第三章 再会
(一)
信州大学の夏休みは年度ごとかつ学部ごとに異なっていて、今年度の工学部の夏休みは8月5日から9月30日までだ。
成瀬真一は信州大学の講師に任官すると、時間があれば学生時代には果たせなかったアルプスの縦走を始め、それにのめり込んだ。研究者とは言え常任の講師である以上、勝手気儘に休みが取れる身分ではなかったが、上司の批判をかわすための周到な準備を怠らなかった。
穂高立山連峰、後立山連峰を擁する北アルプスの主要な山を走破し終えると八ヶ岳連峰に登り始めた。その折、蓼科山荘の主人と懇意になったのをきっかけに夏休みの期間中そこでの山小屋暮らしを始め、無報酬の代わりに3食昼寝付き、行動自由との条件で小屋の仕事を手伝った。
自由気儘な身とは言え、夜の明け切らぬうちからの弁当や朝食の用意、登山客の送り出し、布団の日光干し、次々とやって来る登山者の対応に、宿泊者の部屋の案内、夕食の準備など他のアルバイト達と変わらぬ仕事に追われた。ときには登山道の点検や整備に就くこともあった。都合がつけば登山客と一緒にご来光を拝み、日中は緑なす山々を心ゆくまで眺め、高山に咲く花々を愛で、登山客の少ない時間帯には布団を干した屋根の上で寝転ろび建築のデザインや研究論文の構想を練ったりした。夕食の片付けが終わると消灯までの時間、登山客と山談議に花を咲かせ、満天の星を眺めて、あとは何も考えずにぐっすり眠る。荒れた天気で登山客の少ない日は持参したペーパーバックを読んだり、ノートパソコンに向かい合うといった誰にも束縛されない生活を謳歌した。彼にとって、このような至福の時間は得難いものだった。
今年の夏もそこで厄介になっていたのだが、伯父の家で営われる祖母の13回忌の法事に出席するため、当初の予定より早く下山した。そうしたのは、家族連れの登山客から原村のとあるペンションに隣接したところに大きな古民家があったとの話を小耳に挟んだからだ。古民家は彼の研究課題の一つで、帰郷する前にそこに立ち寄ろうと思い立ったに過ぎなかった。
ところが、古いお屋敷の見学はペンション宿泊最後の日にしたのが仇になり、逃げ帰るような次第になって目的を果たせずに終わってしまった。悔いは残るがあれでよかったのだと割り切るより仕方なかった。
祖母の法要の後、山へは戻らず家で過ごしたが、絶えず頭の中にあったのはペンションで会った女とその夫のことだった。
女を初めて見たのはペンションの娯楽室だった。ジュースを持って来た時も、傍に座って子供達との話に聞き耳を立てていた時も、自分が厨房で皿洗いを手伝っていた時も、女のことをここの娘だろうくらいの関心でしかなかった。
あのことがなければ、彼にとって女は路傍に咲く花の一つに過ぎなかった。ところが、声が似ていると言われ、顔を触られ、生年月日まで女の夫と同じだと言われてからは、無関心ではいられなくなった。その翌日、女の身の上話を聴かされるに及ぶと、今までの平穏が乱されるような予感がして女との関わりを持つことを恐れた。ここにいてはならぬ、女との縁を絶たねばならぬとの思いで取った行動があれだった。
それにしてもと思う。顔形、声が似ていて身長もほぼ同じだと言う。しかも生年月日まで。うがった見方をすれば名前まで因縁を感じさせる。彼の中ではあの時から一つの結論に達していた。
現実問題、これほどの共通性のある人間がそうそういるはずがない。彼と自分は双生児の兄弟と考える方が自然だろう。あの女もそのように思っているに違いない。だが、それと断じるには自分の家と加辺家との接点を考えなければなるまい。ところが自分の過去を振り返っても、そのような事象に思い当たるものがなかった。
知る限り両親が信州へ行ったとの事実はない。近年はともかく、当時それをするだけの経済的な余裕などなく、近年まで親子揃っての旅行さえしたことがなかった。そのような生活に多少なりとも余裕が持てるようになったのは、公務員の待遇が改善された頃からだ。
他方、見知らぬ誰かが我が家を訪れたとの記憶もない。自分の知らない間にあの家の誰かが訪ねてきていたとしたならどうか。もしそうなら、信州大学を受験すると告げた時に、両親に何らかの反応があって然るべきだろう。東大ではないことへの失望感はあっただろうが、積極的な異論はなかった。間接的にだが、その事実をもってしても加辺家とは無関係であることは明白だ。それにもし、加辺の人達が双子の存在を知っていたとしたなら、髭を落とした自分を見てあれほど驚くはずがない。加えて、今日に至るまで親戚からも近所の人達にからも、それらしいことを言われたことはない。両親が箝口令を敷いたとすればそれまでだが、それほどまでして隠し通す必要性があるとは思えない。母が双子を出産して、二人同時に育てることができず、一人を養子に出したとも考えられるが、父母の性格からして見ず知らずの他人のところへ出すとは考えにくい。それは加辺でも同様だろう。
どのように考えても、加辺と交誼があったとの結論には達し得なかった。
二人がもし双子の兄弟であるならば考えられることはただ一つ、両家双方が双子の事実を知らないことだ。もしそうなら共に実子ではないとの結論になる。これが一番妥当性のある答えだ。
次に彼は自分と両親との相似性に考えを巡らせた。
妹の玻瑠香の二重の大きな目とやや大きめの口は母親似だ。すらりとした鼻と耳の形は父から受け継いでいて、両親の血を引いていることは誰の目から見ても明白だ。一方、自分はどうか。客観的にみて自分は両親とも妹とも似ているところはないように思う。こうして親子関係に疑問を持つと確かにおかしいと思うことがある。
自分が生まれて程なく今の家に移ったと聞かされていた。普通ならば住んでいた家が今はどうなっているのか関心を持ち、たまには見に行きたいと思うのが道理だが、両親は一度としてそうはしなかった。そこは新婚生活を送った思い出深い場所なのにだ。遠方なら知らず、直ぐにでも行ける所なのにどうしてと不思議に思ったものだ。それもこのことに関係があるのかも知れない。
親子関係は良くも悪くもない。どこにでもある普通の家庭と同じだろう。父に殴られたのはあの時の一回だけで、叱られたことは殆どない。妹とは彼女の誕生からずっと面倒を見てきたせいか兄妹仲もいい。良すぎて高校生にもなっても兄離れがしないのはどうかと思う程だ。
あの女との出会いがなければ、自分の親に対して疑問を抱くことはなかっただろう。
ことの真偽を確かめることは簡単だ。DNA鑑定をすれば歴然だが、そうまでしなくても原村でのことを話し、両親に問えば正直に答えてくれるだろう。それは実直な父の性格からわかる。
感受性の強い中学や高校時代ならともかく、この年にもなって父母からどのようなことを聴かされてもどうにかなることはないとの自負がある。祖母の法事に帰省したときに問うても良かったのだが、そうはしなかった。妹のことを思うと、それを留まらせた。あのことを除けば、今まで何の問題もなく円満に過ごしてきたものを自らかき乱すことはない。それにペンションでのことがなければ気にも留めなかったはずだ。こんなことで思い悩むのは馬鹿馬鹿しい。このままそっとしておくことが最善の方法だと結論づけた。
それでも彼にとって女の夫の存在は無視できるものではなかった。
聴いた限りでは、彼の彼女に対する行為は自分には到底真似のできないことばかりだった。情けないことに、そのような彼を自分の分身であると認めることは潔よしとはできなかった。
そんな屈折した思いを無理矢理封じて、目が見えない世界とはどんなものだろうかと思いを巡らせた。それは暗黒なのか?そもそも目を閉じた時のように視界は真っ暗なのだろうか?それとも少しは光を感じるのだろうか?いくら想像を働かせたところで健常者にはわからぬことだった。
思い立って机の抽斗からアイマスクを取り出しかけてみた。LEDランプで照らされた部屋は一瞬にして闇となった。
試みに冷蔵庫からビールを出してみようと両腕を伸ばして2、3歩歩いてみた。たちまちテーブルの角に脛を当てて痛みが走った。おっとと右に足を向けると椅子に
このような生活をあの女は何年もの間余儀なくされてきたのだ。これまで一度も自分のこととして考えたことはなかった。女のそれまでの労苦を思うとき、おかれた状況に同情を覚え、同時にそれを乗り越えてきた女の強さに畏敬の念さえ覚えた。
国や自治体からバリアフリーのガイドラインが出されていて仕事柄その内容は彼も熟知している。だが、如何に社会インフラがそれに沿ってなされていようと、社会福祉が充実していようとも、たった数分の体験だけで障害者の大変さを身を持って知った。若い女性だけに健常者には及びもつかない危険あるいは嫌な目に遭ってきたに違いない。
想像でしかないが、先天的なものなら女の労苦も左程のことではなかったかも知れない。ところが一番大事な少女期を暗闇の世界で住むことになったのだ。長年耐えてきた女の絶望と労苦を思う時、光を取り戻したときの亡夫への感謝の気持ちはいかほどだっただろう。まして愛した人の命と引き換えにだ。女の彼への想いが少し理解できたような気がした。
だが、そう思うことすら不遜なことなのかもしれない。まして、ハンディキャップを持つ人の事を考えなければならない立場の教育者であり、研究者でありながら、今までその人達のことを真剣に考えたことがなかった。女と出会い、話を聴くことがなければ、考えることすらしなかっただろう。彼は激しい自己嫌悪を覚えた。
それにしても、女の話は驚きの連続だった。盲目だった事実も驚きだったが、名目上の夫とは言え、夫のいない家に嫁ぐ人など今の時代にいようか。感謝と自責の念があったとしても、簡単に行動に移せるものではない。それほど女の中に純粋な気持ちと実行力があったのだろう。
そこまで思いを巡らせると、次は女の亡き夫のことを考えた。
彼はどれほどの寛容と覚悟を持って女と接していたのだろう。女の容姿を見て一目で好きになるのは頷ける。初めのうちは同情もあったのかも知れない。付き合って女の人となりを知って一層好意を持ったのだろう。それも理解できる。しかし、それだけでハンディキャップのある女を愛するようになるものだろうか。いつの日か視力を取り戻すと知ったとしてもだ。彼には信じられないことだった。
実質的な夫婦生活はなかったようだが、本気で彼女との生活を考えていたとしたなら、女が言うように日常の掃除や炊事、洗濯さえままならない妻を彼が支えていくことになる。それに彼の負担を分け合うことになる親の理解が必要だ。子の出産もあるだろう。そうなったときの育児はどうするのか。愛情だけで夫婦生活が営めるものだろうかと懐疑的に思った。
翻って自分が彼と同じ立場に立ったとしてどうか。その答えは明確に否だった。彼にはそのような覚悟も自信も持ち得なかった。聖人君子でないことは彼自身がよく知っている。そのように自覚しただけで、彼は会ったこともない女の夫に強い劣等感を抱いた。いや、彼が自分の分身と思わなければ、そのような気持ちにならなかったに違いない。
そんな不快な思いを断ち切るようにビール缶のプルトップを開けて一気に飲み干した。それが彼の思考終了のいつもの合図だった。
翌朝目が覚めても女のことが脳裏から離れなかった。それこそ彼が恐れていたことだった。
彼は中学生以来、合気道に没頭し、高校3年になるまで恋愛らしきことをしたことがなかった。それも不幸な出来事があって断ち切られた。それからは恋愛ごとを一切しなかった。それは女性と付き合う機会がなかったということではない。むしろ、彼さえその気になればいつでも手の届くところにあった。しかし、彼はその手を伸ばそうとはしなかった。恋愛は楽しいことではなく苦しいことだと知ってそれを封印したからだ。
結婚願望はあの時に喪失した。両親には申し訳なく思うが、一生独身でも構わないと独り身の生活を満喫していた。それが思いがけない形であの女の話を聴くに至り、彼の心にさざ波が立った。しかも、女が愛したのは自分の分身に違いないと確信した時、その女と己の分身を強く意識してしまった。こんな心理状態で彼女と会ってはならない、封印を解いてはならないと自分を戒めた。だから、あの時取った行動はあれでよかったのだと自分を褒めたい気持ちだった。
真一は後期初日の講義を終えて、長野キャンパス内にある自分の研究室にいた。
彼の部屋に入り浸っている学生のうち、彼の秘書を自任している女子学生にコーヒーを淹れさせた。カフェで長年バイトを経験したことがあると自慢するだけあって、彼女の淹れるコーヒーが一番うまい。それを飲みながら、机の抽斗から封筒を取り出した。それは夏季休暇の留守中、彼の研究室宛てに送られてきた盛蔵からの手紙だった。達筆とは言えないが、彼の実直さが偲ばれるそれを開くのはこれで2度目だった。
〈謹啓 秋晴の候、健やかにお過ごしのことと拝察申し上げます。
過日は急用がおありとかで、お別れの挨拶もできず残念かつ失礼を致しました。
嫁の話では、ご研究が忙しく時間がとれないのだとか。小生最高学府を出ていないのでよくわかりませんが、毎日多忙でお過ごしのことと推察いたします。ですが、それを承知の上で再度お願いしたいのです。
ご相談した改造計画は今すぐにということではありません。先生のご都合がよい時間に相談に乗っていただくだけで結構なのです。お考えを改めていただくわけには参りませんでしょうか。
先生が去られるおり、食堂のテーブルの上に残されましたスケッチを拝見しました。色鉛筆で彩色までしてあって、素人の私どもでさえ先生の素晴らしい構想に感服致しました。そしてこれが実現できれば申し分ないと感じ入りました。それと同時に、いつの間にあのような精緻な絵を描かれていたのかと改めて畏敬の念を深めました。
お手紙では、お知り合いの優秀な建築家をご紹介していただけるとか。ですが、私どもは外でもない先生にお願いしたいのです。本来ならば、そちらにお伺いしてお願いすべきものと重々承知しておりますが、こちらの事情もご賢察いただければと存じます。朗報を心よりお持ち申し上げております。
秋になったとはいえ、まだ暑さ厳しき日々が続いております。お身体ご自愛のうえ、ご研究に励まされますよう、心より念じております。敬白
追伸 本件とは、関係なくいつでもお越しください。家族一同歓迎申し上げます。加辺盛蔵〉
失礼したのはこちらの方なのに、逃げるかのように立ち去ったことには一言も触れず、簡潔で彼の性格が忍ばれるような手紙だった。
それにしても絵を残したのは不覚だったと後悔したが、後の祭りだった。
真一は手紙を丁寧に畳んで封筒に戻すと、両手を後頭部に当てて椅子の背もたれに寄りかかった。しばらく瞑目して、やはり返信はしないことにした。このまま諦めてくれるだろうなんて甘い考えは持たないが、こちらから行動を起こすことはすまいと決めた。
そんな様子の真一を秘書役を自任している女子学生が、訝しげに見ていた。が、彼の思案深げな表情から、少なくてもラブレターの類でなさそうだと判断すると、顔を元に戻して卒業研究論文作成に戻った。
亜紀もまた修一に酷似した男の出現で亡夫の出生に疑惑を抱いた。ところが、あれほど動揺した稲子をはじめ誰ひとり彼女の前で真一のことを口にする者はなかった。誰もが同じ疑問を抱いているはずなのに、それに触れないことにかえって不自然さを感じた。それでも、彼女の方からそれを
腹に逸物持つ者同士、あの日以来、一緒に食事をしていても口数が少なくなった。亜紀も家事をしているとき、ふと気が付くといつの間にか彼のことを考えていることが多くなった。
無髭になった彼を見たときの衝撃は忘れることが出来なかった。あのとき辛うじて声を上げなかったのは、生身の修一を自分の目で見ておらず、咄嗟には彼と認識できなかったのだ。でなければ義母と同じように取り乱したに違いなかった。
あのとき彼が散歩に行くと告げて出て行った後、無意識のうちに彼を追っていた。彼と立ち話をしているうちに、亡夫とのことが思い出され急に切なくなった。そして、話を聞いて欲しいと自分でも驚くことを口にしていた。
自分の過去のことを、修一以外の誰かに赤裸々に語ったことは一度もなかった。そのときの自分を突き動かした心境は今でもわからない。亡夫とそっくりな彼に自分のことを聞いて欲しいとの思いが、あの行動を取らせたとしか思えなかった。
あの時、彼が言ったこともはっきりと覚えている。
『ご主人の愛情、ご主人への愛情は、そろそろ想い出にしたほうがいい。今の気持ちをそのまま引きずるのはよくない。もうこの辺で断ち切る勇気を持つ必要があると思う。それには勇気を持って新しい恋を見つけることだと思う。誰かを好きになって、恋をして、愛して、それが成就するかどうかわからないが、亜紀さんにはそれが絶対必要だ』
そんなことは人に言われなくてもわかっている。それができずにいるから悩んでいるとは、行きずりの他人には言えなかった。
彼が現れたのは単なる偶然だろうが、彼女にはそうとは思えなかった。あの日に見た夢のことがまざまざと蘇った。あのとき亡夫はこう言ったのだ。
『今日までよく頑張ってくれたね。君を解放するときが来たようだ。幸せになるんだよ』
その夢は彼が現れたことを暗示しているようにしか思えなかった。ところが、その繋がりも彼が去ったことで失った。
それにしても、顔形ばかりでなく声がそっくりで、まして誕生日までが同じとなると他人の空似とはどうしても思えなかった。彼自身が認めたように、二人は一卵性双生児の兄弟だと断言してもいいと思う。それが事実としたら、二人はどうして別々に育てられたのだろう。義母の驚きようを見る限り、彼の存在を以前から知っていたとは思えない。そうでなければ日頃冷静な義母があのように取り乱すことはあり得ない。それに彼がとった行動も不自然だ。どうして鳥が飛び立つように去ったのだろう。乗り気だと思えたペンション改造計画も断ってだ。私達との関わりを避けたとしか思えない。それがどうしても彼女には解せない謎だった。もしかして、私達の知らない事実を知っているのだろうか 。彼と接したのは短い時間だったが、彼の態度を思い返すと加辺と関係があるとは思えなかった。ならばどうしてあのような行動を取ったのだろう。仮に、彼も加辺の人達も知らない事実の何かがあったとしても、知らないはずの彼が取った行動は不自然だ。
幾つかの可能性は考えられるが、それは全て想像に過ぎない。いくら考えても堂々巡りの問題だった。
そんなことを考えているうちに、彼女は修一のことは断片的にしか知らないことに思い当った。ここへ来てもう4年も経つというのに。
これからどうなるのかわからないが、また同じ生活に戻るだけだと自分に言い聞かせた。無情感が彼女を襲い切なくなった。
それを解消しようとして彼女が取った行動は真一とは異なり積極的なものだった。だが、その時は自分が抱いた疑念を明らかにしてどうこうしようとの考えは彼女にはなかった。ただ、ほとんど何も知らない亡夫の過去の一端でも知りたいと思った。それに彼が現れたのは偶然ではなく、何かしらのきっかけを与えてくれたような気がしたのだ。
彼女は買い物に出たついでに村役場で戸籍謄本をとった。そこには、修一と亜紀の関係が記されていて、抹消された修一の続柄欄には盛蔵と稲子との長男と記載されていた。ただそれだけだった。それでは修一を知ったことにはならなかった。逆に、修一のことをほとんど何も知らないという事実を改めて認識しただけだった。
確か、彼の戸籍謄本にも実子と記載されていたと言っていた。やはり何の関係もないのか。それでも彼女の疑念が解消した訳ではなく、胸の奥にもやもやしたものが残った。
修一と付き合っていた時、彼がどのような子供時代を過ごし、どのような学生生活を送って来たのか。自分のことで精一杯で相手のことを思いやる余裕すらなかった。一言彼のことについて知りたいと言えば、彼が進んで語ってくれたに違いなかった。でも、それすらしなかった。本当に私は馬鹿だ。一方的な修一の献身的な愛に頼り切っていたことを思い知らされた。思えば今もそうだ。
亜紀は夕食の支度をしながら、義祖父が戻って来るのを待った。彼なら孫のことを何の装飾もなく話してくれるに違いないと思ったからだ。
待ち人は4時過ぎに戻って来た。
「亜紀さん、いるかい」
首筋に巻いていたタオルで汗を拭きながら、板の間から声を掛けた。
「はーい、ただ今」
亜紀はエプロンのポケットから出したハンカチで手を拭いながら台所から出てきた。
「お帰りなさい、暑かったでしょう。麦茶でも淹れましょうか」
「そうじゃな、一杯もらおうか。わしの部屋に持ってきてくれたら有難いが」
「わかりました。頂き物のお菓子がありますから一緒にお持ちします」
「それは有難いな。部屋で待っているよ」
亜紀は自分の分も一緒にお盆の上に載せ耕造の部屋に入った。
亜紀と耕造は茶を飲み菓子を食べながらいつもの取り留めのない世間話をした。そんな話題も尽きると、耕造は数日前のことを持ち出した。それは真一のことだった。亜紀は彼の孫のことを聞くつもりだったので渡りに舟だった。
「先日、稲子さんが寝込んだことがあったな。まあ、あの人が寝込むことは珍しいので、盛蔵にどうしたと訊いたら、なんでも亡くなった孫と瓜二つの男が泊まったと言っていた。最初のうちは顔一面の髭で気付かなかったそうじゃが、髭を剃った彼を見て稲子が卒倒したと聞いた。亜紀さんも見て、そう思ったかい?」
「はい、そっくりでした」
言葉少なに答えた。義母が卒倒したとは大袈裟だが、それに近い状況だったので黙っていた。
「まあ、世に中には似ている者が3人いるそうじゃから、彼もその一人なんじゃろう」
亜紀のことを慮ってか、彼と同じことを言った。
「それで、お爺さんにお聞きしたいことがあります」
「ほい、何じゃな」
彼女が訊きたいことがわかっているのか、張り詰めた表情の亜紀をほぐす様かのようにゆったりとした句調で応えた。
「修一さんのこと何も知らないのです。それは、どこそこの学校を卒業して、どの会社に勤めていたかくらいは承知しています。けれど、それ以外は何も知らないのです。いえ、彼さえいればそんなことはどうでも良くて、亡くなってからも自分のことにかまけて知ろうともしませんでした。
それが、あの人が現れて、ひょっとしたら修一さんと何らかの関係があるのではと疑問を持ったのです。それで、戸籍謄本を取り寄せてみたけれど、何もわかりませんでした。もし、何かお爺さんが知っていることがあれば教えて欲しいのです」
少し、前のめりになって言った。そんな彼女に耕造はすぐには返事をせずに、亜紀にもう一杯とお茶を所望した。彼女が麦茶を淹れている間に話すことを
「亜紀さんは彼と修一の間に何かあるんじゃないかと疑っている様だが、それはないよ」
耕造はあっさりと否定した。
「その男の出身は和歌山だそうじゃないか。交友関係はそれなりに広いが、わしの知り合いにも盛蔵の知り合いにも親戚関係だって和歌山県の者はおらん。それに、嫁の稲子は一人しか子供を産んでおらん。だから関係がないと思う。他人の空似じゃよ」
はははと笑い飛ばしたが、彼女はそれに同調する気になれなかった。が、反論する気もなかった。耕造にも言ってないが、生年月日まで同じなど、そうそうあるはずがないと思っている。
「それではお爺さん、修一さんのことを話していただけませんか」
「そうか、修一のことは盛蔵か稲子さんから聴いていないのか。そうか、あれらも亜紀さんが何も言い出さないから黙っていたんじゃな。まあ、わしの口から話した方がいいかも知れんな」
そう言いながら、お茶を一口飲んでから話し始めた。
「あの子が産まれたのは夏の暑い時期じゃった。未熟児とまでは言わんが、産まれた時は他の子よりも小さかった。そのせいでもあるまいが、小さい頃ころから病弱でな、季節替わりなると決まって風邪をひいていた。大病こそ患ったことはないが、よく学校を休んだもんじゃ。いや、一度だけ入院したことがあった。小学校の高学年の時じゃったと思うが、風邪を拗らせて、それが肺炎になって病院の厄介になったことがある。
その時、同室に同じ年頃の女の子が小児白血病で長期入院していた。本来はその病棟に入院することはないらしいんじゃが、たまたま小児用の病室の空きがなくてそこに入ることになった。今にして思うと、それが孫の人生観を変えたんじゃろうと思う。
詳しいことまで聞いていないが、その子は小学校3年生の時に発症してからずっと入院していると言うことじゃった。今では骨髄移植かなんかで根治できるらしいが、その頃は不治の病として恐れられていた。
その時はまだ症状も軽くて話もできたし、少しくらいなら歩くこともできた。だから、同じ年頃のと言うこともあって、すぐに打ち解けて話し相手になった。話と言っても、お互い経験の少ない子供じゃから、友達のことや家のことじゃった。とりわけ、その子は森やペンションのことに関心を持った。。
え、どうしてよく知っているんじゃと?いやなに、盛蔵と稲子はペンションのことで忙しかったから、ほとんどわしが付き添ったり見舞いに行ったりしたからのう。そんなわけでその子にせがまれて、森とペンションの写真を何枚か見せた。その子はそれを見て、行きたいとせがんで親を困らせた。
孫は1月ほどで病院を出たんじゃが、その子は退院の見通しは立たなかった。しかも、その子はそのわずかな間に病状が悪化して病床から立てなくなった。両親には医者から余命も宣告された。それを伝え聞いたわしは、その子の両親と担当主治医と相談して、その子を両親と一緒に家に泊めることにしたんじゃ。少しは元気になるんじゃないかと思ってな。それを聞いて、その子はとても喜んだ。
その日と次の午前まで、孫の修一とわしが車椅子でペンションと森を案内した。猫を一匹飼っていたから、猫を抱いた写真も一緒に撮った。今いる猫とは違うがな。時間が来て帰る時は、その子もその子の両親も泣いて名残を惜しんだ。稲子も頑張るのよと言って励ましていた。それから、孫は毎日のようにその子の所へお見舞いに行った。亜紀さんの前じゃが、あれが孫の初恋だったのかもしれん。
半月くらいした頃じゃったと思うが、会えなかったと言って、しょげた様子で孫は病院から帰ってきた。訳を聞くと面会謝絶とのことじゃった。それから10日ほどして、その子が亡くなった。
49日が過ぎてようやく落ち着いたからと、その子の両親が訪ねて来てそのことを知った。
娘はここへ来て喜んでいた。いい思い出を残して娘を黄泉の国へ送ることができて本当に良かったと両親は礼を言ってくれた。それを聞いた修一は大泣きに泣いた。それから暫くは塞ぎがちになった。かつての亜紀さんのようにな。
中学生になるとバスケットをやるようになった。同級生の中でも背が高くなっていたからな。だが、それが理由ではなく、女の子の死がきっかけだったとわしは思っている。現に、それからは病気一つしなくなった。孫が人一倍博愛精神が強くなったのもその経験があったからだと思う。ボランティア活動も積極的に行って東日本大震災の時や洪水で被害にあった地域へも行っていた。
あ、いやいや、亜紀さんのこととそれとは違う。もちろん、障害者への思い遣りもあったと思うが、そればかりじゃない。修一は亜紀さんがご両親と一緒に初めてここに来るとき、わしだけにそっと打ち明けてくれたんじゃ。今度来る亜紀さんを嫁に迎えたいと。そしていずれここに住むとな。
あまり偏見を持たないわしでも障害者と聞いて正直戸惑った。親戚がやたら多い家に来ても苦労するんじゃないかとな。それに、わしはこのとおりだし、盛蔵も稲子もペンションのことで手一杯じゃから、嫁を迎えても孫一人が苦労するんじゃないかとな。だが、亜紀さんを見て、暫く観察させて貰った。そして孫が好きになるのも無理はないと思った。もし、盛蔵や稲子が反対してもわしだけは孫の味方になろうと決めた。その時はまだ亜紀さんの眼の病気が治るものだとは知らんかった。孫も偏見を持たずに生身の亜紀さんを知ってもらおうと黙っていたんじゃろうな。実際亜紀さんは孫が見染めた通りの人じゃった。
ま、余計な話をしてしまったが、高校時代もバスケットボールにのめり込んだ日々を送った。交友関係は・・・そうじゃな、まあ多くもなく少なくもなく普通じゃったと思う。稲子に似たのか勉強の方は机に向かわずとも常に学年上位に入っていたから、試験前になると親しい同級生が来ておった。ほらここはこの通り静かじゃからな。それに盛蔵も稲子もペンションにかかりきりで滅多に顔を出さないのもよかったんじゃろう。そんなわけで高校大学の入試は苦労せずに済んだようじゃ。陽菜子や義晴の勉強もよくみてやっていたから文蔵も感謝しておった。
え、休みの時は何をしていたかじゃと?休みの時は友達のところへ行ったりここへ呼んだりしていたな。中学高校の夏休みは山に登って、冬はスキーをしていた。
大学は知っての通り、東京工業大学じゃった。どこぞの医学部にでも入るんじゃないかと思っていたんじゃが、そうではなかった。理由を訊くと、医学部のことを本気で考えたが、早く社会貢献がしたいからとのことじゃった。勉学費用はともかく一人前の医者なるまでには時間がかかるからな。それに医局での師弟関係が一生続くのも嫌だと言ってたな。
後でわしらも知ってビックリしたんじゃが、在学中に光学医療器具関係の特許を取得して、それが縁であの会社に入社した。そして、亜紀さんと川越で知り合って現在に至るわけじゃ。
まあ、大雑把な話じゃが、そんなところかな。まあ、頭も良く顔だってそう悪くないのに、亜紀さんに出会うまでは浮いた話は聞いたことがなかった。それは本当じゃよ」
最後の話は余分だったが、修一の人となりは理解できた。だが、今聞いた話の中にはヒントとなるものが得られなかった。稲子が修一を産んだとの話だが、疑う理由がないのに亜紀の中では得心がいっていなかった。やはりこれは、老獪な義祖父に訊くより単刀直入に義父に尋ねるよりほかにないとの結論に達した。義母でもいいが、うまく言いくるめられそうな気がした。
翌日、亜紀は買い物から戻ると、ペンションの厨房で刈谷と雑談していた盛蔵に、少しお話がありますと告げて先に娯楽室に入った。
盛蔵と刈谷は彼女の改まった態度と強張った表情に顔を見合わせた。彼女は一度も義父に対してそのような態度をとったことはなかったからだ。刈谷は肩をそびやかして頭を傾けた。
盛蔵は妻が床に臥せった日以来、亜紀が黙りがちになった理由を感じ取っていた。いずれ修一の出生について訊いてくるとも予感していた。その時はありもまま正直に話そうと思っていた。ところが、彼女は一向にその様子を見せなかった。彼女の態度を見て、多分そのことだろうと見当をつけて彼女の後に従った。
中に入ると二人は差向いで床に座った。
「お義父さんにお尋ねしたいことがあります」
「ほう、何かな。改まって亜紀ちゃんから切り出されると怖いな」
亜紀の緊張を解すように冗談ぽく応えた。
「修一さんに兄か弟がいたのではありませんか?」
亜紀は瞬きもせず義父の目をしっかりと捉えて単刀直入に訊いた。
「どうしてそう思う?」
やはりそのことかと心の中で納得しながら静かに問い返した。
「成瀬さんと修一さんとの共通点があまりにも多すぎるからです。彼の声、顔の骨格それに身長があまりにも修一さんと酷似しています。顔は私よりお義父さんの方がよくお分かりでしょう。写真で見る限り、他人の空似とは言いきれないほどよく似ています。それに生年月日まで同じとなれば、誰でも二人に何かあると思うのが自然ではないでしょうか」
盛蔵は口をきつく結んだ亜紀の目をじっと見つめて答えた。
「あの人も同じ生れだったのか」
盛蔵はふっと溜息をつくと言った。
「息子に兄弟はいない。少なくても私らは知らない。知っていたら、家内があんなに取り乱すことはないだろう」
盛蔵の目はそうじゃないかと亜紀に訊いていた。だが、その一言で亜紀は修一が彼らの実子ではないことを悟った。それでも確かめずにはいられなかった。
「と言うことは、修一さんはお義父さんの実子ではないのですね?」
やや詰問調の亜紀の問いにも、こうなるだろうと予期していたのか動揺も見せず、盛蔵は彼女の瞳を見てしばらく黙っていたが、ふと目を逸らすと口を開いた。
「亜紀ちゃんに隠すつもりは微塵もなかったんだ。ただ話す必要はなかったし、修一にも言っていないことだから、できれば話さずに済ませたかった・・・。亜紀ちゃんの言うとおり修一は私らの実子ではない。さるところから養子として引き取った子なんだ」
盛蔵はとつとつと語った。
「私と稲子の間に子供ができなかった。病院で診てもらったところ、私に原因があって子供は難しいということだった。今だったら、不妊治療だの人工授精などの方法があるのだろうが、その頃はそんな医療技術は確立していなかった。だが、何としても子供が欲しかった。もちろん子供が可愛いこともあったが、私らにはもっと切実な問題があった。
亜紀ちゃんも知っての通り私には文蔵という弟がいる。私らに跡継ぎがいなければ、私が死んだ後、弟にも財産が渡ることになる。財産が惜しいという訳ではないが、文蔵の日頃の態度からして先祖が大事にしてきた土地を手放すことに躊躇しないだろう。私と爺さんはそれを危惧した。現金で渡せるだけのものがあればいいが、当時それがなかったからね。それで爺さんと相談して養子をとることにした。といって、近くの児童養護施設へ行くのは
そのうちに遠い親戚の人が長崎の教会で身寄りのない子を預かっているとの話を聴きつけた。そして、そこの牧師さんと会ってみたらと勧めてくれたんだ。すぐに稲子とそこへ行ったよ。なるほど生まれて間がない可愛い赤ちゃんがいた。
牧師さんにその子を預かった経緯を尋ねても教えてくれなかった。想像するしかなかったのだが、経済的に育てることができなかったとか、未成年者が産んだ子だとか、悪く考えるなら犯罪者の子だとかも考えられたが、無邪気に笑う可愛い顔を見ているとそんなことはどうでもよくなった。
その後、いろんな手続きをして我が家の長男として迎え入れた。特別養子縁組の手続きをしたから戸籍では実子となっているんだよ。
幸いなことに修一はここを気に入ってくれた。東京に就職が決まった時も最終的には必ずここに戻ってくると約束してくれた。約束は守る子だったから安心して送り出すことができた。そして、川越で亜紀ちゃんと知り合った。
これが修一の出生の秘密だよ。でも、私らが教会を訪れたときは、赤ん坊は一人しかいなかった。もし、亜紀ちゃんが疑っているように双子だったら、その子も一緒に引き取っていた」
「修一さんは養子だと知っていたのですか?」
「それは知らなかったと思う。それらしい素振りは一度も見せたことはなかったから、自分達の子供だと信じていたことは疑いない。事実を知っている人は信頼のおける人達ばかりで、密かに息子に告げることは考えられないからな」
やはり修一は養子だった。別々に育てられた理由はわからないが、彼ら二人は双子に違いないと亜紀は確信した。
「私はこれまで、修一さんから一方的な愛情を受けていながら、彼のことを何も知りませんでした。私に被害者意識と言うか負い目があって知ろうともしなかったし、相手のことを思いやる余裕がありませんでした。だから私は何もしてあげられなかった・・・」
最後は呟くように言うと亜紀は顔を伏せた。
「亜紀ちゃん、そんな風に考えるもんじゃない。誰だってそうだ。亜紀ちゃんに限らず、みんな自分のことが精一杯で生きているのが現実だ。だから、何も気に病む必要がない。それにこうして来てくれているじゃないか。亜紀ちゃんじゃなければ息子がいないところへ誰が来てくれる。誰がそんなことをする。亜紀ちゃんだからこそなんだ。それだけで私らには涙が出るほどありがたくて十分すぎる。本当に感謝しているんだよ」
盛蔵は亜紀の手を取って言った。
「何にせよ修一のことを話してすっきりしたよ。ありがとう。・・・あ、そうだ。この機会だから、亜紀ちゃんに言っておこう」
何でしょうかと亜紀は顔をあげて義父を見た。
「亜紀ちゃんが来てくれてから早いもので4年が過ぎた。知っての通り、修一からは亜紀ちゃんの眼が良くなり次第、縁を断つようにと言われていた。それなのに、亜紀ちゃんの厚意に甘えてここまで来てしまった。もう自由になってもいいと思う。だから亜紀ちゃんの方から復氏届けと姻族関係終了届を役場に提出してくれないか」
義父に言われて亜紀は哀しそうにした。
「お義父さん、どうしてそんな冷たいことを仰るのです。私はいまのままで十分幸せです。どうかこのままにさせておいて下さい。法律に疎くて知りませんけれど、もし相続や何かでご心配なら私はいつでも放棄します。今はとてもそんな気持ちになりませんけれど、将来もし再婚するようなことがあれば、そのときにここから出ていくつもりでいます」
それが彼女の偽らざる気持ちを率直に言った。
「亜紀ちゃんの気持ちはありがたいと思う。私は亜紀ちゃんのことをよく承知しているつもりだから、そんなことで心配しているんじゃない。ただ亜紀ちゃんの将来のことが心配なんだ。1年くらいのつもりが、ここに来てもう4年だよ。亜紀ちゃんがよくても、私らはご両親に対して顔向けができない。
ここにいてくれるのは嬉しいが、いつまでもそれに甘えちゃいけないんだ。爺さんも稲子も心配している。私に何かできることがあれば何でも遠慮なく言って欲しい。修一のことを仕舞いがつけられるのなら、もう一度旅行に行ってもいい」
「いいえ、大丈夫です。何の根拠もないのですけれど、今度のことで何かが変わりそうな気がするのです」
それは何を指しているのか盛蔵にもわかった。
「それならいいが」
少し寂しげな表情で呟いた。
亜紀は予感と言ったが、それは願望と読み替えてもいい性質のものだった。彼女にしてもみんなに心配をかけている今の状態がいいなどとは思っていない。その一方で、修一を想うこの気持ちを大事にしたいと思っているのも本当だった。この相反した思いをどのように仕舞いをつければいいのか、それが彼女にもわからず、過ぎ行く時間に身を委ねるしかないのが今の彼女の現状だった。しかし、真一が現れたことでこれまでとは違う何かが起きるような気が漠然としたことも事実だった。ところが、彼が去った今、その接点は失われてしまったと彼女は思った。
(二)
真一が自分の研究室のドアを開けると、それまでざわざわしていたものが急に静かになった。通常、彼の部屋は学生達の話声で騒がしいのだが、何故か異様な静寂が部屋の中を押し包んでいた。誰もが真一と顔を合わせようとはしない。そのくせ彼の様子を伺う気配が濃厚に漂っていた。
真一は戸口でおいどうしたと声を掛けようとして、それを呑み込んだ。自分の机を前にして一人の女性が姿勢よく座っているのに気がついたからだ。しかも彼が学生達に声をかけた時、その女の肩に緊張した様子が窺えた。女子学生2人が、彼の様子を盗み見てくすくす笑った。男子学生達は何かを期待するかのようににやにやしている。
彼の机の横に座っていた女子学生が立ち上がると、余所よそしいほど馬鹿丁寧な口調で苦言を呈した。
「先生、どこへ行ってらっしゃったんです?お客様が長い間お待ちです。講義だったら、いつ頃戻って来ますとお伝えもできますけど、先生は何も仰らずにぷいと出て行ってしまって、いつも携帯の電源を切るからこう言うとき本当に困ります」
わざと無関心を装っていた学生達も、女子学生の言いように吹き出したいのを我慢して一斉に真一に注目した。
これまでにも幾人かの女性が彼を訪ねてきた。しかし、応対する彼の態度はいつも
「済まん。佐藤教授に呼び出されて話し込んでいた」
上着を脱いで無造作に女学生に渡すと、彼女はそれをハンガーに袖を通しコートハンガーに掛けた。その様子を女性は驚きの目で見ていた。
「大丈夫です。先生の悪口は一言も言っていませんから」
今度は悪戯っぽく言って他の学生達の笑いを誘った。
真一は馬鹿野郎と一声かけておいて、自分の椅子に腰を下ろしながら、目の前の来客を見た。頬を染めて肩身が狭そうに俯いていたのは亜紀だった。突然押し掛けてて来たので緊張している様子が明白で、彼女の前に置かれたコーヒーも半分ほどしか口を付けておらず、それもすっかり冷めていた。
真一の机の上にはノートパソコンと大きなディスプレー・モニターがあり、隅の方には本や書類が積み上げられている。亜紀が来るまではそれは乱雑に置かれていたのだが、女学生が気を利かせて片付けたものだ。
真一は座るなり、あなたでしたかとさも驚いたように言いながらノートパソコンを横にやった。
盛蔵から何か言って来るだろうと思ってはいたが、彼女が来ることを全く予期していなかった。こうして彼女に来られてみると、それは当然予想すべきことで、自分の迂闊さに自嘲した。
亜紀は一月半振りに見る彼と目が合って、思わずまた俯いてしまった。面前に座る彼は写真で見た修一その人だった。
彼女は一期一会の縁と諦めもう二度と彼と会うことはないと思っていた。義父から今回の用件を仰せつかったとき、正当な理由で再会が出来ると胸が高鳴った。むろん義父の前ではそんな素振りを見せはしなかった。
訪問する日を決め、義父母にそれを告げてから、何を着て行こうかと散々迷った。久々の遠出に心が浮き立った。
長野市に来たのは今日が初めてだった。
事前に電話したとことで、適当な理由を設けて断られるのがおちだと思ってアポなし出来た。もし不在であれば、明日出直すつもりでいた。
昼食の終ったくらいの時間なら彼も在室しているだろうと、時を見計らって来たのだが、正門に着いた時から緊張していた。
門衛に研究室の場所を聞き、探し当てた彼の研究室のドアを小さくノックした。中から返事がして中に入ると、彼一人だけと思っていた室内に5人の若者がいたから面食らってしまった。気後れして出直そうとしたが、眼鏡をかけた女性に招き入れられて、背を向けることができなくなってしまった。
その女性に用向きを尋ねられて正直に答えた。幸い予約なしで来たことを咎められず、真一との関わりも問われなかった。すぐに帰ってくるだろうからと言われて、中で彼を待つことになってしまった。ただ彼らの好奇の目を向けられて居心地が悪く頬を染め、
待ち人は中々戻って来なかった。することもなく針の
真一のあなたでしたかの声に学生達が忍び笑いした。意外そうな彼の声に、少しは親しそうに応じてくれると思っていた亜紀はやはり場違いだったかといたたまれなくてますます下を向いた。そんな様子に学生達は互いに顔を見合わせて首を捻った。それほど親しい関係ではなさそうだと判断したようだ。
真一がさりげなく周り見ると、学生たちの剥き出しの好奇心が部屋全体に漂っている。ことに女子学生の視線が熱く二人に注がれていて、鈍感な彼でも、この女は誰だろう、自分との関係はと興味津々で見ていることくらいは容易に察した。
(いや、中川なら彼女の素性くらいは既に訊き出しているかも知れない)
真一は
今日の彼女の服装は、季節に合わせた大きなモミジの柄のワンピースと半透明クリーム色のレジで、大人しい印象の彼女にとても合っていた。あの時と同様に薄化粧でマニュキアもしていない。装飾品らしきものも身につけていない。それが彼に好印象を与えた。
「突然押し掛けて申し訳ありません。あのう・・・これを。義父が刈谷に頼んで作ってもらったケーキです。こんなに大勢の方がいらっしゃるなんて思ってもいませんでしたから、数が足りないかもしれません」
きまり悪そうにやや掠れた小声で言い訳をして膝の上に置いていた紙袋をそっと机の上に差し出した。
「これはどうもありがとう。申し訳ないが、刈谷さんには僕が礼を言っていたと、亜紀さんから伝えておいてください」
再び訪れることはないことを暗に告げ、受け取った袋を秘書然としている女子学生に渡した。
「足りなかったら不公平のないように阿弥陀くじでもして配ってくれ。ここはうるさいからちょっと出よう。中川、少し出て来るから留守を頼む」
机の抽斗から煙草を取ると、先に立って歩き出した。そんな彼を学生達は期待外れの顔で見送った。
中川と呼ばれた女子学生から、先生ちょっとと声が掛った。立ち止まった彼の前に立つと、曲がったネクタイを締め直し、後ろから背広を肩にかけた。亜紀はそんな様子をビックリした表情で見ていた。
真一が照れて「世話女房みたいな真似をするな」と一喝すると、彼女は彼の肩に付いた埃を払うような仕草を見せてしれっと言った。
「あら、秘書は女房みたいなものですよ。では、いってらっしゃいませ。誰からか連絡があるかもしれないですから、携帯には電源を入れておいて下さいね。それから、お戻りの時には、先生の分はないかも知れません。そのときは諦めて下さい。それと、4時から意匠の研究会があることをお忘れなく」
中川の馬鹿丁寧な言葉を聞き流し、亜紀を先に出してドアを閉めた。笑い声が背後から追って来た。
亜紀は一人どんどん先を行く彼に小走りになってついて行った。彼女の訪問を歓迎していないことは彼の背中が雄弁に語っていた。また会えるとわくわくしながら来ただけにその反動は大きく、義父から言い使ったことを思うと気が重くなった。
真一は構内の通路を双方無言のまま正門へ直進した。すれ違う幾人かの学生が女連れの彼に驚いたように頭を下げたが、目礼を返すだけでずんずん歩いた。正門の外に出ると突然立ち止まった。道路を隔てて前にある蔵を改造した小さなカフェに入るつもりだったが、見知った学生がいるかも知れないと逡巡した。
「ここへは何で?」
振り返って尋ねた。
「車で参りました」
何のつもりで訊いたのかわからないが、素直に答えた。
「車はどこに?」
「学内には駐車できないと思いまして、悪いとは思ったのですけれど、公園の駐車場に駐めました。こちら側にもあるとは知らず向こう側の駐車場ですけれど」
「それならちょうどいい。少し遠いが、公園内にある文化ホールへ行きましょう」
そこなら学生が来ることもないだろうと、そこを選択した。
車道を横断し若里公園を10分ほど歩いて、ホクト文化ホール2階の茶房に入った。ランチが終わった時間だからか、思惑通り広い店内には客はなく静かだった。
窓際の席に腰を下ろすと真一はコーヒー、亜紀はオレンジジュースを注文した。
そこから見下ろすと、図書館前の芝生の上で子供達が跳ねまわっていた。いかにもどのかな風景だ。
叱られる前の子供のように小さくなって座っている亜紀を見て、歓迎せざる相手とはいえ、遠方からわざわざ訪れた客に接する態度ではなかったなと反省した。その自戒を込めて、彼女の気持ちを解すために当たり障りのない話から始めた。
「随分待ちましたか?」
あの時とは違い、丁重な口調で言った。それが亜紀には少し悲しかった。
「ええ、1時間ほど」
「それは申し訳なかった。お越しになるんだったら、電話をしてくれたらよかったのに」
そんな言葉とは裏腹に恐らく適当な理由をつけて、避けていただろうと、真一は自分の胸中を分析していた。
「義父が行って来いというものですから・・・」
消え入りそうな声で応えた。
矢張りそうかと、真一は盛蔵の思惑が透けて見えるような気がした。
「少し早く着いたものですから、キャンパスをゆっくり見て回りました。大学に入るのは初めてでしたので大変興味深かったですわ」
「思っていたほど広くはなかったでしょう」
「ええまあ。大学のキャンパスと言うと、広々とした芝生があって、そこで学生さんが寝そべったりギターを弾いたり本を読んだり歌っていたりするとばかり思っていましたから」
真一は彼女の率直な感想に、それはテレビの見過ぎだと笑った。
「信州大学は県内4つのキャンパスに分散しているけど、どこもまああんなもんです。欧米だと大学そのものが町と言ってもいいほどの広さと商業施設を持っているけど、狭い日本ではそうもいかない。それでももう少ししたらイチョウ並木が紅葉して綺麗ですよ」
「大学の先生のお部屋と言えば、難しい本で一杯かと勝手に想像していましたけれど、そうでもないのですね。驚きました」
真一は苦笑した。あまりの殺風景な部屋に誰が来ても同じことを言う。
「普通はそうですよ。僕の研究室くらいじゃないかな、あんなに風なのは。必要な本は図書館で借りればことが足りるから、置いてあるのは入手困難な論文くらいです。その論文にしたって、今はお金さえ払えばネットを使って幾らでも見られますから、便利になったもんです。それにあの通りあまり広くない部屋に学生が居座っているから本棚も置けやしない。それが本音かな。ははは」
真一は彼女の緊張をほぐそうと磊落に笑った。
「勝手に先生お一人だと思っていたものですから、大勢の学生さんがおられたので驚きました」
「いつも4、5人はごろごろしているかな。中川が、あ、いや、秘書と自称している眼鏡をかけた女子学生だが、あなたのことをいろいろ詮索したんじゃないですか?」
「いいえ、名前と用件だけしか尋ねられませんでした」
緊張が解れたのか、普段通りの穏やかな口調に戻っていた。
「そうですか。おかしいな、いつもだと失礼なくらい根掘り葉掘り訊くんだが・・・。この前の説教がきいたかな。まあ、失礼がなくてよかった。待っている間退屈だったでしょう?」
「そうでもありませんわ。学生さんがいろいろと話しかけてくれましたので退屈しませんでした。日頃若い人と接する機会があまりないものですから、楽しかったですわ」
「そうですか。やつらどんな話をしたのだろう?」
彼女のことを勝手に控え目で大人しいと思っていただけに意外に感じた。
「学生生活とか勉強していることとか。今の
何を思い出したのか亜紀はくすっと笑った。
「噂?どうせ、碌でもないことでしょう」
(噂話はするなと厳命しているので大丈夫と思っていたが、そうではないらしい。もう一度注意しなくては)
「そうでもありませんわ。先生は大学でもユニークな方らしいですのね。学生さんがそう仰っていました」
「自分ではそう思わないが・・・。堅苦しいから個人的に話すときは先生と言うのは止めてもらえませんか。真一とか成瀬でいいです。僕も今更ですが亜紀さんと呼ばせてもらいます」
「わかりました。それでは成瀬さんと呼ばさせていただきます」
注文していたものがテーブルに置かれてコーヒーのいい香りがした。
「いただきましょう」
真一がコーヒーカップを手に取って外を見た。そこからは芝生の上で子供が犬と一緒に走り回っている様子が見えた。亜紀もストローを取って薄く紅をさした口につけ、窓の外を見ている彼をそれとなく観察した。夏の時の印象とは随分違っていることの驚きがあった。思い起こした亡夫と講師然とした彼を比べた。外見は同じだが、話し振りや態度がやはり違うと思った。
真っ黒だった顔の色もやや褪め、ぼさぼさで伸び放題だった髪も短く小ざっぱりとしている。見たところ整髪料も何も使用していなさそうな髪を真ん中で軽く分け、濃紺のワイシャツに緩めた濃茶のネクタイがよく似合っている。だが、目の前にいる彼は子供達と屈託なく笑い合っていたときと同じではなかった。堅苦しい表情を崩さず、亜紀を避けている様子がありありだった。何故だろうと素朴な疑問を持ったが、彼女にわかるはずもなかった。
気づまりな感じを押し殺して、努めて明るく訊いた。
「成瀬さんは大学にいらっしゃる前に東京の大手の建設会社にお勤めだったそうですね」
「ええ、しばらく会社員をしていました」
話しかけられて、顔を元に戻して簡潔に答えた。亜紀の用件を訊くことを避けているかのようだった。
「成瀬さんを買ってらっしゃる教授のお誘いを受けて講師になられたとか」
「いや、僕を買っているわけじゃありませんよ。ただ、尊敬している恩師であることには違いないな。学生の頃から自宅に何度もお邪魔しているし、今でもわからないことがあると教えを乞うこともある。いい上司であると同時に人間的にも尊敬できる人生の先輩です」
「それだけではないでしょう。学生時代に某市の設計コンペに応募して、最優秀賞をとったにも関わらず建築士の資格をお持ちでないことがわかって辞退させられたって。その先生が非常に残念がっておられたとお聴きしました」
「それは単なる噂ですよ。買い被ってもらっては困る」
「でも、就職されてから何度かコンペで選ばれたことがあるのでしょう?」
「それも昔の話です。それに一人でしたものじゃない」
あまり自分のことに触れられたくないのか返答は素っ気なかった。それでも亜紀は食い下がった。
「昔と言っても、数年前のことでしょう。学生さんがまるで自分のことのように自慢気に話してくれましたわ」
「そんなことで教授は決めませんよ。先生が教授になられたときに、たまたま講師の席が空いたから推薦してくれただけのことです」
こうしていても
「それに授業は好評だけれども、成瀬さんのテストは学生さんには評判が悪いのですって?一つの科目に試験時間が4時間もあったのではたまらないとこぼしていましたわ」
そんなことを言ってましたかと苦笑した。
「時間途中でも退出可能だし、3時間もあれば十分解けるはずだから、そんな不満を言われる筋合いはないんだが・・・。今の学生は楽して過ごそうという傾向が強いから。 昔の僕らのようには勉強しないから困ったものです」
さして困った風でもなく応じた。
彼が受け持つ建築構造の期末試験は広範に渡って100問以上出題する。計算しなければ正答が得られないものがほとんどだが、直感を働かせて解く問題もあるので学生達は頭を悩ませている。だが、5択だから鉛筆を転がして解答しても5分の1の確率で当たる。それに講義したところは隈なく出題するので、山を掛ける必要もないから試験対策は容易なはずだと言うのが彼の言い分だ。もちろん、四則演算のみの電卓使用は可能だし、試験時間が長いので点検を受ければ飲食物の持ち込みも可としている。だが、長時間なので監視監督する助手連中には学生以上に評判が悪い。しかも採点はその時研究室にいる者が行うので、彼が行うは試験問題の作成と試験結果の評価だけだ。
「それだけじゃなくって、成瀬さんの教科は単位をとるのが難しくて、毎年幾人もの落後者がでるのですって?」
「それも誤解です。僕だから難しいということではなくて、構造は我々にとって一番大事な科目なのに学生は苦手なようだ。僕なりに試験問題の難易による不公平がないように、統計を駆使して毎回ボーダーラインを決めているから一律に何点以下だったら不可とはしないし、それを下回った者の追試験だってしますよ。教授からは論文発表のノルマを課されるし、教授や准教授への応援や手伝いもあれば雑用だってある。そんなこんなで、暇なように見えてこれでも結構忙しいんです」
最後のところを強調して亜紀に伝えたつもりだったが、どこまでそれが伝わったのか。小指を立ててストローを持って微笑んでいる彼女の顔を見てもわからなかった。
「成瀬さんのお部屋にいる大勢の学生さんは何をしておられるのですか?」
彼女は最高学府に入っていないから、何もかもが物珍しかった。それで疑問に思ったことを率直に尋ねた。
「さあ、何だろうな。頼みもしないのにいつのまにか、あんな風に入り浸る奴が増えてしまった。彼らの年齢に近いから親近感を持っているからかな。僕にもよくわからない」
本当にわからないのか頭を振った。
「あそこにいるのは4年生ばかりです。最終学年になると、授業がほとんどない代わりに卒業研究に取り組まなくちゃならないのだが、自宅か図書館ですればいいのに、暇を持て余すと何故か僕のところへやって来る。人数制限はしているのだが、教授連中はあまりいい顔はしない。まあ来れば可愛いから、就職の相談にのったり卒業研究論文をみてやったり、外国の学術論文なんかをみんなで翻訳する真似事などしています。希望に応じてCADを教えたりもする。・・・CADってわかります?」
「いいえ、それは何ですの?」
「パソコン上で図面を引くんです。昔だったら、製図板があって製図用紙にT定規やコンパスを使って線を引いたものだが、今ではコンピューターで何でもできるから便利になったもんです。そのほか、飲み会に行くこともあれば合コンにも誘われることもある。まあ、それは断るが」
大学の先生は講義と研究ばかりしていると思っていたので、そんなことまでするのかと驚くと同時に感心してしまった。
「合コンくらいならよろしいんじゃありませんの」
亜紀自身は経験がないから詳しいことは知らないが、テレビなんかでどのようなことをするかくらいは、世情には疎くても知識として持っている。
「いや、今更この年で学生達と一緒に合コンなんてこっぱずかしくてできやしない」
真一は苦笑してコーヒーを飲み干した。
「いつもあれくらいの学生さんがおられますの?」
「まあ、そうだね。あのとおり部屋が狭いから、5人で一杯だな。来ない学生もいるので入室を許可しているのは8名ほどだが、日替わりでそれくらいが出入りしている」
亜紀は真一が問われるままに語るのを彼から眼を離さずに聞いていた。修一と顔がダブルのだが、生身の彼を見ていないせいか自然に話すことができた。それでも修一のことが意識に上らざるを得なかった。できる限りそうしまいとしているのだが、無意識の内に亡夫と彼を比較している自分がいた。
学生らが彼を尊敬し慕っていることは彼らの態度や言葉の端々で窺えた。彼女もまた彼の話ぶりや学生達から聞いた話で信頼を厚くした。そして、義父の願いを叶えるために是非とも彼を説得しなければとの決意を新たにした。彼女の深層心理を質せば、彼女自身彼との接点を失いたくないとの思いがあった。更には、この機会を逃せば、これまでと同じになることを恐れてもいた。
3人の男性が話しながら入店してきた。その中に真一を見知っている者がいたらしく、ちらりと見て驚いた様子で二人を見やりながら壁際の席に着いた。真一は尻をもぞもぞ動かして居心地が悪そうな素振りをした。煙草を一本出してそれに火を点けようとして、禁煙なのを思い出したのか、思い留まって箱の中に戻した。
話が途切れたのを機に亜紀は手洗いに立った。本来の用件に入る前の準備の意味合いもあった。
用を足し化粧を直して腕時計を見ると、取りとめのない話で30分あまり費やしていた。
レストランの入口で真一を見ると、彼はオレンジジュースのグラスの下に敷かれていたコースターを元に戻しているところだった。それを不審には思わず椅子に座ると、先程の男達がちらりと亜紀を見た。
あのうと本来の用件を切り出した。
「義父の手紙を読んでいただけましたでしょうか?」
「ええ、拝見しました。でも僕の気持ちは変わりませんよ。申し訳ないけど」
素っ気なく答えた。
予期していた返事だったので落胆はしなかったが、これからが自分のためにも加辺家のためにも正念場だと思い腹に力を入れた。
「それは何故ですの?お忙しいのはわかりますけど、それだけではないのでしょう?」
修一のことに関係があるのだろうと暗に匂わせた。
「いや、実際忙しいのです。先ほども言ったように、これでも研究者の端くれですから、教授からは絶えず研究論文を書くよう尻を叩かれているし、准教授が書いた論文の翻訳も頼まれます。講師と言っても非常勤ではないので学部内の雑用もある。それに、先約の住宅の設計や学会出席に講義もあって、とても相談にのるだけの時間が取れそうにないのです。簡単に請け合っておいて申し訳ないが」
神妙に頭を下げたが、全て本音で言っているわけでもなかった。当初懸念していたように、彼女に惹かれ深みにはまる自分を恐れ、今まさに彼女を目の前にして、その認識を新たにしたのだった。そのことをを彼女に言えるはずもなく、盛蔵の願いを頑なとも言える態度で拒否した。彼にしてみれば多忙なのは事実なので嘘をついているつもりはなかった。
「手紙にも書きましたが、私が紹介する建築士は信頼が置けてとても優秀な人物です。きっと盛蔵さんも気に入って下さると思います」
これで何とか納得してもらえないかと淡い期待を抱いたが、彼女にはそれが通用しなかった。
「成瀬さんが紹介して下さる方なら間違いはないのでしょう。けれど、それでは義父が納得しません。成瀬さんが食堂のテーブルに残して下さったデザインを拝見して義父、いえ義母と私も、とても感動しました。あれだけのものを短時間で描ける人、あのような感性を持った方を義父は望んでいるのです」
真一は余計なものを残したとまた深く後悔した。彼らの注目を集めるために描いたものでもなければ、自分の構想を自慢するために置いたものではない。ただ、森を巡って思いついたアイデアを絵にしただけのつもりだった。それを食堂のテーブルに残したのは、何も告げずに去ることへの詫びのつもりだったのだが、それが結果として仇になってしまったようだ。
「聴けば、成瀬さんは不思議な能力をお持ちだとか。設計図と工程表さえあれば、施工途中の好きな時点の建物の状況や外観を描くことができる非凡な才能があると学生さんから伺いました。それに古い民家や自然環境を研究しておられて設計に役立てたいとお考えだそうではないですか。伺えばうかがうほど、私どものようなちっぽけなペンションの改造には申し訳ないのですけれど、義父はそういう方を必要としています。是非とも考え直していただけませんでしょうか。お願いします」
反論する暇も与えないように畳みかけると、立ち上がって深々と頭を下げた。
真一は困惑した。見ようによっては彼女が謝っているようにもとれる。現に先ほどの男達、厨房の方でもそれとなく彼らの様子を窺っているようにも思えた。
「亜紀さん、頭を上げて下さい。そのようなことをされては困る」
中腰で慌てて言った。
亜紀は、なおもお願いしますと言ってまた頭を下げた。そうしながら、何故か修一に頼み込んでいるような気持ちになった。
「実際のところ困るんです。お断りするのは、忙しい理由のほかは他意がありません。どうか信じて下さい」
真一は言わずもがなのことを発言して一瞬あっと思ったが遅かった。
「それは本当ですね?それ以外の理由があるのなら諦めようと思っておりましたが、それを伺って安心しました」
彼の言葉尻を捉えて言った。
「義父から、お忙しいだけならお時間のある時でいいからと、土下座してでもお願いして来いときつく言われています。ですから、このままでは引き下がれません。今日は時間がないでしょうから、明日もう一度出直してまいります。貴重なお時間をお付き合い下さいまして有難うございました」
今日のところはこれでいいだろうと判断して、両手を揃えて頭を下げ、伝票を持って席を離れようとすると、彼の方が慌ててしまった。
「亜紀さん。ちょっと待って下さい」
何の思案のないまま彼女を引き留めた。
明日も来られては堪らない。このまま帰らせては後が面倒になる。土下座は彼女の誇張だろうが、明日も断れば日を改めて何度も来るに違いない。そうなると、学内にどんな噂が立つか知れたものではない。
多忙を理由に何とか説得しようとしたのだが、彼女の方が1枚上手だった。盛蔵ならば恐らく先程の説明で引き下がったに違いない。彼がそこまで読んでいたか不明だが、亜紀を寄越したのは正解だった。切れ損なった縁と自分の不手際に舌打ちした。
「こうしましょう。もう少し時間を下さい。引き受けられるかどうか検討します」
苦し紛れで言った。姑息な手段だが、時間稼ぎをして何とか断る手段を考えるしか方法が思いつかなかった。
「それでは、いつご返答が頂けるでしょうか?」
曖昧な返事は彼女が許さなかった。
「1週間いや2週間下さい」
「わかりました。それでは1週間後に改めて参ります」
真一は彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。これが本当に目の不自由な人だったのか。交渉の巧みさに舌を巻いた。
「お越しいただく必要はありません。こちらから電話をします」
何か言うかと思ったが、案に反して彼女はわかりましたと応えた。
彼が立ち上がるとき、彼女のグラスの下に敷いてあったコースターを取り上げて上着のポケットに入れた。それを見ても亜紀は趣味か何かで集めているのだろうくらいに思って深く考えなかった。
勘定は、お願いに来たのだからと真一が支払うのを拒んだ。
外へ出ると、亜紀は早く帰って義父に報告するからと告げて駐車場に向かった。その後ろ姿を真一はポケットの中のコースターを弄びながら見送ってふっーと溜息をついた。
彼女が押しかけて来たことに困惑している反面、これは避けられない定めにあるのかと覚悟を決めた。それでいながら、研究室に戻ると、なんとかうまくやり過ごす手立てはないかと女々しく思案した。しかし、これといっていいアイデアが思いつかなかった。今後予想される事態を思うと日頃の彼に似つかわしくないほど悶々としつつ、これは単なる杞憂に過ぎないのだと願わずにはいられなかった。そのように考えること自体すでに深みに一歩足を踏み込んだことに彼は気付いていなかった。
そんな彼を学生達は不審そうに見ていた。
(三)
約束の1週間が来ると、亜紀から明日お目にかかりたいが、ご都合はどうかと研究室に電話がかかって来た。
真一の腹は決まっていた。こちらから連絡すればよかったのだが、気が進まず放置していたのが失敗だった。
「わざわざお越しになる必要はありません。この電話で済ませましょう」
亜紀はそれをきっぱりと断った。
「いいえ、私の個人的な用件でもお目にかかりたいので、お伺いします。そのとき、少しお時間を下さい」
亜紀の個人的なものとは何か、彼にも予想がついた。それは避けられないと観念して、時間と場所を決めて電話を切った。
約束の時間より遅れてこの前と同じレストランへ行くと、窓際の同じ席で亜紀は手持ち無沙汰な様子で公園の方を見下ろしていた。
自分に気づかないことをいいことに、真一は入り口に立ってまま彼女を見た。今日もほとんど化粧気がなく、それでいて美しさを少しも損なっていない。それを彼女自身自覚しているのかどうかわからないが、今日も柄の異なるワンピースだった。それが清楚で今の季節に見事にマッチしていると思った。
彼の靴音で彼女が気がついた。
「お待たせして申し訳ない」
「いいえ、私が早く来すぎましたわ」
随分前から来ていたのか、彼女の前のコップは氷が解けて水だけになっていた。
真一はコーヒーを注文すると亜紀もジュースの追加を頼んだ。
「盛蔵さんの話をする前に、まずあなたのご用件を伺いましょうか」
最初に訊かれると思っていなかったので、一瞬どのように切り出そうかと紅茶を一口飲んだ。結局策を弄さず単刀直入に話すことにした。
「あなたが出て行かれた後、義父からあの人が実子ではないことを聞きました。つまり、養子だったのです。ということは・・・」
勢い込んで言い募ろうとした亜紀を真一は慌てて制した。
「ちょ、ちょっと待って下さい。あなたのご主人が養子だったかどうかは僕には関係のないことだ。どうしてあなたはそんなことに関心を持つのです?それを知ったところで誰も得はしない。余計な波風が立つだけだ」
「損得は関係ありません。ただ知りたいだけなのです。あの人の子供時代がどうだったのか、学生時代に何を考え、どのように過ごしていたのか。彼のことを何一つ知りませんでした。いえ、自分のことが精一杯で彼のことを知ろうともしなかったのです。そんな私が許せないのです」
「それで、僕にどうせよと?」
彼女を落ち着かせるためにも、努めて冷静に訊いた。
「あなたもあの人と何らかの関係があるのではないかと薄々感じてらっしゃるはずです。でなければ、あのとき唐突に帰ろうとはなさらなかった。関わり合うことを恐れなければ、義父の願いを頑なに拒むはずもなかった。そうじゃありませんか。あなたはご自分のことを知りたくないのですか。疑念を持ったままでいいのですか」
真一は、やはり慌しく立ち去った理由を悟っていたのかと思いつつ、この話題を蒸し返さないためにも、ここは自分の考えをしっかり述べなければならないと思った。そして、彼女の瞳をしっかり捉えて言った。
「そうまで仰るのなら正直に言いましょう。確かに僕も今度のことで自分の出生に疑問を持ちました。そして結論は一つだろうとも思っています。多分あなたが想像している通りでしょう。しかし、そうだとしても、それ以上のことは知りたくもありません。ましてあなたには関係のないことだ。
あなたから見れば僕の態度が奇異に映るかもしれない。だが、僕にしてみれば、これまで平穏だった家族に無用な波風を立てたくない、それが本音です。それが自然に明らかになるのなら、それはそれでしようがないと思っています。ですが、自分から探ってまで騒ぎ立てるつもりはありません。僕には多感な高校生の妹がいます。進学を控えて今が一番大事なときです。彼女まで巻き込むようなことはしたくない」
「では、私はどうしたらいいのでしょう?偶然だとしても、あなたにお会いした以上、無関心ではいられません。この気持ちのままこれまでのようには過ごせません」
彼にも彼女の気持ちは理解できる。しかし、そのことに自分が同調し関与することはではない。
「冷たいようですが、それはあなた自身で乗り越えるしかないとしか言いようがない。前にもお話したように、早くご主人のことは忘れて、新しい恋をしていい伴侶を得ることが一番いい方法だと思います。いつまでもご主人のことを引きずっていてはいけない。そうじゃないですか?」
亜紀は考え込んでしまった。これ以上詰め寄っても彼を翻意させることができそうにないことを悟った。やがてぽつりと言った。
「わかりました」
本当に得心したかどうかは、真一には知りようもなかったが、発言は控えた。
ではこの間の件について話しましょうと亜紀の話を打ち切り、ポケットから携帯を取り出すとどこかに電話をした。
「中川か。済まないが、コピーを頼んでおいたあれを文化会館2階のレストランまで持ってきてくれないか」
それだけ告げると通話を切り、亜紀を真っ直ぐに見て真一は切り出した。
「ご依頼の件ですが、条件付きで引き受けることにしました」
それを聞いた亜紀は思わず胸に手をやり、心からほっとして頭を下げた。
「有難うございます。また断られたらどうしようかと思っていました。義父が喜びます。あの、それで、条件と言いますのは?」
「何度も言うようですが、こう見えても忙しいのです。ですから、盛蔵さんの計画に僕が直接関わることができません。それで、学生が持ってくる資料で僕の考えを説明します」
彼が関わらずにどうするのだろうと疑問に思ったが、それを口にしなかった。説明すると言う以上、それを聴くしかなかった。それに、わざわざ学生をここへ呼ぶのは、誤解を避けるためかどうかわからないが、余程二人きりになりたくないのだろうと思った。
「ところで、皆さん、お変わりありませんか?」
女学生が来るまでの間、当たり障りのないことを訊いた。
「ええ、お陰さまで元気にしております。成瀬さんが引き受けて下さったと聞けばもっと元気になります」
亜紀の機知に富んだ応答に真一は苦笑した。
「忙しいんじゃありませんか?」
「忙しいことは忙しいのですけれど、成瀬さんが来られたときほどではありませんわ。ですから義父も私を慮って息抜きに行かせるくらいのつもりで送り出してくれたのだと思います」
「そうかなあ、亜紀さんの表情を見ているととてもそうは思えないけど」
コーヒーカップを持ちながら笑った。
「どのような顔をしていると思われます?」
亜紀も悪戯っぽく微笑みながら応じた。、
「全身に悲壮感を漂わせているような・・・」
「そうです。今度も断られたらどうしようかとばかり考えていました」
真一はまた苦笑した。
「明日も明後日も亜紀さんに来られたら、僕だって困ります。もう逃げません」
やはり逃げていたのかと亜紀は思ったが、黙っていた。
真一にとって、ついこの間までこうして若い女性と二人きりでお茶を飲むことなど思いもよらぬことだった。自分でも不思議なものでも見るような思いだった。それを感じ取ったのか、私にどこかおかしいところがありましてと、亜紀は小首を傾けて微笑んだ。
「いや、とんでもない。亜紀さんを見ていて、本当に失明していた人なのかと思わず見てしまった。失礼した」
彼女は少し照れたように紅茶を飲んだ。そんな様子を見て、ますます彼女に魅かれていく自分を恐れた。そんな感情を押し殺し、努めて他人事のように訊いた。
「どうですか、少しはご主人のことを忘れられるようになりました?」
「いえ、まだですけれど、これは自然に任せるしかないのかなと思っています」
「そうですか・・・」
彼の口調は何かを含んだような言い方だった。
「人それぞれでしょうけれど、無理に忘れようとは思いません。それでいながら、私自身彼と過ごした日々のことが次第に薄れているのがわかります。それが怖いのです」
「そうかな。それが自然で、それでいいと思うが・・・。月並みな言い方だが、日は沈んでもまた昇ります。亜紀さんにもきっといい人が現れます」
「そうでしょうか・・・」
ティーカップを皿に置いたとき、眼鏡をかけた女子学生が息を弾ませてカフェに入って来た。秘書と自任し真一が中川と呼んでいる女性だった。
「先生、これでよろしいですか?」
封筒を差し出しながら亜紀を横目で見て澄まし顔で言った。
真一は中身をちらりと見て、ああ、これでいいよと言った。
彼女にここに残るように告げ、ウェイトレスを呼び彼女の飲物をオーダーした。
初めて亜紀が来たとき、真一は彼女のことを学生達にしくこく尋問され、彼女のペンションで知り合ったことを白状させられていた。いつもならば、それくらいのことで口を割ることなどあり得ないのだが、これから彼らの協力を必要とする以上、妙な噂を立てられるよりありのまま話した方がよいと判断したのだ。当然、彼女の亡夫が自分と酷似していることは伏せた。
中川がコーヒーを飲み終えると、真一はウェイトレスに食器類を下げさせ、封筒から出した図面をテーブルの上に広げた。女性二人は図面を見入った。それはペンションに残されたたスケッチの1.5倍くらいの大きさで、より詳細に描かれていた。中川はうーんと唸った。彼女もそれは見せられていなかった。
「いつの間にあの絵をコピーしていましたの?」
亜紀は図面から顔を戻すと訊いた。
「いや、これはコピーじゃない。記憶したものをパソコン上に描いただけ」
言われてよく見れば、彼が残したスケッチより広範囲に描かれているし手描きでもなかった。建物そのものよりは池を景観としてより活かし、それら周辺環境の整備をも含めた全体計画図と言えるものだった。
何でもないことのように彼は言うが、亜紀は彼の非凡な才能に改めて感じ入った。
恩師がやや前屈みになって説明している間、中川は両者の様子を窺った。だが、彼ら二人の親密度の深さまで読み取ることはできなかった。ただ、今までの来訪者とは様子が違うことだけは感じ取った。
説明を終えると、真一は構想の概略はこの中に書いてあるからと、折り畳んだ図面を袋とじの封筒に入れ亜紀に手渡し、手帳を見ながら告げた。
「今日はこれを持って帰って・・・そうだな、加辺さんの方で都合がよければ、今度の日曜日にそちらへ伺います。そのときに引き受ける条件を含め進め方を説明しましょう」
「わかりました。そのように伝えます」
「それじゃ、皆さんによろしく伝えてください。それとお屋敷の中を一度拝見したいと伝えていただけますか?建築家として古民家に関心があるので。それではそのときに」
真一は素っ気ないほど事務的に告げると立ち上がった。
亜紀は駐車場の車の中で封筒の中身を改めた。そこには、あの図面のほかにグリーンハウス改造計画書と銘打った冊子があって、それを開くとペンションの完成予想図に大工程表、それにもとづく行動計画が記されていた。
建築の知識がないのでよくわからないが、建築家と言うものはここまでするものなのかと感嘆した。彼の中にどのような葛藤があったのか知る由もないが、あれほど渋っていた人が、短期間の間にここまでしてくれたことに畏敬の念を深めた。そして、これを契機に自分の周辺も何かが変わるだろうとの予感を覚えた。
亜紀はロビーや食堂、客室などにに活けている花を取り替えるために、花束を抱えてペンションへ向かった。それは家事の合間を縫ってしていることだが、彼女が望んでしていることでもあった。
玄関に入ると義父が受付にある電話で誰かと話しをしていた。義母がいないところを見ると、裏の小部屋で昼寝でもしているのだろう。そんなことを思いながら義父の脇を通り抜けようとしたとき、手を振って呼び止められた。立ち止まり、通話を聞くともなく聞いていると、明後日来る予定の真一と何事かを打ち合わせているところだった。
盛蔵が受話器を置くと破顔して言った。
「一時は諦めかけたが、亜紀ちゃんのおかげで成瀬さんをようやく迎えることができる。何だかんだ言って渋っていたが、一泊してもらうことにした。どんな話になるかもう今からもうわくわくしているよ。学生さん3名連れて来ると言っていたが、土曜日の部屋は空いているかい?」
問われて亜紀は受付に置いてある予約帳を手に取った。
「相部屋でもよろしければ、2部屋は空いていますけれど」
「それは駄目だな、一人は女子らしいから。3部屋は必要だろう」
「3部屋なんて無理ですわ。男の学生さんには申し訳ないけれど、一部屋を2人で泊まっていただいて、成瀬さんは宿直室で・・・」
みなを言わせずに盛蔵は首を横に振った。
「それでは申し訳ないだろう。うんそうだ、亜紀ちゃんは大変だろうが、全員母屋に泊まっていただくことにしたらどうかな。窮屈な思いをするよりはその方がいいと思う。その時に建築談議でも聞かせもらおう。これは楽しみだ」
義父一人悦にいって嬉しそうな表情をしている。そこからは息子に似た男についてどのように思っているのか伺い知れなかった。その一方で、義母が彼を見てどのような態度を取るのか、今更ながら気になった。が、気丈な義母のこと、恐らく同じことを繰り返すことはないだろうと思った。
亜紀は彼らを母屋に泊める時の段取りを考えた。客布団を今から干して、あそことあそこの部屋を掃除してと考えるとすることはいくらもあった。
「あ、そうだ。打ち合わせの時間を土曜の昼からと日曜の午前に取って欲しいとのことだった」
彼のことだからお客さんのいない時間を見計らってのことだろう。
「わかりました。それでお食事の方は?」
「昼は済ませて来るから、その日の夜と翌日の朝だけでいいそうだ。夜は刈谷さんに頼むとして亜紀ちゃんは朝を頼むよ」
「わかりました。準備しておきます。あ、そう言えば、この前古い民家に興味があるので、母屋の中を見させて欲しいと仰っていました」
「ふーん、あんな古い家のどこがいいのかな。まあ、亜紀ちゃんさえよければ、私は構わないよ」
「それではそのように話します。それでお迎えは何時に?」
「車で来るから迎えはいらないそうだ。冗談で美味い酒があればそれだけでいいと言っていた。何か肴になるものを買っておこう」
願いが叶ったせいか、珍しく多弁で上機嫌な義父を見て亜紀も嬉しくなった
約束した通り、土曜の昼過ぎにかなり古そうな車で彼らはやって来た。後部座席からあの自称秘書の女学生が真っ先にペンションの前で降り立たつと、両腕を広げ「わー、紅葉がとっても綺麗、なんて素敵な場所!」とはしゃぎ、男子学生は池の方へ行った。
グリーンハウスの玄関先に停まった車の音を聞きつけ、盛蔵と稲子が走り寄って出迎えた。
「ようこそお出で下さいました。一日千秋の思いで待っておりました」
盛蔵の表情を見るとまんざら誇張でもないようだった 。稲子も真一を見ても取り乱すことはなく、真一も何事もなかったかのように振る舞った。
「ご面倒かけますが、お世話になります」
そんな挨拶をしている中で学生達は周囲の景色に見惚れていた。
「加藤、車を駐車場に置いてきてくれ」
真一が加藤と呼ばれた学生に車でキーを渡そうとすると、盛蔵が声を掛けた。
「実は成瀬さん、今日は予約で埋まっていまして、みなさんのお泊まりはあそこの母屋で用意しています」
盛蔵が白樺林に囲まれた建物を指差した。
「母屋ってあの大きなお屋敷?わあ素敵、私一度あんなお屋敷に泊まってみたかったの。健吾の家と同じくらいじゃなあい」
「さあどうかな。俺んとこは酒蔵と一体化していて建物形式が違うし、10年前に改築したから昔の趣はないよ」
「さあさあ皆さん、立ち話もなんですから、取り敢えず荷物をロビーに置いて、お入り下さいな。車もそのままで結構ですわ」
「わかりました。そうさせてもらいましょう。お客さんが来られる前に退かします」
「例の打ち合わせですが、少し一服していただいてから、食堂でしようかと思っておりますが」
「それで結構です。できれば、皆さんにも加わっていただいて。その時に学生をご紹介します」
「承知しました。それでは食堂でお待ちいただけますか。すぐに呼びます。稲子頼むよ」
稲子は亜紀に連絡を取り、盛蔵は厨房へ行った。
真一は三人を集めて役割と手順の打ち合わせをした。それを終えたところに亜紀に連れられて耕造が入って来た。
真一とは初対面の耕造は、彼を見て一瞬目を剝いたが、言葉は発しなかった。今日打ち合わせに来る客を見ても驚かないようにと、盛蔵に釘を刺されていたからだ。
「どうもすみません。お忙しいところをお集まりいただいて」
「いえいえ、何を仰る。こちらの方こそ、お忙しいところを無理を言って引き受けて下さった上に、こんなところまでわざわざお越し頂いて申し訳なく思っております」
盛蔵が恐縮したように頭を下げた。真一はいえいえと手を振った。
「それを承知で引き受けたのですから、当然のことです。それでは彼らをご紹介します。みんな信州大学工学部建築学科の4年生です。彼らを同行させた理由は後ほどご説明します」
彼の横に控えている女子学生から順に自己紹介するように告げ、双方が紹介が終わると「始める前に」と真一が一言断りを入れた。
「ご了承いただきたいのは、金銭の話で恐縮ですが、それを最初に承知していただきたいのです」
彼はあくまでも事務的に徹した。
「お引き受けいただくからには、それはもう当然のことです」
盛蔵が即座に同意したところに、刈谷と亜希子がコーヒー、砂糖、ミルクを持って来て、彼らの前に置いた。刈谷は真一を見ても無表情だったが、亜希子はすっと息を呑んだ。髭を落とした彼を初めて見たのだ。刈谷夫妻は飲み物を置くと娯楽室を出て行った。
「始める前に確認ですが、盛蔵さんのご依頼はペンションを改造するに当たり、その相談に乗ってくれないかとのことでした。具体的にどこをどうするかまでの話はなかった。そうですね?」
盛蔵を見ると、彼はそうですと頷いた。
「それなのに、学生を引き連れてきたので、ご不審に思われたと思います。それをご説明します」
稲子が学生達へ「冷めないうちにどうぞ」と声をかけた。恩師がコーヒーに手をつけないでいるから、緊張気味に控えていた彼らも、それをきっかけにカップを手にした。
「ご依頼を引き受けるかどうか迷いましたが、考えた末に受諾することにしました。引き受ける以上は単に相談に乗るだけではなく、周辺の整備計画を含めペンションの設計にまで踏み込んだ提案をます。それが、先日亜紀さんが来られたときにお渡ししたグリーンハウス改造計画書です」
「ええ、拝見しました。立派なもので皆感服しました」
盛蔵の前にそれがある。
「それなら話は早いです。これから私がお話しすることに納得していただけるのであれば、ペンションの設計を含めてご依頼に応じます。だだし、設計料は一切いただくつもりはありません」
盛蔵と稲子は顔を見合わせた。設計まで引き受けてくれるのは願ってもないことだが、お金のことだと話し始めるから、当然その対価のことだろうと思った。ところが、それは不要だというから面喰らってしまった。と言って、それがいか程のものか、彼らには皆目見当もつかなかった。このペンションを建てたときは、全てを大工の棟梁に任せきりだったからだ。当時ここではそれが普通だった。
「その代りと言っては何ですが、この機会を利用して学生に実務経験を積ませたいと考えています。そのご了解を得たいのです。
彼らも建築についてそれなりに学んでいます。それでも、すぐには社会に通用しません。当然彼らも社会に出ていろんなことを学び経験するでしょう。まあ、わずか4年で転職した若造が言うのも何ですが、近頃の若者は
何となく大学に入ったものの、そこで教わったことと実社会でのギャップに、自分には向いていない職業ではないかとの思い込みや自分の未熟さに気が付いて辞める者が後を絶ちません。現に私が社会人だったとき、同期入社の者が1、2年の間に何人も職場を去って行きました。中には建築家を芸術家であるかのような錯覚をして、こんなはずではなかったと思い悩む者もいます。
そのようなわけで、社会に出る前に仕事のやり方とか進め方などを体験すれば、自分の適性や心構え、取り組み方など、実地に即した業務を通して体験できるのではないかと期待しているのです。それに亜紀さんにはお伝えしましたが、実際のところこう見えて雑用や何かで結構忙しいのです。ですので、再々お邪魔をして相談にのることができません。と言うわけで、実際に進めるのは学生たちに任せるつもりです。もちろん、最初の計画段階と進捗に応じた要所のところは、私が責任を持って指導しますのでご懸念には及びません。それでいかがでしょうか?」
対応は盛蔵に任せ切っているのか、稲子と亜紀は何も言わずに盛蔵を見た。耕造だけは孫によく似た真一だけをずっと注視していた。
「ご趣旨はよくわかりました。無理を言ってお願いしたのですから、それで結構です。しかし、いかほどになるのか知りませんが、設計料をお支払いしなければ、成瀬さんも学生さんも単なるボランティアになって困るのじゃありませんか。それに何がしかの対価をお支払いしなければ、私どもも言いたいことが言えなくなります」
真一は大きく頷いた。
「仰ることはご尤もです。そこで、私なりに考えました。これから今後の進め方をご説明しますが、打合せや役所の手続きやなんかでこちらへお邪魔するときは、その者の交通費、もし申請費や印刷代など別途費用がかかったときなどは、それらの実費をいただく、泊まる必要性がある場合には、その宿泊と食事の無償提供をお願いしたいのです。ただし、先程言いましたように、実体験させていただくわけですから 、学生達の人件費は一切無用です。
もし、不都合が発生したならば、その責は私が負います。このことはここにいる3人も、今後参画する予定の者も了解済です。こうしたことでいかがでしょうか?」
盛蔵は暫し黙って妻を見た。稲子は夫を見返し頷いた。彼女にとっては、真一が責任を持ってしてくれるのなら誰でも構わなかった。それよりも重要なことは、彼との関係を保つことの方だった。
「わかりました。お任せする以上それで結構です。でも、本当にそれだけでいいんでしょうか?何だか申し訳ないような気がしますが」
設計料不要の理由は理解できた。それでも盛蔵は困惑を隠せななかった。
「いいえ、未熟な学生に機会を与えていただけるだけでも有り難いのです。就職したての頃は、それこそ雑用程度の仕事しか与えてもらえないでしょう。ですから実務を知っているかどうかの違いは新人にとって大きいのです。彼らにいい経験になって自信に繋がるのではと期待しているのです」
「そうですか。それでは成瀬さんの仰る通りにしましょう」
ほっとした気配が双方に流れた。
「あの、成瀬さん」
稲子が眩しげに真一を見ながら遠慮がちに声をかけた。
「はい、何でしょうか?」
真一は稲子に向き直って応じた。
「参考までにお伺いするんですけど、設計料って普通いかほどのものなんでしょう?その辺のことは無知なもので・・・」
家の家計を預かる者として当然の質問だった。盛蔵もまた知りたいことだった。
「これは設計事務所によって決め方も違いますし、ばらつきもありますが、一般的には建築確認手数料とかそれらに関わる業務費用は別にして、監理費まで含めて建築費の10%ほどでしょうか」
盛蔵は思ったよりも高いと思ったのか、ほうと声を上げたが、稲子もそれ以上問うことはなかった。耕造は一言も発しないで、ただにこにこして成り行きを見守っていた。
「取り決めが決まったところで、契約となるところですが、私と盛蔵さんの間でそれは必要ないでしょう」
それでは改めてと、真一は学生の役割を紹介した。
「計画のチーフはこの中川がなります。そして、この江口が彼女をサポートするサブになってもらいます。これからは中川と江口のどちらか、あるいは両名が打合せの時には必ず出席します。
そのほか数名加わる予定ですが、基本的にここにいる3名が主体となって計画を進めます。ちなみに先にお渡しした計画書はみんなで協議して中川と江口がまとめたものです。私が言うのもなんですが、よくできていると思います。これからの説明はそれに基づいて行います。
チームは全員4年生ですので、彼らが卒業するまで、つまり来年2月末までに終えるつもりです。工程については後程ご説明しますが、彼らも卒業研究がありますので、それくらいの日数が必要かと思います」
真一がチーフとサブに、いいなと念を押した。
「先ほどの精算方法に関しては、この後彼らと協議して下さい。私がいるよりその方がお互いに話しやすいでしょう。
不明な点は何でも遠慮なく訊いて下さい。彼らが答えられない事項があれば後で私が回答します。それから今後の連絡や簡単な協議はメールか電話で行います。その辺のことも打ち合わせて下さい。
彼らには話をしていますが、こうした話し合いの結果と電話やメールでの遣り取りは、後々齟齬のないように打合せ記録簿として書面で残します。記録者は中川か江口のどちらかですが、受任者側の責任者には私がなります。顧客側の承認者は盛蔵さんでよろしいですね?議事録はその日か翌日にメールで送ります。双方疑義がなければ、こちらへ来た時あるいはお越しいただいた時にまとめてサインしていただき、それを双方一部保管します。
全て完了した後は設計計算書、仕様書、図面と一緒に報告書として提出します。もちろん、全てのデーターはCDに納めてお渡しします。以上何か疑問点はありますか」
殆ど一方的な説明だったが、誰からも質問は出なかった。それよりも彼の進め方に、これが今風のやり方なのかと単純に感心した。
昔このペンションを建てたときは、口頭での打ち合わせに終止し、しかもほとんど棟梁に任せきりで、記録など残したこともなかったことを思い出した。
「最後に私からのお願いですが、ペンションを新築するにあたって、環境保全とか地下水利用、下水道とかの原村の関係条例を確認してもらえませんか。あれから30年くらい経っているそうですから、改正されているかも知れません。ネットでも調べられますが、担当者から説明を受けた方がいいと思います。温泉に関する条例もお願いします。それと消防署の方もお願いします。防火設備や何かの規制が厳しくなっているでしょうから」
「承知しました。近い内に役場と消防署で確認しましょう」
「盛蔵、それはわしの方でしよう。知り合いもいるからな」
「それではそのようにお願いします。県条例の方は私どもが確認しましょう」
いいなと中川に言った。
真一は事前確認は全てしたと回りを見たが、意見も質問も出なかった。
「それではこれで事前に決めておきたい事項の確認を終えましょう。これから計画書についての説明を行いますが、その前に今後の連絡はこの二人が担当します。盛蔵さんの方も誰か窓口を決めておいて下さい」
言われて盛蔵は少し考え込んでいると、横から稲子がさり気なく夫の腿を突いて目配せをした。
「私ではすぐに対応できないこともあります。それにパソコンも苦手ですから、若い者同士亜紀ちゃんになってもらいましょう」
横で亜紀がいやいやするように手を振っていた。
「それでは亜紀さん、お願いします。ご足労ですが、大学の方へお越しいただくこともあるかと思います。その時の協議や決定は、金銭に関わるもの以外、亜紀さんに全面委任ということでお願いします。いちいち持ち帰って相談では作業が思うように進まなくなりますので」
盛蔵はその要請も当然のこととして了承した。
「後先になりましたが、設計の進め方やなんかを先にお渡しした資料を元に中川が説明した後、皆さんのご意見を聴き、最後にご要望を伺いたいと思います。すぐには回答ができないでしょうから、半日考えていただいて明日の午前に行うことでどうでしょうか?」
盛蔵が異存がないことを示すと、真一は立ち上がり握手を求めた。そんな彼のやり方に慣れていないのか、稲子は真一の手を握りながら面映ゆそうに笑った。耕造は探るように彼を見つめ、握った手を中々彼の手を離そうとはしなかった。
「それでは基本合意ができたということで本題に入りましょう」
真一の始めようかの合図で、計画のコンセプトを中川が紹介し、参画するチームの組織図、設計手順に概略工程を説明した。その間、真一は後方に下がり、彼女の説明を聴くに徹した。顧客側からの質問には中川と江口が澱みなく答え、3時前に散会した。
真一は森を散策することにし、学生達にはここに残って精算方法などの協議をするように指示した。
「亜紀さんにはお願いしていましたが、後であの家の中を拝見してもよろしいですか?お住まい中の部屋には入りませんので」
「ええ、どうぞご自由に。古いだけの家ですが」
あんな古い家のどこに関心があるのかと言った表情をして盛蔵が答えた。
「それでは亜紀さん、4時頃に戻りますので母屋の案内をお願いできますか」
亜紀は承知しましたと答え、後のことを盛蔵から一任された彼女が学生達と精算方法についての協議に入り、実費費用の支払い方法やここで作業をした時の電気使用料、インターネットの接続、作業場としての食堂利用などについて合意をした。
森の散策を終えて戻った真一を認めた中川が駆け寄り、タブレットに入力した打合せ記録簿を見せた。几帳面な彼女らしく決定した事項を箇条書きで要領良くまとめられていた。
真一は森の探索を終えると学生達にペンション内外の踏査を指示し、彼自身は亜紀と一緒に母屋へ向かった。
(四)
その建物は白樺林の中あり、その葉が黄色に染まり始めていた。林の中の立地を除けば、昔ならどこにでもあった農家の風景がそこにあった。
上空から
真一は玄関前の屋敷入口で立ち止まると、そこから建物の外観を観察した。
砂利敷きの広い前庭に白樺以外の樹木が数本植えられていて、庭の隅に掃き集められた落ち葉が小山になっているくらいで整然としている。
室内の空気を入れ替えるためだろうか、左右の建物を繋ぐ部屋の縁側のガラス戸が全て開け放たれている。広縁の足元には幅1間ほどの玉砂利が敷き詰められていて、中央に大きな沓脱ぎ石があった。
「いやー、素晴らしい。ここに住んでいるあなたが羨ましい」
感心する彼の横で亜紀は、こんな古い家の何処が。冬の寒さを知らないからそんなことが言えるのだと内心思っていたのだが、水を差すのもどうかと黙っていた。
目を左に転じると母屋から少し離れた所に車庫があってワンボックスカーとセダンが駐まっていた。
「どうかしました?」
真一が簡易製の車庫をじっと見ているので訊いた。
「利便性を考えてあそこにしたのだろうが、お屋敷の景観を損なっているのが惜しい」
「そうでしょうか。私は随分助かっていますけれど」
亜紀の言葉には応じず、車庫の背後にある2棟の白壁の土蔵に真一は子供のような声を上げた。今は物置き代わりにしているとの説明でも彼は目を輝かせた。
蔵はいずれも間口3間奥行5間で、
「中を見ても?」
真一は指差しながら振り向き、手持ち不沙汰に立っている亜紀に尋ねた。
「構わないですけれど、一つはがらくたばかりで、もう一つの蔵は昔使った帳簿が収められています。殆ど手をつけていませんから埃で一杯です」
「なに、構いませんよ。ひょっとしたら、掘り出し物があるかもしれない」
あまり入りたくない素振りの彼女に冗談を言った。
こんな蔵に感心して、この人は何だろうと思いながら、少し待っていてくださいと断り、小走りに母屋へ行った。彼女が戻って来るまでの間、彼は蔵を外から観察した。
亜紀がL字形の蔵戸鍵で格子扉を開けると彼だけが中に入った。明るいところから急に暗がりに入って何も見えなかった。次第に暗闇に目が慣れてくると、ぼんやり中が見えるようになった。
亜紀が照明を点けるとパッと明るくなった。
彼の目の前に、埃まみれの古い机や椅子、火鉢、薪ストーブ、何に使った物なのか古い台秤に臼に杵、
真一はまた素晴らしいと子供がおもちゃを見つけたような声を出した。足の踏み場もない状態で、奥まで行くことはできそうにないので諦め、右端の急な階段を昇った。そこには古道具屋が涎を垂らしそうな長櫃や木箱などが山になっていて、
出来れば時間をかけて中を改めたかったが、亜紀が埃を避けるためか、扉の外で待っているので、ざっと眺め回しただけで諦め下に降りた。
「いやー、素晴らしい」
何度同じ言葉を連発しただろう。あんながらくたの何が彼を興奮させるのか、亜紀にはわからなかった。
「古物商が中を見せてくれと言ってきませんか?」
「何度かありました。でも全てお爺さんが断りました」
「そうでしょうね、買い叩かれるのがおちでしょうから」
真一はそこから引き上げると、すぐ横にある蔵に向かい、亜紀が扉を開けるのを待った。
二つ目の蔵は、和紙を紐綴じした帳面と思しきものが、ずらりと棚に並べられ、置き切れないものは乱雑に積まれていた。みな埃まみれなので、真一でも手に取る気にはなれなかった。陰干しはおろか手入れも怠っているようだ。恐らく虫食いだらけだろうと判断した。
「これはひどい。保存がよければ文化財的な価値があるだろうに」
彼の呟きが自分に向けられているようで、亜紀は思わず下を向いた。
「いや、あなたに言った訳じゃないですよ。4年や5年でこんなにはならないから」
そこを後にして母屋の玄関へ向かった。
家内へ案内しようとする亜紀に、ちょっと一巡りしてもいいですかと断わると、玄関のある棟から反時計回りに観察し始めた。
東面には勝手口と小窓がいくつかあって、少し行くと和室になっている。雨戸が開け放たれているので内部の様子がよくわかった。一番奥の東側の和室に大きな仏壇があった。
凹状の内側で彼は足を止めた。そこは中庭で池と築山があった。池の周りに大小の岩を配置し、岩の間に種々の草木が植えられている。紅葉が始まったモミジに松やツゲそれに笹などが、赤と緑とコントラストをなして庭を引き立たせている。瓢箪形の池には大小の鯉が悠然と泳いでいる。正面の築山から奥は細い和竹の林だ。甚蔵が池はその竹林と方角の関係からか窺えない。
「これはちょっとした庭園だな」
腕を組んで感嘆の意を表した。
「池の水は池から暗渠で引いています」
「でしょうね。水位がそれくらいだから」
ここにも凹の内側に沿って半間幅の縁側があった。
真一は縁側の中程で腰を下ろし庭と左右の棟を見て首を傾げた。
「亜紀さん、こことあそこが若干新しいところを見ると一度改装していますね」
「はい。詳しいことは存じませんけれど、住み込みの使用人が大勢いた頃は四角く囲んで建っていたそうです。あちらの棟の1階にその方達用の玄関と部屋、それにトイレ、洗面所、お風呂場や台所があって、使用人がいなくなると曾祖父がもう必要がないからとこちら側にあった建物を撤去したそうです。作業場にしていた中庭もその時に今の形にしたと聞いています。その後、お爺さんが身代を譲られたときに、使い勝手が悪いからと建物の中を一部改装して現在に至っています」
亜紀の説明に真一は成程そうかと納得した。
「普通この角は地震や風に弱いものだが、腕のいい大工のなのか上手く補強している。台風の時なんか大丈夫でしたか?」
「一度台風が直撃しましたけれど、周りに木や竹林があるせいか、大丈夫でした」
真一は「そうですか」と応じると立ち上がった。
そこから左回りして、ガラス戸を開け放している西棟を覗き込んだが、障子戸が締め切られているので中は窺えなかった。
広縁の中央にある沓脱ぎ石があるところで腰を下ろし、両手を後ろについて前庭を眺めた。前庭5m程離れて白樺林だ。それは密に立林していなのに樹林が深いので見通しはきかない。それでも微風が頬を撫でて気持ちがよかった。
彼から少し離れて座った亜紀は先程から彼が無口でいるので何を考えているのだろうかと思った。
(この人は確かに修一のことを双子の片割れだろうと言った。それなのに自分の出生について疑問に思わないのかしら。家族に波風を立てたくないのは理解できる。でもそれだけではない様な気がするのは考えすぎかしら)
雀が柿の木の枝に止まり、チッチと鳴いてすぐに飛び去った。彼はのどかな気分に満たされた。
「ここにこうしていると、心が洗われるようだ。それにしても、これだけの大きなお屋敷と言うことは、加辺さんはこの辺では名士だったのかな?」
「はい。なんでも昔は名主で土地持ちの家柄だったそうで、苗字帯刀や蔵にあった駕籠の使用も許されていたそうです。その頃は田畑と山林合わせて200町歩ほど所有していたと聞いています。町歩と言われてもぴんときませんけれど」
「それは凄い。凡そ200haですよ。ざっと60万坪で・・・東京ドームの40個あまりだ」
(瞬時に計算できるなんて、この人の頭の中はどうなっているのかしら)
「でも山林のほとんどを明治政府に半ば強制的に接収されて、田畑もGHQの農地改革で小作人の方々に払い下げられましたから、今はその10分の1ほどでしょうか。お米を保存する蔵も沢山あったそうですけれど、今はあの2棟だけになっています」
「それにしても素晴らしいお家ですね。あの蔵も素晴らしい」
感に堪えない口振りで言った。
母屋を任されている亜紀にとっては、だだっ広くて薄暗く、隙間風が入るし雨戸の建て付けも悪い。冬は身体の芯までかじかむ寒さで住み心地がいいとはとても言えない。初めての冬は手脚の赤裂や霜焼けに悩まされた。
人が羨むような家ではないと思うのだが、どこがいいのかよくわからなかった。建築家には別の見え方があるのだろうか。
「庭の手入れはどなたが?」
「お爺さんが一手に引き受けています。でももうお歳ですから、近頃では庭師さんに入ってもらうことの方が多いのですけれど」
「そうですか。ああ、比較的新しそうな離れがありましたが」
それは西側の棟の北端に突き出たように建てられた8畳2間の部屋だ。
「ああ、あれはお爺さんが身代を義父に譲られるときに増築したもので、お婆様と一緒にそこでお暮らしだったそうです。お婆様がお亡りになってからは、目が行き届かないと困るからと母屋に移られて、いまは誰も住んでいません」
ふーん、そうですかと言ったまま、しばらく思案していた。亜紀はそんな様子を黙って見ていた。
彼の後について回ったが、なぜ彼が家を見回るのか真意をはかりかねた。そのことを尋ねると、その答えは予想もしていないことだった。
「僕はね、友達の家に招ねかれたときや公開された古い家屋へ見学に行くと、まず外から家構えを見て、家の中がどうなっているのかを想像するんです。それから中に入って違いがないか確認して、次に僕だったらどのような間取りにするかとか、リフォームするとしたらどのようにするか思案するのです。そんなことを繰り返しているうちに、僕の見立てにそう狂いがないようになった。
あちら側はあれだけ広いと正確には言えないが、そうだな・・・。たとえば、あそこが耕造さんの部屋で、その隣はお手洗いにお風呂場と納戸。玄関に入るとすぐに板の間で、昔はそこに囲炉裏があったと思う。その向こうに台所と食堂があって、その奥に和室が4つか5つ、部屋の広さは・・・、これはちょいと広過ぎて難しい。一番奥の一部屋は仏間になっていて左側は6畳のおえが一部と和室を改造した部屋。多分それが亜紀さんの部屋で、その北隣が加辺さんご夫婦の部屋。左右を繋ぐ棟は和室が4部屋、西の棟は床の間に続く和室が6つくらいかな。そうそう、耕造さんの部屋は多分厩があったところだと思う。こっちの2階はそうだな、窓が多くないから・・・、そう昔は蚕を飼っていた。違いますか?」
指差しながらの説明に亜紀は驚いてしまった。厩と囲炉裏はとうの昔になくしたと聞いている。2階の何もないところには蚕棚があったとも聴いた。概ね真一の言った通りだった。先ほどのグリーンハウス計画の説明でも横で聞いていて、彼の心配りに感心したばかりだった。
亜紀が大体その通りですと感心すると、彼はこれだけ開け放してあれば誰にでもわかると笑った。囲炉裏があったと想像したのは、破風を閉じた形跡があったし、蚕は以前泊まったときに桑の木を見たからと種を明かした。
「明治から大正にかけて、多くの人を雇って蚕を飼っていたのだそうです。蚕が食べる桑の葉が半端じゃなかったから、毎日男衆が大八車で運び込んでそれはもう大変だったそうです」
「それにしてもこれだけ大きいと雨戸の開け閉めだけでも大変でしょう?」
「ええ、でもお客様がいらっしゃらない限りあまり風を通すこともありませんから」
それでも大変だと独り言のように呟くと、それでは案内していただきましょうかと立ち上がった。
亜紀が先に立って重い玄関の戸を開けた。
中に入るとそこは平らな自然石がところどころ配置された3坪ほどもある土の
ぐるりと玄関を見渡した時、真一の目が一点に止まった。
玄関戸の鴨居から伸びる横木の端に一辺30cmほどの四角形の板が張り出していて、その上に土でできた巣があった。
「あれは燕の巣だね?」
「はい、そうです。昔に夫が取り付けたもので、燕がいる間は下の土間に糞の落下用に新聞紙なんかを敷いたりします。ここに嫁いだときは知らなくて、玄関の戸を閉め切っていましたら、燕が出入りできなくなるとお爺さんに叱られました。そんなこと都会育ちの私には少しも気が付きませんもの」
亜紀は鼻の下に手の甲を当てうふふと笑った。
「そうしても無用心にならないところが羨ましい」
真一は框の左端に置いてある長持ちに目を移すと、その上に季節の花を活けた大きな壺と石臼があり、その上に鋳物製の五徳が置かれ南部鉄瓶が載っていた。
「この茶釜風の形の鉄瓶とこのようなあられ模様を初めて見た」
真一が鉄瓶を持ち上げながら言った。
亜紀自身鉄瓶を見たのはこの家に来てからが初めてだし、大仏様の頭のような丸いつぶつぶをあられ模様と呼ぶことも知らなかった。何てあらゆるものに造詣が深いのだろうと感心した。
「ひょっとして、これらは亜紀さんが?」
「はい、蔵の点検に入りましたら、使われてなくて珍しいものがありましたので、お義父さんとお爺さんに手伝ってもらって、ああして飾りましたの。冬にお客様がお越しになった時は、あれでお茶を淹れたりなんかもします。花はあちこちに咲いているものを摘んで適当に活けました。華道の心得がないものですから、自慢できるようなものではありませんけれど」
「そんなことはない。華のことは詳しくないから偉そうなことは言えないが、長持ちと石臼と壺と花がぴったり合っていると思う。この中は?」
「飾りに置いただけですから空っぽですわ」
「そうですか。僕だったら、これを横倒しにして少し手を加えて靴入れ代わりするな」
言われてみればそんな使い方もあると感心した。
今は框の下に靴を納めているのだが、いちいち腰を屈まなければならず、使い勝手が悪いと亜紀も感じていた。彼の言うようにできればさぞ楽だろうなと思った。
亜紀は板戸を開け放つとこちらへどうぞと彼を中へ導いた。
主人の声を聞きつけたのか一匹のキジ猫が奥からやって来て、ニャアーと鳴いて彼女の足元に纏わりついた。
「あらニャーニャ、どうしたの」
屈んで猫を抱えると頭を撫でた。
「猫がいるんですね」
「ええ、玄関前に捨てられていた猫を飼いましたの。鼠が多いので助かっています。たまに鼠を捕ってくれるのはいいのですけれど、それをわざわざ見える所に置くから、その度にびっくりして。おまけに蛙や蛇まで」
思い出して可笑しくなったのかくすりと笑った。
「それは大変だ。でもそれはしようがないでしょう。猫だって自分の仕事ぶりを主人に認めてもらいたいだろうから。ははは」
「成瀬さんのお家は?」
「猫ですか?うちは飼っていないな。妹は犬を飼いたいようだが、朝晩の散歩が大変だし死ぬのを見るのが嫌だって、お袋が拒否している」
「妹さんは何をしていらっしゃるの?」
いい機会だとばかりにさり気なく訊いた。
「いや、まだ高校生だから何も」
そう言えば以前聞いたことを思い出した。
(今高校生なら彼とは随分年が離れている。私が思っている通りなら彼とは血縁関係にないのではないのかしら)
腕の中の猫がむずがり出したので屈んで下ろすと外へ出て行った。
真一が入ったそこも黒板張りの間で、年代を経ているだけにあちこち傷が見られた。それでも磨き上げられていて影が映るほどだった。だだっ広い空間だけに日中でも薄暗く、照明を点けても明かりは隅々まで行き届いていない。
真一は板の間の真ん中の柱の所で、ひんやりとした内部を見渡した。
彼が想像した通り、板の間は屋根までの吹き抜けだった。上部に湾曲した梁が縦横に走り棟木に天井板も剥き出しになっている。荒削りの梁は現在では考えられないような太さだ。
「素晴らしい梁組ですね。
天井と梁を食い入るように見上げながら、いつもの癖で構造計算をしかけたが、頭を振ってやめた。
屋根裏天井板や梁に垂木は、囲炉裏の煙で
玄関口近くの右端に急勾配の階段箪笥があり、その前に耕造が寝起きする6畳の和室の入口がある。階段箪笥の取っ手から、今では民芸博物館でしか見ることのできないような蓑や竹で編んだ笠、それに
「あれも亜紀さんが?」
「はい、殺風景でしたから素人考えで飾ってみました。蔵にあった蓑や藁靴などは古くてボロボロでしたので、老人会の方にお願いして作ってもらったものです。真剣になって見られますと恥かしいですわ」
「いやいや、僕は好きだな。あなたはこの家のよさをよく心得ている。あの長持ちといいこれといい素晴らしい感性を持っていると思う。お世辞ではなく今すぐにでもインテリアコーディネイターになれる」
「コーディネイターだなんて・・・とても、私はそんな学も資格もありませんわ」
亜紀は照れながらとんでもないと言う風に手を振った。
「いや、資格がどうとかじゃなく、何て言うのかな・・・。持って生まれたもの、いわばセンスですよ。これはいくら学んでも身につくものじゃない。主婦にしておくのは惜しい」
専門家に褒められてくすぐったい思いをしたが、悪い気はしなかった。単なるお世辞ではなく本心からそのように思っていることは彼の態度でわかった。これまでも来客から同じように褒めてもらったことはあるが、そのように実の籠った評価はされたことはなかった。まして建築家の彼に認めらて素直に嬉しかった。
白樺林に囲まれたここは喧騒とは無縁で家の中は寂しいくらいに静かだ。
「静かだなぁ。前に来た時は蝉がうるさくて人の声も聞こえないくらいだった」
そうでしたわねと亜紀は相槌を打った。
あの時は、森の中を彼と歩いていても蝉の鳴き声のせいで横に並ばないと会話ができないくらいだった。
「それにしても思っていた以上に広い。ここはみんな黒漆で仕上げられているようだ」
そのせいではないだろうが、この季節でも寒々しく感じた。
「ざっと20畳くらいか・・・。ここまで磨きあげるのに苦労したでしょう?」
「ええ、たまたまテレビで板を磨くのにレモンオイルがいいと言っていましたので、ひと月ほどそれで毎日拭き掃除をしました」
ふーん、なるほどなと感心して、面取りされた大黒柱を撫で、親指と薬指を広げ尺取虫のように屈伸させた。
そんな様子に亜紀は尋ねた。
「何をしておられますの?」
「ああ、柱の太さを測ったんです。40cmほどだな」
そんな具合にあちこち触りながら板の間を見て回った。
彼の納得した様子を見て、板戸で閉じられた食堂へ案内した。
そこは6人掛けの簡素な食卓と使い古された水屋箪笥が3棹、冷蔵庫とその上に電子レンジがあった。右側1段下がったところの土間に流しと調理場があり、瞬間湯沸かし器に繋がれた蛇口と少し離れたところに手押しポンプの井戸があった。空のままの漬物樽とか桶とかも並べられていて竈もあった。
閉ざされた空間のせいか、旧家にしてはここは思ったより広くないなとの印象を彼は持った。しかも台所と食卓が離れているからすこぶる使い勝手が悪い。
竃の穴まで覗き込み、隅から隅までまで見ている彼がどのような印象を持ったか聞きたかったが、何も発言しないので亜紀も押し黙ったまま彼につき従っていた。
台所と風呂場を見た後、食堂横の縁側から奥の部屋へと案内された。
食堂裏の6畳の和室に入るなり真一が言った。
「ここの天井は低いですね」
真一が手を伸ばすと掌で天井に届いた。
「ええ、この部屋だけが低いのです」
「ふーん、なるほどそう言うことか」
真一は暫し考えた後、言った。
亜紀には何がそう言うことかわからなかった。
「何がですか?」
「天井が低い理由ですよ。ほら、あそこに少し隙間があるでしょう。あの天井板は外れますよ。恐らくこの上に屋根裏部屋がある」
「そうかしら」
半信半疑だった。お爺さんにもそんな説明を受けたことがない。
「確かめてみよう。踏台か何かありますか?」
確かめずにはいられない性格なのかそんなことを言った。
亜紀は鴨居を拭き掃除するときに使う踏台を台所から持って来た。その上に載って真一が手を伸ばすと一枚の天井板が持ち上がり、そこから次々と天井板を開けると半間ほどの空間ができた。
「あら、本当だわ。そんな風になっているなんて少しも知りませんでした」
口に手をやって彼の慧眼に感心した。
真一は天井裏へ頭を入れて見渡したがなにもなかった。
「今は使われていないのかな。何もないですよ」
天井裏から頭を出してすぐそばで見上げている亜紀に言った。
そこから離れると、導かれるまま薄暗い和室を幾つも見て北端の仏間に入った。染み付いた線香の匂いがこの家の歴史を物語り、襖と障子で閉ざされた空間は日が差さないのでより一層暗かった。亜紀が蛍光灯を点けた。
座布団が一枚置かれた前の仏壇の扉は閉じられていた。常は開け放しているのだが、学生らに亡夫の遺影を見られるわけにはいかなかった。詮索好きそうな中川に亡夫の写真を見せてと頼まれても応じるつもりはなかった。
真一はざっと仏間を見渡した後、線香を上げさせて下さいと言った。
亜紀は一瞬彼を探るように見てから仏壇の観音扉を開けた。そこには花立てに白と黄色の菊の花が活けてあり、仏器にご飯が山形に盛られていた。
毎日の掃除は欠かさないのだろう。扉も仏具も磨きあげられていて、膳引などにも埃ひとつなかった。
亜紀は仏壇の照明を点け、引出しから
その間、真一は彼女の背後から金色に輝く仏壇を見た。
中央に阿弥陀如来立像が鎮座し、その両脇に親鸞上人と思しき僧侶と誰だか知らないもう一人の僧侶の掛け軸が脇侍として掛けられていた。宗派は土地柄と本尊からして浄土真宗だろうと見当をつけた。本願寺派か大谷派かまではわからない。彼の家は高野山が控えているだけに真言宗だが、新屋だし亡くなった者もいないので仏壇はまだなかった。
これほどの大きさの仏壇は岐阜の高山市に実家がある友人に招かれたときに見ているから驚きはなかった。それでも、さすがは元名主の家だと感心した。
亜紀は一分ほどの黙祷を終えると、横へいざり直り彼に席を譲った。
真一も蝋燭から線香に火を点け合掌した。頭を上げると仏壇の隅に置かれた小さな遺影が目に入り、食い入るように見た。こちらを向いて微笑んでいる彼の顔は自分よりも若く髪形も違うが、紛れもなく見慣れた自分だった。それを見ながら彼に問うた。
(あなたは兄なのか弟なのか?俺に何をして欲しいのか?何をさせようと言うのか?)
そんな無言の問いかけに遺影の彼は微笑んでいるだけだった。
真一がもう一度黙祷をして仏壇の前から離れた。亜紀は有難うございましたと礼だけを述べた。故人のことは一言も触れず蝋燭の火を消して仏壇の扉を閉めた。
そこから出ようとした時、真一は欄間に掛っている1間程の長さの額に目が止まった。それは巻紙に書かれた手紙のように思われた。見事な草書体で書かれているので一読もできなかった。それでもその書がどことなく変に思えて、首を左右に傾けながら何とか判読を試みようとしていると、背後から小さな笑い声がした。振り向くと亜紀がさも可笑しそうに手で口を押さえていた。
「ごめんなさい。成瀬さんでもそれは読めないでしょう?」
「ああ、達筆すぎてまったくわからない」
お手上げのポーズで肩をそびやかした。
「無理もありませんわ。裏文字と申しまして、文字が鏡文字になっていますから」
「鏡文字・・・?あっ、そうか。レオナルド・ダ・ヴィンチがしたように逆転した文字になっているんですね。いやー、それにしても達筆だ。素晴らしい。襖の文字もそうだが銘のある人が書いたものですか?」
彼が感嘆したのはそればかりでなく、部屋の仕切りである襖に見事な行書体で、火の用心とか一日一善、温故知新といった含蓄のある4文字熟語が襖一枚に一文字大書されていたことだ。誰の筆によるものか知れない筆跡をその都度真一は少し離れて腕を組み鑑賞した。書のことはわからないが見事だと頻りに感心した。書道には疎い彼でも相当な腕を持つ人の書だくらいは判別できるほどに立派な物だった。
「書道の先生をしてらっしゃったお婆様が若い頃に書かれたものです。当時の女性としては珍しい左利きだったとのことでしたから、それができたのだろうってお爺さんが仰って言っていました。襖の文字もみなお婆様が書かれたものですわ。黄色く変色してしまっているのが残念ですけれど」
「表具師に出せば綺麗にしてくれますよ。それにしてもいいなあ。これ程見事なものは床の間か客間に掛けたらどうです?」
「そうでしょう。私もそう思いまして、お爺さんにそのことを申しましたら、遊び心で書いたもので人様にお見せするようなものではないからとお婆様が仰ってそのままにしているそうです」
「うーん、それは残念だ。それにしても広い。襖を全部取り払えば60畳余りにもなる」
「それでもお婆様の法事の時は、お弟子さんだった方々や親戚の人が大勢こられて入り切れなかったそうですわ」
それは壮観だろうなと思いながら仏間を離れた。
最後にもう一度台所や風呂場回りを見て、東西の棟を繋ぐ部屋へ行った。そこは1間幅の広縁があり和室とは障子で仕切られている。
亜紀が最初の障子を開けたのは、彼女の夫修一が使っていた部屋だった。
「こちらが主人の部屋です」
今も使用しているような言い方だった。
8畳間だが、同じ畳数でも本間サイズなので真一の実家よりも広い。
真一はすぐには入らず、これだけ縁側が広ければ相向かいで食事ができると言いながら柱を撫でた。外から入る微風が心地よい。
「ここで寝そべったら気持ちがいいだろうなあ」
「何でしたら、夕食の時間まで少しお休みになれば。夜は虫の
「そう言えば、何年も聴いたことはないなあ。後でそうさせてもらおうかな」
独り言のように呟き部屋に入った。陽は差しているが、主がいないせいか寒々しく感じた。絶えず空気の入れ替えをしているので
縁側の障子に向かって年代物の大きな文机が置かれていて、障子戸を開ければ広い前庭が見える。
このような環境で勉強ができた彼女の夫を真一は羨ましく思った。彼の実家の部屋は窓を開ければ隣の家の屋根しか見えず、陽当たりもいいとは言えない。その部屋も今は妹が不法占拠している。
古い文机の中央に細高い花瓶に真紅の薔薇が一輪活けられ、右隅にはペン立てと写真立てがあった。彼の死を知らなければ、単なる主の不在としか思えないほどに部屋の中が整頓されている。恐らく生前のままの状態に保たれているのだろうと感じた。稲子の意思か彼女がそうしているのかわからないが、それではいつまで経っても忘れられないだろうにと思った。
真一は机上の写真立てを手に取った。亜紀の横に立つ男は確かに自分によく似ていた。こうして間近に見ると兄弟、いや双子だと言っても誰も疑わないだろう。彼の目は自然と右に立つ亜紀に行った。このときの彼女の髪は長く、風で前髪と後ろ髪が少し左側に流れている。ワンピースが彼女によく似合っている。
真っ赤に紅葉したモミジを背景にしていることから、彼女が言っていた森林公園へ行ったときのものだろう。頭一つ背の高い修一が、彼女の肩に腕をまわして少し照れた様子が慎ましやかな印象を与えた。
その写真は引き出しに仕舞って置いたのだが、彼だけが母屋を見に来ると知り、蔵の鍵を撮りに来た時に彼の目に付くようわざと置いたのだ。
真一がそれを見つめている様子を亜紀は背後で見ていた。その写真について何か言うだろうと控えていたが、無言のまま元に戻したので落胆した。彼の発言をきっかけに彼のことを少しでも聞き出すつもりだったのだが、はぐらかされたような気がした。
真一はもう一度室内を見渡し、ここで多分、見知らぬ兄だか弟だかが勉強していたのかと思いを馳せると、急に彼女の夫に親近感を覚え、どこからか彼に見られている気さえしてきた。
塗料の剥がれた古臭い本棚には様々な分野の本が並べられていた。中でも、彼の専門だった電子工学関係の書籍が多かった。真一はそこから1冊を抜き出し、ぺらぺらと頁を繰って手を止めた。その頁にはあちこち蛍光ペンが引かれていて、相当読み込み勉強していたことが窺えた。彼の場合、重要部分にマーカーで印を入れるのは同じだが、余白にコメントを書き込んだり、思いついたことをメモパッドに書いて貼り付けたりするので、これほど書籍を丁寧には扱ってはいない。顔は似ていても性格はかなり違っているようだと独りごちた 。
その部屋を出るとき、亜紀はさり気なく写真を机の抽斗にしまい鍵をかけたのを真一は目の端で捉えていたのだが、何も言わなかった。
次に亜紀は西側の棟へ案内すると、次々と襖を全開した。
亜紀に問うと、105畳あると言う。随分半端な畳数だなと思ったが、床の間を改めて見て納得した。これより広い広間はお寺や旅館の宴会場などで見たことがあるが、民家では目にしたことはなかった。
「今晩はこちらで泊っていだだきます。中川さんは南隣、加藤さんと江口さんは東隣の部屋です。お布団は夕食までに用意します」
了解して、ここでも真一は室内を一回りした。
北端にある書院造りの床の間には、これまた読めそうにない書体で描かれた一幅の掛け軸があり、その前の花台に一抱えもありそうな壺と香炉が置かれていた。門外漢の彼にはわからないが、恐らく銘のあるものなのだろう。この床の間だったら壺よりも甲冑の方が趣が合うだろうと単純に思った。書院地板にも小振りの壺と丹波焼の大皿が置いてあった。
床の間の絞り丸太と壁で仕切られた床脇には天袋に地袋があり、その間の違い棚には九谷焼と思われる華やかな絵柄の大皿と輪島塗の文箱が置かれていて、床の間と中の間を仕切る欄間には歴代の当主夫妻と思われる肖像画やモノクロの古い写真が額に入って掛けられていた。
「ここは落ち着いて中々いいですね。まるで旅館にいるようだ。雪見障子がいい。名主の家柄だけあって広い」
中庭側の縁側から庭を見て感心し、表側の広縁からも外を見て感嘆した。そこから先に離れがある。
「離れを拝見しても?」
「いえ、お爺さんのお許しを得ないと・・・。お婆さんとの思い出がある所なので」
お爺さんなら許可してくれるだろうと思ったが、無断で立ち入るわけにはいかなかった。
「ああ、それなら結構です」
あっさり要求を引っ込めると、板の間へ戻った。
「この広いお屋敷を亜紀さん一人で掃除を?」
ええと言葉少なに答えた。
「それは大変だ」
大仰に驚いてみせた。
これだけ広い屋敷を掃除するのにどれほどの時間を費やせばいいのか見当もつかない。自分の実家でれば、どんなに丁寧に拭き掃除をしたとしても2日もあれば十分だろう。
「でも、2階と蔵だけは手を入れていませんけれど」
「それはやめた方がいい。あれだけ物が乱雑に置いてあったら危険だし、やり出したらきりがない。それにしても、ここは住みにくいでしょう。夏は風が通っていいかも知れないが、冬は底冷えがするだろうし、この蛍光灯では照度が低すぎる。板の間も昔は囲炉裏でそれなりに暖かかったかも知れないが、これだけ広いと生半可な暖房くらいじゃ暖まりそうもない。キッチンも古いままで使い勝手が悪いし動線もよくない。土間にある手押しポンプは趣があっていいけど主婦には大変だ。風呂場も無駄に広いから体を洗っているうちに湯冷めしてしまいそうだ。それに、何と言ってもここが一番危ない」
そう言って箪笥階段の
「狭くて急だし途中に踊り場もないから、滑ったら下まで落ちる恐れがある。手摺りがあるけど上へは行くのは避けた方がいい。と言っても、そう言うわけにもいかないだろうから、あまり磨き上げないで、降りるときは後ろ向きの方が安全だと思う。滑り落ちたら大変だ」
彼の指摘は辛辣だったが、真っ当な意見だけに、反論できなかった。実際、一度危うく滑り落ちそうになって手摺りのお陰で助かったことがあった。
それでどのようにすれば良くなるとお考えですかと試みに尋ねてみた。
彼には構想が既に頭の中にあるのか淀みなく、こことあそこはこのように、この箪笥階段は貴重だから、使えないようにしておいて、あちらに階段を設ける。キッチンは古いからこのように、お年寄りがいるから浴室は狭くして浴室暖房と乾燥ができるようにした方がいいだろう。和室はみな照度が低いから部屋に合う趣のあるものにする。暖房もこのようにすれば経済的だなどと言いながら、身振りを交えて熱心に説明した。彼の説明は具体的で門外漢の亜紀にも理解できた。それにしてもと思う。専門分野の話となると饒舌だわと変な風に感心した。
稲子に限らず亜紀自身もリフォームの必要性を感じていただけに、こうして専門家のアドバイスを受けると、想像しただけで快適な住いになるような気がしてきた。しかし、それは自分が口を出すことではないと黙って拝聴しておくに留めた。
「亜紀さんは忙しいでしょう。案内はもういいですよ。僕はしばらく中でうろうろしています。お住まい中の部屋の中には入りませんからご安心を」
冗談ともつかない気遣いを受けて、亜紀はそれではごゆっくりと告げて彼から離れた。
(五)
男子学生は思いおもいに散策していたが、中川だけは途中から母屋に向かい、三和土から声を掛けた。
応対に出た亜紀に一人で見るからと断り、あそことあそこは入らないでねと言われた所を除き、恩師と同じように屋敷の中を隈なく見回った。
その彼は座布団を枕に広縁で寝ていて鼻をそっとつまんだが起きる気配はなっかった。
一通り見終わって台所へ戻ると、お手伝いするわと夕食の準備に余念のない亜紀の横に立った。
「大きいお屋敷でお掃除が大変でしょう。机が置いてあったお部屋はご主人の?」
「ええ、そうよ」
言葉少なに答えた。好奇心の強そうな中川のことを考えて、写真を仕舞っておいてよかったとほっとした。
「先生とはここで知り合ったんですって?」
早速探りを入れてきた。
亜紀は短く、ええとだけ答えた。
「先生はいろんな学部の教授や准教授から住宅設計を依頼されて大変なの。先生の美学だか矜持だか知らないけど、やむなく受けても、設計料の受領をああして辞退しているの。だから個人的な要請には応じないはずなのだけど、どうしてここだけ 肩入れするのかしら?不思議だわ」
どうしてかしらと、とんとんと野菜を刻んでいる亜紀の顔をわざとらしく覗き込んだ。
「さあ、義父が強引に頼み込んだからじゃないかしら。それと、学生さんのためになるからと思われたからでしょう」
中川の方を向かずに答えた。
「それはそうだけど、それだけじゃないと思うの」
中川の意味ありげな問い掛けにも答えようがないので黙っていた。幸い中川もそれ以上詮索しなかった。
「何の料理を作っていますの」
「なめこ汁がみなさんには珍しいかなと思って。いつもは4人だけなのに今日は人数が多いから大変。でも賑やかになって義父も嬉しそうでした。お爺さんも若い人が来てくれてとても喜んでいるわ」
「出来ることがあればお手伝いするけど」
「それはありがたいわ。お手伝いしていただけるなら、パスタを茹でてポテトサラダを作っていただこうかしら。それとそこにあるお野菜を洗って切ってから大きな木の器に盛るの。適当に廻し取りしてもらって、召し上がっていただこうかと思って」
それくらいは亜紀一人で出来るのだが、暇に任せてあちこち見回れるよりましとお願いすることにした。
「お食事はここで?」
「ここは手狭だから、運ぶのが大変だけれど繋ぎの間にするわ」
「繋ぎの間って縁側のある・・・?」
「ええ、そうよ」
「お料理は全部亜紀さんが?」
「いいえ、今日はペンションのことで来ていただいたから、板前の刈谷さんが作ってくれるの。私はご飯とお味噌汁とお漬物を用意するくらい。あ、中川さんが作って下さる野菜サラダもね」
「ここはご主人のお家よね?一度亜紀さんが研究室に見えたときに先生を吊るし上げて白状させたの。先生は嘘がつけないから口を割らせるのは簡単だったわ」
彼も不用意なことは発言はしていないと思うが、用心するに越したことはないと亜紀は警戒した。
「ご主人はお亡くなりになったんですって?」
ほら来たと亜紀は身構えた。
「ええ、5年ほど前に」
「それからずっとこちらで?」
「ええ。でも悲しいことは余り人に話したくないの、私のことはいいでしょう。中川さんはどうして成瀬さんの研究室に?」
「先生が好きだからに決まっているわ。私だけじゃないわ。女子学生みんな先生のファンなの。あの通りイケメンで、頭が良くて誰にでも気さくで恰好いいし。男子も兄のように慕っているわ」
誰にでも気さくと言うのは疑問に思えたが、それ以外のことは納得できた。
「毎年入室希望者が殺到するけど、先生の眼鏡に適った人だけが入室を許されるの。と言っても先生は成績の良し悪しだけで決めないし
「何人ほどが許されるの?」
「定員は5名だけど8人ほどが許可されているから、もう大変なのよ。秘書になりたがる女子もいるから、講義があるときは終業前にこそっと教室を抜け出して一気に走るのよ」
手慣れた様子で大根の桂剥きをしながら続けた。
「近々准教授に昇任するって噂があるけどどうかしら。先生はまったくそれに関心がなさそうだし」
中川は手を止めて亜紀の様子を窺ったが、彼女は関心がなさそうに鍋を置いたガスコンロの火の調整をしている。それならこれはどうだとばかりに女の話題を出した。
「先輩の話では、今までも何人かの学生が姉や妹を連れてきて、それとなく引き会わせてみたけど一人として進展したことがなかったらしいわ」
亜紀もそうだろう思った。ほんのわずかな時間しか彼とは話をしていないが、女の匂いは感じさせなかった。少し彼のことがわかってきたような気がした。
「本当はこっちの方じゃないかって噂・・・」
「何がこっちだ?」
中川が右手の甲を左頬の方に当てたとき、突然背後から声がしたのでビクッとして振り返った。
「本人のいないところで噂話はするなと言っているだろう。出入り禁止にするぞ」
二人は飛び上がりそうになったほど驚いたが、落ち着きを取り戻すと中川が抗議した。
「びっくりさせないで、息が止まるかと思ったわ。女が居るところへ入るときは一声かけるのが常識ですよ」
亜紀は中川のため口にも驚いた。
真一は少しも気にしない調子で、中川に水をくれと言った。亜紀が手近にあったコップに水を汲んで差し出した。喉が渇いていたのだろう。それを受け取って一気に飲み干し口を腕で拭った。
「あー、冷たくてうまかった。亜紀さん、これは井戸水?」
「ええ、そうです。ですからミネラルウォーターは購入していません」
「なるほど道理で。夏に
「ええ、それはもう。これでコーヒーでも淹れましょうか?」
「それは嬉しいな。でも中川にさせましょう。コーヒーの淹れ方が上手から」
中川は名指しされて嬉しそうに、亜紀から器具のありかを訊いた。
「中川、手伝うのはいいが、余計なことを聞いて邪魔していないだろうな」
「まあ、失礼ね。そんな憎まれ口を言ったら、コーヒーはなしですよ。先生の方こそ、何をしていたんです?まさか亜紀さんの部屋や私の荷物の中を物色していたのではないでしょうね?」
恩師の鼻をつまんだことを伏せ、減らず口を叩きながら、コーヒーセットのありかを聞いてコーヒーを淹れる段取りを始めた。
「馬鹿な、誰がお前の鞄の中を覗くものか。縁側で緑を見ているうちに、気持ちが良くて大の字になっていたら寝てしまった。毛布をかけてくれたのは亜紀さんが?」
「ええ、少し寒そうでしたから」
座布団を枕に、毛布を掛けたのも彼女だった。
「そう言えば、君が失恋した時、首を括るのに恰好の枝ぶりの木があった。後で教えてやろう」
恩師と学生とは思えない二人のやり取りを亜紀は笑いながら聞いていてふと思った。修一と二人のとき、こんな風に言いたいことを言い合ったことがあっただろうか。彼の生真面目な性格のためなのか、それとも私が失明していたので遠慮していたのか、こんな気楽な感じで言い合って笑った記憶がないことに思い当り、胸がチクリとした。
歓迎の宴は8時すぎから始まった。
ペンションから運び入れた刈谷の料理が膳の上に並べられると、男子学生は目を丸くした。真一らは表側、加辺家は内側で、両者の間は人一名が座れるだけの狭さだった。
その狭い場所に盛蔵と稲子それに亜紀が入れ替わり立ち替わり彼らの前に座って酒を勧める田舎風の接待に緊張していた学生達も酔うにつれ無礼講状態になった。真一も酒が入るに従いほろ酔い加減になって饒舌になった。見たところ、酒は随分強そうだ。注がれるまま適宜返盃しながら飲んでいる。先ほどまではビールだったのが、今は日本酒になっていたが、慎一だけは学生の手前か左程乱れていない。
主役はやはり真一だった。最初の頃は、原村の観光名所や八ヶ岳、ペンションのことが話題の中心だったが、建物の話になり日本家屋のことに移った。
「日本家屋のいいとろはだな、あの縁側だ。普通半間幅だが、ここはその倍もある。建築学的に言えば広縁だ。京都の寺では珍しくないが、民家でこれだけのものはあまり見たことがない。こういった日本建築の縁側は世界に誇れるものだと思う」
言われてみんなは箸やコップを持ったまま外を見た。雪見障子は開け放たれていてガラス戸は閉められている。そのガラス越しに白樺の林が薄らぼんやりと見えた。
「例えば、ここの障子を閉めてガラス戸を開ければ縁側は家の外だ。ああやってガラス戸か雨戸を締め切ると縁側が家の中だ。見ようによっては贅沢な空間だが、家の内と外を緩和する役割も持つ。そしてそこで昼寝もできるだろうし、家の中に上げずともお客さんの応対はそこでもできる。つまり気心の知れた人なら世間話ができるし家事もそこでできるだろう。娯楽がなかった時代には碁を打ったり将棋を指したかもしれない。昔の家は本当に素晴らしいと思う」
盛蔵達は、へえ、そんな見方もあるのかと感心する一方で、亜紀は頬が赤らむ思いだった。気持ちのいい日は、そこでうたた寝をしたこともあれば、洗濯物を畳んだりすることもあるからだ。ときには何も考えずぼーっとすることもできる重宝な空間だった。
「あっちの棟は、襖を取り払うと105畳にもなるそうだ。それだけあれば何だってできる。外国だと壁があって中々そうはいかない。合理的にできていると思わないか」
真一の
囲炉裏があったことに真一が言及すると、盛蔵がその頃のことを話し出した。彼が子供だった頃の思い出話だ。報恩講などで近所の人達が集う時はそこが憩いの場所だった。
やがて学生達が酔いに任せ、口々に恩師を種に学内での評判や失敗談を語り始めると、彼は苦虫を噛み潰したような表情で憮然とした態度になった。その様子が可笑しくて加辺家側の笑いを誘った。他人の耕造らがいる手前、叱り付ける訳にもいかないのだろうと思うと亜紀は可笑しかった。何気なく義母を見ると彼女は笑いながら彼を凝視していた。耕造は初めから彼にしか眼中になかった。盛蔵も学生に酒を勧めながら顔は彼の方に向いていた。加辺家の人達はそれぞれの思いを抱きながら修一に酷似した彼に注目した。彼もまた彼らの関心の的だと自覚していて、それは避けられないものとして平然を装った。
亜紀は時々目を閉じて彼の声を聴いているとあの人といるような錯覚を覚えた。ところが目を開けると記憶している彼とは少し異なる彼がいた。こうして見ると二人の持つ雰囲気がまるで違うように思えた。
宴の間中、彼女は夫のことが話題になりはしないかと心中穏やかではなかった。だが、学生達はそのことに関心がないのか話題に上らなかった。心配が杞憂に終わりそうでほっとした。
みんなの顔がいい色になり、話題も途切れがちになった頃、稲子がさり気なく訊いた。
「お聞きしたところでは、成瀬さんはまだ独身でいらしたわね。どなたかいい方はいませんの?」
ざわざわしていた席が急に静かになり、真一は飲みかけたビールにむせ返って隣の中川に背中をどんどん叩かれた。
「急に変なことを言わないで下さい。美味しい料理が不味くなるじゃないですか」
「あら、ごめんなさい。こんないい男が独身のままでいるのが不思議だと思ったものですから」
しれっとして応えた。
あのとき狂乱したとは思えない態度で学生らの話に交じり合い、何事もなかったように振る舞う彼女のしたたかさに感じ入り、油断ならないと気を引き締めていたのに、いきなりの口撃でむせ返ってしまった。
「そう言えば先生、確か半年前ほど前に佐藤教授のお嬢さんとお見合いしましたよね」
加藤と呼ばれていた学生が何気なく言った。
「お前、何を言い出すんだ。そんなことここで言うもんじゃない」
真一がひどく
「先生、私に黙ってそんなことしていたんですか。ひどい」
酔っ払って目の縁を赤くした中川が真一の肩をばしっと叩いた。酔っているとは言えその馴れなれしさに盛蔵は目を丸くした。
「慶子、お前だけだぞ、知らないのは。何でもお嬢さんの方が積極的で、教授に申し入れたものらしいぞ。でも、先生が色よい返事をしなかったからその話は流れたって」
憮然としていた真一も黙っていられなくなった。
「お前ら、噂話はするなと言っているだろう。知らない癖にいい加減なことを言うな。出入り禁止にするぞ」
そんな脅しにも酔った彼らには通じなかった。
「それは研究室の中だけですよ。ここは加辺さんのお宅だから先生の決めたルールは当てはまらないわ」
「もういい、その話はおしまいだ」
ねじ伏せるように宣言したが、稲子はもっと聞きたい素振りをした。それを見た加藤が酔いで真っ赤になった顔で言った。
「だったら先生、ヨーロッパを回ったときの話をして下さい。そのときロマンスがあったそうじゃないですか」
「何のことだ?ただぐるぐる回っただけだ。色っぽい話は何もない」
恩師の言葉に、彼はちっちっと人差し指一本をわざとらしい仕草で目の前で振った。
「石黒先輩がいつか言ってましたよ。先生がトルコ美人に追いまわされて困ってたって」
「馬鹿野郎、ありもしない噂を信じるな。それに俺のことを肴にするな」
「いいじゃありませんか。私も是非お聞きしたいわ」
稲子はちらっと亜紀を見て言い、盛蔵も耕造もさりげなく聞き耳を立てた。亜紀は無関心を装って江口にビールを勧めた。
「そんな昔のことはよしましょう。加藤、お前は明日から出入り禁止だ。中川、絶対部屋に入れるな」
どこまで本気かわからないが、それを聞いた加藤は慌てて謝罪した。
「先生、それだけは勘弁して下さい」
低頭して謝っても真一は不機嫌にそっぽを向いたままで返事もしない。
恩師と教え子の間での不思議な光景に盛蔵らは呆気に取られて見ていた。
「先生、お客さんの前でしかも酒の席でそんなことを言うなんて大人気ないですよ。ここは研究室じゃないんだからルール違反じゃないし、先生はいつも言っておられるじゃないですか。酒の席では無礼講だって。ほら、加辺さんだって驚いておられるます」
中川に諭され前を見ると、みんなが目を丸くして注目していたから確かに大人気ないと反省した。きまりが悪くなりぐい呑みに日本酒を手酌で注ぎ一気に飲み干した。
「それじゃ酒の肴だと思って話して下さい。私らは成瀬さんのことを少しでも知りたんです」
年長者の盛蔵に言われ、先ほどの気まずさもあって箸を置くと、面白くもない話ですがと断り、そのときのことを話し出した。
「大学卒業後、とある建設会社に勤めましたが、4年ほどして恩師から研究室に戻らないかとの誘いがあって、まあ就職後の目標も一応達成していたので母校に転職することにしました。以前からヨーロッパの古い建造物に興味があったので、これを機にヨーロッパ各国を回ろうと半年早く退社しました。
リュック一つでスペインに渡り、中古のバイクを調達して東ヨーロッパへと縦断しました。ほとんど手持ちのない貧乏旅行でしたので、懐が寂しくなると民宿やホテルで皿洗いをしたり、農場で働いたこともあれば大きなお屋敷のゲート番をしたこともあります。
お金がある程度貯まると次へ行くといった具合で、スペインからフランス、中央ヨーロッパ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを経由してトルコまで行きました。加藤の話はヒッチハイクしていた女子学生と知り合ったときのことです。
トルコのイスタンブールの手前の街まで来た時、一人の女が紙を振って横から飛び出して来たのでびっくりして停車したら、勝手にバイク後ろに乗り込んで来たんです。彼女はイスタンブール大学の学生でこれから寮に戻る途中でした。
トルコと言っても、アジアとヨーロッパの境界にあることやEUへの加盟を切望しながら果たせずにいると言った程度の知識しかありませんでした。もちろんかつては広大な領土を誇った帝国だったことは歴史で習って知ってはいます。ですが、そんな程度でした。
イスタンブールでは、彼女から紹介された旧市街の朝食付きの安宿に泊りました。そこへ彼女がやって来てブルーモスク、アヤソフィア、ドルマバフチェ宮殿、バザールとか日本人がよく行く観光地を案内してくれました」
「そんなことはどうでもいいから、その女学生とはどうなったんです?」
加藤が恩師をせっついた。
「お前、出入り禁止・・・」
みんなが笑顔になっているのを見て、語尾を呑み込み話を続けた。
「別れるときにメールアドレスを教えてくれと言うので、紙に書いて渡した」
「訊かれもしないことをわざわざ断るところが怪しいけど、はいはい、そうしておきましょう」
中川は煮物を頬張りながら恩師の顔も見ずに言った。どちらが年上かわからない会話に盛蔵と耕造が大口を開けて笑ったので真一は何か言いかけて止めた。
「私が講師になった年の夏休みに日本に来ると言ってきたので、成田まで迎えに行って長野へ連れて来ました。教職員宿舎に泊めるわけにはいかないので、学生に頼んでホームスティしてもらいました」
「あら、先生の宿舎に泊めてあげればよかったのに」
「馬鹿野郎、そんなわけにいくか」
目の周りを赤くした中川はぺろっと舌を出して首を竦めた。
「慶子、石黒先輩が言うには、背が高くてグラマーでものすごい美人だったってさ」
あら、そうよかったわねと澄ました顔をして受け流し、真一はそんなことは知らんと黙殺した。
「言葉の方は問題なかったのか?向こうは英語かトルコ語か知らんが」
耕造の問いに彼の方に向かって答えた。
「公用語はトルコ語ですが、教養人は普通に英語が話せます。私はその時はまだトルコ語が十分に話せませんでしたので」
彼の発言を聞き咎めて盛蔵が口を挟んだ。
「そのときはまだとと言うことは、トルコ語を話せるようなったと言うことですか」
「ええ、まあ。彼女の紹介でレストランで仕事をしているうちに簡単な会話をする程度には」
「何日居たのか知らないが、それは大したもんだ」
「トルコ語は日本と語順がほとんど同じですから、単語さえ覚えれば話せるようになります」
「それでも大したもんじゃ。失礼じゃが、何か国ぐらい話せるのかな?」
それはいいじゃないですかと耕造の質問をはぐらかせた。
「それで成瀬さん、それからどうなりましたの?」
稲子は話を戻して先を促した。
「どうもしません。大学と上高地、京都、奈良の観光地を案内して、彼女が行きたいというので僕の実家へも連れて行きました。それが変な噂になった真相です」
「ご両親はさぞ驚かれたでしょうね」
稲子は相の手を入れながら真一のグラスにビールを注いだ。
「ええ、まあ。事前に連絡はしておいたのですが、どのように接していいかわからずおろおろするばかりでした。妹だけは物怖じしない
イスラム教徒だから豚肉は駄目でも牛肉はいいだろうと焼肉屋へ連れて行きました。甘口のタレが気に入って、何人前も食べるから親は目を丸くしてびっくりして。それからはどこへ行ってもそればかり食べていました」
「それは物入りで大変でしたな」
盛蔵は笑いながら言った。
「ええ。電車やバスに乗っても大男に大女、妹も中学生にしては背が高い方ですから目立つ上に3人してニンニクの臭いをぷんぷんさせるものだから、露骨に嫌がられました」
ははは、それはそれは気の毒にと耕造は手を叩いて大笑いした。
亜紀は真一の話に耳を傾けながら、目の前の中川にビールを注ぎながら小声で訊いた。
「加藤さん、危うく出入り禁止になりそうでしたけれど、今までにそのようなことがありましたの?」
「私が聞いたところでは2年先輩と3年先輩にいたらしいわ。先生は研究室で人の噂をすることを何より嫌うの。2年先輩のときは『人の噂をしたり聞いたりするのは楽しいかも知れんが、噂された当人の身になって考えたことがあるか。場合によってはその人の人生を狂わせることだってあるんだぞ』って散々説教されて出入り禁止になったって。それを知ってからは先生の前では誰も噂話をしなくなったわ」
それを聞いて亜紀は彼の危うさを感じた。今のことや設計料を拒否するなど清廉潔白なことは悪いことではないが、世の中みんなそんな風には動いていない。清濁併せ持ってとまでは思わないが、それが過ぎるといい結果にはならないのではと少しばかり危惧を覚えた。
そんな話をしている間にいつのまにかこの家の広さが話題になっいた。
「わしの連れ合いの法事のときは100人近く招いたことがあって、それはもう大変じゃった。なあ、稲子さん」
「ええ、それはもう大変でした。隣近所の人達にも手伝っていただいたけど、お膳やお椀なんか奥の方から出してきて、精進料理なんかも何日もかけて用意しましたもの」
修一の3回忌のときは亜紀も義母に教わりながらそれをしたのだが、その前の1月間は大変だったことを身を以て知っている。そのことに義母が触れなかったのでほっとした。
「法事はともかく、今のような少人数の家族では無駄に部屋数が多いのも問題じゃな。昔はロの字の形に建物があったんじゃが、わしの親の代に北側を取っ払って今のような形にした。それでも亜紀さんが何日もかけて掃除をしているのを見ていると気の毒になってしまう。それに、台所も風呂も古いままだしな。今時あんな風呂もないじゃろ。稲子さんが言うように、改装を考える時期がきたのかもしれんなあ」
宴会が終了したのは9時遅くだった。
「慶子、先生のところへ夜這に行くなよ」
加藤が部屋を出るとき、少しふらついている中川を冷やかした。
「失礼ね。先生が私のところへ来るのよ」
「行ってもやってもいいが、俺は寝像が悪いし、いびきと歯ぎしりがすごいからな。眠れなくても知らんぞ」
「大丈夫。先生より早く寝るから」
盛蔵は彼らの冗談に大笑いしながら、彼に依頼して良かったと心から思った。
真一が朝の運動を終えて森から戻って来ると、中川が一人朝食を摂っているところだった。台所では亜紀が卵を茹でていて、長方形の食卓の上には食パンにバターとジャムの瓶が置かれていた。
「お早うございます。朝早くからどちらへ?」
トーストを頬張りながら中川が訊いた。
「お早う。ちょっと、運動をして来た。今何時だ?」
「7時半を回っています」
「そうか、昨日は少し飲みすぎたな。みんなまだ寝ているのか?」
「ええ、まだ誰も起きてきません」
「お早うございます。よく眠れまして?」
茹で上がった卵を竹籠に置入れて亜紀が言った。
「よく眠れた。何年ぶりかなぁ、虫の音を聞きながら寝たのは。都会では失われたものがここにある」
亜紀は牛乳を入れたコップをテーブルに置き、ご飯にするかトーストにするかを尋ねた。
「面倒くさくないように、パンにしようかな」
中川の朝食を見ながら答えた。
亜紀は手慣れた手つきで調理し、目玉焼きにソーセージとベーコン、自家製のコーンスープそれに野菜サラダをテーブルの上に置いた。
「これは豪勢な朝食だ」
並べられた朝食を見て思わず声をあげた。 彼の朝食は学食で摂る以外はトーストとコーヒーに決まっていた。
「皆さんは?」
「お爺さんはまだですけれど、義父は済ませました。義母は朝を抜くことが多いので。ジュースの方がよかったかしら」
亜紀が厚切りのパンをオーブンで焼き彼の前に置いた。
「いや、牛乳は大好きですよ。子供のころから飲みすぎて少し成長し過ぎた」
「お爺さんは和食ですので、お味噌汁もあります。よろしければお椀によそいますけど」
「いや、これで十分」
真一は目の前にある瓶を手にとってトーストに塗りながら、サラダを口にしている中川の顔を初めてのようにしげしげ見て、わざと前のめりに顔を近づけた。
「中川、素っぴんでそれなら眼鏡をかけない方が美人に見えるぞ」
「大きなお世話です」
中川は澄ました顔をしてぴしゃりと言った。それは学生と恩師ではなく、友達のような応対だったから亜紀は笑ってしまった。
「先生、そんな格好・・・ちゃんとした服くらい持ってこなかったんですか?」
恩師のジャージ姿に苦言を呈した。
「これが一番楽なんだ。家にいる時はいつもこれだ。寝るときも下着一つだ。セクハラと言うな。君は知らんだろうが、寒い北国や雪国ではすっぽんぽんで寝るんだぞ。その方が自分の体温で布団の中がよく温まるんだ。俺と一緒になったら、それくらいは我慢しなくちゃならん。一度試してみろ」
「よーく、考えておきます」
二人のやりとりに思わず亜紀はぷっと吹き出してしまった。
耕造がおはようと入ってきた。
10時からの議事進行は刈谷らも交えて真一が執り行った。
昨日の説明では顧客側の意見を取り入れていないので、素案をベースに要望を聴くとの趣旨だった。
盛蔵の要望は明快で、2階建てであること、今と同程度の人数が宿泊できて、客室と風呂場は現在よりも広くすること、娯楽室も必要であることなど基本的な考えを示した。
稲子の要望はただ一つ。冬の結露がひどくて掃除に難儀していることを訴えた。それに対して真一は窓ガラスを真空ガラスにすることを提案した。
稲子も盛蔵も結露防止にはペアガラスが有効であることは知っていたが、真空ガラスのことは初めて聞いた。
「その真空ガラスとはどのようなものですの?」
「2枚のガラスの間を真空にしたものです。一般的なペアガラスよりも割高ですが、遮音効果や断熱効果がそれよりも期待できます。ただ、サッシもそれ用にしないと効果は薄れますし、高価なことが難点ですが」
「それじゃそれで計画していただきましょう」
盛蔵が
刈谷も盛蔵から伝えられたいたので遠慮がちに厨房への希望を述べ、耕造がこの機会にあの絵のように森を整備したいと希望した。しかしそれは後日考えようと盛蔵に却下されて引き下がった。最後になった亜紀の意見は以前から考えていたらしく、具体的で多義に渡って
身障者が安心快適に泊まれる先進的なバリアフリー対応であること、ペット同伴の宿泊も念頭に置くこと、どの客室からも山と池が見られてかつバルコニーを設けることなどを要望した。
彼女が希望を述べる横で、盛蔵と稲子は顔を見合わせた。彼女がここから出て行くことなど微塵も考えていないと知ったからだ。
意見が出尽くしたことを見極めると、真一は確認ですがと切り出した。
「こうした打ち合わせをしていますと、たまに建物の方角を気にする方がおられます。風水とか一家言とか、
盛蔵に問うたのだが、亜紀には学生達を教育しているように感じられた。
問われた盛蔵は耕造を見て少し考えて答えた。
「いや、これを建てるときもそんなこと考えたことはありませんでした。それは気になさらなくてもいいですよ」
要望も意見も出尽くして、それで切り上げようとしたとき、「おい、盛蔵」と耕造から声がかかり、それで思い出したのか盛蔵が言った。
「あ、そうだ、成瀬さん、肝心なことをお願いするのを忘れていました」
「何でしょう?」
「ご存知のようにこの辺にはペンションが数多く建っていて、森や池があるだけでは新しいお客さんを呼び込むことが難しいんです。それで爺さんとも相談したのだが、この際だから露天風呂なんかを考えたいのだがどうだろう。温泉の活用法なんかもアドバイスいただけるとありがたいのですが」
意外な要望に学生達は顔を見合わせた。ここまでくると学生達の能力では対応しかねて、恩師がどのような返答をするのか見守った。
露天風呂ですかと真一は難しい顔をした。夏に風呂を利用しているので、それが温泉だったことくらいは知っている。
成分分析表では確か湯温と湧出量はこれくらいだったですねと正確な数字を言ったから誰もが驚いた。
「まさしくその通りです。それにしてもよく覚えているものじゃ」
耕造が感心した。
「湯量がそれだけあれば相当なことができそうですね。あまり確実なことは言えませんが、思いつく限りでは、中房温泉のように室内暖房に利用するとか、水道水をそれで温めて給湯するとか、管を地下に這わせて温室として活用することも可能かと思います。それなりの設備は必要となりますが」
「ほう、そのようなことができますか」
「でも、湯の華なんかでパイプが目詰まりしやすいからメンテナンスが大変ですよ」
「それはこれまでもしていることですから承知しています。それにうちのは湯の華が少ないんです」
そうでしたねと相槌をうちながらも露天風呂には難色を示した。
「建築家としての矜持でもあるのですが、設計者は単にお客さんの要望を聞いてそのまま形にすればいいとは思ってはいません。
お客さんにとって家を建てることは一生に一度あるかないかのことです。ですから過度とも思える期待をすることは理解できます。と言って、予算や支払い能力を超えるようなことをそのまま受け入れてはいけないと思うのです。学生達には常々設計者としての良心に従えと言っています。また、建築主のライフワークを考えろとも言っています。本当は無くてもいいようなもの、今は必要でなくても将来的に必要なものを見極めてお客さんに説明し納得いただければ、無駄を省けたり、必要なものを勧めたりすることができるはずなのです。
ですから設計者はお客さんが嫌うようなことでも敢えて言わなければならないと思っています。そんな意味でも露天風呂までとなると費用対効果を考えると正直なところお勧めはできません。どうしてもと仰るのならやらないこともありませんが、私個人としては賛成できかねます」
真一の率直な意見に盛蔵と耕造は気分を害することなく、彼の建築家としての資質にますます彼への信頼を厚くした。
「失礼ながら、どれほどの予算を見積もっておられるか知りませんが、それだけの設備投資をして採算が取れますか。どう思います、稲子さん?」
加辺家の経済を握っていそうな稲子に話を振った。
「そうですわね。どれほどの費用がかかるかわかりませんけど、近くにペンション村もあって、安直に宿泊費を値上げすればいいと言う話にはなりませんし、それで少しくらい集客率が上がったとしても経営的にはちょっとね」
稲子は舅の前で言葉を選びながら答えた。
それで意を強くしたのか、加辺さんのところは心配はいらないでしょうが、と断りを入れて彼の見解の述べた。
「私も社会人時代に民間事業に関わったことがあります。その経験から言いますと、事業を行う前にまず事業計画を立てます。要するに資金計画です。手持ち資金は幾らで融資はどれほど受けるのか、それに対しての無理のない見込み収入はいかほどで、固定費や変動費などの支出がどれくらいか、そんなことを想定した長期のキャッシュフローを作成します。それで損益分岐点が何時頃になるかが予想できます。それが事業計画です。通常であればそれを示して銀行から融資を受けるなり、法人であれば投資を呼び込みむことになります。加辺さんのペンションの場合、率直に言わせていただくなら露天風呂は過剰な設備に思えます。その代わりと言ってはなんですが、他の施設みたいに近くにある樅の木荘の温泉利用割引券を提供することも考えた方がいいのではないでしょうか。そうすれば、風呂だって要らなくなるかもしれません」
彼の意見に、稲子は尤もだと言わんばかりに頷き、盛蔵はうーんと考え込んでしまった。ペンション経営は息子夫婦が始めた手前、採算を持ちだされると耕造でもそれ以上強硬に進めることはできなかった。まして加辺家の財政を一手に預かる稲子の発言と相談に乗ってもらっている真一の意見は重かった。
亜紀は義父と真一とのやり取りを黙って聞いていた。彼女も彼の意見に賛成だった。かかった費用を確実に回収できるのか、それに見合うだけの客を呼び込めるのか疑問に思えた。しかし、娘同様と言われていても、彼女が口に出せることではなかった。
気詰まりな雰囲気になりかけたとき、真一が代案を出した。
「設計者としては経営のことまで口を挟むべきではないことは重々承知しています。顧客の言われるままに設計する人もいますが、私はそうではありません。
何度も言うようですが、初めて家を新築する人は、この際だからとあれもこれもと夢を大きく膨らませがちで、書斎が必要だとかロフトがあればいいとかシステムキッチンは外国製にしようとか、お客さんの要望通りに設計したのはいいが、工務店に見積もりを取ると予算と大きく乖離して、結局困るのはお客さんなのです。ですから、私はライフプランを立てて下さいとお願いします。そうすると不要不急なものが結構あることに気がつかれます。どうでしょう、内風呂の方はご要望に応じますが、露天風呂の件については営業を始めてから考えても遅くはないでしょう。状況を見てから検討することにしませんか?」
真一にそうまで言われると、盛蔵と耕造も矛を収めるしかなかった。
中川がここまで決定した事項を記録簿にまとめ、双方が確認し署名して今回の目的は全て終えた。
散会するとき、加藤の発案で記念写真を撮ることになり、ペンションの前で二列に並んで撮った。真一は学生達が中心だからと後方の端に立った。どの顔も一応の達成感で晴ればれとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます