未亡人であることは伏せて 、彼女との出会いから婚約するまでのことを要領よく話した。式の日取りや披露宴なども問われるままに答えた。
教授夫妻は快く仲人を引き受けてくれたうえ、挙式に出席しない仲人がどこにいると長崎での結婚式への出席も請けあってくれた。
訪問の目的を遂げると、真一は辞去しようとしたが、君は家内が用意した料理も食べてくれないのかと難癖をつけられて退出することができなかった。
夫人がビールとつまみをテーブルに置くと、教授に後はお願いと告げて部屋を出て行った。亜紀はお手伝いしますと夫人の後に従った。
夫人がいなくなるとますます気詰まりになることもそうだが、自分がいない方が男同士気楽に話せるだろうと思ったからだ。
彼女の気遣い通り、残された二人は師弟関係に戻り、ビールを飲みながら歓談を始めた。しばらくすると、和室から笑い声がした。
夫人はその声を聞きつけて包丁を持つ手を休めた。
「あなたの前では借りた来た猫のように大人しかったけど、ほら亜紀さん、あれがいつもの調子よ。互いに遠慮がなくて言いたい放題。主人も彼が来ると上機嫌になるのよ。だから私はいつも大歓迎」
笑い上戸なのかよくころころ笑った。
「あのような関係になったのは、何かきっかけがあったのでしょうか。それとも大学の先生と学生さんの関係はどなたもあんなものなのでしょうか?」
研究室にいる学生達と彼との関係によく似ているように思った。異なるのは私生活を乱されるのを嫌うのか、学生を自分の家に招くことがないことだ。だから不思議に思って尋ねた。
「さあ、どうかしら。でもしょっちゅう出入りする学生さんは成瀬君だけだったわね。酔っ払って一升瓶を持って真夜中に押しかけて来たこともあったのよ。
そう、きっかけはね、彼が3回生だった時からかしら、休みの日に突然やって来て家に通したら、いきなり先生は卑怯だと、こうよ。私は何を言い出すのかとびっくりだし、主人も目を白黒していたわ。興奮しているようだったから、何かあったら大変と、私も娘達も障子の隙間から彼の様子を固唾を飲んで見守っていたのよ。そうしたら、主人の科目の一つが赤点だったらしいのね。そのときの彼の言い分が自信満々で、試験は絶対満点のはずだ、それを不合格にするなんておかしいって、怒鳴りこんで来たのよ」
初めて聞く話だけに亜紀は驚くばかりだった。
「それがどうして・・・?」
「それがどうしてあんな関係になったのかしらね。主人も教師になって長いけど、あんなに気のおけない関係になった学生さんはいなかったわね。まあ、詳細は亜紀さんからお訊きなさいな」
笑いながら答えをはぐらかせた。
「そう言えば、お嬢様は?」
長女は嫁いだと聞いているが、二女の方はまだ家を出ていないはずだった。それなのにいる気配がなかった。
「上のは滋賀県の長浜に嫁いでそこにいるの。下の娘はあなたと顔を合わせるのが嫌なのか、友達を誘って旅行に行ったわ」
どこまで本当なのか、笑いながらそう言った。
食事の間は教授の独り舞台だった。
酔いが回って来るとあなたの知らない彼を教えようと言って、学生時代の旧悪を次々と暴露し始めた。亜紀は初めて聞く面白い話ばかりで、夫人と一緒になって腹を抱えて笑った。反対に真一は苦虫を噛み潰したように黙々と夫人の手料理に箸を伸ばしていて、亜紀にはそれが新鮮で余計に可笑しかった。
夫人も如才なく亜紀に合う話題を提供して飽きさせることはなかった。教授夫人ともなるとこうも気遣いが違うのかと亜紀は一人感心した。翻って、自分がその立場に立った時、同じように振る舞えるだろうかと思うと、その自信は全くなかった。
教授の馬鹿話が一段落したところで、亜紀が質問をした。
「先生、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ほい、何かな?」
教授は刺身を取る手を休め、赤みがさしてとろんとした顔を亜紀に向けた。
「先生と真一さんは師弟関係にあると彼からも学生さん達からも伺っておりますけれど、何がきっかけで今ような関係になったのでしょうか?奥様にも伺いましたけれど、それは先生にお訊きしろと仰って教えていただけませんでした」
「何だ、君は婚約者にそんなことも話さないで仲人の依頼に来たのか?」
呆れた奴だと腕を伸ばして真一の肩を小突いた。彼は頭を掻いて笑って誤魔化した。
「私ももう一度聞きたいわ」
夫人は身を乗り出してビールを真一と亜紀に注いだ。
「おい成瀬、話してもいいか?」
教授は酔いに任せてぞんざいな口のきき方になった。
真一は拒否するのも大人げないと思ったのか、鮭の味噌焼きをつついて返事をしなかった。奥さん、これ中々ビールに合いますねえ、なんて言っているから、彼にとってはあまり愉快な話題ではないのだろう。それならきっと面白い話に違いないと、亜紀は箸をおいた。
「成瀬を知ったのは、私がまだ准教授で彼が2回生のときだったかな。名前は知らなかったが、いつも前列の真ん中に座って熱心に講義を聴いている奴がいた、と言いたいところだが、講義の間中机に伏せて寝てばかりいるふざけた学生が一人いた。そいつは出欠をとるとすぐに惰眠を貪って最後まで頭を上げることはなかった。それが今は学生達に向かって偉そうに講義をしているこいつだよ」
箸を持ったままの手で真一を指した。
「まあ、鼾をかいて他の学生に迷惑をかける訳でもないから黙って見過ごしていたのだが、それが毎回ともなると、それ程私の講義がつまらないのかと、温厚な私でさえ馬鹿にするにも程があるとさすがに腹に据えかねた」
温厚なと言ったところで、夫人が亜紀の膝を座卓の下で突いて含み笑いをした。
「そんな風にいつも寝ているくせしてどこでどう勉強していたのか知らんが、何故か試験の成績だけはいつもトップで嫌味な奴だった。出席日数も彼なりに計算していたのか微妙なところで足りていたから、単位をやらない訳にも行かずそれがまた腹立たしくて切歯扼腕した。が、だからと言って恣意的に落とすこともできなかった。
なんとか懲らしめてやる方法がないかと思っていたのだが、中々こいつは隙を見せない。ところがだ・・・」
ここで教授は思わせぶり話を止めると、ビールを一気に飲み干した。真一は黙々と夫人の心尽くしを口に運んでいる。
「彼が3回生の時、ぎゃふんと言わせる千載一遇のチャンスがやってきた。それは何だと思う?」
教授はにやりと笑って亜紀と夫人を見た。もちろん彼女にわかるはずもなく、両手を膝の上に置いたまま、さあわかりませんと小首を傾げた。真一は相変わらずそっぽを向いて我関せずの態度を取って、これも美味しいですねえと夫人の関心を逸らそうとしていた。
「赤点をとってこちらへ押しかけて来たことまでは奥様に伺いましたけれど、それから先のことは知りません」
亜紀は夫人と見合って首を振った。
「それがだな。彼にしては珍しく勘違いしていたんだろうな。感心にも代返を頼むなどの姑息な真似をしなかったから、出席日数がほんの少し足りなかった。助手から知らされたときは、これで奴を懲らしめることができると小躍りしたよ。まあ、その程度のことなら目こぼしするのだが、そのときはわざとそうしなかった。そして正々堂々と赤点を付けてやった。いやー、そのときは本当に小気味よかった」
教授はその時のことを思い出して高らかに腹を抱えて笑った。真一はますます苦り切ってビールに口を付けた。
亜紀も夫人と一緒に笑って、そんな面白いことがあったのかと続きを聞きたがった。
それでどうしたの?と仏頂面をしている真一に訊いた。
「どうしたもこうしたもないさ。掲示板を見たら赤点だろ、びっくりしてすっ飛んで行って猛烈に抗議したよ。試験には自信があったから、助手から理由を聞いて、少しくらい日数が足りないだけで落とすなんて卑怯だってね。そうしたら、家まで押し掛けて来るのは予想外だったみたいだけど、血相を変えて来ることを予期していた教授はさ、僕の抗議なんか馬耳東風で、単位をやる代わりにこれからは一切居眠りをするなとこうだよ。そんな脅迫に屈する訳にはいかないから、それは約束できませんと応えたよ」
「そうそう、そうだったわね。その時の剣幕ったらなかったわよ、亜紀さん」
その時のことを思い出したのか、あははと夫人は笑い出した。
「それで、二人共意固地になって睨めっこよ。私と娘達は可笑しくて、障子の陰からはっけよいと心の中で行司をしながら固唾を飲んで見ていたのよ。あれは面白い見世物だったわ」
うふふと笑った。
「奥さんも酷いなあ。人の気持ちも知らないで」
「あら、そうだった。ごめんなさいね」
散々笑ったくせに少しも悪びれずに陳謝したから、真一も苦笑するしかなかった。
この人の話はいつも面白いと思いながら、亜紀はそうしたらと続きを促した。
「そうしたら、追試験をして80点以上取ったら合格させてやると言うから、そんな卑劣なやり方に無性に腹が立って売り言葉に買い言葉、満点を取りますと言ってここを出た」
大言壮語もそうだが、もし満点が取れなかったらどうしたのだろうと呆れてしまった。
「大した自信よねえ。満点を取るなんて大見得を切るから、一体どんな頭をしてるんだろうと娘たちと影口を叩きながら、これは水入りねと話していたのよ」
それからは教授が話を引き取った。
「あの頃は私もまだ若かったから、大人げないと思いながら、張り合うつもりで学生の力では解けないような難問をわざと一問だけ出してやった。そうしたら案の定、一緒に受けた学生3人は一人も解けなかった。ところが、こいつだけは見事な解答をした。約束通り合格点を与えない訳にはいかず、あのときも悔しい思いをした。おまけにその3人が研究室に押し掛けて来て、違反だと散々抗議されて、家内にも大人気ない叱られて、馬鹿なことをしたと随分反省させられた。
それからだな、こいつに一目置くようになったのは。それからというもの用事もないのに足繁く私の研究室に出入りするようになったし居眠りもしなくなった。ここへもしょっちゅう押し掛けて来て無銭飲食して帰るから、随分散財させられたよ」
「まあ、そんな心にもないこと言って。口ではあんなこと言ってるけど本心は嬉しかったのよ。遅くまで飲んでよく泊まってもいったのよ」
「まあ、それからの腐れ縁と言う奴だな。院に残れと随分勧めたんだが、建築士になりたいからと言ってさっさと就職してしまった。こいつは言い出したらきかないから、亜紀さんも手綱をしっかり締めないと苦労するぞ。まあ、飲め」
最後は亜紀に忠告して教授は真一のグラスにビールを注いだ。
「あのー、先生が真一さんを大学にお戻しになられたとか」
「ああ、彼とは卒業後も年賀状なんかで連絡を取っていたから、一級建築士の資格を取ったと聞いて、大学に戻って来いと言った。ところが、家で食事をさせてただ酒を飲ませてやったのは誰だと恩を着せても、こいつは中々首を縦に振らないので苦労させられた」
「教授には公私ともどもお世話になっています」
苦手な話題から逸らすために頭を下げて殊勝に言うものだから、どうして教授の意に沿う気になったのか聞きたかったのだが、教授がぷっと吹き出し、つられてみんなも大笑したために聞きそびれてしまった。
教授は何を思ったか、思い出したように真一の妹を話題にした。
「そうそう、そう言えば君に妹がいたな。確か背の高い・・・」
まだ専門課程でもないのに、何故教授が妹を知っているのかと真一は不思議そうな顔をした。
「君の妹とは推薦入試の面接のときに会っている。そのときは実に面白かった」
ああ、そうだったと真一は思い出した。
「妹さんてどんな感じの娘さん?成瀬さんに似ているの?」
興味をそそられた夫人が訊いた。
「あまり似てはいなかったな。とにかく可愛い子だった。あまり大きな声では言えないが、私はそれだけで合格にした」
「まあ、いつまでまでも助兵衛なんだから」
夫人は教授の膝をぴしゃりと叩いた。
「痛いなあお前、そんなに強く叩く奴があるか」
教授は膝をさすりながら続けた。
「それでいて言いたいことはきっぱりと言うから面白かった」
「へえ、どんなことを言ったの?」
夫人も初めて聞く話なのか興味津々の体で尋ねた。亜紀も面接官の視点から聞く話に聴き入った。
「こいつと同じ姓だったから、主任教授の今井さんが『うちにも成瀬と言う講師がいるが、君と何か関係があるのか』と尋ねたんだ。そうしたら・・・」
「そうしたら」
「愚兄ですとしれっと答えたのには全員が大笑いした。それからは成瀬のことばかり訊いて終わったな。終わりぎわに『身内加点をして合格させて下さい』とお願いされたときには、みんな一瞬唖然としてまた大笑いしてしまった」
「わあ、面白い人。私も会ってみたいわ」
夫人は手を叩いて大笑したが、真一だけは憮然としていた。
「彼女が退出するときには全員が合格点を与えていたよ。そう言えば、こんなことも言っていたな。誰かが、何故彼は結婚しないんだとふざけ半分で訊いたら、兄は女嫌いだから彼女も作らないし結婚もしませんって断言したのには、思わず面接官同士顔を見合わせて大声で笑ってしまったよ。
そんな奴から婚約者を紹介したいと電話で言われた日にゃ、家内が婚約者って何と訊き返したのもよくわかるだろう」
亜紀も夫人と一緒になって遠慮なく笑った。
「亜紀さん、こいつはふざけた奴だが、意外に真面目で誠実だ。これからいろいろなことがあるだろうが、しっかりと彼を支えてやって欲しい」
教授は亜紀にビールを注ぎながらそう締め括った。
二人が佐藤夫妻に見送られて辞去したのは4時過ぎだった。「論文を早く仕上げろよ」との恩師の言葉を背に教授宅を退出した。
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