第10話 幻のマヨイガ

 はるか前方に現れたオオカミと目があった丹子が、びっくりして叫ぶと、そこにいる全員、オオカミの姿をひたと見つめた。


「いいか、背中を見せちゃダメなんだ!やつらの目を見続けながら、後ずさりして逃げるんだぞ!そこの人も、もっとこっちへ近づいて来て!」


 放送局のチーフ、本間が七未子に小声で声をかけたそのときだ、オオカミが地面を蹴ってやにわに走って向かってきたのだ。


「逃げろ!」


 清水がそう言って、走り始めたとたん、おどろいたことに、ふいに目の前に黒い門のある大きな屋敷が現れたのだ。


「おい、何だ、あの屋敷は?さっきまでこんな場所にあったか?黒い鉄門のある立派な屋敷……ひょっとすると、まるっきり遠野物語のマヨイガじゃないか!俺たちは夢を見てるのか?」


「とにかく、屋敷の中へ飛び込め!入ったらすぐ黒門を閉めろ!」


 いちばん最後にかけこんだ七未子は大あわてで、黒門の中へ走り込むと本間が寸前のところで門を閉じた。


 牙をむいて七未子のしょっていたバッグを噛みちぎったオオカミは門の中へ入って来ようとはせず、低く唸り声をあげながら門の前をうろついたが、やがて、くるりと背を向けて走り去ってしまった。


「これって、ひょっとすると、遠野物語に出て来るとつぜん現れて、入った人間を裕福にしてくれるマヨイガっていうやつですか?そうなると、屋敷の中から何か持って出ないといけないんでしょう?」


 勇太が不思議そうな目で屋敷を眺めているのを見た七未子は、やっつけで読んだ遠野物語のマヨイガのくだりを思い出した。


「いや、そんなことより、また襲ってくるかもしれないから、どうやって引き返すか、無事に山を下りることの方が先決問題よ!」


 市子や丹子は、仕方なく、女神としての神通力を発揮して、マヨイガを出現させて、みんなの危機を救ったので、勇太ののん気なことばをさえぎってこの先の危険を想像して言った。


《このマヨイガって何なの?こいつのおかげで何てこと!こんな時にあらわれるなんて、また失敗じゃないのよ!》


 宇慈子はとつぜん出現したマヨイガなるものを見て頭に来ている。


「チーフ!き、きてください。さっきのオオカミの姿がカメラに写ってないんです!せっかくスクープにしようと撮ったのに……」


「なんだと!津田!そんなバカな!それじゃ、あいつらは幻だったと言うのか?」


 まぎれもなく、カメラの録画した映像には、おどろいたことに、ろくすっぽ殺風景な景色しかない写っていないのだ。


 穴の開くほど画面をのぞきこんだ本間は、背筋にぞっと悪寒が走ったが、みんなを動揺させてはいけないと考えて、それをおくびにも出さず鼻であしらうように言った。


「いやはや、きっと、このカメラの具合が悪かったのかもしれないからな!なにせ、このカメラは使い古した年代物だからな。これだから機材の老朽化は困るんだ!あとで局に戻って調べてみるさ!さあさあ、こんなところは一刻も早く動こうや!」


 本間はこわごわ登山道をのぞきこむと、黒門をギィっと開けて門の外へ出た。


「ほら、もう大丈夫だ!オオカミなんぞ幻かもしれないさ!みんな出ましょうよ!」


 すると、振り返った全員の目を疑うような、とんでもないことが起きたのだ。


「あっ、あっ!屋敷が、屋敷の様子が変ですよ!だって、どんどん透明になっていきますよ!おおっ、消えてしまう!」


 津田がわめくように言うと、マヨイガと思われる屋敷全体が跡形も無くかき消えたのだ。


「なんと、ほんとうにマヨイガだったんだ!……信じられない!」


 この不思議な体験に、誰もが足を震わせてその場に立ちすくんだ。

そんなはずはないと思った七未子は、胸をどきつかせてスマホを取り出し撮ったはずの屋敷の写真に目をやったが、こともあろうに津田と同様、屋敷の姿はみじんも写っていなかった。


《それにしても、実に不思議だわ!幻を見るってこういうことを言うのかしら……》


「ねえねえ、こんなところ退散しましょう!わたしたち、きっと、早池峰山のおかげで、どうかしてしまったのよ!早く下山して正気にもどらないと、ますます、おかしくなってくるかもしれないわよ!」


 自分たちの不思議な力でマヨイガを出現させた市子や丹子が業を煮やして叱咤すると、一行は、あちこちをキョロキョロと警戒する様子を見せながら、むっつりと黙ったまま、静まり返った登山道をそそくさと下り始めた。


 うしろから付き従うように歩く宇慈子は、度重なる失敗に、自分を邪魔する何者かがこの山にいる気がして、もう一度オオカミを呼び出す気力を失ってしまっていた。


 途中、丹子と市子は蚕子に言い始めた。


「こりゃ、やっぱり、宇慈子が人間になろうとするのを本気であきらめさせた方がいいわね。どっちみち、宇慈子には人間になるためのバランスの取れた心はまだ出来上がっていないわ。狂気じみた心が顔を出す余地がことのほか多すぎるわよ」


「だとしたら、宇慈子に人間になることをあきらめさせるにはどうしたらいいわけ?」


 三女の蚕子が眉をひそめて、問いかけるような口調で言った。


「なにしろ、今の宇慈子に私たちの忠告なんて聞く耳はもっていないわよ。こうなったら力ずくでわからせるしかないわね」


 短気な丹子はいまいましそうに言うと、市子の頭にふいに何かひらめいた。


「ちょっと待って、いい手を思い付いたわ!あの占い師に協力してもらうのよ!」


 丹子はけげんそうな顔で聞き返した。


「ええっ?いったい、どうやって?」


「もちろん、占い師だから占いを使うのよ。あの占い師に宇慈子が人間になれるって占いをさせるのよ」


「そりゃ、人間になりたくって仕方ないんだから喜ぶわね」


「そこを逆手にとって、だまして、どこかに閉じ込めてしまうのよ。そうね、人間が多く集まっていて、まるっきり人間になった気がするところがいいわね!」


 市子は瞑想に沈むかのように考えを巡らせた。


「どこよ!どこ?そんな場所あるの?」


 せっかちな丹子がまた問いかけた。


「この町と比べればいくらだってあるわよ。仙台だって、東京だって、大阪だって、そんなのあの子が選べばいいことよ。そうした場所に連れ出して閉じ込めれば、身体なんてなくたって、女神としての活動に不自由はしないわ。そうすりゃ、人間となったように勘違いするのよ。まあ、千年くらい閉じ込めておけば、まんざら人間になれるくらいの心のバランスを身につけることができるかもしれないわね」


「いいわね!それで行きましょう!あの子がどこを選ぶかってことね」


「それなら目星はつくわ。わけても、銀座っていう人が多く集まる場所が東京にあるんだけど、よりによって、稲荷を信仰している神社がちらほらあるのよ。稲荷のもとって女神なんだからさ、差し当たり銀座の守り神にねじこんでしまいましょうよ」


 こうして三姉妹の計画は下山場所のバス停に着くまでに、おおよそ練られた。

 

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