第一章

1−1  雑学も時には役立つってこと

気分スッキリ、腹もスッキリ。弥勒は爽快な気分でドアを開けて一歩踏み出した。そこに躊躇いなど無い。たとえ最近流行りの異世界へ飛ばされる寸前だろうと、人間はその時の気分で取り返しのつかないやらかしをするものなのである。つまりそう、ただの考えなしのド阿呆だった。

きっと振り返ったらドアもないんだろう。そう思って振り返る。するとーー


「いやドアあるんかい!」


清廉な場所に似合わぬ、とてもキレのいいツッコミが響き渡った。

木々に反響したせいでツッコんだ張本人もビビる声量だった。そんなキレキレのツッコミを披露した弥勒は、(やべ、なんか神聖な場所で騒いじゃった)と語尾にハートが付くテンションで狼狽えていた。狼狽え過ぎてテンションが可笑し過ぎる。

しかしそんなことは些事であろう。──ドアだけ残した不思議な状態と比べれば。

そう、ドア”は”あったのである。

肝心の、空間がなかった。ドアだけ残して、駄菓子屋のトイレは消えていたのだ。


「いやこれもはやドアでもねーよ。開閉しようにもドア枠無いじゃん、閉められないし開けられないじゃん。なんなら前後に揺らしてるだけだよね?ノブ掴んで前後に押し引きしてるだけだよね?」


怒濤のツッコミが炸裂した。そもそもドア、扉というものは建物の出入り口に取り付ける出入り、または内部と外部を遮断することを目的とした建具のことであり、間違っても何もない空間にポツンと存在するものじゃない。むしろそれは珍妙なオブジェだ。

こんなオブジェ残すぐらいなら全部無い方が遥かにマシ。主に思考に混乱を招かないためにも。


「なにこれ、ある種のホラーだよ。第三者にどう説明すればいいわけ?駄菓子屋のトイレのドアを潜ったらここに出て、ドアはその役割を放棄した珍妙なオブジェに成り下がりましたって言えばいいの?というか一番説明してほしいの俺なんだけど、俺が一番わかってないから、何もかもを。」


ヤケクソ気味にドアを手放し、鳥居の目の前で2礼する。ブオン、風の切る音がすさまじく、弥勒の自棄の度合いを表していた。

弥勒は寺社仏閣に訪れる際に気を付けていることがひとつある。それは、決して真ん中を歩かない、という点だ。弥勒のご近所には、そこそこ有名な神社があり、そこの神主とよく世間話をする仲である。実はその神主、昔相当ヤンチャしていたらしく、怒髪天を抜いたオカンに先代神主の元へ引き摺って行かれたらしい。その際に更正し、神社を引き継いでいるんだとか。弥勒はそれを聞いた当時、(いやそれ更正じゃなくて調教)なんて思ったが、キラキラとした瞳と比例して輝く神主の頭頂部を前に口を閉じた。

話は反れたが、今は善良な神主であるがやはり元悪。からかいとガチの話を混ぜ、「神様は道の真ん中をお通りになる。参拝者は端を通らないといかん。けんど、真ん中を通ったらば、神様に連れてかれるんや。ボクはそんな人をたーっくさん知っとる」なんてねっとりと話したのだ。今も子供だが、当時はまだ二桁にもいかない幼子。信じるに決まっている。それ以来何がなんでも端を歩くようになったし、誇張と嘘も混じってたと知った今もしっかり守っている。幼い頃の刷り込みは偉大なのだ。

とりあえず、この場には社以外になにもなさそうなので、下手に動けない社は後回しにし、適当に歩くことにした。もちろん、端を通って。社を勝手に開け、入ろうものならば天誅が下るだろう。


余談だが、神主の頭部は天然ではなく、カツラであることをここに記しておく。偽坊主頭の下には、鶏を思い浮かべるような特徴的な髪型が隠れているのである。この真実を弥勒が知ることは、今のところ特に予定はない。




その頃、駄菓子屋では、八千代が壁時計とトイレの方向を交互に見ては心配そうに眉を下げていた。トイレに行ったっきり何の音沙汰もない弥勒を不審に思ったのだ。蝉が煩わしさを感じさせる程鳴き声を上げる外を見る。日向には陽炎がゆらり、ゆらりと立ち上がっていた。こんな猛暑日だ、体調の急変だって可笑しくはないだろう。(体調悪くなって動けなくなったりしてる?それとも……)


「……もしかして痔なのかしら?」


弥勒が知れば「心外すぎる!」などと言いそうなものだが、実際長時間トイレに籠られれば体調不良か痔のどちらかが疑われる。


「ばーちゃん痔なんすか」

「違うわよ。ってあら、お稽古終わったの?くーちゃん」


八千代が振り向けば、駄菓子屋のドアから稽古着を纏った弥勒の友人が居た。くーちゃん、と可愛らしい愛称で呼ばれる彼は、店内をぐるりと見回した後、口を開く。


「まぁ、はい。ふりん家行ったんですけど、なんかまだ帰ってなかったみたいだし、散歩がてら迎えに……居ない、っすね」


弥勒にとってお節介な彼は、八千代から見たら世話焼きな弥勒の友人だ。特に迷惑そうにも、苦労してる風にも見えず、弥勒は友人に恵まれているなと度々感じさせる。その証拠に、普段から緩んでいる八千代の表情は、おっとりと更に緩んだ。


「あらあら、ありがとうね。でもねぇ、みーちゃんおトイレに行ったっきりでまだ出てこないのよぉ…」

「あー、あいつ腹壊しやすいから」

「そうなの。でも、いつも以上に長いからどうしたものかと思ってね?」


ちらり、と時計を見た八千代。


「え、どれくらいっすか」

「んーそうね、かれこれ40分くらいかしら」

「40分!?こんなクソ暑い日にトイレの個室に?!どんだけ踏ん張ってんだアイツ…」


友人は仰天したように声を上げる。心なしか引き気味だが、その声色に少しだけ心配も混ざっていた。


「大か小か、はたまた中か、なんて言いながら向かったのよ。ふふ、男の子らしいわね」

「いや、男がみんなあーゆうの好きとかじゃないんで……」


一緒にしないでほしいと切実に訴える彼に、八千代はやはり、おっとりと微笑む。心配しているものの、もう少し様子を見ることにした二人は、そのまま世間話に移ることとなった。


「へぶッしッッリメントリィ!あー、温度差?気温差?どっちだ。ばーさん心配してんのかな……」


そんな駄菓子屋でのやりとりを露知らず、弥勒は盛大なくしゃみで意味不明な単語を造りながら、当たらずも遠からずの予想をしていた。まさか痔の心配をされているとは思っていない。早く帰りたい気持ちに駆られながら、見知らぬ土地で探索を頑張っていた。




見知らぬ地は、とても疲れやすく成る。

弥勒は、どこをどう行けばいいのか全くわからない場所をただひたすらに歩いていた。ドア、基珍妙なオブジェの場所はわかっているから、引き返そうと思えば戻ることはできる。だが戻ったところで駄菓子屋のトイレには戻れない。

弥勒は後悔していた。トイレに立てこもっていたほうがややこしい事態にならなかったのに、と。自分の能天気さが、今だけは煩わしいのだ。


「まーじでどこだぁ?ここ」


独り言にしては大きな声でそうこぼすが、当然ながら返事が返ってくるはずもなく、音は木々に吸い込まれて消えていった。

直前まで汗をかいていたからか、この場所に来てからひんやりとした空気に晒され、肌寒さを覚えた。何か羽織ろうにも、生憎薄いシャツに黒いタンクトップしか無いため我慢するしかない。暑さにバテ、温度差に混乱する体は既に疲労を訴えている。


「だっるぃ…」


遠くから聞こえる蝉の鳴き声が、夏であることを示している。しかし、この空気に晒されてる身としては、なかなか信じられなかった。室内ならともかく、夏の外は恐ろしいのだ。水はすぐに蒸発するし、たしかに森の中や木陰は多少涼しいけれど、汗を引かせるほどじゃない。にも関わらず、弥勒は汗が引き、肌寒さに身震いする体に戸惑っていた。

それと共に、目の前に広がる光景にポカンと口を開けた。


「…墓?」


適当に歩いていたからか、弥勒は現在地を全く把握していない。そもそも見知らぬ地で場所の把握など滅多にできることでもないが。何かあるかもしれないとは思いつつも、まさか沢山の墓が転々と広がる場所に出るとは予想外だ。


「──伊達政宗?」


墓石に彫られたそれは、たしかにそう記されていたのだ。


「……え?いやいや待て待て待て!つーことはここって…」


ふと、頭によぎった。先日、バラエティ番組で取り上げられた、とある山。そこには、数多の偉人が墓を建てて席取りをしているという、理解できなかったこと。

この墓が存在するということは、即ち。


「ここ、高野山の奥之院かよぉーー!!」


まさかの雑学が、場所を特定するに役立った瞬間であった。

トイレのドアを開けた先は、高野山の奥の院でした。


「八千代ばーちゃんのトイレからなんでここに繋がってるわけ!?」


墓前で叫ぶのは非常に不謹慎であるが、弥勒の混乱はすごまじい。個人的に好きな武将が伊達政宗であるため、ほんの少しだけ興奮もしていた。たしかに、どこか神聖な空気を感じていた。けれど、ガチで神聖な場所であるとは思いもよらなかったのだ。ゾゾゾ、と鳥肌が立つ。


「一体、何がどうなってんだよ……」


精神的な疲労が重なり、重だるくなる体。弥勒は、深くため息を吐いた。

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