1−2 びっくりすると催すもの
その瞬間、背後でじゃり、と地を踏みしめる音がする。弥勒はそれに気づくことなく、はぁあああ、と再び大きくため息を吐いた。
「ーー人の墓前でため息たァ、失礼ってもんだぜ」
「あ、すいませ…ん?」
弥勒は固まった。
それはもう、カチコチと音がなりそうなほどキレイに固まった。自分以外に人の気配がないこの地で、いきなり声をかけられたのだから無理もない。加えて場所が墓前だ。これが夜だったら情けなく悲鳴を上げてうずくまっていたことだろう。いや、もしかしたら発狂して奇行を繰り広げたかもしれない。
弥勒はオカルトがめっぽう苦手であった。物理でどうにもできないからである。
また、これまでの経緯が現実離れしているため、とっさに対応できなかったのだ。いくら脳天気な弥勒であれども、気を抜いているときに突然声を掛けられれば驚いてしまう。
「手荷物ひとつもねえなんて、珍しいこともあるもんだ。ここは手ぶらで来るような場所じゃねえはずなんだがな。」
「そうですねー…」
ここが本当に高野山の奥之院であるならば、たしかに手ぶらでは来ないだろう。せめて財布を持つくらいはする。弥勒の手持ちは、ポケットに突っ込まれたハンカチだけであった。流石にトイレに財布は持っていかない。
「ボウズ、手前ぇどうやってこの場所に来た?ここは関係者以外立ち入ることができなくなってんだ。事と次第に寄っちゃあ、手荒なことになるかもな。」
物騒なことを言われても弥勒は動じない。なんなら振り返るタイミングを見失って少し気まずくなってしまっていた。
「どう…って言われてもなぁ…。」
弥勒は困った。
本当に、困ってしまった。
振り返るタイミングもだが、自分の状況を説明しようにも、バカ正直に話したところでふざけていると一蹴される未来しか見えない。あの珍妙なオブジェを見せれば半信半疑ながらも信じてくれる可能性は、おそらく1%にも満たないだろうが、しかし嘘をついたところでそれが通じるとも思えない。なんせ来たことのない場所なのだから。
加えて一文無しだ。
ないとは思うが、万が一背後の人物がカツアゲしてきたら差し出すものは使用済みのハンカチのみである。衣服という名のモラルは流石に差し出せない。こんなところで脱いだら罰が当たるだろう。
そして、弥勒は更に困ることとなった。
もはや、考える暇はないだろう。弥勒は1つ頷いて、決意を固める。
「ーーすんません、トイレ…どこですか…?」
「……は?」
汗が引いて、急に涼しい場所へ来たからかお腹が冷え、また、急に人から声を掛けられた驚きで腹痛がぶり返したのだ。おしめ生活から脱却して、早10数年経った人間としての尊厳の維持のため、弥勒は精一杯深刻な顔をして、背後に振り返り、そう言ったのだった。
脳裏に友人たちの呆れた顔が過ぎったが、弥勒は気にする余裕がなかった。
「ふぃー。快便快便」
ピピピ、と音を鳴らした後、ジャーと聞き慣れた水音が木霊する。
腹の痛みも治まり、出るものが無くなった爽快感に浸りながら手を洗う。もうしばらくは腹痛も来ないだろうと予想を付けつつ、弥勒は先程の人物ーー隻眼の男について思考を飛ばした。
隻眼、弥勒くらいの年齢の若者は心ひかれるだろう単語。人間としての尊厳の危機にあった弥勒はそこまで注目しなかったが、危機が去った今、心の何処かが気恥ずかしそうにソワソワしていた。和装していたし、眼帯も違和感を抱かない美丈夫で、女子がほっとかないだろうな、が一番の印象だった。
どこか威圧感を放っていた男は、弥勒の問いかけに暫し呆けた後、丁寧にトイレまで送り届けてくれた。見た目や口調に反して紳士であった。おそらく彼ならカツアゲの心配もないだろうと、弥勒は安堵する。というか、墓の前でカツアゲも何もないだろう。
ハンカチで手を拭いながら外へ出ると、男は近くの木に背中を預けていた。出てきた弥勒と目が合えば、すっと木から離れて寄ってくる。
ただ歩いているだけなのに、どこか優雅な動きに見えて不思議に思った。
「お待たせしましたー」
「おう、スッキリしたようで何よりだ」
「ハハハやっぱ溜め込むのは良くないっすね。いやー、なんかすげーハイテクなトイレでビビりましたけど、さすが奥之院!」
「…ハイテク、ねぇ。」
生ぬるい視線もなんのその、弥勒はツラツラと感想をのべた。男は、それまで秘めていた警戒を解いたらしく、威圧感は緩和されていた。
しかし、弥勒の感想を聞いてす、と目を細める。何か気になることがあるのか、観察するような視線に弥勒は首を傾げた。警戒心が毛ほども感じられず、防衛本能は眠りについているようだ。
「えーと、それで、どうやってここに来たか…っすよね」
「ああ。…先刻も言ったが、答えによちゃあ少し手荒に対応するがな」
尊顔に似合う不敵な笑みを携えた男。弥勒は、イケメンにしか許されねえやつだ、と珍しいものを見た心地であった。先刻、なんて珍しい言い方だが。
しかし、その目は本気の色を宿している。下手な嘘や誤魔化しは絶対に許さないだろう。弥勒は、唸りながら頭をかいた後、本当のことを話そうと決めた。
弥勒だって何がなんだか分からないのだ。一人で悶々とするより二人のほうがいい。ふざけていると一蹴されたらその時だ。14歳の本気を出して喚いてやろう。
弥勒は半ば自棄になっていた。
「あーー…俺も、よくわかってないんですけど…」
そう前置きしながら、遠い目でこれまでの経緯を話したのだ。
重苦しい沈黙が場を支配する。
風に仰がれた草木のざわめき以外、何の音もしない。先程まで遠くで鳴いていた虫の鳴き声もしなかった。
弥勒は、バクバクと忙しない心臓の音を聞きながらこの時間が一刻でもはやく終わることを切実に願う。確かに、トイレからここに転移するなんて信じられないし、トイレのドアだけ残して消えるなんてツッコミどころ満載だ。理解するのに時間がかかるのはわかる、理解できるのかは別としても。
弥勒は思った。
こんなに気まずいのは、二年に進級して初の登校日に、一年教室に行ってしまった時以来だ、と。割りと最近のことである。あの時の一年生の顔は忘れられない。友達作りの一環で話しかけた相手が、教室を間違えた先輩だなんて誰も思わないだろう。当時の弥勒は、全く知らない顔ばかりで自分だけクラスをハブられたのだろうかと被害妄想を膨らませていたが。
「…おい」
「ウェッ、ハイ!」
沈黙を保っていた相手に突然話しかけられたことで、奇声を発してしまったが仕方ない。弥勒はキリッとした顔で男を伺った。
「手前、名前はなんだ」
今更すぎる問いかけにポカンとする弥勒。こんな重苦しい空気にしといて第一声がそれでいいのか、という心境だ。
鋭い眼差しに射抜かれながら、弥勒は答えた。
「弥勒です。野に降るって書いて、降野弥勒。」
「…ハハハハ!!そうか、そういうことか!」
一泊おいて、大笑いしだす男。
おかしくてたまらないとばかりに大口を開いて、声高らかに笑っている。目尻にはうっすらと涙が見えた。
弥勒は、男の様子に引き気味となりながら数歩距離を取る。人の名前を聞いてそんなに笑う要素あったか、と彼のツボが分からなかった。
「ええーっと…それで、アナタのお名前を聞いても?」
そう言った瞬間、男はピタリと笑いを収めた。
早すぎる切り替えに、弥勒は聞いてはいけなかったかもしれない、と冷や汗をせを流す。自分は質問しといて俺はできないなんて理不尽じゃね?なんて思いながらも、これ以上の気まずい空気は、脳天気な弥勒とて耐えられない。
「あ、ウソウソ!ウッソぴょーん!なんでもないんで気にしないでください!」
弥勒が引きつった笑みと絶妙に苛立つテンションで、質問を無しにした。
次の瞬間、男はグンッと弥勒に至近距離まで詰め寄る。思わずのけぞるが、その腕を掴まれ、弥勒は反動で前につんのめる。驚愕に見開かれた目。弥勒の視界いっぱいに、獰猛な笑みを浮かべる男の顔が映された。
「男に二言は無ェんだよ、弥勒。」
そう言った男。
そして、弥勒の耳を疑うことを、ニンマリとした笑みを携えながら口にした。
「俺の名前か?ーー俺は伊達政宗。手前がさっき居た墓の持ち主さ」
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