20 恋知りのつるじゅわゼリィ 捌

 何とか診療所にたどり着いた杏は厳しい顔をした奥方に呼び出された。何かしてしまったかと心配していると、目の前にゼリィが置かれる。透明な器の中央には好物のアンズまで入っていた。

 もう、アンズの季節になってしまったのか。あんなに待ち遠しかったのに、置いていかれたようだ。さみしい気持ちがよぎり、彼女の気遣いに胸が傷む。

 質素倹約を体現した料理ばかりを出しているというのに、杏だけが特別扱いを受けるわけにはいかない。

 一言謝ろうとした杏の耳に思いがけない名前が飛び込んでくる。


「本条家の方が来られて、できたら顔を見たいとおっしゃっています」


 すぐには返事をできなかった。

 本条と名乗れるのは、当主か、その一人息子だけだ。洋菓子を携えてきたということは、答えは決まっている。思い浮かんだ笑顔が空っぽの心をざわめかした。


「ひとくち食べてからでも間に合いますから」


 静かな声で言い終えた奥方が席を空ける。押し付けない心遣いが、嬉しかった。

 障子窓からの横日がゼリィを照らす。器で固めたのではなく、掬い入れたのか、わずかな起伏が見られた。様々な角度で光を輝かせ、流れる川を思い起こさせる。半分に割られたアンズは水面を楽しむ小舟のようだ。二つとも動いていないはずなのに、仲良く遊んでいるように見えた。

 杏は手持ち無沙汰に匙を撫でた。銀のスプーンではないのだなと考えて、慣れ親しんしまっている自分がみっともない。

 食欲はわかないのに、ひとくちだけと心がささめく。

 匙をつまみ、そっと差し込んだ。不思議なほどに感触がない。

 匙を握り直し、ゼリィをすくう。ぎりぎりのところで形を保っているゼリィを口元に運んだ。

 つるりとすべり、じゅわりと溶けた。

 何もなかったのではと感じるほどに跡形もない。アンズの甘やかな香りだけが鼻を抜けていく。

 ずいぶんと喉が渇いていたらしい。気付けば、ふたくち目が口の中で溶けていた。

 さんくち目、熟したアンズの果肉が舌の上でつぶれた。

 よんくち目、甘みが体に染み渡る。

 ごくち目、蜂蜜のやわらかな甘みと酸味を追いかけた。

 ろっくち目、奥行きを持たせるエグ味を見つける。

 感覚を研ぎ澄まし、ひとくちひとくちを大切に噛み締めた。久しぶりの感覚は痛いほどに刺激が強く、体の全てが歓喜する。

 どうして忘れていたのだろう。暴れる感情に胸が押しつぶされ、熱を持ち始めた鼓動が狂おしい。あんなに苦しかった涙が愛しい。


「おいしい」


 もう二度と味わえないと思ったのに、まだ美味しいと感じられる。なんて幸せなことだろう。何ものにも代え難く、震えるほどに嬉しい。

 いつから泣いていたのか、頬を伝う滴の感覚はずいぶん前に無くなっていたように思う。

 空の器に雫が落ちた。

 会いたい、会って礼を言いたいという衝動にかられた杏は目元を拳でぬぐい、障子を開け放つ。

 体が、外の空気が美味しいことを思い出していた。

 また込み上げて来るものを顔を上げて必死に耐える。

 滲んでも、世界が美しいことは変わりなかった。

 名前を呼ばれたような気がして振り返ると、縁側の角に今一番に会いたい人がいる。

 杏を瞳に映した克哉が安心したように笑った。


「いつまでも待ってやるつもりだったが、さすがに押し入ろうかと思ったぞ」


 茶化しているのに、あたたかい。顔に力を込めて泣くのを我慢した杏は克哉の傍らに正座した。彼の目を真っ直ぐに見つめて、伝える。胸に生まれた想いを届けたかった。


「美味しかったです。有り難うございます」


 震えた声でも克哉は笑わない。

 杏はとうの昔に知っていた。きっと胸に抱えてきた想いは揺るがない。

 目を細めた彼が名前をもう一度呼んでくれる。

 杏は克哉の言葉を待った。


「うちに来るか」


 答えが見つからなかった。数瞬遅れて、迷惑になると理性が訴える。身動きの取れなくなった杏は自身の膝を見つめた。

 両手をついて空を仰いだ克哉は砕けた調子で続ける。


「うちにはこわぁい鬼がいてな。女中を雇っても数日で暇を出すことが多い。杏なら、大丈夫だろう。ツネも子供をとって食いはしない」


 杏の脳裏に背筋を伸ばした女中が思い出される。厳しい物言いをするが、鬼ではない。克哉にはきつく当たるが、優しい人だ。

 可笑しそうに喉の奥で笑い、細めらていた目だけが動いて、杏を映す。


「お前の店も、俺が預かった」


 驚きで言葉を失う杏は克哉を凝視した。

 あの立地なら何をしてもよさそうだよな、と彼は自慢げで、杏のことなんて頭にないようだ。期待する自分が馬鹿だったのだと落ち込む杏に、でもなと克哉は掌を返した。何処か愛嬌のある目が杏を射抜く。


「やっぱり鈴美屋の餡が一番だ」


 アン、また作ってくれ、と屈託なく笑われてしまっては、太刀打ちできない。

 そんなに甘やかして何がしたいのか。

 震える唇が自分のものではないようだ。


「できません」

「大丈夫。お前ならできる」


 なんて無責任な言葉をぶつけてくるのだろう。できるわけがないじゃないか。一等、美味しい餡は父だからこそ練り上げられたのだから。

 身近で見てきたからこそ、一番味わってきたからこそ、父の想いがわかるからこそ、杏は踏みにじることができない。


「できるわけないです」

「決めつけるなよ」

「簡単に言わないでください」

「じゃあ、アンが美味いって思う餡を作ってくれ。そうしたら、店を返す」

「脅しです」

「賭けだよ」


 杏は黙りを決め込んだ。杏だって、譲れないものは譲れない。

 握りしめた拳を、細く長い指が叩いた。

 反射で開いた小さな手に血が巡っていく。


「あまり気負うな。作りたくないって言うなら、無理に作らなくてもいいんだ」


 俺が楽しみにしてるだけだから、と克哉は軽い調子で続ける。


「まぁ、何処かに消えるのはなしだぞ。アンの舌は唯一無二だ」


 克哉は深く頷いてはいるが、杏の心は冷めてしまった。舌にしか用事がないと公言されたも同然だ。感動を返してほしい。


「あの、製糸場で世話になることもできるので――」

「そこに行ったら、俺の作った洋菓子が食えなくなるぞ」


 食い意地がはってるわけではない。はっているわけではないが、克哉の指摘は杏の決心を鈍らせた。

 杏の表情を読み取った克哉は屈託なく笑う。


「うちに来い、アン。お前には食べさせてやりたいものが山のようにあるんだ」


 杏は目の前の人を罵倒したくなった。

 いつも身勝手なことばかり言うくせに、そうやって、いとも簡単に人の心をかき乱す。

 すぐに頷くのは嫌で、杏は口をきつく結んだ。

 克哉は答えがわかっているのか、悠長に見物する姿勢を取っている。

 断る方へ気持ちが傾き始めた杏の目に見覚えのある姿が飛び込んできた。

 正門からこちらへと突き進んでくるのはミネだ。乱れたところを見たことがないひとつにまとめた団子が爆発しかけている。


「杏ちゃん、ごめんなさい!」


 あまりの声量に、杏は座ったまま飛び上がってしまった。

 ミネは勢いのままに捲し立てる。 


「親にね、近寄るなって言われたのよ。危ないからって。私だって知ってる。危ないのよ、無闇に近付くものじゃないって知ってる。病気になるのは嫌だし、恐いのよ、恐いに決まってる」


 でも、とミネが声を荒げる。


「でもね! 杏ちゃんがいなくなる方がもっと恐いと思ったのよ!!」


 信じて、と杏の手にミネが両手ですがる。

 潤んだ瞳に驚いた自分が写しこんできた。


「杏ちゃん、一緒に三浦家で働こう! 私、頼んであげる」


 少し悩んだ末に、杏はゆるゆると頭を振った。

 正門に辰次の姿も見付けて、疑う自分が馬鹿だったと気付く。

 視線を戻せば、片眉を上げて肩をすくめる克哉と瞳を揺らすミネがいた。

 心はすでに決まっていたらしい。息を吸った杏は顔が自然と綻ぶのを感じた。友を見据え、決意を伝える。


「わたし、克哉様のところで頑張る」


 








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