19 恋知りのつるじゅわゼリィ 漆
錦玉羹が入ったお重を抱えた杏は口元がゆるむのを我慢することができなかった。克哉にも料理長にも、たまたま居合わせた女中にも杏の作った錦玉羹を褒めてもらったからだ。
「鈴美屋の餡は一等、美味い」
克哉の賛辞は自分を褒めたわけではないのに、一等、嬉しい。帰って父に伝えたら、当たり前だと誇らしげに笑うだろう。
赤かった空は闇夜になる前の紫だ。
遅くなりすぎてしまった。杏は晩ご飯の手伝いをしなくてはと急ぐ。
裏通りを抜けると夕食の香りに混じって、焦げた匂いがした。何処だろうと帰り道を駆けながら探れば、家の裏口からだ。兄ならいざ知らず、父と母が失敗するなんて珍しい。
台所に入ると同時にただいま、と声をかける。竈を見れば、焦げ付いた鍋はそのままで、薪には水がかけられた跡があった。作業台も昼に出た時と同じで、不格好な大福だってたんまりと並んでいる。
なのに、父と母の姿が何処にも見えなかった。返事もないことを不思議に思って、あたりを見渡しても置き手紙はない。
つんとした匂いを追って棚の影を覗き込めば、父がうずくまっていた。
不安に押しつぶされそうな声で呼びかけてみる。何事か返してくれるが、かすれていて聞き取れなかった。
駆け寄ろうとすれば、弱々しく手が上がり、それ以上近付くなと示す。毎日、重い釜や鍋を何十回と持ち上げる腕が細くなったように見えた。
物音に振り返れば、厠から母が出てきたところだった。倒れそうになる体を壁に手を突いて何とか持ちこたえる。青白い顔で無理に笑って見せようとしたが、逆に痛々しい。杏が泣きつく前に、母は目で制した。
「杏ちゃん、お医者様を呼んできて。ごめんね、父ちゃんと母ちゃん、動けそうにないの」
今にも泣き出しそうな娘の鼻はつまんではやれない。だから代わりに母は精一杯の笑顔を見せた。
「お医者様の所で、病人の子供を預かってくださると聞いたわ。ちゃあんと言うことを聞いてお世話になってちょうだい」
さぁ、と促す母の言葉を遮って、父がえずいた。
慌てて駆け寄ろうとした杏に母の声が飛ぶ。
「触っちゃだめ!!」
あまりの気迫に、杏は抱えていた風呂敷を落としてしまった。後を追うように、団子の包みも落ちていく。拾うことも動くこともできず、足は縫い付けられたようだ。
布の端から黄色の欠片が飛び出していた。歪んだ風呂敷の中身は簡単に想像ができてしまう。
父も母も喜んで食べてくれると楽しみにしていたのに。
父に追加のこし餡を頼もうと思っていたのに。
母の言葉は理解できているはずなのに、景色が回る。逃げ惑う心をなだめる術を杏は知らなかった。
浅く息をする娘に、母は自分に出来うる一番のやさしい声をかける。
「家のものにも一切触ってはだめよ。杏ちゃんならできるわ。待ってるから、いってらっしゃい」
さ迷う瞳が、強く笑ってみせる母を映した。
辛いのは自分ではない。そう、崩れ落ちそうになる自分を叱咤する。暮れなずむ町を、杏はなりふり構わずに駆けた。
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あまりの呆気なさとあんまりな言われように杏の心はぴたりと動かなくなってしまった。
父と母は最後に会った二日後に亡くなったらしい。死に目にも会えず、最後もやんわりと濁された。助けられなくてすみませんと詫びた医者は眼鏡の奥の目を伏せた。
「二人ともあなたやお兄さんの無事を祈って逝かれました」
医者の言葉が耳を通りすぎていく。
杏がいくら子供だといっても、
そう思えたのは、周りにいた自分以外の子供も親を亡くしたからかもしれない。慰めてくれるのは診療所に身を置く人達だけで、杏は膝をつく暇もない彼らに遠慮した。
夜が明けても心が晴れない。止まったと思ったら、何も考えていないはずなのに涙が後から後から溢れる。
父と母が失くなった翌日、言伝をしてくれたのか、叔母が訪れた。泣きはらした顔を痛ましそうに見て、淡々と話してくれる。
店は餅屋を営む叔母の家が預かること。兄は奉公していた和菓子屋が養子として引き取ってくれること。
それから、心底申し訳なさそうな顔でうちでは引き取れないと言われた。年もちょうどいいから製糸場で働いてみてはどうかとも。三食の飯がつき、きちんと休みも取れるという。何処か他人事のように聞こえた杏は曖昧に頷いた。
ゆっくり考えて、と叔母は去っていく。見送りをしなくても、誰も咎めなかった。
自分のことを心配しなければいけないのに、杏の頭は意固地に拒否をする。一人で生きなければいけないのに、覚悟も力もない。
食べ物が喉を通らなくなって、どうにかしたくてもどうにもならなかった。飲みなさいと注意されて口にふくんだ水さえ、味が何処か遠くへ逃げてしまったようだ。匂いもしなくなったものをどうやって食べていたのだろうか。
五日ほど過ぎ、家に帰ることを許された。診療所の下働きが片付けた後なので問題はないという。
家に辿り着けば、父の姿も母の姿もなく、落ちた風呂敷もない。鍋は何処に仕舞われたかわからなかったが、作業台にはすぐにでも使いに行けそうな空のお重だけが控えていた。
金は診療所で預かってもらっているので、祖父母の位牌だけを持ち出す。家を後にした杏は裏口で辰次とミネに出くわした。
互いに驚いた顔をして、辰次とミネは後ずさる。
鈍くなった心がちりりと痛んだが、杏は何かを言う気持ちにはなれなかった。
「物音がするから泥棒かと思って」
言い訳じみた辰次の言葉が、何処かに遠くで聞こえた。
ミネのまっすぐな目も戸惑いの色を隠せていない。
杏も噂を耳にしていた。
鈴美屋の菓子を食べたから
そんなことがあってたまるかと医者の奥方は激高してくれたが、原因がわかる人なんていないのだ。
意思の強そうな眉の下にある瞳も、楽しそうに輝いていた瞳も、恐れの色を押さえ込もうとして、できていなかった。
小さく頭を下げた杏は二人の脇を抜ける。いつも通っていた道を一所懸命に駆けても、誰も声をかけてくれない。迷惑そうに顔をしかめられて、ここには帰れないと悟った。顔色をうかがいながら過ごすのも嫌だし、父や母のことをさらに悪く言われたらたまらない。
無意識に慣れた道へと進む足を誰が止めてくれようか。草履が何処かにいっても構わずに走り続ける。
泣き虫で意気地無しの自分が、滲んだ視界でも道を違えない自分が、情けない。
誰にすがり付こうというのか、もう分かりきっていた。できるわけがないとも、解かっているのに、卑しい自分を止めることができない。
振り切るように走っていたが、いつも手を合わせていた地蔵の横で限界がきた。あえぐように息をして、うずくまる。
杏は足が動かないことに安堵した。最後まで駆けていたら、後悔することは決まっている。
朝の澄んだ空気さえ苦しい。体に、心に入ってくる全てが刺さって、えぐっていく。
「父ちゃんの餡、食べたい」
絶対叶わない願いを口にしてしまったと、杏は後悔した。
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