忍冬〜スイカズラ〜
@bodercollie
第一章 亜紀
「それはスイカズラじゃな」
「別名
「忍ぶ冬と書く。寒い冬を耐え忍ぶ姿から来たんじゃろうな。花言葉は確か『愛の絆』じゃったかな」
「へえ、スイカズラっていうの」
「 忍ぶ冬で忍冬・・・。お義姉さんみたいな花ね」
「花言葉が『愛の絆』・・・。いい花言葉ね。私も好きになりそう」
(一)
加辺亜紀は誰よりも早く毎朝5時に起床する。
彼女は正確な体内時計を持っていて、目覚ましに頼らずとも自分が決めた時間に起床できる能力も併せ持っている。それらは初めから備わっていたものではなく、長年彼女の置かれた事情が後天的に身に付けさせたものだ。
亜紀は起きるとまず、身支度を整え、洗顔を済ませ、見苦しくない程度に化粧をする。それを終えると、戸外へ出て、両腕を大きく広げ清涼な空気を胸一杯に吸う。これが彼女の朝の日課となっている。
外は明るくなってきている。旧盆が過ぎ幾分過ごしやすくはなったが、まだ夏の気候だ。これから秋になり冬に近づくと、辺り一帯が朝靄に包まれることが多くなる。
彼女が住む古い屋敷は白樺林の中にあり、裏側に碧い水面を持つ池がある。それは山からの伏流水を水源に持つもので、家人や近隣の者は加辺家の屋号から取り「甚蔵が池」と呼んでいる。
裏に回り池の畔まで来ると、彼女は山稜に向かって手を合わせた。これまでの感謝と今日一日の無事を祈るのも、この家に嫁いで以来欠かしたことのない彼女の日課だ。そこから見る南八ヶ岳の景色が彼女一番のお気に入りだ。今朝の澄み切った空はひときわ山を身近なものに思わせ、気持ちを新たにした。
新緑に映える八ヶ岳、雲間から覗く八ヶ岳、紺碧の空を背景にした八ヶ岳、紅葉を水面に映し出す八ヶ岳、白い雪で化粧した八ヶ岳。季節折々に見る八ヶ岳の山稜は神々しく彼女に安らぎと生きる勇気を与えた。その一方でそれが悲しい想い出をいつまでも彼女の心の中に留め置く結果ともなっていた。
彼女は短い祈りを終えると、屋敷から80mほど離れたところにある義父母が経営するペンション・グリーンハウスへ向かった。今週は彼女が朝食当番なので、その用意に取り掛からねばならない。夏休みの間、アルバイトに来てくれている姪の陽菜子が、遅れて甥の義晴がやって来る。姪と甥と言っても義父の弟の娘と息子なので血縁関係にはない。
早朝の森と池は清々しい。木立に囲まれた池沿いの小径をサクサクと枯葉を踏む音も心地よい。
ここへ来た当初は
静寂に包まれた池を横に見て歩くと、頭上に覆い被さった枝葉の間から斜め射す木漏れ日と樹木の緑、それに朝霞が相まって、なにやら別世界に来たように感じるのだ。だから少々遠回りになってもここを歩くことが多い。
蝉はまだ鳴き出していない。鳥の
その木は池に向かって張り出ているので、棒でそれを採る時は苦労する。採った胡桃は土に埋めておくと自然に果肉が剥ける。殼から実を取り出すのは中々骨だが、手作りのケーキに利用したり、クルミバターを作る。消費しきれないものは小動物や小鳥のために冬まで残しておく。秋にドングリを拾い集めるのも同じ目的のためだ。
都会にいては見ることのない動物が数多くここに棲息している。彼女は機敏に動き回る小動物が好きだ。なぜなら、彼らの動きが生きているという確かな実感を彼女に与えてくれるからだ。
リスの素早い動きを驚かさないようにして暫く見ていたが、人間に気付いて白樺の幹に走り登って姿が消えた。亜紀は静寂な池に目を移した。鏡のような水面が青々とした草木や山々を映し出している。今のこの時間彼女だけの世界だ。
若葉が風でそよぎ、川辺でホタルが舞い、森で蝉が鳴き、クローバーの広場で赤とんぼが飛翔し、山を紅葉が彩り、冷たい風で枯れ葉が池に舞い散る。やがて白い雪が辺り一帯を覆って静寂に包まれる。それを破るのは池に飛来する沢山の冬鳥達だ。こうした変わらぬ自然の輪廻を見て4年が経った。苦しいことや悲しいことは、時が解決すると人は言うが、未だにそうはなっていない。
近くで小鳥の囀りとかすかな葉のざわめきが聞こえる。しかし、それは彼女にとって慰めになれど心の癒しにはなっていない。それでもここまで平穏無事に過ぎた。
太古から繰り返されてきた自然の移り変わりのごとく、今日もいつもの朝を迎えていつもの一日が終わる。これからもそうだろう。
季節は巡れど自分に何の変化もない。それでもここへ来たことへの後悔はない。都会にある自分の家に戻りたいと思ったこともない。この環境があればこそここにいればこそ心の中の平穏が保たれると信じているからだ。
彼女が住む原村は縦に長い長野県のほぼ中央の山梨県寄りに位置している。村の東境界は南八ヶ岳の山稜で、そこから伸びる山麓部は森林と原野の自然環境の豊かさを売りに別荘地としても開発されている。平坦部は人家の塊を除けば田畑が広がっている。
村の気象と地勢は、冬は氷点下を下回ることが多く寒さは厳しいが、積雪は10〜20cm程度で降雪量も多くない。夏は30度を超えることが殆どないので過ごし易い。年間を通して日照時間が長く晴天率も高くて空気が澄んでいるので星天観察にも適した地となっている。更に、隣市の茅野市からビーナスラインをドライブすると白樺湖、車山高原、霧ヶ峰、美ヶ原高原を巡ることができ、途中の見晴らし台では富士山を望むことができる。また、南八ヶ岳への登山口にも近く、八ヶ岳高原を中心とした観光地でもある。こうした利点を生かし、村が移住を積極的に推進していることもあって人口が増加傾向にある。
亜紀が向かっているペンションは、村役場から西へ「第2ペンション村」に向かって進み、その手前を右に折れて白樺林の中の砂利道を100mほど入ったところにそれがある。
この周辺には霧ヶ峰高原や白樺湖への観光道路、ゴルフ場に農場があり、少し足を延ばせばスキー場もある。このような自然環境に恵まれていることで、冬はスキー、春は新緑や山菜を求めて、夏は登山、秋は紅葉を愛でる客で休日前は6室ある部屋がほとんど埋まる。
森の中にありながら南八ヶ岳の山々を遠望できるのは周囲1Kmほどの池があるからだ。
そこもペンションを建てる前は雑木林だった。それを、まだ若かった盛蔵と義祖父の耕造が近隣の人や製材所仲間の手を借りて、樹木を切り倒し根を掘り起こして広場と駐車場を造成し遊歩道を少しづつ整備して現在の形までにした。それができたのも若さに任せてがむしゃらに働いたからだと耕造が笑って亜紀に繰り返し話したものだ。
八ヶ岳山麓周辺に多くの宿泊施設がある中で、彼らの経営が成り立っているのは、施設のほとんどを自己資本で賄えていることに加え、広大な森と山からなる自然環境と家庭的な雰囲気を好む家族客を中心に常連を持っていることだ。調理場を任せている刈谷洋介の存在も大きい。
ペンション客は自家用車で来るのが殆どだが、稀に鉄道利用の客もいるので、そういった客には小淵沢駅と茅野駅での送迎サービスを行っている。その役目を盛蔵が担っているが、同時間帯に両方の駅に到着する客がある時は、買い物を兼ねて亜紀が茅野駅で出迎える。
ペンションの切り盛りは彼女を含めた家族のほか、調理場を預かる刈谷とその妻の亜希子の5人で切り回している。普段はこの人数で十分なのだが、繁忙期には高校生の姪と甥が手伝いに来る。二人とも中学生の時から手伝っているので要領は心得ている。彼らは盛蔵にとって重宝な働き手であり、彼らには身近にあるアルバイト先だった。
10年前までは盛蔵が一人で温泉の湯守と調理をしていたが、東京神楽坂の老舗料理屋で働いていた刈谷が、訳あって郷里に戻っているとの噂を聞き付け、板前として迎えた。それ以来、厨房を彼に任せて盛蔵が広場の管理を含めた全体を仕切っている。
亜紀と刈谷の妻の亜希子とは、名前が似ていて年齢も一番近いこともあって、すぐに打ち解けて気心の知れる仲になった。何かの折に真偽が定かではない彼ら夫婦の噂のことを尋ねたが、笑うだけで答えてくれなかった。義母の稲子にも尋ねたが、人生色々あるのよと取り合ってくれなかった。今も彼女は多才な料理の腕を持つ刈谷が何故ここで働くようになったのか知らないでいる。
盛蔵の妻の稲子は主に受付と経理面を預かっていて、母屋のことは全て亜紀に任せ切っている。食事のときと寝るとき以外は、特段の用事がない限り母屋に顔を出すことはない。
義祖父の耕造は、母屋周りの樹木の剪定や草むしりなどを引き受けている。82歳の高齢の今、無理のきかない身体なので、そのような軽作業しかしていない。夫を亡くした孫嫁の亜紀をことのほか慈しみ可愛がっているのは彼だった。口数の少ない義父とは違い陽気な性格で、作業がひと段落すると、亜紀を捉まえ、腰が痛いとか、あそこで狸の親子を見たとか、誰それが都会へ行ったまま帰ってこないとかの噂話や他愛のない世間話をするのが好きだ。それは、こま鼠の様に働く亜紀を休ませる彼なりの配慮でもあった。
嫁の亜紀は建坪100坪余りもある大きな旧家の母屋を任され、加辺家の主婦として家族の食事や洗濯、室内の掃除などの家事一切をこなしている。義母の稲子は相談に乗ることはあっても彼女のすることに口を挟むことは滅多にない。それほどに嫁である彼女に全幅の信頼を寄せている。
母屋もそうだが、築30年も経つとペンションの内外に老朽化が目立つようになった。建物の修繕や塗装の塗り替えを幾度となく繰り返しているが、小手先のものでしかなかった。近代的なホテルやペンションが近くで建つのを見るにつけ、いずれ経営が立ち行かなくなるだろうことは盛蔵も承知していた。が、改築の必要性を痛感していながらそれに踏み切れないでいるのは、資金面のことより後継者不在という将来への不安があるからだった。
そんなペンションでも、夏休み期間中は満室続きなので、亜紀も応援に行くことが多々あった。この時期、家族の中で彼女が一番多忙と言ってもよく、ここへ嫁いでから、休日らしき休みもなかった。朝早くから夜の11時過ぎまで働いて、彼女が一息つけるのは昼食を挟んだ2時間ほどと、買い物とかの用事で外出したときでしかなかった。その僅かな時間さえも客の送迎で潰れることがあった。それでも、これまでのことを思えば、少しも苦にならなかった。言い換えれば、一日中動くことで夫のいない寂しさを紛らせているとも言えた。
この日も義父盛蔵が東京から来る客を小淵沢駅へ迎えに出払っていて、運転ができない稲子から茅野駅へ客を迎えに行くよう頼まれていた。そのついでに、メモしておいた日用品の買い出しを済ませ、15時20分に到着した家族を乗せて戻った。
夕食の用意を済ませ、ペンションの食堂に入ると、盛蔵と亜希子が大きな調理台の前で刈谷が調理したものを忙しくお盆の上に載せているところだった。お義父さんお手伝いします、と声を出しかけたところで亜紀ははっとして立ち止まった。背後から忘れられない声がしたように思ったからだ。振り返ると、その声は食堂に隣接している娯楽室からで、小さな女の子がそこの木製ドアを開けたときに中から漏れ聞こえたようだった。厨房から離れているので、声の主はわからない。そちらへ向かおうとしたとき、盛蔵から声がかかった。
「亜紀ちゃん、これを手前のあのご家族に。それと食器の片付けと洗いものを頼むよ。亜希子さん、お疲れさん、もういいよ。子供達が待っているだろうから早く帰って」
忙しく料理を並べながら声をかけた。
「済みません、お言葉に甘えて先にあがらせてもらいます。亜紀ちゃん、悪いけど後はお願い」
エプロンを外しながら慌ただしく帰り仕度を始めた。
「はい。亜沙子ちゃんが寂しい思いをしていると思うから、早く帰ってあげて。お爺さんがたまには遊びに連れて来るようにと仰っていたわ。きっと寂しいのね」
「ふふふ、孫のように可愛がっていただいてありがたいわ。今度そうするわ。お疲れさまでした。それじゃ、あなた」
エプロンを手早く胸の前で畳みながら夫に声をかけた。刈谷は無言で包丁を持つ反対の手を軽く上げ、妻を見送ると再び視線を俎板の上に戻した。
亜希子の帰りが遅くなるときは、刈谷が1、2品おかずを作って妻に持たせることもあれば、宿泊客が少ない時などは、彼らの二人の子供もここで夕食を摂ることもある。
「いつまでも夫婦仲がよくて結構なことだ」
盛蔵の冷やかしに、そんなんじゃありませんと俯いたまま弁解した。彼は昔気質の男で無駄口を叩くことはない。
亜紀は洗いものや食後の片付けで食堂と厨房を往復しているうちに娯楽室のことは忘れてしまった。宿泊客の夕食があらかた終わり、一息ついたときには午後8時を少し回ろうとしていた。
夕食を終えた一人の男の子が娯楽室のドアを開けた時、「ははは、それは違うよ」とそれまで忘れていた男の声が耳に入った。
「亜紀ちゃん、到着が遅れているご家族ひと組だけだからもういいよ」
盛蔵がご苦労さんと娯楽室に注意が向っている亜紀に声をかけた。
稲子は亜紀が作り置いた夕食を摂りに母屋へ戻っていた。忙しい時はこうして交代で食事を摂るので家族揃って食卓を囲むことはあまりなかった。
「あ、はい。お言葉に甘えて少し休憩してから上がります」
この季節、彼女が休息する場所はテラスの隅と決まっていた。食堂から出入りできるテラスは池とは反対の玄関口側に設けられている。そこに丸テーブルが3卓置かれ、ガーデンパラソルをテーブルの真ん中に立てるのだが、夜の今は全て閉じられている。
誰もいないテラスの隅の椅子に腰を下ろし、ところどころに設置された水銀灯の照明がブナと白樺の林を幻想的な雰囲気を醸し出す景色を、木柵の上に片腕を置いて何も考えないでぼんやりとそこから見る景色が好きだった。
夜行動物のムササビやテン、子連れの狸に出会うこともあれば、小動物を獲りに梟が暗闇から突然ばさばさと飛来して驚かされることも珍しいことではない。動物好きの亜記にとって、そういった出会いが楽しみでもあった。
だが、今夜の彼女はいつもの場所には向かわずに娯楽室へ向かったから、厨房にいる2人は珍しいと思った。しかも、なぜか木製ドアの取手に手をかけたまま躊躇している様子に今度は訝しく思って顔を見合わせた。
亜紀は気配を感じて振りかえると、盛蔵と刈谷がカウンター越しに自分に注目していて、さり気なく視線を外したのが目に入った。彼女は引っ込みがつかなくなり、息を止めてノックをせずに木ドアを開けると、車座になっいた子供5人と若い男が口を閉ざして何事かと彼女を見たので一瞬立ちつくして赤面した。
ごめんなさいと一言詫びると、ドアを閉めて厨房に引き返した。
戻って来た亜紀に彼らは物問いたげだったが、彼女の背中がそれを拒否しているので、無言でジュースとお菓子を用意するのを見て見ぬふりをした。二人の視線を全身で感じながら、再び娯楽室に入ると子供達に声を掛けた。
「ジュースとお菓子だけど、よければどうぞ」
「わぁ有難う」「ラッキー」「サービスいい」
子供達は我れ先にお盆から飲物とお菓子を取ったが、髭面の若い男は一言礼を言ってジュースだけを取った。
娯楽室は4畳半ほどの広さで、高さ50cmの作りつけのサイドボードが三方にあり、その上に座布団が置いてあって座れるようになっている。サイドボードの中には動植物図鑑や郷土誌、ジオグラフック誌、八ヶ岳の関連本やDVDが収められている。ボードから上はガラス窓だが、夜の今は水銀灯で照らされたテラスと深い樹々しか見えない。ボードの正面には液晶テレビとDVDプレーヤーのセットが置かれている。
「何のお話をしているのですか?」
ボードの上に腰を下ろし、胸の鼓動を抑えながら若者に訊いた。
「いやなに理科の話をちょっとね。ははは」
何が可笑しいのか髭面から覗く白い歯を見せて若者は快活に笑った。
「こいつらがね、理科なんか学んでも将来の役に立たないなんて言うから、そうじゃない、世の中にはこんなに役に立っていることがたくさんあるんだと懇切丁寧に教えていたところさ。ははは」
隣の男の子の頭をごしごし撫でながらまた笑った。
「そうだよ。おじさんの話は学校の先生より面白いしよくわかるよ。なあ」
眼鏡をかけた男の子が同意を求めた。子供達は彼にうんうんと頷いて応えた。
「理科はそれくらいにして、今度は算数の話をしよう」
若者は子供達を見渡して言った。
えーっ、マジー、やだーの黄色い声が子供達からあがったが、難しい話はしないからと弁解してテラスの方を指差した。
「みんな見てごらん。あそこに一本の大きい木があるだろう」
子供達はサイドボードに膝立ちしながら彼が指差した方向を見た。
彼が指し示したのは、水銀灯の光で浮かび上がったテラスの真ん中にある一本の欅だった。
「あの木は何だか知ってるかい?」
「それくらい知ってるよ。欅だろ」
小学3年生くらいの男の子が胸を張って答えた。
「正解。じゃ、あの木の高さは何メートルあると思う?」
若者に訊かれて子供達は首を捻った。
2mくらい?3mはあるわよ。もっとあるよと口々に言い出してまとまらない。それを見て若者は質問を重ねた。
「物差しで測らないとわからないよな。もし、木に登らずに鉛筆一本と巻尺だけで正確に測るとしたらどうすればいいだろう。みんなで考えてごらん。それを考えたのは2600年も昔のギリシャ人の偉い人だ」
若者の問いにうーんと子供達は考え込んだ。欅と睨めっこしている子もいれば、隣の子と頭を寄せて相談する子もいる。若者はにやにやしながら辛抱強く彼らの答えを待った。
「木に登らずにぃ?」
「そう、木に登らずにだ」
「そんなことできるの?」
「できる」
「わかんないわ」
「難しいかな」
「ヒントは?」
「ヒントか・・・。そうだな、太陽と影だ。あの木の近くに鉛筆を立てて太陽が傾くと鉛筆と欅の木の影はどうなるのかな。謎々じゃないぞ。よーく自分で考えてごらん。わからないことを一生懸命に考えることはとってもいいことなんだ」
太陽と影かと呟きながら、また子供達は小さな頭を寄せ合って何とか答を見つけ出そうとしている。その真剣な態度に若者はにやにやして彼らの回答を待った。1分ほど待っても、誰からもわかったとの声が上がらなかった。
亜紀は彼が出したヒントで正解がわかったのだが、口には出さずにさり気なく若者の様子を窺った。
子供達との問答で、彼の声が彼女が
油っ気のないぼさぼさ頭の若者が真っ黒に日焼けしているうえに、無精髭が鼻と口を残して密生しているからだ。そのせいで自分より若いのか年上なのかさえ判然としない。服装もラフでアラビア語のロゴが入った着古した黒のTシャツに短パンのジーンズだ。そこから覗く脚もTシャツの袖から伸びる腕の体毛も濃い。外観だけ見れば、これまで接したことのない野性味の溢れた男に思えた。しかもしばらく風呂に入っていないのか、すえた臭いが彼の周りから漂っている。子供達は気にならないのか、彼の話に夢中になっている。彼女にとってはあまりお近付きになりたくない部類の人間なのだが、好奇心の方が忌避したい気持ちに
「君らにはちょっと難しかったかなあ。降参か?」
若者は声をかけた。それが呼び水になったのか、一人の女の子がおずおずと手を上げて答えた。
「巻尺をね、投げ縄みたく木の天辺に投げるの。そうすれば登らなくても計れると思う」
「うーん、なるほど。それも一つの解決法だな。偉いぞ。正解ではないが、そうやって自分の答や意見を発表することが大事なんだ」
褒められた女の子は無邪気に嬉しそうに笑った。
「そんな難しいことをしなくとも簡単に測ることができるんだ。もう一度みんなでよーく考えてごらん」
彼らは再び角を突き合わせて考えていたが、手を上げる子はいない。
「うーん、わかんないよ」
「本当に鉛筆と物差しだけで測れるの?」
「こうさーん」
「そうか、降参か。それじゃ明日までの宿題にしよう」
それを聞いた子供達から、ブーイングが起きた。明日帰るから駄目との不満の声と今教えろとの合唱だ。
「しようがないなあ」
頭を掻きながら、亜紀に用紙と書くものを頼んだ。子供達からわーっと歓声が上がりパチパチと拍手が沸いた。
亜紀が受付から鉛筆と紙を持って来ると、若者に手渡して再びボードの上に腰を下した。
厨房には誰もいなかった。
若者は紙を車座の真ん中に置き絵を描き始めた。
「いいかい、これがあの欅の木だとする」
左の方に大きく木の絵を描いた。記憶力がよく絵心もあるのか、何も見ずにさらさらっと描いた絵は樹形通りで素人目にも上手に映った。
「そしてこれが鉛筆だ」
今度は少し離れた右にやや小さく鉛筆を縦に描いた。その鉛筆も定規を当てたように直線で垂直だった。
「木に比べて鉛筆はこんなに大きくないけど、説明するだけだから茶々を入れないでよく聞けよ」
そう弁解しながら若者は子供達を見渡したとき、ちらっと亜紀を見た。子供達は息を凝らして真剣な表情で彼の手元を見ていて彼女の存在など気に留めていない。
「夕方になると太陽が傾いて両方に影ができるだろう。ちょっと想像してごらん」
少し間をおいて紙に描いた鉛筆の下端から水平に線を少し引いた。
「太陽が沈むにつれて影が伸びて、そのうちに鉛筆の高さと同じ長さの影ができる」
その線を鉛筆の高さと同じ長さくらいのところで止めた。その線が影のつもりらしい。引いた線と鉛筆の天辺を結んで三角形を作った。
「これが鉛筆と影でできた三角形だ。少し難しい言葉で言えば、二等辺三角形だ。二等辺とはこことここの長さが等しい、つまり同じということだよ」
若者は鉛筆とその影の線上に小さな丸を描いた。
子供達は前のめりになって若者の説明を聞いている。無駄口をきく子はいない。
「鉛筆と同じ長さの影ができた時に木の影の長さを測ればどうなるかな」
若者はニヤッと笑って思わせぶりに子供達の顔を見た。自分からは答えを言わない。
「木の高さと一緒!」
女の子が叫んだ。
「そうだ、その通り。偉いぞ、よくわかったね」
女の子を大袈裟に褒めた。褒められた子は嬉しそうに隣の子と両手をハイタッチした。
「鉛筆と同じ長さの影ができたときに地面にできた欅の影の長さを巻尺で測れば木に登らずに高さはわかる。危なくないしずっと楽だろう。これを大昔に考え出した人がいるんだね。こんな風に考えると算数も面白いだろ?」
うんうんと子供達が頷いている。
「おじさん、何でも知っているんだね」
子供達は眼を輝かせて頷いた。
「おいおい、おじさんはないだろう。お兄さんだろ」
おじさんと発言した男の子の頭をまたごしごし撫でた。
「おじさん、知らないの。二十歳過ぎればおじさんおばさんだって。お姉ちゃんが言ってた」
小さな女の子がませた口調で言った。
「だとさ。おばさんだって」
亜紀を見てにっと笑った。つられて子供達も彼女を見た。亜紀はどのような顔をすればいいのか困ってもじもじした。
それを皮切りに話がどんどん算数から逸れて自然科学に移った。
子供達は楽しそうに若者の話を聴いている。若者は彼らに話を合わせながら大声でよく笑う。子供達も無邪気に笑う。車座に座りながらも中心は若者だ。彼が話すと彼らの目も輝き、可笑しいときは一緒に笑い、手を叩いて喜んだりしている。彼の背中に被さって喜んでいる小さな女の子もいる。彼もそれを許している。
亜紀は彼らの輪に入らず、それとなく若者を観察した。だが、やはり顔一面の髭で確信が持てずにいた。髭を剃ってくれたらいいのにと勝手なことを思った。彼女はときどき横を向き、眼を閉じて彼の声に聴き入った。それでも確信が持てなかったので観察を諦め彼らの会話に耳を傾けた。
若者の話術は巧みで子供でなくても聴いていて面白かった。「講釈師見て来たような嘘を言い」との川柳もあるが、彼は話を適当に脚色し声音を変えジェスチャーを交えて子供達を飽きさせなかった。亜紀も何度か口を押さえて子供達と一緒に笑った。
一見粗野なようにみえて根底に温かいものがあるのか、それとも子供の話を真剣に聞いて体験を交えて説明するからか、あるいは単に子供好きだからなのか、彼らは若者になついているようだ。
どのような質問にも彼は丁寧に答えて、そこから広がる知識と話題の豊富なことに驚かされた。
外見はどこから見ても学生とは思えない。と言って、狭い世界で生活している亜紀には彼が何の職業に就いているか皆目見当も付かない。粗末な服装から判断してフリーターあるいはニートかしらと思った。中にはエリートだった人もいると言うから、話に聞く路上生活者がまさしくこんな人なのかも知れないと想像を逞しくした。
ふと気がつくと、いつの間にか星の話題になっていた。それは地球に始まり、銀河系はては宇宙全体にまで広がった。そしてこれから星の観賞会をすることになって子供達との談話に終止符を打った。ここは空気が澄んでいるので、外灯を消すと遠くまで星が見える好適地だった。
亜紀はほとんど若者と言葉を交わさず、1時間余りを娯楽室で過ごしてしまった。子供達との話の中でしばらく若者が滞在することを知り、心の中にざわめくものを感じながら娯楽室を離れた。
ペンションには当直用の小部屋があり、今は若者がそこを占有していた。
彼が稲子と宿泊交渉していた時、亜紀は母家で夕食の支度をしていたので彼のことを知らなかった。後で姪の陽菜子から聞いた話では、夕方6時頃バイクでやってきて泊めて欲しいと稲子に頼み込んだらしい。あいにく満室だからと断ると、テントを張るからどこか一画でも貸して欲しいと拝み込まれ、困惑した稲子は夫と相談してその狭い部屋を提供したのだった。当直は僕がしますからと頭を下げたと聞いて、義母の当惑した様子を想像して亜紀は可笑しかった。
亜紀は若者の職業は無論のこと名前すら知らなかった。受付をしている稲子に訊けば、宿泊者カードから知ることは可能だが、そうすることに躊躇いがあった。義母が不審に思うのは容易に想像ができたからだ。好奇心からではないにしても、何故知りたいのかと要らぬ詮索をされるのを避けたかった。
若者は朝一番に朝食を待ちかねたように食べ終えると、かなり古そうなカワサキのバイクを駆ってどこかへ出かけた。そして、帰って来るのは薄暗くなった7時過ぎだった。それで少なくても路上生活者ではなさそうだと亜紀にも検討がついた。ホームレスがあのような大型のバイクを所持しているなど聞いたことがないからだ。
彼がバイクのエンジンをかけるのは決まって砂利道を抜けて舗装道路へ出てからだった。そこまで押して行く彼の姿を亜紀はよく見かけた。彼と親しく口を聞くようになってからその理由を尋ねると、「だってそりゃ、他のお客さんに迷惑だろ、朝早くからブーブーやっちゃ」と笑って答えた。一見粗野な感じがする若者だが、意外と細やかな気遣いができると感心したのだった。
あの夜以来、若者と顔を合わせることはあっても、挨拶以外に口をきく機会はなかった。日中彼はいなかったし、娯楽室へのお茶当番は陽菜子が買って出たので、あの子供の会に同席したのもあれきりだった。
テラスから娯楽室をみると、若者が大げさな身振りをしている隣で、何が可笑しいのか、陽菜子と義晴が大口をあけて子供達と一緒になって笑い転げているのが窓越しに見えた。ここまで笑い声が聞こえて来るようだった。
早めに子供会がお開きになり、厨房に戻って来た姪甥が口々に言うには、彼は信州大学工学部建築学科の講師をしているとのことだった。亜紀はその大学が国立だと言うことも、彼がここに来る前はずっと山小屋に籠っていたことも陽菜子の口から知った。それで、あのとき彼の体からあの異臭がしたのかと得心した。
姪達の会話をそれとなく聴いて、亜紀の好奇心は満たされたのだが、大学の先生が何故山小屋に?との単純な疑問が湧いた。それはともかく風変わりな若者と亜紀の目には映り、彼の素性に一層関心を持った。
「独身だって」
陽菜子がわざとらしく亜紀を窺いながら言った。亜紀は聞こえない振りをした。
「それにしたって、どう見ても建築科の先生には見えないわよねぇ」
「本当は土木じゃないの」
義晴の意見に亜紀も思わず笑ってしまった。
「そうそう、そんな感じ」
陽菜子も失礼なことを言いながら、雑談の模様を思い出したのか大声で笑った。
そんな様子に、あの人に一番近しいはずの義父母や姪甥が何も感じていないようなので、他人の空似なのかしらと亜紀もだんだん自信が持てなくなってきた。
「陽菜ちゃん、あの人は建築家なのかい?」
何を思ったのかそれまで会話に加わっていなかった盛蔵が片付けの手を休めて姪に訊いた。
「そうよ。一級建築士ですって。でもどうして?」
それには答えず、ふーんと言った切り盛蔵は黙った。
「講師になる前に色んな建物を見るためにバイトしながら外国旅行をしたんですって。料理はできないけど皿洗いは任せてくれって自慢していたからその内皿洗いをしに来るかも」
亜紀も盛蔵もその時は冗談と聞き流していたが、翌日の夜、暇ですることがないからと彼が厨房へやって来て洗い物をするようになった。
亜希子がいないと無口で武骨な盛蔵と職人気質の刈谷のせいで厨房は静かだが、若者が皿洗いを始めてから騒がしくなった。山小屋での出来事や自分の失敗談を面白おかしく披露しながら食器を洗うので、陽菜子と義晴は腹を抱えて笑った。
若者は随分背の高い男だった。亜紀も同年代の中では高い方だが、彼女の目の位置は彼の首より下だった。
なるほど彼が自負する通り、人を笑わせながらの皿洗いは手早いうえに無駄がなかった。洗われた食器類は甥姪が若者の雑談で大笑しながら水分を拭き取りいつもより早く終わる。
亜紀は若者を避けるように、彼とは口を利かず、後方で時折目を閉じて彼の声を聞いていた。そうしながら、あの人に抱いているイメージを彼に重ね合わせた。ところが声は似ていても亜紀の中でのイメージは合わせられそうで合わせられないでいた。不思議に思って少し考えるとすぐにわかった。あの人は静で彼は動なのだと。
そんな風に観察されているとも知らず若者は姪や甥に冗談を言いながら一緒になって笑っている。
亜紀は食堂のテーブルを拭きゴミを片付けるといつものように母屋へ戻って行った。彼も彼女と目を合わせることはなかった。
若者と盛蔵達はそれをきっかけに急速に親しくなった。亜紀も彼から距離を置きながら神経は彼に向いていた。
そんな亜紀が若者と二人きりで口をきく機会を得たのは彼がここを離れる日の前日だった。
(二)
亜紀は客が摂り終えた食事の後片付けを済ませ、自分の朝食を摂るためにペンションを出て母屋に向かおうとして何気なく左方を見た。黒っぽい何かが動いているのを目の端に捉えたからだ。その黒っぽいものは広場中程の池際で妙な動きをしていた。長い手脚であの若者だと認知すると同時に足はそちらに向いていた。
彼女はこれまで自分から男の方へ向かうことはなかった。彼女の性格もあるが、過去のことと無縁ではなかった。だが今は、彼が何者か知りたいとの欲求が彼女の向かう方向を180度変えさせた。だが、真っ直ぐそこへは向かわず、ドウダンツツジ、花水木や
素足で池に向かって流れるような動きをしている若者は、離れて背後に立つ女の存在に気づいていない。そのお陰で彼をじっくり観察することができた。
遠目だが、黒のランニングシャツと黒の短パンから覗く彼の体は逞しい。だが、筋肉隆々ではない。カマキリのような所作をしている腕と脚は身長相応に長い。
彼の顔は池に向き、時には斜め横を見る動きをしている。こちらへ向いたときは軽くお辞儀でもしようと身構えていたが、その懸念はなさそうなので体の力を抜いた。
若者は5分ほど流れるような動きをしたが、最後は池を正面に両腕を平行に肩まで上げ、それをゆっくり下ろして直立した。それからその姿勢のまま長く合掌し呼吸を整えていた。それで終りかと凝視していると、今度は横に向き直り、拳を上下に合わせ、脚を前後に動かすと同時に腕を上下に振り始めた。それは空の竹刀を見立てた剣道の動きだった。そんな様子を亜紀は息を殺して見つめた。
やがて若者は素振りを止め、両手を前に揃えて拳を握ったまま
すらりとした細身の体に膝丈までの薄緑のワンピース、下半身は桜色のエプロン、足元は薄黄色のソックスに白のサンダル履きの身軽な格好だ。
若者は一瞬の間にその姿を頭の中に収めた。軽く頭を下げ、サンダルを片足立ちしながら履くと女の方へ向った。女も軽く頷き返したが、自分からは動かず彼が来るのを待った。それは計算尽くではなく、少しでも彼を見極めたいとの思いからだった。
柔らかく吹く風が女のスカートを少し横に揺らしている。一見ちぐはぐに思える服装と色の組み合わせだが、彼の目には新鮮に映った。薄く小麦色に焼けた顔に薄茶のサングラスをかけているのが不釣り合いに思えたが、夏の日差しを避けるためだろうと疑問に思わなかった。
女に近づくにつれ、桜色と思ったエプロンの柄は桜の花びらを散らしたものだとわかった。女の化粧は薄く、指輪、ピアスといった装飾品の類は身に付けていない。前で重ね合わせた指の爪はマニュキアさえしていないようだ。身軽な服装と出で立ちで、増々夢二の絵から抜け出たような女だと思った。髪こそ短いが、細面の顔に切れ長の目、筋の通った鼻と小さめの唇、どれも彼のモデルそのもののようだ。夜と朝の違いからか、これまで見たときとは随分女の印象が違って見えた。
若者が5mほど手前まで来た時、亜紀も木の幹から身体を剥がした。しかし、彼女は動かなかった。やがて応答できるまでの距離になると、彼女の方から声を掛けた。
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの。つい声を掛けそびれてそれで・・・。ごめんなさい」
「え、何?」
彼女の声が小さく、しかもツクツクボウシの合唱でかき消されてよく聞き取れなかった。夏を惜しむミンミン蝉の声も遠くからしている。
「熱心に運動しておられるのを見て声を掛けられませんでしたの。驚かせたのならごめんなさい」
言い訳をしながらサングラスを外すと見つめ返した。そしてあの人と共通点はないかと無遠慮に凝視した。
男の鼻梁は高く唇は引き締まっている。目と鼻と唇を残し顔全体を覆う濃い無精髭がやはり年齢不詳の男にしているが、穏やかで涼しげな瞳が印象的だった。髭のせいであの人と同じかどうかは、やはり確信が持てなかった。
正体不明の男だが、子供の相手をしていたときのことを度外視しても、女の勘で安心感を持たせる人だと認めた。
彼女は目で見たものより自分の勘を信じた。不幸な過去の経験則が何よりもそれを信じさせた。経緯があって幾人かの男性と見合いの形で会話をしたことはあるが、そのように思わせたのはこれまであの人以外にはいなかった。
「なーに、いいですよ。いつからここに?」
女が無遠慮に自分を見ている様子に不審を覚えながらも気安く応じた。
「しばらく前からここで拝見していました。流れるような運動をしてらっしゃったのでつい見とれてしまいました」
男の発する体温や体臭が感じられるほどの近さだが、離れることなく答えた。彼のあの異臭はしなかった。
「全然気が付かなかった。あなたは気配を殺すのが上手だ。これが昔だったら後ろからバッサリ斬られていたかもしれないな。ははは」
時代外れの大仰なことを言うので、亜紀は口を手で押さえて小さく笑った。
「いや、本当に穴があったら入りたい心境ですよ」
冗談ではなく本心から思っているようで、若者は頭をぼりぼり掻いた。二人の間にあった緊張が少しほぐれた。
「毎朝あれをなさっていますの?」
彼に関心があるとは言え、自分これほど積極的に話すことに内心驚いていた。
「いや、こちらに来て初めてですよ。だってほら、朝早くに出て行くから」
ハンドルのグリップを回す真似をして言った。
「ああ、それで・・・。あの、それは太極拳とかいうのでしょう?いつかテレビで見たことがありますわ」
「何年か前に中国の北京へ行ったとき、朝早くに公園で大勢の人がやっていたんです。それを木陰のベンチに座ってぼーっと眺めていたら、太ったお婆さんが手招きで呼んだんです。身振りで一緒にやらないかと誘われて、見よう見まねで始めたのがきっかけ。言葉は通じなかったけど、親切に教えてくれてその人の家で朝粥までご馳走になった。それが縁で中学生だったお孫さんと今でもときどきメール交換しているよ。ああ、中国語じゃなくって英語でね」
彼女の思惑を知らない彼は世間話をしているかのような調子で言った。
「そんなわけで、みんなの動きに合わせてやったけど覚えきれなかった。帰国してからビデオを見ながら少しは勉強したんです。どうです、あなたも始めませんか。動きはゆっくりだけど、意外に汗をかきます」
彼の勧めにとんでもないと亜紀は手を振った。これまで彼女は運動らしきことをしたことがなかった。
話している間、彼も相手の目から離さなかった。真っ黒に日焼けした顔にある瞳が穏やかに光って、亜紀が照れて目を逸らすと、いや、失礼と言って頭をかきながら弁解を始めた。
「昔ヨーロッパを回っていたとき、どこだったか日本人は人の目を見ないで話すから信用できないと言われたことがあって、それからは意識的に相手の目を見て話すようにしたんです。アイコンタクトというやつです。それが日本だと逆に妙な誤解を招くようだ」
そういいながら頭を掻いて顔をじっと見るので、亜紀はどぎまぎして顔を伏せた。そんな彼女に頓着なく右手を出した。
「成瀬真一と言います。宜しく」
成瀬真一さん・・・と、彼の大きな手を軽く握り返しながら小さく呟いた。手の感触もあの人に似ているように思いながら、何でもあの人と同じにしてしまうと自嘲した。
「加辺亜紀と申します。4年前に嫁いでからここにいます」
訊かれもしないのに何故嫁いでいることまで言ったのか彼女にもわからなかった。
娯楽室で彼女を見たときはここの娘かと勝手に想像した。主婦とは少し違うような印象を持ったからだ。嫁に来たと言ったが、指輪をしていない。それにどこか寂しそうな雰囲気を漂わせているのは何故だろうと疑問に思った。
「へえ、そうですか。失礼ながら主婦のような感じには見えませんが。若くて美人だからかな」
彼にあからさまに美人と言われても、失礼なとか恥ずかしいとの感じはしなかった。と言って、嬉しいとの気持ちにもならなかった。飾らない彼の話し振りがそう思わせた。
「いきなり握手なんかして驚いたでしょう。外国ではこれが普通なんです。以前フランスに行ったとき、婦人と握手するときは、相手の手の甲にキスをするのがマナーだなんて教えられて、真に受けてその通りしたら、その人に変な目で見られて困った。別の国では初対面でも婦人には両頬に軽くキスをしなくちゃならんとか言われてそうしようとしたら、これまた相手から顔を背けられた。いやー、あの時は格好悪いやら恥ずかしいやらで日本人には向かない作法だと思った。あははは」
頭をぽりぽり掻きながら饒舌に話し、黒い髭の間から白い歯を見せて屈託なく笑った。亜紀もつられて笑った。
「外国ではいろんな挨拶の仕方があるけど、アラブ人の挨拶は知っていますか?」
いいえと小さく首を振ると、真一が身振りを交えて教えた。
「彼らのほとんどがイスラム教徒だから男性同士の挨拶しか知らないが、握手をした後、こうやって胸と唇そして額のところに軽く手をやるんです。訳を訊いたら、なんでも相手の幸せを自分のところへもという意味らしい」
彼の方から話しかけてくれるので、若い者同士の話題を持たない亜紀は助かった。
そんな当り障りのないことをしばらく話して、彼は気分を変えるよう周りを見た。
「ここはいいところですね。八ヶ岳が池越しに見えて、このように緑に恵まれ、空気がおいしくて清冽で、そしていてなんだか暖かい感じがする。ここで暮らすあなたが羨ましい。僕もいつかこんなところに住めたらいいな」
本心からそう思っているようで、しみじみとした口調で言った。
「でも冬は厳しいですのよ、マイナス10度以下になることもありますから。雪はそれほど多くはありませんけれど、積もると辺り一面が黒と白のモノクロになってしまって、成瀬さんが思われるほどのことがないかも知れません。でも、私は冬のここも好きです。雪道を歩いていると、滅多に見かけないモモンガやヤマネに出会えることもありますから」
相手の目を見て答えた。
「へえ、それゃいいなあ」
羨ましそうに答えて言葉を継いだ。
「入口にあるハルニレも凄いけど、あそこのメタセコイアも立派ですね」
指差したのは、広場の中央に聳え立つ一本の樹で、それは樹高20mをゆうに超え、幹周りも彼の腕長では足りなさそうな大木だった。
樹名板は付けているのだが、読めないほどに古くなているので、ここに来る客の殆どはそれらの樹名を知らない。それを彼がスラスラ言うので、何て博識なのかしらと感心してしまった。
そのハルニレは広場入口で2本並び立ち枝を広げて大きな影を作っている。2本はかなり離れているのだが、枝が横に伸びて殆ど触れ合うまでになっている。そのほか桜を中心にイチョウ、ブナ、欅、桂に楠などの広葉樹ばかりが絶妙な間隔で植えられ日陰を作っている。針葉樹は広場の真ん中でシンボルツリーとなっているメタセコイアの1本のみだ。
「あれですか。樹齢はわからないそうですけれど、昔からあそこにあったもので、お祖父さんの子供の頃から既にあの大きさだったそうです」
「それだったら150年は下らないんだろうなぁ。それにしても、いろんな木をうまく配置している。
あ、そうだ、亜紀さん。今日はどこへも行く予定がないのです。もし、時間があればここら辺を少し案内していただけませんか。一人で歩き回ってもいいんだが、それもつまらないから」
彼は親しく亜紀さんと言った。呼び易いのか、初対面の人にも苗字ではなく名で呼ばれることの方が多かった。
亜紀はちらりと腕時計を見た。
(30分以上も過ごしてしまった。家の人が心配しているかもしれない。でももう少し彼と話をしたい。いえ、彼の声をもっと聴いていたい)
「ちょっと待って下さい。家の方で用事があると困りますから」
いちいち断らなくても文句を言う人などいないのだが、もし誰かに見られて痛くもない腹を探られるが嫌だった。
ごめんなさいと真一に断ると亜紀は少し離れてエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。
「お義母さん、亜紀です。お客様、成瀬真一様をこの辺をご案内してもいいですか。・・・ええ、それくらいで戻れると思います。・・・はい、わかりました」
亜紀は真一を見て言った。
「1時間くらいなら差し支えないそうです」
「それはよかった」
真一は嬉しそうに笑った。亜紀もつられて微笑んだ。
亜紀は森に入るときはこれを持つのが決まりだからと、エプロンのポケットから鈴を取り出すとその紐を腰につけた。歩く度にカウベルの鳴る音がした。
熊除けかなと何気なく言ったのが、帰ってきた応えは違った。
「熊が出たとの話はありません。それより猪が恐いのです。被害に遭ったとの話も聞いてはいませんけれど、突然現れて突進してくるそうですから」
この蝉の喧騒の中でどれ程の効果が期待できるのだろうかと彼は疑問に思ったが、指摘する程のことでもないので黙っていた。足元を見ると大小様々な蝉の死骸が無数に落ちていた。蝉の密度が濃い証とも言えた。
真一が見た森は大中小の広葉樹ばかりで針葉樹らしきものは見当たらなかった。枝が張る木々のお陰で樹木の間隔が広い。樹種も豊富で彼も知らない樹々が多数あった。クヌギやコナラと言った樹液を出す木やカシの木、シイといったドングリのなる木があちこちで見られたので、子供が喜ぶカブトムシやクワガタがいるだろうなと思った。
ふと見ると樹木のやや上方にかなり古くなった巣箱があった。亜紀はそれは夫が子供の頃に祖父と一緒に掛けたものだと説明した。その他、知る限りの浅い知識を披露したが、彼は彼女の説明よりも風景や環境の方に関心があるようだった。それに動植物については彼女よりはるかに造詣が深かった。それからは生半可な説明をやめて、彼に問われるまま答えるようにした。
若者の口調はあくまで穏やかだった。並んで歩いていても節度ある間隔を保っていた。それでいて亜紀には何故かあの人といた時と同じくらい近くに感じるのを不思議に思った。
真一はときどき立ち止まり周りを見渡した。それは景色を楽しむと言うよりは観察しているように亜紀の目には映った。
広場まで戻ると、真一は池越しに見える山の名前を問い、この辺の見どころなどを聴きながら池に沿って歩いた。
彼と会話をしながら歩いていても気詰まりを感じなかった。初めの頃は彼よりやや斜め後ろについていたのだが、蝉の鳴き声が姦しく何度か問い返されてからは横に並び立って歩いた。
やがて二人は広場を横断している小川の所へ来た。そこに架かる木橋に、真一はあれは誰が架けたのかと尋ねた。それは義父と祖父らが架け渡したもので、これまでに何回か架け替えている。義祖父の話では、子供が渡るときに万一壊れでもしたら大変なことになるから、早めに架け替えるようにしているとのことだった。そんな説明でも彼はしきりに感心した。
小川と言っても川底までは深く幅は1.5mほどもあった。水量も入口側より多い。ここだけでこれだけ豊富な水が流れているということは同じ量以上の水が池の底から湧き出ていることを意味していた。
広場から離れ下流へ行くと、川の両側は草で覆われ、田舎でも滅多に見かけない胡桃と桑の木が生えていた。
ここでアカショウビン、あそこでは啄木鳥を見た、6と7月にはオオムラサキが飛翔する、との亜紀の説明に真一は子供のように羨ましがった。
卵を産み付けるためか、それとも餌となる小虫を獲るためか、オニヤンマが小川の上を何度も往復していて、水面すれすれに銀色のイトトンボが飛翔している。都会ではずっと昔に失われた風景がここにはあった。ここに住む彼女を彼は真底羨ましいと思った。
「この環境だったら山椒魚が生息しているんじゃないですか?」
真一は小川を覗き込みながら言った。
「さあ、どうでしょうか。そんな話は聞いたことありません。調べたこともないようですけれど」
「だったら、いるかもしれないな。蛍はどうです?ここは生息条件に合致しているように思えるけど」
「それはいます。初夏になるとよく舞いますわ。今年も沢山飛んでお泊りのお子さんに喜こばれました。義父が子供の頃はもっと多く見られたそうですけれど、年々少なくなっているそうです」
そうですかと言い置いて、真一は亜紀が止める間もなく膝丈ほどの草叢を分け入って川底に降りた。長い脚で川を跨ぎ、石を移動させたりひっくり返したりした。本当にいるのかしらと思いながら見ていると、石の下を覗き込んでいた彼が何か黒いものを摘んで頭をあげた。
「いましたよ。ほら」
真一が腕を伸ばして見せたのは、親指と人差し指の間でもがく黒く小さな山椒魚だった。
「あら、本当」
恐らく、義祖父も義父も知らないだろう。
真一は山椒魚を川に戻しながら言った。
「タニシ類はあまり多くないな。生棲環境は申し分ないから、カワニナやモノアラをもっと増やせば蛍も多くなるだろうに。まあ、そんなことを僕が言う立場にはないけど、でも惜しい」
そんなこと思ったこともないが、もっと舞ってくれたらお客さんも喜ぶだろうと思っていたので、折を見てお爺さんに進言しようと思った。
池を源流とする小川も20mほど下流へ行くと、腰丈ほどの草が生い茂っていてそれから先へ歩くことは困難だった。
途中、水中にクレソンがたくさん増殖しいるのを見て、サラダにしたらうまいと言ったので、そうしていると応えた。
真一は亜紀の無防備な脚と足元を心配して振り返り見たが、彼女は少しも気にしている風ではなかった。
惜しいなと若者は一言呟いた。亜紀にはそれが蛍のことかそれとも山椒魚のことか見当もつかなかった。
そこを最後に元の場所まで戻ると、真一は小屋を指差して訊いた。
「ペンションの横にガレージみたいなものがあるけど、あれは何です?」
横と言ってもそれは少し離れていて広場寄りの林の中にそれがある。
「ああ、あれは農機具置場になっていますの」
「農機具?」
「以前は広場を芝生にしていましたから、芝刈機とか肥料散布機とかを置いてます。芝生だった頃は、それを使って芝を刈ったり、肥料をやったり、目土を撒いたりするのですけれど、それはもう管理が大変でした。何より刈った芝の処理に困りました。中々堆肥にはなりませんし、と言ってこのご時世無闇に燃やすわけにもいけませんから。そのようなわけで管理が大変だからと3年前に白詰草の広場にしました。今は肥料をやらなくてもこの通り緑になって、兎もときどき現れて草を食むこともありますから、これにしてよかったと思います。
そのほかに木工工具や大工道具も置いてあります。先ほどの橋やところどころに置いてあるベンチなんかも、夫とお爺さんと義父が暇な時に作ったものですわ」
「なるほど。いろんな木がうまく配置されているけど、それも三人が?」
「いえ、その時は夫が産まれたばかりでしたから、お爺さんと義父が相談して配置決めして、伐採して造成した折に、そのまま残したり森や山にあったものを移植したり、新たに植樹したりしたそうです。桜の木はほとんど植樹したものです。
春になれば桜や花水木、ヤマボウシなどの花が咲きますし、夏もムクゲや
里山では、と申しましても、丘のようなものですけれど、そこでは果物や山菜も採れます。でも、昔ボヤ騒ぎがあってからはお客様でも入山はお断りしております。ただ例外は、お花見と紅葉の時期、それと蛍が舞うときだけは、ご近所の方にだけ開放しています。その折にはまたおいで下さい」
若者はへえとだけ感心の声を漏らしたが、来るとも来ないとも答えず、濃い樹木の葉に遮られた青い空を見上げた。いつの間にか太陽が高くなっていたが、陽が当たることはなかった。
ふと気がつけば、ついこの間までミンミン蝉や油蝉などの混声合唱だったものが、今はほとんどツクツクボウシだけとなり、赤トンボが飛翔している。もう夏も終わりだ。ときおり、かっこうや鶯の鳴く声も聞こえた。遠くでコッコッコッと忙しなく木をつつく啄木鳥の音もする。幹についた虫を獲ろうとしているのだろう。
「池の名は?」
「正式な名称は存じませんけれど、私共は昔からの屋号の甚蔵から取って『甚蔵が池』と呼んでいます」
亜紀は彼と一緒に歩いていて二人の間にゆったりとして温かな時間が流れているように感じた。彼女が若い男性と身近で話す機会は多くはないが、そのように思わせたのはあの人以外にはいなかった。それは彼の声があの人に似ているとの意識のせいだろう解釈した。
「成瀬さんのご出身はどちらですか?」
会話が途切れたのを見計らい、できるだけさり気なく尋ねた。
「和歌山県の田辺市です」
素っ気ないほど亜紀の方を見ずに答えた。
やはりあの人とは無関係なのかと失望した。それでもこの機を逃してはもう訊けないだろうと思い重ねて尋ねた。
「どうして和歌山から長野へ?」
(信州大学の講師と言っていたのだから、尋ねても不審に思わないだろう)
「あちこちの山に登りたかったからかな。八ヶ岳もそうだけど、こっちには穂高や槍ヶ岳をはじめいい山が沢山あるから。海ばかり見て育ったせいか、どうも高い山が好きみたいだ」
「それまでは一度もこちらへは・・・」
「ええ、大学に入るまでは一度も来たことがありません」
亜紀の意図を知らず、疑問を抱かずに答えた。
そうですかと心なしかがっかりしたような彼女の様子に、真一はなぜそんなことを訊くのだとの表情をした。しかし、それには触れず、「和歌山には行ったことは?」と逆に尋ねた。
「いいえ、滅多にここから出ることがありませんから、和歌山に限らずほとんど知りませんわ」
「そうですか」
一度は行ってみてはとの誘いもなく再び会話が途切れた。彼は盛んに何かを探しているかのように木々の上部を見ている。やがて視線を亜紀に戻すと唐突に訊いた。
「森と山の管理はどなたが?」
「以前はお爺さんが主体となってしていました。けれど、もうお歳ですから家の周りだけで精一杯のようですわ。今は義父の昔のお仲間が折に触れてボランティアみたいな形で整備してくれていますの。それに近くの小中学校の生徒さんが課外学習を兼ねて春と秋に里山整備に来てくれます。その時は大勢の人の安全を気遣って大変なのです。ここは動物が沢山生息していますでしょう、ですから事前に小動物や鳥の営巣場所を保護したり、貴重植物が踏み荒らされないよう縄張りなんかしないといけませんから、お仲間の方達とそれらの準備に追われます。特に蜂なんかの毒虫やウルシなどの木にも注意が必要ですから、お爺さん自ら見回っていますわ」
「それは大変だろうな」
大人の制止も効かずに動き回る生徒を想像すると大変さが理解できた。
「大体3時頃には終わりますから、子供達におやつを配って植物や動物の説明するのが、お爺さんの楽しみなんです」
「それはいいなあ、その時は一度僕も参加させてもらおうかな。昔ながらの広葉樹の多い里山は少なくなっているから大切にしないと」
それは是非とも言えないので黙っていると、遠くでキーンキッと鋭い鳴き声がした。
「やっ、雉だ!」
若者は立ち止まって耳を済ませたが、それきり鳴き声はしなかった。
元の場所まで戻って来ると、忙しいところをどうも有難うと彼は頭を下げた。まだ3分の1も案内していないと思うが、若者は「これで十分です。午後にでも一人で歩いてみよう」と別れを告げるように言った。
その少し前から亜紀はそわそわして落ち着かなかった。そんな彼女を若者は不審に思って尋ねた。
「どうかしました?ああ、そうか時間が随分超過してしまったな。貴重な時間をいただいてしまって済みませんでした。お家の方が心配しているかも知れません。僕はもうしばらくここをぶらぶらするので、早く戻って下さい」
真一が踵を返しかかるのを亜紀は慌てて呼び止めた。そして、中々切り出せなかったことを思い切って言った。
「あの、不躾で失礼ですけれど、お顔に触れてもいいでしょうか?」
「はぁ?」
真一は意味がよくわからず間の抜けた返事をした。見ると女は俯き、頬がうっすらと赤く染まっている。
「何ですか?もう一度言ってもらえますか?」
問い返されて、ますます赤くなってもじもじした。
「気になるなあ、何です。言って下さい」
亜紀は一旦呼吸を止めると、思い切って息を吐き出すように言った。
「あなたのお顔を触ってもいいですか?」
ああ、そんなことかと妙な願いに戸惑いながらも気安く応じた。
「ああ、いいですよ。今朝はちゃんと顔も洗ったし」
理由を尋ねることなく、冗談のように言って立ち止まると亜紀の前に立った。
向き合うと彼の胸が目の前にあった。目を閉じておずおずと手を伸ばすと指が彼の髭に触れた。真一は亜紀が触りやすいように少し屈んだ。それを彼女は制した。
「あの、すみません。どうぞそのまま立っていて下さい」
真一は言われるまま背筋を伸ばしてじっとした。
亜紀は再び目を閉じて片手で一旦顎から頭まで触れると、今度は両方の指で額、目、鼻、口を慎重になでるように触った。真一は触れられるたびにくすぐったかったが、我慢して立っていた。
亜紀は彼の顎までの触感を確かめ終わると両手を下ろし、目を開けると静かに礼を言って再び彼の横に少し離れて並んだ。
両手を上げた感じから身長はあの人と同じ位だと思った。が、顔の方は今も確信が持てなかった。彼の髭が彼女の記憶に残る感覚を鈍らせたようだ。
真一は亜紀が何事か話すだろうと待ったが、彼女の口からは何も漏れ出されなかったので、溜まらず訊いた。
「どうかしました?」
俯いたまま押し黙っている亜紀に落ち着いた声で問いかけた。
「ごめんなさい。変なことをお願いして。・・・あの、失礼ですけれどお年は?」
「30になったばかりだけどそう見えないかな?」
微妙な雰囲気を幾分でも変えようと冗談めかして言った。
「差し支えなければ、生年月日も教えていただけますか?」
真一が亜紀の異常とも思える様子に訝しさを覚えながらもそれに答えると、彼女が息を呑んだ。彼はそれを聞き逃さなかった 。
何か彼女に秘密があるようだ。だが、彼に思い当たる
「身長は?」
「もう永く測ったことはないが、185cmだと思う」
何故そんなことを訊くのだと彼の顔は語っていた。しかし、彼女はそれを斟酌する余裕を失っていた。
(あの人の声も今のように頭上から下りて来た。この人は誰なんだろう)
彼女の中で封印していたものが鮮やかに蘇って感情を抑えきれなくなった。
真一は亜紀の異常な様子に違和感を抱きながらも詮索することはなかった。それが彼の信条だった。その気になればそのうちに彼女が何か話すだろうとあちこちの木々を見やった。そうして亜紀の言葉を待ったが、いつまで待っても彼女の口からは何も漏れ出てこなかった。やがて蝉の鳴き声の中で彼の耳に届いたのは彼女の小さな嗚咽だった。驚いて目をやると彼女はしゃがみ込み顔を両掌で覆って忍び泣いていた。
人の顔を触ったくらいでまさか涙を流すとは思いもしなかった。これまで女に泣かれた経験を持たない彼は当惑した。
真一は小刻みに振るえている亜紀の肩に
「どうかしました?」
亜紀は立ち上がる素振りを見せたが、またしゃがみ込んでしまった。
「あそこのベンチに腰を下ろしましょう。何か事情があるようだ」
亜紀の肩を抱きかかえるようにして立ち上がらせると、池近くにある古びたベンチへ誘導した。そしてショートパンツに挟んでいたタオルを亜紀の頬に押し付けた。
「少し汗臭いかもしれないが、これでお拭きなさい」
亜紀は小さく頭を下げてタオルを目に当てた。真一は横に座って彼女が落ち着くのを待った。
しばらくそのままでいたが、少し収まった様子を見て口を開いた。
「僕が誰かと似ているんですね?」
彼女の言動からしてそれ以外に考えられなかった。
ええ、と亜紀は下を向いたまま小声で返した。
「夫の声によく似ているのです。本当にそっくりなのです」
見上げた彼女の瞳は赤く潤んでいたが、涙は止まっていた。
「何か事情がおありのようだ。ご主人がどうかしました?」
「5年前に他界しました」
真一は息を吸い込んだ。木立に立つ彼女に感じた異質なものが何か、今はっきりとわかった気がした。
「それは気の毒な・・・。でも声が似ているだけだったらいくらもいるでしょう。顔もあなたのご主人に似ていましたか?」
「いえ、それが・・・。お顔に髭があるせいもあるのでしょうけれど、はっきりとはわからないのです」
「わからない?」
疑わし気に彼が訊いた。確かに顔中髭だらけだが、それがあったところで顔ぐらい識別できそうなものだ。
「はい。と申しますのも、生前の夫の顔を見たことがないのです」
「・・・?」
何を言っているのだこの女はと思わず真一は亜紀を見つめてしまった。彼女の言っていることがよく呑み込めなかった。
「えーと、それではご主人の顔も知らずに結婚を?」
半信半疑のまま問いかけた。
「はい、後で写真では見たのですけれど」
(どういうことだ?戦前の昔なら知らず、今の時代にそんなことがあるのか)
真一はますます訝しく思って訊いた。
「どうもよくわからないな。えーと、つまりこう言うことですか。結婚はしたけれども、ご主人の顔は写真でしか見たことがないと。そして実物を見ないうちに亡くなったと。もしそうなら不思議な話を聴いているみたいで、俄かには信じられないな」
思ったことを率直に述べ、池の方に目をやった。
「ごめんなさい、説明不足で。私結婚するまで目が見えていませんでした」
うん?一瞬彼の頭の中で蝉の喧騒が止んだ。思いもよらぬ言葉に驚くあまり、見上げる亜紀の濡れた瞳を無遠慮に見てしまったが、とても不自由だったとは思えなかった。それで全てではないが、疑問が氷解したし自分の顔を触れたことにも納得した。それでも確認した。
「まだよくわからないが、そのつまり・・・、失明していたと言うことですか?それで僕の顔を触らせてくれと言ったんですね?」
「はい。生前の夫の顔は指の感触でしか覚えていません」
それを引き取る形で真一が言い添えた。
「でも、あいにく僕の顔が黒くて、このとおりの無精髭でよくわからなかった」
「はい。色はともかくお顔の形や鼻や口など記憶している感じによく似ているように思うのですけれど、あの人はもう少しふっくらしていたようにも思えて確信が持てません」
「まあ、世の中にはよく似た人間が3人はいるそうですから、単なる空似でしょう」
亜紀があまり思い詰めないように気楽に言った。
「でも、生年月日まで同じ人はそう多くはないでしょう?」
これには真一も目を丸くした。
「それも同じなんですか。単なる偶然にしても確率的には相当低い」
彼女に思わず同調してしまった。
「お声が私の頭の上から落ちてくる感じと手を上げた感じからして身長もほぼ同じくらいだったと思います」
それで、立ったままでいてくれと言ったのか。それにしても、こんな偶然があるものだろうか。それはそれとしても、ふと疑問に思ったことを口にした。
「嫁いでここにいるということは、亡くなったご主人の家族と同居してるということですよね」
「はい」
「だったらどうして、ご家族の方は僕を見ても亜紀さんのように感じないのだろう?僕の声を聞いても誰も何も言わないが」
当然の疑問に亜紀の答えは明解だった。
「それは理解できます。目が見える分、声ではなく顔と姿で記憶しているのだと思います。それに声を何年も記憶するのは難しいのだと思います。その点、視覚障害者だった私は、触れることと聞こえるものだけが頼りでしたから。その人と判断するのは声しかありませんでした。それに耳で聴き心で判断したものに、あまり狂ったことはなかったと思っています」
それでは自分の場合はどうかと真一は尋ねたい気持ちになったが、不謹慎に思えて黙っていた。
「自分で言うのも何ですけれど、一度聴いたものは忘れないようにしておりましたから、記憶力はいい方だと思います。視覚を取り戻した今はそれも衰えて来ておりますけれど」
真一は心の中で引っかかったことを口にした。
「ひょっとして、あなたのその目が見えるようになったのはご主人のお陰とか?」
「そうなのです。私の眼には亡くなった夫の角膜が移植されています」
(やはりそうだったか)
真一にも亜紀の奥歯に物が挟まったこれまでの言いようが理解できた。そして、彼女が持つ哀しみもわかるような気がした。
愛する人の角膜をもらって自分の眼で見ることができるようになったときにはその人はいない。忘れようにも忘れることのでき得ない彼女の境遇に同情した。それと同時に彼の中で警戒音が鳴った。これ以上彼女と関わり合いを持つなと。
亜紀のスマートフォンが鳴った。電話に出ると立ち上がり、今戻りますと言って駆けだした。5、6歩駆けてから立ち止まり振り向いた。
「どうもありがとうございました。今のことはどうかお忘れになって」
頭を下げて家の方に駆け去った。
残された真一は重い荷物を預けられようで落ちつかなかった。
衝撃的な話を聴き、忘れろと言われて忘れられる訳がない。ペンションに戻る気にもなれず、再び森林の中の小径をふらふらと歩いた。が、今聴いた彼女の話が心の中に残ったままだった。
その日の真一は彼が言った通り、どこへも出かけず、テラスのガーデン・パラソルを広げたその下でノートパソコンに猛烈な勢いで何かを入力し、ときおり考え込みキーボードを叩いた。1時間ほどそんなことをして背伸びしながら立ち上がるとノートパソコンを閉じ、ザックの中から分厚いペーパーバックを取り出した。椅子の背に寄りかかりテーブルの上に足をのせてそれを読みだした。ところが、今朝のことが頭から離れず読むのを諦めた。
パラソルと欅の日陰にも関わらず、風のない猛暑のせいで汗が噴き出てきた。8月も終わりだが、サングラスを外しランニングシャツを脱いでタオルで拭きとっても汗は一向に引かなかった。
「そこに居ては暑いでしょう。シャワーでも浴びて、娯楽室で涼んではどうです」
「ああ、そうですね。そうさせてもらいましょうか。いやでも、この時間陽菜ちゃんが清掃中じゃないですか?」
「なあーに、構いませんよ。そのときは中断して、後でもう一度掃除すればいいだけだから。あ、脱衣所に入ったら念のため鍵を忘れないで下さいよ。妙齢の娘と間違いがあっても困るから」
盛蔵が手をひらひらさせて笑いながら珍しく冗談を言った。
「その時はちゃんと責任を取りますよ。尤も陽菜ちゃんの方で責任を取って欲しくないと断られるかもしれませんが。あはは」
冗談を返して笑った。
「ははは、それはないでしょう。ところで先生、聞けばあなたは大学で建築関係の講師をなさっているとか。それでちょいと私らの相談にのって欲しいんだが、お時間はありますか?」
後継者不在を理由にペンションの改装をするつもりはなかったのだが、建築の専門家が宿泊しているこの機会に意見だけでも拝聴しようと軽い気持ちで言った。
「何の話か知りませんが、暇ならありますよ。暇が服を着ると僕のようになるんです。読み疲れて退屈していたところですから、いつでも声をかけて下さい」
冗談を言いつつ何でもないことのように応じた。
シャワーを浴びて、タオルで拭き取っただけのまだ乾き切っていない髪のまま娯楽室でごろっと横になり、座布団を枕にペーパーバックを片手に寝そべっていると、盛蔵が御免なさいと声をかけて娯楽室に入って来た。彼の左手にはビール瓶が1本、右手で受けた丸い盆にはグラスが2個と小鉢にいれた肴や枝豆それにチーズが載っていた。
「先生、一杯いかがです?肴は昨日の残りものですがね」
いいですねと真一は起き上がった。
「でもご主人、先生と言うのは止めてくれませんか。なんだか大学にいるようで落ち着きません。成瀬か真一でいいですよ」
「それはどうも。では成瀬さん、私の方も加辺か盛蔵と呼んで下さい。さあどうぞ」
真一は、どうもと言いながらコップを差し出し、次いで盛蔵のコップに注いだ。そして、二人は何も言わずにグラスをかちりと合わせると一気に飲み干した。
「ああ、うまい」
「うまい」
期せずして二人は空になったグラスを持ち上げ、テレビのコマーシャルのような同じ言葉を同時に吐いて笑った。
「おお、そうだ」
盛蔵は胸ポケットから携帯電話を取り出すと、みんなここへ来るようにと稲子に告げた。
暫くして、稲子が亜紀を伴って訝しげな表情で入ってきた。亜紀は気まずいのか、頬を薄っすら染めて真一と目を合わせようとはしなかった。真一も無関心を装った。
「稲子、爺さんはどうした?」
「やりかけた仕事を終わらせたいからと仰って来ないわ」
「それなら仕方がないな。亜紀ちゃん、冷蔵庫からビールをもう1本持って来てくれないか」
先のビール瓶は空になっていた。
亜紀がビールとコップを手にして戻って来ると、あのときの子供達と同じように車座に座った。盛蔵はみんなにビールを注いだ。
「仕事を休めてこうして家族で飲むのは初めてだな。たまにはこれもいいだろう。ご苦労さん」
グラスを頭まで上げるとビールを飲み干した。真一はそれに倣ったが、亜紀と稲子はコップに少し口をつけただけだった。盛蔵はアルコールに弱い方ではないが、すでに目の回りが赤く染まっている。肴を一つ口に入れると改まって真一に言った。
「先生・・・じゃなかった、成瀬さん。相談とはここのペンションのことだが、どうだろうか」
亜紀と稲子は盛蔵に呼ばれた理由を察した。
「何でしょう?僕でよければいくらでもお聴きしますよ」
飲み干したコップを胡坐をかいた足の前に置くとすかさず稲子がビールを注いだ。真一は軽く頭を下げた。
「実はこのペンションも建ててから、もうかれこれ30年ほどになります。専門家のあなただからお気づきでしょうが、安普請で建てたものだから、あちこち傷んできています。客商売だから放っておくわけにもいかず、まあこれまでも簡単な補修をしてきたんだが、メンテナンス費用も馬鹿にならなくなってきました」
少し間をおいて稲子を見た。
「そんな訳で家内ともどうしようかと話をしていたんだが、今一つ踏ん切りがつかなくて・・・。ここらで模様替えをするか、それとも思い切って建て替えをしたほうがいいのか思案しているんですが、専門家から見てどう思われます?」
盛蔵の話し方は、回りくどくわかりにくかったが、趣旨は理解できた。真一は少し考えてから答えた。
「私は仕事柄、家に入るとあちこち見て回る
盛蔵は彼の説明に納得できるのか、うんうんといちいち頷いた。稲子は目を輝かせ亜紀は伏せ目がちに彼らの会話を聞いていた。
「ただ、模様替えするとなると今より客室数が少なくなることは避けられないでしょう。もし建て替えをお考えでしたら、これだけの土地があるのですから、増築あるいは少し離れた場所に新築することをお勧めします。ただし、そのまま新築するとなると建物の撤去費用がかかりますし、建築中は営業できなくなって収入の道が途絶えることになります。ですから、別の場所に新築して、このペンションはそのまま残して後日どうするか検討してもいいかと思います」
「そうよあなた。どうせするなら新築を考えた方がいいわ」
彼の意見に、新築に決まったことのように稲子が同調した。
しかし、と真一が前のめりになった稲子を逆撫でするような否定的なことを言った。
「新築する場合、分筆する必要があるかも知れません。それに固定資産税も高くなりますから、その辺のことも考慮して決めた方がいいでしょう」
あれほど悩んでいた増改築の有無がいつの間にか具体的な話になり、真一を交えた家族会議の様相を呈してきた。そしてブレーンストーミングのように各自の意見を主張しだして収集のつかない状態になった。それを見かねた真一が助け船を出した。
「こうしましょう。机上の空論になってもいいですから、皆さんがこうしたいとかこうあるべきだとお考えになっている理想のペンション像を箇条書きにして明日の午前中に私に下さい。建物だけじゃなく、内装に設備、それにこの恵まれた周辺の自然環境をどのように生かしたいのかも。その際、金銭的なことは考えないで下さい。そのことは後からどのようにでもなります。具体的なことは、皆さんの意見を参考に盛蔵さんと詰めてみたいと思います。それでいかがですか?」
彼の提案に皆も異存なかった。さすがは建築の先生だと感心し、それからは雑談に終始して車座の会議はお開きとなった。
真一は一人スケッチブックを持って出て行き、戻って来たのは夕方だった。
亜紀が朝食の準備をしていると、「お早う」と朝食時間の7時にもなっていないのに男が食堂に入ってきた。そのとき彼女は後ろ向きで味噌汁を作っているところだった。
「すみません、まだ用意ができていないのです」
申し訳なさそうに言いながら振り返り、息が止まるほど驚いた。いや実際に息が止まった。にやにや笑った亡夫がカウンター越しに立っていたからだ。
亜紀は口に手をやったまま氷ついたように立ちすくみ、やがて幽霊でも見たかのように首を嫌々して振った。
「驚かせるつもりで髭を落としたのではないが、どうやらご主人と似ているようだね」
お早うと声をかけた男は真一で、顔の色こそ異なるが他人の空似と言うには写真で見る夫とあまりにも酷似していた。
亜紀はショックのあまり目を見開いたまま口を開くことができないでいた。
本当は夫が生きていて、みんながぐるになって、私を騙そうとしているのではないかと一瞬勘繰ったほどだ。それほど彼は亡夫とそっくりだった。だが、あの時の自分は取り乱していたし、目が不自由で見ることができなかった。でも、確かに痩せこけた彼の顔に触れた。そして、今にも命が尽きそうな掠れた彼の声を聞いて臨終が間もないことを察していた。実際臨終との医者の声も聞いた。だから彼がここにいるわけがないと直ぐに打ち消した。それに彼女が知っている亡夫と彼とでは顔が同じでも彼の持つ印象が亡夫とは異なることも僅かな間に感じ取ってもいた。
写真と動画でしか夫をこの目で見たことはないが、いつも身なりはきっちりとしていた。それに髪もちゃんと櫛を入れていた。声は同じだが、話しようは違う。だから夫とは別人だと認識した。
呆然として口もきけずにいる彼女を無視するように、触ってみる?と言って顎をなでながら真一が厨房の中に入ってきた。
彼の亡霊ではないと認識しつつも、亜紀は強張った表情のまま無意識に後ろに下がった。その拍子に床に置いてあった木箱に躓いてよろけた。危ない!と駆け寄った真一が彼女を支えた。彼らの距離は一気に縮まった。亜紀が体勢を立て直すと二人は気まずい思いで離れた。だが、そのせいで彼の顔に触れやすい状況が整った。彼もじっとして立ったままだ。それと察した亜紀は昨日と同じように瞼を閉じて、おずおずと彼の顔をなぞった。感触は彼女が記憶しているそれと同じだった。
亡夫が双子だったとは聞いていないが、そうに違いないとこのとき確信した。でなければ他人の空似とは片付けられないほど、触感と外見は何からなにまで夫に似ていた。
「どうだった、似ている?」
動悸が治まらず目を大きく見開いたままの彼女に対して彼は飽くまでも冷静だった。
亜紀は口をきくことも忘れて三度頷いた。
「へえ、偶然にしても不思議なこともあるものだな」
次にかける言葉が見つからなくて、無言のまま双方見つめ合い立っていたが、それを断ち切る気楽で明るい声が真一の背後からした。
「亜紀姉さん、お早う。今日もいいお天気ね。ごめん、寝過ごしちゃった。もうお客さんが待ってるの・・・」
厨房で立つ真一が振り返るのを見て陽菜子は目を見開き「ええっ、嘘!」と口に手をやって立ちつくした。それでも彼女の立ち直りは早く、恐るおそると言った風で近寄ると確認した。
「まさか修一兄さんじゃないわよね?」
「うん、違う」
彼女が言った修一が亜紀の亡くなった夫だと瞬時に察して、真一は両手で髭があったときのような動作をして顎に手を当てた。
「ああ、あの無精髭の・・・」
彼女は納得して彼の前まで来ると、無遠慮に穴のあくほど見つめてわざとらしく一回りしながら上から下まで繁々と見た後、一歩後ろに下がった。
「それにしても、これほど似た人が世の中にはいるのよねえ」
感心しながら意味ありげに亜紀を見た瞳は好奇心一杯で輝いていた。
「誰からか双子の兄弟がいるとかいたとかそんな話を聞いたことがないかい」
彼女は少し考えてから答えた。
「ないわ。そんなこと話題になったこともないわ。しょっちゅうこの家に出入りしているけど、一度もそんなこと聞いたことがないもの」
「そうだろうな。うちでもそんな話を聞いたことがない。やはり他人の空似だろう」
あまり亜紀が思い詰めないようにと思い、顔を洗って来ようと彼が踵を返した。
「ねえねえ亜紀姉さん、まさか修一兄さんと双子じゃないわよね?」
亜紀と同じことを考えたのか、好奇心剥き出しでそんなことを訊いた。問われたところで亜紀には答えようがなかった。
「そっくりだけど、そうじゃないみたい」
亜紀も予断を持たないように応じた。
「そうよね、そんなこと聞いたことがないもの」
陽菜子は割り切りが早いのか無関心を装ってなのか、不思議よねと独り言を言いながらてきぱきと朝食の用意を始めた。
そのうちに宿泊していた何組かの家族が相次いで食堂に入ってきた。
陽菜子は先程のことは忘れたかのような態度で朝の挨拶をして食事を客のところへ運んで行った。
厨房に残った亜紀は気もそぞろで、お盆に載せる食べ物の配置を間違え、それ違うわよと何度か陽菜子に注意された。
真一は他の家族と混じって朝食を摂っていても亜紀の視線を背中で感じていた。手早く食べ終えると煙草を吸いにテラスへ出た。そんな彼を亜紀は目で追った。吸い終わると彼はご馳走様でしたと厨房に一声かけて外へ出て行った。太極拳と素振りをするのだろう。
それから30分ほどして、朝食当番の役目を終た亜紀がエプロンをたたみ母屋に戻ろうとしたとき、義母の時ならぬ悲鳴を聞いた。運動を終えた真一が汗を拭きながら玄関先まで戻って来たとき、母屋から来た盛蔵夫婦と鉢合わせしたのだ。
稲子が彼を認めた瞬間、目を見開いて立ち止まり、「修一!」と叫んで駆け寄ろうとした。その彼女を盛蔵がかろうじて抱き止めた。
稲子は「修一、修一」と叫び、肩を震わせ両手で顔を覆って大声で泣き出した。驚いた亜紀と陽菜子が玄関に来ると、稲子が盛蔵に抱きかかえられて地面に座り込み号泣していた。その脇で真一が困惑顔で立っていた。
お客さんがいるからと盛蔵は稲子を立ち上がらせ、真一に一礼すると妻の肩を抱いてペンションに入って行った。真一も少し遅れてその後に従った。何事かと様子を見に来た客もいてそれほど広くない玄関ロビーは異様な雰囲気に包まれていた。
「しばらく顔を合わさない方がいいだろう」
ロビーで立ち尽くす亜紀に擦れ違いざま言った。そして、宿直室に入るとスケッチブックを抱えて、ちょっと散歩して来ると断り出て行った。
亜紀は暫し茫然としていたが、我に帰ると陽菜子に後をお願いと告げて返事も聞かずに彼の後を追った。
真一は広場の近くまで歩いていた。小走りで追いつくと声をかけた。彼は亜紀が来ることを予想していたのか振り返りと落ち着いた声で言った。
「何か僕に訊きたいことがあるようだね」
亜紀は頷き、息を整えると思い切って尋ねた。
「あなたは本当に加辺家とは何の関係もないのですか?」
真一には彼女が何が言いたいのかすぐにわかった。だから、きっぱりと否定した。
「ああ、まったくない。生れたのは和歌山の田舎だし、ここへ来たのも山小屋のお客さんに勧められたからで、今回が初めてだ。なんなら、戸籍謄本を取り寄せて見せようか。両親の実子とちゃんと記載されているし血液型もちゃんと合っている」
それでも亜紀は納得しなかった。亡夫の側が彼の家と関係があるのではと思ったからだ。
「ご両親は何を?」
「親父は地方公務員をしていたが3年前に定年で辞めた。お袋は専業主婦で妹が一人いる。なんだか身元調査を受けているみたいだな。はっきり言っておくが、僕とこの家とは何の関係もない」
釘を刺されても亜紀は黙って彼を見つめた。やがて目をそらすと思いつめたような表情で唐突に切り出した。
「主人と私のことをお話してもよろしいでしょうか?」
そんなことを俺に話してどうしようと言うのだと真一は警戒した。それと同時に彼女と関わり合うことを恐れた。しかし、思い詰めたような彼女の眼差しを見て何も言えなくなった。
「他人の僕が聞いても何もできませんよ」
他人を強調して突き放すように言った。
「それでもいいのです。それでもいいから聴いていただきたいの。今まで誰にも話したことがありません。ご迷惑なことは承知しています。ただ聴いていただきたいのです」
何か深い事情がありそうで、話を聴きたくもあったが、それとは反対に彼の頭の中で警鐘が激しく鳴っていた。聴いてしまえば抜き差しならなくなるような予感がしたからだ。それで彼はしばし逡巡した。しかし、彼女の訴えるような哀しみを湛えた瞳を見ているうちに拒否出来ないような気がして来た。
「それであなたの気が済むのなら伺いましょう。立ったままではなんだから、あそこに座りましょう」
努めて他人行儀に言い 池沿いにある木のベンチへと促した。
そこに腰を下ろすと、亜紀は池の方を見てゆっくりとした口調で彼女が生まれ育った街のことから語り始めた。
(三)
「私は埼玉県の川越市で生を受けました。成瀬さんは行ったことがありまして?そう、一度行かれるといいですわ。
そこを離れてみると川越は不思議な街で、小江戸とよばれる古い佇まいを残した城下町でありながら、デパートやホテルそれに近代的なビルやマンションがあったりして、成瀬さんが想像しておられるよりも大きな街だと思います。
ガイドブックに必ず出てくる時の鐘があって、蔵造りの街並みを歩いて横に入れば、昔ながらの駄菓子や芋羊羹を製造販売する菓子屋横丁があります。そこから東に下ると喜多院、上れば氷川神社がありますの。観光客も多くて若い女性を中心にいつも賑わっています。
私の家は西武鉄道の本川越駅前からバスに乗って30分ほどの荒川と入間川が合流する所
家族は両親と兄夫婦がいて、父と兄は地方公務員をしています。成瀬さんのお父様も公務員でしたわね。母は専業主婦で買い物以外は滅多に家を離れることはありません。
5つ違いの兄がずっと私の面倒を見てくれていて、長い間恋人だった人と結婚して子供が一人います。兄は何も言いませんが、父と同じ公務員になったのも、民間と違って休みがとり易いので、目が不自由だった私に配慮したからなのだと理解しています。
私は5年前に結婚して、しばらくしてこちらへ参りました。あまり実家には帰っていません。なぜって?向こうには主人との想い出がたくさんあって辛くなるからですわ。その代わり年に1、2度は家族全員で泊まりで来てくれます。
あ、ごめんなさい。話を戻すと、私は小学校3年生までは普通の生活をしていました。
今の私は動作が緩慢で話し方もゆっくりしていて声が低いでしょう。良く言えばおっとり、悪く言うなら愚鈍だと見られているのかもしれません。想像できないでしょうけれど、小さい頃の私はお転婆でした。いつも兄の後につきまとって男の子と同じ遊びをしていました。ですから、昆虫やゴキブリ、蛇くらいは平気で手掴みできました。本当です。もちろん、毒のない青大将や縞蛇ですけれど。蛙なんかも何匹も捕まえて、穴を掘って水を溜めたところに放り込んでは隣近所の子とキャーキャー叫んだこともあります。理由は記憶にありませんけれど、小学生のとき男の子を泣かせて、母も呼ばれて一緒に先生に叱られたこともありました。その頃の私は男勝りのお転婆でした。
そんな生活が一変したのは、私が4年生になる春休みも終わろうとしていた時でした。
兄が自転車でどこかへ行こうとしていたので、呼び止めて私も一緒に連れてってとせがみました。初めのうち嫌がっていた兄も、わざと泣き叫ぶ私に根負けして自転車の荷台に乗せてくれました。
その頃の兄は勿論子供でしたから体力がなくて、二人乗りした自転車はふらふらして危なかしくて、やんちゃな私はそれを面白がって、腰を振ってワアーワアー騒いだものだから、右に行ったり左へよろけたりふらふらしながら入間川の堤防の砂利道を兄は一生懸命に自転車を漕ぎました。
後ろに乗って騒いでいる私は前から来る人に気が付きませんでした。兄はその人を避けようとして堤防の端に自転車を寄せたとき何がどうなったのか、自転車もろとも投げ出されていました。何回もころころと堤防の斜面を転がっていたとき、何かに当たったような衝撃があって、一瞬眼の奥が赤くなってそのまま気を失ってしまいました。
気が付いた時は病院のベッドの上でした。目の前は真っ暗で夜かと思いました。不安になって思わず、お母さんと呼びました。そうしたら『亜紀、気が付いたの』と手を取ってくれて、兄も擦り傷を負っていたけれど、すぐそばで、『大丈夫か?痛いところはないか?ごめんな、兄ちゃんのせいでこんなことになって』と泣きじゃくる声がしました。けれど、私には何故兄が泣くのか理解できませんでした。悪かったのは私だし、どこも痛いところはありませんでしたから。ただ、包帯が巻かれていて目が見えないだけなのに。
母から念のため検査入院すると聞かされました。異常がなければすぐに退院できると聞いて、私は無邪気に喜びました。
母が車椅子を押してくれて、あちこちの検査室を回りました。両眼以外にはこれといった外傷もなく退院しました。でも結局そのまま視覚障害者の生活に入ることになったのです。
目が見えなくなった事実を受け入れられなくて、3月くらい荒れました。泣き叫んで、我儘の言い放題で父と母、兄を困らせました。そんな私に父母はもちろん兄も一言も愚痴をこぼしませんでした。私のせいなのに責任を感じた兄が一番辛かったのだと思います。
新学期になっても登校しませんでした。今で言う登校拒否です。新しく担任になった先生や友達が心配して何度もお見舞いに来てくれたけれど、会うのを拒みました。一度くらい会いなさいと母から言われても、私は頑としてききませんでした。だって、こんなみじめな姿をみんなに見せたくなかったもの。
何一つ自分でできないのです。お手洗いへ行くのだって、お風呂に入るのだって、服を着替えるのですら誰かの付き添いなしにはできませんでした。
母はほとんど私にかかりきりでした。そのストレスで母も精神に変調をきたしてきました。それはそうです。父や兄は職場と学校へ退避ができても、専業主婦の母はそうはいきません。私のヒステリーもほとんど母一人が受けていましたからストレスが溜まるばかりでした。しかも、それを解消するすべがなかったのです。
テレビだって私を
今思うとどうしようもない我が儘娘でした。ただ、幼すぎて自分から命を絶つなんて考えはありませんでした。これがもう少し大人だったら、世を
父は盲学校への入学を勧めてくれました。けれど、目が見えない現実を中々受け入れることができなくて聞き入れませんでした。
もしかしたら、見えるようになるのではないか、藪医者だから直せないのだと思い込い込もうとして現実逃避をしていました。そうでもしなければ、希望を見出せない自分を納得させることができませんでした。
母にせがみ、あちこちの病院を回りました。けれど、結論はみな同じでした。視神経を損傷しているから奇跡でも起こらない限り難しいって。それを聞いて絶望しました。本当に悲しかった。
二月くらいは食事とお手洗いへ行くだけで部屋に閉じ籠っていました。けれど、何もしないでいることは苦痛でした。そんな私を見兼ねて、何度も父に、少しは外へ出てみてはどうかと誘ってくれたけれど、目の不自由な私を見られるのが嫌で拒否し続けました。
そんなある日の夜でした。ラジオを聴いていたら、その頃の友達はラジオとカセットテープの音楽でした。視聴覚障害者だったヘレンケラー物語の朗読を放送していて、それを聴いて毎回涙を流しました。そして、それが作り話ではなく現実にあったことだと知った時は強い衝撃を受けました。
三重苦の彼女の境遇に比べたら私の方が何倍も恵まれている。それなのに、被害者ぶって閉じ籠る私が恥かしくなりました。生まれつき目が不自由な人は、色も知らないし動物の名前を言われても、どのような形をして何を食べているのかもわからない。でも私はみんな覚えている。聴くことも話すこともできる。そう思うと、もっともっと不幸な人がいるのだと悟ったのです。
それからは杖を使って歩くことの訓練を家の中で始めました。そして、不自由なく歩けるようになると、外へ出ることも少しづつやりました。口で言うのは簡単ですけれど、外へ一歩踏み出すときは恐怖の方が勝ってとても勇気がいりました。
家は郊外の住宅地にありましたから、それほど車も通りませんでしたけれど、それでも本当に怖かった。父母や兄が見守ってくれているとわかっていても、自転車が飛び出して来ないだろうかとか、人とぶつからないだろうか、溝に落ちたらどうしようなどと考えたら一歩も踏み出せないのです。それでも時間をかけて徐々に行動半径を広げていきました。
歩行に自信がついた日の夕食のとき、父に盲学校へ行きたいと告げました。私には見えなかったけれど、両親は私の手をとって涙を流さんばかりに喜んでくれました。兄も私の肩に手を置いて、よく決心したと褒めてくれました。責任を感じていたのでしょう。ほっとした様子が気配で伝わりました。でも、実際そうしようとすると問題がありました。
それは通学でした。幸い市内にその学校はありましたけれど、バスを乗り継がなければなりませんでした。慣れるまではとは言え、母には私に付き添って送迎するだけの余裕と時間がありませんでした。それで父と母が、埼玉県立特別支援学校塙保己一学園へ行って相談したのです。すると、寄宿舎があるので大丈夫だと助言してくれたのです。
それで、寄宿舎生活を選びました。もちろん、通学時の安全性の面もありましたけれど、何より母を楽にしてあげたかったのです。結局、高等部を卒業するまでそこでお世話になりました。
週末や学期末の休み前には兄が欠かさず迎えに来てくれて、休みの間中相手をしてくれました。兄には高校生の時から付き合っている人がいましたけれど、私に付きっ切りの間は、恐らく満足なデートはできなかったと思います。兄なりの罪悪感からそうしたのでしょうけれど、少しでも母の心労を和らげたかった私は、黙って兄の厚意を受けるしかありませんでした。本当に母と兄には申し訳なく感謝もしています。
1年遅れで入学すると、先生は親切だし友達もできて、それなりに運動することもできて毎日が充実していました。点字や掌文字もそこで教わりました。
でも、そこを卒業したところで就職できる所はありませんでした。公共機関で障害者採用枠があっても視覚障害者を受け入れるところが少なかったのです。まして民間企業は皆無でした。ですから、私にできる家の手伝いをしながら、思い浮ぶまま童話を点字で作る日々を送っていました。
童話を創作していたのかですって?ええ、目が見えない分、空想がよく働いたのでしょう。それこそ湧き水のように話が浮かんで、それを口ずさんでテープに録音しておきました。どれくらい作ったかしら。随分前から思いつくままに創作していましたから、数えたことはないけれど、100編近くにはなっていたのではないでしょうか。
今は忙しいこともありますけれど、昔よりできなくなってしまいました。失明中は色んな事を空想できたのに、目が見えるようになって現実を知るようになった分、それができなくなってしまいました。
1年ほど家でぶらぶらしていると、父が耳寄りな話を持ってきてくれました。それは川越市立中央図書館で点字翻訳者を募集しているというものでした。なんでも、市長さん宛ての投書の中に、図書館においてある点字図書が少ないから増やして欲しいとの訴えがあったらしいのです。それで、市の文化予算の一部を急遽充てることにして点訳者を募集することになったとのことでした。そこには障害者を積極的に雇用しようとの市長さんの意図もあったのでしょう。
選考にあたって、いろいろあったようですけれど、私ともう一人の女の人の採用が決まりました。
採用決定通知書を受け取ったときは、それこそ天にも昇る気持ちでした。今でも母が読み上げてくれた通知書を持って、玄関の廊下で飛び上がりながらくるくる回って手を叩いたことを覚えています。
家族の精神的な負担が減ることもありますけれど、障害者の私でも社会貢献ができることが何よりの喜びでした。だって、障害者手帳をもらって公共機関のサービスを受けていたのよ。バスや鉄道の無料パスをもらったところで少しも嬉しくありませんでした。無理なのはわかっていたけれど、普通の人と対等に扱って欲しかった。それが、障害者にしかわからない正直な気持ちなのです。
それはともかく、5月から川越市立中央図書館の2階にある事務室の一画に机をもらって、通勤は大変でしたけれど、そこで休館日以外は午前10時から午後4時まで、誰かが朗読し録音したものを、ヘッドホンを付けて何度も聴き直してパソコンを使って点字翻訳しました。
私が翻訳したものは一緒に採用が決まった波多野さんが検訳して、彼女が翻訳したものは私がというように、相互に確認し合う仕組みでした。
ところが、彼女とは私が1話翻訳している間に2話済ませるほどの技量の差がありました。同じお給料なのに申し訳なくて家に帰ってから兄のパソコンを借りて何度も入力の練習をしました。兄が読み上げたものをタイプ入力してモニターの画面を見て兄が入力ミスをその都度指摘してくれるのです。その甲斐あってか、1月ほどで波多野さんなみの効率を上げることができるようになりました。
初任給の封筒を母に渡したときは、予想外の金額だったらしく驚いていました。
私が買うものと言えば、果物とか音楽CDくらいのもので、衣類や日常のものは母が全て買ってくれていました。だって、目の不自由な私が触れて、肌触りやデザインを知ることはできても色や模様の具合はわかりませんもの。お化粧も母がしてくれるのを肌で覚え、母に確認してもらい、人様の前に出ても恥ずかしくない程度には一人でできるようになりました。
私のお給料は全部母が貯金してくれました。父が自分達の財産をすべて私に遺すつもりだと、兄に伝えているのをたまたま耳にもしました。障害者の私が将来独り立ちすることはおろか、結婚することも難しいと判断してのことだったのでしょう。
翻訳作業にも慣れ、図書館仲間とも親しくなった頃、一人の女の子が母親に連れられて図書館にやって来ました。その子も視覚障害者で、点字の児童書を持ってきて、受付の係員に読んで欲しいと頼んだようで、私が呼ばれてその子が持って来た本を対面朗読室で読んであげました。
親子共々とても喜んで下さって、私もその子の役に立ててとても嬉しかったのを覚えています。その親子は何度もやってきて、その都度私が朗読しました。そのわずかな時間を利用してお母さんは自分の用を足していたようでした。
図書館には点字本が数冊しかありませんでしたし、その子が持って来る点訳本もなくなって、私が点字で書き溜めた童話を朗読するようになりました。
どこでどのように噂が広がったのか知りません。私のゆったりとした語り口調が良かったのでしょう、私の朗読がいつしか評判を得ていて、日曜日のおはなし会では、私が創作した童話を朗読する機会を与えられるようになりました。
そんな折り、同伴した父兄の中に出版社の方がおられて、私の創作話を出版しないかとのお誘いを受けたのです。でも、当時公務員の副業は規則で禁止されていましたし、私の話がそれほどいいとは思っていませんでしたからお断りしました。それでも何度も訪ねて来られて、結局根負けして館長さんに相談しました。そうしたら、本来の業務に支障がなければ問題がないと言われて、誰かが私の話を口述筆記して、続けて5冊の童話を出版したのです。どれだけ売れたのかは知れないけれど、予想外の印税が私名義の口座に振り込まれるようになりました。
そのうちに、点字翻訳本をもっと充実させようとの教育委員会の方針を受けて、翻訳者が2名増員されました。そうなると中央図書館では収容できなくなって、私達は市役所内の市教育委員会の一室で作業をすることになりました。そのお陰で父と一緒に通勤できるようになり、帰りも連絡を取り合い、父の都合がつくときは一緒に帰りました。
主人と出会ったのはその頃でした。午後からの大雨予想で、障害者の私達を気遣った総務課の課長さんが早上がりしても良いと言って下さり、一人で帰ったときにバスに乗り合わせたのです。
その時は幸い、まだ雨が降っていなくて、市役所前のバス停でバスが来るのを待っていますと、時間通りにバスが来ました。どうして時間がわかるかって?ほら、このように私の腕時計はガラスのカバーが開くようになっていて、針を手で触れられるようになっていますの。うまくできているでしょう。
そのときたまたま私が先頭になって並んでいたのだけれど、どうしてかバスが所定の位置より少し前に停車したのです。乗車口がわからず、もたついていたときに、バスの中から誰かが降りて来て、私の手をとって中へ案内してくれた上、出口近くで座っていた人に席を譲るように言ってくれたのです。その人が私の夫となる修一でした。
本川越駅で下車して、雨が心配だったけれど、早退けして少し時間がありましたから、たまにはお茶でもしましょうと、スターバックスに入ろうとしたときに、私を驚かさないようにしてか、誰かが肩にちょっと触れ、後ろから声をかけてきたのです。
『あの、市役所前のバス停で困っていたときに、手を取って車内へ案内した者です。決してストーカーではありません。もし差支えなかったら一緒にお茶でも飲んでもらえませんか?』
その人のことは声で覚えていましたから、すぐにわかりました。でも、私はこれが世に言うストーカーかナンパかと思って警戒しました。そこで笑わないで。だって、偶然にしても彼がそんなところにいるはずがないですもの。黙って無視していると、『怪しい者ではありません』と言うので、緊張が解れて可笑しくなって笑いました。だってそうでしょう、誰だって自分から怪しい者だなんて宣言するはずがないですものね。それで、少し安心してカフェに入りました。そこは時々利用するところで、ほかの人もいるし安心だと思ったものですから。
彼が私の注文を聞いて、飲み物を持ってくるとすぐに話しかけてきました。
『バスを降りた時に声をかけたかったけど、ハンカチも何も落としてくれなかったから、そのきっかけがなくて困った。ストーカーと間違われるかもしれないと思ったけど、思い切って声を掛けました。ナンパと思っていただいて結構ですよ。ははは』
彼は快活に笑ったけれど、何と言っていいかわからず、用心したまま無言でいるしかありませんでした。
『僕が誰だかわからないと不安でしょう。自己紹介します。加辺修一といいます。加辺は、加えるに辺、三角形の一辺二辺の辺です。修一は修めるに数字の一』
掌に書いて下さいとお願いすると、わざわざ席を立って、後ろから私の手を取り一字一字丁寧になぞってくれました。それから、出身地や年齢、家族それに勤めている会社の説明をしてくれました。仕事の用件で市役所へ行った帰りだとのことでした。
彼の言っていることを確かめるすべはありませんでしたけれど、押し付けがましいところが少しもなくて、女の勘で嘘はないと思いました。これまでも何度か知らない人に誘われたことがありましたけれど、不思議に勘が働いて、怪しい誘いに乗ったことはありませんでした。
私も自己紹介しましたが、名前だけにしました。初めての人に住所や職業、家族のことまで話す必要がないですもの。彼も詮索しようとはしませんでした。
二人に共通の話題がないので、コーヒーを飲みながら彼の故郷のことを話してくれました。
『僕の
何を言い出すんだろうと思いながら、知りませんでしたから首を振りました。
『大抵の人は知らないんだ。八ヶ岳は2899mの赤岳を主峰とする蓼科山から編笠山に至る山の総称なんです。全部は見えないけど、親が経営しているペンションから阿弥陀岳や権現岳などが一望できるんだ』
『奇麗でしょうね』
黙り込んでいても変だからそんな風に相槌をうったの。するとよほど自慢らしく力強く答えたわ。
『うん、とても綺麗だ。毎日見ても見飽きない。特に紅葉の時期は素晴らしいんだ。モミジやハゼの木なんかが真っ赤に紅葉するし、ダケカンバや白樺なんかが黄色くなって池に映る様子が何とも言えない』
『登ったことはありますの?』
話の次穂のつもりで訊きました。
『何度か縦走したことがある。縦走ってわかる?』
首を捻ると説明してくれました。
『縦に走るって書くんだけど、実際は横に山から山を歩くんだ。ところどころに山小屋があるからそこに泊まったりしてね。頂上から見る景色は最高だよ。・・・あ、ごめん。余計なことを言った』
私の目が見えないことに気が付いたのか、慌てて弁解したわ。たったそれだけのことだけれど、心配りのできる人だと思いました。
『いいわ、気を遣わなくても。想像することはできるから。でも一度は行ってみたいわ。山に登ることはできないから、麓で山を感じてみたい』
その時思ったことを言いました。
『機会があれば案内したい』
会って間もない人にそんなことを言われて私は後悔して、それからは黙りました。
その人は、一方的にいろんなことを話してくれたけれど、雨と帰宅を待つ母のことが気になって頭に入りませんでした。そんな様子があの人にも伝わったのか彼も黙りました。少し気詰まりな雰囲気になったとき、帰宅が遅いことを心配した母から電話がありました。
それを潮にそこを出ました。その時に彼から小さな紙を渡されました。不審そうな私の顔を見たのか、『これに僕の携帯の番号が書いてあるので、いつでもいいから気が向いたときにかけて欲しい』と言って、バス停まで案内してくれてそこで彼と別れました。
失明して以降、兄以外の若い男の人と間近で話したのは初めてでしたから、その日は興奮して寝付けませんでした。でも、それっきり彼のことは忘れてしまいました。思い出したのは、それから5ケ月ほど経った夜でした。
家族で食事をしていたとき、聞き流していたテレビの音声が八ヶ岳と言ったのが耳に入ったのです。私の耳がたちまち反応してダンボになりました。NHKのニュースで、八ヶ岳の紅葉の様子を報道していたのです。ええ、私も盲学校へ行くようになってからは、少し大人になって私に遠慮しないでとお願いして、昔のようにテレビを観るようになっていました。
そのニュースであの人のことを思い出したのです。思わず箸を止めて聴き入る私のただならぬ様子を見たのか、兄がどうかしたと訊いてきたけれど、私はそれには答えずに音声に集中していました。両親も変に思ったのでしょうけれど、何も言いませんでした。
食事もそこそこに終えて、自分の部屋に戻るとバックの中の無料パスを入れているカード入れから紙を取り出しました。2階に上がってきた兄を捉まえて、彼が書いてくれた電話番号を教えてもらい暗記しました。兄は『加辺って誰だい?』と訊いてきたけれど、友達だと言って部屋に入って締め切ると彼に電話をしました。
生れて初めて自分から男の人に電話をかける私の胸は緊張のあまり張り裂けそうで、彼が出るまで、出てからも心臓の音が聞こえるくらいにどきどきしていました。
『もしもし、加辺ですが』
少し低めの声で不審そうな声で彼が電話に出ました。
『遠藤亜紀と申します。覚えてらっしゃいますか?5か月ほど前に川越市役所前のバスの乗車口で助けていただいた・・・』
『ええ、覚えていますとも。お久しぶりです、お元気でしたか?あれからずっと電話を待っていたけど、かかってこなくて忘れられてしまったとがっかりしていました。でもよかった、お話が出きて』
彼の快活な声にほっとしました。私の気持ちを察してか、彼の方から積極的に話しかけてくれました。
『今お家からですか?そうでしょうね、こんな時間だから。変わりありませんでしたか?僕の方は、夏休みに家に帰って英気を養いました。山にも登って顔が真黒です。出会ってもあなたは気が付かないかもしれないなあ。あっ・・・』
途中で私の目が見えないことに気付いたのでしょう。
『どうぞ、お気遣いなく』
私は彼が変に気を遣わず話してくれるのが嬉しく思いました。それから取り留めのない話をして、終わり間際になって『もう一度お会いしたいけど、会っていただけませんか?』と訊いてきました。
気持が高揚していたのでしょう、何の迷いもなくはいと返事をしました。そして、日曜日の10時にあのスタバで待ち合わせることになったのです。
10分ほどして、彼から私の携帯に電話がありました。
『行ったことがあるかも知れませんが、国営武蔵丘陵森林公園へ行きましょう。ネットで調べたら、紅葉が見頃だそうです。本川越駅で待ち合わせて、東武東上線の川越市駅から行けばいいでしょう。本川越駅から東武東上線の川越市駅までは歩いて5分くらいです』
私は深く考えずに行くと答えました。待ち合わせ場所と時間を打ち合わせて、『その日の天気はいいらしいけど、気温が低くなるらしいから、服装に気をつけて。それとあなたの電話番号を僕の携帯に登録したけど、いいかな?』
彼のさりげない気遣いが、私には新鮮で嬉しく思いました。
行くとは言ったものの、親に黙って外出するわけにはいきませんでしたから、男の人に会うと正直に両親に告げた時はとりわけ母が心配しました。健常者とお付き合いすることは好ましいことではあるけれど、現実問題としていろんな障害があることを危惧していたのです。まして相手は両親も知らない人です。そこで外出を認める代わりに同行するようにと父が兄に指示しました。
私は彼に会えると思うと、その日が来るのが待ち遠しくて、心が浮き立って仕方がありませんでした。意識はしていませんでしたが、私も女ですから気付かずに異性を求めていたのでしょう。平凡な日常に変化を求めていたのかもしれません。
約束の時間に本川越駅で彼と会いました。兄も川越市駅で交際している人と待ち合わせをしていて、私に紹介してくれました。兄と年が近いこともあって、彼は自己紹介の後すぐに打ち解けたようでした。
兄が同行する旨を告げると、『亜紀さんと二人だけだったら、何を話せばいいか不安だったけど、これで少しは安心です』と私達を笑わせもしました。
本音を言えば私もそうでした。兄が一緒なのは心強いですし、兄の彼女も気さくな人で緊張をほぐしてくれて助かりました。
お昼のお弁当と飲み物を三人分母が持たせてくれました。けれど、兄の分は彼女がちゃんと用意していました。
駅から森林公園までは東武東上線で30分ほどでした。公園駅からタクシーに乗って南口で降りると、そこから園内バス道を歩きました。彼はときどき私に木の幹を触れさせて、クヌギ、ナンキンハゼ、カシ、ブナ、檜と教えてくれました。
『葉っぱが黄色くてとても綺麗だ。同じ木が僕の家の回りや森にもたくさん生えていて、向こうも今が紅葉の盛りだよ。夏になるとクヌギとかコナラにカブトムシやクワガタ、黄金虫なんかが樹液を求めてたくさん集まって来るんだ。子供のころよく捕まえた』
そんな話を聞きながらぶらぶら歩きました。
予想していたより、暖かくて気持ちの良い日でした。
兄は最初の頃、彼に盛んに話しかけていたけれど、30分ほど歩いて運動広場のあたりから、私達とは離れて彼らだけのデートを楽しんでいるようでした。後で兄にどうして別れたのかと訊いたら、彼の人柄がわかって安心したからと言っていました。
私達は兄と待ち合わせした中央レストラン広場のテーブルでお弁当を食べた後、カエデ園へ行って紅葉を楽しみました。もちろん私には見えないけれど、一枚一枚葉っぱを掌に載せて修一さんが説明してくれたから、それこそ手に取るように様子がわかりました。その頃には私の杖を彼に預けて手を取り合うようになっていました。
そこで修一さんに請われて、二人一緒のところの写真を兄が彼のスマホで撮ってくれました。彼も兄と彼女と一緒のところを撮ったのは言うまでもありません。四人一緒のところも通りがかりの人に頼んで撮ってもらいました。
その後も兄達とは離れて彼と手をつないで園内を歩きました。ゆっくりだけど、あんなに歩いたのは失明後初めてでした。絶えず彼は周りをよく見ていて、そこに階段があるとか大きな石があるとか言って注意をしてくれました。ですから、少しも不安を感じませんでした。
そんな風にして歩いて、歩き疲れるとベンチに腰を下ろして、問われるままに、失明したときの状況や現在の生活などを話しました。彼も自分の家のことやペンションのこと、そして森や池が美しいことなど、私でも想像できるように詳細に語ってくれました。やがて、彼が私のスマホを見せてというから、バッグから取り出して渡すと、何やらぴっぴっと操作してそれを返してくれました。
『僕の携帯番号をメモリー登録しておいた。番号は真ん中の5だから。もし何か困ったときとか、連絡したいことがあれば24時間いつでもいいから僕に連絡して』
そんな気遣いに、渡された私の携帯がなにやら温かくなったような気がして、嬉しくて思わず見えない目で彼を見て頷きました。ええ、スマホに画面読み上げ機能があって操作には不自由を感じませんでした。
兄の彼女とは川越市駅で別れ、彼は兄と同行して家までちゃんと私を送ってくれました。帰る前に兄が電話で知らせていましたから、家では彼を迎える用意がすっかり整っていて、遠慮する彼を兄が無理やり家に上げて一緒に食事をしました。兄は彼を引き合わせて、両親を安心させたかったのでしょう。
私の失明以来、我が家ではお客様を迎えることがなくて、彼を迎えて父も母も喜んでいる様子が私にも伝わりました。
食事の間、父と母は彼の家のことや仕事のこと、日常生活をさりげなく訊いていました。それを一つひとつ丁寧に彼が答えていました。彼の人柄を兄からの電話で聞いていて、少しは安心していたらしいけれど、自分達の目で確かめておきたかったのでしょう。
食事が終わって、送って出た私の耳元で悪戯っぽく彼が言ったわ。
『ご両親のお眼鏡に適ったのだろうか』
彼の言っている意味はわかったけれど、恥ずかしくて私は聞こえなかったふりをしました。
彼が帰った後、兄から彼の容姿を説明されたけど、いまいち理解できませんでした。いい男の部類に入ると言われたところで、私には目が見えないからみな同じ。強いて言えば、私と釣り合う年齢かどうかだけに関心がありました。だってそうでしょう?若すぎても嫌だしお年寄りも困るもの。声が頭の方から降ってくるので、背の高い人だなくらいはわかりました。
それからは、休み前になると電話がかかってきてデートの約束をしました。もちろん、私の都合の悪い時にはそれができなかったけれど、それはそれで電話で取り留めもないことを話せて楽しいものでした。
それまで冬だった私の回りが、変な意味ではなく、彼のお陰で暖かく春めいた感じに変わった気がしました。
どこへ出かけたかって?やはり、人の少ない静かな公園が一番多かったけれど、たまには人ごみに触れるのもいいだろうと尻込みする私を銀座や浅草、上野動物園にも連れて行ってくれました。そのときはいつも家まで送ってくれました。私からお願いしてディズニーランドへも行ったこともあります。子供みたいでしょう?危なくないいろんな乗り物に乗って、年甲斐もなくミッキーマウスの帽子を被ったり、アトラクションを肌で感じたり、観覧車に乗ったりして本当に楽しかった。彼が詳細に説明してくれるので目が不自由なことを忘れるくらいでした。
係の人も親切で、乗り物の順番待ちをしていると、いつも一番前に誘導してくれましたし、アトラクションではドナルドダックが白杖を持つ私を見つけて最前列まで案内してくれて、パレードなんかも、踊っている人が私の手をとって近くまで誘導してくれました。修一さんなんかは君といると得することが多いとわざと大袈裟に喜んでいました。私も悪い気がしませんでした。
いつかの時のように、彼に頼んで顔に触らせてもらったのもそれくらいの時でした。その頃が私にとって一番幸せな時期でした。
いつも節度を持った接し方をしてくれて、いつしか何もかも任せられて安心できるようになっていました。不遜にも彼がいつまでも私のそばにいてくれると思い込んでいたのです。
彼と出会った翌年の春、修一さんが私を送って、いつものように母の手料理を食べていました。その頃には私の家族ともすっかり打ち解けて、半ば私のボーイフレンドとして公認されるようになっていたのです。
私を送り届けた後の食事が終わり、お茶を飲んでいると、私達を彼の家に誘ってくれたのです。
『5月の連休に、ご家族で私の家においでになりませんか。父も母もお越しになるのを待っています。古くて大きいだけの家で居心地はあまり良くないかもしれませんが、それはそれで中々風情があると思います。
連休中ですからペンションが多忙であまりお構いもできませんが、森に囲まれた環境や景色だけは自慢できます。空気も美味しいです。僕が言うのも何ですが、絶対に期待を裏切らないと思います。近くには白樺湖や霧ヶ峰高原、それにいいレストランやゴルフ場もあります。池で釣ができるところもありますから退屈はしないと思います。
失礼とは思いましたが、亜紀さんのことも話してあります。お気になさるようなことはありません。亜紀さんはとても素晴らしいお嬢さんですし、ご家族の方も尊敬できる方だと両親に伝えています。こちらでたびたびご馳走になっていることも承知しています。そんなにお世話になっている方なら是非我が家にお招きしろと父と母が言うのです。遠方で申し訳ありませんが、お越しいただけませんでしょうか』
押し付けがましいところが少しもない申し出でしたが、父はそれに応えることを逡巡していました。承知のことだとはいえ、視覚障害者である私を彼の父母がどのような目で見るのかといった不安があったからなのでしょう。
父が答えるより前に兄が応じました。
『お言葉に甘えて行こうよ。信州へは一度も行ったことがないんだ。父さんと母さんだって、長いこと旅行したことがないだろ。ここからそんなに遠くでもないし、せっかくの機会だから行ってみようよ。そうだ、この際だから杏子も誘おうかな。その方が亜紀も寂しくないだろう。修一君、何人ぐらい泊まれるの?』
『使われていない部屋が10以上あるし、布団もあるから30人くらいは大丈夫』
『へえ、それは凄い』
『おい、きょうこって誰だ?お前に彼女がいたなんて知らないぞ』
そうなのです。付き合っている人がいることを兄はずっと両親に伏せていたのです。私にも彼氏のような人ができたことで、もう公表してもいいと判断したのでしょう。
『亜紀は何回か会っているから知っている。親父とお袋にはこの機会に紹介するよ』
信州行については、家にほとんど籠ってストレスが溜まっている母のことを考えたのだと思います。父が母の顔を見たのでしょう。暫く間があって、折角のお誘いだから行ってみるかと母に訊きました。母も頷いたようでした。
ゴールデンウィークが来て5月1日から4日まで彼の家にお世話になることになり、小淵沢の駅で彼が待っていました。
お昼過ぎに修一さんのお宅に到着すると、多忙にもかかわらずご両親が出迎えてくれました。
互いの挨拶が済むとご両親はペンションへ向かわれ、修一さんだけが残って私達を部屋に案内してくれました。杏子さんの説明では大きな構えの旧家とのことでした。
その内に外で作業をしていたお爺さんが、これはこれはと言って、挨拶に来ました。互いの挨拶が終わると、また後でと出て行きました。
彼は私の手を取り導いてくれて部屋へ案内してくれました。
『ここは客間です。ご両親と亜紀さんで使ってください。別に二部屋用意したけど、一部屋でもよかったのかな、和人さん?』
和人と言うのは私の兄です。彼がちゃめっけたっぷりに兄に呼びかけました。そんな冗談を言い合える仲になっていたのです。でもさすがは兄です。少しも動じる風でもなく『一部屋でもいいけど、周りの人に迷惑を掛けるといけないから別々で。いいね、杏子さん?』と笑って答えていました。
父と母が眼を白黒させている様子が目に浮かび、思わず私も笑ってしまいました。
『ええ、いいわ。素敵なお屋敷ね。一度でいいからこんな純和風の家に泊ってみたかったの』
杏子さんは私より二歳上の明け透けな快活な方で、両親が彼女を気に入ったことが電車の中の話ぶりでわかりました。
『夏は開け放しにしておけば涼しいけど、周りが林だから虫が来ます。蝉が飛び込んできたり蛍が舞ったりすることもあります。蚊が来ても蚊帳を吊りますし、蚊遣り豚も用意しますから大丈夫です。ですから夏も来てください。
部屋にエアコンがありますので、肌寒いようでしたらスイッチを入れて下さい。洗面所とトイレは後ほどご案内します。夕食は少し遅いですが、8時ごろの予定にしています。と言うのも父が食事をご一緒したいそうです。調理場を任せている人がいますが、今夜は久し振りに腕によりをかけると父が言っておりますのでご期待下さい。えーと、飲み物は冷蔵庫に何でもありますからご遠慮なく』
『僕はビールがいいな』
恋人を両親に認められて高揚している兄が声を上げました。
『それでは最初はビールと言うことで。もし、喉が渇いているようでしたら、ジュースやコーラも入っていますので自由に飲んでください。水は地下水なのでとても美味しいです』
『私ジュース飲んじゃおう。和人は?』
杏子さんも物怖じしないで元気一杯に訊いていました。両親だけがそんな遠慮なしの二人に呆気に取られていたように感じました。
『洗面所とトイレの案内が終われば、僕はペンションの手伝いに行っていますので、亜紀さん、もし何かあれば僕の携帯に電話して。荷物を置いたら、周りを散策してもいいですし、ペンションにお越しいただいても結構です。狭いけど、娯楽室もありますので寛げると思います』
トイレの案内を終えて、出て行こうとする彼を母が呼び止めて紙袋を差し出したようでした。
『修一さん、つまらないものですけど、皆さんで召し上がってくださいな』
ごそごそ紙袋を広げている音がしました。
『あ、シュークリームに羊羹がこんなにたくさん。有難うございます。甥と姪それに甘いものに目がない爺ちゃんが喜びます。もちろん僕もですけど』
私にもお土産が何かわかるように言葉に出して、愛想ではなく心から喜んでいる様子でした。
その日の夜は、お父様の手料理で酒盛りが始まりました。
私の家族はもちろん、加辺家の方々も普通の日にこれだけ大勢で食事を摂ることがなかったようで酒席が盛り上がりました。
ご家族の方も私を特別扱いせず、私が退屈しないよう、ときどき話題を私にも振ってくださいましたので、気詰まりを感じませんでした。ただ、隣に座った修一さんが絶えず私に何かと気を配っているのを感じて、ご両親はどのように思っておられるのか気になりました。自意識過剰だったかも知れませんが、何となく修一さんのご両親から観察されているような感覚もありました。もしかしたら息子の嫁としてやって来るかもしれないと思っておられたのかも知れません。
結婚のことは考えていなかったのかですって?ええ、彼とお付き合いしているときもそのことは全く念頭に置いていませんでした。また、彼からもそれらしいことの言葉もありませんでした。
障害者である私が正常な夫婦生活など営めるわけがありません。洗濯も人様のようにはできないし、食事だって満足に作れない、掃除だって同じです。家事も彼の世話もできない、まして子供の養育などできるはずもありません。足手まといになることは目に見えています。そのような私が結婚を夢見るなんてありえないことでした。
それは、修一さんのことは好きでした。顔は見えなくても、彼の内面の良さは感じ取ることができます。感謝はしてもそのような態度を表に出したことは一度もなかったつもりです。これ以上の感情を抱いて付き合うことのないよう絶えず自分を戒めていましたし、いまこの瞬間で満足でした。それ以上のことは望んではいませんでした。
翌日、修一さんの案内でビーナスラインや霧ヶ峰、白樺湖などをぐるぐる回って、お昼をその近くのレストランで頂きました。
その翌日も諏訪神社を参拝したり、シャトレーゼの工場でアイスを堪能したり、ウィスキー工場でウィスキーを試飲したりして、清里へも行きました。
女性はどこへ行っても姦しいこと。特に杏子さんのはしゃぎようはありませんでした。両親に認められたのが嬉しかったのでしょう。反対に修一さんは女の毒気に当てられたように静かでした。私は兄が杏子さんを誘ってくれて本当に良かったと思いました。彼女がいると楽しく盛り上げてくれて退屈しませんでしたもの。
家族と旅行をして、知らない場所で一緒に泊まって、こんなに楽しく過ごせるなんて、1年前の私には考えられないことでした。母が『修一さんのおかげねぇ』としみじみ言うのを黙って頷くばかりでした。
後に兄嫁となる杏子さんは気さくでさっぱりとした性格の人です。すぐに母とも打ち解けた様子で長年の嫁姑のような雰囲気で接していました。私にも分け隔てなく話しかけてくれました。それでいて私に気を配っていることも肌で感じていました。兄の人を見る目は確かだと感心しました。
私のことはもう心配しなくてもいいからと兄に杏子さんとの結婚を勧めるつもりでいました。そんな私の気持ちを母に伝えました。母は私の手を取って『ありがとう、和人も喜ぶだろう』と感謝してくれました。少し涙ぐんでいるようにも感じました。
3日目は魚釣りを楽しみました。うぐいや鮒がたくさん釣れて、その間に修一さんが段取りしていてくれたらしく、広場で釣った魚と肉でバーベキューをして楽しみました。広場で火を使うことは禁止されていたけれど、ペンションのお客さんがいない間ならと、お爺さんが特別に許可してくれたのです。後でそれを知った父も母も修一さんに感謝しながら、来てよかったねを連発して心から楽しんでいました。私はそれを聞いて本当に来てよかったと嬉しくなりました。
川越に帰る当日は、どこへも行かずに森や池の周りの散策でゆったりとした時間を過ごしました。それぞれのカップルがのんびりとした時間を自由に満喫したのです。
私は彼の案内で森の木漏れ日の中をゆっくりと歩きました。その時は白杖は使わず彼に手を預けていました。少し歩いては、手を繋いでいる反対側の手で指差しながら、あれは何々、木々から見える山々の名、冷たい水に手をつけさせ、落ち葉を私の掌にのせて説明してくれたりもしました。彼の気持ちが繋いだ手を通して私の中に伝わる気がしました。
後から聞いた話ですけれど、父と母は私の将来について話し合ったのだと言っていました。それは何か明かしてはくれませんでしたけれど、とても貴重な時間を過ごせたと言って満足そうでした。これもお前のお陰だと言って父が私の手をとり上下に振りました。私のお陰なんて大袈裟ですけれど、それでも私は両親が喜んでくれたことで満足でした。
兄達のカップルも自分達の将来を語り合って、近い将来結婚することを決めたと兄が教えてくれました。私達の将来については二人の間では一言も話題に上りませんでした。私の方から変なことを言って、それで彼が私から離れるのが怖かったのです。女友達は何人かいましたけれど、男の友達は彼以外にいませんでしたから、そんなことで去られるのが恐ろしかった。その一方で彼の方からそれらしいことを言われたとしても、正直言って、そのときは何の気構えも心構えもありませんでしたから、面食らって困ったと思います。でも修一さんには秘めた計画があったことを後で知りました。
(四)
その年の夏も終りのある夜、修一さんのご両親が前触れもなく私の両親を訪ねて来こられました。修一さんを見舞った後のことでした。そのとき私は彼が入院していることを知りませんでした。
両親は兄を通じて、彼が入院していることだけは知っていて、日曜日にお見舞いに行く予定にしていました。彼の病気を知らされていなかったのは私だけでした。
入院する少し前に、彼から暫く海外出張をするからと会えないと言われていて、それを何の疑いを抱くこともなく信じていたのです。ですから、私は彼が亡くなる直前まで何も知りしませんでした。
半時間ほど彼のご両親ととりとめのないお話をしましたが、何故訪れたのか私がいる間は説明がありませんでした。でも沈んだ声の調子からあまりいいお話ではないと薄々感じていました。お二人は両親と話をしたがっているのだなと感じましたので、私は不安な気持ちを抱いたまま自分の部屋へ上がりました。恐らく別れ話のことだろうと思っていました。一人息子で跡取りである彼が身障者の私と付き合うのはご両親としても歓迎すべきことではありませんもの。それにしては、わざわざここまで来られるのもおかしいなとも思っていました。
修一さんのご両親が帰ってからも、何故突然訪問なさったのか、何の話をしたのか、目的も用件も両親ははぐらかすだけで最後まで教えてくれませんでした。別れ話だったのでしょうと食い下がってもそうではないと言うばかりでした。
ええ、兄は杏子さんの家を訪問していて不在でした。
これからのことは、全てが終わった後に母から聞かされたことなのです。
『実は亜紀さんには秘密にしておいて欲しいのですが、修一の命は永くありません』
沈痛な表情で彼の父が両親に告げたそうです。それを聞いた両親は大層驚きました。私に内緒で一度お見舞いに行って、随分痩せたなと感じたけれど、まさかそんな重い病気だとは思っていなかったのです。
『何とお気の毒な』と父が悲痛な声で呟き、『お父さん、亜紀に何と言えばいいの』と母が父の手を取って悲嘆にくれたそうです。
病院からの連絡で、彼の病状を知らされたご両親は、留守を刈谷さんに託して急ぎ上京しました。
『主治医の先生がおっしゃるには、検査した時には、既に膵臓の癌細胞が全身に転移していて手の施しようのない状態だったそうです。私達も病院から呼び出されて初めてそれを知りました。そのときは目の前が真っ暗になって、信じられなくて、悲しいと言った感情が起きたのは暫く経ってからです』
彼の母がすすり泣き、私の母が肩を抱いてもらい泣きしたそうです。
『私達が面会した時には、修一の体は病魔に侵されて、別人のように痩せこけていました。何とか長野の病院へ転院させようと息子を説得しましたが、少しでも亜紀さんの近くにいたいからと言って、頑としてそれに応じてくれないのです。
修一もすっかり覚悟ができていて、本当は我慢ができないほどの痛みや嘔吐があっただろうと思うのに、息子がにこっと笑うのです。そして、帰ってから読んで欲しいと掠れた声で、私らに二通の手紙を託しました。一通は私ども宛てで、もう一通は亜紀さん宛てになっていました。でもそれを渡すのは自分が居なくなってからにしてくれと言うのです』
ここから、彼の父親も涙声になったそうです。
『ホテルまでの帰りのタクシーの中で、息子の遺書とも思える私達宛ての手紙を読みました。そこには、亜紀さんのことが切々と綴られていて、死んだ後、自分の角膜を亜紀さんに移植して欲しいとありました。アイバンクに連絡するだけでいいそうですが、それだと確実に亜紀さんに移植されるかどうかわからないので、亜紀さんを一旦戸籍上の親族になるよう手続きをして、それが終われば籍を元に戻して欲しいと・・・』
私の両親は修一さんの私への想いを知って、ありがたくて2階にいる私に聞こえないように声を殺して泣きました。
それからしばらく両親と話した後、夜遅くお二人はお爺さんの待つホテルに戻りました。
翌日の夜、私は訳も分からず父の言うがままに、婚姻届けとは知らされずに署名させられました。証人は訳を話して父の同僚に頼んだそうです。二日ほどしてから修一さんの戸籍謄本が郵送されて来て、父が必要な書類を持って、届を彼の居住地の市役所に提出しました。知らぬ間に私は修一さんの嫁になっていたのです。
兄からの電話で彼が危篤だと知らされたのは、修一さんのご両親が家を訪ねて来られた1週間後のお昼休みのときでした。告げられた時は、寝耳に水のことで茫然自失、私は携帯を持ったまま兄の言葉を最後まで聞かずに立ちあがり、外に出ようとしていました。周りの人が驚いた様子で、どうしたの?と訊いたようでしたが、私の耳には入りませんでした。ちょうどそのとき、父が駆け寄って来て私の手を取って耳元で言いました。
『落ち着いて聞け。修一君が危篤だ。今から病院へ行く』
冗談ではなく、目の前が真っ暗になりました。頭の中がぽっかりと穴のあいたような感じで、何の思考力もありませんでした。タクシーに乗り込むと現実に立ち返って父をなじりました。
『どうして病気のこと言ってくれなかったのっ!私だけが一人だけ除けものだったのねっ。私だけが知らずにのんびりと過ごして・・・。ひどい。許せない』
涙をぼとぼと落として、父の腿を叩いて泣き叫びました。
『すまん。修一君からお前に心配をかけまいとして頼まれて黙っていた。修一君は膵臓癌で20日ほど前から埼玉医大病院に入院している。癌細胞があちこちに転移していて治療は無理だった。彼のご家族と母さんは病院でお前を待っている。和人も病院に向かっている。何でも修一君がお前のことをうわ言で呼んでいるらしい』
タクシーから降りると、父に手を取られて私は小走りで走りました。失明してから駆けたのはこれが初めてでした。私は病室までの長い廊下を駆けました。何かが足に当たって転びそうになったけれど、痛いと感じず夢中で走りました。
先に到着していた兄にここだと言われて、肩で息をしながら、ゆっくりと病室に入りました。
亜紀ちゃんと彼の母が私を呼んで、私の手と肩をとって彼のベッドまで案内してくれました。私は彼の横で屈むと顔にそっと触れました。痩せこけて私が記憶している顔形ではありませんでした。涙がまたどっと溢れてどうしようもありませんでした。
『修一さん、もっともっと永く一緒にいたかったのに。どうして本当のことを言ってくれなかったの。せめて看病くらいしたかったのに・・・。これからどうして生きていけばいいの・・・』
最後は声になりませんでした。
酸素マスク越しに彼の声がして彼の口に耳を寄せました。小さくかすれて聞き取りにくかったけれど、最後の力を振り絞って私の手を取ってくれたのがわかりました。
『亜紀ちゃん、ごめん。こんなことになって。僕はいつまでも亜紀ちゃんと一緒だから。見守っているから。知り合えてよかった。充実した時間をありがとう。いつも明るく元気で・・・』
声がしなくなって彼の手が私から離れました。
背後ですすり泣く声がしました。ご両親なのだろうけれど、私が取り乱していたから、感情のまま思い切り泣くこともできなかったのでしょう。別れの言葉もはっきりとは聞いていなかったと思います。あの時、そんな配慮さえ思い及びませんでした。
看護師さんが泣き叫ぶ私をそっと彼から引き離すと、主治医の先生がしばらくごそごそして13時54分ご臨終ですと告げました。私は我を忘れて彼にとりすがって大声で泣きました。ご両親が一番悲しいだろうに、それすら忘れてどれだけの時間泣いていたのかわかりません。
彼を喪ってみて彼を愛していたことを自覚したのです。先程言いましたように、修一さんを好きになってはいけない相手だと自分を戒めていました。信頼も安心もできましたから、私なりの定義では愛してもいい資格が彼には十分にありました。とは言え、私には彼から愛される資格などないと思っていました。私は激しく後悔しました。でも遅すぎました。
『さあ、亜紀、修一君にお別れを言おう』
嫌々する私を兄が無理やり立ち上がらせようとしたので、『少し待って』とだけやっと言いました。そして、手で彼の唇を確認してから私の唇をそこにそっと押し当てました。見られて恥ずかしいなどの気持ちはありませんでした。それでしか感謝と愛情表現ができなかったのです。
私は心の中で、これまでありがとう、さようならとだけを彼に告げ立ち上がりました。
『お願いします』
覚悟ができていたのか、冷静な修一さんのお父さんの声を聞きながら、兄に肩を抱かれて、二三歩下がると、数人の人の足音がして、ベッドが外に出される音を茫然と聞いていました。それは彼の角膜を私に移植するための準備でした。
少し落ち着きを取り戻した私の様子を見て、彼の父が私に言いました。
『亜紀さん、修一の最後の願いを聞いてくれるか』
私は頭の中が真っ白で誰とも口をききませんでした。みんなに裏切られた気持ちで一杯だったのです。
『修一は自分の角膜を亜紀さんに移植するように私に頼んで死んだ。これは息子の遺言だと思って欲しい』
父がその言葉を継ぐように言いました。
『現行の法律ではドナーの意志通りの移植はできないそうだ。つまり移植する相手をドナーが指名することができないらしい。だが、親族間であればそれができる。だから、修一君のご両親と私達が相談して入籍の手続きをした。亜紀は今修一君の妻となっている。そうは言っても簡単には順位を変えられないそうだが、そこはうまくいった』
少し言葉を切ると、ここまではわかるか?と訊きました。私が呆けたようになっているので、ちゃんと聞いているかどうか確かめたかったのでしょう。私は無言で頷いたものの、どこか遠くから声がしているような感じで人ごとのように聞いていました。
『修一君の遺志を無駄にしないためにも、角膜移植の手術を受けなさい』
私はいやいやして首を横に振りました。
『角膜なんていらない。目が見えなくてもいいから、彼を元に戻して!』
私はそう叫んで再び泣き崩れました。本当にそう思いました。彼を生き返らせて欲しいと。そんな私の手を取って兄は諭すように私に言いました。
『亜紀、それはできないんだよ。それくらいわかるだろう。いいか、よく聞け。修一君は最後までお前をここへ呼ぶことを拒んでいたんだ。修一君にすれば、最後までお前に心配をかけたくなかったのだろう。やつれた姿も見せたくなかったに違いない。お前には元気な姿だけを心に焼き付けて欲しかったのだと思う。死んだ後ならば、お前に与える衝撃も少しは和らぐだろうと思ったのかもしれない。でも、今日が峠だと医者から告げられ、修一君がうわ言でお前の名前を呼んでいる聞いたとき、俺はお前を呼ぶことに決めた。たとえ彼の意に反したとしても、お前の将来に影響を与えようとも、修一君にお前を会わせようと。これまで亜紀に尽くしてくれたことを思うと、それくらいしなければ修一君に申し訳ないと思った。それで親父に電話をしてお前に来てもらった。今まで黙っていて済まなかった。
亜紀は知らないだろうが、修一君はお前が来るまで意識がなかったんだ。それが、お前が病室に入った途端、奇跡のように目を覚ましたんだ。余程お前に会いたかったのだろう。
最期のときの言葉を覚えているか。『僕はいつまでも亜紀ちゃんと一緒だから。見守っているから』と言ったんだぞ。こんな深い愛の告白があるか。彼の愛情を無視するのか。彼の最後の願いを叶えなければ、お前を見守ることもできないんだぞ。そんな弱い女だと知ったら悲しむぞ」
そう言って、私の手を取って何かを掌に置きました。それは写真でした。
『お前に渡してくれと預かっていた。ずっと彼の枕元に置いてあった写真だ。覚えているか?初めて彼とデートをしたときに、森林公園で俺が撮ったものだ。自分で言うのもなんだが、よく撮れている。亜紀の肩をそっと修一君が抱いていて、紅葉したモミジの前で二人とも嬉しそうに微笑んでいる写真だ。角が少し丸くなっているから、肌身離さず持っていたのだと思う。
あれから、あちこちデートをしただろう。修一君は写真を一杯撮っていた。お前の眼が元通りになったら見せるつもりでいたのだろう。何枚撮ったのかは知らないが、お見舞いに行ったときにお前に渡して欲しいとアルバムとCDも預かっている。動画も中にあるそうだ。
病気を知って入院するまでの間、苦しい中無理をしてこれを作ったのだろう。お前はその写真を見たくないのか。動いている修一君の姿を見たくないのか。修一君の顔を見たくないのか。彼の声を聴きたくないのか。彼が肌身離さず持っていた写真を見たくないのか。彼の愛情を無にするな。移植手術を受けなければ彼の存在をも否定することになるんだぞ』
気持ちが次第に
亜紀ちゃん、お願いと母のすすり泣く声が聞こえたわ。私だって声に出して言いたかった。
見たいわよ。見たいに決っているじゃない。でも心の整理がつかないのよ。もう彼とは一緒に歩くこともおしゃべりすることもできないのよ。いつの間にか彼を愛してしまっていたのよと。
『急なことだから、亜紀も戸惑っているのだろう。少し時間をおこう』
父がそう言って私を椅子に座らせました。30分ほどだったか、私が少し落ち着いたのを見て、父が再び私に言いました。
『修一君からお前への手紙を預かっている。これは生前彼が加辺のお父さんに託したものだ。お前宛の遺書と言ってもいいだろう。
最初にお前の目で読んで欲しかったのだろうが、私が読むことにしよう。苦しい中で書いたものらしく、少し文字が乱れている。いいか亜紀』
無言のままでいる私に父がゆっくりと読み上げました。
〈亜紀様 これを君の瞳で読んでくれているのだろうか?そうだと僕は嬉しい。もう僕にはそれしか君にしてあげられない。済まない。本当に済まない。身から出た錆とは言え、最初で最後の手紙でこんなことしか書けないのが情けなくて悔しい。
君と会えて本当に良かったと思っている。君は何かにつけ、僕の重荷になることを気にしていたようだけどそれは違う。僕の方が不幸を不幸と思わせない君の頑張りや笑顔、それに励ましでどれだけ勇気づけられたことか、どれほど僕が充実した毎日を送っていたか君は知らないだろう。
君のことを想うだけで勇気が湧いた。君との将来のことを想像すると、どんなに疲れていても元気が出た。君の笑顔を思い出すだけで、どんなに苦しいことでも我慢ができた。君の声を聞くだけで幸せな気持ちになれた。君が僕の全ての支えだった。もし君に出会えていなかったら、あとわずかな命と告げられたとき、きっと冷静な気持ではいられなかったに違いない。
やり残したことが一杯あって悔いは残るが、充実した人生を生きて来たと本心から思っている。そんな風に思えるようになったのも君のお陰だ。
君をいろんなところへ連れて行ってあげたかった。そして、君の目の代わりにあらゆるものを説明したかった。生きているうちに君のその美しい瞳で僕を見て欲しかった。角膜移植が間に合わなかったのは、かえすがえすも残念だ。これも運命なのだろう。でも今は僕の角膜が役立っていると信じたい。
医者に病名を告げられてから、君にしてあげられること、残してあげられることをいろいろ考えた。でも、残された時間があまりにも少ない。
元気なうちに僕の姿とこの想いをビデオに撮ろうかとも考えたが、それは死に行く者の反則だと思い留まった。そこで撮りためた君の写真を編集して、お兄さんに託すことにした。そこには君と一緒に僕も写っている動画もあるが、それ位は許してくれるだろう。君が見て僕はどうだろう。君と釣り合いがとれていると感じてくれただろうか。君に相応しいと思ってくれただろうか。でも、それを見るのは1度だけと約束して欲しい。そして、僕のことは忘れて、自分の人生を精一杯元気に生きて欲しい。いつかきっと、君にふさわしい素晴らしい人に出会えるだろう。それは僕が保証しよう。辛いことがあっても、心配はいらない、僕がずっと君を見守っているから。
素晴らしい日々をありがとう。本当にありがとう。いつまでもお元気で。亜紀様>
父が涙ながらに読む彼の手紙を聴いて、私はまた号泣しました。泣いても泣いても涙が止まらないのです。私の背後でもすすり泣く声がしました。
彼が亡くなって初めて彼が真摯に私を愛してくれていたことを知りました。私もまたいつしか彼を愛していたことに気付かさました。私の引け目と臆病さで知らぬ間に彼を傷つけていたことも悟りました。でも、気付くには遅すぎました。私は全てを失ったのです。
後日、私の眼を診察して下さった先生の執刀で手術を受けました。数日後、電気を消してブラインドを下ろした薄暗い部屋で目に巻いていた包帯を取り除いてくれました。最初のうちはぼんやりしていたけれど、少しずつ輪郭を持ちやがてはっきりと見えるようになりました。先生はペンを目の前に立て、これを追うようにと言って、左右にゆっくりと動かして、その結果は先生の満足のいくものだったらしく、大丈夫だと微笑んでくれました。
12年ぶりに見た両親は、心労のためかすっかり老けこんでいてショックを受けました。当たり前のことですが、兄はもう幼い少年ではなく、あの頃の面影を残しながらも凛々しい立派な大人に成長していました。
検査を受け、異常がないことを確認して退院しました。
こうして、10数年ぶりに自分の目で見る我が家に帰ったのです。家の周りはすっかり変わっていたけれど、家の中は私のために手摺やトイレが改造された以外は昔のままでした。
私が家に戻った時には、修一さんの葬儀が済んでいて、通夜と葬儀には私の父と兄が参列しました。修一さんは社会貢献ができなかったからと、ほかの臓器も提供していました。
私が母に連れられて仏前に線香を
彼の遺影の前で遅くなったことを詫び、生前のお礼を述べました。そして密かにあることを心の中で誓いました。それで喪が明ける49日の法要にも出席はしませんでした。
修一さんの家から戻ると、私は市の教育委員会に退職願を提出しました。驚いた上司に何度も慰留され、父にも思い留まるように説得されました。でも、私の決心は変わりませんでした。そして、次に私がしたことは、腰まであった髪を切ることでした。美容院の人には何度も切っていいのかと念を押されたけれど、その意志は揺らぐことはありまでんでした。
点字翻訳の仕事を辞めると、パソコンを兄から教わり、漢字も一から勉強して、料理教室へも毎日のように通いました。母にも料理や家事の基礎をみっちり教わりました。それと並行して自動車の運転免許も取得しました。それもこれも一つの目的を実行するためでした。そんな私を見て、私の下心を知らない両親は、彼を忘れるためと社会に馴染むためだろうと手放しで喜んでいました。でも兄だけは終始懐疑的な目で私を見ていました。もしかすると、私がしようとすることを薄々察していたのかも知れません。
半年あまりそうしている間に、家事全般と社会生活は普通の娘さんのようにできるようになりました。そして、春休みが終わるころ、兄と杏子さんとの結納を済ませた家族が集まったとき、加辺家の嫁として向こうで暮らすと宣言したのです。
両親は真っ向から反対しました。角膜移植のことを負担に思っているのだとしたらそれは違う。それは彼の愛情なのだと。愛情は返す必要がないのだと。それはエゴだと反論して言い争いになりました。勿論、父と母の言い分は理解していました。でも、断念するつもりなどありませんでした。
そして、両親は気付いたのです。移植後に除籍するはずが、まだその手続きを済ませていないことを。私はそんなことはどうでもよかったのです。それとは無関係に加辺家へ行くつもりだったのです。それが彼の愛情と恩義に応える唯一の方法だと信じていましたから。
両親にしてみれば、自分の手から娘が離れるのを恐れ、そして彼のことをいつまでも忘れずにいることを危惧したのでしょう。まして、加辺家へ行けば、彼を忘れるはずがありません。それを恐れたのです。
兄の助言で最終的には両親も折れてくれました。
父は加辺家に電話をかけ、娘が厄介になりたいと告げると、加辺のご両親は手放しで喜んでくださって、迎えに来るとまで言ってくれました。それを断り、必要な荷物は別便で送り電車で行きました。
準備のために行くのが遅れたけれど、その間に部屋の模様替えが済んでいて、若い娘が住めるようにしてくれていました。
それから早いもので4年が経ち、今は平穏無事に毎日を過ごしております」
亜紀は頭を上げ膝の上で結んでいた両手を外すと、頭を上げて池の方を見やった。
「これが聴いて欲しかった話です。関係のない人に長々とごめんなさい。いままで誰にもしたことはありません。聴いて下さってありがとうございました。心の中のもやもやが少し晴れました」
真一はしばらく黙ったままでいたが、同じように頭を上げると何事か言った。しかし、彼女は放心状態だったので、上の空で聞いた。
「え、何ですって?角膜移植だけならもっと早く受けられただろうって。ええ、その通りです。角膜移植の場合、他の臓器と違って適合不適合があまりなくて、待ってさえいればいずれ順番がくるのですけれど、アイバンクに登録するのが遅かったのです。
初めに話しましたように、失明した後に病院を何件か回って診ていただきました。でも、最初に診ていただいた権威のある先生の所見があったせいか、いずれの見立ても視神経が損傷しているために回復は困難との診断でした。ですから諦めていたのです。
修一さんとお付き合いするようになってから程なく、医療技術も当時より発達しているから、念のためもう一度診察を受けてみないかと勧められたのです。私自身もあれから随分時間も経っていましたので、あるいはとの思いもありました。それに駄目で元々でしたから。
修一さんの大学の恩師のつてで、とある大学病院の眼科の先生に診ていただきました。すると、意外な事実が判明したのです。
その先生がおっしゃるには、CTを診た結果、視神経に異常があるのには間違いがないが、治療可能だと仰るのです。
修一さんと母が見てもわからなかったそうですが、画像を見ながらの説明では偶然にも両眼の眼底部のところに1mmに満たないほどの腫瘍があって、それが神経を圧迫しているのが原因だそうで、それを放射線とかレーザーとかで除去した後に、角膜の移植をすれば視力の回復が可能だとのことでした。しかも両方の眼がほぼ同じ状態だと仰るのです。こんなことは万に一つもないと。
それを聞いた私は天にも昇る気持ちでした。診察室を出て修一さんと手を取り合い躍り上がって喜びました。その夜の我が家の夕食はお祝いの席になったのはいうまでもありません。
さっそく医局の方の協力を得て、その日の内にアイバンクへの登録手続きを済ませました。でも、提供者が少なく数年待つのが現状だと私達の高揚した気持ちを冷やすような説明も受けました。そうはいっても、これまで視覚の回復は不可能とまで言われたのです。数年待つことぐらいなんでもありませんでした。結局のところ修一さんの角膜を頂くしかなかったのですけれど。
それからは外出するときはいつもサングラスを欠かしたことはありません。先生からは大丈夫と仰って下さいましたけれど、眼を保護すると言うより修一さんが遺してくれたものを守りたいという想いと彼を忘れてはならないとの想いでこれをしています。
彼が考えていたと言う計画のことですか?それは、私がこちらへ来てからあの人の従弟の義晴君から聞いた話です。彼はそのとき小学生でしたけれど、あの人が弟のように面倒をみていて、彼も実の兄の様に慕っていました。
あの人が帰省のたびに勉強を教えてもらったと言っていました。その彼がペンションの仕事を片付けて一段落したときに話しかけてきたのです。
『亜紀姉さん』
彼は自分の姉と分けるために私のことをそう呼んでいます。
『修一兄さんが考えていたことを知っていた?』
『何のこと?』
『修一兄さんの将来のこと』
『将来って?』
『修一兄さんが僕の勉強を見てくれていたときに、何気なく言ったんだ。近いうちに会社を辞めてこっちに戻って来るつもりだって。どうしてって訊いたら、結婚したい人がいるからその準備をするんだって。
僕は驚いて、伯父さんや伯母さんは知っているの?と訊いたら、お互いまだ若いから。いずれ両親に話すつもりだって言ってた』
私は彼がそこまで考えていたとは知りませんでした。
『準備って何をするの?』
『いろいろ。たとえば、自分の持っている技術を生かして事業を立ち上げるのに、家のそばに小さな事務所を建てたり、それに今の家は古くて危ないところがあるから、バリアフリーにしたり、彼女は童話を書くからリフォームして彼女専用の書斎を設けようかと思っている。まあ、実際そうなるかどうかは、彼女の返事次第だけどねって。
それから、亜紀姉さんのこと、出会いからいままでこと話してくれたよ。二人で並んだ写真も見せてくれた。そして自慢そうに言ってた。美人だろって』
それを聞いて初めて、早い段階から私のことを結婚の対象として見てくれていたことを知りました。どうして私を遺して逝ったのって、その晩心の中で叫びながら泣いてしまいました。
男の人って先々のことまで考えるものですね。そんなこと少しも知らないで・・・。でも今は元気です。
最後までお聴き下さいましてありがとうございました。ご迷惑だったでしょうけれど、お陰様で少し気が晴れました」
亜紀は寂しく微笑んだ。
真一は想像もしなかった彼女の話に深い感動を覚えていた。
彼もまた、整理し切れていない過去を持っていた。しかし、それは、彼女の、いや彼の愛情にはとても及ばないと思った。 そして、修一を自分に置き換えてみた。彼がどんな男だったか知らないが、同じ立場に立ったとして自分には彼と同様のことはできないだろうと思った。そう思った時、不思議な感情が芽生えた。それを押し殺して真一は慎重に口を開いた。
「何か深い事情がありそうなことは、薄々感じてはいたが、そのようなことがあったとは今の亜紀さんからは想像もつかなかった。といって、失明したことがないから何もわからないし、同情することはできても同化することはできない。ただあなたには幸せになって欲しいと無責任に思う。
彼のこともあなたのことも何も知らないが、彼とのことが今のあなたの支えになっているのはわかる。話を聴かされた者の権利として、他人の僕にあえて意見を言わせてもらえるなら、それをいつまでもあなたの中に抱えている限りいいことは何もない。つまり、新しい幸せを得ることはできないと思う」
これは彼にも当てはまることで、他人のこととなるとこんな偉そうなことも言えるのかと自分を嘲笑したくなった。それでも周りには心配はかけていないとの身勝手な自負があった。
「といって、あなたの眼にはご主人の角膜が移植されていて、忘れようにも忘れることもできない。あなたは厄介なジレンマを抱えている」
「私は今のままでいいと思っています。忘れたいとも思っていません。ただ平穏に生きたいのです」
「それはあなたの我儘だと思う」
「いいえ、そのようなことはありません」
亜紀はきっとして真一を見て言った。彼も彼女を見返してきっぱり言った。
「あなたはそれでいいかもしれない。でもご主人の家族やあなたの家族はどう思っているのだろう?今のままでいいとは思っていない筈だ。あなたの言い分は僕には利己的に思えて賛成できない。5年の歳月はあなたにとって長いのか短かったのか、それは僕にはわからない。恐らく今のあなたに必要な時間なのだろう。もしかしたらもっと必要なのかもしれない。
正直僕に君を説く資格はない。ないが、望んで聞きたい訳でもないことを聞かされた以上はっきり言わせてもらう。
ご主人の愛情、ご主人への愛情は、もう想い出としたほうがいい。今の気持ちをそのまま引きずるのはよくない。この辺で断ち切る勇気を持つ必要があると思う。それには新しい恋を見つけることだと思う。誰かを好きになって、恋をして、愛して、それが成就するかどうかわからないが、あなたにはそれが絶対必要だ」
亜紀は、そんなことはわかっています。でも、私の心がそうさせてくれないと声を出して言いたかった。男と女では思いが違うと叫びたかった。
彼女は知らなかった。彼が自分に向けた言葉でもあったことを。
「きついことを言うと思われるかも知れないが、ご主人の角膜をもらった感謝と負い目から、籍も抜かずにペンションを手伝っているのではありませんか」
「初めはそうだったかもしれません。でも今はみなさん親切にしてくれているし、毎日が楽しくてこの土地がとても気に入っているのです」
「でも、そのみなさんの誰もが、今のままの亜紀さんでいいとは思っていないはずだ。お舅さんもお姑さんも、亜紀さんが幸せになって欲しいと願っているはずです。もしそうではないのなら、それはその人達のエゴだ。亜紀さんが今のままでいる限り、周りも過去を引きずって一歩も進まない。それは不幸なことだと思う。余計なことかもしれないが、よく考えた方がいい」
言いたいだけ言うと、亜紀の反論を待たずに真一はさっと立ち上がりお尻をパンパンと叩いて森の奥へ行った。彼女から離れて自分のことを含めて冷静に考えてみたかったのだ。
亜紀はベンチで座ったままで、彼が最後に言ったことを心の中で反芻した。理屈では確かに彼の言う通りだろう、しかし自分一人では彼の言う勇気は持てそうになかった。
5分ほどそこにいて彼女は立ち上がった。
亜紀から離れた真一は森の中を巡ると広場に戻り、そこに寝転んだ。そして、これまでの出来事を振り返った。
これは決して他人の空似なんかではない。そうならば、考えられることは一つだが、それを確かめるのは止めた方がいいと彼の中で警鐘が激しく鳴って、これ以上彼女に関るなと警告していた。
自分の考えを何度か角度を変えて検討したが、結論はやはり一つだった。考えがまとまると、真一は体を反転させ立ち上がった。頭の上ではツクツクボウシが夏の最後を惜しむかのようにうるさく鳴いている。
真一は加辺家、いや亜紀との薄い縁を断ち切ることに決めた。ペンション新築計画の相談に乗ることも断ることにした。
その足で宿直室へ戻ると少ない荷物をまとめた。
こんな気持ちに陥ることになるとは予想もしていなかった。早立ちするかも知れないと昨晩のうちに精算を済ませて正解だった。こんな形で出て行きたくはなかったが、今は加辺家の誰とも顔を合わせたくなかった。
幸い受付に稲子がいなかった。まだ、ショックから立ち直れずにいるのかもしれない。
ザックを肩に担いで、食堂へ行くと亜紀が何事もなかったかのように掃除をしていた。
「チェックアウトします。精算は昨晩済ませています。お世話になりました」
そっけなく彼女に声をかけた。
「えっ、もうご出発ですか?」
「ええ、明日から行く予定があって、帰ってその準備をしないと・・・」
「それでは、義父を呼んできます」
掃除機を床に置いて出て行きかけるのを真一が止めた。
「いや、いいです。申し訳ないが、盛蔵さんに伝えてもらえますか?」
亜紀は立ち止まり振り返った。
「それは構いませんけれど」
「ペンション改造計画の件ですが、お断りしたいと・・・」
「それは何故ですの。義父があんなに乗り気になって相談をしていましたのに」
「よく考えると、学生への講義や研究論文作成で忙しくなります。だからその時間が取れそうありません。そんなことでご迷惑をかけては申し訳ない。その代わり必要なら僕より優秀な建築家を紹介します」
真一は自分でも下手な言い訳だなと思いつつ言った。現に彼女は懐疑的な目で見ている。
「やはり、義父を呼んできます。ここで少しお待ちになって」
亜紀は身を翻すと義父を呼びに駆けて行った。
真一はスケッチブックから2枚破りテーブルの上に置いた。バッグを担ぎ直しサングラスをかけると足早にペンションを出た。
来るべきではなかった。詫び状は帰ってから出そう。そう独り言を呟きながら、思いつきでここに来たことを彼は悔やんだ。そして、バイクを舗装道路まで押さずに跨りエンジンをかけた。振り返り見る山が、何だか遠くにあるように感じた。
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