03【1品目】恋知らずのほろにがケーク 参


「口を挟む無礼をお許しください」


 控えていた女中がぴしゃりとした声で許しを請うた。

 手を止めた克哉は首を傾げながら、なんだと促す。


「克哉様。相手の様子を見て、ちゃんと説明してくださいませ」

「そのつもりなんだが」


 克哉の返しに、女中はわずかに目を細めると深く礼を取った。顔を上げると同時に杏に体を向ける。


「このアップルパイは克哉様が作られたもので、りんごを使った洋菓子でございます。克哉様は英国ヱギリスに五年間、留学されておりました。本場のものと変わらない立派な出来と味は間違いないでしょう。お嬢様は遠慮せずに召し上がってよろしいのですよ」


 するすると紡がれる言葉は、諭すようでもあり、昔話をするような抑揚もあった。

 ひっつめ髪の女中は、いつも世話を焼いてくれる人だ。普段の素っ気ない雰囲気とは打って変わって今日はやわらかい。

 克哉は不思議そうに瞬き、わかりにくかったかとぼやく。

 やっと肩から力をぬくことができた杏はりんごで作ったというアップルパイを見下ろした。

 どう見たって、どう考えたって、きっと絶対においしい。

 母だって、出されたものはきちんと食べなさいと口酸っぱく言うではないか。唇を湿らせて、唾を飲み込んだ。


「いただきます」


 小さな両手を合わせた杏はいざ食べようと思い、菓子楊枝を探した。それらしく置かれている三つに割れた銀食器を持ってみたが、使い方がわからない。

 いくら新しいもの好きの父でも洋菓子は目の敵にしていた。つに並ぶのは味は一級品だが見目の崩れた和菓子ばかりだ。洋菓子を食べる道具なんて初めて手にする。


「いつまでそうしてるつもりだ。行儀など気にせず、好きに食べたらいい」


 呆れ顔の克哉は銀食器で切り分けたアップルパイを口に放り込み始めた。おかわりをしている姿に驚いてしまったが、遠慮をするのも馬鹿らしくなる食いっぷりだ。

 使い方は菓子楊枝と同じだとわかった杏は、汗がにじんだ手で銀食器を握り直した。

 よく焼き上げられた上の生地はさっくりと割れる。果肉の層を通りすぎ、下の生地はなかなか切れない。丁寧に力を込めて割り、くずれ落ちないように慎重に刺す。

 粉がこぼれるが、行儀など気にしなくていいと言われたばかりだ。手の皿を添えて頬張ればいくつもの驚きが押し寄せてくる。

 噛んだのかわからないような軽い食感。生地は口の中にくっつくこともなく、ほどけるようにして絡み合っていく。甘い香りをりんごの酸味がさらい、広がる牛酪バターのうま味と香りをすっきりと調えてくれた。しゃくりしゃくりと溢れる蜜を楽しんでいると、まったりとした甘みが馴染む。

 黄色の餡は、和菓子の似たものとは全くの別物だ。こんなになめらかで濃厚な味は初めて食べる。

 杏はアップルパイに夢中になった。酸味と甘み、ほんの少しの隠し味。すべての塩梅が絶妙だ。


「はは。どうだ、おいしいだろう?」


 作った本人が目元を和ませている。まだ半分も残る杏の皿とは違い、彼の皿は空っぽだ。珈琲を片手にくつくつと笑い続けている。

 口の中のものを飲み込んだ杏は克哉を真っ直ぐに見た。気恥ずかしさはなかなか消えてくれないが、胸に広がる感動を伝えたい。


「りんごも、生地もおいしい、です。この、なめらかな餡もおいしい……塩と、ニッキが、いい仕事をしています」

「よくわかったな」


 何処となく愛嬌のある目が丸くなる。

 本当はシナモンが欲しかったが、手に入れるのが面倒で諦めたんだ、と説明してくれるが、せっせと食べる杏は聞き流した。

 食べ終わった頃を見計らって、そういえばと克哉は身を乗り出してくる。


「名前を聞けてなかったな。お嬢さん、名前を教えてくれないか?」


 ちなみに、杏が名前を聞かれるのは二回目だ。送ってもらう時に『克哉』という名前も知ったが、目の前の人は綺麗さっぱり忘れているのだろう。

 アップルパイに満足していた杏は、些細なことは気にならなくなっていた。牛乳がたっぷりと入った紅茶を飲み込んで、もう一度名乗る。


「杏、です。鈴本すずもと杏」


 あん、かと舌で転がすように言った克哉は悪気の欠片もない眩しい笑顔を杏に向ける。


「さすが和菓子屋の娘だな。餡子のあん、か」


 アップルパイにくぎづけになっている間に、女中も執事も姿を消していた。

 杏の固まった表情には誰も気が付かない。

 目の前に座る克哉は、いい名前だなぁと感慨深く誉める始末だ。

 いくらアップルパイに元気付けられたとはいえ、否と言えるほどの勇気は杏にはなかった。


 · · • • • ✤ • • • · ·


 明くる日、杏は重い足を動かして登校していた。視界の端に嫌な気配を感じて人影に隠れたが、遅かったらしい。


「昨日、何してたんだよ」


 すぐに問い詰められた。

 睨み付けてくる辰次を杏はまともに見ることができない。挨拶だけでもと躊躇するが、結局は首を振るだけにする。


「ちゃんと言わないとわかんないだろ」


 面白くなさそうに辰次は腕を組む。

 脇を通りすぎていく学友達は気になる素振りを見せるが、誰も助けてはくれない。警邏けいらの親を持つ辰次に目をつけられては堪らないからだ。本人が笠に着ることは全くないが、はきはきとした物言いや自分は正しいという姿勢のせいか、距離を置かれることがしばしばあった。

 旗色の悪さを感じた杏は震える口を動かす。


「……い、いつも、か、菓子を、届、けて……る」

「あそこに? 正門から入ってたよな?」


 いつもは裏門を使っていると答えたくても答えられない杏は、昨日は特別だったからと自分に言い聞かせて小さく頷いた。

 辰次は納得いかない様子で、ふーんと流す。


「変わった金持ちもいるんだなぁ」


 腑に落ちない杏は頷けなかった。確かに克哉は変わっている。金持ちでもあるだろうが、親しみやすく偉そうな所がない。


「相手にしてもらえてよかったな」


 杏は何気ない言葉で一気に心が冷えた。

 興味を失った辰次はさっさと先に行ってしまう。


「もらう、立場なんだ」


 か細い声は誰にも拾われなかった。

 相手にしてもらわなければ、克哉と話すことも出来ない。物をもらうような、何もあげられないような、ちっぽけな存在だ。

 だから駄目だというわけではない。それでと、釈然としない思いがうまく形になれずにいる。

 しばらくの間、杏は動けなかった。




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