第八章 帰郷(一)

                    (一)


 亜紀が未来の夫を伴って川越の実家に帰省したのは9月の中頃だった。真一と出会ってから1年が過ぎていた。思い返せば、欧州旅行前に川越に帰ったことがあるが、その1年後に婚約者を伴って帰郷するとは想像もしていなかった。

 タクシーから降り立ち、亜紀が年数に経った門扉の呼び鈴を押そうとするのを真一は押し留めた。

 亜紀の家は車一台停める駐車場があるだけの建売住宅なのでそれほど大きな家ではない。周りも似たような家が建ち並んでいる。

 真一が前から横から家構えを観察し始めると、亜紀はまた始まったと笑った。やがて彼は満足したのか、亜紀に顔を戻すともういいよと言った。

 「家の中が想像つきまして?」

 「ああ、大体見当がついた。築30年くらいかな」

 見立てた間取りを説明をすると、亜紀は目を見張った。

 「あなたってどんな頭をしているの。その通りよ」

 真一は満足そうに人差し指で側頭を二度叩いた。

 亜紀は彼の服装を上から下まで確認して、少し曲がったネクタイを直した。彼の肩についた埃を払うと、家族がどんな顔をして彼を迎えるのかわくわくしながら呼び鈴を押した。そして返事を待たずに屋敷内に入り、玄関の引き戸を開け声をかけた。

 少し間があって、奥の方からばたばたと半ズボンを穿いた小さな男の子が出て来て訪問者を見上げた。亜紀は男の子の目線まで腰をかがめた。

 「あら和彦、大きくなったわね。こんにちは、亜紀叔母さんよ。覚えてる?」

 義妹の声を聞きつけて杏子も台所から来て出迎えた。

 「亜紀ちゃん、お帰り。久し振りね」

 「ご無沙汰。しばらく見ない間に和彦君も大きくなって。お義姉さんもお元気そうね」

 「うん、それだけが取り柄だから。相変わらずばたばたしてるけど、みんな変わりがないわ。亜紀ちゃんの方こそ変わりなかった?・・・ええっ!」

 わざと遅れて屈むようにして中に入って来た大きな男を一目見て、「嘘っ!」と杏子は叫び、目を大きく見開いたまま口に手を当てて立ちつくした。それでもすぐに気を取り直すと振り向き奥に向かって叫んだ。

 「お義母さんお義母さん、ちょっと大変!」

 予想通りの反応に亜紀と真一は顔を見合わせて笑った。ここに来るタクシーの中で、みんなを驚かせたいから修一の双子の兄だとは告げていないと打ち明けていた。

 「騒がしいわね。どうしたの、杏子さん。亜紀が帰って来たの?」

 食事の支度をしていたのか、エプロンで手を拭きながら奥から美智子が出てきた。

 「亜紀、お帰り。思ったより早かったわ・・・。ええっ!そんな・・・」

 娘の背後に立つ青年を見た途端、美智子もまた声を上げて、口に手を当てたままその場で固まった。忘れもしない修一と同じ顔の男が立っていたからだ。

 青年の顔は日に焼けて浅黒かったが、見違えるはずもない。あれから5年が経つとはいえ、娘の唯一の男友達だし、1周忌と3周忌にも出席して彼の遺影を間近で見ている。それが今、亡くなったはずの彼が目の前に立っていた。

 声も出ず怖いものを見るような目で見ていると、後ろから夫の声がして我に返った。

 「変な声を出してどうした?」

 二人の叫び声を聞きつけて、和雄と和人がやってきた。

 彼らも玄関口で立っている真一を認めて眼を剥いた。男だけあって驚きの声は呑み込み、修一君、どうして・・・とだけ兄の和人が言った。

 予想通りの展開に、初めましてと頭を下げた真一の隣で亜紀が悪戯っぽくほほ笑んでいた。

 「成瀬真一と言います。本日はご挨拶に参りました」

 「ああ・・・。いらっしゃい。玄関で話もなんだから、まあ上がりなさい」

 驚愕から立ち直ると和雄は平静を装って中へ促した。

 お邪魔しますと亜紀に続いて真一も靴を脱いだ。玄関でフリーズしたままだった女性2人も浮かぬ顔で奥に戻った。

 応接間で真一を迎えた父兄は不思議なものでも見るように彼を招き入れた。台所仕事をしていた美智子も調理どころではなくエプロンを脱いで、広くはない応接間に入って来た。

 亜紀は信州土産の「玉だれ杏」と「福くるみ」を母に渡した。美智子はありがとうと受け取ったものの、まだ動悸が収まらないままだ。

 「ひどいじゃないの、亜紀。こんなにそっくりな人を連れてくるのならちゃんと言っておいてくれないと。心臓が止まるかと思ったわ」

 美智子は恐いものでも見るように少し身を引いた。落ち着いてくると修一とは少し雰囲気が異なることを感じ取った。

 「そうよ、亜紀ちゃん。私なんか昼間から幽霊でも現れたかとびっくりしたわよ」

 あれから何度か義母の美智子と代わるがわる亜紀にどんな人か探りを入れる電話をしたのだが、会えばわかると言って答えをはぐらかせていたのだった。

 「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったけれど、でもやっぱり驚くわよね」

 亜紀は肩をすくめて舌をちょろっと出して横に立つ真一を見上げた。

 「お好きと伺っていましたので」

 一人冷静な真一は進み出ると、亜紀の父に信州の白ワインと紙パックに入った加藤酒造の信州誉を手渡した。

 人前に立つ仕事柄かそれとも結婚を認めてもらえるとの自信があるのか堂々としていて緊張した様子は窺えなかった。そこがまた亜紀には頼もしく誇らしかった。

 「おおこれは、ありがとう。重かっただろう。後で一杯やろう。君もいける口だろう?」

 「はい、そこそこには」

 「お義父さん。私達にも飲ませてくれなくちゃ駄目ですよ。ねぇ、お義母さん」

 真一を値踏みするかのように見ていた美智子は、杏子から急に振られて我に返ると、ええそうねとだけやっと答えた。

 顔だけならばどこから見ても修一本人にしか見えなかった。

 「おうそうだな、みんなで飲もう。修一君・・・じゃなかった。えーと、成瀬さんだったかな。立っていないで、ささ座って」

 あの時の三つ揃いのスーツでびしっと決めてきた真一は、失礼しますと亜紀と並んで三人掛けのソファに腰を下ろした。

 低いテーブルを挟んで向かい側には亜紀の父と兄が、母は娘の隣で不思議なものでも見るように彼の横顔をじっと見つめた。杏子はそのまま入口側に息子を前に抱いてぺたりと座りこんだ。

 「楽にして。暑いから堅苦しくならずに上着を脱いだらいい。亜紀、服をあそこにかけなさい」

 亜紀は、はいと立ち上がって真一から上着を受け取ると丁寧にハンガーに通して、入口のところにあるコートスタンドに掛けてあったブラシを使って埃を落してそれに掛けた。その様子を父は満足そうに見て顔を真一に戻した。

 「しかし、よく似ているなぁ。彼にそっくりだ。双子と言ってもいいくらいだ」

 同意を求めるように息子を見た。

 「まったくだ。こんなによく似た人が世の中にはいるもんなんだな」

 真一と亜紀は互いに見合って笑ったが、美智子は娘が連れて来た男をまだじっと見詰めていた。

 真一はやおら立ち上がると「改めて自己紹介をさせて下さい」と言った。

 座っている者から背の高い彼を見ると、天井を見上げるような具合になった。

 和雄は真一にそう堅苦しくならずに座るように促した。言われたとおり座り直すと、対面の父兄そして一人置いた横の母にアイコンタクトをとってから挨拶をした。

 「はじめまして、成瀬真一と申します。信州大学で工学部建築学科の教鞭を執っています。年齢は31で出身地は和歌山県の田辺市です。家族は父と母、それに今年同じ大学に入学した妹がいます」

 気負うことなくはっきりと述べた。

 「ほう、大学の先生かね」

 和雄は意外そうな顔をした。彼を見ているとどうしても修一を思い浮かべてしまい、勝手にエンジニアだろうと想像したからだ。

 「はい、同大学を卒業しまして4年ほど建設会社に勤めておりましたが、縁あって現職に就いています」

 建築学科の教師と聞いて、美智子もまた思い違いしていたことを知った。稲子から新しいペンションは大学の先生が学生達に指導して設計したものだと聞かされていたのだが、大学の先生んら年配者だろうと思い込み、娘の相手の対象から除外していたのだ。彼こそが指導をした先生なのだろう。勝手な思い違いだったが、娘と釣り合いのとれた青年と知ってほっと胸を撫で下ろした。

 「恩師のたっての要請で講師を引き受けて、この4月に准教授に昇任したのよ」

 彼が教鞭を執っているとしか紹介しなかったので、相変わらずこの人はと思いながら、代わって亜紀が補足紹介した。

 「そんな話はいいよ」

 真一は苦笑してやんわりと亜紀を制した。

 「そんなことはないわ。あなたのことを少しでも知ってもらわないと」

 そんな遣り取りに和人はにやりと笑い、「その若さで准教授とはすごいな」と兄が感心するのを、亜紀は誇らしく思った。それも知らず真一は、いやーたまたま席が空いたからですよと謙遜して手を頭にやった。

 若年はともかく、修士でもなく博士でもない彼が准教授になれたのは恩師である佐藤教授の強い推薦があったからだ。しかし、今以上の地位を得るには博士号が不可欠なことは理解している。だが、彼は学位取得に執着はなかった。それより彼は実用的な1級建築士の資格取得に拘った。だからこそ、就職が決まった後の配属先に現場を希望したのだ。そして、多忙な現場を抱えながら、その試験に1発合格した彼を待っていたのは本社設計部への辞令だった。だが、そこも数年で佐藤教授の要請で辞め母校に戻った。それを言ったところで自慢にしかならないと黙っていた。

 「それとこの人の能力はすごいのよ。外から見ただけで家の間取りをピタリと当てたのよ」

 「亜紀さん、もういいよ」

 制しても亜紀の口は止まらなかった。

 彼が自己アピールをしないのは好ましくはあるが、家族の前ではそんな遠慮はしてほしくなかった。そんな娘を美智子は珍しいものでも見るような面持ちでいた。

 「こちらも紹介しないとな」

 ずっと真一を睨みつけるように見ていた和雄が息子に脇を小突かれて我に返った。遠藤側の紹介が終わると真一は姿勢を改め訪問した用件を堅苦しく切り出した。

 「本日は亜紀さんとの結婚のお許しをいただくためにまかり越しました」

 前時代的な言い回しに杏子は思わずプッと吹き出した。美智子が軽く睨むと、彼女はぺろっと舌を出して首をすくめた 。

 「そのことは娘の電話で聞いるが、娘が失明していたことは知っているのかね」

 「はい、亜紀さんから聞いています」

 「修一君のことは?」

 今度は和人が妹に尋ねた。

 「それも話したから知っているわ。私が失明していたことや彼から角膜をもらったことまで全部」

 ねっと亜紀は隣に座っている真一を見上げた。娘の媚びたような目と声は初めてで、この変わりように美智子はまじまじと見てしまった。

 「亜紀さんから話を聞いたときは驚きました。それと同時に何て芯の強い人なんだろうと感心しました。私は人の過去をあまり気にしません。現在をどう生きているかが大事だと思っているからです。綺麗事と思われるかも知れませんが、仮に二人の間に夫婦関係があり子供がいたとしてもプロポーズしていたことは確信持って言えます」

 亜紀は感激した。似たようなことを以前加藤から言われたが、こうして直接彼の口から聞くのは別だった。

 「亜紀さんとは昨年の夏の終り頃にペンションに行った時に知り合いました。それから、いろんな経緯がありましたが、4日前に亜紀さんから結婚の承諾をいただきました。つきましては、ご両親、いえご家族みなさんから亜紀さんとの結婚のお許しをいただきたいのです」

 一気にそれだけを告げると真一は立ち上がって深く頭を下げた。亜紀もそれにならった。

 亜紀の家族はしばらく無言で、まじまじと彼を見詰めた。彼らはどうしても修一のことを思い浮かべずにはおれなかった。和人は両親だけではなく自分をも含めた家族の許しを得たいと述べた彼に好感を持った。

 真一は緊張して喉が渇いたのか、頭を上げソファに腰を下ろすと水を所望した。

 「あ、はい。ただいま」

 彼を見詰めるあまりお茶を出すことさえ失念していた杏子は、弾かれたように立ち上がりながら、お義父さん返事をするのは少し待ってと頼んだ。

 「何だ、何かあるのか?」

 彼女の夫が咎めた。

 「だって、こんな大事な瞬間、一生に何度もないんだもの。お義父さんの返事私だって聞きたいわ」

 「わかった、早く淹れて来い。悪いね」

 和人は呆れた表情で笑った。それで真一の緊張がほぐれた。

 「冷たいお茶と水羊羹が冷蔵庫にあるから、それをお出しして」

 美智子は台所へ立つ杏子に声をかけた。

 「普通こういうことはそれらしい素振りがあって、何て言うか・・・、阿吽あうんの呼吸みたいなものがあって、それからお願いの言上があるものと勝手に思っていたが、それがいきなりで面喰ってしまった」

 和雄が穏やかに笑っているのを見て亜紀はほっとした。反対されることはないと信じてはいても、彼女なりに緊張していた。

 亜紀は自分のハンカチで彼の額の汗を拭った。そんな娘の様子に美智子は目を丸くして見た。一人和人だけがにやにやした。

 杏子が麦茶と水羊羹を皆の前に置くと真一はコップを取り一気に飲み干した。杏子は笑いを噛み殺しながら、お代わりをどうぞと麦茶をコップに注いだ。

 「ありがとうございます。それで、お許し頂けるのでしょうか?」

 「ご両親は亜紀との結婚を承知しておられますの?」

 和雄が返事をする前に美智子が肝心なところを確認した。

 「両親にはこちらでお許しをいただいてから、亜紀さんを紹介するつもりでいます。でも、結婚を申し込む前に亜紀さんの写真を見せて了解をもらいました。お前の選んだ人なら心配ないと申しまして、早く紹介しろとも言われています」

 「娘が失明していたことや、形式的にしろ結婚していたこともご存じなの?」

 「はい、全て話しました。知った上でないと、後でいらぬ誤解を招き亜紀さんが困ることになってはいけませんので。母は亜紀さんの境遇に驚いていましたが、そんな苦労をした人なら、私のような苦労知らずで育った男にこそ相応しいだろうと」

 その答えに美智子は満足した。この人ならそのような家族なら大丈夫だろうと思った。

 「亜紀、加辺のご両親にはお話したの?」

 「順序が逆になりましたが、プロポーズする前に私の気持ちを話して了解を得ました」

 亜紀に代わって真一が答えた。

 「お義父さんもお義母さんもお爺さんもみんな祝福してくれたわ」

 「そう、それなら安心だわね」

 和雄はうんうんと満足そうに頷いて「私としては娘の気持ち次第だから、娘さえよければ私達は何も言うことはない。なあ、母さん」と妻の同意を求めた。

 「ええ、私は嬉しいの。亜紀から電話をもらっていたけれど、成瀬さんにお目にかかるまでは俄には信じられなかったのよ」

 美智子はハンカチで嬉し涙を拭って笑った。そして居住まいを正し真一に向き直て言った。

 「成瀬さん。こんなことを言ったら不快に思われるかも知れませんけれど、娘を思う母親の老婆心だと思って聞いて下さいな」

 「はい、何でしょう?」

 亜紀も母が何を言い出すのだろうと横を向いて身を引き締めた。

 「娘からの電話で結婚をしたい人がいると告げられた時、嬉しい反面どんな人を好きになったのかいろいろ想像しましたの。母親ですから娘のことは隅々まで知っているつもりです。

 あんな不幸な出来事があったせいか娘は何事にも思慮深くて慎重です。ですから娘が好きになる人なら心配ないと思っていました。ところが、成瀬さんは娘の初恋の人に余りにも似ています。少し雰囲気は違うように思いますけれど、同一人物と言ってもいいくらいです。これが、全くの別の人でしたら私は何も言いません」

 美智子は娘の膝に手を置いて彼女の気持ちを確かめた。

 「亜紀、本当に修一さんのこと忘れられるようになったの?ちゃんと心の整理はついたの?私はそれだけが心配なの」

 矢継ぎ早の質問に、真一も彼女がどのように答えるのか少し緊張した。

 「お母さん。私は今でも修一さんに深く感謝し愛してもいるわ。真一さんにもお話ししたけれど、私は修一さんの顔も知らずに彼を愛したのよ。彼の容姿じゃなく、彼の優しさ、真摯な態度、思い遣りの心を愛したの。初めて真一さんを見たとき私だってそれは驚いたわ。声も同じだし写真の彼ともそっくりだもの。

 確かに初めのうちお母さんが心配する通り真一さんを彼に重ね合わせていたわ。それは否定しない。でも、何度かお会いしている間に、いつしか修一さんへの想いが薄れて、修一さんに似ている彼ではなく真一さん本人を愛するようになっていたの。矛盾していると思うかもしれないけれど、修一さんに似ている人でなければ好きになることも、彼のことを整理つけることもできなかったと思う。だからと言って、修一さんと真一さんを同一視しないわ。私には真一さんが必要なの。今愛しているのは真一さんなの。だから結婚を許して欲しいの」

 亜紀は自分の気持ちを母に訴えた。

 「娘はこのように初恋の人のことを言っていますけど、成瀬さんはどうなのかしら?」

 美智子は真一に視線を移すと彼の気持ちを確かめた。彼には彼女の母親が言わんとすることが理解できた。杏子も興味津々の面持ちで何と答えるか、彼の返答を待った。

 「私の答えは先程申し上げた通りです。亜紀さんが誰かを愛していたとしても、私の気持ちは変わりません。私達の間は特別なのです」

 美智子は何が特別なのかわからず不思議そうな顔をした。

 「お気づきかと思いますが、修一と私は双子の兄弟で修一は私の弟なのです。それもつい最近知りました」

 一瞬しんとして彼らは見合った。あるいはと推測していたものの、はっきりと彼からその事実を告げられると少なからぬ動揺があった。

 「その・・・何だ、修一君は兄がいるとは一言も言っていなかった。それに加辺さんのお宅にお邪魔した折でも一度もそんな話題が上ったことがないが・・・。それがどうして別々に・・・」

 彼は妻を見た。同じ思いだったらしく彼女も大きく頷いた。

 「ご不審に思われるのは当然です。弟修一は兄がいることも知らずに亡くなりました。私も弟がいることを知らされずに育ちました。それを知ったのも別々に育てられた理由を知ったのもごく最近のことなのです。加辺家の人達も私達が双子であることを知りませんでした。いえ、正確には知らされていませんでした。それを知るきっかけになったのは亜紀さんに会ってからのことでした。

 このことは、成瀬家、加辺家それにこのたびのご縁で遠藤家のみなさんにも関わることかも知れませんので、後ほどご説明します」

 温くなった麦茶を一気に飲み干すと話を続けた。

 「遠藤さんが心配しておられることはよくわかります。私も亜紀さんから失明していたことや修一の角膜の移植を受けたことなどの話を聞き終えた時には、彼とは双子に違いないと確信しました。何故なら同じ年月日に生まれた男の中で185cm以上の身長は2万人に1人以下です。まして顔や声まで似ているとなれば、もう他人の空似などとは言えません」

 具体的な数字をすらすらと述べるのを聞いて和雄と和人は顔を見合わせた。

 「もし、双子ならDNAが修一と同じ私が亜紀さんを好きにならないという確証はないと思いました。事実不幸な過去があり、それにめげずに生きてきた話を聞いた時から亜紀さんに強く惹かれました。しかし、好きになったとしても、死してなお自分の眼の一部を恋人に提供しようとする弟に勝る愛などできようはずがありません。修一は亜紀さんにとって愛する人であると同時に恩人なのです。その彼に対抗しようにももうこの世にいないのです。存在するのは亜紀さんの心の中だけなのです。存在しない相手に勝てる筈もありません。

 それをわかっていながら未練にも私が弟と同じ状況に立ったとして同様の態度を取れるかどうか自問自答したこともあります。恥ずかしい話ですが、その答えはノーでした。

 正直言って私は博愛者ではありません。利己的とまでは言いませんが、どちらかといえば個人主義なところがあります。ですから、もし当時と同じ状況に出遭ったとしても弟と同じ行動はおろか声をかけることさえしなかったでしょう。それをはっきりと自覚したとき、激しい自己嫌悪に陥りました。日頃学生に偉そうなことを言っておきながら、何てつまらない人間だと悟らされました。その時点で彼には勝てないと思いました。もちろん、恋愛は勝負事ではないことくらい承知しています。ですが、会ったこともない彼に劣等感を植え付けられたのも事実なのです。私は亜紀さんに関わるべきではないと思いました。

 私は一目惚れこそしませんが、修一と同じで一途に想い込む方です。ですから、亜紀さんと会って平常心を保てる自信がありませんでした。このままだと自分の心の中がのっぴきならない事態になりそうでそれを恐れました。それで私は慌てて亜紀さんのいる原村から離れました。二度と会ってはならないのだと自分に言い聞かせました。加辺さんからペンション改造計画の相談事を頼まれていましたが、亜紀さんとの接触を断つためにそれも断りました」

 亜紀も初めて聞く話だった。遠藤家の人達も口を挟むことなく彼が話すのを聞いていた。ときどき誰かの溜息だけが漏れた。

 美智子は聴いていて、彼の飾らぬ真摯な態度に好感を持った。夫を見ると彼も同じ思いだと見て取れた。

 「ところが、盛蔵さんは亜紀さんを立てて私の翻意を促すために大学まで乗り込ませたのです。それは稲子さんの指示でした。一つは亜紀さんを代理に立てることで無下に追い返すことはしないだろうとの読みでした。もう一つはうまくいけば、息子に酷似した私が出現したことで、亜紀さんが修一のトラウマから解放されるきっかけになるのではないかとの期待もあったのでしょう。

 私は人の心を忖度することが嫌いです。ですからそのようなことをしませんが、そのときばかりは稲子さんの思惑が透けて見えるような気がしました。

 前後しますが、ヨーロッパ旅行に行った後も亜紀さんの心の傷がまだ癒されていないと知った時、あの人達にはもう打つ手がなかったそうです。それで、亜紀さんをこれ以上引き留めておけないと年内の内に実家に帰そうと決めていました」

 和雄はうーんと唸った。

 亜紀の家族は真一の口から加辺家の心情を初めて知った。彼らも恨みがましいことを思わなかったわけではないが、催促がましいことをしなくてよかったと、息を飲んで真一の話を聞いた。

 「そんな折、昨年の8月の終わり頃、修一に瓜二つの私がグリーンハウスを訪れたのです。私が現れたことで私に賭けようと思ったそうです。そんなことを知らない私は多忙を理由にペンション新築計画の相談に乗ることを拒絶しました。すると亜紀さんは、このままでは帰れないから、明日出直してくると言うのです。その時の様子で亜紀さんならそうしかねないと思いました。明日も明後日も日参されてはたまらない。内心これが一番恐れていたことでした。

 亜紀さん自身は意図していなかったのでしょうが、私の心の中にずんずん入ってくるのです。これはもう避けられないことなのだと腹を括りました。

 その日は一旦亜紀さんに帰っていただきましたが、そのときには引き受けざる得ないと諦め、運命と言うものがあるのなら、どのような結果になろうともそれに委ねようと、自分に言い訳をしていました。そして、引き受けるのなら学生達の実地教育に活かそうと、ペンション新築の実施計画を研究室にいた学生達に練らせました。

 再び亜紀さんが大学にお越しになったときにその概要を説明し、後日私からも加辺さんに説明したのです。その後学生達が何度か亜紀さんのところへ行き、亜紀さんもまた私の研究室まで足を運んでいただいて、この春ようやく着工の運びとなりました」

 それは彼らも知っている。現場に立ち入ることはしなかったが、学生らしき若者が図面片手に出入りしていたのを知っている。

 「どうも済みません。話が少し脇に逸れました」

 「いや、構わないよ。気にせずに」

 和雄と和人はほっと一息つくとぬるくなったお茶をずずっと飲んだ。

 「何かのドラマを聞いているようだわ」

 杏子は和彦の髪を撫でながら好奇心一杯の顔をしている。

 「まだ、遠藤さんの問いにお答えしていませんでした」

 真一は亜紀の母親を見た。美智子は彼を見詰めたまま頷いた。

 「盛蔵さんの改造計画に関ったことで稲子さんの思惑通り亜紀さんと接する機会を持つようになりました。しかし、私はまだ自分に自信が持てずにいました。亜紀さんは私をどのように見ているのだろう。真一として見てくれているのか、それとも私を通して修一を見ているのか。遠藤さんが心配なさるのと同じ気持ちです。その一方で亜紀さんと接すればするほど魅かれて行きました。容姿はもちろんですが、思慮深さ、慎み深さ、謙虚さ、優しさ、思いやり、芯の強さ、それに私にはない亜紀さんの秘められた能力に魅かれました。尊敬と言い換えてもいいかも知れません」

 和雄はほうと呟いた。

 「それは買いかぶりすぎよ」

 照れて少し頬を染めながら亜紀が真一の脇を肘でつついた。そんな様子を見て美智子は目を丸くした。いままでこんな風に甘えた娘の姿を見たことがなかった。

 「いや、本当さ」

 彼女の膝をぽんぽんと2度ほど叩いて話を続けた。

 「私が一人悩んで悶々としていたのを解消してくれたのは亜紀さんでした。それは意志を強く持てと言うことでした。私は恋愛に対して臆病でした。それが日常の態度にも出ていたのです。

 私は恋愛と結婚は同義だと思っています。そのせいか恋愛にはとても慎重でした。何故と問われても適切な回答ができませんが、それに関してはとても保守的なのです

 自然に任せようと自分に言いきかせていながら、劣等感を抱いたまま亜紀さんに会うことを恐れました。しかもそれを解消する手立てが思いつかないのです。それで、卑怯にも亜紀さんから離れようとして見合いをしたことさえありました」

 それまで下を向いていた亜紀は驚いて真一を見た。遠藤親子も同じように注視している。杏子だけが好奇心一杯で大きな瞳を輝かせている。

 「亜紀さんと知り合うまでは結婚願望と言うものがありませんでした。これまで何度か見合い話が持ち掛けられましたが、その気になれず断り続けました。ただ、恩師のお嬢さんからの申し出だけは断りきれずにお見合いらしきことをしました。しかし、私の態度があからさまだったのでしょう。この話はすぐに立ち消えになりました。

 亜紀さんへの想いを絶とうと交際した相手もその恩師の二女とでした。

 恩師の家には学生時代から出入りしていましたので、その人とも親しく口をきく間柄でした。ですから堅苦しいことは考えず、単なる交際だと割り切って付き合うつもりでした。それでもし縁があれば、それはそれでいいと思っていたのです。ところが、3度目の彼女とのデートのときに、『あなたは私と真剣に向き合っていない』と指摘され『誰かほかの人を想っているようだけど、その人ともちゃんと向き合っていない。そんな恋愛はうまくいくはずがない』と糾弾されたのです。年齢はかなり下でしたが、私よりずっと大人でした。確かにその通りで一言の反論もできませんでした。結局、このことは亜紀さんの存在を私の中で際立たせる結果に終わりました」

 「すごい愛情表現ねぇ」

 杏子はうーんと感心して胸を反らし息子の頭を優しく撫でた。

 「先ほど修一と私は双子の兄弟だと言いました。それも親に捨てられた子でした」

 捨て子・・・と思わず美智子は呟いた。これは聞き捨てにならないと思った。兄弟離ればなれになる複雑な事情があったのだろうと想像したのだが、捨て子だったとは思いも寄らないことだった。

 「それでは今も実のご両親が誰だかご存じないの?」

 半信半疑の態で訊いた。

 「はい、知りません。私と弟は生後間もなく長崎市内の教会の玄関先に捨てられていたそうです。その詳細は亜紀さんの強い意志がなければ判明しないことでした。

 亜紀さんの話を聞いて、修一とは双子の兄弟だろうと確信していても、家のことを考えて自分のルーツ探しには積極的にはなれませんでした。それは、平穏に過ごしている家族を乱したくないことを言い訳にした私の意気地なさでした。そんな私を亜紀さんは非難して叱咤しました。これは私だけの問題ではない、亜紀さんと加辺の家族の問題なのだと。これを明らかにしない限り修一の呪縛から逃れられないと。

 私は亜紀さんに背中を押される形で一緒に教会へ向かいました。当時の牧師さんご夫妻はお亡くなりになっていて、お会いすることは叶いませんでしたが、後を継いでおられて一時私達兄弟の面倒をみて下さった息子さんにお目にかかることができました。

 その方は当時高校生でしたが、その時のことをよく覚えておられて、教会の前で毛布にくるまれて泣いていた双子の乳飲み子を牧師さんが見つけたそうです」

 真一は、兄弟が今の牧師に育てられたこと、それぞれ別の養親にもらわれたこと、そのとき牧師と養親の間で誓約がなされたこと、牧師夫妻が大事にしていた二人の写真を見せられたことなどを話した。

 その間亜紀は口を挟まず俯いていた。

 「なるほど、そう言うことだったのか。それで加辺さんはご存じなかったのか。それにしてもこのような誓約が30年間もずっと守られてきたとは・・・」

 和雄は腕組みをしたままうーんと唸った。本当にと美智子は相槌を打ち娘から渡された誓約書のコピーを読みながら憐憫れんびんの籠った目で彼を見た。和人と杏子は身を寄せ合って、乳児二人が牧師夫妻に抱かれた写真に見入っていた。

 「亜紀さんの話を聞いて、修一とは兄弟らしいと判断していましたから、それほど驚きはありませんでした。それより親に見捨てられた子供だったことに衝撃を受けました。そして、自分一人になってしまったような孤独感に襲われました。もちろん、見放さざるを得ない深い事情があったのでしょう。ですが、どんな理由であれ許せませんでした。しかも、一度も親が訪ねてきた気配がないと言うのです。そんな親に会いたいとは思いませんでしたが、こんなとき修一がいてくれたらどれほど心丈夫だっただろうか。そう思うと、会ったこともない弟が急に身近な存在に思えて堪らなく愛おしくなりました。それと同時に弟に対する劣等感も憑き物が落ちたように解消したと思えました。そして今度は自分の家族を作りたいと痛烈に思ったのです。

 もちろん、実子と変わらぬ愛情を持って育ててくれた父母がいます。何にも代え難い妹もいます。それは頭の中ではわかっていても気持ちがついていかないのです。

 そんなとき隣に亜紀さんがいました。長崎から帰るとき、ほとんど口をききませんでしたが、隣にいてくれる亜紀さんがこれまでになく身近に感じました。この人と離れてはいけないのだと思いました。それと同時にこんなことを思っていました。

 修一のことは何も難しく考えることはない。亜紀さんが弟のことを愛し続けてもいいじゃないか。亜紀さんが弟に負い目を感じているとしたらそれでもいいじゃないか。それらを含めて亜紀さんを愛すればいいのだと気付いたのです。近しく大切な人、大事にしたい、大事にしなければならない人に思えたのです。それを自覚した途端、亜紀さんと一緒になりたいと強く思いました。それで私の思いを亜紀さんに伝え、思い切ってプロポーズしたのです。

 長々と話しましたが、これが遠藤さんの問いに対する私の答えです。ご理解いただけましたでしょうか」

 何の気負いもなく淡々とした話が終った。亜紀の頬に赤みがさしていた。

 「このように私は亜紀さんから勇気をもらいました。心の広さの大切さを悟らされました。まとめて愛する強さを教えられました。私は亜紀さんを心から愛すると同時に信頼も尊敬もしています。ですから、この人、いいえ、この人でなければ結婚してはいけないと修一に言われているような気がしています。

 素性の知れない、どこの馬の骨だかわからない男に最愛のお嬢さんを嫁がせるのは不安がおありでしょう。それに対して今の私を見て信じていただきたいとしか申し上げられません。このような私ですが、亜紀さんとの結婚をお許しをいただけますでしょうか?」

 真一は再び立ちあがって頭を下げた。亜紀もまたそれに倣った。美智子は目にハンカチを当てたままうんうんと頷いた。和雄は目をしばたたかせながら大きく頷いて隣に座っている息子を見た。和人も満足そうに目で承諾の意思を示した。

 「おめでとう。名演説だったわ」

 真っ先に杏子が二人を祝福してパチパチと手を叩いた。

 「成瀬さん、娘のことをよろしく頼む」

 和雄は真一に向かって上体を折った。

 「亜紀、おめでとう」「よかったな」

 母と兄が口々に祝福した。

 「ありがとうございます」

 「お父さんお母さん、お兄さんもお義姉さんも、ありがとう」

 真一と亜紀は座り直してまた深々と頭を下げた。彼なりに緊張していたのだろう、肩の荷を下ろした彼に笑みが戻ると亜紀を見やった。彼女も嬉しそうに彼の手を握った。

 「さあ、一番気懸りだった亜紀の相手も決まって家内も一安心だし、今夜は大いに飲もう」

 それまでのしんみりとした雰囲気を払拭ふっしょくするかのように和雄が宣言した。

 「あら、何言ってるのよ。あなたこそ心配していたくせに」

 「何を言う、亜紀を信用していたから、心配などしていない。まあ、何にしても、他ならぬ修一君のお兄さんと一緒になることが決まって本当によかった。収まるべきところに収まったと言うべきかな。ところで真一君、今晩泊まるところは決めているのか?」

 月曜日に建築学会の論文発表会に出席する真一のために、大学の方で品川駅近くのホテルをとってくれていた。そのことを彼が告げると、和雄はここへ泊れと彼に指示した。

 「何日泊まるか知らんが、そこはキャンセルして、ここに泊ったらいい。狭いところだが、君とゆっくり飲みながら話がしたい。そうしなさい。ただし結婚するまでは娘とは別々にな。ははは」

 和雄は上機嫌で笑った。夫の冗談に美智子も笑った。

 そのようにすると真一が答えると、亜紀は嬉しそうに微笑んだ。一時いっときでも彼と離れたくない思いが強まっていた。

 「和彦は寝ちゃったな」

 和人は杏子にもたれて眠っている息子を見て言った。

 「亜紀の結婚も決まったことだし、食事まで少し時間がある。夜寝ないと困るから和彦を起して河川敷へ散歩でも行くか。どうだい、真一君も一緒に」

 「そうですね、亜紀さんがお兄さんと一緒に遊んだところを見てみたいから、ご一緒します」

 「おおそうか、それなら私も行こう。たまには男だけの散歩もいいだろう」



                   (二)


 残った女三人は台所に立った。

 「お母さん、何を作るの?」

 「ビールのおつまみのつもりだったけど、お酒飲みが出て行ってしまったから、夕食の用意をしないとね。杏子さんはご飯を炊いてお味噌汁を作ってくれる?亜紀は冷蔵庫の中から適当に見つくろって酒の肴の用意をして、私はおかずを作るから」

 美智子は娘達にてきぱきと指図した。すでにいくつかの料理がテーブルの上に並べられている。

 「お義父さん、もう少しごねるのかと思っていてけど、あっさり認めちゃってがっかりだわ。それに引き換え、お義母さんもやるわね、簡単に結婚を許さず亜紀ちゃんに念押しするなんて。それに彼の気持ちまでうまく引き出しちゃって。改めてお義母さんを尊敬したわ」

 計量カップで米を釜に入れながら言った。

 「私も知らないところがあって、聴いていて驚かされたところもあったわ」

 真一が恩師の次女と見合いをしていたなんて初めて聞く話だった。

 「おだてても何もでませんよ。私はね、亜紀が好きになった人なら誰でもいいと本当に思っていたのよ。ところが、連れてきた相手は修一さんでしょ。本当に修一さんを連れて帰って来たと思ったの。それは息が止まるほど。死んだと思っていた人が生き返ったのかとさえ思ったわ。すぐに別人だと頭の中で理解したけど」

 それでもねえと言いながら冷蔵庫の中から濡れた新聞紙に包んだ人参を取り出して、小気味良い音を立てて刻み始めた。

 「亜紀の心がわからなかったのよ。修一さんのことが忘れられないあまり、似た人を好きになったのじゃないのかって。それだったら、いつか不幸な事になるのじゃないかと思って不安になったのよ。杏子さんもそのうちわかるようになると思うけれど、心配したらきりがないとわかっていてもそれが親心なのよ」

 「それでお母さんの印象はどうなの?」

 「印象って?」

 「あら嫌だ、お義母さん。真一さんのことよ、ねぇー」

 「ああ、そのこと。そうねー、話し振りが率直で好感が持てたわね。まだよくはわからないけれど、男らしい方だと思ったわ。話もわかりやすくて上手だったし、大人しい亜紀には丁度いいんじゃないかしら」

 「ありがとう、お母さん」

 母の評価が気掛かりだっただけにほっとして抱きついた。

 亜紀は彼をもてなすための肴の段取りをしながら、彼の好みをほとんど知らないことに気付いた。知る限りでは好き嫌いはないようだが。

 (そういえば、彼の私生活のこともほとんど知らないわ)

 そう思う一方で、何の根拠もなしに二人の生活に一抹の不安も抱いていなかった。

 「それにしたって亜紀ちゃん、1年も前に修一さんにそっくりな彼と出会っているのでしょう。それなのに私にも何も言わないなんて水臭いわよ」

 杏子は米を研ぐ手を休めてわざとらしくぷっと膨れた。

 「だって、ずっと私を避けていたもの。もしそんなことを少しでも言ったらお父さんもお母さんも変に勘ぐってすぐに飛んで来るでしょう。彼との仲も微妙だったし。それでみんなにも黙っていてってお願いしていたの。そうでしょう、お母さん」

 「それはそうね。すぐに飛んで行くかどうかは別にしても放ってはおかなかったでしょうね」

 美智子は苦笑して答えた。

 「そうでしょう。よかったわ、言わなくて。彼の本心を聞いたのもプロポーズの時だったし。お母さん、このソーセージとウィンナー使ってもいい?」

 「いいわよ」

 「何を作るの?」

 「チリバウダーがあったから、チョリソーもどきにしようかと思うの。それと胡瓜とチーズのベーコン巻きとサーモンを使ったカルパッチョにするわ」

 「あら、私が滅多にしたことがないものばかりだわ」

 「そんなことを言って。杏子さん、作ったことがないでしょう」

 「お義母さん、そんなこと亜紀ちゃん前で言ったら駄目よ。義姉としての体面が崩れてしまうわ」

 杏子のあけすけな言いように二人は笑った。

 「それにしても、不思議なご縁よねぇ。偶然に真一さんがペンションに来て、亜紀の性格からしてそれで縁が切れるのだろうけれど、稲子さんがうまく繋ぎとめてくれて、それでこうして婚約までして」

 「本当にそう。それで亜紀ちゃん、プロポーズの言葉は?ちゃんとプロポーズはしてくれたんでしょう?」

 「前触れもなく突然やって来て、修一さんの遺影の前で、突然結婚してくれって言われたわ。この小鰯は?」

 「それもいいわ。何を作るの?」

 「鰯のマリネ。簡単だから」

 「仏さんの前で・・・。何よそれ、ちっともロマンチックじゃないわね」

 「そうなの。修一さんにお参りさせてくれと言うから、仏間に案内して祈り終わったら、いきなり結婚してくれだもの。それから修一さんの前で自分の気持ちを私に一生懸命伝えてくれようとしたわ。最後に『君が修一と会っていたとき、幸せだと思っていたのなら、僕は君をそれ以上に幸せにしたい。今幸せだと思っているのなら、今以上に幸せにしたい。僕にはあなたを幸せにする自信がある。僕も君によって幸せになれるとの確信を持っている。だからこれからの人生を君と共に過ごしたい。亜紀さんの方でも、結婚することで幸せになろうとは思わずに、僕を幸せにしたいと思うのなら、僕と結婚して下さい』って」

 美智子も手を休めて娘の話を聞いていた。

 「ふーん、変なプロポーズの言葉だけど、すごい自信よねえ。中々そんなこと言えないわよ。それですぐにOKしたの?」

 「それが・・・。プロポーズされたときは舞い上がるほど嬉しかったけれど、私なんかで釣り合うのかしらと急に怖くなってしまって。だってあの人准教授なのよ。将来のことはわからないけれど、教授にだってなれるかもしれないのに、私には何の取り柄がないもの。それでそのことを言ったら、『僕を見くびるな』って、すごく怒って帰ろうとしたから、慌てて止めて私の気持ちを正直に伝えて承諾したの」

 まあ呆れたと杏子は亜紀をまじまじと見た。

 「誰だって怒るわよ。人が真剣になってプロポーズしているのに、それを婉曲えんきょくに断るようなことを言うんだもの。会って間がないけど、彼ほど亜紀ちゃんにぴったりの人はいないわよ。逆から見てもあの人には亜紀ちゃんしかいない。亜紀ちゃんが羨ましい。人の知らぬ間にあんないい男捕まえて。心配していた私達が馬鹿みたい。ねぇ、お義母さん」

 そうねと美智子は笑って、二人の会話に聞き耳を立てながら元に戻って作業に集中した。

 「それで、成瀬さんのご家族とはいつお会いするの?」

 長年主婦業をやっているだけあって、天婦羅を揚げ終わり大根と人参を擦って天婦羅つゆの段取りにかかっている。

 「この後行くことになっているわ」

 「そう。これから忙しくなるわよ。婚礼の準備しながら一人であの大きなお家の家事をやれるの?行ったり来たりで大変よ」

 母は娘の体を気遣った。

 「私も手伝うわ。経験者だし」

 杏子が応援を買って出た。

 「大丈夫よ。私も手を抜くべきところは手を抜くし、お義母さんも応援すると言って下さっているわ」

 「お式はどこで挙げるの?彼の地元?」

 「それは彼に訊いて。後で話があると思うけれど」

 「そう、わかったわ。杏子さん、ここは手狭だから和室にするわ。座卓と座布団を出して準備しておいてくれるかしら。用意ができたら、料理をそちらに持って行くから。それと今日は少し蒸し暑いみたいだからエアコンのスイッチも入れておいて」

 それからは杏子の巧みな尋問と美智子の誘導によって、真一との出会いからポロポーズされた時までをすっかり白状させられていた。

 「へえ、成瀬さんて優秀ね。うまく学生を使ってお金のかからないように考えつつ教え子の実習訓練までしてしまうなんて。教師にしておくのがもったいないわ。事業を始めても成功するんじゃないの」

 「さあ、それはどうかわからないけれど、学生さんのことを第一に考えていることは間違いないわ」

 彼が大学を辞めて事業を起こすことは、その時にならないとわからないことだし、時が来れば彼の口から話すだろうと黙っていた。

 「亜紀、先にお酒を召し上がるだろうから、それはまだいいわ。肴とおつまみだけ用意して。杏子さん、お銚子と杯、それとコップも出しておいて。氷はあるわね?」

 彼女たちの姦しい会話の間も、色とりどりの料理が作られ次々に和室へ運ばれた。酒席の用意が彼女らの手によって次第に整ってきた。その間も話題と言えば真一のことだった。

 「でもね、お義母さん。双子だから顔はそっくりなのは当たり前だけど、雰囲気は修一さんとは違うように思いません?」

 「そうね。別々に育てられたから、生活環境の違いからかしらん。少し感じがね。まだよくわからないけれど」

 修一さんはどちらかといえば物静かな方だったわねと数年前のことを思い起こした。

 「お酒が入ると陽気になって口数も多くなるわ。表裏のない人だから、何でも安心して聞けるのよ」

 美智子は自慢気に話す娘に笑った。こんなに明るく話す娘を見たのは何年ぶりのことだろうか。精一杯強がって見せてはいるものの、これまで私達はどこか悲しげな表情ばかり見てきた。今は別の顔の娘を見る思いだった。

 不幸な出来事ばかり娘を襲って生来の姿を見せていなかったけれど、これが本来のあの子の姿なのだろう。時間はかかったが、真一に引き合わせるきっかけをくれた修一に感謝した。

 「それでいつ修一さんのこと踏ん切りがついたの?」

 杏子がさり気なく訊いた。美智子は手を休めた。ここは彼女も矢張り心配で、もう一度はっきりと聞いておきたいところだ。

 「いつと言われても、気が付いたらそうなっていた感じ。彼が修一さんにそっくりだとわかってから少しずつそうなっていったように思うわ。

 お母さんが心配したように彼をあの人に重ね合わせて一人泣いたこともあったし、しばらく見なかった修一さんの夢も見たわ。それから何度か彼の夢を見たけれど、それがいつの間にか修一さんじゃなくて真一さんに変わっていたの。

 はっきりと自分の気持ちを気付かせてくれたのは、ペンションの内装の相談で彼のマンションに訪れた時だったわ。そのときに見たアルバムの中に、昔彼が付き合っていた彼女とのツーショット写真があったの。仲良く寄り添った彼女を見て嫉妬したの」

 「ほうら、やっぱり彼女がいたのね」

 面白がってうんうんと頷いた杏子はちらりと義母を見ると、美智子もしっかりと聞いている。

 「あんないい男に女の一人や二人いてもおかしくはないけど・・・。それっていつ頃の話?」

 「高校三年生の時だって」

 「そうじゃなくって、そんな風に自分の気持ちに気がついたのはいつのことなの?」

 どうして彼が彼女と別れたのかと訊かれたらどのように答えようかと一瞬思案したが、幸い彼女の関心はそうではなくてほっとした。

 「それだったら、去年の暮れくらいの頃よ」

 「だったら水臭いじゃないの。お正月はまあしようがないとしても、夏休みに会ったときに打ち明けてくれてもいいじゃない。そうしたらあんなに驚くこともなかったのに」

 「だって、あのときまだ私を避けていたのよ。そんなときに打ち明けでもしたらお母さんが黙っていないもの。そうでしょ?」

 そうでしょと娘に問われて考えると、確かに放ってはおかないだろう。あれやこれやと娘を問い質して、どんな人か会って確かめようとしたに違いない。しかし、美智子は曖昧に笑って答えなかった。

 「そうしたら、絶対あの人は引いたに決まってるわ。それにお爺さんが無理矢理頼んだ施工監理だってどうなっていたかわからないわ。だからお爺さんにもそのことは口止めをお願いしておいたのよ。でも、驚かせたことはごめんなさい。悪ふざけ過ぎたわ」

 「まあいいわ。結果オーライと言うことで許してあげる」

 修一のことを卒業できたとしても、どれほど亜紀が彼のことを知っているのか気になった。美智子は老婆心だろうけれどと断りながらも訊かずにはおれなかった。

 「あなた達の話だと、二人だけで話をしたのは数回しかなかったのでしょ。今更だけど、それで大丈夫なの?」

 亜紀にも母の心配がわかる。そんな少ない回数でお互いを理解できているのかと問いたいのであろう。

 「回数だけ言えば、確かに二人きりで話したことはあまりないわ。でも少しも心配していないの。理由を訊かれても困るけれど、彼を愛して信頼しているからとしか答えられないわ。それに理解し合うのは会った回数ではないと思うの。それは確かに知らないことも一杯あると思う。でも、結婚生活に支障をきたすようなことはないと確信しているわ。

 私が知りたいことを訊けば、ちゃんと真摯に答えてくれるし、答えたくないときがあっても誤魔化したり嘘をついたことがないわ。いつも誠実に応対してくれたわ。

 私がお見合いした人なんかは、みんな私の過去のことを訊きたがって、失明していたことも興味本位だったけれど、彼は一度だってそんなことがなかったわ。私の方から自分の過去のことを話したせいもあるけれど、たとえ話さなかったとしても興味本位で訊く人じゃないわ。それは初めのうち、私に関心がないのかしらと思ったけれど、そうではなく私への気遣いだったとわかったの。少なくても彼の人間性については何の心配もしていないわ。だから、会った回数が少ないからと言って、不安に思わないで欲しいの」

 亜紀は母の右手を握った。

 「わかった。それほど亜紀が成瀬さんのことを信頼しているのなら何も言うことがないわ」

 「心配してくれるのは嬉しいけれど、お義姉さんも心配しないで」

 杏子は立って後ろから亜紀を抱いた。

 「わかっているわよ、亜紀ちゃんの気持ちくらい。何にしても本当によかったわね。おめでとう、私嬉しい。亜紀ちゃんがいい人に巡り合えて。それに人も羨む三高ですものね」

 「さんこうって何?」

 「まあ呆れた。お義母さん、知りません?三高ってのはですね、昔流行った言葉だけど、女性が結婚相手に求める条件で、高学歴、高収入、高身長のことですよ。ほら、何と言っても大学の先生で准教授でしょう。それにお給料だってそれほど高くはないかもしれないけど安定しているし、身長はびっくりするほど高いときているから、これ以上のお婿さんは鐘や太鼓でどこを探してもいないわ」

 美智子は杏子の説明に、ほほほと笑った。

 「杏子さんの話を聞いていると、杏子さんが成瀬さんと結婚したかったと言わんばかりね」

 「いいえ、お義母さんは知らないでしょうけど、和人には和人のいいところがあるのよ。一番のいいところは子煩悩で浮気をしないことよ。その点、修一さんはもてそうだし、女子学生に囲まれているからしっかりと監視した方がいいわよ、亜紀ちゃん」

 「はい、ご忠告ありがたく承ります。でも修一さんではなくて真一さんよ」

 杏子の冗談に、亜紀は馬鹿丁寧に承って笑いながら間違いを訂正した。

 「あら、そうだった」

 ぺろりと舌を出した。

 「彼の顔を見ているとつい言ってしまうのよ。大学の先生だから、もちろん英語なんかはぺらぺらなんでしょ?」

 「ええ、これも本人ではなくて学生さんから聞いた話だけれど、ドイツ語とフランス語、スペイン語も堪能ですって。会話だけなら中国語、トルコ語のほか数ヶ国出来るらしいわ。通訳に駆り出されることもあるんですって」

 「嘘っ!凄ーい」

 杏子は小躍りするような感じでぱちぱちと手を叩いた。

 「どんな頭をしているにかしら」

 「英会話は中学の時、ドイツ語は高校の時にマスターして、その他は信州大学の在学中に留学生からと講師になる前にヨーロッパを貧乏旅行しながら修得したんですって」

 「へえー、そんなこともしていたんだ。それじゃ、いろんな経験をしているんでしょう?」

 「そうなの。後で訊いてみたら。面白い話をしてくれるわよ」

 トルコ美人のことを話せば義姉は面白がるだろうがそれは黙っていた。

 「お義母さん、よかったわね。いいお婿さんができて。私より語学堪能な添乗員ができることだし、今度みんなで海外旅行に行きましょうよ」

 杏子は美智子の肩に手を置いたり、両手を自分の胸に抱いたりして一人はしゃいだ。

 「それにしたって、修一さんは東工大でしょ。真一さんは信州大学。きっと二人とも優秀な遺伝子を引き継いだのね。でも、どうして近くの大学にしなかったのかしら?京大とか東大とかだったらまだわかるけど」

 「それはね、少し長くなるのだけれど面白い話があるの」

 それを聞いて黙っている杏子ではない。

 「なになに、亜紀ちゃん。あっ、ちょっと待って。お義母さん、後はサラダを作って男どもを待つだけでしょ。お茶にしません。お菓子を食べながらじっくり亜紀ちゃんののろけ話の続きを聞きましょうよ」

 「そうね、そうしようか。じゃお茶の用意をしてくれる。亜紀はお菓子を」

 彼の印象は修一と言うバイアスがあったとしても悪くなかった。娘から聞くまでもなく彼の話しぶりで信頼がおけることがわかる。夫があれほど簡単に心を許したのも、単に修一の兄だけではないと思う。それにしても気になるものは気になる。

 修一とは何度か会って食事も一緒にしたし彼の家にも招待されたから、彼の人となりは美智子なりにわかっているつもりだ。ところが、真一については今日初めて会ったばかりで、修一の兄であることと信州大学の准教授としか知らされていない。彼については全くの無知と言ってもいい。それだけに、彼についてのどのような話であっても聞きたかった。うまい具合に彼女が知りたいことは杏子が聞き出してくれるから、余計な口出しをする必要がなかった。

 美智子はテーブルの上を片付け、娘二人はお茶とお茶菓子の用意をして椅子に腰を下ろした。

 「さあ亜紀ちゃん、のろけ話の続きをどうぞ」

 杏子は両肘をテーブルに置き顎を両手で支えて亜紀を見た。

 「お義姉さん、のろけのろけって言うけど、そんな話じゃないわよ」

 杏子の冷やかしに赤くなって言い訳してから話し始めた。

 なんだかんだ言ったところで、彼の自慢話をしたいことは彼女達にもよく伝わっている。

 「中学に入ってすぐに父親に連れられて行った熊野古道に魅せられたらしいの。高校生のときには奈良県にある大台ケ原や大杉谷を走破したって。それが昂じて彼が選んだ大学は信州大学だったの。そこだったら高い山がすぐそばにあるから日本アルプスを縦断するのに好都合と考えたのね。山梨大学や富山大学も考えなくもなかったらしいけれど、信州と言う名に惹かれたそうよ。これも学生さんから聞いた話だけれど、学部学科の専攻を決めたのはいかにも彼らしいと言うか、みんなが呆れたくらいユニークだったの」

 「へえー、何なに?面白そう」

 杏子は身を乗り出し、美智子は湯呑みを手に取った。

 「普通だったら将来自分がなりたいとか、やってみたいことのために学部とか学科を選択するでしょう。ところが彼の場合、山に登るために信州大学へ入ることだけは決めていたけれど、専攻をどうすればいいかわからなくて消去法で決めたんですって」

 「消去法?何よそれ、変なの。それで」

 杏子が両肘をテーブルにつけたまま煎餅を頬張り、ぱりぱりと乾いた音を立てながら相の手を入れる。美智子は気のない様子だが、内心は興味津々で湯呑を片手に聞き耳を立てている。

 「それで、医学部は学資の点で無理だとはなから諦めて、弁論が苦手だからと法学部も除外したそうなの。文学部は女性的、経済学部は金儲けに関心がないとしてこれも問題外。繊維学部は自分に向いていない、理学部は一つのことを探究するタイプではない、人文は性に合わない、学校の先生や農業に就くつもりはないから教育学部と農学部も無視。そんなこんなで数ある学部の中で工学部だけが残って、その中のどの学科を専攻しようかと思案したそうよ。それで悩んだ末に一番競争率が高いのは何かって考えたんですって」

 「まあ、呆れた。でも、そんなこと言えるってことは、どこの学部でも合格する自信があったのね。どんな頭の構造しているのかしら。だけど、そんなことで自分の進路を決めるなんて変な人。ますます変っているわねえ、お義母さん」

 杏子に同意を求められても、答えようがなく美智子は何も言わず曖昧に笑った。確かに普通の人とは思考回路が少し違うようだと思った。

 「競争率が高いのは、その学科が人気のある証と考えたらしいのね。それで、過去の実績を調べたら、工学部の中では建築学科と電気電子工学科が高かったんですって。建築学科に決めたのは、テレビで観たスペインのバルセロナにあるサクラダファミリアを思い出して、自分はあんな奇妙奇天烈な建物を造ろうとは思わないけれど、あのような職業に就いてもいいかなと考えたらしいわ。

 いざ、建築学科に入学すると性にあったのか、明けても暮れても建物のことが頭から離れない毎日だったって。そんな訳で、彼がバイト先を決めるときは大抵工事現場だったの。賃金がよかったこともあるけれど、なにより現場を知るのにこれほど好都合なことはなかったと言っていたわ。

 貯めたお金は、学費の他に日本アルプスを走破するとの最初の目的から外れて、古い民家を訪ね歩く旅費にも費やしたそうなの。加辺のペンションに来たのも古い家屋を見たかったからだって。家がそれほど裕福ではなかったから入学金以外は仕送りをしてもらわなかったと言っていたわ」

 「それじゃ、生活費は全部アルバイトで賄ったの?」

 初めて美智子が尋ねた。

 「そうらしいわ。それと大学から出る奨学金とね。育英資金もあるけでど卒業後返済をしなければならないからって借りなかったの。でも、奨学金が入る日を知っている悪友がいて、いつもそれで飲みに行くから、部活が終わると昼間だけじゃなくてコンビニなどの夜間アルバイトもしていたって」

 「あらまあ、それじゃ、いつ寝るの?睡眠時間がないじゃないの」

 呆れて空いた口が塞がらない感じの美智子だが、今時そのような苦学生がいることが信じられなかった。現に息子のバイトと言えば小遣い稼ぎが目的だった。それを全部自分で始末したと言うから驚きだった。

 「私も不思議に思って訊いたら、単位がもらえるぎり切りまで講義をさぼって、出席しても授業中は鼾をかかないように寝ていたんですって。代返は一度もしてもらったことがないと変な自慢をしていたわ」

 その時のことを思い出してくすくす笑った。

 「面白い人。それが今は大学の先生でしょ、やっぱり頭がいいのね」

 杏子もただ感心した。

 娘から聞く話だが、身の回りにはいない異色のタイプの男だと思った。

 「杏子さんじゃないけれど、亜紀の話を聞いていると確かに変っているわね。修一さんも優秀なエンジニアだったけれど真一さんも前途洋々の人のようね。本当にいい人と巡り合えてよかったわ。部活もやっていたそうだけれど、夜のアルバイトをしながらそんなこともしていたんじゃ授業中眠くなるのも無理ないわね」

 「合気道を中学時代から初めて今もときどき大学の道場でやっているらしいわ。剣道は大学に入ってから始めたんですって。大学で部の顧問を務めているのよ。学生さんの話ではどちらも有段者ですって」

 「合気道ってあの護身術の?」

 「ええ、そうよ」

 「二つも武道をして大変でしょうに。何でまた始める気になったのかしらね?」

 それなりの理由がありそうだと思って訊いた。

 「三船敏郎の古い映画を観て格好よかったから袴を着けてみたかったんですって。両方とも袴をつけるからだって。意外にミーハーなところがあって変な人でしょう?」

 ここで、何を思い出したのか、亜紀はクスッと笑った。

 「あれ、思い出し笑いなんかして。何が可笑しいの?」

 「いえ、お義姉さん。彼が全日本大学選手権に出た時の話をふと思い出したの」

 「何なに、まだ面白い話があるの?聞かせて」

 杏子は煎餅をかじる手を休めて身を乗り出した。

 「本当に笑えるのよ。あの人らしいと言うか、いつも失敗談ばかり。今思い出しても可笑しいわ。うふふ」

 亜紀は手の甲を口に当てて笑いだすと中々止まらなかった。

 「ねえ、笑ってばかりいないで、勿体ぶらずに早く聞かせてよ」

 杏子は亜紀の腕を叩いて催促した。

 亜紀は彼から聞いたままを話すと、剣道の試合に負けて天井を見た下りで杏子と美智子は亜紀と一緒に一頻ひとしきり笑った。妹に罰として竹下通りに付き合わされた話では抱腹絶倒して中々笑いが止まらなかった。美智子は笑い過ぎて、エプロンの端で涙を拭いた。

 「本当に可笑しいわ。それにしても惜しかったわね。妹さんが来なければ優勝していたかもしれないし、原宿で散財することもなかったことだし。ああ可笑しい」

 杏子さんじゃないけど、あの人の顔を見たら笑い出してしまいそうで怖いとまた笑った。

 「負けた理由は部内ではタブーだそうよ。後輩達には強い先輩だと思われているから、その話は内緒だって」

 「ははは、あー可笑しい。私がそのときのマネージャーだったら、きっと言いふらしていると思うわ。妹の声援で負けたって」

 杏子の言いようにまた大笑した。

 「それにしても面白い人ねえ。お父さんと気が合いそう」

 娘の話を聞いただけだが、修一とは随分違うと思った。娘の目が不自由で気を遣っていたこともあるだろうが、彼の話しぶりはいつも真面目であまり冗談を言わなかったことを思い出した。彼のことが不憫に思えて彼女の胸がキュッとなった。

 「きっと合うと思うわ。お酒もいけて陽気だし。それに自慢話らしいことは一切しない人だから、学生さんから聞くばかり。あ、そうだ。絵も上手なのよ。ちょっと待って」

 亜紀が出て行くと、美智子と杏子は互いに笑った。

 「あの子ったら、成瀬さんの自慢話ばかりね」

 「いいじゃないですか、お義母さん。それだけ彼のことが好きでお義母さんにも彼のこと知ってもらいたいのよ。これまで亜紀ちゃんがあんな風に心から笑った姿を見たことがなかったから嬉しいわ」

 「ありがとう、杏子さん。こんな日が来るなんて涙が出るわ」

 美智子は目を瞬いて杏子の手の上に自分の掌を重ねた。

 「待った甲斐があったわね。本当によかった」

 「ありがとう」

 二人が手を取り合っていると、亜紀はファイルホルダーを持って駈けるように戻って来た。

 そこからラミネートされた3枚の絵を取り出してテーブルの上に広げると二人の視線がそれに集中した。

 「うっそー、亜紀ちゃんじゃないの。よく描けているわ。これ全部彼が描いたものなの?」

 「そうよ」

 亜紀は自分で描いたかのように自慢気に頷いた。

 「素晴らしいわ。亜紀ちゃんの表情がよく出ている」

 「本当に。この絵を見ただけで、亜紀のことを想ってくれていることがよくわかるわね。これって、加辺さんところの森ね」

 絵の背景はデフォルメされているのだが、美智子にはそれがどこかわかったらしい。

 「そうよ。誰にもしたことのない昔のことを話したときのものよ」

 「ああ、それで」

 それで悲し気な表情をしているのかと合点がいった。

 美智子と杏子は絵を代わるがわる手にとって、よく描けているとしきりに感心した。

 「それにしても、そんな一瞬のことをよく憶えているわね」

 亜紀はにっこり笑った後、彼が持つ特殊な能力のことを自分のことのように話した。

 「へえ、そんな能力が世の中にあるんだ。それは遺伝するものかしら」

 半年前、亜紀が彼に訊いた同じことを杏子は言った。

 「遺伝性のものじゃないんですって」

 「それは残念ね。亜紀ちゃんの子供に遺伝すれば勉強が楽なのに」

 杏子の即物的な物言いに亜紀は赤くなり美智子は笑った。

 美智子は娘が彼のことを話しているときの表情をずっと見ていた。彼女の話振りから、娘が彼のことを信頼しきっていることもわかり、修一のことを完全に吹っ切ったことを信じた。母としてそれは喜ばしいことなのだが、息子を亡くした稲子の心情を思うと彼女の深層心理はどうなのかとふと気になった。そんなことは表に出さず、美智子は娘の手を両手で取ってしみじみとして言った。

 「亜紀、ここまでよく頑張ったわね。でもね、これまで慈しんで下さった稲子さんと盛蔵さんに感謝するのよ。もちろんお爺さんにも。でなかったら、きっと罰が当たるわ。母さんね、亜紀に何もしてあげられなかったけど、やっと肩の荷が下りるのかと思うと嬉しいの」

 美智子はポロっと耐えていた涙を流した。

 「お母さん、泣かないでよ」

 「嬉し涙よ。嬉しくて泣いたの」

 ハンカチで頻りに拭うのを、亜紀は後ろから覆いかぶさるように母の肩を抱いて一緒に泣いた。小さい頃、大きいと思っていた母の背中は小さかった。


                    (三)


 お父さん達遅いわねと亜紀が言った矢先、ガラガラと玄関戸の開く音がして、和雄の戻ったよの声がした。亜紀が勢いよく立ち上がって玄関へ出迎えに行った。

 亜紀がダイニングから出て行くと、杏子は声をひそめて義母に訊いた。

 「お義母さん、修一さんと真一さんを比べてどう思います?」

 「さあ、どうと言ってもねぇ、修一さんはともかく真一さんとは会ったばかりだしね」

 「同じ遺伝子を持つ一卵性双生児なのに随分性格が違うように思いません?生活環境が違ったせいかしら?」

 「さあ、どうかしらね」

 酒の用意をしながら気のない返事をした。 彼女としては軽々しく二人を評したり比較したりしたくはなかった。それを知ってか知らずか杏子はなお彼を評した。

 「修一さんともそれほど面識があるわけでもないから印象でしか言えないけど、修一さんは根っから優しいし親切で本心から亜紀ちゃんを慈しんでくれていたと思うわ。ぶっちゃけ言えば、修一さんは絶えず亜紀ちゃんのことを見守って隙がなかったわね。反対に真一さんの方は亜紀ちゃんの話を聞く限りでは、自分をよく見せようなんてところが少しもなくてだだ漏れの隙だらけ。でもその方が亜紀ちゃんも息が抜けるし支え甲斐があると思うわ。それに母性本能もくすぐるだろうし」

 そんな見方もあるのかと美智子は杏子の洞察力に感心した。

 「面白いことを言うわねえ。その話は後でゆっくりとしましょう。みんなが帰って来たから、うるさくなるわよ」

 それを裏付けるかのように玄関から和雄の機嫌のよい声が聞こえて来た。美智子と杏子は彼の声に笑いながらテーブルから離れると食事の用意を始めた。

 玄関では亜紀が立ち話をしていた。

 「お父さん、遅かったわね」

 狭い玄関で二人の男がにこにこして立っていた。真一は肩車をしていた和彦を玄関先で下ろして続いて入って来た。和彦は靴を脱ぎ散らかし、ママーお腹すいたと奥へ走りこんだ。

 「外はいい天気で気持ちがよかった。こんな時間に散歩に出たのは初めてじゃないかな。お陰で息子二人とゆっくりと歩きながら話ができた。何十年か振りに入間川の堤防へ行ってみたが、砂利道が舗装されてすっかり変わっていたから驚いた」

 和雄は真一にすっかり気を許し息子扱いで上機嫌で奥に向かった。亜紀もそんな父の背中を見て嬉しかった。

 「君が失明した場所へお兄さんに案内されて行ってみた。うまく口にはできないが、ある感慨はあったな。あの不幸な出来事がなければ、こうして君とも知り合うことがなかった。考えてみれば不思議な縁があったものだなあとつくづく思う。いわばあそこが僕たちの縁結びの原点だな」

 「私はあれから一度も行っていないから今度私も行きたいわ」

 無意識に亜紀は真一の腕をとっていた。

 「あのこと父に話したの?」

 真一に小声で訊いた。

 「いや、まだ」

 「何だい、話って」

 聞き咎めた和人が振り返りながら訊いた。

 「それは後でお話しします。お兄さんにも了解をもらう必要がありますから」

 「何だよ。気味が悪いな。気になるじゃないか」

 「まあまあ和人、話は後でもいいじゃないか。それより喉が渇いた、まず冷たいもので一杯やろう。母さん、ビールを用意してくれ。それから何かつまみも」

 「はーい」

 杏子は台所に顔を出した義父に返事をした。

 「あなたご機嫌ね」

 「ああ、飲み友達が一人増えたような気分だ。あれ、どこだ?」

 「ここは手狭だから、和室にしたわ。男が三人突っ立っていても邪魔だから、そっちへ行ってちょうだい」

 しっしと追い払うような仕草をした。

 「母さんもああ言っている。邪魔者は消えよう。真一君、あっちへ行こう」

 和雄が二人の背中を押すようにして和室へ消えた。

 「お義父さん、ご機嫌ね。飲まないうちから酔っているみたい。あんなお義父さんを見るのは初めてだわ。亜紀ちゃんのお相手が決まってよっぽど嬉しいのね。花嫁の父って、もっとごねるのかと期待したけど、がっかりだわ」

 ほほほと笑って美智子が冷蔵庫から取り出したビールとコップを亜紀はお盆に載せて和室へ行った。

 客間では床の間を背にして和雄がでんと孫を抱いて胡坐をかき、左の庭側には真一、右側には兄が座って待っていた。真一の手元には誰が持ってきたのかアルバムがあって、和人の説明を受けて感心しながら見ていた。亜紀の目が不自由だった頃の写真はそれほど多くなかった。

 美智子は夫の対面に、亜紀と杏子はそれぞれの相手の隣に座った。座卓の上には、亜紀手造りの肴とつまみが並べられている。

 隣り合った者同士でビールとジュースを注ぎ終わると和雄がコップを頭の高さまで持ち上げ発声した。

 「和彦、ジュースを持ったか?それでは結納はまだだが、真一君と娘の婚約を祝して乾杯をしよう。乾杯!」

 乾杯の声が一斉に和して拍手がそれに続いた。

 「後は面倒だから手酌で行こう。真一君、まあそんなに堅苦しくならずに膝を崩しなさい」

 「はい、それでは失礼して」

 正座から胡坐に変えた。

 和雄がいける口だろう、ささもう一杯と言いながらビールを注ぎ真一も和雄のコップにビールを傾けた。

 「これを全部亜紀が作ったって?どれどれ、妻として立派にやって行けるかどうか品評してやろう」

 和雄は肴を小皿に取った。

 「お父さんが審査しても駄目よ。真一さんの評価をいただくわ。美味しくなかったら正直に言ってね」

 「うん、ありがとう」

 亜紀が色々取り分けてくれた皿を受け取り、心配そうな顔をして見ている彼女を意識しながら一口ずつ味わった。一通り全部に口を付けると、真一は親指を立てた。

 「美味しいよ」

 亜紀の頬が緩んで笑顔になった。美智子も娘を褒めた。

 「どれもいいお味になっているわ。加辺さんのお宅でいろいろ教わったからかしら。私も知らないものもあって」

 「本当。亜紀ちゃん、これなら主婦として十分やっていけるわよ」

 杏子も太鼓判を押した。亜紀は満足そうににっこり笑った。

 和人は真一にビールを注ぎながら話しかけた。

 「真ちゃん、妹をよろしく頼むよ。あれほど心を閉ざしていた妹の気持ちを変えてくれただけでも、ありがたくて涙が出そうだ。まあ知っての通り色んな事があって、これまで幸せに恵まれなかった。親の反対を押し切って原村へ送り出した経緯もあるから、ずっと気になっていたんだ。お袋は俺を責めたかっただろうけど、何にも言わないから余計に辛かった」

 美智子は聞き咎めた。

 「そんなこと一度も思ったことはないわよ。影に日向に亜紀の面倒を看てくれて、どれだけ私が助かったことか、感謝こそすれ恨みに思ったことなどないわよ。でもそれは亜紀のことはずっと心配だったわよ。あんな大きなお屋敷を一人で切り盛りしているでしょう。娘のことを思うと不憫で仕方がなかったわ。でも、時間はかかったけれど、こんないい人と結婚することになったから嬉しいの。

 成瀬さん、この子は辛いことがあっても我慢して頑張ってしまうところがあるから、亜紀のことをよろしくお願いします」

 美智子は箸を下ろして真一に向き直ると頭を深く下げた。真一は慌てて正座した。

 「お母さん、頭を上げて下さい。大丈夫です、決して不幸にはしません。私の方こそよろしくお願いします」

 湿っぽい話になりかけるのを咎めて、和雄はおいと呼び掛けた。

 「和人も美智子も、そんな堅苦しい話は止めて、めでたいんだから楽しい話をしようじゃないか。真一君、少し気が早いかも知れんが、結婚式はどう考えているんだ?二人の間ではもう決めているんだろう?」

 みんなの視線が真一に集まった。彼らも後々のことがあるから聞いておきたいところだ。亜紀は隣の真一を窺った。

 「実はこちらへ伺う電車の中で亜紀さんと相談しました。お許しがいただけましたので、結納だけは年内に交わしたいと考えています。具体的には、慌しくて亜紀さんには気の毒ですが、この後そのまま和歌山へ行って亜紀さんを婚約者として両親に紹介しようと思っています。そのときにこちらのご両親と相談するように話します」

 「そうだな。それでいい」

 和雄は満足そうに同意した。

 「私もそれでいいわ」

 美智子も同調すると、黙ってソーセージを頬張っていた和彦が、ゆいのーってなーにと突然言い出した。一同は一瞬黙り、それから笑いが弾けた。

 真一が最初に口を開いた。

 「和彦君、小父さんが教えてあげよう」

 真一が和彦に向き直ると、一同は彼がどのような説明をするのか興味津々で見守った。

 「ゆいのーってのはね・・・、和彦君は好きってわかるかな?」

 和彦が首を振ってううんと返事をすると、その説明から始めた。

 「そうか、まだわかんないか。和彦君は幼稚園に通っているだろう。その幼稚園で一緒にお遊戯したいなあとか一緒に手を繋いで帰りたいなあと思う女の子はいないの?」

 「いるよ。ゆーこちゃん」

 あっさり告白した息子に杏子と美智子は吹き出した。ゆーこちゃんて誰と亜紀が母親に訊いている。

 「和彦は優子ちゃんが好きなの?」

 杏子の問いに小さい息子はわかんないと答えた。

 「ゆうこちゃんて誰だ?」

 和人が妻に尋ねた。

 「安達さんとこの子よ。ほらいつも可愛いリボンをしている三つ編みの女の子がいるでしょ。その子よ」

 「ああ、あの可愛い子か。和彦はその子が好きなのか。我が息子だけあって目が高いな」

 真一は説明の続きを始めた。

 「ほら、ママもパパも好きかって訊いただろう。その子といつも手を繋いでいたいなあとか一緒にいたいなあと思うことが好きと言うことなんだ」

 女性だけが顔を寄せ合って、大学の先生だけあってうまいこと言うわねえと笑った。

 「小父さんは亜紀叔母さんが大好きだから、叔母さんにずっと一緒にいて下さいってお願いしたんだよ。そうしたら叔母さんも小父さんと一緒にいたいって返事してくれたんだ。だから小父さんも亜紀叔母さんもお互いに大好きなんだ。わかるかい?」

 「うん、わかった。だから小父さんはここにいるんだね?」

 少し的外れな息子の納得に和人は苦笑した。しかし、真一は真面目に答えた。

 「そうだよ。でもね、小父さんと叔母さんが好き合っていても一緒にいられないんだよ。ほら、亜紀叔母さんにもパパとママがいるだろう。和彦君から見れば、お爺ちゃんとお婆ちゃんだ。小父さんとこにもパパとママがいるから、その人達みんなから一緒にいてもいいよと言われて初めて小父さんと叔母さんが一緒にいてもいいことになるんだ。

 それで小父さんとこのパパとママがここに来て、小父さんと一緒にいさせてあげたいから、亜紀叔母さんを小父さんのお嫁さんに下さいと亜紀叔母さんのパパとママに正式にお願いして決めるのがゆいのーだよ。わかった?」

 「うん、わかった」

 少し違うのじゃないかしらと思いながらも亜紀は彼の説明を微笑ましく聞いていた。

 「えらいなー。ゆいのーしてから小父さんと叔母さんは結婚して一緒に暮らすんだよ」

 「けっこんてなーに?」

 「さあ、大学の先生は幼稚園児の質問にどう答えるのかしら。楽しみだわ」

 杏子の発言に真一は苦笑し、みんなは大笑した。

 「けっこんと言うのはね、小父さんと叔母さんがずーっと一緒にいてもいいよと世界中の人に認めてもらうことなんだよ。そして、神様とみんなの前でずっとずっと好きなままで一緒にいますって約束するのが結婚式なんだ。だから、和彦君もゆーこちゃんとずっと一緒にいたいなら、ゆいのーしてけっこんしないと駄目なんだぞ。わかった?」

 「わかった。そーする」

 ふうと真一は一息ついた。

 「学生に教えるより難しい」

 ほっと安堵して本音を漏らすとまた全員が大笑いした。

 杏子は手を叩いて彼を誉め讃えた。

 「真一さん、あなた子供相手の話が上手だわ。早くいとこができるといいいわね、ねー和彦」

 それを聞いて、亜紀がまだ早いわよと真っ赤になった。

 「いとこってなーに?」

 「おいまた始まったぞ。ちゃんとお前から説明してやれよ」

 なによ、難しい話になると私に押し付けるんだからと不平を洩らしつつちゃんと息子に説明した。

 「小父さんと叔母さんが結婚して赤ちゃんができると、それが和彦のいとこになるのよ」

 「ふーん。はやくいとこがほしい」

 「真一君、息子がああ言っているから、早く作れよ」

 にやにやして和人が催促した。

 「耕造さんにも曾孫を早くと言われていますから頑張ります」

 真一は笑いながら臆面もなく答えた。

 「そうだな。孫は何人いても可愛いからな」

 父の何気ない発言に亜紀はますます赤くなって俯いた。

 「それで式のことですが、亜紀さんの準備もあるでしょうから、年が改まってからでもいいかなと二人で話をしました。式場は遠くて申し訳ないですが、修一と私が拾われた長崎の教会を念頭に置いています。それも大袈裟にはしないで身内だけで挙げたいと考えていますが、いかがでしょうか」

 彼らにも真一の心情が理解できた。

 「二人がそのように決めたのなら、何も言うことはない。ただ、娘にあんな不幸があったから、君のご両親とも相談して披露宴だけは盛大にしたいが」

 和雄が希望を述べると美智子もその通りだとばかりに大きく頷いた。

 「それは承知しておりますし望むところです。それと新婚旅行の場所はまだ決めていませんが、ご両親さえよければ、加辺家も加えた身内で一緒に行ければいいなと思っています」

 「みんなで?」

 意外な提案に和人が訊いた。その隣で杏子はにんまり笑い、和雄と美智子は顔を見合わせた。

 「はい。ここ埼玉に長野に和歌山と、みんな家族がばらばらで遠方なので家族揃って一緒にお話をする機会もそうそうないと思います。ですからこの際、親戚となる3家族が一緒のところで寝泊まりして一緒に食事をして一緒に観光巡りでもすれば、互いに気心も知れて親睦が図れるでしょうし、行く以上は見知らぬ海外の方がいいのかなと・・・」

 みなまで言わせず杏子がその提案に賛成した。

 「それはグッドアイデアだわ。是非そうしましょうよ。亜紀ちゃんとまた旅行できるなんて嬉しい」

 ねっ、そうしようと夫に迫った。

 「そうだな、どうする母さん。ずっと家族で旅行らしい旅行もしていないし、杏子もああ言っていることだからこの際真一君の言葉に甘えようか」

 「でも二人の新婚旅行なのにいいのかしら?それに私、外国へは一度も行ったことがないから心配だわ」

 「ご心配は無用です。うちの両親も日本から一度も出たことがありません。お母さんは私がお相手します。ですから、何の心配もいりません。それじゃ、決まりだな」

 隣に座る亜紀を意味ありげに見た。

 「うちの両親と加辺さんは僕が説得するから、行き先は亜紀さんが決めて」

 「えっ、私が?」

 「亜紀ちゃん、絶対海外にしなさいよ。ねぇ、年内にしない?え、駄目。後で相談しましょ。真一さん、私の親も一緒に行っていい?一度も外国に行ってないから、死ぬまでに一度でいいから行きたいと前々から言ってるの。ねぇ、和人、いいでしょう?」

 杏子は駄々っ子みたいに夫の腕を取って揺すった。

 「嫁がこんなこと言ってるけど、いいのかな?」

 「もちろんです。大勢の方が楽しいから大歓迎です。私達は何かと忙しくなるから旅行の段取りは、お義姉さんにお願いします」

 お義姉さんと呼ばれた杏子はすっかり喜び、元JTB社員の義姉さんに任せてと胸をどんと叩いた。

 「新婚旅行はそれでいいとして、真一君、明日の予定は?」

 「何も決めていません。明後日の月曜日は建築学会で論文の発表があるので朝からそれに出席します。明々後日は指輪を買ってから、亜紀さんを僕の両親に紹介するために和歌山へ向かうつもりです」

 「慌ただしいな。そうなると自由になるのは明日だけか。それじゃ明日はどうする?」

 真一にビールを勧めながら尋ねた。

 「特にありませんが、ここから近いと聞いていますので、できれば亜紀さんと弟の修一が初めてデートした森林公園に行けたらいいなとは思っていますが」

 「よし、そうしよう。それじゃ親父、明日は弁当を持ってみんなで行こう」

 「そうだな。9時頃ここを出ればいいから、母さんと杏子さんは昼の弁当を用意して、夕食はどこかのレストランを予約して二人の婚約祝いをしよう」

 「そうね、そうしましょうか」

 「和彦、よかったわね。亜紀叔母さんのお婿さんになる真一さんが来てくれたおかげで、パパが家族サービスしてくれるわよ。亜紀ちゃんは真一さんのお弁当を作ってあげて。ここで点数を稼いでおかなきゃ駄目よ」

 亜紀は笑って頷きながら、杏子に感謝していた。少し騒がしいが、彼女が盛り上げてくれるお陰で場がいつも華やかになるからだ。

 酔いがまわるにつれ次第に砕け下世話な話になった。女性達は食事に入ったが、男達はまだぐい呑みやグラスが手から離れていない。

 「大学の先生てのは研究論文を書かなきゃ駄目なんだろう。それで真ちゃんは何を研究のテーマにしているの?」

 和人は経済学部出だから建築学科のことは検討もつかなかった。

 「主に建築構造と都市計画です。現在は新たな構造計算の理論を確立すること。それと昔に建てられた建物の安全性を現在の理論に照らして検証することもやってます。それがわかれば当時の棟梁の考え方に迫れるのではと思っています。都市計画はまだ準備段階です」

 大工の棟梁の勘と経験によって建てられた古建物を居住空間を含めて現代の構造計算に基づいてその合理性を検証することが彼の研究テーマの一つであった。彼の場合、建築の範疇を超え土木構造物のまで及んでいた。

 「いずれ神社仏閣や城郭などの古い建物の図面を入手して検証したいと考えています」

 「それは大変だな」

 「それだけにやり甲斐があると思っています」

 「それで大学の先生ってどうなんだ。美人の女子学生に囲まれて楽しいだろう」

 砕けた話になり、真一は苦笑して持参した信州誉を和雄のぐい呑みに注いだ。

 「それは誤解しておられます。文化系の学部ならまだしも、工学部ですから女子はそれほど多くないんです。それに少子化の上に理科離れが進んで、どこの大学でも同じですが、理工系への入学希望者が漸減して、大学としてはそれが頭の痛いところです」

 「あら、そんなこと言って。いつお邪魔しても研究室は女子学生ばかりだったわ」

 「そうなのか、真一君?」

 娘の暴露に和雄は少し羨ましそうに訊くと、真一は目の前で大きく手を振って否定した。

 「違います。亜紀さん、誤解を招くようなことを言ったら困るなあ。確かに少なくはないが、3分の2は男子だよ。女子学生は真面目だから研究室にいることが多いだけさ」

 「それで亜紀、可愛い子ばかりなの?」

 真一の弁解にも美智子は追い打ちをかけた。そのように彼女が気楽に突っ込みを入れられる雰囲気を彼は持っていた。

 「そうなの。いつだったか、真一さんが言っていたわ。建築学科に入って来る女子は何故か可愛い子が多いって」

 「そんなこと言ったっけ。記憶にないなあ」

 蕨の白和えにこの季節に珍しいと舌鼓を打って白々しく惚けた

 「はっきり聞いたわ」

 ほうらね、だだ漏ればかりと杏子が小声で言うのを、美智子が本当にと相槌を打って笑いを噛み殺した。

 「真ちゃん、どうも旗色が悪そうだな」

 和人がにやにやしながら言った。

 「まいったな、お父さんが変なこと訊くからですよ。」

 こういう話題は一番困ると言いながら、また和雄のぐい呑みに酒を注いだ。

 「おおありがとう。それはすまん。そんな可愛い子のいる職場じゃお前も心配だな」

 「大丈夫よ。この人、顔じゃなくて内面重視だって公言したそうだから」

 真一のためにサラダを皿に取り分けてやりながら、澄まし顔で言った。

 「誰からそんなことを訊いた?」

 皿を受け取ろうとした手を止めた。彼女に話した記憶がない。

 「それは内緒」

 真一の顔も見ないで答えた。

 「どうせ中川か加藤だろう」

 さあと素っ惚けた。真一も酒が入って亜紀に対する応対も少しぞんざいになった。

 真一の困ったような態度に杏子が黙っている訳がなく、身を乗り出して亜紀に尋ねた。

 「亜紀ちゃん、ちょっと面白そうな話ね。詳しく聞かせてくれる。ほら、お義母さんも訊きたいと言っているわ」

 うまく義母を巻き込んで真一の退路を断つ。

 「酔っぱらって言った男の戯言は人に聞かせるような話じゃない。面白くもないから止めよう。僕のことは酒の肴にもならないし折角の料理と酒が不味くなる」

 真一の困惑した態度が可笑しくて女性陣は吹き出した。

 「あなたの女性感なら是非私も伺いたいわ。ねえ、あなた」

 「お母さんまでそんなことを・・・。困ったな。君までが変なことを言うから」

 本当に困った顔をして抗議したが、それを無視して亜紀が話しだした。

 「私が聞いたのはね、お母さん。真一さんが結婚する相手の条件は二つだけだそうよ」

 「条件?へえ何かしら?成瀬さんのことだからきっと面白いことでしょうね」

 美智子も次第に彼のことがわかってきた。杏子も食事の手を休めて興味津々だった。和人は彼がやり込められているのを黙ってにやにや笑っていた。和雄も孫に天婦羅を与えながらしっかりと聞き耳を立てた。

 「お母さん、面白いことなんてありません。亜紀さん、そんな話はもう止めようよ。人前でするようなことでもない」

 真一はますます苦り切って亜紀を制した。そんな態度を採られるとますます聴きたくなるのが女のさがだった。

 美智子は娘を促した。こうなると真一に止める術はなかった。

 「相手を選ぶ条件は、顔の美醜は関係なくって、感性を共有できる人と良き妻いい母になれるかだけですって。美人かどうかなどは表面的な個性の一つに過ぎないから重要ではないそうよ」

 あれまあとそれに食いついたのはやはり杏子だった。

 「えーなあ-に、ちょっと真一さん」

 ぽんと座卓を叩いた。

 「黙って聞けばあなた、いかにもあなたが言いそうなことで、へえと思わず感心しそうになったけど、よくよく聞けば何よ。それじゃ何、亜紀ちゃんが美人じゃないみたいじゃないの。聞き捨てならないわ」

 返答によってはただでは済まさないと、杏子が両手を膝の上に置いて真一をわざと見据えた。彼女の夫はにやにやして成り行きを楽しみ、和雄は孫に伊達巻を取ってやりながら、それとなく聞いている。美智子もにこにこしている。真一だけが困り切った顔をしている。

 「いや、杏子さん、それは誤解がある。確かに酔っぱらったときにそのようなことを発言したかも知れないが、不美人でいいなどとは言っていない。僕が言いたかったのは、顔の良し悪しはファースト・プライオリティではないと言いたかっただけだよ。それぁ、僕だって男だから美人で悪い訳がない。一年間じっと亜紀さんを見てきて僕の理想の人だと思ったし生涯を共にできると確信したからプロポーズしたんだよ。美人だからじゃない」

 真一はハンカチで汗を拭き取りながら真剣に弁明した。そんな彼を和雄は支持した。

 「真一君、君はいい、実にいい。娘が惚れ込んだだけのことはある。いや本来男とはそうあるべきだ。近頃は表面的な美だけを求めて相手を選ぶ傾向があるが、それじゃいかん。君は健全な考えをしている。ますます気に入った。まあ一杯飲め」

 真一の肩を抱き寄せながらビールを注いだ。

 「私だって、こう言っちゃなんだが、家内が美人だから結婚した訳じゃない。母さんとなら一生共にしてもいいと思ったからだ」

 「あらいやだ、お義父さんまでのろけちゃって。でも亜紀ちゃん、男ってあてにならないわよ。陰でどんなことをしているやら、よーく注意してなさいよ」

 意味ありげな素振りで忠告したから、彼女の夫が反応した。

 「おい、何だよ。俺が浮気でもしているというのか。毎日伝書鳩のように真っ直ぐに帰って来るのにそんな暇があるか」

 変なところから飛び火して、躍起になって抗議した。

 「一般論よ、一般論」

 「杏子さん、ありがとう。この人、教え子に手を出したり、誘惑に乗ったりするような人じゃないから心配していないわ」

 和人は真一にビールを注ぎながら話しかけた。

 「女の戯言はきりがないから放っておこう。ところで結婚したら矢張り大学の近くに住むことになるのか?」

 亜紀は真一をちらりと見た。

 「そのことについては、後ほどお話します」

 「まあ、どこで住んでも娘が幸せならそれでいい」

 和雄が結論を下した。

 和彦が隅の方で横になり、大人達だけになるとアルコールが更に進んで、男たちは嬌声を上げて笑い、奇声を上げては手を叩いた。

 女性達は隣近所を気にしながら明日着て行く服と持って行く弁当の話題で盛り上がった。


                    (四)


 真一が目を覚ますと知らぬ間に下着姿になっていて、左右に和雄と和人が同じ姿で寝ていた。不覚にも宴会の途中からの記憶が曖昧だった。半身起き上がると重い頭を振って昨晩のことを思い出そうとした。

 欧州旅行の時に覚えた歌を歌わされ、次いで和雄と和人が演歌と流行りのポップスを歌い、酔った勢いで男だけで立ち上がり肩を組んで、美智子がご近所迷惑だからと制止するのも振り切り、大声を張り上げたことまでは覚えているが、その後の記憶が今一つ定かでない。

 お腹がグーッと鳴った。胃は正直だった。昨晩はアルコールばかりを飲んで夕食を食べ損ねたことを思い出した。その胃袋を誘うように襖の間から焼魚のいい匂いがしてきた。

 布団から抜け出し立ち上がると少し足がふらついた。羽目を外しこんなに酔っぱらったのは随分久しぶりのことだった。

 隅に置いてあったバックからトレーナを取り出した。それを身に着けると和室を出て用を足した。ダイニングでは和彦一人がトーストを齧っていて、親娘三人がコーヒーを飲みながら立ち話をして笑い合っていた。

 お早うございますと声をかけた。歌い過ぎたのか声がかすれていた。

 「よく眠れました?」

 美智子の目が笑っていた。隣で亜紀と杏子も笑っていた。

 「はい、眠れました。昨晩はどうも済みません。折角夕食の用意をしていただいていながら、それも摂らずに醜態を曝したようで、お恥ずかしい限りです。あんなことは学生の時以来です」

 真一は突っ立ったまま乱れた髪をぽりぽり掻いた。

 「いいわよ真一さん、みんな喜んでいたから。主人も和人もあんなに酔っぱらった姿を見たのは何年ぶりのことかしら。今、歌がお上手ねとみんなで噂していたところ」

 美智子の機嫌がいいので真一はほっとした。

 「結婚のお許しをいただいたのが嬉しくて羽目を外してしまいました。穴があったら入りたいところです。あのー・・・えーっと、誰が服を脱がせてくれたのでしょうか?」

 まさかと思いながら恐るおそる訊いて、照れくさそうにまた頭を掻いた。

 「さあ、誰でしょう?私は和人の、お義母さんはお義父さんの、さて残る人は?」

 杏子が悪戯っぽく笑った。亜紀は恥ずかしそうにもじもじして下を向いた。

 「まさか、亜紀さんが?」

 「そのまさかの亜紀ちゃんよ。あなたの服を脱がせているとき、頬ずりしそうな感じだったわよ。ねぇ、お義母さん」

 「杏子さん、馬鹿ばかり言わないで」

 亜紀の頬がみるみる真っ赤になった。

 「はいはい、真一さんと亜紀を苛めるのはそれぐらいにしましょう。お腹がすいたでしょう。中々起きてこないから私達は先に済ませたわ。すぐに支度をするから、先に顔を洗ってらっしゃい。亜紀、洗面所へ案内して」

 「済みません。それより水でいいですからシャワーを浴びてもいいですか。まだ体の中にアルコールが残っているようです」

 吐く息も体臭も酒臭い。

 「ええどうぞ。亜紀、浴室へ案内して。タオルはいつものところよ。杏子さんは残りの二人を起こしてきてちょうだい」

 はーいと返事をして客間へ行くと杏子は情け容赦なく布団を引き剥がした。たまらず父子はもぞもぞ起き出した。

 二日酔い気味の男達だけで朝食をしている間、女性達は着て行く服のことでわいわいがやがやと姦しく盛り上がり、亜紀はあのとき着て行ったワンピースにした。あれから7年近く経っているが、彼女の体形は少しも変わっていなかった。サングラスと帽子はもちろん忘れない。それに加えて彼女が以前使用していた折り畳み式の白杖を持ち出してきたから、美智子は一瞬どきっとした。が、すぐに娘の気持ちを察して頷いた。


 出足が遅かったために、森林公園の南口に到着したときは11時近くになっていた。

 和人の提案で亜紀と修一が最初にデートをしたコースを巡ることになった。あの時とは違って、紅葉にはまだ早いが、緑が青空に映えていた。

 南口から中央口に向かって、各々のカップルがそれぞれの思いを抱いてそぞろ歩きを楽しんだ。

 女性達は陽光を避けるために日傘をさしている。真一は黒のサングラス、亜紀はいつもの薄茶のサングラスだ。白杖を持つ姿も服装もあの時のままだが、異なるのは婚約者の腕を取り自分の目で景色を楽しんでいることだった。

 亜紀の両親は亜紀の後方をゆっくりと歩きながら、木々の上部を指差し二人で何かを話している。二人もここへ来たのは数十年振りのことだ。

 兄夫婦は和彦に手を引かれ随分先を歩いている。どうやら和彦が運動広場へと誘導しているようだ。陽気がいいせいか、大勢の人が散策を楽しみ、数多くの自転車が通るのを木々越しに見えた。散策路と自転車道は別々なので安心して森の中を楽しむことができた。すれ違う人は白杖を持ちサングラスをしている亜紀を見て過ぎた。

 あの時、修一にいろんなことを教えられたが、あまり覚えていない。殆ど舗装道路を歩いていたので、園内バスのルートを歩いたようだ。これも亡き夫の気遣いだったことを今知った。今日は勾配のある歩道や階段を歩いている。こうして歩けるのも修一のお陰だ。そう思うと思わず涙が出そうになった。

 真一は回りを観察することに余念がなかったが、次第に口数が少なくなった亜紀をおもんばかり黙って従って歩いた。やがて子供達の歓声が聞こえてきた。

 開けた場所に出ると、広い芝生広場に巨大なトランポリンがあって、暑さにめげず子供達、いや大人までは飛び跳ねている。近くに兄夫婦がいるので、あの中に和彦もいるのだろう。

 亜紀と真一は広場の端の木陰で腰を下ろし子供達が興じている様子を眺めた。亜紀の両親も二人への配慮からか、少し離れた場所の日陰で休んでいる。残暑が厳しいが、木陰に入ると顔に当たる風が心地良かった。

 真一が伸びをするように両手を大きく広げて、うーん、思った以上に広くていいところだと言って亜紀に顔を向けた。

 「お父さん達のところへ行かなくてもいいのかな?」

 「いいのよ。あれでも私達に気を遣っているつもりなのよ。たまには夫婦水入らずもいいわ」

 「それならいいが。いいご両親だね。生意気を言うようだが、お二人を見て亜紀さんがどのように育てられたかわかるような気がする」

 「ありがとう、そう言っていただいて嬉しいわ。真一さんのご両親はどのような方?」

 やはり将来の舅姑が気になるのか訊いた。

 「そうだな。二人共どちらかと言うと物静かな方かな。妹は母親に厳しく躾けられたけど、僕には何でも好きなことをやらせてくれて叱られた記憶がないな。と言って甘やかされている意識はなくて、何て言ったらいいのかな、カンガルーみたいに親の懐の中で育てられたといったところかな。自分の親を褒めるのも何だが、苦労人で根は優しいから、会えばきっと君も安心すると思う」

 「気に入っていただけるかしら。心配だわ」

 「それは大丈夫、太鼓判を押すよ。もし亜紀さんを気に入らなければ、誰を連れて行っても駄目だと思う。でもそんなことはないから取り越し苦労は無用さ。ただ親戚連中には僕が女嫌いの変人で通っているから、それを改めさせた人はどんな女だろうと興味津々かも知れない」

 悪戯っぽく言って笑った。

 「そんな人を好きになった私も変人と思われるのね、きっと」

 「ははは、そうだな。変人同士が一緒になってやっと普通に戻れる」

 互いに冗談を言い合って笑った。笑い声が聞こえたのか、亜紀の両親がこちらを見て微笑んだ。

 「その服は修一と写真に写っていた時のものだろう?」

 「そうよ。もう、ここへ来ることもないと思っていたから、こうして同じ服を着てあなたと来られたのがとても嬉しい」

 見ていないようで見てくれていていたことも嬉しかった。

 「興味本位で一度君に訊こうと思ったことがあるんだが・・・」

 何?と答えて、亜紀は首を少し傾けた。彼からこうして改まって訊かれることは珍しいと思った。

 「目が見えるようになって、初めて大人になった自分を見てどうだった?」

 あら、そんなことと思いながら「別に、あまり変わっていないなあと思ったわ。子供の頃の写真を見たでしょう。あなたから見て大きく変わっているかしら?」と答えた。

 「いや、小さい頃も可愛いかったから、そのまま成長したって感じかな」

 「ありがとう、お世辞でも嬉しいわ。玻瑠香さんはどうだったの?」

 自分でも嫌だと自覚しているのだが、さり気なく確かめてしまう。そんな亜紀の気持ちに気付かないのか、彼の返答は期待外れだった。

 「あいつは子供の頃からお人形さんのようだと言われていたな。まさかあんなに背が高くなるとは思っていなかった」

 「もう少し低ければ男の人がもっと寄ってきたでしょうに」

 「いや、大学入学前の春休みだったかな。友達とディズニーランドと東京見物に行ったときに、あちこちでしつこくモデルにならないかって誘われて往生したらしい」

 彼女ほどの美貌と高身長ならさもあらんと思った。

 「それでどうしたの?」

 「あれでいて意外にしっかりしているから、けんもほろろに断ったと言っていた。もっともなりたいと思ってもお袋が許しもしないけど」

 彼の母親を彼の部屋で見た写真で知ってはいるが、そのときの柔和な表情が亜紀の中で急に厳しい顔に変化して不安になった。そんな亜紀に頓着なく真一は質問をした。

 「もう一つ。目が不自由だったときに修一の顔を想像したと思うけど、初めて写真で見てどのように思った?」

 修一のことで彼から質問されたのはこれが初めてだった。

 「うーん、何と言ったらわかるかしら。・・・そう、小説を読んでいて主人公の姿を思い描くことがあると思うけど、丁度あの状態と思っていただければいいんじゃないかしら。だから、はっきりしたものではなくて、ぼんやりとしたイメージの感覚でしかないの。ほら、小説を読んで抱いていたイメージが映画化されて出演する人とマッチしないことがあるでしょう。あれと同じ。

 だから、初めて彼の写真を見たときは、何となく違うような感覚を持ったわ。それでも不思議ね。すぐに、やはりこの人だったと思えるようになったわ。人間の感覚なんてうまく調整できるようになっていると思うわ。でも、あなたからそんなこと訊かれたのは初めてよ」

 「そうだったかな」

 「そうよ。私が勧められてお見合いをした相手はどの人も、釣書で私が視覚障害者だったことを知っているから、面白半分とまでは言わないけれど、その時のことを知りたがったわ。ところが、あなたは初めからそうではなかった。そのことは好ましく感じたけれど、私には関心がないのかしらと恨めしく思っていたのよ」

 わざとらしく真一を睨むと、彼はいやと言って頭をぽりぽり掻いた。

 「君に関心がなかった訳じゃない。そんなことは他人があれこれ詮索するものじゃないと思っていたし、もし話したければ君の方から話すだろう?それにあのとき詳しく聞いているから、それだけで十分だった。あ、いや・・・そう言う意味じゃなくて、君の人となりを理解したつもりだ。

 僕はあまり人の過去には関心がないと言うと誤解を与えるかもしれないが、それだけでその人を判断してしまうのを恐れるんだ。だから、自分の目で見て判断したものを信じたいと思っている。

 前にも言ったことがあると思うけど、君と知り合ってすぐの時にアイマスクをつけて部屋の中を歩いてみたことがあって、少し歩いただけであちこちにぶつかってそれは怖かった。自分ではいっぱしの建築家と自負していたのに、その実何も知らなかったのだと思い知らされた。そのとき自己嫌悪に陥った。それから反省して少しは勉強したが、やはり実感として掴めていない。そんなことでバリアフリーなどと人に論じるなどおこがましいと思った」

 亜紀は聞いていて、彼があまりに純粋すぎることが気になった。だからこそ、修一のことや昔の恋人のことで悩んだのだろう。しかし、何事にも過ぎるのは良くないのではと思った。

 「真一さん、あなたの気持ちは立派よ。でも、修行僧でも何でもないのだから、そんなに自分を律してはいけないと思うわ。でないと知らず知らずのうちに他人にもそれを求めるようになって人間関係を損なう恐れがあると思うの。だからあなたにはもう少し清濁併せ持つくらいの心のゆとりを持って欲しいの。わかる?」

 「わかってる。前にも君に諭された。自分でも青臭いことだとわかっているつもりだよ。しかし、その気持ちを捨てようとは思わない。だからと言って、それを他人にまで強要はしないから大丈夫。それにこれからは君が傍に付いていてくれるから、行き過ぎがあれば僕に苦言を呈してくれるだろう。よろしく頼むよ」

 「わかったわ。それと、さっきあなたが言ったことだけど、そのことであなたが悩む必要はないと思うわ。健常者が障害者のことを理解しようとするのはいいことだけれど、それになりきるのは現実的に無理だもの。現に私だって視覚障害者としての経験は述べられるけれど、車椅子の人や聴覚障害者の人のことはわからないわ。それよりは障害者の多様な意見をできるだけ取り入れて改善することの方が大事だわ。

 だから今度のペンションのバリアフリーに期待しているの。どんなふうにあなたが考えてくれていたのか。どのように私の問いに対して応えてくれたのか」

 うふふと笑った。

 「いや、あまり買い被っても困る。正直言うと通り一遍のアイデアしか浮かばなくて困っているんだ。君の意見を聞かせて欲しい。僕よりも君の方がいい考えをもっていそうだ」

 「帰ってから話し合いましょう」

 「どうやら、僕はいい伴侶といいパートナーに巡り合えたようだ」

 訝しげな表情をした亜紀に笑いかけた。

 「お二人さん、熱いわよー」

 冷やかす声がして見ると、兄夫婦が和彦を真ん中に手を繋いでこちらへやって来るところだった。

 「いやー、悪い。お昼時間を随分回ってしまったな。中々こいつがトランポリンから離れようとしなくてさ」

 ぽかりと和人が息子の頭に軽く拳骨をくれた。

 「真一さん、あそこの日陰がいいから、お義父さんのところへ行きましょう。和彦、自分の鞄は自分で持ちなさい」

 2組が和雄のところへ集まり、大きなシートを敷いて輪になって座った。その真ん中に女性達は持参の包みを開いて各自が作った弁当とおかずを披露した。

 「私のが高階家の特製おにぎり、お義母さんが遠藤家の特製巻寿司にお稲荷、そして亜紀ちゃんのが成瀬家となる特製ちらし。こうしてみるとそれぞれ特徴があって面白いわね。男どもは心して好きなものを召し上がれ」

 「あら、お義姉さん、私のは違うわ。正確には加辺家と遠藤家のミックスよ」

 「そんなことを言ったら、私だって遠藤と高階のミックスになるわ」

 「いいのよ、気にしなくて。杏子さんのがそのうちに遠藤のお弁当になるし、亜紀だって成瀬さんの家の味を覚えて、それが成瀬家のものになるのだから」

 そんな話をしていると、亜紀は成瀬家の嫁になるのだとの実感が湧いてきた。

 「どれどれ、どれをご馳走になるかな」

 和雄はシートの真ん中に広げられた弁当とおかずを見渡した。待ちきれない和彦は鶏の唐揚げをパクリと一つ口に入れた。

 「あっ和彦、まだ駄目。ちゃんとこれで手を拭いてから取るのよ」

 若いママは甲斐がいしく息子の世話を焼いた。それを亜紀と真一は好ましく見た。

  和彦がようやくおにぎりをもらって頬張った。

「お義父さんはまず、お義母さんの海苔巻を一口食べて褒めてあげて下さいね。でないと私が後でお義母さんに恨まれますから」

 「ほう、大した自信だな。どれどれ、それじゃ杏子さんの特性おにぎりを先にいただこうか」

 「えー、ずるい。それなら私はお義母さんの海苔巻きをもらう」

 杏子が声を上げると、みんなが笑った。

 美智子は大満足だった。親子三人揃っての外出ははるか昔のことだし、杏子といればいつも明るくて賑やかで退屈はしない。しかし、それだけではこのように屈託なく笑うことができなかっただろう。真一という未来の娘婿ができ、その人一人の存在だけでこんなに楽しく過ごせていることに信じられない思いがした。

 彼と会うのはもちろんこれが最初だが、修一に似ているせいと娘から散々彼の自慢話を聞かされ、夫と息子と一緒に大声で歌う姿は前々から知悉だった人のような気がして素直に受け入れることができた。

「ここは広くていいところですね。国営だけあってよく整備されている。一度では回りきれないから何度でも来たい」

 真一は亜紀が紙の皿に取り分けてくれたちらし寿司を一口頬張りもぐもぐさせながら遠方を見てしみじみ言った。

 親指を立てて美味しいと亜紀にアピールしながら、そう言えば、家族揃って外での食事は随分していないなと反省した。

 「何度でも来たらいいさ。そのときは家に泊まればいい、なあ親父」

 「そうとも。遠慮なく来たいときに来ればいい。娘の都合が悪ければ君だけでもいいぞ」

 「まあ、お義父さんたら。晩酌に付き合わそうとしているんでしょ。駄目だめだめ、絶対駄目、亜紀ちゃんを連れてこなくちゃ。今度のように発表があっても必ずよ。ねぇ、お義母さん、もしも一人で来たら追い返しましょう」

 亜紀と美智子は声を上げて笑い、真一は苦笑した。

 「大丈夫、上京する時は必ず一緒に来ますから」

 「よしよし、素直でいい義弟だこと。素直ついでに、みんな一緒の写真を撮って下さる」

 おお、そうだと真一はポケットからスマートフォンを出し、靴を履いてシートの外に出るとスマホを構えた。

 「お父さんとお母さんはもっとくっついて。そうそう。和彦君はちゃんと座ってこっちを見て。あ、いいよ。亜紀さんはサングラスを外して。杏子さんは帽子を取らないと影になって美人の顔が写らない。いいですか?はい、ニイニイ蝉。オーケー」

 真一の変な呼びかけに亜紀と杏子は思わず吹き出してしまった。

 「嫌だもう、変な掛け声をかけないでよ。顔が変に写ったでじゃない?ちょっと見せて」

 杏子は真一からスマホを取り上げて亜紀と一緒に画面を覗き込んだ。

 わあわあ騒ぎながら、食事風景や森林をバックに代わるがわる撮り合い、近くを通りかかった人に声をかけて全員一緒のところも撮ってもらった。

 賑やかな食事が終ると、和彦は西口にあるわんぱく広場で遊びたいと愚図り出した。何とか諦めさせようとした和人と杏子だったが、結局根負けして、ネットで西口のバス時間を調べ、待ち合わせ場所と時間を申し合わせて親子三人は離れて行った。

 残された4人は回りを片付けた後、お茶を飲んでのんびりと寛いだ。

 美智子は林檎の皮を剥いて真一へ差し出すと何げない調子で話しかけた。

 「真一さんのお父様は地方公務員を定年で辞めてらしったわね」

 「はい、そうです」

 「今は何をなさっていますの?」

 「悠々自適とはいきませんが、気が向けば役所で案内のボランテをしながら年金生活を送っています。お父さんと同じ地方公務員でしたから、年金だけは一般の人よりいいようですし、まあ清貧生活は慣れていますから、二人の年金で何とかやっているようです」

 「ご両親は真一さんがいずれ戻ることを願ってらっしゃるの?」

 その辺が気になるところだった。

 「いいえ、それはありません。そのうちに面倒をみなければならない時期が来るでしょうが、私の生活基盤はあそこにはないですから戻ることはありません。そのことは、亜紀さんにも伝えています」

 和雄は昨晩のアルコールが抜けきっていないのか、シートの上でこちら向きに寝転んで二人の会話を聞くともなしに聞いている。

 「妹さんが一人いらっしゃって、同じ大学の学生さんでしたわね」

 「そうです。何を思ってか、同じ大学に入学して、しかも建築学科ですから来年から専門課程に入ると僕の授業を受けることになって、それを思うとやりにくくなって困ります」

 冗談ではなく、本気でそう思っている。

 「それは大変。とても綺麗なお嬢さんだとか」

 「さあ、どうでしょうか。妹としてしか見たことがないですから、そんな風に言われてもピンときません。それこそ毎日小姑みたいに口うるさくあれこれ言われて閉口しています」

 「妹さんは真一さんと血が繋がっていないことをご存知なの?」

 美智子はもう一つ林檎の皮をむいて真一に勧めながらさり気なく訊いた。

 「知っています」

 亜紀をちらっと見てから答えた。

 「亜紀と結婚することも?」

 「いえ、それはまだです。北海道に母の弟がいるのですが、札幌大学時代の同級生だった人の婿養子に入って、今は引き継いだ牧場を経営していて、妹は夏休みを利用してそこに行っています。後期授業が始まる前に帰って来るので、そのときに話すつもりでいます」

 「それで妹さんとはご一緒にお住まいとか?」

 「はい。それまで教職員宿舎に入っていたのですが、妹の玻瑠香が入学すると言うので、母の希望で長野駅近くのマンションを借りました。一年目は共通課程ですから松本のキャンパスへ通っています。

 学生寮でもよかったのですが、自由奔放な奴だから親にしてみれば、表現が悪いですが、狼のいる野原に兎を放つようなもので心配だったのでしょう。信州大学の入学を認める代わりに私に監視役を務めるようにと頼まれて、それが今では小姑みたいにうるさくて、逆に私の方が監視されているような気分です」

 真一は冗談めかして笑ったが、美智子には兄妹以上の関係に思えて聞き捨てならないと思った。親の束縛から逃れたい気持ちは理解できるが、兄を追ってこんなに遠いところまで来る必要がない。ましてや美人で血縁関係にないと言う。

 「それで亜紀と結婚なさったら、妹さんはどうしますの?」

 「亜紀さんと話し合って決めていますが、そのことについてはお義兄さんが揃ったときにご説明したいと思っています」

 亜紀は横で聞いていて母の勘の鋭さに舌を巻いた。きっと後で玻瑠香のことをしつこく訊いてくるに違いないと覚悟した。

 それから美智子は社会人だった頃の話や大学の事などをここぞとばかりに細かく訊いた。真一は一つひとつ丁寧に答えた。

 和雄はそんなことには無関心なのか、二人の話が一段落すると、やおら立ち上がり尻の埃を払うと、和人達が待っているだろうからそろそろ行こうと促した。

 揃って中央入口までそぞろ歩きをして、修一と亜紀が写真に写っていた辺りまで来た。真一は亜紀にこの場所がわかるかと訊いた。彼女にはわかっていた。近くまできたとき、あのときの感覚を思いだすために、白杖をつき目を閉じながら歩いていたのだ。だが、今は恐怖の方が先立って昔のように歩行することができなかった。

 みんな一緒に写真を撮ろうと和雄が提案すると、真一が近くを散歩していたカップルを捉まえ、スマホを渡しシャッターを押してくれるよう頼んだ。

 亜紀と二人だけの時、真一は修一がそうしたように亜紀の肩に腕を添えようかと思ったが、思い留まった。それを見て、亜紀が彼の腕を取って自分の肩にかけた。真一が驚いて彼女の顔を見るとにっこり微笑んだ。二人の間の主導権は彼女に握られていた。


                    (五)


 川越東武ホテルのレストランに入ったのは6時過ぎだった。予約席に案内され一通りの注文をし終え、しばし昨夜の宴会の話で盛り上がった。

 食前酒とジュースが来ると、和雄が音頭を取った。

 「改めて婚約おめでとう。それに今日はご苦労さん」

 「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 真一はグラスを全員に向けて礼を述べると一気に空けた。

 「うんうん」

 和雄は生ビールを飲み干すと満足そうに頷き、めでたい席で何だがと続けた。

 「料理が来るまでの間、真一君と亜紀に一言言っておこう」

 真一と亜紀は姿勢を正した。

 「今だから言えることだが、家内の前では偉そうに強がっていたが、娘のことがずっと不憫で心配だった。実を言うと修一君が娘をもらってくれるのではないかと淡い期待を持っていた。ところが、知っての通りあのような不幸なことになってしまった。そのときの娘の悲嘆ぶりは言葉では表せないほどだった。何しろ家族以外でただ一人信頼を寄せていた人が突然いなくなったんだからな。もう娘の笑顔は見られないんじゃないかと家内と本気で心配した。それが時間はかかったが、君と出会い君を好きになって、君も娘を好きになってくれて結婚することになった。こんな嬉しいことはない」

 和雄はグラスの水を一口飲んで話を更に続けた。和彦以外は誰もが飲み物に口をつけず、珍しく饒舌な彼の話に耳を傾けた。

 「思えば、縁とは不思議なものだ。娘があのようなことにならなければ、修一君と出会うことがなかっただろう。彼との出会いがなければ、こうして娘の眼に光を取り戻すこともできなかったかも知れない。それにあの不幸な出来事がなければ、娘も信州へ行くことはなかったし、君に会うこともなかっただろう。君が加辺さんのところへ行くのだって単なる気まぐれや偶然ではないように思う。

 そのように考えると、こうなることが二人の運命というか、赤い糸で結ばれていたとしか考えられない気がして仕方がないのだ。表現が悪いかもしれないが、修一君の犠牲があったからこそ、赤い糸が互いに絡み合ってこうして二人でいることができるのだと思う。昨日、君と亜紀の話を聞いて安心した。二人とも修一君のことを忘れないと言ってくれた。特に君が彼を含めて亜紀を愛して行くと言ってくれたことが私には嬉しかった。普通なら娘に早く彼のことを忘れろと言うのだろう。今だから言えることかもしれないが、私はそうあってはならないと思う。

 いいか亜紀、結婚しても修一君のことを忘れるな。修一君に感謝して生きて行け。そして、その謙虚な気持ちで真一君を信じて支えろ。君も何かの折に娘が彼のことを引き合いに出して嫌な思いをさせるかもしれない。そのときは、昨日君が私達に言ったことを思い出して大きな気持ちで娘と接して欲しい。君たちの出会いは単なる偶然ではない。修一君が引き合わせた必然だと思う。だから彼の分まで幸せになる義務と責任がある。それだけを二人に言いたかった」

 誰もが和雄の話に感銘を受けた。

 「肝に銘じます」

 「お父さん、私も」

 和雄と美智子は満足そうに頷いた。杏子がぱちぱちと手を叩いていると、今度は和人が、親父に便乗するわけではないけどと切り出した。

 「亜紀が修一君と初めて森林公園へ行くと聞いた時は、親父を始めみんなが心配したんだ。何しろ家族で誰も会ったことのない男だったし、これまでにも妹の目が見えないことをいいことに嫌な思いをさせられたことを聞いていたから二人きりで会うのは不安だった。妹が正直に告げてくれるからには変な男ではないだろうとは思ったが、確かめるまでは心配だった。それで親父の命を受けて修一君と会い、彼と接しているうちに信頼が置ける男だと判断した。一緒に行った杏子もあの人なら大丈夫と請け合ってくれた。事実それからの付き合いで益々信頼を厚くしたし、その期待を最後まで裏切らなかった。それからのことは妹が君に話した通りだ。

 僕らは真一君と今日初めて会った。だから君のことは何も知らない。でも妹の話を聞いて君の説明を聞いて信頼に足ると判断した。親父もお袋も同じだと思う。この信頼を裏切らないで不幸続きだった妹を幸せにしてやって欲しい」

 この通り頼むと頭を下げて終えると、名演説だったわと夫を褒めて杏子がパチパチと手を叩いた。

 その横で真一は和人の言を重く受け止めた。

 (なるほど父母が彼に信を置くのがよくわかる)

 自分が玻瑠香かのことを愛おしく想うのとは質が違うが、彼の妹想いがひしひしと伝わった。この兄が側近くにいたからこそ今の亜紀があると思った。

 肩苦しい話はそれくらいにして、和歌山はどんなところだと、ワインとビールを飲みながら雑談をしているうちに注文した料理が運ばれてきた。和雄は終始上機嫌でフォークとナイフを振り上げて、行儀が悪いと美智子に諌められながらも盛んに息子二人に話しかけた。

 女性らは杏子を中心に気心の知れた者同士で話し込んでいた。

 「亜紀ちゃん、また一緒に旅行ができるなんて嬉しいわ。その日が楽しみ」

 「あの人が言い出したことなのだけれど、いつも意表を突くようなことを考えているから、驚かされてばかりいるわ」

 「旅行と言えばね亜紀。あのとき稲子さんから電話をいただいたの。これこれこう言う訳で、近々お前から杏子さんへ連絡が入るかもしれないから、そのときは申し訳ないが杏子さんを送り出してもらえないだろうかって。それで杏子さんに亜紀と一緒に行って欲しいと頼んだのよ」

 「そうなのよ、亜紀ちゃん、一か月も旅行すると言うでしょ。いくら私だって、夫と子供を置いてお義母さんの了解なしには勝手に返事ができないわ」

 「本当によくできたお姑さんだわ。あなたのために気配りしていただいて」

 亜紀はそう言うことだったのかと杏子がすんなりと返事した訳を理解した。

 後はデザートだけになると、真一はウエイターを呼びテーブルの上を片付けさせた。そんな彼に亜紀以外のみんなは不審の目で彼を見た。彼女だけはいよいよあのことを話すのだなと思った。

 ウェイターが立ち去ると、亜紀が察したとおり真一はここまで保留していた話題を口にした。

 「お母さんとお父さんに相談、いえ提案したいことがあります」

 いいかと言うように亜紀を見た。彼女はにっこり笑って頷いた。

 「何の話か知らんが、そう改まると何だか怖いな」

 和雄は軽く冗談を言って美智子を見た。彼女も何が言いたいのかわからず夫を見返した後、顔を真一に戻した。

 「これから申し上げることは、全て加辺家のみなさんから了承を得ています」

 真一はそのように断って、順に和雄と美智子と和人を見た。加辺家とどう関係があるのだと言わんばかりに彼らは不思議そうな顔をした。

 「亜紀さんから聞いたのですが、定年は来年だそうですね」

 「うん、そうだな。嘱託で残れと言う話もあるが、どうするかはまだ決めかねている」

 いきなり自分の定年を確認されて、何を言いたいのかますます訝しく思った。

 「私達は結婚後、加辺さんの家に住みます」

 「うん?」

 彼らは互いに顔を見合わせた。結婚すれば、亜紀は真一について加辺家を出て行くものと思っていた。意外な話に戸惑いを隠せなかった。

 「ちょっと待てよ。と言うことは、亜紀はそのままで君が同居すると言うことかい?」

 和人がたまらず確認した。

 「そうなの亜紀?」

 「そうよ、私達結婚した後、母屋の離れを借りることにしたの」

 いつも締め切られていたから、そこに出入りしたことはないが、彼らも離れがあることは知っていた。しかし、まさか彼らがそこに住むなどとは思いもしなかった。

 「加辺さんから何か言われたのか?」

 「そうじゃないわ。二人で話し合って決めたの」

 亜紀に向かって訊かれたので、彼女が答えた。

 「同居と言っても大学へ通勤するには遠いですから、月曜の朝に出て金曜の夜に帰る別居生活になります」

 「真一君、どうも話がよく呑み込めないんだが・・・」

 提案することがあるといっておきながら、彼の話が飛んで、よく理解できなかった。同じように和人も訝しげな表情をしている。

 「回りくどくてどうも済みません。現在長野駅東側にある賃貸マンションに妹と二人で住んでいるのですが、結婚しても新居は構えず、加辺さん宅の母屋の離れに住むことで了解をもらっています」

 和雄は頭を傾けた。彼らが加辺の家族と同居することは理解できたが、それのどこが了解すべき事項なのかわからなかった。まだ話が見えない彼らは戸惑いを隠せないままである。

 「どうして同居しようと決めたんだね。二人で決めたのならどこで住もうと反対はしないが、そこに決めた理由を教えてもらおうか。何かあるんだろう、経済的な理由とか亜紀から求められたとか」

 「いえ、ご不審は尤もです。話は前後しますが、そのことも含めてご説明します。亜紀さん、来る途中で僕らが考えたあれを見せてくれますか?」

 はいと答えて亜紀はバッグの中をゴソゴソ探したがそれは見つからなかった。

 「ごめんなさい。入れてきたと思っていたのだけれど、出がけにバタバタして忘れてしまったみたい」

 きまる悪そうに答えた。

 「構わないよ。全部頭に入っているから」

 そう応えて、再びウェイターを呼ぶとA4の紙数枚とボールペンを頼み、それがくると真一は思い出す素振りや考える様子も見せずに2枚を一気に描き上げた。15分も経っていない。亜紀を除くみんなは驚愕の目でその様子を見ていた。それが亜紀には誇らしかった。

 描き上げたスケッチを真一が前に出した。

 「これは二人で考えた加辺家の母家のリフォーム案です。つまり、僕達が同居するのを機に、稲子さんが強く希望しておられた母屋のリフォームをします。設計は私に一任されています。

 大きく変わるのはキッチンですが、今のは古くて機能的ではありませんので、亜紀さんの希望を取り入れながら計画したのはがこれです」

 指し示しながら説明した。

 「それと風呂場もだだ広くて寒々しいので暖房乾燥機能のついたバスにします。トイレはこことここに設けて、今の階段は勾配が急で危険だからここを使わなくて済むようにここに新たに階段を設けます。そこはデッドスペースになりまので、この広い部屋を改造して衣類を収納する部屋にします」

 「そうなの。今もあちこちに箪笥があって、そこに収納しているのだけれど、季節物以外の衣類や滅多に着ることのない服をここにまとめて管理するつもりなの」

 和雄らは自分には関係がないと思って、なるほど、そうだな、それはいいわねと相槌を打つだけだった。

 「次に、僕達が住むのは離れですが、これも住みやすいように洋風に改装します」

 このようにするつもりですともう一枚紙を取り、さらさらと彼の構想を描き出した。

 初めのうちは興味津々だったが、やがて彼らの表情は驚愕に変わり、それが形をなしてくると感嘆に変わった。亜紀には初めてではないだけに、家族の驚く様子を誇らしく思って見ていた。

 「君は・・・逆さまで書くことができるのか」

 「ええ、お客さんに説明するにはこの方がわかりやすいので」

 何でもないことのように答えた。

 「そう言えば、亜紀を描いた絵を見せてもらったれど、表情をよく捉えていて、なまじ写真より娘の気持ちが描かれていたように思ったわ」

 「真ちゃんは亜紀の肖像画も描いていたのか?」

 「まあ、ほんの遊び心ですが」

 まあ、あんなことを言ってと、今はもう彼の本心を知っている亜紀は可笑しかった。

 「お義父さん、絵描きになってもいいくらいにそれは素晴らしい絵だったわよ」

 「後でお父さんにも見せるわね」

 「それは楽しみだな」

 真一は話をしていても彼らの話題に加わり手を休めることはなかった。見ている彼らはただ驚き入るばかりだった。

 描き終えると、真一はこんな具合にしますと全員に示して説明を加え、それが終わると和雄と美智子に向き直って言った。

 「原村に戻り次第、加辺さんと相談しながらすぐに設計に取りかかりますが、そのほかの部屋はあまり手を加えず旧家の特色を損なわない範囲で住みやすくするつもりです。

 建築中のペンションもそうですが、母屋のインテリアも亜紀さんに全てお任せします。ご両親はご存じないでしょうが、亜紀さんのインテリアに関する潜在的なセンスには私も舌を巻くほどなのです」

 美智子は娘を見た。和雄もほうと驚いた顔をした。亜紀はぱたぱたと目の前で手を振った。

 「室内装飾をデザインするのは美術家が絵画を描くのと同じで、教わっただけでは中々開花しません。持って生まれたセンスがないと駄目なのです。その点亜紀さんにはその才能が備わっているように思います」

 「専門家の君がそう言うのならそうなのだろうが・・・」

 和雄には信じられなかった。娘は何事も卒なくこなすことは妻にも稲子からも聞いているが、そのような能力があるなどとは思ってもいなかった。だが、言われてみれば、童話を創作するくらいだからその辺の能力も備わっていても不思議ではないと納得した。

 「結婚すれば、その方面の才能を伸ばす手伝いをしたいと思っています」

 そんな時間はないわよと亜紀が呆れ顔で言うのを真一はまあまあと制した。

 「話が逸れましたが、新しいペンションが完成すれば、旧となるペンションを改築して建築設計事務所を立ち上げる計画でいます。そして近い将来、大学を辞めて設計と監理に専念するつもりです」

 大学を退官すると聞いて、彼らは顔を見合わせた。

 「折角准教授におなりになったのに、それをあっさり辞めておしまいになるの?」

 いかにも惜しいと言わんばかりの口調だった。和雄もそれに同調した。

 「真一君、何も准教授が偉いと言うつもりはないが、世間一般から見れば、准とは言え教授といえば社会的信用もありご両親の名誉にもなる職だ。教授にだってそのうちに・・・。亜紀、お前いいのかそれで」

 納得しているのかと娘を見ると、亜紀は頷いた。

 「初めて聞かされたときは、正直不安もあったわ。でも、准教授だから教授になるから結婚するんじゃないわ。この人を好きだから、愛しているから、信頼しているから結婚するの。だから私は真一さんがやりたいことに内から応援したいの。内助の功なんて言うつもりもないし、そんなこと私にはできやしない。それでも彼には自分のやりたいことをやって欲しいの。私は私にできることをして真一さんに付いて行くだけだわ」

 娘の決意を聞かされて彼らは何も言い返すとができなかった。

 真一は和雄と美智子が押し黙ったのを見て切り出した。

 「ご心配でしょうが、慎重に事を構えて進めますから僕を信じて下さい。それでご相談ですが、お義父さんが定年を迎えたら、信州でお過ごしになりませんか。そして、僕が建築事務所を開設した暁にはお手伝いをお願いしたいのです。まだ、僕の両親に話してはいませんが、同じことを提案するつもりです」

 彼らは真一の突然の提案に互いに顔を見合わせるばかりだった。

 真一はその理由と耕造らと話し合ったことを説明した。

 「母屋は広くて使われていない部屋もたくさんあります。そこに遠藤家、加辺家、成瀬家、それに私達を含めた4世帯が一緒に住もうというのが趣旨なのです。このことは亜紀さんに結婚を申し込もうと決心した時に考えました。と言うのも、この先老いて行く両親を和歌山に残したままでいることが心配なのです。妹がいますが、はなから田舎に戻る意思がありません。それと同時に同居しようと考えた理由は、亜紀さんと耕造さんのことを思ってのことでした」

 「娘とお爺さんの・・・」

 不思議そうな顔をして和雄が呟いた。

 「はい。ご承知のように亜紀さんは一旦決めたことは中々変えようとはしません。結婚するからといって、はいそうですかとすんなり加辺家を出て行くような人ではないと思いました。それに口には出しませんが、ご両親に対して我儘を通して申し訳なく思っているのが亜紀さんなのです。ですから、一緒に住むという計画を打ち明けた時に一番喜んでくれたのは亜紀さんでした。それにもう一つ、亜紀さんが加辺家から出て行くと一番悲しむのは耕造さんだと思うのです。表面上は気丈夫を装っていますが、近頃は大分気も体も弱くなっていると聞いています。

 耕造さんは亜紀さんのことを実の孫のように思っています。可愛いがっていた孫を病気で亡くし、そして亜紀さんまでいなくなれば、先の短い耕造さんの生きがいを奪うことになります。恐らく亜紀さんはそれに耐えられないだろうと思いました。その一方で加辺家の人達には、遠藤家の大事な娘さんを預かっていて、彼らもまた自分達の気持ちとは裏腹に早く川越に帰さなくてはとの自己矛盾の責任を負っていました。

 何もあの人達に同調するつもりはありませんが、お父さんに同意していただければ、亜紀さんはご両親と、僕は自分の親と身近で過ごすことができて、お義兄さんには申し訳ありませんが、これまで二人ができなかった親孝行ができて安心です。それに家族の間で何かあったときには、互いに相談したり、助け合うこともできます。

 加辺さん達も初めのうちは親戚の家に長逗留するくらいのつもりから始めてはどうかとも仰っています。如何でしょうか」

 真一は和雄と美智子を見た後、和人と杏子に目をやり申し訳ないと目で詫びた。

 「もちろん、どうされるのかを決めるのはご両親ですが、お義兄さんの意見も聞く必要があるでしょう。いつまでにといった期限はありませんので、ご検討いただきたいのです」

 思いもよらぬ提案に絵を見ながら遠藤家の者は、うーんと考え込んでしまった。やがて和雄が口を開いた。

 「君の趣旨はよくわかった。だが、私らは長年住み慣れたこの街に愛着がある。それに東京圏に住む親戚や知人も多い。突然言われても急に結論は下せないから、息子の意見も聞いてじっくり考えさせてもらう。それでいいか」

「もちろんそれで結構です」

 真一と亜紀は顔を見合わせてほっとしたように微笑んだ。真一はウェイターを呼び、デザートと飲み物を持ってくるように告げた。

 「しかし、真ちゃんは大したものだな。いとも簡単に逆さでささっと描けるのには驚いた」

 「本当、真一さんには何から何まで驚かされてばっかり。歌がうまくて外国語が出来て・・・。何ヶ国ぐらいできるの?」

 「さあ、数えたことがないのでわかりません」

 さも関心なさそうに答えるのに代わり亜紀が、英語、独語、仏語、トルコ語、スペイン語など8ヶ国語くらいは話せるらしいのよと指折り数え答えた。

 「それは凄い。さすが准教授だけのことはある」

 和人は感心した。

 「亜紀さんが言うのは大袈裟ですよ。私の故郷の偉人で南方熊楠などは20数ヶ国語に精通していたと言われています。それに比べれば私など・・・」

 「何を謙遜する。私などは日本語しかできん。大したもんだ」

 「おまけに合気道と剣道の段を持っているんでしょ。そして絵を描かせればこの通り。そして最後は一緒に住もうとのお誘いだもの」

 杏子はいい義弟を持ったと笑った。

 「まったくだ。君にはびっくりさせられる。ところで亜紀、加辺のお爺さんはお幾つになられた?」

 「確か83歳のはずだけれど」

 「お盆の折にお目にかかった時に、大分弱ってきているように見受けたが」

 「ええ、急に足腰が弱くなったみたいなの。それに持病も悪くなったみたいで、臥っていることが多くなったわ」

 「そうか。そう言えば、夏にお伺いしたとき少し元気がないように感じられたな」

 ここで言葉を切った。まだ何か続きがありそうなので、みんなは黙って見守った。やがて、和雄は組んでいた腕を下ろして、ビックリするようなことを言った。

 「だったらこうしよう。何も年が明けるまで待つまでもない。式だけでも挙げてしまおう。もちろん真一君のご両親と相談しなくてはならんが、ご異存がなければ年内に挙式をしよう」

 それを聞いて美智子は慌てた。

 「あなた、幾らなんでもそれは急ぎ過ぎじゃ・・・」

 「そうよ、まだ真一さんのご両親のお許しも得ていないのよ。それは無理だわ」

 亜紀も母親に同調した。

 「何を言う。お前が成瀬さんのご両親に気に入られない訳がない。いいか、お爺さんは何も仰らないだろうが、一番お前の花嫁姿を見たいのはお爺さんだ。そうだろう?こうして結婚する意志を固めたのなら、元気なうちに喜ばせてあげよう。あのお年ではいつどうなるかわからん。

 親としては花嫁修業を済ませてから嫁がせるのが筋だろうが、家内に代わりお姑さんに仕込んでいただいたから、それは問題がないと思う。それに、私の方は結納を交わさなくても構わないと思っている。ご両親が形だけでもとおっしゃるのなら、来月早々にでもやろう。仲人は誰に頼むか決めているのか。・・・そうか、それならお仲人さんと日にちを打ち合わせて知らせて欲しい。私の方はいつでもいい。

 それと真一君。結納金などは考えなくてもいい。その代りと言っては何だが、私の方も娘に持たせるものは何もない。華道とかお茶などのお行儀ごとも、すぐに加辺へ行ってしまったからから何もやらせていない。それを承知しておいて欲しい。それでよければ娘が挨拶に出向いたときにご両親にそのことを話してもらえないだろうか」

 「私に異存はありませんが、亜紀さんは準備があって大変ではないですか?」

 「そうよ、あなた。幾ら持たせるものがないと言っても嫁がせる用意があるわ」

 「それでは聞くが、娘はどこから嫁がせる気だ。うちからか、それとも加辺からか?」

 あら、と美智子は目を大きく開けて口に手を当てた。

 「亜紀、どこから嫁ぐの?」

 「加辺からと決めているわ」

 躊躇なく答えた。

 「だろう。だったら、私達にできることはあまりない。せいぜい、結婚式と披露宴に出席するくらいだろう。そうなると大変なのは加辺さんだ。もちろん、私達も手伝いはしなくてはならないが、あの人達なら私らの代わりに喜んでやって下さるだろう」

 「何だか変な結婚式ね。亜紀ちゃんには義理のお父さんとお母さんがいるからややこしいわ。でも私もお義父さんの意見に賛成。決まったことは何も先延ばしすることないわ。そうじゃない和人」

 「まあな。二人がそれでいいというのなら、それも良しとしよう。なあお袋、何も形式に拘ることもないじゃないか。見ていてわかるが、亜紀の心は僕らから離れてもう真ちゃんのものだよ」

 夫と息子にこうまで言われて美智子も鉾を収めるしかなかった。

 「釈然としないけれど、和人までそう言うのなら仕方がないわね。ここは耕造さんのためと思ってそうしましょうか。亜紀、成瀬さんのご両親にお会いして、今のこと了承をいただいたら、加辺のご両親に話すのよ。先方だっていろいろとご都合がおありだろうから」

 「わかったわ」

 「真一君、何かと大変だろうがよろしく頼む。結納のことはご両親と相談するとして、挙式の日取りはお爺さんの意向も聞いて二人で決めてくれ。私達はいつでも構わない」

 「承知しました。ありがとうございます」

 結婚までのこと、結婚後のことが目まぐるしく亜紀と真一の頭の中で働いていた。

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