第四章 懊悩

                    (一)


 真一の研究分野は古代建築史、都市計画、西洋と東洋の建築構造物など多義に渡っているが、今は大工棟梁の経験と勘によって建てられた古建築物における力学的検証に移り、論文執筆と書籍化を考えている。

 彼が受け持つ講義も建築構造と建築意匠設計だが、准教授に昇任すれば都市計画の講座を開設するつもりでいて、そのための根回しも行なっている。

 このように研究者としての責務、大学職員としての業務、建築関係専門誌からの執筆要請、加えて上司の関係者からの依頼で個人住宅の設計も時折あるので毎日が多忙だった。

 盛蔵らと打ち合わせた翌日も意匠の講義があった。それを終えて研究室に戻ると、ペンション新築計画への参画の意思を再度確認するため、集合させていた学生をテーブルに集めた。

「中川から説明があったと思うが、加辺氏経営のペンションの設計を我々で行うことになった。以前話したように君達が主体でやってもらう。これまで学んできたことを実践で生かすいい機会になると思う。だが、強制はしない。辞退したければ遠慮なく申し出てくれ。ただし、参画したからには計画した工程通りに進めなくてはならない。学生気分でやられた日には相手が迷惑する。

 と言うことで、期限を守るために、ときにはデートのキャンセルや何かの予定を変更しなければならないかも知れない。ときには休日を返上しなくてはならないこともあるだろう。それが社会に対して責任を負うということだ。その覚悟があるのなら、経験を積むためだと思って最後までやり遂げて欲しい」

 そう訓示を垂れて、真一は一同をぐるりと学生達を見たが、就職活動中の1名以外辞退する者はいなかった。

 「今後のことはリーダーと相談して決めてくれ。ただし、これだけは言っておく。あくまでも学生の本分を忘れないように。さきほど言ったことと矛盾するが、学業第一に考えてくれ。このことでもし卒業できなかったら、それこそ本末転倒だ。父兄に対し申し開きができん。

 作業の割り振りはリーダーの中川とサブの江口で決めてもらうが、任されたからといって独りで抱え込むな。みんな同じ目的を持つ仲間だから、行き詰った時は仲間と相談して解決するように。ただし、任されたものの責任は最後まで自分で取ること。

 中川は自分では作業せずにコーディネータの役割を果たすように。つまり進捗状況から、各人の作業状況、顧客との協議など、全体を常に把握しておけということだ。俺も忙しいから個別に相談に乗ることや質問への対応はできん。それらは全てリーダーを通して聞くからそのつもりで。

 江口はサブとして中川をサポートしてくれ。中川がうまくマネジメントできるかどうかは君のサポートにかかっている。進め方は以前に説明した通りだが、具体的なことは二人が中心となって決めてくれ。

 最後に、資料やデータは持ち帰っても構わない。それと俺が在学している間はこの部屋を自由に使って構わない。ただし、火の元と戸締りだけはしっかり頼む。中川、禁煙を徹底しておいてくれ。何かあったら俺は馘だからな。君らもただでは済まん」

 ほかに質問は?の問いに数人から質問があり、彼が逐一回答した後、解散すると、真一は封筒を小脇に抱え、佐藤教授の所へ行って来ると言い置いて出て行った。

 中川と江口は作業内容の確認と班分けを行い、手分けして建築基準法、県村条例等の法規制の把握と各種手続きの確認、県や村との打ち合わせの準備に取り掛かり、別の班では基本設計の協議に入った。

 間取りの案はその趣旨説明と一緒に逐一中川から亜紀宛にメールで送られ、誰が確認するのか、翌日にはコメントが付されて返されてきた。コメントの中で不明な点は電話で問い合わせ、それをチームで討議して修正するといった作業が幾度か繰り返された。

 その間、メンバーの数名が意見調整や確認のために数回ペンションを訪れたが、真一は時折り進捗状況を確認するだけで、彼らの作業に干渉せず原村へ出向くこともなかった。

 亜紀も手土産持参で2度研究室を訪問した。一度目は真一が外出中で会えず、二度目は在室していたが、挨拶を交わしただけで自分の研究に没頭して顔を合わせることもなかった。

 顧客と合意に達した図面に仕上がったのは11月の下旬だった。

 完成した図面を持って食堂に入ると、盛蔵と刈谷と亜希子が夕食の準備に余念がなかった。

 「こんにちは」

 「や、いらっしゃい。久し振りだね」

 盛蔵が応え、刈谷も厨房で頭を上げてにっと笑った。亜希子は微笑んで頭を下げた。

 「それで今日は?」

 亜紀から何も聞いていないのか用件を訊かれた。

 「一応図面が出来上がりましたので、最終確認をして頂きたくて来ました」

 「それはそれは遠くまで済みません。それじゃ亜紀ちゃんを呼ぼう」

 盛蔵が電話している間に、中川は封筒からA3の図面を数枚取り出しテーブルの上に広げた。

 「ほう、これがそうですか。思いの外早く出来ましたな。これも皆さんのお陰だ。

 なるほど、こうしてみると実感が湧きますな」

 連絡を終えた盛蔵が図面と睨めっこしていると、亜紀が足早にやって来た。

 「中川さん、お疲れ様です。土曜か日曜日にお見えになると思っていましたのに・・・。お陰さまで、いろんなことを勉強させていただきましたわ」

 真一も一緒なのではと中川の背後を窺ったのだが、彼女一人だった。亜紀は落胆しながらも、いつから彼が来るのを心待ちにするようになったのだろうと思った。

 「こちらこそ、的確な指摘ばかりで反省させられたわ」

 「いいえ、とんでもない。私こそ素人考えの無理難題を押し付けているのではと危惧ばかりしておりましたわ」

 「そんなことはないわ・・・」

 「まあまあ、話はそれぐらいにして。今日は最終確認だとか。それで成瀬さんは?」

 最終確認と言いながら肝心の真一がいないことを疑問に思って尋ねた。

 「先生は講義と会議があって私だけが来ました」

 「そうですか。それなら仕方ありませんな」

 あれから彼とは一度も会っていない。息子と瓜二つのせいか、不思議と彼とは気が合うみたいで会えないのが残念に思った。

 中川は図面の説明を行い、これでよければ次の段階に移りたいと言った。

 「亜紀ちゃんが見て問題がないのならそれでいいよ」

 盛蔵や刈谷も図面に納得して持ち場に戻った。

 「亜紀さん、申し訳ないけど30分ほど出てもいいかしら?その間に図面の承認欄にハンコを押してくれたら嬉しいけど」

 それに同意すると中川はグリーンハウスを出て行った。

 亜紀はもう一度図面に見入った。メールで送られた図面をPCの画面で見るのではなく、こうして印刷されたものを見ると実感が湧いてくる。コメントしたところは全て修正されていて、自分としては申し分ない間取りだと思った。が、見ているうちにあることに気が付いた。設計者の押印欄が空白のままだ。これが最終図面なら、真一の承認印が押されてしかるべきだ。

 成瀬さんはこれをOKしたのかしら。そんな素朴な疑問を持つと、いても立ってもいられなくなり、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。

 「もしもし、成瀬先生の研究室ですか。あら、菊川さん、加辺亜紀です。ご無沙汰しています。・・・いえいえ、こちらこそ皆様には大変お世話になりましてありがとうございます。今皆さんに設計していただいた図面を見ているところです。・・・ええ、よくできていると思いますわ。

 あの、先生はご在席でしょうか。ちょっとお伺いしたいことがありまして。・・・はい、お願いします」

 電話口から菊川の真一を呼ぶ声が聞こえた。折りよく彼は会議から戻ってきたばかりだった。しばらくして、成瀬ですと抑えた声がした。いつもの磊落らいらくな声を予想していた亜紀は勢い込んだ気勢が失われ、すごく遠くの人と話をするような気分になった。

 「加辺です。この度はいろいろとお世話になりまして」

 「ご無沙汰しています。こちらこそ学生達が厄介になりまして。それでご用件は?」

 自分では真一と親しくなったつもりなのに、学生達がいるからかも知れないが、彼の方は随分他人行儀な言葉遣いに聞こえて悲しくなった。それでも言うべきことははっきり言おうと気持ちを奮い立たせた。

 「先ほど中川さんが、最終確認のための図面を持って来られました。けれど、肝心の成瀬さんの印が押されていません。それで確認ですけれど、これは成瀬さんも承認された完成図面と考えてもいいのでしょうか?」

 最後の方はつい詰問調になった。

 「完成図面?・・・中川がそちらに伺っているんですか?」

 少し驚いた口調が返って来た。

 しばらく黙っているところから、送話口を押さえて中川の行動の確認をしているらしいと判断した。

 「あ、もしもし、朝から会議と講義があって、たった今戻ったばかりで中川がそちらへ行っているとは知りませんでした。ここ3日ほど忙しくて進捗状況の把握をしていませんでした。済みません」

 本当に知らなかった様子に亜紀も次第に落ち着いてきた。

 「いいえ。では、ご覧になってらっしゃらないのですね?」

 「何度かそちらからの指摘を受けて修正したものは見ています。だが、あなたが言われる完成図面は確認してはいません。数日前に図面を見せられて、よくできているとコメントしたのがいけなかったのかもしれない。工程が遅れ気味だったから中川も焦ったのでしょう。僕の落ち度です、申し訳ない。一度精査するので許して下さい」

 恐縮している様子が亜紀にも伝わった。

 「わかりました。よろしくお願いします。成瀬さんがご覧になって問題がなければ、一度成瀬さんがお越し下さい。双方確認した上で図面に捺印をしたいと思います」

 「当然のことです。近日中にお伺いします」

 できるだけ彼女には近付かないようにしていたのに呼び出されてしまった。多忙だったとは言え、自分の不手際に舌打ちしたい思いだった。亜紀との通話が終わると、中川に連絡して戻るように指示した。


 それから2週間後、真一は中川を伴ってグリーンハウスを訪れた。

 「いらっしゃいませ。わざわざお越しいただいて済みません」

 車の音を聞きつけた稲子がニコニコしながら玄関に出て来た。その様子からはあの出来事が嘘のことのように思えるほどだった。ここを再訪して以来、その姿は変わっていない。自分の母親ならこれほどまでに自分を律することはできないだろうと思った。いずれにせよその姿は有り難かった。

 「電話でお知らせしましたように、新グリーンハウスの図面が仕上がりましたので、それの最終確認と併せてペンションの位置も決めておければと思い来ました」

 「承知しました。主人と亜紀ちゃんを呼びますので、食堂でお待ちいただけますか」

 「説明にテレビをお借りしますので、できれば娯楽室でお願いします」

 わかりましたと応じて、稲子は盛蔵と亜紀に連絡を取った。

 「刈谷さん、用件が終わり次第に帰りますので、晩飯は要りません」

 食堂に入ると真一が厨房に声をかけた。刈谷は笑いながら、わかったと片手を上げた。

 今日の中川は自分の勇み足を恥じて、日頃の勝気な態度はなく青菜に塩の様子だった。

 「中川、落ち込むな。これは俺の責任だ。お前は堂々としていろ。短時間でここまでに仕上げたのはお前の功績に違いないのだからな」

 彼女の肩をぽんぽんと叩いた真一の励ましに、彼女は眼を潤ませた。

 わずかな期間で細部に渡って精査し、外構を含め上下水道の配管や照明などの電気設備、室内設備まで考慮した図面にしたのは真一だった。

 亜紀と外にいた盛蔵が一緒にやってきた。

 「いらっしゃいませ」

 「いらっしゃい。こう言っちゃなんですが、意外に早く纏まりましたな」

 その実、盛蔵は設計にどれほどの期間が必要か知らない。

 「ええ、彼らが頑張ったお陰です。僕は何もしていません」

 「そうは言ってもやはりお願いしてよかった」

 しみじみとした調子で盛蔵は謝意を述べた。

 「お陰さまで学生らもいい経験になっています」

 それから互いの近況の話になりそうだったので、中川が恩師の脇をつついた。

 「先生、あれのお礼」

 「お礼・・・?ああ、そうか。遅くなりましたが、お礼を申し上げるのを忘れておりました」

 真一は向き直ると改めて頭を下げた。盛蔵は礼を言われる理由が思い当らず怪訝そうな顔をした。

 「研究室にコーヒーマシンを置いていただきまして、みんなが喜んでいます。ありがとうございます」

 「ああ、あれですか。成瀬さんが設計料はいらないと仰るものですから、何か感謝の気持ちだけでもと、家内が亜紀ちゃんと相談して決めたものです。もしやと思って心配しましたが、受け入れて下すってほっとしましたよ」

 まんざら冗談でもない口調で言った。

 彼の不在中にレンタルサービス業者が置いて行ってしまったのだが、業者を呼んでまで引き取らせるのも大人げないと、盛蔵の好意を受け入れたのだった。

 「ご希望のコーヒー豆があれば遠慮なく仰って下さいな、手配しますから」

 「それではお言葉に甘えてブルマンとトラジャをお願いします」

 稲子の申し出を中川がちゃっかり頼むのを真一は慌てて止めたが、盛蔵があっさりとそれを認めてしまった。

 「いやいや、設計料に比べたら安いものです。気になさらないで下さい。亜紀ちゃん、手配を頼むよ」

 「わかりました。すぐに連絡します」

 「いい加減にしろ。あれがあるのは俺んとこの研究室だけだぞ」

 「あら、一番コーヒーを飲むのは先生のくせに」

 事実だけに真一はぐっと詰まって言い返すことができなかった。亜紀と稲子は口を手で押さえて笑った。

 立ち直りの早い奴だと思ったが、口には出さなかった。

 「お互い忙しい身だから早く説明を済ませよう。淑女を遅くまで引き摺り回すわけにいかないからな」

 「成瀬さん、お泊りにならないんですか?一泊なさるのかと思っていましたのに」

 稲子は意外そうな顔をし、亜紀は寂しそうな表情をした。

 「ええ、今回は説明だけですし、夕方に用事もありますので、用件が終われば帰らなければなりません」

 亜紀は何か言いたげな素振りを見せたが黙っていた。

 「一献酌み交わしたいと思っていたのにそれは残念ですな」

 盛蔵は杯を持つ仕草をしたが、引き止めることはしなかった。

 「それじゃ亜紀ちゃん、悪いけどコーヒーを淹れてくれるか。厨房のこともあるから、刈谷さんにも来てもらって」

 亜紀が席を立った間に、中川がテレビにノートパソコンを接続して説明の準備をした。

 それまでの繋ぎのつもりで真一は盛蔵に訊いた。

 「林の近くに小さな台のようなものを見ましたが、あれは何ですか?前に来た時にはなかったように思いますが」

 真一が指差して訊いたのは、木の幹と枝の股のところに設置された20cm四方の台だった。

 「ああ、あれですか。あれは亜紀ちゃんに頼まれて作った野鳥の給餌台です。雪が降る頃になると餌を置きます。あそこにあるのは動物用です」

 盛蔵が指差す先の切り株の上に同じようなものが置いてあった。

 動物好きの亜紀は食べ物が少なくなる冬になると、ひまわりの種や秋のうちに拾っておいたどんぐりに胡桃などの木の実を台に置いた。今もテラスの真ん中の欅の木の枝に、客が食べ残した蜜柑を半割りして刺してあった。

 「なるほど」

 「本当は野生動物に餌付けするのはよくないんだが、最近は集まる動物も増えて、お客さんに喜ばれています。そこにある双眼鏡でも見られますよ」

 「熊とかが出て来ることはないんですか?」

 中川が心配そうに訊いた。

 「ははは、猪と鹿はよく出るが、熊は一度もないな。それでも用心のため森に入る人には、受付に置いてある熊避け用の鈴を腰に付けてもらうことになっていますがね。それで迷子になったお子さんを見つけたこともあります。

 鈴は返していただくことになっているのだが、そのまま持ち帰ってしまう人もおられるので回収率が悪いと家内がこぼしています。私らとしては大損です。ははは」

 口ほどにはそのように思っていない様子で笑った。

 「それも顧客サービスだと思えば惜しくはないでしょう」

 「でしょう?だが、女子というものはそう単純には割り切れないようですな」

 盛蔵の横で稲子がこほんと咳をした。亜紀と刈谷夫妻がコーヒーを持って入って来た。

 「成瀬さん、ずいぶんご無沙汰でしたわね」

 亜希子の嫌味に真一は苦笑した。

 「貧乏人に暇はないですよ」

 「あら、心にもないことを仰って」

 真一の冗談に肩を小突く真似をする隣で刈谷が笑っている。

 「爺さんは?」

 耕造の姿がないので亜紀に訊いた。

 「庭ですることがあると仰って」

 「そうか、それなら始めてもらいましょうか」

 コーヒーを配り終わるのを待って盛蔵が言った。

 「それでは間取りの説明から始めましょう。どこか変更したいとか、こうした方がいいとの意見がありましたら、遠慮なく仰って下さい。実施設計に入ってからの大きな変更は、手戻りとなって工程に大きく影響します。また、余分な費用も発生することにもなります。よろしいでしょうか?」

 わかりましたと盛蔵が代表して答えた。

 図面をと言われて中川はA3版の図面を床に広げた。全てを夫と亜紀に任せ切っているので、稲子にとっては初めて見るものだった。

 亜紀は広げられた図面を見た瞬間、小さな声を上げた。前のものとは随分印象が違うと感じたからだ。その理由はすぐにわかった。以前のものより全体的にゆとりのあるものに変えられていたのだ。廊下の幅も玄関ロビーも広く取られ、共同トイレも広くなっている。一見して以前のものより格段に良くなっていると感じた。

 中川を見ると真一に見えないように彼を指差していた。指されなくても、わずかな間に彼が変えたことは歴然だった。 建築士の彼が手を加えるとこれ程良くなるものかと感じ入ってしまった。

 盛蔵も同じ感想らしく、うーんと唸って図面に見入っている。

 「本来は家具や空調設備などを先に決めた方がよかったのですが、それはそれとして、こちらの方である程度想定して計画しました。家具を特大にしない限り問題にはならないと思います。よろしいでしょうか」

 誰からも異議が出ないので先を続けた。

 「それでは順にご説明しますが、図面を見慣れていないと立体的に理解するのは難しいと思います。ですから、説明はCGつまりコンピュータ・グラフィックスにしたもので行います。3Dですので、どのようにでも角度を変えることができます。ただし、外装や内装の色はこちらで勝手に決めましたので、参考程度に留めておいて下さい。ちなみに室内のインテリアと設備は亜紀さんが何度か足を運んでいただいた折の意見を参考にしています」

 説明するようにとの指示に、中川はレーザーポインターを手に取った。亜紀は功を学生に譲るつもりだなと思った。

 真一がマウスとキーボードを操作すると、テレビの液晶画面に建物全体が映し出された。彼が操作するマウスに合わせて建物が動き、様々な角度から見ることができた。

 盛蔵らの目は画面に釘づけになった。その中で稲子と亜希子だけが真一と亜紀にさり気なく目をやっていた。

 「成程、これは素人の私でもよくわかりますな。しかし、外見がちょっと入り組んでいるように思うが」

 平面図や立面図ではわからなかった建物の立体映像に盛蔵が感想を述べた。

 「計画をご説明した折に出されたご要望は、全室山と池が見えるようにとのことでした。それは建物の位置と方角で決まるものですが、客室から山が望むことを念頭に考えました。様々に検討した結果、この様な形が最善となりました。先生も納得しておられます」

 真一がいいと言うなら問題ないだろうと盛蔵らも同意した。位置は後ほど決めると言っているのだから、その時に意見を言えばいい。

 「先生、どの部屋でもいいから室内から外が見るように変えてみて」

 中川の指示で真一がキーとマウスを操作すると、2階客室の窓から見た外の景色が現れ、早朝から日暮れまで、四季ごとの日射の様子が変化したので、彼らは「ほう!」との感嘆の声を上げた。

 「各階の間取りについては後ほどご説明します。先生、もう一度外観をお願い」

 真一はそれを映し出させた。

 「客室数の確保と周辺との美観を考慮してご覧のようにしました。一階にバリヤフリー用として1部屋確保しています。ご要望では5、6室程度とのことでしたが、こうしたことで7室となりました。亜紀さんの意見で1室は別目的としていますので、実質6部屋とお考え下さい」

 盛蔵と刈谷はふーん、なるほどと感心しきりだ。客室以外の部屋については、そのうち説明があるのだろうと尋ねることはしなかった。

 1階内部に画面を変えると、斜め上部から俯瞰ふかんしたものになり、マウスを操作して上から下へ右から左と位置を変えた。画面の右上には小さなウィンドウで建物全体が表示されていて、どの場所をどこから見ているかわかるように、角度を変えると矢印と赤い点の位置が連動して変化した。

 中川は入口から説明を始め、真一は箇所を変えるたびに見る位置と角度を変えて見せた。

 「屋根がせり出したここは車寄せです。上高地帝国ホテルほど大きくはありませんが、それをイメージしていただければいいかと思います。

 入口から中に入ったところがロビーと受付で、お客様が寛げるように広めにとっています。正面の大きな窓から池と山が一望できます。お客様の第一印象は、建物の外観と一歩中に入った時に決まりますのでこのようにしました」

 ここは自分のテリトリーと思ったのか、稲子は前のめりになって画面を食い入るように見た。そして中川の説明に、これならいいわと満足気に頷いた。一切を亜紀に任せきりだったので、彼女はどのような受付になるのか知らなかった。亜紀は義母の表情にほっとした。

 中川は亜紀に微笑むと説明を続けた。

 「ロビーから左右に分かれて、左側は障害者の方もしくはペット同伴の方が宿泊できる部屋、もう1室は幼児が安心して遊ぶこともできる多目的の部屋のとしています。そこにベッドを置けば客室にもできます。

 先生の意見で小さいのですが、ここに喫煙ルームを設けました。そしてここが身障者用も含めた共同トイレです。風呂場は耕造さんが希望しておられる露天風呂を考慮して、ペンションから離れた池近くの場所にしました。これが風呂場への廊下です」

 中川の説明に盛蔵は、うんうん成程といちいち声を出して頷いた。

 「次に右側ですが、ここは食堂です。池側は窓ガラスでテラス側は出入り可能な全面ガラスの掃き出しにします。風や雨が強い時はシャッターを降ろすことで対応します。食堂に暖炉を設けるようにしていますが、予算的に問題があれば、計画から外すことは可能です」

 ここで一旦説明を止めたが、誰からも意見が出なかったので、厨房の説明を始めた。

 「厨房については、設備の位置も広さも全て刈谷さんのご要望通りにしています。また、そこに勝手口を設けましたので出入りの業者さんも楽になりますし、お客様以外の人の出入りに気を遣わずに済みます」

 それは助かるわと稲子が応じた。

 「厨房は注文通りと言うことだが、これでいいのかな?」

 盛蔵が刈谷に確認した。

 「成瀬さん、もう一度厨房を見せてもらえるか」

 真一は刈谷に指示されるまま、厨房を様々な角度で映し出して見せた。そして、ここの幅は、あそこの収納面積はとの問いに、マウスを操作して寸法や面積を画面表示させた。

 「これなら120%満足です。食料の保管倉庫も設けてもらいましたし、厨房設備は最新で収納もたっぷりある。動線や広さもよく考えられていて使い勝手も申し分ありません。大きなオーブンもありますから、これまであまり手掛けられなかったピザや洋菓子作りにも対応できます。ペンションでこれだけの設備があるところはないでしょう。我が儘言って済みません」

 刈谷は盛蔵に向かってぺこりと頭を下げた。

 「いやいや、お客様に何度も足を運んでもらうには景色もさることながら、最後はやっぱり料理とサービスだから。刈谷さんに満足してもらうのが一番だよ」

 刈谷を見て満足そう笑った。亜希子も嬉しさを隠せない様子だった。

 自分のせいで老舗の料亭から出奔せざるを得なかった負い目があったが、こうして夫の希望がそのまま受け入れられ、これまで以上に腕を振るう場を与えられて夫以上に嬉しかった。

 厨房が終わると、娯楽室、テラス、風呂場、2階の客室を説明した。最後に真一が手を加えた箇所の補足説明をした。

 「一階はお年寄りや身障者に配慮して完全なバリアフリーにしました。そのため前の図面からこことここを変えています。こうすることで段差がなくなります。勿論そう言った人の洗面所や風呂の出入口も段差はありません。水回り部分の床は内側に勾配をつけますので、万一水がだだ漏れになったとしても外へ漏れ出すことはありません。車椅子を考慮して部屋に入るドアを広く引戸式にしました。押しボタンかセンサーで自動開閉するようにすれば、介助者がいなくても自由に出入りできます。室内のトイレはもちろん車椅子対応ですし浴室も身障者対応にします。

 廊下は高齢者と障害者に配慮して上下2段の手摺を設けて以前より広げたので車椅子と楽に擦れ違いができます。廊下を広くした分、上階の部屋が30cmほど狭くなりますが、以前と同じ広さを確保しています。目新しいところでは、目の不自由な方のために、1階廊下の床に微振動を感じる誘導板の設置を考えています」

 確かに、身障者にとっていい事だらけだが、費用だって馬鹿にならないだろうに、亜紀の要望とは言え、そうまでして拘る理由が、事情を知らない中川には理解できなかった。また、それに対して誰からも何のコメントがないのも不可解なだった。

 盛蔵は身を乗り出して画面を見入り、真一と中川の説明に一いち頷いて聴いていたが、説明が終わって画面から顔を離すといたく感心して言った。

 「これゃ、大したものだ。部屋もこれ迄より広くなるし、いろんなことに配慮いただいて申し分ない。それにしても短期間のうちに、こんな絵まで作って下すって実にわかり易かった」

 「本当。私のような者でもどんなものが建つのかよくわかりましたわ。ねえ、亜希子さん」

 「成瀬さん、あなた素晴らしいわ」

 感に堪えないように亜希子が真一を褒めた。

 「いえいえ、誤解されては困ります。これは僕じゃないですよ。中川を始めチームのお陰です。CGは電子情報システム工学科の学生にしてもらいました。これは後でアルバイト代を頂くことになりますが」

 「それはもう、請求して頂ければお支払い致します。それにしても、そのように謙遜なさるもんじゃありませんわ。成瀬さんのご指導がよろしくなければこれほどのものができません。やっぱり成瀬さんにお願いしたのは大正解でしたわ」

 「そんなに持ち上げても何も出ませんよ。何度も言うようですが、これは学生らが仕上げたものです。僕は横から少しアドバイスしただけで、その辺のところお間違いのないようにお願いします」

 彼が言うように実務は学生達だろうが、わずか2週間の間に格段によくなったのは彼によることは、最初から関っていた亜紀にはわかっていた。それをひけらかす訳でもなく、全てを学生達の功績にしたことに、改めて畏敬の念を抱いた。学生らが彼を尊敬し慕う理由がもう一つわかった気がした。

 厨房設備は刈谷さんが指定して下さっているので問題はありませんが、外装の色や内装、空調設備の位置、厨房以外の水回り設備などは順次決めて下さい。色番やメーカー、品番を仕様書に書き加えますので」

 「わかりました。それも亜紀ちゃんに全面委任します」

 「それでは、何か要望とか変更すべきところがあれば伺います」

 「確認ですけど、客室のガラス戸は以前仰っていたものですの?」

 「はい、そうです。説明を忘れておりましたが、ガラス戸は全て真空ガラスにします」

 「それなら結構ですわ」

 「他に何かありますか?」

 ここで亜紀が初めて遠慮がちに口を聞いた。みんなの目が彼女に集まって頬が薄らと染まった。

 「図面では思わなかったのですけれど、CGを拝見していて部屋の窓はもう少し大きくした方がよく外の景色が見えて明るくなっていいと思いました。それとこの辺は空気が澄んで星がよく見えます。ですから屋根のある部屋はベッドから星が観賞できるように屋根の一部にガラスをはめ込んだらどうでしょう。それと1室か2室でも構いませんから、ロフトを設けてそこに小さな天体望遠鏡を置けるようにはなりませんか?」

 うーん、成程と今度は真一が感心してしまった。

 「そこまでは気が付かなかった。いいアイデアです。朝日が入って眩しいということはないでしょうが、満月のときは眠れないと苦情が出るかも知れません。手動式か電動式のブラインドが必要でしょう。それに屋根のガラスはすぐに汚れますから、汚れが付き難いとか、雨が降れば汚れを落とすようなガラスにする工夫も必要でしょうね」

 「それはそうですな。わかりました、それで検討をお願いできますか」

 盛蔵の了承に真一は中川にみんなと検討するように指示した。

 「最後に、お部屋のバルコニーはテーブルと椅子が2脚程度置ける広さでお願いします。今のままでは少し狭いように思います」

 それも真一は了承した。

 細かな質疑応答が終わると、刈谷夫妻は夕食の用意があるからと娯楽室を出て行った。彼らを見送ると盛蔵が真一に尋ねた。

 「ところで成瀬さん、この間取りですと概算いかほどになるのでしょう?」

 中川は自分に振られたら困ると真一を見たが、彼は平然として答えた。

 「正確には電気水道などの設備を含めた詳細設計が済んでから、数量を算出して積算するのですが、参考までに工法別の概算金額を調べてきました」

 真一がデスクトップ上のEXCELファイルをクリックすると、在来工法、ツーバイフォー、RC、軽量鉄骨の坪単価と各構造別の特性比較表が画面に映し出された。

 稲子は身を乗り出して画面を見入った。やはり彼女は家計を預かるだけに費用が気になるのだろう。

 「成る程、こうなるますか」

 「はい、標準的な坪単価を当てはめるとこの様になります。ちなみに今の間取りですとこれくらいになります」

 表の右端に各構造の概算建築費を明示させた。

 「ほう、これだと私のような素人でもよくわかる」

 中川には驚くほどの金額だが、盛蔵は目算内なのか気にした風ではなかった。

 「厨房設備は刈谷さんがメーカーと型を示して下さいましたので、それも含めていますが、これから順次決定する内装設備、空調設備はこの金額には入ってません」

 稲子も建築費の算段がついているのか平然としていた。真一は盛蔵と稲子が得心したと見て言った。

 「それでは最後に建物位置を決めておきましょう。実際には施工業者が施主立会で縄張りするので、それで位置は決定されますますが、大体の位置を決めておくと、後で迷わなくていいだろうと思って作成してきました」

 パソコンを操作するとモニターの画面が航空写真に変わった。

 何からなにまで用意周到で、盛蔵らは無言のまま感嘆するばかりだった。

 「これはグーグルが提供している航空写真です。これとこの建物が現在のペンションと母屋です。どこか念頭に置いておられる場所がありますか?」

 これには稲子が応えた。

 「ここのペンションは母屋から離れすぎて何かと不便ですから、その中間位置ではどうでしょうか?」

 「わかりました。では、中間の位置に新グリーンハウスを入れてみます」

 真一がその位置をマウスで指し示し、ポンとどこかのキーを押すとCGの新グリーンハウスの投影図がフェイドインし、航空写真の縮尺に合わせて縮小した。

 「将来建設するかもしれない露天風呂のことも考慮して池から少し離しましょう」

 真一がマウスでペンションの平面図を少し東に移動させた。

 「その場所で結構ですわ。ねえあなた」

 「そこでいいな」

 「では、一応ここにしておきましょう。最終的には縄張りの段階で決めればいいですから。

 次に、中川がお見せした図面では、ペンション周辺のランドスケープ、つまり景観をどのようにするかまでは言及していませんでした。今回はそれも合わせて提案します」

 マウスをクリックするとペンション周辺の画像が次第にCGによる未来図に変化し、彼が計画の主旨を説明した。

 「成程なあ・・・。こんな素晴らしいものを作っていただいてありがとうございます。これだと位置関係がよくわかるし、周りをどうしたらいいかもわかる。やはり成瀬さんにお願いしてよかった」

 感に絶えない様子で盛蔵が感心するのを、中川は満面の笑みで応えた。

 「一般の住宅ではここまではしません。今回は学生達に教えるつもりでしました」

 ただし、その場所には難点が一つあることを真一は指摘した。

 「母屋に近くなることで上階の一部から母屋の様子が見られる可能性があります。白樺林の中にあるので丸分かりと言うことはないでしょうが、完全に遮るのは難しいでしょう」

 言われて盛蔵は難しい表情をした。

 「覗かれるのは問題だなあ。かと言って、高い塀を設けるわけにもいかんしなあ。高い木に植え替えてもいいが、今より日当たりが悪くなるし完全に見えなくすることもできんだろう。どうする亜紀ちゃん、母屋は亜紀ちゃん次第だよ」

 亜紀の懸念は洗濯物を干した時のことだが、ここから母屋はどう見える、あそこからはどうだ、ここに植樹したらどうかと真一の意見を求めた。彼は彼女の質問に一つ一つ丁寧に答えた。

 「それでしたら、そのままでも私の許容範囲に収まります」

 建物位置の利点と欠点を天秤に掛けて答えた。

 「でもお義母さんの意見も伺わないと」

 「そうだな、お前はどうなんだ?」

 稲子は亜紀がいいならと同意した。

 「これで新グリーンハウスの建物位置と基本設計の合意は得られたと言うことでよろしいですね?」

 真一の確認に盛蔵は稲子と亜紀を見た。彼女達も異論はなかった。

 「それでは先程亜紀さんから指摘された点を修正します。最終的には全ての設備と内装が決まった後に、図面と一緒に仕様書と構造計算書をつけて報告書の形で2部納品します。もちろんそれらをCDにしてそれも一緒に納めます」

 これで全ての説明が終わり、施主の検査を受けているような気持ちでいた中川は、ほっと肩の荷を降ろした気分になった。

 「お忙しい中、何からなにまでしていただいて申し訳ない気持ちで一杯です。本当に有り難う御座います」

 盛蔵が深々と礼をすると、稲子も亜紀もそれに倣った。

 「いえいえ、これもみな中川たちの努力の成果です」

 恩師にご苦労さん、盛蔵からはありがとうと感謝されて中川に笑顔が戻った。

 「基本設計に了承をいただきましたので、亜紀さんの要望も踏まえて実施設計に入ります。それで、建物の構造だけでも今日決めていただければ、構造計算に入ることができます。勿論、先程お示しした全ての構造について計算することも可能ですが、幾つも計算するのは面倒ですし時間もかかります。我々としては先程の表を参考に、どれにするか決めていただければ助かります」

 盛蔵はしばらく考えて、素人の私らにはよくわからないから、それも任せたいと告げた。

 真一は在来工法の木造軸組みを推奨した。木造以外は耐用年数が長いが、その分周りの状況変化に伴う改装が難しい木造なら建築費が安価に済むばかりでなく、自由度が高く日本の気候に合うと言うのが彼の意見だった。

 説明が終わって引き上げようとする真一を盛蔵が呼び止めた。

 「成瀬さん、ちょいと相談したいことがあるのだが」

 「何でしょう?」

 「専門外のことで申し訳ないが、資金繰りについてのことなんです」

 「資金調達のことでしたら、銀行と相談なさったらいかがですか」

 いやいや、そのことじゃありませんと盛蔵は手を振った。

 「工事の着手時にどれくらいの金を用意しておけばいいのかと思いまして」

 「それでしたら、契約時に着手金として契約額の1/3、上棟時に1/3 、引き渡し時に、残りの1/3とするのが一般的です。ですが、どうするかは施主側で決めることができます。ただ、引き渡し時の一括払いとすると、施工業者に金利負担が生じますので、最終的にはその分高くなる恐れがあるます。失礼ですが、何か心配なことがおありですか?」

 確か、資金繰りに問題はないように言っていたはずだがと思いながら尋ねた。

 「いえ、それは問題ありません」

 ここだけの話ですがと盛蔵が言った時、亜紀は義父の脚を突きたくなる衝動を辛うじて抑えた。義父にそれを言ってほしくなかった。真一に知られると言うより、中川が亡夫に関心を持つことを恐れた。

 盛蔵は亜紀の危惧をよそに、資金調達のあらましを話した。それを聞いて真一は呆然とした。亡き息子の自慢のつもりかも知れないが、盛蔵の身内話に彼は大きな衝撃を受けた。中川も横で息を呑むと同時に、彼女の亡夫に関心を持った。

 加辺家がかなりの資産家であることは真一も亜紀の話である程度想像していた。だが、その大部分を息子が遺した特許料で賄うことは予想外のことだった。

 彼が優秀であったであろうことは、亜紀の話や彼の部屋で見た書籍である程度推し量ることができた。自分もまた彼に劣らないくらいの能力はあると自負している。ところが、彼は若くしてそれだけのものを遺していたことを知った。そしてとても彼に及ばないと悟った時、彼に対してまた激しい劣等感を抱いた。さらに、それを配偶者として相続したであろうことに思い至ると、あれ程亜紀を避けていたにも関わらず、彼女が自分から急激に遠退いたような気持ちになった。

 それからの彼の態度の変化は顕著だった。盛蔵が話しかけても相槌を打つだけで、心ここにあらずといった風だった。そんな彼を亜紀は不思議に思った。盛蔵も稲子もまた彼の変化に不審感を抱いたが、彼らは単に息子が遺したものに驚いたのだろうくらいにしか思っていなかった。

 真一は官舎に戻ると、気を落ち着かせねならないほどに自己嫌悪に襲われていた。

 きっと亜紀はあの時の自分の態度に不審を抱いたに違いない。盛蔵も稲子も同様だろう。こんなにも精神的に脆い男だったのかと思うと情けなくなった。

 明日は日曜でよかった。一日気分転換すれば落ち着くだろう。彼女とのことはこれまで通り自分から動くまい。自然に任せよう。成り行きに任せよう。そのように思い定めると少し気が晴れた。

 月曜日の朝、真一はチームメンバーに一部の手直しと実施設計に入るよう指示した。

 その日から再びチームの活動が活発になった。構造計算、各種図面の作成、電気水道設備の検討、自治体制定の条例の確認など、すべきことは多義に渡り、中川と江口は亜紀と頻繁に連絡を取り合って調整を行った。


                   (二)


 孫を亡くして以後、耕造は過去を顧みるだけの人だった。亜紀が来てからは、未来に想いを馳せることができるようになった。以来、彼女を影に日向に見守り、実の孫のように慈しみ可愛がった。彼が亜紀をそのように可愛がったのは、夫のいない嫁を不憫に思う気持ちもあるが、働き者で気働きのできる彼女のことが気に入ったからだ。それに、彼女が忙しく立ち働いているときに声をかけても決して不快な表情を見せたことがなく、若い娘にとって面白くない話でも嫌がらずに聴いてくれることも、無聊ぶりょうかこつ老人には嬉しいことだった。彼女が傍にいてくれるだけで耕造は大満足だった。だからと言って、それは自分本位のことであって孫嫁にいいことだとは思っていない。それだけの判別はあった。

 加辺家の精神的な崩壊は亜紀が来てくれたことで免れた。ところが、自分達は彼女の傷ついた心を救うどころか軽減さえできていない。みながいるところでは彼女も気丈に振る舞ってはいるが、時折放心状態でいることも、修一の部屋で人知れず涙を流していることも、母屋にいることが多い彼だけが知っていた。それだけに息子夫婦以上に心を痛めていた。

 そんな孫嫁を癒し慰め立ち直らせる力は耕造にもなく、望みをかけた見合い話も不調に終わった。稲子も環境が変わればと、半ば強制的に行かせた欧州旅行も期待したほどの効果は得られなかったと聞いた。それらのことはみな、彼女の負った心の傷、彼女の修一への想いがこれほどまでに深いものだったのかと改めて認識させる結果に終わった。

 万策が尽き、耕造に出来ることは彼女の相談に乗ることや話し相手になるくらいのことでしかなかった。

 老人が語りかける話は取りとめのないもので、親戚のことや昔話、近所の噂話に尽き、時には乞われて修一のことを話すこともあった。そうした中、盛蔵や稲子に話さないことでも、耕造だけには胸の内を曝け出してくれることが救いだった。加辺家の中では彼が一番亜紀のことを理解していた。

 彼女は十分過ぎるほどわしらに尽くしてくれている。どうにかして何とかしてやりたいと焦ったが、どうすることもできずにここまで来てしまった。遠藤家の人達や亜紀が戻りたいと言わないことをいいことに4年が経ってしまった。この間何もしてやれなかったとの悔いが残る。とは言え、彼女の献身的な行為に甘え、これ以上夫のいないこの家に縛り付けておくことはもはやわしらのエゴでしかない。このまま彼女気持ちに好転がみられないのなら、彼女の両親との約束を履行しなければならない。寂しくはなるが、その時期に来たようじゃと耕造は覚悟を決め、息子夫婦に話す機会を待っていた。

 そうした折、思いがけなく孫にそっくりな若者がやって来た。

 稲子が修一と瓜二つの男を見て取り乱したと聞いた時は、彼はここを去っていて、その男と初めて会ったのはペンションの改造計画の説明のときだった。ここを再訪するよう仕向けたのは稲子だと聞いた時、さすが彼女らしい深謀だと感心した。どのような男か知らないが、その時に人となりを見極めようと彼が来るのを楽しみに待った。そしてその男が学生を引き連れてやって来た。なるほど、嫁が卒倒したことが頷けるほど彼は孫にそっくりだった。

 そのときは孫に良く似た男の説明を脇から聴いているだけだったが、彼の話しぶりや学生達が彼を慕っている様子を見て好感を持ち、亜紀の表情を見てひょっとしたらとの期待を抱いた。耕造もまた彼に好感を抱いた。

 稲子が密かに期待しているように、彼に賭けてみよう。それで何も進展がなければ、そのときに亜紀の父親との約束を履行すればよい。

 影ながら亜紀の様子を見ていると、稲子の思惑とおり以前とは異なる変化があるように思えた。彼女は物静かで喜怒哀楽を表に出す方ではなかったが、学生達と接触を持つようになってから表情が豊かになった。真一が来ないと知ると寂しそうな素振りも見せた。家に閉じこもりがちだった彼女の外出する機会が増えたこともよい傾向だと歓迎した。

 そのように彼女を見守る彼は、自分の体力と気力の衰えを秋が深まるあたりから自覚するようになった。二月前までは元気に外に出て作業をしていたのに、今では部屋に閉じ籠りがちになってしまった。

 そんな義祖父に亜紀は年齢が年齢だけに彼の体調を気遣い、これまで以上に耕造の部屋を訪れるように心がけた。

 「お爺さん、お茶を淹れますけど、お邪魔してよろしいですか」

 戸外から声をかけた。

 「亜紀さんかい」

 お入りとしゃがれた声がした。亜紀は酒饅頭を載せたお盆を持って中に入った。耕造は炬燵に入り背を丸めて一層小さくなっていた。

 「お隣の川瀬さんから秋田土産のお饅頭を頂きました。 蒸し直しましたから温かいうちに頂きましょう」

 そうかい、それは嬉しいなと手にしていた新聞を畳の上に置きにっこり笑った。耕造の皺深い笑顔に彼女はいつも癒された。

 長火鉢の上で湯気を出している南部鉄瓶を取った。それは玄関の長持ちの上に飾ってあったものだ。

 冬になると耕造のために長火鉢の炭と鉄瓶の水の補給をするのが亜紀の日課だった。その火鉢と炬燵があるお陰で狭い部屋は十分暖かかった。

 亜紀は長火鉢の抽斗から茶筒と湯呑それに急須を取り出した。毎日のことで手慣れたものだ。湯冷ましで、湯を冷ます間に菓子器に載せた饅頭を炬燵の上に置いた。そんな様子を耕造は炬燵に両腕を入れたまま目を細めて見ていた。

 「そういえば、下の娘さんがあちらへ嫁いだんじゃったな」

 「ええ、結婚式と披露宴にご夫婦で出席したとおっしゃっていました」

 「あちらも今頃は寒いんじゃろうなあ。そういや、わしも昔婆さんと二人で旅行したことがあった」

 「秋田へですか。いつ頃行かれたのですか?」

 湯覚ましを急須に注ぎ、茶葉を蒸らしながら尋ねた。

 「そうさなぁ、わしが隠居生活に入ってからじゃからかれこれ20年近くになるかなぁ」

 そう言えば義祖父の伴侶の話を詳しく聞いたことがないなと思いつつ温めておいた湯呑にお茶を注いだ。耕造は饅頭を半分に割って、口をもぐもぐさせて呑みこむと目を細めてお茶を一口飲んだ。甘みのある苦味が口の中で広がった。

 「うまい。亜紀さんが淹れてくれるお茶はいつもまろやかでうまい」

 「お婆様は幾つでお亡くなりになったのですか?」

 「婆さんか。婆さんはな、62の時に肺炎が元で死んだ。わしも婆さんもただの風邪だと思っていたのがいけなかった。急に呼吸困難になってあっけなくあの世に逝ってしもうた。

 わしも若いころは遊び人でな、博打こそしなかったが、よく深酒をしたり女遊びをしたりして婆さんを困らせたもんじゃ。それがようやく楽をさせてやることができると思っていた矢先に逝ってしもうて・・・。まあ、秋田に連れて行けただけでもよかったと自分で慰めている。あの世の婆さんにしてみれば不満かも知れんがな」

 耕造は淋しそうに笑うと、湯呑を炬燵台の上に置いた。

 「そう言えば確か、嫁に行った綾子さんとは同い年ではなかったか?」

 「はい、そうです。ときどきおしゃべりをしたり一緒にお菓子を作ったり、たまに愚痴を聴いたりして、いいお付き合いをさせていただきました。お野菜もよく頂きましたわ」

 「それは亜紀さんの仁徳というもんじゃよ。どこへ行ってもあんたのことを悪く言う者がおらん。いい嫁をもらったと言われて、わしも鼻が高い」

 そんなと亜紀は恥じらいを見せた。

 彼女のいいところは、人の悪口を言わないこと、若いのに物事の分別をよくわきまえていて噂話を簡単に口にのぼせないことだと耕造は感心していた。それは彼女を襲った過去の不幸な出来事が彼女の人格形成に無縁ではなかろうと彼なりの解釈をしていた。

 「忙しくなかったら、久しぶりに少しお喋りをしてもいいかな?」

 「洗濯も終わって、一休みしようと思っていたところですから大丈夫ですわ」

 耕造にお茶を淹れなおし、亜紀も湯呑に両手を添えて正座したまま一口飲んだ。

 「12月ともなると洗濯も大変じゃろう。家の中も無駄に広くて寒いしな。古いだけに隙間風も多い。稲子さんが希望するようにそろそろ改装が必要なのかも知れんな。まあ、それは盛蔵が何とかするじゃろう。それは置いといて、亜紀さんが来てくれてから、早いものでもう4年半にもなる。わしは亜紀さんが大好きじゃから、本当はこんなことは言いたくないのじゃが、あんたの家族との約束もある。それにこの通りわしのもあちこちガタがきて、この先あまり長くはないじゃろう。だから早くあんたのことを何とかしてやりたいと思っている。・・・で、どうかな、孫のこと少しは整理がついたのかな?」

 亜紀は手に持った湯呑を膝の上に置いたまま黙って下を向いた。その姿が彼女の気持ちを雄弁に物語っていた。

 「そうか、まだか。でもな、わしらの希望的観測かも知れんが、亜紀さんはここ最近変わって来ているような気がするが、どうじゃ?」

 「・・・」

 正直それに触れて欲しくなかった。だから黙っていた。それに気付かない振りをして耕造は続けた。

 「これまでのあんたは、わしらがいる所では気丈に振る舞っていた。だが、何かの折にふと寂しい表情をすることがよくあった。それがずっと気懸りじゃった。だが、今は随分と明るくなった。それは彼が現れたのと無縁ではないと思うがどうじゃ?」

 耕造は優しい目で彼女を見つめた。が、依然彼女は下を向いて押し黙ったままだった。

 「初めて彼を見た時は、盛蔵から聞いていたから驚きはしたが、声を出すことはなかった。そのときひょっとしたら彼の登場が、亜紀さんの凍った心を融かしてくれるきっかけになるかも知れんと密かに期待したんじゃ。いや、わしだけじゃない、盛蔵も稲子もそうじゃ。

 それからは二人を遠くからじっと見て来た。盛蔵はどのように見ていたか知らんが、わしにはあんたらのことが手に取るようにわかった。

 最初のうち、亜紀さんは彼を見て、孫のことを思い出すのか悲しい表情をしていた。それが、日毎に明るくなっていく様子がわかった。いやいや、否定してもわしの目は誤魔化せん。

 それでは彼の方はどうか。わしの目から見れば彼は全く無防備じゃった。初めて彼に会ったとき、みんなは改造計画の説明を聞いていたが、わしは彼だけを注目していた。それで、わしはすぐに気がついた。彼はみんなに説明しているようだが、実はあんたの方に目が向いていたことをな」

 亜紀はえっ!と頭を上げた。耕造は穏やかに微笑んでいた。

 「知らんかったじゃろう。いや、実際にあんたを見ていたということではない、彼の心がじゃ。伊達に歳は取っておらん。この歳になるとそれが大体わかる。話は変わるが、あれかい、彼は修一のことを知っているのか?」

 亜紀はしばし考えてから、お爺さんには話してもいいだろうと判断した

 「成瀬さんが夏の終わり頃に来て、ここを離れる日に、修一さんとの出合いから私がこちらへ来るまでのことを全部お話ししました。その時は何故そんなことを話したのかわかりませんでしたけれど、修一さんにあまりに酷似しているショックからなのか、何か熱病にでもかかって浮かされかのたように、自分のことを聞いて欲しかったのだと後でわかりました」

 薄く頬を染めて答えた。

 「ふんふんそうか、知っていたのか。成程な、それならわかる」

 亜紀は何がわかるのかわからず、訝しげに耕造を見た。

 「一月ほど前じゃったかな。稲子に二人の様子を訊くと、彼は亜紀さんを避けているようだと言う。ところが、不思議なことに嫌っている様子でもないとも言う。亜希子さんに訊いても同じことを言った。その辺女子おなごの感覚は鋭いから二人の観察に間違いはなかろうと思った。

 だが、聞くところの彼の態度や行動で、ひょっとしたら彼に将来を誓った女がいるのかもしれん。いやそこまではいかないにしても好きな女がいるんじゃないかと疑ったこともある。それで亜希子さんにそれとなく、ここに来る学生に確かめてくれと頼んだんじゃ。が、あの先生に限ってとみんなが一笑に付したと言う。なら何故矛盾するような態度をとるんじゃろうか。わしの目から見ても彼が亜紀さんから距離を置こうとしていることが歴然じゃった。これは何かに悩んでいるからに違いないとわしは判断した。ところがそれが何なのか、わしにもわからなかった」

 義祖父が過去形で言ったところをみると、何かわかったのだろうか。それを知りたいと思ったが、口には出さず黙たまま待った。

 耕造はニヤリと笑って話を続けた。

 「それがほれ、いつじゃったかな。中川さんと二人で来た時じゃ。彼らが帰った後、盛蔵がわしんとこへ来て、不思議そうな顔で今日の彼は変だったと言うんじゃ。その時の様子を詳しく話してくれて、それでわしはぴんときた。そして今、亜紀さんの話を聞いて、わしの考えに間違いがないだろうと確信を持ったと言うわけじゃ」

 亜紀がふと気がつくと、湯呑を持つ手に力が入っていた。

 「亜紀さんには、それがわからないかな?」

 恥ずかしそうに、はいと答えた。

 そうか、頭脳明晰な亜紀さんでも男のことはわからんかと呟いた。

 「亜紀さんは、無いが極楽知らぬが仏という諺を知っているか?」

 唐突に何の脈絡もなく難しい諺を言うものだから、亜紀は訳も分からず、いいえと答えた。後半は誰もが知っていることだが、前半は初めて聞く言葉だったからだ。

 「それはじゃな。物事を知らなければ、そのことを知ったばかりに悩まされるようなこともないと、まあこんな意味合いのことじゃ」

 耕造は訝しげな表情の亜紀を見て笑った。彼女には義祖父がそんな諺を持ち出して何を言いたいのかわからなかった。

 「彼の悩みはな、亜紀さんから孫のことを聞いたときから始まったんじゃと思う」

 「修一さんのこと・・・?」

 そんな前からなのかと亜紀は思いつつその理由と言うものが、まだわからなかった。

 耕造は、まだわからんのかとばかりに悪戯っぽく彼女を見つめた。

 「亜紀さんの目は案外と節穴じゃなあ。それはな、彼の自尊心じゃ」

 「自尊心?」

 「そう、自尊心からきていると思う」

 それがどうしたと言うのだろう。耕造に言われても亜紀にはぴんとこなかった。

 「そう、男のプライドじゃよ。彼の自尊心が痛く傷ついたんじゃろうな。なまじ優秀なためにな。彼の話振りや態度からして、恐らくこれまで一度も挫折というものを経験したことがないのじゃろう。自分のことにいつも自信満々だから、反対に恋愛に対しては自分が傷つくことを恐れて臆病なほど慎重になるのじゃないかな。こればっかりは相手があるからな。ははは」

 耕造は快活に笑ったが、亜紀には義祖父の言いたいことがまだよく呑み込めなかった。

 「お爺さんの仰る意味がよくわからないのだけれど」

 「そうじゃろうな。女子おなごには理解できないことかも知れん。例えばじゃ、亜紀さんがどこぞの誰かを好きになって身も心もその人に捧げたいと思ったとする。そして、その相手がごく普通の人で、自分と釣り合いが取れた男だと信じてもいた。ところがじゃ、ある日どこか由緒のある大金持ちの御曹司とわかったらどうする?」

 どうすると尋ねられても、どう答えてよいか直ぐには答えられなかった。

 「悩んでしまう方かな、それとも玉の輿に乗れると喜ぶ方かな?」

 それならわかる。亜紀はすぐに答えることができた。

 「そんなこと考えたこともないけれど、もし私だったら、自分が相手に相応しいのか、その人とその人の家族とうまくやっていけるかどうか、真っ先にそれを考えてしまう方だと思います」

 耕造はうんうんと満足そうに頷いた。

 「亜紀さんならそうじゃろう。それを男に置き換えてみたらどうなる?好きな女を自分の手で幸せにしようと思っていた。そんな矢先、自分には及びもつかない大金をその女が持っていると知ったとしたら。それまでとは違った目で見てしまうのは仕方のないことじゃとは思わんか。もちろん、お金ばかりが幸せになる条件ではないし、それで幸せになれるものではない。じゃが、中にはそれを狙って近づく者もいる。ところが、彼はそうではなかった。そうは言っても、相手に見合うだけのものが自分にはない。自尊心の強い男ほど往々にして自分の心に素直になれないもんじゃ」

 言われて、亜紀に思い当ることは一つしかなかった。

 「修一さんの遺産が・・・」

 「そのように考えるのが自然じゃろうな。好きな女の好きだった男に嫉妬とまではいかなくても対抗心を持つのは自然のことじゃよ。プライドの高い男であればあるほど、その度合いが高くなるのも自然の道理じゃ。もっと深読みすれば、自分によく似た男、いやよく似た男だからこそ、何かの劣等感を抱いたとしても不思議なことはない。そこへ持ってきて、びっくりする程の大金を残した優秀な男だったと知ったら」

 どう思うとばかりに一息置いて続けた。

 「相当ショックを受けたに違いない。自分とそっくりな男がじゃ。意識をするなと言ってもそれは無理じゃろう」

 亜紀の様子を上目遣いで伺いながら、ずずっとお茶を飲んだ。

 義祖父に言われて初めてこれまでの彼の取った行動やあのときの態度のことが腑に落ちた。恐らく、お爺さんの指摘した通りだろうと思った。

 「どうだ、わかったかな」

 「はい、その通りかも知れません」

 「それでどうなんじゃ?」

 耕造はにっこり笑って訊いた

 「どうって?」

 「彼の気持ちはわかったじゃろう。それで、亜紀さんは彼のことをどう思っているのかな?」

 少し考えて答えた。外の人なら明かせなくても、お爺さんには何でも言える気がして、自分の気持ちを素直に伝えた。

 「修一さんのことで整理がついたかどうかまだわかりません。今でも彼のことを想うと胸がきゅっと痛くなります。ただ、これまでのように彼のことばかり想って悲しくなる時間が次第に少なくなって、いつしか彼のことを考えていることの方が多くなりました。でも・・・」

 亜紀が言い淀んだのを見て耕造は「でも?」と畳み掛けた。

 「はい、彼とのことは慎重にしたいのです」

 耕造は饅頭を頬張りながら、うんよしよしと頷いた。

 「それが、整理を付けるということじゃよ。慎重にするということはそれだけ彼のことを想い、自分のことも大切に思っていることなんじゃ。しかし、なんだな。問題は向こうじゃな。傷ついたプライドをどのように回復させるか。相手の意識の問題だけにこれは難しい。思うに、彼の性格からして自分の中で納得するまでは、自分からは行動を起こさないじゃろう。これは亜紀さんのお手並み拝見といったところか。ははは」

 耕造は亜紀の気持ちを知って快活に笑って、もう一個饅頭を口に入れてもぐもぐさせた。

 耕造の見立てを聴いて、亜紀は胸の痞えが下りた気がした。だが、その一方でそれまで感じなかった違和感を抱いた。

 小骨が刺さっているような感じが否めないのだが、それが何かはっきりしない。それは何だろうと浮かない顔で湯呑茶碗を持ったまましばらく考えていた。その様子を耕造は皺深い目でじっと彼女を見ていた。

 これまでの彼の態度を思い返しているうちに、亜紀は暗いトンネルから出た電車のごとく、それが何かはっきりと自覚した。

 彼女の表情を読み取ったのか、耕造は彼女に訊いた。

 「まだ何かあるのか?」

 「お爺さん。彼は私を愛そうとしてくれているのかしら?」

 亜紀が唐突に愛を持ち出したので、耕造は瞼を瞬かせ、はははと笑った。

 「愛とはこれはまた難しいことを言い出したもんじゃな。それでは訊くが、亜紀さんの考えている愛とは何じゃ?」

 亜紀は少し考えて言った。

 「修一さんに会うまでは、それが何かわかりませんでした。いえ、修一さんが私のことを愛してくれていたことを知ろうとはしませんでした。彼の優しさや思い遣りは私への同情からのものだとばかり思っていました。それは私がまだ若くて馬鹿で障害を負っているとの劣等感があったからです。でも彼が亡くなって初めて愛の本当の意味を知りました」

 「ほう、それは何じゃな」

 「愛とは相手を好きになることは当然ですけれど、単に好きになるだけじゃなくて相手の欠点も含めて好きになること。それに相手のことを思い遣る心が必要だと思うのです。修一さんにはそれがあったと思うの。でなければ、誰も目が不自由だった私を相手にはしてくれません」

 「彼にはそれがないと?」

 「ええ、お爺さんが仰った自尊心は彼だけものです。傷つきたくない気持ちは私も理解できます。けれど、それは全部自分のことだけを意識したものだと思います」

 「だから、彼は本気で亜紀さんのことを考えていないと?」

 耕造は一層慈愛のこもった目で亜紀を見た。

 「はい」

 「確かに亜紀さんの言う通り、何故だかわからんが、彼は自分が傷つくことを恐れているようじゃ。それは多分事実じゃと思う。それが彼らしくないと言えるかも知れん。しかし、果たしてそれだけかな。考えてもごらん。彼が悩んでいるとしたら何故だと思う?単に亜紀さんのことが好きで自分のことだけを考えるだけの男なら、悩みなんか押し殺して素知らぬ顔であんたに近づけばいい。その方がずっと簡単じゃ。そうは思わんか?実際そんな男の方が世の中には多い。しかし、それで仮に二人が結ばれたとしても、いずれ亜紀さんは心から愛されていないと知って失望や不満が出てくるじゃろう。

 彼は今 、自分の中の葛藤に悩んでいる。確かに表面的にみれば、自分だけのことのようだが、そこにはいい加減な気持であんたに近づきたくないとの思いがあるからだとわしは思う。さっき亜紀さんなりの愛の定義を言ったな。それでは彼から見て亜紀さんの欠点は何だと思う?」

 「欠点・・・。一杯あってよくわからないけれど、一番はやはり修一さんの遺産かしら」

 「その通り。普通の娘ではそれだけのものを持ち得ないものじゃ。亜紀さんの眼が元に戻った今、彼が自分を犠牲にしてでも相手を思い遣やれることとは何じゃろう?」

 「それがわかりません」

 「それは彼の心じゃよ。本当は彼もあんたに自分の気持ちを伝えたいと思っているに違いない。それを黙殺しているのは、あんたを大切にしたいと思っているからじゃろう。だから真剣に悩んで自分の心に結論が下せるまでは積極的に出られないのだとわしは思う。これでも愛されていないと思うかい?」

 本当にそうかしらと少し考えて答えた。

 「いいえ、でも何がなんだかよくわからなくて、自分に自信が持てなくなりました」

 「愛と言うのはな、亜紀さん。障害が多ければ多いほど、それを乗り越えるたびに信頼が加味されて深まるもんじゃよ。だから障害があっても避けるんじゃなくて、何とかして乗り越えるんじゃ。一人で駄目だったら、二人してな。

 このことはわしらだけの秘密にするから、慎重にな。それを乗り越えられたら、亜紀さんは本当の意味で幸せになれる。そして孫のことを完全にふっ切ることができるじゃろう。何にせよ、亜紀さんの気持ちが聞けてよかった」

 耕造はひとりごちて、よかったよかったを連発した。

 しかし、亜紀は彼が抱いている煩悩はそれだけではないような気がして浮かぬ顔をしていた。


                    (三)


 新ペンションの設計がほぼ完了した時にはクリスマスが目前に迫っていた。

 クリスマスイブに学生さん達を招いて感謝と慰労を兼ねたクリスマスパーティをここで開催しませんかと、亜紀が義母に相談すると彼女も賛同してくれたので、中川に連絡を取ってみんなの都合を問い合わせた。

 「中川さん、亜紀です。いろいろとお骨折りありがとうございます。お陰さまで思いのほか早く纏まりました。それで義父と義母が感謝と慰労を兼ねてクリスマスパーティを12月24日のイブの日にしたいと申しております。皆さんのご都合は如何でしょうか?え、その日は成瀬さんのマンションで押し掛けパーティをするって?でも、成瀬さんのお住まいは大学の官舎じゃ・・・?。日曜日に引っ越したばかり・・・。私にも来いって。でも招待もされていませんわ。だからサプライズパーティ?ご迷惑じゃ・・・。構わないから来いって?行けませんわ。成瀬さんのご迷惑になるもの。ええ、よろしくお伝え下さい。はいどうも」

 亜紀は電話の後、彼の引っ越しが学生達には知らされて自分にはなかったことに少なからぬショックを受けていた。彼と付き合っている訳でもないから、当然なのだが、自分との接触を避けているようで悲しかった。やはり私を嫌っているのかしらと勘ぐらざるを得なかった。

 そう言えば、今更ながら彼の携帯電話さえ教えられていないことに気が付いた。彼が一度として自分に電話をかけて来ない事実にも思い至った。これまで紹介された男はみな亜紀の携帯番号を知りたがった。なのに、彼だけはそうではなかった。気を引くためにわざとそうすることもあるだろうが、彼に限ってそれはないだろう。お爺さんはああ仰ったけれど、やはり私に無関心なのかしらと悲観的になった。

 グリーンハウスの電話口でそんなことを考え一人沈んでいると、エプロンのポケットの中のスマートフォンが鳴ったので、彼女はびくっと伸び上がった。液晶画面には見知らぬ番号が表示されていた。訝しく思いながら電話に出ると、闊達な声がした。

 「亜紀さん、加藤です。慶子から話を聞きました。先生のマンションへ行きましょう。押し掛けて驚かせてやりましょう。僕らだって行くのは初めてなんです。亜紀さんが来てくれたら盛り上がること請け合いです。突然押し掛けてお邪魔じゃないかって?それは大丈夫です。先生だってきっと喜びますよ。酒は僕が用意するので、そのほかのご馳走と飲み物をお願いします。いえ何、お迎えにまいります。え、自分で行く。わかりました。それでは・・・そうですね、6時に長野駅の東口側で待っています。そこからすぐの所ですから。そんな時間にいるかって?大丈夫です。先生にデートをする相手なんかいませんから。ああ、それから車で来るならどこかホテルの予約をしておいた方がいいですよ。アルコールも入って遅くなるかもしれないから。はい、そのときにまた」

 電話を切ってから、加藤の口車に乗せられ、うっかり行くと言ってしまったが、行ってもいいのだろうか、彼は変に思わないだろうか、厚かましいと思われはしないかと、同じことをいつまでも煩悶した。それでも行ってみたい気持には勝てなかった。彼の私生活を覗いてみたかった。自分一人だったら、そんなことは到底できそうにもないが、彼らと一緒ならそれが許されるような気がした。

 それにしても自分がこれほど積極的な気持ちになるなどつい最近まで思いもよらなかった。耕造から彼の気持ちを教えられ背中を押されたことで、自分の中の何かが変わったことを自覚した。

 学生達の押し掛けパーティに参加してホテルで一泊することを稲子に告げると、大人なんだからたまにはゆっくりしてらっしゃいと簡単に了承してくれた。

 行くと決めたものの、どのような服装をすればいいのか皆目わからなかった。目が不自由だったときは母に任せておけばよかったので楽だった。母が着せてくれるときに手に触れさせて服の名前とどのようなデザインでどんな色かを説明してくれたのだが、想像の域を出ず似合っているかどうかもわからなかった。しかし、修一に会うと彼はよく似合っているといつも褒めてくれた。女だけにそれが単純に嬉しかった。今は彼の研究室へ行く時などは自分なりに選んで着て行くのだが、何も論評してくれなくてがっかりしたこともあった。

 それに、これまで大勢の前に出たこともなければパーティに参加した経験もない。強いて言えば兄の結婚披露宴ぐらいなものだが、黙って座っていれば済んだので参考にもならなかった。耕造に事の次第を伝えると、今どきの女子学生なんかに負けるなと発破をかけられて却って立ち往生してしまった。

 洋服箪笥の中から服を次々と引っ張り出して胸に当てて鏡で見た。どれも納得がいかず、出せば出すほど姿を見れば見るほどわからなくなった。このとき義姉の杏子がいてくれたらどれほど助かっただろうにと恨めしく思った。そのとき、陽菜子がいることを思い出した。高校生ながら、私服のときの彼女のセンスは中々だと思う。彼女ならいいアドバイスをしてくれるに違いない、いい考えだと思った。

 陽菜子が高校から戻った頃を見計らって電話で訳を話すとすっ飛んでやって来た。

 「成瀬さんちのクリスマスパーティに行くんですって?」

 興味津々で眼を輝かせて訊いた。亜紀姉さんがそれほど積極的になるなんて、それこそ太陽が西から昇るんじゃないかしらんと彼女がふざけるほどの異例の事だった。

 「そうじゃないのよ。陽菜ちゃん知ってた?成瀬さんが新しいマンションに移ったんですって。学生さん達とそのマンションに黙って押し掛けるのよ。日本酒は加藤さんが用意するから、それ以外の飲み物と食べ物を持って来て欲しいって。ほら加藤さんの家って蔵元でしょ。それはいいにしても何を着て行けばいいかわからなくて困っているの」

 そうねえと呟きながら、陽菜子はベッドの上に投げ出された服を手に取り、亜紀の体に当てながら、彼女の意見を述べた。

 「亜紀姉さんだったら何を着ても合うと思うけど、夜会だしやっぱしワンピースがいいわ。そうねえ、ホワイトクリスマスだけど、長めの赤のこれにしたら。それとこのショールを組み合わせて、揃いの赤のハイヒールを履けばもうばっちり。髪も長くなってきたし清楚な感じでそこら辺の学生なんかに絶対負けないわ」

 「でも派手すぎないかしら。私だけ浮いちゃったら恥ずかしいわ」

 「近頃の学生はみんなそうだから大丈夫よ。それと先生は変に保守的なところがあって、厚化粧を嫌うみたいだからさり気なくよ。でも夜だから口紅は服に合わせてもう少し赤いものがいいわ」

 亜紀の懸念を一蹴して、陽菜子が手際よく彼女を着替えさせ化粧を施した。どちらが年上かわからないわと内心苦笑しながらなされるままに姿見を前にして座っていた。

 真一を対象にした話題になっているのに亜紀はそれを隠そうとはしなかった。陽菜子もまた亜紀と彼の仲が当然のことのように振る舞った。

 「陽菜ちゃんは高校生なのにお化粧が上手ね」

 鏡に映る陽菜子に声をかけた。

 「へへへ、ときどき化粧して出歩いているんだ」

 親には内緒と言ってぺろっと舌を出した。

 化粧が終わり、姿見に映った亜紀を見て感嘆の声を上げた。

 「亜紀姉さん、綺麗!これだったらあの堅物の先生でもいちころよ」

 そして自分も参加したいと言い出した。

 「クリスマスイブだと言うのに誰からもお誘いがないのよねぇ。ねえ亜紀姉さん、私も行っていい?先生がどんな所に住んでいるか見たいし」

 言われてみると、誰が来るかわからないところへ一人で行くより、気心の知れた陽菜子がいてくれた方が何かと心強い。両親が許してくれればいいわと言うと、すぐに彼女は母親を言いくるめて了解を取ってしまった。それを聞きつけた弟の義晴も同行することになり、亜紀が長野駅前のホテルを2室予約すると、二人はるんるん気分で舞い上がった。彼女も何だか楽しいパーティになるような気がしてわくわくしてきた。

 長野駅東出口前に到着すると加藤と江口が既に待っていて手を振った。刈谷に作ってもらった料理と飲み物があるので、送迎用のワゴン車を借りた。

 加藤が車中にいる陽菜子と義晴を認めると意外そうな顔をした。

 「なんだ、こぶつきか」

 陽菜子は加藤を睨んだ。

 「何よ、私はもうすぐ18歳になるのよ。そうしたら親の了解なしに結婚できるわ。加藤さんのところへはお嫁に行ってあげないから!」

 「ごめん、ごめん。機嫌を直してくれよ。いやー、明るいところで見たら綺麗だ」

 「暗い所だったらお化けに見えるのね」

 ぷっと膨れた。亜紀と義晴は二人の漫才のようなやりとりに笑った。

 「おい江口、笑ってないで何とか言ってくれよ。俺一人じゃ手に負えないよ」

 「じゃあ、行こうぜ。さっき慶子から電話があって、料理がそろそろなくなるから早く来いと言っていた。随分盛り上がっているらしいぞ」

 江口の道案内で駅東にある高層マンションの来客用駐車場に車を停めた。亜紀はマンションの前に立つと、急に不機嫌そうな彼の顔が思い出され気後れがして帰りたい気持ちになった。しかし、姪と甥を残して帰る訳にもいかず、彼らの背後についてエントランスに立った。加藤がインターホンで誰かと通話すると入口ドアのロックが解除された。

 エレベーターで5階に上がり508号室の呼び鈴を加藤が押した。少し間があって扉が開くと、赤い顔をした中川と一緒に中の喧騒が飛び出してきた。早くも馬鹿騒ぎになっているようだ。

 「遅かったじゃない。さあ、上がって上がって」

 自分がここの主のかのように促した。

 加藤と江口と義晴は抱えて来た日本酒とビールの箱を玄関口に置いた。

 「酒とビールを持って来た。残りのウィスキーと兵糧は後で持って来るよ。先生は?」

 「いるわよ」

 「呼んでくれるか」

 先生!と振り返った中川が叫ぶ声がして、しばらくするとラフな格好の真一が顔を出した。

 「おう、加藤と江口も来たのか。風が入るからそんなところに突っ立っていないで中に入れ」

 「先生、マリア様をお連れしました」

 「マリア?」

 「さあ、こっちへ来て」

 江口が横の方で小さくなっている亜紀を押しやった。

 まさか亜紀が来るとは想像もしていなかった真一は、正装した彼女を認めて一瞬言葉を失った。加藤と江口が横でにやにや笑った。

 「やあ、あなたでしたか。よく来てくれました。歓迎します、さあどうぞ。みんあ知っている奴ばかりだから気兼ねは無用です。おう、陽菜ちゃんと義晴君も、よく来てくれたね。さあ入って」

 迷惑そうな顔をされるのではと内心恐れていた亜紀は真一の明るい表情を見てほっと安堵した。案内されてリビングへ行くと、亜紀さんいらっしゃいの歓声と拍手が上がった。彼女が来るのを知らされていなかったのは真一だけのようだ。

 「私だっているのにぃ」

 陽菜子が不満の声を上げるとどっと笑いが起きた。陽菜ちゃんこっちこっちと男性グループから手招きされて彼女は機嫌を直した。

 「おーい、力持ちの男子1名来てくれ。マリア様からのプレゼントが下に置いてある。一緒に取りに来てくれ」

 中に入った亜紀に椅子を勧める者、飲み物を訊く者、食べ物を勧める者で下にも置かない様子で、闖入者たちの応対に追われる主人になり代り新たな闖入者を歓待した。懸念した服装も場違いではなさそうでほっとして周りを見た。亜紀にはマンションが物珍しかった。その昔修一に誘われて彼が借りているマンションへ兄と一緒に行ったことがあるが、目が不自由だったから何もわからなかった。

 誰かが渡してくれたビールの入ったグラスを持って回りを見渡した。狭い空間に8人程の学生がグラスや食べ物の皿を持って、3つのグループに分かれて盛り上がっていた。

 彼女の目は無意識に真一を追っていた。その彼はホスト役に徹して、幾人かに固まったグループに飲み物を注ぎながら何言かを話しては肩を叩いたり一緒になって笑い声を上げたりしている。研究室にいるときとは別人のようだった。

 中川が亜紀の手を取って女3人のグループに引き入れた。

 「その服よくお似合いだわ。自分で選んだの?」

 「これは陽菜ちゃんにコーディネートしてもらったのよ。中川さんこそ、素敵だわ。本当は感謝と慰労を兼ねて私達のところへ招待したかったのに、気が付くのが遅かったわ。ごめんなさい」

 「いいのよ。初めっからみんなして先生のところへ押しかけるつもりだったから」

 「ご迷惑じゃなかったかしら」

 「迷惑なもんですか。ほら見て、あの気難しい先生のご機嫌なこと」

 中川が指さしたところを見ると、成程真一が機嫌よく陽菜子と義晴を交えたグループで何か言い合いながら馬鹿笑いしている。

 「あらほんと」と亜紀が笑うと「でしょう。だから心配いらないのよ」と菊川も笑った。

 「あの、みなさんありがとう」

 唐突に亜紀が礼を述べたから、周りのものはびっくりした表情を見せた。

 「このたびの事でお世話になったし、それに学のない私にも対等にお付き合い下さってとても感謝しているわ」

 とーんでもないと菊川が手を振った。

 「感謝するのは私達のほうよ。こんな貴重な経験の場を与えてくれて」

 「それなら、先生にもよ」と中川が指摘すると「それもそうね」と全員が同意して笑った。そのとき、玄関から加藤の大声が聞こえた。

 「亜紀さんからの差し入れが到着しました。誰か取りに来てくれ。食べきれないほどの料理と飲みきれないほどのアルコールでカトちゃん幸せでーす」

 「江口も幸せでーす」

 下で少し飲んだのかそれとも雰囲気に呑まれたのか彼らも上機嫌で気焔をあげた。

 隅に移動された小さなダイニングテーブルには真一が作ったとは思えない雑多な食べ物と日本酒とビール瓶とグラスが並んでいて部屋の中はむせ返るほどだ。

 リビングの隅で女同士で話しているうちに自然な流れで亜紀の話題になった。

 「亜紀さんの出身は?」

 「埼玉県の川越市よ」

 「道理で訛りがないと思った」

 しばらく川越の話で盛り上がったが、若い女が関心を持つ結婚の話題になった。

 「亜紀さんの亡くなったご主人てどんな人?」

 間違っても真一とそっくりだと答える訳にはいかなかった。そんなことを言ったらどのような騒ぎになるか知れたものではない。そんなこともあるだろうと予想していた亜紀は答えを用意していた。嘘とばれないコツは適度に本当のことを交えて脚色することだと偽を適当に織り交ぜて如才なく答えた。

 「技術研究所の研究員だったの」

 彼が勤めていた社名を告げると、誰もが知っている有名会社なのでみんなが目を丸くした。

 「へえ、優秀なエンジニアだったんだ」

 「それで馴れ染めは?」

 「勤め先から帰るバス停で声をかけられたの。それで交際が始まって結婚。ありふれた話であまりロマンチックじゃないわ」

 小さな嘘はあるが罪悪感はなかった。自分が視覚障害者だったことは勿論伏せた。

 「ねえねえ、それでプロポーズの言葉は?」

 「自分のものは全部上げるから結婚してくれって」

 用意していた答えを言った。

 「何よそれ。当たり前じゃないの。それでオーケーしたの?」

 亜紀が笑って頷くとありきたりの話でがっかりしたのか別の話題になった。ほっとしてそこを離れ、壁にもたれてもう一度室内を見渡した。4人の輪の中で話している背の高い若い女を除けばみんな知っている学生ばかりだった。

 来る道中で江口が2LDKの賃貸マンションだと言っていたが、想像していたより広く感じた。新築だけにどこもみな真新しかった。

 玄関ホールから廊下を真っ直ぐ突き当たったところが、案内されたリビングダイニングルームで、意外に広くて10畳ほどあるのだろうか。廊下の左手前と右手奥に寝室があって、玄関ポーチすぐのところには洗面所と浴室があるのだろう。中々機能的にできていると感じた。キッチンはダイニングと対面式になっていて、いつの間まにか未知の若い女がそこで何かしていた。その女がこちらをちらっと一瞥したときに目が合い、亜紀は軽く頭を下げた。その女は不機嫌そうにぷいと横を向いた。亜紀は面食らい何だろうと首を捻った。独身と聞いているので奥さんではないのだろう。恋人とも思えなかった。

 亜紀は誰かに勧められた椅子に座り、もう一度頭を巡らせた。陽菜子と義晴は喧騒の輪に入って騒いでいる。自分もあのように奔放になれたらと、無邪気になれない自分の性格を恨めしく思った。

 突然目の前にビール瓶が突き出された。その主を見上げるとそれは真一だった。これまでとは打って変わった優しい目をしてわざと不躾に亜紀を上から下まで見た。指で丸を作るとにっこり笑った。服装を褒めてくれているらしいと知って悪い気がしなかった。彼でもそんな真似をするのかと可笑しくもあった。

 さあどうぞと勧められて、半分空になったコップを差し出した。

 「よく来てくれました。服がよく合っている」

 初めて彼から口に出し褒められて亜紀は嬉しかった。一人浮くのではと危惧していたが、こうしてみると自分でもこの場の雰囲気に合っていると思った。やはり、見立ててもらって正解だったと心の中で陽菜子に感謝した。

 「騒がしい奴ばかりですが勘弁して下さい。僕も知らなかった。3日ほど前から加藤がデートの予定はないかとしつこく訊くから変だなとは思ったんだが、まさかこんなこととは・・・。

 妹がマンションの下見に和歌山から出て来ていて、二人でイブの夜をゆっくりするつもりだったんだが、サプライズパーティだとか何とか言って突然押し掛けて来てこの有様です」

 妹と聞いて、あの若い女性がそうかと納得した。が、自分を見る目が歓迎せざる者のように思えて、それは何故だろうと疑問に思った。

 「それはともかく、よく来てくれました。歓迎します。それにしても、加藤と江口の奴ひどいな。亜紀さんが来ることまでずっと黙っていて。どうせ中川もグルだろう。こんなことなら亜紀さんだけを誘って妹とどこかへ行けばよかった」

 軽い冗談を言った。アルコールが入っているせいか、今日は気味が悪いくらいに饒舌だ。

 「本当に?」

 濡れた瞳で見上げた亜紀に真一はどぎまぎした。そのとき近くから声がした。

 「私は料理がなくなるまでここにいまーす。ダイエットは放棄しました」

 椅子から足を投げ出し手に持ったグラスを上に赤い顔で気炎を上げた。

 「中川、恋人とのクリスマスイブはどうした」

 「別れました。先生一本槍でーす」

 「どうしようもない奴だな」

 真一は苦笑いした。

 「余程真一さんのことがお好きなんですね」

「いや、そうじゃない。彼女は一人娘で家庭がちょいと複雑でね。俺のことを兄かなんかのように思っているのさ。見ててご覧、そのうち彼女のところへ行く奴がいるから」

 言われて周りを見ると、中川のように管を巻いている者がいるかと思うと、リビングの隅で固まって話し込んでいる者、陽菜子を相手にわあわあ騒いでいる者、キッチンであの背の高い女に話しかけている者、義晴を捕まえて先輩面して説教している者、亜紀が持って来た料理を皿に載せている者、穏やかに一人で飲んでいる者、寒いだろうにバルコニーに出て煙草を吸っている者などが亜紀にはみな物珍しく映った。

 ちょんちょんと肩をつつかれて、彼が指さす方向を見ると、江口が中川に料理を持って行き甲斐がいしく傅いていた。

 真一に顔を戻すと、彼はにやにやして頷いた。

 「あの二人が?」

 「そう。どうも亜紀さんとこのプロジェクトが縁結びみたいだな」

 「そう言えば、この前に来た時にも随分親密にしていましたわ」

 亜紀は先ほどから真一の妹と思しき背の高い若い女がちらちら自分を見ているのに気が付いた。目が合って小さく頭を下げるとまたぷいと目を逸らした。挑戦的に見られているようで気になった。

 「亜紀さん、何も食べていないんだろう?持って来てくれたものをいただこうか。何があるのかな」

 酔っているのか、砕けた態度で亜紀の腕を取って立たせると、ダイニングテーブルのところへ導いた。

 彼女が持ってきた料理と飲み物はテーブルには置ききれずに、床にまで並んでいる。義晴は床に腰を下ろし壁にもたれてせっせとジュースを片手に若い胃袋を満たしている。

 「義晴君、今日は来てくれてありがとう。どんどん食べて飲んでくれ。と言っても全部君らが持ってきてくれたものだがな。ただし、アルコールはまだ駄目だぞ」

 教師らしい一言に、義晴ははーいといい返事をして箸を持つ手を上げた。

 「すごいなあ、これ全部刈谷さんが?何人分作ったの?」

 真一はテーブルと床に並べられた料理を見て驚きの声をあげた。

 「人数がわからなくて20人分お願いしましたの」

 「それゃ、食べきれないよ。もったいないから余った分はみんなに持って帰らせよう。亜紀さん、折角だから頂こうか。あなたはスリムだから少し食べた方がいい。おーい玻瑠香、皿を2枚くれ」

 加藤と後ろ向きで話している背の高い女に声をかけた。玻瑠香と呼ばれた若い女は亜紀をちらりと見て食器棚から2枚の皿を出すと、無言でカウンター越しに割り箸をつけ、加藤を介して真一に渡した。

 「亜紀さん、妹を紹介するよ。玻瑠香、ちょっと来い」

 セミロングの髪をポニーテイルにした背の高い女性を呼んだ。その女は真一の横に立つと二重の大きな目で不躾に亜紀をじっと見つめた。

 「妹の玻瑠香です」

 「成瀬玻瑠香です。兄がいつもお世話になりまして」

 切り口上で挨拶すると馬鹿丁寧に頭を下げた後、亜紀を睨みつけるように見た。

 亜紀も女としては背の低い方ではなかった。だが、ヒール一つ分以上彼女の方が高かった。顔に何の装飾も施しておらず幼さも残しているが、タレントかモデルになっても十分に通用するのではないかと思った。ただ、目鼻立ちが整いすぎているせいか、冷たく感じられた。

 「こちらが加辺亜紀さん。今度のプロジェクトで我々が大変世話になっている」

 「加辺亜紀と言います。こちらこそお兄様には大変お世話になっています」

 亜紀が頭を上げると玻瑠香はなおも値踏みでもするかのように亜紀を見つめていた。何か言いたそうにしているのだが、その口から何も語られなかった。亜紀も負けずに彼女を見つめた。

 気を利かせたつもりか、加藤が玻瑠香に呼びかけた。

 「玻瑠香さん、あっちで食べよう」

 ここでいいわと強情を張る彼女に、みんなが呼んでいるからと無理やり引っ張って他のグループの方へ連れて行った。

 陽菜子と義晴が立ち上がるのを見て、真一が二人を隅に呼び、耳元で何かを頼んでいた。了解の意味なのか、彼らは真一に向かってにんまり笑って指で輪を作った。

 「どうかなさいましたの?」

 「いや何、あなたのご主人のことを誰にも話さないように釘を刺しておいた。知られたらちょっと面倒なことになる」

 それはそうだと二人に言っておかなかった自分を恥じた。

 「何だか妹さんに歓迎されていないみたい」

 「思いすごしだよ。亜紀さんに限らず、女が僕に近付くと小姑みたいに露骨に嫌な顔をする。中川の時もそうだった。どうもまだ兄離れが完全にできていないようだ」

 二つの皿に亜紀が持参したちらし寿司を盛った。

 「亜紀さん、飲み物は何がいい?ビール、ワイン、日本酒?」

 「温かい牛乳がありまして?」

 「牛乳?それなら冷蔵庫にある。ちょっと待って、電子レンジで温めるから。さっきからあまりアルコールを飲んでいないけど、今晩帰るの?」

 酔いが回っているせいか、これまでとは打って変わって随分フランクだ。

 「いいえ、持って来たお皿だとかも洗わないといけないし跡片付けもあるでしょう。遅くなるかもしれないと思って駅前のホテルを予約しました。そこに陽菜ちゃん達と泊まります」

 「色々と気を遣ってもらって悪いね。帰りはホテルまでちゃんと送るからゆっくりして行って」

 冷蔵庫から取り出した牛乳を大きなカップに入れようとして、それを亜紀が見咎めた。

 「それじゃ駄目。電子レンジでは底の浅い入れ物がいいの。かして下さい、私が温めますから」

 キッチンに立って真一から牛乳パックを受け取ると棚から小さな鍋を探し出してIHヒーターでミルクを温め始めた。そんな様子を彼の妹が離れたところから睨みつけていた。

 「ワインがお好きなんですか?」

 鍋の中の牛乳をゆっくりとかき混ぜながら尋ねたが、今まで個人的な話をしたことがないことに思いあたった。そう思うと可笑しくなって、ふふと笑った。

 「そうだな、今はワインかな。・・・何か変なことを言った?」

 二人に遠慮してか、誰も寄って来ない。

 「いいえ、考えてみたら今まで一度もこうして成瀬さんのお話を伺ったことがないなと気付きましたの」

 「ああ、そう言えばそうだな。仕事の話以外したことがないな」

「それだって数えるほどしかありませんわ。私が何か話しかけようとすると何故か逃げておしまいになる。いつも私が追いかけるばかり。何か訳でもありますの?」

 お酒はそれほど飲んでもいないのに、何だか今日の私は変だと思いながら挑戦的に言った。

 「いやー、訳なんてそんなものはない。たまたま状況がそうなっただけで、亜紀さんの思いすごしだよ」

 亜紀は牛乳をカップに移すと彼を見た。

「そうかしら、半月ほど前に中川さんといらっしゃった時も様子が変でしたわ。何か気に障るようなことを言ったのかと義父が気にしていました。研究室でお会いした時も私を避けているような気がしました。それも私の思いすごしかしら?」

 静かな口調ではあったが、勘違いや思いすごしと片付けられるような雰囲気ではなかった。真一は今際どい話をしていると思った。しかし、本心を曝け出すことはなかった。

 「亜紀さん、ごめん。今は言えない。言えないままで終るかもしれないが、話せるようになったら必ず正直に言います。ただ、これは僕の問題だとだけは言える」

 そんなことはないと一言言えば済むことなのにそうしなかった。彼女に嘘はつきたくなかったからだ。

 「わかりました。無理にお聞きしようとは思いません。ただ今まで通りのお付き合いをお願いします」

 真一の横に並んで静かに牛乳を口に付けた。

 「それは当然です。そんなことより今日はあなたがお客様だから、あなたのしたいことがあれば言って下さい。ゲームでもカラオケでもできるものであればご要望に応じます」

 亜紀は少し考えてから言った。

 「それでは質問とお願いを一つずつ」

 「何でしょう?」

 「どうして教職員宿舎からこちらへ移りましたの?」

 「ああ、そのこと。来年妹がうちの大学に入学するから、母に頼まれて同居するためです。1年間は松本キャンパスへ通うことになるが、それでもいいと言うから駅にも大学にも近いここにしました。年が明けてからでもいいと思っていたんだが、知人がいい物件があるからと紹介してくれて1週間前に引っ越したばかりなんだ。

 母が苦労性でね、妹が独り暮らしするのを心配するんです。と言うのも中学生と高校生のとき、いろんな男が妹を訪ねて来たから不信感を持っているんです。それにご覧のとおりの口の利き方も知らない世間知らずの妹だから何をしでかすかわからない。まあ、いわばお目付け役です。妹が終業式を待たずに来たのも、住まいの下見だと言っているが、本当は口うるさい母親から逃れたかったんだろう」

 さもありなんと亜紀も思った。まだ幼さが残るが、彼女ほどの美貌なら男子生徒が放っておかないだろう。まして親元を離れ、行動が自由となる大学生になれば母親が心配するのも頷けた。

 後に加藤が語ってくれたところでは、恩師に妹がいることを彼女を研究室に連れて来たことで初めて知り、男子学生は騒然となったそうである。このマンションに移ることも、そのときに彼女の口から聞いたのだった。

 「どうして教えていただけなかったのかしら?引越しのお手伝いくらいはしましたのに」

 幾分恨めしげに言ったのだが、彼には通じなかった。

 「そのことは誰にも言っていない。彼らに言えば喜んで手伝ってくれたのだろうが、私事で学生達を使いたくなかった」

 「本当にそう思っていらっしゃるんですか?」

 少し非難めいた口調だった。そんな彼女に彼は驚いた。何か間違ったことを言ったのだろうか不安にもなった。

 「失礼ですけれど、もしかしたら腹を割って話せるお友達はいないのじゃありません?」

 なぜそのようなことを問われるのかわからなかった。が、言われて思い返せば、これまで互いに連絡を取り合う友人がいないことに思い当たった。人付き合いは悪くはなかったが、友達が多い方でもなかった。幼なじみはみんなばらばらになって音信不通状態だし、中学高校時代の同級生にしてもクラス会で会うくらいで、それもここ数年は案内状も途絶えている。年賀状も大学時代や会社勤めをしていた頃の友人や同僚と交すくらいだ。歳がそれほど変わらない同僚は何人かいるが、友人にはなり得ていない。

 真の友人と呼べる友達がいない事実に愕然とした。そのことを今まで意識したことはない。いないところで不自由はしないし問題もなく生きて来た。しかし、今彼女に問われて、これまでの生き方を批判されたような気がした。

 そんな気持ちを押し殺して平然として答えた。

「そんなことはないと思うが、どうして?」

 まだ、彼女が何を言いたいのか理解できずにいた。

 「間違っていたらごめんなさい。真一さんには何でも相談に乗ってくれる人や悩みを打ち明けてくれるようなお友達がいないように思えます」

 真一が黙ったままでいるので、勢いのまま続けた。

 「先ほど、私事で学生達を使いたくなかったと仰いました。でも、それはお考えが違うように思います。

 公私の区別を付けるのは一見立派なことのようですけれど、状況によってはそれまで築いてきた人間関係を損なう恐れさえあるのではないでしょうか。クリスマスイブで恋人とのデートがあったかもしれないのに、このように学生さんが大勢押し掛けて来ただけを見ても、私のことはともかく、ここにいる教え子さん達には伝えるべきだったと思います。恐らくみなさん、他人行儀で水臭いと思われて寂しい思いをされていると思います。

 公私混同をしないことはいいことですけれど、何もかも聖人君子のように振る舞おうとすると、自分では意識せずともバリアーみたいなものが張っていて、腹を割って話そうとする人がいなくなってしまうのじゃありませんか。私はそう思います」

 彼女の説諭に驚くと同時にその正論にぐうの音も出なかった。似たようなことを昔言われた記憶があるが、このように理路整然と諭されたのは初めてだった。大人しそうでいながら、言いたいことははっきりと言う、こんな芯の強い人だったのか改めて目を見張る思いだった。

 「どうも亜紀さんの言う通り、僕が間違っていたようだ。偉そうなことを言っても、まだまだ子供だな。お恥ずかしい。亜紀さんにも学生達にも悪いことをした」

 真一の素直な反省に、わかってくださってありがとうと、亜紀はにっこりほほ笑んだ。


                   (四)


 亜紀のお願いは真一の部屋を見ることだった。散らかっているがと言い訳をして部屋へ案内した後、彼は食べ物と飲み物を取りに彼女を残して出て言った。

 真一の部屋は玄関すぐの左の8帖の洋間だ。キングサイズのベッドと書棚が一つに、ありふれたスチール製の机、その上にはノートパソコンと散らかった紙片が数枚あるだけだ。壁も家具メーカーのカレンダーが吊り下げられているだけで、写真や絵画の1枚すら架けていない。クローゼットは壁に作り付けとなっているから、なんて整然とした部屋なのだろうとの印象を持った。

 彼女の夫の修一の部屋には写真立てがあったが、ここには時計すらなかい。入居して間もないとは言え、いかにも無味乾燥で殺風景だ。彼らしいと言えば彼らしい。さぞかし書籍で溢れかえっているのだろうと想像を逞しくしていたのに彼の研究室と同じで簡素だわとそんなことを思っていると、いつの間にか自分が主導権をとっていることに気が付いた。そう言えば彼に対する遠慮も薄れて、呼び方も成瀬さんから真一さんに無意識のうちに変わっている。彼はそれに気付いている様子はない。

 空間ばかりが目立つ書棚を見ると建築に関する書籍はあまりなかった。あるのはほとんどが古本屋で見つけたような古い書籍で横文字のものばかりだ。縦書きのものは、これもかなり古そうな夏目漱石の文学全集だった。そんな中で真新しい日本語の背表紙3冊が際立っていた。間近で見るとそれは視覚障害に関するものだ。その中の一冊を手にとってぺらぺらと頁を開くと、黄色のマーカーをつけた箇所や余白の書込みが散見された。

 少し読んではみたものの、行政施策の流れや視覚障害者の職業選択の事例などが書かれているが、およそ建築に関係のなさそうな書籍の何に関心を寄せたのか理解できなかった。それでも障害者のことを気にかけていてくれているのかと思うと、心が温かくなった。他の横文字の本も同様にあちこち書き込みがなされていて、相当勉強していることが伺えた。こんなところまで修一に似ていると思った。

 何をしているのか彼は中々戻って来ななかった。椅子に座って手持ち無沙汰に部屋の中を眺めて、机の抽斗を開けようとしたとき、スリッパの音がして真一がワインとワイングラスを左手に持ってやって来た。右手にもピザを乗せた大皿を持っている。

 「いやー、学生達を送り出していたから遅くなった。みんな亜紀さんによろしくと言って、2次会やデートに行ってしまったよ」

 戸は開け放なたれているので彼らが帰るのは知っていたが、亜紀は椅子から立たなかった。彼らも亜紀がいないことを知っていた筈だが、恩師の部屋の中まで覗き込む者はいなかった。

 「加藤に玄関口でつかまって往生した。あいつは一体何を考えているんだか」

 しきりに頭を振るのを見て、どうかしましたの?と尋ねた。

 「加藤の奴、今頃になって地元に残るなんて言い出した。大手ゼネコンの内定までもらっているのに、どう言うつもりか知らんが」

 「今からでは就活は難しいの?」

 「地元の建設会社や設計事務所なら、まだ可能だと思うが・・・」

 奥歯に物が挟まったような言い方をした。

 「何かご心配ですの?」

 「いや、心配はしていないが、急にそんなことを言い出したのが気になった。ああ見えて責任感があって軽はずみなことはしない奴なんだが、どうもおかしい。家だって造り酒屋で裕福みたいだし、三男坊だからゼネコンを蹴ってまで地元に残る必要もないんだが・・・」

 真一は頭をふって頻りにおかしいおかしいを連発している。そんな彼を見て亜紀の方こそ可笑しかった。

 「そんなことよりピザを頂きましょう。ちらし寿司を少しいただいただけだからお腹がすいたわ」

 お、そうだと、皿を亜紀に差し出し、自分のベッドに腰を下ろした。彼女は自分の皿に一切れ取った後、彼のために2切れ取り分けた。その間に、真一がワイングラスにワインを注ぐと亜紀の横の机の上に置いた。

 「それじゃ、改めてメリークリスマス」

 「メリークリスマス」

 グラスを眼の高さでちんと触れ合わせた。何となく二人は微笑みあった。

 「うん、刈谷さんが作ったピザは絶品だ。今度お邪魔した時に作り方を教えてもらおうかな」

 ピザを一口咀嚼して絶賛した。亜紀もそのとおりだと思った。しっとり感とパリパリ感が見事にマッチしていて、チーズの加減が絶品だった。電子レンジで温めたのだろうが、オーブンから出した直後ならもっともっと美味しかっただろうにと少し残念に思った。

 「目が見えるようになってから、マンションと名のつくところに入るのはこれが初めてですけれど、うまくできていますわね」

 「そうかな。妹と二人だからこれでもいいが、もし分譲マンションを購入するとしたらここは選ばないと思う」

 その理由を立地から構造と間取りまで細かく教えてくれて、さすが建築家の目線は違うと感心した。

 「研究室もそうですけれど、大学の先生の割に本は少ないですわね。部屋の中は本で溢れ返っているとばかり思っていましたわ」

 彼の部屋の印象を本棚に目をやりながら述べた。

 「ああ、部屋が狭いからね。本棚ばかり置いたら寝るところもなくなってしまう」

 苦笑しながら、それにと弁明した。

 「ほとんどの本は大学の図書館で用が足りるし、基準類や仕様書類は全部ここに入っているからあんまり必要としない」

 真一は自分の頭を指しながら、本棚から適当に抜いた1冊を示して説明した。

 「ここにあるのは外国へ行ったときに買い求めたものと滅多に入手できない稀覯本と内外の建物の図鑑ばかりだ。あれだって絶版になっていたものを東京の小川町の古本屋で見つけたものだ」

 傷み具合から年代物であることは亜紀にもわかった。

 「頭の中の記憶容量が大きくてよろしいわね。私なんか物忘れが多くて羨ましい限りですわ。あ、そうそう陽菜ちゃんと義晴君はどうしています?」

 彼らのことをすっかり失念していた。

 「玻瑠香と話をしていたよ。同じ高校生同士だから気が合うのかな。玻瑠香にそこら辺を片付けておけと言ったら、手伝いますと言っていたから、一緒に後片付けしているんだと思う」

 それじゃ、私もお手伝いにと立ち上がろうとすると真一が止めた。

 「いいよ、彼らに任せておけば」

 そう言われても亜紀は心中穏やかではなかった。手伝わなかったら、彼の妹に後で何を言われるかわかったものではない。それがわかっていながら、こんな機会がもうないかもしれないと思うと、もう少し彼の傍にいたかった。

 「お一人で寂しくありません?ご結婚はなさいませんの?」

 努めてさりげなく訊いたつもりだが、表情に出てはしないかと気になると同時に何と彼が答えるか、胸は高鳴った。彼はそれに頓着なくさらりと答えた。

 「寂しいと感じたことは一度もないなあ。結構気ままな独身生活を楽しんでいますよ。とは言っても別に独身主義者じゃない。縁があればいずれはしますよ。縁がなければそれまでです。結婚には固執していません。そういう面では積極的になれた、あなたのご主人が羨ましい」

 さあ、どうぞと亜紀のグラスにワインを注ぎながら、今度は真一が亜紀に尋ねた。

 「ご主人のこと少しは忘れられるようになりましたか?」

 「以前ほどにはもう・・・。思い返すと、私は愛と言うものを知ってはいませんでした。愛は恋の延長上にあるものだと信じて、更にその先の到達点が結婚だと思い込んでいたのね。でもそれだけでは足りないことに、あの人のことで気付かされました。愛だけでは一生を共に過ごせない。そこには相互の尊敬と信頼が不可欠であることがようやくわかってきました」

 亜紀はワイングラスを弄びながら、伏せ目がちに話を続けた。

 「あの人が私に好意を持っていることは、目が見えなくても女の勘でわかっていました。でもその好意は同情から来ていると思い込んでいましたの。私は視覚障害者であるとの劣等感に凝り固まって彼の愛を知ろうともしませんでした。自分の気持ちにも気付きませんでした。本当に馬鹿でしたわ。もっと自分に正直になっていれば、後悔の念も今よりは少しは深くなかったはずなのに」

 最後の方は小声になった。

 真一は黙って聞いていが、ふと何気ない様子で呟いた。

 「慚愧ざんきの念と劣等感は一度持ってしまうと、中々消えないからなあ」

 それはと亜紀が口を開きかけた時、玻瑠香の兄を呼ぶ声がした。真一は何だと応えてリビングへ去った。

 すぐに戻って来るだろうと亜紀は椅子に座ったままでいた。もう少し二人きりで話がしたかったのだ。何も考えずに両掌で持ったワイングラスを見ていると、こんこんとノックの音がした。顔を上げると開け放されたドアのところで玻瑠香が立っていた。

 「あら、玻瑠香さん。片付けのお手伝いもしなくてごめんなさい」

 椅子から立ち上がると詫びた。

 「いいわ。陽菜ちゃんと義晴君に手伝ってもらって、粗方片付いたところなの。兄と何を話していましたの?」

 玻瑠香は今いた兄と同じ場所に腰を下ろすと訊いた。

 「話も何も、このマンションに移った訳と部屋を見させていただいて、加藤さんが地元に残りたいと言った話を聞いていただけ」

 「そんなこと話をしていたの。そういうところ兄は駄目なのよね」

 「玻瑠香さんは同じ大学に入学なさるとか」

 「だから兄が母に頼まれてこのマンションを借りたの。母の魂胆なのよ、兄に私を監視させようとして。陽菜ちゃんから聞いたけど、亜紀さんと兄はそちらのペンションで知り合ったんですって?」

 一緒に片付けをしているときに聞き出したのだろう。よもや修一のことを話してはいないだろうと思いながらも少し緊張して答えた。

 「ええ、今年の夏の終わりに来られて、それがご縁で・・・。そのときに義父がペンションの改造の相談を持ちかけて、それ以来何かとお世話になっておりますわ」

 こうして落ち着いて間近で玻瑠香を見ると、唇に紅を落としたくらいなのに女の目で見ても綺麗な子だと改めて思った。強いて難を探せば背が高すぎることと性格がきつそうなところだろうか。

 「つい最近まで、兄を何かで困らせると、お前のような奴は嫁のもらい手がないと言うから、お兄ちゃんにもらってもらうからいいと言い返していたわ。それが9月に祖母の法事に帰って来た時、兄の様子がおかしかった。何かに悩んでいるようで不思議に思っていたけど、写真を見てわかったわ」

 立ち上がると机の最下段の抽斗から写真を取り出して亜紀の前へ突き出した。それはペンション計画の立ち上げが決まった日にみんなが揃ってグリーンハウスの前で撮ったものだった。

 「初めのうち中川さんかしらと思っていたけど、後から入って来たあなたを見てすぐにわかったわ。兄の関心はあなたなのよ」

 そう決めつけて、アルコールが入っているのか少し潤んだ大きな瞳が亜紀を捉えて離さなかった。

 「変な勘繰りは止めて頂戴。お兄さんと個人的にお話をしたのは今日が初めてなのよ。もちろんお付き合いだってしていないわ。今晩だって加藤さんに誘われたから来たのよ。第一マンションに移ったと聞いたのもつい先日のことよ。それにご存知かどうか知らないけれど、私は未亡人なの」

 亜紀は思わずきつく言ってしまった。

 「知っているわ。だから何だって言うの。戸籍はどうなっているか知らないけど、もう人妻じゃないんでしょう。兄が好きになっても不思議じゃないわ」

 「何が言いたいのかしら」

 「別に・・・。」

 妹の玻瑠香が彼との仲に拘る理由が亜紀にはわからなかった。仮に彼が私のことを好きだとしても、それを妹に話すことなど考えられなかった。事実、彼女に邪推されるほどの付き合いはしていない。

 じっと亜紀を見詰めていた玻瑠香は、ミニスカートから剥き出しの長い脚を組み替えると話題を変えた。

 「亜紀さんのご主人だった方はどんな人だったの?」

 「えっ」

 思わぬ問いに一瞬答えに詰まった。ひょっとしたら修一のことを知っているのかもと思った。答え方を間違えると大変なことになると身構えた。一呼吸すると玻瑠香の目を見てはっきり言った。

 「平凡な人よ。でも亡くなった主人のことは安易に誰にも言いたくないの。ごめんなさい」

 玻瑠香は何かを探るような目をしていたが、それ以上追及することはなかった。どうやら姪も甥も詳しい話はしていないようだ。亜紀はほっとしたが、今度は搦め手から攻めてきた。

 「亜紀さんから見て、兄をどのように思います」

 「どうって、それほどお会いしていないから・・・。いい方だとは思うけれど、確固たる意見など言えないわ。でも、どうしてそんなことが気になるの?」

 「それは兄のことが好きだから。それ以外に何もないわ」

 やはりそうかと納得したが、それでも彼女の態度は単なる兄好きの範疇を超えていると思った。

 「でも、ご兄妹でしょ。おかしいわ」

 「おかしいかしら。実の兄とは法律上結婚はできないけど、好きになるのはいいでしょう。だから兄が誰かと結婚したとしても、私は絶対にその人を義姉とは認めないわ」

 聞き流してもいいようなことだが、実のと言ったことが気になった。

 「真一さんも幸せね。あなたのような妹さんがいて。私にも兄がいるけれど、兄も私のことそう思っているのかしら?」

 玻瑠香の物言いに煽られたのか、亜紀にしては珍しく皮肉を言った。

 スリッパの音がして真一が戻って来た。

 「ここにいたのか。まだ片付けが終わっていないぞ。お前も手伝え」

 「あ、私もお手伝いします」

 亜紀は救われた思いで立ち上がった。

 みんなが手分けしてわいわいがやがやとしているうちに20分ほどで拭き掃除も終わり元の状態に戻った。

 「済まないな、すっかり手伝わせちゃって。金輪際あいつらを入れんぞ。玻瑠香、今度来ても絶対に中に入れるな。玄関に塩を蒔いとけ」

 一人でぷりぷりしている真一に一同顔を見合わせて笑った。自分だって恩師の家に押しかけたくせにと思うと亜紀は余計可笑しかった。

 真一がコーヒーでも淹れようとキッチンに立った。亜紀が淹れようかと思ったが、思い留まった。玻瑠香を差し置いて自分が立つ訳には行かなかった。

 「玻瑠香!」と兄に呼ばれて、キッチンに立った。彼女は兄妹の仲の良さを見せつけるかのように、ぴたりと寄り添い、時折兄を見つめて笑った。それだけを見れば仲睦まじい兄妹と映ったであろうが、彼女の想いを知った今は、単純にそのようには思えなかった。

「普通男がこう言ったら、言われなくても私がやりますと言うんだが」

 独り言のように言って妹を睨んだ。

 「あらそう。でもお兄ちゃん、それは偏見よ。今の時代男でも台所に立つんだから」

 玻瑠香はぺろっと舌を出した。

 「そうよ。ジェンダーどころか男尊女卑の思想があるわ。一種のセクハラで先生らしくもない。同じ女として聞き捨てなりません」

 陽菜子が玻瑠香に加勢した。

 「おい義晴君、君も男だろ、多勢に無勢だ。何とか言ってくれよ」

 冗談か泣き言かわからないようなことを真顔で言うからまたみんなが笑った。

 「口では姉貴に勝てないから」

 にやにやしながら弁解した。

 亜紀はそんなやり取りを笑って聞いていた。妹に対してのこともあるだろうが、こんな軽口を言うなんてと思わぬ発見をした思いだった。日頃気難しい研究者然とした一面だけを見ている彼女にとって、このように気楽に振る舞う彼の姿を知っただけでもここに来てよかったと思った。

 「刈谷さんのケーキを切り分けてテーブルに置いてくれ。みんなで食べよう」

 真一と玻瑠香が淹れたコーヒーは中々美味しかった。亜紀が意外そうな顔をすると、中川に教わったと秘密を打ち明けた。

「初めからこうすればよかったんだよなあ」

 コーヒーを飲みながらしみじみとした口調で真一が言うと、玻瑠香がすかさず同調した。

 「そうよ、ぐずぐずしないで私が言った通りにホテルにでも行って食事をしていればよかったのよ」

 「まあ、そう言うな。この詫びはするから」

 真一は部屋から煙草を持って来ると、中から一本取り出した。

 「煙草を吸ってもいいか?」

 誰へともなく許可を求めると、玻瑠香が「駄目」とあっさり拒否した。真一は一本だけ頼むと片手拝みした。

 「だったら外で吸って」

 妹には彼も頭上がらない様子に、陽菜子と義晴が笑いを噛み殺した。

 彼は素直にバルコニーへ行った。それを待ち受けたように玻瑠香が修一のことをぶり返した。亜紀では一筋縄ではいかないと思ったのか陽菜子に訊いた。

 「亜紀さんのご主人だった人はどんな人?」

 陽菜子は一瞬亜紀を見て困った顔をした。義晴は聞こえなかった振りをした。亜紀は彼女にそれとなく目配せをした。

 「ハンサムで賢くて優しい人だったわ。いつも私達の勉強をみてくれた。でも修一兄さんのことは亜紀姉さんが一番知っているから、亜紀姉さんに訊いて」

 無難な受け答えに亜紀はほっとした。

 「名前はしゅういちさんと言うの?ふーん。亜紀さんたら、ご主人のことちっとも教えてくれないのよ」

 「だったら、私も言えない」

 「おかしいわね。どうして亜紀さんのご主人のことになると言葉を濁すのよ。何か隠さないといけないことがあるのかしら」

 玻瑠香は何かを勘ぐるかのように頭を傾げた。

 「そうじゃないわ。思い出すと辛くなるから話したくないだけ」

 亜紀はその話題を打ち切るかのようにきっぱり言った。彼女にだけは絶対に知られてはならないと思った。

 「玻瑠香さん、先生ってどんな人」

 義晴が亜紀に助け船を出すかのようにバルコニーで一人煙草を吸っている真一を見て訊いた。寒いだろうに彼は手摺に体を預けて駅の方を見ている。ときどき赤い明りを出す様はまさしくホタルそのものだった。

 「兄貴?兄貴は馬鹿よ。人の気持ちも知ろうとしないで、一日中建築のことばかり。昨日も一人でぶつぶつ言っていたから、何言ってるのって訊いたら、頭の中で計算してたって言うから完全な建築馬鹿よ」

 わざとらしい辛辣な物言いだが、そこには兄想いの愛情が感じられた。

 「でも、頭は良かったんでしょう?」

 今度は陽菜子が訊いた。

 「どうかしら。年が離れているから、詳しくは知らないけど、お袋の話では勉強している姿を一度も見たことがなかったって。それなのに、中学高校と学年トップを一度も譲ったことがなかったらしいわ。たまに帰省したときに勉強を看てもらうけど、どの科目も先生より教え上手だったから、頭は悪くはないわね」

 「それじゃ、女生徒にもてたんじゃない?」

 玻瑠香はちらっと亜紀を見た後、陽菜子の問いに答えた。

 「ここはどうだか知らないけど、和歌山は結構男女の付き合いに関しておおらかなの。だから下校の時、男の子と手を繋いで一緒に帰る女子も多いわ。そんな風土の町だから、兄貴宛に女の字で手紙が何通も届いたけど、それを開いた様子もないから、お袋が女嫌いじゃないかって心配していたわ」

 女嫌いを強調して、また玻瑠香は亜紀を一瞥した。亜紀は無感心を装い聞き流す振りをして珈琲を飲んだ。

 男女三人は言いたいことも言えず、女一人は知りたいことも教えられず、少し緊張感を持って押し黙った。

 真一がバルコニーから戻って来た。男女三人はほっと力を抜いた。

 外は寒かったらしく頬を赤く染めて、両腕を交差して肩をさすり、ケーキの皿を取った。

 玻瑠香は唇に人差し指を当て、それまでのことがなかったかのように話題を変えた。

 「お兄ちゃん。加藤さんが何か言ってなかった?」

 「うん、加藤・・・?そう言えば、帰り際少し様子が変だったな。急に地元に残るなんて言い出した。どうするつもりなのかな、東京で内定も取っているのに」

 「それって、私のせいなの」

 玻瑠香は自分を指差した。

 「お前?・・・どういうことだ?」

 意外な発言に4人はケーキを頬張る手を止めて玻瑠香に注目した。

 「加藤さんがね、酔っ払って私に言うのよ、私が羨ましいって。お兄ちゃんが兄貴だったらいいのにって。だから言ってやったのよ。それだったら、私と結婚すれば義理の兄になるわよって。そうしたら急に真顔になっちゃって、それ本気かって聞くから、遠距離恋愛はしないと言ったの。そうしたら考え込んじゃって」

 それを聞いて4人は唖然とした。

 「お前、冗談にも程があるぞ。あいつはいつもへらへらしてふざけたことばかり言っているから、軽い男に見えるかも知れないが、本当は情に厚くて、面倒見が良くて、責任感もある男らしい奴なんだ。教師がこんなことを言っちゃいかんが、一番信頼のおける奴だと思っている。結婚云々は別にしてもお前には勿体ない男だ。それをお前は・・・男の純情を弄ぶような真似をして。後で電話番号を教えるから謝れ、いいな」

 真一は妹を睨んで指示した。

 「わかったわよ、明日謝るから」

 玻瑠香も悪ふざけが過ぎたと思ったのか、不貞腐れながらも約束した。

 陽菜子がケーキを頬張った玻瑠香に訊いた。

 「入学は決まったんでしょう。専攻は何にしたの?」

 「決まってるじゃないの。兄貴と同じよ」

 「それじゃ、建築学科?」

 「そうよ」

 「こいつ何を思ったのか知らないが、相談もなしに建築学科に決めて頭が痛い」

 渋い顔で真一が答えたが、 玻瑠香はどこ吹く風の様子でフォークを咥えた顔が明後日を向いている。

 「推薦入試の面接があった翌日に、面接官だった教授に呼び出されて行ったら、成瀬玻瑠香は君の妹かって訊かれて返答に困った。嘘をついたところですぐにばれるから、そうですと答えたよ。初めのうち気が付かなかったらしいが、成瀬の姓はそんなに多くないから、面接しているうちに俺と関係があるんじゃないかと、はたと気が付いたらしい。その教授が、玻瑠香に『うちに成瀬と言う講師がいるが、君と何か関係があるのか』と訊いたら、こいつは何と答えたと思う?」

 「面白そう。玻瑠香さん、なんて答えたの?」

 陽菜子が興味丸出しで身を乗り出した。

 「本当のことを言ったわよ。だってそうでしょう。実際妹だもの。だから、身内加点をして入学させて下さいとお願いしたわよ」

 陽菜子は、わあ玻瑠香さんすごいと面白がって手を叩いたが、真一だけは憮然としていた。

 「それで面接官の反応は?」

 「別に。ただ唖然としていたと思ったら突然笑い出したわ。面接の最中に失礼よね。彼も変わっているが、君も面白いとか言って、それからは私そっちのけで兄貴の話ばっかし」

 「へえ、どんなことを訊かれたの?」

 「君の兄に彼女はいるのかとか、何故彼は結婚しないんだとか、高校時代はどうだったかとか」

 「それでそれで、何て答えたの?」

 ますます興味津々で陽菜子が訊いた。みんなもどのように発言するか彼女に注目した。玻瑠香は横目でちらりと亜紀を見て言った。

「兄は女嫌いだから、彼女も作らないし、結婚もしないと思うって答えたわ。そうしたら面接官同士顔を見合わせてまた大笑いしたわ。大きなお世話だし失礼よね。それに教授にしては馬鹿よね。兄貴の高校時代と言えば、私がまだ物心つくかつかない年よ。わかりそうなものじゃない。でもこのとき合格するって確信したわ」

 「玻瑠香、お前な、知りもしないのに、どうして勝手なことばかり話すんだ。お陰で教授から変な眼で見られて、君の妹は面白いと笑われた。そのとき、合格させるとそっと教えてくれたよ。ただし、本人には言うなと釘を刺されたけどな」

 「合格して当然よ。一般入試にも願書を出してたけど、学校推薦を受けるために、それなりに勉強したし、ボランティアもしたのよ。剣道でインターハイ出場を果たして、生徒会長にまでなったんだから」

 生徒会長にまでなったの、それは凄いと陽菜子も義晴も感嘆した。

 亜紀も口には出さないが、彼女の並々ならぬ努力振りに驚いた。それにしても、それ程までして兄のところにいたいのか。この兄妹の関係はどうなのだろうと亜紀は一人訝かった。

 「まあ、その努力は認めてやる。しかし、学内では馴れなれしくするな」

 さあ、どうしようかしらと答える妹に、兄のしかめっ面してぼやくのをみんなが笑った。

 「私はまだ迷っているの。先生の建築にするか、修一兄さんの電子にしようかって」

 陽菜子が何気なく言ったその瞬間、その場が凍りついた。陽菜子も思わず口に手を当て、真一は黙り亜紀は下を向いた。玻瑠香だけ頭を上げてみなを見た。その場を繕うように義晴が発言した。

 「僕も再来年、信州大学を受験します。もちろん建築学科を専攻します。合格したら宜しくお願いします」

 義晴はおどけたように真一に向かって頭を下げた。しかし、玻瑠香は聞き逃すわけはなく、案の定訊いてきた。

 「しゅういちさんて、亜紀さんのご主人だった人?」

 「そうよ。大学で電子工学を学んで東京の光学メーカーに就職したの」

 ここは下手に隠し立てするよりも話した方がいいと思い、陽菜子が答える前に亜紀が答えた。

 「ところで陽菜ちゃん、明日はどうするんだ?」

 真一は話題を変えた。

 「滅多にここまで来ることがないから、ショッピングするわ」

 「だったら、市内を案内しがてら玻瑠香を一緒に連れてってくれないか」

 「駄目よ、お兄ちゃん。今夜の埋め合わせに買い物に付き合うと約束したじゃない」

 玻瑠香は兄を睨み据えた。

 「すまん、朝から佐藤教授宅に呼ばれているんだ。それはまた今度な。その代りカードを渡すから、クリスマスのプレゼント代りに欲しいものを買え」

 玻瑠香は渋々カードを受け取り、陽菜子達と一緒に行くことに同意した。

 「もうお金の心配はいらないから、明日のお昼は豪勢なランチをご馳走するわよ」

 彼女は兄に当てつけるかのように宣言した。そんな妹に慣れているのか真一は苦笑するだけだった。

 「9時半を回った。そろそろお開きにしようか。ホテルへの道順はわかる?」

 「カーナビがあるから大丈夫ですわ」

 そうか、それならと真一は立ち上がった。帰りは送っていくと確か言ったはずだが忘れてしまったらしい。

 玻瑠香と陽菜子が明日の待ち合わせ時間を決めると亜紀らは玄関を出た。


                    (五)


 翌朝ホテルで朝食を摂り終わると、陽菜子と義晴はロビーで合流した玻瑠香とショッピングに出かけた。

 若者同士気が合うのか、簡単な打ち合わせをしてから、ワイワイ騒ぎながらホテルを出て行った。亜紀だけは用事があるからとホテルに残った。そんな彼女を玻瑠香は懐疑的な目で見たが、兄は朝早くから出掛けたので、彼女とは一緒ではないと判断したのか何も言わなかった。

 亜紀は彼らを見送ると、ホテル案内や観光地のパンフレットを見ながら加藤が来るのを待った。

 早朝加藤に電話をかけ、時間があれば会いたい旨を伝えたのだった。加藤は突然の電話に訝りながらも快諾した。

 待ち合わせ時間前に、ラフな格好の加藤がロビーへやって来た。

 ロビーラウンジで加藤の飲み物を注文すると、亜紀は申し訳なさそうに詫びた。

 「加藤さん、ごめんなさい。折角のクリスマスでお休みの日なのにお呼び立てして」

 「構いませんよ。午前中は用事がなかったから丁度よかった。でも、亜紀さんから電話をもらうのは初めてだから驚きました。あれから先生のところで?」

 「ええ、後片付けをして10時近くまでお邪魔していたわ」

 「陽菜ちゃん達は?」

 亜紀一人なので周りを見渡しながら訊いた。

 「長野に来るのは久し振りだからってショッピングに出かけたわ」

 「先生は?」

 「佐藤教授に呼ばれていると仰っていたから、出かけたのじゃないかしら」

 「じゃ、玻瑠香さんが一人で留守番?」

 彼女のことが気になるのか、わざわざ訊くので亜紀は少し可笑しかった。そう言えば、一番彼女に話しかけていたのは彼だったと昨晩のことを思い出した。

 「いいえ、玻瑠香さんも市内見学するからって、陽菜ちゃん達と一緒に行ったわ」

 「だったら、2次会なんかに行かずに僕も残ればよかったなあ」

 いかにも残念そうだった。そんな彼に亜紀は悪戯っぽく訊いた。

 「加藤さんは玻瑠香さんに関心がおありなの?」

 「ええ、まあ。若いのにしっかりしていて、昨日話していて何だかフィーリングが合うような気がしました。でも付き合うとなると振り回されて苦労するかもしれないな」

 何のてらいも恥じらいもなくはっきりと答えた。確かに彼女と付き合うとなると大変だろうなと亜紀も何の根拠もなしに思った。

 「玻瑠香さん、建築学科に入学するんですってね。昨晩は玻瑠香さんと随分親しげに話し込んでいましたけれど、以前から面識はあったの?」

 「はい。あ、いや、面識と言ったって一度会っただけですよ。1月程前に推薦入試の面接の帰りだとか言って、先生が玻瑠香さんを研究室に連れて来られてみんなに紹介してくれたんです。自分から女を研究室に入れることなど皆無だったから、玻瑠香さんを見たときは先生の恋人かと思って研究室が騒然としたんです。妹がいるとは聞いてはいたけど、あんなに可愛い子だとは思いもしなかったから、もう大変でした。しかも、僕らの後輩になるかも知れないと、それはもう僕らは上にも下にも置かずに熱烈歓迎しました」

 亜紀の前では加藤も日頃の砕けた話し方ではなく、丁寧な受け答えをした。

 亜紀もその時の様子がわかるような気がした。彼女なら誰もが放っては置かないだろう。

 「そうでしたの。ところで加藤さん、成瀬さんのお話では大企業の内定を断って地元で就職なさるんですって?」

 加藤なら亜紀も軽口が言えた。

 「いやぁ、あれは冗談です」

 頭を掻いて否定した。

 「先生、さばけているようで冗談が通じないところがあるからなあ。僕のことより、亜紀さんこそクリスマスなのに誰かとデートしないんですか」

 「いいえ。卑下する訳じゃないけれど、私は学がないし話題も豊富じゃないでしょう、一緒にいても詰まらないと思うわ。だから、誰も誘ってくれないわ」

 まさかと加藤は大袈裟に驚いて見せた。

 「そんなこと誰が信じますか。うちの連中で亜紀さんに学がないなんて思っているやつは一人もいませんよ。僕らにくれたコメントだってみんな的確で納得したし、亜紀さんは美人で性格がいいから、あの家に閉じ籠らなければ引く手数多あまただと思います。それにしても、どうして先生、何をさておいても誘わなかったんだろう?」

 不思議だと首を捻りながら、加藤はコーヒーカップを手に取った。

 答えようがないから亜紀は黙っていた。

 「先生、変人だからなあ」と加藤は小声で言った後、「でも、先生は亜紀さんのこと好きですよ」カップに目をやりながら何でもないことのようにさらりと言った。

 亜紀は思わずオレンジジュースを持つ手を止めて加藤を見た。何を根拠にそう思ったのか問い質したかったが、尋ねることはしなかった。

 「でも、私の前で一度もそんな素振りを見せたことはないわ」

 内心の動揺を隠すように、グラスに視線を落として静かに言った。

 「先生、ああ見えて不器用だから、恋愛には不向きなんです。恋愛を遊びぐらいに考えて、もっと気楽にすればいいのに、恋愛イコール結婚と難しく考えてしまうようです。だから、自分の方から積極的にアプローチすることはないんじゃないかと恋愛のプロの慶子が分析していました」

 「慶子さん?・・・ああ、中川さん」

 彼らが彼女のことを慶子と呼んでいたことを思い出した。

 「彼女が言うには、恋愛には本能的なものと理性的なものがあるのだそうです」

 「あら、そうなの、知らなかったわ。本能的な恋愛は何となくわかるけれど、理性的なものってどのようなものなのかしら?」

 「彼女によれば、それは人間だけが持っているものだそうで、自分だけの感情で人を愛するのではなくて、相手のことはもちろん、周りの人間も含めて愛することだそうです。極端な例で言えば、タイタニックの遭難事故や阪神淡路大震災でもあったように、愛する人や子供を守るために自分の命を顧みないで身を危険に晒したり、果ては他人のために自己を犠牲にするといったような究極の愛のことだそうです。無償の愛ってやつですか。そんなこと言ったって今の僕らには無理でしょうけど。何と言ったって自分の命が大事ですものね」

 はははと笑ってコーヒーカップを手に取った。

 「いつだったかな。そんな昔のことじゃないですけど、飲み会の時に同じような話をしていたら、聴いていないと思っていた先生が、それなら知ってるぞって、突然横から言うもんだから、僕らは驚いて、どんな話ですかと訊いたんです。でも、何も言ってくれませんでした。ただ、俺には真似できないことだと自嘲気味に呟くものだから、ますますびっくりして、その場がしーんとしてしまったことを覚えています」

 もしかしたら、あのことかしら?と亜紀は加藤の話を聴いて思った。

 「亜紀さんの亡くなった旦那さんは、どちらのタイプでしたか?」

 「え、私の主人?さあ・・・、そんなこと考えもしなかったけれど、・・・そうね、今にして思えば自分の感情に素直に行動していたから、本能的な恋愛をする人じゃなかったかしら」

 加藤に亡夫のことを問われ、今彼を思い出したばかりだったためにどぎまぎしてそう答えた。

 「でしょう、それが普通ですよ。そう言えば、研究室のメンバー発会記念飲会のとき、こんなことを言っていたなあ。亜紀さんもご存知の菊川康子がね、何かで先生の理想とする女性のタイプを訊いたんです。日頃はそんな話題に乗ることもないのに、そのとき先生も酔っぱらっていたせいか、珍しくそれに応じたんです。何と答えたと思います?」

 亜紀を試すかのようにまた問うた。

 「さあ?」

 亜紀には見当もつかなかった。それより彼なりの恋愛観を持っていることの方が驚きだった。

 「先生はね、こう言ったんです。俺は顔の美醜はあまり関係がない。それよりも内面の豊かな人、良妻賢母になる人を選ぶって。それが男にとって一番大事なことだそうです」

 言われてみれば彼が言いそうなことだと思った。

 「それに、結婚に対する基準は二つだって。何だと思います?」

 思わせぶりに訊かれたが、亜紀にわかる訳がなかった。

 「さあ?男の人の考えなんてわからないわ」

 「それは、自分と感性を共有できるかと良き妻でいい母親になれるかだけだと言うんです。大恋愛の末、結婚したとしても相手のことを理解しないですると、いつかこんなはずじゃなかったと性格の不一致を理由に離婚に至る可能性がある。離婚するのは当人同士の問題だからいいが、もし子供がいたらどうなる。どちらに引き取られるにせよ子供に深い傷を負わせることになる。それにもし結婚した相手が子供好きでなかったらどうする。避妊したとしても、この世に100%確実なことは一つもない。そんな状態で生まれたなら、あってはならないことだが、昨今マスコミを賑わせている育児放棄や虐待にだって至るかもしれない。

 結婚とはとどのつまり、自分のしゅを残すことを公に認めてもらうためにするもので、美人かどうかなどは個性の一つに過ぎないから重要なことではないんだそうです。第一容貌なんてなものは年を取れば誰でも衰えて来るから、ずっと変わらない心の方が大事なんだ、とこうですよ。変でしょう?女子はみんな鼻白んでましたよ。僕なんか若いせいか、合コンに参加しても可愛い子の方につい目が行ってしまう。男ならそれが普通だと思うんだけどなあ」

 違いますかと言って頭を傾けた。

 亜紀は肯定も否定もせずに無言でいた。長く失明していたので、そのようなことは無縁だと思い、考えたこともなかった。仮に修一が醜怪な容貌で、それを知ったとき、自分はどのように思っただろうかと自問してみたが、仮定のことに答えは得られるものではなかった。

 「それでまた康子が先生に訊いたんです。先生には恋愛の経験がないんですかって」

 亜紀は何故かどきんとした。それでと思わず続きを催促してしまった。

 「そうしたら、とろんとした目で僕らを眺めまわしてから、一度だけ恋愛をしたことがあるって。そんなこと初めて聞くし、どうしてか辛そうな表情で言うものだから、僕らはしんとしてしまいました。それに気が付いた先生は、それは昔々の話だと黙ってしまったものだから、僕らもそれ以上訊き出すこともできずにどうしたらいいか戸惑ってしまって、慶子なんか驚いて半分泣きそうでした」

 亜紀にとってもそれは驚きだった。彼なら女性が放っては置かないだろうとわかっていても、何故か恋愛とは無縁のような気がしていた。それがそのような経験をしていたとの話は衝撃的だった。

 加藤の話と現在の彼を見る限りにおいては、その恋愛は成就することなく終わったようだ。だが、それがどのようなものだったのか知りたいと思った。何故その恋愛が成就しなかったのか、更には彼の相手となった人にできれば会って理由を聞きたいと強く思った。

 そう思いつつ、はっとした。自分の想いがいつしか修一から真一に移っていたことに初めて気付いたからだ。でなければこうして加藤を呼び出して彼のことを聞き出そうとする理由もなく、また彼の過去について気になるはずもなかった。そのことを自覚すると亜紀は急に彼に会いたくなって胸が熱くなった。

 加藤はそれを知ってか知らずか話を続けた。

 「お前らもいずれ結婚するだろうが、外見だけを見ずに内面をよく観察して失敗のない結婚生活を送れって。あの先生が偉そうに言うものだから、このときだけはみんな呆れて大笑いしました。誰だって、ブスよりは亜紀さんのような美人の方がいいし、亜紀さんだって不細工な男よりハンサムの方がいいでしょう?」

 亜紀は苦笑したが、彼女の答えを期待していなかったのか頓着なく先を続けた。

 「先生はこんなことも言ってました。映画とかドラマだと結婚してそれでハッピーエンドとなる場面が多いが、実はそれからが人生のスタートだと思わないといけない。それから先の方がずっと永いんだから、その場の雰囲気で結婚を決めるなって。それはまぁ、けだし名言だとは思うけど、結婚もしていない先生に言われてもぴんときませんよ。

 それはともかく、先生の恋愛論を拝聴したのはあのときが最後でした。

 先生は何でもそうですけど、随分先のことまで考えて熟慮を重ねて行動する質だから縁遠いのかも知れません。でも、時間はかかるけど、自分の納得する結論を出した後のアクションは早いと思います。問題はその結論をいつ下すかだけど」

 加藤は含み笑いをしながら、意味深に見るから亜紀は照れて頬を染めた。

 「先生の話ばかりしてしまい済みません。えーと、亜紀さんの用件は何でしたっけ?」

 問われて亜紀は、呼び出した理由を答えにくそうに回りくどく説明したが、詰まるところ先生のことをもっと知りたいのだと、彼にも理解できた。

 「何でも訊いて下さい。知っていることでしたら答えますよ」

 亜紀の気持ちを推し量って何でもないことのように言った。

 「先生の私生活ってどんな風ですの?」

 「さあ、それは僕だけじゃなく誰も知らないのじゃないかなぁ。一番知っているのは先生の恩師の佐藤教授くらいじゃないですか。何しろ先生のマンションへ押し掛けたのも昨日が初めてだし、先生も自分のことは話そうとしません。あんな美人の妹さんがいることを知ったのも、つい最近のことですから」

 「大学での評判はどうなのかしら?」

 「評判ですか・・・。そうですね、僕ら学生の評価は間違いなく高いですよ。博士号を取得すれば間違いなく教授になるだろうって噂しています。あ、博士号と言えば、先生の卒研・・・、ああ、卒研と言うのは卒業研究のことです」

 亜紀でも学生達と付き合ったことで、最終学年になると卒業研究論文の提出が義務付けられていることくらい知っている。

 「それで先生が提出した卒研ですけど、教授連がびっくりしたほどの凄い論文だったそうで、何でも博士の学位論文に匹敵するほどだったらしいです。現に某准教授がそれを参考に拡大展開した論文を書いたと言う噂だってあります」

 「そうなの。昔から優秀だったのね」

 「そうなんです。うちの大学で一級建築士の資格を持っている人はいますけど、構造/設備設計一級建築士を持つようになるのは多分先生だけだと思います」

 「一級建築士だけじゃ駄目なの?」

 一級建築士のことは浅博の彼女でも承知していたが、そのような資格があるとは知らなかった。 

「昔はそれだけでよかったんです。色々な不祥事や社会問題が起きてから、ビルといった大規模の建物は一級建築士のみでは駄目になったんです」

 それも知らなかった。

 加藤の話すことをすっと聞き流して、ふと気になって問うた。

 「先ほど持つようになると仰ったけれど、なれたわけではないの?」

 「はい、そうなんです。結果は来月にならないとわかりませんが、先生なら絶対大丈夫です」

 無知とは恐ろしいもので、そのように偉い先生に無理むり頼んだのかと思うと、今更だが少し気後れがしてきた。

 「あ、優秀と言えば、先生が技術士の試験を受けたのを知っていますか?」

 「いいえ。でも何ですの、その技術士って?」

 「技術士って言うのは、建築を除く理工系の技術者では最高の国家資格なんです」

 「そうなの。そんな資格があるなんて知らなかったわ」

 亜紀には無縁のことで、彼らとの交流がなければそれに関心を持つことさえなかっただろう。

 「慶子の情報では、建設部門の中の都市及び地方計画を受験したそうです」

 「でも、先ほど言った資格を持っていれば十分なのでしょう?それともその様な資格も必要なのかしら?」

 「いえ、僕らは建築士の資格さえあればいいんです。設備設計一級建築士まで取って、技術士にまで取ろっうてことは、無駄なことはしない先生ですから何か目的があるんだと思います。勝手な想像ですが」

 (そうだと思う。その目的は何か知らないけれど、深い考えがあってのことだろう。でも・・・。)

 「その資格って難しいの?」

 「構造/設備設計一級建築士もそうですが、それはもう半端じゃないそうです。昔よりは簡単になったそうですけど、一次とニ次の試験があって、ニ次試験は論文形式なんだそうです。それに一次試験に合格しても必要経験年数に達しないとニ次試験を受けられないし、ニ次試験に合格しても口頭試験で不合格なら始めから受け直さないと駄目なんです。建築士試験は択一だし、筆記試験に合格すれば製図で不合格になっても、その翌年は製図だけで済むんです。口頭試験もないし」

 「大変なのね」

 (あれ程多忙だと言っていたのに、いつそんな勉強をする時間があったのかしら)

「それで先生は合格できそうなの?」

 「さあ、結果発表は3月だそうですから。まあ、先生のことだから僕が一級建築士に合格するよりも大丈夫でしょう、あはは」

 ひとしきり笑った後で思い出したように言った。

 「あ、そうだ、学生の評判でしたね」

 「ええ」

 「先生と言うと普通身構えてしまうけど、先生はそんな垣根を感じさせませんし、学生のことを第一に考えてくれています。今度のことで亜紀さんもわかるでしょう?だから、4年になると先生の研究室に入室が許されるかどうかみんな緊張するんです。落後者は期末試験で赤点をとったときよりもがっかりします。 理由ですか?試験は赤点でも追試験があるからいいけど、先生のは一度っきりで補充も補欠もないですから。

 まあ、あの通り唯我独尊と言いますか、自分がいいと思ったことは多少の障害があってもやり遂げようとします。ですから、僕ら学生が先生の研究室に入り浸っているのを見て、教授の中には快く思っていない人もいると思います。だけど、先生はやるべきことはきっちりするし、学生達にもさせますから、表立って非難ができないようです。僕らだって先生の立場をよく弁えていますから、決して先生の迷惑や不利になるような言動を取ることはしません。

 そんな風だから、卒業してからも仲間の結束は固いんです。僕らが3期目ですけど、先生を頂点に1期からの先輩達との交流が今でも続いています。こんなグループは他にはないですよ」

 加藤の話振りのそれは単なる教師と学生の範疇を超えて、尊敬する恩師と教え子だった。加藤が彼の弟になりたいと発言したのも、あながち嘘ではないように思った。

 「加藤さんから見て、先生をどのように見えています?」

 亜紀から問われて、そうだなあと天井を見上げて少し考えていたが、彼なりの答えを出した。

 「先生はとても優秀です。先輩から聞いた話ですけど、先程言った先生の卒業研究論文はそのまま建築学会へ提出してもよい程の出来だったらしいです。日本語でも大変なのに日本人で英文で提出したのは先生だけだそうです。

 先生の受け持つ講義は建築構造と意匠だけど土木の構造力学なんかも研究しています。先生に言わせれば、土木の構造の方が多種多様で複雑だから勉強になるんだそうです。昔の建築家は鉄塔や橋梁の設計もしているくらいだから君らも勉強しろと言われるんですが、僕なんかいつも赤点すれすれだからとてもそんな気になれません」

 加藤は頭を掻きながら自嘲気味に言い、先を続けた。

 「ほかの科目も造詣が深いから普通に講義はできるんじゃないかなあ。だから、ほかの教授からよく代講を頼まれています。その分休講にならないから学生から不興を買ってるけど。

 ああ、先生のいいところは誰に対しても公平に分け隔てなく接するところかな。女だからって手心を加えることはありませんし、成績が悪いからと言って見下すこともありません。

 いつだったか、こんなことがありました。

 建築構造の試験の時、カンニングした後輩がいたんです。運悪くと言うと語弊がありますけど、試験を監督していた助手がそれを見つけて先生に報告したんだそうです。先生は不正が嫌いで自分にも人にも厳しいところがあるから、それを伝え聞いて僕らはそいつは絶対単位がもらえないなと噂し合っていたんです。しかも、その科目は必修ですから単位を落とすと留年することになるんです。ところが先生はいきなり0点にはしないで、彼を呼んで事情を聴取して、それから1週間後にその後輩の再試験をして合格させたんです。そんな寛容な処置が僕らには不思議でした。だけど、後から事情を聞いてみんな納得して感激してしまいました」

 いつしか亜紀は身を乗り出して、それでと先を促していた。

 「認知症で寝たきりの祖母をそいつの母親が一人で介護していて、その母親が介護疲れで寝込んだんだそうです。付きっきりで祖母の面倒を看る者がいなくなって、彼が1月余り大学に来ないで介護しました。勿論、介護保険を使って一時預かり施設に入れたり、介護人を頼む方法もあるんですが、長期的に頼むには経済的に余裕がありませんでした。

 そんなわけで講義を受ける時間も勉強をする時間もなく、悩んだ末カンニングしたそうです。先生はそう言った事情を確認してから、先生の研究室で彼だけ再試験を受けさせたんです。その日は土曜日で助手もいないから、先生が朝から4時間みっちり付き合ってくれたと言っていました。しかも、その場で採点してくれて、できなかった問題を夜まで講義してくれたそうです。

 問題を作り直すだけでも大変なのに、たった一人のためにですよ。おまけに昼と晩飯までご馳走してくれたと感激してました。それを聞いて僕らは益々先生を尊敬するようになりましたし、彼はもちろん先生の信奉者になりました。 

 このように先生は堅物一辺倒のわからず屋でもありません。

 亜紀さんとこのペンション改造計画だって、先生でなければ幾ら経験を積ませるためだからって、未熟な学生に全て任せようなんてことはしません。

 僕ら亜紀さんとこには感謝しているんです。まだ、終わったわけじゃないし、わずか2か月程度の経験ですけど、どれだけ自信が付いたか知れません。亜紀さんのお陰です」

 話を締め括った加藤に、彼もまた真一を敬慕していることが亜紀にも伝わった。

 「そのように言って下さって嬉しいわ。義父もそれを聞けば喜びます。じゃ、加藤さんから見て先生の悪いところは何かしら?」

 亜紀に訊かれて、加藤はうーんとしばらく考えていて、そうだなあ、これくらいかなあと呟いた。

 「最大の欠点は男女の機微に疎いところかな。先生のことを好きで、色んな女性が研究室を訪ねて来たけど先生はそれに少しも気付いていません。先生の言い方を真似れば、感性が合わない女性には全く関心を示しません。だからどんな人が来ても接する態度はいつも同じです。ところが・・・」

 加藤は思わせぶりな態度で言葉を切った。

 「一人の女性が先生を訪ねて来た時だけは違ってました」

 それは誰かと訊くのが憚られつつ亜紀はドキドキしてきた。そんな様子を見て、加藤はにやにやしながら言った。

 「それは亜紀さんですよ」

 加藤に告げられて内心嬉しいと思ったが、平静を装いつつ反意的なことを言った。

 「そうかしら。だって、いつ伺っても余所よそしい態度しか取ってくれませんわ」

 「でしょう」

 加藤は我が意を得たとばかりにたりと笑った。

 「だからですよ。関心のない人には普通に接するんだけど、相手に好意を持っているときには、反対の態度を取るんです。精神年齢が低いと言うか、初心と言うか、恋愛無知と言うか、そんなところがあるんです。

 女性にはちょっと理解できないでしょうけど、僕にも経験があります。

 小学生の時、好きな女の子がいて、本当は仲良くしたいのに、それを人に知られるのが照れくさくて反対に意地悪をしてしまうんです。だから、亜紀さんが訪ねて来ても素っ気ない態度を取ったのも多分そうだと思います。

 ほら、亜紀さんが初めて研究室に来られた時、先生はすぐに部屋を出たでしょう。これまでだと慇懃無礼と言うか、僕らに勘ぐられるのが嫌なのか、一度もそんな態度をとったことはないんです。意外と先生はわかりやすいから僕らにはピンと来ました。どうです、思い当るところがあるでしょう?」

 亜紀の顔を窺いつつ冷めたコーヒーを飲み干した。

 言われてみれば、確かにそうだと思う。義父の要請の返答にしたところで何も学外に出るまでのことでもない。拒絶することは研究室にいてもできたはずだ。

 「ええ、まあ。でも私は一度結婚しているのよ」

 そのことを少しも卑下していないにも関わらず弁解した。加藤を通して彼がそのことをどのように思っているか訊いてみたかったのだ。果たして加藤は明快に答えた。

 「そんなこと気にする人だと思います?変な例えで恐縮ですが、亜紀さんと亡くなったご主人の間に子供がいたとしても、本当に愛する人なら先生にとってそれは瑣末なことだと思います。それが先生の愛すると言うことなんです。

 先生は亜紀さんのことを特別な人だと思っています。少なくても感性が自分と合っていると思っていることは間違いありません」

 何を根拠にそう思うのかきっぱりと断言した。

 「先生の方から亜紀さんにそれらしいことを何か言いませんか?」

 「いいえ」

 「だったら亜紀さん、先生を相手にすると大変ですよ」

 その意味が亜紀には解しかねた。

 「どう言うことかしら?」

 「さっきも言ったけど、先生は納得するまで熟慮を重ねて行動する質ですから、今のままだといつまで待っていても進展しないかも知れませんよ。亜紀さんの方から積極的な態度をとって振り向かせれば別でしょうけど」

 加藤は思わせぶりなことを言った。亜紀は考え込んでしまった。

 「僕は亜紀さんの味方です。僕にできることがあれば、遠慮なく言って下さい、応援します」

 呼び出して申し訳なかったが、短時間の話し合いで彼が真一のことをよく観察していると思った。それが彼をして信頼がおけると言わせたのだろう。亜紀も加藤なら信頼を置いても良いと思った。

 それからしばらく雑談をして加藤と別れた。

 亜紀にはこれからどうすべきか思案はつかなかったが、加藤と話ができてよかったと思った。

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