05【1品目】恋知らずのほろにがケーク 伍
家に帰り、りんごの芯を取り終えた杏は包丁をまな板の上に置く。皮がついたままで、形は不揃い。煮たら形が崩れるから大丈夫だと料理長は教えてくれたが、心が不安で塗りつぶされる。
調理場に転がり込んで料理長に聞いた
菓子職人でもある父も説明は大雑把だ。
見て学べ、菓子作りは経験と勘が大切だ、と兄に口酸っぱく言っていた。遠目で見ていた杏は経験もなければ勘もない。手伝いの米炊きで得られた勘など知れている。
りんごを煮るにしてもそうだ。砂糖を大きな匙五杯と言われたが、どの匙のことか、さっぱりわからない。遠慮せずに匙の大きさぐらいは確認すればよかったと後悔しても後の祭だ。
りんごは切ったら色が変わるから、手早く調理するようにと教えられたので気が焦る。竈に火も入れてしまったし、料理長に聞きに行く時間もない。
茶色になるまで煮ると言われたが、どの具合まで茶色に煮るかも杏には考えあぐねる。
誰かに助けを請おうにも今は一人ぼっちだ。
父と兄は集まりがあるからと早々に店を閉め出掛けていた。頼りの母は、杏がいぬ間に使いに行ったきり、とんと戻ってこない。
砂糖は家で一番大きな匙で我慢してもらい、少しずつ煮詰めよう。杏は腹を決めて取りかかったが、大きな間違えだった。
煮込み始めるとりんごから水が出て、ふつふつと泡ができる。りんごはまだ白いままだ。しっかりと混ぜながら火を通していたのに、焦げくさい匂いがしてきた。りんごを取り出すにも皿などの準備をしておらず、鍋を引き上げるにしても敷物もなければ鍋を掴む布巾も見当たらない。
慌てる杏を急かすように匂いは濃くなるばかりだ。
「なんか焦げ臭くないか」
右往左往する杏を助けたのは風呂敷を片手に顔を出した克哉だった。
息を止めて驚く杏を後ろに追いやり、
「何しているんだ!」
克哉の雷に杏は身をすくませた。
頭に血がのぼった克哉は勢いを殺さずに怒鳴る。
「何も起こらなかったからよかったにしろ、怪我や火事になってたぞ!」
杏の視界が涙で歪む。叱責をあびたこともそうだが、気が抜けてへたりこみそうだ。
嗚咽まじりの謝罪が響く中、克哉は重い息を吐いた。大きく息を吸った後、もう一度、深く息を吐いて細く息を吸う。意識して心を落ち着かせ、転がる鍋に視線を落とした。
「料理長に面白いものが見れると言われて来て見れば、ただのりんごじゃないか……て、泣くな。りんごが焦げたぐらいで泣かなくてもいいだろう。ほら、新しいりんごをやるから泣き止め。……お前、本当によく泣くな。体から水がなくなるぞ」
ずれた気遣いに杏は悔しさが立ち上がるのを感じた。
ただのりんごと言われたくない。新しいりんごが欲しいわけでもない。何が気に入らないのか、何に泣いてるのか、頭が空回りする。
情けない自分に怒りを感じたのは確かだ。高ぶった気持ちが溢れだすことを止められない。
「ただの、りんごじゃありません。大切な、アップルパイです!」
泣きじゃくった顔で喉が痛いほど叫ぶ。
虚をつかれた克哉は、まじまじと杏を見つめ返した。
少女は涙をぬぐい、目の前の男を睨み付ける。
「おいしいアップルパイを作りたかったんです」
「じゃあ、作ればいいじゃないか」
「へ」
杏は己から出た間抜けな声が遠くに感じた。
互いに不可解なものに出くわした顔で見つめ合う。
拉致があかないと先に視線を外したのは克哉だ。
「アップルパイはまた今度だけどな」
焦げたりんごを見下ろした杏はくしゃりと顔を歪めた。ぶつけてしまった暴言と泣いた恥ずかしさが今さらながら襲いかかってくる。
「もったい、ない、こと、しました」
震える声は、まだどうにかなるぞと笑い飛ばされた。
道具を物色していた克哉が、片方の口端を上げる。
「安心しろ。約束はできないが、策はある」
杏は克哉の言葉をすぐには信じられなかったが、確信を持った横顔は眩しい。
杏が見守る中、克哉は目星をつけたものを手に取った。
「フライパンがあるなんて珍しいな」
フライパンはつい最近、巷の店に並ぶようになった代物だ。洋食を作るときに欠かせない道具で裕福な家に見かけるようになったが、そこそこな家ではまだ馴染みがない。
「とう、ちゃんが、新しいもの、好き、だから」
杏はどう答えていいか分からず、それで止めておいた。父は洋菓子を目の敵にするが、舶来品には目がない。すぐに新しいものを試す父は母に何度怒られても懲りず、特に台所には見慣れない道具がいくつも納められていた。
フライパンも使い勝手が悪いなと投げ捨てられたひとつだ。口では文句を言う母だが、大豆を炒るのにちょうどいいのよ、と使い道を模索し、兄は使い方が違うと嘆く。杏は使えればいいじゃないかと眺めていた。
これで代用するか、と事情を知らない克哉は顎に手をあて裏表を確認する。そして、竈の脇に置かれた銅板を指差した。
「これも使っていいか」
何に使うかわからないが、杏は首を縦に振った。
元々はどら焼きを焼くのに使っていたが、傷がついてきたからと捨て置かれたものだ。今は竈に合わない小鍋を使う時、底板として使われている。
いけるな、と呟かれた言葉が杏の耳にも届いた。
瞳を光らせた克哉は自然と笑みを浮かべている。
何かを企む小僧のような横顔を目のあたりにした杏は固唾を飲んで見守った。
上着を脱ぎ、腕まくりをした克哉は慣れた様子で銅板を洗い、乾かしてあったこね鉢と綿棒を取る。
「失敗しても文句はないな」
確認されても、焦がした杏には文句を言う資格はない。小さな口を引き締め、大きく頷いた。
克哉には返事は必要なかったようだ。杏の様子を見ることなく、焦げた鍋を手に取った。細めた目で茶色いりんごを眺め、一寸の間黙りこむ。
はりつめられた空気の中、おもむろに口火は切られた。
「小麦粉と卵、塩、砂糖、それから油と水を準備してくれ」
杏は言われた通りに作業台の上に材料を並べた。その合間に、背の高い机があれば楽だけどなぁとぼやく声が聞こえるが、和菓子屋に求められても困る。正座して、作業台で真摯に菓子と向き合うのが父の仕事だ。
作業台の向かいにあぐらをかいた洋装の男。違和感があるが、我慢してもらう他あるまい。
よし、と気合いを入れた克哉が菓子作りを始めた。
杏は邪魔にならない場所で正座をして、見守る。
こね鉢に小麦粉、砂糖、一摘まみの塩を入れ、中央に底が見える程のくぼみをあけた。油と水、卵をくぼみに流し入れ、それだけを馴染ませる。粉の壁を崩しながら、さらに混ぜ合わせ塊が出来上がった。一つになった生地を半分にちぎっては重ね、軽く掌で合わせて切っての繰り返し。まとまりの悪いそれを鉢から取り出し、丸い形に綿棒でのばす。
目で追うのも大変な姿は、菓子職人を
克哉は息つく暇もなく、煮詰めすぎたりんごを上部だけを掬い上げ、フライパンに敷き詰める。
真っ黒に焦げた部分は避けられていたが、また火を通すのは避けたい部分だ。
手も口も出せない杏は落ち着かない。
フライパンの七割の高さまでつめた克哉は、丸くのばした生地を被せ、はみ出たものは内側に押し込んだ。
また火を入れるのかと克哉の気を疑う前に、フライパンに蓋をするように銅板が被せられた。
克哉は出来上がったものを手に、迷いなく竈に向かい、下の焚き口にフライパンを突っ込んだ。
常識の斜めをいく行動に、杏は度肝を抜かれた。
微動だにしない少女の目の前で、銅板に燃えかすが乗せられる。
「こんなもんだろう」
腰に手をあてた克哉の背は堂々としていた。
目がこぼれ落ちそうな程に見開いた杏はかける言葉が見つからない。
「
職人のような手さばきを見せたとは思えない、呆気からんとした発言だった。
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