第六章 二人の間(二)
(一)
稲子は帰宅すると、耕造の部屋で夫と舅に事の次第を報告した。耕造は彼女の話に興奮した。
「それはでかした。稲子さんがそう判断したのなら間違いなかろう。稲子さんがわざわざ行っただけのことはある。彼の気持ちを確認できただけでも不首尾なことはない」
「それだけがやっとだったわ」
「いやいやそんなことはない。 二人の気持ちがわかったからにゃ、後はどうやって二人を結びつけるかじゃ。時間はないぞ。しかし何じゃな。亜紀さんのことを好きなくせして、それほどまでに意固地になっているとは難儀じゃな。理由もなしにそんな風にならんと思うが、さてどうしたものか」
わしの思い違いだったかなと思いつつ、目を瞑り腕を組んで思案顔になった。盛蔵も稲子もその様子を見ているだけで、彼らにもこれと言ったいい手立てが思いつかなかった。4月にも彼がいなくなるかもしれないとの事実が足枷となって重い空気が3人を包んだ。
「息子のことに拘っているのかな?」
盛蔵がぽつりと言った。稲子はそれはないと即座に否定した。そんな彼女を耕造はまじまじと見た。
「亜紀ちゃんと修一には夫婦生活がなかったことを知っているから」
稲子は夫に見詰められて、亜紀が真一に修一とのことを話したと弁解した。
「だとしたら何が原因だと思う?」
盛蔵には彼の行動に、思い当たる理由が皆目見当もつかなかった。
「私にもわからないから、こうして相談しているのよ」
「しかしな、稲子さん。彼と話をしていて何か気付いたことはないのか?」
耕造に言われて、そうねぇと稲子は空を睨んで考え込んでいたが、ああと顔を二人に戻した。
「何か思い出したか?」
「いえ、思い出したと言うより、成瀬さんが妙なことを言ったのよ」
「ほう、それは何じゃな?」
耕造は炬燵に腕を入れたまま身を乗り出した。もし稲子が思うように、孫とのことと無関係なら、彼としてはどんな手がかりでも欲しかった。
「亜紀ちゃんとの付き合いを断るときに、みんなが思っているほど立派な人間じゃないとか、そんな資格がないとか言うのよ。そのときは断るための方便かと思って深く考えなかったけど、今にして思うと何か変だわね。本当に嫌だったら、そんな持って回った言い方はしないで、単に結婚の相手までは考えていないと断ればいいもの」
「ふーん、付き合いをする資格か・・・。なるほどな、確かに妙だな。しかし、それはどう言うことかな?」
耕造はあの時、亜紀にああ言ったものの、やはり思い違いをしていたのかもしれんと思った。盛蔵も腕を組んで考えていたが、腕を解くと突飛なことを言い出した。
「あれかな、人には言えないような悪いことをしたとか、あるいは前科があるとか」
何を馬鹿なことをと、稲子はあきれ顔で否定した。
「もしそうなら大学の先生にはなれやしないわよ。第一、スーパーゼネコンと言われる大会社に就職なんてできないわ」
「それもそうだな」
盛蔵はあっさり発言を撤回した。
それまで思案していた耕造が言った。
「まあ何だ。焦って無理をしたら元の木阿弥になるやもしれん。二人の気持ちが確かめられた以上、ここは慎重に2段構えで行こう」
「2段構えって?」
「さっき言ったことと矛盾するが、時間が限られているから悠長に構えているわけにはいかん。先ずはできる限り彼を亜紀さんに引き合わせる手立てを講じよう」
盛蔵と稲子は耕造がそう言うからには何かいい考えがあるのだろうと耳を傾けた。
「わしらがいくら躍起になっても、彼がその気にならない限りそれは無理じゃろう。かと言って、今のまま放っておいたら進展しないことは目に見えとる。何かそれらしい理由を設けて、亜紀さんに彼のところへ行ってもらったり、彼に来てもらったりしているうちに縁となるかもしれん。消極的な策だが、わしは機会さえ与えれば亜紀さん自身が何とかすると思う。それができる子じゃよ」
うんうんと一人頷いた。
「いい考えだと思うけど、私達と距離を置きたそうな人が素直に来てくれるかしら。お風呂の件はすんなり引き受けてくれたけど、あれ以上迫れば、それも撤回して私達との縁まで切りそうな雰囲気だったわ」
耕造が話すようには、うまく行かないのではと思った。
「とにかく、これからは何とでも理由をつけてここに来させよう。いいな」
「わかったわ、そうしましょう。呼び寄せる手立てはあなたにお任せするわ。頼んだわよ」
稲子が夫の手の甲を軽く二度と叩いた。
「何か理由を考えておくよ」
「稲子さんがそこまで動いてくれたんだから、今度はわしが一度話してみよう」
耕造は自分の体に自信が持てなくなっていた。これまでならば体に多少の無理はきいたのが、この半年くらいからたびたび変調を感じるようになった。そのことは誰にも言っていないが、長年付き合ってきた体だけにその自覚があった。そのこともあって、自分が元気なうちに何とかしたいと、これを機会に積極的に動いてみようと考えた。
「お願いしますわ。お義父さんになら成瀬さんも鼻を木で括るような真似はできないと思います」
夫だと心許ないが、舅が動いてくれれば心強い。
「それで、もう一つの策は?」
「 それはな、彼の身辺を探るんじゃ。いわゆる身辺調査と言うやつじゃな。それでひょっとしたら、それで資格がない云々も何かわかるかもしれん。それがわからんことには対処のしようがないからの」
いとも簡単なことのように答えた。
「成瀬さんの身辺を・・・。それはいい考えだけど、どうやって調べるの?」
稲子にも思いつかない策だっただけに、どのような手段を講じればいいのかわからなかった。
「我々では無理だから、興信所に頼むしかなかろう」
盛蔵と稲子は互いの顔を見合わせた。確かにその方法しか思いつかない。
「調査料にどれくらいかかるのかしら?」
その方面に疎い稲子には皆目見当もつかなかった。
「まあ、それは訊いてみなけりゃわからん。この際多少費用がかかっても仕方がない。言い出した手前、それはわしが何とかしよう。その代わり盛蔵、暇なときに興信所へ行ってくれるか?」
「行かんことはないが、何を調べてもらえばいいのかな?」
「それくらい自分で考えろ。亜紀さんに立派なお婿さんをと思ったら、調べたいことが山ほどあるじゃろう。例えば、そうじゃな・・・。彼の交友関係、特に女だな。誰もが知らないだけで付き合っている相手がいるのかもしれん。いないにしても、過去に何かでしくじりがあったとも考えられる。同棲していたとか結婚していた可能性だって否定はできんじゃろう」
「まさかそれはないだろう」
盛蔵が頭からそれを否定した。
「だからそれを調べてもらうんじゃ。それに家族だな。どのような家庭で、どのような環境で育ったか。まあ、その辺のところがわかれば、立派じゃないとか資格がないなどと、ごねている理由もわかるかも知れん。ひょっとして修一との関係もな」
舅が何気なく言った最後の言葉に稲子は強い関心を持った。現役を退いてもなお近隣の人達の尊敬を集めているだけあって、目の付け所が違うと感心した。
「そうだな。1月くらいを
「それでは遅い」
耕造はぴしゃりと言った。
「4月には行ってしまうかも知れんのだぞ。時間もないし後々のこともあるから、金に糸目はつけないで、彼が打ち合わせに来るまでに中間報告でいいから報告するように頼め」
「そんなに早く・・・。まあ、そのように頼むとして、亜紀ちゃんはどうする?」
盛蔵は彼女に期待を持たせておいてうまくいかなかったときのことを心配した。
「興信所の件は伏せてありのまま話すわ。あの子は勘がいいから、変に隠し立てして不信感を増幅していい結果にならないと思う。私達の考えを話して、それからのことは亜紀ちゃんに判断してもらうしかないわ」
「それがいいな。その辺の判断は稲子さんに任せる」
これが彼らの結論となった。
亜紀が昼食の準備をしていると稲子に部屋に来るよう呼ばれた。今度は何事だろうと思いつつ、昨日お爺さんの部屋でこそこそ話をしていたから、そのことに関係があるのだろうと推察した。
義父母の部屋に入ると稲子一人が待っていた。
「昨日は一日留守にしてごめんね。受付と二股で忙しかったでしょう」
「いいえ、大丈夫でした」
「そう、それならいいけど。それにしても寒いわね。あ、お茶はいいわ。それよりここに座って」
稲子は炬燵に腕を入れ亜紀を待ち、ひと呼吸おいて言った。
「行き先も告げずに外出したのはね、成瀬さんに会うためだったの。用向きは見当がつくわね?」
稲子が外出することは稀有なことだった。あったとしても親戚知人の冠婚葬祭といった用件で、不義理をしないためのものがほとんどだった。その彼女が行き先も用件も知らせず、後をお願いとだけ告げて出て行ったことに不自然だと思っていた。それがまさか真一を訪ねるためだったとは想像もしていなかった。
この前自分の心の内を打ち明けたので、義母が彼を訪ねるとしたらその用件一つしかなかった。だが、修一のことを思うとその母親の前で素直にはいとは答えられなかった。それで小さくなって俯いた。
「差し出がましいとは思ったけど、主人と相談してそうしたの。亜紀ちゃんに黙っていてごめんね」
「いいえ、とんでもありません」
ますます小さくなって稲子の話を待ったが、話し辛いことなのか、中々口を開かなかった。それで、あまりいい結果にはならなかったのだろうと推測した。
稲子は露天風呂の新設にかこつけて真一の研究室に行ったこと、場所を変えて亜紀との交際を勧めたが、断られたことを包み隠さず話した。彼がドイツに行くことも言った。
自分との交際を勧めて断られたと聞いても、義母が行ったところで、そう簡単に彼の気持ちを変えられないことは予測が付いていたので落胆することはなかった。間接的にでも彼の心の中を知ったことが、彼女に余裕を持たせた。ところが、彼が永住するつもりでドイツへ行くと聞いた時は、予想外のことで顔色が変わるほどの衝撃を受けた。 日本に彼がいなくなると思うと、それは別のことだ。それからの先の話は上の空で聞いた。
「亜紀ちゃん、大丈夫?聞いている?」
稲子は亜紀の様子を不安に思って念を押した
「ええ・・・はい?あ、済みません。何のお話でした?」
「昨日お爺さんとも話し合って、成瀬さんを亜紀ちゃんに近付けるようにすることにしたのよ。それはいいわね?」
どのような理由をつけて彼を近付けるのか知らないが、彼が私を拒んでいる以上、思惑通りに行かだろうと半ば諦めていた。それより、そうすることで、今以上に彼を頑なにし変に拗れたりはしないかと、そちらの方が心配になった。
それで、亜紀はいいとも悪いとも答えなかった。それを稲子は肯定と受け取った。
「それで亜紀ちゃん、これからどうする?」
どうすると訊かれても、どうするつもりもなかった。彼は日本を離れようとしている。 あのとき思ったように縁がなかったのだ。それを無理に進めたところでうまく行くはずがないと思った。
「私のことでご心配いただいて済みません。縁は縁のものですから、無理をしないで成り行きに任せようと思います。どうにもならないと判断した時には、これだけお世話になっておきながら申し訳ないのですけれど、川越に戻ろうかと思います」
思惑通りことが進まなかった場合、そうしようと舅らと決めたのだが、亜紀からその意思を示されると、稲子は狼狽してしまった。それを表に出さなかったのは年の功だった。
「・・・そう、わかったわ。私達のことは気にしなくてもいいから、亜紀ちゃんの思う通りにしたらいいわ。でも、今回だけは私達に任せてちょうだい。それから判断してもいいでしょう?いいわね」
私のためと思ってしてくれる以上、亜紀も同意するしかなかった。
話が終わって、稲子は部屋を去り際に、真一と学生達が来ることを告げた。
それを聞いて少しも嬉しくなかった。色んなことを知った今、彼と会った時、どのような顔をすればよいのか。それを考えると、自然に振る舞えるかどうか自信が持てなかった。
耕造が真一の身辺調査の結果を聞いたのは、彼らが来訪する前日の午後だった。調査はまだ終了していなかったが、わかったところまででいいと盛蔵が報告させたのだ。
耕造がペンションの娯楽室へ行くと、稲子が珍しく頬を紅潮させていた。
「呼びに行ったんだが昼寝中だったから、二人だけで報告を聞いたよ。来るのが少し遅かった」
「それは構わん。それでどうじゃった。何かわかったか?」
「それが成瀬さんの・・・」
稲子は勢い込んで言おうとするのを、盛蔵がまあ待てと制止した。
「まずは爺さんに報告書を読んでもらってからにしよう」
中間調査報告書と書かれた薄いファイルを耕造に手渡した。
「そうかい、どれどれ」
耕造は最初の頁を一読すると息子夫婦を見た。二人も何か言いたげだったが、無言で頷ずき返した。耕造は続きを読んだ。
報告書には、真一の身上と家族構成、出生から今日までのことが簡潔に書かれていて、最後の一枚は、隠し撮りと思われる家族の写真が綴じられていた。
数分で目を通し終わると、ふうっと息を吐いて頭を上げた。
「短期間によくここまで調べたもんじゃな。そうか、実子ではないのか。稲子さん、修一が生まれたのはいつじゃったかな?」
稲子は即答した。
「ちなみに血液型も同じだ」
耕造に訊かれる前に盛蔵が答えた。耕造は息子夫婦をじっと見つめ、もう一度ふうっと息を吐いた。
「ここまで一致するとなると二人は双子としか思えんな」
「そうだろう、DNA鑑定しなくても決まりだと思う」
「そうよ、成瀬さんは修一と兄弟になるのよ。どうしよう、もう他人とは思えないわ」
稲子は少女のように興奮して両腕を交差して胸に当てた。
「それを知って嬉しいような気恥ずかしいような変な気分だ」
「私は修一が生き返ったようで嬉しい。きっと修一が引き合わせてくれたのよ」
「まあ、待て」
耕造は一人興奮する稲子をたしなめた。
「お前たちが長崎へ行った時には修一しかいなかったんじゃろう?」
盛蔵はその時のことを素早く思い返したが、もう一人いた形跡はなかったことに間違いなかった。
「確かにそうだが、知らないところでもう一人いたんだと思う。兄弟だとすると、そうとしか考えられない」
「そうよ。牧師さんは隠していたけど、もう一人いたのよ。それが成瀬さんだったのよ。牧師さんがどうして別々にしたのかわからないけど、絶対そうよ」
稲子はますます興奮して身を乗り出した。
「そうだとしても、牧師さんとの約束もあってそれを確かめようがない」
盛蔵が言う通り、彼らが修一を養子として引き取るに当たり、特別な事情がない限り、互いに連絡を取り合わないとの誓約書を牧師と取り交わしていたからだ。今回の件を、その理由に挙げて問うたところで教えてくれないことは盛蔵にも予測がついた。それに、あれから30年余も経ち、夫妻が今も健在でいるとは思えなかった。
「盛蔵が言うように、DNA鑑定するのが一番じゃが、そこまでしなくとも兄弟なのは、まあ間違いないじゃろう。わしもひょっとしたらそうではないかと思っていたが、こうして証拠を突きつけられると・・・」
耕造はそこまで言って考え込んでしまった。盛蔵も稲子もそれぞれの思いを抱いて黙り込んだ。
やがて耕造がぽつりと言った。
「亜紀さんはこのこと知っているのかな?」
「確信はしていないにしても、ある程度予想していると思うわ」
「そうじゃろうな。それでどうする?」
「どうするって?」
「決まっているじゃろう。兄弟とわかっても亜紀さんと結びつけるかじゃ。稲子さんの気持ちが知りたい」
「私の?」
訝しげに義父を見た。
「そうじゃ。修一の兄か弟とわかって
義父に言われて、同じようなこと真一から訊かれたことを思い出した。それで同じことを答えた。
「気にならないと言えば嘘になるけど、亜紀ちゃんが私達にしてくれたことを思えば、私の思いなんて瑣末なものよ。成瀬さんと一緒にさせる考えに変わりはないわ」
「そうか、稲子さんの気持ちがそうなら前に決めたように進めよう。いいな」
耕造はじっと稲子を見つめた後、盛蔵に念を押した。
「亜紀ちゃんの幸せが第一だからそうしよう」
盛蔵はそう応じて、双子の事実を彼に告げようかと訊くと、耕造は待ったをかけた。
「亜紀さんの話では彼も薄々それと察しているようじゃ。それでも素知らぬ振りをしているところをみると、彼にも何かの思いがあるんじゃろう。それに双子のことを告げると、その出処を言わなくちゃならん。ここはあまり刺激しないで少し待とう」
耕造は報告書をもう一度取り上げると、真一の家族と彼の近況の写真をもう一度舐め回すように見た。
「この人が成瀬さんのご両親か。純朴そうな顔をしておられる。妹さんは噂通りの別嬪さんじゃな。何々、今高校3年生か。これからますます綺麗になるじゃろうな」
帰宅途中を隠し撮りしたらしい制服姿の写真を見ながら言った。
「亜紀ちゃんの話だと、今年成瀬さんと同じ大学の建築学科へ入学するそうよ。中々の跳ねっ返りで成瀬さんも手を焼いてるんですって」
「ははは、妹が教え子じゃ成瀬さんも教え難くかろう」
耕造はさも可笑しそうに笑った。
「お爺さん、成瀬さんは4月でもドイツへ言ってしまうかも知れないのよ」
「ああ、そうか。そうじゃったな。ところで、ここに警察へ訴えられたことがあるようだと書いてあるが、どういうことじゃ?」
報告書を指差して言った。
「ああ、それ。私も気になって訊いてみたのだが、詳細は不明だと言っていた」
「不明・・・?それはまたどう言うことじゃ?」
「調査員の話では、急なことだから関西にある提携会社に調査を依頼したそうだ。そこに和歌山県警出身のOBがいて、地元の警察署で聴き込んだ話では、高校3年の時に窃盗と暴行致傷で訴えられたことがあったらしい。ところが、その翌々日に被害者が訴えを取り下げたから書類としては何も残っていなくて、その事件を担当した者が覚えていたそうだ。未成年だし起訴されていないこともあって、どんな事件だったか詳しくは教えてくれなかったそうだが、何でも被害者の二人は地元では有名な不良で、何度か補導されたことのある生徒だったらしい。そんなこともあって事情聴取では好意的に扱ったそうだが、頑なに黙秘を通したらしい。生徒会長の彼がそこまでするなんておかしいと、そのOBも気になって当時の同級生や周辺をそれとなく調べたらしいが、誰も知らなくて、結局何の手掛かりも得られずに終わったそうだ」
「ふーん、何もわからず仕舞いか。それだけの事件を起こせば騒ぎになるはずじゃが、誰も知らないとはおかしなこともあるもんじゃな。それにその不良が訴えを取り下げたのも妙じゃ」
「いや、被害者の親が取り下げたらしい」
「そんなことはどうでもいい。それにしても何か裏がありそうで気になるな。ここに窃盗とあるが、何を盗んだんじゃろう?」
「ノックアウトした後、被害者の服から生徒手帳を取り上げて帰ってしまったらしい」
「なるほどな。それにしても不良二人をのしてしまうなど、あの穏やかな顔から想像もできんが、喧嘩も強いんじゃな」
「そこに書いてあるけど、合気道と剣道の有段者よ」
「なるほどな・・・。この事件に関係があるのかな、資格がないとか立派じゃないとか言うのは」
「さあ、でも、それくらいしか思い当たらないわ」
被害者が訴えを取り下げたくらいだから、尾を引くわけがないと思いつつそう答えた。
「稲子さんの言う通りなら、彼にそう言わせるほどの何かがあったはずじゃが・・・。何とかして調べる手立てはないもんかな」
「私も気になってそう言ったんだが、目撃者もなくて知っているのは当事者と家族だけだろうから、今から調べるのは難しいかも知れないってことだった。それでも一応引き続き調査を頼んでおいた」
これまで彼の明るい面だけを見ていたが、暗い影もあるらしいことがわかった。しかし、それを知る術がないことがもどかしかった。当人に訊いたところで、あの彼が告白するはずもないことは誰もがわかっていた。
「それでも稲子さん、亜紀さんを彼と結びつける意志は変わらんのか?」
「気にはなるけど、理由もなしに人を傷付けたり物を盗むような人ではないと思うわ。お義父さんだってそう思うでしょう?私の考えは変わらないわ」
「盛蔵、お前はどうじゃ?」
「私も同じだ。亜紀ちゃんには彼が一番だと思う」
「わしもそう思う。それなら規定方針通りで行こう。それでお婿さん候補としての彼の評判はどうじゃ?」
「それがそこに書いてある通り、誰に聴いてもいいらしいのよ。結婚相手の調査かと思われたらしいけど、それを差し引いても申し分なかったって。修一と同じで、中学高校ともに学年トップを譲ったことはないほど優秀で、礼儀正しく社交的で、高校の生徒会長を2期も務めたのは後にも先にも彼以外にないそうよ。ブラック校則改正のことで、学校側と渡り合った手腕は今でも評判らしいわ」
耕造は、はははと大声で笑った。
「大変な入れ込みようじゃな。まるで自分のお婿さん候補のようじゃ」
「修一の兄だとわかってから、何だか他人のようには思えないのよ」
二人とも自分の手で育てることができていたならどれほど良かっただろうと彼の両親を恨めしく思った。
「肝心の女性関係はどうじゃった?」
「それが、昔も今も特定の女性はいないらしい」
「よもや女嫌いで男好きということはなかろうな」
もしそうなら、自分達の努力は報われない。
「それはないだろう。理想が高くて、眼鏡に適った女に巡り会えていないのが本当のところらしい」
それを聞いて耕造は顔をしかめた。
「ますます難儀な男じゃな。亜紀さんのこと大丈夫じゃろうな?」
「それは問題ないわ。私の勘だけど、成瀬さんだって亜紀ちゃんのこと憎からず思っているのは確かよ」
「それなら二人の接点を多くして、それからのことは亜紀さんに任せよう。わしらがすることはそこまでじゃ。変にしゃしゃり出て二人の仲をこじらせるのはまずい。今回だけはわしが話をするが、口を出すとしたら、亜紀さんがどうしようもないと判断した時じゃ。いいな」
耕造の念押しに盛蔵と稲子は、わかったと大きく頷いた。
亜紀は、気持ちの整理をつけられないまま真一が来る日を迎えてしまった。
一行が到着したと稲子に電話で告げられたのは1時過ぎだった。彼女が予想したとおり彼らは昼食を済ませて来たようだ。
亜紀が、化粧を直し身繕いを確かめ、あれこれ思い煩いながらペンションへ向かうと、玄関口に加藤酒造とドアに表示されたライトバンが横付けされ、その後部から二人の男が1升瓶6本が入った木箱を後部から下ろしていた。
「いらっしゃいませ。そんなに沢山のお酒、加藤さんのところの?」
「こんにちは。お世話になっているのなら持っていけと親父に言われて持参しました。どこにおきますか?」
「まあ、そんな気遣いはよろしいのに。それでしたら厨房までお願いしますわ」
二人に言い置いて亜紀は中に入った。
食堂へ行くと、窓際で学生達が二つの塊になって騒いでいて、真一はと見ると彼は盛蔵と一緒にカウンター越しに刈谷夫妻と談笑していた。
彼女は学生達と挨拶を交わしてから、真一のもとに近付き平静を装いつつ、いらっしゃいませと声をかけた。彼は振り返り、お世話になりますと応じた。
やや眩しそうに亜紀を見た彼の穏やかな表情からは何の変化も認められなかった。
そこに木箱を持った加藤と外山がやって来た。
「亜紀さん、これどこにおきますか?」
「お義父さん、加藤さんのお家のお酒ですって」
「親父がお世話になっているところなら持っていけと言われまして・・・」
「それはそれは済みませんな。そんな気遣いは無用だとよろしくお伝え下さい」
「親父は苦労人で何の下心もないですから、単なる社交辞令だと思って受け取ってください」
「ははは、そうですか。折角だから、いただきましょう。刈谷さんお願いします」
刈谷は二人を厨房に招き入れ、置き場所を指示した。
「いつぞやはお忙しい中、お付き合い下さいましてありがとうございました。それに勝手に持ち出しまして済みませんでした」
亜紀は真一に小声で礼と詫びを同時に述べた。
「いやー、こちらこそありがとう」
知らない者が聞けば何のことかわからないだろう。
真一はビジネスライクに徹した態度で、あの日のことは一言も触れなかった。
盛蔵と刈谷夫妻はにこやかに二人のやり取りを見ていた。亜紀はそれとなく周りを見たが、学生達はお喋りに夢中で自分らに注目している者はいなかった。
「あれは事前に刈谷さんに教わりましたからできました。刈谷さんでしたらもっと美味しかったと思いますわ」
「いやいや、それは謙遜し過ぎだよ」
刈谷は手をひらひらさせて否定した。亜希子は夫の横でにこにこ笑っていた。
「成瀬さん、亜紀さんのいいところはね、私が教えてもそれを鵜呑みにしないで、自分なりの工夫を凝らすんですよ。それは材料であったり、隠し味であったり、調理の方法だったり、プロの私でさえへえと感心することが多々あります。
私ら料理人は一人前になるまで、板長やシェフあるいは先輩などのやり方を見ながら体で覚えるのですが、彼らの調理法から少しでも逸脱するとこっぴどく叱られるんです。殴られることだって珍しくありません。ですから、なかなか自分なりに工夫した料理を作ることはできないんです。亜紀さんにはそんなしがらみがないから、私でもあっと驚くようなことがあって、こんな調理法もあるのかと、びっくりさせられることもたびたびです。私の方こそ教わること大ですよ」
頻りに亜紀を持ち上げる。
「それなら私にもわかります。建築も同じで、ある程度創作のセンスがないと、デザインだけはいくら教わってもいい発想が生まれません。料理と同じかも知れません。もっとも、料理の方がはるかに緻密で繊細でしょうが」
「刈谷さんも成瀬さんも、そんなに
刈谷の過分に過ぎる賛辞に亜紀は赤くなって手を振った。彼女の軽口に彼らは、はははと大口を開けて
ドイツ行きの件はどうなったのかと気になったが、彼らの前では切り出せなかった。
「まあまあ、3人とも優秀だと言うことでいいじゃないですか」
盛蔵はそうとりなして、耕造が食堂へ来たのを見て真一に声をかけた。
「成瀬さん、爺さんが来たから始めていただきしょうか」
真一は顔を綻ばせて耕造に軽く頭を下げた。それに対し彼は、やあいらっしゃいと気安く手を上げて応じた。
学生達が恩師を囲み、盛蔵らが真一の前に座ると耕造が発言した。
「忙しいのにわざわざ来てもらって済まなかった。早速じゃが、始めてもらおうか。いや、その前にお前さんの絵を拝見させてもらったが、よくできていてさすがは成瀬さんだと感心した。ペンションの方は盛蔵が切り盛りしているから口出しはしなかったが、露天風呂だけはわしなりの思い入れがある。だから、相談がてらわざわざ来てもらった。
お前さんがこれはどうかと提案してくれた二つの案のうち、露天風呂を一つにして時間を決めて男女交互にとの案に稲子さんは乗り気じゃった。わずかなお客だし温泉旅館でもないのに男女に分ける必要はないと言う。確かにそうじゃろう。採算面から言えば、費用もかかるし維持管理も倍になる。それはわしにもよくわかる。だが、今回だけはわしの思い通りにさせて欲しいとごり押しをした。だから男女別々にしようと思う。その場合でも日を替えて男女の風呂を入れ替えるようにしたい。どうじゃろうか?」
採算を度外視しても自分の思い通りに造りたいのだろう。その費用を彼が負担するつもりだと理解した。
「わかりました。そうまで仰るのならそのようにしましょう。それを想定していた訳ではありませんが、前の案を少し変えてデッサンしてきました。それを元に意見交換をしましょう」
真一は鞄から数枚の絵を取り出してテーブルに並べ設計の意図を説明した。彼の周りに集まった学生達は恩師の説明に聴き入った。
「ふーん、成程なあ。これだと内風呂からでも池と山が一望できるなあ。露天風呂の前を広くとって池に面しているアイデアもいい。どう思う、盛蔵?」
「これでいいんじゃないか?ここの地形をうまく活かしていると思う」
盛蔵は稲子と亜紀にも同意を求めた。彼女達も賛意を示した。
稲子はそのアイデアと概要は既に知っていたが、今回の絵はより詳細に描かれかつ様々な工夫が凝らされていて一層よくなっていると思った。
「それにしてもあんたは絵が上手じゃな」
耕造は彼の図を褒めた。
「まあ、これくらいのことは建築家なら当然のことです。・・・そうですね」
何を思ったか、真一はスケッチブックから紙を剥がし、鉛筆をバックから取り出すと言った。
「葛西と菊川と江口、これに直径15cmの円と直線を三本描いてみろ」
突然名指しされた学生は、ええっそんなと尻込みした。そんなことデッサンの授業でも練習したことがない。彼ら以外は一様にほっとした表情を見せた。
「デッサンを勉強しただろう。円と線を描くだけだ、何も難しくない」
渋る三人に鉛筆と紙を渡した。
指示された学生はみんなが見守る中、緊張した面持ちで円と三本の線を描いて恩師に渡した。それらを一瞥して真一は言った。
「どれもまだまだだな。完全な円になってないし大きさも違う。葛西のこれはなんだ、楕円じゃないか」
引き合いに出された彼はバツの悪そうに頭を掻いた。他の者はクスクス笑っている。
「線はどれも波打っている。線は真っ直ぐに引かなきゃ駄目だ。これじゃお客さんの前で説明もできないだろう。こうして描くんだ」
スケッチブックを取り上げ、テーブルに置くと無造作に円と線を描いた。それを中川に定規で測らせると、見事な15cmの真円で、直線は定規を当てるまでもなかった。学生達から感嘆の声が上った。加辺達も同様だった。
「訓練すれば誰にでもできる」
こともなげに言ったが、亜紀には到底そのようには思えなかった。
「それでは耕造さん、本題に入りましょうか。この絵で何か変更することや追加することがありますか?」
「そうさな、うまく計画されているから余り文句のつけようがないが、もう少し広くならんもんかな」
「それはいくらでもできますが、定員のお客さん全員同時に入浴したとしても、混浴でもない限りこれくらいでいいと思いますが」
「そうかい。そうならそうとして、こことここに植樹して、ここにも岩を置いてツツジを植えたいと思う」
真一は言われるままに元の絵を一部消して変更を加え始めると、耕造らはまた驚嘆した。
「逆さまに描けるのか?」
「ええ、お客さんの前で描きながら説明するときは大概こうします。いちいち向きを変えるのも面倒ですし、お客さんの理解も早いですから」
何でもないことのように答えて鉛筆を進めた。
「ついでにここにも一本木を植えるか」
学生達の意見も取り入れ、独り言を呟きながらたちまちのうちに仕上げてしまった。
「これでどうでしょう?」
真一は鉛筆を置くと耕造と盛蔵に示した。彼らは声もなく、それで結構だと耕造が断を下したのは暫くしてからだった。その中で亜紀だけが一つの懸念を表明した。
「あの、このままですと池の方からお風呂場が丸見えになるんじゃないですか?」
それに中川ら女性陣も同調した。彼女が指摘するように、彼の絵では露天風呂の前面を遮るものが何もない。男性には何でもないことでも女性にとっては重大問題だ。しかし、それも織り込み済みなのか、真一は動ずることなく、全体図を手元に引き寄せると、逆さまにしたまま再び鉛筆を走らせた。
「これでどうでしょう?露天風呂の南北のこことここに目隠しを設けます。目隠しの下は大きな捨て石を置いて土を盛れば、目隠しの表と裏に木を植えることで目立たなくすることも出来ます。池の水温は年中15度以下だそうですから、真夏でも泳ぐのは無理でしょうし、この際ボート遊びもやめにしましょう。気になるのは対岸からの視線でしょうが、200m以上離れていますから、望遠鏡で覗かない限り大丈夫だと思います。それでも気になると言われるのなら、思い切って全部囲ってしまってもいいですが」
それには盛蔵が異を唱えた。
「それでは肝心の景色が見えなくなって露天風呂にする意味がないし金もかかる。そうまですることはないでしょう。亜紀ちゃんはどう思う」
義父に訊かれて、問題はないと思うと答えた。
「君らはどうだ?」
真一は女学生の意見も聞いた。
「気にならないと思うわ。だけど、その位置だと一番南端の二階のバルコニーから露天風呂の一部が見える可能性があるわ」
菊川が懸念を示すと中川も同調した。
「こちら側を男性専用にすればいいけど、男女を入れ替えるのなら気になるわ」
「それなら視線を遮る高さの常緑樹を植えよう。こうやって葉っぱが茂っていれば問題ないだろう」
露天風呂の南側に数本の樹木を描き加えたことで女性陣も納得した。
真一は記憶したからと描いた絵を全て盛蔵に渡した。
「それでは、この案でご納得いただけたと言うことで、次は前回ご質問のあった温泉の利用法に移りましょう」
彼は中房温泉の具体例を挙げ、温泉熱を利用した室内の暖房と給湯を勧め、洗い場の水も地下水ではなく池の水の利用を提案した。
「それで、お湯の温度調整ですが、折角の天然温泉ですから加水はしないで調整しましょう」
「そんなことができるのかい?」
耕造が驚いた様子で訊いた。初めから加水するのが当然だと思っていたから考えもしなかった。
「はい。中房温泉は90度の源泉から水冷と空冷で適温まで下げているそうです。幸いここは湯の華がほとんどない泉質でパイプの洗浄を頻繁に行わなくてもいいと聞いています。それに池の水温が一定ですから、これを利用しない手はありません。つまり、直径10cm程度のポリパイプの中に湯管を通して池の中に這わせます。机上の計算では・・・」
これも絵を描いて彼の考えを説明した。
「成程な。しかしあんたは偉いことを考えるもんじゃな。それだと費用が抑えられていいこと尽くめじゃ。だが、幾ら洗浄の回数が少ないからと言って年2、3回は行わなくてはならん。その時はどうする。池の底の管の中まではの洗浄は難しい」
その対策も考えていますと、これも絵にして説明した。
「なるほどな。ここまで検討していてくれるとはさすが成瀬さんだ」
ほとほと感服したように盛蔵は言ったが、 自然環境を気にする耕造が懸念を示した。
「それでよしとして、池の水に影響はないのか。水温が上がって動植物に影響が出るのはまずい」
「仰る通りです。確かにパイプの近辺では若干の温度変化は避けられないでしょう。特にその付近の水草の成長に影響が出るかもしれません。しかし、池全体では0.1度も上がることはないので問題はないと考えています。それと源泉掛け流しですと、毎日風呂の清掃が必要だと聞きました」
「そうなんです。厚生労働省のお達しでレジオネラ菌の増殖防止のために、掛け流しの場合は毎日湯を抜いて清掃しなければなりません。これが結構大変なんです」
「それなら排水口を増やして排水管も太くしましょう。排水時間を短縮できます」
「そうですな。それは助かる」
その後、風呂場までの給湯と排湯処理についての確認をして協議は終了した。
「それではこれをベースに設計に取り掛かります。露天風呂が追加されましたので、内風呂の出入口の図面を書き換える必要がありますが、作成次第メールで送ります」
耕造らはそれで合意したが、亜紀が手を挙げた。
「あの・・・。それで設計が全て終わるのはいつ頃でしょうか?」
誰も訊かないので代表して尋ねた。
「これで風呂関係もまとまりましたから、そうですね。床暖房の設備のために一部図面を変えないといけないし、電気水道等の設備関係を見直して、その図面も別途必要となりますから、3月初旬頃になります」
真一は中川を見て答えたが、彼女はやれると踏んだのか頷くだけで否定はしなかった。
「工事の開始時期はどうですか?」
「そうですね。設計が予定通りに終わったとして、建築確認や消防署等の役所諸々の手続きを含めて、それから1月半から2月くらい見ておけばいいでしょう」
「すると5月には着工の運びとなるわけか」
計画が現実味を帯びてきて盛蔵がやや興奮気味に言った。
「手続きと並行して業者選定をすれば、その頃になりますか」
それだけを確認して、盛蔵はお客さんを迎えに行くからと慌ただしく食堂を出て行き、学生達は稲子から部屋の割り振りを聞き、自分らの部屋へ行った。真一だけが母屋での泊まりだが、彼はそれにクレームをつけることはなかった。
真一が食堂から出ようとした時、耕造が呼び止めた。
「成瀬さん、どちらへ行かれるのかな?」
「夕食まで時間が少しあるから、森へ散策にでも行こうかと思っています」
耕造が自分に何か用事がありそうな雰囲気なので訝しげに答えた。
「寒いのに熱心なことだ。じゃが、差し支えなければそれは明日にでもして、わしの部屋で世間話でもどうじゃな」
真一は耕造の誘いに直ぐには応じず、何かを探るように彼を見た。彼から誘われるのは初めてで、それはあの件以外には考えられなかった。しばらくして、わかりました、そうしましょうと応じて耕造と食堂を後にした。亜紀は耕造を見たが、ついて来るのを軽く拒むようかのように目配せするので黙って彼らを見送った。
「呼び出しておきながら茶も入れずに済まんな。いつも亜紀さんが美味しいお茶を淹れてくれるから自分ではしなくなってしもうた」
真一が炬燵に入って落ち着くと、耕造は箱火鉢の炭に被せていた灰を火箸で除きながら言った。
「いえいえ、お気遣いなく」
「それはそうと、あんたがここへ来るようになってどれ程になるかな?」
「10月にペンションの計画の説明に伺ったのが最初ですから、3月程になりますか」
「まだそんなものか。あんたが孫に似ているせいか、随分昔から会っているような気がしてな」
親しみの籠った眼差しを彼に向けてそれきり耕造は黙った。
狭い空間が炬燵と火鉢の熱で暖まり始めた頃、話を切り出した。
「稲子の話では4月にはドイツへ行くということじゃが、その話はまとまったのかな?」
問われて、そのことかと意外に思うと同時に安堵した。耕造から話をしたいと誘われ、亜紀を遠ざけたことで勝手に想像を逞しくしたのだった。
言われて見れば、誰からもそのことを訊かれていないと気がついた。学生達の前だから遠慮したのかもしれないが、それでも機会は幾らもあったはずなのに、それがないことが不思議だった。もちろん問われもしないことに自ら発言するつもりは毛頭なかった。
「その件はお流れになりました」
あっさりと答えた。
「ほう、それはまたどうしてじゃな?」
亜紀のことを思ってほっと安堵したが、行かなくなった理由が気になった。
「先週帰省してその話を両親にしたら母に猛反対されまして・・・」
真一は苦笑して頭を掻いた。
「それはまたどうしてじゃ? それで断念するとは心残りじゃないのか?」
「仰る通りです。精一杯説得したのですが、母が強硬で最後まで許してくれませんでした。今年入学する妹のことも心配だったのでしょう。どうしても行きたいのなら玻瑠香が卒業してからにしてくれと言われて断念しました。貧しい中、苦労して私を大学まで行かせてくれて、家にも帰らず好き勝手にさせてくれたましたから、無理押しはできませんでした。それが理由です」
日本にいるのと外国にいるのとでは違う、これ以上会えなくなるのは駄目だと玻瑠香を理由にして母の泣き落としにあったのだ。だが、それを他人に言うべきことではないと黙っていた。
「それは残念じゃったな」
その言葉とは裏腹に、彼の母が救世主のように思えて来た。
もし修一が同じ場面になれば、稲子はどうするだろうと想像した。盛蔵なら息子のためと黙って送り出すだろうが、永住となれば、彼女も同じような行動を取るに違いないと思った。一人息子の将来と自分の思いを天秤に掛けたとき、自分の感情を優先させてしまうのは女の
耕造も本音では彼に今行かれては困ると思っていながら、目の前に座る他人とは思えない男が急に気の毒になった。
内心忸怩たるものがあるだろうに、どのようにして整理をつけたのか知らないが、彼の態度からはその様子が微塵も伺えなかった。
自分の若い頃とは異なり、何事にも自己を優先させる今の風潮の中で、母親のためとは言え自分の欲求を律することなど中々できるものではない。彼の非凡な能力もさることながら、明るい未来を断ち切り毅然とした姿に耕造は感銘さえ覚えた。そのような男だからこそ亜紀を託すことができるのだ。彼と結び付けなくてはならんとの思いを一層強くした。
行かないことになったから一安心だが、さあこれからが正念場だと耕造は身を引き締めて口を開いた。
「稲子から聞いたんじゃが、あんたも亜紀さんのことを憎からず思っているのに、交際するつもりはないのだとか」
やっぱりその話かと好い加減うんざりした。しかし、年長者の前でそんな態度を取ることはできなかった。
この前稲子に亜紀のことを好きか嫌いかと二者択一を迫られたとき、そのどちらの言質も与えた覚えはない。耕造の口振りからすると自分の気持ちを稲子にしっかりと把握されていたようだ。思っていたとおり彼女は油断ならない。
「はい、大変光栄なお話でしたが、私の信念を変えてまでそうするつもりはありませんでした」
はっきりと拒絶した。
「ふーん、信念なあ。それは、資格がないとか立派な男ではないとかのことか?」
真一は驚いた顔した。あのとき稲子は聞き流したように見えたのだが、しっかりと記憶に留めていたようだ。ますます彼女は油断ならないと思った。
「しかしな。あんたの信念がどうとかこうとかは、わしらの関知するところではない。じゃがな、そうしたところでそんなに難しく考えることはなかろう。断るための方便と言ってしまえば、あんたは反発するじゃろうが、そう言われないためにも、きちんと相手に説明することが先じゃないか。賢いあんたがそれに気付かない訳がないじゃろう?」
耕造の皺深い目はしっかりと真一を射ていた。少しの間睨めっこのように見合っていたが、真一の方が先に目を伏せた。耕造の言い分はわかるが、それは個人的なことであり、それに応じるつもりは毛頭なかった。口を開けば嘘をつかなければならなくなる。それを避けるには肯定も否定もしないで黙りとおすことが一番だとこれまでの経験則で体得していた。
耕造はじっと真一の発言を待っていたが、居然無言を保つのを見て違うことを訊いた。
「多忙なことは稲子にも聞いたから承知しているが、それにしたところでうちに来るのを避け続けるのはいかにも不自然に思う。これはわしだけじゃなくて盛蔵も稲子も同じことを思って不思議がっていることじゃ。わしの勘違いかもしれんが、ここを避けているのは、わしの孫のことに
真一はそれにも無言を徹した。
「これはわしの独り言だから黙って聴いていてくれたらいい」
耕造は身じろぎしないでいる彼に自分の思っていることを述べた。
「わしはあんたの態度を見て、ひょっとしたら孫に拘って対抗しているんじゃないかと思った。何かで劣等感のようなものを持ったんじゃないのかとな。もし、孫があんたと似ていなければ、そんなこともなかったじゃろう。ところが双子と思えるくらいに酷似していた。否が応でも孫を意識せざるを得なかった。それで妙な対抗心を持ってしまった。これがもし生きている者が相手ならば張り合うこともできたじゃろう。ところがじゃ、その相手はこの世にはいない。だからそのことは叶わない。そんな気持ちのままで付き合うなんぞ、とんでもない。ならばその現実から逃避する以外にない、そう考えたのじゃろう。それでわし達から距離をおこうとしたのじゃないか?」
耕造は目の前にいる男を慈愛が籠る目で見た。
「これはわしの勝手な憶測じゃ。間違っていたら済まん」
耕造の詫びにも真一は肯定も否定もせず無言を通した。耕造は彼の態度からして自分の判断が正しいと結論づけた。
「しかし、そうしたところでどうなる?それは何も解決することにはならん。現実逃避はあんたには似つかわしくない。どうじゃろう。資格がないとか立派ではないとか、その理由は訊かずにおくが、亜紀さんのことが嫌いではないのなら、
耕造は炬燵から出ると、この通りお願いすると両手をついて深々と頭を下げた。真一は慌てて頭を上げてくれと頼み、少し考えさせて欲しいとだけ言い残して部屋を出た。耕造は頭を下げたままだった。
小雪が降り薄暗くなりつつある森を目的もなく散策しながら真一は耕造に言われたことを反芻した。
耕造は怖ろしいくらい自分の中の葛藤を洞察していた。亜紀との交際を迫られた時には、一時逃れで深い考えもなくあのように答えたのだが、どこをどう歩いたのか記憶にないほど真剣に悩み、周りの景色が目に入らないほどに悩んだ。5cmほど降り積もった雪が革靴と靴下を濡らしたが、それすら気にとめなかった。幾人かの学生がいたが、彼の思案深げな姿を見て誰も声をかけることはなかった。
森の中を1時間ほど彷徨うように歩き、白一面の広場まで戻って来ると、ポケットからスマートフォンを取り出しキーを操作して相手を呼び出した。
「小坂か、成瀬だ。先日はありがとう。お陰でクラス会は楽しかった。今電話はいいか?え、何、近いうちに結婚するのかって?ははは、何を馬鹿な。相手もいないのにできるわけないじゃないか。もし、そうなったら披露宴に招待するよ、あはは。ん、そんな噂が立っているって?根も葉もない噂はお前が打ち消しておいてくれよ。誰かが俺のことを調べていたって?ふーん、そんな心当たりはないなあ。それより、頼みがあって電話した」
3分ほど遣り取りをして電話を切ると、大きくため息をついて踵を返した。
(二)
真一がペンション設計の成果品を提出したのは3月初旬の午後だった。
ロビーで出迎えた盛蔵と稲子は真一と一緒に降り立った背の高い少女を見て目を丸くした。その彼女はジーンズにブラウスといった薄着でラフな格好だったが、そんな服装が溢れ出る若さを輝かせていた。
真一は軽く頭を下げ、訪問の目的を告げた。
「
「それはそれは、わざわざ有難うございます。どうぞどうぞ中へ」
招じ入れようとする盛蔵に妹を紹介した。
「その前に妹をご紹介します」
妹と言われて、彼らも初めて見る少女がそうかと知った。彼女のことは隠し撮りした写真で見知ってはいたが、遠目の制服姿の写真だったし、これほど背が高いとは思ってもいなかった。それで見違えてしまったのだ。
亜紀から美人だとは聞いてはいたが、写真で見た以上の美少女で稲子は正直驚いた。女優になるには身長があり過ぎて難がありそうが、その気があればすぐにでもモデルになれるのではないかと思った。こうして並び立つ兄妹を見ると、背の高いところを除けば、やはり似たところがない。
後から亜紀と一緒にやって来た耕造は、真一の妹だと耳打ちされて、それはそれはと嬉しそうに頷いた。亜紀もしばらく見ぬ間の彼女の変貌ぶりに驚いた。セミロングだった髪を短くして薄く栗色にカラーリングし、薄く化粧を施しているからか、彼女はまさしく
「玻瑠香、みなさんにご挨拶しろ」
兄に促されて、愛想よくにっこり微笑みかけると、しおらしく両手を前に合わせ30度に上体を傾け戻した後、挨拶を始めた。
「初めまして。成瀬真一の妹で玻瑠香と申します。いつも兄がお世話になりましてありがとうございます。ご迷惑かと思いましたが、今日は兄に無理を言って一緒に来ました。これから兄がこちらへ参ります時は、私も同行するつもりですので、よろしくお願い致します」
馬鹿丁寧な自己紹介と断りに、中川と江口がくすくす笑い、耕造は感心してほうと声を上げた。その横で亜紀だけは彼女の猫を被った楚々とした態度に毒気にでも当てられたかのような表情で目を瞬いた。
玻瑠香は自己紹介を終えるとちらりと亜紀を見てすぐに横を向いた。
「勝手なことを言うな」と兄に頭をぽかりと殴られるとぺろっと舌を出した。このときだけは地が出て年相応の態度だった。その様子が可笑しくてみんなが吹き出した。
「成瀬さんに別嬪の妹さんがいると聞いてはいたが、これはこれは評判通りの美人じゃ。わしはてっきりあんたの彼女かと思って驚いた」
「本当に」
知らない者が見れば似合いのカップルに映るだろう。兄の腕を取らんばかりの彼女を見ながら稲子は相槌を打った。それと同時に、もしかして彼が女に関心を示さないのはこの妹に原因がありはしないかと勘繰った。
玻瑠香は彼らの反応に、満足そうににっこり微笑んで兄を見上てからまた亜紀を一瞥して言った。
「ありがとうございます。お世辞でもそのように言っていただけて嬉しいですわ」
耕造に持ち上げられても、言われ慣れているのかそれとも自分でもそのように自負しているのか、恥じらいとかの照らいの素振りは見せなかった。
彼女の物怖じしない態度に男達は単純に感心していたが、稲子だけが何かを探るようにじっと見つめた。
挨拶が終わると、中川と江口は成果品を運び込み、食堂のテーブルの上に置くと刈谷夫妻にも妹を紹介した。
亜紀は亜希子と客人の接待の準備に余念がなかったが、玻瑠香の視線をずっと背中で感じ取っていた。
「みなさんお揃いですし時間が勿体ないですから、成果物の説明を始めましょうか」
コーヒーと湯茶がテーブルに並べられると待ち兼ねたように真一が口を開いた。
「そうですな。始めてもらいましょうか」
「それじゃ中川が説明をしてくれ。君の最後の業務だから、お客様の検査を受けるつもりでしっかり説明しろ」
わかりましたと殊勝に答えて、中川は箱から取り出した設計書の説明から始めた。
これまで折に触れて彼女が説明しているので、ほとんど質問もなく報告は短時間で終了し、その後を真一が補足説明をした。
「こちらで積算した工事費は中川が報告した通りです。後から依頼された露天風呂を除けば、以前お訊きした予算内に収まっています。幾つかの工務店から見積りを取れば、恐らく1割から2割ほど低く見積ってくると思います。それで、工事を発注するときですが、設計書、仕様書、図面は全てこのCDに収めていますので、施工監理を委託する会社にこの箱一式をそのまま渡して下さい。その会社がコピーするか印刷するかして複数の会社に見積り依頼をすると思います。もし、加辺さんの方で心当たりの監理会社がないのであれば、ご紹介することもできます」
「いや、それより施工監理を成瀬さんにお願いしたいのだが」
「申し訳ないですが、それはできません」
盛蔵の願いに対しそれを想定していたのかきっぱりと断った。そのとき、玻瑠香はあからさまに亜紀の顔色を窺ったが、彼女に変化は見られなかったから意外に思った。これまでの彼の態度を見れば、彼の返事も亜紀には予想の範囲内だったからだ。
「設計を引き受けた以上、お受けするのが当然のことかもしれません。しかし、私にはそれをするだけの時間がありません。これまでは中川達チームが主体的にやってくれたからできましたが、それ以上となるとそれはご期待に添え兼ねます。
個人的なことで恐縮ですが、4月に准教授昇格の内示をもらっています。そうなると受け持つ科目も増えますし、ゼミを開講したり卒業研究を指導したりしなければなりません。教授にはこれまで以上に研究論文をと言われるのも目に見えています。ですからとてもそんな余裕がないのです。残念ですが」
残念ですがと最後に添えられても、彼らには少しも残念そうには聞こえなかった。
真一が昇格すると聞いて耕造と盛蔵はほうと唸った。噂として聞いていたが、亜紀も本人から初めて聞く話で、稲子と顔を見合わせると、彼女は義母に頭を振った。
おめでとうございますと口々に祝辞を述べたが、施工監理の要請をあっさり断られて言葉は上滑りした。
そこをなんとか無理にお願いしようとした盛蔵を耕造は押し留めた。怪訝そうな顔をした盛蔵に耕造は目配せをした。玻瑠香はそんな彼らを終始黙って見ていた。
玻瑠香が強引に兄について来た目的は亜紀ただ一人だった。彼女は亜紀の一挙一動を注視し監視もしていた。亜紀は敵意のこもった目で見られていることは自覚していたが、その理由が分からず落ち着かなかった。
夕食を一緒にとの誘いも断り、真一がペンションを辞そうとした時、盛蔵がこれまでの労力に対し謝意を表するために皆を招きたいと申し出た。その必要はないと彼は断ったのだが、盛蔵と耕造は彼らの思惑もあり譲らなかった。結局真一が折れ、卒業祝いを兼ねたパーティを開催することで折り合いをつけた。
後日、研究室に送られてきた招待状に学生達は騒然となった。そこには開催場所と日時、会場への往復の交通費は負担する旨が明記されているのは当然としても、ドレスコードがわざわざ謳われていたからだ。
10時過ぎから学生達が次々とやって来る中で、開宴時間直前にタクシーから降り立ったのは、黒基調のシックなスーツと濃紺のネクタイで身を固めた真一と春を意識したチェリーピンクのミニワンピース姿の玻瑠香だった。背の高い二人が会場に現れると男子学生が口笛を吹き歓声を上げた。玻瑠香は気後れせずに兄の腕を取ったまま軽く応える余裕を見せた。
「お早うございます。お待ちしておりました」
駆け寄った盛蔵が二人に声をかけ、少し離れると頭から足元まで眺め尽くした。玻瑠香は小判鮫のように兄にぴたりとついたまま離れない。
「本日はお招きに預かりまして有り難うございます。実は招待もされていない妹がどうしても来たいと言い張るものですから、連れてきてしまいました。初めて袖を通した服を見せびらかしたかったのでしょう。大甘の兄でどうも済みません」
真一は恐縮して頭を下げたが、当の玻瑠香は悪びれることもなくにこやかに平然としていた。
「いやいや、成瀬さんの妹さんならいつでも大歓迎ですよ。うちの爺さん、美人にはしつこいから気を付けて下さいよ」
盛蔵の冗談で笑いを誘った。
「遅かったじゃないですか。先生が一番最後です。お爺さんがお待ちかねです」
早くもほろ酔い加減の加藤と中川が寄って来て耕造のところへ引っ張って行った。その当人は女子学生2人に囲まれて上機嫌に高笑いしていた。
会場は卒業式で着る予定の袴姿の者、成人式で着用した服で参加した者、リクルートファッションで固めた者とまちまちだが、全員正装だけに華やかでパーティーらしい雰囲気を醸し出していた。
定刻になり亜紀の指名による加藤の司会でパーティの進行が進められた。
司会者に促されてハンドマイクを手に持った紋付袴姿の耕造が開宴宣言をした。その後、委託者代表として盛蔵らしい朴訥な感謝と卒業を祝う言葉があり、設計者代表として中川の感謝の挨拶が続いてパーティが始まった。乾杯の音頭ーは江口が執った。真一はここでも主役は学生との姿勢を崩さなかった。
亜紀と亜希子は飲み物を提供するホステス役に徹した。陽菜子と義晴もその役を割り振られれいたのだが、途中から学生達の輪に加わって忘失の状態だった。
主賓とも言える真一は料理を盛った皿とワインを両手に、顧客側を中心に挨拶しながら談笑の輪に加わっている。玻瑠香は引き込まれた男子学生の囲みの中から兄の様子を窺い、そして片頬を緩めて満足そうに小さく笑い、亜希子が持つトレイからワインを取ろうとしたところを兄に見つかり釘を刺された。
「おい玻瑠香、アルコールは駄目だぞ。それとそいつらには携帯番号を教えるな。お前らも未成年者に酒を飲ませるな。飲ませた奴は出入り禁止にするからな」
ぷっと玻瑠香は膨れ、彼女に群がる学生からは、えーっとの怨嗟の声が上がったが、真一は耳を貸さなかった。こっちへ来いと言われて兄のところへ走り寄ると、兄妹を中心にした大きな輪が出来た。
恋人のようだと外山に揶揄されて、玻瑠香はそうでしょうと亜紀に見せつけるかのように兄の腕にしがみついてご機嫌だ。そんな玻瑠香を無視して、亜紀は加藤の耳元で何事かを囁くと、彼は右手でOKマークを作り破顔した。彼はグラスを持ったままスタンドマイクのある所へ歩み寄った。
「みなさん、ご静粛に願います。酔い潰れる前に記念写真を撮りたいと思いますので娯楽室の前にお集まり下さい」
加藤の呼び掛けに、皿やコップをテーブルに置いてみなが参集した。
耕造を最前列の真ん中にして、その左右を施主側と計画の中心となった中川と江口が座り、2列目はその他の学生達が並んだ。真一と玻瑠香はその右端に立った。写真は亜紀と中川のスマホで交互に撮り合った。
正装して並んだ学生達を見ると、いつものラフな格好とは違って誰もが紳士淑女に映った。
パーティにドレスコードを設けたのは亜紀が考え出したことで、若さに任せた馬鹿騒ぎを避けるための苦肉の策だった。これが功を奏して、クリスマスイブの時のような無礼講状態にはなっていなかった。
パーティも中盤になると、小判鮫のようにくっついていた玻瑠香も兄から引き離され、男子学生の輪に入って上機嫌だった。恩師の妹で美人とくれば、男子学生の方が放って置くはずはなかった。女子学生の嫉妬交じりの目で見られても、それに慣れている彼女は平気だった。玻瑠香が気になるのはただ一つ、亜紀と兄の動向だが、その彼女は忙しく招待客の中を回って飲み物を提供し話の輪にも加わっている。兄はと見れば加辺の家族と刈谷の輪で何が可笑しいのか笑いこけていた。
お開きの時間近くになると、女学生3人がやって来て代わるがわる真一に抱きついて泣きじゃくった。上着を脱いだシャツは彼女達の涙と化粧で酷いことになったのだが、突き放すことはせずなされるがままでいた。
女達が離れると、お世話になりましたと次々に礼を述べに来る男子学生一人ひとりに握手をして、これまでの労をねぎらい、社会人になっても頑張れと励ました。
亜紀は最後まで黒子に徹して忙しく回った。グラスにビールがなければ注いでやり、テーブルの上の料理や酒が少なくなれば厨房から持って来た。
そんな彼女の所へも別れを惜しむ者が引きも切らず、彼女ももらい泣きした。彼らが自分を対等に扱ってくれたことが何より嬉しかった。短い付き合いだったが、彼女の得たものは多かった。
亜紀は涙をハンカチで拭い、冷蔵庫にある飲み物を取り行こうとすると、耕造を相手に談笑していた真一が江口から声を掛けられたのを機に、そこから離れ赤い顔をしてふらつきながらやって来た。酒には強いはずの彼も今日のことが嬉しいのか無防備に頬が緩んでいる。
そんな彼の姿を見て驚いた。ネクタイはひん曲がり、ワイシャツが化粧や何かで汚れている。
「その格好、どうなさいましたの?」
亜紀は目を丸くして真一に訊いたが、彼はそれには答えず、片手にグラスを持ったまま深く頭を下げた。
「亜紀さん、今日までありがとう。本当に世話になった。ここまで来られたのは亜紀さんのお陰です。改めて礼を言います」
珍しく酔って、少々呂律が怪しくなっている。
「いいえ、とんでもありませんわ。こちらこそお世話になりましてありがとうございました。本当に皆さんにはよくしていただきました。それに素晴らしい設計をしていただいて感謝の気持ちで一杯です」
そんな二人の様子を玻瑠香の瞳はしっかりと捉えていて、兄のところへ行こうとしたが、加藤に腕を掴まれ阻まれた。睨みつけても彼はへらへら笑って動じなかった。
「先生」と江口が呼ぶ声がして、真一が失礼と言って亜紀から離れようとした。すると彼女は「ちょっとお待ちになって」と呼び止めた。
亜紀は曲がったネクタイを直しポケットからハンカチを取り出すと、グラスの中の白ワインにつけ頬についた口紅を落とした。その様子を耕造が壁際の椅子に座って見て満足そうな笑みを浮かべた。その反対側で玻瑠香は加藤が話しかけるのを聞き流し、怖い顔で亜紀を睨みつけた。
「先生、来て下さい。加辺さんが呼んでます」
真一は江口に腕を取られて、盛蔵が甲高い声で話しているグループへ引き込まれた。その反対の壁際にいる亜紀の元へ茹で蛸のように真っ赤になった中川がよろけながらやって来ていきなり抱きついた。
「亜紀さん、いろいろとありがとう。亜紀さんのお陰で勉強になったわ。げふっ!あ、ごめんなさい」
慌てて口を押さえた。
「何を言っているのよ。こちらこそ中川さんからたくさんのこと教わったわ。本当にありがとう。時間があったらいつでも来てね。歓迎しますわ」
「ありがとう。松本で就職したから嫌だと言われても来るわよ」
つと顔を亜紀に寄せて小声で囁いた。
「私なりに頑張ったけど駄目だった。亜紀さんに譲るわ。頑張ってね」
いい訳する間も与えず、それだけ言い残すと、グラスを左手で支え持ちふらふらしながら行ってしまった。彼女と入れ替わりに江口が挨拶にやって来た。
「亜紀さん、ありがとう。お陰でいい勉強をさせてもらいました。ここでのことは忘れません」
「私も。機会があったらいつでも遊びに来て下さい。歓迎しますわ」
「先生さえいなかったら、僕が亜紀さんにアタックしていたのになあ」
江口が冗談ともつかない独り言を残して去った。入れ替わって加藤がグラス片手にやってきた。
「加藤さん、こちらで就職することになったんですって?」
そのことは中川から聞いて知っていた。
「ええまあ、東京はごみごみして騒がしいから、松本でのんびりしますよ」
「それは玻瑠香さんのせい?」
悪戯っぽく尋ねると、加藤はいやーと頭を掻いて、否定はしなかった。
「玻瑠香さんは手強いわよ」
「それはわかってるんだけど、怖いもの見たさかなあ、それとも険しい山を見ると登りたくなる登山家の心境かなあ。手が届かないとわかっていても、つい手を伸ばしたくなる」
加藤のどこまでが冗談なのかわからない比喩に亜紀は思わず笑ってしまった。
「頑張って。影ながら応援するわ」
お願いしますと応じて、亜紀に顔を寄せると、先生のことよろしくと馬鹿丁寧に言った。
「変な誤解をしないで、彼とは何でもないわ」
顔を赤らめて反論した。
「いいからいいから。僕も亜紀さんの応援をするから」
言い置いて彼も江口の後を追って玻瑠香の方へ去った。
亜紀は絶えず玻瑠香の視線を肌で感じていたが、何故か避けられていると感じていた彼女に話しかけることができたのはパーティが終わる直前だった。
「玻瑠香さん、ジュースのお代わりはいかが?」
「ありがとう。もう十分」
玻瑠香は空になったグラスをお盆に置いた。
「そのドレスよくお似合いだわ」
話し掛ける話題がなくて服装を褒めた。
「ありがとう、亜紀さんに褒めていただいて誰よりも嬉しいわ。この日のために兄に無理言って買ってもらったのよ。これもね」
銀のブレスレットに手をやった。
「兄の服は私が選んだのよ」
兄を見やりながら、訊かれてもいないことを話して兄との特別な関係を強調した。
「それにしても亜紀さん、誰からももてもてで羨ましいわ。まるでみんなのマドンナ見たい」
亜紀にはそれが皮肉に聞こえた。
「玻瑠香さんの方こそ。学生さん達が玻瑠香さんの回りに集まって大騒ぎしていたでしょう。あのように振る舞えるあなたが羨ましいわ」
「私のは花の蜜に群がる蜂のようなものだわ。蜜がなくなれば誰も振り向いてもくれない。その点、亜紀さんはお淑やかでみんなに愛されて私の方こそ羨ましいわ」
彼女の表情を見ると、まんざら社交辞令でもなさそうだ。
「そんなことはある訳ないでしょう。みなさんより年が上だし、それに未亡人よ」
「私の兄に対してもそれだといいけど」
玻瑠香が自分に対して反感を抱いているのは承知していたが、どうして私に拘るのか理解できないでいたが、皮肉っぽく言われて、益々ある疑念が強くなった。
真一の妹だからではなく、純粋に彼女とは親しくなって仲良くなりたいと思っているが、彼女の方がこの気持ちを素直に受け入れてくれないようだ。
騒がしかったパーティも午後2時過ぎにお開きとなった。後片付けと宿泊客を迎える準備のためだ。真一と玻瑠香は最後まで居残って学生達を見送り片付けを手伝った。妹はともかく卒業する学生達を祝ってくれたからには、それぐらいするのは当然だと思った。
タクシーに真一が乗り込むとき、盛蔵が交通費だと言って封筒を渡そうとしたが、頑なに受け取ろうとしなかった。みんなにも渡したのだからと、タクシーの外と中で封筒の押し付け合いをしているのを、玻瑠香が兄の背中から腕を回しありがとうございますと横から掠め取った。返せと兄が叫ぶのを見苦しいわよと妹が言い返しタクシーを発進させた。
玻瑠香が封筒の中身を改めながら運転手に話しかけた。
「運転手さん、長野駅までのタクシー代ってどれくらいかしら?」
運転手はしばらく考えてから、ルームミラー越しに玻瑠香に答えた。
封筒の中には、このままマンションまで走らせてたとしても十分過ぎると思えるほどの金額が入っていた。玻瑠香はにんまり笑いそのまま自分のバッグにしまい込み、運転手に茅野駅へと告げた。
真一が横を向いたまま憮然として腕を組んで座っていると、玻瑠香が唐突に亜紀のことを訊いた。
「お兄ちゃん、亜紀さんのことどう思っているの?」
「何だ、藪から棒のように」
「彼女を好きかって訊いているのよ」
「馬鹿野郎。好きも嫌いも彼女はな、未亡人だぞ。それに今も亡くなったご主人のことを想い続けている人だ。そんな人を好きになってどうする。馬鹿なことを言うな」
玻瑠香は兄が馬鹿野郎と言う時は照れくさい時か、何かを誤魔化す時だと長年の付き合いで知っている。彼女は兄の顔をじっと見た。嘘ついている顔ではなかった。兄から一度も嘘をつかれたことはなかった。もしそうならすぐにわかる。何故なら兄が嘘を言った時は誰しもが嘘だとわかるように言うからだ。それでも追求を止めなかった。
「そうかしら。彼女のお兄ちゃんを見る目は怪しいわ」
「変な勘繰りは止めろ。そんなことよりお前、男とあんまり軽々しく話をするな。男はみんな狼と思え」
小声話が運転手にも聞こえたのかバックミラー越しに見える彼の口元が緩んでいる。
「そんな古臭い言葉、今じゃ死語よ。運転手さんも笑っているわ。それにそんな男がいたらぶっ叩いてやるわよ」
「それが過信だと言うんだ。いいか、そんなところをお袋が心配するんだ。剣道が強いことは認めるが、棒きれを持たなければ所詮女だ。男の力に敵わないこともある。男と付き合うなとは言わんが、節度を持って付き合え。わかったな」
「わかったわよ。でも私より背の高い男でなきゃ、付き合わないわよ」
気ままで勝気な玻瑠香も、自分が慕い本気で自分のことを心配してくれている兄に逆らうことはできなかった。
「それがお前の欠点だな。クレオパトラの鼻じゃないが、10cmも低ければよかったのにな。顔だけ見ればそこそこもてるだろうに、その勝気な性格と背の高さがなあ。まあ、それはともかく学生でいる間は勉学に励め」
真一は分別臭くそれだけ言うと、シートに頭を預けて目を瞑った。すると突然、別れ際の亜紀の悲しそうな姿が思い浮かんだ。胸がドクンと動悸を打ったが、頭の中で終わったことだと無理に鎮めた。
亜紀は玄関先で成瀬兄妹を見送ると窓を全開にし、姪と甥に手伝ってもらって亜希子と一緒に食堂を掃除してテーブル元に戻した。半時間ほどでそれを終えると母屋に引き上げた。
母屋に戻ってもすぐに家事に取り掛かることはなかった。ほっと一息つくと、パーティが無事終了した安堵感と脱力感それに精神的疲労が亜紀を襲った。そこに、これで彼と会う機会もないだろうとの寂寞感も加わった。
これから彼を忘れる日々が始まると呟くと、重い腰をあげて買い物に行く用意をした。ほとんどアルコールを嗜んでいないので大丈夫だろう。
彼女はその夜遅く1月ぶりに実家へ電話をした。この時間母だけが起きていることを知っていた。
「お母さん、私」
「あら亜紀、珍しいわね。どうしたのこんなに遅く、元気だった?」
美智子はいつもの調子で優しく訊いた。母の声を聞いて亜紀は泣きそうになるのを堪えた。
「元気よ」
精一杯元気な声を出して答えた。
「そう言う割には疲れているように感じたけど、何かあったの?」
母親だけに、娘の口調だけで何かあったと感じ取った。それにこんなに遅く娘の方から電話してくるのも訝しい。
「ううん、何もないわ。今日学生さん達の卒業祝いパーティをしたの。その準備やら後片付けで少し疲れているだけ。パーティが終わってほっとしたから電話してみたくなったの」
「それならいいけど。学生さん達って、新しいペンションを設計していると言うあれ?」
「そうよ。ようやく設計が終わって、その感謝と慰労を兼ねて」
ペンションの建て替えや設計のことは正月の訪問時に亜紀と稲子から聞いていた。
稲子の話では、信州大学の建築学科の講師の指導のもとで新たなグリーンハウスの設計をしているとのことだったが、関心も薄く深く尋ねることはしなかった。
亜紀は母と世間話のような電話で終始し、近いうちに川越に戻るかもしれないと言いそうになるのを抑えて受話器を置いた。
(三)
桜の花も見頃となりつつある日曜日、部屋の掃除をしていると、耕造は亜紀に一緒に行くところがあるから外出の用意をするようにと告げた。彼が外出することは珍しいことではないが、亜紀を同行させるのは初めてだった。どちらへと訊いても、綺麗ななりでなと言うだけで笑って答えなかった。
車に乗り込んでから初めて行き先を告げた。
「成瀬さんのところへ行くから長野へ向かってくれ」
このことは彼の部屋で真一と亜紀の件での話が無首尾に終わり、彼が部屋を出て行った時に決めていた。
盛蔵と稲子にことの顛末を話し、二人が落胆したのを見て彼の計画を話した。そんなうまい具合にいくだろうかと懸念を示す盛蔵に任せろと請け合ったのだった。
真一のところへ行くと聞いて亜紀は驚き、連絡もしないでこの時間にいるのかしらと心配になった。お爺さんの用向きにも気になった。
「家にいるかしら」
それには耕造も楽天的だった。
「なあに、いなかったらいなかったで出直せばいい。連絡したところで何だかんだと理由をつけて会ってはくれんじゃろう。そうじゃないか?」
確かにそうだ。彼の言動から推し量ると、それがお爺さんであったとしても、もっともらしい理由をつけて素直に会ってくれるとは思えなかった。それならダメ元で押しかけた方がいいと亜紀もほぞを固め、車を諏訪南インターに向かって走らせた。
長野駅前のデパートで商品券を買ったので、彼のマンションに到着したのは4時過ぎだった。
来客用駐車場に車を停め、ここですと508号室の前に立つと、躊躇する亜紀をよそ目に耕造がドアホンを押した。暫くして玻瑠香の声で応答があった。
亜紀が出ようとしたのを耕造が押し留め、ドアホンに向かって名乗った。
「加辺じゃが、お兄さんはご在宅かな?」
一瞬の間があって、お待ち下さいませと返事があって通話が切れた。ドアを開ける様子がないから、兄にどうするか確認しているのだろう。
「どうやらいるようじゃな」
振り返って亜紀にニヤリと笑いかけた。無駄足ではなかったとほっとして彼女も微笑んで頷いたが、頬は強張っていた。彼がどんな顔をして会ってくれるのか。それでも耕造が一緒だから心強かった。
それほど待たされずにドアが開いて、ジャージ姿の真一が顔を覗かせた。
「いらっしゃい。どうぞお入り下さい」
訪問理由を糺すことなく、耕造の陰に隠れて立つ亜紀を認めても驚きもせず二人を中に迎え入れた。
「それではお邪魔するよ」
玄関口に揃えられたスリッパを履き、真一の先導でリビングへ行くと、いらっしゃいませと玻瑠香がにこやかに迎えた。耕造の前では彼女も淑やかだ。
「突然押し掛けてすまんな。あんたの綺麗な顔を見たくて来てしまった」
如才なく応じて、勧められたソファに腰を下ろした。
「まあ、お爺さんたら、本当のことを言って」
玻瑠香は耕造の肩をぶつ真似をして、お茶の用意にキッチンに立った。
耕造は、はははと闊達に笑って、珍しげに室内を見渡した。亜紀も同じように首をぐるっと巡らせた。
前にきた時とは様変わりしていた。あの時は無味乾燥とも言えた室内が、いつの間にか華やいだカーテンに変わり、調度品や飾り物などで、まるで新婚夫婦の住まいのように華やかで明るくなっている。彼の趣味ではないことくらいわかるから、玻瑠香が自分好みに買い揃えたのは明らかだった。
黒のチノパンと紺のトレーナーに着替えた真一は二人の前に座った。
「折角の休みに突然押しかけて済まんな」
「いえ、日曜日は何があっても自分の時間にしていますから、気になさらないでください」
その内に言うだろうと、突然訪れた理由を訊かずに応じた。
「そうかい。中々結構な住まいじゃな」
耕造はもう一度ぐるりと室内を見回した。
「狭いですが、妹と二人で住むにはこれで十分です」
「しかし、結婚して夫婦で住むことのなればちょいと狭いかも知れんな」
来て早々、際どい話題で亜紀は身を固くした。
「そんな予定はありませんし、あったとしても妹が出て行くでしょうから、贅沢しなければこれで十分です」
キッチンからコホンと咳がした。
「ふーん、今時の若いもんはそんなものか。古い時代のわしにはちょっとな」
「耕造さんとこのお屋敷に比べたらマッチ箱のようなものですから」
「いやいや、ただ古いだけでそんなこともないが・・・」
玻瑠香が長い脚を折り、膝を床に付けて耕造の前に茶卓を置き湯呑を乗せた。そこから立ち上がるとぐるりと耕造の背後を回り込み亜紀の前にも置いた。
亜紀はありがとうと小声で言った。玻瑠香は立ち上がる時、ちらりと彼女を一瞥した。
玻瑠香は兄と自分のためのお茶を置くと兄の隣に腰を下ろした。その様子を耕造は感心して見ていた。
「成瀬さん、あんたの妹は親御さんの躾がよく行き届いている。今時の娘にゃ中々そうはできん。感心した」
満更お世辞とは思われない讃辞に、玻瑠香はにっこり微笑んだ。
「母は兄には寛容ですけど、私には厳しいからいつも損ばかりしています」
「その分いつも妹に苛められています」
真一が苦笑気味に言った。
「ははは、男親は娘に弱く女親は息子に甘くなると言うから、それは仕方がないかも知れんのう」
耕造はお茶をずずっと飲んだ。亜紀も湯呑に口を付けた。その厳しい母から躾けられたのだろう、いい湯加減と味だった。
「そうなのよ、お爺さん。お袋ったら兄には甘いくせに、私にだけ家事を手伝えとか女の子はそんなことするもんじゃありませんって口煩いのよ。嫌になっちゃう」
「はっはっは」
耕造は彼女が自分のことをお爺さんと気安く呼びかけてくれるのが嬉しくて上機嫌で笑った。
亜紀は目の前の玻瑠香がミニスカートの長い脚を窮屈そうに折り曲げ深く座ったから、同性とは言え目のやり場に困った。それと察した真一は妹に苦言を呈した。
「お前、いくらなんでもそれは短すぎるだろう。金を出してやるからもう少し長いものに替えろ」
玻瑠香はそれを軽く一蹴した。
「嫌よ。お兄ちゃんまでお袋と同じことを言わないでよ。これは若さの特権だから見られたって平気よ。亜紀さんは同性だし、お爺さんはもう枯れているからいいのよ。それにお兄ちゃんには裸も見られているし」
玻瑠香は際どいことを言った。
亜紀は目を白黒し、耕造は枯れていると言われて大声で笑った。
「おい、変なことを言うな」
真一は慌てて玻瑠香を睨んだ。口ではそう言っても、自分には優しいことを知っている妹には何の効果もなく、さらに言い募った。
「何よ、最近まで一緒にお風呂に入った仲なのに」
亜紀を意識しての発言に違いなかろうが、それででびっくりして思わず兄妹を見比べてしまった。
「お客さんの前でそんな話をするな。誤解されるだろ」
懸命に弁解するのを耕造は面白可笑しく見ていた。
玻瑠香は、はいはいと軽く受け流した。
「どっちにしたって、小母さんになったらもう穿けないんだからいいでしょ。お爺さんも同じ堅い意見ですか?」
兄の苦言に矛先を耕造に向けた。小母さんと言ったときにちらりと亜紀を見た。
「そうさなあ、男にゃ少々刺激が強すぎるきらいはあるなぁ。若さの特権と言われれば言い返すこともできんが」
耕造は仏頂面をして黙り込んだ真一を見て笑った。
兄妹同士の言い合いが終わったのを見計らって亜紀は「お爺さん、これを」と紙袋を差し出した。
「おお、そうじゃ忘れておった。刈谷の作ったものの方が良かったかも知れんが、思い立って出て来たもので間に合わんかった。それで途中で買って来た。口に合えばいいが」
「ありがとうございます。お爺さん、これはなんですか?」
玻瑠香は袋を受け取りながら、無遠慮に袋の中身を覗きながら訊いた。そんな無作法なことも彼女がすればいやらしく見えないから不思議だった。
「珍しくもないが、地元名物の和菓子じゃ。来て間もないあんたはまだ食べていないかも知れんと思ってな」
「わぁ、嬉しい。今いただいてもいいですか?」
「いいとも」
耕造は機嫌よく笑いながら応じた。
玻瑠香は紙袋を持ってキッチンへ立った。
耕造は物怖じしない玻瑠香を好ましげに見ていたが、顔を真一に戻すと近況を尋ねた。
「忙しいのは承知しているが、花見には行ったのかな?」
「いえ、まだです。妹にせがまれて次の日曜日に松本城へ行くことにしました。桜も丁度その頃が見頃でしょう」
「松本城もいいが、わしのところも悪くないぞ。今はまだソメイヨシノがちらほらじゃが、そのうちに山桜や大島桜も咲き出すじゃろう。そのほか数種類の桜があるから、一度見に来てはどうじゃ。この時期だけは地元の人にも広場を開放するから賑やかだぞ。もし、あんたらが来るのなら、地主の特権で特等席を用意しておくが」
玻瑠香が鎌倉彫の菓子器に載せた抹茶初栗を各自の前に置いた。
「ありがとうございます。お気持ちだけいただきます」
「そうか」
あっさり断られた耕造は落胆してソファに深くもたれた。
亜紀は「お爺さん、これを」と声をかけて、紫の
「おお、そうだ。あんたが准教授に昇格したと聞いてな、たいしたものではないが、お祝いの品を用意した。黙って受け取ってもらえるとありがたい」
袱紗を開き、お祝いと書かれた熨斗が付いた封筒大の箱を真一に渡そうとした。しかし、彼はそれを受取ろうとはしなかった。それは亜紀も予想していたことで驚きはしなかった。パーティのときのタクシー代もそうだったし、お歳暮を贈った時も丁重な断り状を添えて送り返されてきたからだ。
「申し訳ないですが、加辺さんに限らず家族以外のお祝いは全てお断りしています。お気持ちだけいただきますので、お納め下さい」
真一は紙箱を押し返した。
「そう言われてもな、はいそうですかと持ち帰る訳には行かん。スーツでも仕立ててもらおうと思ってな。ただの商品券だから、あまり堅苦しく考えないで受け取ってはくれんか」
二人の間で受け取れ受け取らないの応酬の見苦しい状態に決着をつけたのは今度も玻瑠香だった。小箱を押し合うのを見て、それでは私がと兄の横からさっと奪い取ったのだ。
「二人とも意地の張り合いで収拾がつかないでしょう。だったら私が代わりにいただくわ」
「おい、返せ」
「お兄ちゃんがいらないなら、私が服を仕立ててもらうわ。お爺さんいいでしょ?」
「駄目だ。お返しろ」
亜紀は呆気に取られて成り行きを見守るだけだったが、突然耕造が、わっはっはと大声でひとしきり笑った。
「あんたの妹には負けた。確かに玻瑠香さんに受け取ってもらわにゃ収拾がつかん。兄貴が受け取らないのなら、ここは入学祝として玻瑠香さんに贈ろう。それならいいじゃろう。それまで嫌だと言う権利はあんたにはない」
真一もここは譲りどころと判断した。
「わかりました。仰る通りにします。玻瑠香、耕造さんにお礼申し上げろ」
玻瑠香は贈り物の箱を胸に当ててにっこり笑った。
「ありがとうございます。仕立て上がったら、真っ先にお爺さんにお見せしますわ」
彼女は年寄りを喜ばすコツを弁えている。そう言ったところは到底敵わないと亜紀は呆れながらも感心した。
「そうかい。楽しみに待っているよ」
耕造は上機嫌で応答した。真一は苦笑するしかなかった。
「ところで、耕造さんがここに来られたのは、花見のお誘いでしたか?」
耕造が中々用件に入ろうとしないので痺れを切らして尋ねた。
「いや、今日はあんたにお願いがあってやって来た。何も言わずに聞き届けてくれんか」
「何のお話しか知りませんが、ちょっと怖いですね」
冗談めかして言ったが、耕造の用件には、恐らくこうではないかと見当が付いていた。
「先日断られたことは承知しているが、無理を承知でどうしてもあんたに工事の監理を願いしたいのじゃが、どうじゃ・・・」
「申し訳ないですが、耕造さんの頼みであってもお断りします」
予期した通りの要請に真一は取りつく島もないほどに即答した。カウチソファで膝を揃えて畏っていた亜紀は身を固くして顔を伏せ、頂き物を頬張る玻瑠香は満足気に頷いた。
すんなりとは引き受けてはくれまいと耕造も覚悟していたが、亜紀のことを思うとそう簡単に引き下がる訳にはいかなかった。
「どうしてだ。監理料ならきちんと支払うが」
「監理料云々で断るのではありません。確かに中には本業が教師か設計士かわからない人もいます。ですが、私は教師である限り、本来の職分を全うしたいのです。そう言った意味で、誰であろうと設計料や監理料をいただくつもりはありませんし、引き受けるつもりもありません。
これまで頼まれてやむなく設計をしたことはあります。大学教師とは言っても一介のサラリーマンですから、上司である教授を通して頼まれれば拒否することはできません。しかし、それだって設計料は今言った理由で受け取ったことはありません。堅苦しい奴と思われるかもしれませんが、それが私の矜持なのです。正直言って、そういったことに関係なく引き受けたのは加辺さんのところが初めてなんです。申し訳ないですが、それが学生のためになると判断したからなのです。
一旦引き受けると顧客と何度も協議しなければなりません。それに、計算したり図面を引いたりして、本業に必要な時間が取られてしまいます。施工監理も同じです。
大学教師の本分は学生に学問を教え指導すること、学問を研究しそれを発表して社会に貢献するものだと私は理解しています。余分なことをすればその時間がなくなってしまいます。そう言った意味でも教師が副業を持つことには個人的に賛同できないのです。
私が対価を得て設計あるいは施工監理を引き受けるときは、大学を辞めて独立するか、どこかの会社に入ってからだと決めています。ですから無闇に引き受けないのはそう言った理由からなのです」
真一は長々拒否する理由を述べると、どうかご理解下さいと頭を下げた。
耕造はうーんと唸って腕組みして黙った。理路整然と説明されて断られると、耕造でも中々無理を言い難い。横を見て亜紀を窺うと彼女は哀しそうな顔をして下を向いていた。彼女のためにもここは簡単に引き下がれないと臍を固めて思い切った行動に出た。
「あんたの気持ちはよくわかった。多忙なこともよくわかる。そこを曲げてお願いしたい。これこの通りじゃ」
やおらソファから立ち上がると、その横に膝をつき深々と額を床に擦り付けて、頼む頼むとそのまま顔を上げなかった。
亜紀は突然のことにびっくりして、お爺さん!と叫んで中腰のままフリーズした。真一は2度目のことで前の時ほど驚きはなかったが、亜紀と妹がいる手前、前回以上に困惑して慌ててソファから離れると、伏せたままの耕造を後ろから抱き起こそうとした。しかし、耕造はこの通りと抵抗して頭を上げようとはしなかった。
「そんなことをされたら困ります。どうか頭を上げて下さい」
真一は耕造の肩を揺すったが、頼むの一点張りだった。亜紀はなすすべもなく中腰のままで固まり、若い玻瑠香は芝居がかった状況にただ唖然として成り行きを見守るだけだった。
やがて真一は深い溜め息をついて言った。
「わかりました。お引き受けしましょう。とりあえず頭を上げて下さい。僕が困ってしまいます」
「そうか、聞き届けれくれるか」
耕造は現金に頭を上げると嬉しそうに笑った。その前で玻瑠香は不機嫌そうに亜紀を睨みつけていた。
「ですからどうかソファに腰を下ろして下さい」
真一が差し出した手を両手で握って押し頂くと、立ち上がりながら何度もありがとうありがとうと礼を述べた。真一は耕造さんには負けると苦笑した。
「それでペンションはいつまでに完成させるおつもりですか?」
一旦引き受けると真一の切り替えは早かった。
「それは倅に任せているから盛蔵に訊こう。亜紀さん、済まんが盛蔵に電話をして訊いてくれんか」
はいわかりましたと亜紀は立ち上がった。嬉しさを隠すためにリビングの隅まで行って電話をかけた。
2、3のやり取りをして戻って来ると、遅くても文化の日までに完成させたいとの盛蔵の意向を告げた。小声で義父が喜んでいたと耕造に耳打ちすると、そうかそうかと相好を崩した。
真一は膨れっ面をしている妹に、壁に掛けているカレンダーを持って来させた。
「確認済証は申請してから35日以内に交付されることになっています。申請書類と構造計算適合性判定に不備があれば更に35日間延長されますが、そんなへまはしません。交付までに施工業者を決定したとしても、逆算すると工事期間は半年もありません。準備期間もあり、かなり切迫していますから、すぐに建築確認の申請をしましょう。申請書類はこちらで作成して2、3日のうちに誰かに持たせますので、申請者欄に署名をお願いします。自署であれば捺印は不要です」
「それでしたら、ご連絡をいただければ、私が研究室まで押印に参りますわ。それならば代理署名でも構いませんわね?」
それを聞いた玻瑠香は亜紀を睨んだが、彼女は素知らぬ振りをして無視した。
「いや、その前に消防署の同意が必要です。その手続きもこちらでしますから、誰かに持って行かせます。確認済証の交付を受ければいつでも工事を着手できますが、加辺さんの方でどこか工務店の心当たりがありますか?」
「なくはないが、安くていいものをこしらえるところがあれば拘るつもりはない」
「それでは私が懇意にしている2、3の工務店と耕造さんご紹介のところへ見積り依頼をして、それも任せていただけるのなら、その中から選定しましょう。ただし、過去の実績とか財務状況などを総合的に評価しますので必ずしも最低金額を提示した会社に決めるとは限りません。もちろん、選定理由はご説明しますが」
「お願いする以上、お前さんに一任する」
信頼できる真一が引き受けてくれるからには、どんな無理でもきくつもりだ。
「監理者には建築士の私がなりますが、実務は原則としてこれまでのように学生に任せます。それもいいですね?」
「いいとも」
真一との縁が切れさえしなければ、耕造にとってそれは些末なことだった。
それまで事務的だったもの言いが、ぐっと砕けた感じになった。
「それにしても耕造さんのやり方は卑怯ですよ。あんな風にされたら誰だって断れやしない」
土下座されたのは2度目だが、愚痴の一つも言わなければ真一も腹の虫が収まらなかった。
「そうかい。それは済まんかった」
耕造は軽く聞き流してにっと笑うと真一もつられて一緒に笑って壁時計をちらりと見やった。
「玻瑠香に晩飯を作らせますから食べてって下さい」
「いや、それは済まん。それじゃ、お言葉に甘えてご馳走になろう」
亜紀が遠慮する前に、初めからそのつもりだったかのように耕造が返事してしまった。
耕造は亜紀に向き直って指示した。
「稲子に電話をしてな、晩飯は要らんと言ってくれんか」
「でもお爺さん、遅くなっても夕食を作らないと」
そうだそうだと言わんばかりに目の前の玻瑠香が頷いても、耕造は素知らぬ振りをした。
「なあに、構わん。子供じゃあるまいし、稲子がなんとでもするじゃろう。嫌なら刈谷に頼めばいい」
せっかくここまで来たからには、彼らともっと話したかった。
日曜日の二人水入らずのところへ他人がずかずかと入り込んで、しかも自分に火の粉が降りかかった玻瑠香は抵抗した。
「お兄ちゃん、そんなことを言ったって冷蔵庫に何もないわよ」
明らかに歓迎ムードではない玻瑠香に、それなら買って来いと兄はにべもなかった。
膨れっ面のまま玻瑠香は兄から財布を預かり、出て行こうとしたのを耕造が呼び止めた。
「たまには市内を見てみたい。足でまといになるかもしれんが、わしも一緒に行こう」
玻瑠香に支払いをさせるつもりなど毛頭なかった。
「それでは私も行きます」
亜紀も玻瑠香一人に耕造を任せるわけにはいかなかった。それに自分一人がここに残るのを玻瑠香が嫌うだろうとの思いもあった。
「そうかい、それなら成瀬さんあんたも一緒に行こう」
玻瑠香の手料理をご馳走になり、耕造と亜紀がマンションを離れた時は8時近くになっていた。
彼女の料理は中々のものだった。亜紀も手伝おうとしたが、あっさりと断られキッチンに入ることさえ出来なかった。もし、亜紀がここで真一のために食事を作ったことを知られたなら、どのようなことになるか。
帰りの車の中で、亜紀と耕造は成瀬兄妹のことで取りとめのない話をしていた。
「亜紀さんに及ばないが、思いのほか美味かったな」
「お母様に厳しく躾けられたのだと思いますわ」
「そうだろうな。しかし、彼女の話は面白かった。ほとんど兄自慢だったがな」
夕食のときはほとんど彼女の独り舞台で、兄と自分の昔話ばかりだった。亜紀を意識してのことは歴然だった。
真一は自分のことを持ち出されて、好い加減にしろと仏頂面していたが、耕造は玻瑠香の話に笑い転げ、亜紀は初めて聞く身内話に驚きを持って耳を傾けた。
玻瑠香が中学生になるまで真一と一緒の風呂に入っていたという事実にも驚きだったが、彼女がまるで兄をトレースするような高校生活を送ったと知って、単なる兄妹の関係では済まされないものを感じた。
「それにしても引き受けてくれてほっとしましたわ。一時どうなるかと思いましたけれど、いきなりあんな奥の手を出すのだものびっくりましたわ」
「そうかい。彼とはそれほど話したことはないが、年寄りを大事にするじゃろうとわかっていたから、あんな風にして頼めば断れないだろうと踏んでいたんじゃ。大学へ行くことも考えたんじゃが、まあそこまでする必要がなかろうと判断した。それに、彼が住んでいるところも見たくてな。第一、学生がいる前で土下座した日には彼も迷惑じゃろう。わしもそんな真似はしたくない、ははは」
「お爺さんて策士ね」
その時の彼の慌てた様子を想像して亜紀も一緒に笑った。
「時にはああいった大仰な真似をしなきゃならんときもある」
はははとまた肩を揺すって耕造は満足気に笑った。
「後は亜紀さんに任せるよ」
任せられても亜紀には二人の関係を進展させる自信などまるでなかった。ただ、切れかかった糸がいっときであっても元に戻せたことは嬉しかった。
6月の下旬に新グリーンハウスの基礎工事が終わり、柱や梁を組み始めた。亜紀も起工式の用意や作業員のお茶出し、時折施工監理にやって来る真一や学生の接待なんかで多忙な日々を送った。
そろそろ上棟式の準備をしなければと思っていた矢先、思いもかけない来訪者が亜紀を訪ねて来た。
「成瀬さんの妹さんが、亜紀ちゃんを訪ねて来ているけど、そちらへ回ってもらう?」
そんな電話が義母から亜紀の携帯にかかって来たのは昼過ぎのことだった。
玻瑠香さん?自分に何の用事だろうと不審に思いながら、咄嗟にこちらで会うのは不味いと気が付いた。何かの拍子に修一の写真でも見られでもして、要らぬ詮索をされるのを避けたかった。
「お義母さん、私がそちらへ行きます。娯楽室へ通しておいて下さいませんか」
そのように頼み、鏡で自分の顔と姿を確認すると足早にグリーンハウスへ向かった。彼女の用件は真一のことしか考えられなかった。
ロビーで亜紀と顔を合わせた稲子は怪訝そうな顔をしていた。彼女も玻瑠香が一人で訪ねてきた意図が掴めなかったのだ。そう言えば、兄がこちらへ来る時は一緒だと言っていたのに、大学への出席のためか施工監理にも来ていない。
「何か深刻そうな顔をしていたわ。すぐに帰るからお気遣いなくと言ってたけど、何かしらね」
訪問の意味がわからず、気掛かりそうな義母に頷いて娯楽室へ行った。
木製ドアをノックして中に入ると、サイドボードに腰を下ろして山岳雑誌を見ていた玻瑠香が立ちあがった。亜紀は少し見上げる形になった。
「突然押し掛けてごめんなさい。またお目にかかれて嬉しいわ」
社交辞令を言ってにっこり笑いかけた。亜紀もぎこちなく微笑み返した。
「もう、大学には慣れまして?」
「ええ、兄がいろいろアドバイスしてくれますから」
玻瑠香は兄を強調しておいて、挑戦的な目で亜紀を見つめた。
「いいお兄様ね。今日はどのようなご用件で?」
亜紀も負けずに目を逸らさず、やや切り口上で言った。外国人はアイコンタクトを取ると彼女の兄が言っていたのを唐突に思い出した。
「いいえ、特別な用件ではないの。兄がお世話になっているお礼と、亜紀さんとゆっくりお話する機会がなかったから、工事の進捗を見がてらやって来ましたの」
にっこり微笑んで言って、すぐに付け足した。
「と言えば嘘になるわ。本当を言うと、兄とあなたの関係を知りたくて来たの」
単刀直入な問いに、はあと間の抜けた返事しか返せなかった。電車を乗り継ぎタクシーを使ってここまで来たのだろうが、そのような用件でわざわざ来たのかと呆れてしまった。
二人の関係を彼女の兄にも同じく問い質したのだろうが、木で鼻を括ったような回答しか得られなかったのだろう。それにしても、それを知ってどうしようというのか。彼女の来訪の意図がますますわからなかった。
「関係ってなにも・・・。あのときお話したとおりだわ。今はご存知のように工事の監理もお願いしていますけれど」
「本当にそれだけの関係なのかしら?」
「本当にそうなのよ」
実際彼女が疑っているような関係ではないのだから、それ以外に答えようがなかった。
「だったら特別なお付き合いとかはしていないのね?」
「ええ、そうよ。お兄さんと暮らしているのなら、それくらいはわかると思うけど」
彼女の決めつけた言い方に反発を覚えて、彼女にしては珍しく皮肉っぽく言った。
もちろん、私的なことで電話をかけたことは一度もない。彼からの連絡だって同様だ。
「兄はね、頭がいいの。校長先生が家に来てまで東大を受験するように勧めたくらい頭がいいの。それに運動神経もいいし面倒見もいいから、女子生徒にはもてたのよ。だから、あなたが好きになることくらいわかるわ」
わざわざ兄の自慢話をしに来たのかしらと思ったほど、彼女の兄への傾倒ぶりが目立つ話しぶりだし、私の気持ちまで決めつけるのは度が過ぎている。
「好きも何も、お兄さんとは数えるくらいしか会っていないわ。それもほとんど口を利いていないし。それに私から会うつもりはないわ」
自分の気持ちを彼女に曝け出す気はさらさらなかった。
「本当ね。だったら、それを証明して欲しいわ」
「証明って何を?」
「たとえ、兄が変なことを告げたり態度を示したとしても、それに同調しないと約束して欲しいのよ」
「はい?変なことってどういうことかしら?学がないから仰っていることがよくわからないわ」
この娘は一体何を言い出すのかと呆れてしまった。
「簡単なことよ。兄があなたに好意を示したとしても無視して欲しいのよ」
彼女がどうしてそんなことにまで首を突っ込んでくるのかますますわからなかった。何故だかわからないが、彼から私を引き離したい強い意思だけは伝わった。妹の嫉妬にしては少々異常に思えた。
「どうして私のことがそんなに気になるのかしら。第一お兄さんは私にそんな素振りを 一度だって見せたことがないわ」
思い返しても、彼女に勘ぐりをされるような態度を取ったり取られたりするようなことは思い当たらなかった。まして彼女の前では尚更だ。
「いくら私が馬鹿だって毎日一緒にいれば兄の様子ぐらいわかるわ。兄はあなたに関心を持っているわ。だからそれらしいことを言ったとしても、聞き流して欲しいの」
お願いしますと玻瑠香が殊勝に頭を下げた。
自分にも兄がいるから彼女が兄を慕うのは理解できる。ブラザーコンプレックスだと言うには彼女の行動は少し常軌を逸している。どうして私のことに拘るのか亜紀には理解できなかった。
(私のこと、とことん嫌いなのかしら)
「仮に彼がそのようなことをしたとして、どうして私があなたの言う通りしなければならないの?」
彼女の真意を探るために、わざと挑戦的に言った。「兄が好きなの。ずっと小さい時から」
言われなくても彼女の態度を見れば歴然だ。ただその中身が問題なのだ。
「でも、あなた達兄妹でしょ。好きなことはわかるけど、それ以上のことはできないわ」
彼女の真意を探るために、わざと挑戦的に言った。 あくまでも亜紀は冷静だった。
「いいえ、手続きは必要だけど結婚はできるわ。私と兄は血が繋がっていないもの。戸籍上は兄妹だけど、実際は血の繋がらない赤の他人なのよ」
やはりそうなのかと腑に落ちた。彼のマンションへ押しかけた時の彼女の態度や今の行動からして、もしやと思ったことが本当だったのだ。そうでなければ 、いくら兄のことが好きだといっても、ここまで干渉する訳がない。そんなことより、図らずも彼女の口から真一が実子ではないとの事実確認ができたことの方が亜紀には重要だった。
「どうして・・・」
「知ったのかって?父と母が伯父と話しているのをたまたま立ち聞きしたのよ。それで伯父を問い詰めて白状させてわかったのよ。
兄貴が養子だと知った時はショックだったけど、それよりも嬉しくて目の前がバラ色になって一辺に明るくなったわ。思わず神様に感謝したわよ。これで大好きなお兄ちゃんと結婚することもできるんだって。
お兄ちゃんと結婚して、お兄ちゃんの子供を産んで育てるのが私の小さい頃からの夢だった。だから、中学でも高校でもいろんな男の子が言い寄って来たけど、お兄ちゃんしか目に映らなかったわ。
これでやっと想いが叶うと思ったら、突然あなたが現れたのよ。あなたを一目見て、私の敵だとすぐにわかったわ。兄が好きになるタイプだから」
「敵だとかタイプだとか一方的に極め付けられても困るわ。お兄さんの方から一度だって私に連絡を取ってきたことがないわ。逆に私を避けてさえいるわ」
「そこが怪しいのよ。兄は恋愛上手じゃないけど、好きでもない人に冷淡になったりはしないわ」
「それは・・・」
「だから、本気だってわかるの。なぜ、避けるのかわからないけど、関心を持っているのは確かよ。それで、亜紀さんはどうなの。本心を訊きたいわ。あなたが好きだと言っても、引き下がるつもりはないけど」
こうまで挑戦的に言うのなら、ここは曖昧にせずはっきりと告げるべきだと思った。
「私も真一さんのことが好きよ。でもこれは縁のものだから、お兄さんが動かない以上、私からも働きかけるつもりはないわ。だからと言ってあなたの邪魔だてはしない。それだけは玻瑠香さんにお約束するわ」
玻瑠香なりに精一杯虚勢を張っていたのか、挑戦的な態度がほっとした表情に変わった。
「さっき、実のご兄妹でないと仰ったけど、そのことお兄さんに言ったのかしら?」
「まさか。私も馬鹿じゃないわ。そんなこと言ったら、すぐに追い出されてしまうわ。でも私にはわかる。あなたさえいなければ、絶対私のところへ来るって。今は妹としか思われていないけど、絶対兄に相応しい女だと認めさせるわ、卒業までにね」
大した自信だ。黙っていればいいものを、気負っているのか、焦っているのか、それとも純真と言うべきか、そんなことをわざわざ言いに来るだけ、まだ子供だと思った。
結局この会談は亜紀に対して宣戦布告をしたことと、彼女の方からは動かず、邪魔立てもしないとの言質を取ったことで、彼女なりに満足するだけに終わり帰りの徒についた。
彼女が帰ると亜紀は考え込んでしまった。
彼を慕う女の一人や二人いてもおかしくない。むしろいない方が不自然に思える。しかし、まさか妹である彼女がここに来てまで宣言するとは思ってもいなかった。私を敵視する理由がこれではっきりとした。彼女のお陰で今の状態をいつまでも続けることは、周りの人に迷惑がかかることだと知った。といって、彼が心を開かない以上、亜紀にもどうしてよいか思案がつかなかった。
加藤さんもお爺さんも義母もそれに真一の身近にいる玻瑠香でさえ、彼が私に関心を持っていると言う。ところが、自分の方から近付こうとしない彼を見ていると、嫌われてはいないとわかっていても、当事者の亜紀にはその実感が伴わなかった。行きがかりで好きだと言ってしまったが、何故か彼女への闘争心はおろか嫉妬心すら湧かなかった。
ああは言ったものの、冷静になって考えてみれば、彼は優秀で未来も明るい。学生達に慕われ准教授にもなった。いずれ教授にだってなれるかも知れない。加えて非凡な才能を沢山持っている。翻って自分を思う時、何一つ誇れるものがない。学はないしそれほど社交的でもない。家事だけを黙々とこなすどこにでもいる主婦に過ぎない。仮に彼と夫婦になったとして、彼のために何ができるだろう。何もできやしない。いやそれどころか彼の将来にとって障害にすらなるのではないか。そんな風に考えると、亜紀は大それた想いを抱いているのではないか、私にその資格があるのだろうか。そう思うと急に怖くなった。
愛する資格もないのに、修一のことを整理つけたいがために彼に縋っているだけではないか。相応しいと言えば、玻瑠香ほど相応しいと相手はいない。誰よりも彼のことを知り尽くし、彼もまた妹を愛しているのだから。
そんな屈折した気持ちを抱いたままロビーへ行くと、待ち構えていた稲子が心配そうに声をかけて来た。
「亜紀ちゃん、玻瑠香さんの話は何だったの?強張った顔をして帰って行ったけど」
「いえ、大したことではありませんでした。お兄さんがここでお世話になっているお礼と、これからはお兄さんについてこちらへ来ることへの挨拶でした」
稲子についた初めての嘘だった。とても本当のことを言えることではなかった。稲子は釈然としない表情をしていたが、そうとだけ言って後は何も訊かなかった。亜紀はごめんなさいと心の中で詫びた。
(四)
亜紀が汗だくになって、板の間の床をレモンオイルで拭き掃除をしているとスマートフォンが鳴った。画面を見ると加藤からだった。彼からの電話は真一のマンションでのクリスマスパーティーへの誘いを受けた時以来だ。何だろうと訝しく思いながら耳に当てた。
「やあ、亜紀さん、お久しぶりです。ご無沙汰してます。加藤です」
相変わらず屈託のない声だ。
「お久し振りね。お変わりはありません?」
「元気にしています。ところで先生が入院したことをご存知ですか?」
時候の挨拶もそこそこに訊いてきた。
「いいえ、知りませんでしたわ。どこかお悪かったのかしら?」
加藤の声の調子で、それほど驚きもせずにのんびりと尋ねた。
「やっぱり、ご存じなかったんですね。僕もたった今慶子からの電話で知ったばかりなんです。
彼女が言うには、松本キャンパスでの特別講義中に腹痛を訴えて医学部附属病院に運ばれたらしいんです。そのまま入院して昨日午後、手術が終わったそうですが、今日か明日が山らしいんです。僕もこれから病院へ行くところです」
今日か明日が山・・・。加藤の告げた内容が深刻で、病名も訊かないまま通話を切っていた。電話の向こうで加藤が何か言っていたようだったが、気が動転して耳に入っていなかった。目の前が真っ暗になって、あの忌まわしい過去のことがフラッシュバックのように蘇った。あのような思いは二度としたくない。我に帰った時には無意識にサンダル履きのまま外に出ていた。
病院へ行かなくてはと呟きながら、深呼吸をして一先ず気を落ち着かせると、急いで自分の部屋に入った。服を脱ぐのももどかしく適当に着替え、化粧をあらためることなくセダンに乗り込むと松本に向けて走った。
運転していても、周りの景色が目に入らなかった。軽い病気であって欲しい、たとえそうでなくても命だけは助かって欲しい。何としてでも助けたい。彼が死んだらどうしようと、そんなことしか頭になかった。あの時のことが頭によぎって、悪い方へ悪い方へと思考が先走った。
諏訪インターを過ぎたころ、助手席に置いていたスマートフォンが鳴った。ディスプレーには稲子の名が表示されていた。そのときななって義母に断りを入れずにいたことに気が付いた。諏訪湖サービスエリアで車を停め、義母に事情を話すと彼女も驚いて、こちらのことは心配せずに付き添うように言ってくれた。停車したついでに気持ちを落ちつけようと手洗いに入った。
病院の受付で教えられたのは、西病棟8階の特別室だった。特別室と言われて、亜紀は重篤な病気で面会謝絶かもしれないと思い込んだ。不安一杯のまま急ぎ足で病室まで来ると、あははと能天気な笑い声が漏れ聞こえて来た。病室を間違えたのかとドアの横に貼られている名札を確認すると彼の名だった。不審に思いつつドアを小さくノックした。その音が聞こえないのか笑い声が止まない。強く叩くと急に静かになった。中でドアを注目している気配が亜紀にも伝わった。尻込みしたくなる気持ちを奮い立たせてそっとドアを開けると、ベッドの周りいた3人がこちらを見た。躊躇して佇む亜紀を加藤が認めて駆け寄って来た。 室内は亜紀が来たことで、それまで砕けていた雰囲気がぴんと張り詰めたものになった。
「亜紀さん、早かったですね。僕も今来たばかりです。さあこっちへ」
気後れする亜紀の背中を押して患者のベッドの脇へ導いた。
真一は半身を起していて、来てくれたんですねと掠れた声で言った。不精髭が伸びていたが、意外にも元気そうなので、思わず振り返って咎めるような目で加藤を見た。彼女は酸素マスクをして意識不明だと勝手に思い込んでいた。
加藤はえへへと頭を掻いた。窓側の真一の枕元には玻瑠香が立っていて怖い顔で亜紀を見据えていた。
彼女は場違いなところへ入ったような気がして、何も知らずにやって来た自分が恥ずかしくて小さくなった。そんな気配を察した加藤が、そろそろ帰ろうやと後輩に声をかけ、抵抗する玻瑠香の背中を押して無理やり病室から連れ出した。
心配気に立つ亜紀に、真一はそこへ掛けてと優しく声をかけた。弾かれたように俯いたまま椅子に腰を下ろした。なりふり構わずに来た自分に羞恥心が一杯で中々頭を上げることができなかった。
「心配を掛けて済みませんでした」
「具合はよろしいの?」
他人行儀な物言いに悲しくなりながらも小声で訊いた。
「大したことはない。単なる盲腸だから」
「盲腸?」
重い病気と勝手に思い込んでいただけに、意外な病名に思わず
「そうですよ。虫垂炎。だから、わざわざお見舞いに来てもらうほどの病気じゃない。尤も遅れれば腹膜炎を併発していたかもしれないと医者から脅されたけど」
彼の気楽な回答にそれまで張りつめていた亜紀の体から一気に力が抜けた。
「あの、加藤さんの電話では、今日か明日が山だと仰っていましたけれど・・・」
「山?」
真一は一瞬何のことかわからなかった。
「加藤の奴どうしてそんなこと言ったんだろう。多分それはガスのことじゃないかな」
それ位しか思い当たらなかった。
「ガス?」
「おならですよ。それが出ないと食事も摂れないからそれを大袈裟に言ったんじゃないかな。中には3日も4日も出なくて大変な人もいるようだけど、亜紀さんが来るちょっと前にそれが出たから大丈夫。本当に心配を掛けました」
ベッドの中でぺこりと頭を下げた。
それであの時みんなが笑っていたのかと納得した。
「それを伺って安心しました。加藤さんから聞いた時には、びっくりして何も考えずに飛んで来てしまって。でも本当によかった」
ほっとしたのか、最後の方は涙声になっていた。そんな亜紀に真一は驚いた顔をした。
「手術の後で痛いことはないの?」
「麻酔が切れた時は痛かったが、痛み止めの座薬をしたから大丈夫。笑うと腹が捩れて痛いけど。それを知りながらわざと笑わそうとするんだ。ひどい奴らだ」
安心させようとしてか、冗談めかして陽気に話した。
「慌てて来ましたから、お見舞いもなくてごめんなさい。義父と義母がお大事にと言っておりました。何か入り用のものがありまして?」
気が動転していたとはいえ、手ぶらで来たことを恥ずかしく申し訳なく思った。
「いや、妹が身の回りのことを全部してくれたから何もない。重病人でもないし完全看護だから付き添いが要らないのだが、妹が主治医に頼みこんで、つきっきりで看病してくれた。口うるさい奴だけど、こんな時は助かる」
彼女は絶好の機会と捉えて甲斐がいしく面倒を見ているのだろう。そんな様子を想像して何もできない自分の胸の内に騒ぐものがあった。
玻瑠香がノックもしないで入ってきた。亜紀と反対の元の場所に立つとじろりと彼女を
「加藤さんが明日また来ると言って帰ったわ」
「今度来るとき、花の一つでも持って来いと言っとけ」
「ごめんなさい。慌てて来たものだからお見舞いも気がつかなくて」
自分に言われたようで小さくなった。
「いいんですよ。そんなつもりで言ったんじゃない。気にしないで下さい」
「お兄ちゃん、亜紀さんには優しいけど、加藤さんには
玻瑠香は兄の唇をティッシュでぬぐった。
「わざわざ遠いところをお見舞いありがとうございました」
玻瑠香から礼を言われたが、亜紀には辛子の効いた皮肉に聞こえた。
「お兄ちゃん、大分髭が伸びたから剃るね」
玻瑠香は亜紀に見せつけるかのようにいそいそと髭剃りの用意を始めた。亜紀にはそれがもう帰れとの合図に思えた。
「大事ないとわかって安心しました。それでは帰ります。お大事になさって下さい」
「ありがとう。心配掛けて申し訳なかった。皆さんにも心配しないように言っておいて下さい。お見舞いありがとう」
真一は引き止めなかった。それも彼女には悲しかった。
「兄は2日後に退院しますので、安心して下さい」
出ようとする彼女を玻瑠香の言葉が追いかけて来た。亜紀はそれを暗にもう来るなとの意味に受け取った。ゆっくりと振り向いて頭を下げて病室を出た。
駐車場で稲子に連絡を取った。病名と2日後に退院する旨を報告すると、それはよかったと心から安堵したようだった。電話を終える間際、戻ったらお爺さんのところへ行くように告げられた。
「そうかい。単なる盲腸でよかった。今倒れられたら、わしらも困る。尤も一番悲しむのは亜紀さんかも知れんが」
亜紀から真一の様子を聞くと耕造も安心して、下手な冗談を言ってからからと笑った。
「ところで、少しは進展があったのかな」
彼を想い続けるのは分不相応ではないかと考えて悶々としたこともあったが、彼の入院でそれが吹き飛んでしまった。
修一のことを完全にふっ切るにしても、彼のことを諦めるにしても、自分の将来を語るにも、真一が生きていなければ始まらないことを今回のことで思い知らされた。
「いいえ、以前のまま何も変わっていません。でも彼の病気で自分の気持ちがはっきりしました」
「ほう、それは何じゃな」
「今回の件で、私にとって彼がいない世界は考えられないとわかりました。けれど、お爺さん。私にはもうわかりません。修一さんのことが二人に重く圧し掛かっているのにどうしていいかわからないの。何とか心を開くようにしたのだけれど駄目でした」
いつも温かく見守っていてくれている耕造に、亜紀は何でも素直に話すことができた。 彼女の正直な気持ちの吐露と素直な訴えを耕造は優しい目をして聴いてくれた。
「彼と会ってからどれくらいになるかな?」
それは早1年が過ぎようとしていた。その間、彼らの間には進展らしきものがみられなかった。クリスマス・イブのパーティ以来、かなり接近したと思っていたのだが、真一の自分に接するときの態度は依然変わっていない。亜紀の見るところ、その理由は一方的に真一側にあった。
「もうそんなになるか。亜紀さんのお手並み拝見とばかり言っておれんな。これはわしの勘なんじゃが、彼は完全にわしらと縁を絶とうとしているのかも知れん。どうもそんな気がする」
耕造の意外な言葉に亜紀は思わず皺深い顔をじっと見てしまった。
「彼のことだから、引き受けたことは最後までやり遂げるじゃろう。しかし、それが終わればもうわしらとは関わりを持たないようにするつもりなんじゃろうな。盛蔵とも相談して母屋の改装も頼むつもりじゃったが、もしそうだったら、わしがいくら土下座したところで無理じゃろう」
「男の人のプライドってそんなに大事なものなのでしょうか?」
彼女にはそれが理解ができなかった。それで平常心を装って訊いた。
「まあな、亜紀さんは素直だから理解できないのも無理はない。人によってはすぐに捨てる奴もいるが、彼はそうではないのじゃろう。でなければ、そんなに悩むはずがなかろう。まあ、彼にしたところで今の状態がいいとは思っていないに違いない。賢いだけに早晩見切りをつけて何らかの決断を下すかも知れん」
「どのような?」
「思い切ってプライドを捨てるか、さもなくばさっき言ったように潔く身を引くか。いずれにしても亜紀さんの出方にかかっている。このまま放っておけば、恐らく退く方になるじゃろう」
思慮深い耕造がそう思うのならば、それが正解なのだろう。亜紀は絶望感に襲われた。
「だったら、私は何をしたらいいの。私なりに精一杯頑張ったつもりです。彼が変わらない以上、もうどうしていいか何もわからない。縁がなかったものと思うしかありません」
最後の方は涙声になった。
「そうさなあ」
憐れむように彼女を見てから、腕を組み瞑目したまま考え込んだ。亜紀は縋るような思いで義祖父を見つめた。耕造は1分ほどして目を開け腕を解くと、やはりそれしかないかと呟くように言った。
「亜紀さん、わしがこれから言うことは、修一のことではうまくいくかも知れんが、亜紀さんには悪い方に転ぶかも知れん。それでもいいか?」
「何のことかわかりませんけれど、今のままでも同じことです。たといそれで悪くなったとしても、縁がなかったものと思い定めます」
亜紀には選択肢はなかった。
「本当だな。もしうまくいかなかったら、川越に戻るとわしに約束してくれるか?それが条件じゃ」
亜紀はもとよりそうするつもりでいた。それで決然として言った。
「わかりました。お約束します。そのときは、お爺さんの仰る通りにします」
耕造はまた目を瞑り、かっと開けると言った。
「よし、わかった。それでは言おう。以前に教えてくれたな、修一が双子の兄か弟じゃないかと彼が疑っていると」
「ええ、そうお話しました」
「それなら、彼と長崎へ行っておいで。原点に立ち返ったら何かが変わるかも知れん。それに賭けるしかない。
彼は周辺の状況から判断しているだけで、100%双子であると確信している訳でもないんじゃろう?だったら、それを確信に変えるんじゃ。
双子の兄弟だと知ったところで何も変わらんかもしれん。何も変わらないからと言って、ただ手をこまねいているだけでは何も始まらん。いずれにしたところで、良くも悪くも決着をつけなくてはならん。どうじゃ、行くか?」
耕造は修一と真一がほぼ間違いなく双子の兄弟であると知っている。だが、それを伏せて亜紀に問うた。
行くかと問われて、牧師さんはまだ健在なのかしらと亜紀は思った。あれから30年余りも経っている。それでも、行きますと即答した。それしかないなら、それがお爺さんの下した結論なら、たとえうまくいかなくても納得できると思った。ただ・・・。
「彼が行くかどうかわかりません。いまさら家族に波風を立てたくないと言うの」
「そんな泣き言を言ってどうする。自分の将来がかかっていると思ったらそんな悠長なことは言っておれんじゃろう」
耕造は亜紀を叱咤した。
「わかりました。彼が退院したら、首に綱を付けてでも行って来ます」
耕造はにっこり笑ってうんうんと頷いた。たとえ自分の思惑通りにならなくても、孫のことを完全にふっ切る機会となる可能性に賭けた。そうならなければ遠藤家に対して会わせる顔がない。そう言った意味でも彼なりの覚悟と期待があった。
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