彼のスマホを覗いたら
惣山沙樹
彼のスマホを覗いたら
それは、ほんの出来心だった。
「これって……」
わたしは愕然とした。酒井留美とのメッセージのやり取りには、決定的な文章があった。
『先にホテル入ってる。三〇一号室』
それから、わたしはメッセージをさかのぼって行った。三ヶ月に一度ほど、彼女とは会っているみたいだった。やりとり自体は酷く素っ気ない。待ち合わせをし、ホテルに行く。そういう関係。わたしという彼女がありながら、樹はこの女とそういうことをしていたのだ。
怪しさなんて微塵も感じていなかった。わたしと一緒に居るときは、樹はスマホを見ない。いつも愛しているよだとか、大事に想っているよとか、そんなことを言ってくれる。
わたしはどんどん零れ落ちてくる涙を袖でぬぐった。そして、決意した。樹のスマホから、酒井留美に通話することにしたのである。
「もしもし? 何?」
苛ついた様子の女の声がした。樹とのやりとりで通話はしていなかったから、意外に思っているのだろう。
「わたし、
一瞬、沈黙があった。わたしは反撃に構えた。けしかけたのは、わたしからだ。酒井留美という女がどのような人物なのか、あのライン履歴からはまるで分からなかった。彼女は一体、どう返してくるのか。
「今、会社の昼休みなの。だからそんなに長く話はできない。で、何?」
わたしは大きく息を吸った。
「樹とどういう関係なのか、教えてください」
「……答えにくい質問ね。塩屋のスマホからかけてきたってことは、ラインの履歴でも見たんでしょう? それで分からない?」
冷たい口調だ。でも、くじけてはならない。
「酒井さんの口から直接、聞かせて欲しいです」
「はぁ、わかった。じゃあ直接会いましょう。今日、終業後なら会えるけど」
まさかの展開になった。わたしの鼓動は早くなった。でも、会ってみたいという欲求には勝てなかった。
「お願いします」
彼女が指定したのは、ファミレスだった。わたしはどんな服装をしていけばいいのか迷った。樹が褒めてくれた水色のワンピース。ううん、これじゃない。わたしは黒いニットを取り出した。下はデニムだ。これに白いコートを合わせよう。履くのはもちろんヒールだ。
髪はどうしようか。伸ばしかけの茶色いセミロング。少し内巻きにしていこう。メイクも万全に。すう、はあ、と呼吸をする。スマホが無いことに気付いた樹は、きっとわたしの家に来ようとするだろう。それを留守にして、あの女と会うというのだから、緊張しないはずがない。
カツ、カツ、とヒールの音を鳴らしながら、わたしはファミレスの前に立った。時間ぴったりに、その女は現れた。グレーのパンツスーツにベージュのトレンチコート。髪は黒くロングで、それを低い位置で一束にまとめていた。メイクは薄い。顔立ちは、わたしとは全く違う。わたしと同じ二十代だろうか? マスクをしているので、それすらよくわからない。
「塩屋の彼女、って子はあなた?」
「はい。
ヒールを履いている分、わたしの方が背が高かった。いや、それを差し引いても、彼女の方が低いのだ。なので見下ろす格好で、わたしは彼女を睨みつけた。しかし、彼女はすっと目を逸らしただけだった。
「とりあえず、入りましょうか」
四人掛けのテーブル席へ私たちは通された。彼女はタッチパネルを操作し、さっさと自分の料理をカートに入れてしまった。タブレットを渡されたが、わたしは何も食べる気がおきず、ドリンクバーだけを注文した。
「あたし、お腹空いてるから、遠慮なく食べちゃうわね」
「はい」
わたしはウーロン茶を、彼女はアイスコーヒーをドリンクバーから取ってきた。まずは料理が来るまでの間だ。マスクを外した彼女の顔を真正面から見た。幼い印象だが、肌のたるみは隠せない。きっと樹と同じアラフォーだ。こんな俺に若い彼女ができるだなんて幸せ、だなんて言っていたのに、結局同年代とも会っていたんじゃないか。
「美由紀ちゃん、って呼んでいい?」
「はい、酒井さん」
「美由紀ちゃん、何歳?」
「二十一歳です」
「若いね。大学生?」
「はい」
樹と出会ったのは、わたしのバイト先の喫茶店だ。昔ながらのタバコの吸える個人営業の店で、喫煙しによく訪れていた樹にわたしは声をかけられ、そこから交際が始まった。この前無事に付き合って一年を迎えていたし、順調にいっているとばかり思っていた。
「こんな若い子に手を出していたなんてね。塩屋もよくやるわ」
「……酒井さんは、おいくつなんですか」
「塩屋の一つ下よ」
ということは、三十五歳か。樹が年齢を偽っていなければの話だが。この女の存在が出てきてしまった以上、彼の言うことのどれもが信用しがたくなってしまっていた。
「樹とは、どこで知り合ったんですか」
質問は具体的な内容にした。この調子でどんどん詰めていってやる。
「会社の同期」
「ということは、出会って十年くらいですか?」
「ええ」
彼女の注文したオムライスが来た。一旦会話は止まり、彼女がそれを食べるのをあたしはウーロン茶をすすりながら見ていた。上品な動作だ。わたしのことなどまるで気にせず、優雅にスプーンを口に運んでいく。彼女が食べ終わったのを見計らって、わたしは次の質問をした。
「樹とは、いつからなんですか」
「いつからって?」
「その、いつから付き合ってたんですか」
彼女は自分の前髪に触れ、困ったように眉根を寄せた。
「付き合っちゃいないわ。単なるセフレよ」
「セフレ、ですか」
わたしは彼女のスーツの下の姿を思い描いた。これを、樹は抱いたのだ。抱いていたのだ。わたしに甘い言葉を囁くその裏で。
「あたし、旦那も子供も居るのよ。だから塩屋とは身体だけ」
「なっ……不倫じゃないですか!」
「そうなるわね」
まるで何でもないというかのように彼女はかぶりを振った。
「だから塩屋が好きなのはおそらく美由紀ちゃん。だから安心して」
安心なんてできようか。まさか、自分の彼氏が既婚者と関係していただなんて。好きとか嫌いとか、もうそういう問題じゃない。
「酒井さんは、それでいいんですか」
「うん。だから塩屋とも続いてる。入社してすぐからだから、もう十年になるかな」
十年という期間の長さをわたしは思った。樹と付き合ってからの一年間なんかじゃまるで揺るがせない。そのくらいの年季だ。彼女はアイスコーヒーが無くなり、もう一杯を入れに行った。その間、わたしは唇を噛み締めて耐えていた。
「それで? 美由紀ちゃんは、こんなオバサン呼び出して何がしたかったわけ?」
彼女の口角がいびつに上がった。本当だ、わたしは何がしたかったんだろう。樹が浮気をしていると知って。ショックで。通話ボタンを押して。呼び出して。それから樹とどうなろうというのだろう。
「わたし、樹のこと、諦めたくないんです……」
ぽろ、ぽろ、と抑えていたものがこぼれ始めた。すると、彼女はタオルハンカチを差し出し、軽くぬぐってくれた。少しだけ触れた彼女の指は、温かかった。
「年の差だけど、上手くいっていたんです。わたしが卒業したら、結婚してくれるんだろうなって思っていたんです。そのくらい、いつも愛してるって言ってくれて」
「そっか」
彼女は両肘を机に乗せ、指を組んでその上にあごを乗せた。つん、とつきあがった唇が、なんだか色っぽかった。
「もう最後の恋になるんだって思っていたんです。彼となら、幸せな家庭を築いていけるかもしれない、そう思っていたんです」
「残念だね。塩屋にはもう結婚願望は無いよ。三年前に離婚してるって話、聞いてる?」
初耳だった。わたしは目を丸くした。
「知らなかったんだ。まあ、そういうことは隠すか、あいつなら」
「そんな……」
わたしは我慢しきれず泣き崩れた。震えるわたしの肩を、彼女は優しくさすってくれた。
「そんなに好きなんだね、塩屋のこと」
「好き……ですっ……」
どのくらいそうしていたのだろうか。きっとメイクはぐちゃぐちゃになっているだろう。彼女が手渡してくれたタオルハンカチで、丹念に顔をこすった。マスカラがはがれてついた。
「まあ、塩屋とも腹を割って話しなよ。あたしは美由紀ちゃんの存在は知らなかったけど、あいつが一人の女じゃ満足できない奴だってことくらいは知ってる。一途に想っても、しんどいだけの相手だよ」
わたしはスン、と鼻をすすった。
「それでも、好きなんです。どうしたらいいですか?」
彼女は頬をかき、天井の方を向いた。
「どうしたら、ってねぇ……。例え結婚したとしても、あいつの女癖は治らないと思うし、それを我慢するしか無いんじゃないかな」
絶望的な回答だった。樹はわたしだけを見てくれていると思っていた。だからこそ、わたしも樹だけを見ていたのに。
「まあ、美由紀ちゃんもまだ若いんだ。いくらでもやり直しはきくよ」
「でも今は、樹以外の人なんて考えられません……」
そうなのだ。彼女の存在を知ってなお、樹への想いは消えなかった。むしろ、くすぶるかのように、わたしにまとわりついて離れなかった。樹。わたしの大切な存在。
「っていうか、塩屋の何がそんなにいいわけ? 大学生だったら、他に出会いもあるでしょうに」
「樹だからいいんです。広い額とか、笑い皺とか、たまに見える白髪とか」
「オッサン好きってこと?」
「いえ、違います。樹のくれる言葉とか、優しい手だとか、そういうの、ひっくるめて全部、樹だから好きなんです」
彼女は長いため息をついた。わたしったら、一体何を言っているんだろう。相手は憎いはずの女なのに。でも、樹という男を共有する相手でもある。
「……酒井さんは、樹のどこが好きなんですか?」
「んー? セックスの相性?」
小首を傾げ、彼女はそう言い放った。セフレだと言うのだから、当然か。
「あいつ、セックス上手いでしょう?」
「そういうのは、よく、分かんないです……。わたし、経験少ないので」
樹は三人目の彼氏だ。初めての彼氏とはセックスをしていないから、実質の経験人数は二人。上手さがどう、だなんて、考えたことも無かった。
「まあ、アレだ。あんたらが話し合って、もうあたしとは会わないってことになったら、あたしは大人しく身を引くよ。それは、あたしと美由紀ちゃんの間での約束」
彼女は小指を差し出した。あたしは指切りに応じた。でも、こんな約束をしたって、樹への信頼が回復するわけじゃない。
「わたし、樹とちゃんと話します。話して、わたしだけと付き合って欲しいって伝えます」
「そう。諦めないんだね」
ポンポン、と彼女に頭を撫でられた。わたしは彼女の丸い瞳を射ぬいた。寂しそうな目だった。
「じゃあ、あたしそろそろ帰るから。旦那も子供も待ってるし」
会計は、彼女が持ってくれた。あたしは重い足取りで自宅へと向かった。ドアの前には、愛しい人が立っていた。
「……樹!」
わたしは駆け出した。
彼のスマホを覗いたら 惣山沙樹 @saki-souyama
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