第七章 ルーツ
(一)
真一が退院したと加藤から報告を受けたのは病気見舞いに行った5日後だった。しかし、修一の七回忌の法要があったため、すぐに行動を起こすことができなかった。それを済ませた3日後、亜紀は真一をいつものカフェに呼び出した。個人的な用件だと会ってくれないことを予想して、空家となる旧グリーンハウスのことで是非とも相談したいことがあると嘘をついた。それに対する罪悪感は微塵もなかった。それほど彼女は思い詰めていた。
真一は窓際の席に座っている亜紀を認めて、足早にやってきた。
コーヒーを注文すると、見舞いの礼を述べた。
「この前はお見舞いに来てくれてありがとう。この通り元気になった。今も笑うと少し痛いが大丈夫」
ほらこの通りと両手を上げて元気なところを見せた。それでも少し痩せたように見えた。
「きっと妹さんの看病がよろしかったのね」
皮肉をピリリときかせた。
「いや、これを食べろだの、やれ薬を飲めだの、下着を換えろだの、小姑のようでうるさかった。いい奥さんがいてよかったわねって看護師さんに笑われたよ、ははは」
亜紀は笑顔で返したが、一緒になって笑う気分にはなれなかった。
「ところで、グリーンハウスの件で相談があるとか」
飲み物を注文し終えると、この後用事があるのか、性急に用件を訊いてきた。
「それは後で構いません。それより今日は個人的なことでお願いがあってまいりましたの」
澄まし顔で答えると、彼は警戒を露わにした。それを目で捉えて前置きもなく精一杯悲壮感を込めて懇願した。
「修一さんがもらわれた長崎の教会へ私と一緒に行っていただきたいの。あなたがお忙しいことは十分理解しています。それを承知でお願いします。そこへ行って、あなたと修一さんとどのような関係なのか、あるいは関係がないのか。あるとしたら、修一さんがどのようなことで加辺家に引き取られることになったのかはっきりさせたいの。あの人の原点を知りたいの。あなたが行きたくない理由は重々承知しています。あなたはそれでもいいでしょう。でも、このままではあの人のことをいつまでも整理を付けられません。最後のところで、あの人のことを乗り越えられない。
1年前にお会いした時、早く忘れていい人を見つけろとあなたは私におっしゃいました。でも、今のままの状態では無理なのです。
夫のことを知ったところで、私の心は治まらないかも知れなません。でも、それでもいいから知りたいのです。何もしないではいられないの。私のことで周りの人に随分心配をかけています。この状態をこれ以上続けるわけにはいかないのです。
それなら私一人で行って来いと仰るのかも知れません。でもあなたとこうして知り合ってしまった以上、私一人では駄目なの。どうかわかって下さい。そして私と一緒に行って下さい。どうかお願いします」
ここが正念場だと思い一気に吐き出した。仕舞いの方では涙声になって必死に訴えると立ち上がって深々と頭を下げた。肩まで伸びた髪が前に流れた。
真一は彼女の心からの訴えに揺さぶられた。彼女の芯の強さとひたむきさに胸を衝き動かされた。興味深そうに奥から様子を窺っているウエイトレスに今は気にならなかった。
彼女は真剣に亡くなった夫と向き合おうとしているのに、自分は何だ。なんだかんだと理屈をつけて逃げてばかりいるではないか。そう思うと彼女に対して申し訳なく彼女がいじらしく思えて来た。もうこれ以上自分だけの我執で彼女を苦しめるのはよそうと決めた。
「亜紀さん、頭を上げて。僕が悪かった。ちっぽけな我を張って、あなたを苦しめていたようだ。行くよ、亜紀さんと長崎へ。そして現実と向き合う。何かあったとしても僕自身の問題だ。早くそうすべきだった。だからもう泣かないで。僕が君を苛めているように見える」
真一はハンカチを取り出して亜紀に渡した。彼女はそれを受け取り、涙で潤んだ目で彼を見た。そしてほっとしたようににっこりほほ笑んだ。真一はそんな彼女にこれまでになく慈しむべき存在に思えた。
ウェイトレスが真一のコーヒーをテーブルの上に置いて、ちらりと横目で亜紀を見て去った。
「行くと決めた以上、会ってくれるかどうかわからないが、僕の方から教会に連絡を取ってみよう。後で、教会の住所と電話番号を教えてもらえますか?」
「承知しました。もし決まれば日時を教えてください。私はいつでも構いません」
それじゃと言って、真一は上着のポケットからスマホを取り出し、何やら操作を始め、何回か難しそうな表情をしたので訊いた。
「何か困ったことがありますの?」
「いや、大学を休むわけにはいかないから、松本から長崎への飛行便はないから、羽田から行くことになりそうだ。日曜日に羽田から長崎へ日帰りでと言うことでいいですか?」
「全てお任せします」
「それでは、スケジュールが決まり次第、連絡します」
一旦踏ん切りをつけると、彼の行動は素早かった。なるほど加藤さんの言った通りだと思った。
「それで、ペンションについて相談したいこととは?」
長崎へ行くことへの説得ばかり考えていて、亜紀はその問いに対する答えを用意していなかった。それで、咄嗟に密かに考えていたことを口にした。
「それは・・・あの、これは私の考えなのですが、ペンションを法人化してはどうかと考えまして・・・」
露天風呂を造ると決定した時、亜紀は耕造とは別のことを考えていた。
その目的は相続した修一の遺産をそれに充てることだった。税金面で問題があるのなら、可能かどうかわからないが、それだけを名目上自分の名義にしてもよいと思ったのだ。それが彼の遺志に適うことだと考えたのだった。このことは自分だけの胸に温めてきた。だが、テレビのある番組を見て、法人化した会社に出資した方がいいのではと思い直したのだ。詳しくは知らないが、恐らく税法上の恩典があるはずだと思った。
「ふーん、なるほど。確かに経費なんかを会社に落とすことができるから検討してもいいかも知れない。同僚に詳しい者がいますから相談してみよう」
「ありがとうございます」
何からなにまで頼って申し訳ない気がした。兄か父に相談してもよかったのだが、少しでも彼との接点を保っていたかった。
二人が長崎空港に降り立ったのは、その週の日曜日の正午前だった。リムジンバスで長崎駅へ向かい、そこからタクシーを使った。
長旅にも関わらず亜紀は元気だった。久し振りの遠出で心が浮き立つのか、羽田空港ビルの売店で買った蜜柑やクッキーなどを真一に勧めた。
当時の牧師夫妻は既に他界していたが、後を継いだ息子がそのときの状況を覚えていた。
耕造に、真一と一緒に長崎へ行くことになったと報告した時は、自分のことのように喜んでくれた。しかし、必ずしもうまくいくとは限らないぞと釘を刺すことも忘れなかった。
盛蔵と稲子は亜紀の突然の行動に驚きはしたが、耕造から説明を受けて喜んで送り出した。彼女がそのような積極的な気持になってくれたことが嬉しく、二人の間の変化を密かに期待した。
目的の教会は銅冠山北側の裾にあった。想像していたよりも小さな教会だった。約束の時間前にタクシーから降り立つと、石造りの長い階段の上で、礼拝が終わったばかりなのか、黒のガウンに金色の十字架の刺繍が入った足元まであるストールを付けた熟年の男性とその細君と思しき女性が二人を見下ろしていた。面会を申し込んでいた佐川夫妻だった。
石段を上って来る二人を見て牧師は目を細めた。あれから何年経つのだろう。泣き叫んでいた赤ん坊がこんなに大きくなったのかと、不思議な感慨を持って待ち受けた。真一が彼らの前に立つと頭を下げた。そして、今は亡き牧師さんに拾っていただいた子だとはっきり名乗った。それを聞いた亜紀は驚いた顔をした。 彼の発言は明らかに、自分が双子の一人だと意識してのことだった。そのことは彼が牧師に連絡を取った際の遣り取りで確信したことだった。
「成瀬真一と申します。私が31年前に牧師さんが拾って下さったときの赤ん坊です。快くお会いいただきましてありがとうございます」
牧師は真一の顔を見詰めながら、しっかりと両手で彼の右手を握った。
「よくお出で下さいました。あのときの赤ちゃんがこんなに大きくなって・・・。私も歳を取るはずだ。よかった、立派に育ってくれて。父も母も天国できっと喜んでいると思います」
牧師の瞳が少し赤くなっていた。真一も込み上げてくるものがあったが、腹に力を入れてぐっと我慢した。
「あなたはご存知ないだろうが、ご両親が毎年写真を送ってくれていました。ですから、タクシーから降り立った時、あなただとすぐに分かりました」
牧師は真一の手を取ったまま、隣に立つ亜紀を見た。
「奥様ですか?」
真一が亜紀に代わり答えた。
「いいえ、この人は僕の兄だか弟だった人の奥様です」
夫妻は驚いた顔で彼女をまじまじと見た。修一が病気で亡くなったことは手紙で承知していたが、結婚していたことまでは知らなかったのだ。
亜紀は名乗って丁寧に挨拶をした。
「あなたが・・・、そうでしたか、それは存じませんでした。でもどうしてあなた方が?」
当然の疑問だった。互いの秘密が保たれている限り、和歌山と長野に別れた兄弟が知りあう機会は万に一つもないはずだった。
「あなた、こんなところで立ち話でも何だから、中に入っていただきましょう」
牧師夫人に促されて教会の中に入ると、内部は意外に広く、左右にそれぞれ50人ほど座れる机があった。中央通路の正面には祭壇とその背後にある左右のステンドグラス窓の間の壁に大きな十字架があった。
祭壇横の扉から牧師の私邸に通じていていて、通されたタイル床の部屋には丸テーブルと四脚の椅子があり、牧師に促されて並んで座った。
亜紀が修一と結婚するまでのことを話し、真一は彼女と知り合った経緯を話すと、二人は目を丸くして運命の不思議に驚いた。
「そのようなことがあったのですか。それはさぞお辛かったでしょう。和歌山と長野へ別々にもらわれた方が知りあう偶然がそうあるとは思えません。きっと神様のお導きなのでしょう」
牧師は胸のところで十字を切って両手を組んだ。
「それでこうして来られたのは、当時のことをお知りになりたいからですね?」
「はい、そうです。あちらからも写真が届いていたのなら、ご存知かと思いますが、この人のご主人は6年前に亡くなりました」
「ええ、よく存じております。ご家族の方から手紙をいただいて驚きました。まだお若いのにお気の毒でした。そのときはまだ母は健在でしたから、祈りを捧げながら涙を流していたのを覚えています。でも、そのような事情で奥様がおられることまでは知りませんでした。ご愁傷さまでした。訳あって悔みにお伺いすることもできませんでした」
夫妻は亜紀に向かって深々と頭を下げた。
「それでは、私が覚えていることをお話しましょう」
牧師はテーブルの上で合掌した手を半眼で見てゆっくりとした口調で淡々と語り始めた。
「あれはまだ私が高校生で夏の暑い時期でした。私が早朝に起きて顔を洗おうとしたときに、赤ちゃんの泣き声がしたのです。信者の方が来られる時間には早すぎますので、何だろうと思いながら玄関口へ行きますと、赤ちゃんを抱いた両親が立っていました。私でもわかる生れたばかりの乳呑み児が二人の腕に抱かれていたのです。
その赤ちゃんはどうしたのかと訊きますと、父が赤ちゃんをあやしながら顎で足元を指すので、見ると段ボールが置いてあって中に手紙がありました。
全部は覚えていませんが、余り達筆とは言えない文字で、事情があって育てることができないので、お願いしますといったようなことが書いてありました。別の紙には(緑)兄真一、(青)弟修一と書かれていて出生日も書かれていました。知られては困ると思ったのか、名前だけで苗字は書かれていませんでした。緑と青は赤ちゃんが包まれていた毛布の色だったのです。それで父が抱いているのは兄の方で、弟は母が抱いているとわかりました。
それなりの事情があったのでしょうが、身勝手な親だと腹立たしく思う一方で、名前を付けておいてくれただけでも愛情の一片が窺えて少し安堵したものです。結局、赤ちゃんの両親は今日まで一度も現れることはありませんでした。
それからが大変でした。あの当時近くにコンビニなどはありませんでしたから、お店が開く時間を待って、粉ミルクや哺乳瓶それに紙おむつを買うやらで大騒動になりました。
身寄りのない子は24時間以内に警察に届けなければならないそうですが、父はそうしようとはしませんでした。何も言いませんでしたが、親が引き取りに来なければ、自分の子として育てるつもりだったのかも知れません。
私は父の命で毎日子守りをさせられました。そのように話すと模範的な高校生に聞こえるでしょうが、その時の私は人の道を踏み外す一歩前でした。よくある立派過ぎる父親への反発からです。父は聖職者でしたから、信者以外の方の相談にも親身なって乗るような信頼される人でした。そう言った立派な父親を持つと子供は反発します。私もそうでした。
丁度その頃に捨て子があったのです。父は有無も言わさず赤ちゃんの面倒を私に看させました。夜泣きの対応から、ミルクやり、おむつ替え、あやしたりだっこしたり。私も未熟でしたし、それも二人でしたからそれは大変でした。今から思うと反発もせず自分でもよくやったと思います。
わずかな期間のことでしたが、無垢な赤ちゃんの笑顔を見て生命の大切さを知ったのです。
それをきっかけにそれまでの人生観がすっかり変わりました。ぐれる寸前のところで二人の赤ちゃんが私を立ち直らせてくれたのです。ここにこうして牧師として神様にお仕えすることができるのも、いわばお二人のお陰なのです。
何日だったかはっきりとは記憶していませんが、5日ほど経った頃だと思います。中年のご夫婦が教会へお見えになりました。どこからか赤ちゃんのことを伝え聞いて、養子として引き取りたいと言って来られたのです。それが成瀬さん、あなたのご両親でした。
お二人は赤ちゃんをご覧になって一目で気に入ったらしく、今すぐにでも引き取りたいと熱心に父に頼み込んでいました。でもすぐにはうんと言いませんでした。その方の真意を見極めるためと、一人だけ引き取りたいと言っておられるのを懸念していたのです。父は何とか兄弟共に引き取れないかと説得していました。しかし、経済的な理由で無理なご様子でした。それで父は一日悩んでいました。翌日もその方が来られて、土下座せんばかりに頼んでいました。最後には父も折れて、その方に兄の方をお任せすることにしたのです。
残された子は引き続き私が面倒を見ました。上の子が引き取られて1週間ほどしたころでしょうか、長野から引き取りたいと言って来られた方がいたのです。それがあなたのご主人の両親である加辺さんだったのです。
そのご夫婦もどうしても子供ができないから、養子として引き取りたいと言ってきました。前のこともありましたから、今度は父もすんなりと応じました。
聞けばその方は地元でも有力な地主さんの息子さんで経済的にも恵まれているようでした。成瀬さんには申し訳ないですが、母は加辺さんがもっと早くに来ていれば、兄弟離ればなれになることはなかったのにと残念がっていました。もちろん、加辺さんには双子だったことは言っていません。ですから、その方は今も引き取った子に兄がいることをご存じではありません。
兄弟の不運と言うのでしょうか、下の子が引き取られてからほどなく、成瀬さんから弟も引き取りたいとの電話があったのです。
帰ってから思案すると、残してきた子のことが不憫になって、貧しいなりに何とかやって行こうと思い直したのだそうです。ところが、遅すぎました。私はそれを父から聞いて、神様も何と無慈悲なことをなさるのだろうと二人の幼子の皮肉な運命に同情を禁じえませんでした。私の両親ももちろんそうでした。ですから、双方の方から毎年写真が送られて来ると心から安心していました。明るく笑った写真を見るだけで、私もお二人が元気に育っていることがわかりましたから。
私達の方から連絡をすることはありませんでしたから、それらの写真だけが唯一の接点でした。しかし、それも修一さんが病死したとの丁重な詫び状を最後に加辺さんからは途切れてしまいました」
二人はそれぞれ感無量の思いで牧師が語るのを黙って聞いていた。亜紀はときどきハンカチで涙を拭いた。
「これが私の知っている経緯です。父と母は天国であなたを見て安堵しているに違いありません」
牧師は振り返って壁に架けている写真を指さした。
「あの写真が私の両親です」
真一は立ち上がるとその下まで行き、しばらく写真を凝視した後、深々と頭を下げた。
牧師は夫人に、あれを持って来てと言った。事前に言われていたのか夫人は黙って部屋を出て行った。
「毎年、写真が送られてくると申しましたでしょう。父と母はそれを楽しみにしておりました。あなたに妹さんができたのも知っていました。それからは大抵二人が写っているものでしたから、仲睦まじく育っているのが手に取るようにわかりました。妻がそのアルバムを持って参ります。送られてきた写真を母がアルバムに整理して大切にしていたのです。そして、ときどきそれを愛おしそうに見ていました」
帰省するたびに父が自分の写真を撮りたがった理由を真一は今初めて知った。
夫人が一冊のアルバムを携えて来た。それほど厚いものではなかったが、年月を重ねたものだと彼にもわかった。
「どうぞこれをご覧下さい。写真はお宅にもあるのでしょうが、父と母は宝物のように扱っていました。送られて来る写真を見て、お二人が何不自由なく育てられ、有名な大学を卒業し立派な社会人に育ったことを我が子のようにとても喜んでいました」
アルバムを真一と亜紀の前に置いた。二人は肩を寄せ合い、真一が表紙を開いた。黒の台紙に写真が左右に一枚ずつ丁寧に貼られていて、左が真一で右が修一だった。写真の下には白ペンで撮影日と場所が優しい字で書かれていた。
真一は弟の修一の方を熱心に見た。裸で写っている1歳児、三輪車に乗っている三歳児、どこかの女の子と手を繋いでいる幼稚園児、小学校入学時、運動会、遠足、学芸会で何かを演じている時の様子、卒業の時の稲子とのスナップ。服装は違えど右側の写真の顔は自分と全く同じだった。両方ともあどけなく笑っているものが多かった。亜紀が亡夫の部屋で見た写真も幾枚かあった。
真一は頁を繰って修一の写真を見ているうちに堪らなく彼が愛おしくなった。中学時代まできたとき、堪えていたものが我慢できなくなり、彼の口から嗚咽が漏れた。それと同時に大粒の涙が写真を濡らした。亜紀がそれをハンカチで丁寧に拭った。
真一は修一の写真を撫でながら肩を震わせ、「生きて会いたかった。そして一緒にここへ来たかった」と絞り出すように言った。亜紀も彼の肩を抱いて泣いた。そんな二人を牧師夫妻は慈愛の籠った潤んだ目で見ていた。
真一はしばらくじっとして気持ちを落ち着かせると、再びアルバムの頁を捲った。修一の頁は25歳を最後に空白だった。その空白が修一がこの世にいない現実を雄弁に告げた。亜紀も悲しみに襲われ、再び瞳を濡らした。
全てを見終えると、真一は静かにアルバムを畳み、それを夫妻の方へ丁寧に戻しながら礼を述べアルバムを涙で濡したことを詫びた。
「気になさらないで下さい。そのように感激していただいて、母も本望でしょう。先程も言いましたように、成長の証として毎年1枚の写真を私どもに送ることが、赤ちゃんをお渡しするときの条件でした。そのほかにもいろいろ取り決めがなされていました。これがその時の誓約書です。これと同じものがそれぞれのお宅にもあるはずです。どうぞご覧になって下さい」
二通の白い封筒から少し黄ばんだ書面を取り出して二人の前に広げた。同じ筆跡で同じ内容のものだった。唯一異なっていたのは末尾の署名欄の乙が成瀬正巳と加辺盛蔵となっていたことだった。
二人は誓約書を手に取って見入った。それは10箇条からなっていた。
1.仮親甲は養親乙に対し、なんらの対価を得ることなく、養子となる幼児(以後養子と呼ぶ)を引き渡すものとする。
2.甲と乙は向後いかなることがあっても、相互に連絡をとらないものとする。ただし、第6条および第9条の条項のみ本条の例外とする。
3.甲は実親が訊ねて来たとしても、乙と養子に関して一切口外しないことを誓約する。
4.乙は養子に対する法律上の措置を遅滞なく行うものとし、当該費用は全て乙が負担するものとする。
5.乙が将来実子となる子を成したとしても、養子を生涯にわたって実子と同等に扱うことを甲に誓約する。
6.乙は養子の成長の証として、毎年末までに養子の写真を1枚甲に送るものとする。
7.乙は養子が満年齢18歳に達するまでは、養子の事実を当人に告げないものとする。ただし、その日以後の告辞の意思は乙の裁量に任せるものとする。
8.乙は養子が満年齢18歳に達するまでは、養育の義務を負うものとする。
9.やむを得ない事由により、乙が前条の養育の義務を放棄しようとする場合、理由の如何を問わず、また第2条に関係なく、事前に甲に相談するものとする。
10.甲と乙の双方が死去するか、あるいは双方の合意がない限り、本誓約の効力は失効しないものとする。
読み終わった二人は顔を上げて牧師夫妻を見た。二人の瞳には感動の色が宿っていた。牧師夫妻は満足そうに頷いた。
真一と亜紀は明らかにされた事実に圧倒されていた。単なる養子縁組としか考えていなかったものが、このような顛末があり、31年を経た今日も厳然と守られている事実の重みに声を失っていた。
亡き牧師は養子となる子の幸せだけを願ってこれを取り決めたのは明白だった。どれほど捨てられた子供のことを愛し二人の将来に懸念を抱き、彼らの成長に喜びを感じていたのかを初めて知った。真一はこの亡き牧師夫妻の深い愛情に心から感謝した。
「この誓約書は両者間の信義上のことで、法律上は何の効力も持たないのかも知れません。また、これに違約した場合のことも取り決めもなされていません。しかし、私達は今までこれを完全に履行してきました。今回こうして訪ねられて来られて、あなたがたに経緯を明かしましたが、この誓約に反していないことはおわかりでしょう。
父は亡くなる寸前に、母の前で私にもこれを遵守するよう求めました。私が遺命を引き継いだ以上、今後もご両親が健在である限りこれが有効であることをご承知置き下さい」
真一がそれを了解し誓約書の写しを頼んだ。牧師は少し逡巡していたが、やがていいでしょうと言って、2枚の誓約書をコピーして渡した。真一はそれを丁寧に畳むと手帳に挟んだ。亜紀も盛蔵が署名捺印をした方のコピーをバッグにしまった。
それから半時間ほど真一と亜紀の近況を報告した後、教会を辞した。そのとき牧師は二人それぞれに一枚の写真を手渡した。それは亡き牧師夫妻に抱かれた双子の幼子だった。
「それはあなたがもらわれる前日に私が撮ったものです。その緑の毛布で包まれているのがあなたで、青い方が修一さんです。お二人揃った写真はこれ一枚だけです。来られると聞き、焼き増ししておきました。お持ち帰り下さい」
真一は凝視した後礼を述べ、それも手帳の間に入れて内ポケットにしまった。亜紀も同様にしてバッグにしまい込んだ。
二人が教会を辞そうとしたとき、ひとつだけ確認したいことがあると牧師は呼び止めた。
「もしあなたの生みの親もしくは親族がここへ来て、あなたのことを尋ねて来たならどうしたらよいですか?勿論、誓約書に従って秘密を漏らすつもりはありません。しかし、成瀬さんはもう大人だ。もしご両親に会いたいあるいは知りたいと思うなら、乙であるご家族の了承があれば仲介してもよいと思っています。あなたに会ってそう思いました。取り越し苦労かも知れませんが、その場合どうしたらいいですか?」
牧師の問いに対し真一がどのように答えるのか亜紀は彼を窺った。
「今まで音沙汰がないものを将来にもあるとは思えませんが、あったとしても会うつもりはありません。肉親は今の家族だけです。ですからこれまで通りでお願いします」
「本当にそれでいの?」
明快な真一の答えに思わず亜紀は訊いてしまった。
「ああ、それでいいんだ」
「わかりました。そのようにしましょう」
彼らは牧師夫妻に見送られタクシーに乗り込むと真一は空港まで行くように告げた。
亜紀はタクシーの中で稲子に用件が終わったことを報告し帰宅が遅くなることをだけを告げた。稲子はお疲れ様とだけ言って何も訊かなかった。
真一はずっと右窓に目をやって流れ去る市内の景色を見ながら先程までのことを思い起こしていた。
池の畔で亜紀の話を聞いて修一とは兄弟だと確信はしていたが、短期間であっても面倒を見てくれた当人から聞かされた事実は思っていた以上に重かった。実親から見放された捨て子だったことにも衝撃を受けた。それに親とあのような約束事が交わされていたことなど想像もしていなかった。亡き牧師夫妻の親から見捨てられた子を想う気持ちがありがたくて涙が出た。父と母はあのような事をきっちりと守り、実子の玻瑠香と分け隔てなく愛情を持って育ててくれた。だから亜紀と出会い、彼女の話を聞くまでは出生について疑問に思うことなど思いもよらなかった。伏せられていた事実を知ったのは物事に分別のついた今このときで本当によかったと思った。
これが社会人になるまでのときだったらどうだろう。精神的影響が全くなかったと言い切る自信はない。恐らく父母をこれまでとは違う目で見たに違いない。玻瑠香に対しても妹として見られただろうか。このタイミングで知ったのは、人知を超えた天の意思があるようにしか思えなかった。
亜紀は真一を横目で見た。彼はあれっきり一言も発しないで窓に寄りかかり窓外の景色を見ている。その顔からは何を考えているのか窺い知れなかった。
彼女も牧師から聞いた話は衝撃的だった。当人の彼はそれ以上だったのだろう。その気持ちは察して余りあった。何かを考え込んでいる風の彼を慮って声を掛けないでいた。
長崎空港で搭乗待ちをしていたときも、真一は一人考え込んでいて、亜紀が話しかけても上の空だった。搭乗してからも同様で、離陸前の飲物も断り目を閉じて何かを考え込んでいた。そんな彼を見るのはこれが初めてではなかったが、侵し難い雰囲気を醸し出している彼を亜紀は見守るしかなかった。それでも、彼の中の何かが変わったことだけは感じ取っていた。無口のままだが、彼の表情が何かの憑き物が落ちたかのように見えたからだ。
シートベルト着用のサインが消えると、真一は荷物棚からショルダーバックを下ろし、中からスケッチブックを取り出した。そしてそこに猛烈な勢いで何かを描き始めた。しかし、相変わらず真一の口は重かった。亜紀が横から見ると、それはどこかの家の間取り図だった。それを終えると外観図を描き始めた。それは羽田空港に着陸するまでに4枚仕上がっていた。それがどこかの教授に依頼されたものか、それとも思いつきで描いたものなのかは最後まで彼女に説明することはなかった。
彼らは言葉少なく浜松町で別れ、真一は東京駅から新幹線で、亜紀は新宿から特急で家路についた。
長崎から戻った3日後のお昼過ぎ、真一は予告なしにグリーンハウスを訪れた。
ペンションの入口に立つと、こんにちはと声をかけた。はいと返事があって受付裏の小部屋から稲子が顔を出した。珍しく三つ揃いのスーツを着込んだ真一の服装と前触れもない突然の訪問に驚いた表情をした。一人で来るのも異例なことだけに何事だろうと訝った。つい先日の今日だから、長崎に行ったことに関係あるのだろうか、それともやはりドイツに行くことになったのだろうかと勝手な想像を巡らせた。
「いらっしゃいませ。あの、今日は打合せか何か?」
「いいえ、今回は私の個人的な用件でまいりました。皆さんおられますか?」
日頃とは打って変わり改まった彼の態度と服装に稲子はますます怪訝な顔をした。
「ええ、主人は中にいて、お爺さんは外で作業をしています。母屋にいる亜紀ちゃんも呼びましょうか?」
「いえ、先にみなさんとお話ししたいのですが」
真一の様子にますます不審を募らせながら稲子は夫を呼び耕造に連絡を取った
出生の件に違いなさそうだが、それにしては心なしか緊張しているように見える。稲子は長崎のことを引き摺っているのかしらと思った。
稲子は真一が修一の兄であることを戻った亜紀から報告を受けた。真一は当初から双子であることを認識していたようだが、改めてその事実を知らされると少なからぬ衝撃を受けたようで、帰途の時の様子が変だったことも聞いていた。
「どうぞお上りになって。お爺さんと主人はすぐに参ります」
盛蔵も遅れてやって来た耕造も真一を見る目は親しみが籠っていた。
「いらっしゃい。長崎へはお疲れさまでした。話は聞いています。成瀬さんは修一のお兄さんで、どうして兄弟が別々にもらわれて行ったのかも亜紀ちゃんから詳しく報告を受けました。あるいはと我々も想像していましたが、改めて真相を知らされて驚きもし納得もしました。まさか修一にお兄さんがいたとは、不思議なご縁もあるものだと家内と話していたところです。こうして見ると何だか他人とは思えない。それで今日は何か・・・?」
彼が我々と無縁ではないと知ったからか、盛蔵にしては珍しく饒舌だった。
「実はみなさんのご了承を得たいと思いまして・・・」
真一の改まった様子に盛蔵は稲子と顔を見合わせた。やはりドイツへ行くことになったのかと。
耕造だけが用件を察したのか、期待の籠った表情で彼を見た。
「何でしょう。立ち話は何だから、落ち着ける場所で話しませんか。稲子、亜紀ちゃんがいないが、呼んだら」
「私達だけにお話したいことがあるんですって」
「そうか、それなら娯楽室へ行こう。成瀬さん、どうぞ」
真一は夕食の下拵えをしている亜希子に、お茶はいらないと断って娯楽室に入った。
4人は車座になり、真一は彼らに視線を巡らせながら切り出した。
「先日私のルーツを知るために亜紀さんと長崎の教会へ行ってきました。そして修一と私が双子の兄弟だとの事実を知りました。その辺のことは亜紀さんからお聞き及びでしょうか?」
「ええ、報告を受けております。成瀬さんが修一のお兄さんであることも聞きました」
盛蔵が答えた。
「本音を言えば、長崎へ行くことには乗り気ではありませんでした。亜紀さんが私の尻を叩いてくれなかったら行くことはありませんでした。何故なら、修一が亡くなった今、今更二人が兄弟で別々の家で育てられたことを知ったところでどうなるわけでもないし、家族にいらぬ波風を立てたくもありませんでした。うちには多感な年頃の妹もいますので尚更でした。
ところが亜紀さんが私に迫るのです。あなたはそれでいいかもしれないが、私はどうなるのか。今のままでは修一のことを完全には乗り越えられないと泣いて訴えるのです。正直なところ、今でも彼女の心情は正確にはわかりません。恐らく彼女なりの深い悩みがあるのでしょう。
でもそのとき初めて、私のエゴだったことに気付かされました。これは自分だけの問題ではない、加辺家と成瀬それに亜紀さんの家族にも関係することだと気付かされたのです。
稲子さんはあの時、修一と比較して暗に私が臆病だと指摘されました。まったくその通り臆病者でした。
両親には私に伏せているそれなりの理由があるのでしょう。でも、このままにしておいてはいけない。真摯に事実と向き合い、そのことを知ってどうするかは、父や母ではなくほかでもない自分自身で決めればよい、妹のことは自分が責任を持って対処すれば良い、そしてそのことで亜紀さんの心の安寧が得られるなら、それが一番ではないかと悟ったのです。それからは、皆さんが亜紀さんから報告を受けられた通りです」
ここで一旦言葉を切ると真一は目の前の3人を見て話を続けた。
「修一は僕の弟です。その事実を知って、亜紀さんではなく僕の方が心の安寧を得ました。それまでは、話でしか知らない弟に劣等感を抱き対抗心を持っていたのです。亜紀さんが愛し亜紀さんを心から愛した弟にです。
お気づきでしょうが、私は亜紀さんに好意を持っています。できるものなら一緒になりたいとも思っています。でも、それを告げる勇気がありませんでした。彼女は今でも弟のことを愛しているに違いない。弟を忘れられずにいて、私を見ていてもそれは真一ではなく修一として見ているのではないか、そんな疑心暗鬼に囚われていたのです。亜紀さんに愛された弟に嫉妬覚え、一つとして敵わない弟への劣等感がそうさせました。
そんな歪んだ気持ちが不思議なことに、修一が私の弟であるとの事実を知ったとき、弟と私が実の親に捨てられ、それぞれ加辺家と成瀬家へ引き取られた経緯を知った瞬間から、憑き物が落ちたようにすーっと解消したのです。何と言うか、心の中にゆとりが生まれたのです。
今でも亜紀さんが修一を愛していても構わない。他ならぬ同じ遺伝子を持つ弟なのだからそれを含めて愛せばいいではないかと思えるようになったのです」
稲子は息子を思い出したのか知らずに涙で頬を濡らし、盛蔵と耕造は何度も頷きながら、真一の次の言葉を黙って待っていた。
「それで、耕造さん盛蔵さん稲子さん、これから自分の気持ちを告白しプロポーズをするために亜紀さんのところへ
行くつもりです。亜紀さんとの結婚を許していただけますでしょうか?」
真一の常ならぬ様子に訝しく思っていたが、いきなり求婚すると聞いて彼らは驚いた。が、二人が結ばれることを望んでいただけに彼らの結論は決まっていた。稲子はエプロンで涙を拭うと、誰かが答える前に発言した。
「許すも何も、亜紀ちゃん次第だから、私達があれこれ言う権利はないわ。それでも有難う。二人で決めればいいことなのに、私達にまで聞いてくれて有り難く思うわ。私達もそうなればいいと思っていたから勿論反対じゃないけど、一つだけ聞いてもいい?」
「何でしょう」
「先日研究室にお邪魔した折に、私が亜紀ちゃんとの交際を勧めたときに、あなたにはそんな資格はないとお答えになりましたわね。それだけが気になっていたの。差し障りがなければ、その理由を聞かせて下さいな」
そんなことは今更どうでもよいと思っていたのだが、曖昧にして終わらせないのはさすが嫁だと耕造は感心した。彼もそれに関心があった。
真一はわかりましたと答え、内に秘め他人の誰にも話したことのない10数年前にあった出来事を話した。
彼が話し終えると、ふーんそんなことがあったのかと耕造は呟いた。
「そんなことでこれまで引きずっていたのか。全てがお前さんの責任でもなかろうに少し潔癖すぎるのではないか」
「いえ、私の気持ちが許しませんでした。それも亜紀さんのお陰で解消ました」
「それを信じるけど、亜紀ちゃんにはそのことを話したの?」
「いいえ、これから行って、まずそのことを話してからプロポーズするつもりでいます」
「そうかい。それがいい」
そんな事する必要もないと思うのだが、潔ぎよく振る舞おうとするのは如何にも彼らしい。
耕造は顔を綻ばして真一にいざり寄ると彼の手を取って振った。
「成瀬さん、ありがとう。わしらはあんたのその言葉をずっと待っていたんじゃ。よくぞ決心してくれた。ありがとう、本当にありがとう」
最後は祈るかのように彼の両手を押しいただいて自分の額に当てた。
「成瀬さんがそんな気持ちになってくれて、わしも本当に嬉しく思う。これで亜紀さんの心も救われる。口には出さないが、辛いことばかりずっとあったと思う。だから成瀬さん、あんたが亜紀さんを幸せにしてやって欲しい。苦労した分、幸せにならねばならん。あんたは修一の兄なんだから孫の分も含めて亜紀さんを幸せにする義務がある。そうじゃろう盛蔵、稲子さん」
耕造は息子夫婦を見た。彼らは大きく頷いた。
「亜紀さんがどのような返事をするかわからんが、もしもあんたのプロポーズを拒むようなら、再び結婚することがないような気がする。プレッシャーをかける訳ではないが、もしそうなればわたしらは遠藤家に対して申し訳が立たん。これを機に亜紀さんには実家に戻ってもらわにゃならんだろう」
いいなと再び息子夫婦を見やった。二人はまた頷いた。
「亜紀さんの心の病を完治できるのはあんたしかおらん。一重にあんたの真摯な求婚にかかっている。よろしく頼む」
耕造は正座のまま深く
(二)
亜紀が食堂の北側の和室で掃除機をかけていると、誰かが自分の名を呼んだような気がした。掃除機を止めて耳を澄ますと、犬の鳴き声に混じって玄関で誰かが呼んでいた。戸板を締め切っているので誰の声か判然としない。にゃーと猫が擦り寄ってきたが、亜紀は無視して、はーいただいまと返事をして、髪を覆っていたスカーフを取りながら、小走りで玄関へ行った。そこでに立っていたのはスーツ姿の真一だつた。猫は亜紀の足元に纏わり付いたが、相手をしてくれないと知って外へ出て行った。
真一が目一杯めかし込んでいるのに対し、亜紀はTシャツスにジーンズと彼がこれまで一度も目にしたことのないラフな格好だった。
「まあ、成瀬さん。先日は長崎までありがとうございました。お疲れになりましたでしょう。どうなさったのですか、前触れもなく」
亜紀は自分の格好に赤くなった。それを見て真一はいきなり来たことを申し訳なくかつ無作法を恥じた。
「亜紀さんこそ、お疲れ様でした。亜紀さんが一緒でなければ教会へは行けなかった」
「行けなかったじゃなくて、行かなかったでしょ?」
軽口を言いながら笑った。長崎へ一緒に行ってから、一層砕けた言い方になったのを自覚してまた赤くなった。
真一は苦笑した。
「いや、全くその通りです。亜紀さんの脅迫のお陰で行ってよかった。だからこうしてここへ来る勇気が湧いた。突然やって来て申し訳ない。弟に線香をあげさせてもらえますか?」
修一の兄と知って、彼のためにお参りに来てくれたのかと彼の来訪に得心し、どうぞと仏間へ先導した。
仏壇の照明を灯し、抽斗からマッチを取り出して蝋燭と線香に火を点けた。そして、位牌に向かって合掌一礼してから場所を譲った。
真一は手入れの行き届いた仏壇の前に正座すると線香を手向け、初めて来たときより長く仏前に手を合わせて祈った。そして無言で弟に問うた。
(これからお前の前で亜紀さんに結婚を申し込む。それでいいんだな、それがお前の望んだことなんだな)
合掌を解くと、後ろで正座して控えていた亜紀に横に座るように促した。真一のただならぬ様子に緊張して言われるまま仏壇を正面にして相向かいに向き直った。
「亜紀さんに初めて会ったのは去年の夏の終わり頃だから、早いもので1年が経ってしまった。今もあのときのことをよく覚えている」
昔のことを持ち出して何を言うつもりなのだろうと彼の発言を待った。
「あのとき君の過去を聞かされて、何て芯の強い人だろうと思った。そして、その時の気持ちを正直に言えば、重い荷物を背負わされたようで迷惑だった。そして自分の意気地なさに自己嫌悪に陥った」
池の畔のことは彼女もありありと思い出すことができる。しかし、なぜ彼がそのことに言及するのだろうと訝った。
双子の弟がいたことを、本当の意味で知った時から彼が変わったことを感じ取っていた。恐らくそのことに関係があるのだろう。現に今の彼はこれまで見たことのないほど真剣な表情をしている。何を言いたいのかわからないが、重要なことを話そうとしていることだけは伝わった。それで、胸が高鳴るほど緊張しつつ無言のまま彼の発言を聞いていた。
「僕も亜紀さんのように勇気を持って、僕の過去と向き合って誰にも話したことのないことを告白しようと思う。聴いてくれますか?いや、聴いて欲しい」
穏やかな物言いだったが、真一の目は亜紀を捉えて離さなかった。彼女も目を逸らさずに大きく頷き、ふと思い出して訊いた。
「もしかしてアルバムにあった女の人の事かしら?」
それは女の勘だった。写真を剥がしてまで隠そうとしたあの女性のことだろう。写真の中で楚々として微笑んでいる少女を今も脳裏に焼き付いている。
真一はそうだと答えた。
「伺いましょう」
どのような話が飛び出すのか緊張して堅苦しい物言いになった。どうして話す気になったのか疑問に思わなかった。
居住まいを正し背筋を伸ばして両手を重ね合わせて膝の上に置き、何を聞かされても冷静でいようと心の準備をした。それでいながら、彼に寄り添う少女を思い出して、私を揺さぶるようなことでなければいいがと祈るような気持ちでいた。
「僕にもたった一人恋人と呼べる女性がいた。それが亜紀さんも見たアルバムにあった人だ。
僕は古風な考えを持っていて、恋愛イコール結婚と思っていた。だから、憧れてはいても恋愛には慎重だった。
そんな僕が恋をした彼女との出会いは高校3年生になったときだった。それまで学年は同じでも別のクラスだったから彼女の存在すら知らなかった。
クラス替えで同じクラスになって初めて彼女を見たとき、具体的にどこがどうと訊かれてもうまく答えられないが、何かしら僕のハートに強く訴えるものが彼女にあった。
自分が初めて抱いた感情に確信が持てるまで1学期の間それとなく彼女を観察した。そしてそれは一時的なものではないと確信を持つようになった。
彼女は口数も少なく地味で目立たない生徒だった。その代わりクラスの誰よりも大人びていて落ち着いていた。言い換えれば、浮わついたところがなく、しっかりと両足が地に着いている人だった。そこに僕は強く惹かれた。
女友達はいるが、特定の男性がいないことも知った。彼女の友達の一人にさりげなく聞くと、一人っ子でしかも早くに母親を交通事故で亡くして、中学生の時から家事をしていることも知った。それで芯が強いのかと納得した。
彼女と付き合うようになって、僕の行動や性格の悪いところを彼女に指摘され、直させられたことが何度もあった。今も君に非難されることがあるが、その頃の僕は
それはともかく彼女となら生涯を伴にしてもいいと見極めると、僕は積極的に動いた。
その日は毎日通う合気道の道場へは直接行かず、下校時の彼女を待ち伏せた。そして、一人になったところを見計らって単刀直入に交際を申し込んだ。ところが、彼女は冗談か何かの悪戯と思って取り合ってくれなかった。
自惚れるわけではないが、僕を嫌っている訳ではないと思っていたから、無視したままの彼女に対して、ほとんど毎日と言ってもいいくらい攻勢をかけた。そして、何度も好きになった理由を告げて、浮ついた気持ちで交際を申し込んだのではないと必死に訴えた。それでも聞く耳を持ってくれなかった。何回待ち伏せしただろうか。後をつけ回わしたりはしなかったが、ストーカーと間違われても仕方のない行動をしていたと思う。
10日ほどした頃、周りの目を気にして彼女も困り果てたのか、僕の態度が本心だと理解してくれたのか、ようやく真剣になって口をきいてくれた。
『成瀬君、私のどこがいいの?私なんか引っ込み思案で可愛くもないのに。他に綺麗で成績もいい子がいるでしょう』
非難するような口調だったが、ようやく向き合ってくれたから僕も必死だった。
『変に誤解されたら困るけど、男でも女でも成績や見てくれで人を選別したことはない。君の性格や内面を見て好きになった。君が僕のことを知っているよりも、僕の方が君のことをずっと多く知っている。君と付き合えばきっと僕が幸せになる。僕も君のことを幸せにしたい。だから付き合って欲しい』
こんな格好いい言い方じゃなかったが、そんな趣旨のことを言った。
彼女に『付き合うってどう言うこと?』と訊かれて、具体的にどんなことなのか考えもしないで行動していたから、しどろもどろになった。でも必死になって考えて、思いついたことを言った。
『僕も初めてのことだから、はっきりしたことは言えないが、誰にも遠慮することなく、休みの時にはデートをしたり、部活や生徒会がないときは誘い合わせて一緒に帰ったり、勉強したりすることかな。まあ、そんなことぐらいしか思い浮かばないけど』
僕が本気なのを信じてくれたのか、しばらく考えて答えてくれた。
『わかったわ。すぐに返事はできないから、1週間ほど待って』
その言葉だけで天にも昇る気持だった。嫌だったら、その場できっぱりと断るはずだと思っていたから、思わずガッツポーズをしたくなるほど嬉しかった。
それから1週間たった昼休み時間に彼女が僕の席へ来て、さりげなく机の上に小さな紙切れを置いて教室を出て行った。すぐに彼女を追いかけたかったが、ぐっと我慢して教室の隅で4つ折りの紙を広げると、4時にこの間の場所でとあった。ドキドキしながら指定された時間に行った。
彼女は僕を待っていて、少し赤くなりながら、よろしくお願いしますと右手を出したから、僕は嬉しさのあまりありがとうと彼女の手を強く握った。痛がっても笑った彼女の手は小さくて柔らかだった。
だけどすぐに交際が始まったわけではなかった。と言うのも在学中は交際していることを誰にも知られたくないと言いだしたからだ。その理由はわからなくもないが、正々堂々と付き合いたい僕としては不満だった。でも、彼女と交際するにはそれを呑むしかなかった。それともう一つ、彼女の父親の了解を得ることだった。それは当然のことで、言われるまでもなくそうするつもりだった。だから、その日の晩に彼女の家を訪ねて交際を認めて欲しいとお願いした。
ところが、彼女の父親は母親のいない娘を第一に思う昔気質の厳格な人で、簡単には交際を認めてくれなかった。変な虫が付いたんじゃないかのような目で見られたし、時期的に進学を控えてもいた。二人が若すぎることも認めてくれない理由だった。それでも彼女の口添えと信頼を損なうようなことは絶対しないと約束したことで、彼女の父親もそれではと軟化してくれた。しかし、まだ許してくれたわけではなかった。他にも多勢女子がいる中で、どうして娘と交際をしたいのかと理由を尋ねられて、僕は彼女に言ったことをそのまま説明して許しを請うた。
最初のうちは娘に何か下心があるのではないかと疑っていた父親も、僕の熱意と将来まで見据えた付き合いをしたいとの意思を理解してくれたのか、一緒に出掛けても日没までに必ず自宅まで送り届けることを条件に許してくれた。そして、その翌日には僕の両親に彼女を紹介した。男と女の違いなのかすんなりと認めてくれて拍子抜けするほどだった。
それからは正式に付き合い出したけど、放課後は合気道の道場へ通っていたし妹の面倒もみないといけなかったから、休日くらいにしか自由に会えなかった。
付き合ってみると意外に明るく、よく喋って思っていた以上の人だった。何事にも控えめで思慮深かかったから、さっきも言ったように、図体が大きいだけで精神的にまだ子供だった僕は、彼女から教えられることや諌められることが多かった。
デートした場所は人に知られないように、わざわざ離れた和歌山市内へ出たり新宮市まで行ったこともある。その時でも用心して途中まで乗る車両は別々だった。まだ幼かった妹を連れて白浜にあるアドベンチャーワールドへ行ったときだけが唯一の例外で、同級生と出会ったりしないかとびくびくしてそのスリルも含めてデートを楽しんだ。
そんな風にして健全なデートをして彼女を送り届けた後、時には彼女の手料理で父親と一緒に食事を共にすることもあった。僕の家でお袋の料理を食べてもらったこともあった。あまり記憶にないようだが、小さかった妹も彼女によくなついた。彼女も一人っ子だったから、こんな妹が欲しかったとよく遊んでくれた。
双方の親に僕らの交際が完全に認められると、それぞれの目標に向かって一緒に受験勉強することも多くなった。日曜日は父親がいる彼女の家で、お袋がパートに出ない日は僕の家で勉強した。
そんな努力もあって、僕らの交際は誰にも知られることはなかった。秘密を共有することで二人の絆が強まったような気もした。
交際が深まるにつれ、彼女の心根の優しさに触れて、ますます彼女との将来を強く意識するようになった。彼女も僕のことを信頼してくれた。そして、彼女がお茶の水女子大に、僕が信州大学への進学が決まったとき、今の気持ちが続いていたら卒業後に結婚しようと誓い合った。いわば二人だけの婚約宣言だった。
それからはデートのたびに、今思い返せば赤面するような話に夢中になった。
何の話かって?それは僕らの将来のことだった。僕は建築士になって海外を飛び回り、彼女は管理栄養士の資格を取って社会に役立つことをする。そしてどこかで家を構えて子供を3人くらい育てると言ったままごとのようなことだった」
真一はここまで話すと、何故か少し間合いを取った。
亜紀は聞いていて、そうまで愛された彼女に嫉妬を覚え頬が強張り紅潮した。それは玻瑠香には覚えなかった感情だった。彼女はそれを悟られないように下を向いた。
「ところが卒業を間近に控えた夕方に事件が起きた」
淡々とした話しぶりだったが、事件と聞いて亜紀ははっと頭を上げた。彼の目は焦点が定まらず、遠くを見ているかのようだった。そんな彼を見るのは初めで思わず膝に置いていた掌を握りしめた。
「高校最後の期末試験が終わり、近くの山上公園での短いデートをした後、彼女をいつものように家まで送ろうとした。ところがその日の夜に道場の懇親会があった。それを彼女は覚えていて、家まで近いから大丈夫と言うので気にはなったが途中の道で右と左に別れた。
じゃーまた今度と手を振って坂道を50m程下った時、悲鳴を聞いたような気がした。それだけ離れては彼女の声など聞こえる筈もないのに、何故か胸騒ぎ覚えて必死に駆け戻って、別れた左側の細い道を無我夢中で走った。
彼女の足でそれほど行っていないはずなのに100m程下っても発見できなかった。僕は不安一杯で焦った。我を忘れて大声で彼女の名前を呼びながら、元の道へ走り戻っていたとき、右側の草むらから小さな声が僕の耳に届いた。夢中で声がした方へ草むらを分け入ると、口を手で押さえられて男二人に組み敷かれてもがいている彼女を発見した。
怒りのあまり頭の中が真っ白になって、二人を彼女から引き剥がすと無我夢中で男を殴りつけた。彼らも反撃してきて何発かパンチを浴びたが少しも痛く感じなかった。早く逃げろと彼女に言って、奴らを立ち上がれないほどに、何度も殴り投げ飛ばして痛めつけると二人とも気を失った。
倒れた暴漢を見ると、市内でも有名な札付きの高校生だった。息を整えながら、失神している彼らの服から生徒手帳を取りあげてそれをポケットに入れた。こうしておけば仕返しに来れないだろうと思った。振り返ると彼女の姿はなじゃった」
「まあ、可哀想」
痛ましげな表情で彼の話を聞いていたが、ここで思わず声を漏らした。それは真一と彼女に対してだった。
「あのー・・・、それでその人は大丈夫だったの?」
最悪の状況を想像して頬を染めて訊いた。
「一瞬見たときはブラウスのボタンが引きちぎられて、スカートも捲りあげられていたが、間に合ったと思う」
「それならよかった」
ほっとして、同性だけに身につまされる思いで彼の恋人に深く同情した。
「それからどうなりましたの?」
「その場を離れると、その足で彼女の家に行った。鬼の様な顔をした父親が家にいて、家に上げてはくれたが、彼女には会せてくれなかった。
そのときの状況をありのまま話して、送り届けなかったことを何度も謝った。父親は腕組みをして恐い顔して無言で聞いていたけど、話し終わった途端、いきなり胸倉を掴まれて両頬を張り飛ばされて突き飛ばされた。そして、『なぜ約束を守らなかった。自分の恋人も守ることができないのか』と大声で罵倒された。
本当のことだけに一言も弁解ができなかった。彼女のことを第一に考えていれば、決して一人で帰すことはなかったのにと思うと自分が情けなくて申し訳なくて頭を上げることができなかった。
その場で父親から交際禁止を申し渡された。二度と家に来るなとも言われたけど、口答えをすることもできずに黙って帰るしかなかった。
彼女は一度も出て来なかった。心の衝撃がわかるだけに申し訳ない気持ちが一杯で少しも恨みがましく思わなかった。
帰り道、無性に自分に腹立たしく情けなくて声を上げて泣いた。男泣きに泣いたのは、そのときが初めてだった。合気道や剣道で先輩にしごかれたこともあったが、あのときほど心の底から痛いと思ったことはなかった。今でもそのときの痛みは忘れられない。それから一度も彼女とは会っていない」
真一は正座したままぎゅっと両手を握って力を入れた。感情を込めずに淡々と話していたのだが、その時は顔が紅潮していた。
会っていないとはどう言うことと訊こうとしたとき、真一がぽつりと言ったので、聞き漏らしてしまった。
「これが今でも心の傷になっていて、人が思うほど立派じゃない」
亜紀には彼の傷ついた気持ちがわかるような気がした。彼の話を聞いているうちにいつしか自分も被害者になってその痛みに同調し、同じ同性として暴漢に襲われた彼女に深く同情した。そして、このことが彼の深い傷となって今も苛んでいるのだろうことが理解できた。これが義母が話してくれた自分との交際を拒絶した理由なのだろうとも。
「その人も可哀想だけど、真一さんも可哀想。責任感が強いから苦しんだこともわかるわ」
「僕はそんなに責任感は強くないし立派な男でもない」
自嘲気味にまた言った。
それに対し亜紀は黙っていた。どのように慰めたところで彼の気持ちに応えられるものではないことは自分の経験から知っていた。
「それからが大変だった。どのようにして僕のことを調べたのかわからないが、翌日彼らの親から暴行傷害と窃盗で訴えられて、その日のうちに田辺警察署から呼び出されて出頭すると、一方的に因縁をつけて暴行したことになっていた。彼らの申し立てに腹は立ったが、彼女に遭った出来事は誰にも知られるわけにいかなかったから黙秘を通した」
「まあ、何て恥知らずな人達なのかしら」
哀しい思いでいた亜紀もさすがに憤りを覚えた。
「訴えた二人は何度か警察に補導されたことがある問題児で、しかも1対2だったから事情聴取を受けていても、喧嘩の原因は被害者側にあるんだろうと、警察も僕に好意的だった。
取り調べの警察官から、弁解もせずにこのまま起訴されれば、暴行傷害と窃盗で少年院へ送られる可能性もあるぞと脅されたが、彼女のことが明るみになることだけは避けたくて、最後まで態度は変えなかった。
高校生ということもあって一旦帰されることになったが、驚いたのは僕の身柄を引き取るようにと警察署に呼び出された両親だった。今まであまり面倒をかけたことがなかっただけに、親父もびっくりしたのだろうが、事情を聴いていたのか、何も言わなかった。
家で待っていたお袋には、どうしてそんなことをしたのかと泣いて問い詰められたが、落ち着いたら話してくれるだろうと親父が取りなしてくれて、1時間ほどしてから事の顛末を話した。
お袋から警察に正直に訳を話せ、でないとお前の将来が台無しになると必死になって説得されたが、うんと言わなかった。それなら代わりに弁明に言ってと親父に言っていたが、何を思ったのか、親父と何も言わずぷいと出て行ってしまった。どこへ行ったか誰にもわからなかった。
また警察に呼ばれるか起訴されると覚悟していたが、いつまでたっても呼び出しがかからなかった。訴えを取り下げられたと知ったのはしばらくしてからだった。奔走してくれたんだろうと親父に訊いたが、難しい顔をしたままで何も答えてくれなかった。それからは普段通りに登校して卒業した。結果的にお咎めはなかったが、後悔と心の傷だけが残ってしまった。
これが誰にも話さなかった顛末だよ」
一言も聞き漏らすまいと緊張していた亜紀はほっと力を抜いた。自分にとってもっと悪いことを想像していたので安心した。
「それでその人はどうなったの?」
「それから彼女は一度も登校しなかった。気になって彼女と親しくしていた友達にさり気なく訊いたら、入学後の下宿先を探しに上京しているとのことだった。卒業式にも出席しなかったから会えなかった。
大学はわかっていたから、半年程して1度だけ訪ねて行った。だが、親族以外は駄目だと言われて、会うことができなかった。男女共学だったら紛れて教室を覗くこともできただろうが、女子大だったからそれもできなかった。帰省するたびに彼女の家にも足を運んだが、毎回追い返された。彼女は友達とも音信不通になっていて、どのように過ごしているかわからぬまま13年が経った」
「それじゃ一度も会っていないってこと?」
「一度も会っていない。だから彼女のことがずっと気になっていた。何も知らない未熟な高校生だったせいもあるが、それまで人を愛することは幸せなことだと思い込んでいた。しかし、実際は辛くて哀しいことだなんだと知ったのはその時だった。誰かを愛して悲しい思いをするくらいなら、しない方がまだましと思った。その辺は君と似ているかも知れない。それからだ、恋愛に慎重になったのは」
それからしばらく黙った後、ぽつりと言った。
「軽蔑しただろう?」
「えっ、何が?」
亜紀は彼の言ったことが一瞬わからなかった。彼の取った行動と態度に敬服こそすれ、彼が自分を卑下する理由が理解できなかった。
「愛する人を守ることすらできなかった。彼女が心に深い傷を負って苦しんでいるのを知りながら、何か方法があったはずなのに何もできなかった。それが恋人だと言えるか?言えないだろう」
自嘲気味で言う彼にここははっきりと言わねばと亜紀は思った。
「それは違うと思う」
その強い口調に真一は驚いた顔をした。
「真一さんが責任を感じる必要がないわ。立派だったと思う。寸前のところで彼女を救ったことも、彼女のことを慮って警察でも一切弁明をしなかったことも男らしいわ。
私も同じような目に遭ったら、きっと彼女のようにショックを受けて深く傷ついただろうし、学校にへも行かなかったと思う。でも、あなたにだけには会うべきだったと思うわ。一度でいいからあなたと顔を合わせて、恨み辛み何でもいいから自分の気持ちを話すべきだったと思う。多感な年頃で恥かしくて会わせる顔がなかったのかもしれないけれど、私ならきっとそうしていたと思う。でなければ真一さんが救われない。だからそのことをずっと引きずっていたのでしょう?」
亜紀の問い掛けに真一は肯定も否定もしなかった。
「当事者でもないのに、勝手なことを言ってごめんなさい。彼女には同情するけれど、そうすべきだったと思う」
彼のせいではない事を強調した。
「ありがとう、そう言ってくれて。幾分気が楽になった」
「慰めじゃなくて本当にそう思うから言ったの」
誰にも話したことがないということを聞いて、あの女性に人には言えない何か酷いことをしたとか、あるいは妊娠させたとか最悪の状況を勝手に想像したのだが、そうではなくてほっとした。だから、彼女が一番知りたいことを訊いた。
「それで、あなたの恋愛臆病症とやらは治りましたの?」
完治したからこそ話す気になったのだろうが、彼自身からそのことを聞きたかった。
「それは君と彼女がふっ切らせてくれた」
「私と彼女・・・。どう言うこと?」
意外な返答に思わず聞き返した。
「これまで恋愛はこりごりだと思って女性を遠ざけていた。ところが、池の畔で君の辛い過去の話を聴いたそのときからその決心が揺らいでしまった。君の苦労や悲しみに比べたら僕の葛藤なんて些末なものだと思い知った。亜紀さんに出会ってから、彼女のことを思い出すようなことはなくなったし、今頃になって彼女の消息を確かめることもしなかったと思う」
「ひょっとして、その人と会ったの?」
「いや、会ってはいない。だが、高校時代の同級生に彼女の近況を調べて知らせてくれるように頼んだ」
クラス会には大学を卒業するまでは毎回出席していたが、それ以降はなぜか案内状が届かなくなった。だから、その会は取り止めになったのだとばかり思っていた。その彼が今年出席できたのは、同級生の幹事からの電話で必ず来いと出席を促されたからだった。
クラス会に出席する度に彼女に会えるかも知れない、彼女の消息がわかるかも知れないと密かな期待を抱いていたのだが、一度として顔を出したことはなかった。しかも、10年近く前に彼女の父親の転勤で田辺の家を引き払ってからは完全に消息不明となってしまった。
田辺市役所の役人をしているクラス会の常任幹事に、事の次第をつまびらかに告白し、彼女の私生活に係わるかもしれないからと固く口止めして、彼女の消息を調べるよう依頼したのは亜紀との交際を耕造に迫られた日だった。
「それで何かわかりましたの?」
「盲腸で入院する少し前だったかな、どのように調べたか明らかにはしてくれかったが、彼女の近況を電話で教えてくれた。
彼が言うには、大学を卒業するとそのまま東京で就職して、そこの同僚と職場結婚して今は大阪で暮らしているとのことだった。子供も2人いるらしい。それを聞いて、救われた気がした。でなければ、君を前に偉そうなことを言えた義理ではないが、まだ彼女のことを引き摺っていたと思う」
「それじゃ、克服したと言えるのね。でも、どうして私にそんな秘密を明かしてくれる気になったの?」
真一はその理由を言わず、身を乗り出すといきなり言った。
「亜紀さん、僕と結婚して下さい」
亜紀は、ええっ!と口に手を当て叫び、のけ反ってしまった。これほど驚いたのは、彼を修一の幽霊かと見間違えたとき以来のことだ。
来た時から彼の様子がおかしいと感じていた。
第一服装をぴしりと決めていたし、修一に線香を上げさせてほしいと言った。そして、誰にも言ったことのないことを話すと言うから何か重大なことがあるのだろうとは理解していた。
彼が語り終え、長年のトラウマを解消したと言うので、ひよっとしたら内心どきどきしていた。それでもいきなり求婚されるとは思ってもいなかった。嬉しいはずなのに、予想外のことで面食らってしまい、驚きのあまり一言も発することができなかった。
「君と家族を作りたい。一緒に人生を歩みたい。だから僕と結婚して欲しい」
亜紀が何か言いかけるのを彼は手で制したので、何かほかにも言いたいことがあるのだろう。ここは彼に全てを言わせた方が得策だと、咄嗟に女の小狡さで判断し黙った。
「突然やって来て、いきなりプロポーズするなんてと不審に思ったと思う。まして、数回しか口を利いたことのない男にいきなり結婚を申し込まれても戸惑うばかりだろう。しかし、僕の方では、最初に合った時からずっとあなたを意識して見てきた。外見ではなく、あなたの内面をずっと見てきたつもりだ。そうさせるものがあなたにはあった。そして、僕には君しかいないと確信するようになった。それなのに、自分の臆病ゆえによそよそしい態度を取った。それで稲子さんを始めみなさんに迷惑をかけてしまった。それは後で詫びるつもりです。
先ほども言ったように、僕は恋愛と結婚は別々だとの考えには
あの日ペンションで別れてこれで終わりだと思い、それでよかったのだと安堵した。ところが、君が僕の研究室に訪れたことで不思議な縁は切れていないのだと思った。本当の意味で意識し出したのはそれからです。それでも僕からは動こうとしなかった。本当に縁があるのなら、自然にそうなるものと思っていたから。縁にならないのならそれでもいいと思っていた。愛する人を何かのことで傷つけ失うのが怖かった。恋愛に消極的と言うより卑怯で臆病だった。
去年の夏にここから逃げ出した時がそうです。君の話を聞いて、修一と無関係ではないことを確信していた。もし、再び会うことになったら、平静を保てないだろうとも自覚していた。そんな自分が嫌で、恋愛に振り回される自分が怖かった。
以前、亜紀さんが僕に訊きましたね、結婚はしないのかって。そのとき答えました。一目惚れして突き進むタイプじゃないから時間がかかると。そして相手をじっくり見て、あの事件があってからは自然に任せる方だと。そのことは今でも変わっていない。
僕は亜紀さんに一目惚れしたのではないと思っている。外見ではなく、内面の美しさを見てきたつもりだ。結果、弟があなたを愛した理由が僕にもわかる気がした。
弟はバス停でもたついているあなたを見て直感的に何かを感じたんだと思う。そして、あなたと付き合うようになって、ますますあなたの本質に触れ、愛を深めたのだと思う。そんな彼に僕が勝てる訳がないと思い悩みました。何しろ目が不自由だった君をそのまま愛し、命と引き換えに光を取り戻してくれた恩人です。そんな弟に誰が勝てる?それをひっくり返す自信などなかった。
恋愛は勝ち負けではないと人は言うだろう。だが、僕の中では亜紀さんを見るたび、亜紀さんを想うたびに絶えず弟の存在を意識せずにはいられなかった。そしていつも彼に対抗していた。そして少しでもいいから君の気持ちが僕の方へ動いてくれるのをじっと待った。
本当を言えば、亜紀さんには弟にそっくりな僕より誰か別な人がいいのではないかとも思った。僕と親しくなればなるほど弟を忘れられなくなる。そして、僕の方では仮に君が僕を好きになったとしても、それは僕自身ではなく僕を通した弟なのかもしれないとの不安が常にあった。そんな風に考える自分に嫌悪した。
お互いそんな想いでいるのは不幸だ、そのように思うと積極的になれなかった。それに弟を超える愛情がなければ、僕を受け入れてはくれないだろうとも思った。そんな愛が果たしてあるのか、あるとしたらそれは何だろうと考え続けた。恋愛で悩むのが嫌だと言っておきながら、このように想い悩んでいた。そのことこそが真に恐れていたことだった。
そんな気持ちを断ち切ってくれたのも亜紀さんでした。いつか君が言った、愛だけでは一生共に過ごすことはできない。互いの尊敬と信頼がなければ愛だけで終わってしまうと。そのとき僕はその意味がよく理解できなかった。しかし、今ならわかる」
亜紀は目を逸らさず口を閉ざして彼の告白をじっと聴いていた。初めて彼が本音で話そうとしているのだ。全て聴き終わるまでは口を挟むまいとした。女の小狡さがそうさせた。
「あなたに強く促されて、僕と修一のルーツを求めて長崎へ行きました。そこで、僕達二人が兄弟だと本当に認識した時、僕の中に変化が生じました。あなたを残し無念の思いで死んでいった弟が堪らなく愛おしく感じたのです。すると弟への劣等感やわだかまり、いつか君が弟から多額の遺産を受け取ったに違いないと知った時の敗北感のようなものが嘘のように解消したのです。しかも、それらの感情が僕の驕慢な態度を改めてさせてくれた。そうでなければきっと鼻持ちならない男のままでいたと思う。
弟が愚かな兄を改心させてくれた。そして、劣等感に
僕には君しかいない。亜紀さんもまた修一と僕しかいません。修一といたとき、幸せだと感じていたのなら、僕はそれ以上に幸せにしたい。今でも幸せだと思っているのなら、今以上に幸せにしたい。僕にはそうする自信がある。また、僕も君によって幸せになれるとの確信を持っています。だからこれからの人生を共に過ごしたい。亜紀さんと一緒に家族を作りたい。亜紀さんの方でも、結婚することで幸せになろうとは思わず、僕を幸せにしてやろうと思うのなら、改めて言います。僕と結婚して下さい」
唐突にプロポーズされた衝撃も長々と彼に話されたことで、
亜紀は彼の申し込みにすぐには応えず、正座したまま膝の上で重ねていた手を外すと、真一の目を見て静かな口調で言った。
「真一さん、ひとつだけ答えて下さい」
「何だろう」
「先ほど高校生だったその人と感性が合ったと仰いましたが、私とも感性が合ったと考えてもいいのかしら?」
「もちろんです」
一瞬の躊躇もなく答が返って来た。
「一方的なものですがそうです。感性と言っても直感的なものだから、その根拠は説明できないが」
「わかりました」
亜紀にもそのくらいはわかる。
「あなたは修一さんのことを気にしておられましたが、修一さんとお付き合いしていたとき、私の目が見えていなかったことをお忘れになっています。彼を好きになったのは顔じゃありません。彼の真摯な態度、私への思いやり、彼の細やかな気遣い、私を想う気持ちを好きになったのです。ですから私は彼と同じ顔だからと選ぶようなことはしません。とは申しても修一さんと似た人でなかったなら、あるいは関心を持たなかったのかも知れませんけれど。
確かに、ときには声であなたの顔に彼を重ね合わせたことがありました。けれど、彼そのものだと思ったことは一度もありません。それは、あなたを見て声を聞いて彼を思い出して辛いときもありました。でも、仕事でお会いをしているうちにそれも薄れてきました。初めのうちはこんなはずじゃないと思いました。5年間も変わらずに想ってきた人をこんな簡単に忘れていいはずがないと、罪悪感に駆られたこともありました」
真一は彼女の答がまだ見えず、正座したまま上気した顔で話す彼女から目を離すことができなかった。
「修一さんが亡くなって以来ずっと私の心は空虚でした。5年経ってもあの人のことを忘れられない私に同情し心配して下さる人もいました。日本女性の鏡のようなことを言われもしました。でも、そうではありません。あのときから私の時間が止まっていたのです。ですから、私には月日など関係ありませんでした。
それは私を愛してくれている父も母も兄も義理の姉もいます。私を大事にしてくれる加辺の義父と義母それに心の支えになって下さっているお爺さんもいます。いつも親切にしてくれて見守ってくれている刈谷さんがいました。それでも私は孤独でした。
それがあの日、あなたがひょっこりここへ訪れたときから、私は少しずつ変っていきました。気付かぬ間にあなたが私のゼンマイを巻いて私の時計を動き出させていたのです。
あなたと同じ空気を吸って、同じ空を見て、同じ時間と空間に生きていると思うだけで、虚ろな心も何かで満たされました。あなたが身近にいると思うだけで、私の心は安寧を得ました。でも私は欲張りです。今の工事が終わり、あなたが私の傍から離れたとき、今度はあなたを忘れることができるだろうか。そして、ほかの人を愛することなどできるのだろうか。そう思うととても不安になりました。
私の過去を話したおりに、あなたが私におっしゃって下さった言葉があるじゃありませんか。覚えてらっしゃいません?私はよく覚えています。あのとき、こう言って励まして下さいました。『僕には君を説く資格はないけれど、言わせてもらう。ご主人の愛情、ご主人への愛情は、そろそろ想い出にしたほうがいい。もうこの辺で断ち切る勇気を持つ必要があると思う。その勇気は新しい恋を見つけることだと思う。誰かを好きになって、恋をして、愛して、それが成就するかどうかわからないけれど、私にはそれが絶対必要だ』と。・・・思い出しまして?
ですから、私はあなたの助言に従うことにして、自分の気持ちに正直にあなたの後ろを一生懸命に追いかけました。ところが、あなたは私が追いかけた分だけ引き下がりました。もう少しで手が届くと思うとたちまち身を翻しておしまいになる。索引のついた私の心の中さえ読もうともしませんでした。
何故私を避けようとなさるのかわからなかったとき、お爺さんがあなたが抱いているかも知れない心の葛藤を教えてくれました。勿論それは想像だけでしかありませんでしたけれど、女の私には中々理解することができないものでした。それでも、悩んでいるに違いないあなたに何とかお役に立ちたいと私なりに努力しました。でも、私にはあなたの心を癒すことなど無理でした。やはり縁がなかったのだと思い定めようとした矢先、あなたの入院がありました。
加藤さんからあなたが入院したと聞いた時、昔のあの日のことがまざまざと蘇って目の前が真っ暗になりました。
病院へ行くまでの間、修一さんだけではなくあなたまで失うことになったらどうしようとしか考えていませんでした。もし、あなたがいなくなったら、私はもう二度と立ち直ることはできないのではないかとまで思い詰めました。あなたの病気が軽いと知ったとき、どれほど安堵しましたことか。
病院から帰った後、お爺さんにあなたの病気のことを報告に行ったときに、互いに修一さんのことが吹っ切れていないから、この縁はないのかもしれないと素直に告げました。するとお爺さんが私に言いました。今のままだったら、あなたは私から離れてしまうだろうと。私はどうしてよいかわからなくなって、お爺さんに
亜紀の長い話だったが、真一は彼女がOKしてくれたのかと思わず膝を進めた。ところが、それに水を差すようなことを言いだした。
「でも正直に言えば恐いの。あなたにとって私が相応しいのかどうかとても不安なの。私には学はないし何の才能も取り柄もないわ。そんな私が前途あるあなたに見合うのかとても心配なの」
亜紀は目線を下に落としたまま、軽々に受けることはできない心情を吐露した。実際にプロポーズされて急にそのことが怖くなったのだ。
「見損なっては困る」
真一の怒気を含んだ声に、亜紀ははっと顔を上げた。
「亜紀さんのことを一度もそのように思ったことはない。でなければ、過去のことを曝け出してまでプロポーズはしない。気付いてないだけで、僕にはない才能を君は持っている。仮に亜紀さんの言う通りだとしても、そんなことで人を好きになったり嫌いになったりはしない。信用できないのなら、そう思わせる僕の責任だ。出直して来る」
真一が顔を引きつらせて立ち上がろうとしたのを亜紀は慌てて引き止めた。
「気分を害したのなら謝ります、ごめんなさい。ずっと目が不自由だったせいか、自分を卑下してしまうの。本心ではずっとあなたのその言葉を待っていたのに、いざそれが現実になると急に怖くなって不安になって心のままに返事をしていいのか心配になってしまったの。
私は真一さんが思われているような女ではないかもしれません。でも、自分の信じるやり方で私もあなたを幸せにします。修一さんとの想い出も含めて私を愛して下さると信じます。私も真一であるあなたを愛しています。愛し続けます。もう私はあなたがいなければ生きてはいけません」
亜紀は想いのたけを吐き出して真一を見詰めた。
真一は詰め寄ると亜紀の両手を取った。
「それでは承諾していただけるのですね?」
「はい、こんな私でよければ」
亜紀は彼の手を握り返した。
「ありがとう。ああ嬉しい。こんなに互いが悩んで・・・。恋をするって辛いけど、愛するのはもっと辛い」
しばらく彼らは手を取り合って互いを見つめていたが、真一は手を離すと仏壇に向き直った。亜紀も彼に倣った。
「修一、聞いてくれたか。亜紀さんが僕との結婚を承諾してくれた。お前も喜んで許してくれるだろう?お前の分まで亜紀さんを守って必ず幸せにする。だから、亜紀さんの眼を通して俺たちを見守っていてくれ」
亜紀は亡夫に向かって彼が力強く誓ってくれたことが嬉しくてハンカチを目に当てた。
二人は仏壇に向かって手を合わせ祈った。
亜紀も修一に向かって心の中で呟いた。
(修一さん。私はあなたのお兄さんの妻になるけれど、それでいいわね。あなたが残してくれた写真を今まで持っていたけれど、一枚を残して捨てることにします。長い間約束を守らなくてごめんなさい。これまで見守っていてくれてありがとう。修一さんも安心でしょ、あなたのお兄さんが私を守ってくれるから。大丈夫、あなたの分まで幸せになるから)
遺影を見詰める亜紀の瞳から涙がゆっくりと頬に伝わり落ちた。真一はそれを修一の承諾の証と受け取った。
仏間から出ると真一はいきなり亜紀を引き寄せ抱きしめた。一瞬驚いた彼女も彼の腰に手を回してじっとされるままでいた。彼の心臓の鼓動が彼女に伝わった。真一は腕を解くと彼女の瞳をじっと見つめた。亜紀も見つめ返した。彼は彼女をゆっくり引き寄せると顔を近付けた。亜紀は目を閉じて彼のそれを待った。唇が触れ合うだけの長い口づけだった。息が苦しくなって真一の胸を押して離れた。二人は見つめ合って照れた。
これまで気丈夫に振る舞いながら、人知れず孤独感に苛まれていたが、彼の腕に抱かれて初めて安堵感を得た。この人こそ私が待っていた人だと実感した。
「時間がかかったけど、僕は君に会うためにここに来たような気がする。亜紀さんもまた僕に会うためにここに導かれたのだと思う」
「私も・・・」
亜紀の方から唇を寄せた。今度は彼女の方が積極的だっただけに情熱的なキスとなった。ぼーんぼーんと古時計が3時の刻を告げたが、彼らの耳に入らなかった。体を離すと亜紀が言った。
「私はあなたが建てる家の中に入って行くのね」
「いや、違う。僕らが建てる家に二人で入るんだ」
真一は話したいことがあるから座ろうと言った。
「亜紀さんが承諾してくれたから、僕達の将来について説明したい」
真一は長崎から帰る途中に考え抜いたことを彼女に話した。それを聞いて亜紀は瞠目して言った。
「私にはありがたいことだけれど、本当にそれでいいの?」
「君さえよければそうしたい」
「そんなことできるかしら?」
「加辺家の人達の了解をもらわないと何とも言えないが、真意を理解してくれたら多分大丈夫だと思う」
自信たっぷりな様子にそれは彼に任せることにした。
「次に僕の将来のことだけど・・・」
真一は同じく熟考した計画を彼が描いた絵を見せながら説明した。亜紀は聞いていて、そんなことが可能だろうかと思った。彼の考えが実現するのなら彼女にとっても申し分ないことだが、簡単に加辺の人達が了承するとは思えなかった。ところが、彼は説得する自信があるのか楽観的だった。
「まあ、これも了承が必要だけど、さっきの承諾が得られれば問題ないと思う」
「本当にそれが実現すればいいわね」
それじゃ、みんなが待ちくたびれているだろうから報告に行こうと立ち上がった。
「ここに来る前に、盛蔵さん達にプロポーズすることを告げたらみんなが応援してくれた」
「まあ、そんなことを・・・」
「みんなが亜紀さんの返事を待っている。耕造さんが大いに喜んでくれるだろう。中川達が知ったらどんな顔をするか。そうだ、家にも報告しないと。
実はここへ来る前に実家へ帰って親父とお袋にこのことを告げて了解をもらった。近いうちに両親と会って欲しい。もちろんその前に亜紀さんのお宅にお伺いして結婚の許しをいただくつもりだ」
思いもかけない彼からのプロポーズを承諾した途端、急激な展開に戸惑いつつはにかみながら、はいと答えた。
プロポーズを承諾したけれど、彼女にとって気がかりなことが一つあった。
「妹さんには話しましたの?」
「玻瑠香?いいや、今北海道の叔父の家へ遊びに行っているからまだ言ってはいない」
「いつ話しますの?」
「帰って来たら話そうと思っているけど」
「玻瑠香さんのことが心配なの」
「玻瑠香の?」
何故妹のことが気になるのかと問いたげな表情をした。
「こんなことを言うと、嫉妬して告げ口をするようで嫌なのだけれど、結婚することだから言います。誤解しないでね」
「何のことかわからないけどしないよ。君を信頼しているから」
それじゃと、亜紀は玻瑠香が前触れもなく訪ねて来たときのことを話した。
真一は黙って聴いた。玻瑠香が真一のことを実の兄ではないことを知っていると告げても、ある程度察しがついていたのか驚く様子は見せなかった。
「そうか、知っていたのか。1年ほど前から僕を見る目がおかしいとは思っていたが、それが原因か。だが、あいつの気持ちまでは思い至らなかった」
「玻瑠香さんを愛してはいないの?」
「もちろん愛しているよ。玻瑠香のためならできることは何でもしてやりたいとは思う。しかし、それは妹としてだよ。結婚をしたいと願うのは君だけだ。信じて欲しい」
「ごめんなさい。余計なことを言ったみたい。それで、玻瑠香さんをどうなさるの?」
「どうもしないさ。君にプロポーズしたことをはっきり告げて、これまで通りに接するよ。動揺して反発するだろうが、妹のことは僕に任せて。もし不安に思うんだったら、マンションから出して寮に入れてもいい」
「そこまで心が狭くないわ。あなたさえしっかりしていれば、私は大丈夫。ただ玻瑠香さんの気持ちを知っておいてもらいたかったの。心のケアも必要でしょうし」
義妹となる玻瑠香の動揺が気懸りだったが、ここは兄である真一に任せるしかなかった。
(三)
話を聞きつけた刈谷夫妻までがペンションの玄関前まで出て二人が来るのを今かいまかと待っていた。
互いを見合い、微笑みながら歩いて来る二人を見て、耕造は皺だらけの顔を綻ばせた。彼らの態度で事の成就は明らかだった。
真一は彼らの前まで来ると満面の笑顔で告げた。
「亜紀さんから結婚の承諾をもらいました。これまでみなさんにはご心配をおかけしました。耕造さんの応援と助言がなかったら、この日は迎えられませんでした。盛蔵さんに稲子さん、お気遣いありがとうございました。刈谷さんもありがとう」
真一と亜紀は彼らに向かって深々と頭を下げた。亜紀は上気して頬が桜色に染まっている。
「亜紀ちゃん、おめでとう。よかった。中々来なかったから心配したよ」
みなは彼女の手を取って口々に祝福した。
「お礼に曾孫を抱かせて上げられます」
真一が満面の笑みで冗談を言うと、ははは、それはいいとみんなが大笑した。亜紀だけが赤面して俯いた。
「そのお礼が一番じゃ。わしも年だから、なるべく早く頼む。それはともかく亜紀さんおめでとう」
「お義母さん、ごめんなさい。修一さん以外の人を好きになって」
稲子に向かい合うと詫びた。
「何言ってるのよ。他人じゃなし、修一のお兄さんと一緒になるのよ。私も嬉しいわ。おめでとう、亜紀ちゃん。幸せになるのよ」
稲子は亜紀の手を強く握って振った。
「これまで一人で大変だったね。私らは何もしてあげることができなかった。本当に申し訳なく思っている。成瀬さんには済まないが、息子の分まで亜紀ちゃんを幸せにして欲しい」
真一は、わかっていますと大きく応え、亜紀はそれまで堪えていた嬉し涙を流した。刈谷夫妻はにこやかに笑っていた。
今晩は二人のお祝いじゃと晴れやかな顔で耕造が宣言した。
「刈谷さん、お聞きの通りじゃ。今晩みんなでお祝いをするから美味しい料理を頼みます」
背後にいる刈谷に告げると、了解しましたと笑って片手を上げた。
「亜希子さん、勇樹君と亜沙子ちゃんも呼んであげて。一緒にお祝いをしましょう」
「ありがとうございます。いつも済みません」
「お祝いごとはみんなで分かち合わないと。今晩は帰さないぞ」
そう真一に釘を刺して盛蔵が満面の笑みを残した。
真一はありがとうございましたと、もう一度一人ひとりに握手して回った。それが終わるのを待って耕造がちょいと話があるからわしの部屋へ行こうと誘った。真一も相談したいことがあるから渡に船だった。
刈谷夫妻は夕食の用意があるからと厨房へ戻った。
構造の部屋に入り、お茶でもと亜紀が言ったのを遮り、みんなが座ると彼は旅行の話から始め、稲子に問い掛けた。
「稲子さん、亜紀さんが杏子さんとヨーロッパ旅行に行ったのはいつ頃だったかな?」
「成瀬さんが初めてうちに泊まりに来られる少し前だから、去年の春の終わり頃でしたわ」
「そうだったな。成瀬さん、その話は聞いているのかな?」
「はい、正月明けにマンションですき焼きをご馳走になったときに話してくれました」
「うん、それなら話が早い。死んだ孫から角膜をもらったことも亜紀さんがここへ来た経緯も知っているな」
「知っています」
「わしもじゃが、これらも亜紀さんのことを見誤っておってな、時間が経てばいずれ孫のことも吹っ切ってくれると思うていた。ところが、この娘は一途で孫のことをずっと忘れられずにいたんじゃ。いや、忘れてはいけないと思い詰めていたと言ってもいいじゃろう。もちろん、孫を愛していたこともあろうが、この人なりの感謝と
わしらだって、手をこまねいて見ていたわけじゃない。大事な娘さんをお預かりしている以上、何とかせねばと思っていた。それで、何度か見合いをさせたものの亜紀さんの心を変えさせることはできんかった。そこで見かねた稲子が、気分を変えて旅行でもしたら少しはいい方向に向くのではないかと無理やり海外旅行に行かせたと言う訳じゃ。ところが、それも駄目じゃった。それで、わしはこの二人を集めてこれから亜紀さんのことをどうするか話し合った」
盛蔵も稲子も黙って頷いた。
「わしだとて孫のことは忘れても亜紀さんのことを気に掛けない日は一日だってなかった。いずれ吹っ切る日も来るじゃろうと辛抱強く待って早4年も過ぎた。
わしらなりに色々手を尽くしてみたが、正直言ってもう打つ手がなかった。そこで、わしらは遠藤家に対して申し訳ない話だが、実家に戻そうと決めた。ただ、それを亜紀さんに告げる時期だけはわしに一任してくれた。ところが、ここにきてわしの我が儘が出てしまった。そのように決めた途端、亜紀さんを手放すのが惜しくなってしまったのじゃ。
亜紀さんがいなくなって、心の中にぽっかり穴が開いたようになるのが怖かった。今度はわしが整理をつけるために年内一杯の猶予を勝手に決めた」
耕造は亜紀をちらっと見てうんうんと一人頷いた。
「それが、去年の10月の始め頃じゃったか、稲子さんがわしのところへやって来て、亜紀さんを帰すのはしばらく待ってくれと言って来た。賢い人だから何か意図があるのじゃろうと訳は訊かなかった。それからしばらくして孫と瓜二つの男がペンションを新築することでやって来た。それで稲子さんの意図がはっきりと理解できた。あんたが現れたことで孫のことをふっ切ってくれるんじゃないかとの期待が否が応でもわしらの間で高まった。もちろん、密かな期待でもあったがな。
それからわしはあんたら二人をそれとなく見守って来た。ところが、何故かあんたはわしらと縁を切りたいような素振りを見せた。亜紀さんもどのようにしていいのかわからず、縁がなかったものとして諦めかけていた。そんなときに、あんたの病気があった。
亜紀さんは孫のことを思い重ねたのじゃろう、稲子さんに病院へ行くと連絡があったときには気が動転していたようじゃ。それがあんたの病気が軽いものだとわかって心から安堵していた。それで自分の気持ちがはっきりしたとわしに打ち明けてくれた。しかし、自分の気持ちはわかってもあんたの心を解すにはどうしていいかわからないとわしに訴えた。そこで、わしは原点に立ち戻るしかないと長崎行きを亜紀さんに勧めたと言うわけじゃ。そしてそれがあんた達を結びつける結果になった。
とまあ、長々と詰まらん話をしてしまったが、わしらは亜紀さんのことを孫の嫁でなく、娘や孫として接してきたつもりじゃ。ところが、この人は嫁以上どころか娘でもできないことをしてくれてわしらに尽くしてくれた。この人のお陰で、この家はどれほど救われたかしれん。本当にありがたいと感謝している。そのことをあんたに知ってもらいたかった」
これは年寄りの願いじゃがと耕造が断って続けた。
「あんたは、結婚は人生の通過点に過ぎないからそれからのことが大切だと教え子に言ったそうじゃが、本当にそうじゃと思う。これからが大切じゃ。
亜紀さんは苦労を知っているだけによき妻になるじゃろう。しかしな、それはいい夫がいてからこそだ。いわばそれぞれが写し鏡だとも言える。いいものは相手にもよく映るが、悪ければ自分にそれがそのまま跳ね返ってくる。それを忘れないで欲しい。
今はあんたの家族はご両親と妹さんだけじゃが、そこに亜紀さんが入ることになる。やがてあんた達の子供もそこに加わることになるじゃろう。あんたは長男だから全部の責任を負わなくてはならん。亜紀さんにも同じことが言える。それが結婚すると言うことじゃ。わかるな」
「はい、わかります」「わかります」
そうかそうかと皺だらけの顔を綻ばせた。
耕造の後を盛蔵が引き取った。
「二人の結婚が決まって本当に良かった。私らは早く息子のことは忘れて、誰かいい人を見つけてこの家を出て行って欲しいとずっと願っていた。しかし、私ら以上に幸せを願っていたのは、亜紀ちゃんのご両親だろう。不満も随分おありだったと思うが、亜紀ちゃんの近況を尋ねることはあっても、一度も私らを責めることはなかった。それが私らには辛かった。
それがこうして息子の兄である人と結ばれようとしている。このことがどれほど私らを喜ばせているか。成瀬さん、加辺家を代表してお願いします、どうか娘の亜紀を幸せにして欲しい。頼みます」
頭を下げる盛蔵と同じように稲子も合掌してお願いしますと深く低頭した。
亜紀は今更ながら彼らに愛されていると感謝した。後悔しかけたこともあったが、ここへ来て本当に良かったと思った。
「お約束します。どうか頭を挙げて下さい」
ありがとうと応えて耕造は再び話を続けた。
「今更言わなくてもいい話をして、亜紀さんには申し訳ないと思っている。弁解がましいが、少しでもわしらの真情を知っておいて欲しかった」
「お爺さん、お気持ちはわかっていましたわ」
亜紀は耕造の手を取った。
「お義父さんお義母さんのお気持ちも十分理解しているつもりです。それに応えられなくて心苦しく思っていました」
「でも、こうしていい人に出会えて本当によかったわ。私は亜紀ちゃんが成瀬さんを選んでくれて心底嬉しく思っているのよ。これは私の身勝手な思いでしょうけど、もし亜紀ちゃんがほかの人を好きになっていたら、こんなに素直に喜べなかった気がするの。修一の分まで幸せになるのよ。成瀬さん、亜紀ちゃんをよろしくお願いします」
稲子はまた深々と頭を下げた。
はいと二人は同時に応えた。そんな様子を見て、みんながよかったよかったを繰り返した。
会話がひと段落すると真一は形を改めた。その態度に何事かと耕造らは少し緊張した。
「みなさんに認めていただいたところで、少し気が早いですが、挙式の日取りと場所については、亜紀さんの実家へ挨拶に伺って、お許しを頂いてから改めてご相談したいと思います」
そうかいそうかいと耕造は顔を綻ばせた。
「これまで亜紀ちゃんを縛り付けていた訳じゃないけど、結果的に働きづめに働かせてしまって心苦しく思っていたの。この家を出て行くのは寂しいけど、亜紀ちゃんのためにもよかったわ」
真一は亜紀と顔を見合わせ、意味ありげに微笑み合うと、実はと切り出した。
「僕がこれからご相談したいのは、その件も含めて僕らの今後についてなのです。でもその前に、話は変わりますが、修一が亜紀さんとの結婚を意識していたのはご存じですね?」
盛蔵と稲子は顔を見合わせてから盛蔵が答えた。
「直接息子から聞いたことはないが、それは態度でわかっていた。私らも息子が望むようにしてやりたいと思っていたよ」
「前にも亜紀ちゃんには話したけど、たとえ目が不自由であっても修一が望むことなら叶えてやりたいと思っていたわ」
「結婚してそのあとどうするつもりでいたかもご存じでしたか?」
盛蔵と稲子はまた顔を見合わせた。双方とも知らないことは互いの表情でわかった。。
「それは、ここに住むとかそれとも就職先で生活すると言ったことかな?それは知らなかったが、どちらにしたところで息子の望むようにさせたと思う。いずれここに戻ると言っていたし、約束を破る子ではないことも親だけに知っていたから」
「弟はこちらに戻って、ここのどこかに事務所を構えるつもりだったようです」
盛蔵と稲子はまた顔を見合わせた。いつかここへ戻って来ると約束はしていたが、そこまで考えていたとは知らなかった。
「このことは弟が義晴君に話したのを亜紀さんが聞いています。具体的に何をするつもりだったかまでは知りませんが、それだけここを愛していたのでしょう。弟の真似をする訳ではありませんが、みなさんのお許しをいただければ、結婚後は僕の生活拠点をここに移したいと考えています。つまり、母屋のどこか空いている一室をお借りして同居したいのです」
盛蔵らは互いに顔を見合わせた。彼らはみな亜紀が結婚すれば、当然ここから出て行くことになると覚悟していた。だから真一の意外な申し出にすぐには返事ができなかった。
「と言うことは何か。あんたと亜紀さんがここに住んで、ここから大学へ通うと言うことか?」
内心の嬉しさを押し隠し半信半疑の面持ちで耕造が訊いた。
「そうです。と言っても、毎日通勤するには少し遠いですから、妹が卒業するまではこれまで通り今の所に住んで休日前にこちらへ帰ってくるつもりです。
修一のこともそうですが、亜紀さんのことを考えると住み慣れて環境も一番のここがいいと思いました。それに亜紀さんの性格からして、みなさんと離れるのは辛いだろうと思ったのです。と言うのは建前で、本音を明かせば、私自身この家とここの環境が好きなのです。いかがでしょう?」
冗談めかしての発言だったが、目は真剣だった。
彼らとて、真一がこの家を気に入り、ここの森や山を愛していることはこれまでの彼を見て承知していた。が、盛蔵が念のために訊いた。
「亜紀ちゃんがいて成瀬さんまでいてくれるのは、私らにしてみればありがたくて心強い話だが、成瀬さんはいいのかいそれで。亜紀ちゃんも本当にそれでいいのか?亜紀ちゃんはいずれここから出て行くものと覚悟していたから、私らに気を遣うことはないんだよ」
亜紀に代わってそれに真一が答えた。
「長崎から帰って来るときに考えた末に出した結論です。亜紀さんも喜んで賛成してくれています」
「亜紀ちゃん、本当にそれでいいの?成瀬さんと一緒になると言っても、ここにいる限りこれまで通り朝から晩まで忙しい毎日を送ることになるのよ。それもほとんど休みのない・・・」
思慮深い稲子らしく、押さえるべきことはちゃんと押さえた発言だった。
「私はどこに住んでもいいと思っていました。けれど、心の中ではここを離れるのが寂しかったの。それに家事をすることは苦になりません。ですから、このまま住まわせていただくことになれば嬉しいのです。私からもお願いします」
「成瀬さんもそれでいいのね?」
「二人で話し合って決めました。亜紀さんが多忙なのは知っています。一緒になれば負担が増えることも承知しています。ですから、私に出来ることがあれば手伝う積りです」
彼らに拒む理由などなかった。まして息子の兄で、信頼おける彼が一緒に住んでくれるのなら、息子が生き返ったようでこれ以上望むことはなかった。
ただと盛蔵が言った。何か反対でもあるのかといった風に稲子は夫をキッと睨んだ。慌てて手を振って続けた。
「いや、一応文蔵にも話しておかないと。後で変な勘ぐりでもされると嫌だからな」
文蔵とは義父の弟で、陽菜子と義晴の父だと亜紀が真一の耳元で説明した。
「盛蔵、そんなことは心配せんでいい。わしから話す」
「それならそれは爺さんに任せるとして、一緒に住んでくれるのはありがたいが、この通りずいぶん昔に改造しただけだから若夫婦が住みよいとは言えないよ」
それを聞いて真一はにっこりした。
「そこでご相談ですが、以前稲子さんが希望しておられたリフォームをこの際検討されたら如何でしょうか。もちろん、その時は相談に乗りますし設計もさせていただきます。住まわせていただけるなら、私達も応分の負担をするつもりです」
盛蔵はいやいやそれはと手を振った。
「一緒に住んでくれるのだから、それは当然私らの方で何とかするが・・・。爺さん、どうする?昔改築したのは爺さんだから爺さんの意見を訊かないと」
耕造は何を今更と一笑に伏した。
「代替わりしたことだから、わしのことはいい。お前が決めろ」
盛蔵は稲子を見た。無論彼女に異論はなく、そうしましょうよと応じた。
「それではこの機会にリフォームするか。時期については結婚式もあることだから、改めて相談するとして二人の部屋をどうするかな。亜紀さんのいる部屋は手狭だから別の部屋にて改装するか」
何を馬鹿なと耕造は一蹴した。
「お前らの近くじゃ若夫婦も気詰まりじゃろう。そんなことをしなくとも離れを改造したらどうじゃ」
ああそうか離れがあったかと盛蔵は膝を打った。
「ずっとあそこには行っていないから忘れていた。だが爺さん、いいのか?」
「何がじゃ?」
「婆さんとの思い出があるんだろう?」
「あれから何年経っていると思っているんじゃ。わし自身何年もあそこには入っておらん」
「それなら成瀬さん、どうだろう。爺さんが言うように、あそこなら二間あるから二人の好きなように改装すれば住みやすくなると思うが」
「耕造さんに申し訳ないですが、貸していただけるなら申し分ありません。母屋の改装もなるべくお金をかけず、旧家の趣を損なわないようにします」
「もしかしたら、離れを借りることを決めていて、母屋のリフォームの形もあなたの頭の中に絵ができ上がっているんじゃないの?」
そう亜紀が揶揄すると真一は臆面もなく、実はそうだと肯首した。
「耕造さんが言い出してくれなかったら、僕の方からお願いするつもりでした。ちゃんと家賃は払います」
あなたには敵わないと亜紀が言ってみんなも大笑した。
それからと真一は口調を改めた。
「これからの相談も皆さんの了承が必要なのです」
まだ何かあるのかと真一を注視した中で盛蔵は腕時計をちらりと見た。
「もし、時間がなければ後日にしますが」
「いや何、お客さんの迎えがあるが、まだ時間はある。それで相談とは何だろう?」
「はい。聞けば亜紀さんのお父さんは来年定年を迎えるそうです。それで退職した暁には、この敷地のどこかに移動が簡単なトレーラハウスを置かせていただいて、ご両親をこちらへお迎えできればと思うのです。そのとき僕の両親も一緒にどうかと。そうなれば、僕も亜紀さんも安心です。厚かましく突然の話で申し訳ありませんが、ご検討いただけませんでしょうか?」
「と言うことは何か、三家族がここで一緒に暮らすということか?」
目を丸くしたまま耕造が訊いた。
「正確には僕と亜紀さんの世帯がありますから、四世帯がそうなります。当然ですが、生計は別々です。でも何かの冠婚葬祭や相談事あるいは雑談をするときなどは一同に会したり、個別に会ったり、時には食事を共にすることもあるでしょう。その辺はあまり堅苦しく考えずに基本的なルールを定めて臨機応変に対応すればいいんじゃないかと思っています」
「そのように言い出すことは、ご両親のどこか具合が悪いということか?」
「いえ、亜紀さんのところはわかりませんが、私の両親は田辺で二人だけで住んでいます。本来ならば長男の私が帰って面倒を見なければなりませんが、ご承知の通りこちらで職を得ています。妹がいますが、妹も戻るつもりはないと言っています。今はいいですが、これから年老いた親をあそこに残しておくのが心配なのです。勝手な言いようとは承知していますが、もしお許しがいただければ安心なのです」
彼の理由を聞いて、加辺家の者はうーんと考え込んでしまった。
盛蔵と稲子の視線が耕造に集まった。彼がまだこの土地と建物の所有者になっていたからだ。耕造はそんなみんなの目を見た。
「おい、わしが決めるのか?いいのかわしが返事しても?」
「決められるのは爺さんしかいないだろう」
耕造は盛蔵夫婦に下駄を預けられて心底困惑した。二人が同居してくれるのは大歓迎だ。だが、彼らの両親までとなると話は別だ。その一方で一緒に住もうと言ってくれている彼の望みを叶えてやりたいとも思った。
「何だな、そのトレーラー何とかというのはどんなものかな?近頃流行っているキャンピングカーみたいなものか?」
「いいえ、違います。炊事場やベッドがあるところは同じですが、より本格的なものです。簡単に言えば、小さな住宅がそのまま車に載っていると思っていただければ間違いないです。間取りは自由になりませんが、台所やベッド、家具それにトイレにお風呂までありますから、夫婦二人でしたら十分です。費用も同じ規模の住宅の半分以下で済みますから経済的ですし固定資産税もかかりません。いつでも移動ができますから後々ご迷惑をかけることもないと思います。レンタルもありますから不要になればいつでも撤去できます。
今結論を出さないといけない訳でもありませんから、じっくりと考えて下さればいいのですが」
「うん、そうしてもいいが・・・。ところで、いつ亜紀さんのお宅へ伺うつもりじゃ?」
「ご両親の都合がよければ今週の土曜日にお伺いしようと思っています。その後、私の両親に亜紀さんを紹介します」
「うーん、それだとあまり時間がないな。そうだな、何日も考えても同じだから、わしらだけで相談させてくれるか」
耕造がそう断ると、盛蔵と稲子を脇に呼んだ。
真一は離れを見てきますと亜紀を誘って部屋を出た。
離れに入り部屋のリフォーム構想を亜紀に説明していると、彼女の携帯に結論が出たとの連絡が入った。
「成瀬さん、相談して決めたよ。ご両親が望むなら置いてもらっても構わない」
真一が礼を述べる前に耕造が、じゃがなと続けた。
「考えてみりゃうちには使われていない部屋がいつくもある。多少手を入れにゃならんかもしれんが、それでよければ幾部屋でも提供しようと思う。高い金を遣ってトレーラー何とかを借りるよりは、その方がご両親にとってもいいんじゃないかな。
誤解してもらっては困るが、土地を貸すのが嫌だと言っているのではない。親戚になることだしあまり難しいことは考えずに、好きな時に好きなだけ母屋に滞在するようにしてはどうかな。気兼ねや気詰まりがないように光熱費とか食事代なんかどうするかはあんたが考えて決めてくれたらいい。それでどうじゃ」
どう返事をするのかと亜紀は真一を窺った。
「それも考えではなかったのですが、一つ家に住むとなると互いの生活が混在しますし、一歩間違えば気まずいことが起きないとは言い切れません。それ位なら、独立した関係の方がいいと思ったのですが」
耕造はそれを一笑に伏した。
「あんたらしくもない。策士策に溺れるの口じゃな。お互い分別のある大人だからそんなことにはならんと思う。万が一そうなったらそうなったでほとぼりが冷める迄、元の家に戻っていれば済むことじゃ。そうじゃな、まあ試しに1、2ヶ月くらい住んでみたらどうじゃろう。そうすれば様子もわかると思う。何とかハウスを借りるのはそれからでもいいんじゃないか」
もっともな意見に真一は同意した。
「その線で話してみます。どうなるかわかりませんが、無理をきいて下さって感謝します」
真一が頭を下げる横で亜紀は両手を胸に当てた。彼のプロポーズを承諾しただけで、夫となる人の手で自分の周りが大きく変わろうとしていることに感動さえ覚えた。
「このことは亜紀さんのご両親に結婚の許しにお伺いするおりに説明します」
うんうんと耕造は満足そうに頷いた。
「それにしても、あんたはすごいことを考えるもんじゃな。死んだ孫のことを引き合いに出すのも何じゃが、修一ではそこまで思い至らなかったじゃろう」
「それに耕造さん」
悪戯っぽい表情をした。
「僕らにとっても、いいことがあります」
「まだ何かあるのか?」
これ以上何があるのだろうと真一を見た。
「将来僕らに子供が何人できたとしても、育児の経験のあるお爺さんやお婆さんが大勢いるのは心強いですよ」
真一はにっと笑い、亜紀の頬が真っ赤になった。
「あ、そうか。違いない。それなら亜紀さんに大勢産んでもらわないと孫や曾孫の取り合いになるじゃろうな。あはは」
亜紀を見て全員が大笑した。彼女だけがますます赤くなって俯いた。
「最後にもう一つ。盛蔵さん、新しいペンションが建ったら現在のペンションはどうなさいますか?」
「どうするとは、取り壊すとか何か別な物に利用するとかいったことかな?」
「はい、そうです」
「いや、今のところ何も考えていない。お前、何か考えているか?」
稲子のことだから有効利用を考えているかも知れんと思い訊いた。
「なにも。喫茶店かレストランにするくらいしか思いつかないけど、この辺は住宅地でもないし幹線道路からも離れているからあまりお客さんも呼び込めないと思うわ」
「そうだろうなぁ。まあ、しばらくは物置き代わりにでもしておいて、いずれは取り壊すことになるかな。しかし、そんなことを言うからには成瀬さんの方で何か腹案でもあるのかい?」
真一は我が意を得たとばかりに、はいと答えた。
「これは僕個人の計画ですが、いずれ大学を辞めてここに来たいと思っています」
「なに、大学を辞めるのか?」
耕造の驚きと口ぶりはそれは惜しいと言っていた。意外なことばかりを聞く日だが、これは極めつきだ。
「はい、そうです。学生を教えて指導するのは嫌いではないのですが、私の研究は大学にいなくても出来ますから、結婚を期に自分がしたいことをするつもりです。具体的な時期までは決めていませんが、それほど遠い将来ではないつもりです。それで、空き家となる今のペンションを改装して建築設計事務所を立ち上げたいのです。そのときはもちろん地代家賃を支払いますが、その前に盛蔵さんにご了解をいただかなくてはなりません。これも急ぐことではありませんが、ご検討いただければと」
「建築事務所をここで?」
盛蔵は腕を組んで考え込んだ。耕造はペンションのことは息子夫婦のことと我れ関知せずの態度だった。
彼が実質的にここに生活基盤を置くことは、彼が言うようにここが好きなことや亜紀のこともあるだろうが、修一のことを念頭に置いていることは間違いないだろう。となると彼はここで骨を埋めるつもりかも知れん。それなら将来に対して懸案となっている例のことをいずれ彼と話し合おうと盛蔵は思った。
盛蔵は稲子と顔を見合わせ、取り壊すくらいならと彼の要請を承諾した。
耕造はぴしゃりと膝を叩いた。
「それで決まりじゃ。亜紀さんと成瀬さんが結婚することになって、しかも亜紀さんがここに住んでくれると言う。今日は嬉しい話ばかりじゃ。今晩はお祝いだからついでに亜紀さんの婚約者を紹介しがてら文蔵の家族も呼ぼう」
「陽菜子と義晴がびっくりするわよ。亜紀ちゃん、お祝いは床の間でするから、成瀬さんが寝る部屋をどこか用意してあげて」
「わかりました」
「世話をかけます」
「何を他人行儀な。まあ、何にしてもめでたしめでたしだな」
耕造がそう結論をつけて、みんなは上機嫌で耕造の部屋を後にした。
「ええっ!本当なの、亜紀」
美智子の声が裏返った。
珍しく娘の方から夜遅くに電話があって、互いの近況を報告しあっていたのだが、亜紀が口調を改めて結婚したい人がいると母に告げたのだ。
「それで、どんな人なの。何している人、優しい人、名前は、年は?」
寝耳の水の報告に受話器を持ち直すと勢い込んで矢継ぎ早やに訊いた。
「おい、どうした?」と和雄は妻のただならぬ様子にベッドから体を起こした。美智子は送話口を押さえて、振り向きながら夫に言った。
「亜紀が結婚したい人がいるって」
「そりゃ本当か。ちょっと、電話を替れ」
美智子は夫を無視して続けた。
「今度、その人を連れてらっしゃい。・・・え、そう。今週の土曜日に挨拶に見えるのね。うん、わかった。ちゃんとおもてなしができるようにして待っているわ。来るときにまた電話ちょうだいね」
後ろで夫が控えているにもかかわらず、心ここにあらずと言った感じで電話を切ってしまった。
「おい、電話を切ったのか。代われと言っただろう」
「土曜日にその人を連れて来るんですって。亜紀も水臭いわ。そんな人がいるならいると言ってくれないと。あら、どんな人か訊くのを忘れたわ。どんな人かしら。どうしよう、何を着たらいいのかしら。何を用意したらいいの、困ったわ。あっそうだわ、美容院へも行かないと」
美智子はどんな人かしらとそわそわうろうろして夫の声にも上の空だった。
亜紀はわざと連れて行く相手が修一の兄だとは母にも告げなかった。
その夜、美智子は興奮してなかなか寝付けなかった。
(5年あまりも変えられなかった娘の気持ちを改めさせた相手はどんな人だろう。明日にでも稲子さんに訊いてみようかしら。いえ、何も知らずに迎えた方が先入観なく冷静に相手を見られるかもしれない。
そう言えば、お正月に行ったときに、お爺さんがひょっとしたら、亜紀の心が今年の内に溶けるかもしれないと意味深長なことを仰っていた。お盆に伺った時には、まあまあと笑って答えてくれなかったけど、今にして思えばそのときに気付くべきだった。自分の鈍感さが口惜しい。
新しいペンションを建てるとかで若い人が出入りしていたけれど、稲子さんの話では、去年の夏に泊まりに来た縁で、大学の先生の指導で学生さん達が設計して監理もしているのだとか。今どき姉さん女房も珍しくないから、その中の学生さんと恋仲になったのかしら。それとも大工さんの誰かかしら。もっと注意して見ておくんだったわ)
それから、これまでのことが走馬灯のように次々と思い出された。
あの日の夕方、夕食の支度をしていたときに和人から電話があった。息子は興奮していて何を騒いでいるのか要領を得なかった。電話の相手が代わって説明してくれたことには、堤防で子供達二人乗りの自転車が自分の自転車と接触しそうになって、反対側へフラフラと行った息子の自転車がそのまま堤防の斜面に投げ出され、その人が救急車を呼んでくれた。幸い息子に怪我はなく、娘だけが手当を受けて、今は鎮静剤を打たれて眠っているということだった。病院をその人から聞くと夫に知らせた。夫もすぐに駆けつけると言って電話を切った。
病室には搬送してくれた若い男と息子が椅子に座っていた。その人に礼を言ってベッドで横になっている娘の様子を見ると、目に包帯を巻いている以外は、これといった外傷はないようでほっとした。和人は私を見て安心したのか涙を一気に出してわんわん泣き出した。
夫が駆けつけ、娘を見て落ち着いてから、改めて助けてくれた彼に夫婦で礼を言った。その人から改めて詳しく状況を聞いたけれど、それは後で息子から聞いたことと矛盾するところはなかった。説明が終ると、また来ますと言い残して彼は出て行った。翌日もお見舞いに来てくれた。本当に親切ないい人でよかった。
私達は事故の状況と娘の様子からそれほど深刻に考えていなかった。けれど、2日間の精密検査が終って、娘の眼が再び光を感じることがないだろうと別室で医者から告げられたときは、奈落の底に突き落とされたほどの衝撃だった。それこそ目の前が真っ暗になった。
その後の半年は針のむしろに座った気分だった。
娘は失明のショックで人に会うことも学校へ行くことも拒否した。児童相談所から派遣された人に盲人学校への入学を勧められても首を縦に振ることはなかった。それはそうだ。私達でさえ失明の事実を受け入れ難かった。まして年端のいかない娘なら当然のことだ。口達者だった息子も責任を感じて口数少なくなった。
その日から私達の家庭は一変した。それまで、おてんばで明るい娘の声が絶えずしていたし、和人も元気に遊びまわっていた。それが娘中心の重くて暗い生活に変わってしまった。娘の失明は彼女の光ばかりか、私達から笑顔と団欒を奪い去ってしまった。私も夫もどのように受け止め接していいのかわからず、ただおろおろするばかりだった。
娘一人だけではトイレに立つことも着替えることもままならないから、退院したその日から1階の和室で私と寝起きを共にするようになった。そんな生活に苛立ちが募り、娘は私達に辛く当った。もともと甘える子ではなかったが、それが我儘放題となった。それでも娘が不憫でそれを受け入れざるを得なかった。それが娘を増長させた。
当初は食事さえ摂ろうとしなかった。自分で思うように物が取れないから、すぐに癇癪を起して箸を投げ出し食事を拒否した。しようがないから、パンや果物、コーンフレーク、ヨーグルトなど簡単なもので急場を凌ぐしかなかった。たちまち娘は痩せ衰えた。それに加えて物に当たったり
亜紀の体調も心配だったが、困ったのは精神面のケアだった。娘は失明の現実を中々受け入れようとしなかった。自分の眼が良くならないのは、いい医者を見つけ出せない私達が悪いのだと言って
気分転換にと何度も買い物に誘ったが、人に見られるのが嫌だと言って、病院へ行く以外は外出しようとしなかった。
夫と息子は仕事と学校で日中はいない。
精神的に追いつめられ、些細なことで夫にあたるようになった。自分でもわかっているのだけれど、感情を抑えられずついつい口に出てしまった。それでも夫は私の苦労を間近で見ていて、辛抱強く我慢をしてくれた。夫の忍耐と息子の献身がなければ、私だってどうなっていたかわからない。
私を影で支え救ってくれたのが息子だった。和人は妹の失明が自分の責任と考えているのか、学校から戻ると真っ先に亜紀の世話をしてくれた。もともと面倒見のいい性格で妹の我儘にも根気よく付き合った。
やがて娘も兄にはあまり我儘は言わなくなった。和人の学校がないときは一日中妹をかまってくれた。私が一緒だと嫌がる外出も散歩程度であれば、和人だと時々するようになった。娘が息子と一緒にいる時だけが私にとって息抜きのできる唯一の時間だった。そんな時は外出して一週間分の買い出しをしたり、家の用事を済ませたりしていい気分転換になった。その一方で息子は遊びたい盛りの青春時代を妹のために犠牲にした。私は息子に心の中で謝りながら感謝した。
4月あまりすると、ようやく亜紀も現実を受け入れるようになったのか、自分のことは自分でやろうとする姿勢が見られるようになった。これは和人の励ましによることが多かった。私だけではそこまでの改善は見られなかったかもしれない。本当に嬉しかった。
そんな状況を更に好転させたのは、たまたま娘がラジオで聴いていたヘレンケラー物語だった。彼女の三重苦を思えば自分の視覚障害など苦しみのうちに入らないと気付かされ、彼女の積極的な生活態度にも驚かされ励まされたのだ。そのことを息子が私達に教えてくれた。
娘が盲学校へ行きたいと言い出した時は、娘の心境の変化に手放しで喜んだ。夫は娘が心変わりしないうちにとすぐに休暇を取り、一緒に盲学校へ相談に行った。
事前に連絡をとっていたので、校長先生から詳しく話を聞くことができた。学園生活や進路の説明の後、校長先生自ら校内を案内してくれた。
教室での授業風景、体育館の運動の状況などを見学して、生徒が普通の子供と変わらぬ活動に私達は驚き、安心して任せられると判断した。通学が難しければ寄宿舎もあると言われ、そこも見せてもらった。
清潔な内部を見て私達は増々安堵した。私達の唯一の不安は通学にあったのだが、その懸念もこれで払拭した。夫や息子には言えないが、私の辛抱も限界に来ていたので、ほっとしたと言うのが正直な気持ちだった。
その後、入学の手続きなどを打ち合わせたけれど、来年度からの入学の方がいいだろうと言われそのようにした。それまでの期間に歩行訓練と日常生活の改善に努めるよう助言された。校長先生の勧めで日を改めて娘を連れて再訪した。
翌春から娘は一年遅れの四年生の寄宿生として入学した。それからは、夫と私は学校行事があるときは、何をおいても駆けつけた。もともと何事にも積極的な娘ではあったが、日ごとに元気を取り戻す様子を見て、嬉し涙が止まらなかった。学校と先生方には感謝しきれない思いだった。それに娘がふとしたことで私に気遣いを見せるようになったことも嬉しかった。
和人は休みの前日になると放課後に妹を迎えに行き、自宅で家族と過ごした後、ちゃんと送り届けてくれた。これを娘が高等部普通科を卒業するまで続けてくれた。
紹介されるまでは知らなかったけれど、娘が中学部に進んだ時には息子に杏子という恋人がいた。でも休日に彼女とゆっくりデートする時間はなかったに違いない。
盲学校でも体育祭のような学校行事が催され、私達が行けなかった時などは、それがデート場所となったと後で息子から聞かされた。杏子には申し訳なかったと思う。息子と結婚する時には、長い間よく我慢をして息子を支えてくれたと夫婦で心から感謝した。
娘は早くから杏子を和人から紹介されていたとこれも後で知った。加辺家へ初めて訪問したおりに初めて杏子を紹介されたのだが、彼女は快活でよく話しよく笑いよく歌いかつよく食べた。本当に向日葵のように明るい娘だった。年の近い亜紀を自分の妹のように接してくれて、彼女といると娘も退屈しないようだった。彼女の闊達な性格に私達夫婦も精神的に救われた。
帰省するたびに元気になっている娘を見ていると、それまで神を呪っていたものが感謝している自分に気が付いた。あの半年の地獄はこの状態になるまでに乗り越えなければならない試練だったのだろう。娘が中等部に入る頃にはようやく我が家にも笑い声が戻って来た。高等部を卒業した後どうなるのだろうとの不安はもちろんあった。
夫も私も娘の幸せな結婚生活は望めないだろうと諦めていた。娘の人生は兄が助けてくれるだろうが、何とか自立してやっていけるようにと思うのが親心だ。夫と相談して娘のために少しずつだが貯金をした。息子が大学を卒業するときには、全財産をといっても家と土地くらいしかないけれど、これを亜紀に相続させると告げた。妹思いの息子はそれを素直に受け入れてくれた。息子に申し訳ない気持ちで一杯だった。私達はできのいい息子を持って幸せだとつくづく感謝した。
娘の就職先は高等部を卒業してもすぐに見つからなかった。けれども、常と変わらぬ様子を見て安堵し、気丈な子だと感心させられた。不幸なでき事がそうさせたのか精神力は私よりも強くなったと思った。
夫のお陰でうまく図書館に就職ができた時には、親子ともども飛び上がって喜んだ。そうしているうちに、いつ創作活動をしていたのか知らなかったけれど、娘の書いた童話を出版したいと言って来る人がいた。何部売れたのか知らないが、忘れたころに出版社から連絡が来て、印税が娘名義の口座に振り込まれていた。私達が少しずつ溜めこんできたのとは比較にならない金額を見て、目が点になるほどに驚いた。聞けば増刷されるごとに振り込まれると言う。もしかしたら自立してやっていけるのかもしれないと期待した。
印税のことを娘に告げたけれど、もともとお金に執着がないのか驚きも喜びもしなかった。そういえば、娘から積極的に服を買いたいとか靴を揃えたいとか言われたことがなかった。若い娘だけに外出するときはそれなりの化粧と服装をするが、着飾るといったことが皆無だった。母親の私から見ればいくら目が不自由とはいえもう少しおしゃれをしてもと物足りないぐらいに思ったものだ。
彼との運命的な出会いがあったのは川越中央図書館から教育委員会へ場所が移った頃だった。
娘に男の人と森林公園へ行くと告げられた時は、びっくりすると同時に心配になった。娘からその人と知り合った状況を聞きだしたが、目が見えないことをいいことに何かの目的で近づいたのではないかと不安が募った。普通の男なら目の見えない娘に目的もなく接近するはずがないと思った。それに、何も知らない健常者が亜紀のような視覚障害者とうまく付き合えるのかとの危惧も抱いた。夫も同様な疑念を持っていたが、引っ込みがちな娘が行く気になっているのを押し留める方が、娘にとってよくない結果をもたらすのではないかとの懸念の方が強かった。結局、息子を同行させることで折り合いをつけて送り出した。
当日、私達は一日落ち着かなかった。どんな人で何の話をしているのか、家にいてどうしようもないことを知っていたが、それでも気になった。何度も電話をしようかと思ったけれど、息子が同行しているのだからとその都度思い留まった。帰宅前に息子からの電話で、あの人なら亜紀も心配ない、家に連れて行くから夕食の準備をしておいてくれとの連絡があった。
日暮れ前に彼が亜紀を送り届けて来た。なるほど息子が言うように好青年のようで印象は悪くなかった。礼儀正しく紳士的だった。
夕食を共にしながら、亜紀との出会いや彼の家族、職業のことをさりげなく訊いた。応答する態度は夫も感心するほど誠実だった。彼が帰る頃には、猫を被っているのではないかとの疑念も解消し、彼なら娘を任せても私達を心配させるようなことはないだろうとの心証を得た。事実、その後何度も娘を送り出したが、一度も私達の信頼を裏切ることはなかった。
こちらの都合もあって毎回とは行かなかったが、夕食を共にすることが多くなった。
私達家族は彼とすっかり打ち解け、付き合いも深まった。娘に対する彼の思いやりある態度に作意は感じられず、彼の人となりも十分把握することができた。私達は全面的に彼に信頼を置くようになった。
彼と付き合いだして、亜紀も日ごとに娘らしくなった。それまであまり関心を持たなかった服装や化粧にも気を配るようになった。いつの間にか亜紀の着る服も洗練されたものになっていた。私は知らなかったが、杏子が亜紀の買い物に付き合って選んでくれていた。化粧だけは私が点検して送り出した。
彼の誘いで彼の実家を訪問したことがあった。彼の厚意に甘えてもいいのだろうかとの逡巡はあったが、彼がどのような家族と環境の中で育ったのか知りくもあった。
家族揃っての旅行は何年振りのことだろうか。行って良かったと思う。息子の嫁となった杏子に初めてそのときに紹介されたし、彼の家族は客商売をしているせいか、私達に気を使わせるようなことはなかった。多忙であまり話すことはできなかったけれど、彼らの気心も知って心から寛ぐことができた。
最初の夜の食事のとき、彼の母親がさりげなく娘を観察していることに気が付いた。彼が母親にどのように娘のことを伝えているのか知らないが、息子が付き合っている娘を見てどのように思っているのか気になった。
彼と接する回数が増えるにつれ娘に好意以上のものを抱いていることが彼の態度でわかってきた。
心の中ではあり得ないと否定しつつ、いつしか彼が娘と一緒になってくれたらと願うようになった。夫も口には出さないが、同じ気持ちだっただろう。一方、娘は彼に信頼を寄せていることは間違いがないものの、心の中までは母親の私でさえ掴めなかった。頃合いを見て、娘に質そうと思っていた矢先彼が亡くなってしまった。
あれを驚天動地というのだろう。和人から彼の命が短いと知らされた時は、娘のことを思って目の前が真っ暗になった。
娘に知られないように、こっそりお見舞いに行ったが、そこには骸骨のように痩せこけた彼がベッドで横になっていた。苦しいに違いないだろうが、会っている間は気丈にもそのような素振りを見せなかった。しかも娘には病気のことを黙っているように頼むばかりだった。余命幾ばくもない病身になっても娘のことを想いやる彼に深く感謝しつつ、何もしてあげられないことに申し訳なく、娘のことを想うと涙が止まらなかった。
病院から帰る途中、彼が亡くなった後、娘はどうなるのだろうかと思うと、
ある夜突然、彼の両親が訊ねてきて、彼の願い通りに角膜を娘に提供したいとの申し出があった。その時は驚きながらも正直嬉しかった。彼の愛の深さを改めて思い知らされた。
娘の眼が光を取り戻しても、直ぐには家の中は好転しなかった。娘が再び家に閉じ籠って外に出ようとしないから振り出しに戻ったような気がした。
部屋の中にいても何するでもなく、口数も少なくなり、泣いているかぼんやりしているかのどちらかで無気力状態だった。買い物や映画、旅行に誘っても娘はうんと言わなかった。余程彼の死がショックだったのだろう。それを理解していても、どうしてやることもできなかった。セラピストにも診せ相談もしたが、改善する兆しはなかった。私達には解決する手立てがなく、時間だけがそれを解決する方法としか残されていなかった。
娘の精神面もさることながら、食が細くなり痩せ細っていくことが心配だった。それが何を思ったのか、料理学校へ通いたいと言い出した時は、ようやく社会に出る気になったのかと嬉しかった。家事も進んで手伝うようになり、表情も明るくなった。顔色も精気を取り戻してよくなった。娘があんな決意をしていたことも知らずに私達は単純に娘の変化を喜んだ。
息子の結納が終った日に、娘が加辺へ行きたいと言い出した時には、開いた口が閉まらなかった。私達は翻意を促したが娘の気持ちを変えることはできなかった。泣く泣く送り出したのが昨日のようだ。
娘のことを思うと心配で不憫で可哀想で仕方なかった。何度か加辺の家に訪問したときに、娘の元気にしている様子に安堵したが、将来のことを思うと心配だった。一向に彼のことを吹っ切った様子はなく、こちらへ戻って来る気配もなかった。その娘が結婚したい人を連れて来ると言う。娘の気持ちを変えたのはどんな人だろう。
美智子がその夜眠りついたのは明け方だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます