第五章 二人の間(一)
(一)
年が明け、大学の講義が始まるとプロジェクトチームは活動を再開した。チームリーダーの中川が数量算出、単価調査、仕様書作成にグループ分けすると、研究室も電卓やノートパソコンのキーを叩く音で騒がしくなった。
それと並行して亜紀も多忙となった。中川から内装と室内設備を早く決めてくれと催促されたからだ。
厨房設備関係は全て刈谷が決めたからいいが、そのほかの設備の選択によっては、間仕切りの一部を変えなければならないかもしれないからだ。ところが、机やベッドの調度品だけでも多様多種あり、内装もカーテンに照明と多義に渡っていて、それらを部屋に合わせて、色、柄も決定しなければならない。加えて空調設備もあった。もし、眼鏡に叶うものがなければ、特別注文をしなければならない。全てを一任されているだけに責任は重大で、かつ中川から急かされて焦りがあった。
クリスマスの日に加藤と別れた後、亜紀はあちこちの店に回って、おおよそのことを決めたのだが、ここにきて彼女に迷いが生じた。家具やベッドはともかく、洗面台に障害者用浴室といった室内設備には、色んな機能のついたものがあって、何がいいのか判断がつきかねたのだ。
電話で済ませるわけにもいかないので、真一の意見を聞こうと研究室に足を運んだが、生憎彼は不在だった。この時間、彼の講義はないはずだった。
中川らとああでもないこうでもないと鳩首協議したが、経験のない者同士、納得のいく結論が出るはずもなかった。30分ほど話し合いをして、その後は世間話に終始した。それでも、日頃の母屋に閉じ籠っている彼女には楽しい時間だった。
1時間ほど研究室にいたが、真一が戻ってくる様子がなかった。堪らなくなって、「先生は」と尋ねた。
「え、亜紀さんは知らなかったんですか?」
加藤が驚いた様子で、逆に訊かれた。
「何を?」
「先生は今ドイツへ行ってるんです」
「そうなんですか。出張か何かで?」
外国なら暫くは帰ってこないだろうと、内心がっかりしながら何の疑問も抱かず訊いた。
「私的な用件らしいです、佐藤教授に勧められて。なあ、慶子」
「用件までは知らされていないけど、行くついでに知り合いの事務所を訪ねると言って、帰ってくるのは今度の日曜の予定なの」
不在理由を聞き、落胆して亜紀は原村へ帰った。
彼がいない間、家具や設備をネットで検索したり、茅野市にある家具店へ足を運んだりもしたが、知識の浅い彼女では解決に至らなかった。思いあぐねた彼女は、悩んだ末にやはり彼の知恵を借りることにした。中川の言った通りなら、彼は帰国しているはずだった。
稲子に真一に会う用件を告げると快く了承し、ちょっとと亜紀を招き寄せると耳元で何事かを囁いた。姑の大胆な言葉に、亜紀は思わず身を引いて姑の顔をまじまじと見つめて頬を染めてしまった。そんな彼女を尻目に、自分の肩を2度ポンポンと叩きながら、その時は夕食の用意は私がするからと言い残して受付裏の小部屋に入った。
亜紀は稲子が去り際に言った真の意味を知って立ち尽くした。と同時に隠していたはずの自分の気持ちを姑に知られていたことに動揺した。
彼は付き合ってくれるかしらと危惧を抱きつつ、思い切って中川に真一の都合を問い合わせた。あいにく外出中だったが、一時間ほどして彼から電話があった。返電とはいえ彼から直接の電話はこれが初めてだった。用件を告げると、意外にも気安く請け合ってくれて、日曜日に長野駅で待ち合わせることになった。どうして車で来ないのだろうと不審に思ったが、その時の彼女の気分なのだろうと深く考えずに当日を迎えた。
その日の長野市内は朝から曇りがちで、氷点下を示す厳しい寒さだった。
真一は他の乗客に紛れて改札口へやって来る亜紀をすぐに認めた。彼女も黒ずくめの真一を発見して、待ちくたびれた恋人に応えるかのように微笑んで小さく右手を上げた。
真一は内心の動揺を抑え平静を装った。それほど彼女の回りだけ明るいように見えた。
この日の彼女はいつものワンピース姿ではなく、明るいベージュでやや膝上のタイトなミニのスカートにクリーム色のフード付ダウンジャケットで身を固めていて、足元はヒールが低い茶色のロングブーツだった。吐く息は白い。彼女なりに暖かい服装にしたつもりなのだろうが、真一の目には薄着に映った。一方の真一は黒のチノパンに黒のトックリの薄いセータと黒のジャケットを着て待っていた。亜紀はそれを遠くから見て、あんなので寒くはないのかしらと思った。
改札口で立つ真一ににっこり笑いかけ、改札から出ると白手袋の両手を前に揃え丁寧に頭を下げた。
「明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします」
年が明けて二人が会うのは今日が初めてだった。
真一も慌てて新年の挨拶を返した。亜紀から自筆の年賀状をもらっていたのだが、筆不精の彼は出していなかった。その詫びも併せてした。
彼女の流麗な筆致を年賀状で初めて目にしたのだが、これが本当に視覚障害者だった人が書いたものかと感嘆した。彼女の話では視覚を取り戻してから5年ほどしか経っていないはずだ。漢字を覚えるだけでも大変なのに、まして毛筆で書くようになるまでにどれ程の努力を要したのだろう。そう思うと、自分が悪筆だけにますます近寄りがたい存在に思えた。
「お待ちになって寒かったでしょう。喉が渇きましたから、駅前のホテルでコーヒーでも飲みません?」
真一もこれからのことを打ち合わせるために、駅ナカのカフェでと考えていたが、ホテルまでは思い至らなかった。自分はともかく、彼女の服装を見ると、騒がしい場所には似つかわしくないし、打ち合わせにも適当ではないと反省した。
改札口を出た途端、主導権を亜紀に握られた格好の彼は自分の不手際に舌打ちをした。
自宅のマンションへ来て以来、彼女の何かが変わったような気がした。それと同時に、彼女の洗練された姿に圧倒され、自分がみすぼらしく見えるのではないかと、いつもの身軽な格好で来たことを後悔した。
亜紀に先導される形で、駅からの通路を渡りホテルに入った。いつの間にか外は粉雪が舞っていた。
1階のロビーラウンジは隣接したレストランの朝食時間がほぼ終わりなのか客は少なかった。
亜紀は椅子の横に立ちジャケットを脱ぐと丁寧に畳んで横の椅子の上に置いた。そのときかすかに甘い香りがした。ぼーっと彼女の仕草を見ていた真一にはそれが香水かどうか特定することなどはできなかった。ただ、そのかすかな香りがいかにも彼女らしく好ましく思えた。
上着のその下は薄手の淡いクリーム色のタートルネックセーターで、細身の身体を強調していて、無意識に胸の膨らみに目が行って慌てて目を逸らした。そして、そんな薄着で寒くはないのだろうかと改めて思った。そんな月並みな感想を抱きながら、ついつい目が泳いでしまう自分が情けなかった。
「どこかおかしいところがありまして?」
剥き出しの膝を少し気にしながら真一の様子を見て言った。
「いや、そんなことはない。よく似合っている」
亜紀に見透かされたようで、真一は慌てて答えた。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「いや、そんなことはない」
亜紀の服装は、外出する時に何を着ようかと姿見の前で散々迷った挙句、今日の服装を選んだのだが、褒められて素直に嬉しかった。
彼女は服装に
彼の慌てように亜紀は思わず小さく笑った。
「何か可笑しい?」
「ごめんなさい。以前あなたがおっしゃったじゃありませんか、話すときはアイコンタクトを取るんだと。それが今は・・・」
「ああ、そんなことを言ったな。これは前言を取り消さないと行けないかな」
真一は頭に手をやって苦笑した。確かにそのようなことを言ったが、それは随分前のことのような気がした。
亜紀はにっこり微笑み、コーヒーを口に運んだ。真一もコーヒーカップを取りながら、彼女をそっと窺った。今日も装飾品と呼べるものは身に付けておらず、マニキュアすらしていない。またそれがまた真一には好ましく映った。
「どうかなさいましたの?」
「え?」
「あまり口をきかないから、機嫌が悪いのかと思ってしまいますわ」
真一は苦笑した。そうか、黙ったままでいると不機嫌にみえるのか。言われてみれば、確かに仏頂面をしていただろうなと反省した。何だか今日は反省と後悔ばかりだなと自嘲した。今日の彼女は違って見えた。
「そんなことはない。寝起きはいい方だし、機嫌も悪くない。ただ、今日はあの時とは違って、イヤリングやマニキュアをしていないから、どうでもいいことだが、どうしてなのかなと・・・」
「ああ、そのこと。日常はいつもこのようなものですわ。あのときはパーティですし、恥をかいてはいけないからって、陽菜ちゃんが選んでくれてそれを着けましたの。今日は遊びではないつもりですから、余計なものは身に付けないで来ました。どこか変かしら?」
亜紀は自分の胸から下を見て言った。つられて真一も彼女の胸に目が行き、慌てて目を逸らして否定した。
「いや、そんなことはない。ワンピース姿を見慣れているせいか、その服装が新鮮に映る」
「褒め言葉と受け取っておきますわ」
うふふと笑うと彼の背後を窺った。
「今日は妹さんとご一緒じゃありませんの?」
「いや、正月明けから来たいと愚図るのをお袋が無理矢理止めた。卒業式が終われば自分の荷物を持って来るけど、どうなることか今から戦々恐々としているよ」
口ほどには怖がっていない様子で言った。
「玻瑠香さんとはどんなご兄妹ですの?」
「どんなって、普通ですよ。ただときどき突拍子もないことをするから驚かされる」
それが何かを彼は説明しなかった。それでも妹のことを話した。
「あいつはまだ子供で13歳も年が離れているから喧嘩にもならなかった。今は定年で辞めているけど、親父は田辺市役所の公務員で、当時は安月給なのに勧められるまま、分不相応な家を持ったもんだから生活は苦しかった。お袋はパートに出ていたから、僕が子守り役だった。だから学校から帰るとあいつのオムツを替えたりミルクを飲ませたり寝かしつけたりした。だから子守りはうまいもんだよ」
それで子供の扱いが上手なのかと納得した。それにしても自ら家族のことを話すのは珍しい。少しは気を許してくれたのだろうかと内心嬉しかった。
「妹が生まれたのは僕が中学1年の時だった。それくらいの年齢で年が離れた妹がいると恥ずかしいものだが、
休みの日に高校の文化祭のことで、どうしても学校へ行かなくちゃならないことがあって、妹を一人で家においておくわけにもいかないから一緒に連れて行くと、意外にも女子にちやほやされてその日は一日嬉しかった」
真一はあははと笑い、彼も普通の男の子だったのかと思い、亜紀はうふふと笑った。
「それはそうよ。私がそこにいても同じだったと思うわ。きっと母性本能が
「その頃はキューピーさんみたいに巻き毛で目がくりっとしていて可愛かったからな。
とにかく幼いころから面倒をみたせいか、今でも親の言うことは聞かなくても僕には素直に従ってくれる。僕の背中を見て育ったからブラザーコンプレックスになったのかもしれないな」
そうじゃないとのよ言いたかったが、彼の反応を試すようで黙っていた。
「信州大学に入学する時は、私も信州へ行くんだとわんわん泣いて離してくれなかった時はほとほと困った。
いつまでも子供に思えて、甘やかせちゃいけないとわかってはいるんだが、突き放せなくてついつい小遣いを与えてしまうから、お袋が渋い顔をする」
「妹さん想いで、お兄さん想いなのね」
普通には麗しい兄妹愛と聞き流すようなことだが、亜紀は心中穏やかではなかった。それで少し皮肉を利かせたつもりだが、それには気がつかない様子だった。
「中学に入ると剣道をやり始めて、高校ではインターハイに出るまでに上達したから、大したもんだと思う。女で生徒会長にまでなったところをみると、それなりに人望もあったんだろうな」
これ以上、彼女のことを聴いたところで益がないと思い、話題を変えた。
「お正月はどのようにお過ごしでしたの?」
個人的なことを尋ねてどうかなと思ったが、それも杞憂に終わった。
「元旦に初詣に行って、親戚の挨拶まわりをして、何年か振りに高校のクラス会にも出席した。三日の日には妹にせがまれて大阪まで買い物に付き合わされた。女のショッピングに付き合うのは苦手だから、お年玉をやるから一人で行って来いと言ってもクリスマスのことを持ち出すから、仕方なく付き合ってやった。お袋もそうだが、どうして女は買い物に時間をかけるんだろうな。100円ショップで買うのでさえ、時間をかける心境がわからん」
真一は頭を振りながらカップを手に取るとコーヒーを飲み干した。
「妹さんに限らず女はみんなそうよ。私だって、蜜柑一個買うのでも、じっくり吟味しますもの。でも、妹さんのこととなると随分甘いのね」
ちょっぴり
「そんなことはないと思うんだが、日頃兄らしいことをしてやれないせいか、たまに会った時くらい優しくしてやろうと思うんだろうな、多分」
他人事のように言って会話が止まった。
今に始まったことではないが、訊かれたことには答えても積極的に亜紀に問いかけることはなかった。だから彼らの会話はいつも長続きしなかった。それでも妹に関しては饒舌だった。
修一とデートしたときは、彼は亜紀の日常のことを訊きたがったのに、真一はそのようなことが一切なくてむしろ不満さえ覚えた。
義母の紹介でお見合いをした相手は亜紀のプライベートなことまで詮索した上、自分のことをよく思わせようとする態度があからさまで好感が持てない人が多かった。その点、彼は自分自身のことを進んで語ることがなく、必然彼の自慢話に類することは彼から一度も聞いたことがなかった。彼のことを知るのはいつも学生を通じてだ。それを好ましく思う反面、そこまで徹底されると、親しくない全くの他人のようで物足りなさを感じた。自分の矛盾した気持ちに自嘲しながら、私のことに関心がないのかしらと寂しく思った。
そんなことを考えていると知ってか知らずか、真一は本日の用件に話を戻した。既に1時間近くが経っていた。
「内装設備の相談だったね。内装は盛蔵さんがそのまま木目を生かしたいと言ってくれたから、それは製材所勤務の経験豊富な盛蔵さんにお任せするとして、今日は家具、それと水回り設備を見て回って幾つか選択しようか」
大事なことは、僕や店員の意見は参考程度に留めて、それに左右されることなく自分の感性を信じること。価格についての交渉は後で幾らもできるから、今日のところは参考程度に聞いておけばいいと彼の意見を述べた。
「時間があれば照明の店へも回りたいが、恐らく今日は無理だと思う。まあ、それは慌てて決めることでもないから、亜紀さんがじっくり選択すればいいと思う」
「それで結構ですわ。よろしくお願いします。でもお時間の方はよろしいの?」
「土曜日は頼まれた設計なんかをやるが、日曜日だけはどんなときでも自分の時間の日に決めているから大丈夫。さあ行こうか」
支払いは私たちのことで貴重な時間を遣うのだからと亜紀が済ませた。真一も黙ってそれに従った。
ホテルを出ると、まだ小雪が舞っていた。真一のマンションの駐車場まで歩き、彼の車で家具と水回りの専門店を回った。
車はかなりの年数が経った中古車だが、彼女を乗せるために車内の清掃と洗車は済ませていた。
店では亜紀に感想を求められても、意見を簡単に述べるだけで、自分の感性を大事にしてとだけ言った。彼女がこれはと選択したものはどれもOKサインを出した。亜紀は店員からカタログやパンフレットをもらい、そこに細かく自分の感想をメモした。それを真一は黙って見て従っていた。
市街と郊外の2店を回ったところで、1時を大きく回り、食事を摂ることにした。
何にするかと訊くと、亜紀は珍しくフランス料理かイタリア料理をと希望を述べた。理由は単純で中華料理や焼き肉だと臭いが服に移ると困るからとのことだった。その理由が真一には新鮮に思えた。彼はその時の食べたいものを食べる主義で、そんな風にして食事を決めたことがなかった。
真一が時々利用する市役所近くのイタリアレストランに入りAコースを注文した。
「お食事はいつもどのようになさっていますの?」
兄を身近で見てきたが、両親と同居しているから、男一人だけの生活が実感できずにそう訊いた。
そう言えば、自分のことを問われるままに答えて、一度として修一の私生活を尋ねたことがなかったことに思い当った。思い返して、彼には申し訳ないことをしたと後悔の念が再び湧き上がった。
「朝は牛乳かコーヒーにトースト。昼は大学にいるときは、学生達とわいわい言いながら学内の食堂で摂ることが多いな。夜はコンビニなんかで弁当を買って食べることもあるけど、やはり外食が多いかな。気が向けば適当に料理をすることもある」
「あら、料理がおできになりますの?」
彼が料理をするのを意外に思った。大男の彼がエプロン姿で台所に立つ姿を想像して笑いが込み上げてきた。
「もちろん。そう馬鹿にしたもんじゃない。山小屋にいたときはこれでもコックだよ。君のように上手じゃないが、今の時期だったらカレーか炒飯それに水炊きとか、一、二品で済ませられるものが多いかな」
聞く限りでは自慢するほどのものではなかった。
「あまり手の込んだお料理ではないわね。栄養が偏って体によくないわ」
「3月になれば妹が来るから、奴に作らせるよ。ただで住まわせてやって、おまけに勉強までみさせられるだろうから当然だろう」
「妹さんもお料理を?」
何となく台所には縁遠いような気がしていたから意外に思った。
「亜紀さんほどじゃないが、ああ見えて研究熱心で、小さい頃から母に仕込まれたから大抵のものは作るよ。その代り、少しでも残そうものなら後が怖い。ははは」
さもありなんと亜紀も一緒に笑いながら、クリスマス・イブの夜に挑戦的な目で自分を見た玻瑠香を思い出した。
「それはそうですわ。愛情を込めて一生懸命に作ったものを、がつがつ早食いしたり残されたりしたら、私でも嫌ですもの」
支払いの段になって二人の間で不毛なやり取りがあった。ここでも自分の用件で貴重な時間をもらったのだからと押し切り、亜紀がカードで支払いを済ませた。出るとき、彼女の帰る時間が気になって訊いた。
「何時までに帰ることになっているのかな?」
「決めてはいません。義母から遅くなってもいいと言われていますし、中々こうして一緒に回れる時間が取れないでしょうから、真一さんさえよければ少々遅くなっても構わないわ」
「それじゃ、電車に乗る時間もあるから、4時を目途に回ろう。これから行くところも付き合いのあるところだから便宜を図ってくれると思う。だからって、そこの店に決める必要はない。何度も言うようだが、値段を聞いてもそれに引き摺られないで、自分が希望しているデザインと機能が合っているか、お客さまにとってどうか、と言うことで最後は自分の感性を信じること。価格については高いと思っても、交渉の余地がいくらでもあるから」
「はい、わかりました」
「それでは行こうか」
小雪が舞う中、郊外へと真一は車を走らせた。
ここでも真一が中に入ると、顔見知りの店主がやって来た。写真撮影をしてもよいかと尋ねると、二つ返事で了承した。
家具と同様にこれはと思った洗面台、浴槽などは何枚も角度を変えてスマホに収めた。気づいたこと、必要と思う事項などを自分の手帳にメモするのも同様だった。真一は求められた時だけ意見を述べた。それも彼女は几帳面にメモした。
4時近くになって回り終えたのは1店だけだった。ただ付いて回るだけの真一もさすがに疲れた。それに反して亜紀はそんな素振りも見せず、店員に熱心に質問をしてはメモに取った。車に戻って運転席に落ち着くと思わず洩らした。
「亜紀さんの体力には驚いた。僕はへとへとになってしまった」
「真一さんが仰っていたじゃありませんか、女の買い物は長いって。女は買い物が生き甲斐だから、自分の興味や関心があるものにはどんなに回っても時間をかけても疲れることはないわ」
恐れ入りましたとおどけると亜紀は声に出して笑った。それでは駅まで送りますと告げると、彼女はスーパーマーケットに寄りたいと言い出した。真一の頭に?がついたが、了承して車を発進した。
雪で白くなった大型スーパーの駐車場に車を停めると、亜紀が先に立って店内に入った。
亜紀はカートを押して品定めをしながら次々と買い物を始めた。途中からは真一がそれを押して後について回った。店内を一回りした時には、カートの上と下の籠の中は食料品で満杯になった。ついて回りながら真一はこちらの方が原村より安いのかなと単純に思った。それにしてもこれだけの量をあの細い体でどうやって持ち帰るのかと心配になった。彼の頭の中に原村まで送るとの発想が抜け落ちていた。
支払いを済ませて、レジ袋に次々と買ったものを詰め込むのを見て、真一は思わず声をかけた。
「冷凍食品と生鮮食料品を分けて袋に入れてくれたら、僕の冷蔵庫に保管しておいて、後日中川か江口に持って行かせるが」
すると、手を止めずに驚きべきことを亜紀はさらっと言った。
「いいの、これから真一さんのマンションでお料理するから」
予想もしていなかったことに思わず、ええっ!と声を上げそうになり、少し赤くなった澄まし顔で袋詰めをしている亜紀を思わずまじまじと見つめてしまった。彼女は見られていることを意識しながらも平然としていた。
「私に行かれて困ることがありますの?」
「いや、そんなことはないが、独身の女性が一人で来るのはちょっと・・・」
「夫を持つ人妻が一人で男性のところへ行く方がもっと悪いでしょう?」
言葉で女に勝てるわけがなかった。
「それゃまあ、理屈ではそうだが・・・。でも、1週間掃除をしていないから散らかっているけど」
精一杯頭をフル回転して断る理由を見つけ出そうとしたのだが、それくらいしか言えなかった。
「構わないわ」
あっさり一蹴されてしまうと、それ以上抗弁できず、日頃あの物静かな彼女が、人が変わったように積極的に振る舞う真意を測りかねたまま、行きましょうと促されるまで、彼女が詰め込んだ袋を4つ持って立っていた。
(二)
台所からトントンと音がするのを亜紀に促されるままカウチに座って不思議な気分で聞いていた。玻瑠香が使っているエプロンをして彼女が料理しているのだ。これまで一度も想像したことのない光景だった。
彼女が自分のマンションで自分のために料理をしてくれていることが、何か別の世界の出来事のように思えた。台所に立つ前に掃除をすると言うのを断り、真一は散らかったものを片付けながらリビングダイニングと自分の部屋に掃除機をかけた。見られて困るものはないが、彼女に掃除までされた日にはこちらが落ち着かない。もし、誰かと結婚をしたとすれば、毎日このようになるのだなと、彼にしては珍しい想像をして一人で照れて、テーブルに置いてある新聞を取り気詰まり解消を繕った。
亜紀が予想した通り、呆れるほど冷蔵庫には何もなかった。彼女は一つひとつ丁寧に買ってきた食品を中に納めた。冷凍冷蔵庫は食料品で一杯になった。彼女はまず電気釜と米のありかを訊くと手早く米を研いだ。
新聞を読んでいてもそれに集中できず、気詰まりな真一は「ワインを切らしているから30分ほど出て来る」と言い訳じみた言葉を残してマンションを出て行った。
ドアの閉まる音を確認して、亜紀はIHヒーターの電源を切って忍び足で真一の部屋へ行った。入るのはこれが2度目だが、主がいるはずもないのにドアノブに手をかけたとき胸の鼓動が早鐘のように鳴った。
部屋の中は急いで片づけたらしい痕跡がありありだった。
机上の真ん中にノートパソコン、上方にヒビが入った湯呑をペン立てにして鉛筆が数本あった。右隅の方にはメモ用紙と本が積まれ、左隅には前回にはなかった例の写真立てが置かれていた。
メモ用紙も3枚あって、それはどこかの家のラフなデッサンで、ところどころ引き出し線でコメントを記している。何やら難しい数式もあった。それを元通りに戻すと、ごめんなさいと小声で断って机の抽斗を開けた。夫の机を無断で覗いている妻のような気分になっている自分に可笑しかった。本人の存在を意識してか、修一の部屋のときよりもどきどきした。
上段の抽斗には筆記用具等の文房具類、中段の抽斗には手帳があった。中身を見たい誘惑に駆られたが、さすがにそれを開くのは憚われた。ほかには彼女の好奇心を満たすものは何もなく、左側の抽斗も同じく整然としていて、関心を惹くものはなかった。
アルバムはないかしらと室内を見渡したがそれらしいものも発見できなかった。書棚はあの時のままだ。
彼女の好奇心を満たすものは一つとしてなく、がっかりして部屋を去る間際に机の真ん中の大きい抽斗をまだ確かめていないことに気が付いた。再び机の前に戻ると、何の気なしにペン立て代わりの湯呑の下に目が行った。そこに敷かれている丸いものに見覚えがあった。それはペンションの計画の依頼をしたときに行ったレストランの物だった。
亜紀は懐かしさを覚え、それを手に取り何気なく裏を返して思わず息を吞んだ。裏の白地に肩から上の自分の顔がボールペンで描かれていたからだ。円縁に沿って書かれた小さな数字は初めて彼の研究室を訪れた日付だった。
それでその時の情景を思い出した。ホクト文化会館の洗面所から戻ったとき、彼はコースターを戻していたから、化粧を直していたわずかな時間に描いたのだろう。
素人とは思えない見事な絵だ。しばらくそれを見て、元に戻さずミニスカートのポケットに入れた。それからそっと真ん中の抽斗を開けると、鉛筆書きの建物の図面が数枚無造作に入れられていた。彼のデッサン力は既に承知しているが、建物も精緻で見事なものだった。
更に下を探ると、色鉛筆で彩色された絵の一部が目に飛び込んできた。何かしらとA4サイズのそれをそっと抜き取ると、木の幹に寄りかかった女が現れたから今度は声を上げそうになった。いや、声を上げていたかも知れない。遠目で描かれたその女は紛れもなく自分だったからだ。
幹以外の背景がデフォルメされているので自分の悲しげな表情をよく捉えていると思った。しかもそれは彼が振り返って自分を見たあの一瞬のときのものだ。ワンピースの柄と髪の長さで池の畔のときのもので違いなかった。あの時と異なるのはサングラスをかけていないことだ。
自分では意識していなかったが、彼の目にはこのように映ったのか。
紙を離したり近づけたりして観た。本当によく描かれている。なまじ写真よりも、この絵の方がそのときの気持ちを端的に表していると思った。
いつ描いたものか知らないが、細部までよく記憶しているものだ。彼は見たものを頭の中に焼き付けることができると言っていたが、これもそのとき焼き付けたたものだろうか。
他にもないかと探ると2枚見つかった。どちらも鉛筆書きのものだが、彩色は施されていなかった。
1枚はベンチに座り、過去を語っている時のもの。もう一枚は、彼女がしゃがみ込み両手で目を覆っていて、その傍らに真一が立っているものだ。いずれの構図も彼らの斜め後ろ上部から俯瞰したものだった。後ろ向きで表情がわからないが、彼の困惑している様子がこの絵から伝わった。
建物の絵もさることながら、こうして自分のポートレートを見ると彼の非凡な才能に圧倒される思いだった。
彼女を描いた絵はそれよりほかにはなかった。腕時計を見ると30分近くが経っている。そろそろ彼が戻ってくる頃合いだ。しばし逡巡した後、3枚の絵を手にして部屋を出た。
ついでに洗面所と風呂場も覗いてみた。思っていたより広くて、洗面所には男女の歯ブラシに歯磨き粉、ドライヤーとシェービングクリームに女性用の基礎化粧品があった。洗濯機の横の籠の中には洗濯物が脱ぎ捨てられていたから思わず目を逸らした。
ダイニングに戻ると、持ち出した絵が折れ曲がらないよう店でもらったカタログの中に挟み込み、コースターはバッグに入れた。それから、何事もなかったかのように再びキッチンに立って料理の続きを始めた。
彼の疲れた様子と簡単に食べられるようにと甘味のあるすき焼きにして、里芋、人参、葱に豆腐の味噌汁とほうれん草のおしたしを作って彼を待った。夫を待つ妻とはこんなものなのだろうかとの思いに耽って一人赤くなった。それを現実的なものとして思えるのは亡夫のお陰だと感謝し忘れてはならないと思った。
亜紀は改めて室内を見渡したが、クリスマス・イブの時と変わりがなかった。リビングにはカウチソファと食事用テーブルがあるくらいで生活臭があまりしない。
温めた牛乳のカップを両手に持ち、彼の家に一人でいることの不思議な想いに耽っていると、カチャッとドアの開く音がして、真一が足早にダイニングに入ってきた。
「いやー、お待たせ。歩いて行ったから寒かった。いつも行くコンビニに好きなワインがなくて、少し遠い酒屋まで行ったから遅くなった」
真一はワインとチーズをテーブルに置いてキッチンの方を見た。
「やあ、すき焼きですか。随分久しぶりだ。赤ワインにしたから丁度よかった」
彼が素直に喜んでいる様子に、押しかけて迷惑だったのではと内心危惧していただけにほっとした。
「卓上コンロはあります?ある程度は出来ているけれど、テーブルの上で温めながら食べたほうが美味しいでしょうから」
それくらいはあると言いながら、長身を生かして食器棚の上から出してきた。亜紀なら踏み台がなければ手の届かない高さだ。
「ガスはあったかな」
かちゃかちゃとやっていると火がついた。
「大丈夫」
亜紀を見て右手の親指を立てて笑った。彼女はキッチンから鍋を持っ来てコンロに掛けた。野菜としらたきは煮えているが、肉はまだだ。先に入れて時間が経つと硬くなるからと断わりつつ牛肉を入れ煮上がるの待った。
「ワインがいい?それともビール?」
「お肉だからワインにしましょうか」
それじゃと言って、食器棚からワイングラスとオープナーを持ってきた。慎重に螺旋状の先端をコルクに入れてポンと栓を引き抜き、亜紀と自分のグラスに赤ワインを注ぐと失敗談を話しだした。
「ワイン好きのくせしてどうも栓を抜くのが苦手でね。人前でこれをするといつも冷や汗を掻く。いつだったか、ワインを買って来たのはいいが、いざ栓を開けようとしたらうまく抜けなくて、無理やり引き抜いたら、ずぼってオープナーだけが取れてコルクはぐちゃくちゃ、もうどうやっても栓が取れない状態。それでも飲みたいものだから、栓を無理やり瓶の中へ押しこんだのはいいが、今度は栓ができなくなって、しようがないから一人で飲み干した。間抜けな話だろ。ははは」
真一は白い歯を見せて笑った。亜紀もつられて笑った。確かに間抜けだ。でもそこが人間らしくてほっとする。
「お酒飲みって、どうやっても飲みたいらしいのね。うちの父も似たようなものだわ」
それにしても彼に関する話は失敗談が多い。直接彼からそのようなことを聴くのはこれが初めてだが、わざとなのかそれとも性格なのか、恥ずかしげもなく話すから聴いていて面白い。それに彼の話はいつも表裏がなく、誰かを傷つけるものではないから安心して聴くことができた。
二人はカチリとグラスを合わせて一口飲むと、何も言わずに微笑みだけを交わした。彼らにとって初めての親密な時間と空間だった。
二人共通の話題がないので、亜紀はここで感じたことを言った。
「まあ、帰って寝るだけだし、部屋に物を置くこともあまり好きじゃない。最小限のものがあればいいからこんなものかな。妹が来れば、あいつ好みに変えられてしまうだろうが」
「こう言ってはなんですけれど、男一人とは言え、あまりにも殺風景過ぎますわ。私でさえああすればいいのに、このように飾れば良いのにと思いますもの」
「それじゃ、亜紀さんにインテリアを考えてもらおうかな」
「それは玻瑠香さんにお任せしないと恨まれてしまいますわ」
出来そうもないことでも、こうして二人で話していることが亜紀には信じられないような思いだった。しかも、彼は知ってか知らずか、際どいことを話しているのだ。
亜紀は真一から目を逸らすと、鍋の中の煮え具合を見てゴーサインを出してから卵がないことに気がついた。
「あら、卵を買ってくるのを忘れたわ。ごめんなさい。私、そう言う抜けたところがあるの」
「いいさ、そう言うこともなければ、息が詰まる」
「それもそうね。さあ、どうぞ。春菊はもう少しだけど、お肉とほかのお野菜はいいわ。お酒が流し台の下にあったから、お料理に少し使わせてもらいました」
「ああ、それ。加藤のところの酒だよ」
「あら、加藤さん」
知っている名前が飛び出して思わず声を出した。
研究室の中で亜紀が一番気楽に話せる相手は加藤と中川だった。同性の中川はともかく、加藤は偉ぶるところがなく気さくで他人を思い遣るところがあった。あの時ホテルに呼び出したのもそれを鑑みた結果だった。そして、期待した以上の話を聞くことができた。
「あいつの実家は信州誉の蔵元だから、この間のクリスマスパーティのときに親父さんが加藤に持たせたものだよ」
「そう言えば確か、お家は蔵元だったわね」
中川が母屋と比較して加藤の家のことを言ったのを思い出した。
そう言いながら亜紀は、皿に牛肉と白菜、しらたき、焼き豆腐などを入れて真一に手渡した。
「ありがとう。松本でも老舗で、亜紀さんの家ほど古くはないらしいが、相当大きなお屋敷らしい。
それじゃ亜紀さんのすき焼きを食べてみるか」
どれどれと言いながら、牛肉を一口頬張ってもぐもぐさせると満足そうに頷いて右手の親指を立てた。
「うまい、これまで食べた中で一番かな。お世辞じゃないよ。さあ、食べて」
よかったと右手を胸に当てると、亜紀は肉を少しと野菜を多く取った。
「この肉は美味いね。和牛?」
「ええ、そうよ。りんごで育った信州牛なの」
どおりでと言いながら、肉と野菜を皿一杯に取った。
「世界で一番美味しいと言われる牛肉の産地はどこだか亜紀さんは知ってる?」
美味しい、美味しいを連発しながら訊いた。亜紀はまた
「残念でした。答えは南米のアルゼンチン。これが半端なうまさじゃない。どこを食べても本当に肉が軟らかくて美味しいんだよ。輸入規制があって日本では食べられないのが残念だけど」
「どちらで食べましたの?」
自分のご飯を茶碗に装いながら訊いた。
「社会人だったころ、出張先のドバイで総合商社の駐在員の家庭でご馳走になったことがある。どの部位だったか最後まで教えてくれなかったが、これが肉かと思うぐらい軟らかくてそれは旨かった。あ、ごめん。この肉が美味しくないと言ってるんじゃない」
「わかっているわ。でも羨ましい。あちこちの国へ行っていろんなものを見て食べて。聴いていると、今よりも社会人の方がよかったように聞こえるわ」
「そうだな。社会人のときは時間に追われて休みもとれないこともあったし、責任ばかり重くて大変だったけど、やり甲斐があって毎日が充実していたと思う。何がいいって、少しずつ図面通りの建物ができ上がって行く。時には想定していなかった障害があったりして、それをうまく処理して、それが完成した時の満足感、達成感は何にも代えがたいんだ、技術者にとっては。辛いことがあったことなどいい思い出になってしまう。またそれが、自分の糧ともなる。技術者冥利に尽きるってやつかな」
話しながらも、鍋に伸ばす手を休めない。手は鍋とワインを往復している。
「もしかして、社会人に戻ろうかと考えているの?」
亜紀の関心はすき焼きよりも彼の方に向いていた。
「いいや、前いた会社から戻ってこないかと誘いがあったけど断った。もうゼネコンには行くつもりはない」
亜紀は真一の含みのある言い方が少し気になったが、確かめることはしなかった。聞いたところでどうするといった間柄でもなかった。
今日の彼は食事の間中饒舌だった。少し話が途切れると、違う話題を持ち出した。それは何か二人の間でしんみりとした空間になることを避けているように亜紀には感じられた。
彼のことばかり聞いても申し訳ないと思い、英会話ができなければと思った理由と外国人の英会話教室に通っていることを話した。
「でも、外国語って難しいわ。いくつもの言葉を話せる成瀬さんを尊敬しますわ」
「なに、自慢するほどではないさ。一つできればあとは芋づるだよ。しかし、家に閉じ籠るよりは習い事をするのはいいと思う。何と言っても会話は耳だから、耳のいい亜紀さんならすぐに上達すると思う。ただ、外国人と接する機会がもっとあればいいのだが」
「そうね」
そんな機会は英会話教室以外にはなかった。それも週に一度では多いとは言えない。
話が途切れた時に再び訊いた。この機会を逃しては彼とじっくり話すことはできないと思ったからだ。それに今なら彼も答えてくれそうな気がした。
「一つお訊きしてもいいかしら?」
鍋に伸ばしかけた彼の手が止まって亜紀を見た。
「真一さんの特殊な能力のこと。ほら、一度シャッターを押したら忘れないと言うあれ」
「それが何か?」
「どんなものでも記憶できるの?」
牛肉と長ネギを皿に取ると答えた。
「目に映る物なら大抵瞬間的に記憶できる。暗記とは違って画像として残るんだけどね。だからシャッターと言うのもあながち嘘でもない。ただし、サヴァン症候群とは違う」
「サヴァン症候群て?」
初めて聞く病名だったので気になって尋ねた。
「ダスティン・ホフマンが演じた映画で一躍知られるようになった病名だけど、何でも記憶力とか計算力とか特定の能力にだけ天才的な力を発揮するけど、その代わりに人とのコミュニケーションに障害があるらしい。今のところその症状は出ていないし、丸暗記するわけではなく映像として記憶するだけだからそれとは違うと思う。専門的には直感像素質と言うものらしい」
それだけ説明すると何を思ったか、真一は箸を置いて出て行った。すぐに彼は一冊の本を持って戻って来て、それを亜紀に手渡した。それは書棚にあった唯一の小説で、岩波書店の漱石全集第9巻のこころだった。
「どのページでも構わないから、開いて僕に見せて」
亜紀は言われるまま、適当に本を開いて彼に渡した。真一はその頁を1、2秒注視すると、そのまま亜紀に戻した。
「それじゃ42節の頭から読むから、間違いがないか本を見て」
そう告げると目を閉じて、ゆっくりと文章を復元した。
〈私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せと言った方がまだ適当かも知しれません。その時の私はたといKを騙し討ちにしてもいいくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心がありますから・・・。・・・Kは私よりも背の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。・・・〉
まだ続けようとした彼を亜紀はもういいわと止めた。それだけ聴けばもう十分だった。確かに彼は一字一句間違いもなく、開かれた頁の文章を
「説明されても半信半疑だったけれど、本当にできちゃうのね」
「将棋や囲碁のプロの棋士なんかは後天的に備わるらしいが、僕みたいに生まれつきの人もいるらしい。それでよく人から試験なんかに便利だろうと言われるけど、いいことばかりでもなかった」
「あら、そのなの。私にはいいことばかりに思えるけれど」
「そうでもない。何しろ目に映る物は全て画像として残るから、丸ごと一冊はさすがに無理だが、立ち読みでさっきみたいにぺらぺらと頁を捲くって、家に帰ってから思い出すだけでよかった。でも頭の中がこんがらがって困ることの方が多かった。
幼い頃は特にひどかった。自分でコントロールするすべを知らなかったから、会う人すれ違う人の顔が全部頭の中に残って、頭痛はするし吐き気はする、ひどいときは熱が出て寝込んだこともあった。眩暈なんかはしょっちゅうでパニックになったことも一度や二度ではなかったから、お袋が心配して何度も病院に連れて行ってくれたが、特異な才能らしくて結局医者も匙を投げた」
「いつからそれに気付いたの?」
「外の人とは違うと気付いたのは幼稚園に入る頃かな。君も小さい頃したことがあるだろう神経衰弱って遊び。トランプを全部裏向きにして、4人ほどが順番に2枚捲って同じ数字だったらそのトランプが自分のものになるってやつ。
最初のうちは盲滅法だから、確率的に中々同じ数字の札を捲ることができないんだが、一度表になった絵は画像としてインプットするから、一巡か二巡する間にどこに何があるか覚えてしまって、こんなゲームのどこが面白いのだろうと幼心に思ったものさ。その頃はそれが特異な能力だとは知らなかったから、なぜ彼らにはそれができないのが不思議だった。それが、どうも人と自分とは違うみたいだとわかって、仲間外れにされるのが恐くて、それを悟られないようにするのが幼心に苦痛だった。それで幼稚園へ行かないと駄々を捏ねてお袋を困らせたこともあった。
小学校に入ってからは少しは知恵も付いて、憶えておきたいものだけを残す訓練をした。これが結構辛った。アイマスクなんて洒落たものはうちにはなかったから、タオルで目を覆った時期もあった。今は自分でコントロールができるようになったけどね」
「私にはいいことばかりのように思うけれど、そうでもないのね。それは遺伝的な物なのかしら?」
なんの気もなしに訊いたのだが、次の瞬間一人赤くなった。幸い彼は気づかなかったようで、普通に答えてくれた。
「遺伝性ではないらしい。もしそうなら、もっと大勢いなきゃならない」
「それはそうね」
亜紀は余程あの絵についても尋ねようかと思ったが、結局訊くことはしなかった。いずれ部屋に忍び込んだことを知られるだろうが、それでも構わないと開き直った。
すき焼きは健啖家の真一がほとんど食べてしまった。あーうまかったと腕を下ろしたときには、鍋の中は汁しか残っていなかった。亜紀は残さずに食べてくれたのが嬉しかった。
お茶を飲み寛ぐ頃には話題もなくなって、亜紀がヨーロッパ旅行をした時の話をした。スイスの山々をトレッキングした段になって、そこは僕も歩いて非常に感動したとその話に加わった。
その話題も尽きると亜紀は真一の小さい頃の写真を見たいと言い出した。なぜそんなものに関心があるのか、これも彼女の夫のことに関係があるのかと警戒したが、是非にと懇願されて自分の部屋からアルバムを持ってきた。すぐには見つからなかったのか持って来るまでに少し時間がかかった。
まさかアルバムが彼の手元にあるとは思っていなかっただけに少し驚いたが、「洗い物を終わらせるから少し待って」と断り立ち上がった。
再びエプロンをつけ食器類の洗い物をしている彼女の様子を真一はダイニングから手持無沙汰に見ていて、蛇口から流れる水の音も新鮮に聞こえた。
「お待たせしました。拝見させていただくわ」
亜紀は背筋を伸ばしてアルバムを手元へ引き寄せた。
表紙を開くと、最初の頁には修一の時と同じように赤ちゃんの写真が貼られていた。しかし、構図は異なっていて、何かの籠の中に入れられ毛糸の帽子を被った真一がおしゃぶりを咥えていた。おもちゃのピストルを持って立つ小生意気な写真では亜紀は笑った。真一は何が可笑しい?と言いながら亜紀の隣の椅子に座った。無意識の行為だろうが、亜紀は意外な近さにどぎまぎして少し身を引いた。それに気付いた真一も少し離れた。
「このませた顔、偉そうに腰に手を当ててウィンクしているわ」
「ああ、これ。幼稚園のときので親父がそうしろと言うからそのようにしただけ。ウィンクだけは即興でやったけど」
それから亜紀はアルバムを捲るたびに、可愛いとか可笑しいとか面白いを連発した。そうしながら、修一のアルバムで見た彼と真一の顔がほとんど違わないことに改めて驚いていた。着ている服などは修一のほうが良かったように思うが、顔形表情はどの時代のものでもそっくりに思えた。
中高生時代のものは修一のとは異なり、男女混合のグループ写真はあっても女生徒とカップルで写っているものは一枚もなかった。そのことを意地悪く指摘すると、女にはもてなかったと苦笑するばかりだった。
そんなはずはなかろうと思いながら頁を捲っていると、幼い玻瑠香と一緒の写真があった。背景からしてこれは学園祭のときに同級生の誰かが撮ったものだろう。大勢が写っている中で得意そうに小さな右手でVサインをしている玻瑠香とは対照的に、真一は恥ずかしそうに横を向いている。彼女のぱっちりした大きな目が彼が言ったようにキューピーさんみたいで可愛く写っていた。亜紀はなぜか彼女に親近感を覚えた。
更に頁を進めると、柔道着姿の写真に目が釘付けになった。
「あの、これ」
思わず亜紀は写真を指さしながらすぐ横にいる真一を見上げた。すぐ横に彼がいるのだが、何か意図を持ってわざと近づいたようには感じられなかった。
「ああ、それ。合気道をやっていたときのもの」
「合気道?」
太極拳をしている姿が目に焼き付いているせいか、彼と合気道がうまく結び付かない。
「そう、次の頁に袴を穿いたのもあるよ」
言われて頁を繰ると、道着に袴姿のものがあった。横でそれを見ながら亜紀に合気道を始めた動機を話した。
「小さい頃、椿三十郎だったかビデオで見た三船敏郎の袴姿が格好良く見えてね。子供の頃ってそんなもんだろ。自分も袴を着けたい一心で親父にせがんで中学校から毎日近くの道場に通った。
創始者の植芝盛平翁は田辺市出身だから、当時は道場があちこちにあって家から近かったから、お袋がパートから帰ると入れ替わりに道場へ行った」
「あらっ!これ、凄い」
思わず感嘆の声を上げた。
試合のときのものなのか、相手の関節を取りながら見事に投げ、相手の腕を取って弧を描くように宙に舞っている瞬間を捉えた写真だ。
「ああ、それは演武会のときのもの。一般の人に披露する演武会では、映画の殺陣のように攻め手と事前に擦り合わせるんだが、この時はそれをせずに3人を相手に夢中でやっていたら珍しく技が決まった。普通打ち合わせなしですると相手が思うように倒れてくれなかったり、意外なところから攻めてきたりして、思うようにいかないものだけど、このときはうまく決まった」
それから、亜紀に合気道の理念や基本的に合気道には試合がないことなどを説明した。
「創始者の理念で他の武術と比べて精神性を重視していて、相手を打ち負かすと言った思想がないから、試合が成り立たないんだ。だから稽古だけを見ているとつまらないと思う」
亜紀にはよくわからなかったが、成長期の真一に影響を与えただろうことは想像に難くなかった。立ち居振る舞いで硬派に感じるのはそういうことだったのかと得心した。
それからのものは遠足や修学旅行のときの公的行事がほとんどで、私的な写真はそれほど多くなかった。どれを見ても同じような写真ばかりで、そのまま素通りして次の頁に移ろうと手を掛けた。が、思い留まり、亜紀の瞳が右側の頁に貼られている2枚の写真に釘付けになった。隣に座る真一は何も発言しないが、小さく息を吸い込んだ音を聞き逃さなかった。彼の表情を窺いたかったのをぐっと我慢して次の頁へ繰った。そのまま2、3頁を見ると、所どころ写真を剥がした形跡があった。しかもそれが真新しく思え、気になって前の頁に戻した。
彼女の気を引いたのは、それまで一枚もないと思い込んでいた女生徒とのツーショットのスナップ写真だった。しかもそんな写真はその2枚きりだった。どちらも和歌山アドベンチャーワールドで撮ったもので、一枚は入口で、もう一枚は親子のパンダ2頭が笹を食べている広場のものだった。
亜紀の目は真一の隣に寄り添う女生徒に行った。その彼女は小柄で大人しそうな女性だった。率直な感想を言えば取り立てて美人とは認めがたかった。それでも、写真の女は彼なら好きになるだろうなと思わせる雰囲気を感じさせた。
2枚とも二人は嬉しそうに微笑んでいるが、女生徒には恥じらいが見られた。付き合い始めてそれほど間がない頃なのか、両者が寄り添う間隔が微妙な広さだった。
彼女との写真はその2枚きりなので余計気になった。
「あのう、この人は真一さんの・・・」
写真を指さして真一を見上げた。
「うん、高校時代に付き合っていた人」
訊かれるだろうと予想していたのか、素っ気なく答えた。
やはりそうだったのかと真一を見ると、無表情でそれ以上訊かれたくない態度が明らさまだった。そんな彼を見るのは初めてで不自然だった。亜紀は彼の地雷を踏んでしまったと感じた。
彼の醸し出す印象と言動から女には無縁な月日を過ごして来たと勝手に思い込んでいたが、加藤が話した通りそうでもなかったようだ。
彼のことを知りたいばかりに無理を言ってアルバムを見せてもらったが、見てはならないものを見てしまったと思った。今更遅いが、ここまで立ち入るべきではなかったと後悔した。あの絵を見て満足していればよかったのだ。そうすれば平静なままでいられたのに。それでも訊かずにはおれなかった。
「その人とはどう・・・」
「プライベートなことだからそれはいいだろう。喉の奥に刺さった骨が抜けきれていない昔の話」
訳ありの様子だが、それ以上は何を訊いても無駄と思わせるものがあった。
個人的なことと言われて亜紀は悲しかった。少しは親しくなったと思っていただけに冷水を浴びせられたような気がした。
気を取り直して再びアルバムに集中した。
大学時代になると、今度はどこかの試合なのだろう、両足が宙に浮き振り下ろした竹刀が相手の面に決まった瞬間のものがあった。その下には面防具を外した剣道仲間と一緒の写真が貼られていた。
「あの、これは?」
亜紀は横にいる真一をまた見上げた。
「剣道の試合の時の写真。合気道は試合がなかったから、大学に入学すると同時に、袴は多少違うが、同じ袴だし摺り足も似たようなものだから剣道部に入部した」
次の頁には優勝カップを持つ小柄な男の横で、小さなカップを片手に持った仏頂面の真一が写っていた。
「それは、3年の時に全日本学生剣道大会で準優勝した時のもの。油断しなければ勝っていたと思うけど」
何気なく説明した彼の言葉尻を亜紀は聞き逃さななかった。
「油断て?」
深い考えもなく、素朴に思った疑問を訊いたつもりだった。しかし、彼は狼狽して、それはと口を濁した。
「何か言い難いことでもあるの?・・・あ、わかった。何か失敗したのでしょう?」
きっとそうに違いないと確信した。
「だったら、あなたの失敗談は面白いから聞かせて。ね、誰にも言わないから」
先程の地雷原から離れるつもりで、亜紀は目を輝かせて訊いた。真一は渋っていたが、すき焼きをご馳走したのだからと恩を着せて白状させた。旧知の間柄のように口をきくのを彼女自身まだ気付いていなかった。彼もまたそれに頓着していなかった。
「団体戦はすぐに敗退してしまったが、個人戦はまあ何とか勝ち進むことができて、決勝戦の相手はよく動き回る選手でやり難い相手だった。
互いに一本ずつ取り合って、仕掛けたり仕掛けられたりしているうちに相手の癖がわかって、これは勝てると思った。それで次第に大胆になって、上段に構えて相手を隅まで追い詰めたときに、『お兄ちゃん、頑張って』と横の方から声がかかったのがいけなかった。まさか妹がお袋と東京まで応援に来ているとは思いもしなかったから、慢心していた僕は思わずその方向をちらっと見てしまった。するとその一瞬に相手の突きが決まって気が付いた時には天井を見ていた」
そのときの情景を想像して亜紀は珍しく腹を抱えて笑った。真一も頭をぼりぼり掻いて苦笑した。
「間抜けだろう。これには続きがあって、お袋には残念だったねと慰められたが、小学校3年生だった妹には散々毒づかれて、負けた罰金だとディズニーランドに連れて行かされた。ミッキーマウスの縫いぐるみやおもちゃのアクセサリーを買わされたのはいいとして、原宿の竹下通りに付き合わされた時には、周りが若い女の子ばっかりで、並んでクレープを買わされた日には試合に負けたときよりも恥ずかしかった」
それを聞いて亜紀の笑いが止まらなかった。こんなに無邪気に笑ったのは失明して以来、初めてのことではなかろうか。あー可笑しかったとハンカチで涙を拭いたのは1分ほどしてからだった。
高校時代から大学時代に掛けての写真は、妹と写っているものが散見された。それはそれほど多くなかった。恐らく彼女のアルバムには兄との写真が数多く貼られているのだろう。
写真を見終わると彼らは話すことがなくなった。亜紀はアルバムを静かに閉じた。
彼らの距離は体半分も離れていない。亜紀は彼の言葉を待った。しかし、彼の口から何も発せられなかった。間が持てななった彼女はふと頭を上げた。彼は亜紀を見つめていた。彼女もじっと見つめ返した。二人とも無言だった。それは数秒のことで、先に目を逸らしたのは真一だった。そして、彼の口から発せられた言葉は彼女が期待したものではなかった。
「遅くなるといけないから、駅まで送ろう」
亜紀は一瞬悲しげな目で彼を見ると寂しく立ち上がった。
真一に見送られ、失意を抱いたまま長野駅を離れたときには7時を回っていた。
客車の中で改めて彼が描いた絵を見た。素人目にもその絵には彼の気持ちが籠っていて、自分に好意を抱いていることは明白に思えた。彼女もまた自分の未来予想図には彼がいた。それなのに・・・。
別れ際の彼の態度から察するに、彼の頑な姿勢はこれからも変らないだろう。会話が弾み彼と過ごした時間が楽しかっただけにその反動は大きかった。
彼女は閑散とした電車の中で孤独感と
改札口で見送った帰り道、真一も亜紀のことを考えていた。
若い女が男一人のところへ来て食事まで作るのには、それなりの決意があったのだろう。そのことはいかな
アルバムを見終わったあのとき、誘っていたなら彼女はどうしただろうか。拒まなかったような気がする。そう思う一方で、彼にはそれに対する心構えができていなかった。際どい一瞬だった。やはり、あれでよかったのだとざわめく心を落ち着かせた。
今時古風な考えだと彼自身承知している。が、そうなるにはそれなりの責任が伴うと考えていた。そう堅苦しく考えなくてもいいんじゃないかとの考えも頭の隅にはあった。だが、彼女との関係ではそうあってはならないとの思いの方が強かった。今の気持ちのままで添い遂げる自信もなく、そのことを無視して一緒になるという考えもなかった。
駅で別れた二人の不幸は、互いの煩悩の対象が同じでありながら異なる悩みを抱えていることだった。さらには、どのようにすればそれを払拭できるのか、どうすれば整理をつけることができるのかわからずにいることだった。
3日後、真一は一通の手紙を受領した。
授業から研究室に戻ると、それは机の上に置いてあった。筆跡から亜紀からだとわかった。学生達の好奇心剥き出しの視線を感じながらペーパーナイフを使って封を切った。
女性らしい雪結晶を散らした3つ折りの薄い便せんを開くと、ボールペンで日曜日に付き合ってくれた礼が、流麗な筆致で書かれていた。
〈前文略失礼致します。
先日はご多忙のところ、貴重な時間お付き合い下さいまして、ありがとうございました。お陰さまで、迷っていた設備も決めることができそうです。
実は成瀬様にお詫び申し上げなければならないことがあり筆を取りました。
お気づきかも知れませんが、成瀬様が買い物で外出なさいました折、無断で寝室の中に入りました。ごめんなさい。
それは小さい頃のお写真があれば拝見しようと思ったからでした。が、そのとき思いがけないものを発見してしまいました。
何の気なしに机の抽斗を開きましたとき、精緻な建物の絵と一緒に私の肖像画がありました。それを見ました時、どれほど驚きましたことか、お察し下さいますでしょうか。
成瀬様がどのような理由で描かれたのか、薄学の私には推し量ることはできませんが、私にとりましてはそれはそれは素晴らしい絵で感激してしまいました。あのときの私の心情がそのまま絵に写し取られているように思いました。自分では自覚しておりませんでしたが、あのような悲しげな表情をしていたのかと初めて知りました。そして、いけないことだと知りつつ素晴らしさのあまり、思わずコースターと一緒に持ち出してしまったのです。改めて成瀬様の才能に畏敬の念を深めると同時に、もし再び現在の私の肖像画を描いていただけるとしたら、どのような表情で描いて下さるか少し気になりました。
それはともかく、どのような理由であれ、無断で寝室に入り絵を持ち出しましたこと、許されることではありません。心よりお詫び申し上げます。
勝手な申しようでしょうが、先ほどの理由以外に他意はございませんので、ご理解いただきたいのです。返せとは仰せになりませぬように。悲しくなってしまいます。
寒さ厳しき折、お身体ご自愛の上、御研究に励まされますよう心よりお祈り申し上げます。かしこ 加辺亜紀〉
(三)
稲子は5年を経てもなお、まだ息子への想いを断ち切れていない様子の亜紀に、何とか立ち直らせようと自分なりに努力してきたつもりだ。息子のことに触れないようにしたのもそうだし、舅の耕造に頼まれ強引とも思える見合いを進めたのも、気分転換にと海外旅行に行かせたのも、息子のことを一刻も早く吹っ切らせたいとの思いからだった。だがいずれも効は奏さなかった。それほど彼女の修一に対する想いが強かった。
母親の稲子にしてみれば、彼女の想いがいつまでも息子にあるのは嬉しいことだが、だからと言って夫のいない家にいつまでも縛り付けておくことは、人として許されることではないとの思いもあった。それに遠藤家に対する引け目も日増しに強くなった。
彼女に何もしてやれないまま、舅の言うように川越に戻さなくてはならないと諦めかけた矢先、息子に瓜二つの青年がやって来た。髭を落とした彼の顔を見たときの衝撃は、その日一日床に伏せったほどのことだった。
気丈な彼女はそれから立ち直ると行動を起こした。もはや彼女に残された手立てはその青年に賭けるしかなかった。それだけの価値はあると思った。
しかし、その思いはあってもどのようにして彼を亜紀に近づけるか、その算段がつかなかった。そんな折り、夫がペンションの計画の相談を彼が断ってきたと言ってきた。これは千載一遇のチャンスだと思った。そして夫に言って亜紀に彼を訪ねさせた。それが功を奏し、思惑とおりペンションの設計を引き受けてくれた。その後、中川ら学生と交誼を持つようになってから、萎れていた鈴蘭が水を得て立ち直ったごとく彼女の表情が日増しに明るくなった。
彼女の家族が初めてここに来たとき、目の不自由なことを割り引いても綺麗な娘だと思った。今は恋する娘のごとく一層魅力的になった。その理由は彼の存在以外に考えられなかった。誰の目から見ても彼女の心が修一から彼へ移りつつあることは明白だった。
稲子の振るサイコロの目は1か2ばかりで大きくはないが、彼女の期待通りに推移していると思った。 しかし、その判断は早計だった。肝心要の彼が亜紀との接触を避けているとしか映らなかった。亜希子もそうだと言う。亜紀を嫌っている訳でもなさそうなのに、彼の行動は賢い彼女でもその理解を超えた。
彼女なりにその理由を考えてみた。が、これといった要因に思い当たるものがなかった。
もしや恋人あるいは心に決めた人がいるのかと思い、ここへ来る学生にそれとなく訊いてみたのだが、異口同音にそれはないと一笑に伏された。それでは息子のことに起因しているのかとも思ったが、推測の域を出なかった。彼女にはそれくらいの理由しか思い付かなかった。
彼は亜紀のことをどの様に思っているのだろう。滅多にここに来ることがない上にガードが堅く、鋭敏な彼女でさえ彼の気持ちを推し量れなかった。これまでの彼の素振りから亜紀のことを嫌ってはいないと思うのだが、確信には至らなかった。
彼の気持ちを確かめたくなった。それに最近の彼女には気懸りなことがあった。
正月明けに亜紀が真一を訪ねて以来、彼女が沈みがちになったことだ。ときどきぼんやりとしていることもあり、笑顔を見せるようになった彼女が再び悲しげな表情でいることが多くなった。理由もなしにそんな風になることなど考えられなかった。
これまで亜紀が研究室を訪ねて行ったときは、彼に会えなくても必ず事の次第と結果を報告してくれたものだ。しかし、今回はそれがない。その様なことはかってなかったことだった。恐らく彼に会いに行ったときに何かがあったのだろう。自分が焚きつけたことだけに見て見ぬ振りをすることはできなかった。
稲子が母屋へ行くと、この時間いるはずの亜紀がどこにもいなかった。心に隅でひょっとしたらと思ったが、自分に無断でそんなことをするわけがないとすぐに打ち消した。
ダイニングの石油ストーブに火を着けてぼんやり待っていると、大きな花束を抱えて亜紀がはいって来た。彼女の頬は赤く吐く息が白い。原村に降る雪は多くはないが、火の気のないところでは芯から寒い。
「どこへ行っていたの?どこにもいないから心配したわ」
ほっとした反動で、詰問口調になった。
「済みません。ペンションに活ける花がなかったものですから買いに行っていました」
義母の声の調子にやや驚きながら答えた。
「あ、そうなの、ごめん。大声出して悪かったわ。花の代金はペンションの方で持つからレシートを私にちょうだい」
稲子はレシートを受け取ると財布の中から花の代金を支払い、今時間はいいかと亜紀の都合を訊いた。
「少し待って下さい。先にお花を水につけますから」
「じゃ終わったら私の部屋へお願い」
稲子は自分の部屋に入り炬燵の電源を入れて彼女を待った。夫婦の部屋は亜紀の北隣の10畳間だ。ベッドはなく古い桐箪笥が2棹と小さな炬燵があるだけだ。その上にポットと湯呑みが置いてあるから台所へ立たなくてもお茶が飲める。亜紀の部屋側に押入れがあるのである程度プライバシーが保てる。
しばらくして亜紀は部屋に入って来た。
「寒いから、炬燵の中に入って少しお喋りでもしましょう。お茶でもどう?」
稲子が準備しようとしたのをさっと亜紀が手を伸ばした。
「私が淹れます」
お茶の用意を始めたのを優しく見やりながら彼女に話しかけた。
「今更だけど寒いわね」
「ええ、寒いのは寒いですけれど、もう慣れました」
急須に茶葉を入れながら答えた。
ここへ来た当初の冬は経験したことのない寒さで身が凍えた。川越の冬も上州おろしの空っ風が吹いて寒かったが、ここはその比ではなかった。厚着をしてタイツを穿き使い捨てカイロを身体中に貼っても、氷点を下回る底冷えは都会育ちの亜紀には厳しかった。
特に応えたのは、だだっ広い板の間の拭き掃除と洗濯だった。お湯がたちまちのうちに冷たくなった。ゴム手袋をしていても手足の甲と指にあかぎれと霜焼けをこしらえた。それの耐性ができたのはつい先年のことだ。
「亜紀ちゃんは華奢な体をしている割に強いわね。うちの人は無口だから何も言わないけど、亜紀ちゃんの頑張りにはいつも感心しているのよ」
稲子はこのように改まって雑談をするような人ではなかった。私に何の話があるのだろうと少しばかり緊張して湯呑を義母の前に置いた。稲子は一口お茶をすすると用件に入った。
「亜紀ちゃんを呼んだのはね、近頃元気がないみたいだったから気になったの。何か心配事があるんじゃないの?」
亜紀はそのことかと少し安堵したものの、義母の目は誤魔化せないと今更ながら姑の勘の鋭さに用心した。
「ご心配かけて済みません。でも、お義母さんが懸念なさるようなことはありません。正月からの疲れが溜まっているみたいで、それで体の動きが鈍いのだと思います」
「そう、だったらいいけど。病気にでもなったら、ご両親に顔向けができないから無理は駄目よ」
稲子はそれ以上詮索はしなかった。湯呑みを炬燵の上に置くと訊いた。
「話は変わるけど、先日成瀬さんのところへ行ったでしょ。それでどうだったの、ちゃんとアドバイスしてくれた?」
やはりそのことかと話の行方を粗方悟った。
「はい。いろんなお店を案内していただいて、助言もしてくれましたから、内装設備の大体のところは決めることができました」
湯呑みに目をやったまま稲子の顔を見ようとしなかった。
「それじゃ、目的は達成したのね?」
「はい、お願いしてよかったと思います」
「それはよかった。それでお料理は作ってあげたの?」
それは亜紀が長野市へ行く聞いた時、彼女がそうしたらと耳打ちしたことだった。
「はい」
「何をご馳走したの?」
「物選びに付き合わされて、お疲れの様子だったので、すき焼きにしました」
言葉少ない応答だったが、稲子は声を出して笑った。
「そうでしょうね。男の人は買い物に付き合うのが苦手だから。それで美味しいと言ってくれた?」
「はい。美味しいって何度もお代わりをして」
「それはよかったわね」
亜紀は饒舌な方ではないが、哀しいときは哀しい、嬉しいときは嬉しいと素直に態度に表れてしまうから、うまく隠し事ができる方ではなかった。彼女の態度から、何かを隠しているとの印象を強くした。
それでと稲子は続けた。
「私の勘なんだけど、そのとき成瀬さんと何かあったんじゃないの。差し障りがなかったら話してくれない?」
自分を見ていないようでいてしっかりと見ている。変に隠し立てはできないと思った。
どのように返答しようかとしばらく亜紀は考え込んだ。稲子は炬燵に肩まで入れて彼女が話すのをじっと待った。
自分の気持ちが知られているのなら、ここは正直に答えようと決めた。そのように決めると彼女の口は幾分滑らかになって、その日のことを隠さずに話した。
「アルバムを見終わって、それからもう話すことがなくて、それで真一さんが駅まで送るからと言われて一緒にマンションを出ました」
稲子は一言も聞き漏らすまいと彼女の顔をじっと見詰めた。
「お義母さんには申し訳ないのですけれど、夕食を作ってあげなさいと言われた時から、彼に泊るように誘われればそうするつもりでした」
亜紀は頬を紅潮させて言った。
それを聞いても稲子は驚かなかった。あのとき口には出さなかったが、心の隅で亜紀がその腹づもりなら、そうあってもいいと思っていた。遠藤の両親には申し訳ないが、彼の心を動かすにはそれくらいの荒療治が必要だと思っていたからだ。それに彼ならば後々不誠実なことはすまいと踏んでもいた。とは言え、亜紀の行動力には目を見張るものがあった。それほどまでに思い詰めていたのか。ただ大人しいだけと思っていた彼女のことを少し見誤っていたかもしれないと反省した。
「相当な覚悟で行ったのに・・・。知らずに涙が出て帰りの電車の中で泣いてしまいました」
彼女は正直に自分の気持ちを吐露した。
「それじゃ亜紀ちゃん、修一のことはふっ切ったと考えてもいいのね?」
このことが大事だと念を押した。
「はい、お義母さんには申し訳ないですけれど、いつの間にか彼のことを気にしている自分に気が付きました。でも、修一さんのことはまだわかりません。矛盾しているようですけれど、それが私の正直な気持ちです。ただ、彼とそうなれば完全に忘れられるのではないかと浅はかにも思いました」
ここで言葉を切ると、亜紀は義母に縋るように前のめりになった。
「私も修一さんのことは時間が解決するものと思っていました。でもそうならなかった。時間が経てば経つほど逆に記憶が鮮明になって修一さんと過ごした日々のことが思い出されました。
修一さんが夢の中に出て、私に何かを訴えて、目が覚めると知らずに目が濡れていたこともありました。私はここへ来てはいけなかったのだとも思いました。お義母さんに帰りますと何度も言いそうになりました。でも、そんなときに限って、お線香をあげたとき写真の中の修一さんが寂しそうな顔をするの。
お義父さん、お義母さんそれにお爺さんが、私のことを娘や孫のように優しくしてくれるのも私には辛かった。いっそ私を厳しく咎めてくれたら、至らぬ私が悪いのだと、何の迷いもなくここを離れられのにと思いました。深い考えもなしに修一さんの遺産を受け取ってしまったことも後悔しました。お見合いさせられたことも苦痛でした。もちろん、私のためを思ってして下さっているのはわかっています。それでも何故そっとしておいてくれないのと恨めしく思いました」
稲子は亜紀の手を取ってぐっと握った。彼女が心の中を語ってくれるのはこれが初めてだった。
「それが、成瀬さんに出会ってから、気持ちが変って来たのね?」
「初めのうちは修一さんの面影を追っているのだと思いました。彼と何度か会っているうちにそうじゃないのではと考えるようになりました。それをはっきり自覚したのは彼のマンションにパーティへ行った時でした。
加藤さんから彼が高校時代に恋愛をした人がいたと聞いたとき、訳もなく動揺しました。それが嫉妬だとわかって初めて自分の気持ちを認識しました」
申し訳なさそうに話す亜紀を見つめながら、まだ話があるだろうと稲子は待ったが、彼女は口を噤んだままだった。それで稲子の方から水を向けた。
「亜紀ちゃんがそんな気持ちになってくれて嬉しいわ。ずっとそうなることを待っていたのよ。よかった。それに、正直に話してくれてありがとう。端から見ていて、成瀬さんも亜紀ちゃんに好意を持っていると思ってたんだけど、そうじゃなかったの?」
亜紀は頭を小さく横に振った。
「私も好意を持たれていると思っていました。いつ会っても素っ気ない態度しか取らないけれど、私を見る目は優しかったから。 加藤さんによればそれはまだ幼児性が抜けていない証拠らしいですけれど、よくわかりません。それでも、好きとまでいかないまでも嫌われていはいないと思いました」
お義母さん少し待ってと一言断ると部屋を出て行き、戻って炬燵に入ると紙を差し出した。
「お義母さん、これを見て」
「何なの?」
稲子は訝しげに亜紀を見た後、ラミネートされた3枚の紙を受け取った。それは彼に内緒に持ち出した後、自分で厚紙を台紙にして加工したものだ。
稲子は手に持った絵を次々に見て思わず亜紀を見た。
「これって、亜紀ちゃんの絵じゃないの。どうしたの?」
「成瀬さんが描いた絵なの」
彼の部屋で偶然入手した事の次第を話した。
「それじゃ、成瀬さんがいない間に入ったの?」
亜紀は決まり悪そうに頷いた。
「大胆なことをするわねえ、亜紀ちゃんも。まあ、事情は理解できるけど、無断で人の部屋に入って人のものを持ってくるのは犯罪よ。ちゃんとお詫びしなさい。電話をするのが嫌だったら、手紙を書いて詫びるのよ。いいわね」
稲子が呆れて諭すのを、亜紀は自分でもそうしようと思っていたから、はいと素直に返事した。
「それにしても上手な絵ね。どれも亜紀ちゃんの表情をうまく捉えているわ」
稲子はしきりに感心しながら、3枚の絵をかえすがえす本人と見比べながら食い入るように見詰めた。
「確かにこの絵には彼の気持ちが込められているわ」
稲子は右下の日付に気付いて、あらっと声を上げた。
「この日付って・・・、ひょっとして成瀬さんが初めてうちに来た時じゃないの?」
「はい。髭を剃り落とした真一さんを見てお義母さんが寝込まれた日の前日です。お客さんを森に案内すると言って・・・」
「ああ、あのときの。でも、これは池の傍の林の中でしょ?どうして・・・」
長年ここに住んでいるだけに、場所をすぐに特定した。
「初めて真一さんにあった時、声が修一さんにそっくりでびっくりしました。彼を森に案内しているうちに、何故そう思ったのか、心の内は私にもはっきり言えないけれど、唐突に私のことを聞いて欲しいと思いました。それで、失明したことから修一さんと出会ったこと、そしてこちらへ来た理由を話しました。その絵はその時の様子を描いたものです」
彼の顔を触ったことは省いた。
「それじゃ、成瀬さんは亜紀ちゃんと修一のこと全部知っているのね?」
「はい」
「それでこの絵を見て、成瀬さんが亜紀ちゃんのことを嫌いじゃないと思ったのね?」
「はい」
言葉少なに答えて、でも・・・と呟いて彼女は俯いて黙り込んでしまった。
「確かにねえ、気持ちがそのままこの絵に籠っているわ。それにしてもどうして成瀬さんは亜紀ちゃんにだけ頑なになるのかしらねえ?幼児性もわからないではないけど、それだけじゃないわね、きっと」
彼に何かがあると稲子の勘が訴えた。
「私も何が何だかわかならなくて、どうしていいか・・・」
絞り出すように呟くと再び肩を震わせた。
「彼がなぜそんな態度を取るのか私もわからないけど、希望を持ちなさい。私達も応援するから」
稲子は彼女の手を取って励ましながら、一つの大きな懸念が頭を
亜紀が恋をすることは彼女とって喜ばしいことだが、もしその想いが成就しないとしたら、片想いだけで終わるとしたら、より深い傷を負うことになるのではないか。もしそうなった場合、彼が身近にいる分、息子のときより厄介なことになるのではないか。これでは彼のことを忘れようにも忘れることはできない。やっとのこと息子のことをふっ切ったと思えた今、再びそうなることを稲子は恐れた。そのときは、彼から引き離すためにも亜紀を実家に戻さざるを得ないだろう。いや、賢い彼女自身がそれを申し出るだろう。だが、その状態のまま戻してもよいのもか。自分がそのように仕向けておきながら、厄介な難題を突き付けられた思いがした。
「このことは父と母には言わないで下さい。そのときは私から話します」
義母に釘を刺した。
両親か兄がこのことを知れば、何を置いてもすっ飛んで来ることはわかり切っている。だが、今の状況で真一を巻き込むことは、間違いなく事を複雑にし、彼を自分から遠ざけることになるに違いなかった。特に危惧すべきは加辺家にとって取り返しのつかない事態になりかねないことだった。
「わかったわ。でも簡単に諦めちゃ駄目よ。縁と言うのはね、そう簡単にくっついたり離れたりすることはできないものなのよ」
その夜稲子は夫に報告した。
「近頃亜紀ちゃんの様子がおかしいと思っていたが、お前が訊いてくれたのか。まあ、何にしても修一をふっ切ってくれたのは一安心だが、成瀬さんがそんな態度ではなあ。一難去ってまた一難か。これは厄介だな。うまくやらないとお前が心配するように拗れることになるぞ。まさか引き受けてくれたものを途中で放り出すことはなかろうが、会った時気まずい思いがするのは避けられん」
盛蔵は布団の中で率直な意見を述べた。
「かと言って、このままにしておくわけにはいかないわ。懸念はあるけど、折りを見て私が成瀬さんに会って来ようと思うの」
夫と話しているうちに、次第に真一を訪ねる思いが強くなった。
「そうだな、当事者同士に任せていても埒があかんかもしれんな。色恋沙汰は私よりお前の方が長けているから任せるよ。ついでに保留にしていた露天風呂の件も頼んでくれないか。相談しなくて悪かったが、爺さんと話して、この際一緒に造ることに決めた。爺さんが費用を負担してくれるそうだ。今のうちに引き受けてもらおう」
「わかったわ。あなたも適当な用事を見つけて、できるだけ成瀬さんを呼びつけるようにして下さいな。亜紀ちゃんからだと言い逃れられる可能性があるから」
「そうしよう。それにしてもよく亜紀ちゃんがよく本音を打ち明けてくれたもんだ」
「それだけ、悲観していたのよ」
「私も爺さんもそうなればいいと願っていたが、後は成瀬さんの気持ち次第か。それでどうする。遠藤さんに報告するか?ふぁー」
盛蔵は大きな欠伸した。
「今はまだ待って。亜紀ちゃんにも黙っていてくれと頼まれたし、変に期待されてうまくいかなかったときのことを考えると困るから」
「それはそうだが、ゴールデンウイークか夏にお越しになった時に様子を訊かれるぞ。いつも悲観的なことしか言っていないから、せめて修一のこと吹っ切ったくらいの話もしたいが」
「それは駄目、吹っ切った理由を訊かれるわ。今はまだ成瀬さんのことを話したくないの。だから、近いうちに変化があるかもしれないくらいを匂わせるわ。亜紀ちゃんとの約束もあるから、それが限度ね」
「そうだな。まあ、何にしても亜紀ちゃんの本音を聞けてよかった。しかし、お前大丈夫か?」
「・・・?」
稲子は何を訊かれたのかわからなかった。
「亜紀ちゃんがふっ切ってくれたのはいいが、お前寂しいんじゃないか?」
修一のことだとすぐに察した。
「大丈夫よ。寂しくないと言えば嘘のなるけど、今度は私が耐える番よ」
長年夫婦をしているだけあって、盛蔵は稲子の心理状況を的確に把握していた。
これまで息子は彼女を苦しめた。彼女が自分達に尽くしてくれていることを思えば、今度は自分たちが彼女のためにする番だと自分の感情を押し殺した。
盛蔵はいつの間にか寝息を立てていた。
稲子も真一と会った時にどのように切り出そうかと、あれこれ思案しているうちに眠ってしまった。
(四)
稲子が研究室のドアをノックすると少し間があって、どうぞとの声がした。ゆっくりとドアを開けると、電話で何かを話していた真一と目が合った。彼は軽く頭を下げ、お客様がお見えになったから、後で電話すると告げて受話器を下ろした。そして、さっと立ち上がると稲子を出迎えた。
稲子は深く一礼して中に入ると、見知った学生らがいらっしゃいと声をかけた。
外は寒風が吹いて寒かったが、ここは若者の熱気で包まれていた。
部屋の真ん中にある楕円形のテーブルでは一人の学生がパソコンで何やら入力しており、その横で女性二人が顔を寄せ合って何事かを相談し、離れたところでは一人だけ分厚い辞書と首引きで何かを書いている。真一の隣の机にいる中川は眼鏡をかけているせいか本物の秘書のように見えた。
「いらっしゃい。狭苦しいところですが、さあこちらへどうぞ」
気後れして立ちつくす稲子を真一が手を取らんばかりに招き入れ、腰を屈めた稲子を自分の机の前まで導いた。
「ソファでもあるとよかったのですが、この通り学生で一杯ですから落ち着くところもありません」
「いいえ、構いませんわ。無理を言ってこちらへ伺わせていただきましたのですから」
稲子が真一に面会を申し入れたのは、彼が亜紀と会った5日後のことだった。
それでは文化会館のカフェで待ち合わせましょうとの真一の誘いに、一度研究室を見てみたいからとそれを断ったのだ。
稲子は真一の机の前まで来ると風呂敷を解き大きな紙箱を取り出した。
「刈谷にお願いしてお菓子を作ってもらいましたの。珍しくもありませんが、皆さんで召し上がって下さいな」
学生達からおおっと歓声が上がった。真一も亜紀の時とは打って変わってにこやかに受け取った。
「これは嬉しいな。いつもお気づかいいただいて済みません」
「いいえ、こちらこそ皆さんにはお世話になりっぱなしですのに、これくらいのことしかできませんわ」
「とんでもない。こちらこそ学生達がお世話になっています。コーヒーでいいですか?おい中川、トラジャのコーヒーを淹れてくれ。みんな、ちょっとブレイクタイムにしよう。菊川、これをみんなに取り分けてくれ」
稲子の手土産を彼女に渡した。それまで静かだった室内がざわざわと騒々しくなった。
真一が椅子に腰を下ろした途端、電話の呼び出し音が鳴った。中川がさっと受話器を取って、はいはいと応対していたが、受話器を押さえながら恩師に訊いた。
「関口先生が論文のチェックを頼んでいたが、どうなっているかとお尋ねですが」
真一は自席の受話器を取り上げ終っている旨を告げた。
「中川に持って行かせます。・・・はい、お願いします」
電話を切り机の抽斗から封筒を取り出すと、中川に准教授の部屋まで届けるように指示した。
物珍し気に室内を見ていた稲子は顔を彼に戻した。
「聴いておりましたけど、本当に学生さん達で一杯ですわね」
「ええ、毎日これくらいの学生が入り浸っています。まさか加辺さんがこちらへお越しになるなんて思ってもいなかったので、電話をいただいたときは驚きました。それに今日は和服をお召しになって別人のようです」
わざとらしく無遠慮に和服姿の彼女を上から下まで眺め回し悪戯っぽく笑った。訪問客が年配の稲子のせいか、今日の真一は愛想がよかった。
「ほほほ、日頃は田舎のおばあさんに見えていますのね。お世辞とはわかっていても女としては嬉しいですわ」
嫣然と笑って答えた。
「とんでもありません。そんなつもりで言った訳じゃないですよ」
慌てて真一は否定した。年季の差と言うか、亜紀とは随分勝手が違った。
二人のやり取りを聞いて女子学生がくすくす笑った。
「ほほほ、それでは褒め言葉と受け取っておきますわ。別に驚かせるつもりはありませんでしたけれど、一度成瀬さんの研究室を見てみたかったのですの。単なる好奇心ですわ」
稲子は、またほほほと手で口を押さえて笑った。
稲子の電話を受けた時、真一は来訪の目的を怪しみ警戒した。彼女の話では長野へ出る用事があるから表敬訪問したいとのことだったが、その様なことでわざわざ立ち寄ることはないことくらいは彼も承知していた。ペンションの設計についてのことかと一瞬思ったが、それなら亜紀が来る筈だ。やはり、例のことかと怪しんだものの、彼女の用件にまったく予測が付かなかった。
「皆様のおかげで私共が考えていた以上のものになりそうで喜んでおりますわ。皆様ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」
稲子は立ち上がると振り返り両手を揃えて腰を折った。
「大学の研究室といえば、何か難しそうな書物とか機械とか試験管で一杯かと想像しましたけど、案外そうでもないのですね」
稲子が体を戻して言ったのは亜紀の感想と同じだった。
「まあ、そうですね。私の場合、研究と言っても実験をするわけではなく頭で考えるのが主ですから、そのような設備は必要ありません。必要とした場合でも同僚に頼めばほとんど事足りますし」
真一が苦笑して説明したが、門外漢の稲子には理解外のことで軽く頷いただけだった。
菊川が二人の前にコーヒーと土産物の林檎のタルトと桜餅を置き、それをみんなに配ると、いただきますの声が室内に響いた。
稲子が振り返り、どうぞと返した。
「これは美味しそうだ。この時期に桜餅なんて珍しい」
真一は和菓子を目の前にして感心した。
「桜の葉と
「菊川、タルトは後で食べるから、冷蔵庫に入れておいてくれ。桜餅には普通渋いお茶だろう。二つ頼む」
「もう先生ったら、我儘なんだから」
菊川は減らず口を垂れながら、茶の用意を始めた。
真一の肩を叩かんばかりの遣り取りをする恩師と教え子の様子が稲子には微笑ましく映った。
電話がまた鳴り、菊川が受話器を取り上げ、一言二言話すと恩師に受話器を差し出した。
「先生、佐藤教授からお電話です」
ちょっと失礼しますと稲子に断り電話に出た。
「はい、成瀬です。・・・え、またですか。これで4度目ですよ。・・・3度目、そうだったかな?・・・はい、わかりました。これも貸しですからね。え、堅いことを言うなですって。これだからなあ。わかりました。その代わり、勝手に僕の噂を流さないで下さいよ。迷惑しているんですから」
そんな会話に慣れているのか、学生達はクスクス笑った。一方、稲子は彼の上司であるはずの教授に対し、友達か誰かのように親しげに話すのを目の前で聞き目を丸くした。
教授といえば、昔テレビで観た「白い巨塔」の中で、あたかも大名行列のごとく横柄な態度で部下を連れ歩く印象が強い。そんな偉い上司でもある教授に対して、講師の立場の彼がため口をきくことが信じられなかった。もの問いたげに中川の席にいる菊川を見ると、彼女は稲子に小声で耳打ちした。
「先生と佐藤教授は昔からの腐れ縁の仲なんです。だから、互いに遠慮がないんです。渋る先生を説き伏せて講師に招いたのも教授ですわ。講義の最中に先生の学生時代のことを面白可笑しく話すものですから先生が迷惑しています。いいところも悪いところも全部知っていますから、先生も頭が上がらないんです」
「佐藤教授って、娘さんとお見合いさせたと言うその人?」
小声で問う稲子に、菊川は唇に人差し指をあててウィンクした。
「ああ、それで」
納得した様子の稲子の前で真一は通話を早く切り上げようとしていた。
「論文は今月中に仕上げますので査読をお願いします。・・・それはないでしょう。僕の尻を叩いておいて。まあ、よろしくお願いします。来客中ですのでその件については後ほど、失礼します」
真一は電話の応答を終えると菊川に指示した。
「佐藤教授が来週から中国へ一週間出張するから、月曜日第4限の建築計画を代講することになった。スケジュールに加えておいてくれ」
「またですか」
「まただ」
「休講にすればいいのに・・・。佐藤教授は何かあるといつも先生に頼んでくるんだから。先生もほんと人がいいから」
菊川が当人に代って不平を漏らす不思議な構図に稲子は思わず笑ってしまった。
「まあ、そう言うな。すまじきものは宮仕え、そのうちにいいこともあるさ」
苦笑した真一はそのように諭して稲子に向き直った。
「落ち着かなくてどうも済みません」
「いいえ、どういたしまして。中々大変ですわね」
机の上を見ると下手くそな字で何かを書いている原稿があった。こうして見ていると、亜紀が言うとおり結構多忙なのだと理解できた。それでも自分の使命は果たさなくてはならないと話す順序を素早く頭の中で確認し身を引き締めた。
稲子の思惑を知らない彼は、お茶を飲む間の繋ぎに愛想のつもりでペンションの様子を尋ねた。
「ペンションの方はいかがですか?忙しいですか?」
「いいえ、冬場はお客様の足も遠退きますから、こうして成瀬さんのところへも足を運ぶことができますわ」
稲子の軽い冗談に真一は笑いながら言った。
「稼ぎ時はやはり夏ですか?」
「夏もそうですけど、春と秋も週末には予約で一杯になりますわ。冬だけはあたり一面真っ白になりますから、景色だけではどうもね。それでお風呂のことですけど、この前のお話ではペンションが建ってから考えることで合意していましたけど、主人と舅がこの機会にどうしてもというものですから、成瀬さんに露天風呂の設計もお願いできないかと、こちらへ出てきたついでと言ったらなんですけど、こうして参りましたの」
稲子は話を上手く誘導して風呂の件に話を持っていった。真一はいずれそのような依頼をしてくるかも知れないと思っていたので驚きはせず、彼女の用向きはそのことだったのかとかえってほっとしたほどだった。
学生達は手を休めて二人の話の成り行きに関心を払っていた。
「わかりました、乗りかかった船ですからお引き受けしましょう」
意外にも彼があっさりと引き受けたので、どのように説得しようかと思案していた稲子の方が拍子抜けしてしまった。恩師の用を済ませて席についた中川は驚きの目で真一を見た。彼女の目はこれ以上のことは無理だと訴えていた。しかし、それは杞憂だった。
「学生さんには申し訳ないですが、成瀬さんに設計をお願いしたいのですけれど」
「彼らには時間がないし、ちと荷が重いですから、私がしましょう」
真一はちらりと中川を一瞥した後、彼女が怪しむほどあっけなく了承した。
「そう言うこともあろうかと私案ですが」
机の抽斗から数枚の紙を取り出したのは、露天風呂のデッサンだった。
それを稲子に示しながら考えていた2案を説明した。学生達も彼の机の周りに集まって彼の説明を傾聴した。
第1案は無理だが、彼が推す第2案であれば、私も受け入れることができる。いつの間に考えていたのか、費用を少しでも抑えようとする彼のアイデアに感心してしまった。これなら夫も舅も納得するだろう。
「そのようなことができますの?」
「ええ、まあ。これは計算上のことですので、実際に試してみて調整が必要になると思いますが」
「それでも素晴らしいわ。実現できればいいですわね。持ち帰って主人にも言いますわ」
「この絵を差し上げますので、皆さんでご検討下さい」
「何から何まで、ありがとうございます。ここまで来た甲斐がありましたわ。こんな大事なこと電話一本で済ませるわけにはいけませんものね。主人も喜びますわ」
ほっとして両手を揃えて頭を下げた後、真一の来訪を言葉巧みに促した。
「でも、どちらにするかは簡単に決められないと思います。ご意見も直接伺いたいので一度打ち合わせにお出で下さいな」
うーんとここで初めて渋る様子を見せた。それでは中川を伺わせましょうと尻込みするのを稲子ははっきりと拒絶した。
「普通それは設計する人がちゃんと説明して質問とか注文に応じて下さるものじゃありません?そうでなければ成瀬さんが一番嫌う時間の無駄と言うものですわ」
稲子の方が一枚上だった。亜紀になら言い分を通せても稲子にはそれができず、彼女の正論に頷くしかなかった。
「わかりました。来週は都合が悪いから再来週の日曜日はいかがでしょう?」
日曜日だけは自分の日と決めているから仕事はしない。頭の中で素早くスケジュールを確認して返事した。だが、稲子はそれもやんわりと拒否した。
「それでも結構ですけど、せっかくお越しになるのでしたら、遅くなっても結構ですから土曜日に来て一泊するおつもりでお越し下さいな。そうでなければあなたの来訪を心待ちにしている主人が承知しませんわ」
稲子の強硬な姿勢に真一は頭の中の手帳をもう一度繰り、しばらく思案して断を下した。
「わかりました。それでは来週の土曜日の午後からまいりましょう。ただし、この前のようなことはなさらないようにお願いします」
過分な歓迎もそうだが、あの時のように自分を肴にされたらたまったものでないと煙幕を張った。
「承知しました、そのようにお待ちしますわ。それで学生さんは何人さん来られます?この時期ですから、ここにおられる方々全員でも構いませんけど」
無駄口を控えて、話の成り行きを見守っていた学生達からわっと歓声が上がった。
中川が加辺家へ打ち合わせに行くときは、同行者を目的に合わせ公平に選んでいたのだが、一度も訪れたことのない者もいたからだ。
一人で行くつもりでいた真一も、みんなが口々に行こう行こうと言い合うのを見て、彼女の申し出を受け入れるしかないと諦めた。
研究室が騒がしくなったとき、中川の机の電話がまた鳴った。
「はい、成瀬研究室です。あっはい、おられます。少々お待ち下さいませ」
珍しく緊張して応対している中川を何事かと全員が見た。
「はい、わかりました。そのようにお伝えします。失礼します」
頭を下げながら丁寧に受話器をおくと、誰からと訝しげに見つめる真一に告げた。
「学部長がすぐ来るようにと仰っていますが」
「学部長が・・・?困ったな。・・・まだ何かありますか?」
「ええ、まだ少し」
肝心の要件がまだ済んでいない。忙しそうな彼を見て怯みそうになる気持ちを押し殺して答えた。
「そうですか」
当惑する彼の様子を見て稲子が助け船を出した。
「私のことでしたら構いませんわ。お邪魔でなければ学生さんと世間話でもしてお待ちしていますわ」
「済みません。用件はわかってますので、それほど時間は取らないと思います。少しの間失礼します。おい加藤、俺が戻るまでおもてなしを頼む」
真一は返事も聞かずに上着を羽織りながら慌ただしく部屋を出て行った。
加藤は恩師を見送ると隣の椅子を開けさせ稲子を誘った。稲子は真一から受け取った紙を丁寧に畳んでバッグに入れると立ち上がり、研究室をざっと見回った後、加藤が空けさせた席に優雅に腰を下ろした。
「みなさんも勉強しなければならないのに、私共のせいで貴重な時間をいただいて申し訳ないですわねえ」
「いいえ、とんでもありませんわ。私達楽しいんです。頭ではわかっているつもりでも、いざ設計すると考えさせられることばかりで、今まで学んだのは何だなんて反省させられて。それに授業では教えてもらえないことも学べますからいい経験になっています。みんな加辺さんには大変感謝しているんです」
菊川が卒なく応答した。
「そのように言っていただければ、嬉しいですわ。ところで、今日はそれほどでもないようですけど、成瀬さんはいつもあんな風に気難しい顔をしておりますの?」
「そんなことはありません。公私をはっきり区別する方ですから、学内におられる時は生真面目そうな態度をとります。だけど、一歩外へ出て講師の立場から離れるとびっくりするくらい気さくですわ。でなければ私達も気詰まりで仕方ありませんもの」
それに加辺さんと菊川が続けた。
「ここの仲間は8人ですけど、月2千円の会費を徴収してここのおやつ代に当てて、余れば飲み会の足しにしているんです。足りない分は先生が賛助金を出してくれて、時には参加もしてくれます。そのときは先生も羽目を外してここにいるときとは全くの別人になって冗談もよく言います。ですからみんな先生を尊敬していますし、先生の言うことには必ず従います」
「ほほほ、余程成瀬さんのことがお好きなのね。今回は来ていただけるようですけど、滅多に私共のところへは参りませんけど、お忙しいのかしら?」
稲子はさり気なくその理由を聞き出そうとした。
「それはもうお忙しいですわ。講義がなければ、会議とか雑用とかに追われていますし、先程のように教授に呼び出されもします。それに出版社から執筆も頼まれています。佐藤教授には論文はどうなっているんだと尻を叩かれて、見ていて気の毒なくらいです。時には通訳を頼まれたり、住宅の設計を依頼されたりしますから、先生の自由時間はないも同然なんです。
加辺さんの前ですけど、どうしてペンションの設計を引き受けたのか疑問に思っていたんです。それが、私達に任せると知って、先生の意図が初めて理解できました」
中川の説明に多忙な理由を納得した。
「そうでしたの。そうとも知らずに無理に頼んで申し訳なかったですわね。通訳って仰ったけど、英語の?」
「いいえ、英会話でしたら他の先生方も不自由しませんけど、たまに英語以外の母国語しか話せないお客様が見えられると先生が呼び出されることがあるんです。先程電話がありました関口准教授のドイツ語翻訳の精査もそうですわ」
「ドイツ語といえば、先生がミュンヘンへ行ってしまうかもしれないことをご存じですか?」
加藤は突然そんなことを言い出した。稲子もミュンヘンがドイツの都市の一つだくらいは知っている。
「ミュンヘンて、出張か何かで?」
江口が加藤の脇腹を肘で突いて話を止めた。中川も渋い顔をしている。
「何ですか、話を途中で止められたりしたら気になりますわ。成瀬さんのことでしたら、どんなことでも聞きたいわ。私に聞かれたら困ることがありますの?」
加藤が黙り込んでしまったのを見て中川に問うた。
「いいえ、そうじゃないですけど、単なる噂ですから気になさることはありませんわ」
「でしたら、その噂とやらを伺いたいですわね」
聞いてしまった以上そのままでが済まさないと言った勢いで訊いた。
「ここで噂話をすることは先生に禁止されているんです。ましてご自身のこととなると非常に嫌います。噂話をしたことを知られたらここから追い出されてしまいます。ですから聞かなかったことにして下さい」
中川の頼みに、はいそうですかと引き下がる稲子ではなかった。
「どのような噂か存じませんが、私が黙っていれば済むことでしょう?誰にも言いませんから聞かせて下さいな」
内容によっては夫と舅に報告するつもりである。
「慶子、話して差し上げたら。俺達もその噂が本当かどうか知りたい。後輩達も知りたがっている。それに俺達が訊いたところで先生は答えてくれないだろう?だったら、加辺さんに訊いてもらったら。幾ら先生でも加辺さんには答えるんじゃないか」
逡巡する中川を江口が翻意を促した。
そうだそうだの声に押されて、中川も渋々話すことに同意した。
「みんながそう言うんだっら、わかったわよ。その代わり叱られるときはみんな一緒だからね、いいわね」
みんなが同意したのを見て、後輩から聞いた加藤に、代表して話すように促した。
「わかった。でもこの話は直接聞いたわけではないのでそのつもりで聴いて下さい」
稲子は加藤らしからぬ勿体ぶった態度に吹き出したくなるのを堪えて頷いた。
「あのですね、先生がドイツの大学から招聘されていることを、後輩がたまたま佐藤教授の部屋に行った時に小耳に挟んだそうです。その時の様子では先生が佐藤教授に相談を持ちかけたみたいなんです。
そいつが聞いたのは冬休み前ですが、気になるから僕に本当かどうか確かめてくれと言って来たんです。僕らも寝耳に水の話で大騒ぎしたけど、先生に確かめることもできずに悩んでいたら、タイミングよく加辺さんがお越しになられたんです。これも何かの縁だと思います。加辺さんから事実かどうか訊いていただいて教えてもらえませんか。僕らはもうすぐ卒業するからいいけど、後輩達には切実な問題なんです。彼らのためにもお願いします」
意外な噂話に稲子はどうしたものかと考え込んでしまった。他人事ではなく、亜紀にどれほどの衝撃を与えるかと思うと捨て置く訳にはいなかった。
「わかりました。そんな風でしたら私にも答えてくれるかどうかわからいけど訊いてみましょう」
(もし、それが事実なら・・・)
考えが纏まらないうちに真一が戻って来た。
「お待たせして済みませんでした。それでは続きを伺いましょうか」
自分の席に戻ると性急に稲子を促した。学生達は息を凝らし上目使いに稲子を窺った。
稲子は慌てずにゆっくりと立ち上がり、彼の前の椅子に再び座ったが、「こちらでお話しするのは少し・・・」と 話すことに躊躇いを見せた。
稲子が言い淀むのを見て、やはり風呂のことは口実で、自分の推測が当たっていたことを確信した。
「それではここを出ましょうか」
抽斗から煙草を取って立ち上がると、稲子もそれに応じて席を離れた。
「皆様お邪魔しました。」
ゆっくり振り向くと丁寧にお辞儀をして辞去した。学生達は期待を裏切られたような表情をしたが、中川だけはよろしくお願いしますと目で訴え送り出した。
研究室を出て歩きながらどこへ行くか迷った。
建築学科棟から一歩外に出ると、冷たい風が彼らを押し包んだ。寒さのせいか行きかう学生は多くなかった。
「加辺さん、ここへは車で来られました?」
「いいえ、免許証は持ち合わせていませんので、駅からタクシーで参りましたわ」
「帰りも?」
「ええ、そのつもりです。タクシーは拾えるかしら?」
「流しのタクシーは難しいかも知れませんが、呼べば来てくれるでしょう」
今回も亜紀と待ち合わせたところにしようかと思ったが、目先を変えて日赤病院近くのカフェへ行くことにした。そこは時々昼食に利用するところだ。若者の客が多くて少々騒がしいが、二人でいても目立たないだろうし静かすぎるよりは話し易かろうと判断した。
「それじゃ、赤十字病院近くのカフェへ行きましょう。近くにバス停がありますし、病院前にはタクシーが待っていると思います。少し歩きますが、いいですか?」
「お任せしますわ」
体育館まで来た時、一人の学生が出て来て、驚いたような表情をした。稲子の歳格好と和服姿が珍しかったのだろう。
「寒くないですか?」
真一は肩をすぼめる和服姿の稲子を気遣った。
「いえ、ご心配なく。首回りをショールで覆いますと見た目より暖かいものなのですのよ。それに内緒ですけど、使い捨てカイロをあちこち貼っていますから大丈夫ですわ」
ころころと悪戯っぽく笑った。そんな彼女の姿を想像して真一も一緒に笑った。
「それより、薄着のあなたの方が寒いように見えますけど」
紺色のスーツに袖を通しただけの彼に自分の方が身震いする思いだった。
「寒中稽古で鍛えていますから大丈夫です。自分的には夏よりも冬の方がいいです」
稲子は怪訝そうな表情をした。
「剣道をしていると夏は面道着で蒸れますから」
「ああ、そう言えば、剣道をなすってらっしゃるのでしたわね」
「大学に入ってから剣道を始めました。今も時々後輩たちとやってます」
「それで姿勢がよろしいのね」
息子を見上げた時も、丁度これくらいだった。
「息子が卒業した大学もそうでしたけど、工学部だけあって男の方がほとんどですわね」
途中ですれ違った学生はみな男だった。
「そうですね。僕らの頃と違って、女性も増えているんですが、欧米に比べればまだまだです」
裾さばきが窮屈な和服のせいで、稲子が踏みしめるようにゆっくりと歩くので、いつもは足早で歩く真一もその歩調に合わせざるを得なかった。
稲子は真一の横で歩いていて、亡くなった息子と歩いているような感覚に陥った。そして唐突に東工大の入学式と卒業式に出席したときのことを思い出し、感慨に耽った。
(あのときは修一も自分も未来があって幸せだった。よもやあんなことになるなんて・・・)
あくまでも物静かだ。あのとき息子と見間違って取り乱した人とは思えない。今も息子のことを思い出しているに違いないだろうに見事なまでに抑えている。母とそれほど年が違わないように思うが、深い考えもなく直情的になる母とは全くタイプが違う。何を考えているのか、つかみどころがなく油断のならない人だと警戒した。
(舅の耕造が嫁である稲子の顔を立てているところから見て、実質的にはこの人が加辺家の舵取りをしているのだろう)
「もう季節は過ぎましたが、秋になるとイチョウ並木が黄色くなってとても綺麗なところです。まあ、加辺さんところに比べればあまり自慢もできませんけど」
稲子はそれに応えず、あそこは何々の建物、ここは何々の研究棟との真一の説明にも黙して亡き息子との思い出に浸っていた。
(もし修一が行きていれば、この人と同じように活躍していたに違いない。そしてきっと亜紀と幸せな家庭を築いていただろう)
亜紀の幸せを願いながら、この人と亜紀を結びつけていいのだろうかとの矛盾した気持ちに煩悶しているうちに、赤十字病院前の広い県道まで来た。そのとき一陣の強い風が二人を襲った。稲子は思わずあっと悲鳴を上げて立ち竦んだ。真一は咄嗟に彼女の風上に立った。風が過ぎると何事もなかったように離れた。稲子は一瞬息子に庇われたような気がして不覚にも涙を流しそうになった。そのとき、真一が口を開いた、
「そう言えば、加辺さんとこうして個人的に話すのは初めてですか」
物思いに耽っていて少し返事が遅れた。
「あ、そうですわね。あなたが息子に似ているせいか、何だか初めてのような気がしませんでしたわ。あ、そうそう、いつぞやは取り乱しまして驚きましたでしょう?お客様の前でみっともないことをするなと主人に叱られましたわ」
稲子は真一をじっと見上げた。その角度も彼女が記憶しているものと同じだった。
「そんなに私が息子さんに似ていますか?」
「それはもう、双子じゃないかと思うくらい。親馬鹿と笑われるかもしれませんが、息子もあなたと同じくらい頭のいい子でしたから末が楽しみでした。でも、ああなるのがあの子の運命だったのでしょう。その代わり素晴らしい娘さんを私達に寄越してくれましたわ」
稲子はそっと真一を窺ったが、彼は聞こえなかった振りをして、歩行者用信号機が青になるのを待っていた。
「こうしてあなたとお近づきになってみますと、顔形はそっくりだけどタイプが少し違うように思いますわ」
「そうですか。ちなみにどんなところが違いますか?」
「そうですわね。息子は思い遣りのある優しい子でしたわね。親を一度も困らせたことはありませんでした。あら、あなたがそうじゃないと言っている訳ではないんですよ」
自分で言ったことが可笑しかったのか手の甲を唇にやった。
「それに、よかれと思ったことや自分が欲しいと思ったことには積極的でした。もし生きていれば、きっと亜紀ちゃんと幸せな家庭を築いていたと思いますわ」
稲子はそのように息子を評することで彼との違いを暗に表現した。
「そうでしょう。心から亜紀さんを愛していたのでなければ、目が不自由だった亜紀さんのことを思い遣ることはできないでしょう。私には真似のできないことだと思います。そこが私と一番違う。どちらかと言えば、自己中心的ですから。 よほど純粋な方だったのでしょうね」
彼女の眼のことを何故知っているのかと問われると思っていたが、それはなかった。
「さあ、どうでしょうか。純粋かどうだったかは別にしましても、何事にも真剣に向き合って、少なくても自分の方から避けるようなことはしなかったように思いますわ」
稲子は立ち止まると、笑いを含んだ目で息子と瓜二つの男を見上げた。真一も自分のことを当てこすっていることはわかっていたが、何も言わず苦笑しただけだった。
真一は他人のプライベートには関心を持たないように努めて来た。しかし、今稲子を横にして、自分に似ていると言う修一がどんな男だったのか強く知りたいと思った。
彼がどのような子供時代を過ごし、少年時代は何をして遊び、青年時代は何を考えていたのか、自分が助からないと知った時はどんな思いだったのだろう。もし仮に、亜紀と修一のどちらか一方の知りたいことを神様か悪魔が教えようと教唆されたなら、迷わず後者を選んでいただろう。
カフェの中は学生と思しき若者が殆どだった。二人は奥まった席に座り、飲み物を注文し終わると、性急に用件を尋ねた。
「今日わざわざお越しになられた本当の目的は何でしょう?電話をいただいてから気になってよく寝られませんでした」
冗談めかして言ったが、その目は笑っていない。
「本当の目的?そうねえ、お風呂の件は本当ですが、それが主目的ではありませんわね。一度あなたとゆっくり話がしたかったと言うのが本音かしら」
真一を焦らすかのよう袂から白いハンカチを取り出すとゆっくりと口の回りを拭いた。それを真一はじっと見ていた。
「用件に入ります前にあなたにお伺いしたいことがありますの」
「何でしょう?」
用件前と聞いて気楽に応じた。
「こちらへ参ります前に、噂話として成瀬さんがドイツへお行きになると伺いましたけど、それは本当のことですの」
予想もしなかった問いに真一は少し驚いた。
「そのことを誰が?」
知る者は限られているはずなのに、話が広まっているようだ。噂の出所が気になって尋ねた。
「噂話ですから、誰と言うことはありませんわ。その話は本当ですの?」
「それは本当です。誰から聞かれたのか知りませんが、加辺さんには決まってからご報告に伺うつもりでした」
正面きって尋ねられて、はぐらかせるわけにもいかないので正直に答えた。
稲子は何も入れないでカップを持ち上げ紅茶を一口飲むと、ごく普通の口調で尋ねた。
「やはりそうでしたの。何でもどこぞの大学に行かれるとか?」
「実は去年の12月にドイツのさる大学から教授にと招聘されまして、それに応じることにしました。さっき学部長に呼ばれたのもその件でした。決まれば、向こうの新学期に合わせて8月のことになりますが、渡航の準備や事前に視察もしておきたいですから、3月末日をもって辞する旨を告げたところです」
「それはおめでとうございます」
そこまで話が進んでいるのかと稲子は心の動揺を抑えてお祝いを述べた。それでも自分達の計画が狂う事態と亜紀に対してどのように告げたものかとの新たな難題に、祝意も上滑り気味だった。早急に作戦を練り直さなくてはと、頭の中は次の段階に移っていた。
「ありがとうございます。でも、最終的には両親の同意を得てからになりますので、決定した訳ではないのです」
「出世なさるのだから、ご両親は反対なさらないでしょう?」
「さあ、それはどうでしょう。骨を埋めるつもりで行きますから、昔気質の母が許してくれるかどうか、正直なところそれはわかりません。土曜日に帰って話すつもりです」
それで自分達の所へ来るのは今週ではなく来週にしたのかと得心した。
「そうなっても、お引き受けしましたことはちゃんと仕上げますのでご安心下さい」
「それは心配しておりませんけど・・・。先ほど骨を埋めると仰いましたけど、日本には戻るつもりはないと言うことかしら?」
「それは単なる比喩ですが、そのつもりです。一時的に帰国することもあるでしょうが、行く以上は中途半端な気持ちではなく永住するつもりで参ります」
永住と簡単に彼は言うが、それは稲子いや亜紀にとって大問題だった。彼が離日してしまえば、自分達を訪ねて来ることは最早ないだろう。そうなれば再び語らう機会はないだろう。彼の渡航前に何とかしなければならない。帰ってすぐに夫と舅に前後策を相談しようと心の中で結論を下した。
「それにしてもよくドイツなんて遠い国の大学から声がかかりましたものね」
「たまたま私の論文がその大学の目に留りまして、他に書いたものがあれば送るようにと要請がありました。それで発表済みの論文を翻訳して送ったところ、私の研究をそこで完成させないかとの話があったという訳です。どうするか迷って上司に相談したところ、是非受けるべきだと尻を叩かれて、行く決心がつきました」
「そうでしたの。大学のことはよくわかりませんけど、その若さで講師から一辺に教授ってなれますの?」
「外国では実績次第ですから、私より若い教授はいくらもいます。日本もましにはなったようですが、それでも年功序列の風潮はあまり変わってはいませんから、日本では難しいところもあるでしょうね」
「教授にお成りなんて前途洋々でよろしいわね」
「ありがとうございます」
真一は礼を述べるとドイツ行きの話はここで打ち切った。
「それでご用件は何でしょう?」
「先ほども申しましたように、温泉のことは本当ですけど、直にお会いして伺いたかったことがありますの」
すぐには本題に入らずにブラインド越しに窓の外を見た。思いがけなくドイツ行きのことを知り、どのように切り出したものかまだ迷っていた。
「こちらの大学には初めて参りましたけど、立派ですわねえ。建物も沢山あって、学生さん達が大勢いらして生き生きとしていましたわ。私も少し若返ったような気がして、押しかけてよかったと思いました。みなさん、成瀬さんを尊敬しているようですわね」
「そうでしょうか。そうは思いませんが、1年近くも一緒にいると気心も知れて、何を考えているかくらいはわかるようになります。だからといって依怙贔屓はしません」
彼だったらそうだろうと思った。まだ浅い付き合いだが、これまでの彼の態度でそれくらいのことはわかる。
「先日はお忙しいのに亜紀ちゃんに付き合って下さってありがとうございました。お陰様で色んなことを決めることができたと喜んでいます」
「私の方こそすき焼きをご馳走になりました」
「それでお味の方は?」
「美味しかったですよ。稲子さんや刈谷さんに教わったのかな?」
「いいえ、私は何もしていませんわ。基本的なことは刈谷に教わったようですけど、全部あの子が自分で工夫したものですわ。若いのに本当によくやってくれています。私もですけど、主人もお爺さんも亜紀ちゃんには感心させられていますのよ」
亜紀の話題になったので稲子も話しやすくなった。
「ときに、成瀬さんにはどなたかドイツへ連れて行くような方はおりませんの?」
カップの中の紅茶を見ながら直裁に尋ねた。真一は警戒心を強くした。
「稲子さんの仰るのが特定の女性のことでしたらいませんよ」
真一はカップを置きながら慎重に答えた。
「恋愛願望は強くないし、独身生活も長いですから、そんなことで自由を縛られるより今の方が気楽です」
「ほっほっ、それでは結婚はなさいませんの?」
稲子は巧みに自分の用件に話を誘導した。
「縁があればしますよ。でも無理にしようとは思いません。まあ、そうなるかどうかは神様しかわかりませんが」
稲子はさも可笑しそうに口を押さえてほほほと笑った。
「可笑しいですか?」
「ごめんなさい。いえ、あなたの口から縁とか神様などと聞こうとは思いませんでしたから、思わず笑ってしまいました。ご自分のことなのに神様頼みなんて成瀬さんらしくないですわ」
紅茶をまた一口飲むと本来の用件に入った。
「ところで、成瀬さんは亜紀ちゃんが私の息子と結婚した
そのような訊きかたをすることをみると、やはり亜紀が稲子にあの日のことを話していると察した。ますます警戒して事実だけを答えた。
「聴いています。初めてペンションに行った時に亜紀さんが話してくれました。その時の話で、息子さんが亜紀さんのことをどれほど深く愛していたか知りました。それに息子さんが望むなら亜紀さんとの結婚を許すつもりだったことも。
私はモンロー主義者ですから、プライベートなことを訊くのも訊かれるのも話すのも話されるのも好きじゃありません。学生達にも研究室にいる間はそれを強く戒めています。噂話もしかりです。しかし、あのときの亜紀さんは思い詰めている様子でしたので拒否はできませんでした。聴き終ってから、やはり聴くべきじゃなかったと深く後悔しました」
その時のことは鮮明に覚えている。忘れたくても忘れられずにいるから困っているとは目の前にいる稲子にも言えない。それに認めたくはないが、亜紀と会うたびに会ったこともない彼女の亡夫を強く意識する自分が腹立たしかった。決定的に彼を困惑させているのは、それと対抗しようにもその相手が亜紀の心の中にだけ存在していることだった。ならば早くそれを解消させる手立てを講じればよさそうなものだが、彼のプライドがそれを許さなかった。それで彼の採った選択肢は自分の方から可能な限り彼女から離れ遠ざかり忘れることだった。しかし、稲子らの術中に嵌ってそれができていない。現にこうして彼女を自分に近付けようとしている。それどころか結びつけようとさえしていることは、言葉と態度で明らかだ。だからこそ今回のミュンヘン大学からの招聘話は渡りに船だった。
「それでは、息子のことを忘れられずに心を煩わせていることもご存知ですわね?」
「それも知っています」
慎重に言葉を選んで答えた。
「それなら話が早いわ。単刀直入に訊きますけれど、亜紀ちゃんとお付き合いする気持ちはないかしら?いえ、ドイツへ行かれるのなら、亜紀ちゃんを一緒に連れて行って欲しいの」
渡航話を聴いて、稲子は変化球を捨て直球を投げた。
「心を煩わせている話がどうしてそうなるのです?そのように言われるのは光栄ですが、亜紀さんとは数回しか会っていませんし、親しく口を利いたこともほとんどありません。第一彼女にそのような意思があるとは思えないのですが」
真一は彼女が投げた球を捕球せず、わざと後方に逸らせた。
「それは亜紀ちゃんを見損なっていますわ。それに、これは私の勝手な願いです」
「だったら、その話はなかったことにしませんか」
彼の返事は予想はしたものの、今度は明確な返球をされて稲子は落胆した。だが、そう簡単に引き下がれなかった。
「ドイツ行きのことは軽率な発言でした、聞き流してくださいな。だけど、何も堅苦しく考えないで、とりあえず普通に交際してみればいいじゃありませんか。ときどき会ってお喋りをしたり、コーヒーを飲んだり、時には映画を観に行ったりとか。もし亜紀ちゃんのことを嫌っていないのなら、渡航までにはまだ時間があることですし、それから結論を出してもいいじゃありません?」
「どうも加辺さんは私を買い被っておられるようだ。加辺さんが思っておられるほど私は立派な男ではありませんよ。誤解しないで欲しいのですが、亜紀さんだからというわけではなく、誰とも付き合うつもりはありません。そんなことを云々する資格すら私にはありません」
稲子は彼の拒み方に違和感を覚えた。立派ではないとか資格がないとか、単に交際するだけのことがそんなに難しいことなのか、第一一緒になれとは言っていない。お見合いで盛蔵と一緒になった彼女には彼の言動が理解できなかった。それを咀嚼する前に真一は言葉を続けたことで深く詮索せずに済ませてしまった。
「加辺さんのような方が、何故そのようなお節介をするのです?頼まれもしないのにそんなことをするのは加辺さんらしくないですよ」
わざとはぐらかせるかのように砕けた言い方で逃げを打ち、冷めきった紅茶を一口飲んでカップをテーブルに置いた。
「私だってその辺にいる噂好きでお節介焼きのおばさんですわ」
「だとしても、加辺さんは亜紀さんのいわばお姑さんだ。その人が、息子さんが愛した人を結びつけようとするなど、常識的には理解できない。抵抗はないのですか?」
「それはまあ、ないと言えば嘘になりますわね。ですけど、いままで亜紀ちゃんが私達にしてくれたことを思えば、そんなこと言える義理ではありませんわ。私達には亜紀ちゃんを幸せにする義務、いえ責任があると思っています。それよりなにより亜紀ちゃんにはあなたが一番相応しいと思ったからですわ。勿論あなたにとっても」
「それは光栄ですが、いずれにしてもその話なら、これ以上お聴きするつもりはありません。加辺さんと私は顧客と受託者の立場でしかないと思っています。そのつもりでお付き合いをして来たつもりです。それはこれからも変わりません。もし、私のこれまでの態度で誤解を与えていたとしたらお詫びします。折角お越しいただきながら申し訳ありませんが、ほかに用件がなければ学生達を待たせていますので、これで失礼します」
非礼を承知で会談の打ち切りを一方的に宣言すると、立ち上がり一礼して出て行こうとした。稲子はそれを呼び止めた。
「成瀬さん、一つだけ教えて下さいな。それくらいはいいでしょう?」
真一は固い表情のまま元の席に戻った。
「何ですか?」
切り口上で答えた。
「折角ここまで来たのですから、私の質問に正直に答えて下さいな。それくらいはお約束して下さってもいいでしょう?」
稲子は微笑んでいるが、目は笑っていない。
真一はしばらく考えて返答した。
「いいでしょう、でも答えたくなければ言いませんよ」
「それで結構ですわ。それでは率直にお伺いします。亜紀ちゃんのこと成瀬さんはどのように思っていますの?」
「どのようにとは?」
「好きか嫌いかをお訊きしています。それくらいは答えられるでしょう?」
単に好悪を問われているだけなので、嫌いではないと答えればいいだけなのだが、相手は稲子だ。正直に答えると約束したが、迂闊なことは言えない。どのように返答すべきか迷って目を
「わかりました、返事は結構ですわ。でも最後にこれだけは言わせて下さいな」
それまでの穏やかな表情を一変させ、年上の女の顔になった。
「世の中には自分の思惑だけでは動かないこともあるものなのですよ。自分ではそうではないつもりでいても、その人の何気ない言動、いいえその人の存在自体が良くも悪くも周りに影響を与えることもあるのだと言うことを、どうかお忘れにならないで。それでは来週の土曜日にお越しになるのをお待ちしています」
それだけを言って伝票を手にして立ち上がると、稲子は軽く礼をして席を離れた。真一は放心状態のまましばらくそのまま残った。何のつもりで言ったのかわからないが、別れ際に言われたことが妙に心に残った。
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