04【1品目】恋知らずのほろにがケーク 肆

 学校に遅れると杏は呆然と足を動かした。往来のにぎわいが遠い。


「おい、落ちるぞ」


 両脇に手が差し込まれ、足が宙に浮く。瞬いた杏の目前に、川の水面が映った。頭上に重い息が落ちてきて、克哉に抱えられていると思い至る。

 無言で青ざめたり頬を赤らめる少女を川から離れた場所に下ろした克哉は腰に手をあてた。


「歩きながら考え事をするな」


 克哉のことを考えていたとは口が裂けても言えない杏は鞄の紐を握り、視線を逃がした。


「アン、聞いてるか」


 諌めるような口調が追い詰める。

 しどろもどろな様子を見かねた克哉は腰を落とし、俯いた杏を覗きこんだ。


「また迷子になりたいのか」


 子供扱いだと杏は頬を膨らませそうになったが、真剣な眼差しに口をつぐんでしまった。

 返事がない様子をに眉をひそめた克哉が迫る。口を曲げ片眉を上げた疑い顔はしばらくして、ため息をついた。びくりと震えた少女を見止めて顔を力を抜く。


「ちゃんと前を見て歩け。約束だぞ?」

「……は、い」


 決まり悪く答えた杏をなぐさめるように、あたたかい手が頭を二度、やさしくたたく。

 舞い上がりそうになる少女をまた底に落としたのは彼の言葉だ。


「で、何を考えていたんだ。落ち込んでいるように見えたが、悩みごとか?」


 克哉の問いに、杏は黙りを決め込んだ。死ぬまで言わないと心の中で固く誓う。

 頑な様子に肩をすくめた克哉が立ち上がった。踵を返して、雑踏に消えていく。

 杏は紐を握る手を強くした。滲みそうになる視界に呆れられて当然だとなだめる。

 近くで家を建てているのか、木槌を叩く音と大工達の威勢のいい掛け合いが聞こえた。秋の空は高く、のびやかに響くようだ。


「ほら、元気出せ」


 俯いた視界に紙包みが飛び込んできた。思わず、顔を上げれば、薄く膜をはる瞳に冴え渡る空と彼が映る。人懐っこい笑顔が目にしみた。


「おいしいもんを食べれば、不思議と元気になる」


 胸の前まで迫った甘い香りに逆らえず両手で受け取った。道端で食べるのは行儀が悪いような気がして、克哉を盗み見る。

 思いの外、杏を見ていたようで、ほら、食べてみろと促された。

 意を決して包みを開けば、見覚えのある形が現れる。


「……どら、や、き?」


 思わず呟いた杏は、違うと心の中で呟いた。

 父の焼いたしっとりとした生地ではなく、ふわふわとした生地は空気でふくらませたのだろうか。二枚の狐色の生地には、小豆の餡の代わりに黄色い甘露煮が挟まれていた。広がったさわやかな香りには覚えがある。アップルパイと同じ、煮詰めたりんごだ。

 不思議そうに克哉を見返せば、得意気な顔をしている。


「確かに見た目はどら焼きだが、これはパンケーキだ。ケーキと言ってもあまり甘くないけどな」


 新しい響きに杏は我慢できなくなった。

 ふかふかの生地に歯をたてて、ひとくち噛みちぎる。口の中に甘酸っぱい香りが広がり、鼻にやさしく抜けた。りんごは、アップルパイの時と作り方を変えたらしい。前よりも甘くやわらかく煮込まれていたが、ほんの少し酸味が残っている。甘みを引き立ててくれる塩味は牛酪バターのものだろう。いくらでも食べられそうだ。

 味わっていて、杏は疑問にぶち当たった。りんごとは違う味を見つけてしまったからだ。引き締まったような酸味に心当たりがない。一番近いのは――


「柚子?」


 口にした杏自身が、すぐさま自分の勘を否定した。柚子の香りや酸味よりもみずみずしい感じがする。しかし、ピンと来るものがない。

 悩む杏とは逆に、克哉はうれしそうに眉を上げる。


「『檸檬れもん』だよ。確かに一番近いのは柚子だろう」


 帰ってきて、まさか本物を拝めるとは思わなかった、と続けた克哉は懐かしそうに笑った。

 『れもん』が想像できない杏は不思議そうに瞬く。


「やっぱりすごいな、アンの舌は」


 ぽん、と今度は誉められるように頭を撫でられる。

 杏は気恥ずかしさを紛らわすために、パンケーキに噛みついた。じわりとりんごの蜜が広がる。

 食べ終わる頃には、心の曇りが晴れていた。


· · • • • ✤ • • • · ·


 杏が本条邸の勝手口を叩くと、思いもよらない人が顔を出した。

 今朝がた会ったばかりの克哉だ。


「使いに来たのか?」


 杏は機械仕掛けのように頷き、一拍置いて口を開く。


「こ、こんにちは」

「こんにちは。料理長を知らないか?」


 杏は首を振って答えた。知らないも何も今、来たばかりだ。

 そうか、とだけ言葉を落として声の主は去っていく。

 足音が遠退くまで動きを止めていた杏は思い出したように大きく瞬きをした。

 今朝の元気を何処に置いてきたのか。

 先程見せた姿は別人かと思うほど、顔が疲れきっていた。

 何とも言えない顔で子息を見送った料理人に、克哉のことを聞く度量があれば、歯がゆい想いをしなくてよかったのに。

 答えのわからないまま重箱を渡し、出口へ向かう。

 裏庭を歩いてると、声をひそめて話す女中達に行き当たった。話に夢中なせいか、洗濯物を回収するのに忙しいのか、こちらには見向きもしない。


「さっきの旦那様、恐ろしかったねぇ」


 本条家の当主は大の甘党だが、仕事には厳しいことで有名だった。帝都でも指折りの材木商人は、大工達も相手にするせいか梃子でも動かない時があるという。


「こっちまで怒鳴り声が聞こえたけど、何の騒ぎだったのさ」

「克哉様が大工に洋菓子を差し入れしたの。それを聞いた旦那様、最初は自分もほしそうにしてたのに、克哉様が作ったと聞いて、一気に顔を赤くされちゃってさ。克哉様に詰めよって爆発するかと思ったよ」


 ありゃすごかったと女中は頷いているようだ。

 出てきた名前が気になった杏は建物の影に身を隠してしまった。いけないと思いつつも、耳をそばだててしまう。


「へぇ。怒鳴ってるのしかわかんなかったよ。の割には長引いてたようだけど?」

「話が跡取りを継ぐ気がないのか、とか何だかんだとそっちの話に転がって……そう、そうよ、そうよね……うん、たぶん」

「なんだい、そんな曖昧な言い方してくれちゃってさ。分かるように話しなよ」

「それがね……旦那様はお前は長男だろ、家を継がんでどうするって言うのはわかるんだけど……克哉様がぱてしえ?になるって言ってて」

「ぱてしえって何のことだよ」

「私も教えてほしいぐらいよ。また、坊っちゃんの戯言たわごとかしらねぇ」

「突拍子もないこと言うからねぇ、克哉様は……まぁ、その分、気取ってなくて楽ちゃあ楽だけどさ」


 まだ何かを話しながら女達が去っていく。

 こっそりと杏は顔を出した。紅葉が見事な庭園で一人立ち尽くす。

 赤く染まった葉が一枚、杏の目の前に舞い降りた。

 居ても立ってもいられなくなり、克哉を探そうと踵を返し、踏み出した所で足を止めた。

 克哉を見つけ出し、何をするというのか。気の利いたことが言えるわけでもない、背中を押す力もなければ、手助けする知恵もない。ただの子供に何ができるのか。

 杏の足は仕方なく帰路につき、影を踏むように裏口を出た。心は上の空だ。

 自分にできることを考えて、思い付いては却下してを無駄に繰り返す。せめて笑顔にできたらと悶々としながら蹴った小石は何処かにいってしまった。

 石が飛んでいった方を見れば地蔵が変わらず並び街道を見守っている。

 供えられた紅色を見つけた杏は、小さく口を開いた。

 紅い果実が、きらきらと輝く菓子と克哉の笑顔を杏に思い起こさせる。少女は唇を噛みしめ、裾がめくれるのも構わずに元来た道を駆け始めた。




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