青木*りこ現象

杜侍音

青木*りこ現象


 青木りこ……君はとんでもない呪いを僕にかけたね……。

 君のことを思うだけで、僕の心臓はキュッと締められて、胃腸をギュルルと絞められたように苦しく、漏れ出ないようにとギュッと閉める。

 

 ──もし、僕がこの現象に名前を付けるとするならば……



   ◇ ◇ ◇



 高校三年の春。

 といっても、昨日卒業式を終えた方の春。

 僕は駅から直結で行ける商業施設内にある本屋へと足を運んでいた。

 ここ来た目的は本を購入することではない。あくまで手段として本を購入しに来た。

 先月からここでバイトを始めたという青木りこ──リコちゃんに会いに来たのだ。


 読書が趣味の彼女は、昔から本屋で働きたいと周りに公言していた。

 現在は家から通える私立大学の文学部に進学することが決まっている。そして、将来の夢は司書らしい。

 と、高校在学中同じ図書委員だった奴からそう聞いた。

 僕も図書委員だったが、リコちゃんと直接喋る機会はあまりにもなかったし、そういう気概を僕は持ち合わせていなかった。

 もう、夢を見つけてるなんて本当に凄いことだ。僕なんて楽そうってだけで図書委員を選んだだけだというのに。


 小柄な彼女は人当たりも良く明るい性格をしているが、図書室にいる時だけは日に当たらない暗いところでおしとやかに読書をしている……そのギャップがたまらない。

 まぁ、言わずとも分かると思うけど、好きだったのだ。

 が、結局卒業式でも告白することができず、連絡先すらも交換できず、このまま繋がりがなくなるところだった。

 でも、ここで働き始めたことを先週偶然知ったので、様子見と称して訪れたのだ。


 と、前置きが長くなってしまった。

 さて、リコちゃんはどこに──あ、いた。普通にレジ打ちをしている。

 まだ初心者ではあるはずだが、要領の良い彼女は既に上級者の教えなくとも次々と訪れる客を捌いていた。


 春は何かを新しく始めるには都合の良い季節。資格勉強のための本や趣味用の専門雑誌を手に持った人。月初めの今日は新作の小説や漫画も発売されるから、多種多様な人が本を買いに来ていて、本当に人が多い。

 来る日を間違えたか? いや、卒業して間もないこの時じゃないと顔を忘れられてしまう。そもそも名前すら覚えていないかもだけど。

 それだったら、今日から常連として顔と名前を知ってもらいたい。

 僕は赤本を持ち、長蛇の列の最後尾に並んだ。

 そうそう、僕は浪人が決定している。この一年間、苦労することをサボった罰だ。

 ただこの赤本は、東大の赤本だ。

 少しでも賢いアピールをしたい……東大の模試で名前を書いたことすらないけども、そもそも名前の知らない大学に落ちる学力だけども──


 ──まぁ、いいや。

 リコちゃんは僕の学力など知りようもないから。直接ほぼ話したことないのが幸いした。

 一人、また一人とレジに近付くにつれてドキドキしてきた。緊張し過ぎてお腹痛くなってきたよ……本当に痛いな……。


 んぐっ⁉︎ うぉ、こ、これは……便意だ……とんでもない便意が荒波となって押し寄せてくる‼︎ 

 下痢ラ豪雨は突如としてやってくる。外はあんなにも快晴だというのに!

 何でだ……今日は快便だったぞ……第三者からの呪術を受けたのか。クソッ、前に並んでる奴が呪術○戦を全巻一気に買ってやがる。もしかしたらこいつのせいで、俺は便意と開戦したってわけか……⁉︎

 って、勝手な妄想はここまでだ。

 腹痛を誤魔化そうと違うことを考えてみたが、効果なし。原因は分からないが、現に腹が痛い、辛い。


 ……そういえば、こんな話を聞いたことがある。

 〝青木まりこ現象〟──本屋に行くとよく分かんないけどトイレに行きたくなる現象。

 雑誌にこのあるあるを投稿した人が青木まりこさんだったから、そう呼ばれるようになった。科学的にも原因がよく分かっていない。


 この現象を知った時、正直僕は共感できなかったけど、これがそうなのか。

 いや、それとも好きな人を前にした緊張から来る時限定の現象か。

 青木まりこ現象……青木りこちゃんと名前が非常に似てるな。

 では今のこの状態を、僕は〝青木りこ現象〟と名付けよう──失礼か。君を想うとトイレ行きたくなるんですは、失礼極まりない。


 とか言ってる間に、もうすぐ僕の番だ!

 でも、腹痛で顔を歪ませている今の僕では会いに行きたくない。リコちゃんと対面してるのにウ*コのことだけ考えてしまってる状態がイヤだ‼︎

 一度、赤本を置いてトイレに行こう。スッキリしてからもう一度並び直せば──


「お次のお客様どうぞ!」


 ……目が合ってしまった。可愛い。

 大変に忙しいから、ちょっと慌てているのが非常に可愛い、じゃないんだよ。存在を知られてしまった!

 今、列を外れたら、(何しに来たんだろう、バイト先まで来るとかもしかしてストーカー?)なんて思われるかもしれない。

 ごく自然に、僕は本を購入しに来ただけなのを演出しなきゃいけないんだ!

 耐えろ……もう、次は僕じゃないか。


「お次、どぞー」


 ストップ! 便意‼︎



「……チッ」


「……んあ、ひゃい……」


 奥にもレジがあり、そっちから呼ばれた。

 そりゃあ、こんなに人並んでいたらレジは複数開けてるよな。

 ボケッとしてた僕の後ろに並んでいたおっさんの舌打ちに気付き、歩幅の狭い早足で奥へと歩き、赤本を現金で買った。



   ◇ ◇ ◇



「……ふぅ」


 僕は腹をさすりながら商業施設のトイレから出てきた。

 本屋の中にはトイレがないことが多い。少し離れたここに来るまで耐えられるか心配だったが、トイレに近付くにつれて安心感からか便意は収まっていった。

 結局、リコちゃんと話せなかった。

 まぁ、バイト中だし最初から無理なのは分かっていたけども。

 これから毎日、小難しい小説でも買いに行こうか。

 いつシフトに入ってるかは分からないし。常連にでもなれたらいつかしれっと連絡先交換できるかもだし。


「──あれ、毛利くん?」

「え、あ、青木さん⁉︎」


 なんと目の前に青木りこの姿が!

 てか、名前覚えてくれてたんだ。安堵したのと同時に……再び腹痛が来るかもしれない不安も来た。


「さっき買いに来てたよね。何の本買ったの?」

「うっ、えっと、赤本……と、東大の」

「え、すごい! 毛利くんって頭いいんだね」

「ろ、浪人、だけどな」


 ヤバい、緊張でガチガチに筋肉が張って上手く話せない。

 ダメだ、やっぱりまた腹が痛くなってきた……。これが、青木リコ現象……!


「あー、そろそろ通っていい?」

「え、あ、うん」


 トイレまでの通路の真ん中で、塞ぐようにして突っ立てた僕。

 そうか、書店員特有のエプロンを外したリコちゃんはトイレに行きたいんだ。ここにいるから、そりゃそうだ。


「本屋さんにいるとさ、トイレ行きたくなるよね。これ、青木まりこ現象って言うんだって。わたしと名前似てるー」

「ははっ……」

「じゃあ、勉強頑張ってね」


 横をすり抜けて行くリコちゃんに、あ、いい匂いする。


「……あ、あのさ!」


 僕は必死の思いで呼び止める。


「ん?」

「……また本屋に行くことあると思う。教材とか問題集買うから」

「おお、お買い上げありがとうございます」

「その時は、よろしく……」


 ──言った……。連絡先こそまだ交換できないが、また購入しに来るよと宣言した。

 小さすぎる一歩目だが、確実に歩みを進めていこう……!


「あ、わたしバイト辞めるよ?」

「え、早くない?」

「うん。なんか店長と合わなくて。時給もそんなだし」

「そ、そう……違う本屋で働くのか?」

「ううん。彼氏が働いてる居酒屋にすると思うよ」

「……そ、そっか」

「うん。じゃあ」



 ……スーッ、青木さん彼氏いたんだ……。


 その事実を知り、不思議と腹痛はすーっとなくなっていた。

 僕は早歩きで即座に家に帰り、購入した重い赤本をベッドに投げつけた。


 ──その晩、僕はいつの間にか疲れて寝てしまっていたようだ。今度は首が痛いし、なんか湿っている。

 いつの間にか枕となった赤本が濡れていることに気付いたのは、もう少し後のことである。



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