第二章 母屋

                 (一)


 亜紀が加辺家へ嫁いだのは5月の連休後だった。

 12年振りに目が見えるようになっても、喜びに浸ることにもなれず、無力感にも苛まれ、休職届けを提出したまま職場に復帰する気にもなれないでいた。心に穴が開いたような寂寞感せきばくと喪失感にも囚われ眠れない日々が続いた。

 その間、どこかへ出るでもなく、何かをするでもなく、家の中で閉じ籠って修一のことを想い涙した。

 もし、私が失明していなければ、私以外の人と付き合っていれば、彼の異状を早期に発見していただろう。命を縮めることもなかったに違いない。そんな申し訳ない気持ちで自分を責めた。そして、そんなことはできるはずもないと理性では理解していても、彼と再び一緒の時間を過ごせるのなら失明したままでよかったとまた責めた。

 そんな亜紀も、杏子が訪問してくれた時は、彼女の闊達な性格に救われ、一緒に買い物に出掛けることもあった。だから家族は彼女の来訪を歓迎した。

 その時以外は、家に閉じ籠りがちで、兄から受け取った修一からのアルバムもしばらく見る気になれないでいた。

 写真で彼の容貌を知ってからも、不思議なことに夢に出てくる彼の顔は靄のかかったようで判然としなかった。ベッドに入ると、それでもいいから彼の夢を見させてと毎夜願った。

 そんな彼女が、修一作成の小さなアルバムを机の抽斗から取り出せるまでになったのは、修一の霊前に線香を手向け、そこで密かな決心をしてからのことだった。それまで修一が肌身離さず大切にしていた森林公園での写真でさえ見ようとしなかった。それは自分の目で彼を見るのが怖いとの若い娘らしい理由からだった。

 顔も知らずにSNSで知り合った相手と会うこと自体が信じられない彼女にとっては、頭の中で理想化していた彼のイメージともしも大きな乖離かいりがあったら、もし好きになれそうにない人だったら、それを受け入れられるのだろうか。そう思うと自然に手が止まってしまう。そんな思いを抱くくらいなら、見ないままでいた方がよいと手にせず二月が過ぎた。

 自分の部屋で手に取ったのは「亜紀さんとの日々」と銘打たれ、赤いモミジの葉を散らした表紙のアルバムだった。そのアルバムはページ数の割には膨らんでいた。

 恐るおそる開くと、写真だけではなく入園チケットの半券やちらし、行った先で記念に買い求めた絵葉書などが、森林公園へ初めて行った時から最後に逢ったときまでが写真と一緒に収められていて、余白に撮影日と簡単な説明書きと彼が感じたことや何かの詩の一節が小さな文字で書かれていた。それらは彼自身のためではなく、明らかに視力を回復した後の亜紀を意識したものだった。

 最初の頁は余程気に入っていたものなのか、紅葉を背景に兄が撮ってくれたあの写真で、彼が遠慮がち自分の腕を亜紀の腕に回してほほ笑んでいるものだ。彼女はこのとき初めて修一を自分の瞳でしっかりと見た。彼の家で仏壇に置かれた遺影を見たはずなのだが、自責の念が蘇り、涙で目が曇ってほとんど見ていなかった。

 写真の中で柔和な表情で微笑んでいる男性は、亜紀が頭の中でイメージしていたものとは幾分違っていた。声の印象と彼の態度から線の細い感じの男性を想像していたのだが、写真の中の彼は意外に逞しく、鼻梁も高く濃い眉で優しい目をしていた。高身長なのは理解していたが、それ以上の自分より頭一つ分の上背があった。

 食い入るように見ているうちに、彼と一緒にいた時の情景が思い浮かび、写真の人物と漠然とイメージしていた修一が重なり、次第に違和感が解消してきた。もしあのとき、自分の目が見えていて、彼と付き合いを始めたとしても、きっと好意を抱いたに違いないとの心証を得て安心した。

 亜紀はその写真を見ているうちに愛おしく切なくなって、彼の顔を指でなぞり知らずに涙滴をアルバムに落とした。声を殺して泣けるだけ泣いて落ち着くと、濡れた瞳で冷静にアルバムを見ることができるようになった。

 一枚いちまい時間をかけて写真を見た。その一枚ごとに彼と過ごした日々を鮮やかに思い出し、一層切なくなって小さく修一さんと名を呼んだ。父と兄は出勤し母は買い物に出掛けて物音一つしない。

 彼がいない今、この先何を支えに生きていけばいいのか、亜紀は最も信頼できる人を亡くした絶望感にさいなまれた。彼を 亡くして初めて何より大事なものを失ったことを知った。

 思い返せば、彼と知り合ってから、ずっと彼の愛情を感じられていたように思う。彼の話す言葉や態度、気遣いがそれを示していた。いつも紳士的で彼と一緒にいて一度も不安を感じたことはなかった。彼の性格なのかそれとも両親の躾がよかったのか、多分その両方なのだろう。そうでなければ、誰が障害者を相手にするだろうか。彼に対する劣等感でそれとなく示していた愛情に気付かずにいたのだ。本当に申し訳なく思って、また泣いた。

 家族はみな彼女の修一への思慕の念が日毎に強まっていることを察し、それを懸念した。だが、それを諭したところで、急速な改善が期待できないこともわかっていた。常套手段だが、時が解決してくれるのを待つしかないと諦めるほど、彼らにもなすすべはなく、そっと見守るより方法がなかった。だが、それは甘い考えだったと彼らは思い知らされた。彼女の負った傷は、彼らが考えるよりはるかに重く大きかった。

 視覚が元に戻り、行きたいところや、やりたいことが山ほどあるだろうに、美智子が気晴らしに買い物やデパート巡りに誘っても応じることはなかった。父の和雄が映画を観に行こうと誘っても同様だった。それならどこかへ旅行でもと勧めても家から離れることはなかった。彼女には何かの拠り所と時間が必要だった。

 1月経っても職場へ復帰しようとはしなかった。父の和雄が娘の休職の延長を考えていた矢先、彼女は両親に黙って退職願を市教育委員会に提出した。驚いた上司が和雄に告げ、父母が揃って思い留まるよう説得を重ねた。それでも、彼女の行動を翻させることはできなかった。哀しみのあまり思い詰め、彼女の中で何かが変わってしまったのではないかと両親は恐れ、不安を抱き心配した。

 彼の尽せぬ愛情にどのように応えればよいか真剣に考え悩んだ末、出した答えがそれだった。

 退職願が受理されると、亜紀は修一の霊前で誓ったことを周到に実行に移した。家事手伝いをするのも、料理学校へ通うことも、自動車の運転免許取得もそれがためだった。あとはその誓いをいつ実行に移すかだけが彼女の悩みだった。

 その機会は早く訪れた。兄と杏子の間での結納の日取りが決まったのだ。

 兄はこの時期に申し訳ない、これ以上杏子を待たせる訳にはいかなかったと亜紀に了承を求めた。兄がこれまで自分にしてくれたことを思えば、異存があるはずもなく心から祝福した。

 兄の嫁となる杏子は持ち前の明るさで和人の両親に気に入られていた。彼女が同居したい言い出した時は、驚き感謝し喜びそれを歓迎した。それを見て亜紀は、自分の決心を告げるときが来たと思った。そして、二人の結納が滞りなく終ったその夜、家族の前で加辺家へ嫁ぐと宣言したのだ。しかもそれは行くではなく、嫁ぐと言ったのだ。これも譲る気はなかった。

 「お父さんお母さん許して。彼の愛に応えるにはこの方法しかないの。ご両親を少しでも癒すことができるのは私しかいないの。どうかわかって」

 亜紀は言葉を尽くして訴えた。

 これからは娘も健常者として、人並みの生活を送ることができると思っていただけに、両親にとってこの宣告は青天の霹靂へきれきだった。そして、そのとき初めて、これまで娘がしてきたことの意味を悟った。

 亜紀が積極的な行動を取り始めた時は、娘の本心を知らない両親は、修一のことを吹っ切り始めたのだと喜んだ。ところがそれは、糠喜びだったと今になって知った。

 「駄目よ!そんなこと許可できないわ。確かに修一さんには感謝してもしきれないわよ。だからって何も加辺さんの所へ行く必要はないわ。ねえ、あなたからも言って」

 美智子は娘の手をとって考えを改めさせようとした。これから不自由なく暮らすことができるのに、好んで苦労を背負い込むことはないと彼女も必死だった。

 「母さんの言う通りだ。 お前の気持ちもわからんではないが、そこまですることはない。恩返しをするなら方法はいくらだってある。何もわざわざ行く必要がない。許すことはできん」

 娘の志願を突っぱねた。

 「いいえ、許しがなくても行くわ。そう決心したの。そうしないと私の気持ちが収まらない。このままだったら私が駄目になってしまう。少しでも私の気持ちがわかるのなら行かせて欲しい。ね、お母さん」

 亜紀は母親に懇願した。母さえ納得させれば父が折れることを知っていた。

 「加辺さんに行くと言ったのか?」

 「まだよ」

 それなら、絶対駄目だ。何があっても行くわ。そんな押し問答をしていた両親は、助けを求めるように無言のままでいる息子を見た。

 黙って親子の言い争いを見いていた兄は両親に向かって言った。

 「父さん母さん、二人の言い分はよくわかる。亜紀の言うことも理解できる。僕が思うに亜紀がここにいても何も変われないと思う。それで亜紀が納得するなら思い通りにさせてもいいのじゃないか。亜紀を心配するのはわかる。僕も正直心配だ。だからと言って、いつまでも家に縛っておくわけにもいかないだろう?それに今は就職する意志もないと思う。

 お見合いを勧めたところで、うんと言う筈もない。それなら、もし加辺さんの方で受け入れてくれたら、あちらでしばらく厄介になるのもいいんじゃないか。幸い向こうのご家族は亜紀のことを気に入ってくれているようだ。それにこれまで亜紀は我儘を言ったことがない。そんな亜紀がこうまで言い張るんだ。その意志を尊重しようよ。外国へ行くわけじゃなし、会おうと思えばいつだって会えるじゃないか。だから行かせてやってもいいと思う。だだし、自分が納得したらいつでもここに戻ってくること。それが僕の条件だ」

 「わかったわ、約束する」

 亜紀は兄が応援してくれたことが嬉しく、一番自分の気持ちを理解していてくれていることが心強かった。

 最後まで反対していた両親も、頼りにしていた息子が、彼らの意に反して賛意を表したことで渋々折れた。

 翌々日の夜、和雄は加辺家へ娘の意思を伝えた。電話を受けた稲子は亜紀の申し出に驚きその場で返事ができなかった。内心では嬉しかったのだが、思慮深い彼女はみんなと相談するからと返答を保留した。

 喜んで迎えたいと盛蔵から電話があったの翌日の夜だった。

 亜紀さんが来てくれるのなら、これほど嬉しいことはない。できるだけのことはすると約束した。

 母の美智子が娘を送り出すに際しては紆余曲折があった。

 美智子は除籍してから行くこと、期限を定めることを主張した。それは自分が決めると亜紀は頑なに拒否した。

 母にすれば娘を嫁がせるというより、娘を奪われるとの意識が強かった。腰入れ先にその相手となる者がいないのだから、先の不幸は目に見えていた。それでも不承ぶしょう自分を納得させたのは、娘の強い意志と息子の説得があったからだ。

 彼女の懸念はほかにもあった。自分の家がマッチ箱に思えるほどのあの大きな古い家でどう過ごすと言うのか。しかも加辺家の嫁として行くとなると、単なる居住とは違う。それにいつまでいるのか。得心するまでと言うが、娘の一途な性格からして、このまま戻ってこないのではないか。娘の幸せに誰が責任を持ってくれるのか。どこをどう考えても娘の前途に光明を見出すことができなかった。

 確かに修一には感謝しきれない恩がある。返そうにも返せない彼の愛もあった。それは美智子も認めるところだ。だからといって娘が行くことはない。死んでしまったものはどうしようもないことだ。まして娘の責任でもない。元々縁がなかったと思うしかない。夫が言う通り報恩の方法はいくらでもある。これが母としての理屈だった。心配してもきりがないとわかっていてもそれをするのが子を持つ母親だ。娘の幸せを願うのも母親だからこそだ。内心忸怩じくじたるものはあるが、夫が認めてしまった以上どうしようもない。精一杯娘のためになることをしようと無理やり自分を納得させた。

 美智子は準備不足を理由に、出発を2週間遅らせることを娘に承知させ、亜紀と同年代の娘の意見も聞きたいと、息子の嫁となる杏子も伴って加辺家を訪問した。そして、娘が寝起きする部屋、娘が送る荷物、娘が持参するもの、加辺家が受け入れるために準備するものなどをこと細かく打ち合わせて帰った。

 杏子を同伴者としたのは正解だった。第三者とも言える彼女に遠慮という言葉がなく、何もそこまではと脇をつつく美智子に代わり、ここへ嫁いでやるんだぞと言わんばかりに、厚かましくかつ事細かく加辺家に対し要求を出し認めさせた。

 本来ならば、送り出す方も迎え入れる側も喜び一杯のはずだった。加辺家はともかく、夫のいないところへ出す美智子にしてみれば、まるで葬式の準備でもしているような気分になった。送り出す用意をしていても少しも心に弾みがつかなかった。誰かに不満をぶつけようにも娘に当たるわけにもいかず、その相手は夫しかいなかった。

 夫のいない家で、困ったとき誰が娘を見守り助けてくれるのか。そう考えると人質として我がを他家へ送りだす戦国時代の母親のような気分になった。

 加辺家の人達には不平も不満もないが、あの古くて広い家を、視力を回復して間もない娘が住むのは無謀に思えた。しかも娘の性格からして一旦決めたことはやり遂げようとするに違いなかった。稲子にそれとなく頼んではいるが、無理をして体を壊しはしないか心配だった。そして、何の思案もなく人任せに娘を送り出そうとする夫に腹を立てた。

 娘が出立するまでの間、夫とのいさかいが絶えなかった。理不尽な逆恨みだと自分でも理解していても、そうでもしなければ腹の虫が治まらなかった。

 当然のことだが、嫁ぎ先でのことは加辺家に任せるよりほかなかった。美智子の頭の中には絶えず頼るべき夫がいない娘への不安がつのった。後日、娘から母屋の家事全般を任されたと知らされた時は、危惧していた通りになったと美智子は深いため息をついた。

 亜紀が家を離れる日曜日、父と兄が原村まで送った。母の美智子は同行を拒んだ。それが彼女にできる精一杯の目に見える形での抵抗だった。それでも娘が家を出ていく時、餞の代わりにと私が嫁ぐときに母から貰ったものだと小豆色の小箱を渡した。

 必要なものは、稲子と連絡を取りながら美智子が買い揃え、衣類と一緒に加辺家へ送った。日常使用しているノートパソコンもすでに部屋に運ばれていた。あのアルバムは亜紀が持って行った。修一の要望を履行する踏ん切りがつかず、まだ処分していなかった。

 小淵沢駅の改札口で盛蔵と稲子がそろって迎えに来ていた。

 定刻に列車が到着し、改札口へと渡り通路を来る亜紀を一目見て稲子は、えっと声を出すのを辛うじて呑み込んだ。あの腰まであった長い髪がバッサリと切り落とされていたからだ。今の彼女は耳が覗くくらいのショートで、それが健康そうで活発な印象を与えた。利口な稲子は、彼女が並々ならぬ決意でここへ来たことを察した。それと同時に、息子の修一がいないことを承知で来た彼女を預かることの重大さに、取り返しのつかないことをしようとしているのではないかと、今更ながらおののいた。その隣で盛蔵がそのことを認識していないのか満面の笑みで迎えていた。


 亜紀は玄関前で立ち止まった。今日からここに住むのかと思うとこれまでとは違って見えた。

 戸口をふと見ると玄関戸上部の表札に目が行った。その札は耕造を筆頭に修一まで横並びに掛けられていて、墨筆で書かれた名前が経年変化と風雨に曝されてくすんでいる。

 彼女の目線に気付いた稲子は「亜紀ちゃんのもいるわね」とさり気なく言って中に入った。

 亜紀の部屋は中庭に面していて、北隣りが盛蔵夫婦の部屋で、修一がいた部屋は斜め南だった。若い娘が住み易いようにと、畳から板張りのフローリングへと変えられ、ベッドとテレビも設置され、杏子が申し入れたwifiも利用可能となっていた。

 亜紀を迎える彼らも夫のいないここへ来ることに、彼女の両親に不満があることは重々承知していた。そのことはこの前来た美智子の態度で歴然だった。自分も相手の立場なら当然のことだと思いそれを理解した。

 息子が生きていればどれほど幸せだっただろうか。それを思うと亜紀の申し出とは言え、遠藤家に対し申し訳なく思った。亜紀がこの日のために運転免許証を取得したことを知り、彼女専用の乗用車購入の手続きをしたのも、彼女の気持ちに少しでも応えたいとの気持ちからだった。

 盛蔵と稲子は亜紀に付き添って来た和雄と和人にもここでの生活について飾ることなく説明した。そして亜紀を自分たちの娘だと思って大事にすると口を揃えて約束した。彼ら家族の不安を少しでも和らげようの思いから言ったことだが、その気持ちに偽りはなかった。

 和雄と和人はその日の夕刻、盛蔵に小淵沢駅まで送られて川越へ帰った。亜紀は母屋の玄関前で彼らに別れを告げた。

 車中から振り返り見る父は不安そうな顔を隠そうとはしなかった。兄は頑張れとでも言うように両方の親指を立てた。

 亜紀は車が見えなくなるまで立っていた。木立に隠れ見えなくなると木立の葉が風で揺れる音が耳に入った。急に心細くなって、修一に自分を見守ってくれるよう心の中で祈った。

 先着していた荷物の荷解きを時間をかけて終えると、ひとまず母屋の中をぐるりと回った。案内する者はなく、耕造も外なのか薄暗い室内はがらんとして静かだった。

 仏間にある黒塗りの仏壇はとてつもなく大きく、畳も擦り切れての線香の臭いが部屋に染み付いていた。その部屋の欄間に掲げられた先祖の絵画や白黒写真は自分を睨みつけているようで怖かった。彼女の持ち場となる台所も寒々しく動線など全く考慮されていないもので、一段降りた所にある井戸も使われていないかまども昔のままだった。

 初めて家族とここを訪れたときは、修一に手を引かれてその広さを漠然として感じ取っていたが、目が見えるようになった今、その広さに圧倒され、私でやれるのかしらと不安になった。事前に母と杏子と一緒に来たときにそれを認識していたのだが、今になって無謀だったかしらと後悔しそうになったが、時折玄関に飛来する親燕からの餌をねだる雛の鳴き声が一人ぼっちの彼女を元気付けた。そして両頬をぱしぱし叩き自分を奮い立たせ、どこから何に手をつけてよいのか思案した。

 そこへ稲子が片付けが終わったのと言って台所に入ってきた。

 几帳面な義母らしく、この家のこと、親戚縁者のこと、それぞれの役割分担などを書面で示し説明した。その後、義母に連れられてペンションへ行き、板前の刈谷とその妻の亜希子に改めて紹介された。彼らはすでに事情を承知していて彼女を温かく迎えた。

 その日の夕食は盛蔵の心尽くしのものが食卓に並び、珍しく家族一同が揃ったものとなった。

 盛蔵が全員にビールが行き渡ったのを見て、コップを手にしながら言った。

 「亜紀ちゃんがうちに来てくれたことに感謝してまず乾杯しよう」

 それが終わると盛蔵が亜紀に向き直って言った。

 「亜紀ちゃん、来てくれて本当にありがとう。息子があんなことになってしまって本当に申し訳なく思っている」

 亜紀が何か言おうとするのを押し止めて続けた。

 「いや、亜紀ちゃんの言いたいことはわかっている。息子の角膜をもらったことに負い目を感じていることも、こうして恩返しを考えて来てくれたこともわかっているつもりだよ。息子のことを今も大事に想ってくれていて悲しい気持ちでいることもわかる。本当にありがたいと思っている。

 思いがけなくお父さんから亜紀ちゃんがこちらへ来ると告げられた時、お気持ちだけをいただいて断るべきだったこと

 も承知しているんだ。だけど、一人息子を失い暗く沈んでいた家が一条の光で照らされるような気がして、私も家内もそれができなかったんだよ」

 亜紀にも彼らの心情が理解できた。

 大きな家に4人で住んでいたものが、一人息子を失った今、彼ら3人だけの生活になってしまった。修一と離れていたとは言え、生きているのとそうでないのとは心の持ちようが違う。悲しみは自分より一人息子を亡くした彼らの方が強いと思う。口はばったいが両親に反対されてもここへ来てよかったと思った。心の隅で余計なことをしたのではないかと危惧していたのだが、情の籠った言葉で歓迎されてほっとした。自分に何ほどのことができるかわからないが、私が来たことで少しでも彼らを癒すことができればと改めて思った。

 「実は修一が死んでから家内は呆けたようになってしまって、しばらく心療内科に通っていたんだ。ご両親には申し訳ないが、お父さんから電話をもらった時、この家を亜紀ちゃんに救ってもらおうと浅はかにも考えてしまった。

 亜紀ちゃんとは三度しか、いや遠藤さんの家で会ったのも含めれば四回か。まあ、それだけしか会っていないが、初めての時から私らは何というか・・・、今風にいえばフィーリングがあったというか、気持ちが通じ合えるような気がしたんだ。

 修一があんなことにならなければ、亜紀ちゃんさえよければ嫁に迎えようと寝物語で家内と話していた。作り話と思うかもしれないが、本当だよ。それがこうして来てくれて感謝しようにもしきれない気持ちで一杯だ。ありがとう、息子も感謝していると思う」

 盛蔵と耕造はテーブルに手をついて頭を下げ、稲子も立ち上がって低頭した。亜紀も慌てて立ち上がった。

 「お義父さんお義母さんお爺さん、どうか頭を上げてください。そんな風に思って下さってありがとうございます。こうして不自由のない体でいられるのも修一さんのおかげです。

 こちらへ来ることは、修一さんにお線香を手向けに来たときに決めました。もっと早く来るべきだったのでしょうけれど、そのとき何もできなくて、一通りの家事を母に教わり、早く自分で出来るようになりたいとの気持ちで一杯でした。

 ようやく修一さんの嫁としての務めを果たせると少しは自信がつきましたのでこうして参りました。お義母さんから見れば、至らない嫁で足手まといになるかもしれませんけれど、よろしくお願い致します」

 頭を大きく下げて直ると耕造がうんうんと優しい目をして亜紀に言った。

 「亜紀さん、いいかい、このことだけは肝に銘じておいて欲しい。亜紀さんは加辺家の嫁ではない、と言うと語弊があるかもしれんが、私らは実の娘だと思うことにした。話し合ってそう決めたんじゃ。対外的にはそうもいかんじゃろうから、遠縁の娘が手伝いに来たとでも紹介するが、わしらの間では可愛い娘と孫じゃよ。だから、家の中ではどんな我儘や不平不満を言ってもくれても構わない。

 それから、修一に恩義を感じる必要はまったくない。亜紀さんがこうして来てくれただけで満足して喜んでいるはずじゃ。亜紀さんがいいと思う時が来たら、いつだってここから離れてくれていい。できれば、早く孫とのことは忘れて、誰かいい人と所帯を持ってくれたら一番いいと思っている。これがわしらの本心じゃよ」

 それがみんなの総意らしく、盛蔵も稲子も頷いた。

 「わかりました。今言われたことは肝に銘じます。孫のように思って下さることにも感謝します。私もそのように努めます。ですけれど、遠縁の娘では私の気持ちが許しません。必要があれば修一さんの嫁として紹介して下さい、お願いします」

 亜紀のきっぱりした態度に彼らは感心した。それと同時に、修一が見染めた相手に間違いはなかったと満足げに彼女を見た。

 まだ若いのに、何て賢くしっかりしたなのだろうと稲子は思った。

 「わかったわ、そうしまでょう。あなたもお爺さんも堅苦しい話はこれでおしまい。せっかくのビールが温かくなってしまうわ。可愛い嫁が来たことだし仲良くやりましょう。亜紀ちゃんも、何もかも一辺にしようと思わないで、できることから時間をかけてゆっくりやればいいわ。お爺さんも言ったように何でも遠慮なく言っていいから」

 「はい。わかりました」

 「よし、挨拶は済んだから楽しくやろう。爺さん、酒にするか?」

 盛蔵も耕造も亜紀を迎えて上機嫌だった。稲子は息子亡き後の亜紀のことを聴きたがった。それに応えて彼女は、ここでお参りしたときに修一の無垢の愛に応えるには、たとえ正式な挙式はしていなくても嫁としての務めを果たすしかないと心に決めたこと、それには家事が一通りできるようにならなければならないと思ったこと。そのために母から掃除の仕方や洗濯の方法、基礎的な調理法を習い、料理教室にも通ったことや自動車運転免許を取得したことなどを話し、こちらに来るに当たり家庭内で葛藤があったことなどを正直に話した。

 盛蔵たちは亜紀の率直な話ぶりに感心し、来てくれたことに喜ぶ一方で、両親の反対を振り切ってまでここに来たこたことを聞き、彼女を幸せにする責任を負わされたことを改めて思い知らされた。

 その夜、亜紀は床に就くと急に孤独感に襲われた。一人ぼっちになった心細さと別れ際の悲しそうな父、不安そうな母の顔を思い出して布団の中で忍んで涙を流した。

 こうして彼女の信州での新しい生活が始まった。


 亜紀は五時に起床した。加辺家の嫁としての最初の朝だ。

 本来ならば花婿がいて初夜をここで迎えたかもしれないはずが、新婦一人きりの朝を迎えた。昨夜泣いたあの感傷は窓を開けた時の清涼な空気が払拭した。

 ベッドから離れ身を整えると手押しポンプで汲み上げた水で顔を洗った。水は冷たくて身が引き締まる思いがした。化粧は見苦しくない程度に簡単に済せた。

 不慣れな台所で朝食の準備をしていると、盛蔵がお早うと入ってきた。

 「亜紀ちゃん、早いね。こんなに早く起きなくてもいいのに」

 「お義父さんこそまだ寝ていてもいいのじゃありませんか?」

 「いや何、今週は私がペンションの朝当番だから、早起きして用意しないとお客さんを待たせることになるからな。私が朝食を摂れるのは9時過ぎだと思う」

 「わかりました」

 「ペンションのお客さんで早立ちする人はいないから、稲子は7時過ぎまで起きてこない。ひょっとして、亜紀ちゃんに任せたつもりで、もっと遅く起きてくるかも知れない。だから、ゆっくり寝ていてもいいのだよ。爺さんも・・・」

 盛蔵の話しを聞きつけたわけでもなかろうが、耕造が胡麻塩頭を掻きながら、お早うようさんと入ってきた。彼は玄関口横の六畳の部屋で寝起きしている。

 「お早ようございます」

 「年だからあの通り、早かったり遅かったりするから気遣うことはないよ」

 盛蔵は耕造に挨拶を返すと、今日も頑張ろうと言って首を左右に振りながら母屋を出て言った。上機嫌な盛蔵の後姿を耕造が好ましそうに見送った。

 亜紀は取り敢えず、耕造と自分のための朝食の続きに取り掛かった。

 耕造は亜紀の傍らに立ち、黙ってその様子を見ていて、彼女がいるだけで嬉しさを隠せない様子だった。

 「お爺さん、椅子に座って待っていて下さい。すぐに作りますから」

 亜紀が笑顔で言っても、彼はそこから動こうとせず、何が嬉しいのかにこにこして立っていた。

 「すみません。そこにいられると気になって包丁がお留守になってしまいます」

 「おお、すまん。亜紀さんがこうしていてくれるのが、何だか嬉しくてな」

 よっこいしょと言いながら椅子に腰を掛けてからも彼女のすることを見ていた。

 「何か食べたいものがありますか?」

 「亜紀さんの作ってくれるものなら何でもいいよ。もともと少食じゃから」

 亜紀は冷蔵庫の中を一通り確かめると、朝の献立を素早く頭の中で考えた。

 「勝手がわからないので、今日のところは、お味噌汁と鮭の塩焼きそれに卵焼きでいいですか。昨日の残りのご飯を使って昆布出汁だしのお粥にして卵を落とします」

 「そうかい。病気以外ではお粥なんぞ食べたことがないな。それは楽しみじゃ。今まで一人で食べることが多かったから、亜紀さんが来てくれたお陰で楽しく食べられそうだ。まあ、料理の邪魔をしては悪いから、ちょいと婆さんと修一に線香をあげてこよう」

 上機嫌で台所を出て行った。

 亜紀の作業に無駄はなかった。下拵えを済ませると、2口のガスコンロを使って、お粥とおかずを手早く作った。添え物に焼き海苔と沢庵の漬物をテーブルに出した。全てが整うと亜紀はエプロンを脱いで仏間に向かった。

 耕造は仏壇に向かってまだ経を唱えていた。線香臭い仏間にある仏壇は、元名主の旧家だけあって高さは天井まで届き幅は1間もあった。その中は金色に輝いている。亜紀はこれほど大きな仏壇を見たことがなかった。

 無信心の彼女に宗派はわからなかいが、祖父の背後に座ると合掌して目を閉じた。すると修一との想い出が脳裏に浮び涙で頬を濡らした。ちーんとりんが鳴る音がしたので、慌ててエプロンの端で涙を拭った。仏壇の隅に置いてある修一の小さな遺影を耕造の背後から見ると、彼が無理をしないで頑張れと励ましてくれているような気がした。

 耕造は南無阿弥陀仏を3度唱え、合掌してから蝋燭ろうそくの火を消し立ち上がった。亜紀が遅れて立ち上がり仏壇の中を見ると埃が目立った。修一の死に気持ちの整理をつけられず、未だ手をつけられずにいるのだろうと思った。洗濯を済ませた

 らここの掃除から始めようと決めて台所へ向かった。

 朝食の間、耕造がこの家の歴史とペンションを建てた当時の苦労話を聞かせてくれた。亜紀を気遣ったのか修一の話題はしなかったが、いずれ話してくれるだろうと自分の方から訊かずにおいた。

 義父母のために、温めるだけで朝食が摂れるようにしておいて蝿帳はいちょうをかぶせ、玄関を出た。雲ひとつないいい天気だった。

 裏へ回ると池越しに八ヶ岳が見えた。池があるお陰で樹木に遮られることもなく山々が遠望できた。それに向かって家族の健康と安寧、それに修一への感謝と自分の一日の平穏を願って両手を合わせた。

 亜紀は合掌した両手で両頬を叩き、気を引き締め洗濯機のある風呂場に向かった。

 洗濯籠に入っている男物のどれがお爺さんのもので義父のものかもわからなかったが、それは収納するときに義母に訊けばいいだろうと母から教わった手順で洗濯を開始した。

 洗濯物をかなり溜めこんでいたので、白物柄物衣類別に何度も洗濯機を回さなければならなかった。乾燥機がないので玄関横の物干しに干し終えたときには10時を大きく回っていた。

 洗濯をしている間に稲子が起きだし、意外に早く盛蔵がペンションから戻って来たので、洗濯を中断した。

 盛蔵は朝食が終ると「ご馳走様、ゆっくりやりなさい」と言ってペンションへ戻ってしまったが、稲子はそのまま居残り、水屋にあった手下げ金庫から通帳と印鑑それにキャッシュカードを取り出して亜紀に渡した。

 「ペンションとこことは遣り繰りを別々にしているの。早速だけど、これを預けるから、この家のことをお願いするわね。母屋についてはあなたの好きなようにやってもらっていいわ。毎月決まった金額を初日にその口座に入金するけど、もし物入りで足りなくなったら言ってちょうだい。ガス電気などの公共料金や新聞代などは自動引き落としにしているから何もしなくてもいいけど、それ以外の税金とか社会保険などの納付書が届いたら、こちらで処理するから私にちょうだい。

 家族なのだから困ったことがあれば遠慮しないで何でも言うのよ。私達によく思われようとして無理はしないで。まだほかに修一の通帳があるけれど、それは主人が説明してくれるわ」

 稲子からそれらを受け取ると、責任の重さに身が引き締まった。

 中断していた洗濯の続きをしながら浴室と台所回りの掃除に取り掛かった。流しは亜紀の家のようなシステムキッチンではなく、昔ながらの御影石のシンクにプロパンガスのコンロだった。飲料水はの地下水を瞬間湯沸かし器に繋いだものと、一段下の土間に水を汲み上げる手押しポンプの井戸があった。木の蓋を取れば、大きなスイカを籠に入れて冷やすこともできる。昔はそこで煮炊きをしたらしくかまどの跡があった。

 鍋やヤカンなどは網棚に置かれ、壁にはしゃもじなどがぶら下げられていた。食洗機はなく、手洗いされた食器類が流し台横の食器置きに雑然と置いてあった。他の食器類は食卓の脇にある年代物の水屋に入っていた。台所まわりは昔のままで動線は配慮されていなかった。

 今の時間、母屋には誰もいない。聞こえてくるのは洗濯機の回る音だけだ。昨晩は蛙の鳴き声がして朝は鳥のさえずりだった。川越の家にいたときはそうではなかった。車が走る音に、近所の子供の遊ぶ声がし、見もしないテレビの音声が隣から聞こえて生活感があった。だが、ここは自然が支配しているのだと思った。

 シンクにこびりついた汚れを何度も洗剤で落とし、濡れ布巾で拭き取り水で流した。途中何度か洗濯機の中の洗濯物を入れ替えた。流し台と食器類を綺麗にし冷蔵庫の中を整理している内にお昼近くになり、慌てて昼食の支度を始めた。

 午後から仏壇の掃除に取り掛かった。彼女の実家は新家で仏壇がないので初めの経験だった。お爺さんに訊いてから始めようかと少し逡巡したが、外へ出たまま戻って来る様子がない。先に聞いておけば良かったと反省したが、後まわしにするのは性格的に合わないので、手前にある仏具から順に外に出し、キッチンペーパーで乾拭きしてから古新聞紙の上に並べて置いた。物がものだけに傷をつけてはならないと緊張を強いられ、最後に本尊の阿弥陀如来像を取り出すと、ふっと一息つき休憩した。

 仏具を全て取り除くと、思いのほか埃が目立ち、金箔や漆が剥がれていて、傷もあちこちにあった。

 仏壇内部の掃除は中腰になったり脚立に乗ったりしての難儀な作業だったが、常識的な判断でハタキで埃を払い、金箔が張られた箇所は注意深く乾拭きした。何度かペーパーを取り替え乾拭きしていると汗が出て来た。

 何とか掃除をやり終えて仏具を布で拭き元の位置に戻してほっとしていると、 誰かに呼ばれたような気がした。耳を澄ますと耕造の声だった。はーいと返事をして玄関へ行くと耕造が三和土たたきで麦藁帽子を取って立っていた。

 「亜紀さん、何をしていた?」

 「ご仏壇の掃除をして、たった今終えたところです」

 姉さん被りしていたタオルで額の汗を拭いながら応えた。

 「おお、そうかい。埃だらけで中々大変じゃったろう。そろそろ仏壇屋に洗濯に出さにゃと思っていたところじゃった

 から適当でよかったのに」

 「仏具の位置を間違って戻しているかもしれません」

 このときになって、掃除前にスマホで撮っておくんだったわと自分の迂闊さを反省した。

 「なーに、後でわしがちゃんとしておくから構わんよ」

 耕造は何が可笑しいのか、からから笑ってかまちに腰を下ろした。

 「あ、お茶でも淹れましょうか?」

 いやいやと手を振って、それより息抜きにどうかと亜紀を散歩に誘った。

 彼女はそれに応じると耕造に待ってもらい、急いで洗濯物を取り込み簡単に畳んで外に出た。

 森に向かって耕造と並んでゆっくりと歩いた。ここを散歩するのは修一に手を引かれて歩いたとき以来だ。

 ペンションの前を通り過ぎて少し歩くと池から流れ出る小川があった。そこに架けられた小さな木橋を渡るとそこはクローバーが青々としている広場だ。あのとき肌で感じたものとあまり変わりがないように思った。それが彼女を安心させた。

 耕造は池の淵で立ち止まった。亜紀はその横に並び立った。池の外周半分は樹木や草が生い茂り、水際きわまでは行けない のだが、ペンション付近と広場のところは水際まで行ける。

 「綺麗な池じゃろう。水源は山からの伏水流じゃから一年中濁りもなくて水温も一定なんじゃ。それに、ここは保水能力のある木と腐葉土のお陰で雨が降っても殆ど土砂を流さない。それで池の透明度が保たれている」

 亜紀は屈んで透明な水の中に手を入れた。が、永くは浸けてはいられなかった。

 「冷たいじゃろう」

 「はい」

 「水温が15度くらいじゃから魚の種類もそう多くないし水草もあまり生えん」

 池の水面みなもに新緑の木々を映し出し清廉で美しい。義祖父が自慢するのも頷けた。

 亜紀はハンカチで手を拭って立ち上がると薄茶色のサングラスを外して池を見やった。

 「亜紀さんは何かな、外へ出るときはいつもそうやって眼鏡を掛けるのか?」

 背の低い耕造は亜紀を見上げて言った。

 「はい」

 「眼は完全に治ったんじゃろう?」

 「はい、お陰様で治りました。視力も元通りです」

 「そうかい、それはよかった」

 「でも、外へ出るときはいつもの癖でこれがないと落ち着かなくて」

 亜紀はそう言ったが、本当は孫からもらった眼を保護したい気持ちからだろうと耕造なりにその理由を解釈していた。

 ここを切り拓いたときの苦労話を聞きながら広場を池沿いに歩くと、途中にも小川があり同じく木橋が架けられていた。

 二人が並んで歩く森に中の遊歩道は、落葉に覆われて土はほとんど顔を出していない。歩くたびにかさかさと音がした。

 周りは大小の広葉樹ばかりで、その下は熊笹やシダ類と雑草だ。若木も生えている。頭上の陽差しは殆ど木の葉に遮られ、葉の間から光が差すくらいだ。種類はわからないが、鳥の囀りが時々聞こえた。亜紀が知るのは鶯とか烏の鳴き声くらいだ。

 時折立ち止まって耕造が樹の名を教えてくれた。そのほとんどが亜紀が修一から説明を受けたことのあるものばかりだが、見るのは初めてのものが殆どだった。

 義祖父の説明を受けながら歩いていて、国立武蔵森林公園を修一と散策したときのこと思い出していた。あのときは目が不自由で木の説明を受けても想像するしかなかったが、彼の眼のお陰でこうして自分の目で見ることができる。亜紀は切ない気持ちを抱いたまま耕造に従って歩いた。

 道々彼は、ここで狸が横断するとか、落ちている糞を見てこれは何々のものだとか、脇に落ちていたドングリの皮を手に取ってリスが食べた後だとか、熊笹の葉の切符に鋏を入れたようにスッパリと切れた切り口を見せて、これは冬にウサギが食べたものだと亜紀に説明した。残念なことに耕造の腰からカランカランと鳴る鈴の音のせいか、密かに期待していた動物との出会いはならなかった。

 森の中にいるのは耕造と亜紀だけだ。濃密な枝葉のためにあまり陽も射ささない中で、ガサッと音がして枝が揺れた時は思わず悲鳴を上げそうになった。熊は出たことがないが、猪はいると聞かされていたからだ。猪でも十分怖い。薄暗い森に一人きりではとても来る気になれそうになかった。

 「怖いくらいだわ」

 率直な感想を述べた。

 「そうじゃな、女子一人では入らん方がいいじゃろう。稲子も滅多に来ん。しかし、ここには、たらの芽やコシアブ おなご

 ラ、ゼンマイなどの山菜もあるし、果物がなる木もあるから盛蔵と来るがいい。刈谷なんぞは料理の添え物に使うのか、

 葉っぱだけ採りにしょっちゅう出入りしている。陽の射す所へ出るとわらびふきが生えているから、帰りがけに蕨だけでも採ろう。おかずの足しになるしな」

 亜紀は山菜の料理法を知らなかった。あとで刈谷さんに教わろうと思った。

 5分ほど歩くとその場所へ出た。少し傾斜した所に倒木が何本もあって陽が燦々さんさんと当たっている。耕造は草叢を中程まで入って腰を屈め、頭が握り拳のように丸まった深緑色の茎を手折った。

 「これが蕨だ、わかるか?」

 振り返って蕨を差し出した。

 「ああ、これが・・・」

 蕨自体は母が春先に煮物なんかで食卓に出すこともあるので知っている。だが、生えているのを見るのはこれが初めてだ。

 「ほれ、あそこにもある」

 耕造は草むらを指差した。よく見れば雑草に紛れているが、あちこちに特徴的な形が立っていた。足元では蕗の大きな葉が密生していた。

 「本当に」

 ここへ来てよかったと思った。自分から言い出したものの、一人で遠出をしたことがない彼女にとってここでの生活に不安はあった。しかし、池を見て山を見て、さらにここへ案内されてその不安も解消した。このような素晴らしい環境で彼は育ったのだ。一緒に森を巡れればどれほどよかっただろう。彼もそう思っていたに違いない。

 「山に入ればもっと沢山採れる。今度は籠を持って来よう」

 耕造はにっと笑った。

 亜紀は耕造に教わりながら手折って蕨を採った。それを一握り手に持って周りに目を巡らせると、小判形の葉の中に紛れて小さな白い花に目が行った。それは蔓性植物で半日陰になった中木の枝に絡まり花弁が対となって咲いている。所どころ黄色の花も混じっている。森の中では花を見なかっただけに目を惹いた。

 まあ綺麗とスカートなのも気にせず、下草の中に分け入って緑の中のカトレアに似た小さな花に手をやった。花弁は細長い円錐状で、先の方は上下2枚に分かれていて、上弁は4つの鋸状で下弁は舌のように手前に突き出している。鼻を近づけるとほんのかすかだが甘い香りがした。

 「それはスイカズラじゃな」

 亜紀の背後に来て耕造が言った。彼女は振り返り、らと鸚鵡おうむ返しに呟いた。

 「別名忍冬とも言うがな」

 「ニンドウ?」

 「忍ぶ冬と書く。寒い冬を耐え忍ぶところから来たんじゃろうな。花言葉は確か『愛の絆』じゃったかな」

 冬を忍ぶ・・・、思い浮かべたどの漢字とも違っていたが、この小さな花に相応しい名だと思った。今の自分のことのようにも思えた。そして愛の絆。何て素敵な花言葉だろう。薔薇や百合のような万人受けのするものではないが、この小さな花が好きになった。

 「花を採って後ろから吸ってごらん。蜜の味がするから」

 蕨をエプロンのポケットに入れて、言われたとおり枝から伸びて咲いている花を、ごめんねと断りながら摘まんで引っ張ると簡単に取れた。ラッパのように伸びた首の元を口に含みそっと吸うと僅かに甘い味がした。

 「わしが子供の頃は風邪を引くと母親が葉っぱを煎じて飲ませてくれたもんじゃ。今のように近くに医院や薬局があるわけでもないから、何かあるとすぐに煎じて飲まされたもんじゃ。解熱作用や利尿作用があるからな。詳しいことは知らんが、他にも色んな薬効があるらしい」

 都会育ちの亜紀にはわからないことだ。

 「ちょっとした切り傷には血止め草を傷口に貼り付けて、蜂なんかに刺されたらサツマイモの蔓の汁をつける。そうやって親や上の子に教わって、それをまた次の子に伝える。それが今ではなんでもかんでもすぐに医者に連れて行くから、国の医療費もかさむしひ弱な子もできる。困ったもんじゃ」

 左程困った風でもなくそう言って歩き出した。

 帰り道、耕造は明治維新まで加辺家がこの辺一帯の名主だったことや戦後GHQの指令によって田畑の殆どを召し上げられたこと、森林整備の大変さなどを話した。しかし、亜紀の心情を思ってか修一ことは話題になかった。

 二人が蕨と蕗を持って母屋に戻った時には4時を回っていた。森を歩いたお陰で随分気が軽くなったような気がした。

 夕食の買い物は道不案内だろうからと耕造が同行した。彼女用の車はまだ納車されていないので、ペンションの車を借りた。

 食料品は村役場前にあるスーパーで用が足りたが、ついでだからと耕造に誘われて自由農園」へも行った。

 耕造は村の中でも名士らしく、どこへも行っても誰からかに声を掛けられた。その都度亜紀が望んだ通り、孫の嫁だと紹介した。紹介された方は修一が夭逝ようせいしたことを知っているだけに目を丸くして驚いた。

 「あらまあ、修一さんにお嫁さんがいたのね、知らなかったわ。あんな若さで亡くなるなんて、本当にお気の毒。村のことでわからないことや困ったことがあったら私に言ってちょうだい。いつでも相談にのるから」

 「へえ、修ちゃんに、こんな別嬪さんがねぇ、修ちゃんも心残りだったろう」

 「ご愁傷様。遠慮はいらないから、いつでも遊びにいらっしゃい。レタスや小松菜がたくさんあるから持って帰って。家は耕造さんに訊けばわかるから」

 紹介されるたびに、不束者ですが、よろしくお願いしますと型通りの挨拶をすると、こちらこそと返事が返ってきた。

 どの人からも好奇の目で見られたが、みんな気さくな人で安心した。

 買い物を済ませ車に乗ると耕造が言った。

 「あんたのことはすぐに広まるよ。あんなことになって祝言も披露宴もしていないから、亜紀さんには気の毒じゃったが、これで振れ回らなくても済む。丁度よかった。

 この村で生活する以上、ここの社会に溶け込まないといけないから、最初の頃は気苦労も多いじゃろうが、辛抱してくれ。あの通り田舎者じゃが、亜紀さんもすぐに馴染めるじゃろう」

 「それは承知しています。心配なさらないでください。なるべく早くお付き合いができるように、地域のいろんな行事ごとにも参加して慣れるつもりでいますから」

 耕造は助手席で、うんうんそうかそうかと満足そうに頷いた。

 夜に母から携帯へ電話がかかってきた。娘を心配して様子を聞き出そうとするものだったが、亜紀は元気にしているから心配しないでと今日一日の事を報告して電話を切った。


                 (二)


 翌日亜紀は朝食の後片付けを終えると、電動アシスト自転車に乗って転入手続きのために村役場へ行った。その自転車は、あれば何かと便利だろうと、杏子が申し入れたものだ。天気がいい時は買い物と気分転換などで結構役立っている。

 役場を少し離れると田園風景が広がり、あちこちで田植えをしていた。

 途中で出会った村人には積極的にこちらから挨拶をした。誰もが挨拶を返してくれたが、見知らぬ女性の声掛けに訝しげな表情をする人もいた。それを承知でしているのでが気にならなかった。

 まわり一面田圃や畑が広がる場所に来ると南八ヶ岳の全陵が見え、心の中が晴れたような明るい気分になった。だから彼女は折に触れて足をここへ向けた。

村内の数あるビューポイントの中で彼女のお気に入りは役場北側にある弓振の天空の田園テラスだ。テラスと言っても、道路脇に丸太の上に分厚いいたを渡しただけのベンチが2つと「天空リゾート八ヶ岳田園テラス」と明記されたパノラマ写真の案内板があるだけだ。亜紀はこの写真にある山々を見比べて山のが、そこから眺める山並みは彼女の傷ついた心を癒してくれた。

 四季の中で彼女は春と冬のここが好きだった。春は葉が青々とした芽吹いた葉が生きている実感を与えてくれて、初冬は空気が澄み切り、その存在を訴えかけるように八ヶ岳の山々の頂が白く化粧をするからだ。その時は寒さを忘れて見飽きなかった。

 今日もそこで自転車を停め、遥か向こうの山並みを眺めた。山々が青空に映えてくっきりと見える山稜が新緑で輝いていて自分に勇気を与えてくれているような気がした。

 自転車から離れると、両腕を広げ新鮮な空気を胸一杯に吸った。ベンチに腰を下ろし、飽きずに山々を見ていてここに来て良かったと心から思った。この素晴らしい景色を自分の目で見られるのも修一のお陰だと感謝し、山に向かって黙祷した。


 昼食の片付けを終えると修一の部屋の掃除に取りかかった。そこに入るとき少し緊張した。彼がいる筈もないのに、入りますと声をかけた。襖を少し開けて中を覗き込むと、畳の上に明るいベージュ色のカーペットが敷かれていた。彼は居ない。その当然なことが彼がこの世にいないことを改めて突きつけられた思いがした。

 一見して彼の死後、掃除以外誰も手をつけていないことがわかった。その部屋の中が、単なる修一の不在かのように映ったからだ。義母もまた息子の死に整理をつけられずにいるのだろう。

 中に入ると、ぐるりと部屋の中をある感慨を持って見た。壁のない和室のためか装飾品と思えるものが皆無だった。主がいないせいか生活感も感じられなかった。兄の部屋を見知っているが、洋室と和室の違いがあるものの、同じ男の部屋でもこうも違うのかと変な感想を抱いた。

 広縁側の障子に向かって古くて重厚感のある大きな机、その左横には洋服箪笥があり、東の襖のところにはこれまた古そうな本棚が2架並んでいた。そこにあらゆる分野の本が整理されて納められているが、百科事典や辞書、洋書もあって小説類を除けば、亜紀には難解な書籍ばかりだった。防虫剤の匂いがする箪笥の中の衣類は綺麗に畳まれていて生前のままのように思えた。ベッドがないので布団を敷いて寝ていたのだろう。大学に入るまでは、時間の大部分をここにいたはずで、この部屋で彼は何を思い何を考えていたのだろうと机の上に手を置いて暫し思い遣った。

 書籍の虫干しをするとなると、この部屋の掃除を終えるだけでも半日は潰れそうだと見当をつけた。押し入れがないので布団は何処か別の場所にあるのだろう。義母に在処ありかを聞いてそれもこの際乾かそう。

 亜紀は掃除に取り掛かる前にひとまず修一が使っていた椅子に座った。つま先がやっと床に着くほどに椅子は高かった。大きな机の上には写真立てだけがぽつりと置かれていて、その立ての中にはよほど気に入っていたのか、あの紅葉を背景にした亜紀との写真があった。

 亜紀はそれを取り上げた。アルバムで見たときは感じなかったが、並んだ修一と自分の見る方向が少し異なっている。

 そのせいか自分の目が健常者とは少し違って見えた。知り合って間もないこともあって、恥じらいながら少し緊張している様子を写真はしっかりと捉えていた。

 亜紀はしばらくそれをじっと見つめた。その時のことを思い出し、次第に何かがこみ上げてきたので写真立てを伏せて立った。

 アルバムはここにはないだろうと思いつつ捜すと、本棚の一番下にそれらしき紙バックを発見した。その中に分厚い黒表紙のアルバムが全部で3冊あった。

 机の上に置いて、ざっと目を通し年代順に積み替えると幼少時代のものを開いた。

 1冊目の表紙をめくると、布団に寝かされている0歳児くらいの赤ちゃんの写真とどこかの神社を背景に和服姿の稲子に抱かれた修一の写真があった。何が可笑しいのか母子で笑っている。

 順に見て中ほどの頁に裸の修一が畳の上に足を投げ出し、首を右に少し傾げて何か煎餅みたいなものを咥えている写真が1枚だけあった。写真の下に1歳半と書かれていた。金太郎の腹掛けの下に彼の小さなものが見えた。幼児の表情がよくて亜紀は思わず笑ってしまった。

 最初の1冊は誕生から幼稚園のころまでが納められていて、一緒に写っている盛蔵も耕造も随分若い。2冊目は小中学校時代のもので、学年ごとの記念写真を見ると、中列にいることから、この頃の身長はそれほど高くなかったようだ。運動会や遠足といった学校行事のものが大部分だったが、中には家族旅行や親戚らしき人と納まっているものもあった。稲子が頻繁に写っているので、この頃はまだ義母も自由な時間があったのだろう。

 後ろの方に中学時代のものがあった。ここにも学年ごとの記念写真が貼り付けてあり、この頃になって身長が急速に伸びたようだ。小学校時代までは女子の写真も数多く混じっていたのだが、中学の高学年になるにつれて、男子のグループ写真が大半を占めていた。このころから異性を意識し始めたようで可笑しかった。

 3冊目の高校時代にもなると、男らしい引き締まった容貌になっている。女子に持てたことは想像に難くなかった。それが証拠に女子生徒と一緒の写真も多かった。顔が異なる女子とのツーショットやスリーショットが多いから、交際する特定の彼女はいなかったのだろう。それにしてもスカート丈の短い女子高生が多い。自分なら恥ずかしくて真似ができそうにない。3年生のクラスの写真では、最後列に並んでいることから、高校時代も身長が伸びたことが想像できた。硫黄岳や赤岳の頂上写真や山頂から見たどこかの山もあり、このあたりから登山に関心を持ったようだ。写真で見る限り、八ヶ岳連峰に限られていた。

 家族との写真では耕造との写真が多かった。修一も祖父を慕い、耕造も一人きりの孫を可愛がったのだろう。高校生時代から、親離れが進んだのか家族との写真はめっきり少なくなった。

 中程からは大学時代からのもので、東京工業大学の正門前で撮った写真があった。入学式のときだろうか、満開の桜の下で稲子と耕造の三人が一緒に満面の笑みをたたえていた。青雲の志を抱いていたか否かは写真からは伺えないが、彼の顔には初々しさと晴れやかさがあった。

 学生時代のものはそれほど多くなく、バスケット部での活動や男同士で京都や九州へ小旅行をしたときのもの、ゼミ仲間の写真がほとんどだった。学生仲間がグリーンハウスに来た時のものもあった。よほど親しい仲間だったのか、女学生2名を交えた5人のグループのものは他にも数枚あった。

 社会人時代になるとさらに少なくなり、慰安会や台湾旅行をしているもの、カラオケで歌っている姿くらいしかなかった。

 どの時代を見ても恋人と呼ぶ特定の女性はいなかったようだ。知らずにそれを意識している自分に気が付いて思わず苦笑してしまった。

 アルバムを元に戻すと、本棚から次々と本を取り出し1間幅もある縁側の日陰に並べた。蔵書が多くて、何冊も両腕に抱えて何度も行ったり来たりしたので、途中で疲れて縁側にぺたんと座り込み、ぼーっと外の景色を見やって休憩した。

 目に入る新緑が眩しい。野鳥の囀りが聞こえる。親鳥が戻って餌を与えるのか燕の子の鳴き声もする。それがなければ静寂が家を包んでいると言ってもいいだろう。耕造も外に出ているので家の中は物音ひとつしない。開け放ったガラス戸から抜ける風が頬に心地よかった。

 こうしていると、ここにいることの不思議を感じた。あのとき彼がバス停で声をかけてくれなかったら、こうして視力を取り戻すことも信州へ来ることもなかっただろう。ここへ来たのも何かの運命のような気がしてきた。

 それが運命だとしたら、この先どのような定めが待っているのだろう。本当に彼のことを忘れることができるのだろうか。いや、忘れていいのだろうか。

 彼女は自問したが、答えはどこからも返って来なかった。ただ両親に我儘を言ってまでここへ来たことについては、間違っていないと信じたかった。

 柱に寄りかかって足を投げ出してぼーっとしていると、亜紀さんいるかいと耕造の声がした。はーいと返事をして玄関へ行くと、昨日と同じ格好の耕造がタオルで汗を拭いながら立っていた。

 「亜紀さん。大丈夫かな?あまり無理をしてはいかんぞ」

 「大丈夫です。修一さんの本の虫干しをしていて、何度も部屋と広縁を往復しているうちに疲れたので、一休みしていたところです」

 耕造は上がり框にどっこいしょと麦藁帽子を脇に置き横向きになって腰を下ろした。

 「縁側にいたのかい。家の中にいるとばかり思っていてから、気が付かなかった。あれも家にいるときはよく縁側で本を読んでいたな。勉強をしている姿は一度も見たことはないが、それでいて成績も素行もよくて、稲子が学校へ行くといつも褒められて、嬉しそうに帰って来たもんじゃ。盛蔵と稲子の自慢の息子で、わしの自慢の孫でもあった。それがなあ、あんなことになって・・・」

 耕造は孫のことを思い出したのか、目をしばたたせた。

 「医者から聞かされて覚悟はしていたのじゃろうが、それでも親孝行な子じゃただけに、稲子は帰ってきてから半狂乱になってそれは大変じゃった。葬式の間も恥も外聞もなく泣きっぱなしでな。親に先立つ不幸とはまさにこれじゃった。亜紀さんにも気の毒なことになった」

 亜紀は正座して両手を膝の上で合わせたまま、耕造の傍で黙って聞いた。彼が修一のことを話すのはこれが初めてだった。何か言いたかったが声にならなかった。

 「おお、すまん。こんな話をしに来たんじゃなかった。根をつめて体を壊してもなんだから、ちょっと一服しないか」

 亜紀は悲しみを振り払うかのように、はいと返事して立ち上がった。

 「それではお茶を淹れますから、上がって下さい。水屋に和菓子がありましたから、それをいただきましょうか」

 いやいやと耕造は手を振った。

 「わしは地下足袋を履いているから、亜紀さんさえよければここでいい」

 それではと、台所へ行く後ろ姿を見て耕造は呟いた。

 (不憫じゃが、いずれ時間が解決してくれるじゃろう)

 お茶を飲み15分ほど世間話をして耕造はどっこいしょと立ち上がって出て行った。

 脚立に昇って飾り欄間と障子の桟にある埃を払い落とし床に掃除機をかけた。物を置いていないので掃除は楽だった。

 今度は写真立てを見ないようにして机の拭き掃除に取りかかった。

 抽斗も1段ごとに中身を取り出して中を乾拭きした。最上段は彼の性格なのか筆記用具や書類が整然と納められていたが、彼女の気を惹くものはなかった。順に同じことをして、最下段の抽斗にあった書類を手に取ったとき、チューブファイルの背表紙に目に止まった。マジックインクの手書きで特許関連資料と書かれていた。

 特許?何だろうと興味に惹かれてファイルを開いた。彼女には馴染みのない書類が多く綴じられていて、彼の椅子に腰を下ろしてざっと目を通した。

 そこには弁理士との契約書や何かをやり取りした記録が綴られ、特許の願書、特許請求の範囲、明細書、図面それに要約書が一まとめにしてあった。出願日と彼の生年月日から逆算すると19歳くらいに作成したものだった。

 優秀な人だったとは聞いているけれど、何を出願したのかしらと、独り言を呟きながら書類に目を向けた。書かれている内容は難解でいまいち不明だが、医療器具に関する画期的なアイデアらしいことが、出願のタイトルで判読した。

 さらにページを繰ると、出願公開請求書と弁理士との打ち合せメモが綴られていた。それには通常出願から1年半で自動的に出願内容を公開されるものが、これを提出することで、公開の効果を早められ補償請求権も早期に発生させることができるらしいことが記されていた。

 それから何かの契約書の下書きらしいものがあって、重要と書かれたビニールの袋の中に書類があった。袋から取り出すと、彼が勤務していた大手光学メーカーとの間で交わされた契約書だった。

 そこには専用実施権設定契約書と銘打たれていて、特許番号と発明の名称が記載され、実施期間や場所、特許の内容があって、専用実施権設定の対価として、乙すなわち加辺修一に一時金の支払いと、実施料として製品の製造高に工場渡し価格の0.098%を乗じた額を、特許の有効期間が切れるかメーカーがそれの使用を取り止めるまでの間、年末日締で精算し翌月20日に乙の指定する銀行口座に支払うとあった。

 契約書に記された一時金のゼロの多さに、一の桁から数を数えて金額を確認した亜紀は椅子から仰け反りそうになるほど驚いた。それだけの価値あるものを彼の頭脳が考え出したこともそうだが、そんな優秀な人とは知らずに付き合っていたことに鳥肌が立った。そのような人が、何の取り柄もなく、しかもハンディキャップのある私とどうして交際をする気になったのか摩訶不思議なことに思えて仕方なかった。今はそれを聞き出すすべもない。

 契約書の締結日から判断すると、彼は弱冠21歳の若さで宝くじの一等が当ったくらいの大金持ちになっていたのだ。

 自分のことで精一杯で彼のことを何一つ知らないことに今更ながら思い知らされた。

 私には関係ないことと、書類を元に戻して掃除を再開した。陰干しをした書籍を本棚に戻し、修一の部屋と隣の和室の掃除を一通り終えたところで、夕飯の支度をする時間になった。夕食時間は8時頃なので、足りない物をこれから買い出しに行っても間に合うだろう。

 翌日もその翌日もそのまた翌日も掃除と洗濯、食事の用意だけで1日が暮れた。

 彼女の掃除は徹底していた。脚立を使って手が届くまでの柱は無論のこと、床や畳、障子の桟までも水拭きをしたので毎日くたくたに疲れ、布団に入るとすぐに眠りについた。毎日そう言ったことをしても、母屋全体の掃除を終えるのに2月近くを要した。その甲斐あって母屋の1階は古いなりに見違えるほど綺麗になった。

 2階はがらくたしか置いていないから掃除はいらないと稲子から言われていた。それなのにこんなにも日数がかかって

 しまった。自分の不手際もあるだろうが、このままではペンションの手伝いどころか自分の時間さえも持てないと反省した。

 それからは、毎日すべき家事と日を決めてする仕事に分けた。そのことを稲子に伝えた。義母は母屋のことは亜紀ちゃんに任せているから好きなようにして。いちいち報告はいらないわよと笑った。

 亜紀が来て数日経ったある日、彼女が洗濯をしていると稲子に仏間に来るようにと呼ばれた。

 耕造が朝の読経を欠かさないので、仏間は線香の匂いが強く残っている。

 「亜紀ちゃん、うちの人から修一のお金のことで何か聞いてる?」

 「いいえ、何も」

 「そう。忘れているのね」

 携帯電話を服のポケットから取り出すと夫を呼び出した。

 「ああ、あなた。忙しくなかったら仏間に来てくれる。何の用事かって?まだ亜紀ちゃんにあのこと話していないでしょ。修一のお金のこと。今亜紀ちゃんといるけど、あなたから話して欲しいの。ええ、わかった。手紙?それもあなたに任せるわ。じゃ、待っているから」

 修一のお金と聞いて、亜紀は特許料のことだろうとすぐに察しをつけた。しかし、それと自分との関わりがわからなかった。稲子も盛蔵が来るまでは話すつもりがないのか、黙って息子の遺影を見つめていた。亜紀も膝に両手を置いたままじっと待った。

 しばらくすると玄関と板の間を隔てる板戸を開ける音がした。彼はすぐには仏間に来なかった。

 やがて襖の向こうから、入るよとの盛蔵の声がして開いた。

 「珍しいな、お前が亜紀ちゃんとこうしてじっくり話しているのは」

 亜紀が勧めた座布団に胡坐をかいた。盛蔵は白い封筒と通帳を手にしていた。

 「もっと早くに亜紀ちゃんに知らせて相談すべきだったのだが、遅くなってしまった。私らも修一が死んで心の整理をつけるのに時間が必要だったんだ。そうこうしているうちに、亜紀ちゃんの方からここへ来てくれることになったから、そのときに話すつもりが、忙しさに取り紛れて失念していた。済まない」

 しきりに弁解して頭を下げて、実はと話し始めた。

 「息子から亡くなる前に遺書ともいえる手紙を受け取っていたことは亜紀ちゃんも知っているね。一通は亜紀ちゃん宛のものだから、それはお父さんから受け取っていると思う。それとは別にもう一通私ら宛の手紙があって、これがそうだよ」

 盛蔵は白い封筒を亜紀に渡した。宛名は父上様、母上様となっていた。亜紀は宛名を見て逡巡した。

 「お義父さんお義母さん宛の大事な手紙を私が見てもいいのでしょうか?」

 「いいとも。亜紀ちゃんは家族だから是非読んで欲しい」

 稲子も横で黙って頷いた。

 亜紀は震える手で封筒から手紙を取り出しそれを開いた。苦痛のせいか文字は乱れていた。読み始めると病院でのことを思い出すとともに万感の思いが募り、文字が涙で滲んでそれ以上読めなくなった。

 小さな嗚咽が始まり、手紙を脇に置くと涙をエプロンの上に落とした。稲子は黙ってハンカチを渡し、彼女の背中をなでた。彼女の眼からは涙が止めどなく湧いて頬を伝った。そんな彼女を痛ましく見て稲子も悲しくなると同時に、彼女が負った傷が余りにも深いことを思い知った。盛蔵もまた痛ましそうな顔でその様子を辛抱強く見ていた。

 やがて落ち着きを取り戻し涙を拭うと、小さな声でごめんなさいと詫びて再び手紙に目を落とした。

 〈父上様、母上様 親不孝な息子を許して下さい。お爺様にもお詫びする言葉もありません。

 僕の命は2か月しかないと医者から宣告されました。膵臓の癌細胞が内臓のあちこちに転移しているのだそうです。すぐに入院の手続きをするように言われました。しかし、治療をしたところで延命処置ぐらいしかありません。それくらい なら、痛みだけを抑えて残された時間をぎりぎりまで有効に使おうと思います。

 あのとき突然帰省したのも、親父やお袋それに爺ちゃんにそれとなく別れを告げるためでした。亜紀さんとも会うたびに心の中でお別れを言っていました。

 ペンが取れるうちにとこの手紙を書いています。そういえば、長い間手紙を出していませんでした。親不孝で筆不精な息子で申し訳ありませんでした。これを書き終えたら入院の準備をするつもりです。

 告知をされてから1月以上経ち、頑張りにもそろそろ限界に近付いているようです。心と身辺の整理をつけて、こうして筆を取る気持ちになるまでにそれだけの時間が必要でした。

 一度入院すれば退院することは最早叶わないと覚悟しています。ですから、僕の願いをここに書き遺します。

 病気のことは亜紀さんには知らせないで下さい。今の姿を見られたくはないし、心配もかけたくありません。ですから、彼女には長期の海外出張に出ると告げるつもりです。ただ、彼女のお兄さんだけには入院する前に僕の症状と気持ちを伝えておこうと思っています。それは、僕がいなくなった後のことを彼に頼みたいことがあるからなのです。

 親父とお袋にお願いしたいのは、僕の死後、僕の角膜を亜紀さんに提供して欲しいのです。亜紀さんの眼は適格な角膜があれば治ることがわかっています。でも、現行の法律ではドナーは提供先を指定できないのだそうです。しかし、親族間であればそれも可能です。亜紀さんに一時的に僕の妻になってもらえばそれができます。ですから、適当な時期に亜紀さんのご両親に僕の意志を伝えて欲しいのです。このことはお兄さんにも話します。彼女の眼さえよくなれば、僕は思い残すことはありません。

 角膜の移植と相続の手続きが完了すれば、亜紀さんの籍を元に戻して下さい。僕の遺言と思ってそうして下さい。

 もう一つの願いは僕の預金口座にあるお金です。それは僕が2件の特許を取得して、その権利を今の会社に許諾権を譲渡したときに一時金として振り込まれたものです。数年後には相当額の金額が毎年振り込まれるようになるはずです。それらを仮の妻である亜紀さんにも相続できるようにして欲しいのです。

 僕はこれまで何も社会に貢献できるようなことをしてきませんでした。内心忸怩たるものがあります。僕の臓器でもし役立てられるものがあれば提供したいのです。ドナーカードは持っていませんが、故人の遺志だとして角膜移植と併せてその手続きもお願いします。このことは主治医にも伝えました。

 それから僕の通夜と葬儀は親族だけにして下さい。大仰にすることは僕の信条からいって好みません。これが最後の願いです。最後まで我儘を通すことを許して下さい。

 今まで育ててくれて有難うございました。いつまでもお元気で。愚息修一〉

 手紙を読んでいて彼女の中に得心のいくものがあった。彼が出張に行くと告げられてから、1度デートをしたが、さりげなく兄を伴うことを拒否したりし、家に入るのも固辞していた。それは病気だということを悟られたくなかったのだろう。今思えば、その時のデートのときも、頻繁に休憩を促していた。それは私を気遣ってのことと単純に思い込んでいたが、彼自身が苦しかったのだ。それとも知らずに一人はしゃぎまわっていた自分が情けなくて申し訳ない気持ちになった。

 読み終わっても亜紀は手紙を持ったまま放心状態でいた。義父母宛ての手紙にはなっていたが、それはほとんど自分に対するものばかりではなかったか。修一の愛情が深く心に突き刺さると同時に義父母に申し訳ない気持ちで一杯になった。また、わーっと畳に頭を付けて泣きだした。

 「お義父さんお義母さん、済みません。私のせいで修一さんの命を縮めてしまって。修一さんに何もしてあげられなくて・・・」

 肩を震わせ切れぎれに訴えるのを盛蔵が優しく背中を撫でて諭した。

 「亜紀ちゃん、それは違う。これは修一自身が気を付けていればいいことだ。それに修一の代わりに亜紀ちゃんは私らによく尽くしてくれているよ」

 「そうよ亜紀ちゃん。そんな気持ちで手紙を見せたんじゃないの」

 「でも、私がいなければ、修一さんも無理しなかった・・・」

 「いやいや、私はそうは思わない。たとえそうであったとしても、それは亜紀ちゃんのせいではない。修一がしたことだ。それより今は修一の遺志をどうするかだよ。実は相続税を納めなければならないが、先延ばしにしていたからあまり時間がない。さあ、泣いてばかりいないで、それを話し合おう。まず、これを見て欲しい」

 盛蔵は持っていた通帳を亜紀に渡した。頭を上げ、涙を拭いて恐るおそるそれを受け取って中を開いた。数頁を繰り残高を確認して目を見開いた。思わず通帳から目を離して二人を交互に見ていまった。途方もない金額の残高が印字されていたからだ。これほどの金額になると実感が伴わなかった。

 「驚いただろう。修一が借りていたマンションを整理していて、これを見つけたんだが、私らもそれを見てびっくりした。特許を取得したことは聞いていたが、まさかこれほどとは思ってもみなかった。その手紙には特許のことしか書いていないが、通帳を見てわかるようにそれだけではないのだよ。

 息子の高校時代の友人がお参りに来てくれたときに説明してくれてわかったのだが、高校生のときからゲームソフトの制作に関わっていたようだ。その方面に疎いからよくわからないが、ある有名ゲームソフトメーカーと一本幾らで製作していたらしい。何本制作したのか知りようもないが、全部で2千万円近いお金が振り込まれている。

 あれが大学に入るときも在学中も、バイトで貯めた金があるからといって、ほとんど仕送りらしいことをしなかったが、その理由がこれだとそのときにわかった。

 出金欄を見てもわかるように、一定の金額しか引き出していない。月々はその金額でやり繰りしていたのだろう。年2回多く引き出しているのは大学の授業料だと思う。それと月々と年2回の入金は、勤めていた会社の給料と賞与が振り込まれたものだ」

 義父の言う通り一定の金額しか引き出されていない。これを見ても堅実な性格が窺えた。

 「それでこれをどうするかだが、普通に相続すれば配偶者である亜紀ちゃんが3分の2で、残りは私達ということになる。もちろん、全部亜紀ちゃんのものにしても私らは構わないと思っている」

 突然そんなことを言われても困惑して亜紀にはどうしてよいか答えられなかった。それにこれまで目が不自由で自分で買い物をすることなどなかったせいか、お金に対する執着心がなかった。しかも少額なら知らず、これほどの大金となると却って迷惑なものでしかなかった。

 「私に受け取る資格がありません。一緒に暮らして遺したものならともかく、修一さんが得たお金ですから、お義父さんとお義母さんのものです。ですから受け取れません」

 亜紀の辞退にも、やっぱりなと盛蔵は驚かなかった。

 「亜紀ちゃんなら、そう言うだろうと思った。でもな、亜紀ちゃん、いわばこれは修一の遺書なんだよ。だから私らは息子が望むようにしてやりたいと思う。愛情を金に換えるなんてと純粋な亜紀ちゃんは嫌うだろうが、今となっては息子の愛情はこれでしか示せないのも事実だ。

 さっき言ったように亜紀ちゃんに全部受け取ってもらっても構わないのだが、息子の遺志を尊重して法律通りに相続しようと思うが、どうだろう?稲子もそれがいいと言っている」

 亜紀は唇をきりりと結んだまま大きく首を振った。

 「いいえ、私には多すぎます。修一さんの手紙にもどのようにするかは書かれていません。どうしても修一さんの遺志を尊重したいと仰るのなら、受け取ることまでは拒みません。でも、私の分は3分の1以下にして下さい。それでも多過ぎると思いますけれど、それでお願いします」

 「まあ、そのように決めつけることはないが、それで気が済むのならそうしよう。よし、わかった。税理士とも相談してそのように手続きをしよう。税金のこともあるから、最もいい方法で決めよう。

 ああ、やっと肩の荷が下りた。息子のものを名義変更したり、分割協議書を作成したりして、10か月以内に申告をして支払わないといけないから、あまり時間がないんだよ。それで、私の知り合いの行政書士と税理士に頼もうと思うがいいかい?」

 「何もわかりませんから、よろしくお願いします」

 こうして思いもよらない額の遺産を相続することになった。


 原村に来てから2か月が経ち、家事の要領がわかってくるとペンションの応援ができるようになった。

 その手伝いの合間に、刈谷から料理のイロハを教わり、年齢的に近い亜希子とも話す機会が多くなった。特に彼女とは女同士気が合って、調理場を手伝いながら世間話をするのも楽しみの一つとなった。ときどき遊びに来る刈谷の長女の相手にもなった。

 義母の稲子は亜紀の様子をさりげなく見ていた。失明していた名残なごりからか動作に緩慢なところがあり、語り口もゆっく りしたものだが、万事にそつがなく、物覚えもよくて動きにも無駄がなかった。それは母親の躾がよくてそうさせたのか、彼女が利口だからかわからないが、恐らく両方なのだろうと判断した。

 稲子は嫁の亜紀に母屋の家計を預けると、そのやり繰りについても口を出すことはしなかった。それでも月末に家計簿を締めると預金通帳と一緒にそれを稲子に見せに来た。その必要はないと言っても、それを改めることはなかった。

 どこをどのようにやり繰りしているのか、稲子が家計を預かっていた時より倹約ができていた。不思議に思い家計簿をよく見ると亜紀個人の支出がないことに気が付いた。不審に思った稲子は、化粧品とか洋服とかの自分のものはどうしているのか尋ねた。亜紀が自分の預金から出していると消え入りそうな声で答えると稲子は、それは心得違いだと初めて叱った。

 「いつか、あなたは私の娘だと言ったわね。これまで私は嫁としてではなく娘として接してきたつもりなの。何を遠慮しているの?裏切られたようで悲しいわ。もし、私達に遠慮する気持ちがあるのなら、今から改めてちょうだい。それができないようなら亜紀ちゃん、申し訳ないけど今すぐ川越の実家に帰って」

 稲子の言葉はきつかったが、愛情が感じられ自分の不明に恥じ入って亜紀はうなだれた。

 「亜紀ちゃんが何処か外で働いていて、そのお給料で自分のために遣うのだったら何も言わない。でもここで私達家族のために朝早くから夜遅くまで働いてくれているのでしょう。だったらこの中から自分のために使いなさい。いえ、私のほうから生活費とは別に亜紀ちゃんが自由に使えるお金を渡さければならなかった。それに気付かなかった私が悪かったわ、ごめん」

 稲子は亜紀の手を取って詫びた。

 「いいえ、私こそ心得違いでした。済みませんでした。考えを改めます。余ったお金の中から使わせていただきます」

 「それでいいのよ。何度も言うようだけど、足りなくなったら必ず私に言うのよ。自分で算段しようとしては駄目、いいこと」

 亜紀がはいと頷くのを見て続けた。

 「亜紀ちゃんとはしばらくゆっくりと話す機会がなかったから丁度いいわ。少し話をしましょう」

 「それでは、麦茶を俺れます」

 亜紀は立ち上がって冷蔵庫を開けた。

 彼女は本当によくやってくれている。頼んだわけでもないのに、率先してペンションを手伝ってくれる。実の娘でもああまではしてくれないだろう。本当にいい娘を寄越してくれたものだと亜紀の背中を見て亡き息子に感謝した。

 「亜紀ちゃんは朝から晩まで本当によくやってくれている。あなたが来てくれたおかげで家の中が見違えるほど綺麗になって整理もされた」

 亜紀が来るまでは母屋の中の掃除が行き届いていなかった。それは稲子も反省していたが、ペンションの仕事と掛け持ちしているのだからと、自分の言い訳にしていた。夫にも舅にも小言を言われたことがないことに甘えてもいた。

 「主人は不器用で無口だし、お爺さんもあんなだからあまり口に出して言わないけど、あなたには心から感謝しているのよ。前に主人が言ったけど、修一が死んでこの家は崩壊しかけたことがあるの」

 亜紀は思わず稲子の顔を見た。義母の精神に異常をきたしたとは聞いたが、家庭が崩壊しかかったとまでは聞いていなかった。亜紀の表情を見て稲子はええと頷いた。

 「修一が亡くなって主人も私も一人息子の死を中々乗り越えられずにいたの。何もする気が起きなくて、家の中はおろかペンションも閉鎖寸前だったのよ。見かねたお爺さんが私達を叱って少し持ち直したけど、気持ちがついていかなかった。

 そんなとき、亜紀ちゃんがこちらへ来てくれることになって、どれだけ嬉しかったか。あなたが来てくれから、この家が持ち直したのよ。亜紀ちゃんの元気な姿や笑顔を見るだけで、不思議とやる気が出て来たわ。変な話だけど、あなたのお陰でようやく主人も私も息子の死から解放されたのよ。それができたのも亜紀ちゃんのお陰。我が家にとって救世主と言ってもいいくらい。だから、もっと自由気儘に振舞ってもいいのよ」

 折り入って話す機会の少ない姑だったが、そんな風に思っていてくれたのかと思うと嬉しかった。

 「私の方こそ好き勝手にやらせていただいて有り難く思っています。でも、こんなことでいいのでしょうか?」

 「それでいいのよ、不都合なことがあれば、私も遠慮なく言わせてもらうから。だから、好きなようにやりなさい。お爺さんが心配していたけど、亜紀ちゃんはいつ見てもこま鼠のように働いていて、いつ休んでいるのだろうって。一生懸命働いてくれるのは涙が出るほどありがたいけど、無理をしては駄目。若さに任せてやると、どこかで必ずしっぺ返しが来るから。

 あなたはいつかはお返ししなければならないご両親からお預かりしている大事な娘なの。病気にでもなったら申し開きができないわ。私は疲れたら受付の小部屋で休むし、主人だって適当に休憩を取っているわ。だから、あなたも無理をしないで欲しいの。いい、わかった?」

 「はい、わかりました」

 素直に返事ができた。

 「それから、いい機会だからこれだけは言っておくわ。主人も私もそれからお爺さんだって、いつまでもあなたをここに縛り付けるつもりはないの。さっき言ったように亜紀ちゃんはいつかここから出て行く人だと思ってる」

 亜紀が何か言いたい素振りを見せたが、手を上げてそれを制した。

 「早く修一のことはふっ切って欲しいのよ。これはあなたの気持ちだから、私達にはどうしようもないけど、いい人が見つかったら過去を振り返らず、いい結婚をして欲しいの。今は無理だろうけど、そのうちに良縁があれば紹介するつもりよ。でも、それはあなたをここから追い出そうとしてじゃないのよ。あなたの意志を尊重して、決して押し付けたりはしない。ただ、一番心配してらっしゃるご両親には報告するからそのつもりでね、いいわね?」

 「はい、わかりました」

 釈然としないところがあったが敢えて拒絶はしなかった。

 「湿っぽいお話はここまで。

 何度も言うようだけど、あなたを娘のように信頼しているの。少しでも時間があったら、ペンションのことにまで気を使わないで、自分の好きなことをしなさい。

 たまには町へ出て映画を見に行くとか、ショッピングを楽しむとか、習い事をするとか、お友達とお喋りをするとか、何でもいいわ。お爺さんから聞いたけど、お友達ができたそうじゃないの」

 稲子は彼女がここの生活に馴染もうと積極的に社交範囲を広げる努力をしていることを知っていた。

 「はい、近所の奥さん方とか同年代の娘さんに。買い物に出たときとか、近所の農家でお野菜を分けてもらったときにお喋りなんかして親しくなりました」

 荷物の多くない日常の買い物は自転車で行くことが多かった。

 買い物の道すがら畑仕事に精を出している人や擦れ違う人には意識的に時候の挨拶をした。最初のうちは見知らぬ亜紀から挨拶されて伬しげな表情をする人達だったが、何度もそうしているうちに相手の方から声が掛けられるようになった。

 いつしか彼女が視覚障害者だったことも噂で知れ渡り、彼女の夫が夭逝したこともあって、彼女への同情も相まって誰もが好意的に接してくれた。ときには、野菜が沢山採れたからとわざわざ持ってきてくれたり、果物のお裾分けをいただいたりもした。亜紀もお返しとして手作りの野菜ケーキやお菓子を持って、適当な理由をつけて家を訪問して交際範囲を広げた。

 「誰にでも仲良くなれるなんてそれは亜紀ちゃんの仁徳ね。私がここへお嫁に来た時なんかは、そんなに早く親しくなれなかったわ。だからたまにはお友達をお招きしてお喋りしてもいいのよ。それで社交の場が広がるのなら大歓迎よ。婦人会の集まりもあるから、それに出るのもいいわね。

 まあ、亜紀ちゃんとゆっくりお喋りができてよかった。もうすぐお客様が来られる頃だから、行くわね」

 口先のことではなく、実際に満足した様子で母屋を出て行った。

 この年は、修一の新盆と1周忌法要があり、家で行う浄土宗真宗の報恩講などの仏事も稲子や応援にきた近所の主婦にその都度教わりながら嫁としての務めを果たした。

 こうして彼女は少しずつ加辺家に馴染んでいった。


 嫁いで初めての正月に亜紀の家族がやって来た。8月の旧盆のときでもペンションが多忙だからと理由をつけて、実家へ帰ろうとしない亜紀を気遣って耕造が彼女の家族を招いたのだ。

 亜紀は大晦日の日に家族を小淵沢駅に出迎えた。改札口から美智子が出て来ると亜紀は走り寄って母親に抱きついた。

 「まあまあ、どうしたの」

 「お母さんに会いたかった」

 母親の前では彼女も子供になって甘えた。

 「あらあら。だったら、無理しないでいつでも帰ってくればよかったのに。あちらのお母さんが許してくれないの?」

 子供をあやすように背中をぽんぽんと叩いた。その様子を乗客が微笑ましく横目で見ながら改札口を出て行った。和雄達も傍に立って微笑んで見ていた。

 「ううん、いつでも帰っていいと言われていたけれど、慣れるまではと思って頑張っていたの」

 美智子は娘を離すと顔をじっと見つめた。その瞳からは修一のことについて何も読み取ることが出来なかった。ともあれ、血色も良く健康そうで一先ず安心した。

 「元気だったか?」

 父から優しく言われた亜紀はうんと言って頷き涙ぐんだ。横で見ていた美智子は、元気そうにはしているけれど、無理をしているのだろうと娘が不憫になった。これは加辺の人達と話し合わなければと心の中で決めた。

 年が明けた春に兄嫁となる杏子は、亜紀と実の姉妹のように手を取り合い、きゃーきゃー叫び飛び上がって再会を喜んだ。

 おしゃべりしながらの運転でも家族は安心していられた。それほど亜紀の運転の技量は格段に上がっていた。

 「こっちは寒いな。川越とは5、6度は違うんじゃないか?」

 兄が後部座席から話しかけた。

 「今日は例年より気温が低いらしいから特別そのように感じると思うわ」

 「家の中は寒いんじゃないの?」

 美智子は何より娘のことを気遣った。

 「どこにいたって同じよ。厚着して体を動かしていれば次第に暖かくなるわ」

 「いつの間にか亜紀ちゃん逞しくなったわね」

 助手席に座る杏子に言われて、でしょうと亜紀は応じて少し自慢した。

 互いの近況を報告し合っているうちに母屋に到着した。

 ご無沙汰同士の挨拶を終えると、彼らは仏前に川越名物の菓子を供え線香を手向けた。

 部屋の中は炬燵と石油ストーブの暖房がきいていて彼らが危惧するほどのことはなかったが、天井が高くだだっ広い板の間だけは凍るように冷たかった。

 彼らは4日間滞在した。その間、亜紀は父母と床を共にして、こちらへ来てからのことを話した。

 巨額の遺産を相続したことを知るとさすがに両親は驚いた。経済的な不安はないとは言え、これでますます娘がここから離れられなくなるのではとかえって心配した。

 美智子は舅姑との仲を危惧していたが、娘の話し振りと滞在期間中に観察した限りにおいては問題がなさそうだと安堵した。

 元旦の朝に出された3段の重箱に詰められたおせち料理が全て亜紀の手作りだと稲子から紹介されて美智子は驚き、短期間でここまで成長したことに稲子に感謝した。恥ずかしそうな様子で娘が言うには、正月のための準備を3週間前から

 していて、料理の多くを刈谷と稲子から教わったものだった。

 稲子は美智子が礼を述べるのを遮り亜紀をたてた。

 「いえ、申し訳ないけど、亜紀ちゃんに全部お任せして、私はほとんど何もしていません。味付けだけはその家のものがあるだろうからと味利きだけを頼まれただけなの。お母様の躾かしら、何から何までそつがなくて、私から何も言うことはありません。本当に助かっています」

 多少世辞が加わっているにしても、姑の稲子からそのように言われて美智子は悪い気がしなかった。

 義母から教わった雑煮は、鰹出汁だし のすまし汁の中に焼き塩鰤ぶりに、焼いた角餅、人参、大根、白葱などを入れたものだ。

 すまし汁は遠藤家も同じだが、塩鰤が加わるのは珍しく、和雄は家でも今度からこれにしようと言いながら賞味した。

 親戚近所付き合いについても年賀の客の応対を見た限りでは、それなりにうまく付き合っているようで、不安に思っていた家事も思っていたより要領よくこなしていて美智子は安心した。

 家の中のことは大体わかった。肝心の修一とのことは口の軽そうな祖父から娘の様子を聞き出して、それから後のことの判断を下そうと考えた。

 元旦は耕造の案内で家族揃って諏訪大社へ初詣に行った。帰宅前日の晩餐は盛蔵が近くのホテルのレストランを予約していた。家族だけでゆっくり過ごせるようにとの加辺家の配慮だった。

 からりと晴れ上がった帰る当日の朝、亜紀の両親は雪の森の中を散策した。外の寒さは川越とは比ぶべきもないが、厚着と使い捨てカイロのお陰で我慢ができないほどではなかった。ある目的を持つ亜紀の両親は息子達と離れて耕造をそれとなく捜した。その彼は小川の右岸で枯草刈りしていた。

 和雄はご苦労様ですと耕造の背後から声を掛けた。耳が遠くて聞こえなかったのか、まだ作業を続けている。再び大声で声を掛けた。びくっとして耕造は振り向いた。朝陽を遮るように手をかざし亜紀の両親を認めると、曲げていた腰を伸ばしにっこりとほほ笑んだ。それを見て和雄は翁の面を思い出した。自分も年を取ったらあのような笑顔ができればと思った。

 「お疲れ様です。寒いのに大変でしょう」

 「いや何、今日は陽もあってそれほどはな」

 彼の言う通り正月の間、風のない暖かい日が続いた。

 「今日お帰りかな?」

 「ええ、大変お世話になりました。午後に亜紀に駅まで送ってもらいます。その前に耕造さんと少しお話したいが、時間がありますか?」

 「ああ、体が鈍るといけないから惰性でしているようなもので構いませんよ。あそこのベンチへ行きますかな?」

 「外は寒いから、できれば落ち着けるところで」

 「それならわしの部屋で」

 腰を伸ばし背中をぽんぽんと叩くと先に立って歩き出した。

 耕造は自分の6畳間に案内して二人に座布団と炬燵を勧めながら自分も足と腕を中に入れた。

 「どのようなお話ですかな?」

 耕造に促され和雄が口を開いた。

 「実は娘のことが心配で、あれの様子をお爺さんからお聞きできれば・・・。お舅さんから伺えればいいのでしょうが、ペンションの方がお忙しいようで・・・」

 訊きづらいと思っているのか、歯切れが悪い。それに気付かないのか頓着なく、ああそれならと耕造は亜紀のことを褒め称えた。

 「実によくやってくれています。ご両親のしつけと教育がよかったんでしょうな。近所の評判もよくて誰も悪く言うものはいない。今時あれだけのことをやってくれる娘はどこにもおりません。夫もいないこんな遠いところまで来てくれて、盛蔵や稲子それにわしにまで精一杯尽くしてくれる。ありがたくて涙が出るほど心から感謝しております」

 耕造は二人に向かって深く頭を下げた。いやいやと和雄は手を振った。

 「今だから言えるが、孫を亡くしたときは、この家もどうなるのかと心配しての。嫁は気力を無くして寝込むやら病院通いやらで、盛蔵もすっかり無気力になって、あまり強くもないのに酒ばかり飲んでいた。そう言うわしだって二人ほどではないにしても腑抜け同然じゃった。

 家の中は荒れ放題となるし、家業のペンションにも身が入らず、一緒に働いてくれている刈谷にも大変な迷惑をかけてしもうた。正直ペンションを畳むよりほかないとまで思い詰めたほどじゃった。それはそうじゃろう。ペンションを継ぐかどうかはさておき、後継ぎを早くに失うというのはそれほどの衝撃じゃったからな。亜紀さんほどではないにしても、親孝行で出来も良かっただけに期待も大きかった。

 じゃが、身代を息子に譲ったとはいえ、わしには先祖から引き継いだこの屋敷と土地を守る責任があった。だから、老骨に佃打ってそれこそ立ち上がったんじゃ。

 息子と嫁を仏間に呼びつけて、あそこにいる修一に恥ずかしくないのかと叱りつけてやりました。とにかく49日の法要が済むまでは頑張れ、それでも何もする気が起きないようなら、そのときにはペンションを畳むか誰かに譲れと申し渡しました。まあ、その叱咤が効いたのかどうかわからないんじゃが、翌日から二人は曲がりなりにも動くようになった。

 それでも孫が生きていた時に比べれば半分の気力もなかった。ところが人間不思議なものであんな不幸も時が解決してくれる。49日を過ぎてもペンションを投げ出すとは言わなかった。といって、元に戻ったわけではない。依然心の中は空虚なままじゃった。

 そんな折、あなたから電話をいただいた。亜紀さんがこちらへ来てくれると言うじゃありませんか。無論わしらだってあなた方親御さんの気持ちはわかっていた。それでもそれには及ばないと言えるような家の状態じゃなかった。わしらのエゴだということは十分承知している。わしらにしてみれば、わらにも棒にでもすがりつきたい有様じゃったから、亜紀さんの申し出がどれほど嬉しかったことか。この暗く沈んだ家に天使が舞い降りるような気さえしたんじゃ。

 信じてはもらえんかも知れんが、初めて亜紀さんと会ったときに何か感じるものがあって、亜紀さんさえよければ、孫の嫁として迎えようと息子も嫁も話しておった。亜紀さんと一緒の時の孫の様子を見ていればそれくらいのことはわかる。その気持ちはわしも同じじゃった。

 ご両親の前じゃが、正直言って目の不自由な娘さんを迎えると言うのは相当の覚悟がいる。孫が好きだからとの単純な理由だけでそれができるものではないからのう。それでもそう思わせるだけのものをあのとき亜紀さんは持っていた。そんな娘さんが視力を回復して、夫のいないところへ来てくれるという。有難くて嬉しくてその晩はみんなで泣いた」

 耕造は話しながら目をしばたたせた。和雄にしても、この家にそのようなことがあったのかと目を見張る思いで聞いた。

 「亜紀さんが来てくれてからはどうか。それはあなた方の目でご覧いただいたとおりじゃ。いるだけで励まされ、家の中は明るく元気になった。これもみんな亜紀さんのお陰じゃ」

 初めて聞く話に美智子は涙ぐみ、和雄はうんうんと頷いた。耕造の話を聞いてわだかまりが少し解けた気がした。

 「ご両親が不安に思われる気持ちはよくわかる。これはわしらの方に問題があった。亜紀さんにはいつでも実家に帰っていいと言っているのじゃが、ああ見えて頑固なところがあって、中々うんとは言わない。実際にいなくなるとわしらも寂しいものじゃから、ついつい亜紀さんに甘えてしもうた。

 聞けば、盛蔵も稲子も一度もお宅へ電話をしたことがないと言う。肝心の夫たる修一がおらず、大切な娘さんをあなた方から奪ったような気がしていて、それを引け目に感じて気楽に電話することができなかったんじゃろう。だからといって許されることではない。わしからお詫びします。あれらの心中も察して許してやって下さい」

 この通りと膝を正して耕造が頭を下げるのを見て、いえいえと和雄は手を振った。

 確かに耕造が言った通り加辺から音信がないことに不満があった。とは言え、自分から彼らに電話することはなかった。そうするにはプライドが邪魔をした。

 「恥ずかしい話じゃが、それはわしらの言い訳か身勝手に過ぎないと今頃になって気が付いた。それで遅ればせながら、みなさんをお招きしたというわけです。

 今更こんなことを言うのもおかしな話じゃが、これを機にわしらと親戚付き合いをして下さらんじゃろうか。この通りお願する。もし許していただけるなら、遠藤家の冠婚葬祭には家族全員という訳にも参らんと思うが、喜んで出席させていただく。もちろん、わしらの行事ごとのときもお願いしたい」

 耕造は再び頭を下げた。和雄は恐縮して、いえいえ、こちらこそよろしくお願いしますと低頭した。耕造はほっとした様子で頭を上げた。そして彼らが一番聞きたかったことを二人に告げた。

 「わしは老い先短いが、だてに年を取っているわけではありません。わしの見るところ、残念ながら亜紀さんの傷はまだ癒えていないように思う。まだ時間が必要なようじゃ。いつまでにとはお約束はできんが、亜紀さんに相応しい人を見つけて幸せにする。よしんば、そうならない場合はお宅へお戻しすることをここでお約束する」

 どうだろうかと言った感じで二人を見た。

 「ありがとうございます。耕造さんにそのように言っていただけて我々も安堵しました。それだけでもこちらへ伺った甲斐がありました」

 美智子を見ると彼女も満足そうな顔をして頷いた。このことは、息子夫婦と話し合っているか、そうでなくてもこれから話してくれるだろう。こうして言質を得た以上、改めて盛蔵夫婦と話す必要はない。美智子はようやく肩の荷を卸した。

 亜紀の家族は娘の元気な様子を確認して帰った。


                    (三)


 亜紀にとって、それからの3年はあっという間だった。その間、加辺家の行事ごとを除けば、彼女の生活に大きな変化はなく、加辺家の親戚交友関係にも馴染み、亡夫の月命日の墓参も怠ることはなかった。

 修一の1周忌のときの法事は、稲子の指図に従うままだったが、3回忌には嫁として率先して動き、遠藤の家族にとっては不本意なことだが、加辺家に居なくてはならない存在となっていた。だが、それは表面上のことで、亜紀の心の中は別だった。

 ここへ来た当座のように、遺影を見て涙を流すといったことはなくなったが、気持ちに整理がつけらないまま、今も彼女の心の中は彼が支配していた。

 一方、盛蔵夫婦は亜紀のお陰で修一の死からいち早く立ち直り、ペンションの経営に専念することができていた。そんな中、耕造だけが彼女の両親との約束を未だ果たせずにいることに心苦しく思っていた。あれから3年が経ち、彼女の落ち着いた様子を見た彼は、もうそろそろよかろうと息子夫婦に見合い話を持ち出した。

 これまでにも、独身と知った宿泊客の中で亜紀を見染め、お付き合いしたい、嫁に迎えたいと言う家族が現れた。彼女を気に入った親戚から打診されたこともあった。だが、稲子がさりげなく亜紀の意向を尋ねても、彼女の回答はにべもなかった。無理強いはしないと約束しているから、強硬に進めることはできないと控えていた。その彼女が耕造から見合い話を進めるようかされた。日頃の亜紀を見ていて、まだ早計だろうと思ったが、舅の要請を無下に断ることはできず、ひょっとしたら気持ちが変わるかも知れないと、世話好きの知り合いに見合い話を依頼した。忽ちその噂は村内に広まり、数日後には驚くほどの見合い話が持ち込まれた。

 これではまるでかぐや姫のようじゃと、耕造は嬉しい悲鳴を上げた。それも無理はなかった。独身男性が結婚をしたくてもできない傾向は全国的にあったが、原村も例外ではなかった。亜紀の交際範囲が広がるにつれ、あの旧家の加辺家に美人で働き者の娘がいるとの噂が彼らの知らないところで広まっていたからだ。

 見合い相手が多くても困るだろうと、耕造と稲子は写真と釣書を見て彼らなりに選別し、この人ならばと五人を亜紀に紹介した。

 突然の見合い話で亜紀は困惑したが、祖父と義母が人を介して頼んだ手前、すげなく断ることもできず、已む無く地元の二人とお見合いをした。だが、首を縦に振ることはなかった。修一という人間が、彼の死とともに彼女の中で醸成され、理想像の男として定着していたからだ。そんな男を基準としている以上、彼女の眼鏡に叶う男などそうそういるはずもなかった。

 亜紀が申し訳なさそうに断るのを、彼らはそれ以上無理強いできなかった。彼女が息子のことを忘れないでいてくれていることに内心嬉しく思いながら、稲子は舅の手前、彼女の本音を訊くよりほかなかった。

亜紀ちゃん。まだ修一のことで整理が付いていないの?」

 「・・・」

 「いつまでも息子のことを忘れないでいてくれるのはありがたいと思う。だけど、私達はご両親に申し訳い気持ちで一杯なのよ。あれから5年にもなるのよ。死んだ息子だってそこまでは望んでいないと思う。もういい加減修一のことはふっ切りなさい」

 亜紀のお陰で私達は十分助けられた。そろそろ開放しなければならないと、その反対の自分の気持ちを押し留めて諭した。

 「ご心配をおかけして、すみません。今もときどき修一さんと一緒に暮らしている夢を見るのです。そんな夢を毎日見たいと願う私がお付き合いなどできません。そんな気持ちのまま不誠実なことをすれば、お義母さんやお爺さんにご迷惑がかかります。どうか今しばらく私の我儘を許して下さい」

 お願いしますと懇願され、息子のことをそこまで想っていてくれているのかと思うと、稲子もどうしようもなかった。

 それなら彼女の何かを外から変えなければと思った。その何かは・・・と思案していたそのとき、天啓のようなものが稲子の中でひらめいた。

 「わかったわ。その代り、私の言うことを黙って聞いてちょうだい」

 亜紀は稲子の真剣な眼差しに、実家に戻れと言われるのだろうかと緊張した。そうだとしても、きっぱり拒否するつもりでいた。ところが義母の口から出た言葉は予想もしないことだった。

 「あなた、少し旅行でもして息抜きをしてきなさい。こっちのことを忘れるためにも、そうね・・・、日本じゃなく海外の方がいいわね。行き先はヨーロッパでも東南アジアでもアメリカでも中国でも韓国でも、亜紀ちゃんの行きたいところで、安全なところならどこでもいいわ。それも一週間と言わず、一月くらい。これは親として姑としての命令よ、わかったわね」

 義母の有無を言わせぬ強い言葉に亜紀は戸惑った。私を慮ったありがたい言葉だけれど、行くにしても、いつから?どこへ?不在中のこの家は?そんなことを考えると、即答は出来なかった。

 「お義母さん、そんなこと急に言われても心の準備ができていないし、家事のこともあるわ」

 「今すぐにと言う訳じゃないから。そうね、一月くらいかけて準備すればいいでしょう。家のことなら、亜紀ちゃんが来るまで私がやっていたから、あなたのようにはいかないけど心配しなくてもいいわ。はい、これで決まり。もし、一人で行くのが不安だったら、お友達を誘ってもいいわよ。お兄さんとか、そのお嫁さんの杏子さんとか、親しいご近所の人とか。その人の分もわたしが面倒みるから、そんなことは気にしないで行ってらっしゃい」

 この決定はすぐに稲子の口から夫と祖父に伝えられた。盛蔵も耕造も賛成した。耕造に至っては、亜紀さんと一緒なら、わしも行くと言い出して息子夫婦を慌てさせた。しかし、彼の希望は亜紀の足手まといになるとの理由で却下された。

 初めは渋っていた彼女も外堀を埋められ、心を許す杏子が行くなら考えてみようかとその気になった。でも、幼い子がいるから無理だろうと思いつつ、電話でこれこれこう言うわけでと彼女を誘うと、行くわと即答が返ってきた。それからひとしきり旅行の話題で盛り上がり、気が付くと一時間以上もとりとめのないことを話していた。

 旅の計画は渡航歴豊富なJTB社員だった義姉の杏子に一任した。その翌日から旅行計画の打ち合わせと称して、杏子から毎晩のように電話がかかってきた。亜紀も彼女の口車に乗せられ、次第にその気になってきた。

 旅行の件は、亜紀に告げたその日の夜に、稲子から美智子に伝えられた。これまで稲子や盛蔵の電話で、娘の近況を知らされていたのだが、まだ修一のことが忘れられないようだとの連絡ばかりだった。稲子の電話では、これまでの慰労と気分転換だとのことだったが、美智子はその意図を察して彼女の心配りに感謝した。

 旅慣れた杏子と一緒なら娘も気心が知れて問題がないだろう。孫の面倒は美智子が請け合った。この旅行が娘の気持ちに整理をつけさせるいいきっかけになるのではと、稲子以上に期待を膨らませた。

 渡航の3日前に、亜紀は旅行の準備のために亜紀は兄の結婚式出席以来の里帰りをした。渡航費は杏子を通じて全て稲子が決済を済ませていた。さらに彼女は当座のための現金を亜紀に持たせ、クレジットカード用として彼女名義の銀行口座に纏まった額を振り込んだ。しかも、それを使い切ってもいいとさえ言った。それを知って喜んだのが杏子だった。自分のスーツケースに亜紀の持ち物も無理やり詰め込み始めたから、不思議に思って理由を尋ねると、帰国する前に亜紀のスーツケースに向こうで買ったものとかお土産を入れるのだと言う。

 「だってほら、全部使い切らないといけないんでしょ。この際だから、二人で精一杯いいものを食べてお買い物しましょ」

 亜紀は開いた口が塞がらなかった。義姉くらい割り切り方ができれば、心の中のものが少しは整理がつくだろうにと義姉を羨ましく思った。

 二人が羽田からロンドンに向けて飛び立ったのは、稲子が言いだしてから二月後の初夏のことだった。

 杏子が立てた計画は、ヒースロー空港で乗り換え、スコットランドのエジンバラで暫く滞在した後、鉄道でロンドンに向かって南下しながら観光し、国際列車ユーロスターでフランスに入国、そこからスペイン、イタリア、スイス、ドイツ、オーストリアなどの西欧と中欧を一月かけて回ることだった。

 彼女らは旅先で、各地の美しい自然と風景、歴史ある古都に圧倒され、音楽や美術などの芸術を堪能した。初めての外国で触れる体験で一時いっとき、修一のことも原村のことも脳裏から離れた。日本のごく狭い範囲しか知らなかった亜紀は、ヨーロッパの伝統や異文化に触れ、自分の視野と心の狭さに気付かされた。

 イギリス国内を巡っているときには、初めてのことに戸惑いがあり、英語が堪能ではない亜紀は杏子に頼らざるを得なかった。それでも身振りや手振りで意味が通じることを体感すると、フランスに入る頃には自由に動き回れるようになった。

 しかし、この渡航も期待したほどの効果をあげられなかったことを美智子は知った。

 美智子は元気に戻って来た亜紀に一先ず安堵した。少し日焼けをしているせいか表情が明るくなった印象を受けた。

 旅先でのことは、夜にパンフレットやスマートフォンで撮った写真などを見せながら興奮気味に語る二人から楽しく聴いた。そんな娘の様子にひょっとしたらと美智子は淡い期待を抱いた。しかし、それも翌朝、娘を呼び彼女の心境を訊いてあえなく消し飛んだ。

 「亜紀、欧州旅行をしてどうだったの?」

 「楽しかったわ。美しい景色を見たり、音楽を聴いたり、美術館を回ったり、お食事をしたり、ショッピングしたりして、私には贅沢な旅行だったけれど、行かせてもらって本当によかったわ。日本にいては味わえない刺激や驚きがあって、機会があればお父さんとお母さんと一緒にもう一度行ってみたい。でもその前に英会話を習わないとね。お義姉さん

 は旅慣れていて英語も堪能だし、今度のことでは本当にお世話になったわ」

 娘の前向きな態度にほっとしながらも、美智子は態度を改めると身を乗り出した。

 「ところで亜紀、訊きたいことがあるのだけれど」

 「何?」

 「お姑さんが何故旅行を勧めたのか、それはこれまで頑張った慰労もあるだろうけれど、それだけじゃないことくらい

 亜紀にもわかるわね?」

 「わかっているわ」

 急に声が沈んだ。

 「だったら訊くけど、修一さんのこと、少しは整理をつけられたの?」

 「・・・」

 「どうなの。お父さんも心配しているのよ。修一さんが亡くなって5年、あちらへ行ってもう4年、少しはふっきってくれないと、黙って送り出した私達も切ないわ」

 亜紀の辛そうな表情が雄弁に彼女の状態を表していた。

 「ごめんなさい、お母さん。まだあの人のことを忘れられないの。今度のことでそれがよくわかったわ」

 「まさかあなた、贖罪なんて・・・」 しょくざい

 美智子はふと思ったことを口に出して、思ってないでしょうねと言うところを途中で呑み込んだ。娘の表情を見てそれ以上何も言えなかった。

 翌日の午後、亜紀は美智子が引き止めるのも聞かず、沢山のお土産を持って慌ただしく信州へ戻って行った。

 娘が帰った後、美智子は杏子から旅の様子を詳しく訊いた。スイスに入るまでは、旅行を心から楽しんでいたと言うのが彼女の報告だった。

 旅行の計画は杏子が立てたのだが、スイスだけは自分がしたいと言うので義妹に任せた。女性なら、チューリッヒとかベルンとかでショッピングも楽しみたいのが普通なのに、彼女はそんなところには見向きもせず、ほとんど毎日二人でスイス・アルプスのトレッキングばかりをしていた。

 グリンデルワルトに泊まり、翌朝ユングフラウヨッホへの鉄道に乗った。スフィンクス展望台から見える山々や氷河などの景色を堪能してから、一つ下のアイガーグレッチャー駅で下車して麓まで歩いた。杏子が義妹の変化に気づいたのはその展望台からだった。

 最初のうちは、雪が残る美しい景色に感動してキャーキャーと騒ぎながら何枚も写真を撮り合ったのが、次第に義妹の口数が少なくなった。具合いでも悪いにかしらと見ると、義妹は潤んだ目をして何か独り言を言っていた。そのときはまだ、素晴らしい景色に感動のあまり涙もろくなったのだろうとしか思わなかった。それでも、ずっと沈んだ調子なのが気になった。

 ツェルマットへ行ったときも同様だった。電車に乗っていた時は、素晴らしい景色に他の乗客と同様に写真を撮りまくっていたのだが、初めてマッターホルンを見た時、亜紀はサングラスを外し目にハンカチを当てていた。

 ゴルナーグラート駅からトレッキングして下り、途中池の水面に映る逆さマッターホルンに感激して、ここでもぽろぽろ零れる涙も拭かずにいる義妹のただならない様子に、美しい景色に感動しているばかりではないと気付いた。

 「亜紀ちゃん、大丈夫」と声をかけたが、「景色があまりにも綺麗だから感動したの」と答えたので、それ以上詮索しなかった。しかし、そこからのトレッキングの途中で、義妹の独り言を漏れ聞いて、ようやく彼女の想いを知った。

 「あなたの眼で見ているのよ、綺麗でしょ。あなたが見たかったマッターホルンよ」と小声で自分の中の修一に話しかけていたのだ。それで、なぜ彼女がスイスに拘ったのか、未だに彼のことを忘れられずにいることを知った。

 杏子の報告で、亜紀の家族も、それを伝え聞いた加辺家の家族も、彼女の心を癒すにはまだ時間が必要だと思い知った。

 そんな夏の終わりに、修一に似た男がバイクに乗ってふらりとグリーンハウスにやって来た。

 稲子は息子にそっくりな男が慌ただしく出発したとも知らずに、ショックに立ち直れず母屋で臥せっていた。

 男と女あるいは父親と母親の相違なのだろうか、盛蔵は彼を見て驚きはしたが、すぐに立ち直ったようだ。

 横になっていても思うのはあの青年のことだった。

 髭面の時は気付かなかったが、今日の彼は紛れもなく修一だった。他人の空似というには余りにも息子に酷似してい ひげずら

 た。それで、人前もはばからず取り乱してしまった。 

 修一の火葬にも納骨にも立ち会ったではないかと自分で否定し、それを頭で理解していても、あり得ないことに縋り付こうとしてしまった。

 ひょっとして息子と彼は双子だったのか。それを私達はこれまで知らされずいた。それが一番得心のいく答えだった。

 だが、あの時のことを思い起こしても、そのようなことはないことははっきりとしている。冷静になって、彼を思い起こすと、似ているのは外見だけと思わざるを得ないところが多々あるような気がする。

 息子はやや神経質なところがあり、理知的で繊細な半面、自分の感情を優先させるところがあった。一方の彼は、短い接触でしかないが、闊達で小さなことには拘りを持たないような印象だった。

 信州大学で講師をしていると言う。大学の先生をしているくらいだから、頭脳は明晰なのだろう。私の息子だって東工大の電子情報工学科を卒業して、就職難のご時世に乞われて大手光学メーカーに就職した。しかも技術研究所に所属していたのだから頭は悪くない。

 稲子は初めて亜紀と会った時からのことを布団に中で思い出していた。

 息子から聞かされていたものの、視覚障害者の彼女をどのように迎えればいいのかわからずに思いあぐねた。これまで、そのような障害者を迎え入れたことは一度もなかった。夫は普通に振る舞えばいいんだよと言うが、主婦の立場とすればそうはいかない。それに、母親の勘で息子が彼女を特別視していることも感じ取っていた。彼女のことを話すときの様子がこれまでとは違っていたからだ。これまでも幾人か女友達を家に連れて来たことはあった。だが、あれほど熱心に 彼女のことを話すことはなかった。

 気を遣いすぎると不自然に思われて気まずいだろうし、と言って健常者と同じのように接するわけにもいかない。そんなことを考えているうちに、遠藤家の人達は到着してしまった。

 彼女の父親は黒髪が豊かで体格がよかった。母親の方はいかにもお母さんと言った感じで、割烹着を着せればよく似合うと思った。彼女より5歳上の兄は息子より背は低いが、妹思いのようだ。家の中での彼の存在は大きいと息子が言っていたが、彼の振る舞いを見て納得した。その兄と一緒に車から降りた娘は、彼女以外の姉妹はいなくて兄も独身だと聞いているから、彼のフィアンセか恋人なのだろうと思った。

 最後に息子に右手を預け降りてきた彼女を見た。ドアの上部に彼女の頭が当たらないよう髪に左手を添えた息子の仕草はごく自然で、彼女も安心しきっているように見えた。息子はいつもこのような気遣いをしているのだろうか。彼女の両親も息子を信頼して娘を任せているようだ。

 息子と並んで立った彼女は、若草色の薄手のワンピースを着ていて、すらりとした細身で背が高かった。腰まである癖のない長い髪が風でそよいで清楚な印象を受けた。前髪を下ろしているからか、息子から聞いていた年齢よりも若く見えた。目障りな薄茶色のサングラスをかけていたが、それを外すと優しい感じの娘に見えた。いかにも息子が好むタイプで、夢中になるのも無理からぬと納得した。親の目から見ても、目さえ悪くなければ似合いのカップルに思えた。

 彼女の父が、このたびは、お言葉に甘えて参りました。ご厄介になりますといって丁寧に頭を下げた。私の夫も、息子の方こそよくしていただいてといいながら同様に頭を下げた。世慣れた付き合いやすいような人達ばかりで安心した。

 並んで立つ二人の若い娘を見ると、両極にあるように思えた。

 杏子と紹介された娘は、小柄でショートヘアのまさしく向日葵を思わせ、目がくりくりとして明るくて闊達かったつだった。一 方の彼女の方は物静かで、同じく花に例えるなら、はかなげに見えてその実強風にも負けない朝露に濡れる鈴蘭を想わせた。

 彼女の父が、修一のお陰で彼女がよく外出するようになったことや明るくなったことに対して謝意を表してくれた。そして、その父と兄が代わるがわるこれまでの事情を説明してくれた。

 母親は息子のことをいつまでも子供と思っていると人から聞かされていたが、いつの間にか大人になっていて、知らない息子の一面を見た思いがした。

 夫は息子の男気なところを単純に喜んでいたが、私は手放しでそうはなれなかった。この先どうなるかわからないが、彼女を姑のような目で見て戸惑う自分がいた。後のことは修一に任せたけれど、彼女のことが頭から離れなかった。それからはお客様が次々と来て、受付に部屋の案内にと忙殺されて、それ以上考えている余裕などなかった。

 幸い7時迄に宿泊客が全て到着したから、後は応援に呼んだ甥と姪に任せて、主人と私は母屋の台所に立って、夕食の支度をした。お椀、お茶碗、皿などを用意していると、遠藤家の女性方が手伝ってくれた。彼女も母親に説明を受けながら、来客用の食器類を洗って布巾で水分を丁寧に拭き取ってくれた。目が見えない分、動作は遅いが、物慣れた様子で安心して見ていることができた。さりげなく皿を見ると、水分はきれいに拭い去られていたから感心してしまった。

 客間での夕食は台所作業で打ち解けたこともあって、遠慮のない和気あいあいの中で始まった。男達は酒も入って旧知の間柄のような雰囲気になった。中でも彼女の兄と息子が間をとりもって座を盛り上げていた。だが、私は無邪気そうすることはできなかった。

 もし、息子が彼女と一緒になりたいと言い出したらどうしようと考えてしまった。夫と舅は彼女を嫁として受け入れるのだろうか。私はどうか。目の不自由な彼女を嫁をして迎えられるのか。普段は来客はないが、古い家柄だけに盆正月や仏事での客は多い。とても彼女にはそれに対処できないだろう。私にしても気疲れで寝込んでしまうかも知れない。取り越し苦労ならそれでいいが、息子がその様なことを言い出さないことを願った。少なくても彼女の目が回復するまでは。

 共通の話題がない分、互いの家族の話になった。そのときに失明したいきさつを彼女から直接聞いた。私が彼女に、大変でしたでしょうと同情すると、「はい、でも家族に助けてられてこれまで無事に過ごせてきました。修一さんにも大変お世話になって申し訳なく思っています」と言って、問いかけた私の方に向かって丁寧に頭を下げた。

 彼女のいいところは言葉を濁さず、最後まではっきりと言い切ることだ。それに、目が不自由でありながら、不幸を感じさせない芯の強さを感じた。

 「娘さんの眼は治ると修一から聞いていますが」

 彼女の父に酒を勧めながら夫が水を向けた。

 「そうなのです。修一君の勧めで東京の大学病院で検査を受けたところ、そのように言われました。角膜移植の手術で視力が戻るそうです。これもみんな息子さんのお陰です」

 父親は形を改めて頭を下げた。息子は面映ゆそうにしていた。

 「手術を早く受けられればいいですわね」

 私は息子のためにも本心からそう言った。隣の夫も深く頷いた。

 「こればかりは順番ですから待つよりほかはありません。でも諦めていたものが、希望が見えたことは家族にとっては何にも替えがたいことなのです。娘には目が見えるようになっても、これまでのことを無駄と思わず前向きに生きて欲しいと願うばかりです」

 「亜紀さんなら大丈夫です」

 修一がはっきりと言い切って太鼓判を押したので、私は思わず息子を見てしまった。

 「それじゃ、亜紀ちゃんの視力の回復を祈って乾杯しましょうよ」

 杏子さんが目の話題を打ち切るかのように明るい声で発言してコップを持ちあげた。それからは明るい話題となった。

 夫は、修一の幼いころは女の子とばかり遊んでいたことや寝小便たれで小学校高学年になるまで布団をよく濡らしたこと、女の子によく虐められて泣いて帰って来たことなどを少し大袈裟に暴露して笑いを誘った。

 「そんな小便たれが大きくなって、女の子を好きになるなんて・・・」

 舅の何気ない一言に座が一瞬時が止まったかのようだった。夫も私も修一を見たが、息子はおほんと空咳をして横を向き、彼女も頬を染めて聞こえなかったかのように黙って下を向いていた。

 息子の態度で身近なことを私達よりも舅に話していたことを知った。

 「お宅はこれまで辛いこともあったでしょう。でも、こうして家族の絆で頑張ってこられた。頭が下がる思いです。これからはいいことばかりだと思います。そうでなければ、世の中が狂っていることになる。遠藤さんともこうしてお近づきになれたのも、何かの縁に違いない。お互い遠方ですが、もし私達でお役に立てることがあれば遠慮なく仰って下さい」

 夫が世慣れた様子で言ってその場をとりなした。

 「そうですとも」

 私も夫に同調した。

 「ありがとうございます。そう仰っていただくだけでありがたい限りです」

 彼女の父と母は頭を下げた。

 ところでと、舅は意味あり気に少し間をおいて、彼女の兄と横に座る娘を見ながら言った。

 「息子さんとこちらのお嬢さんはご結婚なさるのかな?」

 若い二人は顔を見合わせた。

 「そのつもりです」

 両親の公認済みなのか、彼女の兄がはっきりと答えた。

 「えー、まだプロポーズもしてもらってないのに」

 杏子さんが不服そうな顔をしたのが可笑しくて、全員で笑ってしまった。

 「いやー、それは目出たい。改めてご両人を祝福して乾杯しよう」

 舅自ら乾杯の音頭をとった。

 ありがとうございますと礼を述べて、二人は嬉しそうにビールを飲み干した。それから馴れ染めを舅の巧みな誘導で白状させられ、場が和んだ。彼女が以前から二人の仲を知っていたことを聞き出すと、彼女のことを気遣ってさりげなく話 なご題の中に巻き込んでいた。

 目が見えないことをいいことに、私は彼女ばかり見ていた。話し方、手の置き方、ゆっくりと箸を進める様子、人の話を聞き洩らすまいとする態度、真伨な受け答え、それらをしっかりと姑の目で見てしまっていた。

 正座した姿勢も良かった。食事に手をつける前に、茶碗やお皿、箸などの位置を手で触れて確かめると、取り上げた茶碗やお皿は寸部の狂いもなく元の位置に置いたから驚いた。長年の習慣で身に着いたものだろうが、その正確さに夫も舅も同様の様子だった。それを舅が褒めると彼女は恥じらうように微笑んだ。

 私が彼女に膝を崩すようにと勧めると、はいと素直に答えてゆっくりと横に崩した。

 目が不自由なことに対し、彼女は少しも卑下を感じていない様子にも感心してしまった。そのことを言うと彼女は、これも修一さんのお陰ですと答えた。

 「街中へも出るようになって自信がつきました。でなければ今も周りの人に迷惑をかけているんじゃなかとか、どのよ

 うに思われているんだろうかと気になって人前に出る気は起きていませんでした。どのように感謝の気持ちを表してよい

 のかわかりません」

 小声で静かに答える彼女に息子は柄になく赤くなって、いやいやとんでもないと手を振って否定していた。息子がいちいち声に出すのも目が見えない彼女を配慮してのことだとわかって、少し嫉妬のようなものを覚えた。

 「それはお味噌汁で少し熱いから気をつけて」

 「ありがとう」

 「亜紀ちゃん、今取り上げたものはね、長芋をすりおろしてとろろにしたものに醤油をたらしたものよ」

 隣に座る杏子さんが何かと彼女の世話を焼いたが、それを彼女は少しも嫌がらず、遠慮もしないのが好ましかった。

 「いやいや、杏子さん、醤油と一緒に味醂少々と一味唐辛子を混ぜてある」

 夫が訂正したのは愛嬌だった。

 遠藤家の人達は3日ほど滞在して、満足した様子でお帰りになった。気遣いのいらない人達ばかりで、私達も楽しいひとときを過ごさせてもらった。

 息子が臨終の時、目が不自由なのにも関わらず、慌てて駆けつけて来たときのことは今も忘れられない。息子が息を引き立った時の悲嘆にくれる彼女の姿は、私が悲しむ暇を与えないほどだった。これほど息子を愛してくれた人がいたのだ

 と思うだけでも私の心は救われた。短い息子の人生だったが、少なくても一人の女性を愛して愛されて逝った。短い生涯に彩りを添えてくれた彼女に心から感謝した。

 葬式には出席してくれなくて、恨みがましい気持ちや寂しい思いをしたが、何日かして母親に連れられて線香を手向けに来た。その時は完全に視力を取り戻していて、悔やみと葬儀に参列しなかったことを詫び、丁寧に礼を述べられた時には、私も夫も素直に感謝することができた。でも、あの健康だった時の姿は見る影もなく、面やつれしていたから胸を突かれた。化粧の乗りも悪くて肌の色艶もよくなかった。

 仏前では手を合わせたまま長く動かなかった。しばらくして彼女から嗚咽が漏れて「ごめんなさいごめんなさい、気付いてあげられなくてごめんなさい」と泣き叫んだときは、私も貰い泣きしてしまった。

 49日の法要にも彼女の姿はなく、この時も裏切られたようで恨めしく思った。それはここへ来るための準備のためだっと知って彼女を改めて見直した。

 修一が死んで早5年。彼女は本当によくやってくれている。それがかえって申し訳ない気持ちにさせられる。もうそろそろ何らかの結論を出す時期に来ている。感情表現の乏しい夫は口にこそ出さないが同じことを思っているはずだ。

 そんなとき、息子と同じ顔の青年が来た。夫は彼のことをどう思っているのだろう。これは単なる偶然ではない様な気がしてしようがない。これを契機に何かが変わる予感がした。

 あの日の夕方、稲子は若者が急に旅立ちペンション改造計画への関与も断ったと伝え聞いた。3日後にその彼から多忙で相談に乗る時間がないとの丁重な断り状が届いた。

 真一からの手紙を受け取った盛蔵は何気なく宛名面を見て怪訝そうな顔をした。昨日の日付で田辺の消印が押されていたからだ。県内で田辺の地名に心当たりはなかった。

 盛蔵は置き土産のように食堂のテーブルの上に置かれたスケッチを見て、彼の建築に対する非凡さに驚嘆した。門外漢の稲子が見ても素晴らしいと思ったほどだった。それまで揺らいでいた盛蔵の心が、それを見てペンションを新築する方向に大きく傾いた。この絵のようになればうまくいくのではないか、彼が改造計画の柱になってくれたらより成功するのではないかと思った。だから、彼から断り状を受け取って傍目はためにもわかるほど落胆した。

 盛蔵がペンションのロビーで一人思案している様子を見て、稲子がどうしたのと訊いた。

 「成瀬さんが手紙で断って来たのは知っているだろう。実はあれから翻意を促す手紙を出したが梨のつぶてだ。それで、彼が推薦する建築家に頼むかどうか悩んでいた」

 「それは駄目!」

 稲子はあっさり一蹴した。盛蔵は驚いて妻の顔を見た。

 「あなたが直接お願いに行って。引き受けてくれるまで何回でも行くのよ。あなたが駄目なら、そう亜紀ちゃんがいいわ。・・・いいえ、亜紀ちゃんでなければ駄目。亜紀ちゃんに頼みましょう。それがいいわ。それも早いうちに」

 そのとき稲子の頭の中は目まぐるしく回転していた。

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